科学研究はどこまで信用できるか『あなたの知らない研究グレーの世界』『サイエンス・フィクションズ』

研究不正について、私の認識が間違っているのかもしれない。もし誤っているのであれば、指摘してほしい。

まず、2つのケースを紹介する。次に、私の判断を述べる。

ケース1

薬剤Xがタンパク質の血中濃度を上昇させるという仮説検証のため、動物実験を行った。薬剤Xの投与で濃度の平均値は増加することが判明したが、統計学的検定ではp=0.06と、有意水準の0.05にわずかに届かなかった。教授に相談したところ、追加実験を行うこと、さらに実験のたびに検定をして、p<0.05を得た時点で実験を終了するよう指示を受けた。

ケース2

疾患Yの重症化因子を調べるため、診療録から収集した疾患Y患者のデータを元に、臨床検査値と生活習慣の関連性を分析したところ、生活習慣Zを有している患者の予後が不良となる結果を得た。そこで「生活習慣Zを有する疾患Y患者は予後不良である」と学会発表した。

私の考えはこうだ。

ケース1は、「グレーだけどNGではない」だ。薬剤Xの効果が検証できたのは事実だが、偶然ではなく意味がある(有意)と見なされるp値になるまで実験を行うのはフェアじゃない。他の条件を検討して、可能であれば実験に組み込むべきだろう。

ケース2は、「問題ない」と考える。正当なデータを分析して、そこから導き出される仮説を述べているのだから。ただし、該当の因子がどの程度結果に影響するかは、検証の対象となるだろう。

病理専門医の回答

『あなたの知らない研究グレーの世界』によると、ケース1は「限りなくクロに近いグレー」で、ケース2は「問題行為」だという。

N/A

ケース1は「pハッキング」と呼ばれる行為になる。

「p<0.05」は、仮説が偶然かもしれない可能性が5%より下であることを示す。「5%」という数値は慣例上の値に過ぎない。だが、学術雑誌での論文受理の判断の目安となっている以上、この数値に固執する研究者が多いのも事実だ。

ケース2は「HARKing」と呼ばれている。

HARKing は、「Hypothesizing after the results are known」の略 であり、訳は「結果がわかった後の仮説設定」になる。収集したデータを分析して得られた有意な結果を元に、後付けで仮説を構築し、あたかも「仮説検証研究」の体裁で公表する行為になる。要するに後出しジャンケンだ。

『あなたの知らない研究グレーの世界』は、東大理学部卒で病理専門医が著したものになる。研究不正といっても明確な線引きが難しいグレーなところがあり、どのような場合に問題となるかを様々な事例とともに解説している。

何十回も実験をくり返し、検証に最も都合が良いデータのみを残すチェリーピッキングや、巨額な研究費に見合う成果を求められるあまり結果を粉飾するスピン、一つの成果を複数の論文に小分けして論文数を稼ぐサラミソーセージなど、多種多様の技法が紹介されている。

これらを見ていると、「完全にクロ」から「淡いグレー」まで不正はグラデーションになっていることが分かる。

心理学者の回答

『サイエンス・フィクションズ』によると、pハッキングもHARKingも、どちらもクロになる。

N/A

まず、pハッキングについて。

査読ウケの良いp値を求めるあまり何度も実験するのは論外で、結果が得られない実験(NULL結果)として公表するべきだという。だが、科学者はそうしたネガティブな結果を避ける傾向にあり、NULL結果はお蔵入りとなる。そのため、出版されているデータはポジティブな方に偏るというバイアスが発生するというのだ。

次にHARKingについて。

本書では「テキサスの狙撃兵」と呼んでいる。納屋の壁を適当に撃って、弾丸が集中的に当たったところに的の絵を描いて、ここを最初から狙っていたと主張するやり方だ。詐欺師なら自分のやっている詐欺を自覚しているが、科学者は無自覚にこれをやっている分、悪質だという。

『サイエンス・フィクションズ』は、キングス・カレッジ・ロンドンの精神科医が著したものだ。詐欺、バイアス、過失、誇張など、様々な手口により、科学の世界では悪質な不正が蔓延しており、再現性の危機に瀕しているという。

研究不正の手口

例えば、データの改ざん。

ヒトの胚のクローンのデータを捏造したファン・ウソク、STAP細胞の画像を改ざんした小保方晴子、論文の撤回件数の世界チャンピオンの藤井善隆が紹介されている。権威ある学術誌である『サイエンス』や『ネイチャー』に掲載されたことで、世界中の注目を集め、詮索にさらされ、結果、不正が暴かれることになった。

最高峰の学術誌でないならどうか。生物学の40タイトルの学術誌から2万を超える論文を調査したところ、フォトショップを利用したファン方式のトリミングや、小保方流の画像の切り貼りが検出され、3.8%の論文に問題が発覚したという。

あるいは、チェリーピッキング。

新しい抗がん剤となる化合物の薬効を検証するとき、予想された結果が出ない場合、実験者は仮説を疑うのではなく、自分の技術が未熟なせいだと考える。特に、教授が考えた仮説を助手が実験する場合がそうだ。

助手は、あきらめることなく何十回も実験をくり返し、ついに望む結果を得ることになる。教授は大いに喜び、助手を高く評価するだろう。問題は、誰も悪意を持っていないことだ。むしろ、熱意と野心を持った教授のもとで懸命に努力する若き研究者の美談にすら見える。

だが、やっていることは結果の出なかった実験(NULLの結果)の棄却だ。不都合な事実に目を向けず、売れる(=論文になる)サクランボだけを結果とするチェリーピッキングという技法だ。

悪意の有無に関係なく、自分が携わっている分野の常識が「正しいはず」という前提で、データを分析し、結果にまとめる。さらに、その結果を元にして「正しいはず」という思い込みの元、別の実験が行われ、バイアスが再生産されてゆく。

こうした確証バイアスが分野全体に及んでいたのが、アルツハイマー病のアミロイドカスケード仮説になる。この仮説は、アミロイドβの蓄積が病気の要因とするもので、莫大な研究資金が投入されてきた。だが、アミロイドβと病気は、因果ではなく相関関係であることが明らかになっている。

にもかかわらず、アミロイドカスケード仮説を支持する研究者がいる。かつて教科書で学び、慣れ親しんだ「常識」があまりにも強固であるため、バイアスに気づけないのだ。マックス・プランクがいみじくも言ったように、「古い間違った考えは、データによってではなく、頑迷な支持者が全員死んだときに覆される」まんまだ。

オープンサイエンスという解決策

『サイエンス・フィクションズ』によると、こうした問題の背景には、様々な要因が横たわっているという。

右肩上がりに出版される莫大な論文数や、研究プロジェクトの巨大化、インパクト・ファクターにより決まる人事査定、「論文数=ボーナス」とするインセンティブ、資金提供する企業との癒着、「出版か、さもなくば死を(publish or perish)」とする風潮がある。

これらが、査読による学術論文の品質を歪め、ひいては科学システムの本性を捻じ曲げているという。

査読システムは、性善説に則っている。

査読する人は、そのデータが改ざんされていることなんて考えない。まっとうな科学者がまっとうに研究をした成果なのだから、当然、そのデータは正しいものだとして受け取る。もちろん、データの整合性や生データの乖離をチェックするツールはある。だが、そうしたチェックを見越して改ざんされたデータの場合、悪意を見抜くことはできない。

こうした問題解決のためには、オープンサイエンスを突破口にせよと説く。

オープンサイエンスとは、科学的プロセスのあらゆる部分を、可能な限り自由にアクセスできるようにする試みだ。研究論文の全てのデータと、それを分析するために使用した全てのコードやソフトウェア、関連する全資料が公開され、ダウンロード可能とする。

実験を始める前に、仮説はワーキングペーパーの形でオープンサイエンスフレームワークに登録される。タイムスタンプ付きで記録されることにより、HARKingを困難なものにできる。全ての論文は出版される前のプレプリントの形で公開され、学術誌の編集者は自分が掲載したい論文を選ぶキュレーターのような役割となる。

そして、「再現できなかった」「仮説が否定された」ことを公開するNULL論文の拡充を提唱する。「刺激的だが根拠が薄い」研究よりも、「退屈だが信頼できる」研究を重視し、再現研究により多くのインセンティブを与えることによって、歪められた科学を正せという。

「再現できなかった=仮説の否定」なのか

オープンサイエンスの試みは重要だろうし、科学の品質保証の一つとして、取り入れていく必要があるだろう。

しかし、完璧でないシステムなら壊してしまえというロジックは、おかしいと考える。

科学は人間が作ったものだから、完璧ではありえない。客観性はあくまで目指すべきものであり、無謬であることを科学は保証しない(そう嘯く科学者がいることは否定しないが……)。

オープンサイエンスを取り入れるのは必要だが、そのために現行をガラガラポンするのは、やり過ぎだろう。

さらに、「再現できない=仮説の否定」というスタンスでいるが、本当だろうか?過去のある実験を再現しようとしたら失敗した(=再現できなかった)ということは、過去の実験結果の否定になるのか?

そうとは考えにくい。厳密に同じ条件で再現することは不可能だし、有名な実験なら、被験者自身も予備知識として知ってしまっているだろう。「再現できなかった」という実験が一つあったというだけであり、他の実験と同様、「再現できなかった」実験を積み重ねていく必要がある。

本書では、「再現できなかった」実験例を嬉々として挙げている。しかし、「再現できた」実験がどれくらいあったのか、両者を比較してどちらが多いのかは言及されていない。「無いこと」の証明は悪魔の証明と呼ばれ、非常に困難だ。とはいえ、せめて、再現性を試みた実験の全体の数のうち、再現できなかったものの割合を示してほしい。「マスコミが数を持ち出してきたら割合を見ろ、マスコミが割合を出してきたら母数を見ろ」という金言があるが、本書に当てはめると、ツッコミどころが出てくる。

有意性やHARKingは「罪」なのか

「p<0.05」の有意性を求めたり、HARKingする行為を断罪する姿勢もいただけない。

もちろん、p値だけを追求するのはNGだ。しかし、偶然ではないことを示す目安の一つとして、p値は有効だ。仮にこれを無くすとしたら、何を基準にしてその実験が恣意的でも偶然でもないことを示せばよいのだろうか。何をもって有意とするかを、p値も含めて実験前に整理した上で検証するのであれば、p値は有用だと考える。

また、HARKingがダメという主張には納得できない。

大量のデータは、素材のままでは使えない。何らかの観点から「あたり」を付けて、興味深いストーリーを見出し、それを仮説として検証し、「あたり」にそぐわないデータは検証範囲「外」とみなすことで、仮説を理論に仕立て上げる……このプロセスは、科学の営みそのものだ。

結果の「あたり」を付けてデータを舐めまわし、因果やパターンを見出す。これが禁じられたら、少なくとも経済学と量子力学は科学でなくなってしまう。

「テキサスの狙撃兵」よろしく後付けで作られた「的」が充分に興味深ければ、追試や再試験が行われるだろう。そして「的」が正しければ、他の実験結果の指示を受け、より精緻に作り込まれていくに違いない。的がそうなっている理屈は、後から捻出されてゆく。量子力学や経済学の理論は、そうして出来上がっていったものだ。

