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たしかに、プラトンは「最近の若者は…」と言っていた、が…

 このエントリで主張したいことは2つある。

  1. たしかに、プラトンは「最近の若者は…」と言っていた。しかし、若者批判の意味で述べたのではなく、民主政体の比喩として言った
  2. わたし自身への戒め:ネット「だけ」を検索している限り、「見つからないのは、悪魔の証明」と嘯く資格はない。ネットに訊いている限り、得られる情報はウィンドウ枠から出られない

 「最近の若者は…」とプラトン(紀元前427-347)が言ったとかいわないとか。わたしも調べたことがある。google センセイに訊くわけだ。「プラトン 最近の若者」か、あるいは、プラトンを「Plato」あるいは「Πλάτων」に置き換えて。文節を変えたり類語で広げたり、言語を変えたり、他のサーチエンジンしたり… 得られた中で、比較的まとまっている回答は、以下の通り。

  • 「最近の若者はなっていない」という感じの文章は紀元前●●●年前から、石版?か何かに書かれていた。という話をよく目にするのですが、これの正確なソース(何遺跡のどれどれに書いてあった……等)を教えてください(はてな人力検索)[参照]
  • 最近の若者は本当にいたか、とカントは言った、皆が本を書いている(吹風日記)[参照]

 ご覧になるとわかるのだが、要するに → 「ソース無し」 ← 「…と言われている」「…と○○に書いてあるらしい」といった、仄聞・風説にすぎない。書籍があってもいわゆるトリビア本で、「アシモフの雑学コレクション」(新潮社,1986)がいいところ。

 わたしの結論は、「存在しない」だった。だって、これだけネット探しても無かったんだから、ね。最近の「わたし」は困ったものだ。ネットを漁って無かっただけで、「そんな事実ははい」と断定してしまう。ネットは確かに便利だが、ネットに頼っている限り、得られる情報もネットの枠から出ない。訊く相手によって答えが違うというあたりまえなことを、忘れるな!(→「わたし」への戒め)

 しかし、ある別の方法[参照]を用いたところ、簡単にソースにたどり着くことができた。以下に引用する。ちと長いゾ。赤字化はわたし。読むにあたり、気をつけていただきたいことは、語られている趣旨は、若者批判ではないこと。

 出典はプラトン「国家」(第八巻)560C-561Bで、「プラトン全集11巻」(岩波書店,1976)のp.604にある。「ぼく」と名乗る話者はプラトン、あいづちを打つ「彼」とは友人グラウコンを指す。

 「こうしてついには、思うにそれらの欲望は、青年の魂の城砦(アクロポリス)を占領するに至るだろう。学問や美しい仕事や真実の言論がそこにいなくて、城砦が空になっているのを察知するからだ。これらのものこそは、神に愛される人々の心の内を守る、最もすぐれた監視者であり守護者であるのに」
 「まさしくそうですとも」と彼。
 「いまやそれらのものに代わって、思うに、偽りとまやかしの言論や思惑が駆け登ってきて、そのような青年の中の同じ場所を占有することになるのだ」
 「ほんとうに、おっしゃるとおりです」と彼は言った。
 「そうなると、この青年はふたたびあの蓮の実食いの族の中に入って行って、いまや誰はばかるところなく、そこに住みつくのではないかね。そして、身内の者たちのところから何らかの援軍が、彼の魂のけちくさい部分を支援しにやって来ると、あのまやかしの言論たちは、この青年の内なる王城の壁の門を閉ざしたうえで、その同盟軍そのものも通さないし、年長者が個人的に彼に語る言葉を使節として受け入れることも拒み、自分たちも闘って勝つことになる。こうして、<慎み>を『お人好しの愚かしさ』と名づけ、権利を奪って追放者として外へ突き出してしまうのをはじめ、<節制>の徳を『勇気のなさ』と呼んで、辱めを与えて追放し、<程のよさ>と締りのある金の使い方を『野暮』だとか『自由人らしからぬ賤しさ』だとか理屈をつけて、多数の無益な欲望と力を合わせてこれを国境の外へ追い払ってしまうのではないかね
 「ええ、たしかに」
 「そしてこのまやかしの言論たちは、それらの徳を追い出して空っぽにし、自分たちが占領して偉大なる秘儀を授けたこの青年の魂を洗い浄めると、つぎには直ちに、<傲慢><無統制><浪費><無恥>といったものに冠をいただかせ、大合唱隊を従わせて輝く光のもとに、これを追放から連れもどす。<傲慢>を『育ちのよさ』と呼び、<無統制>を『自由』と呼び、<浪費>を『度量の大きさ』と呼び、<無恥>を『勇気』と呼んで、それぞれの美名のもとにほめ讃えながら──。
 ほぼこのようにして」とぼくは言った、「人は若いときに、必要な欲望の中で育てられた人間から違った人間へと変化して、不必要にして無益な快楽を自由に解放して行くのではないだろうか?」
 「ええ、あきらかにそのとおりです」と彼は答えた。
 「こうしてそれから後は、思うに、このような若者は、必要な快楽に劣らず不必要な快楽のために、金と労力と時間を費やしながら生きて行くことになるだろう。けれども、もし彼が幸運であり、度はずれの熱狂に駆られるようなことがなければ、そして年を取って行くおかげもあって、大きな騒ぎが過ぎ去ったのち、追放されたものたちの一部分をふたたび迎え入れ、侵入してきたものたちに自分自身を全面的に委ねることがないならば、その場合彼は、もろもろの快楽を平等の権利のもとに置いたうえで暮らして行くことになるだろう。すなわち、あたかも籤を引き当てるようにしてそのつどやってくる快楽に対して、自分が満たされるまでの間、自分自身の支配権を委ね、つぎにはまた別の快楽に対してそうするというように、どのような快楽をもないがしろにすることなく、すべてを平等に養い育てながら生活するのだ」

 実はこれ、長い文脈の一節でしかない。若者が選びがちな傾向から、年齢とともに嗜好が変化していく様は、民主制国家から僭主独裁制のメタファーとして語られている。はしょると、若者の欲望≒民主制→僭主制への移行は必然なんだと語る。つまり、「最近の若者はなっとらん」というよりも、むしろ「若者一般の欲望ってね…」という趣旨なわけ。

 「若者はなっとらん」と言ったのはプラトンの専売なわけではない。もっと古いものだと、ピュタゴラス(紀元前582-496)も言っている。出典は、ピュタゴラス伝(201,202)で、「ソクラテス以前哲学者断片集第III分冊」(岩波書店,1997)のp.198-199にある。

 (201)人間の生全体の中には、年齢の「区分」(彼らはこのような言葉づかいをしていると言われている)というものがあって、これらをお互いに結び合わせることは普通の人のできることではない。なぜなら、人間が生まれたときからすぐれたしかたで正しく導かれるのでなければ、これらの年齢がお互いに衝突しあうからである。それゆえ、子供の教育がすぐれたもので、節度があり、男らしいものであれば、その多くの部分が青年の年齢まで伝えられるはずであるし、同様にして、青年に対する配慮や教育がすぐれたもので、男らしく、思慮あるものであれば、その多くの部分が大人の年齢まで伝えられるはずである。しかし、大衆のもとでおこなわれているようなことは愚にもつかないおかしなものである。
 (202)というのは、彼らの考えでは、子供たちは秩序をたもち節度があって、なんでも低俗で品の悪いと思われることは避けるようにしなければならないのであるが、青年になると、すくなくとも大衆の考えでは、なんでも好きなことをすることが許されているからである。二つある過ちの両方がほぼこの年齢に重なるもので、青年たちは子供じみたことや大人じみたことで多くの過ちをおかす。つまり、手短に言えば、勤勉さや秩序にかかわるようなことはすべて避けるようにして、遊戯や不節制や子供じみた傲慢さを追いもとめるが、これは子供の年齢のときにもっともよく見られることである。このような性質はこの年齢からつづく年齢に受けつがれる。しかし、強い欲望や、同じく名誉欲や、さらに同じく残りの衝動や性質で、やっかいで騒々しいようなものは、大人の年齢から青年の年齢に受けつがれていく。それゆえ、すべての年齢の中で青年の頃がもっとも注意が必要なのである。

 これも、若者批判というよりは、若いうちの教育の重要性を強調する文脈で語られている。長いので引用しないが、若者云々よりも、夫婦のありかたとか性生活の位置づけの方が興味深かった。

 ここから、ちと脱線する。

 「最近の若い奴は…」は昔から言われていた、というよりも、むしろ「最近の老人は…」と言いたい。公共の場で見る限り、60代がひどい。具体例をあげつらうつもりはないが、マナー以前のセルフィッシュな態度が目にあまる。

 昔の老人は、もっと「ちゃんとした」人ばかりだった。「謙譲の美」「節度」「我唯足知」といった形容詞は、わたしが幼い頃の老人のふるまいから教わった。それが、今の老人からは、最も縁遠い言葉と成り果てている。若者云々というよりも、この国は、老人からダメになっているのではないか。

 わたしは人の親だ。もし、わたしの子がまっとうな大人にならなかったなら、それは、わたしがまっとうな大人でないからだ。子は親を見て育つ。そして、子は親の言うことは聞かないが、親のマネは抜群に上手い。かりに、わたしが「最近の若者は…」と思う瞬間があるとするならば、その世代に良い影響を与えられなかったわたしの世代にも咎の一端がある──といったら、言いすぎだろうか。

