ラテンアメリカ文学と聞いて、身構える必要はない。
「マジックリアリズムが難しそう」「『百年の孤独』で挫折した」という声を聞くが、難しいと感じてしまうには理由がある。読み方が、少し違う。
私たちは普段、以下のように小説を読んでいる。
- 誰が語っているのかが明白だ
- 出来事には原因と結果がある
- ラストには何かしらの意味が回収される
もちろん例外はあるけれど、王道があってこその逸脱として存在している。こうした暗黙の約束があるので、理解できた、納得できたという感触が残る。安心して読めるのだ。
だが、ラテンアメリカ文学作品は、現実と虚構、過去と現在、語り手と聞き手の境界が、はっきりと区切られない場合が出てくる。話者が入れ替わったり、いつの話なのか、夢か現か分からなくなったりする。
「結局のところ、何がどうなったのか?」という意味を目指すと、手ごたえが無くなり、フラストレーションが溜まる。いわゆる「あらすじ」に回収されない読書になる。「よく分からないけれど、確かに何かに触れた」という感覚だ。
ラテンアメリカ文学の巨匠・ボルヘスは言った。
詩や小説では、意味はさほど重要ではない。重要なのは、ある順番やリズムで語られた言葉が、読者の心の中に何を生み出すかだ。
――ホルヘ・ルイス・ボルヘス
だから、物語を理解するというより、体験するかのように触れあえばいい。世界の見えかたが少し変わる、そういう変化を楽しめる人にとっては、これほど豊かな読書体験はなかなか得られないだろう。
とはいえ、いきなり突入するのはお薦めできない。
名作とか代表作と言われている作品ほど、初心者にとっては過酷だったりするから。これは、読解力の問題というよりも、慣れ・ガイド・経験の有無だったりする。だから、『ラテンアメリカ文学ガイドブック』を推す。

ラテンアメリカ文学の代表的な作家100人を紹介し、読むべき作品も合わせて解説している。
かなり辛口なのだが、これは悪書を踏んで読者の時間を無駄にしないための優しさだと考える。つまり「何を読むべきか」と共に、「何を読まなくてもいいか」を判断するための材料も盛り込まれている。話題作だからといって褒めることもないし、逆に、時流に乗ったという事象ごとバッサリ切り捨てる口調もいい。
私の場合、自分の嗅覚だけを信じてきたけど、運よく当たりを読んできたことが、このガイドのおかげで分かった。
最初の一冊はアンソロジー
手触りを楽しむには、短篇集がお薦め。しかもアンソロジーだと、いろんな作家がお試しできるのでお得だ。

異常な物語が、淡々と描かれたり、スーパーナチュラルな展開なのに、描かれるのは男女の三角関係のドロドロだったり、何の説明も無く(しかし確信をもって)酷い最期に至る話が続々とある。出来事の異常さそのものよりも、異常の何気なさのほうに不気味になる。
この、「何気ない異常」の感覚こそ、マジック・リアリズムの本質だ。よく読むと明らかにおかしい。だが、登場人物や作者はおかしいと感じていないように描かれるのだ。
よくある「日常と非日常の境界が曖昧になる」というよりも、むしろ、もともと境界はないのだ。だから、小説に落とし込むときに生ずる、「異様の扱いが異常とされていない」ズレが、眩暈を引き起こす。
オクタビオ・パス、カルロス・フエンテス、バルガス=リョサ、ガルシア=マルケス、ビオイ=カサーレス―――ラテンアメリカ文学の沼で出会える大御所たちが、どういうお話を書く人なのか、どんな肌触りなのかを確かめることができる。岩波の短篇集はハズレなしというジンクスを再確認する、全部あたりのアンソロジー。
人工的な眩暈を楽しむ一冊。
お手軽に現実を見失えるコルタサル
次はぜひ、これを。

コルタサルが示す入口は、とてもありふれている。友達のアパートに滞在したり、カメラを携えて散歩にでかけたり、旅行帰りに渋滞にまきこまれたりする。そんな日常の出来事を追っていくうちに、紙の裏側、脳の外側にたどりつく。
