« 2007年7月 | トップページ | 2007年9月 »

絶望的な状況を脱出するリーダーとは? 「エンデュアランス号漂流」

エンデュアランス号漂流 すさまじいノンフィクション。口全開で読む。

 極限と、そこからの生還がある。月並みだが、「事実は小説よりも奇」を地でいく。ただしこの場合、「奇」ではなく「危」だな。あるいは「飢」か。

 動機は、「大英帝国が南極点到達に遅れをとるなんて!」→「ならば南極大陸横断だ」と、まことに不屈魂(endurance)あふれるもの。無線は実用化されておらず、ましてや雪上車? なにそれ? の時代、つまり1914年に決行している。

 当時としては最も頑強な「エンデュアランス号」は、南極大陸の手前で氷に閉じ込められ→圧砕→沈没。5,000人から選び抜かれた28名は氷板の上で生き延びるも、破砕→漂流。食料不足、極寒の嵐、凍傷、病気… 次から次へとくる危機的状況に、真正面から立ち向かう。写真を見る限り、冒険自体が狂気の沙汰としか思えん。

Endurance 本書の中盤あたりから、誰が死んでもおかしくない状況がの連続。いや、全員死亡もありうる。それでもページをめくらせるのは、本書がノンフィクションで、28名の全員が生還していることが、予め分かっているから。いったいどうやって、この難局を乗り切ったのか、知りたくてたまらないから

 そこに何を読むか?

 南極の異質な自然の暴威に驚嘆し、冒険野郎のタフネス&ユーモアに顔をゆがませ、耐え忍ぶことで道は開けるといった教訓を得る―― なによりも、めっぽう面白いノンフィクションに夜をかけて挑む(徹夜本だし)

 さまざまな読み方があるが、わたしの場合、「絶望的状況を脱出するリーダーとは?」という問いを立てた。リーダーというより、「ボス」と呼ばれたシャクルトンの「言動」に注目する。

■不屈(endurance)の自信

 シャクルトンの不屈の自信は、悲惨な状況であればあるほど輝く。

科学的な指導力ならスコット、素早く能率的に旅をすることにかけてはアムンゼンが抜きん出ている。だが、もしあなたが絶望的な状況にあって、なんら解決策が見いだせないときには、ひざまずいてシャクルトンに祈るがいい

 九死に一生を得るリーダーとしては、シャクルトンが一番らしい。しかし、そもそも危機的状況にならないようにリスクヘッジをする能力については、疑問符がつくようだ。特に、最近出た「シャクルトンに消された男たち 南極横断隊の悲劇」で意を強くした。

■楽観主義とプライド

 シャクルトンの楽観主義は、状況から目を背け、都合のいいものしか見ないことではない。自分の無敵を心から信じており、挫折するとしたらそれは能力がないせいだと考えていたそうな。一種の自意識過剰とも言えるうぬぼれの強さが、断固とした決断力とカリスマ性の源だった。

 そして、このうぬぼれの強さのために、他人の意見に耳を貸さなくなり、現実を見誤ることもあった。探検そのものの失敗、エンデュアランス号を失ったこと、氷上の行進(しかも徒労に終わった)―― これだけ失敗が続けば、プライドはずたずたにされるだろう。一時的に神経過敏になって「過度の緊張からくるのだろう、何も考えず心身を休めたい」と日記にある。

 しかし、失敗をする度に目標を切り替え、その目標が達成できなかったら、さらに別のゴールを立てて…と、常に目標に向かおうとする姿勢は絶対に変えなかった。失敗したら、目標を変えればいい。最後の目標「全員を生還させること」は成功している。シャクルトンに言わせれば、目標を掲げなくなったときが「終わり」なんだろう。

■トラブルメーカーに気を配る

 シャクルトン独特の仕事の進め方だなぁ、と思ったのがコレ。進退を決めるような重要な話し合いや、チームを分けなければならないとき、いわゆる「トラブルメーカー」となりそうな人を、常に手元においていたそうな。なぜなら、

シャクルトンは肉体的には全く恐いもの知らずだったが、その実、状況を把握できなくなることを病的なまでに恐れていた。これは、彼の強い責任感によるところが大きかった。隊員をこのような状況に追い込んだのは自分なのだから、何としても全員無事に脱出させなくてはならないと考えていた。その結果、全体の調和や団結を乱す可能性のある潜在的トラブルメーカーに対し、たえず厳しく気を配っていた。もし隊員たちのあいだに不和が生まれ、全員の力が存分に発揮されないようなことがあれば、これは生死を分けるような結果になりかねない。

 氷はどうしようもない、嵐もいかんともしがたい、マイナス18度も、英雄的行為によって変わることはない。リーダーは外部要因を変えることはできないが、メンバーに働きかけることはできる。そして、メンバーがバラバラにならないようにするには、まず不満分子が集まらないように物理的に先手を打っておく。これがシャクルトンのやり方。「人」のリスク管理は一流だなぁ。

■ユーモア、ユーモア、ユーモア

 これはシャクルトンに限らない。どうしようもない状況は変えられないが、とらえかたを変えることはできる(コップ半分のたとえ)。状況を冗談にするようになればずっと良くなる。

 たとえば、救助を求めるボートに選ばれた隊員に、「足を濡らさないように」と注意したり(もちろん全員ずぶ濡れ)、島に着いたら後から救出される仲間のために女の子を残しておくことを約束させたり。お互い、もう二度と会えないかもしれないということを知りつつ見送る状況で、こうした冗談を交わすのは文化の強さだね。

 さらに、救助を求めるボートが凍りつき、水がなだれ込んでいるような状態で、舵取りを交代する際、「素晴らしいお天気ですね」とニコニコ嬉しそうに言ってのける。悲惨な状況でユーモアを言えるということは、人間の強さだね。

 シャクルトンのユーモアは、隊員を戒める際に表れている。冒険の初期、びくともしないエンデュアランス号は、どんな氷の圧迫にも耐えうる、とクルーたちが自信満々に話している場面に出くわして、シャクルトンが口を開いた――

シャクルトンの話は、居酒屋に住むネズミの物語だった。ネズミはある晩、割れ目の入ったビール樽を見つけ、思う存分、ビールを飲んだ。酔っ払ったネズミは、ひげをひねくりまわしながらあたりを見回し、こうのたまわった。「さてと、ネコのやつはどこにいる?」

 あるいは、南極探検隊を募集した広告にも洒落っ気がある。事実は小説よりも「希」、なのかもしれん。

  MEN WANTED
  for Hazardous Journey,
  Small Wages,
  bitter cold,
  long months of complete darkness,
  constant danger,
  safe return doubtful.
  Honor and recognition in case of success――Ernest Shackleton.

  求む男子
  至難の旅
  僅かな報酬
  極寒
  暗黒の長い日々
  絶えざる危険
  生還の保証なし
  成功の暁には名誉と賞賛を得る――アーネスト・シャクルトン

 最後に。本書は、linboseさんの「女王陛下のユリシーズ号」の[書評]に推されて読了。素晴らしい本を教えていただき、ありがとうございます、linboseさん。それから、「エンデュアランス号」のディメンジョンならば、「復讐する海」をオススメ。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

心にささる一行「胸からジャック」

胸からジャック 「胸からジャック」=「胸から惹句」に掛けている。ありふれた言葉から成っているのに、聞いた瞬間、ハートにキたものはないだろうか?そして、いつまでも胸の奥に潜んでて、フとしたはずみで当時の記憶ごと思い出すようなコピーはないだろうか?


    なにも足さない。なにも引かない。


    人類は麺類


    恋を何年、休んでますか。


    女の胸はバストといい、男の胸はハートと呼ぶ。


    シアワセはシワとアセでできている。


 何を憶えているかで、トシがばれてしまうかも。そんな歴代の名コピーとレシピが並ぶ。興味深いのは、本書はコピーライターのための手引書ではないということだ。では誰のため…?