 プラトン「国家」には、次の件もある。若者批判を超えた矛先は、年長者へ向かう。

 「先生は生徒を恐れてご機嫌をとり、生徒は先生を軽蔑し、個人的な養育係りの者に対しても同様の態度をとる。一般に、若者は年長者と台頭に振舞って、言葉においても行為においても年長者と張り合い、他方、年長者たちは若者たちに自分を合わせて、面白くない人間だとか権威主義者だとか思われないために、若者たちを真似て機智や冗談でいっぱいの人間となる」

 「最近の老人は…」 というわたしのグチも、意外と、2,400年前に言われてたりして。

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ささやかな物語のチカラを感じる「キノの旅」

キノの旅1 夢中になって「おはなし」だけを味わう30分、こういうの好きよ。

 バイクで旅をするキノの物語。各話はとても短く、一話に一つ寓意が込められている。読みきりショートというよりも、拡張させるようなネタで勝負してこないつもりだな。おかげで、読み手は、どの巻のどの話から読んでもよいような仕掛けになっている。

 小説の世界と、そいつを読んでいる自分がいる場所を比べることで、「今」「ここ」を相対化できる。共感しつつ「おはなし」にのめりこみ、いっぽうで「キノ」の行動に違和感を抱くわけ。

 「キノ」が走る路は、レトロな雰囲気漂う懐かしい世界なのよ、んでもって、かかわる人々は「どっかで聞いたことがある世界」の典型なんだ。さらにもって、「キノと世界とのかかわり方」が、その国で巻き込まれる事件を通じて、少しずつ読み手に分かるように書いてある。

 あいまいな言い方をしてすまぬ。ネタバレは反転で。

 キャラとテクノロジーは異なれど、銀河鉄道999に乗った星野鉄郎の旅と、行く先々で出会う人とのかかわりを激しく思い出す。第六話「平和な国」なんて、いつ「惑星エル・アラメイン」になるかヒヤヒヤしながら読んだ―― 幸いにも(?)、もっとブラックなオチになったのだが…

 本書を絶賛している人には、おそらく著者が愛読しているものと思われる、星新一のショートショートをオススメする。「キノ」世代は、おそらく読んでないだろう。そして、夢中になれることを請合おう。

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最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか

 飛行船墜落や原発事故、ビル倒壊など50あまりの事例を紹介。誰がどのように引き起こしたか、食い止めたか、人的要因とメカニズムをドキュメンタリータッチで描く。

 もちろん、大惨事を引き起こした事故の「情報」だけなら、失敗知識データベース[参照]を見ればよい。本書とほぼ同じネタは得られる。しかし、著者が現場を見、生き残った関係者にインタビューしてたどり着いた「知見」や「生きた教訓」は、本書から掘り起こすべし。

 「そんな大惨事を起こすような巨大システムに関わってないよ」という人には、もっと身近なやつをどうぞ → 「なぜAT車のアクセルとブレーキの踏み間違いが起きるのか?」あるいは「飛行機事故から生還するため、乗ったら最初に確認すること」は、立ち読みでもいいので押さえておこう(後者は目からウロコだった)。

 システム開発屋であるわたしの場合とは、比較しようがない。わたしが携わるシステムが止まっても、新聞には載るだろうが人死が出るわけでもない。しかし、それでも、わたしが出くわしたエラーと、本書で紹介されるエラーは、驚くほどよく似ている。そして、わたしが打っている対策と、著者が推奨する対策も、やっぱり似ているのだ。

 その本質 → 「エラーを起こすのは人、くい止めるのも人」 ← あったりまえじゃん、という人は、以降および本書を読まなくても無問題。自分の問題として本書と向き合うと、得られるものはかなりある。事故事例として読むつもりなら、前出の「失敗知識データベース」だけでOK。以下、ヒューマンエラーについて、教訓から導き出された原則と、関連する本書のトピックをまとめる。

 そのエッセンスだけ列挙すると、こうなる。

  • 原則1 : 情報を集める場所と、判断する場所を、物理的に分ける
  • 原則2 : 重大な問題が発生したとき、メンバーをどのタイミングで休ませるか? を最初に考える
  • 原則3 : トラブルの原因を探す/被害を最小限する/プロジェクト目標へ軌道を戻す目的を分ける
  • 原則4 : 「外の目」を取り入れる
  • 原則5 : 現場を責めるな!

 本書は橋本大也さん紹介[参照]で知る。良い本を教えていただき、感謝感謝。以降、具体論に移る。書いているうちにどえらく長くなってしまった。本書のレビューは橋本さんのエントリの方がまとまっているので、書評を求めているならそちらをどうぞ。

* * *

原則1 : 情報を集める場所と、判断する場所を、物理的に分ける

 トラブル対応からカットオーバーまで使える。物理的に部屋を分ける(WAR-ROOM)場合や、情報屋(新人が適任)をアサインすることで、情報を得るときに発生するノイズをキャンセルし、ノイズが判断に与える影響を低減できる。卑近に言えば、「客が耳元でぎゃんぎゃん文句言っている時に、冷静にバグ改修の見通しや、対処時期や、汚染領域の回復の検討なんてできねぇだろ?」となる。

 具体的には、ホワイトボードを用意して、電話、メール、怒鳴り込みでやってくる問い合わせに対し、「未知の不具合」なのか「既知の不具合」なのか「運用者の誤り」なのか「他へ問い合わせるべきこと」なのかフィルタリングしながら書く → それを別の人が読んで分析・判断をするわけ。決して、書く人・聞き取る人と、読んで判断する人を同一人物にしてはならない

 「スリーマイルアイランド原子力発電所の事故」がこれに対応する。著者によると、原発の制御室には、深刻な問題があったらしい。

 原子炉がどんどん高温になっているにもかかわらず、冷却水を削減する判断をした運転員たちを批判することは可能だが、そのコンソールを設計したわけではないことも指摘しなければならない。制御室の警報システム・レイアウトは深刻な問題を引き起こす要因があり、事故が発生する1年も前に経営側へ文書による警告があった―― 実質的な対策は講じられることなく、放置されていたのだが。

 主警報装置のアラームが複数鳴り響き、100以上の警告ランプが「警告」を報じる中で、冷静に事態を把握させようとすることは、不可能だろう。

原則2 : 重大な問題が発生したとき、メンバーをどのタイミングで休ませるか? を最初に考える

 あたりまえの話なんだが、たいていの「重大な問題」は、すぐに直るはずがない。直す箇所を調べるのにも時間がかかるし、直すのにも時間がかかるし、直ったかどうか検査するのにも時間がかかるし、二次リスクが起きていないか調べるのにも、さらに時間がかかる。おまけに、重大な問題が引き起こす影響を収束させる(データ汚染が顕著)のにも、莫大な時間がかかる。

 それにもかかわらず、たいていの重大な問題は、「とりあえず」「全員で」とりかかる。小学生のサッカーのように、ボール(見えている不具合)の周りに全員が必死に群がっている。

 突貫工事の結果、その「重大な問題」は収束するかもしれないが、メンバー全員がヘトヘトになっている、おそらく寝ていないはずだ ―― では、「重大な問題」が連続して発生したら? 限界を超えた努力を強いることになる。疲労はエラーを呼ぶ。それも、トリビアルなエラーを。

 こいつを回避するために、重要なイベントの際には、最初からメンバーを交代制にして、うまく引き継ぎができるような仕掛けを設ける(ホワイトボード&wiki が強力だ)。そうすることで、サステイナブルに問題に取り組むな体制を維持することができる。

 本書では、「油井噴出事故の調査」が相当する。

疲労が人間の判断力を鈍らせることは良く知られているが、当人が予想するよりも、はるかに鈍らせていることは、あまり知られていない。油井噴出についての世界規模での調査では、半数が真夜中過ぎの深夜、とくに夜中の2時から3時の間で起きている

 疲労と睡眠不足のため、コックピットの風防のボルトをちゃんと留めていなかった結末は、悲惨ナリ(思わず笑ってしまったが)。眠くて眠くてしょうがない状態で、書いた記憶もないようなプログラムを、「小人が書いた」という。そんな「小人が書いたプログラムのバグを見つけるのは、難しい」のは、自分がエラーを起こしていることすら気づかないから。

原則3 : トラブルの原因を探す/被害を最小限する/プロジェクト目標へ軌道を戻す目的を分ける

 できればチームも分けたいところだが、そこまで潤沢に人的資源はない。せめて「今話し合っていることは、どの『目的』を遂行するためか?」を自問自答しながら対応している。

 つまりこうだ。限られたリソースをどこへ突っ込むのかは、目の前のトラブルをどう扱うかによる。原因究明(=二度とこんなトラブルを起こさない)のか、被害を最小限(=他システムへ伝播している)のか、あるいは、軌道を戻す(=初期目標の方が大事)のか、気を配っておく。「その問題は、どこに重心があるのか?」ってね。

 そうでないと、「みんな重要」になってしまう。リソースは限られているので、初期の目的が達せられなくなったり、あるいは、社会的影響にまで波及したにもかかわらず、放置されてしまったりする。バランスやね。「ぜんぶ最優先だ!」と鼻の穴をふくらませる顧客には、具体的に一つ一つ「これとこれは、どうします? こうします?」と訊くと意外と素直に答えてくれる。

アポロ13 これは、「アポロ13の事故」よりもむしろ、そこからの生還プロジェクトの方から学んだ。本書よりもむしろ、「アポロ13」から。自分のblogエントリ[参照]からの引用になるが、

