« 2007年4月 | トップページ | 2007年6月 »

書評の探し方

 もっとも手軽なやり方は、皆さんもご存知のとおり、google先生に訊いたり、amazonレビューから探す。それこそ真砂の数ほどの「ブックレビュー」があるが、この方法には欠点がある。それは、

 あらかじめ本の名前が分かっていなければならない

 なにをアタリマエなという莫れ、google先生最大の弱点がコレだ。キーワードがないと手も足も出ない。例えば、昨年一年間でどんな書評が書かれたか? とか、現在ブックレビューを載せている雑誌名は何か? といった、

 書評そのものや、書評者を探したい

どうすればよいか? もちろん「ブックレビュー」や「書評」をキーワードにして人力クロールもできるが、ここではもっとスマートに網羅的に探す方法をご紹介。それは、

国会図書館のOPACシステムを使う

  1. 国会図書館の蔵書検索システムへ[ここ]
  2. 「雑誌記事索引の検索/申込み」をクリックして、「雑誌記事索引検索」へ
  3. 「雑誌記事索引検索」画面の「各種コード」のプルダウンメニューより、「記事種別」を選択する
  4. 「記事種別」の右にある「リストから選択」ボタンを押す
  5. 「記事種別」画面の「7 書評」をクリック
  6. 「検索」ボタンを押す

 すると「書評が載った雑誌」一覧が得られる(2005年~このエントリを書いている時点で8988件)。莫大なので、元の画面に戻って刊行月で絞込みをすると扱いやすい。

 雑誌の「書評」に限定されるが、このやり方が有効なのは、誰が書評を書いているか?が分かること。以前のエントリ[本を探すのではなく、人を探す]と同じことを言うが、「わたしが知らないスゴ本」は、わたしはその書名を知らない。けれども、誰かが読んで評価しているから、その人を探す。

メディアの書評で大切なのは、「本ではなく人を選ぶ」こと。本を探す前に人を探す。自分のストライクゾーンに投げこんでくるレビューアーを見つける。いったん鵜呑みにして目ぇつぶって手にしてみるしかないが、うんこ書評家はちゃんと覚えておくこと。そしてその人が勧める本は蛇のように避ける。

 たとえば先の方法で見つけた「書評」を挙げてみよう。このblogの読者の方なら、かなりソソられるかも…
  • 笑わずにはおれない浅知恵 「不都合な真実」(評者:井尻千男、Voice 353号)
    45人が勧める今年読んだ「最高の一冊」(本が好き!7号)
  • 脳科学者は小林秀雄を超えられなかった――「脳と仮想」茂木健一郎(ベルダ12号)
  • 「わたしを離さないで」カズオ・イシグロ――人間という「種」のアイデンティティの揺らぎ(評者:小野正嗣、文學界60号)
  • 「働く過剰」――大人のための若者読本(評者:皆川裕作、みずほ年金レポート67号)

 表題を見ただけでソソられる。「不都合な真実」はメッタ斬りにされてそうだし、「わたしを離さないで」のレビューは、なんだか哲学的だ。いまをトキメク茂木健一郎さんは、この書評でこき下ろされている予感… 「みずほ年金レポート」なんて雑誌知らなかったよ、でもこのレビューは読みたいぞ。

 検索画面に戻って、「著者」を入れると、書評を何本書いたかたちどころに分かる。自分向けの本を紹介している「わたしが知らない」雑誌を探す。既読の本から好みの近い書評者を探す… やり方いろいろ。

 名前も知らない本から、その評者を探すこのテクニック、ぜひお試しあれ。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

「暗闇の『スキャナー」・ダークリー』

スキャナー・ダークリー 「ジャンキーたちは、望んで麻薬漬けになったのか?」に対するP.K.ディックの回答。最初わからなかったわたしに、「著者覚え書き」でリアルに答えている。太字はわたし。

麻薬乱用は病気ではなく、ひとつの決断だ。しかも、走ってくる車の前に飛びだすような決断だ。それは病気ではなく、むしろ判断ミスと呼べるかもしれない。おおぜいの人間がそれをはじめた場合、それはあるひとつの社会的な誤り、あるひとつのライフ・スタイルになる。この特殊なライフ・スタイルのモットーは、「いますぐ幸福をつかめ、明日には死ぬんだから」というものだ。しかし、死の過程はほとんどすぐにはじまり、幸福はただの記憶でしかない。つまり、それはごくふつうの人間の一生をスピードアップさせただけ、強烈にしただけだ。


 はてなのコメント欄で強力なフラグが立ったので[参照]→新訳版を読んで、脳が溶けた(htktyoさんありがとうございます)。「蟲がびっしり」のトコは、さぶいぼ+全身が痒くなって、読んでるこっちまで気分が悪くなってくる。良ぃねぇ。

 コンピュータが外見を変化させ、顔、体はおろか声までも入れ替わる「スクランブル・スーツ」や、おとり捜査で中毒者として潜入していた麻薬捜査官が、自分自身を監視するよう命ぜられる展開など、ユニークな見所がある(映画はココがスゴいらしい。実写キアヌ・リーブスにペンキを塗ったようなアニメ処理がされているそうな、観てぇッ)。

 しかし、わたしはむしろ、ジャンキーたちのぐだぐだな日常だとか、さり気ない会話の端々にハマった。「プラスチックの犬のクソ」だの「夜泣きを止めるため赤ん坊にヘロイン注射」なんて、ステキすぎる。「最後の審判の日、神が罪を指摘する方法は、年代順なのか重さ順なのか、ABC順なのか?」について延々と談義する様が実にくだらなくてイイ。

 主人公フレッド(潜入時の名前はボブ)の揺れ方がスゴい。

 「ボブとゆかいなヤク中たち」の日常
      ↑
 そいつを監視する捜査官フレッド(中の人はボブ自身)
      ↑
 捜査官のときの情報からジャンキー仲間を疑い始めるボブ(中の人はフレッド)
      ↑
 ボブの疑心暗鬼が捜査官としての思考を逸脱しはじめる(中の人はボブ)

 「おとり捜査」なんだから、自分の身分は明かしてはいけない。そして、ヤクの売人として名をあげるほど、捜査当局に目をつけられ、「あいつをマークせよ」と指示される。「あいつ」とは「おれ」なのに。

 おれはあいつであいつはおれで、おれの目で見るあいつの情報がおれの判断を狂わせ、おれをあいつの目で見るようになる。待てよ、今見ている画像はおれか? いやおれの画像を見ているのか? といいたいのではなく、見ているのはおれか? ということなんだが―― このときわたしは、合わせ鏡の向こう側からこっちを覗き込んだような感覚に襲われる、合わせ鏡の"こっち側"ではない。鏡が靴下のように裏返しにできたなら、向こう側はきっと朧に(Darkly)見えるだろう。

 後半の展開もスゴい。このテのカタルシスは○○○だろうという予想を、最悪の形で裏切る。そうするかーッ とびっくりするうちに静かな幕。そこで彼女の重要度に気づく。キャラ立ってなかったから読み過ごしてたよ(※)。

暗闇のスキャナー この時点で旧訳は山形浩生氏であることに気づく。うおぉっと勢いで「暗闇のスキャナー」に手を出す。会話くだけすぎ+ときおり硬い語がピリっと入ってくる。こっちの方が好きだな、彼女エロカワイイし。山形氏のオフィシャルサイトで勝利宣言している通り[山形の著書訳書など]、わたしも「暗闇」のほうを推す。

 「ボブ」という入れ子でフレッドという人格が語られているのか、「フレッド」の思考でボブとして振舞っているのか、わけ分からなくなる。売人と捜査官が合わせ鏡のような構造となっており、さらに旧訳と新訳を同時に読んだことで、合わせ鏡に映った世界をさらに合わせ鏡で映したかのような気分にさせられる、妙な読書体験。

(※)ネタバレ考察(読了した方のみ、反転表示)

 黒い髪黒い瞳の美女、ドナ。彼女はどうしてサブキャラの一員に埋もれ、見過ごされてしまったのか? 彼女自身が「ドナというスクランブル・スーツ」を着ていたからではないか? 彼女の存在感は、彼女の本当の立場が明かされるとき、『読み手にとって』ぐっと大きくなる。気のせい? 気のせい? 山形訳で、ボブ=アークターの一人称がドナの一人称になり代わるとき、強く感じた。これは、ボブ=アークターの物語じゃないんだって…深読みしすぎ?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

読書は人間がベッドの上でおこなう二つの快楽のうちの一つ

思考のレッスン タイトルは丸谷才一「思考のレッスン」より。読書について、書くことについて、沢山のヒントをもらった。「読書のコツ」、今風に言うなら「読書Hack」。ただし、効率ばかりの安手なものと違って、ひとつひとつ自分で読みといてはヤクロウに入れる手間はある。

■本の読み方の最大のコツ

 最も激しくうなづいたのは、本の読み方の最大のコツ→「その本を面白がって読め」。その本を面白がって、その快楽をエネルギーにして進め、という。言い換えると、「面白くない本は読むな」となる。面白く思えない本をガマンして読んで分からないなんて、つまらない。その時間、別の本を面白がって読んで得られる効用の方が大なり。

 読書は快楽なんだ、ベッドの上でする二つの快楽のうちの一つなんだ。もう一つの快楽が何かは言うまでもないけれど、それぐらい愉しいことなんだ。もちろん、もう一つは睡眠だね。読んで寝て暮らす、これぞ究極の快楽

■本を選ぶポイント

 本の選び方のポイントでは、わたしが心がけていることがズバリ書いてあったので、嬉しくなった→「惹かれる書評があったら、それを書いている人の本を読め」、つまりひいき筋の書評家を持て、という。やってるぞ、「書評家」に限らず。お気に入りのblogで、たまに「良いよ、コレ」と紹介されると間違いなく手が伸びる。良い文を書く人がオススメする本を選べ。

