ローマ人の物語VII「悪名高き皇帝たち」の読みどころ
「ローマ人の物語の読みどころ」シリーズ。
皇帝ネロ編(文庫の20巻)が頭ひとつぬき出て面白い。「ローマ=世界」が平和になり、戦争が象徴化されつつある分、権謀術数がはびこる時代。階層社会、少子化対策、ポピュリズムといったキーワードは、現代にあてはめると愉しい(著者自身もそのフシあり)。
皇帝たちの悪行列伝も、現代の尺度からみると微笑ましく思えてくる。既にキリスト圏からメッタ斬りにされているにもかかわらず、塩野氏の筆は容赦しない。時代はズレるが秦始皇や董卓と比べると、『暴君』と評される皇帝タンがかわいそうに見えてくる。
カプリでのティベリウスの"悪業"の第二には、淫猥な性行為を発明し、実際にさせたこと。各地から集めた少年少女たちを、少年と少女のチーム別にワケ、それにこの道の達人を一ずつ付け、この三人にティベリウスの見ている前で性行為を実演させるのである。チーム別に分けたのは、各チームはそれぞれ体位のちがう性行為を行うことが課されていたからだった
酒池肉林こそ漢(おとこ)の夢、なんて言ったら刺されそうだな。これらはいわゆる伝説のたぐいとして紹介されているが、淫行の事実よりもむしろ、どうしてそんな記述がなされたのか? の方が気になる。事実でないと強弁するなら、どうしてそんなことが書かれたのかを、独自の妄想力で描いて欲しかった。「クォ・ヴァディス」や「サティリコン」が未読なので自分でやってみよう。
折り返しまで読んできて注目すべきは、「なぜローマが?」に答えようとしているところ。覚えているだろうか? この長い長い物語をはじめるにあたって、読者に投げかける質問という形をした、本書のテーマを。
知力ではギリシア人に劣り、
体力ではケルト(ガリア)やゲルマンの人々に劣り、
技術力では、エトルリア人に劣り、
経済力では、カルタゴ人に劣るのが、
自分たちローマ人であると、ローマ人自らが認めていた。
それなのに、なぜローマ人だけが、あれほどの大を成すことができたのか。
一大文明を築きあげ、それを長期にわたって維持することができたのか。どの世界史の教科書にもある、軍事力の一点のみに因るのか。そして、そんな彼らさえも例外にはなりえなかった衰亡も、これまたよく言われるように、覇者の陥りがちな驕りによったのであろうか?
この自問に、「皇帝の血の付加価値」という興味深い視点から自答している。ネロを弑した後の話――
しかし、アウグストゥスの「血」とは訣別したローマ人も、アウグストゥスの創設した帝政とは訣別しなかったのである。カエサルが青写真を描き、アウグストゥスが構築し、ティベリウスが磐石にし、クラディウスが手直しをほどこした帝政は、心情的には共和政主義者であったタキトゥスですら、帝国の現状に適応した政体、とせざるをえなかったほどに機能していたからだ。ローマ人はイデオロギーの民ではなかった。現実と闘う意味においての、リアリストの集団であった
政治とは技術(アルテ)であり、アウグストゥスが創設した帝政は、デリケートなフィクションであると。一人に統治権が集中する君主政は、独裁化しがち。ところがローマ帝政では、史上例の無い「チェック機能付きの君主制」だという(文庫20巻p.219)。
「デリケートな基盤の上の不明瞭な権力構造」とうたっているワリには、「その後の帝国統治の機能の見事さが証明している。一人や二人の皇帝の失政にも、帝国はびくともしなかったのだ」と続く。このシステムは微妙のか強固なのかよく分からん←これが「ローマ人の物語」後半に効いてくるのかもしれん。
つまりローマ人は徹底的なプラグマティストであったからこそ、「デリケートな帝政というシステム」を時代や環境に応じて最適な形で運用できたのだろう…とラストで結ぶのかね。すでに完結している「ローマ人の物語」のラストを想像しながら読むのは面白し。
読んでてもの足りなさを感じたのが、キリスト教との関わり。このテーマで、それこそ山のように本が書かれたし、これからも書かれるだろう。ところが本書(18~20巻)ではイマイチ。ネロの迫害ネタなんて、格好の的なんだが、喰いが悪い。「キリスト圏というバイアスから逃れてローマを論じる」と啖呵切ってる[参照]ワリには、舌鋒が弱め。キリスト教とローマとの関係は、「キリストの勝利 ローマ人の物語XIV」で1巻まるごと使っているみたいだから、楽しみだ。どこまで切り込んでくれるか、あるいは、他の史料をクサして濁すか、舌なめずりして読み進める。
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