1回目のHARKingは、追試によってすぐに検証できる。意味が無ければ消えるだけだ。有意性だけで中身のない実験は、再現できなければ見向きもされなくなるだろう。時間はかかるものの、科学は、自分自身で正すことができる。

科学の歴史は、発見と反証の歴史だ。

天動説、瀉血、エーテル、フロギストンなど、広く受け入れられていた理論が、後に誤りであったことが明らかになった例は枚挙にいとまがない。アルツハイマー病の仮説が誤っていた例を始め、科学的発見が間違っていたエピソードが多数紹介されているが、誤りを発見できたというまさにその点で、科学はきちんと機能していると考えていい。

また、改ざんしたり虚偽のデータを捏造する科学者がいるのは認める。科学者だって人間だから、カネや名声の誘惑に負ける人だっているはずだ。だがそれは、嘘吐きの科学者がいるだけであって、科学者が嘘吐きであることにはならない。

そして、エーテル理論の話と同様に、嘘吐きの嘘はいずれバレる。バレたからこそ、本書で紹介されることになったのだから。全ての嘘を即座に暴けるほど、今のシステムは洗練されていないが、遅かれ早かれ、誤りは正されていく。

科学は人間の活動であるが為に、人間の欠点である偏見や傲慢や不注意や虚栄心などが刻み込まれている。だが、科学は人間の活動であるが故に、自分で自分の誤りに向き合うことができる。

ひょっとすると、私の「科学観」は楽観的でおめでたいのかもしれぬ。だが、それでも科学を信じたいと考えさせられたのが、この2冊になる。



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身体を鍛えると世界が変わる科学的な理由『なぜ世界はそう見えるのか 主観と知覚の科学』

N/A
嫁様にお願いごとをするなら、食後が最適だ。

こづかいアップとか、相談しにくいことを持ちかけるベストなタイミングは、夕飯後のくつろいでいる時間帯だ。自然に話を持っていくのには創意工夫を要するが、ほぼ100%で了承される。長年の経験で身につけた夫の知恵と言っていい。

これ、私だけの経験則だと思っていたら、2011年の研究で実証されている。”Extraneous factors in judicial decisions”によると、司法判断に食事が影響するらしい。

調査対象は、仮釈放の審理になる。

服役中の囚人から提示された仮釈放の申請を認可するか、あるいは却下するか……という審理だ。裁判官は過去の事例や法的根拠を厳密に適用し、可否を判断するはずだ。

ところが、調査により奇妙な傾向が炙り出されている。それは1日に2回ある食事休憩だ。仮釈放の申請は、ほとんどが棄却となるのだが、休憩した直後の申請が許可される割合が高くなる。具体的には、休憩直後だと65%が認可され、時の経過とともにこの低下してゆき、最後には0%になるという。お腹が空いてくると、より秋霜烈日になるのだろうか。

身体の状態が、認知や行動を左右する。さもありなんとは思うものの、ここまであからさまとは思わなんだ。『なぜ世界はそう見えるのか』を読むと、私たちが「ありのまま」に見ていると思っている世界が、身体性に大きく影響されていることが分かる。

身体性が認知に及ぼす影響

身体の状態を自覚していなくても、認知に影響を及ぼすという実験が教訓的だ。

この実験は、被験者に一定の運動量でエアロバイクを漕いでもらった後、「どれくらい長い距離を漕いだか」を見積もってもらう。運動中には決められた量のスポーツ飲料を飲む必要があるのだが、この飲み物に仕掛けがある。

あるグループは、糖質で加糖されたゲータレードで、別のグループは、人工甘味料を加えてありカロリーゼロのものになる(味は同じ)。被験者は自分が口にしたゲータレードが普通のものだと思っている。

45分間漕いでもらった後、自分が漕いだ距離を見積もってもらう。結果は瞭然で、カロリーゼロの被験者の方が、糖分をとったほうよりも、より長い距離を漕いだと申告したという。

お腹が空いているときは物事をネガティブに考えがちだというが、「お腹が空いている」ことを自覚しているかによらないようだ。むしろ、物事をネガティブに捉え始めたら、ひょっとして糖分が足りなくなっているのかも……と考えたほうがよいかも。

他にも、糖分に限らず身体性が認知を歪ませる実験が紹介されている。

例えば、坂の傾斜を見積もる研究が面白い。老若男女の様々な被験者を集め、色々なシチュエーション下で、これから上る坂の傾斜度がどれくらいかを答えてもらう。

結果はこうだ。スポーツ選手など、運動能力の高い人ほど、坂の傾斜を低く見積もる傾向があるという。運動能力の高さはそのまま身体の効率的な使い方につながるため、坂の傾斜という障害も、より楽に見えるのかもしれぬ。

「身体を鍛えれば、世界が変わる」というフレーズは陳腐に聞こえるかもしれないが、比喩ではなくホンモノなのだろう。

「身体能力」が、あなたが世界にどのように「適応」しているかを左右する。自分は世界をありのままに見ているというのが私たちの共通感覚だ。だがそうではなく、私たちは「自分が世界にどのように適応しているか」を見ているのである。

(『なぜ世界はそう見えるのか』デニス・プロフィットp.77)

これ、逆に考えると腑に落ちやすい。体調を悪くしたとき、普段は何でもない階段がキツく見えたり、衰えてくると駅まで歩く道のりを遠く感じたりする。私は、世界をありのままに見ているというよりも、私が関われる身体能力の範囲に見え方が左右されているのかもしれぬ。

メタファーと認知

「世界をどのように見ているか」というテーマは、ジョージ・レイコフのメタファー論からも解説されている(私のレビューは『レトリックと人生』はスゴ本に書いた)。

例えば、「上」と「下」の表現だ。人の気分や感情は、向きなど存在しない。しかし、「気分が上向く」「ダウナーな感じ」というように、上と下の向きがある。そして、「上」はポジティブで生き生きとした隠喩で扱われ、「下」はその反対だ。

これは、私たちの行動を見ると分かる。気分が良いときは立ち上がるし、なんだったら飛び上がるかもしれない。反対に、元気がないときは座り込み、ひどいときは横たわったまま動けなくなる。

こうした行動に裏付けられるレトリック表現を用いているうちに、世界をそうしたメタファーで理解するようになったのかもしれない。

こうしたイメージについて、「上」や「下」という言葉すら必要ではないことを検証する実験がある。

被験者は、2つの箱に入ったビー玉を、一つ一つ指でつまんで移動させる。箱は上の棚と下の棚に位置しており、ある被験者は、上の棚の箱にあるビー玉をつまんで、下の棚の箱に移動させる。別の被験者は逆で、下の箱のビー玉を上の箱に移動させる。

ビー玉を移動させている被験者には、「昨年の夏はどうでしたか?」とか「小学校の思い出を語ってください」という質問を投げかける。

すると、上から下へ動かしている被験者は、失敗した出来事や不運なエピソードを語る傾向があり、下から上へ移動させている被験者は、楽しかったことやポジティブな思い出を語ったという。

正直、できすぎている感じもするが、動作イメージが認知を形作ることはありうると思う。ビー玉での実験ではなく、例えば高層ビルのエレベーターに乗って、上昇している時と下降している時でエピソードが変わるかを調査したら面白いかも。

口と手の並行性

身体性と認知のテーマのうち、口と手の並行性の研究も面白い。

まず手から。手は大きいものを握ったり抱えたりできる。一方で、小さなものを摘まみ上げることもできる。手は扱う対象の大きさによって「握る」行為と「摘まむ」行為を使い分けることができる。

そして口について。小さいものを形容するとき、英語では「little」「tiny」など、口をすぼめた形になる。一方で、大きいものは「large」「huge」など開いた口の形になる。「小さい/大きい」は、スペイン語では「chico/gordo(チコ/ゴルド)」、フランス 語では「petit/grand(プティ/グランド)」、ギリシャ語では「µικρός/μακρος(ミクロス/マクロス)」、日本語は「チイサイ/オオキイ」になる。

手を使う対象の大きい/小さいと、発話する口の開きの大きい/小さいについて、並行性があるのではないかという仮説を立て、これを検証した実験がある(※1)。

被験者は特殊なスイッチを手にする。このスイッチは、2つの部分に分けられている。一つは、掌で握りしめることでONにする部分、もう一つは、指で摘まむことでONにする部分である。被験者は画面に表示された課題に応じて、握ってONにするか、摘まんでONにする。

Power_grip_performance

”Effect of Syllable Articulation on Precision and Power Grip Performance”より引用

そして、ONにするとき、特定の子音を声に出して発話することが求められている。発話する子音は、口を大きく開けるものや、唇を突き出すもの、口をすぼめるもの等、様々なものが用意された。

発話する口の大きさと、スイッチを入れる手の開き方の組み合わせはこうなる。

  1. 口を大きく開けながら、掌で握ってONにする
  2. 口を小さくすぼめながら、指で摘まんでONにする
  3. 口を大きく開けながら、指で摘まんでONにする
  4. 口を小さくすぼめながら、掌で握ってONにする

そして、課題への反応速度、正答率が最も高かったのが、1と2になる。つまり、口の大きさと手の開き方が同じとき、早く正確に回答できたというのだ。一方で、3や4のように、口と手の形が異なるとき、成績が悪くなった。

手の制御と発話、それぞれ全く異なる行動でありながら、神経系が共通していることが炙り出されている。ヒトになるまでの長い間、私たちの祖先は四つ足で行動していた。その間はモノを運ぶ際は、口を使っていたはずだ。

やがて二本の足で歩くようになり、両手を用いてモノを掴めるようになり、なおかつ発話でコミュニケートできるようになるまでにも、長い年月を必要としただろう。口と手の進化に並行性があることは、ここからも想像できる。

口と手の並行性は、私の経験からも思い当たる。赤ちゃんに向かって、「いないいない、ばぁ」というとき、私は両手を広げる。ひと仕事終えて「ぱあっとやろうぜ!」というとき、私は両手を広げる。「むむむ……」と唸りながら考えごとをするとき、私の両手はグーのはずだ。確かに、口の形と手の形は同期している。

身体を通じた理解

私たちが何かを「理解」するにあたって、身体が関与している。このレイコフのメタファー論を裏付ける研究成果も出ている。

例えば、fMRI を用いた脳機能イメージングによる研究だ。行為に関する様々な文章を読んでもらい、それに応じて脳のどこが反応しているかをリアルタイムに測定する。

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Wikipedia 一次運動野より

脳の運動野と呼ばれる場所には、身体部位がマッピングされている。図は脳の断面から見た皮質上の場所と、それに対応する身体部位を示している。例えば「手」の場所が損傷すると、手が自由に動かせなくなる。