  バグであれ、設計・仕様上のものであれ、重大な不具合が見つかると、「原因究明」「影響回避」、さらには顧客・上長への説明を、同一人物にまかせてはいないだろうか? 彼/彼女が「一番分かっているから」という理由で、その人に委ねては、いないだろうか? これは、わたし自身そーいう目に遭ってきたから分かる。上の3つは、互いに影響しあうため、一人にするにはムリがある

 もちろん本書でも「アポロ13の事故」は取り上げられている。ジェームズ・ラベル「アポロ13」よりも概略化されており、分かりやすい。

原則4 : 「外の目」を取り入れる

 手空きの部署から参謀役を引っ張ってきたり、逆に自分の手が空いているときに、スタンドアップミーティングに強制参加させられる。メリットは外の(冷めた)意見が聞けるから。火急の事態にてんてこまいになっている人に、これがどれだけ重要なのかは、産業事故における次の分析が証明している。

 産業事故の現場に居合わせた人々が、事故の初期段階での原因解釈にしがみつくあまり、あとからさまざまな証拠が出てきても解釈を変えない、ということがある。かれらは決心を固め、問題の解決だけを望んでいるので、相反する情報があってもそんなものに気を取られていては時間の無駄だと考える

 あるでしょ? トラブルってて目がイっちゃってる人に、「ひょっとして○○なんじゃぁ…」と話し掛けても、「ウルサイ!」と撥ね退けられて、仕方がないから自分でちょっと調べてみたら、実はそうだった―― なんてこと。あるいは、自分ではどうしても見つけられなかったバグが、他の人に見てもらうと、ひょいと発見できたり。

 最初に認知し情報をロックして、そこから固定化された発想でしか事物を捕えられなくなる。「人は見たいものを見る、見たいものしか見えない」やね。

 これも「スリーマイルアイランド」の例が典型だ。「冷却水の水位計は満タンを指しているが、温度はどんどん上がりつづけている」という状況下で警報が鳴り響く中、「冷却水はすでに空っぽになっているんじゃぁないか?(水位計が故障しているのではないか?)」ということを真っ先に疑ったのは、トラブルを聞いて駆けつけた非番のオペレータだったという。

原則5 : 現場を責めるな

 大きなトラブルに見舞われたとき、一番の被害者は現場の人だ…にもかかわらず、エラーの犯人探しをしようと躍起になるあまり、現場にいて災厄を食い止めようと奮闘するオペレータを責めてはいけない―― これは自戒も込めて。

 エラーは設計で作りこまれる。もちろん運用の時点で「手抜き」や「警報スイッチを切る」あるいは「数値を読み誤る」といった致命的な行動をとってしまうことがある。しかし、運用時の行動が致命傷のトリガーとなる場合は、非常にどころか、皆無だ。

 つまり、大惨事の最初のトリガーは、設計時点で作りこまれている。

 プログラミングを例に挙げよう。運用時に重大なエラーが発生するとき、プログラミング時点でのバグを起因とするものは、ない。原因を追求すると、設計時や検討時に織り込まれているのが常だ。単なるコーディングエラーが引き起こした虫は、テストでほぼ叩きだせる。

 にもかかわらず、重大なエラーが起きるとき、そいつを直す―― 本来そこを書いたわけでないプログラマ―― に詰めよりがちだ。どうなってるんだってね。でもって最初に作った人は、もう別プロジェクトに行っちゃってるというわけ。わたし自身、前任者のクソだらけの尻を何度も舐めさせられたことがあるので、よく分かる。自分のせいでもない不具合の釈明をさせられるのは、ものすごくストレスがかかる。


 大きな故障が発生した場合、実際にはその真因となる重大なミスはずっと以前に起きていて、本来は設計者や管理者――そうした人々が作り上げたシステムは、どこかで歯車が狂うと、現場の人に超人的な行為を要求することがある――責任だったのに、オペレータや乗組員が非難される例があまりにも多い

 この典型例は、「タイタニック号のリベット」だ。本書で初めて知ったのだが、タイタニック号が氷山に衝突して、裂け目や傷がついたわけではなく、氷山とこすれて鉄板がよじれて「すきま」ができたせいだという。


 海底で行われた調査の結果、船体には大きな裂け目や傷はついていないことが分かっている。いっぽう、リベット強度が足りないために氷山とこすれてできた「すきま」をあわせると、小型絨毯ほどの面積になる

 では、なぜそのような「すきま」ができたのかというと、こう分析している。


 タイタニック号に使用された300万本のリベット用に錬鉄を供給した会社は、当時、他の大プロジェクトを完成させるべく圧力を受けていたが、要求を満たすことができる技術をもった職人は少数しかいなかった。リベット用に出荷された鉄材は、通常の4倍のスラグを含んでおり、品質に大幅な問題を抱えていた

 確かに、タイタニック号を運転する現場のエラー(見張りの不在/通信士への仕事集中による警告の無視など)はあっただろうが、本当の原因は、事故が発生するずっと以前に作りこまれていたというわけだ。

 反対に、現場の人が超人的な能力を発揮して、事態を回避したというパターンもあるが、それは珍しいケース。たまたま事故現場の先頭にいたのが運用者だからといって、自動的に彼/彼女を責めるのはお門違いだ。あらゆる事故に共通して言えるのだが、この傾向はおかしい。感情的には理解できるが、運用者がエラーと犯したのなら、エラーを犯すような運用のさせ方、あるいはエラーを大惨事に結びつけるような連鎖を引き起こしたことこそ、問題にするべきなんだ。

 日本で起きた大事故を思い出しながら、強くそう思う。同時に自分への戒めとする。

* * *

 以上、各論おしまい。「最悪の事態を想定したリハーサルの重要性」や「逸脱の常態化が招くもの」、「ヒューリスティックスに『最悪の事態』を想定する弊害」などなど、書きたいネタは大量にある。後知恵で塗り固めた失敗事例集ではなく、一人称として取り組むならば、本書から得るものは多い。

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「ブラッド・ミュージック」はスゴ本

Bloodmusic わたしが知らないスゴ本は、魚蹴さんが読んでいた。あまりベタ誉めしない魚蹴さんが力強く推している[参照]のに惹かれて読了→参った、スゴい、まさかそこまで突き抜けるとは。amazonレビューはこんなカンジ…

 遺伝子工学の天才ヴァージル・ウラムが、自分の白血球から作りだした“バイオロジックス”──ついに全コンピュータ業界が切望する生体素子が誕生したのだ。だが、禁止されている哺乳類の遺伝子実験に手を染めたかどで、会社から実験の中止を命じられたウラムは、みずから創造した“知性ある細胞”への愛着を捨てきれず、ひそかにそれを研究所から持ちだしてしまった…

 どこかで訊いたことがあるイントロ、予想通りに登場人物が動いてくれ、そしてバイオハザードな展開になるんだけど、なるんだけど、なるんだけど── っ ソコまで往くのかよ!と叫びだしたくなる(まだ半分もあるのに)。そして残り半分、実にイロイロな作品の原型を見た。

 ああ、イーガン、クーンツ、クライトン、庵野秀明のアレなんて、コレから採っているんだねぇ、と。彼らの作品のうち、換骨した設定や奪胎したラストが素晴らしいからこそ、本書の影響力のスゴさを思い知らされる。

 ── でもって、人類のメタモルフォーゼを極限まで推し進めた結果がスゴい。どこかで見たことがあるかもしれないが、一度オリジナルを見ておくべし。「充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない」と喝破したのはクラークだが、本書のラストはこいつを借りて、「究極のハードSFは、ファンタジーと見分けがつかない」と言っておこう。ヒューゴー賞・ネビュラ賞受賞作品。

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人生を完全にダメにするために、あなたがすべき11のこと

 気分は負け犬、常に被害者を名のるのがトレンドらしい。あるいは、人生のだいなし感覚を味わいながら恨み辛みをつらねることにヨロコビを見出す。そういう半端な失敗者は、本書の徹底したダメイズムにガツンと犯られる。

 お題の通り、著者は「人生を完全にダメにする」方法を追求する。中途半端ではダメなんだ、徹底して台無しにするやり方を会得し、最後までやり遂げる←驚いたことに、これもダメなんだという。つまり、負の完全性を成し遂げている点において、「成功者」となっているから。

 この恐るべき自家撞着を回避するために、完全にダメになった人生を定義する。本当の意味でダメな人生とは、陳腐なものであるべきで、その「失敗ぶり」を人に吹聴したりはできないものだという。

 つまり、惨めな人生を美徳だの英知だの足るを知るだのといった言葉で飾ることもダメ、そして、自分の人生を破壊した何かへの復讐や、ダメ自慢ができるような代物なら、そもそも「失敗した人生」なんて言わないんだって。

 奴隷の鎖自慢すら許されない人生、これぞホンモノ。始まり方がお気に召さないからといって、早々と人生を投了する連中に読ませてやりたいね、負け犬を名のるには精進が足りない

 失敗メソッドの各論は、誰しも思い当たるものばかり。曰く、「しじゅうグチを垂れること」、「他人との関わりを絶つこと」、「常に自分が正しく、誤っているのは他人だと責めるべし」… なーんだと思うなかれ、どれも徹底しているところがスゴい。例えば、「常に自分が正しいと思うこと」では、

 他人の批判を決して受け入れず、改心などどこ吹く風という態度をとること。今日日の中学生がそうであるように、批判されたら侮辱と考え、拒否されたら権利を侵害されたと受け取り、何かを薦められたら選択の自由を奪われたと解釈するのである。つまりはどうにも矯正できない人間と思われることである

