ローマ人の物語VIII「危機と克服」の読みどころ
「ローマ人の物語の読みどころ」シリーズ。
ここでは、ネロ死後の三人の皇帝(ガルバ、オトー、ヴィテリウス)を紹介している(A.C.69~)。失政からの混乱→内戦→危機的状況から、どうやって脱出したかが読みどころなんだけど、どこでも聞こえてくる塩野節が面白い。
ポイント1 : 「○○であればよかったであろうに」「××するべきではなかった」
たらればの危険性どこ吹く風、これは「物語」なのだから、後付け考察なんでもあり。どのページを開いてもある断定口調なんだけど、皇帝オトーが内乱を終結させるために自死したことにまでケチをつけるのには恐れ入る。
塩野はこれを「潔い」というよりも「あきらめが早すぎる」と腐す。死ぬべきでなかったと。ええと、現実から目を背け、権力にしがみつく高官を「あきらめが悪い」と、どこかで非難したはずなんだけど… どうしてこんな天邪鬼なのかと察するに、歴史家タキトゥスがこの行為を口を極めて賞賛したからじゃぁないかと。そして、調子よくローマッ子の肩を持つ。自軍の敗北を知ったオトーは、内乱を終結させるため、自らの胸を剣で刺した。見事な一突きで、物音に気づいた人が部屋に駆け入ったときには、すでに息絶えていたという
ホントのところは分からないが、別人の手による通史を読むとき、このあたりは目にチカラを入れて読むだろうなぁ… そんな気にさせただけでも、塩野氏には感謝しないと。愛国者タキトゥスの慨嘆はわかる。しかし私には、ローマ人同士の市街戦を、競技場で闘われる剣闘士試合であるかのように観戦した庶民の反応のほうが、事態を正確に把握していたと思えてならない。(略)民衆は察知していたのだ。意識はしなかったにせよ、どちらが勝とうが変わるのは皇帝の首だけであることを、彼らは知っていたのである
ポイント2 : 自爆論理を探せ
別の巻で主張していた根拠が、180度転回して展開しているところ有り。そりゃ、これだけ長いことつづけてきたから、忘れることもあろうに… それでも、自分で主張した理屈に自分がハマるという滑稽さに、どうしても笑ってしまう。語るに落ちる自爆論理。
例えば、自説への反論、自分の論拠を自分で骨抜き、尻すぼみ論理展開、キャラクター設定変更等など。巻をまたいで露呈していたのが、珍しくも同じ章の中で見つかっている。
この頃の大きな出来事、ユダヤ戦役とガリア帝国事件の重要性を天秤にかけるのだが、前半で述べた自説の論拠を、後述で骨抜きにしちゃっている。自分で自分の首を絞めてどうするのかね。文庫本22巻p.56より。
ふむふむ、ページ数の多寡が注目度のバロメーターとなるわけね。だが、おそらくこの時期から三十年後に書かれたと思われるタキトゥスの「同時代史」では、前者を叙述するのに要したページ数は八十、後者の叙述は十ページを逆転する。つまり、ローマ時代の歴史化タキトゥスの注目度ならば、ガリア帝国事件のほうが断じて高かったことになる。それは、ユダヤ戦役の行方が帝国の安全保障に与える影響は間接的であったのに反し、ガリア帝国の行方如何は直接的な影響を与えざるをえなかったからであろう。
ちょっwwww、じゃぁページ数はアテにならんということじゃねーか!(この箇所はもだえた。読者をなめとるというよりも、本当に好きに書いているんだなーと感心した)。会談で何が話し合われたかについては、まったくわかっていない。キヴィリスが話しはじめたところで、タキトゥスの「同時代史」は終わっているからだ。タキトゥスがそこで筆を折ったからではなく、それ以後のページが中世を経る間に消失してしまったからである。
査読した人はテニヲハと誤字脱字だけだったんだろうなー、あるいは畏れ多くもセンセの論理展開にケチなんてつけられなかったんだろうなー。以降、大甘に読むようにする。彼女に一貫性やロジカルな記述を求めるのは、わたしが間違っていたということで。
ポイント3 : 主張の根拠をあぶりだせ
自説の主張はいいんだけど、どうしても根拠を見失う(読み取れない)。威勢良く「だ」「である」「べき」で始まったあと、「なぜなら~」文の最後で「…と思う」を入れるのは勘弁してくれ。参照一覧で膨大な史料が挙がっているので、それなりの根拠はあるのだ(と、思いたい)。
この巻で期待していたのは、ローマ人とユダヤ人について。ユダヤ人に対し、ローマはどのように接したかよりも、なぜそんな行動を採ったかの方が知りたかった。特に、ここへ至るまで、塩野氏が書くローマ人は親ユダヤ的だったし、ユダヤ人も(必要に迫られてかもしれないが)反ローマ的な態度は慎んでいた。これが、なぜユダヤ戦役につながったのか?