被験者には「蹴る」「摘まむ」「なめる」といった行為に関する文を読んでもらい、その時の脳の状態を fMRI で検査する。その結果、「蹴る→足」「摘まむ→手」「なめる→舌」とそれぞれ対応する運動野が活性化することが明らかになっている(※2)。

単純な行為の文章だけでなく、複雑な状況を読んだ場合の研究も進められている。例えば、責任の委譲に関する文を読むとき、両手の筋肉が微動する。これは、「皿を片づける」といった物体を移動させる文を読んだときと同じだという(※3)。

他者の行為を「観察する」ときと、自分が同じことを「行動する」ときの両方で活性化するニューロンをミラーニューロンと呼ぶ。ミラーニューロンの研究は「見る」を契機とする脳の観察だが、このように「読む」を契機とした研究もある。

行為を示す言語表現を読んだり聞いたりするとき、その行為を受け手がシミュレートしていると言えるだろう。

これは、物語が私たちに与える影響そのものになる。

そこに登場する人々が様々な出来事を経て、何らかのリアクションをする。非道な目に遭って辛くて痛い思いをするかもしれない。あるいは、この世のものとは思えない快楽を堪能する場合もある。

私たちは演劇や語りや文章を通じて、そうした経験や感情を「追体験」するというが、ミラーニューロンや身体各部位の神経系によって、文字通り「体感」しているのかもしれない。

この「体感」を引き出すメカニズムを、様々な文学作品から分析しているものが、『文學の実効』になる。文学作品から人の認知の仕組みを解き明かしている。私が物語を面白いと感じるのは、読むことが私の身体に及ぼす影響に薄々気づいているからかもしれぬ。

面白いと感じるとき、私の身体に何が起きているのか。このテーマを考える上で、『なぜ世界はそう見えるのか』は改めて読み解いていきたい一冊。

※1 “Effect of Syllable Articulation on Precision and Power Grip Performance” L. Vainio, M. Schulman, M. Vainio Published in PLoS ONE 9 January 2013 Psychology [URL]

※2 “Somatotopic representation of action words in human motor and premotor cortex” Olaf Hauk 1, Ingrid Johnsrude, Friedemann Pulvermüller,Neuron. 2004 Jan 22;41(2):301-7 [URL]

※3 ”Processing abstract language modulates motor system activity” A. M. Glenberg, M. Sato, L. Cattaneo, L. Riggio, D. Palumbo, and G. Buccino, 2008.Quarterly Journal of Experimental Psychology 61: 905-19. [URL]



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人生最後のチャンスかもしれない『秒速5センチメートル』を映画館で観るのは。

サブスクで見放題なのは知ってる。くり返し見たから。

けれど、映画館で観たらまるで違う作品だった。

音が違う。

ホームを吹き抜ける風の音や、覆いかぶさってくる波の轟音、ブレーキをかける列車の車輪が軋む不協和音が耳を聾するばかりで怖いくらいだった。そして沈黙。深々と降りしきる雪の「無音」がよく聴こえた。列車の連結部の鉄板の音が、第1話と第3話で違うことも分かった。液晶テレビのペラッペラなスピーカーとはまるで違う音響にどっぷり浸った。

光が違う。

恐ろしいほどの解像度で描かれる世界の広がりが、丸ごと目に入ってくる。第1話の暗く沈んだ冬の夜の闇と、第2話の広い青い海原と、そしてラストの桜吹雪と雪のひとひらが対照的で、闇と光の映像対比がやっと分かった。あの手紙を書いている机の単語帳に「confession」とあるのが分かったし、第1話で夜を駆けるアカゲラの翼が翻る様と、第2話で彼女が飛ばした紙飛行機が転回する角度が同期していることも見て取れた。貧相なディスプレイでは分からなかった違いだ。

『秒速5センチメートル』は、現在進行する桜前線に同期して、3/29からリバイバル上映している。やっている期間は非常に限られているので、ディスプレイで観た方は、ぜひ劇場で確かめてほしい。

以下、『秒速5センチメートル』を見たことのない人への紹介。

これは、3編の短編で構成されたオムニバスで、初恋が記憶から思い出となり、思い出から心そのものとなる様を、驚異的なまでの映像美で綴っている。

わたしの心に大ダメージを与えた傑作

私の人生に大ダメージを与えたアニメーションだと言っていい。

ノスタルジックで淡く甘い恋物語を予想していたから、強い痛みに見舞われたのだ。わたしの心が身体のどこにあってどのような姿をしているのか、痛みの輪郭で正確になぞることができた。「痛い」と感じる場所が、心の在処だ。

徹底的に打ちのめされた。涙と鼻汁だけでなく、口の中で血の味がした(奥歯を噛みしめていたから)。それほど長い映画でもなかったのに、疲労感で起き上がれなくなった(ずっと全身に力を込めていたから)。

何度も観ているうちに、「観たときの出来事」が層のように積まれていく。どんな季節に、誰と、何を思い出しながら観たかが、痛みとともに刻まれていく。あるときは彼の気持ちになり、またあるときは彼女に寄り添い、「観た」という記憶が思い出になる。「桜花抄」の焦燥感も、コスモナウトの広大さも、そして「秒速5センチメートル」の切なさも、ぜんぶ宝物だ。

何度も観ているうちに、わたし自身の記憶と重なる。思春期のときに罹る「ここじゃない」感も覚えている。社会人になって心が少しずつ死んでいく感覚も知っている。だからこそ彼にシンクロしてしまい、そのキスが完璧であればあるほど、それに囚われてしまっていることにもどかしく、やるせない気持ちになる。その背中を見ている彼女が純粋でまっすぐで情熱的で、いじらしさを通り越して痛ましさまで感じてしまう。

もっと違う未来があったはずで、何度も観ているうちに、その望む未来になっているかもしれないと期待するのだが、そんな訳もなく。あのラストの一瞬はあのままとなる。

もやもやを引きずって、作品そのものに囚われて、いつまでも未練たらたらでいる。

これは、青春の呪いだ。

一生消えないやつ。ええ歳こいたおっさんになって、ようやく分かった。ちゃんと青春してこなかった私が抱えている呪いで、心の中に大きな穴が空いている。なぜあのとき、あの手を放してしまったのか。もう少しだけ力を込めて引き寄せていたなら、「好きだ」というただ一言を伝えていたなら、違う未来になっていたはず。

でも、現実はそうじゃなく、思慕は日常に圧し潰される。傷心を癒すのに時間ほど最適なクスリはない。ただし、時は恐ろしいほど残酷で、痛みを回復するだけでなく、痛みの元となった思いすらなかったことにしてしまう。

「時間は人にとって最もやさしくて残酷なもの」という、とある昔の物語を思い出す。思いが日常によって上書きされた結果から導かれる、残酷な未来だ。その未来が現実として描かれてるのが第3話の「秒速5センチメートル」になる。君が望もうと望むまいと、君が望む未来は永遠に叶わない。そう宣告されるのは、自分自身なのだ。

秒速5センチメートル=気持ち悪い

この作品を「気持ち悪い」「分からない」という人がいる。その心情は理解できる。

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いつまでも未練に塗れて、しかも自ら行動を起こすことのなくどっちつかずの「無」である彼に不気味なものを感じたり、そういう新海誠作品に涙と鼻水でぐしょぐしょになる男どもをキタナイものとして扱いたくなる気持ちは分かる。さらには、「失恋に傷心する」自分自身と作品を重ねて酔う「しぐさ」に辟易したくなるのも分かる。もう若者でないのに、失った青春に執着する見苦しいオッサンを焼却処分したい衝動も覚えるだろう。予定調和もデウスエクスマキナも見えない物語に、落ち着きの無さを感じるかもしれない。

そういう人には、自分の気持ちについて、上書き保存することも、名前を付けて保存することも叶わなかった人の物語だと伝えるようにしている。

「誰かを好きになる」という不思議な感情を、私たちは持っている。たいていの場合は、うまくいくか、うまくいかないかのどちらかだ。そしてどちらの方向であっても、物語は適切に回収してくれる。

しかし、これはどちらにも倒れていない。保存して過去として扱われることなく、いま現在のメモリとCPUを占めている。食品や肉体ならとっくの昔に腐ってただれ落ちているかもしれないが、残念ながら思念は生き延びる。過去は現在を浸食し、物語の形で伝染する。

この物語を「分からない」という人には、川端康成のこの言葉を贈る。

別れる男に、花の名を一つは教えておきなさい。
花は毎年必ず咲きます。

『掌の小説』に出てくる一節だ。

その恋が、君が望む永遠になる可能性は極めて低い。でも、惚れた男に思い出してほしいのであれば、その男に花の名前を教えなさい。男は花の名前なんて頓着しないかもしれない。だが、情を交わしたあなたが教えた花のことは思い出となる。あなたと別れたあとも互いの人生は続く。そして花は毎年、必ず咲く。男はその花を見るたびに、あなたのことを思い出さざるをえない―――プルーストのマドレーヌのように、花の香りをかいでも思い出してしまう。

これは呪いだ。

『秒速5センチメートル』は、この呪いに掛けられてしまった男の物語なのだ。もちろん彼女は意図していない。桜の花びらが散るスピードが秒速5センチメートルであることと、それが舞い散る雪に重ねて見えることを教えてくれた。込められた想いを大切にするあまり、その思い出に名前を付けて保存することも、上書きして保存することもできなくなるあまり、自家中毒に陥っている……と理解してもらえば、あなたの「気持ち悪さ」も幾分か解消され、彼のことを気の毒に思えてくるかもしれない。

『秒速5センチメートル』の呪いを解く方法

彼の呪いは解けない。

そして、彼の呪いと同調してしまっている男も、自分の過去の思いに囚われてしまう。無かったはずだった青春を、秒速5センチの思い出で埋めようとしてしまう(そして失敗する)。

そんな男どもの呪いを解く方法は2つある。

一つは、もう一度『君の名は。』を観ることだ。『秒速』を観ているくらいだから、もちろん『君の名は。』も観ているだろう。だけど、『秒速』を観た後に『君の名』を観るのだ。すると、前者のラストで交錯しかかる視線に覆いかぶさる通過列車と、後者のラストの並走する電車でガチ合う目線のシーンを重ねることで、呪いの一部は解除されるかもしれない。『君の名は。』は、『秒速5センチメートル』で名前を付けて保存できなかった別の世界線の恋物語なのだから。

もう一つは、小説版『秒速5センチメートル』をお薦めする。映画と同じストーリー展開で、映画と相互補完されえちるが、違う角度からその呪いが描かれている。「そういう物語」として名前を付けて保存すれば、少なくとも読者にとって過去のものとできるだろう。

だが、だとすると、彼の思いは結局どうなるのか?物語によって投げ出された彼の思いを受け止めてしまった男どもには辛すぎるのではないか?

