本ばかり読んでるとバカになる
本の探し方についてのエントリ「本を探すのではなく、人を探す」において、「目的を持って読む」と書いたが、具体的に何をどうすりゃいいのか、書いてない。本を選ぶまでが前回のエントリなら、ここでは、選んだ本をどうやって読んでいるかについて、書く。
最初に
やはり長くなりすぎたこのエントリのまとめ↓
読書は他人にものを考えてもらった結果をなぞるだけだから、自分のアタマでものを考えなくなる。そうした受動的な読書を打ち破るために、オキテを作って実践している。 オキテ1:読むだけの読書にしない、オキテ2:読んだら表現する、オキテ3:読んだらフィードバックする、の3つ。その結果、読書の対象に広がりと奥行きと深みが増した。特にオキテ2を強力にオススメする。
まとめ終わり。本文どぞ。
本ばかり読んでるとバカになる
ショウペンハウエルが「読書について」でいいこと言っている。読書は他人にものを考えてもらうこと。だから本を読むことは他人の思考過程をたどっているだけであって、自らの思索の自由を阻めることになる。書物から読み取った他人の思想は、他人の食い残し、他人の脱ぎ捨てた古着に過ぎない。ヒマさえあれば本に向かうという生活を続けて行くと、精神が不具廃疾になるという。
さらに追い打ちで多読を批判をする。自ら思索しようとせず、最初から本に頼る。書物によって知り得たにすぎない知識や思想を、あたかも自分のもののように振り回す。まさにバカにハサミ。多読すればするほど、自由な思索にバイアスをかかることに気づかないまま、自分のアタマでは1ミリだって考えられなくなる。
平積み新刊書だけで自称読書家、ノウハウ・ハウツーといった言葉に弱く、ブックマークは満杯で、<あとでよむ>は読みきれていない。「買っただけ」で満足しているオナニストと、「読んだだけ」で満足しているオナニスト――そんなわたしにとって、この簡潔鋭利な箴言はかなり深いところまで刺さった。あまりにイタかったので、呻吟の挙句こんなオキテをひねりだした。
オキテ1 読むだけの読書にしない
オキテ2 読んだら表現する
オキテ3 読んだらフィードバックする
オキテ1 読むだけの読書にしない
読書中は「読むだけ」に専念しない。速読法の一つ、フォトリーディングは、自意識をインプットデバイスと見なし、必要な情報(=読む動機となった対象)をフィルタリングしながら「見る」方法。素早く内容を知るのにいいけれど、疲れるわぁコレ。わたしにとって楽なやり方じゃないし。
そもそも読書中って、妄想したり反発したり、あれこれ考えながら読むもの。自分の脳をハードディスクやメモリと見なして、そこへ必要な情報を注入するだけだったら、もっと良いやり方がある。それは、他人に読ませてキモだけを訊きだす(検索抽出する)やり方。集合知を用いた例は、前回のエントリの「知らない本を『知る』方法」を参照あれ。
じゃぁ何をしているかというと――
1. 先読み
2. 抜き書き
3. 付せん貼り
3.は、気になったトコに付せんを貼り付けて、後から読み返すってだけ。実行されている方もいらっしゃるようなので割愛。ここでは1. と2. を説明する。
1. は先読みによる能動的読書。著者の主張を全部読む前にアタリをつけて、当てっこする。例えば、あるパラグラフだけ読んで、その後の展開を想像してみる。難しければ、次のパラグラフの接続詞だけを予想する。先頭が、「しかし」なのか「だから」なのか「したがって」で始まるのかを考える。本よりもむしろ、新聞の社説なんかが練習にちょうどいい。
これは当たるのがアタリマエ。主張を的確に伝えることが目的なのだから、慣れればズバリズバリと当てられるようになるはず。問題は、当たらなかったとき。「えーなんでー!?」と血眼になって著者と自分との「差」を探す。論理の飛躍がないか、論拠の薄さを指摘できないか、データを論説の乖離はないか、丹念に追いかける。
