子どもに死を教える
三歳の息子に「死」を教える試み。今回は、ブルーナ「ミッフィーのおばあちゃん」を読み聞かせてみた。「ミッフィー」といえばカワイイの代名詞。しかし、これは冒頭から「おばあちゃんが死んでしまった」で始まり、葬儀、埋葬、墓参りと続くお話。
彼は、以前のレクチャーで「死とは、会えなくなること」については理解しているらしい。ま、仮面ライダーブレイドでけっこう人死がでているので、「死ぬ」という状態があることは分かっているようだ(死んだキャラはもう出てこないし)。
こーいうお話。そこで知って欲しかったのは「死とは、逝ったものに対し名づけた状態」ということ。つまり「死」とは死者に対して便宜上つけた状態ということ。死者から生ある世界が隔てられている以上、生者はムリヤリにでも、死んだ人を別の名前で呼ばなければならない。だって腐っていくから。
ブルーナはここを分かっていて、このお話から「あの世に行く」「天国に行く」という表現は注意深く取り除かれている。棺も墓石も宗教色を除かれて抽象化されている。おばあちゃんはねむるのだ、めざめることなく
何度も読み聞かせて、息子に質問してみる。
「おばあちゃん、どうしちゃったのかね?」
『いなくなったんだよ』
( ´ー`) よし、合格
世間サマでは情操教育の一環として「死」の教育の必要性を云々しとるが、唾(つばき)を飛ばし口をそばめて語る連中は、「自分自身の死」を正面から考えたことがあるか?
モラトリアム修了の課題として「自己の死の省察」があるが、これをクリアしたなら少しは謙虚になれるはず→いきることと、しぬこと
この「ミッフィーのおばあちゃん」はかなり非難があったようだ。「かわいいミッフィーに死を見せるなんて」…PTAの言い分は幼稚すぎてツッコミを入れる気力もわかない。
ワタシがガキの頃は、虫をいっぱい殺してた。矛盾しているようだが、殺すことで命を学んでいたんだと思う。考えてみると残酷な子どもだった。
だが息子は殺そうにも虫がいない。いても値札がついている。だから、絵本であれ、仮面ライダーであれ、ちゃんと「死」を伝えておかないと。彼はワタシのように自習する環境がないのだから。
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コメント
実は、つい先日、「100万回生きた猫」を読む機会がありました。死を繰り返して生の意味を問うあたり、よくできてるなあと思ったので、オススメしようかと思ったら、以前のレクチャーでとっくに使用済みでしたか(^-^;)
それはそうと、私も小さい頃はずいぶん残酷なことをしました。アリを虫眼鏡で焼いたり(定番)、ドブ川でザリガニを捕ってきて、空き缶に水と一緒に入れて、ゴミ焼却炉にそっと入れて、ゆでザリガニにしたり。今では虫眼鏡を渡されてもアリを焼こうとは思いませんが、なぜか子供の時は残酷なこともやっていましたね…。
投稿: Fozy | 2004.07.13 04:10
Fozyさん、コメントありがとうございます
「100万回生きたねこ」はダメです。お話としてはすごく良いのですが、読んでるワタシが泣いてしまう。息子もつられ泣きしてしまうので読み聞かせにならない(w
子どものころは、アリを見たら踏み、蝶を捕まえたら毟る毎日でした。そのときは実感してなかったはずですが、「生き物を殺して、私は生きている」ことを実践していたんだと思います。
投稿: Dain | 2004.07.14 09:36
我が家では、最近になって「わすれられない おくりもの」を読んでます。(息子6歳)。息子の反応などはヨメさんのブログにちらっと書いてあります。
http://www.myprofile.ne.jp/blog/archive/haru-urara/99
息子が2歳の時に僕の父(彼の祖父)が亡くなりました。前日まで病院で話をしていた相手がいなくなる経験をしたわけで、彼のなかでも「死」ってものについてなんとな~くイメージできているような気がします。
とはいえ、普段の生活の中で意識させるってのはできてないですね。自分が子供の頃は、飼っている金魚が死んだときに公園にお墓をつくりに行った記憶がありますが、そういう環境をつくるのがいいのかもしれませんね。
投稿: hiroc | 2004.07.15 07:12
hirocさん、コメントありがとうございます
リンク先見てきました。そーなんですよねー、表紙が可愛らしい動物ばかりなので手にとって見ると実は…というお話なので、読み手の涙腺にクる一冊です。3歳児にはチョト早かったので、も少し大きくなったらもう一度読み聞かせようと思っています。
テレビでも絵本でも、「死」を扱ったものは少なく感じます。子どもの周りから注意深く「死」が取り去られているように見えます。死は生と同じぐらい日常的で普遍的なのに…
投稿: Dain | 2004.07.15 12:35
我が子が世話をしていたハムスターが、この春逝きました。
子供の悲しみは非常に深く、食事も通らないほどのショックを受けました。
我が家では特定の宗教崇拝をしていませんが、埋葬と、その後に手を合わせるという一連の儀式事を「しなくてはならない事」として子供に与えました。
すると悲しみの中でも、一緒にそれらをする事で子供はショックから立ち上がり、親愛なるものの喪失に向き合い、悲しみを克服できていったのです。
死に向き合う宗教や儀式に、これほどの効果があるとはと、古代から受け継がれる先人達の知恵に感謝感服いたしました。
いつか私が逝く時、我が子が誰かと一緒に、この春と同じように悲しみを乗り越えてくれればと、切に願わずにはいられませんでしした。
生きるための知恵と発想のヒントとなるこの本は、いつまでたっても名作だと思います。
投稿: 名無し | 2012.09.03 09:30
>>名無しさん
ご指摘の通りです。死と向き合うことは(自分の死が待っているから)避けて通れません。そのための宗教や儀式があるのですね。
投稿: Dain | 2012.09.04 23:55