「ザ・ロード」はスゴ本

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2008年7月10日


 ピューリッツァー賞を受賞した傑作。

 だからなのか、どいつもこいつも誉めまくり。もちろんわたしも誉めますが何か?

 カタストロフ後の世界を旅する、父と子の物語。劫掠と喰人が日常化した生き残りを避けて、南へ南へ――食べ物を求めて? 食べられないように? 残った弾丸の数を数えながら、こんな地獄ならいっそ―― わたしと同じことを、この「父」も考える。

 終末世界で人として生きるのは、かなり難しい。

 地の文から句読点を外し、会話をくくるかっこ「 」を廃した、全編独白のような文体は、慣れるのに苦労するかも。その代わり、どこに注目すべきか、無駄も隙も否応もなく入ってくる。

やるべきことのリストなどなかった。今日一日があるだけで幸運だった。この一時間があるだけで。"あとで"という時間はなかった。今がその"あとで"だった。胸に押し当てたいほど美しいものはすべて苦悩に起源を持つ。それは悲しみと灰から生まれる。そうなんだ、と彼は眠っている少年にささやいた。パパにはお前がいる。

 この文体のおかげで、前作「血と暴力の国」では暴力のシンプルさが際立っていた。いっぽう本作では、色彩と時間を喪った世界をとても"狭く"見せている。俯瞰視点がないんだよ。つまり、すべての動作は見える範囲で完結しており、すべてのリアクションは息継ぎせずに語り終えられる。

 もちろん、「なぞらえ」もやったぞ。自ら「火を運ぶ人」に擬する会話が繰り返されるところから「プロメテウスの火」を、ショッピングカート+幼な子から「子連れ狼」を、それぞれ思い浮かべた。キリストを背負った聖クリストフォロスまで引いてくる方もいるけど、すげぇ深い読みやね。

 なぞらえ読みも愉しいが、こいつは素直に読みたい。喩えを探して読むよりも、むしろそのまま「わたしだったら、どうする?」と考え考え読む。子どものためなら鬼にも魔にもなれるが、子どもには人でいてほしい、いてくれ、と願うのは父のエゴなのか。

 「奪い・犯す」世の中で生きていくためには、やはり、「人」をいったんやめる必要があるのではないか。「隠れ・逃げる」生活は、いずれ捕まる。かつて「人」だった連中なのか、あるいは飢えか、どちらにせよ、捕まえられる。そうならないよう、新しい世界で生きていくための原則と訓練を叩き込むのが「父」なのではないか。

 幼いわが子が生きていく未来を案じ、苦しいほどの愛おしさを抱いている。この愛おしさは、作中の父と一致する。ラストのくだりで落涙するいっぽう、そこに至るまで父が「してこなかったこと」に真剣に腹を立てる。

わかってる。ごめんよ。でもパパの心は全部お前のものだ。今までもずっとそうだった。お前が一番の善い者だ。ずっとそうだったんだ。

 だからこのラストは、作者の偽善でしかない。父がやったことは、黒よりもなお暗い闇にわが子を置き去りにしたことに等しいから。結局、父のエゴイスティックな願いは聞き届けられることになるのだが、あれほど神なき荒涼を見せつけられた後では、とってつけた救済に見える。「傑作」を乱発するどいつもこいつも、「父」を知ってるのかよ、安易に感動するこいつらのために、真逆のラストも用意してやれよ、ほら、キングの「クージョ」を思い出せよ――と、うめく。

 恐ろしいほどのリアリティに、このラストに反発する。それだけこの小説に「囚われ」たからか。これ、父をやってる人とそうでない人で、評価が変わるね。

 すべての父に必読の一冊。

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正義とはイデオロギーかと問うてみる『正義とは何か』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 20018年12月4日


 世の中「正義」が多すぎる。

 自分が言いたいことのためにカスタマイズした「正義」を振りかざし、気に入らないモノは好きなだけ殴っていいという謎の主張を繰り返す。「正義の反対は悪ではなくて、別の正義」というが、そんな「正義」はもはや主義にすぎぬ。

 個人的な主張の主語を最大限に拡張し、「それは世間が許さない」と世間を味方に指図する太宰メソッド。庶民、世論、大衆と、後ろ盾を入れ替える知恵が回るということは、大勢を占めないと自己主張が通らないことは分かっている。

 その「正しさ」の根っこにある信念は、生まれ育った環境や、当時の世相を映した主張にすぎぬ。それ、経済学の世界なら、ロバート・ハイルブローナー『世俗の思想家たち』で履修済み。

 たとえば、希望を失い追い詰められた人生でマルクスが構想したのは、「破滅に向かう資本主義」だった。人生を軽快に気楽に首尾よく乗り切ったケインズは、「持続可能な資本主義」を主張した。どちらに説得力があるかは、聞き手がどんな人生を送ってきたかによる。

 では、ほんとうに正しい「正義」とは何か? 「これからの正義の話をしよう」などと正義の判定者に成りすまし、オレオレ正義詐欺に騙されないために、どうすればよいか? と手にしたのが本書になる。結論から言うと、正義 v.s.正義 v.s. 正義...…の三巴四巴が続き、平成仮面ライダーや魔法少女のバトルロワイヤルを見ているかのよう。

  1. リベラリズム(公正こそ正義)
  2. リバタリアニズム(小さな政府こそ正義)
  3. コミュニタリアニズム(共同体こそ正義)
  4. フェミニズム(人間にとっての正義)
  5. コスモポリタニズム(グローバルこそ正義)
  6. ナショナリズム(国民こそ正義)

 本書は、ジョン・ロールズの『正義論』から始まる現代正義論の系譜をたどりながら、「公正な社会」と「個人の幸福」について考察を進める。この概念ほど多様かつ複雑で、変化しまくっているものはないことが分かる。

 功利主義をボコボコにしたジョン・ロールズの『正義論』が成功したため、アカデミックな正義ビジネスに乗っかる形で、様々なマウンティングがなされる。曰く、経済的に上手くいかない場合はどうだとか、甘いから厳格にすべしとか、善性がないとか、「家族」の概念が欠けているとか、男に都合の良い原理だとか、いわば「正義」の殴り合いだ。

 特筆すべきポイントは、同じ主張者でも、年齢が経つにつれ、掲げる「正義」が変わってくるところ。人生経験を重ねることで、考えが変わっていくのは当然のことだろうが、そいつに同じ「正義」を重ねるのが最高にロックなり。

 たとえば、極端なリバタリアニズムを展開したロバート・ノージック。個人の権利が最上で、国家は最小にすべし、所得の再分配なんてもってのほかと『アナーキー・国家・ユートピア』に書いた15年後、『生のなかの螺旋』で遺産相続の制限を言い出す。この15年間に何があったのかというと、ノージック自身が子の親となり、親の介護をするようになったという。何を信じるかは、どんな経験をしてきたかによるのだ。

 さまざまな「正義」に、著者は辛抱強く付き合う。基本的に、主義の差異を解説するのではなく、その支持者同士のバトルなのが面白い。特にラストのナショナリズムでは、ロールズの「正義」がボコボコにされている。

 著者の姿勢が好ましい。うまくいっている国家や、既得権益のあるグループにとって是とされるのであれば、「正義とは、強者の利益にすぎない」という現実主義に陥らず、かといってどこかの「イズム」に肩入れせず、是々非々でいる姿勢が良い。グローバルな問題や、特に難民問題になると、それまで勢いのあった「イズム」の説得力が失せたりする。正義とは、誰にとっての正義によって変わってくるのかも。

 わたしは早々と「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」を連発しながら読んだのだが、実はこれこそが、とある正義論の一つ(マッキンタイアの物語論)なのだと気づかされる。

 つまり、この「お前ん中」が個人ではなく、その個人が属する共同体の中で善だと信じられているもの―――これを至上とするのがコミュニタリアニズムになる。その意味で、わたしの考える「正義」に近いものなのかもしれぬ(マッキンタイア『美徳なき時代』は読みたい)。

 どの時代で、どんな社会構造で、誰にとっての「正義」なのかによって、その定義が変わってしまう。なぜなら「公正な社会」というとき、その社会がどの時代のどの国家で、どんな人が属するかは、それぞれ異なる。従って、それぞれにおいて「公正さ」が異なることは必然だから。

 結局は相対的なもので、より多くの「味方」をつけた正義こそが「正しい」のか。悲観無用、たとえ相対化されようとも、どこが共通点で、どこに落としどころがあるか(もしくは無いか)が書いてある。だから、「その正義の正当性はどこか」「その正義の弱点は何か」を見極めるためにも本書は活用できる。

 正義は選べる。生き方を選ぶように、正義を選びたい。

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高度に発達した科学は音楽と見分けがつかない『零號琴』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 20018年12月12日


 一気に読んだ。最初は座っていたのだが、そのうち立ち上がり、ぐるぐるして、最後は叫びっぱなしだった。

何を見ても何かを思い出す

 これは、エヴァとゴレンジャーとプリキュアのパロディであり、ナウシカとシンゴジとシンフォギアのリスペクトであり、どれみとどろろとまどマギの同人であり、火の鳥と寄生獣と日本沈没のオマージュである。ただし、どれも知らなくても無問題だ(後で説明する)。