 優れたエントリを書く人は、必ずいい本を読んでいる(逆は真とは限らないが)。わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる。

■本は忙しいときに読め

 ガツンとキた一文。

まとまった時間があったら本を読むなということです。本は原則として忙しいときに読むべきものです。まとまった時間があったらものを考えよう

誰かの名文句に「書を捨てて街へ出よう」というのがあったでしょう。これは読書論としてたいへん有益ですね。書を捨てて野に出てもいいし、街に出てもいい。風呂に入ってもいいし、机に向かってもいいけれど、とにかく手ぶらで、ものを考えよう。


 [本ばかり読んでいるとバカになる]のは、本ばかり読んでいると自分のアタマでモノを考えられなくなるから。借り物の思索で事足れりとし、自分は思考停止に陥るから。だから、「今日はヒマだから本を読もう」は間違っていて、「今日はまとまった時間があるから、じっくり考えてみよう」とするべし。

■ホーム・グラウンドを持て

 じゃぁ、自分のアタマで何を考えるのか? 「自分にとっての主題というか、ホーム・グラウンドを持て」という。興味の赴くまま読みかじってきても、そこに一定のジャンルというか、流れのようなものがあるはず。興味の起点のようなもので、たとえば初めて大型書店に行ったとき、最初に赴く場所がそれにあたる。

 すでに材料はある。今まで読んできた本だ。濫読多読を性とする人でも、その人の追いかけているテーマは読んできた本の山にある。だから、未読のリストを血眼になって消化するのではなく、いったん本を手放してふり返る。

 自分が勝てる、というか得意なテーマは必ずある。もちろんそのテーマの専門家はゴマンといる。ただ、そのテーマを腹に抱えて、他の分野に食指を出す人は、アナタしかいない。テーマの組み合わせの妙を楽しむ。一つのテーマだけでしか世界が見えない人は学者書士に任せておけばいい。手を出したテーマが手におえなかったとき、壁にあたったとき、ホーム・グラウンドへ戻ってきて、そこのフレームで考えなおす。そういう「自分の場所」を意識すべし。

■本はバラバラに破って読め

 型破りなHackもある。本をフェティシズムの対象にしない。大切なのは、本という物体なのではなく、テクストそれ自体だという。本なんて読まないで大事にとっておいたところで、まったく意味をなさない―― こう言い切って、実行している。

 このやり方は、聞いたことがある。「ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法」(福田和也)によると、小松左京氏は百科事典の必要なところを切り抜いていたという。そうした切り抜きを持ち歩いて、空いた時間に吸収していたそうな。今ならPCその他のガジェットで実現できるやり方だけど、当時としてはモノ凄いHackなり。

■インデックス・リーディング 1

 スゴいやり方その1。本を読み始めるとき、索引から読み始める。索引に目を通すと、著者は何の関心があってこの本を書いたのかというのが分かる。さらに、主題との関係で、当然あるはずの項目が索引にないことがある。

 わたしは「目次」を真っ先に読む。これは「作者が言いたいこと」の優先順位と比重を見るため。受身となって吸収するための「予習」といえる。ひょっとすると、著者よりも幅広い知見を必要とするかもしれないが、「索引」を読む対象とすることで、その本全体のテーマを視野に入れることができる。

 では、「索引」がない本の場合、どうするのか? 丸谷氏は、読み手が索引を作れという。大事だと自分が思ったところは線を引いたり書き込みをしたりして、さらに見返しのところに何ページにこんなことがあったとメモをしておくだけでいいという(←このHack! を裏返すと、「索引を作りたくなるような本を読め」になる、心に刻んでおく)。

■インデックス・リーディング 2

 スゴいやり方その2。前出は、索引を使って本(というより、そのテーマに関する著者自身)を投網のようにつかまえる方法。ここは、キーワードを使って複数の書籍を串刺しにするやり方。つまり、直接的な関連があろうと無かろうと、索引にそのキーワードが出ていたら、しらみ潰しに全部あたる。

 これが最も効果的なのは、図書館。似た本が近い書架に並ぶように構成されているため、一つのキーワードから書籍にたどり着いたら、あとは片っ端から索引をひきまくる。索引がないような本はハナから相手にしないとしても、相当な仕事量になるはず。だいたい一架分をこなすと、主な本どうしのネットワーク関係が見えてくる。意外なところからポインタが張られてたりしてて、思いがけず刺激を受けることを請け合う。

 「脳死」のキーワードで医学から法律、哲学、宗教、歴史と深入りしたことがある(一架読んだ)。次から次へと出てくる本を「処理」するために、このやり方はかなり有効だった。

■「文章読本」に書けなかったこと

 書くほうのHackといえば、「文章読本」になるが、本書では「文章読本」に入らなかったコツが紹介されている。後々のわたしに有用なのは、以下の2つだろう。


  • ものを書くときには、頭の中でセンテンスの最初から最後のマルのところまでつくれ。つくり終わってから、それを一気に書け。それから次のセンテンスにかかれ
  • 頭の中で考えても、どうしても行き詰まるときがある。一番手っ取り早くて役に立つのは、今まで書いた部分を初めから読み返すといい。急がば回れ。そこまで書いてきたエネルギーをもう一ぺん吸収し、それを受け継ぐようにして先へ進む

■文章で一番大事なことは、「最後まで読ませる」こと

 憤慨させても感心させても、文章は最後まで読ませたものが勝ち。書き出しに気を配れ、水増しをするな、スッキリと終われ…と細細と注文が付く。対話なり鼎談のように書け(しかもバレないように)、というのは参考になったなり。

 さて、この長文エントリ、ここまで読まれただろうか…

| | コメント (5) | トラックバック (4)

子どもに絵本以外を与えてみる:「ナショナル ジオグラフィック ベスト100」

ナショナルジオグラフィックベスト100 毎週図書館ハシゴしているので、つきあわされる子どもも大量に本(というか絵本)を読んでいる。「大量に借りて一度は読む→気に入ったのを何度も借りなおす」のループで、最近じゃ、たどたどしくも自分で読めるようになったのが嬉しい。

 しかし、親のほうが飽きてきた。いつも「こどものほん」コーナーで物色するだけで変わりばえしない。めぼしいものはあらかた読みきっており、「リサとガスパール」の新刊が出ると奪い合いになる(わたしも楽しみだから、ね)。

 おそらく放っておくと、児童書→物語系→小説… と手が出るのは目に見えている(なんたって、わたしが歩んだ途だ)。物語のチカラは偉大だ。死やセックス、差別や戦争を絶望させることなく伝えるすぐれた方法だと思う。

 しかし、物語に淫してばかりいると、わたしになる。ここはひとつ、写真のチカラを援用してみよう。いつまでもわたしのインスタンスじゃぁつまらないからね。いままでの反応は、こんなカンジ…

  [JAPAN UNDERGROUND を絵本がわりにする]
  [子どもに死を教える4冊目]
  [子どもに絵本以外を与えてみる:「地球家族」]

 なかなか好評(?)だったので、今回は「ナショナル ジオグラフィック」を与えてみる。とはいっても、いつもの月刊ではなく、そのベスト版である「ナショナルジオグラフィック傑作写真ベスト100」を親子で見る。

 テレビや、子ども向けの本ではぜったいに目にすることのない被写体に、親子で声をあげる(ホントに「うわぁ」とか「すげぇ」とか親子でハモる)。少女のミイラ、跳ぶ蛇、鯨の血で真っ赤の入り江、飢えてガリガリのソマリアの女性、ホオジロザメの顎、ページをめくる度に、「これ何?」「なにやってるの?」「なんでこんなことするの?」と質問の嵐。

 とうちゃんは驚嘆したり打ちのめされたりでいっぱいいっぱなので、なかなか上手に物語れない。貧しい国と豊かな国があることを、鮮明に切り取った写真がある。バカンスに来たフランスの太ったオバサンと、彼女を抱えるタヒチの痩せた若者の写真、どちらも笑顔なんだけど ―― ええい、言葉を使うと褪せてしまう。単にわたしの物語力が足りないだけなんだが、子どもは一枚の写真のチカラに魅入っている。何であれ、撮った人のメッセージは、わたしが翻訳しなくとも伝わっているようだ。

 貧困や差別といったコトバは抽象化しすぎで、伝えるのが難しい。このコトバを使うとき、ふるい落とされる属性や特徴があまりにも多い。むしろ、抽象化の過程で落とされたイメージこそ「貧困」「差別」の本質だったり原因だったりしている。わたしは、このコトバを使うことで、無意識のうちに思考ルートを「考えなくてもいい方向」(=ステレオタイプ)に持ちこもうとしている。

 「差別はいけません」とか「貧困はなくすべきです」なんて模範解答を丸暗記しないように、さまざまな具象にあたってほしい。写真は一つの物語であり、小説だっておんなじだ。子どもを育てるようになって、ようやく気がついたよ、本を読むということは現実のシミュレートであり、世界を具体化する作業なんだな。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

悪用厳禁「洗脳力」は自己限定で

洗脳力 あらゆる成功本にトドメを刺すスゴ本。3章まで読めば、ほとんどの自己啓発本は無用。さらに4章では、より高次の「夢」を実現する方法まで紹介されている。6章は悪用厳禁、他者を支配下におくやり方がある。要するに、自分(や他人)を洗脳する方法が書いてある。