 これは、日本人・全員に向けた一行詩のルール集。いまうつむいて、ケータイ画面を魅入っている人、膨大なテキスト文に包囲された中で、「わたしのメッセージ」を届けたい人── つまり、誰かの胸を振動させたい人のための一行詩集+ルールブックなんだ。

 日本人は、一行詩民だという。しかもかなり優秀らしい。もともと古来から、ただ一行一文で詩情を表現してきた。

短歌。俳句。川柳。みな一行一文である。いわば一行詩に、日本人は恋を詠み、国を詠み、歴史を詠み、社会を詠み、哲学を詠み、人を詠み、鳥を詠み、花を詠み、季節を詠み、風景を詠み、出会いを詠み、別れを詠み、人生を詠んできた。

 短い言の葉、一行の文。これで思いを詠み、伝えることは慣れ親しんできた。だからいま、あなたのケータイの液晶画面で光を放つ文は、その延長上にある。指先でつむぎあげた短文を送受する人々を母数として、新しい文章表現が生まれるのだという。著者は「指述筆記された感語体」と名づける。

 ミもフタもない言い方なら、歴代の名コピーから「ビジネス」臭気を追い払ったとも言えるが、まとめて見ると一貫した「ルール」がある。をっと、ルールとはいってもstrictなやつじゃないよ、なんたって、最初のルールは「自由律である」なんだから。ルールは17ある。

  1. 自由律である。
  2. 文字数の制限はない。
  3. 一行詩である。
  4. 季語をもたない。
  5. 散文詩である。
  6. 美しい文字使い。
  7. 真実を伝える。
  8. 発見がある。
  9. メッセージである。
  10. 感慨である。
  11. 言葉遊びである。
  12. 哲学である。
  13. 仕事に使える。
  14. 愛を伝える。
  15. スピーチに使える。
  16. 人生をサポートする。
  17. 発表して、腕を磨く。
 そして、その「ルール」にノッて、今度は自分でつむいでみたくなる。ケータイの画面に向かって、PCのキーボードに向かって。手前味噌になる。このblogで膨大な言葉を発信してきたが、それよりも、お題の

    わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる

 この一行が言い尽くしている。いままで、数え切れないくらいの「あなた」から、陰に陽に、スゴい本を、教えてもらい、読んできた。それでも、1000回夏を過ごしても読みきれないぐらいのスゴ本が、まだまだある。それはきっとあなたの既読本のはず。だから、そんな「あなた」を探すために、このblogを続けていく。

 人生は、有限だが、わたしは、ときどき、忘れてしまう。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

見どころは飼い主「作家の犬」

作家の犬 犬好きで本好き必読。

 夏目漱石・中島らもが「猫派」なら、川端康成・米原万里は「犬派」になる。よく見る写真では仏頂面なのが、愛犬と一緒だとここまでニヨニヨするのか!? 著名家たちの隠れた一面を垣間見て、こっちまでニヤニヤ。もちろん見るべきは飼い主のほう。

 たとえば世界のクロサワ。が、犬を相手にデレデレしているとこなんて、はじめて見た。いつも黙って厳めしい顔しているイメージだったのが、これじゃただの犬好きオヤジだよ。必見。

 次に、米原万里。エッセイで犬猫好きは知ってはいたが、奴らはペットとかいう存在じゃないね。ただの犬好きのオバサンとして無防備に笑っている。著書「ヒトのオスは飼わないの?」は自嘲でも何でもない。ヒトのオスには厳しいけれど、不幸な犬猫には限りなく優しい、いちオバサンと化す。

 近寄りがたい人々なのに、犬と一緒に写っているだけで、一気に親しみがもててくる。ただし文豪ならではの鋭い一面も。犬の顔なんて見慣れたものだと思っていたが、作家のフィルタを潜った文を読むとハっとさせられることがある。

 中でも、犬の表情を巧くとらえているのは川端康成だろう。「禽獣」は既読だったはずだが、この描写は忘れてた。女が身を任せるときの表情や心中を、出産時の犬になぞらえてこういう。

少しきまり悪さうにはにかみながら、しかし大変あどけなく人まかせで、自分のしてゐることに、なんの責任も感じてゐないらしい

 ああ、そのとおりだ。一線を越えるとき、女は確かにそんな顔をする。今度ぱんつを下ろすとき、女の顔をよく見てみるといい。そこには、きまり悪さとあどけなさがあるから。

 また、「犬が笑う」はありえないことの喩えだったが、驚くなかれ、笑う犬が写っている。p.21の平岩米吉のリリ(シェパード)と、見返しの中野孝次のハラス(たぶん芝)だ。それ以外は、ぜんぶ飼い主が笑っている。

 最後に。犬への愛情は、中野孝次が上手く伝えている。「老いきたる」より。

   犬というものはその言葉を持たない。
   余計なことは言わないから
   犬に対しては人は無限の愛情を注ぐことができる。
   無条件に、無警戒に、ただ愛することができる。
   犬を飼うよろこびの最大のものは、
   そういう絶対的に愛することのできる相手が
   そこにいるということなのだ。

 本好きで犬好きなら、オススメ。眺めてニヨニヨしよう。
 ちなみに、猫好きで本好きなら、「作家の猫」。わたしのレビューは[ここ]
作家の猫

| | コメント (0) | トラックバック (2)

最近のイチオシ「付喪堂骨董店」

付喪堂骨董店 わたしの2倍読んでいるくせに、めったに誉めない嫁さんが「面白いよ」と寄越したのがこれ。おかげで幸せな1時間を過ごせた。げに悦ばしきは読書家の嫁なり。

 ラノベといえば超自然か学園モノが相場なのに、これは骨董店が舞台。ユニークかもーと読み進める。どうやらこの店は、いわくつきの偽物を扱っているらしい。『偽物』なのがポイントで、幸運を呼ぶ石だの、呪いのお守りのFAKEが表の看板。

 ニセモノがあるから、ホンモノもある。

 たとえば、書いたことを完璧に記憶できるノート(本物)や、宵越しの現金を消してしまう財布(本物)が出てくる。「アンティーク」と言うんだそうな。ただし、そんな不思議アイテムがメインではなく、それに翻弄される人が見どころ。演出のための叙述系な仕掛けも利いている(シロウトの手品みたくて良い)。amazonレビューはこんなカンジ

この世界には『アンティーク』と呼ばれる物がある。年代物の骨董品や古美術品のことではない。幸運を呼ぶ石、未来の姿が映る鏡など、不思議な力が宿った器物を指す。世の中は広いもので、そんな怪しい物を扱う店があったりする。付喪堂骨董店FAKE。だが、名前の通り扱っているのはそれの偽物ばかり。無愛想な少女が不気味な品ばかり勧めるので閑古鳥が鳴いている胡散臭い店なのだ。でも、ごくまれに本物が舞い込んでくるから面白い。では、そんな変わった品を手にしてしまった人たちのことを、これからお話しよう。

 そして、分かりやすいツンデレ(表紙の娘)に注目。

 ツンというよりクール無愛想な子やね。ずっと主役(男)キャラ視点ばかりなのが、第4章では娘のモノローグがじゃきじゃき書いてある。彼女の気持ちがモロに見え、戸惑い→意識する様に萌えろ悶えろ。

 SF(すこしふしぎ)+ツンデレ+ラブコメ、ちょい黒ストーリーと、深夜アニメお約束まんまだけど、こればっかりはラノベ読みの「おたのしみ」にしておきたいねぇ――ここまで書いた時点で、嫁さんが2巻目を持っていることに気づく。ネットで調べると「色気づいた咲ちゃんに大注目」とのこと。な、なんだってー!!ΩΩΩ

付喪堂骨董店2 速攻で読む。いやぁ、持つべきものはシュミを分かち合う嫁さんだねぇ。「色気づいた咲ちゃん」とは、第4章の「化粧」だね。前巻同様、彼女の一人称と彼氏の一人称を交互に使い分け、お互いのすれ違いをもどかしげに描く。

 もちろん、どこの新手のスタンド使いですか?とツッコみたくなるような「アンティーク」使いたちとの交錯も面白い。叙述の技巧に走らない分、地のストーリーテラーが冴えてる。ちょい黒なオチもあり、軽く読ませるだけで終わらせない。

 でもって、前言撤回!はにかむ咲ちゃんはアニメで見たい!ラノベの「ラ」はラブコメの「ラ」。これこそラノベらしいラノベ。ツンデレはいいね。ツンデレは心を潤してくれる。オタの生み出した文化の極みだよ。そう感じないか?

| | コメント (0) | トラックバック (1)