 これ、好きな人ならいくらでも幻視できる怪物で、どこを読んでも、何を切り取っても、どこかで観た・読んだ過去の作品とつながり、思い出し、いま目の前で進行する美麗で壮大で禍々しくもバカバカしい物語にオーバーラップする。

拡張現実から拡張虚構へ

 どっぷり漬かりながら、ふと気づく。これ、小説でARを実現した人類最初の作品ではないかと。AR、つまり拡張現実(Augmented Reality)をテーマにしたというのではなく、この怪作を読むという行為そのものが現実を拡張していることになるのでは……

 つまりこうだ。物語のフレームは、曰くありげな音楽家とその助手が、とある惑星で開催される假面劇の演奏を任されるのだが、とんでもない目に遭う……という昔ながらの設定であるものの、そこで展開されるネタや物語構造、舞台設定、セリフの端々、視線の動き(カメラのパン)、見得ポーズ、小道具と大道具、そして上演される劇そのものが、未来なのに懐かしい。

 こうやって書くと、劇中劇がオマージュ盛り合わせのように見えるが、違う。物語で進行する劇は既に伝説となっていて、假面をつけた観客が、現実にオーバーレイされた演出で鑑賞すると同時に、劇の登場人物の一人となる。観る者と演る者が重なり合い、劇そのものを改変し、校正し、編纂する。

 同様に、わたしの中のエヴァやマギカやナウシカの経験に、この物語がオーバーレイされる。もちろん、わたしが「リアル」に経験したエヴァとは違うが、この物語の中で発掘された首のない躯体は巨神兵として重ね書きされる。

 この小説を読むことは、スマホをかざして見るときだけに現れる光景を眺めるのと同じだ。『零號琴』を通して記憶をたぐるときだけに現れる、(わたしが経験した)虚構に重ね書きされた現実を味わうことになる。

 『零號琴』だけで恐ろしく面白いSFだが、これを手にする者のフィクションの経験分だけ、拡張される仕掛けとなっている。

 いうなれば、『零號琴』は、拡張現実(AR)というよりも、むしろ拡張虚構(Augmented Fiction)であり、スマホでありHoloLensのようなデバイスなのである。本書を顔の前にかざし、その世界に没入することで、自分が経験してきた虚構が、鏡のように映し出され、多層化され、レイヤー結合された後、上書き保存される。

 知らないネタがあっても大丈夫、これ、二回目を読むと、「一周目を読んだときの経験」が今度は地の虚構現実となり、そいつに二回目の虚構が拡張現実と化す。ネタバレを知っている自分をネタとして読めるのだ。

高度に発達した科学は音楽と見分けがつかない

 ストーリーの紹介は、首都全体に配置された古の巨大楽器「美玉鐘」が500年ぶりに鳴らされる……ぐらいで良いだろう。これは体験するものであるから、その作用を味わうほかない。

 ただ、この「美玉鐘」を楽器とみなし、それを鳴らそうとする人々は、わたしの感覚とはずれている。それを説明するために、わたしが子どもの頃に読んだ小話をご紹介しよう。マーチン・ガードナー『aha! Gotcha』で知ったもので、もちろん『零號琴』には出てこない。

 ―――宇宙の彼方から、異星人がやってきた。とても発達した科学技術をもち、たいへん友好的で、地球の人々と仲良くなった。日々は過ぎ、やがて故郷に帰るときがやってきた。異星人は、地球のことを知りたがったので、地球人は、百科事典をプレゼントした。

 ところが百科事典は大変重く、宇宙船には重量オーバーだった。あいにく記憶装置も満杯だ。さてどうする?

 宇宙人は慌てずに、一本の棒を用意した。その棒は丈夫なもので、折れたり曲がったり歪んだりしない。そして、百科事典に書いてある、文字の一つ一つに数字を割り当てた。

a...0001
b...0002
c...0003
…

 こんな感じ。アルファベットだけでなく、「+」「*」といった記号も同様に数字を割り当てた。そして、辞書に書いてある全ての文字を数字に置き換えたのだ。こんな風に。

cat → c(0003) a(0001) t(0020) → 000300010020
dog → d(0004) o(0014) g(0007) → 000400140007

 文字だけでなく、記号もスペースも改行も、全部数字に置き換えると、一つの巨大な数字列ができた。

000300010020000400140007...

 そして宇宙人は、数字列の先頭に一つ点を打つと、それは長大ではあるものの、有限な小数となった。

0.000300010020000400140007…

 次に宇宙人は棒の長さを正確に測り、その比がちょうど小数となるようになる箇所に、印をつけた。

|―――――|――――――――――|
   a       b

a/b=0.000300010020000400140007…

 あとはこの棒を運ぶだけ。故郷についたら、aとbの長さを測り、比を求めれば小数が復号できる。残りは百科事典を印刷する手間だけだという。

 わたしは、この棒を撥として無邪気に打って鳴らしているのが、人類のように見える。高度に発達した科学は魔法と見分けがつかないとクラークは言ったが、充分に発達した科学は音楽とも見分けがつかないのかもしれぬ。

 記憶にオーバーレイされた拡張虚構を堪能し、高度に発達した科学が鳴らす「音」を体感すべし。

Reigoukin

 

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良い死、悪い死、普通の死 『現代の死に方』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 20018年12月23日


 死に方に良し悪しはあるのか? 本書の結論は「ある」になる。

 上々の人生だったのに最悪の死に方をする人もいるし、悲惨な人生だったが最期は安らかだったという人もいる。総合病院の医者である著者は、さまざまな死を扱っているうちに、ある結論に達する。それは、「死に方を助言することは、生き方を助言するくらい難しい」である。

Howtodie

 それにもかかわらず、本書を著した。理由は分かる、「悪い死に方」が多すぎるのだ。本書を手にしているあいだ、「あなたは、自分の死に方について、あまりにも楽観的すぎる考えを持っているのではないか?」と問われているように感じた。どういう風に死にたいかと、どういう風に死ねるかは、全く違う問題なのだ。

普通の死

 「普通の死」と言われて思い浮かぶのは何だろう。

 事故死や殺害されるようなものではなく、老衰か、病気か。苦痛は無いほうがいいし、できれば自宅で、家族に囲まれ、友人に別れを告げて、惜しまれながら、穏やかに最期を迎える―――だが、現実は違うという。それは「理想的な死」であると考えたほうがいい。

 現代医学は、死を表層から遠ざけようとし、死の好ましくない部分の隠蔽に成功したが、まさにそのことが現代人にとっての死を空想じみたものにしているという。終末期にどのような医療を受けるか(または受けないか)を記したリビング・ウィルがあればと考えていたが、著者は先回りしてこう述べる。

事前指示書と合法の自殺幇助によって死ぬ時期と方法を自分で決められると思い込んでいると、結局は自滅することを読者に分かってもらいたい

現実の死

 では現実の死とは何か。

 長い慢性病の末に死ぬかもしれないし、慢性病は知力と意思疎通の力を奪うかもしれない。普段どおり動くこと(食事、着替え、トイレ)にも介助が必要な状態となる。自宅の可能性は少なく、ホスピスはさらに少ない。処置室などで知らない人間に囲まれるか、長い衰弱の後に死は突然訪れる。鎮静剤を与えられて苦痛はなく、意識もなく、家族や友人に別れを告げる機会はないかもしれない。食べる、飲むという楽しみは、遠い記憶となっている。

 「良い死」を扱った本として、緩和ケア医が書いた「死ぬときに後悔すること」といった本は両断している。あれは、「一括りされた」死だという。あるいは、キューブラー・ロスの死の五段階(否認、怒り、取引、抑うつ、受容)が有名だが、五段階の反応を見せた人がいたことはないとバッサリ斬る。

 「安楽死」や「尊厳死」はアテにならぬという。死にかかっている人はあまりに疲れ、消耗しており、「尊厳死」するほど「崇高」ではないという。生存本能は極めて強いため、元気なときは生きる価値がないと思った人生にしがみつくという可能性もある。「尊厳死」は、米国だと安楽死の婉曲表現になるし、英国だと自殺幇助の議論に出てくる。医者は、「良い死」の処方箋を書くとは限らないのだから。

悪い死

 分かりやすい「悪い死」は、トルストイが書いている。『イワン・イリイチの死』だ。

 イワン・イリイチは40代で、虚栄心が強く、裁判官として出世し、資産を蓄えて豊な生活を送ってきた。腹部に痛みを覚えて医者に見てもらうが、いろいろ診断してもらった結果、助からないことが判明する。

 問題はここからだ。家族や医者は、この事実を隠そうとする。全員が全員、それはただの病気で、死ぬようなことはなく、医者の言うとおりにしていれば必ずよくなると嘘をつくのだ。しかし痛みは激しくなり、どうすることもできない。死が待っていることは分かっているのに、みな嘘を吐き通そうとし、イワン・イリイチ自身にも「助かる」という嘘を強要する。

 嘘をつくのは「希望を失わせないため」善意からで、死が近い人間は芝居じみた虚偽の世界に住んでいる。その結果、「希望を失わせない」アリバイづくりのために無益な医療が押し付けられ、しなくてもいい苦痛を味わい、惨めな思いをしながら死んでゆく。

死の医療化

 意識が混濁した本人に代わって、「手を尽くしてください」と訴える家族のプレッシャーに押され、濃厚医療を施し、人生の最後の最後になって、無理やり生かされている状態である。まさに、[苦しまないと、死ねない国]の話である。