  自分を洗脳 → (自分の)成功に向かって自分を注ぎ込み、実現させる
  他人を洗脳 → (高次の)夢に向かって他人を巻き込み、思い通りにする

 だから、自分だけの成功の実現のために、他人を利用することができてしまうため、前者は詳しく、後者はぼかして書いている。

 amazon評に「ノウハウが分かりにくい」とあるが、6章のことだろう。むべなるかな、「わざと」そうしていることに気づけよと。手取り足取り説明すると、誰でも悪用できる強力な催眠術のようなものだから。コトの重大性を理解できないような輩には、最初からお断り、というやつ。著者のblog[ドクター苫米地ブログ]でセミナー参加を募っているが、悪用を回避するため、応募者を選考している。

 わたしが実行できるのは3章までなので、このエントリでもそのレベルにとどめる。また、本書のやり方を引用するのではなく、読みながら思い出した「わたしの遊び」を紹介する。本書の紹介はamazonへどうぞ。

 これは自分の頭を使った遊びで、わたしは子どもの頃(10代半ば~)から楽しんでた。一言でいうと、「偽の記憶で脳をオーバーライドして、好きなときに体感する」こと。

■ 遊び1 : 好きな女の子のことを考える

 「妄想力」を鍛える。女の子と二人きりになったとき、「『選択肢』が出ればいいのに」などと不埒なこと考えている奴にオススメ。

 脳内彼女と会話したりセックスしたり、といった生半可なレベルではない。全精力をもって、脳内で彼女を「再現」する。ありありと、リアルな「彼女」を頭ン中で作り上げる(彼女は二次元不可)。

 たとえば、彼女の髪の手触りを、一本一本のレベルで触感する。それも、コンディショナーと整髪料とボディソープとデオドラントと体臭(生理中ならその臭いも)を感じ取れ。気合だ!気合だ!気合だ!音、彼女の声の調子、部屋の中で会話しているなら、その響き具合も、衣擦れはもちろん、心音や血管を流れるゴーという音まで創造(想像)する。呼気も体熱も気配もエーテルも全部おれのもの。

 つぎに、脳内彼女を全力でもって愛する。どうやって誘ってどうやってオトすかを完璧にシミュレートする(そこへ至る会話全部を再生する)。時間がかかる場合は早送りする(このとき、決してはしょらないこと)。どうやって触れ、触るのかを徹底的に考える。そのとき自分は何てしゃべるのか(彼女は何と応えるのか)も作り出す。

 ひととおりヤったら、それを「記憶」する。脳内でつくりだしたものでも、いったん「記憶」すれば、いつでも再現可能。そのイメージを呼び出すことで、どうしたらそのイメージに近づけるか、無意識に選択できるようになる。彼女にかかわるイベント時には、そのイメージに近くなるような「選択」を自動的にするようになる

 ヘンタイじみているけれど、これは立派な変態行為。だから全ては脳内に収め、全力で気取られないようにしてた。「それ」に一日中淫することは可能だが、それこそ冒涜になるので、必死になってガマンしてた(脳内なのにw)。慣れてくると、脳内彼女をオカズにして出来る(手も触れることなく)。オナニストの大会があるなら、あのころのわたしは、きっと金オナニストになっていたはず。

 臭う話はおいといて、ここからが重要。脳内イメージを、現実の何かにリンクさせる。例えば、勉強なら問題集○ページの最後に脳内彼女を「貼り付ける」。あるいは一緒に勉強するイメージを想起する。すると、その「問題集」そのものが強力な引力を持つようになる。○ページ目に達すると快感に近い感覚を覚える。おかしなことに、マスターベーションやセックスなら下半身からの快楽であるが、このイメージングによる快感は完全に「頭ん中」で発生している。特に困難なことに対処する「ごほうび」として、脳内イメージはよく使った。

■ 遊び2 : 自分を上から見る

 「妄想力」がある程度鍛えられたら、今度は、自分を上から見る。最初は、斜め後ろから立った位置で、自分の後頭部をありありと見る。このとき、周りの状況(自分がいる部屋、場所、人、物)もしっかりと「見る」。

 つぎに、その「視点」を上に引き上げる。数メートル上から自分を「見下ろす」。後頭部が小さくなったはずだし、周囲もより「見える」ようになっている。このとき見回してはいけない、あくまで自分を中心にする

 さらに視点を上げる。自分が部屋にいるなら、部屋そのもの、建物そのものをありありと想像する(もはや自分は見えない)。「あのへんにいるな」とあたりをつけて「見る」。

 もっと上へ上へ。建物から街路から地区へと引き上げる。「鳥の目」になっているはず。区域から河川、平野部、山脈、そして海…と、集中力を切らさないようにどんどん上げる―― 「自分」に戻ったら、おしまい、という遊び。

 この「遊び」で面白いのは、行ってくるとリアルの自分の悩みが完全にどうでもよくなる。いや、現実逃避そのまんまかもしれないけれど、「戻って」きたときには、ちゃんと解決策を手にしている。メタな視点から自分を見ると、「なーんだ」と気づく(←これが解決策)。

 最近では Google Earth があるので、イメージしやすくなっている。「鳥の目」までがかなり難しく、ヤマはそこだろう。これをやると、意識が広がったような感覚になる。頭が大きくなったというか、知覚が伸びきったような状態になる。遠くにあるモノに「手が届く」ような、「匂いがわかる」ような感覚になる。自分が巨きく重くなったような気がする。あくまで「気のせい」でしかないのに、ふだんと違った視点・視線で遠いところや気づかない点までよく「見える」ようになる。

 ―― こうした「遊び」は、ひとつ間違えるとダメになってしまってたかもしれない(もうダメになっているという説もあり)。それでも道具を使わず数分でできるトリップ(?)は止められなかった。

 本書によると、これはわたしだけの「遊び」ではなく、洗脳テクニックのひとつとして紹介されている。オーバーライドする相手が自分か他人かの違いなだけ。そして、わたしのような卑俗な例ではなく、もっと高次元の「夢」を実現する方法がある。

 正直なところ、4章以降の高次な夢の実現が、わたしにできるかどうか分からない。かなり深いことを易しく書いているため、考えるのを止めてトンデモと断ずることはカンタンだ。だが、少なくとも3章までは実証済みなので、おそらくアタリなんだろう。6章は実地で試してみる。「大周天」、「Rの揺らぎ」、「フレーム中断」による空間コントロールは、わたし自身ヤられたことがあるので有効かと。

 最後に、読み返すわたしのためのメモ。本書の本質を一言で引用すると、「将来幸せになれる人は、現在も幸せである」──この言葉に実感を持てる限り、再読しなくてもいい。

| | コメント (8) | トラックバック (2)

自分の声を最適化する「言葉と声の磨き方」

言葉と声の磨き方 ふだんの自分の声が嫌いだ。録音した自分の声を聞くと、思ってたよりも、か細くて甲高い。興奮すると上ずった話し方になって、弱弱しい語尾になる。けれども、酒が入ってリラックスしているとき、驚くほど「通る声」になる。野太いが、こもっていない低音で会話ができる。しゃべってるうちに自信満々になる。

   なぜだろうか?

   どうすれば、あの「声」でしゃべれるのだろうか?

 景気づけに酒ひっかけて出社すればいいか、なんてアホなこと考えたこともあったが、「言葉と声の磨き方」でその秘密が分かった。アルコールが大切なのではなく、酒飲んだときのわたしの「状態」がキーだったんだ。上半身(特に両腕)をリラックスさせ、顔の前(鼻の頭)を意識して、のどを開けて腹から発声しているのが秘訣なんだって。つまり、飲み屋で話をするとき、期せずして丁度いい「状態」になってたワケ。

 では、その理想的な「声」を、どうしたら(酒なしで)身につけることができるか? 本書では、さまざまなシチュエーションに応じた「理想的な声」の出し方が紹介されている。

【ミドルヴォイス】 いちばん役に立ったのは、自分にとって最適な声のゾーンの出し方。「ミドルヴォイス」と名付けており、「言いたいことをハッキリ伝えたい!」ときに使う。「ンー」とハミングして、鼻の頭がムズムズしてきたらこのゾーン。共鳴する・声が響く位置が、顔の中心(目と目の間)になる。イメージは、混んだ飲み屋でオーダーを通したいときの「スミマセーン!」。

 このとき注意しなければならないのは、喉に力を込めないこと。声を出す瞬間に喉がひっかかり、痛くなるような感覚をおぼえる人がいる。回避するためには、紙飛行機を飛ばすイメージで声を「放り上げるように」出す。「オーイ」なら「ォオーイ」といったカンジ。

【チェストヴォイス】 いっぽう、説得力を増したい場合は、もっと低い「チェストヴォイス」を使えという。声を出すとき、胸のあたりを響かせることを意識する。口が胸にあるつもりで、胸に向かって声を出す(胸に手を当てると実感できる)。その際、少しあごを引くとより深みのある低音が出る。注意点は、腹筋を意識せずに使うと、暗く、モゴモゴとしたこもりがちな声になる。「響く声」と「こもる声」の違いは、腹式呼吸を生かして、「声を前に出す」ことを意識する。

【ヘッドヴォイス】 文字通り、頭のてっぺんから大きな放物線を描いてターゲットとなる相手まで届くようなイメージを持つ。ボールを持って遠投するようなつもりで声を出してみる。子ども番組のお兄さんが「はーい!みんなー!」と呼びかけるときのアレ。顔の筋肉も全て伸ばしきるように、目、鼻、口を大きく広げる。できるだけ大きな声を出そうとするよりも、むしろ狙った音を丁寧に出し続けることが重要

 それぞれの声を出すためのトレーニングが添付CDで紹介されているが、むしろ、CDのほうがメインだな。前出の「紙飛行機を投げるような声」とか「声を前に出す」って、文字で書いてもイメージわかないが、実際の「その声」を聞くと一発で理解できる。実際、練習+意識付けで、わたしの「声」はかなり最適化された。

