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新訳「リア王」はスゴ本

リア王 シェイクスピアは「リア王」が一番ドラマティックで面白い。松岡正剛は「シェイクスピアの最高傑作である」と断言している[証拠]。今回は光文社の新訳で「リア王」を再読ッ、めがっさ読みやすいにょろ~。人間の弱さ・醜さ・おぞましさが、スラスラ読めるおそろしさッ!

 しかも新訳を手がけたのは、現役の演出家でもある安西徹雄。なので、現場の酷使に耐えうる「生きた・今の・ことば」となっている。昔からの定番、新潮文庫の福田恒存訳と比べてほしい。わたしが好きな忠臣ケントの罵詈雑言で、まず旧訳から。

ごろつきさ、無頼漢さ、大口開けて他人のおこぼれ待ちの乞食野郎と思っている、賤しくて高慢ちきで、薄ぺらで物ほしげな面附きの、節季節季のお仕着せと一年百ポンドのお給金が何より頼りの、生涯毛むくじゃらの薄穢い靴下野郎だ、肝玉は白ちゃけた百合の花、喧嘩となれば直ぐさま畏れながらと訴え出る、父無し子で、うぬぼれ鏡と睨めっこばかりしている、出しゃばりの見え張りだ、吾が物と言えば全財産鞄一つの下司野郎だ、御主人様の所望とあらばいそいそ売女の取持ちまでやりかねない、手取早く言えば、ごろつきと乞食と臆病者と桂庵婆と尻軽の牝犬の仔と、そいつを全部突混ぜにした合いの子の化物だ、最後に、今言った肩書が一つでも嘘だとぬかそうものなら、めった打ちにしてその咽喉から金切声の悲鳴を挙げさせてやりたいような野郎だよ、貴様は。

 訳が古い(?)からなのか、原典に忠実だからなのか、なんだか詩文を読んでいる気分になる。いっぽう、新訳になると、発声を意識した語呂・音節となっており、読みやすいというよりも、(心の中で)聞きやすい。目で読むことと同時に、アタマで再現することを考えたセリフとなっている。

お前は下郎だ、悪党だ、ガツガツ残飯にありつく乞食野郎だ。賤しい、さもしい、浅ましい、惨めったらしい、汚らしい、どこからどう見たってしこたま見苦しい下郎めが。腰抜けの、腑抜けの、ヘナチョコの、ド助平の、見栄っぱりの、お節介の、最低のニヤケ野郎め。財産といやァ、ズダ袋ひとつっきりのスカンピン。御主人様のおためとありゃァ、いそいそ浮気の相手までお世話したがる、女衒野郎。要するにだ、悪党と乞食と臆病者と、そのうえポン引きと、素性も知れぬ野良の牝犬の小倅と、その全部をひっくるめて、つき混ぜて、こねくり回して、一つに丸めた団子野郎なんだよ、手前は。今並べ立てた悪名のうち、どれか一つでも嘘だなんぞとぬかしてみやがれ。その面ァ思いっきりひっぱたいて、ヒーヒー言わせてやらなきゃァ、こっちの肚が収まらねえ畜生野郎なんだよ、貴様は!

 さらに、パラ見していただけると瞭然なんだが、ゆったりとした段組と文字間、表紙の高級感が読むヨロコビを刺激する。光文社の古典新訳シリーズは、「古典は難解、読みにくい」を徹底的に破壊してくれましたな。THX!

 実は昔、「リア王」初読の前に、黒澤「乱」を観てしまってたので、たっぷりインプリンティングされてた。物語を追わず、「クロサワの視線」を探しながら読んでしまった(ちなみに「蜘蛛巣城」も同様)。見てから読むか、読んでから見るか。古典は「読んでから」が吉やね。

 で、今回の読みで驚いたのが、「道化」と「親子関係の二重底」。以前は刺身のツマみたいに思っていた「道化」の存在をおそろしく強く感じた。最初に読んだとき、道化の役回りは、「もう一人のリア」のつもりなんだろうなー、と思っていた。

 しかし、道化の予言めいた(実際のところ、予告だったんだが)唄が舞台の空気をつくりだしていることに気づいた(意味的には旧訳も新訳も変わらないのだから、この気づきは、わたしの変化なんだろう)。

 さらに今回、「二重底の親子関係」に目が行った。初読のときは、リアと3人の娘の「父娘」ばかり追いかけていた(メインストーリーだからね)。いっぽう今回は、もう一つの親子関係「父息子」との悲劇の呼応に反応した。そう、リアの臣下グロスターと2人の息子の親子関係ナリ。

