子どもに絵本以外を与えてみる:「ナショナル ジオグラフィック ベスト100」
毎週図書館ハシゴしているので、つきあわされる子どもも大量に本(というか絵本)を読んでいる。「大量に借りて一度は読む→気に入ったのを何度も借りなおす」のループで、最近じゃ、たどたどしくも自分で読めるようになったのが嬉しい。
しかし、親のほうが飽きてきた。いつも「こどものほん」コーナーで物色するだけで変わりばえしない。めぼしいものはあらかた読みきっており、「リサとガスパール」の新刊が出ると奪い合いになる(わたしも楽しみだから、ね)。
おそらく放っておくと、児童書→物語系→小説… と手が出るのは目に見えている(なんたって、わたしが歩んだ途だ)。物語のチカラは偉大だ。死やセックス、差別や戦争を絶望させることなく伝えるすぐれた方法だと思う。
しかし、物語に淫してばかりいると、わたしになる。ここはひとつ、写真のチカラを援用してみよう。いつまでもわたしのインスタンスじゃぁつまらないからね。いままでの反応は、こんなカンジ…
[JAPAN UNDERGROUND を絵本がわりにする]
[子どもに死を教える4冊目]
[子どもに絵本以外を与えてみる:「地球家族」]
なかなか好評(?)だったので、今回は「ナショナル ジオグラフィック」を与えてみる。とはいっても、いつもの月刊ではなく、そのベスト版である「ナショナルジオグラフィック傑作写真ベスト100」を親子で見る。
テレビや、子ども向けの本ではぜったいに目にすることのない被写体に、親子で声をあげる(ホントに「うわぁ」とか「すげぇ」とか親子でハモる)。少女のミイラ、跳ぶ蛇、鯨の血で真っ赤の入り江、飢えてガリガリのソマリアの女性、ホオジロザメの顎、ページをめくる度に、「これ何?」「なにやってるの?」「なんでこんなことするの?」と質問の嵐。
とうちゃんは驚嘆したり打ちのめされたりでいっぱいいっぱなので、なかなか上手に物語れない。貧しい国と豊かな国があることを、鮮明に切り取った写真がある。バカンスに来たフランスの太ったオバサンと、彼女を抱えるタヒチの痩せた若者の写真、どちらも笑顔なんだけど ―― ええい、言葉を使うと褪せてしまう。単にわたしの物語力が足りないだけなんだが、子どもは一枚の写真のチカラに魅入っている。何であれ、撮った人のメッセージは、わたしが翻訳しなくとも伝わっているようだ。
貧困や差別といったコトバは抽象化しすぎで、伝えるのが難しい。このコトバを使うとき、ふるい落とされる属性や特徴があまりにも多い。むしろ、抽象化の過程で落とされたイメージこそ「貧困」「差別」の本質だったり原因だったりしている。わたしは、このコトバを使うことで、無意識のうちに思考ルートを「考えなくてもいい方向」(=ステレオタイプ)に持ちこもうとしている。
「差別はいけません」とか「貧困はなくすべきです」なんて模範解答を丸暗記しないように、さまざまな具象にあたってほしい。写真は一つの物語であり、小説だっておんなじだ。子どもを育てるようになって、ようやく気がついたよ、本を読むということは現実のシミュレートであり、世界を具体化する作業なんだな。
| 固定リンク
コメント
Dainさん
全体の趣旨にはとても感銘を受けたのですが、最後のフレーズにちょっとひっかかったのでコメントさせて下さい。
「世界を具現化する作業」はその通りだと思います。
でも、「現実のシミュレート」って言葉からは「現実=本物」「本=仮想現実(よくできたニセモノ)」って印象がします。
フライトシュミレーターみたいに、現実には経験できないことも本の中でならできるって側面は否定しませんが、何かこう、もっと別の一言があるような気がしてます。
うーん、「よくできたニセモノ」ではなく「もう一つの現実」みたいなところです。うまく言えませんが。
投稿: ほんのしおり | 2007.05.25 03:08
>> ほんのしおり さん
「本もまたリアルの一つなんだ」ということでしょうか? わたしがアレンジすると、こんなカンジの主張になります。
現実とのインタフェースは五感である一方、読書は想像した世界を
通じて「経験」します。したがって、本から得られる経験は、現実の
経験とは異なりますが、現実のコピーではありません。読書は別の
経験なのです。
しかし、「読書は現実のシミュレート」というとき、本は現実のマネをし
たものであるといえます。現実こそがホンモノ、リアルであり、本は
そのコピーということになってしまいます。
だから、「読書は現実のシミュレート」というよりも、むしろ「読書という
経験を、現実とは別に積む」というほうが適切ではないでしょうか。
主張おしまい。ほんのしおりさんが言いたかったことと微妙にズレているかも… 仮に、これで合っているのなら、確かにほんのしおりさんの言うとおりだと思います。
ここでは、世界を具体化する練習の場という意味で「シミュレート」を使っています。つまり、本といういったん抽象化された世界を、読書を通じて自分の中で具体化するトレーニングです。この練習を積むことで、紋切り型の言葉で思考を止めずに、自分で考えるようになってくれるのではないかと。
投稿: Dain | 2007.05.25 22:37
あー、はい、まさにその通りのことが言いたかったのです。ありがとうございました。
書を捨てよ、街へ出よ、という主張にも一片の真理はありますが、逆に目の前の現実だけ見ていては「体験」はできても「経験」できないことがあるし、読書体験は決して何かの「代替」ではないよってことが言いたかったのです。
ありがとうございました。
投稿: ほんのしおり | 2007.05.26 01:07