« 2005年3月 | トップページ | 2005年5月 »

泣けると評判の「夏の庭」と「西の魔女が死んだ」を読んだのだが…

ラストは確かにグっとなったが、泣くほどでもなかった。感動屋のわたしにしてはめずらしいが、どちらも小説としての出来は良いのでageておく。

まず「夏の庭」、ひとり暮らしの老人と三人の少年たちとの奇妙な交流を描いた中編。amazonレビューを読むと「思わず目頭が熱くなる」「ラスト20ページ!涙がとまりませんでした」「息子にも読ませたい」とソソるレビューが53件も並んでいる。

amazonレビューはアテにしちゃいけないのだが、半信半疑で読み始める。確かに、ひと夏の風景描写が上手に書けているし、いかにも「12歳の男の子」がやりそうなことが面白いと思った…が、ネタがすぐにわかりすぎるのもどうかと。読み始めて数ページで(バレ反転)S.キングの「スタンド・バイ・ミー」のパクりだということが分かった。キャラから導入までの設定をもらってきて、あとは和風味付け。おかげで気味悪いほど予想したとおりのラストだった。同じパクるのでも「屍鬼」とはエラい違う。これは「呪われた町」(S.キング)からごっそり設定をもらって書いた小説だが、すさまじくよくできているスゴ本。ここまで書いてようやく本歌を取ったといえるだろう

次は「西の魔女が死んだ」、中学生の「まい」と祖母との交流を描いた中編。amazonレビューはこれまた「安心して、泣いてください」「癒されました」「何度読んでも泣ける」と60件の絶賛の嵐。

amazonには天邪鬼が棲んでいて、★★★★★が多いと、わざと★☆☆☆☆をつける輩が出てくるが、この本では皆無。「ほぼ全員が絶賛」という珍しい状態。

一読して、なるほど。読みやすくて、まるで見てきたかのように上手に書いている。ラストのサプライズは正直分からんかった。だが( ´_ゝ`)フーン といったところ。「二年後に、おばあちゃんの言っていたことが分かるときがくるのだった」とか「ずっと後になって、○○なことを知ったのだった」などで思わせぶりな伏線に辟易。ラストでは「 よ か っ た ね 」としかいえぬ。感動を求めて小説を手にする莫れ。この手の「伏線ありまくり」「自然描写が上手」「旧き良き時代」が好きなら"A Walk to Remember"(邦訳は「奇跡を信じて」)あたりが泣けるだろう。これは「感動するよ」「泣けるよ」と散々誉められていたため、身構えながら読んで→結局号泣した小説。ラストが読めるんだが、泣けてしまう一作。

結論:amazonレビューは「やっぱり」鵜呑みにしちゃいけない。それから、「感動」を期待して小説を読んではいけない。そういうオマエは何に泣く? というツッコミには「泣ける2ちゃんねる」を薦めておく。以前購入したのに[参考]未だに読了できていない。油断していると思わず胸をつかまれてしまうので、巡回先からも外してある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

悪のプログラマ

個人情報保護が時事ネタらしいが、マスゴミからは微苦笑を誘われるのみ。ちゃんとした犯罪者ならその痕跡すら残さないから、誰も気付かないよという話。

昔のプログラマの犯罪についてはご存知のとおり、稚拙なものが多い。口座利子の銭厘毛を集約し、チリ積もプログラムを書いたプログラマ。電話回線をハックしてトーン「音」から暗証番号を盗聴したプログラマ。いずれにせよ、犯罪が実行される場とプログラマが論理的に近いため、当局は容易に容疑者を割り出すことができた(そのため、皆が知るところとなった)。つまり、「どこで犯罪が起きているか」と「それは誰が書いたのか」がコードにあるというわけ。

ところが、最近では「コード」の形で提供されない。提供主体との関係にもよるが、納品時点で既に動作する「部品」や「ライブラリ」、クラス「群」、パッケージ「一式」の形態をとる。発注先はもちろんチェックをするが、そのチェックは「プログラムが必要な機能を実装しているか」と「プログラムの品質が基準をクリアしているか」の2点に限定されている。「成果物」としてのコードは儀式の供物として渡される。

つまり、求められる動作をする限りブラックボックスでよしとする考え方。市役所の業務システムを丸ごと某国へ外注するのは、国産プログラマは高価だからという理屈。安価至上主義を標榜する輩は、バックドアを付けるかどうかはプログラマの良心に依存するという単純な現実すら想像できない。誓約書があるだと? それが「守られていないこと」を 管理者はどうやって証明するつもりなのか?