そして、自分の「先読み」が浅はかであれば、書き手の勝ち。補強・補足・表現や構成の改善ができるようなら、読み手の勝ち。要は「自分だったらこう書くのに」と先へ先へ考えながら読む。「後の先」という言葉がある。相手の仕掛け動作の虚を突くことで、剣道で知ったのだが、読書にもあてはまる。攻撃的読書といってもいい。
さらに上達してくると、目次から「あたり」をつけられるようになる。目次を丹念に読むところは速読法といっしょだけれど、その目的が違う。「この章で○○を紹介するつもりか」「ここで論拠のデータを出してたたみかけるんだなー」と予測できるようになる。初見の著者ではムリだが、同著者の二冊目、三冊目だとアタリがつけられるようになる。こうなってきたら、もう読まない。勉強しない(向上が認められない)著者が二番・三番煎じを出してきても、もう読まない(むしろリストから排除する)。
実はこのやり方、ショウペンハウエルに刺されたからやってるわけではない。むかし社説読んでるうちに自分で編み出したゲーム(のようなもの)。もっと体系化された紹介は、「知的複眼思考法」の第1章にある。わたしが面白半分に考えたゲーム(?)を、さらに洗練したやり方で身に付けることができる。
ただし、この攻撃的読書は、『小説』に適用してはならない。なぜなら、同作家の初読作品ならよいが、二作目、三作目に慣れてくるとオチまで先に読んでしまうから。無意識に先読みをするおかげで、ダン・ブラウンのような食材が違うけれどレシピが一緒といった作家は二作目が読めなくなった。
オキテ2 読んだら表現する
いささか古いが、清水幾太郎「本はどう読むか」は読むTipsの宝庫ともいえる。大事なことがサラリと書いてあるので見落としがち。最も心にキた一文を引用する。
そのとーり。先出のショウペンハウエル「読書とは他人に考えてもらうこと」にも通ずるが、その本から得たことを自分の言葉にしようとすると、出ない。途端に泥炭に足突っ込んだ気分になって暗澹とするだろう。んなシロートにゃできないってば。
そこで、抜き書き。自分のコトバで理解・表現する前に、著者に徹底的になりきってみる。これは効果絶大なので、特オススメ。ネタ元は「ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法」(福田和也)、こいつも読めば"発見"がある逸品。抜き書きは、「書き写し」と「分解」の二つのフェーズに分かれる。それぞれのポイントをまとめたぞ。
【書き写しフェーズ】
- メモ帳に実際のテキストを書き写す
- 論旨を要約して書くのではなく、テキストをそのまま書くところが重要
- コピー&ペーストといった「移す」のではなく、写すことによる発見や理解が必ずある
- 手書き重要
- 手書きだからこそ、いろいろなことに気が付くと同時に、いろいろな考えがわいてくる
- 抜書きをすることで、何を語ろうとしているのかが、はっきりとした輪郭をもって運動を始める
- 写すにあたっては、その書き手になったつもりで、大げさに言えば憑依して書いていく必要がある
【分解フェーズ】
- 原稿用紙で10~30枚の文章を分解する。自分の好きな作家や、目指すスタイルの手本になりそうな文章を選ぶ。それを「分解ノート」に書き写す(p.169の写真が参考になる)
- 段落ごとにブロックに分ける
- ブロックの一つ一つの文章を、別に取り出して書いていく。書き写すときは一行おきにして余白たっぷりと。ノートの天と地に余白も