塩野氏によると、「嫌悪」で片付く。文庫本22巻p.96より。
ちょっwwwww、おまっwwww あれだけひっぱってコレかよ!納得できん!しかも「思う」って言うなー というわたしの叫びをよそに、こうまとめている。文庫本22巻p.124より。ユダヤ人との直接の接触が六十年に及ぶという時期になって、さすがにローマ人も反ユダヤ感情をもちはじめたのではないかと思う。ユダヤ人を嫌うようになると、ユダヤ人の行うことすべてが嫌悪の対象に変わってくる。
詭弁の一手法「一部を持って全部とする」が効果的に使われている。「見たいものしか見ない」のはオマエじゃぁぁぁ、と咆える前に自省してみる。ひょっとして、わたしだけちゃんと読んでいないのかな、ってね。うんそうだ、きっとそうだ(棒読み)。つまり、ローマ人にとっての哲学としてもよい「普遍」と、ユダヤ人の宗教の説く「特殊」が共存し共栄できると考えたユダヤ人は存在したのだ。現代ではまるで、ユダヤ人が一丸となって支配者ローマに反抗したかのように思われており、それに対して疑問をいだく人からして少ない。しかし、このような、人間社会の一面しか見ない、カエサル流に言えば「見たいと思う現実しか見ない」傾向は、ユダヤ人自身にとっても良い結果をもたらさないと思う。異なる宗教、異なる生活様式、異なる人種であっても、ともに生きていかねばならないのが人間社会の現実である。
ポイント4 : 一貫性を追いかけると、楽しいゾ
ここに至るまで、ローマ人は非常に現実的・合理的な考え方を持っていると紹介されてきた。本当にそうなのかはともかく、少なくとも塩野氏はあちこちでそう言ってきた。それがこうだ、文庫本22巻p.60より。
「失敗から目をそらさない民族」… つい前巻「ローマ人の物語22」でガリア帝国の反乱を「なかったことにする」と幾度も書いていたのをフと思い出す。真逆なんだけど、弁解の言もないし、主張を変える裏づけもない。おそらく、時間をおいているため忘れてしまったんだろうかと。ローマ人は、共和政・帝政を問わず、自分たちの喫した敗北や自分たちの犯した失敗から目をそらさない民族であった。記憶の抹殺とは、思うだに忌まわしい皇帝とその治世であったからそれに関するすべては忘れ去りたい、という意思の表示である。そう定めておきながら、現実的に不可能という理由で、忘れ去りたい皇帝の横顔や業績が彫られている通貨は使い続ける。ローマ人らしくないやり方だと、私には思える。
「現実的に不可能だから──ローマ人らしくない」… ローマ人は現実的な民族だと繰り返し主張しているので、この一文がことさら目に付く。これも論拠レス。あるいは、わたしの記憶違い?うん、きっとわたしの読み違いだ(棒読み)。
ポイント5 : 迷推理につきあう
読んでてスリリングだったのが、文庫本23巻の「ローマ官僚組織不要論」。入口は非常に面白かった。なんせ、古代ローマを空から眺めて、無い建物を探し始めているのだから。真偽はともかく、官公庁街が無かったそうだ。文庫本23巻p.102より。
めずらしく殊勝な塩野氏。考古学者を立てるなんて、非常に珍しい。以降、中央と地方の機能分散が徹底していたとか、地方自治の気概が横溢していたとかあるが、以下は本当かどうか、別の研究文献で深掘りしたい(真偽も含め)、と思う一文(文庫本23巻p.104)。つまり、官庁街がなかったということは、独立した官僚組織が存在しなかったということであり、それを追及していけば、なぜ独立した官僚組織をもたないでいて大帝国の運営が可能であったのか、に行きつかざるをえない。これへの答えならば、学者たちの研究、それもとくに考古学上の研究の成果が、答えに迫るのを助けてくれる。
何の根拠もないが、非常に胡散臭く見える。というのも、官僚組織は不要だった理由として、上記の論拠を挙げているから。もちろん、地方自治体は確かに存在していただろうが、それは中央の官僚組織が不要だった理由にならないのだ(わたしの読みが間違っているかもしれないが、な)。塩野氏の展開する「証拠」だけでも臭うのだから、プロフェッショナルが突いたらさぞかし溢れるだろうなぁ…簡単にまとめてしまえば、「中央」の仕事は安全保障と税制とインフラストラクチャーの充実であり、「地方」は、これら以外の「地方」でやれる仕事はすべてまかされていた、ということになる。(中略)しかし、帝政に移行した後は本国のイタリアだけでなく属州にも数多く存在した「地方自治体(ムニチピアMunicipia)」だったが、自治は認められても財源を伴わないのでは、自治の権利とて行使しようがない。地方分権が効力を発揮するには、財源の確保が不可欠である。地方税なるものは、存在しなかった時代でもあった。