そんなあなたに朗報なのが、コミカライズされた『秒速5センチメートル』になる。全2巻で物語が完結している。そして、胸に深く刺さった槍を抜く、ご褒美のようなラストに救われるだろう。そして、あの手紙を見せてくれることで、あなたは優しくなれるだろう。そして、気持ちはあの夜にすでに伝わっていたことに気づいて、2度、救われるだろう。

ちなみに次回の[オフ会]では、このコミカライズ版『秒速5センチメートル』(全2巻)を紹介するつもりだ。欲しい方はぜひジャンケンで勝ち抜いてほしい。

 

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質の高い仕事は、質の高い課題に宿る『イシューからはじめよ』

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「なぜ、お客が望む通りに見積もりができないのか。顧客ファーストだろう?」とドヤ顔で言い放つマネージャーがいた。自社開発のソフトウェアを組み込む提案をしたときの話だ。

確かに顧客ファーストは重要だが、お客の要望をそのまま実現しようとすると、ソフト改修に設計思想レベルでインパクトがあり、コストも時間も莫大なものになる。見積もるだけでも大変だし、べらぼうな額になるのは必至なので、こう返答した。

「お客のいう通りに見積もるのが仕事じゃないです。お客が目指すビジネスにどう貢献できるかを提案するのが仕事です。見積もりはその一部に過ぎません」

愚かな思いつきばかり口走るマネージャーだが、バカではない。リジェクトされるのが分かっている非現実的なコストを見積もる作業はナンセンスであることを懇々と言って聞かせると、ようやく納得してもらえた。彼の言い分では、経営会議での参考になるからというが、選ばれない方に注ぐ努力は無駄なり(バカじゃねーの!?という言葉を吞み込んだ俺偉い)。

  • お客の要望を100%満たすことに全ての努力を捧げる
  • 「問題かもしれない」ことを片端からトライ&エラーで解決する

あながち間違いには見えないのだが、生産性が悪すぎる。無限の体力と時間があれば、数をこなしているうちに当たるかもしれない。だが、リソースが限られている現場で的を射るには技術が必要だ。

そして、この的を射る技術を言語化したものが、『イシューからはじめよ』である。

世界を救うために1時間与えられたら

イシュー(issue)とは、一般的に「課題」「問題点」などを意味する。ビジネスの上で明確に特定され、解決していくことが目指されるものになる。本書では「本当に白黒はっきり区別する必要のある問題」と述べられている。

「問題かもしれない」と言われることが100あるとすれば、本当に白黒はっきりさせるべき問題は、せいぜい2つか3つくらいになるという。

普通の人なら、がんばって100を分析 ⇒ 優先順位付け ⇒ 対処していこうとするだろう(それだけでヘトヘトになるはずだ)。これを絞り込み、適切な問題にする方法論が、本書の目的になる。ノリ的にはこれだ。。

「世界を救うために1時間与えられたなら、55分を問題を定義するのに使い、5分で解決策を見つけるだろう」

要するに「課題の質を上げよ」ということなのだが、アインシュタインのセリフらしい(真偽不明)。間違った問題に全力投球する愚を犯すより、「これは何に答えを出すためのものか」「そもそも求めるレベルで答えを出せる課題か」といった自問を繰り返すことで、イシュー度(=課題の質)を高めてゆく。

『イシューからはじめよ』は、この55分をどう使うかに全振りしている。読むだけでなく、自分の今の目の前の仕事で実践していくことで、課題の質を磨き上げることができる。

「地球温暖化は間違い」のイシュー度を上げる

では、具体的にどうしていけばよいか?

本書では様々な手法が紹介されているが、ここでは地球温暖化問題について、「So What?」を繰り返していくことにより、イシューである度合いがが高まっていく例を挙げる。

この手法は、漠然としたイシュー候補に対して、「So What?(だから何?)」という仮説的な質問を繰り返すことで、検証すべきイシューが磨かれていくやり方だ。トヨタ自動車のカイゼン活動における「なぜなぜ5回」のアプローチに似ているが、「なぜなぜ5回」は原因究明のためである一方、「So What?」は課題見極めのためにある。

最初の見立て①の仮説に対し、「So What?」を投げかけることで、②の仮説になり、さらにその②に質問することでより具体化され③になり……と、イシュー度(白黒はっきりさせる具合)が高まっているのが分かる。

見立て

本質的な問い

①地球温暖化は間違い

何を「間違い」としているのか曖昧

②地球温暖化は世界一律に起こっているとは言えない

地球の気候に多少のムラがあるのは当然

③地球温暖化は北半球の一部で起きている現象だ

地域が特定されたので白黒つけやすい

④地球温暖化の根拠とされるデータは、北米やヨーロッパのものが中心であり、地点にも恣意的な偏りがある

地域がさらに特定されたので、検証のポイントが明確になる

⑤地球温暖化を主張する人たちのデータは、北米やヨーロッパの地点の偏りに加え、データ取得方法や処理の仕方にも公正さが欠けている

「データ」に加えて「取得方法・処理の仕方」に問題があるという仮説があるため、答えを出すべきポイントが明確なイシューとなる

p.97 「So What?」の繰り返しによるイシューの磨き込みより

①の「地球温暖化は間違い」といった焦点の定まらない主張だと反論しようがないが、⑤にまで磨き込まれていれば、白黒はっきりさせるために何をどう検証すればよいか、見えてくる。

「So what?」の他に、「空・雨・傘」といった技法が登場するため、気づく方もいるだろうが、これはマッキンゼー&カンパニーのコンサルになる。ただし、本書が他のマッキン本と異なるのは、完全に血肉化されているところだろう。

本書は、「コンサルティングファームの報告書のリード文に最終的に何を書くか」を丁寧に解説したものだ。だがこれは、そのまま、「どの課題に取り組めば、成果が出たといえるか(そしてそれをどう伝えるか)」という現場の問題に応用できる。

与えられた問題に疑問をいだかず、唯々諾々と取り組んでいるうちに終業時刻となる。怖いのは、頑張って残業しても終わらないところ。ドラッカー『現代の経営』にこうある。

重要なことは、正しい答えを見つけることではない。正しい問いを探すことである。間違った問いに対する正しい答えほど、危険とはいえないまでも役に立たないものはない

間違った99の課題を正しくクリアしようとする行為は、端的に言って「悪」だ。だから、正しい1つの課題を見出すことに注力しよう。

どうせなら成果が出る仕事に取り組もう。価値のある仕事とは、質が高い課題に宿るのだから。

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オフ会やります!初めて歓迎!あなたの好きな「マンガ」について語り合おう

好きな本を持ち寄って、まったり熱く語り合う読書会、それがスゴ本オフ。

本に限らず、映画や音楽、ゲームや動画、なんでもあり。なぜ好きか、どう好きか、その作品が自分をどんな風に変えたのか、気のすむまで語り尽くす。

この読書会の素晴らしいところは、「それが好きならコレなんてどう?」と自分の推し本から皆のお薦めが、芋づる式に出てくるところ。まさに、わたしが知らないスゴ本を皆でお薦めしあう会なのだ。常連さんはもちろん、初参加の方も歓迎、「最近行ってないなー」という方もぜひぜひ。

■日時

4月7日(日)13時~18時(受付開始12:30~)
途中入場・途中退出OK

■場所

HENNGE 11階ラウンジ
東京都渋谷区南平台町16番28号 Daiwa渋谷スクエア

■テーマ

マンガ(もちろんコミック本に限らず、マンガが原作のアニメーション、映画、ゲーム、舞台なんでもあり)

■会費

1,000円(軽食、飲み物込み)

■ twitter ハッシュタグ

#スゴ本オフ
当日はこのハッシュタグで実況します

■申し込み

facebook:スゴ本オフ「マンガの回」より
facebookのアカウントが無い方は、わたしか、やすゆきさんにtwitterで連絡してください

■オフ会の流れ

1. テーマに沿ったオススメ作品を持ってくる

オススメ作品は、本(紙でも電子でも)、映像(映画や動画)、音楽、ゲーム(Switchからボドゲ)など、なんでもあり。持ってきた作品はテーブルに並べよう。

2. お薦めを1人5分くらいでプレゼンする

あなたのオススメを存分に語ってほしい。刺さったところを音読するもよし、自己流の解釈もよし。DVD、ブルーレイ、Youtube はプロジェクターで再生しますぞ。

3. 質問とオススメ返しの時間

あなたのオススメに、観客から質問やオススメ返しされる。「実は私も好きなんです!」と同志が見つかったり、「それが好きならコレなんていかが?」なんてオススメ返しされたり。このリアルタイム性が嬉しいところ。プレゼンに優劣つけたり投票はしない(ここ重要)。

4. 放流できない作品は回収する

「放流」とは本の交換会のこと。交換できない絶版本・貴重な作品は、このときに回収しよう。

5. 交換会という名のジャンケン争奪戦へ

回収が終わったら、交換会になる。「これが欲しい!」と名乗りをあげて、ライバルがいたらジャンケンで決める。ブックシャッフルともいう。

以前のスゴ本オフのレポートを紹介する。雰囲気はこんな感じ。もっと知りたいなら、右側のリンク「過去のスゴ本オフ」からどうぞ。

テーマ「冒険」
テーマ「猫と犬」
テーマ「早川書房・東京創元社しばり」

テーマ「結婚」の回より

04

 

テーマ「早川書房・東京創元社」の回より

04

 

テーマ「音楽」の回より

05

「これはお薦めしたい」という熱い思いのたけをぶちまけてもよし、まったり語り合うのもよし。ぜひご参加あれ。

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女の「お尻」は何に縛られてきたのか『お尻の文化誌』

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女のお尻のすばらしさについては、室生犀星が力説している。人間でも金魚でも果物でも、円いところが一等美しいのだという。人間でいちばん円いところは、お尻になる。故に、お尻が最も尊くて美しい場所なのだ。どうせ死ぬなら、お尻の上で首をくくりたいという。同感だ。

しかし、『お尻の文化誌』によると、女のお尻というものは、様々な視線を浴び、いろいろな道具に覆われ、拘束されてきた。女のお尻というものは、そのままの状態であったことは少なく、絶えず評価され、比べられ、鍛えられ、覆われ、曝されてきたというのだ。

「女のお尻」を歴史から語ったものが、本書になる。お尻そのものに焦点を当てたのはジャン ゴルダン『お尻とその穴の文化史』だが、本書はお尻そのものに加えて、「そのお尻を見てきた視線」に焦点を当てている(←ここが面白いところ)。

女のお尻は誰が見てきたのか?