 しゃべっている内容よりも、声そのものが印象を決めてしまうことがある。身だしなみや礼儀と同様、ヴォイストレーニングは大事。最終章では「女をクドくための魅力的な声の出し方」も紹介されている。自分の声に自信のない独男にオススメ。そういや、嫁さんが「彼女」のころ、クドいたのは常に酒の場だったなぁ(遠い目)。

 「魅力的な声」をマネするのではなく、自分の声を魅力的にする。意識してやれば、わりと簡単に出せる。あとは練習練習。

| | コメント (0) | トラックバック (3)

猫好きの心をワシづかみ「作家の猫」

作家の猫 表紙は中島らもの「とらちゃん」。作家に愛された猫たちのアルバム。「あの」コワモテの文豪が、猫の前ではぐにゃぐにゃになってて、面白い。夏目漱石の「吾輩」からアーネスト・ヘミングウェイの「ボイシー」まで、猫という視点でとらえなおすと意外な発見がある。

 実は漱石は猫嫌い。「吾輩」のモデルとなった名無し猫は実在したようだが、出世作に貢献したからもっと大事にしてしかるべきなのにもかかわらず、「胡堂百話」(野村胡堂)ではこんなことを言っている。

「吾輩」の三代目が死んだ後、書斎を訪ねた野村胡堂が次の猫を飼うのか質問すると、「それなのです。私は、実は、好きじゃあないのです。世間では、よっぽど猫好きのように思っているが、犬のほうが、ずっと、好きです」

 さらに、漱石の次男、夏目伸六の「猫の墓」には夫婦そろって猫好きでなかったと書かれている。「吾輩」に名前が無いのには、ちゃんと理由があったのね。

 南方熊楠の「チョボ六」の話は、(笑ってはいけないのだが)ハラ抱えてのたうった。熊楠と猫とのつきあいは欧米遊学時代からあったそうな。ロンドン時代の熊楠は、かなり生活に困窮していたらしい。着物を売って本代や酒代に換えてしまうため、いつも裸で暮らしていた。しかし、なぜか猫だけは飼っている。餌代が捻出できるわけもないのに…その理由は、平野威馬雄「くまぐす外伝」に書いてある。

猫に食べ物をやるのに、牛肉でもパンでもまず自分の口に入れて、充分に咀しゃくし、栄養の含まれている汁は自分が飲み下して、残りのかすだけを猫にやるという方法で、一人前の食物で、自分と猫と二人分を間に合わせるという新工夫のものであった。冬になると、この猫を抱いて寝るのだが、これさえあれば夜具はいらぬというわけで、センベイ布団一枚のほかは、ことごとく酒代にしてしまった。これでは猫をかわいがるのか利用するのかわからない。

 この話は水木しげる「猫楠」でも描かれているが、熊楠が知人に語った次の一文は外せない→「ネコは実にまずい。ネズミのほうがましだ

 梅崎春生の「カロ」は興味深い。ネコを虐待し死に至らしめる小説「カロ三代」は、愛猫家からガンガン叩かれたそうな。「おまえの小説は二度と読まない」といった非難がチリ紙に書かれた手紙もあった。便箋に書くのももったいないという意らしい。もちろん実際の梅崎は愛猫家で、夫人にこう漏らしていたそうだ──

小説の中で人を殺しても何もないのに、猫を殺すとこれだけの反響があるというのはおかしな話だね

 猫を殺すどころか、リアルな解剖シーンが強烈な「午後の曳航」を書いた三島由紀夫は、実は無類の猫好きであったそうな。猫を抱っこする三島由紀夫の顔は必見。

 作家で猫派なら、やはり猫を描こうとする。「猫とはなにか」について、谷崎潤一郎と開高健が、それぞれこう定義している。まず谷崎潤一郎の場合。

猫は頗る技巧的で表情に複雑味があり、甘えかかるにも舐めたり、頬ずりしたり、時にツンとすねてもみたりして、緩急自在に頗る魅力的です。しかも誰かそばに一人でもいると、素知らぬ顔をしてすましかえっている。そして愛してくれる対手と二人きりになった時、はじめて一切を忘れて媚びてくる──媚態の限りを尽くして甘えかかってくる、と云った風でなかなか面白い。

 それはどこの女ですか? と問いたくなるような書き口。猫の形容として女(逆も然り)が取沙汰されるが、ここまで断じられると妙にエロくて良い。いっぽう、開高健の場合。

猫は家畜の生活をする野獣である

 上記はどこかで読んだことがある。至言。

猫は精緻をきわめたエゴイストで、人の生活と感情の核心へしのびこんでのうのうと昼寝するが、ときたまうっすらとあける眼はぜったいに妥協していないことを語っている。

 じゃぁこの「ぜったいの妥協していない」猫ってナンだというと、本書によると「キン」だそうな。その面構えを見るとさもありなんというところ。今は剥製にされて開高健記念館にいる。

 こんなカンジで、猫と作家のツーショットが延々と紹介されている。よく読んだ作家が猫の前で相好を崩しているのを見ると、ちょっとフクザツな気分になる。要チェックなのは巻末の「猫の名作文学館」。古今東西の猫が登場する物語を渉猟する面白い試みで、佐野洋子の「100万回生きたねこ」やハインライン「夏への扉」は基本として、猫小説の傑作「ジェニィ」(ポール・ギャリコ)や猫漫画の傑作「綿の国星」(大島弓子)もきっちり紹介されている。ウィリアム・バロウズの猫日記「内なるネコ」なんて知らなかった!

 猫好きな方も、本好きな方も満足できる一冊。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

近ごろの若者は当事者意識がなく、意志薄弱で逃げてばかりいて、いつまでも「お客さま」でいる件について

 「最近の若者はダメだ」は昔から言われているが、特に今の若者はひどい。まず、当事者意識が完全に欠如している。さらに、独り立ちをしようとせず、常に何かに依存し、消費し、批判するだけの「お客さま」でいつづけようとしている。これはゆゆしき事態であり、日本社会のありかたにかかわる重大な問題である。

 最近の若者は、定職に就きたがらない。あるいは、会社に入っても一定のポジションで身を立てようとしない。なぜなら、社会的なかかわりを、全て暫定的・一時的なものと見なしているからだ。

 彼らに言わせると、本当の自分は別のところにあり、現実の自分は仮の姿に過ぎないんだそうだ。本当の自分は棚上げしておいて、いつまでも立場を替え、考えを変え、自分自身をも変身させる余地を残しておく。一貫した主義主張をもたないか、もたないふりをする。特定の党派、集団に全てを賭けることを避けようとする。

 その結果、今の若者は、全ての価値観から離れた「自分という価値観」に従って生きようとする。これは、ヒッピー・スタイルに代表されるジーンズや長髪などの外見や、四無主義・「しらけ」といった態度に如実に表れている。若者は、いつまでたっても「まじめ」に取り組むことができず、目前の事象に刹那的で遊び的なかかわり方でしか関与することができない。

 消費文化がそれを後押しする。何も生産していない一方で、受け取り、消費することに専念してよい社会的な猶予そのものが、情報化・消費社会の特性と期せずして一致したわけであるが、まさにこの動向によってモラトリアム心理は大規模に商業化され、若者は社会の大切な「お客さま」となったのである。

 ―――――― という評論を読んだ。「モラトリアム人間の時代」(小此木啓吾)というやつ。途中で気づいた方もいるだろうが、本書は今から30年前、つまり1977年に書かれたものだ。欠けてる言葉は「ひきこもり」と「NEET」ぐらいで、あと「ネット」を足せば今でも立派に通用する。

 もともと、「昔も今と似たようなことを言っているんだろうなー」というつもりで読んだのだが、ここまで同じとは予想していなかった。30年前は「ジーンズ+長髪」で、今なら「だらしな系+茶髪」だろうが、「眉をひそめる」程度は似たようなもの。

 仮に、「ひきこもり」や「NEET」が問題であるとしよう。そして、現代の若者の無気力・無関心が原因なのであれば、それを「是」として実践してきたのは、まさしく若者を叩いているオヤジ連中だ。そんな連中には、いささか使い古されたが次の言葉を贈る。

   ( ´∀`) オマエモナー

 オヤジ向けの雑誌などに「大人の…」という惹句ががある。わざわざ大人だと断っているということは、本当の大人ではないという証左だ。あるいは「大人の…」が魅力的に見えるぐらい成熟していないということ。まさに、「大人になること」を猶予してもらい、結局オトナになることなく年だけ取った人向けの宣伝文句。

モラトリアム人間の時代 これからは、オトナになれなかった年寄がじゃんじゃん出張ってくるだろう。かつて彼らが何と呼ばれていたかを知るために有用な一冊 …ただし論としてはgdgdなので要注意。記述の重複、無根拠の主張、非論理的展開、無意味な提案内容と、およそ論文としては大学入試小論文を下回るが、当時の知的レベルをうかがい知ることができて、二度おいしい。

 おまけ。なかなか面白い一節があったので、引用する。

アイデンティティ拡散症候群とは、青年期に決着をつけ、オトナ社会に自己を位置付け、限定することによって確立されるべきアイデンティティ=自己限定=社会的自己定義が、何らかの理由によりできないために生じる青年期後期に特有な自己拡散情報のことである。

  1. 「自分は…である」という社会的自己(アイデンティティ)の選択を回避・延期する
  2. 過剰な自意識にふけり、全能で完全な無限の自分を夢見る
  3. すべてが一時的・暫定的なものとしてしか体験できない
  4. 生活全体の緩慢化や無気力化をきたす
  5. 人と人との親密なかかわりを避ける
  6. いかなる組織にも帰属することを恐れる
  7. 既存社会に飲み込まれることへの不安が強い

