猫好きの心をワシづかみ「作家の猫」
表紙は中島らもの「とらちゃん」。作家に愛された猫たちのアルバム。「あの」コワモテの文豪が、猫の前ではぐにゃぐにゃになってて、面白い。夏目漱石の「吾輩」からアーネスト・ヘミングウェイの「ボイシー」まで、猫という視点でとらえなおすと意外な発見がある。
実は漱石は猫嫌い。「吾輩」のモデルとなった名無し猫は実在したようだが、出世作に貢献したからもっと大事にしてしかるべきなのにもかかわらず、「胡堂百話」(野村胡堂)ではこんなことを言っている。
さらに、漱石の次男、夏目伸六の「猫の墓」には夫婦そろって猫好きでなかったと書かれている。「吾輩」に名前が無いのには、ちゃんと理由があったのね。「吾輩」の三代目が死んだ後、書斎を訪ねた野村胡堂が次の猫を飼うのか質問すると、「それなのです。私は、実は、好きじゃあないのです。世間では、よっぽど猫好きのように思っているが、犬のほうが、ずっと、好きです」
南方熊楠の「チョボ六」の話は、(笑ってはいけないのだが)ハラ抱えてのたうった。熊楠と猫とのつきあいは欧米遊学時代からあったそうな。ロンドン時代の熊楠は、かなり生活に困窮していたらしい。着物を売って本代や酒代に換えてしまうため、いつも裸で暮らしていた。しかし、なぜか猫だけは飼っている。餌代が捻出できるわけもないのに…その理由は、平野威馬雄「くまぐす外伝」に書いてある。
この話は水木しげる「猫楠」でも描かれているが、熊楠が知人に語った次の一文は外せない→「ネコは実にまずい。ネズミのほうがましだ」猫に食べ物をやるのに、牛肉でもパンでもまず自分の口に入れて、充分に咀しゃくし、栄養の含まれている汁は自分が飲み下して、残りのかすだけを猫にやるという方法で、一人前の食物で、自分と猫と二人分を間に合わせるという新工夫のものであった。冬になると、この猫を抱いて寝るのだが、これさえあれば夜具はいらぬというわけで、センベイ布団一枚のほかは、ことごとく酒代にしてしまった。これでは猫をかわいがるのか利用するのかわからない。
梅崎春生の「カロ」は興味深い。ネコを虐待し死に至らしめる小説「カロ三代」は、愛猫家からガンガン叩かれたそうな。「おまえの小説は二度と読まない」といった非難がチリ紙に書かれた手紙もあった。便箋に書くのももったいないという意らしい。もちろん実際の梅崎は愛猫家で、夫人にこう漏らしていたそうだ──
猫を殺すどころか、リアルな解剖シーンが強烈な「午後の曳航」を書いた三島由紀夫は、実は無類の猫好きであったそうな。猫を抱っこする三島由紀夫の顔は必見。「小説の中で人を殺しても何もないのに、猫を殺すとこれだけの反響があるというのはおかしな話だね」
作家で猫派なら、やはり猫を描こうとする。「猫とはなにか」について、谷崎潤一郎と開高健が、それぞれこう定義している。まず谷崎潤一郎の場合。
それはどこの女ですか? と問いたくなるような書き口。猫の形容として女(逆も然り)が取沙汰されるが、ここまで断じられると妙にエロくて良い。いっぽう、開高健の場合。猫は頗る技巧的で表情に複雑味があり、甘えかかるにも舐めたり、頬ずりしたり、時にツンとすねてもみたりして、緩急自在に頗る魅力的です。しかも誰かそばに一人でもいると、素知らぬ顔をしてすましかえっている。そして愛してくれる対手と二人きりになった時、はじめて一切を忘れて媚びてくる──媚態の限りを尽くして甘えかかってくる、と云った風でなかなか面白い。
上記はどこかで読んだことがある。至言。猫は家畜の生活をする野獣である
じゃぁこの「ぜったいの妥協していない」猫ってナンだというと、本書によると「キン」だそうな。その面構えを見るとさもありなんというところ。今は剥製にされて開高健記念館にいる。猫は精緻をきわめたエゴイストで、人の生活と感情の核心へしのびこんでのうのうと昼寝するが、ときたまうっすらとあける眼はぜったいに妥協していないことを語っている。
こんなカンジで、猫と作家のツーショットが延々と紹介されている。よく読んだ作家が猫の前で相好を崩しているのを見ると、ちょっとフクザツな気分になる。要チェックなのは巻末の「猫の名作文学館」。古今東西の猫が登場する物語を渉猟する面白い試みで、佐野洋子の「100万回生きたねこ」やハインライン「夏への扉」は基本として、猫小説の傑作「ジェニィ」(ポール・ギャリコ)や猫漫画の傑作「綿の国星」(大島弓子)もきっちり紹介されている。ウィリアム・バロウズの猫日記「内なるネコ」なんて知らなかった!
猫好きな方も、本好きな方も満足できる一冊。
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