 著者はこれを、「死の医療化」と呼ぶ。人は生きて、死ぬ。これはあたりまえのことなのに、死に近くなればなるほど、本来は医療問題ではなかったことが、医療として扱われ、治療の対象となってくる。

 たとえば本書では、「胃ろう」が問題として提示される。高齢者にひとくちひとくち食べさせるという、手間と時間とお金(労働力)のかかる方法よりも、胃までチューブを通し、直接栄養分を流し込む方が、ずっと楽だ。しかし、著者は終末期患者への胃ろうに反対を唱える。

胃ろうは衰弱した終末期の高齢者の食事問題の解決に魅力的に見えるが、誤嚥性肺炎、下痢、チューブからの漏れ、感染症などの慢性的問題のほかにも、方法そのものの危険が大きい。さらに重要な点は、食べるという人間のごく普通の行為を医療介入に任せ、その単純な楽しみを患者から奪ってしまうことだ。

 そして、胃ろうで栄養を与えるのは、患者のためというよりも、むしろ家族と医者の感情的&経済的な問題を解決するためだという結論をぶっちゃける。医者の仕事は病気の治療なのに、社会から死を隠した結果、人生の扱いにくく解決不能なごたごたが押し付けられているという。著者はアイルランドの医者だが、同じ微妙な事情は日本でも同じだろう。

スーザン・ソンタグの「手におえない死」

 わたしにとって本書の最大の収穫は、スーザン・ソンタグの癌のエピソードだ。『隠喩としての病い』を通じて、わたしが受け取ってきたことは、事実のある面だけを見ているに過ぎないことが分かった。

 『隠喩としての病い』の中でソンタグは、病をとりまくテクストを読み解きながら、そこにひそむ権力とイデオロギー装置を解体する。病気は悪行への罰なりという先入観や、内的なものを劇化するための自己表現としての「病」を、ソンタグは次々と暴いてゆく。そこには実際の病ではなく、語り手から意味を付与され、喧伝されるための「隠喩としての病い」が白日の下にさらされる。

 そして、人体におきる「出来事としての病い」は、ひとまず医学にまかせるとして、それと重なり合って苦しめる病の隠喩、すなわち言葉の暴力から解放してくれる。「がんは、ひとつの病気だ―――とても重大な病気ではあるにしても、ひとつの病気にすぎないのだ―――呪いでも罰でもない、そこに「意味」などないのだ」というメッセージが、くりかえし伝わってくる。癌に対する態度として、そこに「闘い」などの意味をつけないで、「ひとまず医学にまかせる」ことが素晴らしいと思っていた。

 しかし、『現代の死に方』を読むと、ソンタグと癌の関係は、わたしが考えていたこととかなり違うことが分かった。

 ソンタグは1970年代、1990年代と二度癌になり、大手術と先進の免疫療法を処方してもらい、癌を克服した結果、科学的医療に揺るぎない信頼を抱いたという。そのとき彼女は、「死ぬかもしれないとき、医者のあらゆる予見を無視し、大きな困難や危険をものともせずに生きていれば、そこに何らかの意味を付け加えないではいられません」と述べている。著者は、この頃の彼女の言動から、癌とは「闘う」もので、生は勝ち取るものだというメッセージを読み取る。

 最後は骨髄癌になった。彼女の息子によると、最悪の知らせを理解したとき、ソンタグは悲鳴を上げたという。そして「医者のあらゆる予見を無視し」、幹細胞の移植、放射線療法、化学療法を施してもらう。71歳の高齢者に対する治療法としては、適切なものでなかったが、医療保険の支払いが拒否され、前払いで25万ドルが振り込まれた結果に実現した「治療」なのだ。

 ソンタグ本人は死を見つめることさえも拒絶し、最後の最後まで医者をシャーマンとして信頼しており、著者に言わせると「手におえない死」だったという。そこに「何らかの意味を付け加えないでいられ」たかは分からないが、死を前にしては、名声も、財産も、知性も、品位も、何も役に立たないことは痛いほど分かる。

哲学で「良い死」を学べるか

 著者は、『哲学者190人の死にかた』(サイモン・クリッチリー)を参考にしつつ、さまざまな哲学者や思想家の死を挙げてゆく。

 セネカ、ゲーテ、モーム、トルストイは、死と終末に深い洞察がありながら、一般大衆のような死を迎えたという。一方で、ヒューム、ウィトゲンシュタインの死に際のような美徳の組み合わせはほとんど無かったという。そして結論として、「良い死」を遂げる哲学者もいれば、そうでない哲学者もいるから、哲学は「良い死」と関係ないという。

 さらに、「哲学するとは、死にかたを学ぶこと」をエセーに掲げたモンテーニュの最期を考察する。彼は死を恐れないことについて多くの名言を残したが、人生の最後において、ベッドに横たわり、何日も苦しんで死んでいった。それは、彼が避けたかった死は、哲学的考察では防げなかったことであり、「死について参考になることは言っていない」と断ずる。

 これはおかしい。哲学者の人選に恣意性があり、著者の底意地の悪さを感じる。ソクラテスの最期が外されている時点で、推して知るべしだろう。さらに、最後の数日間の苦しみだけに焦点を合わせ、それまでの省察を断ずるのはフェアじゃなかろう。

 「哲学するとは、死にかたを学ぶこと」は、死ぬまでの数日間のふるまいについてだけはない。エセーでは、死を恐れることで、ちゃんと生きないことが問題だと言っているのに。

 たとえば、以下の一節は、死を恐れるあまり、死につながるあらゆる可能性を心配するあまり、ひきこもりの人生を選ぶこともある。死に対する不安によって、「いま」から実際に死ぬまでの間を臆病に過ごすことは、もったいないことだよ、と理解している。

「実際、あれこれの危険や危難は、われわれを死という最期に、ほとんど近づけはしないのである」(モンテーニュ エセー 第19章 哲学することとは、死に方を学ぶこと)

 哲学は、死ぬまでの数日間のためにだけるのではなく、学び始めたときから死ぬまでの全ての生のためにある、とわたしは信じる。死を学ぶことは、生を学ぶことなのだから。

医者がすすめる良い死に方

 最近のAmazonのパワーワードとして、「医者がすすめる」がある。「医者が教える」でもいい。下の句は「健康法」とか「食事法」とか「ダイエット」など色々あり。そんなに医者を頼りにするなら、医者がすすめる死に方があってもいい。

 では、医者がすすめる「良い死」とは何か?

 そして、非常に興味深いことに、本書で「良い死」として医者がすすめる死に方は、当の医者が患者に施している方法と、全く異なる。すなわち、医者は、自分に対してやってほしくない医療を、患者に対して行っているのである。

 医者の死に方は、ジョン・ホプキンス大学が2003年に実施した調査結果を見れば瞭然である。医者に対し、自分自身の終末医療に関し、なにを望むかについて調査したのである。まとめるとこうなる。

  • ほぼ全員が事前指示書を所持
  • 大多数の医者は、心肺蘇生、透析、大手術、胃ろうを希望しなかった
  • 全員が鎮痛薬、麻酔薬を希望

 カンサス州の病理学者エド・フリードランダーは、堂々と胸に「心肺蘇生はダメ」と入れ墨を入れいてるという。本書の著者は、医者として、積極的な安楽死には(個人的に惹かれつつも)反対を唱えているが、濃厚医療でムリヤリ「生かす」ことにも反対している。

生き方としての死に方

 「長く生きる」のが目的ではない。「よく生きる」のが目的なのだ。そして死は、よく生きる生き方そのものなのであり、生き方の延長にある死に方を選べるようにありたい(選べるうちに、選びたい)。

 『現代の死に方』を読みながら、2018年1月21日に、自裁死を実行した西部邁のことを考える。彼の「生き方としての死に方が、とくに家族とのかかわりをめぐって、正面から検討されはじめている」は、これから何度も考えることになるだろう。そして、健全で明朗で、平常心で自死した須原一秀のことも考えることになるだろう。

2018/12/28追記

note に重要な記事が上がっていたので、そこから引用する。引用元は「死ぬかもしれないから、言っておきたいこと。」、書いた人は幡野広志さんで、写真家で元狩猟家で、がん患者である。「生きる権利を、生きる義務にされてしまうと病気になったとき果たせないので、苦しくなる」というメッセージは、重要で、沢山の人に伝えたい。

患者が望む最後と、家族が望む最後は違う。患者は苦しみたくないが、家族は悲しみたくないのだ、意見が一致するわけない。そして医師が尊重するのは、家族が望む最後なのだ。野次に負けた妻が人工呼吸器を使って延命してほしいといったり、心臓マッサージを希望すれば、医師はやる。なぜ医師がそれをやるかというと、それが医師の望む最後だからだ。そして鎮静死、セデーションは医師の裁量で行うものなので患者が希望しようが関係ない。患者の意見が尊重されない仕組みになっている、それが日本の医療の現実だ。
<中略>
生きる権利は誰にでもあり、保証されている。死ぬ権利を持つと、びっくりするほど生きやすくなる。生きる権利を、生きる義務にされてしまうと病気になったとき果たせないので、苦しくなるのだ。そして死ぬことは悪いことではない。死ぬことを悪いこととしていたら、人類全員バッドエンドだ。自分の望む死をハッピーエンドにして、目指しましょうよ。