ローマ人の物語VIII「危機と克服」の読みどころ

 「ローマ人の物語の読みどころ」シリーズ。

 ここでは、ネロ死後の三人の皇帝(ガルバ、オトー、ヴィテリウス)を紹介している(A.C.69~)。失政からの混乱→内戦→危機的状況から、どうやって脱出したかが読みどころなんだけど、どこでも聞こえてくる塩野節が面白い。

ポイント1 : 「○○であればよかったであろうに」「××するべきではなかった」

 たらればの危険性どこ吹く風、これは「物語」なのだから、後付け考察なんでもあり。どのページを開いてもある断定口調なんだけど、皇帝オトーが内乱を終結させるために自死したことにまでケチをつけるのには恐れ入る。

自軍の敗北を知ったオトーは、内乱を終結させるため、自らの胸を剣で刺した。見事な一突きで、物音に気づいた人が部屋に駆け入ったときには、すでに息絶えていたという

 塩野はこれを「潔い」というよりも「あきらめが早すぎる」と腐す。死ぬべきでなかったと。ええと、現実から目を背け、権力にしがみつく高官を「あきらめが悪い」と、どこかで非難したはずなんだけど… どうしてこんな天邪鬼なのかと察するに、歴史家タキトゥスがこの行為を口を極めて賞賛したからじゃぁないかと。そして、調子よくローマッ子の肩を持つ。

愛国者タキトゥスの慨嘆はわかる。しかし私には、ローマ人同士の市街戦を、競技場で闘われる剣闘士試合であるかのように観戦した庶民の反応のほうが、事態を正確に把握していたと思えてならない。(略)民衆は察知していたのだ。意識はしなかったにせよ、どちらが勝とうが変わるのは皇帝の首だけであることを、彼らは知っていたのである

 ホントのところは分からないが、別人の手による通史を読むとき、このあたりは目にチカラを入れて読むだろうなぁ… そんな気にさせただけでも、塩野氏には感謝しないと。

ポイント2 : 自爆論理を探せ

 別の巻で主張していた根拠が、180度転回して展開しているところ有り。そりゃ、これだけ長いことつづけてきたから、忘れることもあろうに… それでも、自分で主張した理屈に自分がハマるという滑稽さに、どうしても笑ってしまう。語るに落ちる自爆論理。

 例えば、自説への反論、自分の論拠を自分で骨抜き、尻すぼみ論理展開、キャラクター設定変更等など。巻をまたいで露呈していたのが、珍しくも同じ章の中で見つかっている。

 この頃の大きな出来事、ユダヤ戦役とガリア帝国事件の重要性を天秤にかけるのだが、前半で述べた自説の論拠を、後述で骨抜きにしちゃっている。自分で自分の首を絞めてどうするのかね。文庫本22巻p.56より。

だが、おそらくこの時期から三十年後に書かれたと思われるタキトゥスの「同時代史」では、前者を叙述するのに要したページ数は八十、後者の叙述は十ページを逆転する。つまり、ローマ時代の歴史化タキトゥスの注目度ならば、ガリア帝国事件のほうが断じて高かったことになる。それは、ユダヤ戦役の行方が帝国の安全保障に与える影響は間接的であったのに反し、ガリア帝国の行方如何は直接的な影響を与えざるをえなかったからであろう。

 ふむふむ、ページ数の多寡が注目度のバロメーターとなるわけね。

会談で何が話し合われたかについては、まったくわかっていない。キヴィリスが話しはじめたところで、タキトゥスの「同時代史」は終わっているからだ。タキトゥスがそこで筆を折ったからではなく、それ以後のページが中世を経る間に消失してしまったからである。

 ちょっwwww、じゃぁページ数はアテにならんということじゃねーか!(この箇所はもだえた。読者をなめとるというよりも、本当に好きに書いているんだなーと感心した)。

 査読した人はテニヲハと誤字脱字だけだったんだろうなー、あるいは畏れ多くもセンセの論理展開にケチなんてつけられなかったんだろうなー。以降、大甘に読むようにする。彼女に一貫性やロジカルな記述を求めるのは、わたしが間違っていたということで。

ポイント3 : 主張の根拠をあぶりだせ

 自説の主張はいいんだけど、どうしても根拠を見失う(読み取れない)。威勢良く「だ」「である」「べき」で始まったあと、「なぜなら~」文の最後で「…と思う」を入れるのは勘弁してくれ。参照一覧で膨大な史料が挙がっているので、それなりの根拠はあるのだ(と、思いたい)。

 この巻で期待していたのは、ローマ人とユダヤ人について。ユダヤ人に対し、ローマはどのように接したかよりも、なぜそんな行動を採ったかの方が知りたかった。特に、ここへ至るまで、塩野氏が書くローマ人は親ユダヤ的だったし、ユダヤ人も(必要に迫られてかもしれないが)反ローマ的な態度は慎んでいた。これが、なぜユダヤ戦役につながったのか?

 塩野氏によると、「嫌悪」で片付く。文庫本22巻p.96より。

ユダヤ人との直接の接触が六十年に及ぶという時期になって、さすがにローマ人も反ユダヤ感情をもちはじめたのではないかと思う。ユダヤ人を嫌うようになると、ユダヤ人の行うことすべてが嫌悪の対象に変わってくる。

 ちょっwwwww、おまっwwww あれだけひっぱってコレかよ!納得できん!しかも「思う」って言うなー というわたしの叫びをよそに、こうまとめている。文庫本22巻p.124より。

つまり、ローマ人にとっての哲学としてもよい「普遍」と、ユダヤ人の宗教の説く「特殊」が共存し共栄できると考えたユダヤ人は存在したのだ。現代ではまるで、ユダヤ人が一丸となって支配者ローマに反抗したかのように思われており、それに対して疑問をいだく人からして少ない。しかし、このような、人間社会の一面しか見ない、カエサル流に言えば「見たいと思う現実しか見ない」傾向は、ユダヤ人自身にとっても良い結果をもたらさないと思う。異なる宗教、異なる生活様式、異なる人種であっても、ともに生きていかねばならないのが人間社会の現実である。

 詭弁の一手法「一部を持って全部とする」が効果的に使われている。「見たいものしか見ない」のはオマエじゃぁぁぁ、と咆える前に自省してみる。ひょっとして、わたしだけちゃんと読んでいないのかな、ってね。うんそうだ、きっとそうだ(棒読み)。

ポイント4 : 一貫性を追いかけると、楽しいゾ

 ここに至るまで、ローマ人は非常に現実的・合理的な考え方を持っていると紹介されてきた。本当にそうなのかはともかく、少なくとも塩野氏はあちこちでそう言ってきた。それがこうだ、文庫本22巻p.60より。

ローマ人は、共和政・帝政を問わず、自分たちの喫した敗北や自分たちの犯した失敗から目をそらさない民族であった。記憶の抹殺とは、思うだに忌まわしい皇帝とその治世であったからそれに関するすべては忘れ去りたい、という意思の表示である。そう定めておきながら、現実的に不可能という理由で、忘れ去りたい皇帝の横顔や業績が彫られている通貨は使い続ける。ローマ人らしくないやり方だと、私には思える。

 「失敗から目をそらさない民族」… つい前巻「ローマ人の物語22」でガリア帝国の反乱を「なかったことにする」と幾度も書いていたのをフと思い出す。真逆なんだけど、弁解の言もないし、主張を変える裏づけもない。おそらく、時間をおいているため忘れてしまったんだろうかと。

 「現実的に不可能だから──ローマ人らしくない」… ローマ人は現実的な民族だと繰り返し主張しているので、この一文がことさら目に付く。これも論拠レス。あるいは、わたしの記憶違い?うん、きっとわたしの読み違いだ(棒読み)。

ポイント5 : 迷推理につきあう

 読んでてスリリングだったのが、文庫本23巻の「ローマ官僚組織不要論」。入口は非常に面白かった。なんせ、古代ローマを空から眺めて、無い建物を探し始めているのだから。真偽はともかく、官公庁街が無かったそうだ。文庫本23巻p.102より。

つまり、官庁街がなかったということは、独立した官僚組織が存在しなかったということであり、それを追及していけば、なぜ独立した官僚組織をもたないでいて大帝国の運営が可能であったのか、に行きつかざるをえない。これへの答えならば、学者たちの研究、それもとくに考古学上の研究の成果が、答えに迫るのを助けてくれる。