そして、上記の連中を喰いものにするためには、特別な訓練の必要はない。フツーのプログラマでもルールを守りさえすれば。

  動作するのは1回だけ(write once run anywhere, but ONCE)
  分散化
  時限式
  遠隔式
  動作後は自らを廃化

さらに、この簡単なルールをちゃんと守り、利益(?)をあげているプログラマはいる。自分とのつながりはパラメータをカスケード渡しにすることで痕跡を隠す。実行するインスタンスは自分が書いたものですらない。バックドアが開くのは一回だけ。「プロ」のプログラマならコードに「証拠」を残すような書き方はしない。自らの犯罪証明書にサインをするようなものだ。最も単純な隠し場所はログ出しorトランザクション発行、対象は決算・収支の基幹系…って誰でも思いつくね。念のために言うけれど、

や っ て は い け ま せ ん

では、どうすればよいのか。有効な対策は2つ。

対策1 XP

いわゆるペアプログラミング。ふたりはプログラ~っと、闇のプログラマはとっととおうちに帰りなさいってコト。ペアプロの「楽しさ」「創造性」「技相伝」が強調されているが、悪のプログラムを入れないためにも有効かと。ただし、ふたりとも悪のプログラマだとお手上げだが、そのときは対策2へ。

対策2 コード検閲

誰ですか机上デバッグという人は。バグ取りでなく、ひたすらコードを読む。「悪のプログラムを見つけるため」と宣伝して読む部隊を作るだけで、闇のプログラマにとっては脅威だろう。全部ではなく、たとえサンプリングだとしても、犯行の意思をくじくことはできる。ただし、会社ぐるみで悪のプログラマだとお手上げ

バレないから目立たない。だいたいマスゴミがはやし立てるプログラマの犯罪って稚拙だと思わないか? あれこれ頭をひねって(解決)策を練るのがプログラマの本懐なのに、まるでやっつけ仕事のような犯罪の報道を見るにつけ、「わたしならこうするのに」と感じるプログラマはたくさんいる。

そのうち、実行する人は痕すら残さない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日立のPMO

前身は6年前のプロジェクトリスクマネジメントセンタ。火を噴いてから支援するやりかただと、カネもかかるし対処にも限界があるため、対症療法ではなく先手管理をねらいとした。当初の目標はプロジェクトの安定として「損益悪化プロジェクトの撲滅」を掲げ、リスク回避型の体制を採ったとのこと。

経営者としては、特定のプロジェクトの大成功よりも、全プロジェクトが失敗しないことの方が大切。90のプロジェクトが成功しても、残り10で利を全部食いつぶし、赤まで出すようなら意味が無い。だから石橋を叩くのは大切だし、どの石橋のどこを叩いておくのかを予め知っておくことはもっと大事。

現在のPMOは、以下の2組織で構成されている。

  1.プロジェクトマネジメント技術センタ
  2.業種別プロジェクトマネジメント部

技術センタではPMに関する組織の方針決定をはじめ、PM制度の確立やプロマネ育成、技術開発、アーカイブ、ナレッジの蓄積を行う。一方、業種別プロジェクトマネジメント部では実際のプロジェクトに密着して組織的な支援を行う。いずれも属人的なプロジェクトマネジメントから組織的にシステマティックに対応していくしくみをとり、プロマネを孤独な状態にさせないよう組織的な支援をすることを念頭においている

そう、PMは常に孤独。周囲といかに親密な関係を築こうともPMの悩みはPMだけにしまっておくもの(周りに相談するときには相手向けに「加工」されている)。腕っこきマネージャだといわゆる落下傘作戦で降りてくるから孤独感はひとしお。キャリアパスを用意するだけでなく、組織的なバックがついているということは心強いに違いない。

