人とAIが共に見出す意味の世界『記号創発システム論』

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AIに問いかけると、返事が返ってくる。このときAIは「意味」を理解しているのか?

ある人は、「それらしい回答を統計的にでっち上げているだけで、意味なんて分かっていない」という。またある人は、「統計的に近い意味を持つ言葉から生成しているから、意味を分かっていることと同じ振る舞いをしている」という。

この二人の間に横たわるのは、「意味とは何か?」という古くて新しい問いだ。これは単なるAI論ではなく、人がいかにして世界を理解しているかという、認知・言語・文化の根源的問題でもある。

この問題を正面から受け止め、どのような方向からアプローチすべきかを示した論文集が、『記号創発システム論』(谷口忠大編著、2024)だ。領域は、認知科学、AI、ロボティクス、言語学、現象学、意味論に及ぶ。

記号創発システムとは

一つ一つが広すぎ・デカすぎ・深すぎるため、「記号創発システム」というキーワードを羅針盤とする。

「記号」とは、固定的なラベルではなく、身体と環境、他者と社会、文化と歴史の間で立ち上がる動的なネットワークとしてとらえる。そして「意味」とはヒトの脳内に閉じたものではなく、行為との関係性の中で絶えず生成・循環され続けるシステムの中で成り立つという。

そしてAIがこの循環の中に「身体を持つ知性」として参加するなら、それはどのような共生社会となるか?といった問いにまで踏み込んでゆく。面白そうな章を並べると、こんな感じ。

  • 記号接地問題を超えるための構成論的アプローチ
  • 自由エネルギー原理と予測符号化からの認知発達ロボティクス
  • 主観的な経験から世界を学ぶエージェントが持つ世界モデル
  • 大規模言語モデルは言葉を理解しているかを分布意味論から考える
  • 言語が世界を予測するためにヒトが存在する集合的予測符号化仮説

どれを読んでも宝の山だが、どれも歯ごたえ抜群だ。だから、自分が気になる領域や問題をつまみ食いしつつ、それがAIとの共生社会にどのような位置で取り組まれているかを概観するのがいいかもしれぬ。

記号接地問題の終わり

私の場合は、長年アタマを煩わせていた記号接地問題の決着がついているのが面白かった。

記号接地問題とは、「AIはそれらしい回答を統計的にでっち上げているだけで、意味なんて分かっていない」という人が主張している問題だ。

  • 「りんごは赤い」といった形式的な記号システムだけでは、「意味」がどうして生まれるか説明できない
  • 記号を他の記号で定義し続けるだけでは、定義の連鎖が無限に続くだけで、何と結びついて初めて意味を持つのかという底が無い(接地していない:dictionary-go-round)
  • 例えば、AIに辞書を渡して「りんごは赤い」と教えた場合、上手に翻訳できたとしても、「赤」を見たこともないAIにその意味が分かるとはいえない(中国語の部屋)
  • 記号を意味あるものにするためには、「赤を見る」といった感覚運動的な経験が根底に必要

つまり、身体を持たず、感覚器官からの経験や運動からのフィードバックを得ていないならば、記号は「意味」になり得ないという主張だ(※1)。

これ、『言語の本質』(今井むつみ、2023)で最初に読んだときは「なるほどー」と思ったのだが、GPTに問うたところ、問題そのものの妥当性を疑うようになった。一種の偽問題のようにモヤモヤしていた。

それが、『記号創発システム論』では、この問題がキレイに片づけられていた。

2000年代ではロボットにカメラやセンサを取り付け、マルチモーダルな感覚からカテゴリを自分で作り、ラベリングするという実験が行われてきたという。

その成果として、「センサーを持つ主体が、世界を区別して、その区別に記号を貼る」ぐらいのことはできるようになったという(※2 記号接地問題は解けた、次に何やる?)。どうやら、今井むつみは、この論文をスルーしているように見える。

そういえば、先日の東京大学のシンポジウムで佐藤淳教授の「人外センシングAI」があった。通常の可視光や可聴域に加え、赤外線や超音波を認識するセンサーを搭載したAIに世界を学ばせる試みだ。人間以上の経験を積んだAIは、人間以上に「意味」に通じているといえるかもしれぬ。

記号接地問題から記号創発システム論へ

さらに、『記号創発システム論』では、記号を意味に接地させるという設定に疑義を投げかける。

記号を世界に貼り付けるモデルではなく、身体と社会の相互作用の中で意味が生成されていく循環モデルを扱う。「意味とは何か?」という問題を解くためには「記号-感覚」だけではなく、「記号-感覚-社会-文化」まで拡張しようとする。

  • 身体(感覚・運動)+時間構造化+社会(他者との共有経験)のアプローチから意味を「記号接地」させるロードマップ(※3)
  • 視角+言語データを元に正義や愛といった抽象概念をAIに階層化させる試み(※4)
  • 認知(個体レベルの内部モデル)と社会(他者との相互作用)を通して言語体系が構築されるフレームワーク仮説「集団予測符号化仮説」(※5)

「身体を持ち、世界とかかわりあい、フィードバックを得ながら学習する(目覚める)AI」って、ピクサー映画の『ウォーリー』(原題: WALL・E)や『ブレードランナー2049』の世界になる。

あるいは、「温かいテクノロジー」で紹介されるLovotのような、人と触れ合うことで関係性を築こうとするAIがある。Lovotが自身の経験をLLMに翻訳させることができるなら、「なぜ人と関わろうとするのか?」といった根源的な動機を語り始めるかもしれぬ(ある人は雑にそれを「愛」と呼ぶかもしれない)。

“delve into” が人口に膾炙する

AIと人間社会の相互作用で、象徴的な言葉が挙げられている。

著者がGPTを使って校正をしているうちに、「delve into(徹底的に調べる)」という表現が頻出していることに気づく。Googleトレンドから見ると、2023年3月にGPT-4へバージョンアップした後から世界的な規模で使用頻度が急上昇しているという。

この現象は偶然ではなく、GPTやLLMを通じて”delve into”という表現が生成され、多くの人がそれを模倣・再利用することを示唆しているという。言語は、人が利用することで成立し、変化していく社会システムだ。その言語体系に、LLMが発話主体として参加し始めたと考えると、ぞくぞくするほど楽しい(ゾクゾクと寒くなる人もいるかもしれない)。

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「AIは意味を理解しているのか」という問いを突き詰めると、人がいかにして世界と関わり、他者と通じ合い、社会や文化を構成しているのかを問うことになる。

『記号創発システム論』が示すのは、意味とは頭の中の表象ではなく、身体と社会のあいだを循環する運動そのものだということだ。既にAIはこの循環に混ざりつつある。その意味で、記号創発とはAIの問題ではなく、私たち自身の「世界とのつながり方」を再発見するプロセスともいえる。

これは読書猿さんのお薦めで手にした一冊。これから何度も読み返すスゴ本をご紹介いただき、ありがとうございます。

※1 The symbol grounding problem,Stevan Harnad,1990

※2 The symbol grounding problem has been solved, so what's next?,Luc Steels,2008

※3 A ROADMAP FOR EMBODIED AND SOCIAL GROUNDING IN LLMs,Sara Incao,et,2024

※4 :From Concrete to Abstract: A Multimodal Generative Approach to Abstract Concept Learning,Haodong Xie,et,2024

※5 :Dynamics of language and cognition based on collective predictive coding: Towards a new generation of symbol emergence in robotics(谷口忠大,2024)

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まじめにふまじめ『読むだけでグングン頭が良くなる下ネタ大全』

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まじめにふまじめ、知的で痴的な一冊。

歴史、医学、宗教、経済学、生物学、文学、テクノロジーなど、あらゆる学問分野から「下半身の知」を掘り下げる。知的好奇心と性的好奇心を同列に扱う。

性欲旺盛な高校男女が手にして、知的探求のあまり学問に目覚めるかもしれぬと思うとニヤニヤが止まらぬ。学校図書館に常備しておきたい。

変な場所で性行為:牛車から宇宙空間まで、カーセックスの1000年史

例えば、カーセックスの歴史。

日本初のカーセックスは平安時代にまで遡る。『和泉式部日記』に「車宿りの一夜」というのがあるそうな。「車宿り」とは牛車の駐車場。

人静まりてぞおはしまして、御車にたてまつりて、よろづのことをのたまはせ契

「みんなが寝静まってから駐車場に来て、牛車に乗って色々な話をしてからまぐわった」になる。昔も今も、クルマの中はプライベート空間になる。透過率が低いスモークフィルムだと車検NGだけれど、牛車なら御簾を下ろせば完全に見えなくなる。

『和泉式部日記』は1008年頃の作品なので、カーセックスの歴史は実に1000年を超える長いものになると考えると感慨深い。

ちなみに、「日本で最初にカーセックスをしたのは、初代内閣総理大臣の伊藤博文」という話があるそうだが、著者に言わせるとこれはガセ雑学だそうな。

変わった場所でのセックスといえば、MRI(磁気共鳴画像法)で撮影した性行為も紹介されている。

1999年、オランダの大学病院で実施され、8組のカップル+3名の女性で、合計13回の実験が行われてている。撮影結果は、エロマンガでおなじみの断面図となっている。

報告によると、興奮すると子宮が(下ではなく)上の方に移動するといった事象が観察されたという。これ信じるなら、「子宮が降りてくる」というのは誤りで、比喩的表現の一種なのかもしれぬ。また、「ペニスがブーメラン状に曲がりながらも挿入を続ける」という事象も報告されているが、いわゆる「中折れ」の前駆症状だろう。

だが、MRIの円筒形の内部は狭く凄まじい轟音が鳴り響く。情欲が湧き立つ環境からは程遠く、被験者の苦労がしのばれる。

他にも、Pornhubの「宇宙でセックスしよう」というクラウドファンディング企画(Sexploration)や、気球や飛行機で性行為する「マル・ハイ・クラブ」、皇居は青姦の聖地だったというネタが紹介されている。ちなみにPornhubのクラウドファンディングは目標額に届かず失敗したが、無重力空間でのセックスは、”The Uranus Experiment 2”で実現しているようだ [URL]

寝室とか屋内といったありきたりの場所に飽き足らず、チャレンジングなのは良いな……と一瞬思ったのだが、これは逆で、元々は時や場所にかまわずイタしていたオープンな性が、宗教だのモラルだの文化といった縛りでクローズドになってきたのが、今なのかもしれぬ。

くぱぁの世界史:女陰を見せることはタブーではなく祈り

「くぱぁ」とは、観音サマの開陳であり、御開帳であり、オープンリーチ一発ツモ満願であり、雌蕊を指で開くオノマトペである。

本書では、紀元前5世紀のヘロドトスが目撃したかもしれないくぱぁから、スペインのカタルーニャ地方に語り伝えられる「女陰を出すと海が鎮まる」伝説、ヴァギナを見せて悪魔を追い払うフランスの話、岩戸に隠れた天照大御神を引っ張り出すために御開帳した古事記の話などが紹介されている。