どう見てもニートです。本当にありがとうございました。

| | コメント (18) | トラックバック (6)

ふつうの人にオススメできないジャック・ケッチャム「襲撃者の夜」

襲撃者の夜 ふだんは気づきにくいが、カッターナイフを押し当てて(力を込めて)一気に引けば分かる、鋭い痛みを感じたところからが「自分」だ。あるいは、吐くまで呑んで酸っぱい息をしているのが「自分」、さらに臭いと感じているのが「自分」だ。

 強い刺激を与えることで、無自覚に過ごしている身体感覚を取り戻すことができる。ジャック・ケッチャムの小説を読むことは、これに近い。恐怖であれ嘔吐感であれ、強い思いにココロがゆさぶられることで、そのカタチを自覚することができる。大切に慈しんでいるものが、容赦なくもぎとられるとき、「痛い」と感じたところから、わたしのココロがはじまっている。

 だから、ふつうの人にはオススメできない。「ジャック・ケッチャムが好きだ」なんていうやつは頭がイカれてるを3年前に書いたが、その最新作「襲撃者の夜」を読んでも変わらない。これ愉しむような奴は頭がどうかしているね。

 狙ってやっているのかもしれないが、宣伝文句はものすごく控えめ。「一見さんお断り」のつもりなんだろう。あるいは、知らない人がうっかり読まないための配慮かも。

北米東海岸メイン州、海岸沿いのリゾート地。ある夜、残忍な殺人事件が起こり、女性二人が殺され、赤ん坊が消えた。地元の警察は事件の捜査を始めるが、警察が捜索で出払っている最中にふたたび異常な殺人事件が! そしてその殺人者の正体は想像を絶するものだった。鬼才ケッチャムが放つ戦慄のホラー!


 本書は「オフシーズン」の続編。前作が血みどろ小説の大傑作だったので期待しすぎた感もあった。未読の方は、「オフシーズン」から、どうぞ。

オフシーズン 「オフシーズン」は、残虐描写のオンパレード。グロ極太ストーリーでラストまで一直線。刺す、抉る、裂く、捻る、切る、折る。悲鳴と血潮、肉塊と内臓、あと脳みそ。殺される何の理由もない犠牲者と、その肉体を破壊する人のカタチをした「人じゃない」食人族。意味なんてない。一緒に悲鳴をあげながら、ひたすら読め。一度閉じたら怖くて開けなくなるだろうから、一気に読め。ネットで「襲撃者」の評判は「(オフシーズンと比べて)食い足りなさ」が散見されるが、なに正気ぶってんだよ、「オフシーズン」読んだときのこと忘れたのか? このテのは良心をどけて「中に入って」読むんだよ、とヒトコトいっておく。

 自分が慣れていく(狂っていく)感覚が分かる。ココロのリミッターが解除されるのは、かなりの快感。すげーおもしろいぞ(わらい)。ケッチャムの小説はすばらしいね、ああ。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

見えない仕事がイノベーションを起こす「シャドーワーク」

シャドーワーク 「シャドーワーク」について、豊富な実践例+網羅的な考察をした一冊。ヒット商品やイノベーションの陰には「シャドーワーク」が必ず存在する。ルーティーンワークからの変革なんてありえないし、創造的な価値は管理者の目の届かないところから生まれる。これはわたしのような兵隊ではなく、人事部の将校クラスが肝に命じておくべき。

 「シャドーワーク」とは、通常業務から外れた、個人の自主的な意志と裁量で創造的に編み出した仕事のこと。仕事そのものへ結びつかないまでにしても、その準備活動も含まれる。いわゆる「やってみなはれ」「渦は自分で起こせ」というやつ。

 たとえば、日産の例。新型マーチのコンセプトづくりにあたり、設計開発ラインの「外」で「こっそり」人を集め、意見を出し合う。あるいは、リコーの場合。GR DIGITALの専用Blogを提供するにあたり、「業務外で」「手弁当で」組織横断的に立ち上げる。仕事として「決まっていない」ところがポイント。


  • 「バンダイというステージを利用して、会社を私物化せよ」とするバンダイ流プロフェッショナル人物像と、上司を感動させる論文を募集する取り組み
  • シマノの人材開発プログラムSLD(Shimano Leadership Development)と全米キャラバン
  • 3Mのブートレッギング(bootlegging):密造酒造りのことで、上司に内緒で勝手に社内ボランティアを募ったりして製品開発を行ってもよい
  • Googleの「20%ルール」と3Mの「15%ルール」――両者の違いは数字ではない。3Mは「15%は業務以外のことをしてもよい」だが、Googleは「20%は業務以外のことをする
  • KOSEの新製品「モイスチュアスキンリペア」の社内テストの確執と成功
  • スターバックス(米国)のハッピーホリデープロモーション

 個人レベルで言うならば、新しいLifehackを試して良さげならアナウンスする。こっそりwikiを立ち上げて暗黙知を共有化したり、バーチャルな勉強会を開く。社内決裁プロセスをHackしてショートカットする(←これは冗談)…が挙げられるだろう。

 シャドーワークを行うほうとしては、仕事と好きなことをつなぐ方便ともいえる。フォーマルな業務、予定調和のパラダイムから「外れた」ところに、価値創造の源泉があるという主張は説得力がある。

 もともと「シャドーワーク」はイヴァン・イリイチの造語で、「無報酬とされているが、経済基盤を維持するために不可欠の仕事」として定義されている。主婦の家事・育児などが該当する(シャドウ・ワーク、影法師の仕事)。会社で行うシャドーワークは、「好きだからヤる」「仕事の報酬は仕事」に近いため、意味合いが違うような気がするが、見えない価値創造の仕事に名前がついた意義は大きい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

子どもに戦争を教えるためのファンタジー「弟の戦争」

弟の戦争 世の中のこと、自分のこと、未来のこと… 子どもには、できるだけありのままに教えている。死とセックス、ゲームと勉強については、特に念入りに説明してきている。たいていのことは上手くいったが、見かねた嫁さんがフォローしてくれるときもあった。

 ところが問題がある。「戦争」をどうやって教えるかだ。

 それこそ、『いわゆる』世界史とは欧米の戦史でもあるので、中高で学べばよい、という見方もできる。あるいは、レマルクや大岡昇平でも読めば想像もつくだろう。

 だが、今の戦争の現場はずいぶんと違ってしまっている。その本質は「欲望」から発していることに今も昔も変わりない一方で、戦争を構成する要素―― 戦場、兵士、民間人の定義ががらりと変わってしまっている。「西部戦線異常なし」の「戦線」は、最早意味をなさない。

 さらに、戦争の現場とその原因との間に、あまりにも沢山の要素が複雑に絡み合っているため、想像力が追いつかなくなってしまっている。たとえば、湾岸戦争と石油利権を結びつけることはシタリ顔でできるかもしれない。しかし、テレビゲームのようなロケット砲の軌跡と、パパ・ブッシュのビジネスと、イラクの子ども兵の首を結びつけることは、かなり難しい。

 もっと具合の悪いことに、とーちゃん自身が自分に説明できていない。「美しい国へ」というスローガンのもと、「美国」=アメリカ合衆国の51番目の州の一員として自己洗脳すればどんなに楽なことやら。「価値観の相違」あるいは「相対性」の名のもと、あとはゲームやアニメのように論じることができる。むしろ「第08MS小隊」のほうが戦争らしいと半ば本気で思えてくる。

 じゃぁリアルなやつをズバリ、[DAYS JAPAN]で教えるというテもある。あるいは、googleエロフィルタを外して[その方法]、ナマの被弾・被爆・被災映像を紹介することもできる(空爆はゲーム、空襲は悲劇) …んが、間違いなくトラウマになるだろう。

 かくして、とーちゃんはファンタジーに逃げ込む。アニメやゲームで戦争を語るには、現実に近すぎる(いや、現実のほうがアニメ・ゲームに近づこうとしているというべきか)。それこそ考えずに済んでしまう。とーちゃんが読んできた「戦争文学」は歴史の中で位置付けられるほど現実から遠ざかってしまっている。テレビは大本営だし、ネットや報道誌は生々しすぎる。

 いったん現実から離れよう。ちょうどいいことに、先日、ロバート・ウェストールを知った([なぜ「ブラッカムの爆撃機」は児童書なのか?])。さらにいいことに、このエントリのコメントより、「弟の戦争」を知った(柊ちほさん、ありがとうございます)。本書のストーリーをなぞるだけなら、戦争の悲惨さや無意味さを語るものであり、危機を通じた家族愛を描いたものに過ぎない。

 しかし、本書の「ファンタジー」という仕掛けのおかげで、戦争という「悪」と正面から向き合うことができる。フィクションのチカラがはっきりと感じ取れる。「戦争」を子どもに伝えようとするとき、とーちゃんは必ずここで詰まる。

「どうしたら子どもたちに、希望を裏切ることなく真実を伝えられるだろう? 」

 前出「ブラッカムの爆撃機」のエントリのコメント欄で、power_of_mathさんが完璧な回答を書いている。

ダッハウのガス室に代表される現実を、赤裸々に見せることは倫理にもとるが、解決可能だと安易に教えるのはうそつきだし、だからといって“解決方法がない”という大人の絶望を子どもに押し付けることもまた狂気の沙汰である…という“悪をどう扱うかの問題”に対し、ル=グウィンはファンタジーを回答として挙げています

 善玉悪玉を仕立てて、「ストーリー」に流し込もうとしているのは、むしろマスゴミ。訴求性があり、視聴者も自分で考えずに済むからね。戦争をまともに見据えようとしたら、きっとわたしは発狂する。そう、「弟の戦争」に出てくる彼のように。さもなくば、マスゴミの「ストーリー」をしゃべりだすだろう(まだ舌が残っていれば、ね)。

