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チームリーダーは「アジャイルレトロスペクティブズ」から盗め

Agileretrospectives 「なんで、こんな非効率なやり方なんだ?」この疑問、よくあるどころか毎日だ。

 たとえば、情報がうまく共有されていないとか、ある人がボトルネックになっているとか。不平を言うと「じゃぁオマエがやれ」と押し付けられるので、最近では不言実行で最適化を図っている[参考]

 あるいは、評論家になっていっぱしのクチをきくが、現場を変える努力も勇気もないくせにブログで薀蓄たれ流す。ネット弁慶カッコワルイ(誰とはいわんが、わたしも含まれるので自戒)。

 たしかに、「前と同じやり方」で仕事は回るが、「やり方」が改善されないまま。成果物はレビューされるが、仕事のプロセスはレビューされない。かくして非効率性は引き継がれ、不満は澱のように溜まってゆく。

 こいつをなんとかする試みが、「アジャイルレトロスペクティブズ」。舌噛みそうな名前で、サブタイトルの「『ふりかえり』の手引き」というほうがピッタリだね。

 つまり、プロジェクトの要所要所でチームそのものを「ふりかえり」、作業そのものをレビューしようという発想。この「ふりかえり」のためのアイディアやヒントが本書。

 「ふりかえり」を短期に組織的に行おうとするのが斬新だ。小さいチームを想定した手引きで、学級会のようなノリに戸惑うが、たくさん盗ませてもらった。「いま、チームに何が起きているのか」を知るための強力なツールになる。ファシリテーター必読。

 以下わたしの収獲。

■ 感情にフォーカスする

 いちばん驚いたのがこれ。「仕事に感情を持ち込まない」のがルールだろう。そりゃぁ、罵倒したり爆発したりすることもあるが、マナー違反として扱われる。本書では外に出すことが奨励されており、その方法まで紹介されている。

自分の感情について話せる仕組みを作ることで、感情的に負担のあるトピックを取り上げることに抵抗がなくなる。感情的な内容に言及することを避けていては事態は進展しない。問題は表面化されず、エネルギーとモチベーションが徐々に吸い取られていくだけだ。

 その具体的方法は以下のとおり。まぁ、ヤなことをハラに溜めて仕事するよりも、出しておいたほうが精神衛生上いいことは確か。「どう感じたか?」ではなく、「○○と思ったのはいつか?」というすりかえ質問。うまいやり方。

エンジニアは自分の感情を話したがらないものだ。だからレトロスペクティブで感情について尋ねるようなことはしない。ちょっとした工夫がある。感情について直接尋ねるのではなく、別のやり方で尋ねてみるのである。会社に来るときにワクワクしたのはいつか? 仕事が「単なる仕事」になったのはいつか? 会社に来るのが怖かったのはいつか?

■ 厳禁句「おまえのバグだろ!」

 すげー耳に痛いのが「あなたが言葉」(You Language)。チームの約束が破られたとき、絶対に、絶対に、ぜったいに「あなたが言葉」を使わない。さもないと、自己防衛と逆ギレによる負のスパイラルでレトロスペクティブが崩壊する。主語を "You" にすると、途端に責任追及の場になってしまう。いわゆる「おまえのバグだ(゚Д゚)ゴルァ!」だねッ

 どうすればよいか? 「私が言葉」(I Language)を使えという。主語を「私が」にすることで、「話し手の気づき」がメッセージの重点になる。決め付けではなく、気持ちについて議論ができる。

あなたが言葉 : 「ビルドを壊しやがって、お前がちゃんとやっていれば目標を達成できたんだよ!」
私が言葉 : 「私が怒っているのは、目標を達成できなかったことだ。あのビルドを修正するのはとても厄介なんだよ」

問題がビルドにフォーカスしているのが「見える」。少なくとも、「私が言葉」の方が前向きな流れになるはず。

■ ドットによる優先づけ

 アイディア出しの技法はどこかで聞いたものばかりだったが、その優先づけの方法が興味を惹いた。価値基準による重みづけあたりが出るのかなーと思っていたら、書いてない。代わりに、もっと素朴な「ドット貼り」が面白い。こんなカンジ…

 目的 : 課題/アイディア/提案の優先づけをする
 方法 : メンバーにカラードット(丸いシール)を10個配って、

  • 優先度1には4ドット
  • 優先度2には3ドット
  • 優先度3には2ドット
  • 優先度4には1ドット
 と、それぞれのアイディアの横に貼ってもらう。みんながやるべきだ、と支持しているものが「見える化」できる。声の大きい人の提案が通るのではないところがポイント。

 すると、素朴な疑問が頭をもたげてくる。みながやりたい案が採用されるのであって、最もやるべき案とは必ずしも一致しないのではないかと。著者は用心深くこう述べている。

人は、重要だと分かっていても、まだ手をつけたくないことがあるものだ。エネルギーがあるときに取りかかればいい。必要なのはチームが支持するアクションや決定だ。みんなが実行してくれなければ意味がないのである。

「ふりかえり」のための沢山のアイディアやヒントを読むうちに、チームの今を察するために、どういう姿勢でいればいいか(いるべきか)が分かる。言い換えると、「よい質問」が発せられるようになる。

 最後に。献本ありがとうございます。翻訳に「あそび」があって楽しめました。「これはひどい」や「家に帰るまでがレトロスペクティブです」といったcool(?)な訳に噴きました。本書は会社でたっぷりと使わせてもらいますぞ。

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今年のNo.1スゴ本「血と暴力の国」

 極上の小説。血でつくったワインを一気に飲むようにキた。

 マッカーシーは傑作「すべての美しい馬」を超えられないんだろうなーと決め付けていたが、どっこい本作で化けた。しかもクライムノベルときた。驚くというよりも、疑ったね、本物かと(扶桑社だし)。

 が、読み始めてすぐ分かった、本物だ。しかもパワーアップしてる。あの「刑務所でのナイフの闘い」の緊張感が全編にあふれる(しかも弛むことなくイッキに進むので、読み始めると、息をするヒマはない)。

 ストーリーは極シンプルかつ特濃。描写も展開もムダが一切ない。キャラの扱い容赦なし。ぜい肉を削ぎ落とすだけでなく、闘うために最適化された文章だ。もちろん相手はわたし。いつもどおり不用意に主人公、狂言回し、展開予想しながら読み、ヤラレタ。

 地の文と会話と内省が区別なく進み、描写の接写/俯瞰の切替は唐突で、動作は結果だけ。シンプルなくせに単純化厳禁。「追うもの/追われるもの」パターン化して読むとヤラレル。会話の妙はこんなカンジ…

