たしかに、プラトンは「最近の若者は…」と言っていた、が…
このエントリで主張したいことは2つある。
- たしかに、プラトンは「最近の若者は…」と言っていた。しかし、若者批判の意味で述べたのではなく、民主政体の比喩として言った
- わたし自身への戒め:ネット「だけ」を検索している限り、「見つからないのは、悪魔の証明」と嘯く資格はない。ネットに訊いている限り、得られる情報はウィンドウ枠から出られない
「最近の若者は…」とプラトン(紀元前427-347)が言ったとかいわないとか。わたしも調べたことがある。google センセイに訊くわけだ。「プラトン 最近の若者」か、あるいは、プラトンを「Plato」あるいは「Πλάτων」に置き換えて。文節を変えたり類語で広げたり、言語を変えたり、他のサーチエンジンしたり… 得られた中で、比較的まとまっている回答は、以下の通り。
- 「最近の若者はなっていない」という感じの文章は紀元前●●●年前から、石版?か何かに書かれていた。という話をよく目にするのですが、これの正確なソース(何遺跡のどれどれに書いてあった……等)を教えてください(はてな人力検索)[参照]
- 最近の若者は本当にいたか、とカントは言った、皆が本を書いている(吹風日記)[参照]
ご覧になるとわかるのだが、要するに → 「ソース無し」 ← 「…と言われている」「…と○○に書いてあるらしい」といった、仄聞・風説にすぎない。書籍があってもいわゆるトリビア本で、「アシモフの雑学コレクション」(新潮社,1986)がいいところ。
わたしの結論は、「存在しない」だった。だって、これだけネット探しても無かったんだから、ね。最近の「わたし」は困ったものだ。ネットを漁って無かっただけで、「そんな事実ははい」と断定してしまう。ネットは確かに便利だが、ネットに頼っている限り、得られる情報もネットの枠から出ない。訊く相手によって答えが違うというあたりまえなことを、忘れるな!(→「わたし」への戒め)
しかし、ある別の方法[参照]を用いたところ、簡単にソースにたどり着くことができた。以下に引用する。ちと長いゾ。赤字化はわたし。読むにあたり、気をつけていただきたいことは、語られている趣旨は、若者批判ではないこと。
出典はプラトン「国家」(第八巻)560C-561Bで、「プラトン全集11巻」(岩波書店,1976)のp.604にある。「ぼく」と名乗る話者はプラトン、あいづちを打つ「彼」とは友人グラウコンを指す。
「こうしてついには、思うにそれらの欲望は、青年の魂の城砦(アクロポリス)を占領するに至るだろう。学問や美しい仕事や真実の言論がそこにいなくて、城砦が空になっているのを察知するからだ。これらのものこそは、神に愛される人々の心の内を守る、最もすぐれた監視者であり守護者であるのに」
「まさしくそうですとも」と彼。
「いまやそれらのものに代わって、思うに、偽りとまやかしの言論や思惑が駆け登ってきて、そのような青年の中の同じ場所を占有することになるのだ」
「ほんとうに、おっしゃるとおりです」と彼は言った。
「そうなると、この青年はふたたびあの蓮の実食いの族の中に入って行って、いまや誰はばかるところなく、そこに住みつくのではないかね。そして、身内の者たちのところから何らかの援軍が、彼の魂のけちくさい部分を支援しにやって来ると、あのまやかしの言論たちは、この青年の内なる王城の壁の門を閉ざしたうえで、その同盟軍そのものも通さないし、年長者が個人的に彼に語る言葉を使節として受け入れることも拒み、自分たちも闘って勝つことになる。こうして、<慎み>を『お人好しの愚かしさ』と名づけ、権利を奪って追放者として外へ突き出してしまうのをはじめ、<節制>の徳を『勇気のなさ』と呼んで、辱めを与えて追放し、<程のよさ>と締りのある金の使い方を『野暮』だとか『自由人らしからぬ賤しさ』だとか理屈をつけて、多数の無益な欲望と力を合わせてこれを国境の外へ追い払ってしまうのではないかね」
「ええ、たしかに」
「そしてこのまやかしの言論たちは、それらの徳を追い出して空っぽにし、自分たちが占領して偉大なる秘儀を授けたこの青年の魂を洗い浄めると、つぎには直ちに、<傲慢><無統制><浪費><無恥>といったものに冠をいただかせ、大合唱隊を従わせて輝く光のもとに、これを追放から連れもどす。<傲慢>を『育ちのよさ』と呼び、<無統制>を『自由』と呼び、<浪費>を『度量の大きさ』と呼び、<無恥>を『勇気』と呼んで、それぞれの美名のもとにほめ讃えながら──。
ほぼこのようにして」とぼくは言った、「人は若いときに、必要な欲望の中で育てられた人間から違った人間へと変化して、不必要にして無益な快楽を自由に解放して行くのではないだろうか?」
「ええ、あきらかにそのとおりです」と彼は答えた。