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難所を越えると全部終わった気になる罠―――大川硝子事件

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スマホの機種変で失敗したことがある。

メッセージアプリのトーク履歴だ。変更前の端末でバックアップを取っておき、変更後にデータ移行しなければならない。だが、そんなこと考えもしなかったのだ(アカウントを引き継げば、あとは全データが移行されると思い込んでいた)。結果、連絡先の引っ越しはできたが、トーク履歴は、直近を除いて消えた。

個人の失敗なら笑い話で済む。だが、販売管理システムのデータ移行だと洒落にならない。

今回は、大川硝子事件を扱う。

■3行まとめ

  1. 旧システムの「マスタデータ」(得意先、仕入先、商品)は、件数、移行方法、役割分担まで合意できていた
  2. 旧システムの「取引データ」(過去の販売、仕入履歴)は、検討された形跡は残っていない
  3. ユーザは本稼働の前に解約を通知し、既存データを扱うものと確信していたと伝える。ベンダは損害賠償を求めて提訴、ユーザも反訴

判決から言うと、ベンダの請求はほぼ認められ、ユーザの反訴は全部棄却された。

ユーザの言い分はこうだ。

  • 過去の売上や取引データは、新システムで必要。これがなければ、過去の実績を踏まえた売上分析や顧客管理に支障が出る
  • 主な販売管理システムでは、引継ぎデータの取込みは一般的で、もし取引データを除外するのであれば、ベンダが説明すべきだった

ベンダの主張はこうなる。

  • 取引データの移行は一般的でなく、きわめてまれで、顧客の判断による
  • 見積書の「マスタデータコンバート料金」は、得意先、仕入先、商品のマスタデータのことで、取引データは含まない

「言わなくても当然やるでしょ?」 vs 「言われてないし見積もってない」という対立構造になる。どちらの主張も「相手が言うべきだった」という形をしている。

判決を読む限り、取引データをどうするかについて、どちらかが言及したと認められる記録はない。

だが私は、ベンダも触れていなかったと見る。もし、取引データが移行の対象外だと気づいていれば、伝えていたはずだ。もし伝えていれば、「取引データも移して」という話になり、記録に残っていただろう。

■裁判所の「問い」とPMの「問い」

裁判所の問いはシンプルだ。

「取引データの移行は、ベンダの責務だったか?」

結果はノーで、ベンダの責務ではないという判断だ。なぜなら、取引データについては、見積書にも契約書にも明示されていなかったから。打ち合わせで合意されたのは、マスタデータのみで、取引データは、そこに無かったから。ベンダの「言われてないのでやってません」が通った形だ。

確かに、契約や打ち合わせで合意されたものから判断すると、ユーザは確かに「取引データの移行をしてほしい」とは言っていない。裁判としての判断は適切だと思う。

だけどこれ、違和感がある。

販売管理システムの更改なら、旧システムで出来ていた業務も、新システムで出来るようにしたいというのが人情だ。そして、過去の取引履歴を見て注文書を作ったり、仕入れ分析をするなんて、普通のことではないだろうか。

そのため、私はこう問いたい。

「なぜ、取引データは、検討のテーブルにすら載らなかったのか?」

この問いに対し、判例には何も書かれていない。ここからは、私の推測になる。

■なぜ取引データは検討から漏れたのか

取引データは検討の俎上に乗った形跡がない。一方、マスタデータの移行に問題があることが判明していた。

  • 概算件数は200件(得意先50件、仕入先30件、商品100点)
  • 旧システムの制約:Excelなどでのデータ出力ができない
  • 新システムにマスタデータは必須(無いと業務できない)

旧システムからデータ抽出して移行するという標準的な方法が通用しないことが分かっていた。そのため、代替手段として、手入力で移行用データを準備することにした。

  1. ベンダが、移行に使うExcel形式の「マスタコンバートシート」を用意
  2. ユーザが、手入力でシートに入力
  3. 埋められたシートを元に移行する段取り

件数的には200件と少ないものの、これを間違えると致命的だ。しかも途中に「ユーザの手入力」というプロセスがある(これが最も信頼できない)。生データを扱う担当は、ベンダもユーザも、ヒヤヒヤしたのではないだろうか。

おそらく、ここが漏れた原因だったと考える。

つまりこうだ。マスタデータの移行に問題があることが発覚し、その解決に集中するあまり、そもそも移行しなければならない全体を見失っていたのではないか、と考える。

ITエンジニアは、問題を解決することに頭を使う。前提を考慮し、達成条件を見極め、工夫と試行錯誤をくり返し、解決に至る。エンジニア冥利に尽きる。そのため、目先の問題(マスタデータ移行)に注意が引っ張られてしまった可能性がある。

「マスタコンバートシート」は、ベンダから提示されたものだ。ユーザとしては、それをすれば(業務必要な全ての)データを移行してもらえると考えて協力したのだろう。ベンダへ通知した文書にも、その意図を伺わせる一文がある。

弊社があえて要求しなくても、既存データーを扱うものと確信しておりました

手近な問題に集中するあまり、「データ移行」=「マスタデータの移行」と判断したベンダと、あえて要求しなかったユーザのすれ違いから、取引データが漏れたのだと推察する。

■すれ違いを無くす「よい質問」

この判例から得られる教訓を考える。

よくある、「何をデータ移行する必要がありますか?」は、却下だ。

ユーザは、データ移行なんてよく知らない。システム更改なんてほぼ未経験で、「取引データ」や「マスタデータ」といったものも、ベンダに言われて初めて気づくようなものだろう。

そして、「データ移行が必要なものに漏れがないですか?」も、却下だ。

ユーザは、漏れがあるかどうかなんて、分からない。というか、知ったこっちゃないと言うだろう。また、この問いをベンダ内で問うたとしても、漏れるかもしれない。「マスタデータの移行」に注意が行っているため、「マスタデータの移行作業で漏れがないか」という思考に囚われてしまう可能性があるからだ。

では、どうすればよいか?

ユーザから見えており、かつ、ベンダから見えるものから、検討をスタートさせる。それは、現行システムで行っている業務だ。そして、問い方はこうなる。

「現行システムの業務は、全て新システムでも行うという前提でよろしいでしょうか?もしそうなら、現行システムの業務を元に、どんなデータを移行する必要があるか、すり合わせをさせてください 」

ユーザは、「マスタデータ」や「取引データ」のことはよく分からない。だが、今やっている業務のことは把握している。だから、「この業務を実施するために必要なデータを移行してくれ」という問い方になる。

ベンダは、「要望を実現するためのデータ移行なのだから、要望は『データ移行』ではなく、やりたいことを述べてくれ」という問い方になる。

「漏れがある」ということは、全体があって、その全てが網羅されていない状態のことを指す。ユーザは、「何が移行するべきデータの全体なのか?」は分からないものの、「新システムで何ができなければならないか」は言える。ベンダはそこから、移行するべきデータを特定するという順序で進めるのだ。

もう一つ。判例に残っている言葉を並べると、ユーザとベンダで、移行データの呼び方が異なっている。

  • ユーザ:既存データ(移行しなければならない全データ)
  • ベンダ:マスタデータ(旧システムのマスタ)

これは、判決文だからこそ、このような差異があったのかもしれない。ユーザは、取引データやマスタデータも含めた形で「既存」データと呼んでいたのかもしれない。

一方、ベンダは、すれ違いが起きる前から、「マスタ」データと呼んでいた。この呼称の違いについて、注意を促したい。それぞれの呼称の定義を洗い出すことで、「既存データ⊃マスタデータ」の関係性に気づけたかもしれぬ。

「マスタデータとは何ですか?既存データとはどう違うのでしょうか?」

用語の違いは、認識のずれが現れている場合が多い。呼び名の違いに敏感になりたい。

難しい問題ほど、エンジニアは燃える。だが、その熱中がプロジェクトを燃やすこともある。

だからこそ、難所を越えたときには、一度顔を上げる必要がある(PMの仕事やね)。「これで、ユーザが続けたい業務はできるのか?」。答えを確かめるには、移行データの一覧だけでなく、そのデータを使う業務に戻る必要がある。

ベンダの「マスタ」とユーザの「既存」は、同じものを指しているだろうか。目の前の問題を解く力に加えて、「そもそも、何のために解いているのか」を、もう一度問い直す目線が、プロジェクトには必要なのだ。

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本に埋もれて本と生きる『本の虫の本』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 20018年12月26日


 なりたくて本好きになったのでないから、止めたくて止められるものでもない。

Honnnomusi

 活字中毒という便利な言葉があるが、スマホに魅入るのとは違うので、本中毒なのかもしれぬ。本書によると、中毒にはレベルがあるらしい。

本好きのレベル(あるいは深刻度)

  1. 本好き 50冊ぐらい家にある
  2. 読書好き 100~200冊
  3. 書豚(しょとん) 千冊くらい(家の階段にも積まれている)
  4. 書狼(しょろう) 本を並べるためだけに家を買う
  5. 書痴(しょち) 世の中に5冊だけの本を全部買い占めて、4冊を破って捨てる

 よかった、まだ「読書好き」で済んでる。「階段に積んでる」「床が抜けた」という話も聞くが、本のために部屋を借りたり家を買うようになれば、書物狂といっていい。だが、それは読書の本というよりも、むしろ「資料」であり「在庫」なのかもしれぬ。