「お尻」の部分は、そのままでは自分で見ることができない。合わせ鏡を使うか、スマホで撮影する必要がある。

一方で、他人のその場所を見るのは簡単だ。胸を見ているのはすぐに気づかれてしまうが、お尻であれば、こっそり観察することもできる。つまり、お尻とは見られる人よりも見る人に属しており、他人に委任されている場所だというのだ。

女性のお尻は、人種の序列を作るための道具や、性的や欲望や能力の尺度として利用されてきた。お尻の形や大きさは、お尻の見え方を変えるための手段がほとんどないにもかかわらず(いや、ないからこそ)その持ち主の本質とされ、女性の道徳観、女性らしさ、そして人間性までがお尻で測られてきたのだ。

そして、女のお尻を見る存在を炙り出そうとする。もちろん、女のお尻は老弱男女の視線を浴びてきたが、「女の尻とはかくあるべし」という先入観を形作ってきた視線があるという。

それは、覇権主義的な西洋文化における、白人・男性・ストレートの人々だという。彼らは、政治や科学、メディア、文化の分野で権力を握り続け、何が正常で何が異常かを選別し、お尻にまつわる基準や嗜好やイデオロギーを社会に押し付けてきたというのだ。

ナターシャ・ワグナーのお尻

象徴的な例として、ナターシャ・ワグナーのお尻が挙げられる。

ナターシャ・ワグナーはモデルだ。

Levi's や GAP といった大衆向けから Vince、7 For All Mankind 、Proenza Schouler などの高級ブランドで引っ張りだこになっている、デニム用のフィッティングモデルだ。ビジネス界での最高のお尻と呼ばれており、「このお尻がこの国を形作っている」とヴォーグ誌が評するお尻の持ち主だ。

「あなたが女性なら、彼女にフィットするようにデザインされたジーンズに、一度は足を通したことがある」とまで言われている。

Secret Fit Model Claims She Has the Best Bottom in the Fashion Industry (youtube.com)

では、なぜナターシャのお尻なのか?

それは、彼女の完璧な平均性(perfect average)に拠るからだ。身長とウエストサイズのバランスのつり合いがとれており、体のラインが細すぎず、太すぎず、特定のタイプに限定されない。極めて「平均的なアメリカ人」お尻であるが故に、「理想的なお尻」とされる。

ちょっと待て。

「平均的」というからには、母数があるはずだ。「アメリカ人の女性」といっても、アングロサクソンだけでなく、アジア、ヒスパニック、プエルトリカンなど、背の高さから体形も様々だ。サンプリングしたうえで「平均」を割り出したのだろうか?

本書によると、そうではなく、あくまでファッション業界にとって「平均」であり「一般的」なサイズになる。言い換えるなら、7 For All Mankind の購買層にとっての平均が、ナターシャのお尻になる。ABCニュースのリポーターと、後ろで手を振っている人々が「アメリカ人」の平均的なサンプリングでないことは、一目瞭然だ。

著者がジーンズを試着するエピソードが象徴的だ。色々なサイズを試すのだが、何かに合わせると、どこかが合わなくなる。ウェストが良くても、お尻がぶかぶかになり、お尻に合わせると、太ももが窮屈になる。最終的に、どこかを押し込むハメになり、その度に、自分の身体は「理想」ではないことを思い知らされ、惨めな気持ちになるというのだ。

サラ・バートマンのお尻

もう一つの象徴が、サラ・バートマンのお尻になる。

サラ・バートマンは、南部アフリカ出身の女性だ。

黒人奴隷として生まれ、18世紀末にイギリスへ渡り、大道芸人として見世物にされ、1815年に没している[Wikipedia:サラ・バートマン]。彼女のお尻は非常に大きく、大きなお尻は好色であるとされ、「ホッテントット・ヴィーナス」と呼ばれた。

Baartman.jpg
Wikipedia:サラ・バートマンより

バートマンのお尻は、エキゾチックとエロチックが融合した象徴として大人気を博することになる。その人気は根強く、彼女の死後も解剖され、ホルマリン標本として保存され、博物館に展示されることになる(現在は故郷の地に埋葬されている)。

本書によると、バートマンのお尻は、植民地主義と奴隷制度の象徴になる。

アフリカの人々は、ヨーロッパ人よりも原始的であり、それゆえ、キリスト教化や教育による導きが必要であることを正当化するために利用されたというのだ。さらに、彼女のお尻は、「アフリカ人は生まれながらにして白人女性よりも性的だ」という偏見の証拠ともみなされたという。

ノーマのお尻

「正しいお尻」があるとしたら、それはどのようなものか?

一つの解答が、ノーマのお尻になる。

1944年にアメリカで作成され、クリーブランド健康博物館で公開された2体の彫像だ。裸体の立像で、一つは男性で、もう一つは女性になる。ノーマン(Normman)とノーマ(Norma)と名づけられ、「普通のアメリカ人」を表したものとして展示されたものになる。

彫像の制作にあたって、「科学的な」アプローチが取られたという。1万5千人のアメリカ人を調査して、身長体重を始めとし、両足の付け根の周囲や、前股上の長さ、太ももの最大の周囲など、58部位を精密に測定したという。主観を排するため、第一次大戦中に徴兵された米兵のデータも用いたともある。

そこから得られた身体の各部位の「平均値」が元となっている。二人は、アメリカ生まれの「正しい」白人として、たくましく、繁殖力があり、健康的で、唯一無二の存在として、来館者にその裸体を見せつけている。

彫像の写真は、Cabinet THE LAW OF AVERAGES 1: NORMMAN AND NORMA や、ハーバード大学のウォーレン博物館コレクションで見ることができる。正面から撮影された映像のため、お尻そのものを確認することはできないが、若々しい容貌と、豊かな腰回りから、引き締まった大きなお尻であることは想像がつく。

しかし、本書はこれに異議を唱える。調査対象が歪められていることを告発する。

調査対象は1万5千人とあるが、最終的には1万人のデータしか使われていなかったという。捨てられた5千人には共通点がある。

  • 中年や老人
  • アジアやプエルトリコ系などコーカソイド以外
  • 著しく太っている

つまり、太っていない若い白人の平均値を、「普通のアメリカ人」としたのだ。結局のところ、ノーマは「正しいアメリカ人」の女性の合成物となるように創られたという。女性らしさを定義し、誰が子孫を残すべきで、誰が残すべきでないかをはっきりさせる彫像がこれなのだ。

「普通」(normal)という言葉を由来として命名されたノーマだが、果たして「普通のアメリカ人」だったかどうかは、眉唾で見る必要があるだろう。

本書では、他にも「フィットネスで鍛えられた鋼鉄のお尻」や「バッスルで成形された巨大なお尻」「シャロン・ストーンの股に取って代わったジェニファー・ロペスのお尻」など、様々なお尻が登場する。

そして、それぞれのお尻のエピソードから引き出される偏見や先入観、「女とはかくあるべし」というイデオロギーを炙り出す。女のお尻は、その持ち主から奪われてきたというだけでなく、現代の女性も、そうしたイデオロギーに囚われていることが見えてくる。

お尻はなぜ人々を魅了するのか、美の基準はなぜ時代ごとに変わるのかを、人種、ファッション、科学、文化からたどった、女のお尻史。

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現代用語のエロ知識『アダルトメディア年鑑2024』

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FANZAに日参してるから、よく知っていると思っていた。だが、大まちがいだった。いかに自分は分かっていないか、エロがどれほど広くて深くて激しいかを思い知らされた。

『アダルトメディア年鑑2024』は、「エロ」と呼ばれる性メディアの現在を可能な限り網羅的に切り取ったものだ。マンガ、ゲーム、アニメ、実写動画、小説、音声といった媒体からの紹介や、商業・同人、合法・地下、生身・CG・生成AIといった切り口で、エロの今が詰め込まれている。

私が知ってるのなんて、マンガとゲームの中の、ほんのちょっぴりの欠片でしかなく、それでもって現代エロを語ろうとしていたのには恥ずかしくなる。

とはいえ、私だけに限ったことではないようだ。執筆者たちの座談会で分かったのだが、みんな自分の沼しか知らない。エロが好きだからといって、全ての沼に浸っているわけではなく、好きな所しか知らない。エロとはそういう、個人的で密やかなものなのだろう。そのため、他は知らないままイメージで語ってしまう人も多いという。

だから、本書のような「今のエロ」を集大成したものが貴重になる。

どこに勢いがあって、どんな変化が訪れているのかを知ることができるから。自分が触れているエロだけで、「エロとはこんなもの」という群盲象を評す状況から脱し、「今のエロ」を眺める、そんな一冊がこれ。

「音声」は無規制

例えば、いまアダルトとして存在感が増しているのが「音声」だという。

歴史的には2000年頃からあるのだが、完全に一つのジャンルとして定着している(本書でも音声だけで1つの章が割かれている)。嬌声が入っているエロカセットでドキドキしていた高校時代が懐かしいが、今では全くアプローチが違う。

まず、音の品質がめちゃめちゃリアルになっている。Neumann KU 100というダミーヘッドマイクを使った立体音響(バイノーラル音響)が紹介されている。

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Amazonで130万!

これは人間の頭を模しており、両耳の場所にマイクロフォンカプセルが組み込まれている。この頭部に向かって音声を発することで、聴いている人があたかもその場所にいるかのような錯覚を与えることができる。

音像のリアルさがアピールポイントとなっており、これを充分に活かすために、シナリオは一人称視点で、マイクの前の声優がこちらに話しかけてくる体裁をとる。また、耳元でゾワゾワさせるASMR(自律感覚絶頂反応)も畳みかけてくる。

同人ボイスの沼は深い。初心者はどうすればよいか?

本書では「同人音声の部屋」というレビューサイトが紹介されている。個人で運営されているブログで、2013年から現在にわたり、2500点を超える大量の作品をレビューしており、信頼できる情報源だという。

試みに10点満点で紹介されている「【超密着×むちむちJK】ローションロッカー部【フォーリーサウンド】」を聴いてみたところ、これは完全にヤベぇやつだということが判明した。

思春期男子の性の悩みを解決する部活の話で、3人のJKと濃厚接触するという設定なのだが、ロッカーの中で 1 on 1 でローションにまみれる。狭い空間での密着感と臨場感がハンパなく、喘ぎ声や吐息、ちゅぱ音が至近距離で響く。

ショボいスピーカーで聴いただけなのだが、「音」だけでここまで凄いのかと感動する。甘い声が鼓膜を直接くすぐってくる。人間の舌だと、せいぜい耳朶や耳殻を舐めまわす程度だが(これでも十分えっちだが)、これは脳を震わせにくるやつ。耳と脳がダイレクトにつながっていることが分かる。

これ、良いイヤホンやヘッドホンで聴いたなら、それこそ顔の前で触れられてるように感じるに違いない。誰でもスマホとイヤホンを持っている時代だからこそ広がったジャンルとも言える。さらには、「スマホとイヤホンで聴く」という前提で物語が構成されるジャンルだとも言えるだろう(ローションロッカー部に限らず、1 on 1 で密着シチュエーションの作品ばかりだった)。

音声には他ジャンルにはないアドバンテージがあるという。それは、音声同人はどんなにエロく作っても、基本的に刑法第175条(わいせつ物頒布罪)には触れない所だ(ここ重要)。マンガや動画だと消しやら塗りやらモザイクといったグレーな部分が存在するが、音声は何でもありだろう。

生成AIの破壊力

生成AIの凄さは毎日のように実感している。

えっちなやつは特にそう。

成熟した身体に幼さの残る顔立ちの美少女(非実在)がいくらでも生成できてしまう。6本指だったりラーメンが食べられないなんてのは過去の話で、グラビアアイドルとして「ふつうに」見える。静止画のみならず、エロアニメーションもあるが、いわゆる実用度からするといまひとつといったところか。