 モスは行きかけた。女の子は部屋を出てドアを閉めた。そんなに急いで行かなくてもいいじゃない。
 モスは入口前の階段の下の段で足をとめた。
 袋にもう一本入ってるの?
 ああ。二本入ってる。二本ともおれが飲むつもりだ。
 ここに坐って一緒に一本飲んでったらどうかなって思っただけ。
 モスは目を細めて相手を見た。女ってのはノーという返事をなかなか受け入れないって気づいてたかい? それはたぶん三歳くらいから始まるんだろうな。
 男はどうなの?
 男は慣れる。慣れるのがうまいんだ。
 あたしもう一言もしゃべらない。黙って坐ってる。
 一言もしゃべらないか。
 うん。
 ほらさっそく嘘になった。
 とにかくほとんど何もしゃべらないから。静かにしてる。
 モスは階段に腰をおろし紙袋からビールを一本出してねじ蓋をはずしラッパ飲みをした。女の子も隣に坐って同じようにした。

 あるいは以下が雰囲気を知るのに良さげ。

 角まで来ると通りに立っている男は一人だけだった。男は車の後部に寄り添っていたが車は蜂の巣になりウィンドーはどれも砕け落ちているか白く罅割れていた。車内には少なくとも一つ死体があった。銃を持ち上げホテルをじっと見ている男を狙って二発撃つと男は通りに倒れた。シュガーは建物の陰に戻り銃を肩の高さで上向きに持って待った。朝の冷たい空気の中に火薬の刺激臭が濃厚に漂った。花火のような匂いだ。どこからも物音は聞こえてこない。

どちらも同じ小説だ。シンプルで濃厚、鮮烈なスゴ本。心して読むべし

 以下結末に触れる。ネタバレを極力回避しているが、念のため反転表示にしておく。読み終わった後に、いや後半のある時点で愕然とするだろう。そしてやるせない思いを抱いたまま読了するに違いない。わたしもそうだ。だから、わたしを納得させるために書く。

 あまりの理不尽さにガツンとヤラレタ。予想していたどんなラストをも裏切っているにもかかわらず、きわめてシンプルな結末。ラノベやエンタメ系に飼いならされたハートは、絶望で満たされた。

 ここでギリシア悲劇を引き合いにするのは当然かと。この読後感に決着をつけるためにも。追うもの、追われるものがいかに似ているかについて、指摘しておく。まずは「絶対悪」シュガーが、ある人に言い聞かせているところ。

 そのことでおれに発言権はない。人生の一瞬一瞬が曲がり角であり人はその一瞬一瞬に選択をする。どこかの時点でおまえはある選択をした。そこからここにたどり着いたんだ。決算の手順は厳密だ。輪郭はきちんと描かれている。どの線も消されることはありえない。

 次は追われる者、モスの発言。

 きみがわかっていないのは知ってるけどもう一度説明してみるよ。きみは朝起きたときは昨日なんて意味がなくなっていると思ってる。でも意味があるのは昨日だけだ。ほかに何がある? きみの人生はそれができあがってきた日々でできあがっている。ほかには何もない。

 シュガーやモスが、血と暴力の果てに何を見るか? よりも、どんな「選択」を積み重ね今にしてきたか、が問われている。読み終わったあと、こう思うだろう「あの現場に戻ってこなければ、こんな運命にはならなかったろうに」。だがモスは戻ることを選んだ、どれだけ重要な決定なのかは知らなくても。自分に落ち度があろうとなかろうと、起きてしまったことは、もう撤回できない。シュガーは「約束」と呼んだ。ふつう、天変地異や偶然や運命といった人外の存在(神でも可)を介して意識されるが、それが人の姿をするとき、こんなことばを吐くのだ。

 読み手はシュガーの台詞を字義どおり受け止めつつも、「物語らしいラスト」を求めるだろう。だってそのために銭やら時間をはたいているのだから。そして、「物語」なんて最初からなかったことにぶちのめされるにちがいない。いや、ひょっとすると抗議しだすかもしれない。そのとき、初めて「起きてしまったことは、もう撤回できない」ことが身にしみてくる。

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新訳「リア王」はスゴ本

リア王 シェイクスピアは「リア王」が一番ドラマティックで面白い。松岡正剛は「シェイクスピアの最高傑作である」と断言している[証拠]。今回は光文社の新訳で「リア王」を再読ッ、めがっさ読みやすいにょろ~。人間の弱さ・醜さ・おぞましさが、スラスラ読めるおそろしさッ!

 しかも新訳を手がけたのは、現役の演出家でもある安西徹雄。なので、現場の酷使に耐えうる「生きた・今の・ことば」となっている。昔からの定番、新潮文庫の福田恒存訳と比べてほしい。わたしが好きな忠臣ケントの罵詈雑言で、まず旧訳から。

ごろつきさ、無頼漢さ、大口開けて他人のおこぼれ待ちの乞食野郎と思っている、賤しくて高慢ちきで、薄ぺらで物ほしげな面附きの、節季節季のお仕着せと一年百ポンドのお給金が何より頼りの、生涯毛むくじゃらの薄穢い靴下野郎だ、肝玉は白ちゃけた百合の花、喧嘩となれば直ぐさま畏れながらと訴え出る、父無し子で、うぬぼれ鏡と睨めっこばかりしている、出しゃばりの見え張りだ、吾が物と言えば全財産鞄一つの下司野郎だ、御主人様の所望とあらばいそいそ売女の取持ちまでやりかねない、手取早く言えば、ごろつきと乞食と臆病者と桂庵婆と尻軽の牝犬の仔と、そいつを全部突混ぜにした合いの子の化物だ、最後に、今言った肩書が一つでも嘘だとぬかそうものなら、めった打ちにしてその咽喉から金切声の悲鳴を挙げさせてやりたいような野郎だよ、貴様は。

 訳が古い(?)からなのか、原典に忠実だからなのか、なんだか詩文を読んでいる気分になる。いっぽう、新訳になると、発声を意識した語呂・音節となっており、読みやすいというよりも、(心の中で)聞きやすい。目で読むことと同時に、アタマで再現することを考えたセリフとなっている。

お前は下郎だ、悪党だ、ガツガツ残飯にありつく乞食野郎だ。賤しい、さもしい、浅ましい、惨めったらしい、汚らしい、どこからどう見たってしこたま見苦しい下郎めが。腰抜けの、腑抜けの、ヘナチョコの、ド助平の、見栄っぱりの、お節介の、最低のニヤケ野郎め。財産といやァ、ズダ袋ひとつっきりのスカンピン。御主人様のおためとありゃァ、いそいそ浮気の相手までお世話したがる、女衒野郎。要するにだ、悪党と乞食と臆病者と、そのうえポン引きと、素性も知れぬ野良の牝犬の小倅と、その全部をひっくるめて、つき混ぜて、こねくり回して、一つに丸めた団子野郎なんだよ、手前は。今並べ立てた悪名のうち、どれか一つでも嘘だなんぞとぬかしてみやがれ。その面ァ思いっきりひっぱたいて、ヒーヒー言わせてやらなきゃァ、こっちの肚が収まらねえ畜生野郎なんだよ、貴様は!

