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子どもに絵本以外を与えてみる:「地球家族」

 ひらがな・カタカナが読めるようになって嬉しい。読み聞かせせずとも勝手に読んでくれるのでありがたい。しかし、いつまでも「ぐりとぐら」と「ウルトラマンメビウス」では能がないので、ふつう読まないような本を与えてみる。

 …とはいうものの、字よりも絵・写真がメインで、何らかのテーマ・メッセージが強力なやつが面白かろう。今回与えたのはコレ→「地球家族――世界30か国のふつうの暮らし

 何が楽しいかというと、以下のテーマで「ふつうの暮らし」を撮ったところ↓

「申し訳ありませんが、家の中の物を全部、家の前に出して写真を撮らせてください」

 目を疑うが、ホントに全部出している。極限までモノが無い家もあれば、モノだらけでカオスな家もある(どこの国かは言わずと知れている)。あるいは、モノじゃなく家畜も一緒に写っている家もある。

 もちろん【家の中】の写真もあり、撮影者が泊り込んで写しだした生々しい生活模様もある。しかし、これらは壁やドアに阻まれて部分的に切り取られた断面でしかない。これを全部【家の外】に運び出して一枚の写真とすることで、その国で「ふつうの生活」をするために必要なモノが全部見えてくる。

 しかも、さまざまな国の「ふつうの生活」を一枚の写真を通して見ることで、「ふつう」の違いがハッキリと見えてくる。あたりまえなんだが、「ふつうってのは国による」単純な事実に気づく。"国"に語弊があるなら"地域"と言い換えてもいい、自分が過ごしているこの場所は「ふつう」じゃないんだーと気づくかなーと期待しながら与える。

 結果、かなり好奇心が刺激されたようだ。写真集といえばクジラや救急車やウルトラマンの奴しか見たことがないから、興味深く見てくれる。こまかいキャプションは飛ばして惹かれる写真だけを見て話し合う。

「茶色い人(黒人)がたくさんいるー」

 子どもの知っている黒人は英語の先生ただ一人だけなので、黒人ばかりの"場所"は特殊に見えるらしい。違うぞ、息子よ、「日本人だらけ」なこの国の方が特殊だよ

「(我が家には)ウシがいない」

 たしかに。いくつかの国では、ウシやラクダ(?)が【家の中のもの】として写っている。国によっては動産だったりするからなぁ… その代わりに我が家にはクルマがあるんだと言い聞かせる

「これは何? →スーパーファミコン」

 日本の写真もある。モノの多さでいうならば、日本が一番。家一軒分の【家の中のもの】全部を外に並べている光景は、壮観だ。その一角にあるスーファミのコントローラーを目ざとく見つける。そういや出版年は1994年だから当然か。時代を感じるなぁ…

 原題"Material World"(物質世界)の名の通り、モノが溢れる先進国と、鍋釜ぐらいしかない途上国との暮らしが鮮やかに対比される。実をいうと、この撮影プロジェクトの始まりは、日本のウキタさん一家だという。

 日本の家族が一番難しかった。家財道具をぜんぶ家の前に並べて撮らせてくださいって言って、五、六人に断られたね。そこで、ウキタさん宅にまず一週間住み込んで暮らしぶりを取材させてもらい、親しくなってから奥さんにだけ計画を打ち明けた。ご主人はある日帰ってきたら、家の中のものが全部外に出ていたってわけだ
(p.55 : September 2006 Foresight より)


 この写真家は、「ふつうの家の食材を見せてもらう」企画でも出している。こいつも面白そう→「地球の食卓――世界24か国の家族のごはん」:世界24か国30家族の食卓を取材、1週間分の食材600食と共にポートレイトに収めた、現代の「食」の世界地図を描く壮大なプロジェクトだそうな。いわゆる先進国になればなるほど、生鮮食品がなくなり、パッケージ『商品』が食卓にならぶ光景なんじゃぁないかと。子どもそっちのけでわたしが没頭しそうだな。食卓における「豊かさ」とは? ――食材の多様性/生鮮食品の割合/『パッケージ商品』の割合で測れるのか?―― といったテーマで考え込むような予感。

今まで与えた「絵本以外の本」

JAPAN UNDERGROUND JAPAN UNDERGROUND を絵本がわりにする

 ビルやジャンボジェットなど、デカいモノが大好きな子どもに、ふだん目にしない大深度地下の巨大構造物・設備の写真集を見せる。

 特殊な目的をもった設備を見ていると、モノの塊ではなく、巨大生物のように見えてくるから不思議だ。場所柄なのか、ライトの具合がおどろおどろしくって良い。子どもは目をギラギラさせて見入っている(魅入っている)。

死を食べる 「死を食べる」――子どもに死を教える4冊目

 テレビからも路上からも「死」が注意深く取り除かれている現在に違和感を抱いて子どもに読み聞かせる。

 「死」ってーのは、もっと身近なものだよ、なんたって、キミは他の生きものの「死」を食べて生きているんだから――なんてメッセージを込めて読み聞かせる。最後の写真にわたしがビビる。

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観鈴スイッチ

 たとえば夏の入道雲を見てると、思わず涙がこぼれてしまうときがある。まぶしいからではない、思い出すからだ。あるいは、飛ばないカラスを見かけたときも。そう、観鈴スイッチだ(にははスイッチともいう)。the 1000th summer からずいぶん時間が経っているにもかかわらず、今でもふとしたはずみでスイッチが入る。

おもいでエマノン AIRの原作だと思い込んでいる「おもいでエマノン」を読んだときも一緒だった。地球の生命すべての記憶を持つ少女と、彼女に惹かれる少年たちがおりなす、せつない物語。ここでは、旅をするのは往人ではなく、観鈴のほう。記憶を保ったまま転生をくり返しているため、名は意味を成さない。だから自らを「エマノン」と名乗る――「エマノン」="EMANON" を逆読みすると "NONAME" 即ち "No Name"――この独白は今なお刺さる。

 一番確かで、誰にも変えようがなく、感動させられるものは、その個体が、自分が生存中、必死になって自分に納得できる生き方を実践できたかということ。自分自身が納得できれば、もう、その個体は"生きた"ということを誰にも記憶される必要もないのよ

 少女と記憶とひと夏の経験は相性がいいらしい。最近ではこんな名品で観鈴スイッチが入った→「楽園――戦略拠点32098」 amazon紹介はこんなカンジ↓

 青く深く広がる空に、輝く白い雲。波打つ緑の草原。大地に突き立つ幾多の廃宇宙戦艦。千年におよぶ星間戦争のさなか、敵が必死になって守る謎の惑星に、ひとり降下したヴァロアは、そこで、敵の機械化兵ガダルバと少女マリアに出会った。いつしか調査に倦み、二人と暮らす牧歌的な生活に慣れた頃、彼はその星と少女に秘められた恐ろしい真実に気づく…

楽園――戦略拠点32098 世界の定義と人間性の比喩が面白い。同著者は他に「円環少女」を読んでいるが、この人、寓話的な世界を生み出す能力がスゴい。魅力的なキャラクターさえ生み出せば、後は勝手にストーリーを推進してくれるように、ユニークな世界をまるごと創造すれば、面白いお話がついてくる好例。

 本来ならば、「なぜ少女と機械化兵の二人だけなのか」とか「彼女の秘密は?」とか、「そもそもこの星の意味は」などとアレコレ想像しながら読むのが楽しいはず。しかし、「ソレ・ナンテ=エ・ロゲ」的な秘密は想定高度をじゅうぶん下回っているので、どうでもよかったりする。だいたい新人大賞を取った作品が、想像力を肝試しするような展開になるわけがない。

 むしろ、少女を護る機械化兵と、そこへ降下してきたサイボーグ兵との会話がココロに響いた。星間戦争するぐらい充分に科学が発達しているため、兵士は皆サイボーグ化されている。顔や声は憧れのムービースターのコピーだし、感情はオペレーションの邪魔になる。極端になると脳の一部以外は全て機械化されているのもあり。そんな中で「人間性とは何?」という問いへの一つの答えがユニークだった。

「おまえたちの好きな"自分"という概念は、社会を構成する人間個々が持ち寄る、ただの"誤差"に過ぎない」

『恐れ入るね、俺たちのキモチは"誤差"なのかよ』

そうだ。兵士は、兵器を扱う"能力の束"であるべきなのだ。人間性は、一瞬を争う場面では、性能を下げる不純物でしかない。おまえは何のため、その大事な"誤差"を危険にさらして戦うのだ?

命令だからさ

 考えても、他に理由がひとつもないことに愕然とした。命令だからと、言い切れてしまった。感電したみたいに頭が痺れて、真っ白になった。指示だから何でも従うでは、機会と変わらない。ガダルパの言うとおりだ。彼は、兵器にこびりついた"誤差"に過ぎない

 さらに、「そこまで発達したならば、戦争はロボットに任せればいいのに、なぜ人間を死地に赴かせるのか?」への答えも面白かった。オーウェル「1984」や「銀河鉄道999」を思い出して感慨にふけるのは、暑さで脳がユルんでるからだろう。

 少女の年齢設定をあと5歳上げると、一般ヲタク消費対象になるだろう。しかし、お話の都合上、シリーズ化は困難。AIRとは全く異なる世界ながら、夏の原風景と美少女が組み合わさると、わたしの中の観鈴スイッチが発動するという、新たな発見ができたのは収穫だ。

 そして、どちらの作品も【ラストの如何にかかわらず】次の一節で締めるのがふさわしい

 最後は、どうか幸せな記憶を

 ちなみに、少女と記憶と冬景色の場合は、うぐぅスイッチという。

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「ローマ人の物語」を10倍楽しく読む方法:「ローマ帝国衰亡史」比較

 このエントリは、塩野七生「ローマ人の物語」を読むときに併読する書籍を調べたもの。ほぼ自分メモのつもりで書くが、これから「ローマ人」を読む方の参考になれば幸甚ッス。

 「ローマ人の物語」の併読書としてギボンのアレを思い浮かべたが、そのボリュームに辟易させられる。実際のところ、全11巻の「ローマ帝国衰亡史」は、積ン読ク山の一角を占めているにもかかわらず、「持ってるが一生未読」となりつつある。

 そこで調べてみたところ、簡訳版というかダイジェスト版が出ていることが分かった。いわゆる「まとめ本」というやつで、わたしのようなナマケモノにはうってつけ。2つある。

   1. 新訳 ローマ帝国衰亡史(中倉玄喜 編訳/PHP研究所)
   2. 図説 ローマ帝国衰亡史(吉村忠典訳/東京書籍)
   3. ローマ帝国衰亡史(中野好夫訳/筑摩書房)    ←【本家】

 1.の新訳版は4センチ、2.の図説版は4.5センチある。何が? →厚みが。知らずに手に取るとぎょっとするほどのボリュームだけど、本家である3.の単行本は11巻積むと30センチになるので、相当「はしょって」いるに違いない。なお、3.のリンク先は文庫本になっている。

 この「はしょり」方が↑の2冊それぞれに特徴を持っている。

 1.新訳版では、本家の中から各時代の代表的な章を選び、これを簡略化しながら訳してまとめたもの。ローマ1500年の出来事を俯瞰することを目的として、著されている。つまり、ギボンの記述から史実を中心にピックアップしたものが1.新訳版といえる。

 2.図説版は、1.と異なり、ギボンの原著の文体を生かすことに忠実になっている。原著にあふれる脱線や余談をカットし、ローマ歴史の流れを描き出す部分を中心に描き出している。さらに、ギボンの著述を補うために、遺物、壁画、モザイクといった図版を大幅に取り入れている。その結果、1.新訳版は一段組みだが、2.図説版は二段組の大ボリュームになっている。

