最もオライリー本っぽくない「アンビエント・ファインダビリティ」には、たくさん考えさせられた
おそらく、このblogの読者の皆さんは経験したことがないだろうが、わたしは、google 検索結果に大泣きしたことがある。ただのツールに過ぎないと思っていたgoogle に、そのときは心底感謝したものだ。
事の起こりは、ある電話から始まった。わたしの大切な人が倒れたという。駆けつけると、その人は目を見開いてただ横たわっているだけで、こちらの呼びかけに応えられないようだ。脳梗塞を疑ったが、医師によると、ギラン・バレー症候群だという。
医師はそれなりに勉強してきたようで、症状・療法・後遺症、そして治る可能性と死ぬ可能性を、それぞれ数値を挙げて説明してくれた。
医師のもとを辞したとき、わたしの目の前は混乱と恐怖だけあった。説明されたことは理解できたし(理解できるような言葉を選んでくれた)、理解したことはちゃんとメモってある(病名のつづり、療法、薬)。それでも何をすればいいのか、そもそもなんでこんな病気になったのか、皆目見当もつかなかった(医師は"運"と言い切った)。
そんな中で、わたしはgoogleに「ギラン・バレー症候群」を叩き込んだ ──
── そこで得られたものは「安心」だった。安心「だけ」と言ってもいい。
受けた説明は妥当かつ正確なものであることがハッキリした。進行状況と投薬のタイミングの裏づけが取れた。生存率と後遺症について、隠すことなくきちんと説明してくれたことも分かった。
そして、闘病記や生還した人のホームページ(当時はブログなんて無かった)、専門に研究している人のアドレスが手に入った(もちろん手紙を書いて、研究レポートを譲ってもらったよ)。わたしの大切な人は、結局のところ、戻ってこれた。そこまでの介護日記はこのblogの話題ではないので割愛するが、重要なのは「安心」をgoogle経由で得たこと。
どうしてこんな私事をつらつらと書いているかというと、「アンビエント・ファインダビリティ」を読んだからだ。このオライリー本らしからぬ不思議な本を読んでいると、「求めている人にとって、見つけられなかった情報は、ないも同然」というシンプルな結論が見えてくる。わたしと同じ混乱や恐怖にぶつかった人は、googleを知っているだろうか? と、思わず問いかけたくなる(誰に?)。
ファインダビリティ ── 情報のみつけやすさ。オライリー本であるにもかかわらず、webに限定しない。むしろwebで生まれた技術をリアルに出そうとする。あるいはwebの"こちら側"の想念を"あちら側"で適用しようとしている。
本書の随所に見られるキーワードは、いわば「旬」のもの。このblogをRSSリーダやdel.icio.usでチェックしているような人にとっては、どこかで聞いた概念や技術の羅列ばかりで退屈かもしれない。例えば、こんなキーワード…
- ロングテール(もちろんamazonの例)
- SEA,SEO,SEM(Search Engine Advertising/Optimization/Marketing)
- タクソノミー → オントロジー → フォークソノミー
- タギング(read_later/あとで読む、やね)
- プッシュ/プル(google検索結果の右側と左側が象徴的)
- アバウトネス(aboutness)
- googleのファーストフード化:マクドナルドではなく、マクグーグル(McGoogle)
これだけ見るなら、「さいきんのweb」で括られる。「はてな」のhotentry向けの話題ばかりでしょ。これらはwebの世界からの切り口であって、リアルでは別の側面を持つ。
むしろ、そこからの切り込みが面白い。「Webだから」「リアルだから」と分け隔てせず、平等に(というよりも、混ぜて)論じている。RFID とウィリアム・ギブスンとオーウェルが同じ視線で語られているのが面白い(←この視線は"そういう社会"を薄々恐れていたわたしの心配に完全に火をつけている)。
例えばwebのパンくずリストの概念からは、リアルでは「RFID」+「子ども」OR「認知症」を思いつくかもしれないけれど、そこからさらに、"Big Brother is watching you"を強制的に思い起こされるとヒヤリとする。可能性と危険性は、既にマナ板の上に乗っかってるってぇ寸法だ(技術は別だけど)。
あるいは、「データのメタデータは、メタデータがそこにあるのではなく、データそのものがメタ化する」なんて指摘はgoogleが今まさにやろうとしていること(Library Project)を簡潔に言い表しており、ぎょっとさせられる。googleのやることは、既にお見通しってぇことだ。
本書ではそうした概念や技術と、その背景の思想・歴史を、行ったり来たりしながら深堀りしている。非常に散文的(詩的?)な展開に面食らうかもしれないが、著者と一緒になって、自らの知見と照らし合わせながら考えるのは、非常に面白い経験になるだろう。
ピンとこない人には、こんな思考実験はいかが?