 さらに、パラ見していただけると瞭然なんだが、ゆったりとした段組と文字間、表紙の高級感が読むヨロコビを刺激する。光文社の古典新訳シリーズは、「古典は難解、読みにくい」を徹底的に破壊してくれましたな。THX!

 実は昔、「リア王」初読の前に、黒澤「乱」を観てしまってたので、たっぷりインプリンティングされてた。物語を追わず、「クロサワの視線」を探しながら読んでしまった(ちなみに「蜘蛛巣城」も同様)。見てから読むか、読んでから見るか。古典は「読んでから」が吉やね。

 で、今回の読みで驚いたのが、「道化」と「親子関係の二重底」。以前は刺身のツマみたいに思っていた「道化」の存在をおそろしく強く感じた。最初に読んだとき、道化の役回りは、「もう一人のリア」のつもりなんだろうなー、と思っていた。

 しかし、道化の予言めいた(実際のところ、予告だったんだが)唄が舞台の空気をつくりだしていることに気づいた(意味的には旧訳も新訳も変わらないのだから、この気づきは、わたしの変化なんだろう)。

 さらに今回、「二重底の親子関係」に目が行った。初読のときは、リアと3人の娘の「父娘」ばかり追いかけていた(メインストーリーだからね)。いっぽう今回は、もう一つの親子関係「父息子」との悲劇の呼応に反応した。そう、リアの臣下グロスターと2人の息子の親子関係ナリ。

 親子の確執と愛情(陰謀も!)と、物語へのからまり具合が絶妙―― と、覚めて読んだ自分がかわいそう。これは夢中になって読むもの。以前は愛憎劇と斬っていたが、親子だけでなく、男女のもドロドロに混ざっていることに、ようやっと気づいた。不倫と駆引き、姉妹丼、さらに嵐の一夜のリアと○○○の掛け合いは、老人と若者の同性愛のように読める。物語の風向きを先導していた「道化」が消えるからなおさらだ。

 コアを担うキャラクターが幾幕ごとに「ストーリー」を渡していく様が見事だなぁ。ストーリーという道があって、サブストーリーが脇を走ってて… ではない。もつれた人間関係をライト(=話者)が行来していき、だんだん浮かび上がらせていくような感覚。でも全員が乗っている「場」がある運命に向かって船のようにずんずん進んでいく。小説の延長のつもりで読んでいた自分が恥ずかしいね。

 シェイクスピアがスゴい、ということにようやく気づいたのは、新訳のおかげ。続々出てくるのを激しく希望。以下、自分メモ。

■ シェイクスピア劇の種本(p.255)

  • プルターク「英雄伝」  →  「ジュリアス・シーザー」「アントニーとクレオパトラ」
  • ラファエル・ホリンシェッド/エドワード・ホール  →  「リチャード三世」「ヘンリー四世」
  • イタリアのノヴェラ(小説)  →  「ヴェニスの商人」「オセロウ」
  • プラウトゥスのローマ喜劇  →  「まちがいの喜劇」
  • トマス・ロッジ「ロザリンド」  →  「お気に召すまま」
  • ジェフリー「ブリテン列王伝」  →  「リア王」
■ ハッピーエンドの「リア王」(p.258)

 「改変前」に着目すると、シェイクスピアは改変の達人なことが分かる。

 実は、「リア王」の元となった脚本「年代記劇」は、ハッピー・エンドなんだそうな。コーデリアとフランス軍は、二人の姉と夫たちの軍勢を打ち破り、父を無事に王位に復帰させ、リアもコーデリアも、その後、幸せに暮らすという結末なんだってー!!!ΩΩΩ

 さらに、「リア王」をさらに改変したネイハム・テイト版がもっとスゴい。ハッピー・エンドだけでなく、ラストはコーデリアとエドガーの結婚になっている。というのも、二人はもともと恋仲で、リア王の愛情テストは、末娘を翻意させるための計略だったというワケ。コーデリアはエドガーへの愛を貫くために父の期待に背き、追放されるのだが、最終的にはこの恋も実るというラブストーリーとなっている。

 同人誌も真っ青の改変だけど、シェイクスピアのラストでなかったならば、ここまで心に焼きつきはしないだろうね。

■ 「エセー」との対句(p.262)

 モンテーニュのエセーに強い影響を受けているそうな。「テンペスト」のニ幕一場147行以下に、その跡が見えるらしい。「リア王」では、嵐の中の掘っ立て小屋でキチガイ乞食を見たリアの言葉

よおく見ろ、こいつを。蚕に絹を借りてもおらぬ。獣に皮を借りてもおらぬ。羊から毛も、猫から麝香の香料も借りてもおらぬ。…文明の皮を剥ぎ取れば、人間、たったこれだけの、素裸の、哀れな、二本脚の動物にすぎぬのか。

 は、「エセー」第2巻12章「レーモン・スボン弁護」と酷似しているという。

■ 「リア王」の現場

 手元の「リア王」は、そのままでは上演できない。長すぎるからね。だから、現在の日本で実際に上演するために、2~3時間に収まるようにカット・圧縮している。訳者魂というよりも、芝居魂を見せ付けられるのが以下の一節。スゲぇよ安西監督!

