AIを調べると人間社会が見えてくる? ―― 東京大学「AIと人文学」シンポジウムまとめ

東京大学のホームカミングデイの企画「AIと人文学」を聴講してきた。

  • フレームを超えるAI:黒澤明『天国と地獄』を俎上に、「垣間見」「漏れ聞こえ」といった人の所作から、フレーム問題を再定義する(阿部公彦 教授)
  • 知の外在化と向き合う:井筒俊彦が描く学者像から「開かれた専門馬鹿」になるための「驚き(タウマイゼン)」の提案(古田徹也 准教授)
  • 人外センシングAI:小説・映画・会話等を通じた間接体験を学習させた上で、超音波や赤外線など、人に無いセンシングを装備して感受性を育てる研究(佐藤淳 教授)

どれも興味深いものばかりで、2時間が一瞬だった。ツッコミというか質問欲がもりもり湧いてきたのは私だけではなく、質疑応答は15分では足りなかった。ゲーム実況みたいにコメントで質問受けながら実況形式にしたら、すごいコンテンツになるだろう(人はそれを講義と呼ぶ)。

中でも興味深かったのが、社会に内在する無意識的な観念を、生成AIを用いて可視化する試み「AI社会調査」(瀧川裕貴 准教授)だ。

これまで、社会学での調査は、社会を「外側」から観察する手法が中心だった。統計調査やインタビュー、アンケートなどを通じて、家族・学校・メディア・コミュニティ等から内面化された価値観や信念を、間接的に推定するしかなかった。

しかし近年、生成AIの発展によって状況が変わりつつある。

AIは膨大な言語データに基づいて応答を生成するため、その言語モデルには、社会に浸透している価値観や前提、ステレオタイプがそのまま埋め込まれている可能性がある。言い換えれば、AIに問いかけることで、社会がどのような信念やバイアスを内包しているのかを、半ば「鏡」に映し出された像のように、直接観察できるというわけだ。

もしAIの応答に偏りが見られるなら、それはAIに「偏りがある」からではなく、AIが学習したデータ、すなわち社会そのものに偏りがあることを示唆する。AIは単に、それを増幅し、明るみに引き出す役割を果たしているといえる。

生成AIを、社会に沈殿した価値体系を可視化する媒体(メディウム)とする研究だ。

いくつかの研究例が投影されたのだが、話に夢中になってちゃんと記録していなかったのが痛恨の極み(泣)。かろうじて残った走り書きからすると、これ(のはず)。

言語に埋め込まれたバイアス

Gender stereotypes are reflected in the distributional structure of 25 languages(Molly Lewis & Gary Lupyan, 2020) [URL]

これは、言葉にある暗黙のステレオタイプを調べる試みだ。英語、フランス語、スペイン語、日本語など25言語を対象として、その言語における単語どうしの統計的な関係を分析する。

英語の例だとこうなる。「近い」とは統計的によく一緒に出現しやすいという意味で、単語同士の共起関係と呼ぶ。

  • “nurse(看護師)” という単語は “woman(女性)” と近い
  • “engineer(技師)” という単語は “man(男性)” と近い

この共起関係から、その言語において、どんな職業や形容詞が、どちらの性に結びついているかを数値化する。

次に、約60万人の、心理実験データを使い、各言語の話者が「男性 ― 科学」「女性 ― 家庭」等の無意識的な連想を持っているかを測定する。

そして、各言語の統計的な性別のバイアスと、実験で導き出した人の心理的性別バイアスを比較したら、強い相関が見つかったというレポートだ。

「言語の中で統計的に意味が近ければ、実際にそういう想起をしがち」という、当然といえば当然のことなのだが、この社会的無意識を数値として見えるようにしたのは大きい。言語は単なる「表現手段」ではなく、心理的なジェンダーバイアスの再生産装置でもあることを、定量的に示した研究ともいえる。

そして、言語モデルを学習に用いている限り、言語の中の統計構造が、AIの思考パターンに反映される。「AIはバイアスまみれ」という指摘は耳にするが、私たちが用いている言語そのものに、何かしらの偏りがある(だからダメだとか、だから良いとか開き直るのではなく、数値として示せるのだから、どう補正するかの話になる。事実と価値判断は別なので、自然主義的誤謬の罠に陥らないように)。

