« おいしいコーヒーのいれ方 | トップページ | 立ちションできないオトコたち »

死のありか(芹沢俊介)

うすぺらエッセイ。このヒト評論家らしいが売文家ですらない。ただし、良本をたくさん読んでいて、引用が絶妙。さらにときおり閃く一言半句が美しい…たとえどっかの剽窃だとしても。

これは「死」をめぐる考察を雑誌「医事研究」に連載していたものをまとめた一冊。

◇まず誉めてみる◇

良本が頻出。S.キング「スタンド・バイ・ミー」や「老人力」から、親鸞「教行信証」やシェイクスピアまで取り揃えている。んで、自分の意見をその引用で言わせるところが上手。芥川龍之介やフラナリー・オコーナーを再読したくなった。

◇次に腐す◇

このヒト、「死」そのものを見つめようとはしないで、本というフィルターを介在させて眺めているだけ。ありありとナマの死を経験してこなかったのだろうか? 死体とか死臭とか、死ぬほどの激痛(自身でも他者でも)とか。あとがきにこうある。

死というテーマの周囲をぐるぐるまわりながら、その中心にたどりつけないもどかしさをこのエッセイ群に感じるかも知れない。しかし、それは私のせいばかりとはいえない。死という問題がもともとそういうものなのだ。

いまどき厨房でも言わない。1942年生まれだから60超えてるにもかかわらず「死」を自分の問題として考えたことがないのがよく読み取れる。誰かの考えた観念を想起することに忙しくって、自分の場合を放ったらかしにしている。準備万端の女陰を目の前にして、世阿弥あたりを引用しそう。

◇最後に引用する◇

淵に閃く山女の腹のように、ときおり輝く気の利いた文が確かにある。ファンにはソレがたまらないのだろう。「自分の死」について真面目に取り組むのであれば、「死を考える」(中村真一郎)をオススメする。

愛情があるということは、自らの生命力を相手に与えることだ。人は死を前にしたとき、生きているということが、愛する人とのあいだの生命力の相互贈与という無償の行為に支えられていたことに気づくのである
荒木経惟写真集「チロとアラーキーと2人のおんな」からの想起

その昔、火がまだ貴重であった時代、火が燃えているということは、人が起きているということと同じことであった
「火の昔」(柳田國男)からの引用

生まれた子どもを名づけないということは、育てないという親の意思の表明である
「オイディプス王」からの想起

未生怨(みしょうおん)という言葉に出会った。背筋がぞくりときた。仏典のなかの言葉だ。文脈からは生まれるまえにすでに父を殺すことが宿命づけられているような存在ということになろうか
涅槃経より

◇おまけで教唆◇

こんなので「死」についてどうこういうんなら、同じテーマでもっとスゴ本のこれ読んでみそ? と逆提案。

  • 宇宙空間への葬儀の例えに「ぼくは始祖鳥になりたい」(宮内勝典)を挙げるのなら、「プラネテス」(幸村誠)を読んでミソ
  • 子供にとっての死でS.キング「スタンド・バイ・ミー」を引用するなら、J.ケッチャム「隣の家の少女」を読んでミソ
  • 「死刑を宣告された人間に自殺は許されないのか」というテーマを追いかけるのであれば、サルダ「生きる権利と死ぬ権利」と対をなしてドストエフスキー「白痴」のムイシュキン公爵の話を読んでミソ(てか評論で食うなら読んでおけと言いたい)

--

このエントリーをはてなブックマークに追加

|

« おいしいコーヒーのいれ方 | トップページ | 立ちションできないオトコたち »

コメント

Dainさん、おはようございます、

随分まえに知人から、「男と女が愛し合うということは、いのちのやりとりをすることだ」と言われました。最近、いのちのやりとりとは、一体となる忘我も、絶対拒絶の憎悪も、いきることも、しぬことも、みんなとりまぜて感じあう、食べあうということなのかな、と感じております。

子供を医者にしようという野望の元、知人の解剖学研究室へ行かせたら「もう絶対いやだ。」と医者になる気をまったく失って帰ってきました。キャパを超えて、死というものを見せてしまったのかもしれません。

投稿: ひでき | 2004.06.20 06:34

>愛しあうとは、いのちのやりとり

聞いたことがあるスゴい言葉。でも事実。蟷螂の交尾後、雌が雄を食い尽くす話を思い出します。あとセックス後の短い深い眠りのことを「小さな死」"La Petit Mort"と呼ぶフランス人の感覚にしびれます。

生きているという事実がどんどん希薄になっていくいま、死を思い起こすためのセックスって、とっても大事なのかな…

投稿: Dain | 2004.06.21 01:08

Dainさん、こんばんわ、

あの、色気のない話しで恐縮ですが、「いのちのやりとり...」って実はうちの母が言っていた言葉です。まあ、本棚に谷崎潤一郎全集とかありましたから、その辺からとったんですかね。今日まで母のオリジナルかと思っておりました。

ちなみに、"Le Petit Mort"って「イク」瞬間のことでは?"Le Petit Mort"でぐぐったら、↓のようなサイトが出てきました。ヴィジュアルに説得力があるかと...

http://beautifulagony.com/

ほとんど肉体的な苦痛のない社会に生きる我々にとって、"Beautiful agony"とか"Le Petit Mort"ではありませんが、忘我の瞬間というのは、確かに一番生きていることを実感する瞬間かもしれません。

片一方で、信じられないくらい精神的苦痛を課せられているいまの生活ってほんとうにフランシス・フクヤマの言う「最後の人間」達の世界に日本が一番先に到達したのだと思います。「リベラルな民主主義」とは、誰もが自分自身の主人であり、誰もが自分自身の奴隷であるという社会だと...戦うことをやめてしまうことは、優越願望と自分の気概をすててしまうことだと...とりとめもなく感じてしまいます。

投稿: ひでき | 2004.06.21 19:54

ひできさん、

「愛し合うことは、いのちのやりとり」は、私の場合、マンガ「バカボンド」かクンデラ「存在の耐えられない軽さ」あたりからの聞きかじりだと思います。根っこは同じかも。

"Le Petit Mort" すなわち「小さな死」の出所は開高健の「夏の闇」か「白いページ」で知った記憶が…

こういうの、好きです >beautifulagony
マジメにおバカをやっているのって大好き。教えていただきありがとうございます

最も肉体を感じるときは、イクときと、激痛です。どっちの場合も「死」につながっていることは偶然ではないかと。

投稿: Dain | 2004.06.22 00:30

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 死のありか(芹沢俊介):

« おいしいコーヒーのいれ方 | トップページ | 立ちションできないオトコたち »