一つの芝居を創りあげてゆく時、少なくとも私たちの集団では、ほぼ一ヶ月半稽古をつづける。それに実際の上演がほぼ十日あまり、もし地方巡演に出ることがあれば、私の訳した台本は、合計して何十回、時には百回を超えて役者の口にかかることになる。私が書いた言葉は、それだけの長い期間、苛酷な使用に耐える力を備えていなくてはならない。しかも、同時に演出者でもある私は、その間、私のせりふがどのように語られ、生きられるか、身をもって見守りつづけ、見届けなくてはならない。私の翻訳台本は、現にそうした現場の酷使に耐えてきた。

 安西徹雄が演出した台本はネットで読む/購入できる→[BBC文庫]

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なぜ女は片づけができないのか?「持たない暮らし」

持たない暮らし そもそも女は片づけなんてムリ。

 「片づける=収納する=仕舞う」という固定観念から逃れることはできない。というのも、「なぜ片付けられないか」について唯一かつ根源的な原因が理解できないから→【答】モノが多すぎる。だから、仕舞うための「棚や箱というモノ」が部屋を占拠しはじめる。

 ―― なんて嫁を挑発すると、「君のカイショーがないからだ」と一蹴。ごめんなさいがんばります。それでも、あふれるモノに侵蝕されているのは、わが家だけではない。だから、「持たない暮らし」なんてステキな本が出る。

 本書の主張はシンプル。「もったいない」からといって、大量のモノを抱え込み、使いもせず、譲りもせず、捨てることもしない。そのうち、持っていることすら忘れてしまっている。死蔵品が部屋を占領しているのに気づかず、「収納できない…」と悩むのはバカバカしい。

 だから、

使っていないものは、「使う人にあげる」、「売る」、「寄付する」。行き先が見つからなければ、残念ですが「捨てる」。そうしないと、家も人生も、モノに乗っ取られてしまいます

処分するというのは決していいことではありませんし、手間隙もかかりますが、捨てるべき時は潔く捨てて、もう二度と、ムダにモノを捨てずに済むような生き方を考えればいいのです。そのほうがずっと、幸せになれますよ。

 そして、そのための方法や習慣を、具体的に紹介している。単なる節約術や捨てる技術と異なり、「持たないためのモノとの付き合い方」といった"考え方"までたどりついているのがミソ。「片づける=収納する=仕舞う」のループの外側に立っている。

■ モノに付随するプロセスに着目する

 目からウロコだったのは、モノそのものよりも、モノに付随するプロセスが無くなる、という指摘。こんなカンジ…

  1. 粗品や景品をもらわない
  2. 100円ショップに行かない
  3. 本当に欲しいもの(お気に入り)を購入
  4. モノの絶対量が減る
  5. 収納術なし
  6. 片づけラクラク
ンな都合よく…と、わたしも思ったが、マット類の例を挙げよう。

わが家には、マット類(玄関、台所、トイレ)が一切ありません。だから、収納、取替、洗濯に費やす手間もかけずに済みます。モノが場所を取らないだけでなく、モノから派生するプロセスが一切なくなるのです

 なるほど!「濡れたり汚れた足は何で拭くんだろう」という疑問は残るが、「そのモノを扱う手間が省ける」は確かに魅力的だ。モノとの付き合いとは、モノそれ自体だけでなく、モノに付随する手間も入っているワケ。

■ モノとダイエットの共通点

 モノとの付き合い方について、「ダイエット」のメタファーが分かりやすい。ダイエットの原則はこうだ。

  「 摂取カロリー  <  消費カロリー 」 → 体重は減る
  「 摂取カロリー  >  消費カロリー 」 → 体重は増える

だから、摂るカロリーの量を減らすか、カロリーの消費を増やせば、体重は減る。アタリマエというなかれ。「ダイエットに成功したから食事を元に戻して運動しなくなった」例をいくつか知っているデショ?

  「 入ってくるモノの量  <  出て行くモノの量 」 → モノは減る
  「 入ってくるモノの量  >  出て行くモノの量 」 → モノは増える

モノも同じ。リビングのモノが増えている理由は簡単。リビングに持ち込むモノが持ち出すモノより多いから。アタリマエと気づきにくいのは、そのスピードがゆっくりとしているから。贅肉は時間をかけてついてくる。

 一気にダイエットするのは、ゴッソリ捨てることと一緒。一時的にスッキリするだけで、モノをため込む習慣を変えない限り、またモノは増えていく。リバウンドを避けるために、ライフスタイルから変えていく必要がある。

■ 習慣を味方につける

 いちどに全部はムリ。だから、入りやすいもの・続けやすいものから始めていく。モノを減らすのではなく、「モノを減らす習慣」を身に付けるわけだ。

 「マイバック」は上手い例。外出するときはマイバックを持つ、とか、買物するときは「袋は要りません」と断ることから始めてみては、と提案している。「ウチもやってるよ!」というツッコミは、わたしもした。

 ところが、この習慣から、

  1. 外から持ち込まないようになると、家の中から、レジ袋だけは片付き始める
  2. 整理整頓をする前にレジ袋自体が無くなっていくので、レジ袋をたたんだり片付けたりする手間がなくなる
  3. レジ袋のような袋が必要になったら、今度は、市販されているポリ袋をお金を出して買う
 タダのレジ袋ではなく、「買え」という。なぜなら、市販のポリ袋は、最初からきちんと梱包されているから、片づける手間が最初からないことと、さらに、わずかな金額であれ、自腹を切っているのだから以前のようにポリ袋を粗末に扱わなくなる。「習慣」が本書のキモ。節約術より入りやすく、捨てる技術より続けやすい。

■ 「持たない暮らし」のための7つの習慣

 「持たない暮らし」そのものがライフスタイル。そのための習慣が7つあるという。まとめると、

  1. もらわない : 「使うかもしれない」モノは、もらう理由にならない
  2. 買わない : 100円ショップは極力避ける、「安いから」は買う理由にならない
  3. ストックしない : 大量に在庫を抱え込むと、部屋が狭くなる
  4. 捨てる : 最終手段。そして二度と捨てずに済むようにする
  5. 代用する : 「じょうご」の代用品が秀逸
  6. 借りる : たまにしか使わないモノのためのスペースはもったいない
  7. なしで済ます : なくても済むもののために、買わない
 ミッフィーのマグカップのためにLAWSON詣をするわが家では、難しいかも。あるいは、100円ショップ通いやめろ、ということか。ムリだな… それでも、「つまらないモノを買わずに済む魔法の呪文」や、「メンテナンスを楽しむ」、「売る・寄付する・再生する・捨てる、それぞれ箱を用意する」など、ヒントを沢山もらった。

 こいつぁ嫁に読ませてやりたいねぇ、と嘆息していると、「女は片付けできないなんて言うけど、そういう君はやれてるの?」と真顔&至近距離で訊かれて轟沈。

 ごめんなさいがんばります。


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田村隆一の、人生相談は、若いうちに

ぼくの人生案内 詩人の、人生相談。あるいは、翻訳家としておなじみの言葉の達人が、20代の悩みへ真摯に応える。まっすぐな視線にたじろぐかもしれないが、いい具合にユーモアが効いてるので、胸まで届く。