政治的分断をシミュレートする

Can We Fix Social Media? Testing Prosocial Interventions using Generative Social Simulation(Maik Larooij & Petter Törnberg)2025 [URL]

これは、SNSそのものをAIの中に再現するという試みになる。

シミュレーション内では、twitterのように、各個人(=エージェント)が投稿・リツイート・フォローを行えるようになっている。これらのエージェントには大規模言語モデル(LLM)によって「人格(ペルソナ)」が与えられている。年齢・性別・教育水準・政治的傾向といった属性が設定され、エージェントはそれらに沿って「自分の意見」を形成し、発言し、リツイートし、フォローする。

この「AI社会」をしばらく放置しておくと、現実と同じような現象が自然に立ち上がってくる。例えば、

  • 似た者同士が集まって同じような発言が繰り返されるエコーチェンバー
  • 少数のエージェントに影響力が集中するインフルエンサー階層化
  • エコーチェンバーにより発言内容がより過激で攻撃的になる傾向

いつもの殺伐としたタイムラインが、そのままモデル内部で自己組織的に発生する。「そりゃそうだろうな」と思うかもしれないが、面白いのはここからだ。

シミュレーションである以上、途中で介入できる。例えば、

  • 過激化した発言者をネットワークから一時的に切断する
  • 一定期間、リツイートに制限をかけて拡散を防ぐ

現実に運営がやったら大炎上するような介入を、安全に実験として行える(数年前、奇妙な?TLが形成された時期があったが藪の中だし、今となっては検証しようがない)。介入した結果、全体の議論がどう変化するか、動的に観察することができる。

もちろん、実際のSNSとは異なるものの、「SNSはどこまで設計で制御できるのか」がテーマになる。SNSで起きている分断は、人の性格や属性だけではなく、アルゴリズムによって再生産(強化)される要素もある。完全な解消は難しいかもしれないが、一定の介入方法は模索できるというわけだ。

AIは「人の代わりに考える便利ツール」ではなく、人間社会が無意識に抱えていた前提や価値判断を映し出す「鏡」としても使えることを、改めて思い知らされた会だった。

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土木が好きになる22の物語『DISCOVER DOBOKU』

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高速道路の立体交差を見上げるときや、建築途中で剥き出しの構造物を眺めるときに、胸の奥で何かが滾る―――そんな経験がないだろうか。

実物でなくて画像でもいい。スーパーカミオカンデの静謐な空間や、首都圏外郭放水路の神殿じみた威容を見て、ぞっとするような畏怖と共に、一種の構造美を感じたことはないだろうか。

本書は、そんな人が築いた巨大構造物を愛でるための一冊だ。著者は東京都市大学(旧 武蔵工業大学)工学部教授で専門は鉄筋コンクリート・耐震設計で、ガチの土木オタクだ。

というのも、本書で紹介されている構造物の一部がこれなのだが、どのページを開いても、土木のロマンに溢れており、土木エンジニアへの尊敬で一杯だから。

例えば、表紙にもなっている首都圏外郭放水路。

洪水時に荒川の水を一時的に溜め、江戸川へと逃す地下施設だ。6.3キロにおよぶトンネル空間と、59本の巨大な柱列が立ち並ぶ、地下神殿のような放水路なのだが、「見えない」防災インフラになっている。

本書で知ったのだが、あの巨大空間は調圧水槽であり、そこへ至るために5つの巨大立杭がつながっているという。もちろん構造システムの全体は目で見ることはできないものの、人類の叡智を結集した地下建築の芸術といっていい。

あるいは、黒部ダム。

北アルプス3000m級の山に囲まれた地形で、もろくて崩れやすく地下水だらけの破砕帯を突破し、多くの犠牲者の上に作られた巨大ダムのカリスマだという。建築当時の写真も紹介されているが、(人は映っていないものの)難工事であることを伺い知ることができる。

