長くなりすぎたこのエントリのレジュメ:選本の肝は本ではなく、人を探すこと。わたしが知らないスゴ本は、それこそ百万冊ある。その本そのものを探すのはとても難しい。しかし、百万冊のスゴ本は間違いなく誰かに読まれている(それは"あなた"かもしれない)。だから、スゴ本を読んでいる"あなた"を探す。このblogの究極目的も、そう。
メールやコメントでいただいた、以下の質問に答えてみる。誰かの参考になれば。
【質問】
Q1 たくさん本を読んでるようですが、速読をやっていますか?
Q2 あるいは読書術のようなものはありますか?
Q3 読む本はどうやって探していますか?
【回答】
A1 速読を練習したことありますが、実践してません
A2 「目的を持って読む」に尽きます
A3 本ではなく、人を探します
本は目的を持って読む
あたりまえだとツッコミがくるだろうが、わたしはできていない。漫然と読んでるとあっというまに時間だけが経つ。時間を「つぶす」のが目的ならそれでもいいが、もったいない。
これは、本を選ぶときから始まっている。書影を見たとき、レビューを読んだとき、手にしたとき、自分に問いかける「どうしてこの本を読むのか」と。これは表紙を開いた後も一緒、読んでる途中も折にふれ目的を問い直す。それに沿わない・合わないようなら、止める。ムリしない。あるいは目的を達して残りを読む必要が感じられなくなったら、止める。だから「まえがき」と「目次」は熟読する。目次の情報だけで取捨選択する。ビジネス書や解説本を読むときはこのやり方が非常に有効。
つまり、目的を念頭において、本はいつ放り投げてもいい、という心づもりで読む。ただし、読んでる最中に目的が変わってくる、というのはアリ。小説がこの場合に当てはまるが、書き手に連れられた先が思いもよらなかった、というのもまた幸せな体験だろ。
この「目的」は、読み始める前までに、2つの「なぜ」に答えられるようにする。
1. なぜ「いま」読むのか
2. なぜ「わたし」が読むのか
よく1. が注目されるが、ホントは2. の方が重要だったりする。「いま」読む理由のNo.1は→「いま読みたいから」だろ。「いま」その知識が必要だから、「いま」が旬の小説だから… 昨日何でもいいが、理由はそこしかない。
重要なのは2.、つまり「わたし」が読みたい理由をハッキリさせる。それが明確でないうちは、その本は読まなくてもいい。つまり、誰か他の人に読んでもらって、レビューなりレジュメなりをあてこんでおけばいい。「その著者の作品が好きだから」が理由No.1だろうが、そればかりだと読む本がどんどん限られてきて血のめぐりが悪くなる。自分が知らない、でも自分が読んだら面白いと思える本――そう確信が得られたら、「わたし」が読む理由になる。
実はこれ、矛盾してる。わたしが面白いと思う本こそ、次に読む本。しかし、その本が面白いかどうかは、読んでみないと分からない。知らない本をどうやって「知る」のか?