目を凝らしても境界線なんて見つからない。知らないうちにわたしの常識が通用しない場所に立っている。登場人物だけでなく、読み手ごと、世界ごと"もっていかれる"感覚に酔う・揺らぐ。「夜、あおむけにされて」は眩暈と吐き気を味わう。「南部高速道路」なんてご丁寧にも、"もっていかれた"あと、"もどされる"感覚で、まっすぐ立ってるのが難しいくらい。
さもなくば、最初から「あちら」と「こちら」が交ざっている作品もある。区別不可能な「混ざっている」ではなく、見分けのつく「入り交じり」だ。注意深く進めていくうち、「あちら」と「こちら」がついに混じりあうところに達すると、分別することの無意味さに気づく。「すべての火は火」を読了後、逆まわしに読むならば、より合わさった縄が解けるような気分になるだろう。
これは、構成と文章の超絶技巧もさることながら、著者の現実認識に因っているのではないか。伝える都合上、「あちら」とか「なにか」といった、現実とは別物のような物言いをしてきたが、そうした幻想的といわれる非日常は、もともと現実とつながっていると考えているから、こんな奇妙な感覚をもたらす小説になったのではないか。
つまり、現実が変化して非現実になるのではなく、メビウスの輪に表裏がないように、現実/非現実は地続きなのだ。
"現実への揺さぶり"が、クセになりそうになる。
エッシャー的無限に誘いこむボルヘス
度数の高い幻想ならこれ。

読むドラッグ。幾重にも読みほどいても、さらに別のキリトリ線や裂け目が現れ、まるで違った「読み」を誘う。シメントリカルな伏線の配置や、果てしなく反復される象徴されるものを、「罠だ、これは作者のワナなんだ」とどんなに用心しても酔える。
それでも囚われる。
語りはしっかりしてて、描写は確かだから、思わず話に引き込まれ、知らずに幻想の"あっち側"に取り込まれる。どこで一線を越えたのか分からないようになっているのではなく、「一線」が複数あるのだ!そして、どこで一線を越えたかによって、ぜんぜん違ったストーリーになってしまう。語り手の夢なのか、語られ人の夢なのか、はたまたそいつを読んでいる”私"の幻なのか、眩暈を見まいと抗うのだが、目を逸らすことができない。「「「胡蝶の夢」の夢」の夢」の夢……
ボルヘスは「作家のための作家」だ。
例えば、あらゆる本のあらゆる組み合わせが揃っている「バベルの図書館」は、まんまエッシャーの不思議絵をカフカ的に読ませる。「カフカ的」と表したのは、明らかな歪みや矛盾をアタリマエとして淡々精緻に記されている点がそうだから。作品でいうなら「城」だ、あの「城」に図書館があるのなら―――いや、もちろん"ある"に違いない―――まさに本作で描かれたまんまの無限回廊になっているはず。
あるいは、「隠れた奇跡」。まさに銃殺刑に処されようとする男に奇跡が訪れる話なのだが、似たプロットを手塚治虫の短編「処刑は3時におわった」で読んでいる。ぜんぜん違う話、かつ、どちらも傑作、そして読後やるせなさを感じるはず。
さらに、架空の世界を、「それが存在した」という要約や注釈で差し出している「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」もスゴい。最初は、このプロットの白眉であるレム『完全な真空』『虚数』 を思い出す。
だが、現実を侵食するようになり、ついには飲み込んでしまう様子は、ラヴクラフトをまざまざと呼び起こす。ラヴクラフトでは街や家に限定された「リアル」が、世界ぜんたいに拡張されている感覚になる。靴下が裏返されるように現実がでんぐりかえる恐怖を味わうがいい。
読むことで完成する「完璧な小説」
そんなボルヘスが「完璧な小説」と評しているのがこれ。

これは、読者が読み進める行為によって、初めて完成するという小説だ。