 これは、本が好きで好きでたまらない「本の虫」たちのエッセイ集。新刊書店、古本屋、装幀、ジャーナリズム、イラストレーションなど、活動領域は違ってても、本を食べ本で食べ本に埋もれて生きる様子を観察することができる。虫たちのラインナップはこんな感じ。

林 哲夫
能邨 陽子
荻原 魚雷
田中 美穂
岡崎 武志
赤井 稚佳

本好きあるある

 この本の虫たちが、本好きあるある話から、意外なネタ、調べたくなる薀蓄、お役立ちTipsなど、本の世界にまつわる様々なテーマを、自在に取り上げ、縦横無尽に紹介しまくる。どれも独立しており、どこから始めても、どこを摘まんでも面白く読めるような構成になっている。

 結構な分量だが、一気に読むのはもったいない。枕元かトイレに置いて、一度にふたつみっつが丁度いいかも。小口に一行、気になる言葉が記されており、さらにその飛び先の頁数が書いてある。ハイパーリンクを物理的な書物で実装しており面白い。こんなふうに。

  • 日々の生活の中で、背表紙が目に入る。それも読書の一部である
  • 聖書には本を食べるという話が二度出ています
  • しかし、本がある。どんなときにも読書というものがある。本好きにはそれを救いとすることができます
  • 「やる気が出るまで待つな」やる気が出るまで待っていたら仕事は終わらない
  • 読書量よりも、再読に値する本がどれだけあるか

 いくつか読むと、記事のつながり具合から想像が広がって楽しい。さらに、リアル書店に行きたくなること請け合う。

本屋に行くとトイレに行きたくなる現象

 たとえば、本屋に行くとトイレに行きたくなる現象を[青木まりこ現象]と呼ぶのは知っていた。書物に含まれる化学物質が匂いとなり、もよおすトリガーとなる説も耳にしたことがある。

 だが、その隣の記事は、匂いと結び付けたネタになっている。できたての本の匂いは「ゆまり」で、古本は「できたてのビスケット」のような香りなんだって。「ゆまり=おしっこ」に喩えたのは装幀家の間村俊一で、「ビスケット」みたいといったのはホルヘ・ルイス・ボルヘスとのこと。

 そこからロンドン大学の「古本の匂い」の研究が紹介されている。書籍に含まれているリグニンが時間と共に分解されてVOC(揮発性有機化合物)が放出され、その中のヴァニリンがチョコレート、ココア、アーモンドやヴァニラに似た芳香の原因であると考えられているんだって。

 さらに前小口から、厠上読書として岩波新書の『折々のうた』が紹介されている。古来から熟考に最適な場所として「馬上・枕上・厠上」があるといい、これを現代の読書にも置き換えると、「電車内、枕元、トイレ」になる。それぞれ滞在時間に適した長さが求められるが、トイレには『折々のうた』がちょうど良いそうな。

自分が死んだ後の蔵書を考える

 すこし寂しい話も出てくる。

 本人が「本好き」といっても、家族がそうでない場合がある。古本屋を営んでいると、ご年配の方が、けっこうな蔵書を一気に手放すことがあるという。訊いてみると、「家族は全く本に興味が無いから、自分にもしものことがあったらゴミにされてしまう。ならばいっそ今のうちに」……という話らしい。twitterで見かけた、仮面ライダーグッズを処分した男の話を思い出す。

もし自分が死んだらと考えたとき、孤独死した男の仮面ライダーだけで埋もれた部屋だけが残り、一つ一つ思い入れのある仮面ライダー達が、無造作にゴミ袋に入れられていくのが耐えられなかったそれならば、自分は一切、何一つ残さず、一人で完結したい

 わたし自身、蔵書にこだわらない(こだわ「れ」ない)理由の一つがこれだ。すごい蔵書を誇る人がいるが、うらやましいものの、わたしがそうなりたいとはあまり思わない。準備する時間があるのか、突発的なのかは分からないが、わたしが不在となったとき、処分に困るほどの蔵書を残しておくのはやめておこう、という気持ちがどこかにある。

 もともと、わたしは、マイ本棚というものを持っていない。

 その代わり、嫁さんの書棚、子どもの学習机の棚、リビングの片隅などに間借りして、「わたしの本」を置かせてもらっているようなもの。もちろん「これ読んでもらうといいなー」という下心もあるが、一方通行の期待にすぎぬ。わたしが不在となった後も、わたしが選んだ本は、その片隅に残り続けることだろう。

やる気が出るまで待っていたら仕事は終わらない

 すごく刺さる言葉もある。これ→「やる気が出るまで待っていたら仕事は終わらない」。ヘイズ・ジェイコブズ『ノンフィクションの書き方』に出てくるという。わたしの経験に照らしても「ほんそれ」なのだが、かくいうわたし自身が実践し切れていないので、耳に痛い。

 すなわち、「書き続ける」ためには、修練を積まなければならないという。ヤル気を待っていたら、その日が時間切れとなってしまう。ヤル気がなくても手を動かしているうち、だんだん調子が出てくるというのは真だ。

 「書く」という行為を、規則的な習慣にしてしまわなければならない。毎日、同じ時刻に書き始め、同じ時刻に終えるという、決められた日課をこなすことが、「書き続ける」ことなのだ。たしか、レイモンド・チャンドラーも似たようなことを言ってたはず。

  • 毎日、決まった時間に、タイプライターの前に座る
  • 座っているあいだ、書いても書かなくてもよい
  • ただし、他のこと(本を読んだりとか)はしてはいけない

 ジェイコブズはさらに、「残業」についても語る。ライターは残業すべきか? と問われれば、「すべきでない」という。気分がノッて、どんどん「書ける」ときもあるが、その分の消耗も激しいものになる。結果、翌日は書くのが嫌になる。だから、決めた時間になったら終えるべきなんだって。

「読書家」の燃え尽き症候群

 ある種のプロに見受けられるが、いわゆる燃えつき症候群の弱音もきける。

 長年、本を読むのを生業としていると、「壁」にぶつかるという。読んでも読んでも収穫らしいものに行き着かず、自分が何を知りたいのか、そもそもなぜこれ読んでいるのか分からなくなり、惰性で読み続ける毎日になる。なまじ目が肥えているから、ちょっとやそっとでは満足しきれなくなるのだ。

 蒐集癖もそう。古本屋をハシゴしてまわった経験を引きずっており、見つけたときに買わないと次にいつ買えるか分からないという強迫観念に追われる。ところがある日、ネットを検索したら、探究書の大半は、お金さえあれば、ほぼ買えることが判明する。いままでの苦労は、一体なんだったのか、というやつ。

 前者のお悩みは、いわゆる「ジャンル読み」のマンネリズム陥らないことが肝心だ。好きの方向を深堀りするだけでなく、横に拡張したり、複数のジャンルを開拓することで脱出できるはず。「生業としての読書」と「楽しみのための読書」を割り切り、使い分けることだってできるだろう。

 後者は「仕入れ」と「読書」をごっちゃにしたから生じている悩みだ。本を「集める」のが目的なら、それは資金の続く限りの趣味か、もしくは仕事としての「仕入れ」でしかない。いっぽう、「読むためなのだ」と開き直るのなら、図書館も視野に入れるといいかも。

「おすすめ」を紹介するのは難しい

 「本好きなんでしょ? お薦めの本を教えてよ」というのが、いちばん難しい。その人の好みも、ジャンルも、ひいきの作家も聞かないで、いきなり答えられるわけでもない。

 ところが、万人ウケを狙える小説があるという。聞いてみたらああなるほどなのだが、これもまた、話者の周囲に集まる人というバイアスを通じた「万人」やね。あまり本を読まない人向けとして、男に薦めるなら吉村昭、女に薦めるならアン・タイラーが無難だという。値ごろ手ごろで妥当なのだが、「これ読んで本が好きになれないならお手上げ」は言い過ぎかも。「お薦め教えて」が社交辞令でないのなら、下の句で好きな映画、設定、昔読んだ本を教えてもらえるから。ノーヒントでお薦め教えろというのなら、後は察するべし。

 本を読みなれていない人にお薦めする入口として、面白い提案を教えてもらった。「場所」である。たとえば小説なら、その人にとっての「出身地」「青少年期を過ごした土地」「通った学校の近辺」「現在住んでいる町」など、馴染みの有る場所を挙げてもらい、そこを舞台にした作品を読んでみる、というアプローチである。

 この、土地と小説を結び付けて読むという発想が面白い。たとえば「東京」なら、[Wikipedia東京を舞台にした作品]でたくさん出てくる。いわゆるご当地小説やね。

 こんな感じで、本にまつわる苦労話、小ネタ、新しい斬り口などが詰め込まれている。同じようなテーマでも、書き手が違うと別の視点で新鮮に読める。紹介される本は400冊を超え、巻末の索引も充実しているため、本の本のブックガイドとして読むのも吉。ちびちびと読むのが楽しい。

 さっき、寝しなとかトイレに読むといいと書いたが、これ、読書のあいまのオヤツのように読むのもいい。本を読んでて疲れたら、気分転換にこれを読むのだ。

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猫好きは本好きである『文豪の猫』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 20019年1月4日


