未来形の読書術
「読むとは何か」、少なくとも「小説を読むとは何か」について、スッキリとした解答が得られた。小説を読む悦びについて、言葉にできずもどかしい思いをしてきたが、本書のおかげで胸はってコレだよ!と言える。
例えば、物語性にばかり目を向けている人なら小説の「面白さ」ばかり強調するかもしれない(わたしもその一人だ)。ところが、そんな人に限って「面白い映画」や「面白い舞台」と同じような楽しみ方しか見出すことができない――小説には、もっとスゴい愉しみかたがあるのに。
それは、「読む」ことそのものだという。メディアの性質上、小説は読むことを通じてしか受け取ることができない。そして、いったん読者の解釈にさらされることがポイント。起きたことが100%の言葉になっているはずもないから、読み手は文中の言葉と言葉の隙間を自分の解釈で埋めていく。「書かれなかったこと」の理由を推理することが小説を読む醍醐味なんだ。
だから、同じひとつのテクストから、いかに面白い「読み」ができるか、どれだけ個性的に「読め」ているかは、他人の読みと比べる必要がある。優れた書き手は、「ほんとうに書きたいこと」を上手に隠すことで読者から小説を守ろうとするという。
この良例として、著者は漱石「こころ」の新しい読み方を示している→「こころ」大人になれなかった先生読者の解釈によって言葉の隙間が埋め尽くされ、誰が読んでも同じ読み方しかできないことになる。それは、小説にとって死を意味する。そこで、小説の言葉が断片的で隙間だらけだであることを知り尽くした作者なら、言葉の断片性を上手に利用して読者を欺くことで、自分の書いた小説を時間による風化から守ろうとするだろう。
素人の小説家はそのあたりのことを間違えて、一番いいたいことを書いてしまうものだが、プロの小説家はそんなヘマはしない。なぜなら、一番いいたいことを書いてしまったら、一遍しか小説が書けないからだ。
つまり、小説を面白く読んだかどうかは、自己満足を除けば、実は自分で決められる問題ではないということだ。誰かに自分の読みを聞いてもらって、はじめてそれが面白いか面白くないかということが評価されるのである。自分の読みが個性的かどうかは、他人の読みと比べてみなければわからないものだろう。
この一冊で「こころ」がまるで違う小説になってしまった!恐ろしいミステリのようにしか見えなくなってしまった。経緯は[ここ]に書いた(ネタバレ少々あり)。この一冊を書くのに、石原氏は「こころ」を50回以上読み直したのだという。まさに執念の賜物。おかげで、漱石をまったく新しく、ドラスティックに読むことができる。
最初は、飛び石を一歩一歩伝うように解釈を続け、気づいたら思いもよらないような場所で考えている。ハッと気づくと元の所にいる自分に気づく。読書と、そのときの自分の意識についてちょっとした冒険が味わえる。
あたりまえのことなんだけど、そのあたりまえ具合に気づかせてくれる一冊。
第1章 本を読む前にわかること
本は自分を映す鏡だ
未来形の自分を求めて
過去形の読書もある
すべてのゴミはなくせる!
言葉の外に世界はあるのだろうか
自分はどこにいるのか
第2章 小説とはどういうものか
『電車男』は文学か
物語の四つの型
何を期待して読むのか
小説の言葉はどのように働くのか
小説の読者の特別な位置
なぜ、小説は人を癒すのか
第3章 読者はどういう仕事をするのか
小説は穴ぼこだらけ
作家は隠すことで読者から小説を守る
文学テクストの内部にいる読者
「内包された読者」の仕事
自由に読めるのだろうか
読者が自分を否定すること
あなたのカードは何点か
第4章 「正しさ」は変わることがある
評論を面白く読むコツ
論理は一つではない
いつから「地球にやさしく」なったのか
一つから複数へ
「読者の仕事」を深めるための読書案内
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コメント
Dainさん、いつも素晴らしい本の紹介ありがとうございます。
石原千秋のファンですし、ちくまプリマー新書のファンですし、Dainさんのファンでもあるので飛びつきました。
読書を「冒険」と呼ぶその感性、素晴らしいと思います。
投稿: ほんのしおり | 2007.08.21 03:27
>> ほんのしおり さん
石原千秋氏は、読み手を充分に意識した書き方をしますよね。本書は高校生くらい(?)を想定しており、非常に分かりやすいです。出だしからツカミはOK、頁の向こうから語りかけてくるようで、「どうしてわたしのことが分かるの?」と問い返したくなること請け合いです。
本書を読むこと、そのものが「冒険」になるかもしれません。
投稿: Dain | 2007.08.21 22:19