絶海の孤島に辿り着いた《私》は、無人島のはずのこの島で、毎晩パーティを開く奇妙な男女の一団に出会う。そこにいたある女に魅かれるが、彼女は《私》に不思議な無関心を示す。やがて《私》はグループのリーダー、モレルの発明した機械の秘密にたどり着くのだが……という話
どうやら、パーティに集う人々に、《私》の姿は見えていないようだ。まるで《私》が幽霊であるかのように、彼らは気づかない。これは罠なのか、油断していて捕えるつもりなのか、そう疑う語り手。
最初の謎は、早い段階でピンとくるが、問題はその後だ。秘密に気づいた《私》がとった行動が、非常に示唆的だ。それは、「わたし(《私》、読者)は、リアルに意識を這わせて生きている」欺瞞を暴く。わたしが現実だと思っている表象へのリアクションこそが、「わたしが生きる」ことを気づかせる。
「パーティを続ける人々と、それを見つめる《私》との関係」は、「《私》と、それを読み読者(=私)」と相対関係にある。つまり、以下の等式が成り立つ。
パーティに集う人々 : 《私》 = 《私》 : 読み手
この関係から、私が抱いている他者性に一撃を食わせる。《私》が見るのをやめれば、パーティの人たちは不在となるし、読み手である私が読むのをやめれば、《私》は不在となる。これは、他者を他者たらしめているのは、ほかならぬ自分自身であるという事実を突きつけてくる。
読むという行為を通じて、私が私であることが、何によって支えられているのかを改めて気づかせてくれる。オクタビオ・パスが「美しい水死人」の解説で書いたこの一文が示唆的だ。
肉体というものは想像上のものでしかなく、われわれはその幻影の圧政下に生きているのである。そうした中で、愛は特権的な認識であり、愛を通してわれわれは世界の現実だけでなく、自分自身の現実をも全体的、かつ明晰に把握することができるのである。つまるところわれわれは影を追い求めているにすぎないのだが、そのわれわれ自身もまたじつは影でしかないのである。
影でしかない存在が現実と関わっても、残すものは幻でしかない。それでも、関わろうとする情熱を支えているのは愛なのだ。表紙の女と、裏表紙の《私》の奇妙な関係が分かるとき、あっと驚くかもしれない(そしてきっと、二度じっと見るはずだ、表紙と裏表紙を)。
だが、それでも関わろうとする《私》は、たしかに現実を認識しているのだ―――私という読者が見ている存在とは独立に。
何回読んでも面白い『百年の孤独』
人生で3回読んだけど、3回とも違う意味で面白い。

ストーリーも展開もオチも分かっているのに、なぜ楽しめるのか?
まともな人間が(ほぼ)誰もいないブエンディア一族の奇妙な生きざまや、日常的に非日常が描かれるマジックリアリズムの磁力、あるいは、奇妙で悲惨でユーモラスなエピソードが隙間なく詰め込まれているストーリーは、読むほどにスルメのように味が出る。
しかし、そうしたストーリーやキャラだけでなく、『百年の孤独』の文体や構造そのものに、面白さが練り込まれているのかもしれぬ。
例えば、中毒性のある文章について。『百年の孤独』の書き出しが顕著なり。
長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、恐らくアウレリャノ・ブエンディア大佐は、父親のお供をして初めて氷というものを見た、あの遠い日の午後を思い出したに違いない。
もう一度言うが、これは書き出しだ。「銃殺隊」も「ブエンディア大佐」も「あの遠い日の午後」も、一切説明抜きで、この文章から始まっている。
疑問が次々と湧き上がるが、説明は一切無い。
そもそも、この文はおかしい。「長い年月が流れて」なら、未来の話だろうし、「あの遠い日の午後を思い出した」のは過去の話になる。では、これをしゃべる語り手はいつの場所にいるのか?あるいはこれを聞いている(読んでいる)私は、どこにいるのか?