- 分解は、段落をブロックとして、全体の進行を見る。次に段落の中での進行を見る。さらに、描写、情報、エピソード、細かくは言葉やレトリックまで分解・分析していく
手書きで書き写すことにより、著者になりきって「書く」行為をシミュレートする。さらに書き写した内容を徹底的に腑分けすることによって、書き手の意志をハダカにする技――やれば間違いなく上達しますぜ、だんな/嬢ちゃん。
わたしの場合、考えるヒント(小林秀雄)でやったんだけど、スゴーくよく分かったナリ。彼の評論は省略の妙を極めてるとか、読み手を考えさせるプロフェッショナルだとか絶賛されている理由が納得できた。
読んでるうちは絶対に分からなかった省略の妙は、書き写すことによって初めて目に見えるようになった。省略されたところで論理は飛躍していない(むしろ論理の跳躍を自制しているかのように見える)。書いていない部分を読み手が「補足」する行為=考えるということを促すために、「覆って」いるだけなんだと。覆われた部分の答え合わせは、続きを読めば分かる。評論の神様という理由は、読むよりも書き写すことで腑に落ちついた。
オキテ1 が徹底的に能動的に攻撃的に読むことなら、オキテ2 は徹底して受動的に受容的に読む(というかなりきって書く)やり方。で最後は小林秀雄もショウペンハウエルも知らなかった、というか知りようのない「今」「ここで」やっているやり方。
オキテ3 読んだらフィードバックする
フィードバックの場所は、ここ。攻撃的読書の結果、「わたしならこう書く/構成する」とか、なりきり抜き書きの結果、「この本のキモはここ!そこでわたしはこう変わった」といったネタをblogで公開する。それがフィードバック。しっかり吐き出さないと息は吸えない。クロールの息継ぎの極意はソレだし、読書も同じ「出さないと、次が入らない」。
公開することを念頭において、アウトプットを出しながら読む。「アウトプットという脅迫観念に縛られて、自由な読書ができなくなる」とか「自然体で著者と対話したい」とかヌルいことを昔考えてたけれど、そんなやり方じゃ読める本の絶対量・質・深さが限られてくる。
読んだことによって何かが変わっていなければ、何の意味もない(「時間が経った」はナシね)。もっとズバリ言うと、読んだことによって自分が変わっていなければ、その本は読まなくてもよかった、ってこと。そいつを自分の目で見て理解するために、アウトプットはどうしても必要。どう変化したのか見えないのなら、変化していないのと一緒。「記憶の片隅」や「血肉になって」とヌルいことは教頭先生あたりでよろしい。
リアルな自分が1ミリも変わっていないなら、その本を選んだ方法を破棄する(その"本そのもの"に罪はない)。前のエントリで述べた「その本を選ぶ理由を」捨てる…つまり、二度と適用しないようにする。
ただし、「アウトプットを意識しない読み」もアリ。例えば? そりゃ小説ですな。時を忘れて読みつくすなら、アウトプットどころか自分すら忘れて読みふけれ。以前の企画「これから読む徹夜小説」や、はてなの質問「徹夜するほど面白かった小説を教えてください」[参照]で手にする奴は、これだ。アウトプットを強いて定義するなら、「感情」だろう。
んで、アウトプット→フィードバック→皆さまからの反響→次の本へと好循環がまわり始める。煮詰まったらはてな人力検索で問い合わせ。はてなブックマークや del.icio.us の「つぶやき」も捕捉してますぜ。とにかく、出すから次が入る。ここからは、「本を探す方法」へとつながってる。
最後に
以上、読んでるときに実行していることを中心に書いてみた。紹介した本のTipsは、ほんの一例なので、ご興味をもたれた方は、まず図書館に、そして気に入ったら購入して「使って」みてはいかが?