 訳はどうか? 1.新訳版と、2.図説版を比較してみる。世界史でおなじみの「ゲルマン民族の大移動」の章の最初を引用する。

新訳ローマ帝国衰亡史 1.新訳 ローマ帝国衰亡史(中倉玄喜 編訳/PHP研究所)p.295「ゲルマン民族大移動のはじまり」より

 ウァレンティニアヌス、ウァレンス両帝の共治世第二年目の六月二十日朝、ローマ帝国の大部分がすさまじい激震にみまわれた。振動はただちに海につたわり、地中海沿岸では海水が突然ひいて、おびただしい数の魚が手でつかめる状態となり、干潟には大型船が多数とり残された。前代未聞のことである。人々はこの驚天動地の光景に目をこらし、地球誕生以来、陽光にさらされることがなかった谷底や山肌の出現い空想をかき立てられた。が、事はそれで収まったわけではない。いったん退いた海水はおそるべき津波となっておし寄せ、港につながれていたすべての船をおし流して近くの民家の屋根上や、なかには岸から二マイルもはなれた地点にまでおき去りにし、その一方で、多くの人々や家屋をさらうなど、シシリー、ダルマティア、ギリシア、エジプト、各地の沿岸部に甚大な被害をあたえた。(中略)

 そして、それより前、パレスチナやビテュニアの多くの街を壊滅させた地震の記憶がかれらの間によみがえり、これら一連の天災が、来る、はるかに大規模な災害のほんの序曲と解され、さらには、いささか虚栄もあって、帝國滅亡のきざしが世界終焉のきざしと同一視された。

図説ローマ帝国衰亡史 2.図説 ローマ帝国衰亡史(吉村忠典訳/東京書籍)p.350「フン族の移動と民族大移動の発端」より

 ワレンティニアーヌス一世とワレンスの共同統治の第二年目(三六五年)七月二一日の朝、壊滅的な大地震がローマ世界の中心部を襲った。その影響は近海にも及び、地中海沿岸は突然の引き潮で干上がった。大量の魚が手で捕まえられ、大型船はぬかるみで立ち往生した。ある好奇心旺盛な観察者(アンミアーヌス・マルケリーヌス)は、地球誕生このかた陽光に晒されたことのない山や谷の変化に富んだ様子を見つめて、眼というよりむしろ想像力を楽しませた。しかし、海水はすぐに食い止めようもない大津波となって戻って来て、シチリアやダルマティア、ギリシャやエジプトの海岸を容赦なく襲った。大型船は屋根の上に押し上げられ、あるいは海岸線から二マイル入ったところにまで運ばれ、人間も住居もろとも押し流された。(中略)

 そして動転した彼らの想像力は、一時的な災害の規模を現実より増幅させた。彼らはこれに先立ちパレスティナやビテュニアの諸都市を破壊していた幾度かの地震を想起し、警鐘を鳴らすがごときこれらの地震が、なおいっそう恐るべき災厄の序曲にすぎないと考えた。そして彼らは自負心と恐怖をないませにして、帝國衰退の兆侯を、とりもなおさず世界破滅の前兆と考えるのであった。歴史家はこうした高遠なる思弁の真実性や妥当性を差し出がましく云々するのではなく、経験が証明していると思われる所見、すなわち、人類にとっては自然力の激動よりも同じ人間が抱く激情のほうが遥かに恐ろしい、という所見を述べることでよしとすべきだろう。

 太字はわたし。なぜ太字にしたのかは、次の本家ギボン「ローマ帝国衰亡史」を読んでいただければ分かるかと。

ローマ帝国衰亡史 3.が本家、ローマ帝国衰亡史IV(中野好夫訳/筑摩書房)p.185 第二十六章「シナからヨーロッパへフン族の進出」より(長いぞ)

 ウァレンティニアヌス、ウァレンス両帝による共治の第二年目(三六五年)、七月二十一日の朝まだきだったが、ローマ世界のほとんど全土が大地震に襲われた。震動は海岸にまでおよび、地中海沿岸では突然水が退き海底が露出、夥しい魚群が手づかみでき、大型船すらが干潟にのこされる始末。物見高いある観察者は、地球の創生以来はじめて陽光を浴びた峡谷や山々の突然出現を見、その眼よりもむしろ空想を大いに娯しませた。が、まもなく海水はおそるべき海嘯の形をとって逆流し来り、最大被害を受けたのはシチリア、ダルマティア、ギリシア、エジプトなどの沿岸一帯だった。大型船が次々と潮に乗って運ばれ、家々の屋根に乗っかるのもあれば、また岸から二マイルほども離れた地点まで打ち上げられるのもあった。(中略)

 ここでもまた恐怖におびえた想像が、この一過性災厄の実態を、とめどなく拡大化して伝えた。彼等はかつてかのパレスティナやビテュニアの諸都市を破壊し去った、何度かの地震のことを想起するとともに、今回のこれら恐るべき天災が、あるいはより大なる災厄への序曲ではないかと考えたのだ。が、そうなるとまた恐怖におびえた妄念は、この一事をもって帝国の衰亡、世界終焉の兆といった事態と短絡させて考えることにもなった。当時はなにか異常時でも起きると、さっそくそれらをある特定の神意によるものと考えるのが常だった。彼等によれば、すべて自然の異変は目に見えぬ鎖により人心の道義性や形而上学的想念と深く結ばれているというのだ。(中略)

 史家としてはいまこれら高遠な思索の当否を論ずるつもりなど毛頭ない。要するに史家とはただ経験が立証すると思える考察、すなわち、われらが恐れねばならぬのは、自然の天変地異などではなく、むしろはるかにわれら人間の抱く情念激情であること、それを指摘するだけで満足すべきであろう。たとえば地震、洪水、大風、さては噴火などのもたらす災害だが、これらは戦争の惨禍など世の常のそれに比すれば、ほとんど言うにも足りぬはず。近年はヨーロッパの君主たちも、賢慮というか、はたまた人道的精神というか、それらによって戦争の惨禍は大いに緩和され、軍事技術の修練にしてもそれは彼らの暇つぶし的娯しみか、それとも人民たちの勇気を鍛えるためというだけになっているからである。

 上記の太字化もわたし。この長々とした引用を一言で表すなら「365年、ローマ全土で大地震が起きた」になるだろう。しかし、ここでギボンが言いたかったのは、「そんな自然災害は、戦争の災厄に比較すれば大したことない」になる。で歴史家を名乗るなら、その自然災害が人々の感情にどんな影響を与えたかに着目せよ、なんて締めたいのではないかと。

 というのも、その後のギボン節が長たらしいのよ。枕詞「そもそも…」が好きらしく、この後も延々と比較文明論が続く。ローマを枕にしゃりしゃりと出てくるし、読み手が「名著」だと称えるポイントもここらしい。いつのまにやらローマではなく、翻って現代(とはいっても1780年ごろ)の戦争論・比較文明論にまで話がおよぶ。博学なじっちゃんの昔話を聞かされているようで、つきあいだすとキリがない薀蓄の量はハンパじゃない。

 ところが、1.新訳版は、そんなギボン節がゴッソリ無くなっている。年表+ギボンの記述の切り貼りといったところか。くさしているわけではない。むしろ、てっとり早く読みきるならコレにしておくべきだろう。また「ギボン」を看板にする書籍の中で最廉価だというトコもポイントか。

 その一方で、2.図説版は、まがりなりともギボン史観の欠片だけでも拾い集めようとしている。勢い、分量は増大するけど、ギボン節の一端を味わうことができる。いかんせん本家は大著なので、そのとっかかりとしては最適じゃないかと。また、詳細な索引がついているのは良い。むしろ、このテの本には索引が付いているのが普通のはずだから、1.の方がおかしいというべきか。

 結論:2.図説版を併読しよう。ただし、ギボン「衰亡史」と塩野「ローマ人」は時代がズれているので、ネタバレにならぬよう気をつけないと。つまり、「衰亡史」は五賢帝あたり(AC.98-180)からローマ滅亡までを書いているが、「ローマ人」は王政ローマ(BC.510)から始まっている。だから、「ローマ人の物語IX 賢帝の世紀」あたりまで読み進めたら、ギボン併読開始だな。こうして見ると、ギボンがローマの「衰亡」に着眼して稿を起こしたのと対照的に、塩野ローマはそのはじまりから語ろうとしているのがよく見える。なんたって「ローマ人の物語」なのだから。

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ローマ人の物語I「ローマは一日にして成らず」の読みどころ

ローマ人の物語1 知力ではギリシア人に劣り、体力ではガリア人に劣り、技術では、エトルリア人に劣り、経済力では、カルタゴ人に劣るのが、ローマ人。そんなローマがなぜあれほどの権勢を長期にわたって誇ったか――これこそ、塩野氏が本書を書いたテーマだという。これは、読み手であるわたしも同じ。

 ローマの強さ。しかも一過性の強さではなく、時代をかさねても継続的に続くものが何であるかを考えさせられる。「強さ」と聞くと、思わず「頑丈」「頑強」と思い浮かべる。何事もシステマティックに進めようとする気質から、「頑固」「頑迷」なんて言葉も出てくる。

 しかし、どうやらそうではないらしい。「ローマは一日にして成らず」を読むと、確かに頑ななところもある一方、柔軟に取り込もうという気風もあったらしい。多神教なんてその最たるもの。ギリシアも日本の八百萬神も超え、ローマには門や橋にまでカミサマがいたそうな。

 そこで一番笑ったのが「夫婦喧嘩の守護神」の話。

夫婦喧嘩の守護神の話

 夫婦喧嘩は犬も食わないなんて、二千年前も現代もおなじ。さらにいうと、喧嘩のヒートアップの仕方も同じ。つまり、お互い感情的に昂ぶってくると、大声になったり相手のことを聞かなくなったりする。耳を押さえ目を閉じて非難の応酬となる。

 そこで、「夫婦喧嘩の守護神」の登場。このカミサマ、求めに応じて出張してくるタイプではないため、夫婦してお堂へ出向くそうな。そこで、お互いの言い分を聞いていただくのだという。ただし、――ここが重要――この守護神、一度に聞けるのは一人だけ。つまり、代わる代わるカミサマに「言い分」を伝えることになるのだ。

 すると、相手の「言い分」が耳に入ってくる。カッカしているときには冷静に聞けなかったのが、聞けるようになる。つまり、「カミサマに聞いてもらう」ことを口実に、相手が口を開くことなく伝えることができる仕掛けだ。

 こうして、カミサマに向かってしゃべることで、「ついでに」相手にも聞いてもらうことをくり返す。このプロセスを経るうちに、感情的なとこもおさまってくる。で、お堂を後にする頃には、もう仲直り…できているかどうかは、カミのみぞ知る。

塩野七生氏が「書いてみたい」ネタ

 屈指のローマオタクである塩野氏が、今度はギリシアで書いてみたいと本書で明言しているネタはこれらしい↓

タイトル 「ソクラテスとその弟子たち」


  • 最も魅力的な裏切り者──アルキビアデス
  • アテネに圧政を敷いた当人でありながら、劇中で自分が揶揄されても、笑って観ていた──クリティアス
  • アテネを見捨て、マケドニアに去っていった悲劇作家──アガトン
  • ペルシアの地でしか武将の才を発揮できなかったベストセラーノンフィクション作家──クセノフォン
  • 迷走するアテネに嫌気がさし、学問の世界にこもるほうを選んだプラトン

 いずれもソクラテス好みの、肉体的にも精神的にも美しい青年たち。ソクラテスとこの弟子たちの生き様を追うのは、輝かしいポリス・アテネの光と影を浮き彫りにする格好のテーマ

 とのこと。ローマやギリシアを「世界史」「倫理」としてしまったわたしは、実はとてつもなくもったいない知り方をしたんじゃぁないかと思っている。決まったことをなぞるだけの歴史ではなく、「なぜそうなったのか」に答えながらプロセスを明らかにするストーリーは、面白いぞ。この「ローマは一日にして成らず」は、続く「ハンニバル戦記」の前フリに満ち満ちている(続刊読んで分かった)。しかも、この長い長い話全部の壮大な前フリでもあるらしい。