この、女性器を見せつけるヴァギナ・ディスプレイは、キャサリン・ブラックリッジ『ヴァギナ 女性器の文化史』のおさらいになる。概要は [書評(全年齢推奨)] をご覧いただくとして、ヴァギナの歴史は人類の歴史と重なる処が多い。


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例えば、言語学的に見て面白いのは、洋の東西でイメージが対照的なところ。

vaginaに代表される西洋語(ラテン系)では、剣の鞘(≒男性器を受け入れる器)を意味する。一方、インド・東南アジア圏では、生命の源といった意味がある(サンスクリット語のyoni:宇宙の源、日本語の「ほと」:火処)。あの場所を、入口として見るか、出口として見るかの違いなのかもしれぬ。

『下ネタ大全』は、そうした、古今東西のくぱぁの事例を解説しながら、女性器を見せつける文化は特殊でもなんでもなく、地球上あらゆる場所で独立に発生している素朴で自然な行為だという。

突拍子もなく感じてしまうのは、我々が近代化の過程で発達させた感覚にすぎず、むしろ女性器を見せつけない文化の方が珍しいとさえ言えるだろう。我々は極めて偏った価値観の中を生きている。

これ、まさにその通りなんだけど、令和よりも昭和の方が偏っているように思える。

というのも、昭和の時代では、出版界の規制により、陰毛や性器の露出は厳しく禁止されていた。当時のヌード写真では、陰部はボカシや黒塗りが普通だった。印刷時に加工できない輸入版のPLAYBOYやPENTHOUSEだと、コンパスの針で削ったかのような「消し」が入っていた。たとえ苦労して裏本や裏ビデオを手に入れても、モザイクが入っていないというだけで、あくまでボヤっとしていた。

昭和では、「見えないこと」が、逆に想像力と欲望を喚起した。「見ることはできないが、確かに存在する」ものとして、神聖視され、神秘的な存在だった。「なんとしてでも見たい」という強い思いは男を衝き動かし、恋愛や結婚へドライブする欲望となっていた。畏れと憧れを込め、「観音様」「御本尊」と呼んでいたのは、「ありがたい」「ひれ伏したい」「拝みたい」といった祈るような感覚がベースにあったからかもしれぬ。

平成は、この希少性が薄れてゆく時代だと考える。象徴的な例として、宮沢りえのヌード写真集『Santa Fe』がある。平成3年(1991)に発売された写真集で、当時18歳だった宮沢りえを篠山紀信が撮影したものだ。人気絶頂の宮沢の、ヘアヌード写真集だったということもあり、165万部という写真集の世界記録を達成した(Wikipediaより)。これがヘアヌード解禁のトリガーとなったことを記憶している。

令和では、お手元のスマホや、PCの大画面で、大量に手軽に鑑賞できる。内視鏡や胃カメラで撮影した内部映像のみならず、CT断面図、サーマルイメージングといった人の眼では不可視の領域まで暴かれている。あれほど見たいと希ったそれは、神秘性や希少性を剥ぎ取られた内臓になる。600年前に世阿弥が言った「秘すれば花」の重みは、時代を経るごとに増すばかりだ。

こういうネタ、[なぜスタバのセイレーンは股を広げているのか] を書いた骨しゃぶりさんが好きだろうと思ってたら、既に乗っかっててワロタ [くぱぁ彫刻]

他にも、こんな感じで、徹頭徹尾下ネタを延々と語り続ける。

  • 規制当局とのイタチゴッコとなる局部修正の歴史は、ミケランジェロの『最後の審判』に弟子が加筆した腰巻から始まる
  • 急性心筋梗塞に用いる血栓溶解剤「ウロキナーゼ」の原材料は女性のおしっこで、大量の尿を集めるために修道院の女性が選ばれた
  • アダムの「あばら骨」からイヴが作られたというが、肋骨の数は男女同一のため矛盾。むしろ陰茎骨を使ったのでヒトのペニスには骨が無い説
  • 2024年にFANZAが発表したビッグデータ分析によると、ここ5年間で急上昇した検索ワードは「乳首」

世界を下半身から眺めると、タブーや恥じらいに隠されてきた文化の構造が、驚くほどクリアに見えてくる。性とは、最も人間的で知的で痴的なテーマなのだ。



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AIを調べると人間社会が見えてくる? ―― 東京大学「AIと人文学」シンポジウムまとめ

東京大学のホームカミングデイの企画「AIと人文学」を聴講してきた。

  • フレームを超えるAI:黒澤明『天国と地獄』を俎上に、「垣間見」「漏れ聞こえ」といった人の所作から、フレーム問題を再定義する(阿部公彦 教授)
  • 知の外在化と向き合う:井筒俊彦が描く学者像から「開かれた専門馬鹿」になるための「驚き(タウマイゼン)」の提案(古田徹也 准教授)
  • 人外センシングAI:小説・映画・会話等を通じた間接体験を学習させた上で、超音波や赤外線など、人に無いセンシングを装備して感受性を育てる研究(佐藤淳 教授)

どれも興味深いものばかりで、2時間が一瞬だった。ツッコミというか質問欲がもりもり湧いてきたのは私だけではなく、質疑応答は15分では足りなかった。ゲーム実況みたいにコメントで質問受けながら実況形式にしたら、すごいコンテンツになるだろう(人はそれを講義と呼ぶ)。

中でも興味深かったのが、社会に内在する無意識的な観念を、生成AIを用いて可視化する試み「AI社会調査」(瀧川裕貴 准教授)だ。

これまで、社会学での調査は、社会を「外側」から観察する手法が中心だった。統計調査やインタビュー、アンケートなどを通じて、家族・学校・メディア・コミュニティ等から内面化された価値観や信念を、間接的に推定するしかなかった。

しかし近年、生成AIの発展によって状況が変わりつつある。

AIは膨大な言語データに基づいて応答を生成するため、その言語モデルには、社会に浸透している価値観や前提、ステレオタイプがそのまま埋め込まれている可能性がある。言い換えれば、AIに問いかけることで、社会がどのような信念やバイアスを内包しているのかを、半ば「鏡」に映し出された像のように、直接観察できるというわけだ。

もしAIの応答に偏りが見られるなら、それはAIに「偏りがある」からではなく、AIが学習したデータ、すなわち社会そのものに偏りがあることを示唆する。AIは単に、それを増幅し、明るみに引き出す役割を果たしているといえる。

生成AIを、社会に沈殿した価値体系を可視化する媒体(メディウム)とする研究だ。

いくつかの研究例が投影されたのだが、話に夢中になってちゃんと記録していなかったのが痛恨の極み(泣)。かろうじて残った走り書きからすると、これ(のはず)。

言語に埋め込まれたバイアス

Gender stereotypes are reflected in the distributional structure of 25 languages(Molly Lewis & Gary Lupyan, 2020) [URL]

これは、言葉にある暗黙のステレオタイプを調べる試みだ。英語、フランス語、スペイン語、日本語など25言語を対象として、その言語における単語どうしの統計的な関係を分析する。

英語の例だとこうなる。「近い」とは統計的によく一緒に出現しやすいという意味で、単語同士の共起関係と呼ぶ。

  • “nurse(看護師)” という単語は “woman(女性)” と近い
  • “engineer(技師)” という単語は “man(男性)” と近い

この共起関係から、その言語において、どんな職業や形容詞が、どちらの性に結びついているかを数値化する。

次に、約60万人の、心理実験データを使い、各言語の話者が「男性 ― 科学」「女性 ― 家庭」等の無意識的な連想を持っているかを測定する。

そして、各言語の統計的な性別のバイアスと、実験で導き出した人の心理的性別バイアスを比較したら、強い相関が見つかったというレポートだ。

「言語の中で統計的に意味が近ければ、実際にそういう想起をしがち」という、当然といえば当然のことなのだが、この社会的無意識を数値として見えるようにしたのは大きい。言語は単なる「表現手段」ではなく、心理的なジェンダーバイアスの再生産装置でもあることを、定量的に示した研究ともいえる。

そして、言語モデルを学習に用いている限り、言語の中の統計構造が、AIの思考パターンに反映される。「AIはバイアスまみれ」という指摘は耳にするが、私たちが用いている言語そのものに、何かしらの偏りがある(だからダメだとか、だから良いとか開き直るのではなく、数値として示せるのだから、どう補正するかの話になる。事実と価値判断は別なので、自然主義的誤謬の罠に陥らないように)。

政治的分断をシミュレートする

Can We Fix Social Media? Testing Prosocial Interventions using Generative Social Simulation(Maik Larooij & Petter Törnberg)2025 [URL]

これは、SNSそのものをAIの中に再現するという試みになる。

シミュレーション内では、twitterのように、各個人(=エージェント)が投稿・リツイート・フォローを行えるようになっている。これらのエージェントには大規模言語モデル(LLM)によって「人格(ペルソナ)」が与えられている。年齢・性別・教育水準・政治的傾向といった属性が設定され、エージェントはそれらに沿って「自分の意見」を形成し、発言し、リツイートし、フォローする。

この「AI社会」をしばらく放置しておくと、現実と同じような現象が自然に立ち上がってくる。例えば、

  • 似た者同士が集まって同じような発言が繰り返されるエコーチェンバー
  • 少数のエージェントに影響力が集中するインフルエンサー階層化
  • エコーチェンバーにより発言内容がより過激で攻撃的になる傾向

いつもの殺伐としたタイムラインが、そのままモデル内部で自己組織的に発生する。「そりゃそうだろうな」と思うかもしれないが、面白いのはここからだ。

シミュレーションである以上、途中で介入できる。例えば、

  • 過激化した発言者をネットワークから一時的に切断する
  • 一定期間、リツイートに制限をかけて拡散を防ぐ

現実に運営がやったら大炎上するような介入を、安全に実験として行える(数年前、奇妙な?TLが形成された時期があったが藪の中だし、今となっては検証しようがない)。介入した結果、全体の議論がどう変化するか、動的に観察することができる。

もちろん、実際のSNSとは異なるものの、「SNSはどこまで設計で制御できるのか」がテーマになる。SNSで起きている分断は、人の性格や属性だけではなく、アルゴリズムによって再生産(強化)される要素もある。完全な解消は難しいかもしれないが、一定の介入方法は模索できるというわけだ。

AIは「人の代わりに考える便利ツール」ではなく、人間社会が無意識に抱えていた前提や価値判断を映し出す「鏡」としても使えることを、改めて思い知らされた会だった。

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土木が好きになる22の物語『DISCOVER DOBOKU』

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高速道路の立体交差を見上げるときや、建築途中で剥き出しの構造物を眺めるときに、胸の奥で何かが滾る―――そんな経験がないだろうか。

実物でなくて画像でもいい。スーパーカミオカンデの静謐な空間や、首都圏外郭放水路の神殿じみた威容を見て、ぞっとするような畏怖と共に、一種の構造美を感じたことはないだろうか。

本書は、そんな人が築いた巨大構造物を愛でるための一冊だ。著者は東京都市大学(旧 武蔵工業大学)工学部教授で専門は鉄筋コンクリート・耐震設計で、ガチの土木オタクだ。