 うん、最近の厨房でもここまで徹底していないぞ。いっぽう、ハラを抱えて笑わせてもらったのは「熊の舗石」の話。

 熊のように孤独でいること。ただし、舗石を離さずに。「熊の舗石」とは、ラフォンテーヌ「寓話」にある、老人の顔にとまった蝿を追ってやろうとして舗石を投げた熊の話から、「いらぬお節介をすること。ありがた迷惑」の意味

 「小さな親切、大きなお世話」で、惨めな人生の第一歩を。また、非常にフランス人だなぁと思い知らされたのは、恋愛について。著者によると、恋愛で不幸になることは非常に難しいらしい。お国柄といえばそうなのかもしれないけれど、恋愛で惨めな気分に陥るためには、かなりの努力を要するらしい。だから、容易に失敗している人が「ひょっとして」いるならば、失恋巧者といえるね。

 このほか、

  • レッスン9 : 職業別失敗アドバイス数例
  • レッスン10 : 失敗のトレーニング
  • レッスン11 : 死ぬまでに済ませておきたい失敗

 … といったように、人生の失敗学が集大成されている。マヨネーズ作りで失敗する方法から、フェラチオで失敗するためにすべきこと/すべきでないこと、テロで失敗するとどういう目に遭うかは、ここで修得しておきたい。

 本書を読み終えると―― 読んでいる途中にも気づくかもしれない ―― 人生における成功と失敗なんて相対的なものだという非常に平凡な事実にたどり着く(コップ半分のたとえ)。えらく遠回りしているが、著者の博覧強記+人類の悪行列伝に楽しく付き合っている間に読み終えてしまった。

 究極のダメ人生とは何か? あるいは、人生における徹底した敗北を追及しているうちに、いつしか「わたしの」視線は真逆を向いている。書き手のレトリックにまんまとハマっているわたしガイル。人生を投げたくなったら読んでみるといい、あなたの人生をダメにしたもの[こと]が皮肉と諧謔に満ちた筆致で徹底的に書いてある。そこに何を読み取るかは、まさにあなた次第だといえる、めずらしい一冊。

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嫁とKanon(最終回 : あゆと名雪とオレの嫁)

Kanon_pk_2 (前回までのあらすじ)木曜 25:00、BS-i のひそかな愉しみをエロDVD鑑賞と間違われる(その1)。のちにエロゲ原作のアニメだと知られ、マジ離婚を検討される。しかし、ナユキストであるダンナに引きずられるように、いつしか一緒に観るようなるのだが――(その2)

 このエントリは、京アニKanonの最終回のネタバレを含むよ(反転表示)。

 いわゆるギャルゲについての認識が根本的に誤っていたことを、京アニに思い知らされる、しかも徹底的に。

 つまりこうだ、ギャルゲとは、複数の女の子から一人の娘を選び取り、その子と仲良くなるプロセスを楽しむことが醍醐味だと思っていた。したがって、選ばれなかった子たちは、選ばれなかったエンディングへ向かうことになる。

 より反語的な例として「君が望む永遠」を挙げよう。あれは、「選ばれなかったほう」のストーリーこそ秀逸であり、いかに彼女らが傷心と共に己の運命を受け止めたかが、見るべきポイントだろう。うんこたれ鳴海孝之の周章狼狽っぷりこそオマケだ。

 したがって、ギャルゲにおいて「ひとつのシナリオへ進む」とは、選ばなかった子が選ばれなかった運命をたどることを自動的に意味するものだと思っていた―― 真琴は行き倒れ、栞は病膏肓に入り、舞はいまでも闘いつづける―― それは、あゆ・名雪を選び取った結果なんだと。

 あるいは、秋子さんが病院送りになるならば、(それは名雪ルートであり)、あゆは目覚めることないはずだ―― そう決め付けていた。だから、秋子さんが1トンの乗用車に巻き込まれたとき、ルートは決まった、あゆはどうする? という疑問ばかりが心を占めていた。

 それがどうだ、全ての女の子を救い、そして最適化されたルート、すなわちあゆエンドにまとめあげるとは―― しかも「奇跡はただ一つだけ」のお約束と矛盾することなく―― 正直、自分がいかに浅はかであったかが、京アニKanonの最終回でよーく分かったよ。グッドエンディングではなく、これこそベスト・エンディングなんだ。

 ―― などとラストシーンを眺めながら感慨にひたっていると、

    「… ぐしゅ」  背後で音がする。

    『どしたの?』  と、声を掛けると、

    「ちちょっと、あっち向いてて!」

    『泣いた?』

    「ンなわけないでしょ、バカぁ」

 「ぁ」が、よわよわしい、愛しい。いい、かわいいよオレの嫁。「ヲタアニメばっかり見てて、このアホダンナ!」と罵っていた日々は過去のもの。わたしは、嫁が嫁2.0になる瞬間を目の当たりにする。結婚してよかった、ヲタやめずによかったと痛いほど感じる。

 同時にある確信へ至る。そうなんだ!たとえナユキストであっても、うぐぅ信者になれるんだ。「片方を選ぶと、もう一方は選ばれなかった」ことにはならないんだ名雪シナリオにも、あゆエンドにもなりうる、そんな風の辿りつく場所があるんだ。ヲタでも嫁(≠脳内)とやっていけるんだ!二次元と三次元を同時に愛することは可能なんだ!ラピュタは本当にあったんだ!

 心の中で絶叫する、感涙のあまりむせんでいると、嫁がフともらす。

    「ところでさ…」 テレビを指差す。

    『ん?』

    「どうしてこのコと、ウチの子の名前が一緒なの?」

    ギ ク リ

    「そういや、候補で 『みすず』 を強く言ってたね…」

    ギ ク ギ ク リ

 今宵は長くなりそうなので、以降、ご想像にお任せする。最後にひとこと。世界中にはどんな想いも、かなう日がくる。めったに起こらないから奇跡なんだけど、起きたらそれは必然と呼ぶんだ

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「図書館に訊け!」は盗みがいがあるぞ

図書館に訊け! 「検索」ならぬ、情報「探索」の方法が盗める。しかも、調べ物のプロフェッショナル、図書館員の技が惜しげもなく開陳されている。

 「検索」はキーワードによるヒットを試行錯誤する方法だ。いわば、欲しいものが明確に分っており、ピンポイントで狙って当てるようなもの。いっぽう「探索」は調べたいトピックによる絞り込み検索+レファレンスブックのフィードバックによる深堀りだ。着弾地点から再度絞り込みをかけているようなもので、確度と網羅性は高い。

 この探索手法が具体的かつ「調べるための」参考文献満載で紹介されている。このテクニックを「文法」になぞらえている。至言なので孫引きする。

 文法をやらなくっても読めるっていうのは正解だよ。だけど、そいつはよっぽどセンスと力とやる気のある人がいう台詞なんだ。凡人はな、文法をやったほうがよっぽど楽なんだ。特急券なんだよ。苦労の末につかむ筈の法則を、最初にぽんと教えてもらえるんだから。
「スキップ」(北村薫)

 例えば、本の形態から、読むべき本を選択するテクニックが紹介されている。新書 > 単行本 > 文庫本 の順に鮮度が落ちることは経験的に知っていたが、書誌情報にある本の大きさ、頁数、版数、発行年数、引用文献から、どの本が入門性が高く、どの本が専門書として扱うべきかを探求する「図書館員の思考プロセス」は特急券、非常に盗みがいがあるぞ。

 あるいは、本屋だけで事足れりとする発想は浅はかなだけでなく危険だと指摘する。例えば、トヨタ自動車を研究しようとして、新刊書店で「トヨタはいかにして『最強の車』をつくったか」(片山修/小学館/2002)は入手できても、トヨタ社内で編纂した「創造限りなく――トヨタ自動車の50年史」(トヨタ自動車/1987)は図書館で手に取るしかない。

 著者は繰り返し指摘する、「データベースやレファレンスブック、インターネットを探索しても見つからないからといって、"無い"なんてことはない。見つけていないだけだ」誰かが必ず書いており、真のオリジナリティは先人たちの集積の上に在るという。

 たかだか数十年、己の嗅覚だけを頼りに新刊書店と古本屋を経巡って集めた「本棚」で悦に入っていた自分が恥ずかしい。「本屋さんの本」だけで良しとする考えは、google検索結果が世の全てと判断する思考停止ポイントと非常に近接している

 図書館の怖いところは、利用者の関心やレベルに応じて、その相貌と機能を変えるところにあるという。その結果、自分は充分に利用できていると自認していても、知らず知らずのうちに稚拙な利用法で終わっていたりする。自分が成長しない限り、相手も変わってくれない。

 せいぜい精進いたしますか。

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劇薬マンガレビュー(第2弾)

 オトナが読んでもトラウマになるような劇薬マンガを求めて→「はてな」で質問[参照]→教えていただいたマンガを読む→激しい衝撃を受ける[参照]→次のマンガへ…といった、ネガティブフィードバックのくり返し。気が向いたとき、手軽に嫌悪感や忌避感、あるいは嘔吐感を味わっている。

 はてなで回答していただいた皆さま、胸クソ悪くなるような作品を紹介していただいて、本当に感謝しています。おまけに、このblogで「そいつを読むならコレはどう?」と追撃コメント頂いたおかげで、定価で入手できる劇薬マンガは一通り集まったのではないかと

 この第2弾では、せっかくご紹介いただいて、ワクワクしながら読んだにもかかわらず、これは劇薬じゃないよ、スゴく面白いよ!と感じた作品をご紹介。ポイントは『わたしが』面白いと思ったところで、人によるとトラウマンガになるかもしれないので注意して。