「こうしてそれから後は、思うに、このような若者は、必要な快楽に劣らず不必要な快楽のために、金と労力と時間を費やしながら生きて行くことになるだろう。けれども、もし彼が幸運であり、度はずれの熱狂に駆られるようなことがなければ、そして年を取って行くおかげもあって、大きな騒ぎが過ぎ去ったのち、追放されたものたちの一部分をふたたび迎え入れ、侵入してきたものたちに自分自身を全面的に委ねることがないならば、その場合彼は、もろもろの快楽を平等の権利のもとに置いたうえで暮らして行くことになるだろう。すなわち、あたかも籤を引き当てるようにしてそのつどやってくる快楽に対して、自分が満たされるまでの間、自分自身の支配権を委ね、つぎにはまた別の快楽に対してそうするというように、どのような快楽をもないがしろにすることなく、すべてを平等に養い育てながら生活するのだ」
実はこれ、長い文脈の一節でしかない。若者が選びがちな傾向から、年齢とともに嗜好が変化していく様は、民主制国家から僭主独裁制のメタファーとして語られている。はしょると、若者の欲望≒民主制→僭主制への移行は必然なんだと語る。つまり、「最近の若者はなっとらん」というよりも、むしろ「若者一般の欲望ってね…」という趣旨なわけ。
「若者はなっとらん」と言ったのはプラトンの専売なわけではない。もっと古いものだと、ピュタゴラス(紀元前582-496)も言っている。出典は、ピュタゴラス伝(201,202)で、「ソクラテス以前哲学者断片集第III分冊」(岩波書店,1997)のp.198-199にある。
(201)人間の生全体の中には、年齢の「区分」(彼らはこのような言葉づかいをしていると言われている)というものがあって、これらをお互いに結び合わせることは普通の人のできることではない。なぜなら、人間が生まれたときからすぐれたしかたで正しく導かれるのでなければ、これらの年齢がお互いに衝突しあうからである。それゆえ、子供の教育がすぐれたもので、節度があり、男らしいものであれば、その多くの部分が青年の年齢まで伝えられるはずであるし、同様にして、青年に対する配慮や教育がすぐれたもので、男らしく、思慮あるものであれば、その多くの部分が大人の年齢まで伝えられるはずである。しかし、大衆のもとでおこなわれているようなことは愚にもつかないおかしなものである。
(202)というのは、彼らの考えでは、子供たちは秩序をたもち節度があって、なんでも低俗で品の悪いと思われることは避けるようにしなければならないのであるが、青年になると、すくなくとも大衆の考えでは、なんでも好きなことをすることが許されているからである。二つある過ちの両方がほぼこの年齢に重なるもので、青年たちは子供じみたことや大人じみたことで多くの過ちをおかす。つまり、手短に言えば、勤勉さや秩序にかかわるようなことはすべて避けるようにして、遊戯や不節制や子供じみた傲慢さを追いもとめるが、これは子供の年齢のときにもっともよく見られることである。このような性質はこの年齢からつづく年齢に受けつがれる。しかし、強い欲望や、同じく名誉欲や、さらに同じく残りの衝動や性質で、やっかいで騒々しいようなものは、大人の年齢から青年の年齢に受けつがれていく。それゆえ、すべての年齢の中で青年の頃がもっとも注意が必要なのである。
これも、若者批判というよりは、若いうちの教育の重要性を強調する文脈で語られている。長いので引用しないが、若者云々よりも、夫婦のありかたとか性生活の位置づけの方が興味深かった。
ここから、ちと脱線する。
「最近の若い奴は…」は昔から言われていた、というよりも、むしろ「最近の老人は…」と言いたい。公共の場で見る限り、60代がひどい。具体例をあげつらうつもりはないが、マナー以前のセルフィッシュな態度が目にあまる。
昔の老人は、もっと「ちゃんとした」人ばかりだった。「謙譲の美」「節度」「我唯足知」といった形容詞は、わたしが幼い頃の老人のふるまいから教わった。それが、今の老人からは、最も縁遠い言葉と成り果てている。若者云々というよりも、この国は、老人からダメになっているのではないか。
わたしは人の親だ。もし、わたしの子がまっとうな大人にならなかったなら、それは、わたしがまっとうな大人でないからだ。子は親を見て育つ。そして、子は親の言うことは聞かないが、親のマネは抜群に上手い。かりに、わたしが「最近の若者は…」と思う瞬間があるとするならば、その世代に良い影響を与えられなかったわたしの世代にも咎の一端がある──といったら、言いすぎだろうか。
プラトン「国家」には、次の件もある。若者批判を超えた矛先は、年長者へ向かう。
「先生は生徒を恐れてご機嫌をとり、生徒は先生を軽蔑し、個人的な養育係りの者に対しても同様の態度をとる。一般に、若者は年長者と台頭に振舞って、言葉においても行為においても年長者と張り合い、他方、年長者たちは若者たちに自分を合わせて、面白くない人間だとか権威主義者だとか思われないために、若者たちを真似て機智や冗談でいっぱいの人間となる」
「最近の老人は…」 というわたしのグチも、意外と、2,400年前に言われてたりして。
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