というのも、本書で紹介されている構造物の一部がこれなのだが、どのページを開いても、土木のロマンに溢れており、土木エンジニアへの尊敬で一杯だから。

例えば、表紙にもなっている首都圏外郭放水路。

洪水時に荒川の水を一時的に溜め、江戸川へと逃す地下施設だ。6.3キロにおよぶトンネル空間と、59本の巨大な柱列が立ち並ぶ、地下神殿のような放水路なのだが、「見えない」防災インフラになっている。

本書で知ったのだが、あの巨大空間は調圧水槽であり、そこへ至るために5つの巨大立杭がつながっているという。もちろん構造システムの全体は目で見ることはできないものの、人類の叡智を結集した地下建築の芸術といっていい。

あるいは、黒部ダム。

北アルプス3000m級の山に囲まれた地形で、もろくて崩れやすく地下水だらけの破砕帯を突破し、多くの犠牲者の上に作られた巨大ダムのカリスマだという。建築当時の写真も紹介されているが、(人は映っていないものの)難工事であることを伺い知ることができる。

黒部ダムは、水力発電や治水としての構造物だけでなく、「見せるインフラ」としての文化の始まりとしても有名だという。映画『黒部の太陽』でドキュメンタリードラマとして知られ、ダムそのものが観光地となったという。NHK紅白において、中島みゆきが黒部第四発電所で歌い、「リアル地上の星」としても話題になったという。

他にも、横浜ベイブリッジ、京極揚水発電所、東京湾アクアライン、瀬戸大橋、羽田空港D滑走路、高尾山インターチェンジ、ユーロトンネルなど、土木遺産という名に相応しい作品が、豊富な図版や画像と共に紹介されている。著者の早口オタクトークの熱気に当てられて、思わず知らず引き込まれてしまう。

すごいと思ったのは、アンダーパス。

道路や鉄道など既存の交通施設の直下に構築する地下道路や共同溝のことだという。道路や鉄道の直下に潜り込む地下立体交差は、「非開削工法」で施工するという(要するに、地面を掘り返さずに構造物を敷設する工法)。

交通量が多く、上下水道やガス・通信などのライフラインが密集している都市部では、工事のために止めるわけにいかない。あるいは、止めるにしても最低期間に留め、周囲への影響を最小限にするため、様々な工法があるという。

本書では、「東京外郭環状道路京成菅野駅アンダーパス」が紹介されている。京成菅野駅の真下に高速道路を通すのだが、完全にブッ飛んでて頭おかしい。

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日本建設連合会より引用 [引用元]

  1. 駅直下に6階建てのビルが入る空間を作り、そこに2階建て高速トンネルを作る
  2. 駅も鉄道も稼働中のままで、一本たりとも止めない、揺らさない、漏らさない
  3. 普通に掘ったら崩れるので、駅の地盤に薬剤を注入してガチガチに固める
  4. さらにシールド鉄板を差し込んで駅全体を固定する
  5. 総重量7000トンのコンクリの箱を作り、ピアノ線と油圧ジャッキの力で少しずつ押し込んでいく(押し込む空間も少しずつ掘っていく)

都市の血管の下を通す、外科手術のような土木工事なのだが、この作品、今では目にすることができない。車で通るだけの空間なのだが、土木の狂気的な美しさを感じる。

横浜や品川、渋谷でも駅の改良工事をずっとやっている。特に渋谷駅は、銀座線ホームの移設や通路の再構築で動線が複雑怪奇になっているが、考えてみると、あれだけの工事を、列車の運行を止めずにやっていることが驚異だ。

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新南口近辺からのJR渋谷駅(筆者撮影)

水が流れ、道路を通り、列車が走る。

私はこれを、当たり前のように思っている。

だが、その「当たり前」を支えるのが、土木技術という人類の叡智なのだ。『DISCOVER DOBOKU』は、構築ガイドというより、巨大建築に宿る人間の情熱と機能の美を描いた、土木賛歌の書といえる。



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未来予想ではなく、未来に介入するための科学『数理モデルはなぜ現実世界を語れないのか』

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「科学的に正しい」という言葉が揺らいだのは、2020年、世界がCOVID19のパンデミックに直面したときだと思う。「科学的に正しい」数理モデルに基づき、感染者数の推移と予想のグラフと「最悪のシナリオ」が毎日のように報道された後の話だ。

人々はグラフを見つめ、「科学」が未来を予測してくれると信じていた。

ところが、現実はモデル通りには進まなかった。

感染者数が想定を上回ると「『想定外』を言い訳にする専門家は間違っている」と非難が沸き上がり、予想よりも被害が軽いと「オオカミ少年が経済を殺す」と叩く連中もいた。「科学的に正しい」とはデータに基づき客観的な立場から判断したものだから、現実世界を最も合理的に説明できる―――そんな期待を裏切られたと感じた人もいたかもしれぬ。

その一方で、各国政府がとった施策や人々が自主的に取った行動が(吉凶に関わらず)何かしらの影響を与え、モデル通りの未来にはならなかったと考える人もいる。

『数理モデルはなぜ現実世界を語れないのか』を読むと、この混乱そのものが、数理モデルの本質を見誤った結果だということに気づかされる。

先回りして結論を述べるとこうだ。モデルとは、現実を映しだすカメラではなく、未来に介入するエンジンである。数理モデルは、未来を当てるためのものではなく、未来に備える道具として使うべし―――これが本書のメッセージになる。

モデルは現実を語れない?

本当に数理モデルは現実世界を語れないのだろうか?

この問いへは、「天気」と「気候」の事例が分かりやすい。

現代の天気予報は、数学でできているといっていい。

「天気」は、大気の運動の物理法則(流体力学・熱力学)を微分方程式で表現する。グリッド分割した区域ごとで変数(気圧・風速・温度等)を割り当て、隣接区域との相互作用を考慮しつつ、その方程式を解くことで数値的に表すことができる。複数のモデルや初期条件がある場合、ベイズ統計を用いることでモデルの不確実性を取り込んでいる。

明日の降水確率から台風の進路状況まで、かなり正確にできるのは、同じ条件で予想結果が高頻度で利用できるからだ。気象モデルは数十億ドルを節約し、多数の命を救っているといえる。

では、この数理モデル(群)を用いて、「気候」を予測できるか?

「気候」は、数日ではなく数十年~数世紀スケールで、より粗い空間スケールで、天候の平均的傾向や統計的分布をシミュレートする。初期値が少しズレるだけで予想が大きく外れる気象モデルを、そのまま用いることはできない。

さらに、気候モデルは未経験の未来を予測する必要があり、データの蓄積はほぼ無い。同じ条件の観測データは無いため、これまで測定したデータを元に推測するしかない。モデルが正しいかどうかは、翌日の天気ではなく、何十年も経たないと分からない。

気象モデルと気候モデルは、同じ数学的基盤を持っていたとしても、目的が異なり、予想する対象・範囲も大きく違う。

すなわち、「モデルは現実を語れない」というのではなく、「現実の一部を語れるモデルが存在する」というべきだろう。あるいは、「どの現実を語るのか」という目的に応じて、モデルを使い分ける必要がある。

モデルが語るのは現実そのものではなく、「どの現実を語るか」を選び取る私たちの価値観なのだ。

モデルは水晶玉ではない

めちゃくちゃ当たり前のことなのだが、私はこれを間違える。

数理モデルが登場すると、それは何かしらのデータセットやエビデンスに裏打ちされ、その分野の専門家によって「正しい」とお墨付きを得ているものだと確信する。「数式」なのだから、定量的なインプットがあれば、定量的なアウトプットが得られる―――そう考えてしまう。

だが、モデルとは、現実を映すカメラではなく、現実のある側面を切り取り、強調し、他を捨てた後、何かしらのロジックで組み立てた仮説に過ぎない。

だから、モデルが当てはまる現実もあれば、全く通用しない範囲もある。それはモデルが間違っているのではなく、スコープを越えているからだ。

テクノロジーの進展により、観測の精度が上がるほど、モデルと現実のズレは顕著になる。そんなデータセットが蓄積するたび、科学者たちはパラメータを調整し、定数を入れ替え、数理モデルを【精密化】する。

それでも辻褄が合わなくなると、新しい理論が生まれる。ミクロ経済学がそうだったし、素粒子物理学もそうやって誕生した。これらは、観測結果に即してそう取り決められた言明に過ぎぬという。

現在はうまくいっているということだけで「実用的」と言えるが、それが「真実」かというと違う。問題なのは、科学者が大事にするモデルこそが真実であり、全てを説明できると信じ込んでしまう点にある。

最近では、超ひも理論で全てが説明できると豪語するブライアン・グリーンのような人は減ったが、こうした素朴なモデル信奉者はたまに見かける(経済学と物理学に多いような気がする)。

モデルの歪みに気づく

モデルのスコープに気づくだけでなく、モデルが形成される際の歪みにも注意を払いたい。

数式で表されるため、数理モデルはロジカルで合理的に見える。だが、そのモデルの作り手の関心や価値判断、作り手自身が学んできた前提が含まれている。

モデルは、ある主張を伝えるための論理装置であり、世界をどう見るかという視点を押し付けるのだから。

本書では、私たちが目にするモデルは、大なり小なりWEIRDのバイアスに影響を受けているという。

 Western:西洋の
 Educated:教育のある
 Industrial:工業化された
 Rich:裕福な
 Democratic:民主主義の

例えば、感染症が経済に及ぼす影響をモデル化する事例が紹介されている。モデルの作成者は、ウイルス性疾患にかかりやすい高齢者という立場は容易に想像できる一方で、低収入で不安定なパートタイムの仕事をしながら幼児を育てるシングルマザーという立場は、なかなか想像できないという。結果、出来上がるモデルは前者を優先したものになる。

本書では、疫学や経済学におけるバイアスに焦点を当てているが、私は、自然科学におけるキリスト教のバイアスを追記したい。

「神に選ばれ、救世主が誕生した特別な場所」でなければならない地球は、かつて宇宙の中心とされた。もちろん現代で天動説を信じる人はいない。だが、ごく近年まで系外惑星が見つけられなかったことから、太陽系や地球をあるべきモデルとするバイアスがあると考える[『系外惑星と太陽系』]

さらに、地球外生命が存在するこれだけの証拠を前に、「地球こそ生命誕生の地」と強弁するニック・レーンのような 人がいるのは、生命誕生のモデルを(神に選ばれた)地球に限定する思考に偏っているからだ。WEIRD バイアスにChristian(キリスト教徒の)を加えたい。
[『生命の起源はどこまでわかったか』]

科学の世界観そのものも、無色透明ではない。重力定数も光速も「測れる」と信じるその信念自体が、特定の文化的・宗教的価値体系の上に築かれていると言えるだろう。

バイアスが悪と言いたいのではない。人である限り、あらゆるバイアスから完全に自由になることは不可能だ。これはAIが作成したモデルについても言えると本書は指摘する。その「設計者」やデータセットを用意した「人」がいる限り、必ず歪みが生じる。重要なのは、そのバイアスに意識的になることだという。

全てのモデルは間違っているが、それでも役に立つ

モデルは限られた現実しか語れず、バイアスを意識する必要がある。統計学の格言「全てのモデルは間違っている」を真に受けるなら、モデルは使い物にならないのでは?