黒部ダムは、水力発電や治水としての構造物だけでなく、「見せるインフラ」としての文化の始まりとしても有名だという。映画『黒部の太陽』でドキュメンタリードラマとして知られ、ダムそのものが観光地となったという。NHK紅白において、中島みゆきが黒部第四発電所で歌い、「リアル地上の星」としても話題になったという。

他にも、横浜ベイブリッジ、京極揚水発電所、東京湾アクアライン、瀬戸大橋、羽田空港D滑走路、高尾山インターチェンジ、ユーロトンネルなど、土木遺産という名に相応しい作品が、豊富な図版や画像と共に紹介されている。著者の早口オタクトークの熱気に当てられて、思わず知らず引き込まれてしまう。

すごいと思ったのは、アンダーパス。

道路や鉄道など既存の交通施設の直下に構築する地下道路や共同溝のことだという。道路や鉄道の直下に潜り込む地下立体交差は、「非開削工法」で施工するという(要するに、地面を掘り返さずに構造物を敷設する工法)。

交通量が多く、上下水道やガス・通信などのライフラインが密集している都市部では、工事のために止めるわけにいかない。あるいは、止めるにしても最低期間に留め、周囲への影響を最小限にするため、様々な工法があるという。

本書では、「東京外郭環状道路京成菅野駅アンダーパス」が紹介されている。京成菅野駅の真下に高速道路を通すのだが、完全にブッ飛んでて頭おかしい。

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日本建設連合会より引用 [引用元]

  1. 駅直下に6階建てのビルが入る空間を作り、そこに2階建て高速トンネルを作る
  2. 駅も鉄道も稼働中のままで、一本たりとも止めない、揺らさない、漏らさない
  3. 普通に掘ったら崩れるので、駅の地盤に薬剤を注入してガチガチに固める
  4. さらにシールド鉄板を差し込んで駅全体を固定する
  5. 総重量7000トンのコンクリの箱を作り、ピアノ線と油圧ジャッキの力で少しずつ押し込んでいく(押し込む空間も少しずつ掘っていく)

都市の血管の下を通す、外科手術のような土木工事なのだが、この作品、今では目にすることができない。車で通るだけの空間なのだが、土木の狂気的な美しさを感じる。

横浜や品川、渋谷でも駅の改良工事をずっとやっている。特に渋谷駅は、銀座線ホームの移設や通路の再構築で動線が複雑怪奇になっているが、考えてみると、あれだけの工事を、列車の運行を止めずにやっていることが驚異だ。

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新南口近辺からのJR渋谷駅(筆者撮影)

水が流れ、道路を通り、列車が走る。

私はこれを、当たり前のように思っている。

だが、その「当たり前」を支えるのが、土木技術という人類の叡智なのだ。『DISCOVER DOBOKU』は、構築ガイドというより、巨大建築に宿る人間の情熱と機能の美を描いた、土木賛歌の書といえる。



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未来予想ではなく、未来に介入するための科学『数理モデルはなぜ現実世界を語れないのか』

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「科学的に正しい」という言葉が揺らいだのは、2020年、世界がCOVID19のパンデミックに直面したときだと思う。「科学的に正しい」数理モデルに基づき、感染者数の推移と予想のグラフと「最悪のシナリオ」が毎日のように報道された後の話だ。

人々はグラフを見つめ、「科学」が未来を予測してくれると信じていた。

ところが、現実はモデル通りには進まなかった。

感染者数が想定を上回ると「『想定外』を言い訳にする専門家は間違っている」と非難が沸き上がり、予想よりも被害が軽いと「オオカミ少年が経済を殺す」と叩く連中もいた。「科学的に正しい」とはデータに基づき客観的な立場から判断したものだから、現実世界を最も合理的に説明できる―――そんな期待を裏切られたと感じた人もいたかもしれぬ。

その一方で、各国政府がとった施策や人々が自主的に取った行動が(吉凶に関わらず)何かしらの影響を与え、モデル通りの未来にはならなかったと考える人もいる。

『数理モデルはなぜ現実世界を語れないのか』を読むと、この混乱そのものが、数理モデルの本質を見誤った結果だということに気づかされる。

先回りして結論を述べるとこうだ。モデルとは、現実を映しだすカメラではなく、未来に介入するエンジンである。数理モデルは、未来を当てるためのものではなく、未来に備える道具として使うべし―――これが本書のメッセージになる。

モデルは現実を語れない?