 ファンタジーとは虚構なのではなく、発狂せずに戦争を語るための舞台装置なんだ。荒唐無稽と笑うのは、狂わずにいられる大人だけでいい。わたしの子どもには、そんな奴らになる前に、これを読んでほしい(まだ漢字読めないけど)。

| | コメント (4) | トラックバック (1)

日本語壊滅

 最近の日本語は乱れている。若い連中だよ、まともな日本語が話せないのは。このままだと日本語が崩壊する―― 美しい国を護るべく憂えるインテリゲンチャは、眺めているだけで愉しい。「日本語の乱れ」にかこつけて若者を叩くのは、今も昔も変わりなく→産経新聞「大丈夫か日本語」[上][下]

 ところで、若者言葉を憂えるのはマスゴミの専売ではなく、大昔から言われていた。その中から「美しい日本語の教科書」に載ってそうなやつをみつくろってみる。

枕草子の第一九五段より。

何事を言ひても、「そのことさせむとす」「言はむとす」「何とせむとす」といふ『と』文字を失ひて、ただ「言はむずる」「里へ出でむずる」など言へば、やがていとわろし

【俺訳】 : 「と」抜き言葉キモい。「それをさせんとする」「言わんとする」「○○をせんとす」ならよさげなのに、「と」を取って「言う」とか「里へ行く」のはカッコワルイ

徒然草の第二十二段より。

文の詞などぞ、昔の反古どもはいみじき。たゞ言ふ言葉も、口をしうこそなりもてゆくなれ。古は、「車もたげよ」、「火かゝげよ」とこそ言ひしを、今様の人は、「もてあげよ」、「かきあげよ」と言ふ。

【俺訳】 : 手紙を見ても、昔の方が良かった。手紙文だけじゃなくって、しゃべり語も最近おかしくなってる。昔は、牛車に牛をつけるのを「車もたげよ」と言い、灯心を掻き立てることを「火をかかげよ」だったのが、今じゃ「もてあげよ」とか「かきあげよ」などと言う

 少なくとも1000年前から日本語が乱れているとするならば、現代は完全に崩壊しているね。50代のオヤヂと20代の若造の世代間なんて、誤差誤差。

 「若者言葉」ってやつは、年代による日本語の多様性の一つにすぎない。にもかかわらず、「携帯依存症」などとレッテルを貼って腐すのは、使い古された方法とはいっても、ひどい話だ。毛筆がペンになるとき、ペンがキーボードになるとき、日本語崩壊が叫ばれていたはずだ。だから、いまさらテンキーになったとしても一驚に値しない。知能低下を嘆く前に、嘆く奴がどんなレッテルを貼られていたか思い出してみるのも一興。

 ちなみに、いま50代のオヤヂが若造だったころは、「モラトリアム人間」というレッテルを貼られてた。自分を見失って大人への成長を先延ばしにする意味だ。「ピーターパン・シンドローム」というレッテルも引き合いに出されてた。こっちは、Di$neyのアレ同様、オトナになることを拒絶した、決して成長しない男のこと。

 うん、決して成長していない。だから、自分に戒めておこう、50超えても「近ごろの若者は…」なんて恥ずかしい枕詞を使わないように

| | コメント (5) | トラックバック (2)

「黒い時計の旅」はスゴ本

黒い時計の旅 2007年のNo.1スゴ本、幻想と現実が絡みつく、悪夢のような小説。

 たいていの小説はdriveするように読んでいる。読むスピードやペース、展開の先読みをどこまで自分に許容するか、といったことを意識してハンドリングしている。ところがこれは、本に飲み込まれる感覚。物語に引きずり込まれ、その世界に放り出され、彷徨い歩く。driveされているのは「わたし」だ。

 物語のイメージは夜、しかも真黒なやつ。読み始めるとすぐに、手で触れられる闇がねっとりと皮膚にからみついてくる。もちろん昼間のシーンもあるが、読み手は夜の中から覗き見ているような気分。重要な出来事は夜に起きる。歴史は夜作られる。

 これは、もうひとつの二十世紀の物語。ヒトラーが死なず、1970年代になってもドイツとアメリカが戦争を続けている二十世紀。わたしたちの知る二十世紀と、もうひとつの二十世紀の間を、物語が振り子のように行き来する。

 ストーリーを一言で表すなら荒唐無稽。だが、生々しい視覚性から紡ぎだされる圧倒的な幻視力で、熱に浮かされるように読む読む読む。本当に息が止まったシーン多数。

 カート・ヴォネガットの文体に、オーウェル「1984」や多和田葉子の「容疑者の夜行列車」がフラッシュする。わたしの中を掴み取られ、別の記憶がOverrideするようで気分が悪い。史実に虚構が混ざっているのか、虚構のうえに史実をアレンジしてあるのか分からなくなる。訳者の柴田元幸は、この読中感覚を上手く言い表している。

現実の二十世紀と幻想の二十世紀を仕切る境界線は、必ずしも明確ではない。メビウスの輪をたどる指が、はじめは表をたどっていたはずなのに、いつのまにか裏側に達しているように、「黒い時計の旅」でも、現実はいつのまにか幻想に侵犯され、幻想もまたいつしか現実が浸透している

 ただしこの小説、おそろしく読みにくい。別人を同じ一人称で示したり、同一人物を異なる人称で書いたり、時間軸と空間軸を軽がるとジャンプし、平行して物語を進めたりするからだ。読み手は「いま」がいつなのか、「わたし」や「おれ」が誰なのか、そして「ここ」はいったいどこなのか分らないまま振り子に翻弄されるかもしれない。

 だが、それこそ語り手の思うつぼ。明日が休みなのを確認して、どっぷりとハマって欲しい。なぜなら、本書は、はてなの質問「徹夜小説を教えてください」でオススメいただいた作品でもあるのだから。

| | コメント (2) | トラックバック (2)

「外注される戦争」から除外されているもの

外注される戦争 表紙はおどろおどろしいが、いわゆるタテマエの面からこの市場をレポートしている。P.シンガー著の「戦争請負会社」に比べると、歯にモノが挟まったような言い方だなぁ、なんでだろーなんでだろーと読みつづけ、ラストの「あとがき」で腑に落ちる。

2005年半ばに英国PMC大手アーマー・グループを訪れて取材をしたのだが、日本法人の設立を検討中だった同社から後に連絡を受け、なんと2006年夏に同社の日本法人にコンサルタントとして加わることになったのである。研究者としては決して見ることのできなかったPMCの生の活動に接するまたとないチャンスである。これからは、テロ戦争ビジネスの最前線を、「インサイダー」としてフォローしていくことになる。

 なんてことはない、中の人になってしまったんだね。魂を譲り渡したことに気づかず、むしろ「チャンス」だと小躍りしている様子がこっけいだ。

 それでも、戦争請負会社の最新のオモテ面を知るにはうってつけの一冊。本書ではPMC:private military companies と呼び、民間軍事会社と訳している。たとえば報酬の比較方法が面白い。

ダイン・コープ社の警察顧問の場合、


  • 年間12万ドル(1400万円)
  • 欧米の特殊部隊出身者は一日1000~1500ドル(12~18万円)
  • ハート・セキュリティ社の斎藤氏の場合は、一日600ドル(72,000円)

 これを、アメリカの平均的な警察官の給料「年間3~4万ドル(360~480万円)」と比較している。「安全を提供するビジネス」を標榜しているわりには、この給与格差は何なんだろう? というツッコミが『無い』ところがポイントやね

 もちろん、保証や後ろ盾がない点や、雇用・契約が不安定なところも触れはするが、そこから容易にたどりつける結論「要するにフォースのダークサイド」を書いていない。

 国の本音はこうだろう。「何万人もの人間を、軍人として長期間雇っておくよりも、数ヶ月スパンで『民間戦争請負会社』を使った方が、経済的」、「軍需に依存した産業構造により、一定の期間で戦争を起こす必要が出てくる(兵器のリニューアル&リフレッシュ)。軍事サービスのアウトソースは、その弊害をダウンサイジングできる」。

 いっぽう、「セキュリティ・サービス」を提供する側は、それこそ星の数だけ理由がある。リタイアした人材の再活用、一攫千金が現実的なマーケット、戦争フリーターの自己実現の場 … そいう本音ベースの話はきれいに除かれている。たとえば、

武装勢力は斎藤昭彦を殺害した後、ハート社に対して斎藤さんの遺体を売りたいと連絡してきたという。その価格は8万ドル(約960万円)。最近のイラクのテロリストは、人質をとるなんて面倒なことはしない。殺した後に死体を売るビジネスを始めた。殺されたほうの家族は死体がないと生命保険を受け取れないだろう。だから、高額を支払っても死体を買い戻すはずだとやつらは踏んでいる。汚い連中だ。

 「武装勢力」をメディアでしか知らないわたしですら知っている。「武装勢力」なる人は、時と場合により、「セキュリティ・サービスを提供するビジネスマン」に変身することを。

 オモテ面の最新情報は、「外注される戦争」で網羅されている(ように見える)。ウェブサイト、BBCなどのドキュメンタリー、インタビュー、メール、新聞、書籍(もちろん「戦争請負会社」も出てくる)… 巻末のネタ元を見ただけでも、かなりのものだ。

戦争請負会社 いっぽう、ダークサイドや歴史も含めたものなら、P.シンガー著の「戦争請負会社」を推す。「外注される戦争」が「セキュリティ・ビジネス」という切り口で語っているのに対し、「戦争請負会社」は、兵站から戦闘行為までの「サービス」を徹底的に紹介している→「戦争請負会社」読書感想文

