プログラマになれなかったわたし
今は昔、ひとりの駆け出しプログラマがいた。
その頃はCOBOLばかりで、しかも保守ばかりだった。そこで、独学で身に付けたCをやらせてもらえる仕事を奪ってきては書いた。スクラッチプロジェクトを見つける嗅覚だけは抜群だった。たいていは人手が足りず、新人でも歓迎されたからだ。
そこには優れた先達がいた。「スーパープログラマ」と呼ばれていた。
なぜ「スーパー」なんて修飾子がついたかというと、速いプログラムを早く書いたから。もちろん、「速い」とは少ないメモリ・小さいプログラムのことを指し、「早く」とは実装が早いこと。実際、彼らが書いたプログラムはサクサク動き、バグは簡単に見つけられた。
教えを請うと、先達たちは、おしなべてこういった。
ところが目先のコードを書き上げるのに手一杯で、先達たちが貸してくれた「参考書」を読む時間なんて無かった。…いや、ウソはいけない。「書き上げるのに手一杯」はウソだ。
確かにコーディングに追いまくられていたのは事実だが、その傍らで続々と出てくる「新技術」 …Java、UML、J2EE、XMLを知るのにも必死だった。まだ手垢のついていない「オブジェクト指向」というコトバそのものが伝家の宝刀として扱われ、それが何であるかを知る前からそいつを振り回していた(まさにキ○ガイに刃物)。
新しい記法、新しい技法、新しい用語、新しい言語を齧るたびに、成長した気になった。「速習」「すぐ使える」「かんたん」で始まる本ばかりで、入門から一歩も先へ進んでいなかった。
それでもコードは書けた。必要なことを順番にコードにするのがプログラマだと信じていた。そして「必要なこと」とは、仕様書に書いてあることか、指示されたことの二つしかない、と思っていた。
仕様書なんてアテにならず、ソースコードこそが仕様であると確信していた。その正しさを証明するために印刷したコードを振り回しながら、相手に読んで理解することを強要していた。だから、コードが読めない人(能力だけでなく、時間的に読めない人も含む)は、仕様が理解できない人だと決め付けていた。
COBOL、C、Java と言語の種類が増えるに反比例して、コードを書いて欲しいという依頼は減っていった。いっぽう、SEやPMの立場の仕事が大半を占めるようになった。そして、『プログラマ』という肩書が外された。そのとき上司は「年齢的に大変だろう、30超えてるし」と告げた。
認めたくなかったが、本当の意味でプログラマにはなれないことが分かった。使える言語は増えたが、どれも極めていない。とりあえず言われたことを書くだけの「コーダー」だった。
「書いてないことは書けません」が決めゼリフだった。(設計書に)記述されてないことは、(プログラムに)書けません、という意味だ。あの頃は勝利宣言のつもりだったが、振り返ると、コーダー宣言だったに違いない。つまり自分へのトドメ。あるいはプログラマとしての死刑宣告書へのサインだったのかも。
「コンピュータがどうやって動くか」の本質なんて変わってやしない。それに気づかないまま新しいモノばかり追い求めてきた結果がこれだ。SEとしても、コンサルタントとしても、PMとしても、偉そうなことをぬけぬけと言い放っているが、一皮むけばこんなもの。
今は過去の遺産でしのいでいる。上っ面だけかもしれないが、量だけはこなしたので、もうしばらくいけるだろう。その間に別の「新技術」を習得して「知ってる君」になって吹聴する…をループ。大丈夫、昔のネタを別の名前に替えただけのものを「新技術」と売り出しても咎められないみたいだから、巧み立ち回ればグルを名乗ることもできるかも。
以上、「浮ついた「ギーク」への説教(※老害注意)」を読んだ、あるプログラマ「だった」人の告白を書いてみた。
え? 表題に「プログラマになれなかった『わたし』」とあるって? 気にしない気にしない。だって、『あなた』と書いたら問題でしょ?

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