ブラック・ラグーン 最初は、「ブラック・ラグーン」。本屋で呼ばれてジャケ買いしそうになったことがあったが、劇薬はここだと教えていただいた↓

 基本は軽快なアウトローガンアクションという感じなんですが、これの3巻から4巻に続く日本篇の「普通の女子高生として暮らしていた少女がヤクザの闘争に巻き込まれ、チンピラにレイプされ、その後死んでいく」という鬱展開は本当に読まなきゃ良かったという気持ちになりました。2巻から3巻にかけての変態に嬲られ心が壊れて人殺し人形になってしまっている双子なんてのも非常にくるものがあります。

 どう劇薬なんだろうとワクワクしながら読んでいくと、うわーっ面白いじゃないか。借リモノっぽいハリウッドテイストな台詞回しが煩わしいけれど、シリアスリアルを追求しているのが良。社会派っぽいシチュエーションに、「ありえなさ」加減が激しいガンアクションを『緻密に』描いているトコなんて、最高峰である「ガンスミスキャッツ」を思い出してしまう。

 んで、劇薬ポイントなのだが―― ああ、確かに連載で追いかけてきたら日本編の救いの無さ(というか儚さ)にズギャンと犯られるかもしれない。健気に咲いている花を踏みしだき、毟り取るようなシーンは後味悪いかも(メガネ属性の方は特に注意)。ただ、普通の女子高生がメチャメチャにされるマンガの最高峰「真・現代猟奇伝」には遠いですな(←ぜったいに読んではいけません)。

 あるいは双子編の「どうしてこの双子はこんなモンスターになったのか?」が明かされるトコはヤだろうなぁ… 単なるロリペドSMを突き抜けているよ… 現実にこの双子に施したような『趣味』をお持ちの方はいらっしゃるようだ。小説になるが「マルドゥック・ヴェロシティ」に出てくる子どもに薬物投与して殺し合いをさせ、最後に「きもちいいよ、きもちいいよ」と呟く子どもの手をショットガンで吹き飛ばすスナッフビデオを見ながらマスターベーションする変態を思い出したといっておく。

俺と悪魔のブルーズ 次は「俺と悪魔のブルーズ」、こいつはスゲぇ、吸い込まれるように読んた。装丁からしておどろおどろしい。読むためには開かなければならないのだが、本を開いてはいけないような気にさせる装丁となっている。

 深夜、十字路で悪魔に魂を売り渡した引き換えに天才的なギターテクニックを身につけたという「クロスロード伝説」が元ネタ。この天才ブルーズマンである、ロバート・リロイ・ジョンソンは実在しているが、マンガはこれをベースにしたフィクション。

 舞台は1930年代のアメリカ中西部。魂を売り渡したRJの悪夢のような一夜も恐ろしいし、彼と同行する悪魔(?)の存在感が真黒だ。一皮向くと人種差別がはびこっている田舎での狂った果実さながらの展開は、マンガ読んでるのに息苦しくなってくる。

 読んでるこっちが真ッ黒な気分にさせられてくる。ああ、ノワールって黒なんだなぁとアタリマエのことをしみじみ実感させてくれる(スズキトモユさんが『フォークナー+ジム・トンプスンのブレンド』と評したのはさすが!)

 ―― で、これのどこが劇薬なんだ? こんなにスゴいのに。

Watashino_1  最後は、これはこわい、と自信を持ってオススメできる山岸涼子作品。No.1は「汐の声」。山岸涼子のホラーアンソロジー「わたしの人形は良い人形」所収なんだけど、こわさは「汐の声」の方が上、なんせラストのあのシーンは夢に見たぐらいだもの。そして、どうしてあの少女だけが「見えた」のだろう? と考えて、さらにゾ~っとさせられたから(わたしのレビューは[ここ])。

 お話そのもののこわさだけでなく、トーンが少ない妙に白っぽい絵柄とか、コマの配列がスゴい。こわいところではページをめくるのをためらうように、次のコマへ目を移すのが厭な気分にさせる。んで、バーン!と大ゴマでクる感覚が絶妙。読んでいるわたしの背後から見ているような展開が、「そんなワケないのに」と思いながらも気分が悪くなる。

 某所で「トラウマ漫画人気投票」があり、2001.10.~2003.1によるとベスト10は以下のとおり。

  1 汐の声(山岸凉子)
  1 妖怪ハンター(諸星大二郎)
  3 洗礼(楳図かずお)
  4 白い影法師(美内すずえ)
  5 負の暗示(山岸凉子)
  6 富江(伊藤潤二)
  6 座敷女(望月峯太郎)
  6 奪われた心臓(楳図かずお)
  6 笑う吸血鬼(丸尾末広)
 10 ゆうれい談(山岸涼子)

 同じく山岸涼子作品だと「夜叉御前」が良い(というか、恐ろしい)。怖いんじゃぁない、恐ろしいんだ。何が? 人間が。オバケやユーレイがこわいんじゃない、最も恐ろしいのは、人間だ、という単純な事実に気づく。

 一回目に読むときはは怖くないけれど、二回目、全部分かった上で読み直すと、心にグっとのしかかるものがある。彼女が見た「鬼」とは、一体なんだったのか…

 正直、15歳の美少女の運命が気になって、そこに着目してばかりいた。だから彼女がどういう目に遭うかは、かなり早い段階で見抜いていた ―― もちろん皆さんもピンとくるはず。ところが、わたしの期待は終盤の大ゴマで粉々に打ち砕かれ、ビックリはさせられる。それでも許容範囲内のはずだった…

 でもね、二回目を読むと、つまり、彼女をジッと見つめる「鬼」の正体を知った上で読み直すと、―― 「鬼=業」なんだとつくづく思い知らされる。人間って、ほんとうに、こわい

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図書館に訊け

 以前のエントリ[参照]で「司書は本のソムリエ」と書いたが、今回はその具体例を紹介しよう。

 それは、「知りたいことを図書館に問い合わせると、調べてくれるサービス」、すなわちレファレンスサービスだ。例えば、こんな「困った」はないだろうか?

  • 自分で調べるのはめんどう
  • どうやって調べてよいか分からない
  • 疑問のテーマがあまりに広いため、絞り込めない
  • この本に書いてあるらしいが、どのあたりか分からない(全部読みたくない)

 こうした疑問をぶつけると、専門家が調べて答えてくれるサービスだ。もちろん図書館が行っているため、本に関する質問には強力に答えてくれる。例えば、

  • ○○という小説家が好きだけど、似た作風の人はいない?
  • あらすじは覚えているけれど題名を忘れてしまった本を知りたい

 ―― などが典型的。「はてな」の人力検索サービスや、「Yahoo知恵袋」、あるいは「教えて!goo」などが思い浮かぶが、こいつは完全無料。しかも調べることといえば右に出るものがいないプロが調べてくれる。

 質問するためには、図書館のアカウントが必要だが、だいたい1週間程度で回答がくる。所定の用紙で受け付ける図書館もあれば、ネット経由でOKというのもある。まずは近所の図書館に訊いてみよう。

質 問:人間の精子と汐の満ち引きの関係について書かれた資料はないか。

回 答:月と精子の関係について書かれた資料はなし。月と男性ホルモン・月経・生殖に関する記述ならあり。

  • 脳に眠る「月のリズム」 : 最新・時間生物学入門 / 喰代栄一著 / 光文社 , 1993.12 p53-55「男性にも月周期のリズムがある」他
  • 月の魔力 / A.L.リーバー著 . 増補 / 東京書籍 , 1996.10 p81-83「生殖サイクルと月」,161-164「体内水分、神経組織への引力の影響」他
  • 月世界大全 : 太古の神話から現代の宇宙科学まで / ダイアナ・ブル-トン著 / 青土社 , 1996.11 p54-61「豊饒の月」「男性と月」他
  • 月の誘惑 : 私たちはそれと気づかず心も体も月に操られている / 志賀勝著 / はまの出版 , 1997.11 p66-73「月とセックス・生殖」他

 「月」「精子」「汐の満ち引き」のgoogle検索だけではこれだけのリストまで絞り込めない。膨大な一覧表になってしまうか、欲しい情報までたどり着けないかのいずれかだろう。

質 問:渡辺淳一の作品を探している。あらすじは、中学生の女子生徒が主人公で、発育が遅れており自分が実は男の子ではないかと疑っている。また主人公は陸上部の選手で、その顧問である男性教諭とのことを描いた小説である。

回 答:「セックス・チェック」が質問要旨のあらすじと一致するので提供する。『十五歳の失踪』(講談社 1972)

 あらすじだけで中身を当ててしまう。回答者は本書を読んだことがなく、一冊一冊あたってみたらしい。いっぽう、↓のようなマニアックなやつもOK

質 問: 「SMガールズ セイバーマリオネットR」作者はあかほりさとるらしい。この本が小説かどうか、また書誌事項が知りたい。

回 答: 『J-BISC』で検索、「セイバーマリオネットJ」(あかほりさとる 富士見ファンタジー文庫 1995)で、内容は小説。

 「googleれよ!」と思わずツッコミたくなるが、中の人は冷静沈着に調べ→答えてくれる。さらに、回答よりも、「回答までのプロセス」が秀逸なのがコレ↓

質 問:三浦綾子と似た作風の作家がいたら紹介してほしい。

回 答: 『国文学解釈と鑑賞-戦後作家の履歴-』の〈三浦綾子〉の項に「三浦の作品はキリスト教的精神にのっとり夫婦愛を追求していることで、菊池幽芳・中村春雨の流れにつながるものといえる」と記述あり。菊池、中村の作品で所蔵資料を紹介する。 『現代女性文学辞典』『新潮日本文学辞典』と前記『国文学解釈と鑑賞』の三浦綾子の項と菊池幽芳の項をあわせて紹介する。