しかし、自分が観測している範囲より、もっと複合的な展開を見せているようだ。

例えば、AIと実写の複合だ。「木花あい」という実在するAV女優で、Gカップの肉感的な体つきをしている。男優とのセックスも実際に行われている。ただし、顔だけがAIで生成されている。横を向いた時の表情に若干違和感があるものの、かなりの完成度とのこと。

これは、AVに出演したいと考えている女性にとって福音だろう。身バレ顔バレのリスクを懸念して二の足を踏んでいるこの問題は、AIによってクリアされるからだ。

アイドルや女優のコラ画像の動画版をディープフェイクというが、違法で野良扱いされている。「木花あい」は公式版のディープフェイクになるだろう。この流れでいけば、実在アイドルを生成AIの追加学習モデルに食わせて、3DCGのAVにしたり、顔が生身で身体が生成CGという組み合わせも可能になるかもしれぬ。

文字通りAIが破壊するのもある。

普通にAVを観ようとすると、局所にモザイクがかかっている。これに対し、AIを用いて画像を再現させたものだ。

もちろん元の画像は流出していない前提なのでモザイクを複合化しているわけではない。しかし、膨大な学習データから予測再現することなんてAIはお手の物だ。限りなく原型に近い状態で観ることができる。

「モザイク破壊」、英語だと「Reducing Mosaic」、中国語だと「無碼破解」になるという。女優名とこのキーワードで検索すると、ほとんどの作品があるという(よい子は検索しないように!特にキーワード+女優名で検索しちゃダメ絶対)。

なお、私用で使う分には、Githubに公開されているコードをダウンロードすることもできる。「モザイクを除去する」と謳った怪しげな機械が通販で売っていたが、今や指先一つで自動化できる時代になった。

「VR」は喋るAV

Beat Saberの動画を見ていると、Meta Quest が猛烈に欲しくなる。だが、このゲームのためだけに高額な機器を買うのは、ちょっと抵抗がある。

だが、そんな私に朗報だ。アダルトVR元年と言われた2016年から7年が経過し、アダルト作品が充実しているという。機器の性能向上に伴い画質もどんどん良くなり、没入感も上がっているそうな。

そして、VRの特性を活かした映像がどんどん出ているらしい。つまりこうだ、VRだから顔を向ける方向が見る方向になる。あるシーンを複数の視線(=カメラ)から再現するのではなく、そのシーンにいる自分の一人称に特化した視線で作成されている。

例えば、カメラを少し上に向けて騎乗位をダイナミックに撮影した「天井特化型」や、カメラを少し下に向けて臨場感のある正上位を撮影する「地面特化型」等があるらしい。普通のAVでも手持ちカメラやスマホ撮影で可能だと思うが、VRだとまた違うのだろうか?

面白いことに、アダルトVRで最も重要なのは、トークだという。

なぜなら、VRは長回しで撮ることが多いため、どうしても同じようなセリフを何度も言いがちになる。普通のAVであるならば、画角を切り替えたり接写することで同じセリフを違った目線で演出することができる。撮る方も観る方も視点が変わらないVRは、いかに喋りで新鮮さを出すかがポイントだというのだ。

特に、後にVR女王と呼ばれる「美咲かんな」。彼女は文才があってボキャブラリーが豊富のため、アドリブでのセリフがどんどん出てきたという。「気持ちイイ?」的なセリフだけでも10ぐらいバリエーションがあり、これが作品のヒットにつながったという。

VRの進化が画像をリアルにした結果、喋りによる差別化が露わになったと考えると、たいへん興味深い。

さらに、本書の表紙となっている「次元アイリ」が凄い。バーチャルアイドルは、それこそ山ほど現れては消えていったが、アダルトで3DCGでVRなのが新しい。18歳処女という触れ込みだが、完全なる非実在美少女といえるだろう。

今のところはVRで「鑑賞する」だけだろうが、もっと進むと、コントローラーでこちらから刺激を与えることができるだろうし、さらにインタラクティブに「体験する」ことや、そこからフィードバックを得ることだってできるかもしれぬ。

この先に、ソードアートオンラインやクラインの壺の世界があるかと思うとワクワクしてくる。技術は世界を変えていくが、その技術を社会に普及させていくのはエロパワーなのかもしれぬ。あるいは、サイバーパンクエッジランナーズにおける、性具と同期したVRに耽る世界か(AVと同期するオナホは既に売っているので、インタラクティブに反応するAIを組み込んだVRは、2077年を待たずに実用化されるだろう)。

エロのパワーが社会を変える

今のところ、時間とお金を惜しまない好事家だけが知っているLoRAやGithubやOculusの「技」も、そのうち、一般のご家庭でお手軽に利用できるようになるかもしれぬ。

一般家庭にVHSを普及させたのはAVだったとか、エロサイト見たさにモデム繋いでネットする人が激増したおかげで、インターネットが普及した……といった俗説を耳にする。エロスへの探求心こそが、社会を変えているのかもしれぬ。

その意味で、わたしの知らない世界を拡張してくれた一冊と言える。「におい」フェチの女子高生を描いた『香原さんのふぇちのーと』は知っていたが、凄腕のマッサージテクニックでJKの心と身体をほぐす『さわらないで小手指くん』は知らなんだ(ただ「さわる」だけでこんなにもエロいのか!と驚いた)。

ananがセックス特集を時折するのは知っていたけれど、Webメディアに出ている雑誌系に、今時の女性の恋愛観がセキララに綴られているのを知らなんだ。例えばこれ。

男子禁制女子トーク:秘密のanan
彼氏が欲しいお悩みから笑える恋愛小話まで:ar
恋愛と婚活の悩み+男性心理研究:MORE
メンヘラ系が充実している:WithOnline
エロい告白を集めた:エロコク

いわゆる「女性のホンネ」的なものは、SNSやテレビで伺い知るしかないのだが、出版社のウェブ経由だと過激なものが交じってくる。「ネット」と「エロ」といえば男の独壇場だと思っていたが、それは勝手な思い込みのようだ。

他にも、「闇に葬られたフェミニストAV」「本業と副業が逆転した同人業界」「現代の闇市パトロンサイト」など、知らない沼ばかりなり。エロスのパワーは社会を変える。未来が変わるとしたら、その胎動はここから始まっていると感じられる。

現代用語のエロ知識が詰まった冒険の書。

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『ナチスは「良いこと」もしたのか?』と『縞模様のパジャマの少年』

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「ナチスがしたことは悪行だけではない。良いこともした」という言説を見かける。悪の代名詞とも言われるナチスだが、評価できる部分があるという主張だ。

例えば、公共事業を拡大して失業者を減らすことで経済復興を果たしたり、充実した家族政策により出生数を向上させた。もちろんそれでナチスの蛮行が減殺されることはありえないが、これらは「良いこと」と言えるのではないか、という意見だ。

『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』は、こうした見方に異議を唱える。ナチスがした「良いこと」とされる政策の一つ一つを取り上げ、その背景や目的を精査し、ナチスのオリジナルなものだったか、さらに成果を生んだものかを考察する。

結論を一言で述べると、著者のこのツイートになる。著者は歴史学者であり、ドイツ現代史を専門としているプロフェッショナルである。

ナチスの経済政策

例えば、経済政策だ。

ヒトラーが政権に就いてわずか数年でドイツの雇用状況が劇的に改善され、失業問題がほぼ解決したのは事実だという。雇用の安定と共に経済も回復し、国民総生産も急増したという。

ドイツの経済の奇跡はどのように成し遂げられたのか。その理由として、アウトバーンの建設や、様々な雇用創出計画が挙げられる。ナチスは「良いこと」もしたという人は、こうした経済政策を指摘する。

これに対し、前政権のパー ペン・シュライヒャーの政策を引き継いだものに過ぎないという。ナチスが何か新機軸を打ち出したわけではなく、いわば手成りの政策を踏襲しただけである。そのため、ナチスの功績として称えるには当たらないという。

さらに、ナチ政権下での雇用回復の原因は、ヒトラーが政権を握る前に、ドイツ経済が景気の底を脱し、回復局面に入ったからだという。恐慌時に大量解雇やコスト削減を進めた企業努力や、前政権の対策が効果を上げ始めていたが、それら全ては「総統の功績」としてプロパガンダされた。

まだある。ヒトラーの「ドイツ経済は4年後に戦争可能になっていなければならない」という計画の下、なりふり構わず軍備拡張に注力した。ダミー会社が発行する擬似公債「メフォ手形」を導入することで、軍需取引を国内外の目から隠し、最終的には国家支出の61%に達したという。爆発的に増えた財政支出を軍備に振り向けた結果、1936年頃から軍需産業を中心に好景気に沸くことになる。

これに加え、占領地域に対する経費・分担金の要求や、ユダヤ人からの収奪、外国人労働者の強制労働など、ナチスがした「悪いこと」が挙げられている。こうした背景を考えると、「ナチス政権で経済は回復したのだから、『良いこと』もした」というのは一面的すぎるという。

なお、ナチス体制を経済から捉えなおした白眉といえばアダム・トゥーズ『ナチス 破壊の経済』がある。訳者・山形浩生氏によると、「ナチスが果たした経済回復」という通俗的な理解を、膨大なデータを実証的に用いて覆しているとのこと [ALL REVIEWS ナチス 破壊の経済]

ナチスの家族政策

あるいは、ナチスがした家族政策だ。

例えば、結婚したばかりのカップルに100ライヒスマルク(現在の価値で70万円強)が貸与され、子どもを1人産むごとに返済が一部免除され、4人産めば全額もらえるという制度がある。あるいは、母親学校を開催し、乳児の下着やベッド、食料品などの現物支給があった。

だが、こうした支援策は、どんな政策とセットで行われたのかを考慮する必要があるという。支援対象となったのは、ナチスにとって政治的に信用ができ、人種的・遺伝的な問題もクリアされていることが前提となる。ナチスが「反社会的分子」とした人々はここから排除され、障碍者の場合は断種されていた。さらに、支援対象となっていても、子どもを産まない「繁殖拒否者」には罰金が科されていた。

こうした背景には、人種主義的な「民族共同体」を作るという目的があったことを指摘する。「人種的に価値の高い」ドイツ人を増やすための施策であり、結婚資金の貸付を行ったという部分だけを切り取って、「良いこと」とするのは短絡的だというのだ。

出生数の増加についても容赦がない。事実として、1000人あたりの出生数は、1933年には落ち込んでいた(14.7人)が、1939年に増加した(20.3人)。だがこれは、景気回復により結婚の絶対数が増えたためであり、出産奨励策の影響は限定的だという。

ナチスの独自性

他にも、労働者のための福利厚生や、環境保護政策、タバコ撲滅運動など、ナチスがした「良いこと」とされる政策について、背景や有効性を検証する。

一見「良いこと」に見えても、到底同意できない目的の下に実施されていたり、プロパガンダによってナチスの功績とされたことが次々と指摘される。

冒頭に引用したツイートに対し、賛同する声が上がる一方で、「ナチスはこんな『良いこと』もした」という反対意見が殺到し、炎上状態になった。本書は、そうした意見に対する、歴史学の知見からのアンサーとなっている。

