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「わたしのいもうと」の破壊力

わたしのいもうと 読むと後悔する絵本、劇薬絵本とでも言おうか。そんなことはつゆ知らず、「読んで」と子どもが持ってきたら読まなきゃいかんだろ。

 後ろを向いた「いもうと」の表紙を見たときの、なんとなくヤな予感はあたった。テーマは「いじめ」、しかもガチ、さらにラストが…

 ―― 引越しして、あたらしい街に住むことになり、期待に胸をふくらませて学校へ行った「いもうと」。そこで受けた「いじめ」は、どちらかというと、よくあるいじめ。「いもうと」はこころを傷つけられる。

 それから学校へ行かなくなった「いもうと」の日々を家族の視線で追いかける展開なのだが… まさかこうなるとは。そして、ラストの「いもうと」の手紙が胸に刺さる。この絵本の手にしたわたしも「いじめ」の傍観者になった気分だ。彼女の願いはとてもあたりまえのこと――「みんなと仲良くしたかった」が踏みにじられ、踏みしだかれた「いもうと」を置き去りに、いじめた子どもたちはすくすくと大きくなり、中学生になり、高校生になり、学校へ行かなくなってこもりっきりの「いもうと」の部屋の窓の下を楽しそうに笑いさざめきながら通り過ぎてゆく…もちろん「いもうと」のことなんて忘れてしまって。なんと残酷なことか。「いもうと」は最後の最期までこちらに顔を向けない。ずっと「いもうと」の表情は見ることができない。「いもうと」が流した涙も、思いも、くやしさも、悲しみも、ぜんぶ絵本の読み手が想像するしかない。そしてこの話がストレートであればあるほど、「いもうと」がどんな思いでいたかダイレクトに伝わってくる。

 子ども相手に読み聞かせしていたんだが、声が詰まって読めなくなる。いつもと違う父に戸惑う子ども。声を震わせながら読んだ後、わたしは子どもにこう言った。

 いじめは、ぜったいに、許されないことだ。いじめとは、その人がされたらイヤなことを、することだ。どんな理由であれ、その子がされたらイヤなことは、してはいけない。これは、あたりまえのことなんだ。

 だけど、おまえが、イヤことをもしされたら、いやだ、といいなさい。いやなことをやまなかったなら、先生にたすけてもらいなさい。パパとママにいいなさい、なにがあってもきみをまもる。

 かなり静かな声で伝えたが、思いはハッキリと伝わったようだ。

 さいきん、善悪が分かるようになり、「死」や「罪」の話をする。「死んだらどうなるの?」とか「悪いことをしたらけーむしょにいくんだよね?」といった話を振ってくる。

 ここぞとばかりに、悪いことをしてはいけない、人を傷つけてはいけない、人殺しは死刑、最も罪深いのは、自分という「人」を殺すこと。善いことも悪いことも、ぜんぶカミサマが見てる、パパはそれを「天」と呼んでいる、ほかにも「地」が見ている、さらにそのことをした自分こそが、一番知っている。もしも悪いことをしてしまったら、相手に「ごめんなさい」といいなさい。相手がいなければ、パパとママにいいなさい。

 という、あたりまえ(?)のことを折にふれ何度もしつこく言い聞かせている。中学生ぐらいになって、小鼻をぴくつかせながら「どうして人を殺してはいけないの?」などというアホな質問をさせないために、絶対にやってはいけないことをしっかりと教えている。カルネアデスの板なんて、自分で結論を出せ。

 この絵本は要するにイソップのカエルの話なんだが、大きく異なるのは、石を投げる子どもに向かって「君たちが戯れでやっていることは、我々の命に関わることなのだ」などと告げないこと。「いもうと」はひっそりと死に、わたしは、ひとが傷つくさまを傍から見ているしかない苦しみを味わわされる。終わっても、釈然としない思いを抱えることになる。いや、ヒドい言い方をしてもいいのなら、こんな思いを知らないままでいたほうがよかった、そういう破壊力を持つ絵本。

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コメント

子を持つ親として昨今のいじめの記事から、この絵本にたどり着きました。読んで、なんでこんなに自分が泣けてしまうのかいまいち理解できなかったものがあったのですが、このブログの「わたしは、ひとが傷つくさまを傍から見ているしかない苦しみを味わわされる。」という言葉にようやく気づけました。助けたいのに助けてやれない、傍観者のような無力感、こういう人間にだけはなりたくないと一番思っているのに…という悔しさが涙を流させたのかもしれません。自分の子供たちにも、いろいろ教えていかないとと感じさせるものでした。ありがとうございました。

投稿: もとひろ | 2012.07.20 04:31

>>もとひろさん

それは物語の力です。「ひとが傷つくさまを傍から見ているしかない苦しみを味わわされる」という力に、わたしは揺さぶられたのです。物語のおかげで、(それに似た)現実をシミュレートして感情を慣らすことができるのです。
そういう意味で、この絵本は良いシミュレーターですが、読み手にとっても残酷ですね。どんなにかわいそうだと思っても、読み手は彼女に手を差し伸べることも、声を掛けることもできないのだから。ただ、「読む」ことしかできないのだから。

投稿: Dain | 2012.07.20 21:59

いじめ防止には、親を始めとする周囲の人間達がきちんとした躾教育を施す事から始まります。
本当の愛情は、信じる事と気付いてやる事とそして導く事です。
いじめは、傍観者が少し勇気を出して加害者の行為を全力で阻止しなければ、いもうとの様な悲劇を増やす事になるでしょう…

投稿: プクリポ | 2012.08.15 02:44

>>プクリポさん

コメントありがとうございます。信じる、気づく、導く、確かにその通りです。肝に銘じて子どもに接します。

投稿: Dain | 2012.08.16 20:44

だいぶ後で申し訳ないです。そうだよな。私も昔いじめられたことあるんですよ(小学生の頃)。今また読み返してもあの頃を思い出すよ。いじめられたあの頃正直学校登校嫌だった。砂をかけられたり、体を蹴られたり。おかげで痙攣発作をおこしたな。いじめというのは凶器である、いじめが長ければ長いほど相手の人生が暗くなるんだよ。した側は得するけどされた側が暗くなるんだよ。おかげで私は軽い持病を持ったけどね。道徳の授業を増やすべきだね。

投稿: こひつじ | 2018.09.23 13:12

>>こひつじさん

コメントありがとうございます。そうです、「いじめというのは凶器」←その通りだと思います。そして悪いことに、いじめる側は自分が凶器を振り回していることに気付いていなかったり、さらに悪いことに、気付いていたりするのです。「いじめは悪」であることは、もっと世の中に広まればいいのに。

投稿: Dain | 2018.09.23 17:15

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