 その証拠は、「ローマは一日にして成らず」の結びにある。

「ローマ人の物語」の参考文献

 それは膨大な参考資料。巻末の資料一覧を見ると、「ローマは一日にして成らず」を書くために、「一応」とは謙遜しているものの、莫大の史料を渉猟したことは分かる。そして、その知識が研究者のおかげだということはいわずもがなだが、そこからの七生節が面白い。

 だが、この種の情報は得られたものの、それだけでは何ともしっくりこない。しっくりきはじめたのは、こっらの研究者たちが原史料として使う、古代の歴史書を読みはじめてからだった

 いわゆる一次情報だととらえればいい。同時代か、近い時代に書かれた史料で、「ローマは一日にして成らず」の場合、以下の四書になるそうな。

 リヴィウス「ローマ史」
 ポリビウス「歴史」
 プルタコス「列伝」
 ハリカルナッソス生まれのディオニッソス「古ローマ史」

 なぜ二千年も前に生きた人間のローマ観のほうが「しっくり」くるのか? 自称シロウトが答えた4つの要点は、わたしにも「しっくり」くる。

 第一は、ローマ興隆の因を精神的なものに求めなかったリヴィウスを除く三人の態度にあるという。塩野氏自身、興隆や衰退の要因を感性的なものに求める態度をとっていない。つまり、「ローマの興隆はローマ人の精神が健全だったからであり、衰退はそれが堕落したから」という論法には納得ができないという。それよりも、当事者たちがつくりあげたシステムにあり、移り変わりの激しい人間の気分よりも、そうした気分にせざるをえない方へもっていくシステム化こそが、興隆や衰退の主要因だという。

 第二は、彼らはキリスト教の価値観の影響を受けていないところが「しっくり」くるという。そもそも彼ら三人はキリスト教普及以前に生きたのだからあたりまえ。塩野氏もキリスト教信者でないし、その価値観や倫理から自由だと述べている。「貧しきものこそ幸いなれ」というイエスの教えの優しさは分かるが、一方で「貧しいことは恥ではない。だが、貧しさに安住することは恥である」といったペリクレスの方が同感だという。塩野氏は、

キリスト教を知らなかった時代のローマ人を書くのに、キリスト教の価値観を通しても見たのでは書けない

 などと遠まわしな言い方をしているが、二次史料以降、われわれは、キリスト教の価値観でゆがんだローマを眺めていると言いたいんじゃないかと。

 第三も面白い。フランス革命によって絶対視されるようになった「自由・平等・博愛」の三点セットの理念に、一次史料の書き手はとらわれていないという。これも時代が違うから当たり前といえばあたりまえなのだが、きわめて実際的に合理的にローマを描こうとしている塩野氏にとって、この理念に合わない観点を無意識的に除外しようとする二次史料以降の姿勢に異を唱えたいのだろう。自由も平等も大事かもしれないが、それは今の話であって、ローマを理解するバイアスになりかねないぞと。

 四点目がスゴい。最初のテーマ「なぜローマが──」につながるのだが、問題意識の切実さが違うという。彼ら三人の問いかけは「あれほど高度な文化を築いたギリシアが衰退し、なぜローマは興隆をつづけるのか」という点で完全に一致している。彼ら自身が衰退したギリシア民族に属していたから、この問題は切実な意味を持っていたという。で、その切実さが欠けている日本人の書いた日本人論をチクりと刺した後、現代の歴史学をまるごと飛び越えて、二千年前の三人のギリシア人の目線から、このテーマに回答を与えてしまっている(答えはご自分の目で確かめて欲しい)。でその刀でこうトドメを刺す。

 それなのにわれわれ現代人は、あれから二千年が経っていながら、宗教的には非寛容であり、統治能力よりも統治理念に拘泥し、他民族や他人種を排斥しつづけるのもやめようとしない。「ローマは遥かなり」といわれるのも、時間的な問題だけではないのである

 言い切った──!! すごいよナナミさん! 言い切ることで自分を追い込み、以後このテーマでローマを語ろうとする意気込みのおかげで、ただのローマ萌えは蹴散らされ、読み手は何を求めて読み続けるのかを彼女と一緒に考えるハメになる。むろん、わたしの場合は「なぜローマがそこまで栄え、滅んでいったか」になる。塩野「ローマ人」だけでなく、いくつか併読することでこの問いに答えられれば面白かろう。

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人の本棚を見るのが好きだ

 人の本棚を見るのが好きだ。その人が何を読んでいるか/積んでいるかが見える。その人に抱いているイメージとのギャップ(or フィット)が目に見えるので愉しい。既知の本と未知の本の相対位置から、その人の人となりを割り出す。その人なら"その本"を読んでるはずなのに、目に付くトコにない――さては…と邪推する。未知の本だらけなら、その小宇宙に驚嘆する。

 わたしと似ていて、わたしと違うところを探す。

 「本棚.org」 や 「はてな100冊読書」といった、読書情報を共有するサービスもある。しかし、それは【公開】を意識した取捨選択の結果なので、ヨソイキの本棚ともいえるだろう。しかも、ほとんどが「消費」するサイドだろう。

 ここでは、著名人、特にモノ書きを生業とする人に焦点をあて、その書斎と本棚を紹介する本――「センセイの書斎」をご紹介。

 細密画のようなイラストで、センセイの書斎を俯瞰している。本棚の「間取り」だけでなく、デスクの場所、デスク周りの小物までを執拗なほど詳細に描き出そうとする…が、いかんせん、莫大な蔵書量に圧倒される。アウトプットとして本を出す人は、インプットにどれだけの本を必要とするかを想像するとクラクラしてくる。

 林望――古典籍からアンアンまで、リンボウ先生のふみくら
 荻野アンナ――豚と駄洒落が飛ぶラブレーな本棚
 静嘉堂文庫――九百歳の姫君、宋刊本が眠る森
 南伸坊――シンボーズ・オフィス、本棚はドコ?
 辛淑玉――執筆工場に散らばる本の欠片
 森まゆみ――書斎とお勝手のミニ書斎
 小嵐九八郎――作家が放浪するとき、本は…
 柳瀬尚紀――辞書と猫に囲まれて
 養老孟司――標本と図鑑にあふれた書斎
 逢坂剛――古書店直結、神保町オフィス
 米原万里――ファイルと箱の情報整理術
 深町眞理子――翻訳者の本棚・愛読者の本棚
 津野海太郎――好奇心のために、考えるために
 石井桃子――プーさんがどこかで見てる書斎
 佐高信――出撃基地は紙片のカオス
 金田一春彦――コトバのメロディを聞き書きするひと
 八ヶ岳大泉図書館――ある蔵書の幸せな行方
 小沢信男――本棚に並ぶ先輩たちに見守られて
 品田雄吉――映画とビデオに囲まれた書斎
 千野栄一――いるだけで本が買いたくなる書斎
 西江雅之――本のコトバを聞き取って
 清水徹――至高の書物を求めて
 石山修武――居場所へのこだわりを解放する
 熊倉功夫――茶室のような書斎を持つひと
 上野千鶴子――三段重ねなのに、100%稼動中の本棚
 粉川哲夫――移動、解体、組み立てをくり返す書斎
 小林康夫――「雑に置くこと」の美学
 書肆アクセス――ゆったりなのにワクワクさせる棚の妙
 月の輪書林――調べ、集め、並べては手放す古書目録の本棚
 杉浦康平――書斎を流動する本たち
 曾根博義――重ねず、積まず、五万冊すべてが見える書棚

 まず、何人かいるだろうとアタリを付けていたが、いわゆる「書痴」は皆無だった。本が持ち主をトリコにしてしまい、マニアックなデッドストック化している書斎は、所詮アマチュアなんだろう。

センセイの書斎 共通するのは、圧倒的な「量」だ。「量は質に変換する」まさにその現場がここ。ある部分を書く/翻訳するために執念深くモト本を追いかけ・手に入れる執拗さは、どのセンセイも一緒。ただし、手に入れた本をどう扱うかは、てんでばらばらで興味深い。しかも、それぞれのやり方が(その人にとって)理に適っていて、そこがまた面白い。

 本をどう集め、どう読み、どう置いているかは、本との修養が必要だという。その修養の結果が「見える化」されている。

 プライベートな本棚を見せるということは、歯医者に口の中を見せることと同じ。食生活と食習慣が丸見えなように、蔵書は人格を丸見えにする。皆さんよく快諾されてるよなぁと思っていると、上野千鶴子氏のこのセリフが目にとまる。


「本棚を人に見せると人格がわかられてしまうから、自宅は絶対に見せません。自宅は別人格なんです。ほほほ」

 やっぱりね。

 ありがちな出だしと、究極の結末はこれだろう→曾根博義氏が示してくれた。「みんなやるでしょうけど…」で始まる遍歴をまとめると…

ありがちな蔵書管理遍歴


  1. まず本棚に二重三重に入れる
  2. それからあまり使わない本はダンボールに入れて押し入れに詰め込む
  3. イナバの物置を買って庭に置く
  4. ↑しかし、あそこにあると分かっていても、取り出せなくなる。図書館orなじみの古書店のほうが早い
  5. 結局、本の背が見えるような形で置かなければ、本を持っていてもしょうがないことに気づく
  6. 近所に部屋を借りる(経済的理由で断念)
  7. トランクルームを借りる(次に何を入れたらいいかで1年悩む)
  8. 結局、置く場所が離れていたらダメなんだということに気づく

 その後つくりだした、重ねず、積まず、五万冊すべてが見える書棚は圧巻の一言に尽きる。これ以外にも、31人の本との収容もとい修養の成果は、蔵書管理に悩んでる方にとって参考になる…かも?

達人たちの管理術


  1. 重厚な本は上下逆さまにして本棚に並べる。なぜか? 手にするとき、背を抑えてクルリと回転させて持つため。腱鞘炎予防(柳瀬尚紀)
  2. 必要な部分だけ「ちぎる」。後は捨てる。ちぎった部分は封筒に入れて管理する。仕事が終わって一定の時間(2年)経ったら、それも捨てる(辛淑玉)
  3. 本棚は全て「フタ」をしてある。背表紙が見えると気になって仕方が無いから(南伸坊)
  4. 神田古書街のド真ン中に書斎を設ける(逢坂剛)
  5. ごっそり図書館に寄贈して、仕事の必要に応じて送ってもらう(金田一春彦)
  6. 三段重ねて収納。インデックスはダンボールのセパレータ。キーは著者名でソート。書名→著者名の検索や、同姓・共著の場合はネットで調べる(上野千鶴子)
  7. 本は溜めない。仕事をするときは空いている会議室に全部持ち込む。PCを活用して仕事をする環境を移動→解体→組み立て可能にする。ただし資料一式は財団法人の施設に寄贈:自分はその館長(粉川哲夫)

 あと、わたしのような「図書館派」は、ただ一人を除いていない。その一人、熊倉功夫氏が以下のように述べているが、それでも数万冊の蔵書があると申し添えておこう。


図書館にあるものは図書館に頼る。理由:阪神大震災で書斎の椅子の上に「国書総目録」がうず高く積み上がっているのを見て、「本は個人で持つものではない」と実感

 いちばんグッと胸にきたのは、米原万里氏の書斎。

 Faxやチケットの半券、レシートをクリアファイルで管理し、思い出すきっかけとしていたり、本1冊書く資料をダンボール単位で保管したりと、機能的な整理術が紹介されている。残念なことに、本年鬼籍に入られたので、これらはどうされたのだろうと勝手に心配する。さらに、「とっておきの楽しみのための本リスト」の中に、「ローマ人の物語」シリーズがあったので、ご存命なら来月出る完結巻を手にとられたであろうなーと思ったり。

 仮に、わたしが立派な書斎を持っていたとしても、死後は処分されるんだろうなぁ…と考えて無常を感じたり。あるいは、父が愛読してたソルジェニーツィンが、今ではわたしの積ン読ク山に刺さっているのを見ると、この山はわが子も登頂するのだろうか…と独りほくそえんだり。

 例外:持ち主が他界し、残された蔵書の幸せな行方は→「八ヶ岳大泉図書館――ある蔵書の幸せな行方」をどうぞ。こんな余生(?)を過ごしているなら本たちも本望だろう。

 紹介が長々となってしまったが、「人の本棚を見るのが好き」な方にはうってつけの一冊といえる。著名なあの人が蔵書管理で同じ悩みを抱えているのを知ると、なんだか笑みがこぼれてくるから不思議だ

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読んでから死ね!