本当に数理モデルは現実世界を語れないのだろうか?

この問いへは、「天気」と「気候」の事例が分かりやすい。

現代の天気予報は、数学でできているといっていい。

「天気」は、大気の運動の物理法則(流体力学・熱力学)を微分方程式で表現する。グリッド分割した区域ごとで変数(気圧・風速・温度等)を割り当て、隣接区域との相互作用を考慮しつつ、その方程式を解くことで数値的に表すことができる。複数のモデルや初期条件がある場合、ベイズ統計を用いることでモデルの不確実性を取り込んでいる。

明日の降水確率から台風の進路状況まで、かなり正確にできるのは、同じ条件で予想結果が高頻度で利用できるからだ。気象モデルは数十億ドルを節約し、多数の命を救っているといえる。

では、この数理モデル(群)を用いて、「気候」を予測できるか?

「気候」は、数日ではなく数十年~数世紀スケールで、より粗い空間スケールで、天候の平均的傾向や統計的分布をシミュレートする。初期値が少しズレるだけで予想が大きく外れる気象モデルを、そのまま用いることはできない。

さらに、気候モデルは未経験の未来を予測する必要があり、データの蓄積はほぼ無い。同じ条件の観測データは無いため、これまで測定したデータを元に推測するしかない。モデルが正しいかどうかは、翌日の天気ではなく、何十年も経たないと分からない。

気象モデルと気候モデルは、同じ数学的基盤を持っていたとしても、目的が異なり、予想する対象・範囲も大きく違う。

すなわち、「モデルは現実を語れない」というのではなく、「現実の一部を語れるモデルが存在する」というべきだろう。あるいは、「どの現実を語るのか」という目的に応じて、モデルを使い分ける必要がある。

モデルが語るのは現実そのものではなく、「どの現実を語るか」を選び取る私たちの価値観なのだ。

モデルは水晶玉ではない

めちゃくちゃ当たり前のことなのだが、私はこれを間違える。

数理モデルが登場すると、それは何かしらのデータセットやエビデンスに裏打ちされ、その分野の専門家によって「正しい」とお墨付きを得ているものだと確信する。「数式」なのだから、定量的なインプットがあれば、定量的なアウトプットが得られる―――そう考えてしまう。

だが、モデルとは、現実を映すカメラではなく、現実のある側面を切り取り、強調し、他を捨てた後、何かしらのロジックで組み立てた仮説に過ぎない。

だから、モデルが当てはまる現実もあれば、全く通用しない範囲もある。それはモデルが間違っているのではなく、スコープを越えているからだ。

テクノロジーの進展により、観測の精度が上がるほど、モデルと現実のズレは顕著になる。そんなデータセットが蓄積するたび、科学者たちはパラメータを調整し、定数を入れ替え、数理モデルを【精密化】する。

それでも辻褄が合わなくなると、新しい理論が生まれる。ミクロ経済学がそうだったし、素粒子物理学もそうやって誕生した。これらは、観測結果に即してそう取り決められた言明に過ぎぬという。

現在はうまくいっているということだけで「実用的」と言えるが、それが「真実」かというと違う。問題なのは、科学者が大事にするモデルこそが真実であり、全てを説明できると信じ込んでしまう点にある。

最近では、超ひも理論で全てが説明できると豪語するブライアン・グリーンのような人は減ったが、こうした素朴なモデル信奉者はたまに見かける(経済学と物理学に多いような気がする)。