もちろん、すべての物語が終わった後、神の目線から、過去のお話を聞いているのだという解釈は成り立つ。事実、ほとんどの文章は過去形なので、昔話の民話だと見なすことは可能だ。
だが、語り手自身が分かっていないことをしゃべっているようにも見える箇所がある。まだ起きていない未来の出来事だからと留保付きで述べるのだ。「思い出したに違いない」なんてまさにそうで、違和感がついてまわる(普通なら「思い出した」に留めるはずだ。なぜなら、すべてが終わった過去を振り返っているのだから)。
物語は進んでゆくうちに、「あの遠い日の午後」も語られるし、アウレリャノ・ブエンディアが「大佐」になるエピソードも紡がれるし、銃殺隊の前に立つシーンも出てくる。しかし、彼が夏の日の午後を思い出したかどうかは、そのシーン、つまり銃殺隊の前に立つ場面にならない限り、語り手自身も分かっていないのではないか―――そういう予感がついてまわる。
そんな文章が要所要所に練り込まれている。こうした違和感を掻き立て、目を留める引っ掛かりが設けられている。
これを一種のフラグ、伏線の変異体と見なしてもよいが、引っ掛かる度に、聞いている(読んでいる)この瞬間が、いつなのかを見失う。。
読み進めていくうちに、違和感の正体は、「銃殺隊の前に立つ」時と、「初めて氷というものを見た」時間、そして「思い出したに違いない」と語るときが、同じ瞬間に集約されているのではないかという疑いに変化する。そして読み終わるとき、この違和感は、『百年の孤独』そのものを貫く巨大な伏線だったことが明らかになる。
既視感と未視感が混ざったような、軽い吐き気を覚える。『百年の孤独』で感じる中毒性の正体の一つがこれ。
自分を酔わせているのがどこかが分かってても、眩暈が止まらない。マジックリアリズムの種が明かされても楽しめる、一生モノの一冊。
ラテアメ文学で最狂&最凶の悪夢
ラテアメ文学で、私のイチオシはこれ。

「おれ」の一人称で語られている他人の悪夢を覗いているうち、私自身がそこに居る。
夢だから、断片的で支離滅裂で、因果も時系列もデタラメだ。なのに、そこで起きた感覚だけは、べっとり肌身に粘りつく。
忌まわしい、ふりほどきたい、逃れたいのに、なぜか顔を近づけて嗅ぎたくなる。歯をむき出しにして齧りたくなる。語りかける口調に、思わず耳を傾ける。知りたくない(最悪の)展開を、目を凝らして待ち構える。嫌悪感と接近衝動の両方に衝き動かされるように読む。
そういう、中毒のような効果をもたらすのがこれ。読んだことを後悔するような劇薬小説だ。
語り手であるウンベルトの妄想という可能性は残しつつ、語られている対象はクリアに伝わる。物語られるモノは、極めて明瞭に描写される。
例えば、畸形のわが子<ボーイ>のために、世界中から畸形ばかりを集めて、畸形の楽園を作るエピソードがある。捻くれた背中や非対称な顔面、欠損した器官はむしろ「美」であり、私たちが普通だと感じる手足や姿かたちは、むしろ「醜」とされる。
あるいは、修道院で老婆に囲まれ、ウンベルトはインブンチェとなる。インブンチェとは、”縫い塞がれた”存在だ。目、口、尻、陰部、鼻、耳、手、足、すべてが縫いふさがれ、縫いくくられた妖怪だ。
ウンベルトは少しずつ切り取られ、老婆たちが吸収する。生きていくために必要な器官は、老婆たちのものと取り替えられ、元の身体は20%しか残っていない。
老婆たちはおしめを替えたり、服を着せたり、面倒は見てやるのだが、大きくなっても、何も教えない。話すことも、歩くことも。そうすれば、いつまでも手を借りなければならなくなるから。
成長しても、決して部屋から出さない。いることさえ、世間に気づかせないまま、その手になり足になって、いつまでも世話をする。このおぞましさは、江戸川乱歩『芋虫』や早見純の劇薬マンガ『ラブレターフロム彼方』を思い出す。
畸形や欠損が「前提」として扱われ、自然に語られる。そこには、忌避感も痛みも伴わない語りだけが続けられる。どんなに異様な内容でも、普通に起きるのが夢だ。だからこれを夢だとしてもいい(でも誰の?私の?)。