読んでから死ね 「読まずに死ねるか!」は内藤陳のスゴ本リスト。ミステリ・冒険小説中心となっているため、お好きな方向けだな。いっぽう、「読んでから死ね!」は、いわゆる名作・名著を網羅的に挙げようとする面白い試み。

 「読んでから死ね!」という挑発的なお題に煽られて読むが、最後まで普通感がついてまわる。著者は放送作家を生業とする人らしい。名著を片端から読んでまわるのが趣味のような方で、「その本を読むことそのものが目的」「名著だから読まずに死ねるか」というスタンスで本を選ぶ。

 その本を読む理由が、「名著で大著だから」というのは、まるで中学生のような言い分で微笑ましい。きっと「読んだ!」という実感以外の何も残らないだろう。それでも振り返って積ン読ク山脈と向き合って、自分のトシを考えたとき、「ああ、オレは死ぬまでにこれを読みきることができるのだろうか? 」なんて嘆息するところは、非常に身につまされる

 人生は短いし、読む本は多い。

 だから著者のやり方に従い、名著だけを選別して、大著から順番に、ノルマを決めて(専用の時間を割当てて)、読む… なんて、そんなのイヤだっ

 読みたいリストはもちろんある。あることはあるが、気分により割込み上等だし、ある本を読んでて類書を併読・続読するなんてしょっちゅう。そもそも平行読みがデフォルトで、面白けりゃ徹夜一気読み、どんなに「めいちょ」でも合わなきゃ放りだす(それでも縁があると戻ってくるから不思議)。

 本との向き合い方はかなり違うけれど、「失われた時を求めて」を読破したことを自慢そうに語られるとハラが立つのはなぜだろう? 嫉妬からくるヒガミ?

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シルバーチャイルドで度肝を抜かれる

 スズメバチの鮮やかな体色は、もちろん警告のメッセージ。アルカロイド系の猛毒を持つヤドクガエルは見たら即、「触ってはいけない」と思うだろう。

 本書も同じ。この表紙を見た瞬間、読まないほうがいいと感じた。なんたって気味が悪い。この化け物(?)が妙に人間じみているのが恐かった――で、嫁さんの最近のオススメは、よりによってこれなんだ――「シルバーチャイルド

 「ちょっと恐いけど面白いよー」なんて、いたずらっぽい目ですすめてくるから、読んでみて――びっくりした!! 最初の1ページ目から恐がらせていただいた。嫌ぁぁぁぁっという出だしがずっと引っ張られる。

 章により人称と話者を切り替えることで、複眼視点から核心をあぶりだそうとする書き方、しかも皆「ある場所」へ向かおうとするミッションを抱いている、彼らの身に起きる変化… そこで、S.キング「IT」あるいはD.クーンツの「ストレンジャーズ」なんかを思い出す(古ッ)。

 しかし、本書は軽々と凌駕している――何が? 著者の想像力が。「IT」は結局○○○のトラウマ話だし、クーンツには○○○○の封印された記憶の話をミステリチックに展開したに過ぎない(急いで申し添えておくと、両書とも優良作なり。そして読み始めると囚われる、page turner なことは保証する)。で、途中まで同じだーと半確信をもっていたんだけど、ミステリだとか、ホラーファンタジーといった範疇を飛び越えて、なんだかとんでもない話になってくる。

 さらに、2巻目に突入すると、とんでも具合にターボがかかり、どこへ行くのか分からなくなる。「なんじゃこりゃあぁぁぁっ」と叫びながら一気に読む。巻末の解説に本書を一級のモダンファンタジーと賞すが、これ、ファンタジー?

 突き抜けてる、突き出ているよ、これ。そして、この「おぞましさ感」は比較しようがない。トドメのラストが示す先は明らかにファンタジーの重力圏外。装丁や段組を考えると児童書だけど、いいのかコレ、子どもに読ませて? エロ・バイオレンスは無いけれど、世界の枠を軽々と突破させられるこの感覚は、「児童」にゃ行き過ぎかも。

シルバーチャイルド1 シルバーチャイルド2シルバーチャイルド3

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子ども兵──「見えない」兵士たち

このエントリのまとめ

 子ども兵とは、男女問わず18歳未満の子どもの兵士のこと(Child soldier)。その姿は、発展途上国の武力紛争で見られ、物資の運搬や食事等の作業のみならず、実際の戦闘、かく乱、誘拐、スパイ活動、さらには自爆テロの弾頭として「消費」される。少女の場合は、兵士に「妻」として与えられ、性的虐待にあったり、身の回りの世話などをさせられたりすることが多い。

 子ども兵は成年兵と比べ安価で使い捨てが可能であり、政府側も反対勢力側も、拉致したり誘拐したり唆したりして、動員する。ただし、各組織は、子ども兵があってはならない存在だと認識しているため、国連やNGOの調査に対して、子ども兵など存在しないと答えており、実態は隠されている。子どもは紛争の中で運良く生きながらえても、成年兵へと姿を変えて見えなくなっていく。

 生き長らえる子どもは少数で、命を落とすことによって、文字通りこの世の中から消えてなくなる。「見えない兵士」あるいは「子ども兵なんて最初からいない」という真の意味はここにある

映画の中の子ども兵

 「ランボー」のベトナムの話を覚えているだろうか? 靴をみがかせてくれと言ってきた少年の話だ。彼が持っていた箱に爆弾がしかけられていて…とランボーの告白が続く。

 あれは映画のネタではなく、現実にあった。ウラは、開高健のルポで思い知った。「キリング・フィールド」では子ども兵を見たし、「フルメタルジャケット」では少女の狙撃兵を思いだす。

 それでも、あれが現実だということに、なかなか想像が及ばない。わたしのアタマが錆びているからだ。まさに想像もつかない。試みにgoogleってみる[参照]。そこには映画(の子役)よりもずっと若い姿がある。

現実の子ども兵

子ども兵の戦争 現実の子ども兵は「見えない兵士」だと言われる。あってはならない存在であるため、関係者が口を拭って存在を否定しているのと、戦場では使い捨てされていることと、運良く生き延びた場合は成年兵となるからだ。

 政府機関が徴用することもあるが、誘拐されるケースが非常に多いとされている。中には、貧困からの脱出や、殺された家族の復讐などの目的で自発的に兵士となる場合もある。徴収される子どもに貧富の差があることはお察しのとおりだが、以下の引用で想像がつく。

 裕福な特権階級の子どもたちは政府軍に入隊する可能性はほとんどなく、仮に連れて行かれたとしても釈放されることになる。つまり、この階級から子ども兵が出ることはまずない。裕福な家庭では、教育を理由に子どもを留学させてしまう。国外にいるかぎり兵役に就く必要はなく、危険が去るまで帰国しないでいることもできる (「世界の子ども兵」p.64より)

 徴収された子どもは、充分な訓練をする場合もあれば、かく乱する「的」として使われる場合もある。「戦闘中はかがむこと」を教わっていなかったため、文字通りAKで体をまっぷたつにされた子どもの話は暗澹とさせられた。一方で、洗脳といってもいいほどの教化法が施された子ども兵も存在する。例えば、

 究極の教化法がある。誘拐してきた子どもたちをすぐに儀礼的な殺人に加担させる方法が普及している。犠牲になるのは、敵の捕虜、新兵の前で殺すためだけに誘拐してきた子ども、ひどいときには、子どもたちの隣人、もしくはだ。殺害はたいてい公開で行われる。子どもが人を殺したことを地元の人々に知らしめて、二度とかれらの元に戻れないようにするためだ (「子ども兵の戦争」p.109より)

戦場の子ども兵

 戦闘員としての子ども兵は、非常に有益らしい。体が小さい、敵が油断するといった誰でも思いつくメリットの他に、


  • あまり質問をしない
  • すなおに指示にしたがう
  • 評価することができない
  • たいてい戦争に行くことのリスクを理解していない

が挙げられる。麻薬やアルコールで興奮状態になった子どもは[何でも]やる。戦うのが楽しいと答えた子どももいる。「ゲーム感覚」という言葉が脳裏をよぎる。自分のしたことがどんな結果を招くか理解できない子どもが、銃を向ける。その目撃者の話↓

 それからキシー(シエラレオネ)のモスクに連れていかれた。そこにいた人たちは皆殺しにされた。あの人たちは、お母さんの腕から赤ちゃんを取り上げ、放り投げた。赤ちゃんはまっさかさまに落ちて、死んだわ。(中略)頭の後ろを斧で叩き割って殺したりもした。ニワトリでも殺すみたいに。妊娠している女の人がふたりいた。あの人たちは、ふたりを縛ると両足を広げさせ、尖った棒で子宮をつつきまわして、赤ちゃんを引きずり出したの (「子ども兵の戦争」p.153より)

子ども兵のインセンティブ

 それは、純粋にビジネスの論理、即ちコストに尽きる。拉致ってこればほぼゼロ。大人は大義を信じていても、報酬を欲しがるもの。子どもはめったに欲しがらない(あるいは、欲しがるようになるほど大きくなる前に死ぬ)。

 国際法上、18歳未満の子どもを兵士として徴用することは禁じられているが、戸籍を準備して証明しなければならないのはその保護者の方。ここでも貧富の格差が表れてくる。つまり、裕福な家庭は兵士としての履歴を買うことができるわけだ。その欠員は、もちろん貧しい側から補充することになる。

子ども兵とカラシニコフ

カラシニコフ 子どもを優秀な戦闘員にしているのは、安価で、シンプルで、扱いやすく、メンテナンス性の高い兵器。その最たるものがカラシニコフ――AK47――重さは4.7キロ。分解してもわずか8部品と、非常にシンプルだ。子どもたちは普通、30分ほどで使い方を覚える(わたしですらみよう見真似で扱えるほど簡単)。並外れて頑丈に設計されており、メンテナンスの必要がほとんどない。カラシニコフは一般化しており、アフガニスタンの四年生の教科書に載っている文章問題にはこうある

 カラシニコフ銃の弾丸は秒速800メートルで飛びます。聖戦士が3200メートル先にいるロシア人の頭部を狙う場合、弾丸がロシア人の額に命中するまで何秒かかりますか (「子ども兵の戦争」p.99より)

 カラシニコフの性能で笑う話ではなく、教科書に載っている問題だということを、再度指摘しておく。

 カラシニコフは、「人類史上最も人を殺した兵器」とも「小さな大量破壊兵器」とも呼ばれている。同名のルポルタージュが出版されており、わたしのレビューはここ[参照]にある。

「子ども兵問題」の対策1

 じゃぁどうすりゃいいんだよ!と咆えながら読み進めると、やはり最後に「提言」の形で対策案が提示される。「子ども兵の戦争」はこうだ。

 子どもの兵士を使うこと自体を戦争犯罪とみなし、黒幕である指導者たちを、子どもたちをあからさまに徴集し使用しているかどで告発しなければならない。基本となる理由づけは、子どもの兵士を使えば罰せられるという法的な前例を設けること。子どもの兵士を使う原則が戦争犯罪であることに焦点を合わせれば、その結果起きる虐待に焦点を合わせるよりも、告発しやすくなる (「子ども兵の戦争」p.212より)

