「人を殺してはいけません」
相互性の原則、つまり「オマエも殺されたくないだろ?」までは考えた。「汝の欲せざるところ人に施すこと莫れ」だね。殺してよい、ということは殺されても文句は言えない。皆が自由意志で殺し、殺され、ということでは法の拘束が無意味になり権利は保護されず、義務は実行されない失敗国家(failed country)ができあがる。「銀河鉄道999」の惑星タイタンを覚えているか? 何をやってもよい星、その分、自分を守るためのコストが最大となってる惑星の話だ。あるいは「戦闘メカ ザブングル」を知っている人はいるだろうか? 何をやっても3日間逃げ切れば勝ちという世界。ありゃ、相互性の原則のコロラリーだと思えばよい。そういう寓話は、今でもあるだろうし、彼に見せてやればよい。
それでも、どうしても殺したいときには?
「自分がされたくないから」は理由にはならないけど…
彼が少し賢い場合はこう切り返される。まさしくその通り。そこで私は思い出す。この質問が流行ったのはいつだったっけ? ってね。
1997.3~5月にかけて、14歳の少年による神戸小学校殺害事件の後、TBS報道番組「NEWS23」において、男子高校生が「なぜ人を殺してはいけないのか分からない。自分は法律があるからやらないだけだ」という趣旨の発言をし、筑紫哲也らが即答できなかったことが発端らしい。
これを受けて同年11月に大江健三郎が「私はむしろ、この質問に問題があると思う。まともな子供なら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ。なぜなら、性格の良し悪しとか、頭の鋭さとは無関係に、子供は幼いなりに固有の誇りを持っているから」と発言する。
翌1998夏、文藝に「14歳の中学生に『なぜ人を殺してはいけないの?』ときかれたらあなたはなんと答えますか」というアンケート結果が載る。栃木の黒磯中で、中1生徒による学内での教師刺殺事件、2000.5愛知県17歳少年による主婦刺殺事件、佐賀県17歳バスジャック事件と、それに便乗するかのようなマスゴミの「あなたは何と答えますか?」
そのときの自問自答を思い出す。これは倫理ゲームなのだと。回答そのものが重要なのではなく、「あなたは何と回答するのか? どう答えようとも矛盾があることに気づきながら」を悟らせるためのゲームなのだから…ってね。
これは、「人のものを盗んではいけません」「人の悪口を言ってはいけません」「人を叩いてはいけません」といった規範と全く同じ。殺人の禁止だけを取り立てて話題にするという策略。
問いを発する「少年」はうろたえるオトナを試し、挑発しているだけなんだと。かつては自明と思い込まれていたことのゆらぎを見るのは面白い。自分で省察もせず「問い」だけを投げかける(しかもオトナたちはマヂに考えてくれる)快感。
規範「盗むなかれ」「誹るなかれ」は、親が子に伝える最も基本的(かつ必須の)道徳。日常を通じ教えることができる。ただ「殺すな」を伝えるために、先ず「命とは何か」「生きるとは何か」を知ってもらう必要があるだろな。「相手を尊重しなさい」 + 「命の重さ」が分かれば、「殺人の禁止の理由を問うこと」自体の意味の無さに気づくだろう。
さて。考えが一巡して「命とはなにか」に戻ってきた。「葉っぱのフレディ」を覚えている人はいるだろうか? 昔えらい売れた童話だ。子どもはこづかいで本なんて買わないので、買ったのはオトナたち、しかも男性が多かったらしい… んで、子どもに与える。私のように、自ら語る術を持たないパパたちが、この本をベストセラーにしたんだろうな。売れた時期が「なぜ人を殺していけないのか?」という問いが流行ったときと重なる(w
子どもに死を教えられない親、それは私だ。「死とは?」について未だ明確な解を持っていない。「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」えッ? 意味だって? ガッコで教えてもらえ! …などとと韜晦するほかない。
ふざけたことに「学校で死を教える」という試みがある。死んだこともない人が、マジメに考えたことも無い人が「死」を教えるんだって!アフォかヴァカかといいたいが本当の話。オヤが教えなくて誰が教えるんじゃ、と言うしかない。例えば「にわとりを殺して食べる授業」がある。その名の通り、鶏を殺して食べる。〆て絶命させる→熱湯で茹でる→羽を毟る→捌いて内臓を出す→切り出す→調理して食べる。これを夏季キャンプの一環として中学生にさせる授業ナリ。残酷だとスゲェ反対があり潰されているが、今でも残っているのは関西学院中等部ぐらいかの。
ニワトリは極端として、魚を釣って食べるぐらいでも分かるんじゃァないかと。
私の息子は三歳。臓器移植法が改正され、十五歳未満の子供からの臓器移植が可能となる見込みが高まっている。じゅうごさい未満のコドモがどれだけ命を理解しているかは別として、な。猶予はあと十年ぐらいかの。