だが、それでもモデルは役に立つ。

地図をめぐる寓話を紹介しよう。

ある探検隊がアルプス山脈で吹雪に襲われた。道に迷い、雪崩に遭い、大半の装備を失ってしまう。死傷者はなかったものの、一行は死を覚悟する。そのとき、一人がポケットに地図が入っていたことに気づく。一行は冷静に地図を確認し、残された装備でキャンプを張り、なんとか生還する。そこで気づくのだが、その地図はなんとピレネー山脈の地図だったのだ。

「無いよりマシ」という教訓が得られるが、ことモデルにおいては【それでも役に立つ】と言える。

それは、モデルを用いて意思決定をする場合だ。リスクと不確実性を踏まえた上で、それでも何かしらの手を打つ必要があるとき、モデルは説得の道具となり、議論を闘わせる手段となる。

マスクを付けるべきか、ワクチンを打つべきか、どんな人が家にこもっているべきか、どこの国がどの程度CO2の排出を制限すべきか……こうした疑問を考えるとき、モデルは科学だけの問題では無いことがよく分かる。

対策する/しないとコストとの間のトレードオフ、どの対策がどの程度の効果が得られるかと副作用、どの程度の損失なら許容できるのか等を検討するとき、モデルは確かに役に立つ。ピレネーであれアルプスであれ、基準とする観点や思考を誘導する立脚点となる。

モデルは物語として現実を動かす

モデルは現実と離れているかもしれぬ。

それでも、モデルを生み出すプロセスは、状況を合理的に説明させようと促す。不確実であったとしても、それでもなお行動を起こさせようとする。これを、コンビクション・ナラティブ(確信を持たせる物語)という。

非常に悪い結果になる可能性があり、しかもその事態は回避可能だったことが、後になって判明する―――意思決定者にとって、これは最も避けたいパターンだ。そんなことになるより、過剰反応だったと思われる方がマシだ。

西暦2000年問題(Y2K)を覚えているだろうか?

メモリやディスクを節約するため、昔のプログラムは年を下2桁で表していた。1998年は「98」で、2000年は「00」だった。そのため、2000年1月1日になると、「00」が1900年となり、期限やログ、日付計算など、年を扱うあらゆる処理で誤動作が起き、大混乱になると懸念されていた(「飛行機が墜落する」とまで警告してた記事もあった)。

これを回避するため、1990年代後半に大規模なソフトウェア改修やデータパッチが行われた。古いソースコードを解析するため、リタイアしたエンジニアまで狩り出されたこともあった。

結果的に大きなトラブルにはならなかった。2000年生まれの赤ちゃんが100歳として登録されるような軽微な誤作動や誤表示に留まった。あれほど騒がれていた「世界が止まる」ようなことにはならなかった。

これは、モデルの予想が外れた過剰反応だったのだろうか?

そうではない、と本書は主張する。モデルの予想が外れたとしても、それは失敗ではない。最悪のシナリオを回避するために行動を促したからだ。検証しようがないが、それでも対策した結果が今の世界線だといえる。

同じことは、ロックダウンをした結果の世界線が今だろうし、京都議定書が形骸化した今を、私たちは生きていると言えるだろう。モデルは現実のリスクを「予言」ではなく「物語」として動かす。その意味で、モデルは現実に介入するエンジンになる。

モデルとは未来を予言するためのものではなく、未来を引き受けるために必要不可欠なのだ。

これは読書猿さんのお薦めで手にした一冊。アイゼンハワー大統領「計画は役に立たないが、計画を立てることは絶対に必要だ」を捩るなら「モデルは役立たないけれど、モデルを作ることは絶対に必要だ」と言える。素晴らしい本に出会えてよかった、ありがとうございます!

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「なぜ?」を「いつ?」にすると上手くいく『「なぜ」と聞かない質問術』

 「なぜ遅刻が多いの?」
 「どうしてミスしたの?」
 「できない理由は?」

職場や家庭で話をするとき、理由を聞きたくなる瞬間がある。問題解決のため、原因や課題を洗い出すための定番だ。

だが、『「なぜ」と聞かない質問術』は、この「なぜ」を使うなと説く。質問を「なぜ?」から始めると、事実の誤認や関係性がねじれ、議論が空中戦になり、コミュニケーションが上手くいかないからだという。

なぜ、「なぜ」を使ってはいけないのか?

「なぜ」は理由を聞いているようでいて、相手を問い詰め、言い訳を強要することになるからだという。例えばこう。

 花子「なぜ遅刻が多いの?」
 太郎「朝ギリギリで、電車に間に合わないことがあるので」
 花子「じゃあ、余裕をもって起きてください」
 太郎「はい……スミマセン」

質問者は純粋に知りたいだけかもしれないけれど、問われている方は責められているように感じている。ここから得られる解決策も、問題の裏返し(遅刻する←→早く起きる)になる。

「なぜ質問」は、原因や理由を聞いているようでいて、実は「(あなたは)なぜだと思う?」と聞いている。しかし、人である以上、とっさに理由や原因が出てくるはずがない。ましてや自分でも良くないと思っていることについて問われると、詰められているように受け取るだろう。

そこで出てくる「理由」は、思いつきレベルのものであり、事実に基づいた問題の把握や分析には程遠いものになる。こうしたやり取りは、どれだけ積み重ねても期待した解決には結びつかないという。

では、どうすればよいか?

本書では、「なぜ?」と聞きたくなったら「いつ?」に置き換えて聞けという。

 花子「いつから遅刻が多くなったの?」
 太郎「先月くらいからですかね」
 花子「その前は?」
 太郎「ほとんどなかったはず」
 花子「先月と今月の違いは何だろう?」
 太郎「あ!ダイヤ改正して乗り継ぎが上手くいかないからだ。一本早く乗ります」

他にも、「今月から残業が多くなり、十分な睡眠時間が取れない」とか「今月は飲み会が増えて朝起きれなくなった」といった理由もあるかもしれない。いずれにせよ、「なぜ」から始めた場合、本当の原因にはたどり着かない。

「なぜ」と聞いた時に出てくるのは、理由ではなく、「回答者が理由だと思い込んでいること」や「理由に見せかけた自己防衛のための言い訳」だという。

これを回避するためには、「なぜ質問」ではなく「事実質問」をせよという。

事実質問とは、「答えが1つに絞られる質問」と定義している。迷ったり考えたりしなくても、素直にシンプルに答えることができる質問になる。事実質問は、以下の特徴がある。

  • 「なぜ?」「どう?」を使わない
  • 「いつ」「どこ」「誰」「どれくらい」を使うか、「はい/いいえ」で答えられる
  • 過去形・現在進行形
  • 主語が特定されている

具体的には、以下のような言い換えをすることを推奨する。事実質問に言い換えることで、返ってきた答えに対し、さらに話を深掘りすることができる。

元の質問 言い換え後
なぜ遅刻したの? 今日はいつ家を出たの?
会議、どうだった? 会議は何時間ぐらいだった?
みんな、ふだん運動してますか? あなたが最後に運動したのはいつだった?

推論の梯子

これ、推論の梯子をやり直すときに有効だ。

推論の梯子とは、認識の前提を見直すためのメタファーだ(読書猿『問題解決大全』で知った)。

私たちは、何かを認識したり行動するとき、推論の梯子の上にいるという。

  • 行動:私は確信に基づいて行動する
  • 確信:私の結論は事実だ
  • 結論:私は結論を引き出す
  • 推論:私は自分が付け加えた意味に基づいて推論する
  • 意味:私は(文化的・個人的な)意味を付け加える
  • 選択:私は観察しているものから事実を選ぶ
  • 事実:(ビデオに記録できるような)観察可能な事実や経験

ベースとなっているものは「事実」であっても、そこから何を選び、そこに意味を汲み取り、推論し、結論を見出し、行動するかは段階を踏んで行っている。本当はこのような段階を踏んでいるにもかかわらず、順番をすっ飛ばしたり無視すると、認識の違いが起きる。

自分の認知を再検討したり、相手との認識の相違を確認する際、この梯子を下りてゆくことで、どこからズレが起きているかを明らかにすることができる。

そして、一番下の事実である「遅刻が多い」からスタートして梯子を上るとき、「なぜ?」を持ってくると、認識が歪む可能性が高くなる。以下は、事実からの選択に「なぜ?」と問いかけた失敗例だ。

  • 事実:太郎は遅刻が多い
  • 選択:「なぜ?」という質問に、太郎は「ギリギリまで寝ている」と答えた
  • 意味:花子は「ギリギリまで寝ている太郎は怠惰だ」という意味を加える
  • 推論:花子は「太郎は怠惰だ」という意味に基づいてさらに問う
  • 結論:花子は「太郎は怠惰だ」という結論を引き出す
  • 確信:花子は太郎を怠惰だと確信する
  • 行動:花子は太郎に「余裕をもって起きろ」と指示する

問題解決のための理由を考えるのは、推論の梯子の上の「意味」「推論」の段階だろう。だが、選択の段階で「なぜ?」と問うてしまっため、検討すべき事実に基づかないまま、推論が進んでしまう。

一方、「選択」の段階で、「いつから?」「その前は?」を問うことで、太郎に事実を思い出してもらうことができる。太郎に理由を考えてもらうのではなく、事実を思い出してもらうために、問い方を変える。

「なぜ?」を「いつ?」に変えるだけで、一緒になって事実を見直し、原因を探る建設的な会話になるのだ。

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(ネタバレ全開)ナボコフ『ロリータ』に耳まで浸かる読書会

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ロリータいいよロリータ。いくら読んでも楽しさが尽きぬ。そして、どんなに読んでも「読んだ」気にならぬ。

先日、ロリータ読書会に参加したので、再読の楽しみが倍増した。ここでは、読書会で教わったネタも交えつつ、再々々読に向けたメモをまとめる。

むかし、「変態男の少女愛」だけで思考停止していた俺、もったいない。ストーリーの表層をなぞって満足するのは初読時だけで、面白くなるのは再読から。面白さは細部に宿るし、その細部を追っていった目を上げた瞬間に広がる全体にも宿っている。

これは、小説読みが好きなあらゆる要素が詰まっている。

ぱっと思いつくだけでも、宙吊り、オマージュ、信頼できない語り手、どんでん返し、多声性、異化、ミステリー性、寓意、内的独白、間テクスト性、エピファニー、デウスエクスマキナ、アポリア、アイロニー、自由間接話法、、視点変更、メタフィクション、入れ子構造、非線形叙述、ギャグ、カタルシス、不気味の谷、オノマトペ、パロディ、パスティーシュ、言葉遊び……たぶん、「『ロリータ』に出てくる小説技巧」で、世の中の小説の技巧はほぼ網羅できるかも(足すならマジックリアリズムぐらい)。