 たとえば、こう。

【問】 18歳の童貞です。女性を前にすると、必要以上に緊張してしまうんです。女の人に対してもっと自然に振舞える良い方法はないものでしょうか。

【答】 その緊張を持続させることのほうが、これからはたいへんさ。

 この一行に凝縮されている、「女ナル存在」に向き合うための心得って奴が。女性に礼儀正しく接する、女性を尊敬する、いつまでも女性を好きでいつづけるための心構えがある。これは、分かってしまえばなァんだ、と腑に落ちるアタリマエのことなんだけど、それを知らずにこのトシになってしまったのが、わたし。

 わたしこそ、18の春に知りたかった。

 さりながら、女性へのまなざしは、時に厳しい。

女性が品のあるかわいいお婆ちゃんになるのは、芸術に近いことだ。だいたいは意地悪婆さんとか強欲ババアになってしまう。でも男性は、それまでに仕事や何かで精魂尽き果てているから、いい爺さんになれる。枯れた老人にね。悪ジジイになるのはそうとうタフな奴だよ。政治家ぐらいじゃないかな。

 ああ~わかる。「そのとおり」と言いたいのではなく、ジイさんの偏見かも。最近じゃ例外をかなり見かけるし。その偏見込みでジイさんの言いたいことが分かる。男もオンナも、いい感じに老いることが難しくなっているのかね。「アンチ・エイジング」なんて狩り言葉がマスメディアに溢れているし。

 あまりにも正攻法すぎて、誰も教えてくれないほど「あたりまえ」のやり方。恋に真剣に悩んだ人で、かつ、成功も失敗もした人でないとできない回答。

【問】 通勤電車で会う女のコに、恋をしてしまいました。

【答】 正々堂々と、でも相手が断れる余裕をもたせて誘うのがマナーだよ。


真っ正面から、正々堂々といきなさい。会社員なら名刺を持っているだろう。名刺を出して、「前から気になっていたんです。一度、お茶でも一緒に飲みませんか」って言うんだよ。電車の中で言うのが恥ずかしかったら、彼女が降りる駅まで行って、ホームで言うのさ。朝の忙しい時間なんだから、用件だけで手短に終わらせるんだよ。返事は電話でもいいんだ。
彼女のことを少しでも知りたいからと、あとをつけるなんていうのは野暮というもの。男がすたるよ。まず自分から名を名乗り、身分を明かすのが社会人としてのマナーだ。
いきなり「好きなんです」とか、「おつきあいしてください」なんてのもダメだね。そんなことをしたら彼女が身構えちゃうよ。女性を誘うときは、相手が断ったり返事を保留できる余裕を持たせておく。これが男としてのマナーだ。
その代わり、アタックして断られたら、すっぱりあきらめること。

 こいつを「そんなん分かってるよ!」なんて切り返せるだろうか? ストレート真剣勝負をやってもみないで、いきなり変化球やら魔球を投げようとしてはいないか?

── と、18のわたしに言いたい。

 氏の翻訳にはお世話になった方も多いかと。ならではの回答もある。

   【問】 苦手な英語を好きになる方法を、教えてください。
   【答】 辞書をひかないで、英語のポルノを読んでごらん。

   【問】 翻訳家になるには、どうすればよいですか。
   【答】 まず、日本語をもう一度勉強し直すことだね。

   【問】 小さい頃から口ベタで、このまま社会に出るのが不安です。
   【答】 話していることなんて、ほとんどはデタラメなんだ。

 最後のやつなんて、わたし自身が「口下手だからどうしよう」と悩んでいた時期を思い出した。あのころ、確かに真剣に悩んでいたのだ。悩んで学んで、今じゃ突き抜けてしまっている(あきらめている、ともいう)。各章のラストに田村氏の詩が並んでいる。いかにも若者向けのメッセージの詩ばかりだ。氏の詩は難解だと思っていたが、こんな詩も書いていたのか…

 このテの人生相談は、開高健の連載にお世話になった。「田村隆一 ぼくの人生案内」が良かったならば、開高健「風に訊け」もオススメ。ウィットを効かせすぎたきらいもあるが、男女の微妙な妙(たえ)にハラ抱えて笑える一方で、生きることと死ぬことを急速に考えさせられる一冊でもある。

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知らないスゴ本を探すテクニック「作家の読書道」

作家の読書道 いい作家は、いい本を読んでいる。これ鉄板(逆は必ずしも真じゃないけど)。この原則をもちいて、スゴ本を探すテクニックを紹介する。わたしのスタンスは、「本を探すのではなく、人を探す」で書いたが、その実践編をここに公開する。

 「いい」とは、わたしにとって「イイ趣味してるねぇ」という意。わたしが好きな作家は、かならず、わたしが好きな本を読んでる黄金律。もちろんあなたにとっての「いい」本と異なるが、探し方は一緒。同じ本を探すのではなく、同じ探し方で各人にとっての「いい」本を見つけることができる。

 テキストは、「作家の読書道」、今をトキメク作家たちの読書遍歴インタビューなんだが、これを使って次のことができる。

  1. お気に入りの作家が熱く語る、あなたが知らない本を見つける
  2. あなたの愛読書がお気に入りだという、あなたの知らない作家を見つける
 たとえば、あなたの大好きな作家が、あなたの知らない本をプッシュしてたとしよう。迷わずgoogleやamazonに書名を叩き込むだろう。お気に入りの作家が熱っぽくオススメする、あなたが知らない本、こういう本をスゴ本をいわずして何と言おうか

 あるいは、その人の作品は読んだことないけれど、本の趣味が合うことに気づいたら、どうする? その作家の本を読んでみたいでしょ? 知らない作家に手を出すキッカケはたいていこれ。わたしが小野不由美をチェックするのは、十二国記の続きが出ないからではなく、S.キングは初期が好きーと言ってたから(「屍鬼」はスゴ本なのは「呪われた町」が傑作だから)。

 で、わたしの収獲をご紹介。

■1 お気に入りの作家が熱く語る、わたしが知らない本

 それは恩田陸。「夜のピクニック」や「六番目の小夜子」でお気に入りの作家。彼女が熱っぽく語るのが、「アレキサンドリア四重奏」(ロレンス・ダレル)だって。「恩田陸がなめるように読んだ」ならば、こら読まなアカン!

