ローマ人の物語III 「勝者の混迷」の読みどころ
勢いのある「ハンニバル戦記」から一転、あれほど著者が忌避した世界史の教科書のような停滞ぶり。ポエニ戦役を勝ち抜いた後、ローマに訪れた内紛と混迷の時期がだらだらと書かれている。
好き嫌いが激しいのか、ローマ史上では超重要な人物、マリウス、スッラ、ポンペイウスの書き込みは淡々としており、著者の思い入れはさしてないことが分かる。分かりやすい書き手なので安心して読める。この調子だと、カエサルは弾けるんじゃないだろうかと予想する(←的中!)。
「勝者の混迷」の読みどころは、出来事の分析ではなく、塩婆史観を愉しむところにある。つまり、"自称"シロウトの「~ではないか」「もし~ならば」から、ローマだけでなく、それを語る人をどう評価しようとしているのかを推理するワケだ。このへん↓が、たいへん面白かった。
■ローマ人と義理人情(文庫版6巻p.167)
ローマ人が創り出した法の概念と、義理人情は矛盾するではないかといわれそうだが、私の考えでは、思うほどは矛盾しない。法律とは、厳正に施行しようとすればするほど人間性の間に摩擦を起こしやすいものだが、それを防ぐ潤滑油の役割を果たすのが、いわゆる義理人情ではないかと考える。法の概念を打ち立てたローマ人だからこそ、潤滑油の重要性も理解できたのではないか。
マリウス、スッラ、そしてポンペイウスもカエサルも、義理人情の重要性を理解した男たちであった。彼らと兵士たちとの関係を、近現代のほとんどの研究者たちが「私兵化」であると一刀両断して済ませるのは、その人々が人間関係における義理人情の重要さを解さない、いや解そうともしない欧米のインテリだからである
マリウス、スッラ、そしてポンペイウスもカエサルも、義理人情の重要性を理解した男たちであった。彼らと兵士たちとの関係を、近現代のほとんどの研究者たちが「私兵化」であると一刀両断して済ませるのは、その人々が人間関係における義理人情の重要さを解さない、いや解そうともしない欧米のインテリだからである
はじめに断っておかねばならないが、イエス・キリストは、人間は「神」の前に平等であると言ったが、彼とは「神」を共有しない人間でも平等であるとは言ってくれていない。それゆえ、従来の歴史観では、古代よりは進歩しているはずの中世からはじまるキリスト教文明も、奴隷制度の全廃はしていない。キリスト教を信ずる者の奴隷化を、禁止したにすぎない。だから、ユダヤ教信者を強制収容所に閉じ込めるのは人道的には非でも、キリスト教的には、完全に非である、と言い切ることはできない。アウシュヴィッツの門の上にかかげられてあったように、キリスト教を信じないために自由でない精神を、労働できたえることで自由にするという理屈も成り立たないではないからである
「欧米のインテリ」たちによっぽど酷い目にあったのか、目の仇にしている。現代にいたるまでの史家たちの積み重ねによって、今わたしたちの手に残っているのだから、もう少し謙虚になってもいいじゃないかと。そうした歴史家たちをまとめてバッサリ斬っているところは、小気味いいと感じるより不気味思えてくる。
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