- 読書人の心得 → 「読書について」
- 攻撃的読書法 → 「知的複眼思考法」
- 読むときのスタイル → 「本はどう読むか」
- アウトプットのノウハウ → 「ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法」
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コメント
エントリ読ませていただきました。さらりとよむと、実用書をよむときの心がまえにみえます。リンクをたどって前のエントリみると小説(古典・SF・ミステリ・ライトノベル)も多読してる方で、今回いいたいのは流行小説を流されて読むな。だろうから釈迦に説法なのはご容赦を。
処女作にその人のすべてがこめられている。といいます。表現したいのは、あふれる情熱が抑えきれなくなって、つい書いてしまう。というものでしょう。もちろん駄作で、自作詩集みたいに読むに耐えないものも多くあります。
レトリック、言葉のゆれ、ドラマツルギーなんてのは、書いているうちに、どんどんうまくなる。でも、(消費するだけの)読者はそんなのをみたいのじゃなくて、熱い魂をみたいんです。
投稿: hamegg | 2006.08.09 05:05
いいエントリですね。
フィードバックは大切だなと思いました。
本についてもそうですが、意見のやりとりとか、
アイディアとかも同じだなと。
ショウペンハウエルの本はちょっと読んでみたいなと思いました。
知的複眼思考法は、大学時代に講師から勧められて、
すぐ読んで、こりゃーすげーと思ったことがあります。
「批判的読書」ってのが印象的です。
投稿: hirohiro | 2006.08.09 06:49
>> hamegg さん
ああ、確かに。思想書やビジネス書、ノンフィクションなどを読むときの心がまえですね。むしろ小説を読むときはオキテにとらわれず、自分を忘れて自由に読め、なんてオキテ(?)になるのでしょうか。
長すぎたエントリを少しでも短くするために、削除した一節があります。「流行小説を読む利点」についてです。hamegg さんご明察どおり、流されて読むなという旨の主張を書きました。ただ一点、でかい利点があります。流行小説を読むことで「それがもてはやされている理由」を「先読み」できることです。近い作品は周囲にあるにもかかわらず、何故それが売れるのか、過去にブレイクした二番煎じか──で、次に売れるのは何か(いつか)を「先読み」するのです。
日本人が書いた現代小説で、書き手の「熱い魂」を垣間見ることは、ほぼありません。何だか妙に冷めたような引いたような、ちょいとナナメにかしいだ視線や立ち位置から淡々と書いたものしか出会えていません。書き手の場所がそんなんである一方、プロットや大道具をトンデモナイ仕掛けにしたり、奇想天外な事件を起こしたりすることで埋め合わせをするような設定ばかりのような気がします(誰、とは言いませんが…)。むしろマンガの方が「熱い魂」が伝わってきますね。
>> hirohiro さん
ショウペンハウエル「読書について」はオススメですが気をつけて。辛口箴言集と申せばいいのか、この題名「だけ」に釣られて手に取った自称読書人はあっちこっちでアタマガツンとやられています(ネットからもその反響が汲み取れます)
「知的複眼思考法」は、最近読みました。学生のときに読んでいたら、もっと早く批判的読書を身につけていただろうに、と思います。まさに人生を有利にする一冊です。
批判的読書はコレですね↓
https://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2006/05/post_0cc9.html
投稿: Dain | 2006.08.09 09:46
オキテその1について思ったんですが、ただ文字を追うだけで何も考えずに読む、と言うのはそもそも「読む」とは言わないんじゃないでしょうか?
投稿: | 2006.08.10 12:57
>> " " さん
フォトリーディングのことでしょうか? これは、「読む」というよりも、むしろ「内容を把握する」ためのテクニックです。「読む」行動を通じて納得や反発や止揚が生まれる場が読書だと考えています。だから「読む」とは違うよね、というご指摘はその通りですね。確かにこのテクニックは「読書」とは違うかもしれませんが、教科書を短時間で把握するのには、非常に便利だと思います。
投稿: Dain | 2006.08.10 15:16
はじめまして。
少々思うことがありまして、書かせていただきます。
あくまで私的意見で申し訳ないのですが、
・著名人・古人・賢者・権力者等の言葉、一般的に信用のあるメディア(本、テレビ、新聞等)よりの信頼のおける引用文の使用。
・バカになる・頭が悪くなる・頭がよくなる・~が危ない等、人に危機感を持たせる言葉の使用。
・こうすれば大丈夫!・これで完璧!等、これさえしておけば安心的言葉の使用。
・○○がありますが、■■の理由でよくありません等、自らが持つ物以外への否定的意見による優劣関係の作成。
これらのものが入っていると、私はその情報を信じる事ができません。
なぜなら、情報を伝達する事を目的とするなら事実とその事実が発生する理由のみを述べればよく、情報を信じさせる事を目的とするなら、理由をより強固な物に見えるように色々理由に肉付けが必要になり、上記のような手法がとられるからです。
また、自分の考えが常に真であると言うような主張はよくありません。
私の書き込みの最初で、「あくまで私的意見で申し訳ないのですが、」と書いているのは自信がないからではありません。
他の人が常に賛同できる意見ではない事は承知しているから、賛同できる方は賛同して、賛同できない方は賛同できなくて良いといっているのです。
勿論、Dainさんも同様です。
投稿: tesseract | 2006.08.10 22:06
>> tesseract さん
ご指摘いただいたことは理解しました。
で…?