モデルの歪みに気づく

モデルのスコープに気づくだけでなく、モデルが形成される際の歪みにも注意を払いたい。

数式で表されるため、数理モデルはロジカルで合理的に見える。だが、そのモデルの作り手の関心や価値判断、作り手自身が学んできた前提が含まれている。

モデルは、ある主張を伝えるための論理装置であり、世界をどう見るかという視点を押し付けるのだから。

本書では、私たちが目にするモデルは、大なり小なりWEIRDのバイアスに影響を受けているという。

 Western:西洋の
 Educated:教育のある
 Industrial:工業化された
 Rich:裕福な
 Democratic:民主主義の

例えば、感染症が経済に及ぼす影響をモデル化する事例が紹介されている。モデルの作成者は、ウイルス性疾患にかかりやすい高齢者という立場は容易に想像できる一方で、低収入で不安定なパートタイムの仕事をしながら幼児を育てるシングルマザーという立場は、なかなか想像できないという。結果、出来上がるモデルは前者を優先したものになる。

本書では、疫学や経済学におけるバイアスに焦点を当てているが、私は、自然科学におけるキリスト教のバイアスを追記したい。

「神に選ばれ、救世主が誕生した特別な場所」でなければならない地球は、かつて宇宙の中心とされた。もちろん現代で天動説を信じる人はいない。だが、ごく近年まで系外惑星が見つけられなかったことから、太陽系や地球をあるべきモデルとするバイアスがあると考える[『系外惑星と太陽系』]

さらに、地球外生命が存在するこれだけの証拠を前に、「地球こそ生命誕生の地」と強弁するニック・レーンのような 人がいるのは、生命誕生のモデルを(神に選ばれた)地球に限定する思考に偏っているからだ。WEIRD バイアスにChristian(キリスト教徒の)を加えたい。
[『生命の起源はどこまでわかったか』]

科学の世界観そのものも、無色透明ではない。重力定数も光速も「測れる」と信じるその信念自体が、特定の文化的・宗教的価値体系の上に築かれていると言えるだろう。

バイアスが悪と言いたいのではない。人である限り、あらゆるバイアスから完全に自由になることは不可能だ。これはAIが作成したモデルについても言えると本書は指摘する。その「設計者」やデータセットを用意した「人」がいる限り、必ず歪みが生じる。重要なのは、そのバイアスに意識的になることだという。

全てのモデルは間違っているが、それでも役に立つ

モデルは限られた現実しか語れず、バイアスを意識する必要がある。統計学の格言「全てのモデルは間違っている」を真に受けるなら、モデルは使い物にならないのでは?

だが、それでもモデルは役に立つ。

地図をめぐる寓話を紹介しよう。

ある探検隊がアルプス山脈で吹雪に襲われた。道に迷い、雪崩に遭い、大半の装備を失ってしまう。死傷者はなかったものの、一行は死を覚悟する。そのとき、一人がポケットに地図が入っていたことに気づく。一行は冷静に地図を確認し、残された装備でキャンプを張り、なんとか生還する。そこで気づくのだが、その地図はなんとピレネー山脈の地図だったのだ。

「無いよりマシ」という教訓が得られるが、ことモデルにおいては【それでも役に立つ】と言える。

それは、モデルを用いて意思決定をする場合だ。リスクと不確実性を踏まえた上で、それでも何かしらの手を打つ必要があるとき、モデルは説得の道具となり、議論を闘わせる手段となる。

マスクを付けるべきか、ワクチンを打つべきか、どんな人が家にこもっているべきか、どこの国がどの程度CO2の排出を制限すべきか……こうした疑問を考えるとき、モデルは科学だけの問題では無いことがよく分かる。

対策する/しないとコストとの間のトレードオフ、どの対策がどの程度の効果が得られるかと副作用、どの程度の損失なら許容できるのか等を検討するとき、モデルは確かに役に立つ。ピレネーであれアルプスであれ、基準とする観点や思考を誘導する立脚点となる。

モデルは物語として現実を動かす

モデルは現実と離れているかもしれぬ。

それでも、モデルを生み出すプロセスは、状況を合理的に説明させようと促す。不確実であったとしても、それでもなお行動を起こさせようとする。これを、コンビクション・ナラティブ(確信を持たせる物語)という。

非常に悪い結果になる可能性があり、しかもその事態は回避可能だったことが、後になって判明する―――意思決定者にとって、これは最も避けたいパターンだ。そんなことになるより、過剰反応だったと思われる方がマシだ。

西暦2000年問題(Y2K)を覚えているだろうか?