また、興味深いのはプロジェクトマネージャ制度にも独自色を打ち出し、

  1.ブロンズPM
  2.シルバーPM
  3.ゴールドPM
  4.プラチナPM

と段階的な認定資格を独自に設けている。Oracleのアレみたく面白い。同じPMでもやってきた経験や得意分野により、任せられるプロジェクトは限定されてくる。比較的小ぶりのプロジェクトをスプリントで数こなすマネージャと、巨大プロジェクトとがっぷり四つで操縦できるマネージャは、かなり違うはず。「○億円以上のプロジェクトはプラチナに限る」といった具合に人割りの目安にもなる。

また、PM制度は報酬にも連動している。プロジェクト終了時、プロジェクトの成果によってプロマネの評価が行われ、評価に応じボーナス時にインセンティブが支給される。どれぐらいの多寡かは気になるところだが「評価に応じ」ではなく「入札価格の○%」に応じだったなら目の色が変わってくるんじゃぁないかと。

PMOが最終的に目指しているのは「経営者に全体リソースを見極められるようにする」という。「現在のリソース全体」は勘定できるかもしれないが、その全ては何らかのプロジェクト・業務に投入されている。プロジェクトのエンドはまちまちだし、解放されるリソースも確定できない。そんな状況でも「できます」「できません」を根拠を持って入れるのは素晴らしい。

ネタ元:日立情報システム
http://www.hitachijoho.com/


| | コメント (0) | トラックバック (0)

ふたりはプリキュアMaxHeart(14話)がとんでもないことになっている件について(orz)

神です、ふたごセンセイ。orzは頭を垂れているポーズなのです。すでにネットのそこらじゅうでふたごセンセイを称える言辞&絵が噴出しており、いまさらわたくしのような端者が物言うのも恐れ多いですが、はばかり申し上げます、

   プ リ キ ュ ア 好 き で 、 よ か っ た 

と。

「なかよし」5月号の他漫画を見る限り、少女誌の臨界点である「裸でだきあう」(でも交為なし)を量産している中、一切そんなシーンがない今号のプリキュアがいかにエロイカについては論を待たないだろう。

さらに特筆すべきことは、ネットの反応が極めて画一的であったということ。ぶっちゃけ「おやくそくどおり」のリアクト→シットに狂うほのか嬢についてはリンク先を提示するまでもない。好きなものは好きだからしょうがない。ネタの個々については触れまい、「既に言葉は書かれ尽くしている」(旧約聖書だっけ?)後でわたしが付け足すものはなし。

好きなら、読め

// 「なかよし」を買うには通常のエロ本の3倍勇気が必要だ、まちがいない

| | コメント (0) | トラックバック (0)

東海地震←トヨタの対策

想定では、震源は駿河湾沖、マグニチュード8、震度6。10年後かもしれないし、3年以内なのかもしれない。その大被害はシロートのわたしにも想像できるのだが、トヨタが恐れているのはそこだけではないらしい。

同社は震度6の揺れを想定した免震対策はすでに済ませている。系列メーカを含め、「いまそこにある危機」の直接的な対策は完了している。新本社が好例であり、トヨタ王国を支える従業員の安全も考慮済みだ[参照]

しかし、設備や従業員が無事だったとしても、生活・通勤・物流手段を確保できない限り、生産は止まる。どんなに海外に工場を進出しても部品を含めた現地調達率が100%に達していないのは、コア部品をしっかりと握っているからだ、三河で。DOS/Vマシンがどこで造られようともCPUを握っているようなものだ。ではCPUが供給されなくなったら?

東南海地震になると津波はずっと大きいんだ。第一波襲来は地震発生後一時間二十分。波高は名古屋港の中央で九十センチ、岸で二メートル、川を遡上すると四メートルに達する
「震災列島」(石黒耀)より

高度な生産技術を必要とする技術集積型の部品は愛知県三河市で作られ、船便で海外へ運ばれる。ひとたび名古屋港がマヒすれば、世界中で「動かないトヨタ車」が生産されることになる。