 でこのプログラムの実行には、シエラレオネの戦犯法廷などの臨時の国際法廷を利用することを提言している。また、子ども兵と相対する側(まさにこの著者の属する世界の軍)への提言も、抜かりなく行っている。

 子ども兵との交戦と、子どもたちが殺されることになった経緯を説明する際は、交戦の背景と任務全体の重要性を強調しなければならない。子どもの兵士たちが死傷することを避け、制限するため、できる限りの手(非致死性兵器の使用、心理作戦、衝撃効果を狙った発砲)が尽くされたことを、世間に知らせる必要がある。同時に、子どもの兵士が、子どもであっても、アサルト・ライフルを手にしていれば大人と同じぐらい危険であることを、世間に気づかせるべきである。何より、広報担当は非難の矛先を非難するべき相手に、すなわち、子どもたちに汚い仕事を肩代わりさせている敵に、向かわせることが重要だ (「子ども兵の戦争」p.255より)

 朝日日曜書評(2006.8.6)の酒井啓子レビュー[参照]で挙げられた「米兵の視点」での深刻さには違和感はここ↑だろう。あたりまえだ、本書はそうした子ども兵と相対する側向けに書れたレポートなのだから。自分が殺す相手が子どもだなんて、誰だって嫌だろう。それでも正当化しなければならない人がいるのだから。

 むしろ酒井氏には、次のレポートをオススメする。

「子ども兵問題」の対策2

世界の子ども兵 もう一つ併読していたのが「世界の子ども兵」。前出の「子ども兵の戦争」は膨大なネット情報とNGO報告書から抽出されたレポートであるのと異なり、本書は写真と生のインタビュー・アンケートに満ちている。この問題を包括的にとらえている。「世界の子ども兵」では、子どもの権利条約の遵守は楽観的に見ている。

 むしろ対応が困難なのは、子ども兵をいかに社会復帰させるかという問題である。ここでいう子ども兵には、かつて子ども兵であった現在の成年の兵士たちも含めなければならない。子ども兵たちは、紛争によって家族を奪われ、子ども時代を奪われてきた。子どもが当然にもつべきであった子どもとしての時間を、いかにして取り戻せばよいのであろうか (「世界の子ども兵」p.191より)

 本書では、それを教育の機会および職業訓練の機会の付与に見出している。しかし、それが有効な手立てだとは疑わしいことを、まさに本書のインタビューで明らかにしてしまっている。

 何に対する社会復帰でしょうか? 機能していない、さまざまな問題を抱えた社会へ復帰することなのでしょうか? 普通とはどういうことでしょう? 子ども兵は、貧困や不正を社会の現実として目にし、それを理想に近づけるためにNPAに入ったのです。社会復帰ではなく、社会の再生を図らなければいけないのです。軍隊や反対武装勢力から戻った子どもたちは、社会に対して自分が抱いていた理想を、紛争を通じて叶えられなかっただけではないのです。戻ってきた社会はさらに病んでおり、紛争の根はそのままです (「世界の子ども兵」p.113より)

参考
  Wikipedia 少年兵[参照]
  Wikipedia AK-47[参照]
  P.W.シンガー「戦争請負会社
  P.W.シンガー「子ども兵の戦争
  レイチェル・ブレッド/マーガレット・マカリン「世界の子ども兵
  松本 仁一 「カラシニコフ
  松本 仁一 「カラシニコフII

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トイレで寝る技術

 「椅子で寝る技術」[参照]は参考になった。よく椅子から転げ落ちるので床ダンボールで寝てたが、このおかげで椅寝へアップグレードできた。感謝感謝。

 それでも椅子寝になるということは、ちゃんと睡眠時間が確保できない状況だということ。最終ビルドが通るまで、あるいはテストクリアまで、はたまた納品検収が終わるまで、眠気との闘いとなる。「タスケテ…5分でいいから寝かせて」「もうゴールしてもいいよね?」などとぶつぶつ呟きながらゾンビのごとくPCに向かう。

 カフェイン剤の併飲はキケンだし、あれは眠れなくなるだけであってシャッキリするわけではない。薬物に頼るぐらいなら、少しでいいので眠っちゃおう。しかし、机に突っ伏そうものなら「テメェ何寝てんだよ!」などと他のゾンビから罵倒とともに蹴りパンチが入ること必至なので、トイレに逃げ込んで眠ろう。

 以下、トイレで寝るポイント

[その1] 目覚ましを複数仕掛けよう

 まず、起きる時刻を決めよう。そして、ぜったい起きられるように、タイマーを仕掛けよう。しかも幾重にも。目覚めたら深夜だった!なんてことにならないように(経験者ハ語ル)。キッチンタイマーがお手軽で吉。

[その2] 携帯は電源OFFにして、自動起動モードで

 トイレでピピピとしたくない人は、携帯のバイブレートアラームを使ってもいいだろう。ただし、携帯の電源を入れておくと容赦なく呼び出される。トイレの個室で着信するとマヌケなので、電源は切る。そして、一定の時刻(時間)になると自動起動するようにしておこう。

[その3] 独自のスイミンスタイルを考えよう

 いつものように座るのもいいし、あぐらをかいたり、体育座りしてもOK。ただしフタは開けておくこと。よくやるのが、大きめのタオルにアロマオイル(なければせっけん液)を一滴たらして顔をうめる。姿勢は「飛行機が墜落するときの乗客」のあれね。ズボンを下ろすか否かはお好み次第で。

[その4] 隣人に気を使おう

 歯磨きしたり顔洗ったりするだけでなく、オムツを替えたりオナニーしたり、トイレでは色々なことをしてる人がいる(はずだ)。がんばってる隣人に余計なプレッシャーを与えないよう静かに眠ろう。いびき御法度。てか、個室でいびきが聞こえてきたら、脳卒中を疑われる。あお向けよりも、うつ伏せ気味の姿勢の方がいびきをかきにくいぞ。

[その5] トイレの目的を忘れずに

 短時間でしっかり眠ったら、個室を出る前に、出すものを忘れないように。することやってスッキリしよう。本来の目的を果たさずに、トイレを後にするようなら、それはトイレさまに失礼というもの。

 以上、あなたの快眠トイレライフを祈る…というよりも、むしろトイレで眠るハメにならないよう祈るべきかな。世間サマがお休みのお盆こそ、システム屋のリリースどき、眠くてたまらないときは、ムリせずトイレへどうぞ。

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逢坂剛オススメ「遙かなる星」がスゴい

 絶版本。奥付には昭和四十九年八月三十日初版とある。図書館か古本屋をあたるしかないが、探すのにどえらい苦労した──というのも、本書が逢坂剛にとってのスゴ本だから。

 彼のプロパティはWikipedia[参照]で得られるけれど、ミステリファンなら紹介するまでもないですな(百舌シリーズはあまりにも有名)。その逢坂剛がベストの一冊として指定してきたのが、「遙かなる星」

 スティーヴン・キングを除き、ふつう作家というのは易々とナンバーワンを挙げないものだが、彼は本当に手放しで誉めている。どこぞの提灯持ちライターではなく、本職のミステリ書きが「このミステリがスゴい」と誉めてるんだから、相当だぜ。ネタ元は日経新聞「半歩遅れの読書術」(2006.1.29)。

 ナチス収容所から助け出されたユダヤ娘を故国イスラエルへ送り届ける、オランダ警察の警部の話。安易なナチス告発の書、ユダヤ受難の書よりもよほど胸をうたれる、感動小説である


 そこまで言うならと探すんだが、なかなか見つからない。半年かかってようやく手にして読めた。ああ、これは確かにスゲぇ…

 人体実験の刻印を腕に、不治の病に冒されながらも遙かなる星、ダビデに向かって進む娘の姿は、安易に同情の言葉をかけられない。また、彼女を助けるために全てを(文字通りすべてを)投げ打つ警部の意志を、手垢のついた「ヒューマニズム」で括るには、言葉の方がチープすぎる。

 事実の方が重すぎて Auschwitz を語る言葉をもたないわたしは、充分にレビューできない。それでもユダヤ娘と警部の意志と行動に強く心を動かされた。それは単純に「感動した」と書き表すよりも、登場人物の強い意志に引っ張られた、という方がしっくりくる。

 小ネタ:実物は「遙かなる星」、つまり涼宮ハルカの「遙」とあるが、ネットでは旧字ではなく「遥かなる星」で通っている。お探しの際、ご注意を。また、ヤフオクで4万円という値がついたらしいが、よい子は図書館を利用しましょう。ちなみに都内では国会図書館に1冊、高井戸図書館1冊ある。復刊ドットコムではこんなカンジ[参照]

 おまけ:逢坂剛おすすめのミステリはまだある。氏はこう紹介している。

(半歩遅れの読書術の)最終回は、わたしがそうやって見つけた、おもしろいミステリーをご紹介したい。あいにく絶版ないし品切れ状態のものが多いが、これは出版社に対する再販の催促であると同時に、古書店で見つけたら迷わずお買いなさい、という読者諸氏へのお薦めでもある

 でもって白眉の二冊はこれ↓

  • 遙かなる星(ヤン・デ・ハートック)
  • 母なる夜(カート・ヴォガネット・ジュニア)

 この二作を読んだあとでは、映画「シンドラーのリスト」が書き割りの田舎芝居に見えてくるそうな。さらに、以下の四人の作家はチャンドラーやハメットとの比較で「通俗」ハードボイルドとされ、一段低く見られていたらしい…が、それはとんでもない偏見で、今のレベルでいえばクリーンナップ級の顔ぶれ。どの作品も、今どきの派手な仕掛けはないが、面白い小説の手本を見せてくれる。買って損なし、再読、三読に堪える、氏の愛読書とのこと。

  • 明日に賭ける(ウィリアム・P.マッギヴァーン)
  • さらばその歩むところに心せよ(エド・レイシイ)
  • 針の孔(トマス・ウォルシュ)
  • ハンマーを持つ人狼(ホイット・マスタスン)

 ただし、週間ブックレビューでの「押入れのちよ」の絶賛ぶりからすると、ひょっとして氏はスティーヴン・キングばりの誉め魔かも。ハードボイルドのグルが薦める逸品として。

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子どもに死を教える4冊目

 テレビからは、注意深く「死」が除かれている。

 高速道路で居眠り運転した結果の映像には、車の残骸(よくて黒染み)しか残らない。ボウケンジャーは不死身だし、ツインストリームスプラッシュの直撃を受けても浄化(還元?)されるだけ。

 おかげでわが子が見かける「死」は昆虫の死骸か、道端のペチャンコな轢死体ぐらい。こないだ家族みんなで参列した葬式ぐらいかね、ちゃんとした死体を見たのは。今も昔も同じ密度で存在するにもかかわらず、「死」が見当たらない。子どもに死を教える最高の現場は葬式だな、などと言ったら不謹慎だが、そうめったにあるものでもなし。

 ガッコのベンキョも大事かもしれんが、誰もが必ず死ぬことを、そして自分も例外ではないことを受け止め、その上で「よく」生きていくことを考えてほしーなー、などと企む馬鹿親は、子どもに死を教える本などを探しては読み聞かせる。

 その選りすぐりが、「子どもに死を教える三冊」。どれもメッセージ性が高く、究極のところは次の一文を伝えることを目的としている。

あんたまだ生きてるでしょ だから、しっかり生きて、それから死になさい

 そうじゃないんだ、わが子は幼い。他者の死をどう受け止めるか、自己の死へどう向かっていくか、といったものではなく、そもそも死とはどういうものなのか、を理解してもらいたい。良い本はないかなーと探していたら、あった。