この知見は、いま・ここでも適用できる。一見「良い」とされる施策でも、その目的が何であり、どのような政策とセットで行われるのかを吟味する必要がある。さらに、ある施策の一部分だけを切り取って「悪い」とみなす短慮も抑制すべきだろう。

一点、気になったのが「それはナチスのオリジナルではない」という論旨だ。経済政策や環境保護は、前政権の踏襲だったり、元々そうした時代背景の下に行われたものであるため、ナチス独自のものではない、という批判だ。

これは、参考文献にある『ナチスの発明』(武田知弘、彩図社、2011)へのカウンターとしての批判だろう。だが、ナチスのオリジナルかどうかは、「良い」「悪い」の判断とは別物のように見える。一時的にせよ奏功した施策について、ナチスの功績としてプロパガンダされているが、それは「ナチスの功績」ではない……という表現の方が妥当だろう。

ただし、この言い方だと「ナチスは良いこともした」という立場からの再反論を招くおそれがある。前政権の政策を踏襲したナチスの判断は正しかった、つまり「良いこと」ではないか、という主張が出てくる。

そのため、「ナチスのオリジナルかどうか」については、「良いこと」とは分けて考えたほうがよさそうだ。

健康帝国ナチス

N/A

本書で紹介されている、プロクター『健康帝国チス』には、国家ぐるみで健康施策を推し進めた経緯が紹介されている。

がん患者登録制度を導入し、組織的ながん研究を進めたことや、職業病とがんの関係を明らかにする実験を行ったこと、喫煙と肺がんの関係を世界で初めて確定させたという。

このテの話は警戒する必要がある。国民に「健康」を強要し、「役に立たない」と見なした人々を排除した歴史は、『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』で学んだ。

ナチスほど国民の「健康」に執着した組織はなかった。タバコとアルコールの追放運動を大々的に行い、X線検査、学校での歯科検診、身体検査を制度化した。全国的なキャンペーンが行われ、栄養のある食事、運動、休養が啓発された。「健康」を満たせない者は「役に立たず」として収容所へ送られた(アニメ『PSYCHO-PASS』や伊藤計劃『ハーモニー』を思い出す)。

「健康」は、一見、中立的な善に見える。だが、誰も反対しないからこそ、「健康」をレトリックとして、先入観を押し付けることができる。ナチスの場合、人種主義的な「民族共同体」を構築するための手段が「健康」だったといえる。こうした背景を考えると、禁煙運動をしたから「良いこと」もしたというのは短絡すぎるだろう。

ナチズムは、アーリア人種の優越の下、ハンディキャップのある人々を抹殺するというだけのものではなかった。領土を拡大し、ユダヤ人とジプシーを殺戮する、というだけでもない。ナチズムは、こうした概念を極端に推し進め、「ドイツ民族の生殖」を長期的に管理しようとする運動でもあったというのだ。

ナチズムが大衆の人気を集めたのは、ドイツ人におけるユダヤ人憎悪だけではないという。反ユダヤ主義はナチスのイデオロギーの中核だったが、大衆が惹かれたのはそこだけではなく、上述のような健康志向を始めとする「若さへの回復」を見たからだという。疲弊したドイツを浄化し、復活させる鍵としての「健康」が魅力的に映ったのかもしれない。

この指摘は覚えておく必要がある。

「健康」や「若さ」は、「良いこと」に見える。だが、これを免罪符にしてしまうと、あらゆる悪行が正当化されてしまう。一見、善に見える言葉であっても、無条件に飲み込むことのないようにしたい。

「良い」「悪い」といった言葉は、主観的で、個人の価値観や社会的な規範、そして時代や文化によっても定義が変わってしまう。「ナチスは『良いこと』もした」という人は、どこを切り取り、どういう価値観に則した上でそう言えるのかを明らかにしないと、水掛け論の沼にハマるだろう。

縞模様のパジャマの少年

N/A

ナチスがらみでもう一つ。

見ると確実に胸糞が悪くなる映画ワーストNo2である、『縞模様のパジャマの少年』を観た。このワースト順位は『後味が悪すぎる49本の映画』で付けられたものだ。

胸糞映画としてよく挙げられる『ミスト』(第10位)や『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(第4位)をブチ抜いているから、さぞかし嫌な気分になるだろう―――とワクワクしながら観た。

結論から述べると、Amazonの紹介文の通りだった。

忘れられない映画だ。力強く、言葉にできないほど感動的だ」(ピート・ハモンド)。純真無垢な8歳の少年ブルーノは、母親の言うことを聞かずに林へ冒険に出かける。すぐに一人の少年と出会い、奇妙な友情を育んでいく。舞台は第二次世界大戦下。人間の魂の力をテーマとするこの感動的で素晴らしいストーリーは、あなたの心をつかんで離さないだろう。

『後味が悪すぎる~』では「唯一無二の絶望感」と評するが、同じ絶望感は、ドラム式洗濯機にまつわる事故を知ったときに味わったことがある(検索しないように!)。

最初は、ナチスが流ちょうな英語をしゃべるのに違和感があるし、100回観た『大脱走』と比べると警備が甘いんちゃう?とツッコミを入れたくなるが、そこは仕方がない。

「縞模様のパジャマ」とは、収容所の囚人服だ。劣悪な環境でろくな食事も得られず、常に飢えている。そんな彼(シュムール)と出会い、鉄条網越しに友情をはぐくむ主人公ブルーノの物語だ。

これ、胸糞映画という警告抜きで、単純にポスター見ただけで映画館に入った人にとっては、酷すぎることになっただろう。少年の運命に唖然とし、その理不尽さに憤り、可哀そうに思って涙するだろう。

そして、その少年を不憫に思っている自分が、たまらなくイヤになるだろう。一緒になって収容されている他の人々は?背景のモブのように描かれているが、その一人一人が同じ運命に向かっていくのに、その少年を呼ぶ声だけに胸を裂かれている自分は?と思えてくる。

素晴らしく胸糞悪いラストは、絶対に忘れることが無いだろう。そして、嫌な気分になりたいときに、このポスターを眺めるだけで味わえる。

収容所で行われたことは悪魔の所業そのものだが、ラストは、運命が悪魔に抗っているとみなすこともできる。悪に抗っているという一点だけを切り取れば、「良いこと」といえるだろうか? いや、決してそうは言えない。どう切り取っても悪でしかなく、悪いことしか起きない映画として傑作だ。

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「あのときやっときゃ良かった」という後悔は、実際にはやれる可能性などなかったのだからソク忘れよう

これは友人の話なのだが、「やれたかも」という夜は確かにあるそうだ。

「飲み会で意気投合した女の子と帰りの電車がたまたま一緒で、飲みなおそうという流れからカラオケへ」とか、「夏合宿の雑魚寝が寝苦しくて抜け出したら、後輩の子がついてきた」とか。

だが、イイ感じなのはそこまでで、「朝まで歌っただけ」とか、「ちょっと雑談してから部屋に戻って寝た」とか、他愛のないものに収束する。

まんざらでもない態度や視線に、選択を間違えなければチャンスをモノにできるはず……だが悲しいかな、ヘタレ童貞は何をどうすれば良いかわからない。ギャルゲ―なら2つか3つの「選択肢」だけだが、リアルは無限だ。深夜、女の子と二人っきりというシチュに、胸の鼓動がドキドキ目先はクラクラ、何も思い浮かばない。

かくして何も無いままとなる。その後の進展もなく(むしろ素っ気なくなる)、「やれたかも」は、「かも」のまま、思い出となる……と、その友人は言っていた。

そんな思い出を抱える人たちを、『やれたかも委員会』は、こう励ます。

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吉田貴司『やれたかも委員会』第1話より

「あのときやれたかもしれない」―――そんな美しい思い出を、全力でブッ壊しにくるのが、本書である。

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『「あのときやっときゃ良かった」という後悔は、実際にはやれる可能性などなかったのだからソク忘れよう』は、飲み屋街でクダ巻いているおっさんの名言集だ。アルコールが入っている分、下卑たものや差別的なヨタも交じっているものの、じんわり沁みるセリフや、刺さる至言もある。表立っては聞けない人生の経験則がこれだ。

やりたいことは、やれるうちに

このアドバイス、当たり前といえば当たり前のことなのだが、彼の話を聞くとまた変わってくる。

歳とってからやればいいと
思っていても、
いざ歳をとってしまうと
しんどくてやらない
(男・48才)

就職して最初のボーナスが出た時、両親に海外旅行をプレゼントしようとしたという。彼が23才で、両親が50前後の時の話だ。ところが両親は、旅行なんて歳とってからでも行けるから、いらないって断ってしまう。

そんなもんかと話は立ち消えになるのだが、月日が経ったいま、あのとき行っておけば良かったと両親の後悔を聞かされる。歳をとると、時間はあるけどしんどくて意欲が無くなってしまうのだと。

これ、わたしの自戒の言葉「あとで読むは、あとで読まない」に通じる。いずれ、そのうち、ヒマになったら読もうと積む本は、必ずといっていいほど、あとで読まない。そうこうするうち、気力が萎えて読めなくなり、積読山に囲まれて衰えていくだろう。問題なのは、積読山に囲まれて死ぬのではなく、死ぬまでの長い時間を、読む気の失せた積読山に囲まれて過ごすことだ。

俳優と政治家の共通点

なるほど!と思ったのはこれ。

俳優だけ二世が多いのは 誰でもできるから
(男・46才)

お笑いとか音楽の世界では、二世は最初だけ話題になって、すぐ消える。あれは、客が善し悪しを判断するからだという。どんな漫才師の息子だろうと、つまらないヤツはつまらないし、ミスチルの息子だからといって売れるわけじゃない。

でもなぜか、俳優だけは二世がはびこっている。

理由は客が上手い下手を判断できないから。客は演技の上手い下手なんて求めていないし、よっぽどの大根でない限り、誰でもできる。ダメな俳優にダメ出しをしない(できない)業界にも問題があるのかもしれない。

これは政治家も然り。善し悪しで判断されるのではなく、カバン(金)、カンバン(知名度)、ジバン(後援会)で誰でもできるから二世が蔓延るのかもしれぬ。

会う人を大切に

かなり刺さったのがこれ。

今生の別れは 気づかない
(男・59才)

「今生の別れ」とは、これを最後にして、生きている間はもう会うことがない別れのこと。ドラマや映画で、遠い異国に旅立つといった場面でお馴染みかもしれない。酒を酌み交わしたり、ホームで抱き合って泣いたりするあれだ。「今がその時」とはっきり分かっている形で演出される。

でも現実はそうじゃない。そんなドラマチックなものではなく、「あいつ死んだの?こないだ飲んだのに」という形で、突然に訪れる。人は死ぬ。これは絶対だ。だが、いざ死んでしまった時、「なぜ?」と問うてしまう。