 さらに、8/5朝日新聞書評で江國香織がこう評している。「精緻で濃密で美しく興味のつきない、たっぷり耽溺することうけあい」――江國作品は(たぶん)読んでいないけど、「アレキサンドリア」つながりで一冊ぐらいは手を出すかも。

 ほら、ノリはあれだ。クラスで気になるメガネっ娘が手にしているあの本を読みたい、あれと同じ。恩田タソは「作家になって、本の読み方に変化はありましたか?」という質問に、可愛いことを言っている。

基本的にないです。作家になったら他の人の小説を楽しんで読めなくなったという人もいますが、ありがたいことにそうはならなかったです。人の本を読んでいるほうが楽しいですよ、終わりまでちゃんとあるし(笑)


■2 わたしの好きな本を読んでいる、わたしが知らない作家

 ずばり垣根涼介。「君たちに明日はない」を平積みでみかけたこともあったけれど、「期待の若手」とひと括りにしてて、ノーマークだった…

 彼に俄然興味を抱いたのは、モーム「月と六ペンス」を5回も読み返したというから。さらに、「悪党パーカー」シリーズを全読してたり、池澤夏樹なら「スティル・ライフ」、フレデリック・フォーサイスなら「戦争の犬たち」が一番だって。おお、わたしと趣味が一緒だぁ(ふつう、池澤なら「マシアス・ギリの失脚」、フォーサイスなら「ジャッカルの日」あたりを挙げるだろうが、この好みのズレ具合がわたしと似ている)。

 そんな彼の最近のイチオシは、ルイス・セプルベダ「ラブ・ストーリーを読む老人」だという。読むべし、読むべし。

■3 お気に入りの作家が熱く語る、わたしが大好きな本

 それは奥田英朗。ノワール but 抱腹絶倒(しかも黒くない笑い)の逸品「最悪」でいっぺんにファンになっている。そんな彼がこんなことを言う。

「テーマを書くな、ディテールを書け」と。ディテールを書くことができればテーマは浮き彫りになるんだと。日常生活やエピソードを積み重ねていきたい。そういう意味では山田太一さんのドラマや小説の影響は受けていますね。とにかく日常会話がうまい。

 ああ、確かに。奥田の小説には、キャラの立ち回りで「人の弱さ」を描こうとしているところがある。リアルなやりとりを追っているうちに、物語の真っ只中に立っていることに気づく。山田太一は読み落としが沢山ある、ゆっくり拾い読みするべ。

■4 本を読まない「作家」

 あえて名前は挙げないが、「本なんて読みませんよ」という"駄作家"。あるいは、「作家」のわりにアレなものしか読んでらっしゃらない方。かわいそうな読書歴を見せられると、気の毒になってくる。それでモノ書いて銭もらってるんだから、逆にスゴいのかも。

 感性だけで書こうとしても、いずれ枯れる。「みずみずしい感性」という言葉そのものが手垢とホコリまみれなことに気づけよ、と。まぁ、時代の徒花として鑑賞するも吉。あるいは、garbage in, garbage out がここでも通用する例として見守る。

 ―― と、こんなカンジで、たっぷりと収獲させていただいた。読書道2も楽しみ~

 「作家の読書道」の読みは「どくしょどう」ではなく、「どくしょみち」なのがポイント。読書の方法には、書道や武道の「型」のようなものがないからだろう。むしろその十人十色っぷりは、「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」をホウフツとさせる。

 どの作家も見知ってはいたけれど、この本のおかげで、「わたしにとって」よい再発見ができた。あの作家がアレを読んでいた(読んでいない)なんて… 愉しい笑撃もあった。

 あなたにとっても、再発見はきっとある。まずはWebでお試しあれ→「作家の読書道

作家の読書道2

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箱2

 60分で人生を変えるスゴ本。人間関係のキモが理解できる。どんな場合でも、最初にコミュニケートする相手、すなわち自分が「見える」。

 あらゆる争いごとの根っこが「見える」。「あらゆる」なんて言っちゃうと、宗教や歴史といったセンシティブな話題まで振り幅が大きくなるが、無問題。夫婦喧嘩から中東問題まで、この原則で斬れる。

 前作と同様、素晴らしいのは、主人公(オヤジ)の理解 = 読み手の理解となるような、ストーリー仕立てであること。オヤジの「ものわかりの悪さ」のおかげで、読み手の様々な反論が吟味される。フツーの天邪鬼が思いつきそうなものは、あぶりだされ、淘汰される。だから、腹の底から「わかった」といえる。

 前作よりパワーアップしているのは、主人公( = 読み手)に限定されないこと。問題を抱え、それを自覚していないのは、このオヤジだけではない。息子も、妻も、セミナーに参加するみんながそうだ。出身国も、性別も、人種も、受けた教育も、今の環境も、ぜんぜんちがう参加者が、どうやって「変わって」いくかは、ちょっとした見もの。

 しかしながら、そのキモは、自分からの「気づき」に基づいている。オヤジと一緒に悶えていると、同じ「気づき」にたどり着く。巷に数多の Hack! のようなTipsではない。だから、箇条書きでまとめたところで、これっぽっちも伝えたことにならない。自問せず、流し読んでも理解できない(自分の問題であることに、ね)。

 人生への影響力は絶大。人間関係で、困ったり、悩んだり、苦しんでいる人にとって、人生を一変させる一冊となる(断言)。前作の「箱」が未読なら、前作からどうぞ。一冊読むのに小一時間だから、120分で人生が変わる。わたしのレビューは[ここ][ここ]

 なぜなら、わたしが変わったから。まさにここに出てくるオヤジのやり方で、人生と対決してきた。わたしの人生を取り返しのつかないものにする前に、本書と出会えてよかった。ただ、自分の腹で理解するために、幾度となく読み返し、実践する必要があった。百冊の自己啓発本を読むよりも、本書を繰り返し「実行する」ことをオススメする。箱1は、「自分の小さな「箱」から脱出する方法」、箱2は、「2日で人生が変わる「箱」の法則」という書名で、アービンジャー・インスティチュートが書いている。1→2の順が吉、というか分かりが良いだろう。