投稿: Dain | 2006.08.10 22:44
>>Dainさん
>>で…?
そうなりますよね。
投稿: hw | 2006.08.11 14:42
初めまして兎と申します。
読み応えのあるサイトですね。始末書の書き方を検索
していると見つけました。
是非当Blogにリンクさせて頂けたらと思います。
不躾なお願いですがよろしくお願いします。
私は今、J.Dサリンジャーのキャッチャー・イン・ザ・ライ
を読んでます。結構面白いなと思います。
でわ
投稿: 兎 | 2006.08.11 17:11
不安を煽るよう文章をつくってあるのかな?読書するのにいちいちここまで気合いれるやつなんてそうそういないって
投稿: a | 2006.08.12 18:58
本を読むとバカになるだって?何考えて生きてんだ!!
本を読むと、まず情報が脳に、インプットされます。
例えば・車の免許試験したでしょ?あそこでは、いろんな捻り質問を考えている訳であり、何パターンもの答案用紙を受験者に配るわけやねん!!その為の事を考えて、色々本を買って読んで勉強するんでしょうが?
私も、現在本を読んでますよ。
民俗学系の本を読んで、勉強しています。そこで、作者がどういう表現の仕方をしているか、なんかを探って自分の解釈
と、合わせてみたりしております。
まぁー民俗学の奥の深い事深い事・・・・
子供の愛読書 りぼん なかよし ちゃお であります。
たかが漫画と お思いでしょうが、漫画ほど漢字を楽しく覚える方法はありません。字が読めなかったら辞書で調べれば、
一発でしょ!! 本を馬鹿にしてはいけません。
投稿: 西谷まさみ | 2006.08.13 05:04
(先ほど一瞬ですが、cocologの人気記事ランキングトップでしたよ。)閑話休題。
なるほどねー。コメントを読むと「バカ」の意味を取り違えている方もいらっしゃるようですね。あえて挑発的な言葉を使っているのに私が種明かしするのも興ざめですが、「知識バカ」「理論バカ」「暗記バカ」にならないための考察には賛成です。
私もwebで読書日記(書評)をかれこれ8年くらい続けています。別エントリにあったように、「アウトプット」「得たものの共有」を前提に読むことを心掛けています。
投稿: ほんのしおり | 2006.08.20 01:38
>> ほんのしおり さん
はい、ご指摘の通りです。「知識バカ」──2ch用語だと厨房でしょうか──にならないための話題だったのですが、表題だけしか読まなかった方がいらしたようです。夏ですもの。
「本の栞」を見させていただきました。本の趣味が微妙に違っていて、ありがたいです。わたしが知らないスゴい本を読んでいる予感がしています。
投稿: Dain | 2006.08.22 06:13
初めまして。とあるニュースサイトの紹介を見て記事を読ませていただきました。
「本を読んだら、同じ分だけアウトプットするのが良い」
私も先生にそう良く教えられたのですが、自分に合う表現方法を見つけられず四苦八苦しておりました。今回、Dainさんの紹介された手法は分かりやすく興味深いものでした。また紹介されている書物も、興味をそそる未読書が多く、大変嬉しいかぎりです。
投稿: sora | 2006.08.29 01:44
>> sora さん
お役に立ててとても嬉しいです、こちらこそありがとうございます、励みになります。わたしのやり方は、あちこちで読みかじり・聞きかじりの寄せ集めですので、より体系だてて説明している本がオススメです→「知的複眼思考法」
投稿: Dain | 2006.08.29 22:05
こんにちは。小林円児と申します。私も、法律書を読むときには、指示語や、接続詞に気をつけて読んでいます。いわゆるジャーゴンに慣れれば、それだけで、早く読めるようになるからです。もちろん、最初から、論理の流れを押さえすれば、それだけで、法律書は読めるようにはなりませんが。
おそらく、ニーチェだったかが、「私は昼間から読書をするような人間を軽蔑する」といったようなことをいっています。それを、思い出しました。
突然のコメント、お許しください。それでは。