 さらに、PR戦も含めた請負会社を考えるなら、これも→[デカレンジャーと「戦争広告代理店」]


| | コメント (2) | トラックバック (1)

親になったら読むべき3冊

 敬愛するまなめさんから[御依頼]がッ、テーマ自由で3冊レビューせよという[企画]とのこと…ラジャー。「読むだけでモテる3冊」や「自慰の回数が確実に変わる3冊」あたりが浮かんだが、ここはひとつ、マジメに「親になったら読むべき3冊」でご紹介。

 子どもを育てる最終目的は「わが子を大人にすること」。それ以上も以下もない。自立し、自律できる「大人の男」あるいは「大人の女」になり、自分の人生を生きてもらうこと。そのために、きっと役に立つ3冊を選んでみた。

子どもへのまなざし(佐々木正美)

子どもへのまなざし 鉄板。特に男親は読め(強調)。子育てで悩んだり、苦しい思いをしたりすることは、必ずある。そのときに、この書名を思い出してほしい。本を読むことで、つらさや心配を消すことはできないが、苦悩する自分を丸ごと肯定してくれるだろう。

 どのように子どもと接するかのハウツー本ではない。そんなものは巷に溢れている。これは、親をやっていくための、根っこの考え方が伝わってくる。親として人生を生きていく「覚悟」のようなものが腹に落ちてくる。

 人間として生きていく上で最も大切なことは、信じることだ。自分を信じること。他人を信じること。社会を信じること。心の根っこのところでこれがあるのと無いのとではまるっきり違う。自分すら信じられなくなったら、おしまいだね。そして、親が子どもにあげられるもので最も大切なものは、「信頼」だ。それはどうやって育まれるのか?

 赤ちゃんは自分でオムツが替えられない。食事も着替えも、身の回り一切ができない。だから泣く。親がくる。世話をしてくれる。機嫌が悪い。だから泣く。親がくる。あやしてくれる。繰り返す「泣く」→「来る」→「面倒みてくれる」のサイクルの中で、赤ちゃんは学習する。「泣いたら誰かが来てくれる」と。これが親を信じることの基礎となり、親を信じることを通じて自分や他人を信じることができるようになる。

 では、放っておかれる赤ちゃんはどうなるか? 一部の育児誌で「夜泣きがひどいようなら、放っておいてもかまいません」などとある。根気よく泣き続けても、いずれは泣きつかれて眠ることになる。これが毎晩繰り返されれば、いずれ泣かなくなるだろう。だが、「泣いても誰も来てくれない」サイクルが繰り返されると、赤ちゃんは「あきらめる」ことを覚えるのだ。「泣いても無駄なのだ」と。AM3:00 泣き喚く赤ん坊をあやしながら、朦朧とした頭でこの箇所を何度も読んだ。

 読まずに済まそうとする横着者のために、本書のエッセンスを凝縮した一節を紹介する。

子どもは親を見て学ぶ。「幸せ」を学ぶ為には、親が幸せになっていないと、子どもには何が幸せなのか分かりません。

だから、まずお母さんが幸せになって下さい。お母さんが幸せでないのなら、子どもはどうやって「幸せ」を知ることができるでしょうか。事情により幸せな感情を持ちにくいようでしたら、せめて、子どもと接するときはゆとりをもって安らいでいられるようにしてください。旦那さんをはじめとするご家族は、このことを胸において、お母さんをサポートしてあげてください。

 子どもを宿す、大きくする、産む、育てる。ものすごいことだ。男親ができないことは、母親を全力でサポートする。それこそ身を粉にして、嫁子のためにがんばる。あたりまえなんだけれど、それを沁みこませてくれる。親である勇気がもらえる一冊。

「親力」で決まる ! 子供を伸ばすために親にできること(親野智可等)
「親力」で決まる ―― とはいうものの、根本だけしっかり押さえておけばいいかというと、心配なのが親だもの。「木の上に立って見ている」のが「親」だとしみじみと思う。そんな気持ちに付け込んで、それこそ山のように「親本」が出ている。育児誌、教育サイト、育児ブログ… 情報収集だけで終わってしまうだろう。

 だからこそ、最初の原則「子育ての目的は、わが子を大人にすること」に則って選んでいくと、これに落ち着く。なんといっても、本書の本質はズバリ「まず親自身が育て!子はそれを見て育つ」に尽きる。これまでの育児本は「子どもを伸ばす方法」だったが、本書は反対に「親としてのチカラ=親力をつける」ことを主眼としている

 もちろん、テクニカルなTipsが沢山ある。例えば「歴史マンガに親しませろ」とか「テレビのそばに地図帳を置け」といったやつだ。しかし、それは「まず親が歴史に親しめ」「親がニュースの地名を地図帳で調べろ」という著者のメッセージの裏返しなんだ。

 親が変われば、子は変わる。子どもに対してなんとかしたい点があるのなら、それは親が変わるポイントなんだ。「子は親の鑑」を実践で示してくれる一冊。類書不要というか、本書を実行するだけでもかなりのボリュームなので、一冊で充分。

 本書は究極のハウツー本を装っているため、もともとは「子どもをなんとかする」目的で親は手するはず。ところが、読み進むにつれ、「親の心を入れ替える」ことになり、つまるところ、親から子へ伝染するという仕掛け。

ドラゴン桜(三田紀房)

ドラゴン桜 日本の親レベルの底上げが図られたと断言できるマンガ。念を押すが、「子ども」ではなく、「親」の方だ。「オチコボレを一年間で東大に」という分かりやすくもスリリング(?)なテーマで引っ張ってきて、はや4年。モーニング連載ではようやく最終ステージ(二次試験)に到達している。

 ポジティブシンキング、ロジカルシンキング、マインドマップ… といったノウハウだけでなく、「親/教師としてどうあるべき?」的な問答は、読者に子どもがいようといまいと、「親力」に響いてくる。「子どもを東大に入れるために」は、そんなに重要ではない(ただの惹句)。むしろ、「どうすれば子どもが自分から取り組みだすか」の方が肝心だったりする。取り組み先は、生徒のときは勉強かもしれないが、大人になったら別のものになる。したり顔のオトナは「今の勉強の努力は将来かならず役に立つ」と言うが、本書は「役に立つ努力」にするためのマニュアル本だろう

 「ブラックジャック読んで医者になれました」が冗談でないように、「ドラゴン桜読んで東大合格しました」が出てくるかもしれない。純粋に受験対策だけのエッセンスなら、この受験本をオススメする→「キミにもできるスーパーエリートの受験術」[参考]。「わが子を東大に」というよりも、放っておいても自分で学んでいけるような子になってほしい。そのために、まずわたしが学ばなくちゃ、ね。

■関連エントリ

 3冊と銘打ったが、沢山ある。関連エントリをおさらい。新聞を開くと、親の苦労を知らない人がニッポンの教育云々を語っている。お寒いやつらだ。こういう連中に翻弄されないような大人にするのが、わたしの「親としての」目的なのかもな。

| | コメント (7) | トラックバック (3)

いきなりコンサルタントに抜擢されたSEが読むべき5冊

 上長から「来週からコンサルタントとして○○社に入ってくれ」なんて言われたときに、あわてないための5冊。以下の条件全部にあてはまる人のための選書なので、関係ない方はスルーしてくだされ。シリーズ化しつつあるエントリ( [その1][その2] )だが、ここらでまとめ。

  • システム開発チームのメンバーまたはリーダー
  • 顧客の御用聞きを「コンサルティング」だと思っている ←これ誤り
  • McKinsey や accenture といった「ファーム」と一緒に、顧客の中に入って仕事しなければならなくなった

 これまで、即効性と実用性で4冊レビューしてきたが、このたび5冊目として扱いたいガイドを見つけた(4冊目)のでまとめてご紹介。

■最初に結論

 コンサル会社がやっている「コンサルティング」は、決まりきった手順や方法を粛々と実行しているに過ぎない。目標に対して泥臭いぐらい愚直に反応する。そうしたメソッドと沢山持っているだけでなく、そうした手法を馬鹿正直にあてはめている(←これ重要)。きれいなプレゼンや立て板に水の弁舌は、おまけに過ぎない。

 問題へのアプローチも決まっている。こんなときはこう調べろ、考えろ、といったパターンは決まっており、あとはいかに適用・加工するだけ。数学のチャート式解法やった人ならピンとくるかもしれない。あの「例題」が彼らの後ろに控えているイメージ。壁にあたったら振り向けばいい。

 こうやって書くと簡単そうだが、その手法を適用することがとっても大変。現実はあやふやで、姿を変えてしまうもの。だからこそ、手法を厳密に適用し、ロジカルに仮説を立てなければならない。なぜなら、その説が見込み違いだったときに、状況が変わったからなのか、間違った手法を採択したのか、分からなくなるから。

■いきなり「コンサルタント」になったSEの場合

 いきなり「コンサルタント」の肩書を貼り付けられたSEは、そんなこと知らない。そもそも、問題にアプローチするための「手法」があったり、仮説を考え抜くための決まった「思考様式」があるなんて、思いも及ばない。

 だから、自分がこれまで重ねてきた経験に基づく思考・調査方法を使おうとする。うまくいくかどうかはバクチのようなもの。もっと悪いことに、そのやり方で失敗したのかうまくいっているのか、チェックしてフィードバックする方法が分からない。

 そのいっぽう、一緒に仕事するコンサルティング・ファームの人は、問題解決・構想設定の修羅場を幾度も潜っており、「キャリアを積む現場のひとつ」として取り組むだろう。彼らに伍することは不可能なので無理をするのは止めよう。

 その代わりに、彼らの手法を自分のミッションに適用するための予習をしておく。「いきなりコンサルタント」にされるようなSEは、経営戦略課題のうち、ITシステム化の前提条件と効果・リスクをアセスメントするような役回りだろう。その仕事+コンサル手法を彼らから盗み出すために、役に立つ書籍をご紹介。

■まず基本「問題解決プロフェッショナル――思考と技術

 基本。コンサルテイング会社の中の人は、「問題」に対してどのようにアプローチしているかが手に取るように分かる。実は、「問題」を与えられて「解決策」を考えるなんて思いつきでだってできる。しかし、与えられた問題を「検証」し、その原因への調査→仮説思考をくり返し、対策の有効度までロジカルに導き出すには、相当の訓練が必要。本書では、その基本的なツールが紹介されている。

  • ゼロベース思考
  • 仮説思考
  • MECE
  • ロジックツリー
  • ソリューション・システム

 名前だけは有名だし、「ロジカルシンキング入門」と銘打った雑誌やネットの紹介記事はあるが、読んでもイマイチ使える気にならない―― なぜか?