さらにスゴいのが、地方自治体の財源について。塩野氏はこう断ずる(文庫本23巻p.106)。
これ自体は史料があるのだろう、あるいは、史料を基にした論文から抜いているのだろう──んが、だからといって、地方自治体の財源が完全に確保された理由にもならないし、さらに、官僚組織が不要だった理由に遡及させることもできない。彼女のリクツが正しいならば、こう展開できるはずだ。現代ならば地方自治体の仕事と考えられていることの多くが、個人の寄付ないし自発的提供に依存していたという事実を忘れるわけにいかない。自らの属す共同体のために私財を投ずるのは、恵まれた境遇にある者の責務であるとともに、名誉とも考えられていたのである。
- 地方自治体のために私財を投ずるのは、名誉だとされていた
- そのため、地方自治体は、税金などなくても運営できていた
- その結果、中央の仕事以外は全て、地方自治体に任されていた
- それにより、中央には官僚組織が不要だった
ポイント6 : 弁解につきあう
自分の筆致に恐れをなしたのか、「弁解」しはじめる塩野氏… くそ、カワイイぞ。文庫本23巻p.142より。
いつになく殊勝な塩婆… 心境の変化なのか、誰かエライ人にキッツいこと言われたのか(書かれたのか)── ところが、この先ガラリと変わる。哲学は学んだが歴史を専門に学んだことのない私は、書く対象がルネサンス時代のイタリアであろうと古代のローマであろうとアマチュアにすぎない。ゆえに私の書くローマ史は、学者の書くローマ史ではなくて作家の書くローマ史である。とはいえ、ブレヒトやユルスナルの作品でもわかるように、作家だからと言って勝手気ままに書くわけではなく、対象に選んだからにはそれについての調査と研究が必要になる。
ちょwwwwおまっwwwwwwゆえに、調査研究の必要度ならば学者も作家も差はないのだが、それに取り組む姿勢となると、学者と作家とではちがうように思う。その違いを一言で片付ければ、学者には史料を信ずる傾向が強いが、作家は、史料があってもそれらを頭からは信じない、としてよいかと思う。
以降、歴史的史料として残っていることの二義性や恣意性をあげつらい、結局信じるのはわたしの判断よ、という彼女には、彼女が大好きなカエサルの「人は見たいものしか見ない」という言葉がピッタリなんじゃぁないかと。
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コメント
最近歴史書としてローマ人の物語にはまり、七生ねーさん、イタリアの伊達男の話にいかにもありそうなウソつっこんで、読者と歴史家だましたってよろんでたというのを思い出し、貴サイトにたどり着いた次第です。
ローマ人の物語はよくできすぎているし、ねーさんも史実風のウソを突っ込むのは禁じ手(正確には禁じ手じゃないけど、読む奴があほすぎるので危険)だと思ってるみたいで、ちょっと怪しい文章の頭にはIFが必ず書いてあるので、ある程度はわかりやすいけど、やはりねーさんに騙されてんじゃナイノ?っていう切り口は必要かなって。
んでローマ人の物語に目立つ形でのウソ、いや演出上の筆者の作為点は書いてあるんでしょうか?
※推理小説でいうところの「フェアorアンフェア」って奴ね
小説なんだからねーさんが脳味噌の中の何を持ち出そうと勝手なんだけど、読む方はついつい歴史書として読んじゃうから恥かく前に知りたい。
投稿: とおりすがり | 2007.09.24 16:55
>> とおりすがり さん
> んでローマ人の物語に目立つ形でのウソ、いや演出上の
> 筆者の作為点は書いてあるんでしょうか
ものすごく悔しいけれど、書いてあります
これは、やっぱり作文家としての修養の賜物なのでしょう
「ウソをホント」と騙して書いていません
それでいて、読ませる文章に仕立ててあります
文末が「…と思う」「のはずだ」で終わっているのが彼女の妄想で、「だ」「である」といった断定口調はどこかの史書のきれっぱしをコピペしたんだなー、とスゴく分かりやすいです
だから、勇ましく彼女の主張(≠妄想)しはじめた文末が「…と思う」で終わっているのを見ると苦しい笑いにおそわれます
日本最高齢の腐女子の「カエサル萌え」は、読む価値アリです
投稿: Dain | 2007.09.24 22:38
お返事ありがとうございます。
ほほー、やはり入ってますか。
でも「・・・と思う」のマーク付きなんですね。ヨカッタ。読むとき気をつけるようにします。
「カエサル萌え」は十分堪能しました。
ガリア戦記とゲルマニアを買って読んだくらい。
今は31巻読了です。
ここからローマが滅んでいくんだなって思うと悲しいです。
それでは。
投稿: とおりすがり | 2007.09.30 11:53