 めずらしく殊勝な塩野氏。考古学者を立てるなんて、非常に珍しい。以降、中央と地方の機能分散が徹底していたとか、地方自治の気概が横溢していたとかあるが、以下は本当かどうか、別の研究文献で深掘りしたい(真偽も含め)、と思う一文(文庫本23巻p.104)。

簡単にまとめてしまえば、「中央」の仕事は安全保障と税制とインフラストラクチャーの充実であり、「地方」は、これら以外の「地方」でやれる仕事はすべてまかされていた、ということになる。(中略)しかし、帝政に移行した後は本国のイタリアだけでなく属州にも数多く存在した「地方自治体(ムニチピアMunicipia)」だったが、自治は認められても財源を伴わないのでは、自治の権利とて行使しようがない。地方分権が効力を発揮するには、財源の確保が不可欠である。地方税なるものは、存在しなかった時代でもあった。

 何の根拠もないが、非常に胡散臭く見える。というのも、官僚組織は不要だった理由として、上記の論拠を挙げているから。もちろん、地方自治体は確かに存在していただろうが、それは中央の官僚組織が不要だった理由にならないのだ(わたしの読みが間違っているかもしれないが、な)。塩野氏の展開する「証拠」だけでも臭うのだから、プロフェッショナルが突いたらさぞかし溢れるだろうなぁ…

 さらにスゴいのが、地方自治体の財源について。塩野氏はこう断ずる(文庫本23巻p.106)。

現代ならば地方自治体の仕事と考えられていることの多くが、個人の寄付ないし自発的提供に依存していたという事実を忘れるわけにいかない。自らの属す共同体のために私財を投ずるのは、恵まれた境遇にある者の責務であるとともに、名誉とも考えられていたのである。

 これ自体は史料があるのだろう、あるいは、史料を基にした論文から抜いているのだろう──んが、だからといって、地方自治体の財源が完全に確保された理由にもならないし、さらに、官僚組織が不要だった理由に遡及させることもできない。彼女のリクツが正しいならば、こう展開できるはずだ。
  1. 地方自治体のために私財を投ずるのは、名誉だとされていた
  2. そのため、地方自治体は、税金などなくても運営できていた
  3. その結果、中央の仕事以外は全て、地方自治体に任されていた
  4. それにより、中央には官僚組織が不要だった
 ぶっちゃけ、彼女の主張(の一部)は事実だろうが、その一事でもって万事そのとおりかというと、論理的におかしい。いくつも「?」をアタマに浮かべながら読み進む。ああ、ひょっとするとこんなにマジメに読むのは間違っていて、「物語」なんだから、ツッコミを入れずに流すのがお作法なのかもしれない。

ポイント6 : 弁解につきあう

 自分の筆致に恐れをなしたのか、「弁解」しはじめる塩野氏… くそ、カワイイぞ。文庫本23巻p.142より。

哲学は学んだが歴史を専門に学んだことのない私は、書く対象がルネサンス時代のイタリアであろうと古代のローマであろうとアマチュアにすぎない。ゆえに私の書くローマ史は、学者の書くローマ史ではなくて作家の書くローマ史である。とはいえ、ブレヒトやユルスナルの作品でもわかるように、作家だからと言って勝手気ままに書くわけではなく、対象に選んだからにはそれについての調査と研究が必要になる。

 いつになく殊勝な塩婆… 心境の変化なのか、誰かエライ人にキッツいこと言われたのか(書かれたのか)── ところが、この先ガラリと変わる。

ゆえに、調査研究の必要度ならば学者も作家も差はないのだが、それに取り組む姿勢となると、学者と作家とではちがうように思う。その違いを一言で片付ければ、学者には史料を信ずる傾向が強いが、作家は、史料があってもそれらを頭からは信じない、としてよいかと思う。

 ちょwwwwおまっwwwwww

 以降、歴史的史料として残っていることの二義性や恣意性をあげつらい、結局信じるのはわたしの判断よ、という彼女には、彼女が大好きなカエサルの「人は見たいものしか見ない」という言葉がピッタリなんじゃぁないかと

ローマ人の物語21ローマ人の物語22ローマ人の物語23

――――――――――――――――――――――――――――――――――
「ローマ人の物語」の読みどころ【まとめ】に戻る

| | コメント (3) | トラックバック (0)

未来形の読書術

未来形の読書術 「読むとは何か」、少なくとも「小説を読むとは何か」について、スッキリとした解答が得られた。小説を読む悦びについて、言葉にできずもどかしい思いをしてきたが、本書のおかげで胸はってコレだよ!と言える。

 例えば、物語性にばかり目を向けている人なら小説の「面白さ」ばかり強調するかもしれない(わたしもその一人だ)。ところが、そんな人に限って「面白い映画」や「面白い舞台」と同じような楽しみ方しか見出すことができない――小説には、もっとスゴい愉しみかたがあるのに。

 それは、「読む」ことそのものだという。メディアの性質上、小説は読むことを通じてしか受け取ることができない。そして、いったん読者の解釈にさらされることがポイント。起きたことが100%の言葉になっているはずもないから、読み手は文中の言葉と言葉の隙間を自分の解釈で埋めていく。「書かれなかったこと」の理由を推理することが小説を読む醍醐味なんだ。

 だから、同じひとつのテクストから、いかに面白い「読み」ができるか、どれだけ個性的に「読め」ているかは、他人の読みと比べる必要がある。優れた書き手は、「ほんとうに書きたいこと」を上手に隠すことで読者から小説を守ろうとするという。

読者の解釈によって言葉の隙間が埋め尽くされ、誰が読んでも同じ読み方しかできないことになる。それは、小説にとって死を意味する。そこで、小説の言葉が断片的で隙間だらけだであることを知り尽くした作者なら、言葉の断片性を上手に利用して読者を欺くことで、自分の書いた小説を時間による風化から守ろうとするだろう。

素人の小説家はそのあたりのことを間違えて、一番いいたいことを書いてしまうものだが、プロの小説家はそんなヘマはしない。なぜなら、一番いいたいことを書いてしまったら、一遍しか小説が書けないからだ。

つまり、小説を面白く読んだかどうかは、自己満足を除けば、実は自分で決められる問題ではないということだ。誰かに自分の読みを聞いてもらって、はじめてそれが面白いか面白くないかということが評価されるのである。自分の読みが個性的かどうかは、他人の読みと比べてみなければわからないものだろう。

 この良例として、著者は漱石「こころ」の新しい読み方を示している→「こころ」大人になれなかった先生

 この一冊で「こころ」がまるで違う小説になってしまった!恐ろしいミステリのようにしか見えなくなってしまった。経緯は[ここ]に書いた(ネタバレ少々あり)。この一冊を書くのに、石原氏は「こころ」を50回以上読み直したのだという。まさに執念の賜物。おかげで、漱石をまったく新しく、ドラスティックに読むことができる。

 最初は、飛び石を一歩一歩伝うように解釈を続け、気づいたら思いもよらないような場所で考えている。ハッと気づくと元の所にいる自分に気づく。読書と、そのときの自分の意識についてちょっとした冒険が味わえる。

 あたりまえのことなんだけど、そのあたりまえ具合に気づかせてくれる一冊。

第1章 本を読む前にわかること
  本は自分を映す鏡だ
  未来形の自分を求めて
  過去形の読書もある
  すべてのゴミはなくせる!
  言葉の外に世界はあるのだろうか
  自分はどこにいるのか

第2章 小説とはどういうものか
  『電車男』は文学か
  物語の四つの型
  何を期待して読むのか
  小説の言葉はどのように働くのか
  小説の読者の特別な位置
  なぜ、小説は人を癒すのか

第3章 読者はどういう仕事をするのか
  小説は穴ぼこだらけ
  作家は隠すことで読者から小説を守る
  文学テクストの内部にいる読者
  「内包された読者」の仕事
  自由に読めるのだろうか
  読者が自分を否定すること
  あなたのカードは何点か

第4章 「正しさ」は変わることがある
  評論を面白く読むコツ
  論理は一つではない
  いつから「地球にやさしく」なったのか
  一つから複数へ

「読者の仕事」を深めるための読書案内


| | コメント (2) | トラックバック (1)