死を食べる 写真絵本とでもいうのだろうか。例えば、車にはねられたキタキツネの死骸。それを2時間おきに自動シャッターで撮った連続写真。冷たくなったキツネの体からダニが離れ→ハエが卵を産みつけ→ウジがわく。肉食の昆虫(スズメバチとか)もやってくる。音と匂いは伝わらないが、腐臭の中の饗宴。食い尽くされた後は、土に還る。

 勇気の人差し指ごっこ(ただし犬の腐乱死骸)で遊んだことがあるので、臭いに辟易している著者のコメントに微笑む。たしかにひどい臭いだろう。しかしそれは、他の生きものを呼ぶためなのかも、と思ったり。

 グリーナウェイ監督「ZOO」か、乙一著の「ZOO」を観たか読んだ? あれはフィクションで屍体だったけれど、こいつはリアルで動物だ。面白いのは、どれも

 1. まず目玉
 2. 次に頭(脳みそ)と内臓(はらわた)
 3. 最後になって、筋肉・腱・骨

 ――の順に食べられること。あたりまえだって? 傷みやすい(=腐りやすい)ところから早めに食べるのは基本だって? そうだね。そんな写真ばかり続く。あ、人間のやつは無いから安心して。そんな写真をずっと眺めていると、次のことに気づくかもしれない。

 生きているものが死ぬと、こうなる
 生きものは、死を見つけて、食べる
 生きものは、死を食べることで、生きている

 できすぎかね、「死を理解することで生きる原因を見いだす」をまさに地で行く展開と思ってしまうのは。誉めすぎかも。それでもラストの○○の写真にはまいった。まさにそうキタか――!! とズシンと腹にきた。うん、確かに↑のメッセージを伝えるにはこのラストでなきゃ。

 …気味悪がっている嫁さんをヨソに、子どもに読み聞かせる。屍(しかばね)を忌み嫌う刷りこみがされてないので、意外と素直に受け止めてくれる。

 ちなみに、オトナには特殊清掃「戦う男たち」をオススメする、かなり強く。

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「ソフトウェア開発の名著を読む」を読む

ソフトウェア開発の名著を読む 「めいちょ」と銘打たれるとなかなか手が出せないもの。大著であることも多いし、何より難しそうなイメージが先行してしまう。さらに、たいていは「古典」…なので、書店で平積みになってる賞味期限 1 年のハウツー本みたく目に入ってこない(←こちらからアプローチをかけないと手に入らない)。

 というわけで敬遠していた方へ朗報。「ソフトウェア開発の名著を読む」で手軽に「めいちょ」の品定めができる。この手のカタログ本だと、「コンピュータの名著100冊」が有名だが、これはたったの8冊の紹介、しかも新書なので30分で読める。

 しかも、言語は問わない。もちろん FORTRAN や Pascal といった「古語」のコードが出てくるが無問題。伝えたい何か、例えば「プログラミング作法」や「よいコードを書くための習慣」を表現するための、レトリックとしてのコードなのだから。

 とどめは、昔から、誰からでも、何度でも指摘されてきた本質→ソフトウェアは「人」が開発するもの という観点から8冊がレビューされる、しかも筆者の経験談つきで。言語やツール、手法がどう変遷しようとも、この本質は変わっていない。

 したがって、ソフトウェア開発の問題は「人」に帰着することがよく分かる。ひどいコードが問題なのではなく、ひどいコードを平気で書く「人」が問題なのだ。デスマプロジェクトが問題なのではなく、プロジェクトを失敗させる「人」が問題なのだと。

 以下に紹介されている8冊を掲げる。ご存知の方がほとんどだろうが、どれもスゴ本なり。


  1. プログラミングの心理学(M.ワインバーグ)
  2. 人月の神話(P.ブルックス)
  3. ピープルウェア(トム・デマルコ/ティモシー・リスター)
  4. デッドライン(トム・デマルコ)
  5. ソフトウェア職人気質(ピート・マクブリーン)
  6. 達人プログラマー(アンドリュー・ハント/デビット・トーマス)
  7. コードコンプリート(スティーブ・マコネル)
  8. プログラミング作法(W.カーニハン/ロブ・パイク)

 「ワインバーグなら『システム思考法』が一番だろう」とか、「どうして『ハッカーと画家』や『ソフトウェア開発の持つべき文化』が入ってないんだ」といったツッコミは、もちろんあるかもしれない。しかし、そんなツッコミする人なら上8冊はチェック済かと。

 わたしの場合、2,3 既読で、4 を読まねばと動機付け。今の仕事がマネジメントにシフトしてしまっているので、4 の紹介にある「"管理ごっこ"をやめる」というメッセージはかなり響いた。是非モノにして、職場での行動原理に組み込みたいですな。

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本ばかり読んでるとバカになる

 本の探し方についてのエントリ「本を探すのではなく、人を探す」において、「目的を持って読む」と書いたが、具体的に何をどうすりゃいいのか、書いてない。本を選ぶまでが前回のエントリなら、ここでは、選んだ本をどうやって読んでいるかについて、書く。

最初に

 やはり長くなりすぎたこのエントリのまとめ↓

 読書は他人にものを考えてもらった結果をなぞるだけだから、自分のアタマでものを考えなくなる。そうした受動的な読書を打ち破るために、オキテを作って実践している。 オキテ1:読むだけの読書にしない、オキテ2:読んだら表現する、オキテ3:読んだらフィードバックする、の3つ。その結果、読書の対象に広がりと奥行きと深みが増した。特にオキテ2を強力にオススメする。

 まとめ終わり。本文どぞ。

本ばかり読んでるとバカになる

読書について ショウペンハウエルが「読書について」でいいこと言っている。読書は他人にものを考えてもらうこと。だから本を読むことは他人の思考過程をたどっているだけであって、自らの思索の自由を阻めることになる。書物から読み取った他人の思想は、他人の食い残し、他人の脱ぎ捨てた古着に過ぎない。ヒマさえあれば本に向かうという生活を続けて行くと、精神が不具廃疾になるという。

 さらに追い打ちで多読を批判をする。自ら思索しようとせず、最初から本に頼る。書物によって知り得たにすぎない知識や思想を、あたかも自分のもののように振り回す。まさにバカにハサミ。多読すればするほど、自由な思索にバイアスをかかることに気づかないまま、自分のアタマでは1ミリだって考えられなくなる。

 平積み新刊書だけで自称読書家、ノウハウ・ハウツーといった言葉に弱く、ブックマークは満杯で、<あとでよむ>は読みきれていない。「買っただけ」で満足しているオナニストと、「読んだだけ」で満足しているオナニスト――そんなわたしにとって、この簡潔鋭利な箴言はかなり深いところまで刺さった。あまりにイタかったので、呻吟の挙句こんなオキテをひねりだした。

 オキテ1 読むだけの読書にしない
 オキテ2 読んだら表現する
 オキテ3 読んだらフィードバックする

オキテ1 読むだけの読書にしない

 読書中は「読むだけ」に専念しない。速読法の一つ、フォトリーディングは、自意識をインプットデバイスと見なし、必要な情報(=読む動機となった対象)をフィルタリングしながら「見る」方法。素早く内容を知るのにいいけれど、疲れるわぁコレ。わたしにとって楽なやり方じゃないし。

 そもそも読書中って、妄想したり反発したり、あれこれ考えながら読むもの。自分の脳をハードディスクやメモリと見なして、そこへ必要な情報を注入するだけだったら、もっと良いやり方がある。それは、他人に読ませてキモだけを訊きだす(検索抽出する)やり方。集合知を用いた例は、前回のエントリの「知らない本を『知る』方法」を参照あれ。

 じゃぁ何をしているかというと――

  1. 先読み
  2. 抜き書き
  3. 付せん貼り

 3.は、気になったトコに付せんを貼り付けて、後から読み返すってだけ。実行されている方もいらっしゃるようなので割愛。ここでは1. と2. を説明する。

 1. は先読みによる能動的読書。著者の主張を全部読む前にアタリをつけて、当てっこする。例えば、あるパラグラフだけ読んで、その後の展開を想像してみる。難しければ、次のパラグラフの接続詞だけを予想する。先頭が、「しかし」なのか「だから」なのか「したがって」で始まるのかを考える。本よりもむしろ、新聞の社説なんかが練習にちょうどいい。

 これは当たるのがアタリマエ。主張を的確に伝えることが目的なのだから、慣れればズバリズバリと当てられるようになるはず。問題は、当たらなかったとき。「えーなんでー!?」と血眼になって著者と自分との「差」を探す。論理の飛躍がないか、論拠の薄さを指摘できないか、データを論説の乖離はないか、丹念に追いかける。

 そして、自分の「先読み」が浅はかであれば、書き手の勝ち。補強・補足・表現や構成の改善ができるようなら、読み手の勝ち。要は「自分だったらこう書くのに」と先へ先へ考えながら読む。「後の先」という言葉がある。相手の仕掛け動作の虚を突くことで、剣道で知ったのだが、読書にもあてはまる。攻撃的読書といってもいい

 さらに上達してくると、目次から「あたり」をつけられるようになる。目次を丹念に読むところは速読法といっしょだけれど、その目的が違う。「この章で○○を紹介するつもりか」「ここで論拠のデータを出してたたみかけるんだなー」と予測できるようになる。初見の著者ではムリだが、同著者の二冊目、三冊目だとアタリがつけられるようになる。こうなってきたら、もう読まない。勉強しない(向上が認められない)著者が二番・三番煎じを出してきても、もう読まない(むしろリストから排除する)。

知的複眼思考法 実はこのやり方、ショウペンハウエルに刺されたからやってるわけではない。むかし社説読んでるうちに自分で編み出したゲーム(のようなもの)。もっと体系化された紹介は、「知的複眼思考法」の第1章にある。わたしが面白半分に考えたゲーム(?)を、さらに洗練したやり方で身に付けることができる。

 ただし、この攻撃的読書は、『小説』に適用してはならない。なぜなら、同作家の初読作品ならよいが、二作目、三作目に慣れてくるとオチまで先に読んでしまうから。無意識に先読みをするおかげで、ダン・ブラウンのような食材が違うけれどレシピが一緒といった作家は二作目が読めなくなった。

オキテ2 読んだら表現する

 いささか古いが、清水幾太郎「本はどう読むか」は読むTipsの宝庫ともいえる。大事なことがサラリと書いてあるので見落としがち。最も心にキた一文を引用する。

 読んだら、書く。読む場合は、理解するという立場だが、読んだ本を紹介する場合は、他人に理解させるという立場にいる。誰かが作った道を見失うまい、という努力ではなく、自分で道を作り、他人にこの道を歩かせる努力だ。その表現の努力を通じて、初めて本当に理解することができる。文中の借り物のロジックではなく、自分のコトバで伝えようとすることで、心の底へ下りた理解が生まれる。


 そのとーり。先出のショウペンハウエル「読書とは他人に考えてもらうこと」にも通ずるが、その本から得たことを自分の言葉にしようとすると、出ない。途端に泥炭に足突っ込んだ気分になって暗澹とするだろう。んなシロートにゃできないってば。

ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法 そこで、抜き書き。自分のコトバで理解・表現する前に、著者に徹底的になりきってみる。これは効果絶大なので、特オススメ。ネタ元は「ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法」(福田和也)、こいつも読めば"発見"がある逸品。抜き書きは、「書き写し」と「分解」の二つのフェーズに分かれる。それぞれのポイントをまとめたぞ。

【書き写しフェーズ】


  • メモ帳に実際のテキストを書き写す
  • 論旨を要約して書くのではなく、テキストをそのまま書くところが重要
  • コピー&ペーストといった「移す」のではなく、写すことによる発見や理解が必ずある
  • 手書き重要
  • 手書きだからこそ、いろいろなことに気が付くと同時に、いろいろな考えがわいてくる
  • 抜書きをすることで、何を語ろうとしているのかが、はっきりとした輪郭をもって運動を始める
  • 写すにあたっては、その書き手になったつもりで、大げさに言えば憑依して書いていく必要がある