それでも「よく死ぬとは、よく生きること」であることは知っている。しっかりと生きていない奴は、死ぬことすらできない。そんな奴らは、消えてなくなるだけ。「武士道とは、死ぬことを見つけたり」を私なりに解釈した言葉だ。とうちゃんは、一生懸命生きることでマネさせてやろう。同じことを葛城ミサトが言っている。現時点では彼女のコトバを贈りたい。
「あんたまだ生きてるでしょ だから、しっかり生きて、それから死になさい」
--
課題図書
未読 「天使のいる教室」(宮川ひろ)
未読 「アンネがいたこの一年」(ニーナ・ラウプリヒ)
既読 「わすれられないおくりもの」(スーザン・バーレイ)
既読 「100万回生きたねこ」(佐野洋子)
--

| 固定リンク
コメント
私は子供の頃、飼っていたインコが死んだ時、泣きながら遺体を埋めました。
その時、初めて命の大切さについて考えたと思います。
関係ないですが、Dainさんもエヴァ見てたんですね。
投稿: ZEONG666 | 2004.08.27 21:55
大切なものって失ってはじめて理解したりするものなんですよね… 子どもへの最高の死の教育は、「オヤの死にざま」なんじゃぁないかと… っつうわけでパパは「しっかり生きて、それから死ぬつもり」です
EVA 好きですよー
むしろその後のセリフ
「オトナのキスよ… 帰ってきたら続きをしましょ」
(;´Д`)ハァハァした一人です
投稿: Dain | 2004.08.28 00:58
初めまして。
人を殺してはいけないのは、やっぱり
気持ち悪いからじゃないですか?
だって、今殺していいよって言われても、
気持ち悪くてできない。
だからできない。いけないのではなく。
ちょっとずれましたが。。。
ちょうど、私が子どもの頃、
平気で虫を殺したりして遊べたのに、
今はごきぷりとか、蚊ぐらいしか
殺せないように。別に慈悲深くなったわけじゃ
ありません。気持ち悪いから。
私のやっている教室で、中学生と
「なぜ人を殺してはいけないのか」
について考えたことがあります。
「中学生の教科書」という本も読んだ
気がします。(どこの出版社だったか?)
まだそのことはブログで書いていませんでしたが、
こちらのブログを読んで、
また、書いてみようと思いました。
投稿: ぶんぶん | 2004.08.30 10:51
ぶんぶんさん、はじめまして。コメントありがとうございます
禁忌へのストッパーが何になるかは、人それぞれだと思います。だから「気持ち悪い」のも一つの答えなのでしょう。「法が禁じているから」「後処理が面倒」なのも然り。倫理(論理)ゲームなんですよね、結局。それを乗り越えて質問する少年少女はいるわけで…
少なくとも我が子の質問にはちゃんと答えられるようにならないと。
>「中学生の教科書」という本も読んだ
これでしょか?
中学生の教科書―死を想え
島田 雅彦
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4946515410/qid%3D1093912912/249-4528164-1440345
むしろこっち↓が気になる ^^;
中学生の教科書―美への渇き
吉本 隆明
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4946515526/qid%3D1093912963/249-4528164-1440345
--
投稿: Dain | 2004.08.31 12:50
嘗て「何故人を殺してはいけないのか?」という単刀直入の問に対して、大江健三郎や吉本隆明等の所謂知識人は、理窟を捏ね回しているだけで、明確な答えを出すことが出来ませんでした。実際の倫理的判断には時間的猶予はありません、即座に判断し行動しなければなりません。答えは単純です。
「人格に背くから悪である、人格は愛(慈愛)で成り立っている。」
「善悪の判断に迷うことがあれば、愛があるかと自問すればよい。」
これ以上の答えはないはずです。人は法律を犯したから罰を受けるのではありません、人格を犯したから罰を受けるのです。法律は最低限のルールに過ぎません。なぜ桝添元都知事が失脚したかを考えればわかることです。彼も所謂知識人で、法に触れるようなことはしていないと主張しましたが、世論は許しませんでした。都民としては、悪いことはしない普通のことを期待したのではなく、善いことをする「人格者」を期待したのです。
三島由紀夫は所謂知識人(リベラル)のことを「主体なき理性」と言って揶揄しました。知識人には情・意が欠落した人間失格者が多いのです。
倫理問題は情と意の問題であって、頭で論理的に考え、知を尽くしたからといって、答えが出て来るものではありません。真に理性的な人は理性の限界を知り、その使い方を心得ている人です。
投稿: eegge | 2016.11.01 10:58
>>eegge さん
コメントありがとうございます、ご指摘の通りだと思います。ただ、その質問者が(そういう諸々のことを承知した上で)あえて問うていることが問題なのかと。
向こうは答えのない問いであることを分かって問うているのであり、同じ土俵で答えようとするならば、自縄自縛に陥る罠を仕掛けているのです。
投稿: Dain | 2016.11.03 22:22