劇薬度No.1の写真集「死体のある光景」

死体のある風景 「死体のある光景」、死体の写真集、無修正。よいこはゼッタイ見ちゃダメ。このエントリもグロいので注意。

 ときおり、自分を確かめるためにrottenなどを巡るんだけど、インパク度が減っているような…。相当エグいのもOKなんだが、この写真集にはまいった。カリフォルニアの殺人捜査刑事が個人観賞用に収集した膨大な「死体のある風景」のスクラップ。趣味とはいえ、モロ出し死体画像の鑑賞は、ずいぶん変わっておりますな。

 ページを繰る。

 こちら(カメラ)を向いてはいるものの、もう命がない顔を、まじまじと見る。

 見られることを意識しなくなった体と、そこに刻まれた痕を見る。メッタ刺しにされた挙句、深深と抉られた売春婦の腹部と、剥き出しにされた陰部を見る。若く美しい女の裸が、森の中で宙吊りになっているのを見る。爆発した上半身と、意外にちゃんと付いている足を見る。はみ出した大腸を見る。はみ出た脳を見る。首吊り自殺現場を見る。ショットガンで文字通り蜂の巣となった痕を見る。

 カラーじゃなくて、よかった。

 これだけ大量の異常死体を執拗に見つづけると、いつしか慣れてくるものだ―― というのは激しく間違っており、絶対に慣れることはないし、吐き気もおさまらない。ただ、実にさまざまな死に方で人は命を奪われるのだなーと感慨深い。まだ経験が無いので、わたしは死を象徴的に語りたがるが、ここの死体はとても具体的。

圧死、焼死、爆死、轢死、縊死、壊死、煙死、横死、怪死、餓死、狂死、刑死、惨死、自死、焼死、情死、水死、衰死、即死、致死、墜死、溺死、凍死、毒死、爆死、斃死、変死、悶死、夭死、轢死、老死、転落死、激突死、ショック死、窒息死、失血死、安楽死、中毒死、傷害致死

 まさに死のオンパレード、無いのは「過労死」ぐらいやね。被写体として、「本」というオブジェクトに納められた死体を、生者という絶対的に優位な立場から見る。ちょっと吃驚したような顔を見る。本来隠されている(べき)ものが白々と暴かれている。腐った体は、腐った肉でしかない。

 優越感?いや、いずれわたしも死ぬ。こう撮られるようになるかは分からないけどな。それでも、選べるものなら、もっと穏やかな死にしたいものやね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

プロジェクトは冒険だ!「仕事を100倍楽しくするプロジェクト攻略本」

仕事を100倍楽しくするプロジェクト攻略本 薄くて濃い一冊。

 プロジェクトを「まわす」にあたり、本当に必要な内容だけを吟味してまとめてある。ある意味、いさぎよい。頁数を水増し→煽り文を追加→ハードカバーにして、2倍の値段で売っているそこらのビジネス本と180度違う。テクニックよりも心得を重視しており、トム・ピーターズのように読んだ側からソノ気にさせる。

 プロジェクトは冒険だ、そして、キミは勇者だ。王さまの話を聞き、仲間を集めてパーティーを編成し、レベルアップに勤しみ、最高のクリアを目指す――なんのことはない、昔っからゲーム相手にしてきたことと一緒。

 あのときの「ワクワク感覚」そのままに、プロジェクトの現場を捉えなおしてくれる。この視点はありそでなかった。いちいち激しく頷きながら読む。

 本書のエッセンスは、デマルコの「マネジメントの4つの本質」に尽きる。「デットライン」に、こうある。

  1. 適切な人材を雇用する
  2. その人材を適所にあてはめる
  3. 人びとの士気を保つ
  4. チームの結束を強め、維持する
 「それ以外のことは全部管理ごっこ」という。これは、どんなマネジメントにもあてはまる。書店に並ぶ厚いだけのマネジメント本に詰め込まれている、WBSだのガントチャートはその後の道具に過ぎない。本質を見ないまま道具だけを弄っていると何が起きるかは、わたしが説明するまでもなく皆さんご覧になっていることだろう。

 このマネジメントのキモを、ロールプレイングゲームになぞらえて説明してくれる。チームビルディングや企画・要件定義フェーズで使えるネタが盛りだくさん。

  • セールスポイント「話題キー」は盛り上げのパラメータとして有効
  • アイディアを「出す&&回す」ための正のフィードバックループ
  • 出たい人だけミーティング!(アイディア出しの場と意思疎通の場を厳密に分ける。わかっちゃいるけど破壊屋は締め出せない)
  • 求心力を増す「ホットミーティング」(わたしもやってきたが、確かに効能ある)
  • 人を使うのではなく、キャラを出す→「メンバーマトリクス+キャラクターシート」
  • インタビューをしよう!(←これはイイ!もの凄く感謝
  • 自分が「イエスアンド」する技術 ――提案を意識した返答
  • 相手に「イエスアンド」させる技術 ――相談を持ちかける
  • 「生きている問題」に取り組み、「死んでいる問題」は捨てる(今やっているのは、勉強か、勉強の準備なのか見極める)
  • プロジェクトを右往左往させないための合言葉「コンセプトフレーズ」
 一回読みで終わったらもったいない。プロジェクトが壁に向かうとき、「そういやアレがあったな」と必ず思い出す筈だ。ポイントを絞り、余計文を削ぎ落として「薄い本」に仕上げたのは、何度も読み返されることを想定しているんだろう。あるいは気軽に誰かにオススメするためとか。

 実際のところ、本文よりも脚注の方がネタ満載で面白かった。どちらかというと、本文はスタンダードな物言い、脚注でゲーム色が濃いネタを広げている。

 例えば、ゲームのアイディア出しの脚注で、「動詞」から発想する例が挙げられている。パックマンは「食べかけのピザ」→「食べる」だし、リブルラブルの「バシシ!」は大混みのディスコで邪魔なお客を「囲んで」追い出すという発想というわけ。このやり方、自分でもやってみたくなる。

 さらに、ハラ抱えて笑ったのが「進捗率90%の謎」。ファミ通や電撃で「期待の大型RPG」として紹介されたものの、ある時期より進捗率が90%から動かなくなることを指している。「グ○ンデ○アII」とか「シ○ンムー」を思い出して腹筋が痛い痛い …いや、笑っちゃダメなんだけどね。

 最後に、米光さまへ。献本ありがとうございます。わたくし、本は持たない主義ですが、本書は繰り返し使わせていただきます ―― というか、若手のために買いました。リーダーではない時代に読んでおいて、いざその立場になったら思い出すようにさせたいですな。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

文章読本・虎の巻

文章読本 世に「文章読本」はたくさんある。全部読んだら文章の達人になるのだろうか?あるいは、優れた小説や評論を書けるようになるのだろうか?斎藤美奈子のメッタ斬りを見てると期待できそうにないので、吉行淳之介の編んだ「文章読本」を読む。

 本書には、文章読本のエッセンスがギュッと濃縮されている。ずばり「文章とは何か」「文体とは」「優れた文章を書くコツは」との問いにそのまま答えているものばかり。文筆を生業とする書き手たちの「姿勢」がよく見える。このラインナップはスゴい。

  1. 文章の上達法(谷崎潤一郎)
  2. 谷崎潤一郎の文章(伊藤整)
  3. 僕の文章道(萩原朔太郎)
  4. 「が」「そして」「しかし」(井伏鱒二)
  5. 文章を書くコツ(宇野千代)
  6. 自分の文章(中野重治)
  7. わたしの文章作法(佐多稲子)
  8. センテンスの長短(川端康成)
  9. 質疑応答(三島由紀夫)
  10. 口語文の改革(中村真一郎)
  11. 文章を書くこと(野間宏)
  12. 削ることが文章をつくる(島尾敏雄)
  13. わが精神の姿勢(小島信夫)
  14. 感じたままに書く(安岡章太郎)
  15. 「文章」と「文体」(吉行淳之介)
  16. 小説家と日本語(丸谷才一)
  17. なじかは知らねど長々し(野坂昭如)
  18. 緊密で清潔な表現に(古井由吉)
  19. 詩を殺すということ(澁澤龍彦)
  20. 言葉と「文体」(金井美恵子)
 しかし、それだけではない。本書には、とてもユニークな「仕掛け」が施されている。