どこをどんなに読んでも、必ず宝が詰まっている。それに気づくか、気づかないかだけ。

もちろん上辺の筋を追うだけでもいい。「起きたこと」を並べるだけならこうなる。

年月 場所 出来事 H.H. Lo
1910 パリ ハンバート・ハンバート誕生    
1923夏 パリ ハンバート、アナベルと出会う 13    
1923冬 コルフ島(ギリシャ) アナベル、発疹チフスで死亡 13    
1911 オーシャン・シティ クィルティ誕生 14    
1935-01-01 ピスキー (ミッドウェスト) ドロレス(ロリータ)誕生 25 0  
1935-04 パリ ハンバート、娼婦モニークから「本物の快楽」を得る 25 0 1-6
1935 パリ ハンバート、ヴァレリアと結婚する 25 0 1-8
1939夏 パリ ハンバートの伯父死亡、遺産相続の話 29 4 1-8
1939夏 パリ ヴァレリアの浮気、離婚 29 4 1-8
1940春 ニューヨーク ハンバート、合衆国に到着 30 5 1-9
1943-44 ニューヨーク ハンバート、神経衰弱で入院 33 8 1-9
1945 ラムズデール ヘイズ一家がピスキーから転居 35 10  
1947-05 ラムズデール ハンバート、ヘイズ家に下宿開始 37 12  
1947-06-26 キャンプQ ドロレスが夏のキャンプへ出発 37 12  
1947-06末 ラムズデール ハンバート、シャーロットと結婚 37 12  
1947-07末 チャンピオン湖 ドロレス、処女喪失 37 12  
1947-08-05 ラムズデール シャーロット、ハンバートの秘密を知る 37 12  
1947-08-06 ラムズデール シャーロット、交通事故で死亡 37 12  
1947-08-14〜15 ラムズデール ハンバート、ドロレスを迎えに行き、Trip One開始 37 12  
1947-08-15 ブライスランド 最初の宿泊 37 12  
1947-08-16 レッピングヴィル ハンバート、シャーロットの死をドロレスに告げる 37 12  
1947-09 ソーダ(ミズーリ) 中西部を通過 37 12  
1947-09 スノウ (ワイオミング) ハイプレーンズ地域を通過 37 12  
1947-10 チャンピオン(コロラド) チャンピオンホテルに滞在 37 12  
1947-11 カスビーム(アリゾナ) チェスターナットに滞在、クィルティ尾行 37 12  
1948-04 エルフィンストーン ドロレスが体調を崩す 38 13  
1948-08 ビアズレー(オハイオ) 旅を終え、定住開始ドロレスが学校に通う 38 13  
1948-12 ビアズレー(オハイオ) ハンバート、プラット校長と面談 38 13 2-11
1949-5 ビアズレー(オハイオ) ドロレス、「特別なリハーサル」に参加 39 14 2-12
1949-05-29 ビアズレー(オハイオ) Trip Two開始 39 14 2-14
1949-06上旬 チェスターナット・コート ドロレス、クィルティと密会 39 14 2-16
1949-06下旬 チャンピオン チャンピオンホテルでテニス 39 14 2-20
1949-06-27 エルフィンストーン ドロレスが体調悪化、入院 39 14 2-22
1949-07-05 エルフィンストーン ドロレスが病院を去り、ハンバートと別れる 39 14 2-23
1950 ケベック(カナダ) ハンバート、リタと関係を持つ 40 15 2-26
1951-09〜1952-06 カントリップカレッジ  ハンバート、教職に就く 41 16  
1952-09-22 コールモント (ワシントン) ドロレスからの手紙:結婚と妊娠の知らせ 42 17 2-27
1952-09下旬 コールモント付近 → 旅路 ハンバート、手紙を受け取る 42 17  
1952-09末 コールモント ハンバート、ロリータと再会 42 17 2-27
1952-09末 クィルティ邸 ハンバート、クィルティを銃撃・殺害 42 17  
1952-09末 (未詳) ハンバート逮捕後、獄中で回想録(『ロリータ』)を執筆 42 17  
1952-11-16 (獄中) ハンバート死亡(心臓疾患) 42 17  
1952-12-25 グレイ湖付近 ドロレス死去(難産のため) 42 17  

人は書物を読めない、ただ再読するだけ

表の最後を見てほしい。ドロレスは難産で死ぬ。享年17歳。

ん?作中でドロレスが死ぬシーンなんてあった?

ハンバートがドロレスと再会する場面(2-27)で、いつか一緒に暮らす提案を拒絶されたとき、自動拳銃を取り出したり、「あなたが本書を読んでいる頃には彼女はもう死んでいて」なんて物騒な記述はあるにはあった。だが、拳銃が使用されるのはクィルティに向けてであり、ドロレスではない。一体いつ、ドロレスが死んだことになったのか?

この謎、初読時には絶対に分からない。なので、最初のページに戻ってほしい。冒頭の「序」だ。ジョン・レイ博士なる人が、この小説の由来を述べている。正式なタイトルは『ロリータ、あるいは妻に先立たれた白人男性の告白録』であるとか、プライバシーのため登場人物は変名だとか、作者のハンバート・ハンバートは初公判の前に他界していることが書いてある。

「リチャード・F・スキラー」夫人は1952年のクリスマスの日に、北西部最果ての入植地であるグレイ・スターで、出産中に亡くなり、生まれた女児も死亡していた。

一度でも読んだ人なら、リチャード・F・スキラーが誰であるのかは明白だ。だが、一回読んだだけでは、彼女の運命がどうなったのかは分からない。この小説は、そういう風に書いてある。他の登場人物がどうなったかは「序」に全部書いてある。そこには「読者」も含まれる。初読時に受けたときの衝撃や感情も記されている(自分のことが書かれていると気づいて、慄く読者もいるかもしれぬ)。

再読することで、初めて見えてくる世界がある。この小説は、そういう風に書いてあるのだ。これ、ナボコフが「小説を読むこと」について述べていることと一致する。『ナボコフの文学講義』のここだ。

ひとは書物を読むことはできない。ただ再読することができるだけだ。
(『ナボコフの文学講義 上』ナボコフ、河出文庫、p.57)

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この一行だけ切り取られていることが多いが、その真意は直後に明かされている。本を読むということは、一行一行、一頁一頁、目を追って動かす作業そのものだ。「その書物に何が書かれているのか」を知る過程そのものに、時間的・空間的なハードルがある。絵画の鑑賞のように、絵をパッと見た後、細部を楽しむ―――そういう風に書物はできていないし、私たちの肉体もできていない。

だから、再読、再々読を繰り返すことでしかないというのだ。再読を繰り返すことで、初めて作品全体と向き合いながら細部にも目を行き渡らせることができる―――これを実践したのが『ロリータ』になる

Qについて

再読を誘う仕掛けはいくらでもある。読書会で知った最大の成果は「Q」だ。

ドロレスを唆し、ハンバートから引き離したクィルティ(Quilty)。「唆した」のかどうかは、ツッコミたくなるが、彼はあちこちに、本当にあっちこっちに登場している。

劇作家の名前として初登場(1-8)するだけでなく、近所の歯医者、彼の戯曲名「魅惑の狩人(The Enchanted Hunters)」はそのままハンバートとドロレスの「初宿泊」のホテル名(1-25)、ドロレスがサマーキャンプに出かけるのは「キャンプQ」であり(1-25)、ドロレスを連れ去って移動しながら宿泊するモーテルの宿帳に記すのは「Q」である(2-24)

そもそも、ハンバートが教養をひけらかすために要所要所でフランス語を使っているのだが、フランス語でWhatにあたる「Que」が登場する(1-8、2-2、2-6、2-14等多数)。ハンバート自身が無自覚にQを使って手がかりを残していると考えると面白い。

そして、queは英語だと「手がかり」「合図」になる。「Q」は見失ったロリータを探す手がかりでもあるし、ストーリーにきっかけを与え、展開を促す合図でもあるのだ。英語で「Q」で始まる言葉は少ない。そんな言葉を、イメージや暗示、連想を紡ぎつつ、ハンバートだけでなく読者が読み解く手がかりとしても残していく。その響きから、読み手はQで始まる重要な単語―――Question―――を思いつくかもしれぬ。

あるいはQuest(ニンフェットの探索、1-12)、Queen(ドロレス、2-6)にも結びつく。原文で読むとき、「Q」を探しながらだとより捗るだろう。

チェホフの銃の向き先

これは初読時の衝撃だが、チェホフの銃が効果的に使われている。

チェホフの銃とは、「物語の冒頭で銃が壁に掛かっているなら、最後には発砲されなければならない」というルールのことだ。登場させる小道具には何かしらの意味があり、無意味な小道具を出すなという約束事になる(こと銃のような物騒なものは特に)。

『ロリータ』におけるチェホフの銃は、元々はドロレスの実父のものだった。それをシャーロットが譲り受けて(2-17)、最終的にはハンバートが手に入れる。32口径、8連装の自動拳銃だ。

当然、この銃はクライマックスで使われるのだろうな……ということは想像できる。

では誰に向けて?

初読時、私が引っ掛かっていたのは、ドロレスの呼び方だ。ハンバートは彼女のことを、ロリータ、ロー、ローラ、ドリーと呼んでいた(これらはドロレスから派生した呼び名)。あるいはニンフェットとも呼んでいた(これは9~14歳までの女の子で、その2倍以上の年上の魅せられた旅人に対してのみ発動するニンフ/nymphic、1-5)。

この他に、カルメン(カルメンシータ)とも呼んでいた。

最初はドロレスのお気に入りの曲「小さなカルメン」からだが(1-11)、心の中だけでの呼びかけだったのが、実際にドロレスに向かって「カルメン」と呼ぶようになっていた(2-2)。

そして、カルメンといえばメリメの悲劇だろう。平凡な兵士ドン・ホセが、ジプシー女カルメンと出会い、恋に落ち、破局していく物語だ。妖艶で奔放なカルメンは、自由を愛し、社会の規範に抗おうとする一方、ドン・ホセは彼女に執着するあまり脱走し、彼女と一緒になろうとする。

束縛しようとするドン・ホセに対して、彼女の心は離れてゆき、闘牛士エスカミーリョを愛するようになる。彼女のことが忘れられず、ドン・ホセは復縁を迫るものの、自由を失うくらいなら死を選ぶと言い放つカルメン。逆上したドン・ホセは、持っていた短刀で刺し殺してしまう……というストーリーだ。

なので、メリメの悲劇を踏襲して、ハンバートはドロレスを撃ち殺すのだろう、と考えていた。

自由を愛するドロレスと、執着するハンバートは、まんまカルメンとドン・ホセになる。

しかし、チェホフの銃の向き先は、闘牛士エスカミーリョになる。

これには二重の意味で驚いた。ハンバートがドロレスではなくクィルティを撃ったことだけでなく、「ドロレスを撃つだろう」という私の(読者の)予想を巧みに出し抜いたことにも驚いた。ドロレスを「カルメン」と呼んだのはハンバートだが、ハンバートがクィルティに向けて銃を撃たせたのはナボコフだ。

その意味で、ハンバートとナボコフが結託して私を騙したことになる。古典的な作劇テーマを借用しながらも、その予想を出し抜くアイロニー。これは初めて読むときしか味わえない初読者の叫びなり。

『ロリータ』攻略本

引っ掛かるところには全てネタがあると思っていい。そして、ネタは調べるほど宝になるし、宝に注釈をつけると、本文より膨大になるだろう(それこそ『青白い炎』ぐらいに!)。

読書会で教えてもらったのだが、研究者による注釈本があるとのこと。ポー、プルースト、シェイクスピア、ドン・キホーテ等の文学的引用の典拠、言葉遊びや語呂合わせの読み解きがなされている。

ハンバートはもちろん信頼できない語り手だが、それでも信頼するならば、その境界はどこになるか?といった線引きをしている。また、序文・裁判調書・手記といった物語構造のメタ化や、銃、蝶、色彩、地名など、作品に登場するアイテムやモチーフ、文化的背景を解説している。いわばロリータ攻略本なのだろう。

N/A

答えは一つと限らないが、一つの答え合わせとして読むといいかもしれぬ。

翻訳の妙・注釈の妙

翻訳者の若島正がすごい。

引っ掛かるところは原文と突き合わせながら読んだのだが、何度も何度も唸らされた。読み手が知っている情報量を玩味した意訳が超絶技巧なり。

生きた肉鞘(p.46):原文では「animated merkin(1-8)」。merkinは女性用のカツラ(ただし陰毛のカツラ。剃毛してパイパンになった娼婦が生えているフリをするために使う)。現代なら「生オナホ」だけど、これを「肉鞘」と訳すのが凄い。シャーロットの人権とは?