知らない本を「知る」方法
まず自力、それは「多読」。スゴ本もクソ本も肥やしになる。良書も悪書も関係なくどんどん読む。一定の量をこなさないと「読む前に知る」ことはできない。選本眼こそ量は質に転換する典型的な例。ただし、クソ本ばかり「選んで」読んでても質に転換しないのでご注意を。良いクソと悪いクソの区別がつくだけ。つまり、量を質に転換するためには自分"だけ"で選本してたらムリで、他人の評をいったんは鵜呑みにして読むことが必要。
次は他力、つまりメディアから見つける。朝日日曜版もオーソドックスだけど、BS週間ブックレビュー[参考]も定番やね。メディアの書評で大切なのは、「本ではなく人を選ぶ」こと。本を探す前に人を探す。自分のストライクゾーンに投げこんでくるレビューアーを見つける。いったん鵜呑みにして目ぇつぶって手にしてみるしかないが、うんこ書評家はちゃんと覚えておくこと。そしてその人が勧める本は蛇のように避ける。
最後は集合知、みんなの意見は案外正しい、ただし、「みんな」をどう定義するかによる。川上弘美が好きな「みんな」が勧めるなら、わたしにとって案外正しい。ただし、この「みんな」は世間一般ではない。理由は…川上弘美だから(わたしは好きだけど、やっぱりね)。集合知は「はてな」が最適。好きな本を適当に投げ込んで、そいつを気に入っている「みんな」を探す。こんなカンジに→「センセイの鞄」を含む日記[参照]。そして「みんな」の複数が指している次の本をかたっぱしから試読するんだ。そこで人の取捨選択をして「みんな」をブラッシュアップしていく。
おまけ。これ書いてて昔のエントリ:面白い小説を見つける3つの方法を思い出した。
自力、他力、集合知――いずれの場合も(全部読まないにせよ)莫大な量の本を読み始める必要がある。もちろん目的に沿わなければ放り出してもいいが、とにかく沢山の本を手にする必要がある(手にするだけでも!)。ここに罠がある。「本は買う」ことをモットーとしている人だ。「途中で放り出してもいい」なんてスタンスでは、とても買えないだろう。あるいは「人を選ぶためにその人が推す本を読む」なんて読み方もできないだろう。このやり方を適用するなら、モットーを退けておかないと銭がもたない。
では、買う本と買わない本をどう選ぶかについて、わたしのやり方を紹介する。
エロ本と辞書以外、本は買わない
「本は買わないと身につかない」とか「本の目利きは身銭を切ってこそ」と言われる。確かにその通り。わたしの場合、開高健に影響され、実行した時期があった。金をドブに捨てる経験を積んでいくうちに、スゴ本とクソ本の区別はつくようになった。
しかし、払った犠牲(金と時間)が大きすぎる。思い出したくないぐらいのぞっとする額がつぎ込まれている。得られた「目」はそれなりなんだけど、小説家や評論家でメシ喰っていくつもりもない。だから、「銭を払う」前提をとっぱらって、もっと他人の目を入れれば良かったと思っている。
さらに、この身銭を切るやり方だと、本の渉猟が保守的になってしまうところがある。オレサマ基準が幅を利かせ、鋭角的な選本になってくる。量は多くても似た傾向に固定化してくる。「いやいや、書評からも仕入れてくるぞ」という反論が来そうだが、どの書評をどう評価するかの時点で既に固定化していることに気づいていない。
ただし、身銭を切るやり方でしか得られないスキルもある。それは「本の呼びかけを聞き取れる能力」。すごく電波な言い方だが、「本に呼ばれる」ことがある。普通の人なら、書店の平積みの表題やらワンフレーズに"引っかかる"ことが相当する。それではなく、文字通り"呼ばれる"としか言いようのないことがある。呼ばれて入った古本屋の10円均一ワゴンの山に、ずうっと探してた絶版本を見つけたり、図書館で呼ばれて手にした未知の一冊にハマったり。
結局のところ、くり返し使う本でなければ、本は買わないことを至上としている。買うことに満足してしまって、読まない事態を排除する。わが家は狭い。自己満足オナニーのためのスペースなんて無い。どーしても買う必要があるものだけを買い、使ったら、即売る。実際、わたしの「本棚」はカラーボックス1つで足りている(もっとも実家の書架にはたくさん詰まっているが…)
図書館を徹底的に活用する
では、どうしているかというと→図書館を使い倒す。最近の図書館はよくできていて、ネット検索や予約がかけられるものがある。それを複数使って借りまくる。住所だけではなく、勤務先の図書館も使う。さらに通勤ルートにまたがる市区の図書館も狙う。