 つまりこうだ、誰かの「文章読本」を紹介した後、その人の作品をタネにした「文章読本」が出てくるのだ。ひとり目が「文章読本」を書く←ひとり目が書いた小説を、二人目が「文章読本」に引用←二人目が書いた小説を、三人目が引用… と、埋め込まれたリンク形式とでもいうべきか。文筆家たちがウロボロスみたいで面白い。

 例えば、谷崎潤一郎「文章読本」を大本として、そいつを誉めちぎる伊藤整とけちょんけちょんに貶す丸谷才一のコントラストが絶妙だ。各々の立ち位置もよく見える。

 まだある。主だった作家たちの「文章道」や「文章読本」を延々と紹介した後、後半で「なぜ、こんなにたくさんの文章読本があるのか?」について真っ向から明かされている。作家の自己満足だの編集者が強要したからといったミもフタもない答えではなく、もっと恐ろしい秘密が、丸谷才一の手により暴かれている。半分は激しく同意する。残り半分は同意「したくない」ね。

 以下、「文章読本」のエッセンスを集めた「文章読本」から、さらにわたしのココロに引っかかった部分を引用する。あたりまえなんだけど、なかなかできないこと、なかなか気づかないところ。

 冒頭は谷崎潤一郎から。王道ともいう。

谷崎潤一郎「文章の上達法」:要するに、文章の味というものは、芸の味、食物の味などと同じでありまして、それを鑑賞するのには、学問や理論はあまり助けになりません。たとえば舞台における俳優の演技を見て、巧いか拙いか分かる人は、学者と限ったことはありません。それにやはり演芸に対する感覚の鋭いことが必要で、百の美学や演劇術を研究するよりも、カンが第一であります。またもし、鯛のうまみを味わうのには、鯛という魚を科学的に分析しなければならないと申しましたら、きっと皆さんはお笑いになるでありましょう。事実、味覚のようなものになると、賢愚、老幼、学者、無学者に拘らないのでありますが、文章とても、それを味わうには感覚に依るところが多大であります。然るに、感覚というものは、生まれつき鋭い人と鈍い人とがある

 その直後に、伊藤整が「谷崎潤一郎の文章」という御題で切り込んでくる。互いの作品を喰いあっているんやね。

伊藤整「谷崎潤一郎の文章」:谷崎は「文章読本」において、日本の古典の小説類にある切れ目の分からない、地の文と会話の区別の不明瞭な文体は、それ自体の美しさを持っているので、いちいち細かく区別して描き、論理的に説明することが必ずしも真の文章の美しさをなすものではないことを、多少曖昧な不分明な所があっても、調子をたどり、一種のリズムをもって読み通される所に、日本文の本当の力があることを説明している。谷崎が「横着な、やさしい方法」といっている言葉の背後には、日本文で人を本当に感銘させるには、その古い文体の力を生かすことが必要だ、というこのような積極的な考え方が横たわっている。

 わたしにしっくりクるのは萩原朔太郎。これが正解じゃぁないかな、と油断していると、後に出てくる安岡章太郎にひっくり返される。面白いねぇ。

萩原朔太郎「僕の文章道」:僕の文章道は、何よりも「解り易く」書くということを主眼にしている。但し解り易くということは、くどくど説明するということではない。反対に僕は、できるだけ説明を省略することに苦心して居る。もし意味が通ずるならば、十行の所を五行、五行の所を一行にさえもしたいのである。(中略)もしそれが可能だったら、ただ一綴りの言葉の中に、一切の表現をし尽くしてしまいたいのである。

 井伏鱒二が涙ぐましい…が、いい文を書く人は、相応の気遣いがあるのですな。

井伏鱒二「が」「そして」「しかし」:二、三年前のこと、私は自分の参考にするために、手づるを求めて尊敬する某作家の組版ずみの原稿を雑誌社から貰って来た。十枚あまりの随筆である。消したり書きなおしてある箇所を見ると、その原稿は一たん清書して三べんか四へんぐらい読みなおしてあると推定できた。その加筆訂正でいじくってある箇所は「…何々何々であるが」というようなところの「が」の字と、語尾と、語尾の次に来る「しかし」または「そして」という接続詞とに殆ど限られていた。訂正して再び訂正してある箇所もあった。その作家の得心の行くまで厳しく削ってあるものと思われた。あれほどの作家の作品にして「が」の字や「そして」「しかし」に対し、実に初々しく気をつかってある点に感無量であった。

 宇野千代「文章を書くコツ」は、主に小説を書くことを目的としたコツなんだが、blogに置き換えても同じ事が言える。要するに、素振り大切、デッサン重要、毎日欠かさず、やね。

宇野千代「文章を書くコツ」:出来ることなら、他人の言葉の暗示よりも何よりも、自分自身が自分に与える暗示によって、芽を伸ばして行きたいものである。自分は書ける。そう思い込む、その思い込みの強さは、そのまま、端的に、自分の芽を伸ばすからである。言いかえるとそれは、自信がある、と言う状態のことだからである。私は書ける。そう信じ込んでいる状態のことだからである。何が強いと言って、書ける、と思い込むより強いことはないからである。
ただ、いつでも机の前に支度がしてあって、一日の中に、朝でも昼でも夜更けにでも、たった十分間でも机の前に坐るのである。昨日は坐った、今日は気が向かないから坐らない、と言うのではなく、毎日、ちょっとの間でも坐るのである。坐るのが習慣になっているから、坐ったら、忽ち書くのである。坐るのが習慣になって、坐ったら書くというのが習慣になるようにすることである。

 三島由紀夫「質疑応答」は簡潔にして正確。正しい解が欲しいならば、正しい質問をすることの実際例やね。以下、質問のお題だけ引用する。

  一、人を陶酔させる文章とはどんなものか
  二、エロティシズムの描写はどこまで許されるのか
  三、文は人なりということは?
  四、文章は生活環境に左右されるかどうか
  五、動物を表現した良い文章
  六、最も美しい紀行文とはどんなものか
  七、子どもの文章について
  八、小説第一の美人は誰ですか
  九、小説の主人公の征服する女の数について
  十、文章を書くときのインスピレーションとはどんなものでしょうか
  十一、ユーモアと諷刺はどういうふうに違うのでしょうか
  十二、性格描写について
  十三、方言の文章について
  十四、いい比喩とはどういうものでしょうか
  十五、造語とは?

 「一、人を陶酔させる文章とはどんなものか」分かりやすい。酔える文章は、呑む人によって異なるという主張は、激しく同意。また、「八、小説第一の美人は誰ですか」はナルホドと膝を打った。コロンブスの卵的な発見なんだけどね。ちなみに三島が読んだ中で神に近い美女はリラダンの「ヴェラ」だそうな。

 野間宏「文章を書くこと」は王道なんだけど、どこかで全く同じ主張を聞いた気がする…

野間宏「文章を書くこと」:そこにある事物の一つ一つの特徴をとらえて、そのものが他のものとはちがうことを明らかにしながらこれを書いていくのである。この事物の特徴というものは、その事物の細部にもまた全体にあらわれるが、その特徴をとらえて、これを言語でもって言い表し、その事物の存在性をそこに与えるわけである。

 これも、おおいに通ずるところがある。コピーライターにも似ているが、インスピレーションは「やってくる」のではなく、「つかみだす」ものであるところが違うね。

島尾敏雄「削ることが文章をつくる」:で私は、文章は削ることと見つけたり、などと考えたのだった。それはいかにもぐあいよく私の口をついて出る状態になれた。最初の筆先の文章でどうにか原稿紙を埋め得たものを、読みかえすときに削って行く作業は、爽快ななにかが伴なった。もともと素材のことばは空間に所在にちらばっているのだから、それをつかみどりして原稿紙に字としてならべ、さて、そのなかから文章を削りさがしあてるわけだ。実際は文章は空間のなかにかたちをこしらえてできあがっているが、それはわれわれには見えないだけのことゆえ、余分のごみをこそぎおとし、追い払い流し去って、それをあらわそうとする仕事を担当するのが小説書きというものだ、などと考えはじめだした。

安岡章太郎「自分の文章を語るのは自分の顔について語るようなものだ」
「文ハ人ナリ」というのも、たぶんそんなところから出ていると思われる。どんなポーズをとるにしろ、それが意識された部分にかぎっては、一個の思想とみなすべきだろうが、ポーズの中にある無意識の部分に人の気質のムキダシなものを感じさせるように、文章(あるいは言葉)という物質がもっている、人間がどうにも制御しかねる部分に、あるアカラサマな体質みたいなものが感じられるのである。