 単に疑問に答えてくれるだけでなく、どのように調べたかを示してくれるので、「三浦綾子」が「曽野綾子」になっても、今度は自分で調べられる。

 ―― とまぁ、こんな感じ。他は、[ここ]をどうぞ。「はてな」と違って全て公開されているわけではないが、「はてな」と同様、興味深い問答ばかりで飽きない。google がまだ弱点とする、書籍の横断的な調査は、図書館のレファレンスサービスを利用すべし。google library project [参照]は、このサービスを目指しているのかもしれない。

 お題の「図書館に訊け」は同名の新書がある。チクと読んでみますかな。もちろん、図書館から借りてねッ。

 税金は、しっかり使おう、忘れずに

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「恐怖の兜」

恐怖の兜 たいていの本は読み始めて数頁たつと、面白さが肌感覚で分かる。だがこいつは違った。読み始めると頭ン中で警報が鳴りだした→こいつはとんでもないぞ、と。でもって、ちょっと変わった構成のお話にのめりこみ→「なんだこれは!」とガクゼンとするラストに犯られた。

 amazonレビューがソソる。

 「ここは、どこなんだ!?」そこは小さな部屋、あるのはベッドとパソコンだけ。仲間探しのチャットが始まる。呼びかけに応じたのは、男女八人――どうやら皆が迷い込んだのは、「恐怖の兜」をかぶった巨人の世界らしい。その正体は、牛の頭をもつ怪物ミノタウロス。この奇妙世界はミノタウロスの迷宮なのだ。そして彼らは救出の時を待つ。ミノタウロスを退治した、英雄テセウスを。しかしその脱出には驚愕の結末が…

 ミノタウロス神話をベースにしていることはすぐ分かるが、迷宮脱出のためのアリアドネの糸(スレッド)とチャットのスレッドがかけてあるのにのけぞる。全編チャットの会話で構成されている、いわゆる「電車男」のスタイルなので、おなじみの方には入りやすいだろうが、慣れないと誰がどんなキャラなのか混乱するに違いない。

 いっぽう、掲示板やチャットルームに入り浸ったことがあるなら、すぐに『あの』独特の雰囲気が再現されていることにニヤリとするだろう。これはロシアも日本も大差なし。

 例えば、空気を読まない奴、何かとまとめたがる奴、二人だけの世界にイっちゃう奴、下ネタやバカ話でまぜっかえす奴、トリビアの応酬 ――そう、あのダラダラした雰囲気で、日本のエロアニメにおける触手の本質や、モニカ・ルインスキーとモナ・リザの共通項について語られる。そして、恐ろしく重要なことは気づかれないまま会話の端に紛れ込むのだ

 「このチャットの"場"に、なにかの目的がある」ことや、「GMがチャットを検閲している(個人を特定できるような発言は伏字XXXになる)」こと、そして何よりも自分以外の参加者を疑っていること(こいつはホンモノなのだろうか? それともフリ?)―― などから、2ちゃんのスレよりも人狼BBSの方が近いかも。

 しかしラスト、「CUBE」(ヴィンチェンゾ・ナタリ監督)や「SEVEN ROOMS」(乙一著)をなんとなく想像してたのが木っ端微塵に砕け散るるる。おおうこうなるとはッ、ある意味、物語の「王道」なのだが、空虚に向かって射出されたような気分、あるいは語り部に連れてこられた先が迷宮の真ん中だった、そんな読後感。

 そんでもって、ずっとROM(Read Only Member)ってた読み手は強制的に次の自問に至る仕掛けだ→「チャットの奴らはこれでいいとして、それを読んでるわたしは誰なんだ」ってね←これも物語の王道オチだな。

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ホンモノのエンジニアを見ろ!

我らクレイジー☆エンジニア主義 読むと咆哮したくなる「我らクレイジー☆エンジニア主義」、(ogijunの)あとで書く日記にて「すごい。読むと泣く。すぐ買え」[参照]とのことなので、読む… … →うっひょー!読むとアドレナリンが出てくるスゴ本だぁッ、ちうわけで痛勤電車内でエンジン全開になり咆哮したくて身もだえ→激しく挙動不審だな(笑

 同時に「ニッポンのエンジニア」について、いかに狭い認識しか抱いていなかったかを思い知る。さらに、技術ではなく、人がスゴいんだ、という単純な結論に至る。スゴい技術はスゴい人から生みだされる。日経で賑々しく紹介される最新技術ではなく、そいつを生み出す技術者自身に焦点を当てたTech総研の企画勝ちだね。

 会社が求める結果を淡々と「製造」しているわたしにとって、好きなことだけに人生を捧げている連中の言葉は、ズギュンと刺さってくる。例えばこうだ――

* * *

大平貴之
プラネタリウムクリエイター
恒星数500万個のプラネタリウムを一人で作った

不可能は証明できない : 「不可能は存在するかもしれませんが、不可能だという前提で議論をするのは、いかがかと思う。宇宙全体の物理法則が理解できているわけでもないので、物事が不可能と証明できるほど人間は賢くない。おごってはいけない」

小濱泰昭
東北大学大学院教授
時速500kmの未来列車エアロトレインを開発

 ヒマな時間がないと、独創的なアイディアは出てこない : 「このNPO法人には、もうひとつの目的があります。それは、第一線で働くエンジニアに、ヒマな時間をつくってあげたいんです。なぜか。走っているだけじゃダメなんです。どこかで立ち止まって、やることがない、これはイカンぞ、というくらいの状況に置かれないと。慌ただしい毎日から抜け出してみる。それも、いい仕事をするためのヒント」

山海嘉之
筑波大学大学院システム情報工学研究科教授
サイバーダイン設立者
ロボットスーツ「HAL」開発者

 つねに知識を捨てながら、新しい知識を得たり、創り出したりして生きていく : 「そもそも高等教育において必要なのは、学ぶ力だけだと思っています。『学ぶ力』さえあれば、やりたい分野について勝手に自分で知識をつけたり、開拓したりする。大事なのは学ぶ力なのであって、○○学科出身とか、専門は何? ということではないんです。だいたい新しい分野を開拓しようとするのに、専門という意味は特にないでしょう」

清水浩
慶應義塾大学環境情報学部教授
世界最速の電気自動車「Eliica」を作った

 車の形をしている時点で、まだ不出来なんですよ : 「エンジンというのはとても偉大なもので、その偉大なエンジンを中心におかなければならないという意識から抜け出せない。この発想では不出来なんです。「Eliica」もまだ車の形をしている。これではおかしいと私は思っています。実は自動車は最初の頃は馬車の形をしていました。あらゆる工業製品は、もとの形に左右されます。自動車はやがてエンジンを載せるために都合のいい形が追求され、今の形になっていった。これから考えるべきは、人間が乗るために都合のいい形になっていくことです。もっともっといい形は、必ずあるんです」

高橋智隆
ロボットクリエイター
設計図なし!ロボット「クロイノ」製作者

 設計図はありません : 「設計図というのは、複数の人間でやっていたり、工場でつくってもらったりするためにあるんです。ひとりでやっているぶんには必要ない。そもそも設計図を書こうと思ったら、つま先から頭のてっぺんまで、全部設計しちゃわないといけない。イメージスケッチしかないのに、そんなのできるわけないじゃないですか。(中略)行き当たりばったりで最適なものを考えていったほうが、結果的にいいモノになると思ってますから」

 … うがーッ紹介しきれない!というよりも、レジュメなら[ここ]読んだ方が早いし、まとめのつもりでこのエントリ起こしているわけではないので、紹介はこのへんにしておく。

* * *

 読む前のわたしの認識と違ってて楽しかったのが、アニメの影響。「光学迷彩」で透明人間を実現した稲見昌彦氏が紹介したのが、(やっぱりというかナンというか)「攻殻機動隊」だし、ポストペットで名を馳せた八谷和彦氏は「メーヴェ」(←わかるね? ナウシカが乗ってるやつ)を作ってしまう。

 アニメの文化が認識の日本人の『認識の底上げ』をやっていることが実感できる。メーヴェであれタチコマであれ、アニメが描く世界がどれぐらい荒唐無稽ではないのか、見る人が試されてきているんじゃぁないかと。

 つまり、ちょっとだけ未来のテクノロジーの可能性を取り込んだアニメを観て、もともとの素養ができているわけ。昔のSF小説を今のアニメが肩代わりしており、どんなに突拍子のない発想も「ありかも?」と考えられるんじゃぁないかと。

 もうひとつ、わたしの予想を裏切ってくれたのが、「技術者とカネ」。ひと昔前までは、「技術バカ」=「技術のことに頭でっかちでビジネスにつなげられない→カネにならずに消えていく or せっかくの技術を盗られる世間知らずの半ひきこもり」と思っていた。

 しかし、ここに登場するクレイジー☆エンジニアたちは全く違う。発想を実装するためには、何よりもカネが必要であり、それは信用に裏打ちされてついてくるものであり、大人数を要するプロジェクトならマネジメントが不可欠であることを分かっている。その上で行動している。思うように資金が集まらない場合は雌伏して待つ、あるいは別のアイディアを目玉にして食いつなぐ。要するにしたたかで執念深くなったんだ。

* * *

 ラッシュの電車でイッキに読む。弾かれたように飛び出す。事物が急によく見えてくる、アドレナリンが垂れてくる、エスカレーター無視して階段を2段飛ばしで駆け上がる、やるぞ、おれはやりたいことをやるんだぁッ、と(心の中で)叫びながら全身で朝日に向かう。最初はロッキー・バルボアのポーズで、そして夢原のぞみの決めセリフで。

 夢見る漢の底力、受けてみなさい! クレイジードリームアターック!