投稿: 小林円児 | 2007.05.30 12:35
>> 小林円児 さん
> 指示語や、接続詞に気をつけて読んでいます。いわゆるジャーゴンに
> 慣れれば、それだけで、早く読めるようになるから
確かにその通りですね。日本語の構造上、文意をひっくり返すような否定語が末尾あるため、それを事前に知らせる「接続詞」に目をつけると早く読めるようになりますね。
投稿: Dain | 2007.05.31 01:18
はじめまして。
たまたま検索でこの記事を拝読し、即日で清水幾多郎さんの本を購入しました(笑)
記事において、「読んだら、書く。〜」のくだりは、この著書にかかれているのでしょうか。
読書メモについてのあたりを見たのですが、該当する文が無かったもので…。
差し支えなければ教えていただけると嬉しいです。
投稿: にもん | 2013.05.10 23:02
>>にもんさん
すみません、この本は差し上げてしまったので、手元になありません。そのため、何頁に書かれていたのか、お伝えすることができません。うろ覚えですが、小林秀雄の著作に言及していた件のはず……
投稿: Dain | 2013.05.11 06:48
本をまったく読まなくても批判されるし、少し読んでも批判される、多く読んでも批判される、またどのように読んだとしても批判される。まことにこの世で非難されない読書家はいない。
投稿: | 2016.09.13 23:13
>>名無しさん@2016.09.13 23:13
コメントありがとうございます。批判と非難は似て非なるものですが……何したって批判されるのを嘆くよりも、どの批判を受け止めるか選択的になるといいかもしれません。自分のために読んでいるのですから。
投稿: Dain | 2016.09.14 15:34
Dainさんはじめまして。
本は読むものの、ザルで水をすくうかの如く、何も頭に残っていない己の低能さが長らくの悩みです。
「読書とは対話である。」
と教えられましたが、その意味がこのエントリで少し理解できた気がします。
とりあえずショーペンハウエルとの対話からはじめてみることにします。
ありがとうございました。
投稿: やまん | 2016.12.28 12:35
>>やまんさん
コメントありがとうございます。読んでも読んでも忘れます。それでもいいと思います。このテの話になると、太宰治『正義と微笑』のこの件を思い出します。
「学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん」
青空文庫:正義と微笑(太宰治)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1577_8581.html
投稿: Dain | 2016.12.28 12:48
Dainさん、アドバイス頂きありがとうございました。
どこかで聞きかじった
「量は質を変化させる」
というフレーズが思い出されました。
”とりあえず”圧倒的な量を(脳みそに)詰め込まないと、帰納的飛躍は起こり得ないという意味だと解釈していましたが、
完璧な文章や完璧な絶望が存在しない(パクり)のと似ていて、完璧な解釈なんていうものも無いのかも知れませんね(笑)
言語学でよく言われるシニフィ・・・止めておきます(笑)
ありがとうございました!
PS.青空文庫:正義と微笑(太宰治)を今読ませてもらっていますが、これだけ論理(あくまでも私個人においての『論理』というシーニュにおいてですが)を破綻させた文章で、
こんなにも意味とイメージを伝えてくる太宰治は本当に天才だったんだなぁと今更ながらに実感しております。
あぁ、つい長くなってしまう。
投稿: やまん | 2016.12.31 14:40
>>やまんさん
お返事ありがとうございます。
「量は質を変化させる」は、大勢の先人たちが様々なバリエーションで語っており、わたしの場合は開高健の「量は質を担保する」で出会いました。沢山の口から語られているくらいの量が、この言葉の真実性を担保しているのだと思います。
投稿: Dain | 2017.01.03 09:00