西の善き乙女はDO MY BESTでしょ?
スゴ本。すげぇ面白かった。今年読んだイチオシ→「西の善き魔女」。page turnerならNo.1。文字通りページを繰る手ももどかしく読了。オススメしてくれたのは嫁さん。前回の「ダレン・シャン」もそうだが、嫁さんのオススメは外れがない…極上の面白さをありがとー。
本書を一言で片付けるなら○○○・○○○○○ーになってしまうが、そういう話で満足したらもったいない。
最初は主人公である美少女フィリエルの身になって、ひたすらハマれる…
- 運命に翻弄されるままをハラハラドキドキするもよし
- ラブコメちっくな展開に萌える女の子の気分を味わうもよし
- 百合百合できゅあきゅあな展開に身もだえするのもよし
世界設定をしっかり考えて書いているので、読み手の楽しみ方はいろいろ。第1巻目の感想は[ここ]に書いたが、じゃぁ、ただのそういうお話かというと、かなりちがう。実は、この物語の素晴らしさはもっと深いところに根をもつ。
面白さと深さは保証する。「何か面白い本ない?」んなら、こいつを強力にオススメしよう。以降、未読の方でもネタバレにならないように書くが、読了してからの方がより興味深いと断っておく。
ファンタジーを読み進めるうち、ある疑問をが出てくる。それは、「世界の意義」という命題。推理小説なら「後期クイーン問題」だが、ファンタジーの場合なら「釈迦の手の孫悟空」問題だろう。
ファンタジーの主人公は忙しい。運命に抗ったり、奇跡を目の当たりにしたり、強大な敵を打ち倒したり。そして、物語として面白ければ面白いほど、エスカレートしてくる。
しかし、どんなに主人公が強くなろうとも、どんなに奇想天外な展開になろうとも、ファンタジーの中のキャラクターは、物語で設定された枠を越えることができない。孫悟空がいかに強く、速く、賢かろうとも、釈迦の掌から降りてまでして西遊記を続けることができない。
その話にハマればハマるほど、読み手(=現実世界)との距離感が希釈され、ページをめくるときに浮かぶ疑問、
に変化する。実は二つの疑問は同義なのだが、読者は二つ目の疑問を問うてはいけないのだ。良いファンタジーは、二つ目の疑いが浮かんでくる前までに物語を終わらせる。最高のファンタジーは、二つ目の疑問の秘密を自ら明かす。つまり、その物語最大の謎「なぜその世界なのか」を物語そのもので答える仕掛け。
作家がはまる陥穽はまさにここ。世界を規定せずに書き始めた結果、話がエスカレートしてくると、どうやって世界と折り合いをつければよいか分からなくなる。酷い場合は、途中から趣旨替えして、メタ世界や「最初に戻る」オチにしてしまう。そんな話では無かったのに… これは夢オチに等しい裏切り。
「十二国記」はその好例で、明らかにカミ(?)の意思が加わっている世界を描きながら、陽子をその存在と同列にまで持ち上げている。このままだと、陽子=世界にして終わらせるか、陽子 vs カミ という神話にするほかなくなってしまう。今から○○○・○○○○○ーに転向したら一部ファンから暴動が起きるかも。あるいは胡蝶の夢か。
意図してやっているのか、筆者の望む展開にキャラを合わせようとするあまり、「いいひと化」しちゃっているのが非常に残念。邪悪なものは邪悪に、厳かなものはそれなりに書き分ければよいものの、巻が代わるとキャラが変わる。この相対化のおかげで毒素がずいぶん減ってしまっている。
どうしてもオーバーラップしてしまうのが現在進行中の「舞-乙HiME」(アニメの方)。蒼天の青玉やガルデローベ学園、隠されたプリンセスといった設定だけでない。まだ明かされていない仕掛けそのものが同じような予感が。ストーリーは全然違うが、どう見ても「西の善き魔女」を読んでいるとしか思えない。
萌え萌え学園生活編から打って変わった鬱展開。目が離せない。いっぽうアニメ「西の善き魔女」は2006.4から放送開始。「舞-乙HiME」はオタむけ深夜アニメだが、こっちには『腐女子向け』のレッテルが貼られた乙女アニメにならないよう切に祈る…んが、東京MXテレビ土曜17:00~の『地獄少女』の枠?
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