 猫が好きな人は本が好きである。

 これ、わたしの友人を通じて知ってた。猫を飼っていたり、飼ってはいないけど猫に寄ってこられる人は、必ずと言っていいほど本が好きなのだ。文筆業に携わっている人も猫率が高いので、都市伝説というより定説の一種だと考えていた。

Bungounoneko

 ところがこれ、実証されていたらしい。米国のfacebookユーザを対象に、2016年に行われた調査が、本書で紹介されている。自分のペットの写真を公開している16万人のデータを集計した結果、猫を愛する人が本好きであることが極めて多いという結論が導き出されている。

 この定説が、作家にも当てはまるのを示した写真集がこれ。古今東西の作家と猫のツーショットを集めた、猫愛あふれる写真集。猫好き作家といえば定番の人から、意外なあの人まで楽しませてくれる。

 面白いのは、作家と猫の関係性。おそらく猫と一緒のところを撮るからというリクエストがあったのだろう。イメージとかけ離れた甘い顔の作家と、なんだかイヤそうにしている猫の写真が多い(表紙はトルーマン・カポーティ)。

 たとえば、猫好きの定番といえばマーク・トウェイン。可愛がっていた黒猫が失踪すると、新聞各紙に尋ね猫の広告を出したというし、「ネコを愛する人となら、わたしは友人として、同士として付き合える。堅苦しい紹介などいらない」という言葉も遺している。彼の猫好きを知ったファンが、適当な猫を連れて押しかけたというエピソードも面白い。

 意外な組み合わせといえば、チャールズ・ブコウスキーと猫。猫と一緒に相好を崩す姿が微笑ましく、またブコウスキーを見上げる猫の表情がまた可愛い。「猫をたくさん飼う人ほど長生きできる。100匹いれば10匹いるより10倍は長く生きられる。1000匹飼う人が出てきたら、永遠に生きるようになるかもしれない」なんて、どれだけ好きなんや。

 また、スティーヴン・キングは大の猫好きで、『ペット・セマタリー』の猫が車に轢かれるエピソードは、彼の飼っていた猫が元になっていることを知って驚く。他にも、村上春樹、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、レイ・ブラッドベリといった大御所と猫の姿を見ることができる。作中の猫と重ね合わせて見ると、一層楽しめる。

 猫好き作家の写真集だと『作家の猫』があるが、こちらは日本の作家が中心となる。ポイントは、作家「の」猫であること。つまり猫に焦点が当たっているのである。「犬は?」という人は、姉妹本の『作家の犬』と比べてニヤニヤするといいかも。猫好きは本好きかもしれないが、本好きは猫好きと犬好きと両方とも好きがいるから。

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この世でいちばん面白い小説

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2009年3月29日


 筒井康隆が「ひとつだけ選ぶならコレ」とベタ誉めしてたので手を出す。ジュヴナイル向け「巌窟王」で読んだつもりになっていたが、今回、岩波赤版「モンテ・クリスト伯」でブッ飛んだ。

 ストーリーを一言であらわすなら、究極のメロドラマ。展開のうねりがスゴい、物語の解像度がスゴい、古典はまわりくどいという方はいらっしゃるかもしれないが、伏線の張りがスゴい。てかどれもこれも強烈な前フリだ。伏線の濃淡で物語の転び方がミエミエになるかもしれないが、凡百のミステリを蹴散らすぐらいの効きに唸れ。読み手のハートはがっちりつかまれて振り回されることを請合う。

 みなさん、スジはご存知だろうから省く。が、痛快な展開に喝采を送っているうちに、復讐の絶頂をまたぎ越えてしまったことに気づく。その向こう側に横たわる絶望の深淵を、主人公、モンテ・クリスト伯と一緒になって覗き込むの。そして、「生きるほうが辛い」というのは、どういう感情なのかを思い知るのだ。

 読まずに、死んだら、もったいない。このblog読んでる全員にオススメ。読むときは、イッキ読みで。

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官能小説の奥義

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2010年3月1日


 タイトルに偽りなし。官能小説の奥義だけでなく、書き方指南まで開陳してくれる、ありがたい一冊。

 官能小説とは、読者の淫心を刺激するためのもの。独自の官能表現を磨き、競い合ってきた作家たちの足跡をたどり、豊穣な日本語の世界を堪能することが、本書の目的だ。官能小説としての文体が確立するまでの歴史を追い、性器描写の工夫を解説し、性交描写の方法をパターンごとにまとめている。

 スゴいのはフェティシズムを分類した章。乳房フェチから尻、太腿といったスタンダードから、腋窩(えきか)フェチ、パンストの肌触りフェチといったニッチ系のニーズまで網羅してある。ひととおり目を通すことで、隠されていた自分のフェチに気づくかもしれない。

 あるいは、斬新かつ淫心をかき立てるオノマトペの紹介に気づかされる。舐め音や粘液音、挿入から射精音に分類されたオノマトペを眺めていると、いわゆるエロマンガのそれとはかなり違うのだ。マンガのほうは絵が主、オノマトペは「効果音」なのだが、小説では「描写」になるのだ(「くぱぁ」はマンガ表現だが、「ギクンギクン」は小説的)。

 さらに、ひたすら妄想を逞しくさせる官能用語が、いかに苦労して編み出されてきたかが分かる。たとえば女性器ひとつとってみても、その表現手法は5つに分かれるそうな。花や果実に喩える「植物派」から、昔ながらの「魚貝派」、変わりダネ「動物派」、マグマや大地になぞらえる「陸地派」や、俗語や医学用語をストレートに用いる「直接派」がある。

 そして、これらに付随して、「肉」という語感をいかに操るか、作家たちの工夫はソコにあるという。「花芯」や「アワビ」はありがちかもしれないが、「肉のつまみ」や「マグロの赤身」といった言い方は、よく見ているなぁと感心するばかり。作家の発想力というか妄想力のスゴさを感じさせてくれる。

 オナニーのためだけならエロ画像や動画を見ればすむ。にもかかわらず、文章を読んで興奮するということは、そこに想像力が働いているはずだ。言葉に誘発されたイマジネーションに溺れているのであり、それは受身としての"生理的反応"ではない。その触媒となるシチュなりフェチに浸るのが、官能小説の醍醐味と言ってもいい。

 かくいうわたし自身、この世界から久しく離れており、本書で再会して懐かしい作品いくつかあった。特に館淳一「愛しのエレクトラ」は、お世話になった名作で、引用箇所はわたしが最も気に入っていたシーンだった(さすが!)。というのも、著者・永田守弘氏は、「ダカーポ」の官能小説を紹介するコラム、「くらいまっくす」の書き手なのだから。創刊以来、26年間も続いたそうな(「ダカーポ」は2007年に休刊)。

 紹介するだけでなく、書き方のレクチャーもすごい。官能小説の書き方十か条があるので、簡単にまとめてみよう。

  • 第一条 : 官能小説は性欲をかきたてるだけのものではない。性欲はオナニーで消えてしまうが、淫心は人間が根源的に抱えているものであり、オナニーでは消えない。性欲の奥に流れているものである。
  • 第二条 : 好きな作家を見つけよ。淫心の入口はフェチ、自分自身のフェチを見つけろ。
  • 第三条 : まず短編を書いてみる。30-50枚くらいの短編を、フェチを意識しながら書けという。好きな作家の未読作品の最初と最後をそれぞれ5ページだけを読んで、真ん中を自分で想像して書き、比べてみろという。
  • 第四条 : 官能シーンを早く出せ。いきなり性交シーンという意味ではなく、胸でも尻でもチラリズムでもいいから、読み手のフェチを刺激することを始めよという。
  • 第五条 : 自分がしたくてもできないことを書け。やったら犯罪だが、小説として書くのは問題なし。想像力、願望力をたくましくして、したくでもできないことを弄べと励ます。
  • 第六条 : 三人以上の人物を登場させよ。一人の男と一人の女だけでは、話がふくらまない。キャラ×シチュ×フェチがバリエーションの基本だね。
  • 第七条 : 恥ずかしいと思うな。自分のパンツを脱いでいるつもりで、すべてをさらけだすつもりで書けという。これは文芸小説についても言えるね。
  • 第八条 : オノマトペをうまく使う。オノマトペに限らず、その状況を的確にイヤらしく一語で示すことができれば、官能小説として成功だと思う。
  • 第九条 : 性の優しさ、哀しさ、切なさを知っておく。セックスを書くということは、基本的に男女の粘膜の触合いを表現することではあるが、それを掘り下げていくと、性というものが持っている優しさ、哀しさ、切なさに突き当たるというのだ。オルガスムスとは小さな死。
  • 第十条 : 書いている途中でオナニーをするな 【重要】。これ重要。自分が勃起しないような小説で、読者を勃起させることはできないが、だからといって、その勃起でオナニーをしてはいけない。パワーが落ちて、書き進める気がなくなってしまうというのだ。接して漏らさずの誓いを守るでござる。

 官能小説入門として読むと便利だが、それだけにとどまらない。「櫻木充は匂いフェチの本質をわきまえている」とか「女にハードエロは書けないという偏見を覆した藍川京」といった、作家の本質をズバリ言い当てており、官能小説ブックガイドとしても白眉。ホームのキオスクに並んでいるアンソロジーを手当たり次第に試す前に、まず本書で嗜好の傾向を押さえよう。ヒット率が高まること請合う。