 業界遊泳術はあれど、輝く金の花なんて無いわたしに、わけもわからずやったろうじゃんという気にさせてくれる。それだけじゃなく、会社を飛び出したくなるぐらいアツい気持ちにさせてくれる、ちと毒な一冊。

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プロジェクトを成功させる魔法の言葉

 あいにく銀の弾丸の持ち合わせはないが、うまくいくプロジェクトでよく使われていた言葉は確かにある。耳にしたときは聞き流していてた言葉を、この本は思い出させてくれた。ここでは、そんな「魔法の言葉」を紹介する。

 ネタ元は「目標を突破する実践プロジェクトマネジメント」。ふつう、図書館で読んだ本はそれっきりだが、こいつは買って周りにばら撒く。薄くて分かりやすくて、すぐにやってみようという気にさせるところがいい。

* * *

■ もし、問題があるとすれば、それは何ですか?

 朝会や進捗会議で「何か問題はありませんか?」という質問はよくするしされる。けれども答えはいつも決まっている→「特にありません」。でもって、不具合が起きると、「あのとき聞いたのにッ」←→「こうなるとは思ってなかった」となる。

 身に覚えない?

 これを、冒頭の質問にしてみると、アラ不思議、いくらでも出てくる。「問題ない?」には無反応だったのが、「これから問題が起きるなら」、あるいは「いま気づいていない不具合があるなら」と言い換えると、様々な「問題」を教えてくれる。

 つまり、「問題ありませんか?」という質問の裏には「潜在リスクを洗い出してください」がある。いっぽうで、「特にありません」という答えの裏には、「顕在化している不都合な点はありません」がある。両者のギャップを埋めるのが、この質問というわけ。

 応用:「この対応をやったことで、別のリスクが発生するならば、それは何だろう? それはどうすれば"見える"ようになるだろう?」。デグレード要因の洗い出しの場では、必ずこの質問をするようにしている。

■ あと何日?

 これまた進捗会議で「進捗率90%です」とある。「そーか、ほとんど完了しているんだなー」と思ったら要注意。残り10%が全然進まないのよ。次回も次々回も90%のまま。「進捗率」は、「予算を消化した割合」なのか「書き上げた行数」なのか、人によってさまざまだったりする

 身に覚えない?

 これを、「あと何日?」で問い直す。スケジュールの予実の割合ではなく、その作業を終わらせるためにあと何日かかるか? と聞く。問うているのは、決して、スケジュール上の完了予定日マイナス消化日数ではない←これ超重要。

 すると、答えるほうはこうクるはずだ「○○さえなければ、あと○日です」、あるいは「△△が間に合えば、あと△日で終われます」ってね。

 作業開始の初日から完了まで、「あと何日」で管理する。経過した時間は1日だからといって、あと○日マイナス一日というわけではないことを、常に意識しながら進める。

 例えば、10日のタスクがある。開始5日の時点で「あと7日かかる」ことが分かれば、2日遅れることがこの時点で分かる。だから手を打たなければならない。あったりまえじゃん、と言うなかれ。進捗率ならこう報告するはずだ→「若干遅れ気味ですが、進捗率は50%です」ってね!

  □□□□□□□□□□  10日のタスク

  ■■■■■◇◇◇◇◇◇◇ 開始5日目での進捗(■は消化済み、あと◇かかる)
                 ↑↑
              ここを見るべし

 ここで見るべきは、消化済みの■ではない。進捗率50%と言いたくなるのは■に着目した場合だ。終わったものに目を向けるのではなく、完了までにどれぐらいかかるか? こそが本来管理されるべき対象。だから、■ではなく、◇に目を向ける、「あと何日?」という質問でねっ。「先手管理」はマネジメントの肝なんだが、具体的にはこの質問が相当するわけだ。

■ 目的は何ですか? 成果物は何ですか? 成功基準は何ですか?

 プロジェクトが混乱する原因の最たるものは、たった一つ→「目標が明確でない」。雀の涙の予算や、二転三転する仕様、尻だけは決まっているスケジュール、どいつもこいつも要因になりうるが、最大は「結局何のためのプロジェクトかハッキリしないままスタートしちゃっている俺ガイル」だろ?「プロジェクトのゴール」や「目標」というとピンとこないかもしれないが、お題の質問に言い換えると座りが良いかも。

 目的:「最大の儲けの実現」「圧倒的なブランドの確立」「業界で注目を浴びる人材を育て上げる」など、みんながワクワクするような、(かつ実現可能性のある)目的―― 何のためにこのプロジェクトがあるのか―― を出し合う。

 成果物:その目的達成のために、具体的に何を作るのか? という問い。「システム一式」、「納品物一式」にしてしまわないで、ブレークダウンする。

 成功基準:前2つの議論の中で、「それは何を達成したら、『成功した!』と言えるのだろう?」と言い換える。具体的に数字や行動で測定できるものを定義する。「利益率40%」でもいいし「社長から『よっしゃ、よくやった』と誉められる」でもいい。

 この、目的(Objectives)、成果物(Deliverables)、成功基準(Success Criteria)の頭を取って、ODSCというそうな。プロジェクトをODSCでデザインする。メンバーで出し合って共有するところがポイント

* * *

 ネタ元「目標を突破する実践プロジェクトマネジメント」はスゴ本。

 ゴールドラットの制約理論は「ゴール」読んだだけで知ったかぶっていた。あるいはクリティカル・チェーンは、PMBOK3で分かった気分になっていた…が、TOCを実践でどう適用していいのか分かっていなかった。本書はそいつを、徹底的に、肌感覚で分からせてくれる。しかも、『読んだらそのまま』使える仕掛けが施されている

 「山積み・山崩し」の肝や、「遅れは伝播するくせに、進みは伝わらないひみつ」、あるいは「サバ取りの極意」(←これは読んだ今日使った)といった、いま、わたしが必要とするネタばかり。納期に間に合わせるために無意識のうちにサバを読んでしまう(丸めてしまう/下駄履かせてしまう/バッファ入れてしまう)心理が、いかにプロジェクトを圧迫しているかがよーく分かる([ここ]にイラスト付きで紹介されている)。

 PMPとしてSI屋である自分の仕事を見るにつけ、かつて輝いてい見えた「開発手法」が色あせて見える。あ、ダメというつもりじゃないよ。開発手法に拘泥する、あるいは開発手法が成否を決めるといった発想から離れようとしている。RADだからよいとか、WaterFallだからダメといった議論が、過去のものになりつつある。

 つまり、「目標に向かって、いかにプロジェクトを運営していくか」という命題を達成するツールとして認識できるようになった。「コンピュータ・システム」を作るために、そのツールとして手法がある、というカンジが感覚として身についた。

 さらに、その上位にあるマネジメントの方法(の一つ)にTOCがあるのだなー、と理解できるようになった。山が開けた感じ。この感覚、PMBOK3読んだ人と共有したい。あるいは、これからPMの仕事する人にも伝えたい―― そういう一冊。

* * *

 以下自分用、P2Mをやってみるか。

  日本TOC推進協議会   TOC-CCPM情報サイト

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ゆりさんから挑戦状を叩きつけられる→「けッBLかよ」鼻で笑って読む→気持ちが悪くなる→完敗(ごめん劇薬でした)

 わたしが知らない劇薬本は、ゆりさんが読んでいた

WELL うん、確かに最悪の読後感を味わえる、いろいろな意味で。わたしと同性(男)の感想を聞いてみたい一方で、異性、特に嫁さんには絶対に見せられない。この「嫁さんに見せられない逸品」はギャルゲ・アニメ・同人etcとシリーズ化できるぐらいあるが、本書はその頂点と相成った。

* * *

 萌えるシチュエーションはそれこそ千差万別で、ユーザーの数だけニーズがある。いっぽう、いかなる状況でも萌えられるというのは、パワーユーザーの資質だ。

 そうした思惑を粉砕してくれるのがこれ。突然世界が崩壊して、生き残ったのは男だけ(女は全滅、原因不明)。ウホッ、男だらけのジ・エンド・オブ・ザ・ワールドというやつ。「世界が終わる」はネタに困ったときの常套手法かもしれんが、だからといって女を殺すな、女を!(←この時点で、潜在読者の半分を作者自ら抹消している)。

 世界の終わりとボーイズ・ラブの相性はいいのか? あるいは、ノンケがゲイに目覚めるためには、世界を丸ごと一個を必要とするのか?