「図書館へ行って借りたい本を探す」のではない、「読みたい本を最速で貸し出してくれる図書館を探す」。例えば「東京都の図書館横断検索」[参考]を利用して、自分の読みたい本を貸し出してくれる図書館へ出かける。
図書館の最大の強み→ロングテール+本の空間
図書館を利用するメリットは沢山あるが、もっとも素晴らしい点は、amazonとリアル書店のイイトコ取り、すなわち「ロングテール」+「本の空間」の両方が得られるところだろう。
amazonの陳列棚は無限だ。新刊・売れ筋しか揃えないリアル書店と異なり、amazon ならいくらでも陳列できる。結果、埋もれた良作が掘り出されたりする。書店というより本の情報が詰まった巨大なデータベースのようなもので、検索語を上手に操れば、望む本を瞬時に探し当ててくれる。しかし、ターゲットの本しかスポットが当たらないため、その周辺が見えにくくなっているのも実情。
いっぽう、リアル書店だと「お目当ての本」の周りにも目が行く。本が並んだ空間に身を置くことで、ジャンル全体から見た位置付けや、周辺本も引っかかりやすいというメリットがある。amazon だとキーにかかったものは正確に抽出するが、それ以外は見えない。本の情報とはブラウザの検索結果であり、空間としてその本が把握できないから、周囲が見えない。勢い、「ショッピングカートに入れる」行為は一本釣りに似てくる。
そして、図書館の場合、amazon とリアル書店のメリットの両方を受け継ぐ。図書館を書籍のデータベースとして扱い、「検索→予約→近場の図書館で受け取り」が可能。さらに、「ヒットした本を書架で見つける」ことにより、その本の周辺の「似た本」にも目が届く。しかも、リアル書店では扱わない古書も込みで。
つまり、図書館はamazonの網羅性と、リアル書店の本の周辺の両方を兼ね備えている。もちろん、人気の新刊本は奪い合いなので手にしにくいといったデメリットもあるが、このblogを読むような人なら、そもそも早読みレースに乗らないだろう。
「貸し出し期限」はメリット
図書館には、1週間なり2週間なり、貸し出し期間がある。本を買いつづけていた頃は、これをデメリットだと思っていた。読みたいときに読みたい本を手に取れないなら、意味がないと。その結果、貯めこんでいた本の山で身動きが取れなくなっていた。
本で埋められた床の色を思い出せなくなったとき、わたしは気づいた→「生きている残りの時間をつぎ込んでも、この本は読みきれない」――で、どかんと売ることにした(売上は6桁に達した)。
このブレークスルーから、本との出会いは一期一会を実践するようになった。つまり、借りて期限内に読みきれないようなら、それだけの出会いだった、と割り切るようになった。もちろん、期限がきても読みたいならば、その都度借りなおす。何度も借りなおすなら、それは「買え」ということだと解釈し、そこで初めて購入する目で見るようになった。
本という「モノ」に執着したらダメ。本は、本から得られる何かこそが重要――それが、知識だったらバッドノウハウだったり、楽しい時間だったり←以前のわたしはこれに気づいていなかった。本のコストは銭が全てだと考えていた。本当は、「本から得られる何か」を得ていない時間と空間の全部がコストになるにもかかわらず、買えば全てだと考えていた。おかげで莫大な「買っただけで満足した本の山」に埋もれて自己満足に浸っていた。
そうしたオナニーを断ち切るのが「貸し出し期限」。そのおかげで、常に「その本はいま読むべき/読みたいものなのか」を念頭において毎日リストを更新し続けている。要は、どんどん借りて、どんどん読むやね。読みきれないなら見捨てるか次のターンで再挑戦するか考えてリストを組み立てる。
等価交換の原則
錬金術における等価交換の原則を覚えているだろうか? 「人は何かの犠牲なしに何も得ることはできない。何かを得るためには同等の代価が必要になる」――本の場合、対価は銭ではない。「今もっている本」だ。「今もっている本」を手放さなければ、新たな本を得ることはできない。これを勘違いしている人は、一生読まない本代を払いつづけることになる。
「今読んでる本」で片手はふさがっているかもしれないが、何かを得るためには、少なくとも片方の手(右手)は空けておかないと。どうして右手なのかって? それは、右手はスゴ本のためではなく、そいつを読んでる"あなた"と握手するために必要だから。
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