 濃密で豊穣な日本語を、ご堪能あれ。

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客の言うことを信じたら、移行できないデータが出てきた――国際確認検査センター事件

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データ移行が厄介なのは、その遅効性にある。

知らない人は「旧システムのDBから抜いて、新システムにデータを移すだけでしょ?」なんて簡単に言う。だがそれは、酷い目に遭ったことがないから。

データ移行は、調べれば最初にすべて分かる、という仕事ではない。データをもらって調べて初めて、次に何を調べなければならないかが分かる。調査や検証を厚くしても、契約前の段階で、不確実性をすべて消すことができない。

だから、「できます」と約束したことが、できるかどうか、怪しくなってくる。そのころには、費用も納期も決まっている。おいそれとは動かせない。

悪くすると、システム切替の当日になって、新システムに反映できないことが判明する。明日からサービス開始なのに、移行テストで扱わなかった古い年代のデータや、移行リハーサル後に追加・更新されたデータなど、汚れていたり、データそのものが読めないなんてことがある。ざらにある。ざらにある。

なぜ、そんな不具合があったのか? 調べている猶予は無い。だから現場の人たちは、超人的なパワーと結束力で、なんとかしてしまう。ログや一時ファイルから読み取って補完したり、過去の蓄積データから錬成したりクレンジングしたり、とにかくサービス開始できるよう、「なんとか」する。

努力と根性でなんとかできてしまうと、その苦労は「無事に稼働しました」の一言に圧縮される。何が足りず、何を根拠に補い、どこを直したのか。作業の記録は残っても、判断の経緯までは残らない。振り返りでも、「あのときは大変だった」という思い出話になる。

まして、世間様にそのまま公言できる話でもない。「お客様からいただいたデータを、そのままでは使えなかったので、徹夜でつじつまを合わせました」とは、成功事例の壇上では口が裂けても言えやしない。

こうして、次のプロジェクトでも「データを移すだけでしょ?」が繰り返される。

もちろん、毎回なんとかなるわけではない。

これは、「なんとか」ならなかった現場である、国際確認検査センターのデータ移行の話だ。

しかも、移行当日よりもずっと以前に、問題が見えており、ユーザに説明していたにも関わらず、移行の遅効性が爆発した話だ。

■3行まとめ

3行でまとめる。

  • 「旧システムのDB構造の情報は全部出せる」というユーザを信じ、ベンダはDB構造を解析する工数を積まず、移行費の見積もりを180万円に抑えた
  • 契約後、「平成14年版」のDB構造情報が開示できないことが発覚。ベンダは「平成15年以前のデータ」は移行できないと説明し、ユーザは「全部必要」と主張
  • 契約は変わらず、「平成15年以前をデータ移行の対象外とする」と記載した文書が無いため、裁判所は「平成15年以前のデータ」も移行対象とし、ベンダの主張を退けた

なお、この「DB構造の情報」について、判例には具体的には示されていない。スキーマなのかER図なのか分からない。

分かっているのは、移行対象のデータは、各年度ごとにあることと、旧システムは、平成14年版と平成16年版があり、DB構造情報が違っていることだ。

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平成14年版のDB構造情報が分からないのに、全てのデータを移行せよ―――なんて、ベンダからすると無理な話に見える。これを、「裁判所は現場を分かっていない」と読むと、教訓を取り逃がすことになる。裁判所は、そこを理解した上で契約に戻っている。

「言った」「言わない」と空中戦になるとき、裁判所はどこを見るか?

ここからは私の理解だが、裁判所は「合意できていた時点」まで戻っているように読める。争っていないところ、直近で双方の意思が一致していた時点――すなわち契約の時点だ。おかしくなってくるのは、合意できていた時点より後なのだから。

■合意できていた時点=10月16日

本案件の場合、平成19年10月16日となる。

最初に結んだ契約の後、開発の追加や作業が増えたため、金額と納期を変更している(金額は1680万円から3045万円へ、納期は同年12月末頃から翌年2月末へ変更)。そして、この日は、契約変更とともに、重要なやり取りがされている。

まず、10月16日は、ベンダが旧システムのDB構造情報を受け取った日でもある。

ベンダも慎重に進めてはいた。

DB構造情報が必要であることは打合せの都度伝えていたし、9月には「10月中旬までに情報を取得できない場合には、移行を作業範囲から除外する」という提案までしている。この日に提示した資料にも、必要な情報の開示がない場合はデータ移行の一部は実施できないこともあり得る、という記載もあった。

ところが、この日にDB構造情報が提示された。なので、「移行を除外する」という説明をしなかったのだ。判決に残っている発言はこうだ。

「今日、(必要な情報を)いただきましたので、そこは説明を割愛させていただきます」

本当は、DB構造情報が不足していたのだが、もらったばかりのこの時点では分からない(まだ調べてないからね)。だから、この発言でベンダを責めるのは酷だろう。

また、ベンダは、移行作業を除外することで、費用を削減できるという提案をしている。過去データは、必要な分だけを手入力すれば、総額を抑えることができるという案だ。

だがユーザは、手入力はできない、過去のデータは全部必要だと伝えた。ベンダは「確かに、はい」と、過去データ全てが移行対象だということに合意した。

2日後の10月18日、ベンダは要件定義書を作成する。そこには、移行作業の対象外とするデータが4項目、書かれている。

  1. 法改正で新設された項目
  2. ユーザの管理対象外の項目
  3. 旧システムの仮保存機能で保存された項目
  4. システムで管理の対象外の項目

そして判決は、こう続ける「平成15年以前のデータについては何らの記載もない」。

■おかしくなるのは、11月に入ってから

もらった情報を解析したところ、データが不足していることが判明する。

「旧システム」と一言で丸めているが、実は、「平成14年版」と「平成16年版」の2種類が存在する。そして、もらったDB構造情報は「平成16年版」だけだった。これでは、平成15年以前のデータを移行できない。

ベンダはこう問い合わせる―――最大限努力はするが、実施不可能だった場合の対応を検討する必要がある。手入力での移行はできないか、書類としての保存はどうか、そもそも移行が必要な理由は何か。

ユーザはこう応える。

  • 平成15年分だけでも1,000件以上あるため、手入力は現実的ではない
  • 法令で過去15年間の保存が義務づけられている
  • 持ち帰り検討し、代表者に相談する

そしてどうなったかって?

判例には、「持ち帰り検討結果」が書かれていない。

そのまま、翌年のリリースに突入する。

  • 2月:ベンダは機器を設置し、ソフトウェア一式とマニュアル等を交付
  • 3月:移行作業中に旧システムの端末が停止。サーバを再起動したところデータ不整合が生じ、業務影響が発生し、ユーザは契約解除の意思表示をする

■裁判所の判断

「情報が出ないので移行の対象外」 vs 「全件と約束した以上は全件」という対立構造に、裁判所はどのような判断を下したのか。

裁判所の判断を箇条書きにすると、こうなる。

  • データの一部が移行されないと、要件定義書の「現行業務を変更することなく運用ができる」という目的に反する
  • ユーザは、法令により15年間の書類保存義務を負っており、1000件以上の手入力は現実的ではない旨を説明している
  • 要件定義書の移行の対象外4項目に、「平成15年以前のデータ」の記述が無い
  • ベンダは「必要な情報の提供を受けたと誤解していたとはいえ」、「確かに、はい」と了解している

ベンダは「平成14年版」のDB構造情報が必要だと言っていた。それが無いと、全部の移行はできないと、あれほど言っていた。ユーザは、持ち帰り検討すると言った。それはどうなったのか?

判例に書かれていないのが全てだろう。少なくとも、平成15年以前のデータを移行対象から外す合意が成立したとは認められていない。合意がなされていない以上、認められない約束となる。

判決を読んでいて息を呑むのは、あれほど口を酸っぱくしてきたベンダの説明が、判断部分でこの一言に圧縮されていることだ。

(ベンダの担当者が)旧システムのデータベース構造に関わる情報の開示がない場合、データ移行作業の実施は困難になる旨を繰り返し説明していることなどを考慮しても

「考慮しても」、それだけだ。

裁判所は、ベンダ担当の努力の量も、説明の回数も、実現可能性も、量っていない。契約はどうなっているか、どこまで合意されており、どこまでやったか、それだけを量っている。説明は事実であって、合意ではない。裁判所が探していたのは、合意のほうなのだ。

「平成14年版の構造情報がないなら、その部分は対象外だ」という見解は、技術者としては完全に正しい。事実が変われば、約束も変わる。

だが契約は、事実では動かない。合意でしか動かない。

契約した時点では、あり得ない約束ではなかった。構造情報がもらえる前提なら、全件移行はあり得る約束だった。あり得なくなったのは後からである。そして、後からあり得なくなったからといって、約束は消えない。

これが、移行の遅効性の本質だ。

ここからは想像だが、「持ち帰り検討します」のまま、返事がこないユーザに業を煮やし、自分で「なんとか」しようとしたのかもしれぬ。もらったDB構造情報から類推し、平成15年以前のデータも復元する方法を検討していた可能性もある(ただし、どこにも書いていないので、あくまで可能性の話だが……)。

そして、「なんとか」ならなかった。

■「後から分かった」ことを交渉の場に乗せる

ここから導ける教訓は何か?