 それは、そうした書き手が本で知った「ロジシン」の要旨を書いているから。そいういう記者は実務でやったことのないため、いつまでたっても「入門」から抜け出せない。本書を読めばこれらのツールを身につけることができる。時間がない方なら、特に2章の「MECE」と「ロジックツリー」だけを押さえておくだけでも劇的にモノにすることができる。読めばすぐに使いたくなるだろう(←これ重要)。姉妹本の「問題発見プロフェッショナル――構想力と分析力」まで読みこめば鬼棒だろうが、まずこの道具を使いこなせるように。

■書くこと=考えること「考える技術・書く技術

 ロジカルな文章とは、「理屈っぽい文章」ではない。むしろ「納得しやすい」「入りやすい」文章のことをいう。フレームワークはシンプルで、テーマの深度は抽象→具象の順番に進み、トピックの幅は「A and B and ...」あるいは「A or B or ...」でモレダブリは排除されている。

 つまり、一番いいたいことは冒頭で言い尽くされており、各トピックで具体化・詳細化される。それぞれのトピックの中も、「主張・結論」→「それを支える仮説・事実」の構成となっている。さらに、同階層のトピックは「部分-全体」を成している。

 読む方もラクだ。「要するに何?」はドキュメントの冒頭を読めば分かるし、論点はそれぞれパラグラフごとに柱を成している―― これも言うは易しというやつで、実際に書くとなると難しいもの…では、方法はないのかというと、ある。それが本書で示されている「ピラミッド原則」。何のことはない、MECEだ。それがライティングに適用されると、スゴいツールになる。

 書くことは考えることであり、適確に書けているということは、すなわち適確な思考ルートをたどって目的(ここでは主張・結論)に至っていると言える。「書く技術」「考える技術」「問題解決の技術」の三部構成となっているが、第一部が全てのエッセンスといってもいい。「考えて→書く」んじゃないの? とツッコミが入るかもしれないが、第二部の「考える技術」は、自分の思考を「ロジカルに、相手に分かるように」表出できるようになった次のレベルの話。「相手」と便宜上呼んだが、自分も含まれる。この方法で書いてみて、はじめて本当に言いたいことにたどり着いたことがあるから。

■実際は泥臭い「情報システム計画の立て方・活かし方

 次は実践。事業戦略の策定にあたり、コンサルティング・ファームの人がどのように仕事を進めているかが全部書いてある。ダンドリ8分というが、その段取りが100パーセント紹介されている。

 「じゃぁ、そいつをコピペするだけか」というと、そうではない。ものすごーく泥臭い作業が待っている。「あるべき姿」と「いまの姿」が洗い出されていれば、後は間違い探しになるが、現実はそんなに甘くない。そもそも、

  • 経営課題が把握できていない
  • システム構築以外も含めた取り組みが網羅されていない
  • 現実的なスケジュール感覚でプロジェクトが進められていない

何から手をつけていいか分からないところがスタート地点なので、やるべきことは分かっていても、やるべき作業は膨大かつ地味だ(←そしてこれが実態だ)。その作業を、ひとつひとつ、ひもといている。コンサルタントのマニュアルかもしれないけれど、近道ではない

 では経営者が全く無「脳」無策なのかというと、そうではない。彼らにも「やりたいこと」「あるべき姿」があって、それを実現したいと願っている。ただ、現実に即していなかったり、即しかたも分かっていないだけだ。彼らは、コンサルタントの話を聞きたいのではなく、現実に裏打ちされた「自分の考え」を「自分で分かるように」したいんだ。したがって、経営者の考えをロジカルに展開し、予実データとともに「見える」ようにするのが最終目的。そのシミュレーションとして本書はものすごく有効なり。

 おそらく未経験者がこれを読むと、あまりの退屈さに投げ出してしまうかもしれない。しかし、それが現実だ。「MECE」や「仮説思考」を正直に愚直に展開し、ロジック(ここまでくると「つじつま」と呼んだほうがピッタリ)の整合性を完全にする。これこそがコンサルティングの本質なのだから

■武器を増やす「組織の現場力を高める問題解決メソッド

 実際の作業が分かった上で、今度は「武器」を増やしたい。基本装備だけでも使いこなせば充分だが、やっぱり見栄えというか訴求力を高めるために、様々な切り口を要することも現実。そのために、どんな仕掛けが必要かが分かるのが本書。

 一行目から「問題解決力は、個人のスキルではない」で始まる。強く反発するが、続く文で納得できる。スキルそのものは個人レベルで身に付けられるかもしれないが、そうしたスキルを展開し、実際に解決していくのは組織において他は無いという。確かに。

 本書は、問題解決のための「具体的手順」にとどまらず、組織のメンバーが実際に動き出す「しかけ」も併せて紹介している。道具をそろえて切りさばくのは個人スキルかもしれないが、その道具そのものを伝えるためには、個人(というか役職)の枠組みを超えた仕掛けが必要。

 その仕掛けは多岐に渡るが、まとめるなら「道具の"ねらい"と一緒に伝えよ」に尽きる。全体の中でのその手法の位置や、そもそもなぜそれを「問題」として扱うのかが明らかになる。単純に「問題解決」と言っても、本書によると、

  • 発生型問題の解決 : いま見えている問題や、現実的に起きている問題のFit/Gapを解決する
  • 課題設定型問題の解決 : カイゼンの視点から、ありたい姿に近づくための課題を解決する。あるいは近い将来に起きうる問題を予測し、その対策のための課題を解決する
  • 構想設定型問題の解決 : 5~10年後先の組織のありたい姿や環境の変動を想定し、そことのFit/Gapを詰める

に分かれる。そして、必要な能力として3つ「問題解決力」「協働誘発力」「組織管理力」」を論じている。特に周りを巻き込むための「協働誘発力」の仕掛けが役に立った。個人の問題解決能力も、もちろん重要だが、そこから得られる策を実行し、現実に働きかけるためには、メンバーの協力が不可欠だ。

 コンサルティング・ファームが入ってくると、「ご主張ごもっとも、だがそれは経営会議の机上の空論に過ぎない」とする衝突は、必ずといっていいほど発生する。これを回避するため、例えば、「対策の"ねらい"を明示し、最終目的と連動させるようにせよ」という。この巻き込むチカラこそ、コンサルの肩書をつけたSEに必要だろう。「それはオレの仕事じゃない」と言わせない・思わせないスキル、わたしにいちばん足りないものだな。

■なぜ「コンサルタント」という肩書なのか?「RFP&提案書作成マニュアル

 ちょっと想像してみると、会社の意図はよく透けている。RFP→受注につなげるための嚆矢が、あなたということ。コンサルティング・ファームが作る戦略計画書には、確かに恐ろしく精緻かつ分厚なものだが、システム屋の視点からだと大穴どころか窓かドアぐらいのでかいヌケがある。

 例えば、 ハードウェア構成とその管理という概念が抜けている場合が多い。いわゆるシステムを知らないコンサルティング・ファームは、よくそういうポカミスをやる。作ればおしまいで、管理は人だけが対象だと思っている。端末・ネットワーク・サーバ・GW・UPF等は全部買うわけが無い。ランニングコストにリース料は入るし、回線もスペック見合いでえらい金額になる。

 こうした、「ランニングコストは…」「運用の現場では…」といった書き出しになるとコンサルティング・ファームは途端に弱くなる。「ケース・バイ・ケース」という無敵の捨てゼリフを打ってくるに違いない。

 いっぽう、SE出身はここから強くなる。make or buy の判断は、プロジェクトの目的に沿った形ですることや、開発期間が圧縮されればメンテナンスコストが高くつく、といったシステム屋にとってあたりまえのことが最初から議論できる。

 「コンサルタント」から「RFP書き屋」にジョブチェンジするときに強力なバイブルとなってくれるのがコレ。RFPを書く側と受ける側、即ち発注と受注の両サイドから説明されており、相手の出方がよく見える

■コンサルタントから盗もう

 これまで指摘したとおり、コンサルタントがやっていることは「たか」が知れている。ただし、その知れている「たか」を徹底的に愚直にロジカルに掘り下げ→組上げている。論理の精緻さは凄まじいほどだ。確かに「頭の良い」人にしか続けられない仕事だとつくづく思う。

 現実から遊離していようとも、その報告書のロジックには一点の曇りもない。それを詭弁と誹るのはたやすいが、彼らの武器だけは、しっかりといただいておこう。コンサルティングの現場に入る前に、上の5冊で予習しておくと、盗める対象もぐッと広がることを請けあう。

参考
 マッキンゼーITの本質  いきなりコンサルタントに抜擢されたSEが読むべき3冊  いきなりコンサルタントに抜擢されたSEが読むべき4冊目

| | コメント (6) | トラックバック (4)

« 2007年4月 | トップページ | 2007年6月 »