極彩色の悪夢を強制的に見させられているうちに、私は、語りの対象がオーバーラップしていくことに気づく。最初にウンベルトがいた「修道院」と、<ボーイ>がいた隔離「屋敷」が、同じ場所に重なっていく。ウンベルトがボーイとなることを暗示しているが、時系列的におかしい。窃視しているはずの「おれ」が実は「ボーイ」に見られてたり、経験していないはずの記憶を「おれ」が持っていたりする。
私は、安全な場所からの読者ではなかったのだ。
強者と弱者が入れ替わり、支配する者とされる者が転倒する。奪う/奪われる、見る/見られるといった立場の倒錯と、屋敷と修道院のそれぞれのキャラが相似形となっていることに気づき、融合し、闇の奥に閉じられる。語り手が完全に縫い括られる感覚と共に、物語は終わる。
狂気が正気の世界に呑み込まれる感覚は、こんなものなのだろう。あるいは、私が死ぬとき、現実に起きたことと頭の中で想像したことが、一度に一挙に超早送りされるなら、こんな光景なのだろう。
『夜のみだらな鳥』は、安易な理解を拒絶するが、読み返すほど愉しい。
それは、理解できなかったからではなく、むしろ逆で、「理解したと思った感覚」が、読み返す度に裏切られるからだ。分かった瞬間が罠で、ページをめくると、足元が崩れ去る。物語は崩れない。私の読みが崩れるのだ。
誰が語り、誰を見ているのか(見られているのか)、どこまでが記憶で、どこからが妄想か。判断基準が、普通の読み方では太刀打ちできず、毎回書き換えられていく。初読で「読んでる間ずっとカオス」「理解不能な混沌」と判断するのは簡単だ。だが、ひとたびこの悪夢に魅入られたなら、逃れるのは難しい。
つまり、再読は答え合わせではなく、別の悪夢を見るためのトリガーなのだ。読むたびに、読んでいる私の輪郭が、少しずつ奪われていく。信頼できないのは語り手ではなく、私自身なのだ。物語に理性を混濁させられる感覚は、一種の自傷行為なのかも。この悪夢に耐えられるか、正気でいられるかを、ぎりぎりで味わう。
その感覚が、たまらなく愉しい。
ラテアメ文学の美味しいところを紹介してきたが、ほんの一部にすぎぬ。『ラテンアメリカ文学ガイドブック』を観る限り、私自身、豊穣な果実を一口しか味わっていないことがよく分かる。
以下は自分メモ。読む前から面白いと断言できる傑作はこちら。楽しみすぎる。
- アルテミオ・クルスの死(フエンテス)
- 燃える平原(ルルフォ)
- 夜明け前のセレスティーノ(アレナス)
- ラ・カテドラルでの対話(リョサ)
- 蜘蛛女のキス(プイグ)
- 圧力とダイヤモンド(ピニェーラ)
ラテンアメリカ文学の魅力は、現実を壊すことではなく、現実のほうが最初から少しおかしかったと気づかせるところにある。
欧米文学(とその影響を受けた日本文学)では、現実との距離は「幻想文学」というジャンルで「安全に」守られている。そこでは、幻想と現実は対立したり包含する概念であり、文体や物語構造、あるいはジャンルといった明示的な印(しるし)により区別されている。だから、読み手は、安心して自分が狂っていない前提で読むことができる。
しかし、ラテアメ文学では、全てがあくまで現実に基づいたものになる。一見「現実ばなれ」した描写でも、書き手は何らかの現実に依っている。幻想と現実を分け隔てする印は無く、両者は最初から混交し、安心して読める「お約束」は消え失せている。
そして、読み終えた後、世界が変わるのではなく、私の世界への見方だということが、遅効性で分かる。そういうメタ的な悦びを喜ぶ愉しみが、ラテンアメリカ文学だ。論理性とか因果は、現実を理解するためにあるのではなく、私が狂わないための縁(よすが)の一つに過ぎないことが腑に落ちる。
ラテンアメリカ文学の沼にようこそ。
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