【分解フェーズ】


  • 原稿用紙で10~30枚の文章を分解する。自分の好きな作家や、目指すスタイルの手本になりそうな文章を選ぶ。それを「分解ノート」に書き写す(p.169の写真が参考になる)
  • 段落ごとにブロックに分ける
  • ブロックの一つ一つの文章を、別に取り出して書いていく。書き写すときは一行おきにして余白たっぷりと。ノートの天と地に余白も
  • 分解は、段落をブロックとして、全体の進行を見る。次に段落の中での進行を見る。さらに、描写、情報、エピソード、細かくは言葉やレトリックまで分解・分析していく

 手書きで書き写すことにより、著者になりきって「書く」行為をシミュレートする。さらに書き写した内容を徹底的に腑分けすることによって、書き手の意志をハダカにする技――やれば間違いなく上達しますぜ、だんな/嬢ちゃん。

 わたしの場合、考えるヒント(小林秀雄)でやったんだけど、スゴーくよく分かったナリ。彼の評論は省略の妙を極めてるとか、読み手を考えさせるプロフェッショナルだとか絶賛されている理由が納得できた。

 読んでるうちは絶対に分からなかった省略の妙は、書き写すことによって初めて目に見えるようになった。省略されたところで論理は飛躍していない(むしろ論理の跳躍を自制しているかのように見える)。書いていない部分を読み手が「補足」する行為=考えるということを促すために、「覆って」いるだけなんだと。覆われた部分の答え合わせは、続きを読めば分かる。評論の神様という理由は、読むよりも書き写すことで腑に落ちついた。

 オキテ1 が徹底的に能動的に攻撃的に読むことなら、オキテ2 は徹底して受動的に受容的に読む(というかなりきって書く)やり方。で最後は小林秀雄もショウペンハウエルも知らなかった、というか知りようのない「今」「ここで」やっているやり方。

オキテ3 読んだらフィードバックする

 フィードバックの場所は、ここ。攻撃的読書の結果、「わたしならこう書く/構成する」とか、なりきり抜き書きの結果、「この本のキモはここ!そこでわたしはこう変わった」といったネタをblogで公開する。それがフィードバック。しっかり吐き出さないと息は吸えない。クロールの息継ぎの極意はソレだし、読書も同じ「出さないと、次が入らない」。

 公開することを念頭において、アウトプットを出しながら読む。「アウトプットという脅迫観念に縛られて、自由な読書ができなくなる」とか「自然体で著者と対話したい」とかヌルいことを昔考えてたけれど、そんなやり方じゃ読める本の絶対量・質・深さが限られてくる。

 読んだことによって何かが変わっていなければ、何の意味もない(「時間が経った」はナシね)。もっとズバリ言うと、読んだことによって自分が変わっていなければ、その本は読まなくてもよかった、ってこと。そいつを自分の目で見て理解するために、アウトプットはどうしても必要。どう変化したのか見えないのなら、変化していないのと一緒。「記憶の片隅」や「血肉になって」とヌルいことは教頭先生あたりでよろしい。

 リアルな自分が1ミリも変わっていないなら、その本を選んだ方法を破棄する(その"本そのもの"に罪はない)。前のエントリで述べた「その本を選ぶ理由を」捨てる…つまり、二度と適用しないようにする。

 ただし、「アウトプットを意識しない読み」もアリ。例えば? そりゃ小説ですな。時を忘れて読みつくすなら、アウトプットどころか自分すら忘れて読みふけれ。以前の企画「これから読む徹夜小説」や、はてなの質問「徹夜するほど面白かった小説を教えてください」[参照]で手にする奴は、これだ。アウトプットを強いて定義するなら、「感情」だろう。

 んで、アウトプット→フィードバック→皆さまからの反響→次の本へと好循環がまわり始める。煮詰まったらはてな人力検索で問い合わせ。はてなブックマークや del.icio.us の「つぶやき」も捕捉してますぜ。とにかく、出すから次が入る。ここからは、「本を探す方法」へとつながってる。

最後に

 以上、読んでるときに実行していることを中心に書いてみた。紹介した本のTipsは、ほんの一例なので、ご興味をもたれた方は、まず図書館に、そして気に入ったら購入して「使って」みてはいかが?


  • 読書人の心得 → 「読書について」
  • 攻撃的読書法 → 「知的複眼思考法」
  • 読むときのスタイル → 「本はどう読むか」
  • アウトプットのノウハウ → 「ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法」

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もしあなたが週60時間以上働いているとすれば、父親として役に立たない。息子が問題をもつようになったら、それはあなたのせいだろう

男の子って、どうしてこうなの お題は次の文に続く──「父親はきちんと家に帰ってきて、こどもと一緒に遊んだり、笑ったり、じゃれあったり、ものを教えたりする必要がある」

 のっけからショッキングな断定文が続くが、読み進めて納得した。「男の子って、どうしてこうなの?」は、異性である息子を育てるのに途方にくれる母親たちへの福音書かもしれないが、父親が読むと考えを改めさせる指南書なのかも。

 けれども会議が、出張が、締め切りが、なんて抗議の声は上げられる。生活を成り立たせるための仕事を放り出したりすれば本末転倒ではないかと。同意、わたしもそうだから。それでもココロのどこかで知っている、ものごとには、取り返しがつくものと、つかないものがある。そして、代替の利くものと、利かないものがある。取り返しがつかないものは、子どもとの時間であり、代替が利かないものは、父親だ、ということに

 たとえば近所の公園。「公園いってキャッチボールしよう」「紙ヒコーキ折ったら公園で飛ばそうか」と誘って子どもが喜んで一緒にいく、なんてあと何年できることやら。すぐに「友達と一緒にどこかへ」になるに違いない。つまり、公園で遊べる期間は、ある年齢を過ぎてしまえば取り返しがつかない時間となり、その相手は、父親以外の誰も代わりができない。

 では、父親のがんばりが全てかというと、かなり違う。

 女の子とうまくやっていくコツを教えるのは母親の役目。異性を前にしても素直に自分を表現できることは、実はかなり重要なスキルなんだが、それを伝える方法が書いてある。ショッピングセンターでクラスメイト(女の子二人)と会った息子の例が秀逸。あいさつしても女の子たちはクスクス笑いあうだけで返事しない。意気消沈する息子に、母親があるアドバイスをする。要は「好きな男の子の前では、女の子はクスクス笑うもの」を伝えて、実行させるのだが、そのやり方がイイ。

 ガツンときたのが、夫婦のルールの話。しっかりと結びついた夫婦こそが、子どもを育てる上で最も重要な下地だということは合点承知だが、その根底のルールについて、本書はこうある。

結婚生活を維持していくためには、夫婦で顔を突き合わせ、おたがいに精いっぱいどなりあうことも時にひつようとなる。小さな行き違いによって溜まったうさが吐き出され、浄化されるからだ。ただし、女性はぜったいに安全だと感じない限り、男性とそのような正直で激しい言葉のやりとりをすることができない。自分が殴られないことを女性は知っている必要がある。


むろんそうじゃない夫婦を紙面やネットで知ることはあるが、自分はそうじゃないと「言わずに」証明し続けなければならない。

 まとめ:男の子は3つの段階をへて成長する。


  1. 誕生から6歳までのあいだ、少年たちは愛情を学ぶために沢山の愛情を必要とする。この時期、1対1で話しをしたり、教えたりすることが、子どもを世界とつなぐ助けとなる。それをする最良の人間はふつう母親であるが、父親がとってかわることもできる。
  2. 6歳ごろになると、少年たちは男というものに強い興味を示し、父親がクローズアップされるようになる。父親の興味の持ち方や時間の過ごし方が重要となる。とはいえ、母親の役目も依然として重要であり、息子が年を取ったからというだけの理由で、背景に退くべきでない
  3. 14歳を過ぎると、少年は助言者(個人的に少年の面倒をみ、少年がゆっくりとより広い世界に入っていくのを助ける、親以外の人)を必要とする。昔の社会は、この段階に区切りをつけるためにイニシエーションを行った。当時は、現在よりも多くの助言者がいた

 今のわたしに最も欠けているのが3。信頼のおけるほかの大人たちの長期にわたる積極的な助けがなければ、十代の少年たちを育てることができないとある。まさにその通りだと思う一方、いますぐ行動を起こさねばと背筋が伸びる。

 これは、わたしも試されているんだな。

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「若おかみは小学生!」のハザードレベル【低】→【中】

若おかみは小学生 最近の小学生に流行っている本書の危険性に警鐘を鳴らす――ってネタなので本気にしないでねと最初に断っておく。

 たとえばCCさくらはコスプレの、プリキュアは格闘っ娘の素地を育む番組として白眼視されている。しかし、そうしたヲタ発見アニメの陰に隠れ、いわゆる児童書まで萌え圏が拡大されていることは、意外と知られていない。

 小学6年生の織子(おっこ)は交通事故で両親をなくし、祖母の経営する旅館"春の屋"に引きとられる。そこに住みつくユーレイ少年・ウリ坊や、同級生でライバル旅館のあととり娘の真月らと知り合ったおっこは、ひょんなことから春の屋の若おかみ修業を始めることに。きびしい修業の日々、失敗の連続… 負けるな、おっこ!

 amazon レビューおしまい。努力と友情と恋。ターゲットは女子小学生(高学年)。第1巻はお料理コンテスト対決なんて見所がある。表紙は可愛らしいし何より読みやすい。頻繁に出てくる挿絵も面白い。

 しかし、パパは見逃しませんぞ↓

     そこに住みつくユーレイ少年・ウリ坊

 このウリ坊、なぜか織子にしか見えない。「心配だから見守ってやる」などと称し、神出鬼没で彼女の部屋に入り込んだりする(こっぴどく叱られるが)。特殊能力として彼女に取り憑いて、操ったりできる。

 ハイここ↑注目ぅ!輝かしい80年代に小学生だった野郎なら分かるだろ? ホラ、これだよこれ↓


















































おじゃまユーレイくん

思い出した?


















 もうね、「おジャ魔女どれみ」「おじゃまんが山田くん」なんてメじゃないッす、輝く小坊時代の金字塔っつったら、これしかないっすよ(突然敬語)。

 先週のマガジン「涼風」で神展開がなされる一方、ジャンプで乳首券が発行されないことに議論が紛糾する20年以上も前から、コロコロコミックは易々と臨界突破していたんだよ…あの頃は無敵だったなぁ…(遠い目)

 ふるふるふるッ

 懐エロにしみじみしている場合じゃない!

 いたいけな女子小学生が「こんどの"若おか"おもしろかったねー」なんて学校で回し読みなんかしちゃっているネタが「おじゃまユーレイくん」なんだよ!キミたちのパパを四半世紀も前にハァハァさせていたあれだよ!

 それだけぢゃぁない、

 もう表紙からして和服サガ・ベイルマンでちっちゃな雪使いを探したくなるし、2巻からはツンデレユーレイが出てくるし(雛見沢村の古手梨花そっくり)、お嬢様ライバルや性悪な美少年と必要なキャラは全部そろっている(何に"必要"かは各自で忖度してほしい)。深夜アニメにしたらさぞかし"ファン"が釣れるだろう。売り手は「かいけつゾロリ」と同じ扱いにしたがるだろうから、週末早朝アニメということで…

 もう箸が転んでも萌える年頃でなくなったが、狙ってるのか偶然なのか、ここまでヲタ心をくすぐられると読まないではいられない。1巻15分で読めるスーパーライトノベルなので、興味をもたれた方は図書館でお探しあれ。ただし、萌え本として書かれていないので、ご注意を。もう一度、本書はフツーの児童書ですぞ

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本を探すのではなく、人を探す

 長くなりすぎたこのエントリのレジュメ:選本の肝は本ではなく、人を探すこと。わたしが知らないスゴ本は、それこそ百万冊ある。その本そのものを探すのはとても難しい。しかし、百万冊のスゴ本は間違いなく誰かに読まれている(それは"あなた"かもしれない)。だから、スゴ本を読んでいる"あなた"を探す。このblogの究極目的も、そう

メールやコメントでいただいた、以下の質問に答えてみる。誰かの参考になれば。

【質問】

  Q1 たくさん本を読んでるようですが、速読をやっていますか?
  Q2 あるいは読書術のようなものはありますか?
  Q3 読む本はどうやって探していますか?