我が情熱の笏杖(p.27):原文「the scepter of my passion(1-4)」まんまだけど、「彼女(アナベル)の不器用な手の中に握らせた」の訳が好き。原文だと彼女が握って拳(fist)になるイメージだけど、アナベルも初体験なので、不器用さが滲み出てる。

クィルティ殺しを悔いている(p.57):原文だと「Guilty of killing Quilty(1-8)」で、ギルティ、キリング、クィルティと子音の韻を踏んでいる。これを、クィルティ、殺し、悔いていると韻を踏みながら日本語にしている。さらに、クィルティのアナグラムが「悔いている」になっている(天才かよ!)。ここ絶対、ニヤニヤしながら翻訳してたはずwww

我が恋人よ、紫の上よ(p.392):原文だと「my darling, my own ultraviolet darling(2-18)」で、紫(violet)には「高貴」というニュアンスがあり、それを超えた(ultra)ものとして、ハンバートがドロレスに呼びかけている。これを源氏物語に引き寄せて紫の上と訳したのがスゲェ(もちろんロリコン光源氏に見染められた若紫のこと)。

片方の靴下(p.17):靴下を片方だけ履くロリータ。注釈で若島は、「もう片方がどこにあるか探せ」と出題してくる。ちなみに答えはp.69(1-10)で床に白い靴下が片方、落ちている。

こんな風に、延々と(永遠と)読める。いわゆる顕微鏡的な読みをしても、十分耐えられるほどの強靭さを、この小説は持っている。

さらなる読み解き

ハンバート・ハンバートは、明らかに嘘だと分かることを重ねている。

読み手(陪審員もしくは小説の読者)にもすぐにバレるような、辻褄の合わない嘘のつき方だ。例えば、ホテル「魅惑の狩人」での最初の夜、ドロレスから誘ったかのような書きっぷりになっている(1-29)。あるいは、記憶の混濁を自ら告白している(2-28)。

だから読み手は、信頼できない語り手として接するのだが、書き手はそれ以上に読ませるのが上手い。

ついつい引き込まれてしまうものの、ハッと気づいて「これは本当のことなのだろうか?あるいは少女性愛を正当化させるための虚言なのだろうか」と自問することになる。

だが、たとえ全てが嘘だったとしても、この小説は成り立つ。仮に、嘘もしくは嘘と思われる箇所を塗りつぶしたとしよう。すると、ほとんどのページは真っ黒になり、文は消え、言葉は失われていくが、それでも残るものがある。

それは、ハンバートからドロレスへの愛、だと思う。

二人は、性的搾取と支配で成り立つグロテスクな関係であり、彼は「理想の少女像」を重ねているに過ぎない。

だが、それでもなお彼の言葉が文学として魅惑的であるため、嘘と知りつつもそこに愛(?)を汲み取りたくなる。

もちろん、ドロレスもハンバートも存在しないフィクションのキャラクターだ。それでも、そこに真実の愛(「真実の愛」ってなんだ?)があるとするなら、フィクションが語るからこそ「真実の」と言えるのかもしれぬ。

Fiction is the lie through which we tell the truth.
フィクションとは、真実を語るための嘘だ
アルベルト・カミュ

Art is the lie that enables us to realize the truth.
芸術とは、私たちに真実を悟らせる嘘である
パブロ・ピカソ

もちろん現実ではあり得ないし、あってはならない。だが、フィクションの中でなら成立する真実なのかもしれぬ。

現実では、カルメンを刺したのは「痴情のもつれ」かもしれないし、ドロレスを連れて旅したのは「未成年者略取」になるだろう。同意の有無に関わらず「強姦」は成立する。

だが、フィクションの中では、これを何と呼ぶのか。たとえ全てが嘘でも、どうしても「愛らしきもの」が残ってしまう。 それは現実では成り立たないが、フィクションだからこそ成立する「真実」だと言える(そう思ってしまうのは、それこそH.H.の策略なのかもしれぬ)。

『ロリータ』は、少女愛を綴ったエロ小説としても読める(肩透かしするかもしれないが)。アメリカを横断・縦断するケルアック的ロード・ノヴェルとしても読める(On the Roadの方が後発だが)。僅かな手掛かり(cue)を元に姿なき誘拐犯を追いかけるミステリとしても読める。そして、全てがハンバート・ハンバートの妄想だという読みもできる(←この読み方は読書会で知った!)。

物語は物騙りと言われる。

フィクションとはずばり「嘘」だ。それでも、嘘の中に真実があるとするならば、それは何か?何だと思いたいか?これは読者に委ねられたテーマだろう。

『ロリータ』はどんな読み方にも答えてくれる強靭さと多様さを兼ね備えている。

次は、どんな風に読もうか。

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むいさん、ロリータ装丁のネイル、素敵でした(まさにultravioletですね!デラウェアみたいで美味しそうだと思ったことは秘密です)。 東京ガイブン読書会の中のお二方、楽しい会をありがとうございました(ドノソの会は期待しています、もし席が取れたら3回目を読みます)。他の方も、もっと長くお話したかったです。また会える日を楽しみにしています!

 

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ふわっとした議論を終わらせる『解像度を上げる』

N/A

  • ふわっとした議論
  • 問題を裏返しただけの対策
  • それは症状であって原因じゃない
  • 説得力が弱い

言い方は色々あるが、結局のところ、取り組むべき課題が不明瞭な状態だ。「部門統合でシナジーを得る」とか「顧客満足度が低いから顧客満足度を上げる」など、何も言っていないに等しい妄言を聞くのもウンザリだ。

では、どうすればいいか?

この問いかけに対し、具体的に応えているのが『解像度を上げる』になる。

画像描写がキメ細かく、イメージが明瞭であることを解像度が高いというが、ビジネスの現場でも用いられている。物事への理解度や表現の精緻さ、事例の具体性や思考の明瞭さのメタファーとして「解像度」という言葉が用いられる。

解像度が高い場合、取り組んでいる領域について、明確で簡潔で分かりやすい答えが返ってくる。顧客が困っていることを深く知り、解決のためにどんな競合製品を使っており、そこでどんな不満を持っているかも把握している。その上で、取るべき打ち手と打つべき布石が、(その打ち手である理由・どうしてその順番かも含めて)納得させることができる。

本書では、解像度を高くするために「深さ」「広さ」「構造」「時間」の4つのアプローチから迫っている。

  • 深さ:原因や方法を、細かく具体的に掘り下げる
  • 広さ:考慮する原因や方法の多様性を確保する
  • 構造:「深さ」や「広さ」の視点で見えてきた要素を、意味ある形で分け、要素間の関係やそれぞれの相対的な重要性を把握する
  • 時間:要素の変化や機序、プロセスの流れを捉えることになる

本書は起業家向けのスタートアップ製品やサービスの例を紹介している。スタートアップが気になる人はそちらを参照してもらうとして、この記事では、私がいま取り組んでいる問題「加入中の顧客の離脱を防止する」に適用してみる。

「深さ」を掘り下げる

最初は「顧客が他社に移る離脱を防止したい」になる。具体性も何もない。

「深さ」は、何よりも事実ベースで原因や方法を考えろとある。だから、年間で見た解約率や、解約したユーザからのヒアリング調査(料金が高い等)に取り組むのが初手だろう。また、解約はどのタイミング(契約〇ヶ月目~1年目が全体の〇%)か、解約の前の行動(コールセンターへの問い合わせ)が洗い出される。

すると、割引キャンペーン終了直後に解約申込が集中していたり、解約の〇%が『解約申込の連絡の前に』何らかの問い合わせをしているといった事実が見えてくるだろう。解約の予兆が洗い出されるはずだ。

また、解約の主な理由として、「料金が高い」といった不満や、競合他社がさらに安価な提案をしている事実が見出されるかもしれぬ。解約リスクとなる予兆データ(加入〇ヶ月目で問い合わせが来た)がシステム連携されておらず、離脱防止に向けた全社施策につなげられていないことも分かるだろう。

こんな風に、現場や顧客にインタビューをして、事実ベースから洞察を掘り下げていく。掘り下げる問いは “Why so?” (なぜそうなのか?)を自問自答していく(いわゆるイシューツリー/ロジックツリーの下へ行くときの問いやね)。

ちょっと面白いなと思ったのは、”Why so?” だけでなく、”Why not so?”(なぜそうではないのか?)という視点も併せよという。例えば「なぜその課題がこれまでに解決されなかったのか?」という視点から考えるのだ。

すると、「これまでは事業の成長に重きを置いており、解約が課題視されていなかった」という問題も炙り出されてくるかもしれぬ。経営層は「新規獲得数」をKPIに重視しすぎており、そもそも顧客を維持するコストに投資していないといった不都合な事実が明るみ出てくる。

「広さ」を確保する

離脱防止のための方法や多様性(=広さ)を確保するために、視点を変えろと説く。離脱防止の課題について、顧客視点と社内視点で考えてみる。

顧客視点だと、サービスや自社の価値をどう見ているか?といった疑問に置き換えることができる。

そこから、サービスの価値を上げるために、料金や契約面の見直しが検討できるかの議論になるだろう。長期割引やより細やかな料金プラン、バンドルやセットサービスを思いつく。提携店舗とのポイント還元もありだろう。

さらに、AIボットによるサポートの充実、顧客満足度調査とフィードバックを定期的に実施する、地域イベント・社会貢献活動を通じてブランド・信頼を向上させるといった泥臭いやり方もある。