トヨタは「地震後」を想定し、脱三河依存を図っている。雑誌「選択」で福岡県苅田町のエンジン工場を知った。

素材となるアルミ鋳造工場も併設する本格的なエンジン工場で、来年一月に生産を開始する。当初は投資額約三百億円で年産二十二万基だが、中国や東南アジアへの供給も含め「将来は倍増の四十万基体制にする」(トヨタ首脳)というところまで踏み込んだ。四十万基という規模はもはや分工場の域を超えている
選択「トヨタが福岡を「第二本拠地」に」より

福岡県宮田町、苅田町、大分県中津市と、生産拠点は着々と決まっている。来るべき東海地震にそなえ、どこまで三河を脱出できるのか? 愛知でやっているトヨタ博は仮の姿。トヨタは地震「後」まで想定したリスクマネジメントを実行している。

ネタ元
選択(今号は特に面白かった!)
Chunichi Web Press
wikipedia福岡県
RKB毎日放送

| | コメント (0) | トラックバック (0)

緑の資本論

イスラーム経済論はイラン革命で突出してきただけであり、イスラーム域では常に存在していた。これはイスラーム域以外から見えなかったのではなく、見ようとはしなかったから。

中沢新一は9月11日のあの夜、「砂の城のように崩れ落ちていく高層タワービルの向こうに、巨大な鏡が立ち上がるのを、たしかに見たのだった」と語る。その鏡は視ることを強い、強いられた思考がこれを著しめた。

面白いのは最初の「圧倒的な非対称──テロと狂牛病について」。中はお題のとおり、深度はチョムスキー911より浅い。ただ、宮沢賢治やアイヌ話とからめて話すところが興味深い。「圧倒的な非対称」←この言葉がよっぽど気に入ったのか、20ページの小論に18回も登場する。貧富や力量の彼我の差を指して使っているが、「非対称性」や「対称性」も含めると44回も出てくる。

真打の「緑の資本論」は貨幣と利子を中心にすえたキリスト教的「資本論」と相対すべく、一神教の認知論から「イスラーム資本論」という全く新しい価値体系を再構築しようと試みている。

しかし、よく理解できなかったところもある。中世以降の貨幣経済の発展には、ユダヤ・キリスト教の「三位一体論」がねじれたお墨付きを与えたと示唆しているが、よく分からん。スコラ→古典派経済→資本主義の一連と、マル経の援護で滔々と語っているのだが、言辞に弄ばれているようで、リクツは分かるがまるで腑に落ちない。ケインズもう一度読めってことか…

一方で、鏡の反対側のイスラーム経済論は分かりやすかった。物と物との厳正な等価交換の原則を保つ一方で、利子をとる活動は否定されている。その根本にあるものは、貨幣は物の代用物であり、象徴=現象を厳密に規定する一神教的な考え方だという。ただこれも、彼の言うがままを鵜呑みにして(自ら考えずに)なるほどなーと唸っているだけで、現場でどうなっているかは分からない

最後に、無限に欲望を拡大し続ける資本主義社会へのアンチテーゼとして「緑の資本論」すなわち原理としてのイスラームを位置づけ、こう結んでいる。

スークの商品とそれを支持する消費者たちは、地域共同体の原理に頼って資本主義に抗する別種の経済システムを守ろうとしているのではない。イスラームにあっては、その生活の倫理を、自己増殖をおこなうものに対する一神教的批判の原理という、イスラーム世界共通の思考が支えている。その思考の素粒子レベルにいたるまでの一貫性に対して与えられた名前がタウヒードであり、アッラーへの信仰なのである。
そこには、人間の自然的知性がつくりだしてしまう世界に対する、一つの透徹した批判システムの作動をみることができる。イスラームとは、その存在自体が、一つの「経済学批判」なのだ。原理としてのイスラームは、巨大な一冊の生きた「緑の資本論」である。資本主義にとっての「他者」は、この地球上にたしかに実在する。イスラームは、われわれの世界にとって、なくてはならない鏡なのだ。

結局「ホントかよ」感は消えないまま読了。イスラームでは厳密さの裏側に柔軟さ(したたかさとも言う)を備えていて、いつでも取り替えられるようにしている一面もあるぞ。

なんだか上手に騙された気が…まぁ中沢新一だからそういうものなのか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2005年3月 | トップページ | 2005年5月 »