 親子の確執と愛情(陰謀も!)と、物語へのからまり具合が絶妙―― と、覚めて読んだ自分がかわいそう。これは夢中になって読むもの。以前は愛憎劇と斬っていたが、親子だけでなく、男女のもドロドロに混ざっていることに、ようやっと気づいた。不倫と駆引き、姉妹丼、さらに嵐の一夜のリアと○○○の掛け合いは、老人と若者の同性愛のように読める。物語の風向きを先導していた「道化」が消えるからなおさらだ。

 コアを担うキャラクターが幾幕ごとに「ストーリー」を渡していく様が見事だなぁ。ストーリーという道があって、サブストーリーが脇を走ってて… ではない。もつれた人間関係をライト(=話者)が行来していき、だんだん浮かび上がらせていくような感覚。でも全員が乗っている「場」がある運命に向かって船のようにずんずん進んでいく。小説の延長のつもりで読んでいた自分が恥ずかしいね。

 シェイクスピアがスゴい、ということにようやく気づいたのは、新訳のおかげ。続々出てくるのを激しく希望。以下、自分メモ。

■ シェイクスピア劇の種本(p.255)

  • プルターク「英雄伝」  →  「ジュリアス・シーザー」「アントニーとクレオパトラ」
  • ラファエル・ホリンシェッド/エドワード・ホール  →  「リチャード三世」「ヘンリー四世」
  • イタリアのノヴェラ(小説)  →  「ヴェニスの商人」「オセロウ」
  • プラウトゥスのローマ喜劇  →  「まちがいの喜劇」
  • トマス・ロッジ「ロザリンド」  →  「お気に召すまま」
  • ジェフリー「ブリテン列王伝」  →  「リア王」
■ ハッピーエンドの「リア王」(p.258)

 「改変前」に着目すると、シェイクスピアは改変の達人なことが分かる。

 実は、「リア王」の元となった脚本「年代記劇」は、ハッピー・エンドなんだそうな。コーデリアとフランス軍は、二人の姉と夫たちの軍勢を打ち破り、父を無事に王位に復帰させ、リアもコーデリアも、その後、幸せに暮らすという結末なんだってー!!!ΩΩΩ

 さらに、「リア王」をさらに改変したネイハム・テイト版がもっとスゴい。ハッピー・エンドだけでなく、ラストはコーデリアとエドガーの結婚になっている。というのも、二人はもともと恋仲で、リア王の愛情テストは、末娘を翻意させるための計略だったというワケ。コーデリアはエドガーへの愛を貫くために父の期待に背き、追放されるのだが、最終的にはこの恋も実るというラブストーリーとなっている。

 同人誌も真っ青の改変だけど、シェイクスピアのラストでなかったならば、ここまで心に焼きつきはしないだろうね。

■ 「エセー」との対句(p.262)

 モンテーニュのエセーに強い影響を受けているそうな。「テンペスト」のニ幕一場147行以下に、その跡が見えるらしい。「リア王」では、嵐の中の掘っ立て小屋でキチガイ乞食を見たリアの言葉

よおく見ろ、こいつを。蚕に絹を借りてもおらぬ。獣に皮を借りてもおらぬ。羊から毛も、猫から麝香の香料も借りてもおらぬ。…文明の皮を剥ぎ取れば、人間、たったこれだけの、素裸の、哀れな、二本脚の動物にすぎぬのか。

 は、「エセー」第2巻12章「レーモン・スボン弁護」と酷似しているという。

■ 「リア王」の現場

 手元の「リア王」は、そのままでは上演できない。長すぎるからね。だから、現在の日本で実際に上演するために、2~3時間に収まるようにカット・圧縮している。訳者魂というよりも、芝居魂を見せ付けられるのが以下の一節。スゲぇよ安西監督!

一つの芝居を創りあげてゆく時、少なくとも私たちの集団では、ほぼ一ヶ月半稽古をつづける。それに実際の上演がほぼ十日あまり、もし地方巡演に出ることがあれば、私の訳した台本は、合計して何十回、時には百回を超えて役者の口にかかることになる。私が書いた言葉は、それだけの長い期間、苛酷な使用に耐える力を備えていなくてはならない。しかも、同時に演出者でもある私は、その間、私のせりふがどのように語られ、生きられるか、身をもって見守りつづけ、見届けなくてはならない。私の翻訳台本は、現にそうした現場の酷使に耐えてきた。

 安西徹雄が演出した台本はネットで読む/購入できる→[BBC文庫]

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コメント

http://d.hatena.ne.jp/ululun/20070815/1187141569
リア王関連ではこの記事が一番好きですw

投稿: こゆうざ | 2007.10.14 15:24

>> こゆうざ さん

それなんて新リア王www
高村薫が見たらきっと大笑いですね

投稿: Dain | 2007.10.15 23:52

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