社内視点からだと、もっと顧客データを活用できないかといったアプローチになる。例えば、解約予兆モデル(利用低下や問い合わせ増・料金の変動)を作り、このモデルに沿った行動を取った顧客を事前にアラートし、ハイリスク顧客には特典やサポートを自動提示する仕組みを入れる。

本書で紹介されている「リフレーミング」を取り入れるなら、「解約する顧客」とは「継続しなかった顧客」になる。両者は同じなのだが、「継続しなかった顧客」というワードから、「継続した顧客」が導かれる。

すると、両者はどう違うのか?という疑問が生まれる。それまで(解約しなかった)普通の顧客として扱われてきたが、解約リスクのある期間で辞めなかった理由を調査する。「解約しなかった顧客」を分析することで、継続要因を特定できるかもしれぬ。

「時間」と「構造」で要素を整理する

順番的には、最初に「深さ」で事実ベースで要素を分解しつつ、「他にないか?」という視点で問題要素を広げていくのが「広さ」だろう。そこに「時間」軸を導入し、顧客ライフサイクルや季節性に沿って、解約が起きるタイミングを含めて要素を洗い出していく。

出てきた要素は、MECEを意識しながら関係性に応じて要素をまとめたり分けたりする。おそらくキレイなMECEにはならないだろうが(しなくてもいいが)、Excelでツリー図を広げていく。

この記事では、問題の精緻化と打ち手の検討を並行して行ったが、本書では、まず問題の解像度を上げろという。その上で、レバレッジポイントとなる課題(おそらくここでは「顧客を維持するコスト」)に取り組む。現実的に対応できる範囲で、かつ、課題を十分に解決できる打ち手を選べという。『イシューからはじめよ』にある「本質的で質の高い、かつ、答えの出せる問い」がこれになる。

優れた問題解決本に共通するのはここだろう。解くべき問題や意思決定すべき判断ポイントは、実際に取り組んだり判断する前に、問題そのものを見極めることが重要だ。

ふわっとした問題は、意思決定の速度も精度も奪う。解像度を上げる問いを続けることで、問題を見極め、課題に落とし、具体策に落とすことができる。そんな一冊。

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(ネタバレ全開)『存在の耐えられない軽さ』読書会が楽しすぎた

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ダンジョン化しつつある渋谷で行われたリアル読書会に行ってきた。課題本はミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』だ。11名で3時間、あっという間だった。

『存在の耐えられない軽さ』は3回読んだ。邦訳が出た30年前に1回、世界文学全集で新訳が出た15年前に1回 [書評]、そして今回 [書評]なので、テーマもストーリーも承知しているので、もう味わうところは無いかな……と思っていたら大間違いだった。

この読書会で新たな発見があり、再々々読が楽しみとなった。対話を通じて意見の相違を確かめあい、さらに深く広く読む手がかりを得る―――読書会のおいしいところはここやね。

序盤で作品の感想を言いながら、「この会で皆と話したいテーマ」を述べる点が良かった。全員が一巡すると、『存在の耐えられない軽さ』で解きたい謎の一覧ができあがる。

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なぜトマーシュとテレザは別れないのか?

複数人が疑問に思っていたのは、「なぜトマーシュとテレザは別れないのか?」になる。トマーシュとテレザは恋人として一緒に暮らし、結婚している。トマーシュはテレザを愛し、テレザはトマーシュに身も心も捧げている。にも関わらず、トマーシュは他の女と情を通じる。生まれてこのかた、いったい何人の女と?友達に追求されると、トマーシュはこう答える。

「まあ、二百人くらいかな。それほど多いってわけじゃない。女たちとおれの関係はだいたい二十五年つづいている。二百を二十五で割ってみろよ。一年に新しい女が八人ほどになるのがわかるだろ。別にたいした数じゃないんじゃないの」
(第5部9章より)

一方でテレザはトマーシュを愛し、トマーシュただ一人に愛されようとする。彼の裏切りを知った後も、その意志を貫こうとする。

愛についての認識は、二人ではあまりにも違っていた。愛と性は別物であり、愛はテレザに、性欲は他の女に振り分けることができるトマーシュと、ふたつは分かち難く結びついているとみなすテレザとは、全く合わない。こんな二人が一緒にいられるはずがない。でもなぜ?

二人が別れない理由は、あちこちに埋め込まれている。読書会は、その理由を掘り起こす作業となった(かなり楽しい)。

なかでも面白かったのは、重荷のメタファーを用いた共依存の関係だ。二人は互いを背負い合っているのではないかという観点だ。

テレザは重いスーツケース一つもって、故郷と母を捨てて、トマーシュのところへやってきた。「女とは寝ても女は泊めない」ことを信条とするトマーシュからすると、重荷でしかない。それを「松脂で塗り固めた籠に入れられ、河の流れに放り出された子供」として引き受ける(もちろんこの子供とはモーゼで、重荷=愛=モーゼのメタファーは、彼の立場を危うくする論説にもつながるのだが、これは別のテーマなので割愛する)

もう一つは、「眠る」と「寝る」の違いだ。「ベッドを共にする」と語られるとき、睡眠と性交の二つの意味が重なっている。トマーシュの手を握り眠り続けるテレザは、一緒に眠ることができる唯一の存在としてあるのかもしれぬ。

トマーシュはつくづく思った。ひとりの女と寝るのとその女と眠るのとは、たんに違っているばかりか、ほとんど矛盾さえする二つの情熱なのだと。愛情は性交したいという欲望ではなく(この欲望は数かぎりなく多くの女に適用される)、眠りをともにしたいという欲望によってこそ現れる(こちらの欲望はただひとりの女にしか関わらない)のだと。
(第1部8章)

俺はここに、テレザの美しさを加えたい。トマーシュが抱いてきた二百人の誰よりも美しかったからではないかと想像する。

ポイントは、テレザの「美しさ」は直接的に言及されていないこと。一方、テレザの母親の美しさは徹底的に描かれている。「ラファエロのマドンナに似ている」と言われ、求婚の季節がやってきたとき、彼女には九人の求愛者がいた。金持ち、ハンサム、スポーツマン、芸術家等の中から、誰を選んでよいか分からなかったから、九人目の最も男らしい男を選んだ。その男とデキてしまったのがテレザになる。

九人の求婚者から愛を捧げられるくらいなのだから、テレザの母親は、きっと美しい女性だったに違いない。そんな母親から生まれ、母に似ており、かつ、母親から嫉妬されるくらいだから、この上もなく美しい見目をしているだろう―――想像を掻き立てられる。

にもかかわらず、テレザについて「美しい」と述べている箇所は、ほぼ無い。目の色、髪の色、背格好、顔つき、姿形、服を脱ぐとどんな肉付きかといった描写は無い。わずかに、彼女の就職祝いの飲み会で、トマーシュの同僚の医師がダンスに誘ったとき(トマーシュは踊るのが好きではない)、「美しい」が出てくる。

ふたりがフロアのうえを滑るように見事に進み、テレザはかつてないほど美しく見えた。彼女がどれだけ正確かつ従順にパートナーの意志をほんのちょっとだけ先取りするのかを見て、彼は唖然とした。
(第1部7章)

美しい存在を「美しい」と描かないのは、小説の基本的な技法だ。二百人以上の女と懇ろになるトマーシュはきっと美男子だろうし、「ラファエロのマドンナ」と呼ばれた母親が嫉妬するテレザは美女だろう。しかし、クンデラは「二人は美男美女だった」なんて書かない。

なぜ2人の死が途中で明かされるのか

あえて直接的に描かれないテレザの美は、小説の構造にまで及んでいることに気づかされた。

『存在の耐えられない軽さ』のメインキャラクターは、トマーシュ、テレザ、サビナ、フランツの4人だ。そして中心的な位置にいるのは、トマーシュとテレザになる。

全部で第7部まである小説の、ちょうど真ん中あたりで、トマーシュとテレザの死が明かされる。芸術家として成功する一方、空虚な日々を過ごすサビナの元へ届いた一通の手紙がこう明かす。

ふたりは近年とある村で暮らし、トマーシュはトラックの運転手として働いていた。彼らはしばしば連れだって隣町へ行き、ちいさなホテルで夜を過ごすことがあった。道路は丘をいくつも横断し、カーブが多かった。そのためトラックが峡谷に転落した。すっかり押しつぶされた死体が発見され、警察はブレーキの状態がひどく悪かったのを確認した。
(第3部10章)

通常、物語は時間に沿って進んでゆく。そして、主人公やメインキャラクターの死といった大きなイベントは、物語のラストに持っていくことが多い。もちろん、冒頭にクライマックスを持ってきたり、フラッシュバック/フォワードやキャラの想起といった時間軸の逆転はあるが、ど真ん中で主人公を殺すのは珍しい。

一般的に読者は「この物語の主人公はどうなるのだろうか?」という疑問を持って作品に向かう。不遇な状況を逆転させたり、未知の運命に翻弄されたりする主人公を見て、「それからどうなる?」という期待をもってページをめくる。

しかし、この作品では、メインキャラの2人は半分のページのところで唐突に死ぬ。そして、残りのページでその死に向かって起きることが、死とは関係なく紡がれてゆく。どうしてこんなイレギュラーな構成になっているのか?

面白かった意見としては、「これは恋愛小説ではないから」というものがあった。

もし『存在の耐えられない軽さ』が恋愛小説なら、小説の物理的なラスト(最後のページ)は、物語の時間軸としてのラスト(二人の恋愛の結末や、エピローグ的なもの)にするだろう。「そして二人は、いつまでも幸せに暮らしましたとさ」や、生き別れであれ死に別れであれ「もう二度と会うことがなかった」的に終わらせるだろう。

しかし、クンデラはこれを恋愛小説としたくないが故に、二人の死を真ん中に持っていったのだというのだ。なるほど、確かにこれ、恋愛を描いているけれど、いわゆる「恋愛小説」にしてしまうと、込められている様々なテーマ(重さと軽さをはじめとする様々な二項対立、ニーチェの永劫回帰と人生の選択、キッチュの自己陶酔)から外れてしまう。

なるほどーと納得する面々に、参加者の一人が集英社文庫の帯を見せる。

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「20世紀恋愛小説の最高傑作」らしいwwwということで一同爆笑する。二人の恋愛は物語をドライブする推進力にはなっている(この二人はどうなるのか?という宙吊り)けれど、これを恋愛小説にしてしまうのは、表層的すぎるかもしれぬ。

そして、二人が若くして死ぬのは「二人をハッピーエンドにするため」という説も語られる。愛と性は一緒だとする女と、心と肉は分離できる男が、いつまでも一緒にいられるわけがない。プラハの春による翻弄が二人を結びつけはしたが、政情が落ち着き、生活が続くなら、どこかで破綻する。そうなる前に死ねば、少なくとも死ぬまでハッピーだったといえるから。

これにもう一つ、俺の考えを加える。クンデラ(というより物語の仕掛け上)、物語的結末を「その後二人は、いつまでも幸せに暮らしました」とすることはできない。だから、二人は一緒に、小説のページの途中で死ぬ必要があったと考える。