【回答】

  A1 速読を練習したことありますが、実践してません
  A2 「目的を持って読む」に尽きます
  A3 本ではなく、人を探します

本は目的を持って読む

 あたりまえだとツッコミがくるだろうが、わたしはできていない。漫然と読んでるとあっというまに時間だけが経つ。時間を「つぶす」のが目的ならそれでもいいが、もったいない。

 これは、本を選ぶときから始まっている。書影を見たとき、レビューを読んだとき、手にしたとき、自分に問いかける「どうしてこの本を読むのか」と。これは表紙を開いた後も一緒、読んでる途中も折にふれ目的を問い直す。それに沿わない・合わないようなら、止める。ムリしない。あるいは目的を達して残りを読む必要が感じられなくなったら、止める。だから「まえがき」と「目次」は熟読する。目次の情報だけで取捨選択する。ビジネス書や解説本を読むときはこのやり方が非常に有効。

 つまり、目的を念頭において、本はいつ放り投げてもいい、という心づもりで読む。ただし、読んでる最中に目的が変わってくる、というのはアリ。小説がこの場合に当てはまるが、書き手に連れられた先が思いもよらなかった、というのもまた幸せな体験だろ。

 この「目的」は、読み始める前までに、2つの「なぜ」に答えられるようにする。

   1. なぜ「いま」読むのか
   2. なぜ「わたし」が読むのか

 よく1. が注目されるが、ホントは2. の方が重要だったりする。「いま」読む理由のNo.1は→「いま読みたいから」だろ。「いま」その知識が必要だから、「いま」が旬の小説だから… 昨日何でもいいが、理由はそこしかない。

 重要なのは2.、つまり「わたし」が読みたい理由をハッキリさせる。それが明確でないうちは、その本は読まなくてもいい。つまり、誰か他の人に読んでもらって、レビューなりレジュメなりをあてこんでおけばいい。「その著者の作品が好きだから」が理由No.1だろうが、そればかりだと読む本がどんどん限られてきて血のめぐりが悪くなる。自分が知らない、でも自分が読んだら面白いと思える本――そう確信が得られたら、「わたし」が読む理由になる。

 実はこれ、矛盾してる。わたしが面白いと思う本こそ、次に読む本。しかし、その本が面白いかどうかは、読んでみないと分からない。知らない本をどうやって「知る」のか?

知らない本を「知る」方法

 まず自力、それは「多読」。スゴ本もクソ本も肥やしになる。良書も悪書も関係なくどんどん読む。一定の量をこなさないと「読む前に知る」ことはできない。選本眼こそ量は質に転換する典型的な例。ただし、クソ本ばかり「選んで」読んでても質に転換しないのでご注意を。良いクソと悪いクソの区別がつくだけ。つまり、量を質に転換するためには自分"だけ"で選本してたらムリで、他人の評をいったんは鵜呑みにして読むことが必要。

 次は他力、つまりメディアから見つける。朝日日曜版もオーソドックスだけど、BS週間ブックレビュー[参考]も定番やね。メディアの書評で大切なのは、「本ではなく人を選ぶ」こと。本を探す前に人を探す。自分のストライクゾーンに投げこんでくるレビューアーを見つける。いったん鵜呑みにして目ぇつぶって手にしてみるしかないが、うんこ書評家はちゃんと覚えておくこと。そしてその人が勧める本は蛇のように避ける。

 最後は集合知、みんなの意見は案外正しい、ただし、「みんな」をどう定義するかによる。川上弘美が好きな「みんな」が勧めるなら、わたしにとって案外正しい。ただし、この「みんな」は世間一般ではない。理由は…川上弘美だから(わたしは好きだけど、やっぱりね)。集合知は「はてな」が最適。好きな本を適当に投げ込んで、そいつを気に入っている「みんな」を探す。こんなカンジに→「センセイの鞄」を含む日記[参照]。そして「みんな」の複数が指している次の本をかたっぱしから試読するんだ。そこで人の取捨選択をして「みんな」をブラッシュアップしていく。

 おまけ。これ書いてて昔のエントリ:面白い小説を見つける3つの方法を思い出した。

 自力、他力、集合知――いずれの場合も(全部読まないにせよ)莫大な量の本を読み始める必要がある。もちろん目的に沿わなければ放り出してもいいが、とにかく沢山の本を手にする必要がある(手にするだけでも!)。ここに罠がある。「本は買う」ことをモットーとしている人だ。「途中で放り出してもいい」なんてスタンスでは、とても買えないだろう。あるいは「人を選ぶためにその人が推す本を読む」なんて読み方もできないだろう。このやり方を適用するなら、モットーを退けておかないと銭がもたない。

 では、買う本と買わない本をどう選ぶかについて、わたしのやり方を紹介する。

エロ本と辞書以外、本は買わない

 「本は買わないと身につかない」とか「本の目利きは身銭を切ってこそ」と言われる。確かにその通り。わたしの場合、開高健に影響され、実行した時期があった。金をドブに捨てる経験を積んでいくうちに、スゴ本とクソ本の区別はつくようになった。

 しかし、払った犠牲(金と時間)が大きすぎる。思い出したくないぐらいのぞっとする額がつぎ込まれている。得られた「目」はそれなりなんだけど、小説家や評論家でメシ喰っていくつもりもない。だから、「銭を払う」前提をとっぱらって、もっと他人の目を入れれば良かったと思っている。

 さらに、この身銭を切るやり方だと、本の渉猟が保守的になってしまうところがある。オレサマ基準が幅を利かせ、鋭角的な選本になってくる。量は多くても似た傾向に固定化してくる。「いやいや、書評からも仕入れてくるぞ」という反論が来そうだが、どの書評をどう評価するかの時点で既に固定化していることに気づいていない。

 ただし、身銭を切るやり方でしか得られないスキルもある。それは「本の呼びかけを聞き取れる能力」。すごく電波な言い方だが、「本に呼ばれる」ことがある。普通の人なら、書店の平積みの表題やらワンフレーズに"引っかかる"ことが相当する。それではなく、文字通り"呼ばれる"としか言いようのないことがある。呼ばれて入った古本屋の10円均一ワゴンの山に、ずうっと探してた絶版本を見つけたり、図書館で呼ばれて手にした未知の一冊にハマったり。

 結局のところ、くり返し使う本でなければ、本は買わないことを至上としている。買うことに満足してしまって、読まない事態を排除する。わが家は狭い。自己満足オナニーのためのスペースなんて無い。どーしても買う必要があるものだけを買い、使ったら、即売る。実際、わたしの「本棚」はカラーボックス1つで足りている(もっとも実家の書架にはたくさん詰まっているが…)

図書館を徹底的に活用する

 では、どうしているかというと→図書館を使い倒す。最近の図書館はよくできていて、ネット検索や予約がかけられるものがある。それを複数使って借りまくる。住所だけではなく、勤務先の図書館も使う。さらに通勤ルートにまたがる市区の図書館も狙う。

 「図書館へ行って借りたい本を探す」のではない、「読みたい本を最速で貸し出してくれる図書館を探す」。例えば「東京都の図書館横断検索」[参考]を利用して、自分の読みたい本を貸し出してくれる図書館へ出かける。

図書館の最大の強み→ロングテール+本の空間

 図書館を利用するメリットは沢山あるが、もっとも素晴らしい点は、amazonとリアル書店のイイトコ取り、すなわち「ロングテール」+「本の空間」の両方が得られるところだろう。

 amazonの陳列棚は無限だ。新刊・売れ筋しか揃えないリアル書店と異なり、amazon ならいくらでも陳列できる。結果、埋もれた良作が掘り出されたりする。書店というより本の情報が詰まった巨大なデータベースのようなもので、検索語を上手に操れば、望む本を瞬時に探し当ててくれる。しかし、ターゲットの本しかスポットが当たらないため、その周辺が見えにくくなっているのも実情。

 いっぽう、リアル書店だと「お目当ての本」の周りにも目が行く。本が並んだ空間に身を置くことで、ジャンル全体から見た位置付けや、周辺本も引っかかりやすいというメリットがある。amazon だとキーにかかったものは正確に抽出するが、それ以外は見えない。本の情報とはブラウザの検索結果であり、空間としてその本が把握できないから、周囲が見えない。勢い、「ショッピングカートに入れる」行為は一本釣りに似てくる。

 そして、図書館の場合、amazon とリアル書店のメリットの両方を受け継ぐ。図書館を書籍のデータベースとして扱い、「検索→予約→近場の図書館で受け取り」が可能。さらに、「ヒットした本を書架で見つける」ことにより、その本の周辺の「似た本」にも目が届く。しかも、リアル書店では扱わない古書も込みで。

 つまり、図書館はamazonの網羅性と、リアル書店の本の周辺の両方を兼ね備えている。もちろん、人気の新刊本は奪い合いなので手にしにくいといったデメリットもあるが、このblogを読むような人なら、そもそも早読みレースに乗らないだろう。

「貸し出し期限」はメリット

 図書館には、1週間なり2週間なり、貸し出し期間がある。本を買いつづけていた頃は、これをデメリットだと思っていた。読みたいときに読みたい本を手に取れないなら、意味がないと。その結果、貯めこんでいた本の山で身動きが取れなくなっていた。

 本で埋められた床の色を思い出せなくなったとき、わたしは気づいた→「生きている残りの時間をつぎ込んでも、この本は読みきれない」――で、どかんと売ることにした(売上は6桁に達した)。

 このブレークスルーから、本との出会いは一期一会を実践するようになった。つまり、借りて期限内に読みきれないようなら、それだけの出会いだった、と割り切るようになった。もちろん、期限がきても読みたいならば、その都度借りなおす。何度も借りなおすなら、それは「買え」ということだと解釈し、そこで初めて購入する目で見るようになった。

 本という「モノ」に執着したらダメ。本は、本から得られる何かこそが重要――それが、知識だったらバッドノウハウだったり、楽しい時間だったり←以前のわたしはこれに気づいていなかった。本のコストは銭が全てだと考えていた。本当は、「本から得られる何か」を得ていない時間と空間の全部がコストになるにもかかわらず、買えば全てだと考えていた。おかげで莫大な「買っただけで満足した本の山」に埋もれて自己満足に浸っていた。

 そうしたオナニーを断ち切るのが「貸し出し期限」。そのおかげで、常に「その本はいま読むべき/読みたいものなのか」を念頭において毎日リストを更新し続けている。要は、どんどん借りて、どんどん読むやね。読みきれないなら見捨てるか次のターンで再挑戦するか考えてリストを組み立てる。

等価交換の原則

 錬金術における等価交換の原則を覚えているだろうか? 「人は何かの犠牲なしに何も得ることはできない。何かを得るためには同等の代価が必要になる」――本の場合、対価は銭ではない。「今もっている本」だ。「今もっている本」を手放さなければ、新たな本を得ることはできない。これを勘違いしている人は、一生読まない本代を払いつづけることになる。

 「今読んでる本」で片手はふさがっているかもしれないが、何かを得るためには、少なくとも片方の手(右手)は空けておかないと。どうして右手なのかって? それは、右手はスゴ本のためではなく、そいつを読んでる"あなた"と握手するために必要だから

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