 最後に。まなめさん、ありがとう。「箱」「箱2」に出会えたのは、まなめさんのおかげ。「まなめは俺の嫁」、もとい「まなめは俺の読め」ですな。

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べたな感動を期待なさる方に不向き「バーチウッド」

バーチウッド 語り手に、「連れて行かれる」感覚がいい。たとえ、連れて行かれた先が、最初の場所だったとしても。

優雅な屋敷だったバーチウッドは、諍いを愛すゴドキン一族のせいで、狂気の館に様変わりした。一族の生き残りガブリエルは、今や荒廃した屋敷で一人、記憶の断片の中を彷徨う。冷酷な父、正気でない母、爆発した祖母との生活。そして、サーカス団と共に各地を巡り、生き別れた双子の妹を探した自らの旅路のことを。やがて彼の追想は一族の秘密に辿りつくが……

 面白いのは、語り手も全て分かっているわけではないらしく、最後まで主観ビジョンで話が進む。歯がゆい思いで想像力で埋めていくと―― 隠された秘密を見抜く。これも計算ずくならスゴいとしか言いようがないが、んなわけないか。

 小説技法。伏線をちりばめたり、ストーリーを折りたたんだり内包させたり、描写でイベントを予感させたり… 盛りだくさんなんだが、あざとさが目立つ。訳者の佐藤亜紀氏が誉めているけど、まさに彼女が書きそうな小説だからか。ちなみに、彼女が書いた「ミノタウロス」は素晴らしかった。レビューは[ここ]

 翻訳は素晴らしい(と思う)。原文は読んではいないものの、訳文がユニーク。体言止めならず、体言区切りが妙に斬新。つまり、句読点で区切られる直前が体言となっているため、読むリズムがボキボキ狂う。狙ってやっているのか。

 「べたな感動を期待なさる方にこの本は不向き」と佐藤氏は言う。まさにその通りなんだが、ひねくれた物言いで生きにくくなってはいやしないかと余計なコト考える。日経新聞書評だとこうある。

旅の果てに明らかにされるゴドキン家のおぞましい過去に戦慄(せんりつ)を覚えながらも読者は暗い宿命から逃れられない人間の悲しみに心を強く揺さぶられることだろう

 んー、わざわざこの小説を読もうとする人ならすぐ見破ると思うぞ。特に、正統なる小説を重んずる人が目の敵にしている「ライトノベル」に慣れた方だと。小説が成立するために、語り手だけでなく、成熟した読み手も要する。が、解説まで必要とするならば、その小説を殺すことになる。

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「無限のスーパーレッスン」に酩酊する

無限のスーパーレッスン ゲーデル入門のつもりで読んだが、「数」の恐ろしさを思い知ると同時に、確かだと思い込んでたリアルがゆらぐ。急に足元が消えたような感覚にとらわれる。そのへんのミステリよりも背すじが寒くなる。

 8章まで面白く読める。聞き手の「おっさん」が程よく分かっていないので、絶妙の質問をしてくる。まるでわたしの代わりのようだ。おかげで、「わからない」から「わかる」快感をたっぷり味わう。

 興味深いのは、「わかった」とするときの居心地悪さ。アタマでは分かっても、腹に落ちない「だまされているような感覚」がつきまとう。例えば、

 「1= 0.999…」について、ありがちな説明として、

   1 = 1

 両辺を3で割る。左辺は分数、右辺は小数で表現すると、

   1/3 = 0.333…

 両辺に3をかけると、

   1 = 0.999…

 聞き手の「おっさん」は、これがうさんくさい、という。

 つまり、0.9999999999999999999…とどんなに1に近づいても、1にはならないのならイコールじゃない、と言い張る。このツッコミは新鮮。わたしなんて、疑問にも思わず(したがって理解もせず)「こんなものだ」と覚えてしまっていたから。それをしつこく解説する。

 「1= 0.999…」について、もうひとつの説明として、

   S = 0.999…   とする

 両辺を10倍すると、

   10S = 9.999…

 両辺からSを引くと、

   10S - S = 9.999… - 0.999…    ←※

   9S = 9

 両辺を9で割ると、

   S = 1

 最初に「S = 0.999…」としたので、

   1 = 0.999…

 「おっさん」はそれでもおかしいという「無限というのは、…がずっとくり返される、終わりなく続くもの。これを"S"という、あたかも一つの記号に置き換えられるのが不自然だ」と抵抗する。わたしにとって、※の計算が居心地悪い。アタマでは分かるが、計算しつくせないものを終わらせているから。

    9.9999999999999999999…
 -) 0.9999999999999999999…
 ―――――――――――――――
    9

 そんな「おっさん」を相手に無限のレッスンが続く。萌え(?)を意識したのか、妙齢の美人教授を登場させ、コスプレや奇矯な言動をさせたり、読み手を飽きさせない工夫が随所にある。

 オイラーの計算も面白い。以下の計算を無限に行ったらいくつになるか?

   1 + ( - 1 ) + 1 + ( - 1 ) + 1 + ( - 1 ) + 1 + ( - 1 ) …

 こいつを、Sで置き換えると、

   S = 1 + ( - 1 ) + 1 + ( - 1 ) + 1 + ( - 1 ) + 1 + ( - 1 ) …

   S = 1 - { 1 + ( - 1 ) + 1 + ( - 1 ) + 1 + ( - 1 ) …}

   S = 1 - S

   2S = 1

   S=1/2

 しかし、Sは

   1 = 1

   0 = 1 + ( - 1 )

   1 = 1 + ( - 1 ) + 1

   0 = 1 + ( - 1 ) + 1 + ( - 1 )

   1 = 1 + ( - 1 ) + 1 + ( - 1 ) + 1

   …

 と、どんなに足していっても、0か1の間のどちらかの値をとるだけで、無限に続けても1/2にはならない。オイラーの計算とコーシー列の解説から、数とは何か、という本質的な理解が得られる。

 面白がって背理法や集合論のレッスンに付いていくと、「ラッセルのパラドックス」が突きつけられる。「集合の集合」にヤられる。偽命題として「1=0」が証明されてしまう(そして、理解できる)。わたしの理解していた数学がウソだと証明されたようで、自分の正気を真剣に疑う

 あるいは、コーシー列の解説の際、「おっさんが」が数直線上の1を疑い始める。

「うーん、1に無限に近づくことはできるんやけど、ぴったり合うところがあらへんのちゃうか、ゆう不安ゆうか、恐怖ゆうか。近づいても近づいても絶対そこへはたどりつかへん、ゆうかな。」
「そうそう、そういう感覚なんです。自分の頭で思っている数直線と、現実の数直線が、よくよく調べてみるとズレてるんじゃないか、という不安感があるんですよね」

