人間を人間の格好にさせておくものとは?「ミノタウロス」
この小説は、読み手に感情移入をさせないことに、成功している。全編モノローグで、カッコ 「 」 で括られた会話が出てこないのが異質だ。読み手を含む他人を寄せ付けない淡々とした語り口が恐ろしい。こいつに感情とやらがあるのか? アゴタ・クリストフ「悪童日記」を思い出す。
「ミノタウロス」(佐藤亜紀著)―― 舞台は二十世紀初頭のウクライナ。ロシア革命による内戦が続く激動の時代。裕福な家庭に育ち、高い教育を受けた主人公が、家族と全財産を失う。以後、殺戮、略奪、強姦と人獣の日々が描かれる。もちろん、泣いたり怒ったりすることもあるが、それらは獣じみた情動に見える。
戦争により表現される人間のおぞましさや、生々しいドンパチ場面も見どころだが、主人公が次に何を言い出すか気になって仕方がないうちにページをどんどんめくらされる。歴史モノというよりも、ノワールものとして評価したい。
人間を人間の格好にさせておくものが何か、ぼくは時々考えることがあった。それがなくなれば定かな形もなくなり、器に流し込まれるままに流し込まれた形になり、更にそこから流れ出して別の形になるのを──ごろつきどもからさえ唾を吐き掛けられ、最低の奴だと罵られてもへらへら笑って後を付いて行き、殺せと言われれば老人でも子供でも殺し、やれと言われれば衆人環視の前でも平気でやり、重宝がられせせら笑われ忌み嫌われる存在になるのを辛うじて食い止めているのは何か。
延々と「主人公の目と耳」で語られてきたものが、最後の最後に引き剥がされる。ラスト数行を読むとき、ベリベリという音がぴったりだ。夢から引きずり出されるような心持ちで読了。このとき、主人公ヴァシリの皮をかぶって時代を見ていたのは、わたし自身であったことに気づく。最期はこうなることが分かってはいたものの、唐突に現実に引き戻される感覚がフラッシュバックのようだ。
ともあれ、良い(酔い?)読書体験でしたな。ごちそうさまでした。
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コメント
まともに評価されていて、デビュー作から読んでいる大蟻食ファンとしては嬉しい限りです。全部お勧めです。
投稿: 金さん | 2007.08.01 07:13
この本は、マリ・クレール8月号の特集でも上半期ベスト20に入ってました。「言葉の配置を考え抜いた神業のような小説」だと絶賛されていましたよ。
ワタシは、最近、「悪童日記」を読んだところなので、ちょっと毒抜きしてからにしたいな。
投稿: まめっち | 2007.08.01 15:49
>> 金さん さん
えぇと、大蟻食さんについては、例の盗作話から気にしておりました── が、ナナメ読みで比べてみたところ、どこがソレなのか見当がつかなかったので自重してました
今回、おおいばりで「こいつは面白いぞ」とオススメできて嬉しいです
>> まめっち さん
「神業」は言いすぎかもしれませんが、精密に計算しつくされた言葉が折り重なっています。どの一頁を抜いても、しっかりと書いてあります。言葉に妥協していない気迫が見えます
投稿: Dain | 2007.08.01 22:11
言い遅れましたが、私のトラックバックはDainさんが確認されたら削除していただいて結構です。「ミノタウロス」の内容には触れていないので、、。
投稿: まめっち | 2007.08.02 12:01
>> まめっち さん
わたしは全く気になりません。むしろ「いま最高におもしろい20冊」として本書が挙げられているほうが嬉しいので、トラックバックはこのままにしておきたいです
投稿: Dain | 2007.08.02 23:01