 丸谷才一のこの一文は、誉めつつけなすという高等技術を見ることができる。「まさかあの○○に限ってそんな愚劣なことはしないに違いない」「これはなにかの間違いであると思いたい」言い回しは、使いたくないねぇ。冒頭で、谷崎「文章読本」をベタ誉めする中にも匕首を忍ばせており、読んでる途中で乱切りする。以下はそのターニングポイント。読んでてハラハラしてくる。

丸谷才一「小説家と日本語」:が、それにもかかはらず谷崎の「文章読本」は依然として偉大である。あるいは、この薄い本の威容は区々たる意見の当否によるのではない。さうではなくて、むしろ、彼ほどの大才、彼ほどの教養と思考力の持ち主が初学案内の書にときとして浅見と謬想とを書きつけざるを得ないくらゐ切迫した状況で現代日本語という課題に全面的に立ち向つたこと、その壮大な悲劇性こそ「文章読本」の威厳と魅惑の最大の理由であった。このとき彼は安全な入門書をあらわしたのではなく、危険な宣言を発表したのである。

 「文は人なり」を今風にいうなら、「文はキャラだ」といえよう。ネットで、リアルでやりとりする会話、メール、エントリ、コメントのうち、作ったものであれ地のものであれ、キャラクターが文体を決める。多種多様の文体があるのは、アタリマエのことで、キャラ同士が反発しあったり惹かれあったりするように、文章も似たり違ったりする。

 自分のキャラに近い人が、必ず見つかる。著名な作家も同じ悩みにハマっていることに気づかされておかしい。書きあぐねている人には勇気をもたらす一冊。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

「ローマ人の物語」を歴史の専門家はどう評価しているのか?

 「ローマ人の物語」を10倍楽しく読む方法シリーズっ(実は続いている)。

 「ローマ人」ツッコミどころ多すぎー、塩野節がイイ感じを醸しだしているんだけど、調子っぱずれなトコは耳に障る。「面白ければ、それでいい」というスタンスでヘンなところは嘲笑(わら)って読み流してる。

 しかし、物語のくせに「これこそ事実だ」的な断言口調や、根拠レスで歴史家をけちょんけちょんに貶すのはいかがなものかと―― 心配するのは余計なお世話?

【問】 歴史の専門家は、「ローマ人の物語」をどのように評価しているのか? あるいは黙殺しているのか? それとも目の敵にしているのかね?

 ここでいう専門家とは、学術的な権威の裏付けを持つ人で、一般に教授とか呼ばれている人々。図書館のレファレンスサービスで調べてもらったのだが、クリティカルな回答を得られたので紹介する。カンタンに言うと、

【答】 黙って言わせときゃいい気になって!「聞き捨てならない」というのがホンネらしい

 日本の歴史系雑誌のうち、最高の権威を持つといわれているのが「史学雑誌」。東大の史学会が出しているそうな。その第115編第5号(2006年5月号)のp.318にこうある(太字はわたし)。

最後に、昨年第十四巻「キリストの勝利」が出て完結に近づいた塩野七生「ローマ人の物語」(新潮社)について一言しておきたい。多くの研究者のこの本に対する態度は、「あれは小説だからエンターテインメントとして読まれるぶんには結構」というものだろうが、書店や図書館ではこの本は歴史の棚に並べられ、学生や市民講座の受講者から聞いたところでも、歴史書として読まれているようである。評者は既刊の全巻を通読してみたが、誤りや根拠のない断定が目に付き、ときには「聞き捨てならない」発言もある。この本のもつ影響力の大きさを考えれば、「あれは小説だから」で済ませてしまうのではなく、一度きちんと検証し批判すべきは批判する必要があるのではないだろうか。それと同時に私たちも、日ごろの研究活動に基づいたローマ史像を、積極的に社会に発信していくべきであろう。

 スマンが、笑った、すげぇ笑わせてもらった。「聞き捨てならない」ですって!偉いセンセも同じ事いってるモンだねぇ。ナマ暖かく見逃してやろうとしてたら、ベスト・ロングセラーに祭り上げられちゃって悔しい。さらに、嘘まじりの過激な筆致が気に入らない。歴史書でもないくせにー、オレが専門家なのにー、といった歯軋りが聞こえてくるねッ

 わたしが読むとき、あたかも小説や物語を読むように読んでる。事実関係なんてどうでもいい(塩野氏の「…と思う」が全てを物語っている)。史書と首っ引きで間違い探しするのが本意じゃないからね。それにもかかわらず、論旨が跳んでたり、裏付けのない「である」口調に辟易してたぐらいだから、プロフェッショナルから見ると「聞き捨てならない」のは当然かと。

 バトルを、激しく、希望。それこそ「上野千鶴子vs石原慎太郎」やコブラ対マングース的なモノになるかと。

 ちなみにこの専門家、日本大学文理学部史学科の坂口明教授だそうな。ローマ帝国の社会経済史に造詣が深いそうな。この記事では2005年の史学会を振り返る形で、ローマ史の論文のオーバービューをしている。これっぽっちもドラマティックに紹介していないにもかかわらず、面白そうな論文がいくつか。これ↓

ローマ期イタリアにおけるワイン産地ブランドの誕生(鷲田睦朗):カエサルがワインを競争に活用したことが、ワインを「ブランド化」するきっかけとなったと指摘している。さらに、ブランドワインと現地消費型のワインとの並存から、イタリアの消費構造をあぶりだしている。

 このお題だけでワクワクしてくる。ブランディングの根っこにワイン産地の差異化があり、さらにその種はカエサルが蒔いたとなれば、面白くないはずがない。もちろん「論文」なので味もそっけもないだろうが、この旨味を上手くすくい取れば、新書一冊ぐらいになりそう。

――――――――――――――――――――――――――――――――――
「ローマ人の物語」の読みどころ【まとめ】に戻る


| | コメント (12) | トラックバック (4)

全上司必読「もし部下がうつになったら」

もし部下がうつになったら 全上司必読の一冊。そう「なる」前に読んでおくのと読んでいないのとでは、えらく違ってくる。予防の1オンスは治療の1ポンドに勝る。

 7人に1人は「うつ」になるという時代だそうな。うん、プロジェクトの火消しに没頭するあまり、自分に燃え移っていることに気付かず、火だるまになったことがある。罵倒と怒号が飛び交う火事場で残業100超を3ヶ月続けると、確かにおかしくなったよ。

 うつになる人が増えているということは、うつになる同僚が増えているともいえる。さらに、うつになる部下が増えていることでもある

 しかし、うつになった社員にどう対応するべきかは、企業レベルでは浸透しておらず、部下から診断書を見せられて困惑する「上司」が大多数だろう。しかも、そうした「上司」は、出世競争のいわばサバイバーなので、うつになった部下の気持ちが理解しにくい。

 本書はそうした「上司」たちに向けて書かれている。業務量は変わらないまま、ギリギリの人数で仕事をしている現状で、おいそれと人は増やせない、仕事も減らせない。しかも部下が「うつ」になった。どうする? の具体的な対処がこれ。

 例えば「うつ」になった部下との接し方について。どこかで聞いたことがあるかもしれないが、本書では具体的にどう応えればいいか説明してくれている。

  • 「がんばれ」は禁句なのは知った上で応対する具体例
  • 受容→傾聴→共感の3ステップで聞き役に徹する
  • 「さっきから相槌ばっかり打っているだけじゃありませんか? 私は辞めたほうがいいのでしょうか?」とYES/NOで迫られた場合→受容+オウム返し
  • PMや代替の利かないメンバーがうつになった場合→到達点の明確化+医師を含むサポート体制の構築
 本書は、たったいま、部下が「うつ」と診断された瞬間から使える

 上司が前半を読むと、職場の人にはどう伝えればよいか、休職させるか、させないか、その判断はどうすればよいかが分かる。さらに、休職させた部下をスムーズに復帰させるために、上司(と人事担当)はどのようにすればよいかが豊富な事例で紹介されている。もちろん、「失敗」した例もあるぞ。