 いっぽう、読んでて面白いなぁ、としみじみ思ったのは、作者その人。いったいぜんたい、どんなつもりでこれ書いたのだろうか? こんな「セカイ」にせずとも、いくらでもBLできるだろうに。終末小説が書きたいから? 口に糊するため? 普通、小説は単品で存在するものとして、作者なんて属性の一つと思っているわたしにとって、顔を拝んでお話したい例外ができた。

 いそいで付け加えておくが、小説としてのデキは期待しないほうがいい。ハルマゲドンモノとしても恋愛モノ(?)としても破綻しているし、全てのオチは開始数頁で分かる。BLとしてスゴいのかどうか知らんが、とりあえずちんこ立ったといっておこう。監禁陵辱という萌えシチュになると、どうしても反応してしまう自分が憎い、憎いよ。いかなる状況でも萌えられるというのはパワーユーザーの証なんだ。ああ、自己嫌悪で気分が悪い、しかも読み終わってもついてくるよこの気持ち。

 本書の劇薬性について、ゆりさんが一言で喝破している。

何より怖いのは、これ読んで素直に「萌えました」っていう女性がいることじゃないかと。

 ああ、わかるよ、きっといるに違いないという確信が絶望に変わる。読んだ人なら同じ結論に至ってガクゼンとするかも。世の中には、氏賀Y太でないと抜けない人がいるように、本書を激しくオカズにする女がいる、きっといる。

 BL入門書としてどうかは… すまん熟練者に訊いてくれ。いわゆるBL本は本書が初体験なので(///)。

* * *

 さて、極限状況でのもう一つのテーマカニバリズムについては、ゆりさんは「ひかりごけ」(武田泰淳)を挙げている。人肉を犬の肉と偽るところなんて、むしろ「野火」(大岡昇平)を思い出した(もっともあれは「猿の肉」なんだが)。本当に餓えているときは、禁忌をめぐる対話なんてなされるべくもなく、喰える人とそうでない人に割れるだけのような気が。つまり、喰える人は躊躇しつつしっかり咀嚼するだろうし、できない人は完全に論破されてもできない(口に入れたら喰うぞ、泣きながら)

 あるいは、中途半端にこのテーマを取り入れて炎上した「マイナス」(沖さやか)を思い出す。単行本化にあたり削除された、『あの部分』よりも、むしろそういう性質の主人公にした書き手の方がスゴいね。「沖さやか」でピンとこなければ、「はるか17」の山崎さやか、と記しておこうか。

 このテーマも、ひと山できるぐらいあるが、最近読んだやつで「復讐する海」が良かった(レビューは[ここ])。劇薬小説というよりも徹夜小説、徹本というやつ、しかもノンフィクション。謹んでゆりさんに御礼仕る。

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「どんがらがん」は妙ちきりんなスゴ本

どんがらがん けったいな短編集、読むと不思議な気分になれる16編。ただし逸品だらけ、しかも、人によってイチオシが違ってくるという奇妙な作品集。

 … とはいっても展開が「あさっての方向。」だったり、読み手を韜晦するような難解なストーリーではない。むしろ、悲劇的なラストなのに思わずクスッと笑ってしまったり、日常的な会話から始まって「そこまで行くか!」と叫んでしまうほどトンでもない話へ転がっていったり。

 ミステリ、SF、ファンタジーのいずれの枠にも当てはまらない。実際、ヒューゴー賞、アメリカ探偵作家クラブ(MWA)賞、世界幻想文学大賞の全てを短編で獲っているのは、あとにも先にもデイヴィッドスンしかないとのこと。

 最初の印象は、「残酷なO.ヘンリー」、「ユーモラスなレイ・ブラッドベリ」あるいは「ペダンティックなティプトリーJr.」だったが、進めるにつれ、そのスゴさに魅了されてくる。短編の名手だね、この人。収録作にある、

  • 「物は証言できない」(EQMM短編小悦コンテスト第一席受賞)
  • 「さもなくば海は牡蠣でいっぱいに」(ヒューゴー賞最優秀短編部門受賞)
  • 「ラホール駐屯地での出来事」(MWA賞最優秀短編部門受賞)

 などは、スゴ本ハンターなら要チェックの「賞」だろう。わたしのイチオシは冒頭の「ゴーレム」、出だしからオチまでの巧妙な展開と、絶妙な会話(重要!)、珍妙なプロットと読者との共有感のバランス具合、全てが完全な短編小説(perfect story)、良い小説の見本みたいなもの。ちなみに、「完璧な短編小説」、ミステリなら「妖魔の森の家」(ディクスン・カー)、文学なら「満願」(太宰治)が挙がる。

 ストーリーには一切触れない。いったいぜんたい、何の話なのかいぶかしげに頁を繰るのが読者の「特権」なんだから、惹かれた方は予備知識を排して手にしてみて欲しい。「ゴーレム」なら10頁、立ち読みできるゾ。

* * *

 本書を知ったのは殊能将之氏のblog[参照]、氏の著書「ハサミ男」は予備知識ゼロで読み始め、ラストで心底ビックリさせられたなぁ… やっぱり面白い本書いてる人は、面白い本読んでるねッ。

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劇薬小説「血と骨」

 スゴいというより、凄まじい小説を読んだ。

 米光さん、オススメありがとうございます、1000ページをイッキ読み、「わたしが知らないスゴ本は、米光さんが読んでいた」というやつですな(米光さんのレビューは[ここ])。blogやってなかったら、一生知らなかった(知らずにすんだ、ともいう)劇薬小説にめぐりあえてホント、良かった。

 ただし、読む人はご注意を。エンターテイメント性は一級かもしれないけれど、暴力と性描写が激しすぎる。没入すると我を忘れてしまう恐れあり。経験の浅い若い人が読むとアてられてしまうかも。例えばセックスの描写はこんなカンジ――

 英姫は急に意識が醒めていく のを感じた。金俊平の荒々しい力がまるで嵐のように英 姫の体を通過しようとしている。英姫は早く終わってほ しいと思った。

 「どうした?」

 と金俊平が英姫の顔を見た。英姫は顔をそむけて返事 をしなかった。英姫の愛液が乾き、あきらかに金俊平の ものを拒絶していた。金俊平はゆっくりと英姫の体から 離れ、つぎに英姫の陰部に唇を這わせた。

 「やめてください」

 と苦痛にも似た声で体をよじる英姫を無視して金俊平 は英姫の全身に舌を這わせるのだった。何度も舌を這わ せているうちに、英姫の全身が金俊平の唾液にまみれ、 どろどろに溶けていくようだった。汚辱と恥辱にまみれ た英姫はしだいに不思議な感覚に痺れていくのである。 いわば汚辱と恥辱と嫌悪の感情が剥ぎ取られ、生身の体 だけを晒しているような恍惚とした状態に陥るのだった。 それは一種の睡魔の状態に似ていた。感覚が麻痺するた びに深い眠りの底へと誘われていくあの抵抗し難い快感 に体をゆだねようとしていた。

 そして再び金俊平のものが英姫の体の芯部に深く侵入 してきたとき、英姫は一気に昇りつめて「あー」と自分 でも信じられない呻き声をあげ、愛液が満潮のように溢 れ出た。激しい快感が全身を電流のように駆けめぐる。 英姫はわれを忘れてめくるめく世界へ逆しまに落ちてい ったかと思うとつぎの瞬間、奥底からせり上がってくる 感情の塊りが英姫の脳天を突き抜けて行った。

 何がどうなっているのかわからなかった。腰がくだけ、 体の痙攣が止まらなかった。放心状態の英姫は、しかし 急に羞恥心を覚えて衣類で裸身をおおい、金俊平に背を 向けた。そして英姫は素早く衣服を着て座り直した。

 ええまぁ、フランス書院も真ッ青なんだけど、こんなんが続く。ねちっこいセックスをヤったことがある人なら、きっとその経験を思い出す。電車で読んでて愚息が元気になりすぎて困った。

 暴力も凄まじい。修羅場の準備で鎖を体に巻きつけて、手にはロープをぐるぐる巻きにする。ドスで突っ込む極道の刃を掌でつかんで受け止める。耳を噛みちぎって食べる。浮気した情婦は逆さ吊りにして刺身包丁で臀部を削いで食べる。焼け火箸を手にして「二度とあれができないように、おまえのあそこを焼いて閉じてやる」――要するに、セックスとバイオレンスの間に、戦中戦後の大阪下町を舞台とした朝鮮の民の物語が挟まっている。

 主人公そのものの存在が化け物としかいいようがない。2メートルの巨漢、眼光鋭く、厚い唇と発達した顎の筋肉を太い首が支えている。五分刈りの頭から額にかけて、鋭い爪あとのような傷が喰い込み、潰れた右耳と顎のあたりの肉がケロイド状に盛り上がっている。扁平は鼻腔が欲情した馬のように大きく膨らんでいる。

 豚の内臓を腐らせたものを健康食だといって食べる。犬百頭の間接を煮込んだ汁を呑む。真っ赤な炭火を素手でつかんで突きつける。読み書きはできないが、恐ろしいほどの記憶力。朝鮮語の殺し文句に「きさまを料理して喰ってやる」というのがあるが、まさにモンスター。肉塊でできた機関車のような存在。猛スピードで暴走し、ぶつかる人間を粉砕する。

 カネとセックスをトコトンまで書き尽くしているにも関わらず、テーマは「家族」。血と骨という言葉は、コリアンにとって特別な意味がある。朝鮮の巫女の歌の中に、「血は母より受け継ぎ、骨は父より受け継ぐ」という一節がある。朝鮮の父親は息子に対し、「おまえはわしの骨(クワン)だ」という。それは、血もまた骨によって創られることを前提にしているからだ。土葬された死者の血肉は腐り果てようとも骨だけは残るという意味がこめられている。血は水よりも濃いというが、骨は血より濃いのだ。

 切迫感をもって読ませる小説として馳星周の「不夜城」を思い出すが、セックスもバイオレンスもこっちが上(ただし、「不夜城」の方がスタイリッシュ&エンターテイメントといえる)。あるいはえげつなさを味わうならば、新堂冬樹の「溝鼠」がタメ張れそう。いずれにせよ劇薬小説であることは確か。

 慣れない人は読まないほうが吉。

血と骨(上)血と骨(下)

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