あなたが、ガンを告知されたら、真っ先にすることは何だろうか?
親しい人に打ち明けて、支えになってもらう?
加入している保険会社の電話番号をまわす?
ひっそりと泣いてみる?
どこかに入信する?
いや、このblogの読者のリテラシーなら、最初にすることは決まっている→医師の説明に出てきた療法、進行状況、症状のキーワードを、片っ端からgoogleに突っ込むだろう。あるいは、いっしょに『日記』『ブログ』も入れるかもしれない。そして、同じ運命に巻き込まれた(巻き込まれている)センパイたちを探そうとするに違いない。
しかし、そんなことを知らない人は、どうするのだろう?

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コメント
キャッチ22の原作者、ヘラーもギランバレーからの生還者でしたね。
私の家族も10年くらい前に突然倒れて、重症筋無力症か、ギランバレーか、しばらく診断が確定せず、非常にやきもきしました。その時、Yahoo等で探しまくって、症状や治療方法、生還者の記録等、一気に読みました。
結局、命に関わらない、障害も残らない(でも手術痕はあり)、重症筋無力症と確定したときは、生き返った思いでした。
それまでの間、ヘラーの『笑いごとじゃない』を読んでいました。
投稿: 金さん | 2007.02.07 16:06
>> 金さん
ネットで症状や治療方法、生還者の記録等を探しまくり→一気に読みで、締めはヘラーの「笑いごとじゃない」まで全く同じですね。(あのキャッチ22の作者が…と意外な親しみ?を覚えたものです)
同じような状況のとき、書籍が挙げられるかと思いますが、
・調査スピードと最新性
・複数のソースによる確からしさ
・まとめサイトで得られるメタ情報
・必要なら原典にあたれるリンク性
などなど、全てにおいてネットが書籍を凌駕しています。以前紹介した、「打ちのめされるようなすごい本」のガン闘病記録を読む限り、米原氏は上手に検索できていなかったことが分かります。
google を上手に活用すれば、信ぴょう性を複数のソースから判断したり、研究レポートを原典までさかのぼって確認したりすることは可能です。しかし、それらをやらずに、手当たりしだいに本を読み、コンタクトを取るためにネットを利用していたようです。本から得た情報を客観的に評価するよりも、むしろ自分の直感を納得させるためにネットを利用していたように見受けられます。
その結果、かなりの時間をムダに使っていたことが読み取れます。彼女に検索技術があればQOL(Quality Of Life)を高められたはずなのに…
投稿: Dain | 2007.02.07 22:44
『未来をつくる図書館』という本をいま読んでいるのですが「2 高まる医療情報へのニーズ」の章に図書館に医療関係の情報がどのように集まっているか書いてありました。
医療機関が協力して知識格差を少なくし、患者が病気を理解し、家族で治していくため情報が集められているようです。
検索技術をカバーしてくれる試みが多くなされていて、ネット以上の情報が集まっているように感じられました。
私の紹介より、amazonの書評のほうが詳しいので興味がありましたらご参考になさるとよいと思います。
投稿: ichihaku | 2007.02.14 03:36
>> ichihaku さん
教えていただいて、ありがとうございます。図書館本としてアンテナの網に入っていたのですが、そんな話もあるのですね… 手にとって見てみようと思います。
病気になってから探し始めるよりも、いわば「知の保険」のつもりで準備しておこうと思っています。
投稿: Dain | 2007.02.15 01:41