移行が遅効性を持つということは、「後から分かること」が必ず出てくるということだ。「後から分かること」は、必ず、出てくる。これは、移行の失敗ではなく、移行という作業に付きまとう性質といってもいい。

この事件の9月から12月は、移行の遅効性そのものだった。「足りない」「なお足りない」「何が足りないか分かった」「それは手に入らない」―――4ヶ月かけて、分からないことを減らしていく作業だった。

問題は、この「後から分かった」ことを、どうやって交渉の場に持ち込むかだ。

ここで、似て非なる「後から追加された」と区別しておく必要がある。

  • 後から追加された
  • 後から分かった

この2つは、よく似ているが全く異なる。

「後から追加された」もの―――すなわち、契約後にユーザから出てきた新しい要望―――これは、まだ扱いやすい。少なくとも、交渉のテーブルには乗る。「これは追加要望ですね」から議論がスタートするからだ。金額と期間で揉めるにしても、揉める土俵はある。

だが、「後から分かった」ものは、こうはいかない。

「調べたところ、平成14年版の構造情報が無いと、移行できないことが分かりました」―――このような「後から分かった」報告に対するユーザの返事は、しばしばこうだ。

「それくらい、契約前に洗い出して見積もっておけよ」

予知能力者でもない限り、無理な相談だろう。

「後から分かった」という言い方は、ベンダ側の認識の変化に見える。ユーザは「私のせいじゃない」と思っている。だから、「そちらの調査不足(あるいは見積もり不足)でしょ」と突っぱねられる(たとえ契約前に「旧システムのDB構造情報は、全部出せる」と言っていたとしても!)。

さらに「後から分かった」という言い方は、ベンダ側の落ち度を告白しているように聞こえる。「調べたら、こうでした」は、ユーザに「調べ足りませんでした」と聞こえる。

「判明しました」「発覚しました」という言い方には、主語がない。言うほうは中立のつもりで使う。だが聞くほうは、主語を補って聞く。補われる主語は、たいていベンダである。

ユーザの後出し情報によって「後から分かった」にも関わらず、あたかもベンダのせいであるかのように見られる。ややもすると、議論の土俵にすら乗ってこない。これは、やりきれない。

だから、言い方を変える。「後から分かった」と言う前に、相手の要望や、後出し情報を置くのだ。

変更前:開示いただいたDB構造情報を調べたところ、「平成14年版」が無いため、全データの移行ができないことが判明しました。

変更後:ご要望として、全データの移行が必要だと伺っております。この実現のために「平成14年版」のDB構造情報が必要なのですが、開示いただいた中にありません。

要するに、「あなたの要望から派生した事実」という体(てい)で話を切り出す。変更前も変更後も、同じ事を言っているのだが、ユーザの印象は変わる。少なくとも「全データの移行」のために動かなければ、と動機付けが与えられる。

ユーザの立場からしても、入りやすい。見知らぬ「平成14年版」よりも、「全データの移行」という、自分の口から出たフレーズから始まる話のほうが、まだ受け入れやすい。「人は自分の言葉を裏切ることはできない」(チャルディーニ『影響力の武器』第3章)。この特性を大いに活かそう。

ここで初めて、ユーザが交渉のテーブルに着席する。手入力の移行や、書類での保存、そもそもなぜ移行が必要なのかを尋ねるのは、その後の話だ。

■交渉のテーブルでの「悪い問い」

では、交渉の場で何を質問するか?

まず、質問してはいけない問いがある。

「なぜ、平成14年版のDB構造情報が開示されないのですか?」
「なぜ、過去のデータの全てが必要なんですか?」
「なぜ、手入力だとダメなのですか?」

そもそも最初に、「全部出せる」と約束したのに、出せなくなった。移行に必要なことは何度も説明していた。なのに、なぜ出せない?そもそも昔のデータは必要なの?ベンダからすると至極もっともな問いだろう。しかし、これは尋ねてはいけない「悪い問い」だ。

これを聞くと、ユーザは嫌がる。というより、怒る。

なぜ、こんなことを知っているのか?かつて私が、相手を怒らせる、というかブチ切れさせたことがあるからだ(もっとも、私の場合は営業担当になるが)。

その営業担当は、「移行元データは、正しいものが全部ある」と勝手に判断し、移行元データの調査は不要だとして工数を積まなかった。ところが、移行作業中に、データの相当数が汚染されていたことが発覚する。

切羽詰まっていた私は、「なぜ、ちゃんとしたデータが出せない?」と会議の場で詰問したところ、相手も売り言葉に買い言葉で、「知らんがな、オマエがなんとかしろ!」とブチ切れて物別れとなる。

約束を破ったのは相手なのに、その理由を問うと、怒る。

その理由は2つある。

1つは、「なぜ」という矛先が相手に向いているから。

「なぜ」という聞き方は、理由を問うているようでいて、実は、非難が混じっている。特に、問題が発覚して責任の所在が争われている場面では、この聞き方は詰問に聞こえやすい。相手は、被告席に立たされたような気分になるだろう。

もう1つは、相手は答えを知らないから。

最初の時点では、全部だせると本気で思っていた。後になって分かったこと(移行の遅効性)。安易な判断だったかもしれないが、悪意はない。単に知らなかっただけだ。知らないことを問い詰められて、答えられる人間はいない。

そして、答えられないとき、人は答えられる唯一のことを言う。

「知らんがな、必要だから必要なのだ、なんとかしろ」

こっちに責任だけが降りかかってくる、この答えに着地させてはいけない。

では、どうすればよいか?

■主語を「相手の要望」にする

まず、「相手の要望」を主語にする。こんな風に。

「全データの移行が必要」だと伺っています。その実現のために、どのようにすればよいか、必要なものを整理させてください

人は、自分が最初に言ったことを守ろうとする。心理学では一貫性の法則と呼ぶが、現場ではもっと素朴なものになる。すなわち、一度「全データが必要」と言ったら、次の会議でも「全部必要」と言う。

だから、提案交渉は、相手の言葉である「全データの移行」から始める。

これを、ベンダ側の言葉―――例えば、「移行範囲の見直し」とか「対象データの絞り込み」で切り出すと、相手は、「全データの移行」が攻撃されたと身構える。

だが、相手が守るべき「全データの移行」を最初に持ってくることで、聞きやすくなる。そして、「なぜ」という詰問を「どのように」と置き換えることで、対決的な空気から、建設的な場にする。

相手の要望「全データの移行」は1ミリも動かさず、その目的に焦点を当てて、問い直す。その上で、その目的を「どのように実現するか」「実現にあたっての制約は何か」「時期など、動かせる要素があるか」を問う。

「『全データの移行が必要』なのは、法令で15年間の保存義務があるからと伺っております。根拠となる条文を一緒に確認できますか」

「『保存している』と言うために、何ができている必要がありますか?監査などで求められたときに出せればよいのか、一定の時間内に提示する必要があるのか、教えてください」

「新システムへの取り込みが完了するまで、旧システムで参照できれば業務は継続できますか?」

「過去データについて、日常的に検索するものと、照会があったときに取り出せればよいものを分けられますか?」

保存義務があることと、通常業務の中でシステム検索できることは、別だ。

判例のどこにも書いていないが、ひょっとすると、必要なものだけPDFでダウンロードできれば足りるのかもしれない。旧システムを参照専用として残せばよいのかもしれない。このヒアリングの中で、ひょっとすると「平成15年以前の過去データの扱い」が切り分けられるかもしれない。

結果的に、「なぜ、出せない?」から始まるディスカッションと同じ内容だと思うかもしれぬ。その通り、論理の流れは実質的に等しい。

だが、相手はロジックではなくパトスで動く人間だ。攻撃されていると感じたら、敵認定され、交渉は対決モードになるだろう。一方、「自分の要望」の実現に向けて、その「目的」に焦点を当てている限り、実質的に同じ問いをしていても、目的達成のための共同作業となるに違いない。

もちろん、「悪い問い」を「よい問い」に変えたからといって、このプロジェクトが助かったとは言えない。移行以外にも火種は抱えていたし、「平成14年版のDB構造情報」は、どんな聞き方をしても出てこなかったかもしれない。

それでも、交渉の入口は作れる。

「なぜ、出せないのですか」と問えば、相手は自分を守ろうとする。「ご要望を実現するために、必要なものを一緒に整理させてください」と切り出せば、参加してもらいやすくなる。人は、自分が出した言葉を守ろうとする。その心理に沿って、同じ問題に向き合う入口を作るのだ。

入口に立ってもらえれば、次の話ができる。何を守るべきなのか。方法は変えられるのか。どの制約なら動かせるか。費用や期間をどこまで調整できるのか。そして、誰が、いつまでに決めるのか。

「説明したのに、伝わらない」と嘆きたくなる場面はある。こちらは何度も説明している。資料も渡した。議事録にも残した。それでも相手が動かないと、もっと詳しく、もっと強く説明したくなる。

そんなとき、一度、問いを変えてみる。

「相手は、この説明を聞いて、何を判断すればよいのだろう?」

問題の説明を、相手が判断に参加できる問いに変える。相手の要望から始め、その目的を確かめ、選べる方法を一緒に考える。

よい問いだけで、プロジェクトを救えるとは限らない。だが、「そちらでなんとかしてくれ」と閉じられかけた話を、「では、どうするか」という協議へ進める入口にはなる。



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