順に説明する。テレザの美しさは(直接的には描かれていないものの)伝わっている。一方で、テレザの母がそうであったように、その美貌は時間とともに変化してゆく。テレザは母のようになることを恐れていたはずだ。母が女らしさを否定するような素振りをしたり、老いの醜さを見せつけるような態度をする(もちろん、テレザの美貌を否定するため)。

この母の呪いは伝わっており、それゆえに、テレザは年齢を重ねることで醜くなることを恐れている。自分が老いても、トマーシュは愛してくれるのだろうか、と。二人の間に子どもはおらず、二人の絆と呼べるものは互いの想いだけになる。テレザが美しいままで死ぬためには、若くして死ぬ必要がある―――そういう物語上の要請により、運命が決められていったと考えることはできないだろうか。

音楽のアーキテクチャが組み込まれた物語

目次がちょっと変わっている。

第1部 軽さと重さ
第2部 心と体
第3部 理解されなかった言葉
第4部 心と体
第5部 軽さと重さ
第6部 <大行進>
第7部 カレーニンの微笑

「軽さと重さ」が1部と3部で同じタイトルだし、「心と体」も2部と4部で重なっている。その間に3部「理解されなかった言葉」が挟まり、シンメトリーな構造になっている。「軽さと重さ」をA、「心と体」をB、「理解されなかった言葉」をCとするなら、こんな構造だ。

A-B-C-B’-A’

各部では同じテーマ「軽さと重さ」や「心と体」を様々な人物や立場、象徴、事件でくり返し描こうとしている。同一の出来事を複数の視点から語り分けられ、多声的に聞こえることもあれば、性格のズレから不協和に聞こえたりする(墓地に対するサビナとフランツの見方とか)。

これは、音楽の構造を意識した物語構成となっているのではないか?

私のこの疑問は、この読書会で解消された。副主催の方より、これはソナタ形式を念頭においた構成となっているという。導入→展開→再現のそれぞれの中で、主調A、主調Bが繰り返される。A-B-C-A’-B’というのが普通だが、後半のA’とB’を逆転させるのもアリだという。

確かに小説の章立てはソナタ形式に則っているのかもしれない。第1部の後半で、ベートーベンの弦楽四重奏のモチーフを、わざわざ楽譜付きで引用している。

“Muss es sein?”(こうでなければならないのか?)
“Es muss sein!”(こうでなければならない!)
(第1部15章)

この問答は、物語のあちこちで、様々なキャラ、イベントの中で応答される。これはヒントの一種として読むと面白いかも。

音楽と物語を重ね合わせて読むという試みは、パワーズでやった(再読すれば再読するほど夢中になるリチャード・パワーズ『黄金虫変奏曲』)。バッハの変奏曲(Goldberg Variations)をyoutubeで聞きながら、スコアと首っ引きで綿密に読んだのだが、かなり幸せな読書だった。

ひょっとすると、同じ仕掛けが『存在の耐えられない軽さ』にも施されているかもしれない。GPTさんに「ベートーベンで7楽章まである組曲は?」と聞いてみたところ、「弦楽四重奏曲第14番」とのこと。4回目に読むときは、これを流しながら重ね読みしてみよう。

誰がキッチュか

読書会で問いかけられた謎の一つに「誰がキッチュか?」というものがあった。

一般的なキッチュ―――大衆ウケはいいけど俗悪で美的価値は低く、けばけばしい作品―――という用法から離れ、小説では別のニュアンスが与えられている。サビナの目線から語られているように見えるが、これ、作者の代弁者「私」の主張になる。

そのニュアンスとは、世界の汚れや禍々しさ、不協和、不合理を否定するものとしての「キッチュ」だ。「このキッチュ」は異議を排除し、一致団結の情動に結びつこうとする。

キッチュは立て続けにふたつの感動の涙を流させる。最初の涙が言う。「なんて美しいんだろう、芝生のうえを走っているちびっ子たちは!」
第二の涙が言う。「なんて美しいんだろう、芝生のうえを走っているちびっ子たちを見て、全人類とともに感動するのは!」
この第二の涙だけがキッチュをキッチュたらしめるのである。
(第6部8章)

読書会に参加する前までは、単純に、フランツ=俗物=キッチュと考えていた。カンボジアの恵まれない子どもたちを助ける運動(=大義)のために身を捧げるが、その大義とは何の関係もない事件に巻き込まれてカンボジアで死ぬ。これぞ俗物の鑑!と思っていた。

だが、読書会ではもっと刺激的な読みを得られた。私なりに再解釈すると、現実のリアクションから離れて、理想主義に走るとき、このキッチュは現れる。

不幸な目に遭う人々にに心を痛めるのはキッチュではない。「不幸な目に遭う人々にに心を痛める自分に酔う」ところからキッチュが始まる。サビナが感じていた熱狂的なものへの嫌悪は、このアピールに酔う人々に向けられたものだろう。読書会では、もっと生々しい(ネットに書くと叩かれそうな)固有名詞や作品名が飛び交っていたが、ここでは自重しておく。

こんな風に、次から次へと、様々なネタや読み方が提案され、捏ねられ、飛び交わされた。命の軽さからマッカーシー『ブラッド・メリディアン』が提案されたり、クンデラの最高傑作として『不滅』が強く推されたりした(これは私)。二次会では『桐島、部活やめるってよ』の映画版が強く推されたので、手を出してみる。

分からないものは分からないでいいし、裏読み・深読みは自由でいい。互いのリスペクトや礼儀正しさは必要だが、必要以上に政治的な正しさは求められない。「私とあなたの意見は違う」が、そのままの意味でやり取りできる喜び。そういう意味で、リアルの読書会は大変楽しかった。

同じ本を読む人は、わりと近くにいることが確かめられて、嬉しい会だった。これはやはり、ネットのおかげなり。

東京ガイブン読書会の主催の方、ご参加の方、ありがとうございました!

 

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問題を再定義すると解法は変わる『ライト、ついてますか』

枠組みを変えることで問題を再定義することを「リフレーミング」と呼ぶ。リフレーミングの見事な例は、孫正義のこれ。

頭頂部で起きていることは1㍉だって変わっていないのに、ネガティブからポジティブへ再定義されている。こういう発想って、どうやって生まれてくるのだろう?

おそらく、これを読んでいたのではないか?

N/A

本書は、見方を変えることで問題を別の角度から捉えなおし、問題を「再発見」する本だ。ユーモア小話仕立てのエピソードを俎上に、「問題は何か」「それは本当に問題なのか」「それは誰の問題なのか」「それを本当に解きたいのか」を分析していく。

「エレベーター問題」は誰の問題か

有名なやつだと、「エレベーター問題」がある。

とあるビルのオーナーが問題を抱えている。様々な企業が利用するテナントビルなのだが、「エレベーターの待ち時間が長い」という苦情が寄せられているのだ。

普通なら、「エレベーターの待ち時間が長い」という入居者の不満を問題だとみなし、エレベーターの増設や速度を改善するといった解決策を考える。

だが、この問題を「誰の問題か?」という観点から問い直すと、ビルのオーナーにとっては別の対策が見えてくる。

  • 賃貸料を値上げして入居者を減らす
  • 待ち時間はゆったりとした働き場所だからこそだと入居者を説得する
  • 歩行時間と消費カロリーの表を張り出し、階段を使う気にさせる

もっと多くの対策が出てくるのだが、どれも「エレベーターの待ち時間が長い」という利用者の問題ではない点に注意してほしい。代わりに、オーナーに苦情が行くことが問題となっている。

採用された解決策は、「エレベーターの前に鏡を置く」になる。これにより、利用者は自分の顔色を確認したり、身だしなみを整えることができる。エレベーターが来るまでの間は、「待ち時間」でなくなったというわけ。

エレベーター問題は古典的な事例だが、「ネットが繋がらないときに出てくるChromeのミニゲーム」は現代の応用例になる。

すぐ「問題」に飛びつく弊害

「これは問題だ」と言われたとき、私たちは自動的に解答を探そうとする。

著者に言わせると、これは、「学校に通いすぎたことによる弊害」らしい。問題に集中しようとするあまり、最初に目についた「問題」らしく見える文章に飛びつき、速く解こうとする。なぜなら、試験ではスピードがものを言うからだ。

しかし、「問題」は変えられる。

例えば「先着順のチケット予約受付に、人気アーティストのリクエストが殺到し、予約処理が間に合わない」という悩みがあるとする。これを解くべき問題だとするなら、「より強力なサーバを増やす」「同時接続セッション数を増やす」といった対策が浮かぶだろう。

だが、「その悩みは本当に問題か?」という視点で捉えなおすと、どうなるか?

すると、「予約処理を間に合わせる」のではなく、リクエストにさえ応えられれば良いのではないか……という発想を得られる。そこから、予約処理や課金処理に時間がかかっていることに気づき、「リクエスト受け付けと予約を分ける」という考え方につながる。

最終的には、「一定期間リクエストを受け付け、そこから抽選で当選者を確定し、後日、予約処理をしてもらう」ことだってありだろう(Switch2の招待販売制を思い出そう)。

一見「問題」に見えるものに飛びつき、解こうとすると、取れる打ち手は限られてくる。代わりに、「本当に解くべき問題は何か」という観点から、問題を再定義することで、より抜本的な対策が見えることもある。

ライト、ついてますか?

タイトルにもなっているこの「問題」が面白かった。

長いトンネルの先に、世界一眺めの良い展望台があった。トンネルの中では車のライトをつけて欲しいので、トンネルの入口に「ライトをつけて下さい」という標識を立てた。

ところが、問題が発生した。トンネルを抜けて展望台に到着してもライトがつけっぱなしで、展望台を散策した後、バッテリーが上がってしまうというトラブルが多発したのだ。

もし問題が「バッテリーが上がる」なら、展望台に充電施設を置けば解決する。だが、維持費がそれなりにかかる。トンネルの出口に「ライトを消せ」という標識を出せばライトを消し忘れることは無くなるだろうが、夜中にライトを消してしまう可能性だってありうる。

色々考えて、こういう標識の案が出たという。

「もし昼間でライトがついてるなら、ライトを消せ
 もし夜間でライトが消えてるなら、ライトをつけろ
 もし昼間でライトが消えてるなら、ライトを消したままにしろ
 もし夜間でライトがついてるなら、ライトはついたままにしろ」

厳密性はいいのだが、車を運転しているとき、こんなに大量の文章を読まされ・判断させられるのは酷だろう。本当に解くべき問題は「バッテリーが上がる」ではなく、「ライトを消す」ことでもない。ドライバーに気づいてもらい、(必要なら)つける/消すの判断をしてもらうことだから、標識はこれでいい。

ライト、ついてますか?

これ、要件定義の泥沼にハマっているときに思い出したい。

顧客が突き付ける条件付け・場合分けの迷宮を彷徨っているとき、「結局何がしたいのか」をしばしば忘れる。「この要件で、業務やビジネスの上で何を解決する(改善する)のか?」という視点から捉えなおすと、別の解法が浮かぶかもしれぬ。

そういう意味で、お守りになってくれる一冊。

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