だからこそ、人と会うときを大事にしたい。この気持ち、一期一会やね。

ロールモデルを意識する

せやな!と膝を打ったのはこれ。

親とちがって、先輩は選べる
(男・55才)

人生で誰に一番影響を受けるか―――親とか恩師とかいう人もいるけれど、ほとんどの人は少し上の先輩に影響されているのでは?という。

進路を決めるときや、仕事を決めるとき、身の回りの少し上の人に憧れて決めてきたという。そのとき目指す先輩は、それぞれ違う人だったかもしれないけれど、大なり小なり影響を受けてきたのではないかというのだ。

そして、親や上司は選べないけれど、先輩は選べるという。しょうもない先輩につかまるのではなく、敬えない先輩とは付き合う必要なしと説く。代わりに、「あの人だ!」と言える人を探せというのだ。

これは確かにそうかも。決定的な指針をもらうというよりも、「なんとなく良いかも」という「なんとなく」は、思い返すと先輩からもらってきたような気がする。新しい環境になったとき、無意識のうちにロールモデルを探していた。

これは読書猿『アイデア大全』で紹介されている「ルビッチならどうする?」につながる。人生の師匠・メンターを予め決めておき、行き詰まったときにその人に問うのだ。ポイントは、その人が先輩のような身近な人でなくてもいいこと。既に他界した人でも、フィクションに登場する人でもいい。孟子の「私淑」を実践してきたといえる。

中年初心者向けの名言

既に知ってたものもある。こんなの。

  • ほとんどの不調は、睡眠が解決する
  • 無理やり勃起させると、緊張は治まる
  • 口説くときは文字で、ケンカは会って
  • 田舎の人は圧力を受けながら生きている
  • 眠れない夜は横になって目を閉じているだけでもいい

けれど、こうしたセリフがなぜ出てきたのか、どうしてそう考えるようになったのかを語るおっさんたちの身の上を聞いていると、爆笑したりしんみりしてくる。

当たり前すぎるけれど、その言葉を吐くまでの半生の積み重ねが重い。「人生のネタバレだよ」なんて言って若者に薦めたいけど、おそらくピンとこないかもしれない。むしろ中年になったばかりの自覚のないおっさんに読んでもらうと、「そうかも」と思い当たるかもしれない。

人生は巻き戻しても同じ

タイトルにもなっているこれは、童貞時代の美しい思い出を殺しにかかってくる。

「あのときやっときゃ良かった」
という後悔は
実際にはやれる可能性など
なかったのだから
ソク忘れよう
(男・42才)

このおっさんの理屈はこうだ。

―――もっと色んな女の子と、あのときヤレたのにヤレなかったのがもったいない……なんて悔しい気持ちになることもあるかもしれぬ。

しかし、ヤル気になればヤレたのに、その子とヤレてないというのは、そのときの自分が最適だと思った行動の結果なんだ。どう転んでもその行動に向かっていった末に、やれなかったのだ。だから、最初からその子とヤルという選択肢など無かったことと同じ。

機会損失だと考えるから後悔するって発想になる。初めからそんなチャンスなんて無かったんだと考えたら、後悔することなんてない―――

その通りなんだけど、ミもフタも無いんだけど、涙が止まらないのはなぜだろう……

人生は巻き戻しても同じだ。

なぜなら、巻き戻される私も、同じように、未熟で童貞で女心を分かっていないあの頃に戻されるだけから。「ループもの」が物語として成立するのは、ループする存在が記憶なり経験を保ったまま、もう一度やり直せるから。

だけど、いま「やり直したい」と考える理由を、言葉にして伝えることができる。なぜ後悔しているのか、後悔しないためにどうすれば良かったのか、かつての自分にメッセージを託せるなら……本書は、そんなおっさんたちの魂の叫びを集めたものかもしれない。

わたしも含め、そんなおっさんたちに贈るのはこれやな。

今やり直せよ。未来を。
十年後か、二十年後か、五十年後から
もどってきたんだよ今

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本書は、はてなブックマークでmaketexlsrさんから教わった(ありがとうございます!)。前作の『他人が幸せに見えたら深夜の松屋で牛丼を食え』と一緒に、これも若い人……いや中年初心者にそっと渡したい。

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『後味が悪すぎる49本の映画』を読んだら、なぜファニーゲームが大嫌いなのか理解できた

後味が悪すぎる49本の映画

精神的ダメージがありすぎて、読んだことを後悔する小説のことを、劇薬小説という。生涯消えないほど深く心を傷つけるマンガのことを、トラウマンガと呼ぶ。

劇薬小説とトラウマンガは、このブログで追いかけているテーマだ。

最近なら、[BRUTUSのホラーガイド444] あたりが参考になるだろうし、最高傑作は、[スゴ本の本] の別冊付録で紹介している。許容範囲オーバーの激辛料理を食べると、自分の胃の形が分かるように、琴線を焼き切る作品を読むと、自分の心の形が分かるはず(痛みを感じたところが、あなたの心の在処だ)。

『後味が悪すぎる49本の映画』は、この映画版だ。観ている人の気分をザワつかせ、逃げ道を一つ一つ塞ぎ、果てしない絶望に突き落とし、胸糞の悪さを煮詰める―――そんな作品が紹介されている(49は主に紹介される作品であり関連する他の胸糞も合わせると100を超える)。

ハッピーエンド糞くらえとばかりに、嫌な映画をこれでもかと並べてみせてくれる。下品だったり悪趣味だったり、観た後、確実に気分が落ち込むような作品だ。

いわゆる、恐怖をテーマとしたホラーに限らない。ゾンビや殺人鬼がいなくても、おぞましく理不尽な映画は沢山ある。むしろ、モンスターが普通の人間に見える方が、何倍もおそろしく、リアルだ。

そんな胸糞作品を、なぜわざわざ観るのか?観るとダメージを食らうのに、時折、無性に食べたくなるのはなぜか?私の理由は、[なぜイヤな映画をわざわざ観るのか] で語った。

わたしが知らない胸糞映画

そして観るべき映画は本書から選ぼう。

なぜ本書が信頼できるのか?

それは、私にとって胸糞最悪の作品を、高く評価しつつ、かつ、私の知らないエグそうなのを紹介しているから。私の悪趣味にジャストフィットしながらも、未見の作品を先回りしてくれる、理想的な先達だからだ。

本書で紹介されている、ワースト10からも分かる。

もちろんワースト1が最悪中の最悪で、超有名な「ぜったいに観てはいけない」やつだ。私が観たのは3作品しかないが、正直、『ファニーゲーム』を凌駕する後味の悪さを堪能できるなら、ぜひ観たい。

  ワースト10 ミスト

  ワースト9 ファニーゲーム

  ワースト8 子宮に沈める(本書の紹介で観た。現実の方がエグい)

  ワースト7 未見

  ワースト6 未見

  ワースト5 未見

  ワースト4 ダンサー・イン・ザ・ダーク

  ワースト3 未見

  ワースト2 縞模様のパジャマの少年(本書の紹介で観た。唯一無二の絶望感)

  ワースト1 未見

ネタバレに配慮しつつ、読ませる批評も面白い。その作品が、どのように作用して、どんなダメージをどれくらい食らったかを、詳細にレポートしてくれる。著者自身のダメージのみならず、映画業界から社会現象への影響もまとめてくれており、ありがたい。

  • 史上最強の薬物防止啓蒙映画(レクイエム・フォー・ドリーム)
  • 2日くらい食事が喉を通らなくなった(バイオレンス・レイク)
  • 現実の顛末は検索してはいけない(子宮に沈める)
  • 唯一無二の絶望感(縞模様のパジャマの少年)
  • 最恐(ヘレディタリー/継承)
  • 鑑賞が拷問(ソドムの市)

おかげで、スタンリー・キューブリックが「全ての映画の中で最も恐ろしい」と評した作品や、映倫がR-18指定すら審理拒否した作品、裁判のやり直しまで引き起こした作品を知ることができた。

なぜファニーゲームが胸糞No.1なのか

本書のおかげで、嫌な気分の出所も分かった。

カンヌを騒然とさせ、発禁運動まで引き起こした問題作『ファニーゲーム』は、胸糞映画史上ぶっちぎりのNo.1だ。湖畔でバカンスを楽しむ親子3人と、そこを訪問する2人組の男の話なのだが、なぜこんなに大嫌いな作品なのか、2回観ても分からなかった。

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いや、おぞましさ、不快指数、いやらしさ、苦痛は分かりやすく伝染する(シナリオもカメラも、そういう風に仕込んでいる)。大ダメージを食らって立ち直れなくなるけれど、もう一度味わいたくなる。治りかけのカサブタを触って破って出血するように、また観たくなる(嫌いなのに!)。

なぜこんなに嫌いなのか?嫌いなのに観たくなるのか?

本書では、主人公補正というキーワードで解説してくれる。

脚本・監督のミヒャエル・ハネケは、ウィーン大学で心理学や演劇を学んだエリートであり、批評家から監督へ転身した経歴を持つ。そして、本作の中核にあるテーマは、ハリウッド映画への批判だという。

ハリウッド映画の主人公は、悪役に追い詰められ、窮地に陥っても、なんとか状況を打開しようとする。決してあきらめず、努力や工夫や運に助けられ、事態を好転させる(か、あるいは、そうでなくても何らかの決着に落ち着く)。

その展開は、観客が期待している「お約束」を満足させるために、主人公の行動が最終的に上手くいくように仕向けられている―――この主人公補正を見抜き、ことごとく潰していく。そして、絶対にやってはいけない「補正」を分かりやすく実行した後、どう考えても異常な展開に突き落とす。監督の悪意を、こう解説する。

これで観客の気分が悪くならないはずがないのだが、そんな観客に「あれれ、あなたは人が死ぬスリリングな映画が好きなんじゃないのかなナ?」と問いかけてくるのが本作なのだ。つくづく、性格の悪いインテリのおっさんの悪意が爆発したような映画である。

そうなんだ、映画が嫌いなんじゃなくて、監督の悪意が100%伝わってくるんだ。分かった上でやっているのだ、監督は。間違った意味でのカクシンハンなのだ。「映画でしょ!これは!最悪の!」と、こっちを指さしながらゲタゲタ笑っている監督が嫌いなのだ。計算されつくしたシナリオとセリフとカメラワークに、完全に手玉に取られ、かつ、映画を観て胸糞になっている自分も含めて計算されている展開が、とてつもなく嫌なのだ。

というわけで、本書のおかげで3回目が観たくなった(「役に立たないシナリオ」という前代未聞の展開が分かっていないので、確認してみる)。

こんな風に、未見の胸糞は観たくなり、二度と観たくない胸糞はもう一度観たくなるという、不思議なチカラを秘めた一冊。

あなたの胸糞をぜひ教えて欲しい。きっと本書で紹介されているはず。もしなければ著者である宮岡太郎さん( @kyofu_movie) に伝えると喜ばれるだろう。

 

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