 そう、わたしも。数学ってもっと確固としたものだと思っていた感覚がゆらぎはじめる。このめまい、酩酊感は、ちょっとこわい

 数学を暗記科目だと割り切るようになったのは、虚数から。虚数は数直線上にプロットできないと説明されて、嘘くさい数だとヘソ曲げたのがきっかけ。「数ではないのに数学とはこれいかに」なんてセンセに問答をふっかけたり。

 おかげで「青チャート」+「大学への数学」だけで終わったつもりでいた。たしかに点は取れたけど、非常にもったいないことをした。実在無限で済ませていたのが、可能無限に気づいてしまったというべきか。

 で、肝心の9章。残念ながら、不完全性定理は理解できなかった。8章までと異なり、たとえ話だらけとなっている。「たとえ話」で伝えたいことは薄ら分かるのだが、理解できない。だから、「そもそも自己言及のパラドクスじゃぁねぇの? ラッセルがダメでゲーデルがセーフなのはなぜ?」という疑問が出てくる。精進が足りん。

 分かるところだけつまみ食い的に読んでも、かなり酔える。さて、こんな調子でGEBまで行けるか!?

1章 無限は本当に存在するのか?
 1.1 大きな数を言う勝負は後手必勝?
 1.2 宇宙の果てはどうなっているの?
 1.3 アキレスは亀に追いつけない?
 1.4 有限の人間が無限を扱えるのか?
 1.5 無限の足し算は終わるのか?

2章 数とは何か?
 2.1 コーシー列って何ですか?

3章 無限には二つの種類がある
 3.1 可能無限とは何か?
 3.2 実在無限とは何か?

4章 無限の大小の調べ方
 4.1 無限はどうやって数えるのか?
 4.2 ベルンシュタインの定理って何ですか?
 4.3 大小関係にはどんな可能性があるか?
 4.4 対角線論法とは何か?
 4.5 どんな無限よりも大きい無限はあるのか?

5章 パラドックスとは何か?
 5.1 自己言及と矛盾の関係とは?
 5.2 存在そのものが矛盾する?

6章 ヒルベルトさんの無限的センス
 6.1 「20世紀に解かれるべき23の問題」とは?

7章 公理なくして数学なし
 7.1 点と点を線で結べることは証明できますか?
 7.2 三角形の内角の和は2直角なのか?

8章 ヒルベルトさんの夢
 8.1 公理の意味をすり替えた犯人はだれだ?
 8.2 椅子PQはビールジョッキRを通らない?
 8.3 無限を使っても数学は変にならないのか?

9章 ゲーデル不完全定理の誕生
 9.1 数学の公理系ってどんなもの?
 9.2 命題「私には証明がない」って正しいんですか?
 9.3 ヒルベルトさんの夢は砕かれてしまうのか?

10章 ゲーデル以降の無限
 10.1 永遠に解けない問いがあるのか?
 10.2 バナッハ・タルスキの嘘のような定理は本当なの?
 10.3 いつになったら終わるの?

おまけ 魔法のキャンデー
 無限か0か?
 地球人と火星人のための公理って?

 この本は、G★RDIASの「無限のキャンディーに隠された秘密」がきっかけ。良い本を教えていただき、kanjinaiさんに大感謝。リンク先のアリスと手品師のキャンデーの問題が面白い。本書を手にする前に、トライしてみてはいかが?


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ラノベの元祖は川端康成

 ライトノベルの最初の一冊は?

 世間を席巻する前からジャンルとして確立されており、ヤングアダルトとか、ジュブナイルとして、いわゆる「児童書」とは区別されていた。朝日ソノラマ文庫や早川JA文庫が入口だった人もいるはず。

夕映え少女 ややもするとラノベの定義まで遡及するかもしれないので、ここではコバルト文庫の最初の一冊として川端康成「夕映え少女」を読む。思春期の少女の微妙な心理から、成熟した女性のひたむきな想いを、7つの短篇におさめている。百合やら超能力者が普通に出てくる、立派なラノベですな。右端の書影は新風舎の新装版。コバルト版は少女処女してる。

 白眉は「むすめごころ」、本物よりも乙女心を理解していたのかしらんと言いたくなるぐらい、もどかしさとせつなさを上手く描いている。女学校の寄宿舎での語らいを思い出して。

でも、いっしょに腰をかけて、さてなにをしようというのだろう。私はただ幸福なだけだ。涙ぐんでなにか大事な話をしてあげたいような、心の奥底をもっと見せ合いたいような、なんとなく激しい気持ちで、しかもたわいないじょうだんばかり言っている。

 まさに、ふたりは百合きゅあ。憎いのは、物語の入れ子構造。ある女性の親友が、過去を思い出して書いた手紙がある。それを見せてもらった第三者(男)が、「この手紙はわたしが預かっておいたほうがいい」として紹介する形で話が始まる。

 一体どうして、男の手元においたほうがいいのかは、ちょいミステリ気味で楽しく、ラストになってこの叙述形式が効いてくる。一人称で書いたら陳腐だろうなぁ…と振り返ってヤラレタ!これは漱石の「先生と遺書」ではないか!

 もちろん、これは悲劇ではないことを冒頭で知らされている。しかも、ラストは心地よい「恋の痛み」がじんわりする仕掛けになっている。だから気が付かなかったのだけど、「こころ」がドリカムの悲劇なら、これは逆ドリカムの恋劇というべき。告られた女の子のセリフに、せつなさ・みだれうちになる。

ええ、まじめだわ。ほんとう言うと、結婚するのがこわいほど、あなたが好きなの。結婚しなくってもいいほど、もう安心しきってるの。私あなたと結婚するくらいなら、もっと嫌いな人と結婚するわ。でも、私結婚はいや。今は誰ともいや。

 いつの時代も、純情乙女の底力は変わらないなぁ、と確認する

 川端康成は、最初の百合小説「乙女の港」だけでなく、ライトノベルの元祖としても書いていたのでした、というお話。ちなみに、ツンデレ小説の元祖は、谷崎潤一郎「春琴抄」[参考]。世間の消費スピードがあまりにも早いため、好きなものが見えにくくなったとき、戻ってみるといいかも。

 あるいは「掌の小説」をオススメ。これはショートショートともいうべき超短編集で、だいたい2~3頁で片がつく物語ばかりを集めたもの。サイコサスペンスあり、ファンタジーあり、幼女趣味あり、文学ブンガクしてたり、川端作品を知るのにうってつけ。「雪国」「踊り子」よりも、巧拙があらわで分かりやすく、「眠れる美女」よりもエロ少な目な逸品。「滑り岩」「神の骨」「夜店の微笑」あたりがわたし好み。

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