 後半は、そうなる前に上司としてしておくべきことがある。いわば、予防やね。[部下を殺すような欠陥上司]の轍を踏まないために、読んでおきたい。

 「不適応」のサインを知る方法、職場のストレスを探知し緩和するためには、部下をつぶす上司の例、仕事は減らさずにストレスを減らす解決策(!)がある。最期の奴は、要するに「仕事の負荷は変えずに、裁量権と達成感を持たせよ」という方策なんだけど、直属の上司ではかなり難しい、人事担当の仕事だろうね。

 わたしは、いわゆる「管理職」ではないけれど、プレイングマネジャーとしてメンバーを任されるのが常だ。次のチームビルディングの際は、ストレスマネジメントも組み込むべ。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

残酷な因果のテーゼ「真景累ヶ淵」

真景累ヶ淵 冬はホラーと決めてるが、夏はやっぱり怪談でしょ。それも「ジャパニーズ・ホラー」として映画になる「真景累ヶ淵」を読む。手軽に涼を得られると期待したが、涼どころか、弱冷房車でもゾクゾクしたぜ。

■「真景累ヶ淵」(三遊亭円朝)

 で、結論―― こ、怖ぇ、に、人間がッ―― 死んでも死にきれない怨念が化けて出る話なんだけど、怨霊そのものよりも、そいつに祟られる人間の方が怖い。とり憑かれ、取殺される人は、そうされても文句言えないような悪行を積んでいる。とても分かりやすい因果応報。

 ぶっちゃけ、因業は、

血    色    銭

の三原色で塗りつぶされている。「あいつを殺して金をいただこう」「あいつの女房が欲しい」「あの娘が妬ましい」きっかけで、簡単に両手を血に染める。その良心のカケラも無さ、あさましさ、畜生っぷりにおののく。

 もちろん殊勝なキャラもいる。貞節を守ろうとして体をザク切りされる生娘とか、亭主の仇討ちのため、全てを犠牲にする妻の話といった泣けるネタもある。過去の罪滅ぼしのため死に物狂いで善行をなす母の話なんて、ジンとくるかも(そして彼女の最期に仰天するかも)。

 しかし、読みどころは人間性のえげつなさ、猥雑の生臭さ、そして、因果の救いのなさだろう。じゃじゃーんと化けてでる幽霊は、そうした人間性を剥き出し、増幅するためのアンプのように見える。

 いや、「出てくる幽霊は怖くないよ」と言いたいわけじゃない。怖いデ、登場シーンは。実際、「豊志賀の死」なんて強烈だし。ただ、生霊だったり怨念だったり化身だったりする幽霊を怖いと思うココロが恐ろしいのよ。この怖さは、

    「私、きれい?」

    『×××××』

    「これでも、きれい?」

と同類だ。『×××××』で何と答えても心にも無いことで、それを彼女が知っている!というところがミソ。ちなみに、追いかけられたら何て言えばいいかというと、「ポマード!ポマード!ポマード!」(古っ)

 全ての因業の糸が一点に収束するラストは凄まじい。全部の伏線が回収されるとき、その業の深さに人が死ぬ。それこそスプラッタ顔負けの血みどろパーティーとなる。一振りの鎌が次々と喉笛を掻き切るシーンは圧巻なり。げに恐ろしきは人なり、とくとご覧あれ

 本書は落語の口述筆記なので、息継ぎが随所に生きている。しゃべるときのリズムというか、はずみが上手に書かれており、噺を聴くように読める。こんなカンジ…

このお久は愛嬌のある娘で、年は十八でございますが、ちょっと笑うと口の脇へえくぼといって穴があきます。何もずぬけて美女(いいおんな)ではないが、ちょっと男惚れのする愛らしい娘。新吉の顔を見てはにこにこ笑うから、新吉も嬉しいからニヤリと笑う。その互いに笑うのを師匠が見ると外面(うわべ)では顕わさないが、何か訳があると思って心では妬きます。この心で妬くのは一番毒で、むやむや修羅を燃やして胸に焚火の絶える間がございませんから、逆上(のぼ)せて頭痛がするとか、血の道が起こるとかいう事のみでございます。

 いわば読む落語。だからもちろん、落語ならではの諧謔もある。死体が入ったつづらを、そうとは知らず盗み出し、金目のものを手探りで探す掛け合いなんて、とっても落語的。

 げに恐ろしきは、血なり。

累■「累」(田邉剛)

 で、よしゃぁいいのに、マンガに手を出す。前出の「真景累ヶ淵」で一番怖いといわれている「豊志賀の死」を物語っている。これも怖い、というか、これこそ怖い。

 イヤ~なのは、途中からお話が始まっているところ。ある屋敷に夜な夜な「出る」のだが、どうして「出る」のか一切説明されてない。原作を知った後から読むと「それはオマエの○○だろ!相手してやれよ!」とツッコミたくなる。知るとさらに怖くなる仕掛けがニクい。

 さらに、黒使いが鮮やかで、「闇」の描き方が上手い。暗がりにぼんやり見える顔だとか、行灯に眩しく照らされた女体と闇のコントラストが良い。みずもしたゝるいいオンナ、豊志賀は、素晴らしく美しく描かれている(彼女の運命を知っているわたしにとって、第二巻は怖すぎる)。

 げに恐ろしきは、女の嫉妬なり。

■「NAKED 変體累ヶ淵 ネイキッド」(米餅昭彦)

 さらに、大昔、週刊モーニングで読んだマンガを思い出す。なめぞう氏を覚えてる方はいらっしゃるだろうか? エロエロで、ドロドロ、「変態」ではなく「変體(変体)」であるところがポイント、読んだ当初はえらく衝撃を受けたことを覚えている。

 上の二作とは打って変わって現代、5000万円の借金の肩代わりをするバイク乗りが主人公なんだけど、原作の香りがするのは、「主人公がやたらモテること」「年上の女と深い仲になる→彼女が死ぬ→取り憑かれる」ところかね。救いが一切ない暗~~~いマンガなので、読む方は注意して。ブックオフめぐりでお探しあれ。全3巻(のはず)。

 げに恐ろしきは、借金かも。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

プロフェッショナルの書評「読書の階段」

読書の階段 blogやるようになって、本の選び方が変わってきた。

 以前は興味の赴くまま荒食いしてたのが、プロのオススメに目を凝らすようになった。つまり、出会い系である本屋でとっかえひっかえするのを止めて、書評欄のやり手婆の口上に耳をかたむけるようになったのだ。

 もちろん、やり手婆はしっかり選ぶが、シュミは任せる。自分のシュミだけを読みつづけると、打率は上がるが、どんどん先鋭化していき、最後には視野狭窄に陥る。小さい自分の世界で偉そうにする愚が、分かった。

 やり方を変えた結果、打率は下がったが、あたれば強打になった。さらに、真芯が太くなった(食わず嫌いが減ったともいう)。面白いといえる本が金脈ごと見つかって、嬉しい。

 そういう、わたしとシュミが異なる人に、荒川洋治さんがいる。

 言葉の達人である詩人の書評なので、読んでて心地よい。

 しかも、いちばんの読みどころの「良さ」だけ伝えて、中身はわざと書いていない。快い憎さ。本の紹介ではなく、その本と読み手との交歓をストーリーに仕立てている。例えば、お尻の博物誌である「アナル・バロック」(秋田昌美)を、こんな風に紹介している。

お尻は性と排泄、快楽と羞恥の中間に位置するもの。「この曖昧でどっちつかずの淡色のゆらぎのなかに」エロスがあるのでは、と著者はいう。(中略)そういえば、どんな人にも、その人というものと、その人のお尻というものが、あるように思う。ふたつはときにはなればなれのこともあり、その落差が面白い、はずかしい、愛らしい

 恥ずかしいことをキッパリと「愛らしい」と言い切る。こっちが赤らんでくる。書評読んで、昔見たいろいろなお尻を思い出すことなんて、そうない経験だね。これは、レビューされている本を読んでても味わえないだろうなぁ。

 同じ本を読んでも、わたしには書けない。いわば、プロフェッショナルの書評。

 書評の「妙」というのをハッキリと感じ取れる一冊。

 オススメだけど、先にも述べたように、「わたしのシュミ」とはかなり違う選書なのでご注意。違うのがイイ、という方はぜひ玩味くださいませ。ちなみに、同著者のエロさ満点の書評は、こっち→[ラブシーンの言葉]

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年7月 | トップページ | 2007年9月 »