メモリやディスクを節約するため、昔のプログラムは年を下2桁で表していた。1998年は「98」で、2000年は「00」だった。そのため、2000年1月1日になると、「00」が1900年となり、期限やログ、日付計算など、年を扱うあらゆる処理で誤動作が起き、大混乱になると懸念されていた(「飛行機が墜落する」とまで警告してた記事もあった)。

これを回避するため、1990年代後半に大規模なソフトウェア改修やデータパッチが行われた。古いソースコードを解析するため、リタイアしたエンジニアまで狩り出されたこともあった。

結果的に大きなトラブルにはならなかった。2000年生まれの赤ちゃんが100歳として登録されるような軽微な誤作動や誤表示に留まった。あれほど騒がれていた「世界が止まる」ようなことにはならなかった。

これは、モデルの予想が外れた過剰反応だったのだろうか?

そうではない、と本書は主張する。モデルの予想が外れたとしても、それは失敗ではない。最悪のシナリオを回避するために行動を促したからだ。検証しようがないが、それでも対策した結果が今の世界線だといえる。

同じことは、ロックダウンをした結果の世界線が今だろうし、京都議定書が形骸化した今を、私たちは生きていると言えるだろう。モデルは現実のリスクを「予言」ではなく「物語」として動かす。その意味で、モデルは現実に介入するエンジンになる。

モデルとは未来を予言するためのものではなく、未来を引き受けるために必要不可欠なのだ。

これは読書猿さんのお薦めで手にした一冊。アイゼンハワー大統領「計画は役に立たないが、計画を立てることは絶対に必要だ」を捩るなら「モデルは役立たないけれど、モデルを作ることは絶対に必要だ」と言える。素晴らしい本に出会えてよかった、ありがとうございます!

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「なぜ?」を「いつ?」にすると上手くいく『「なぜ」と聞かない質問術』

 「なぜ遅刻が多いの?」
 「どうしてミスしたの?」
 「できない理由は?」

職場や家庭で話をするとき、理由を聞きたくなる瞬間がある。問題解決のため、原因や課題を洗い出すための定番だ。

だが、『「なぜ」と聞かない質問術』は、この「なぜ」を使うなと説く。質問を「なぜ?」から始めると、事実の誤認や関係性がねじれ、議論が空中戦になり、コミュニケーションが上手くいかないからだという。

なぜ、「なぜ」を使ってはいけないのか?

「なぜ」は理由を聞いているようでいて、相手を問い詰め、言い訳を強要することになるからだという。例えばこう。

 花子「なぜ遅刻が多いの?」
 太郎「朝ギリギリで、電車に間に合わないことがあるので」
 花子「じゃあ、余裕をもって起きてください」
 太郎「はい……スミマセン」

質問者は純粋に知りたいだけかもしれないけれど、問われている方は責められているように感じている。ここから得られる解決策も、問題の裏返し(遅刻する←→早く起きる)になる。

「なぜ質問」は、原因や理由を聞いているようでいて、実は「(あなたは)なぜだと思う?」と聞いている。しかし、人である以上、とっさに理由や原因が出てくるはずがない。ましてや自分でも良くないと思っていることについて問われると、詰められているように受け取るだろう。

そこで出てくる「理由」は、思いつきレベルのものであり、事実に基づいた問題の把握や分析には程遠いものになる。こうしたやり取りは、どれだけ積み重ねても期待した解決には結びつかないという。

では、どうすればよいか?

本書では、「なぜ?」と聞きたくなったら「いつ?」に置き換えて聞けという。

 花子「いつから遅刻が多くなったの?」
 太郎「先月くらいからですかね」
 花子「その前は?」
 太郎「ほとんどなかったはず」
 花子「先月と今月の違いは何だろう?」
 太郎「あ!ダイヤ改正して乗り継ぎが上手くいかないからだ。一本早く乗ります」

他にも、「今月から残業が多くなり、十分な睡眠時間が取れない」とか「今月は飲み会が増えて朝起きれなくなった」といった理由もあるかもしれない。いずれにせよ、「なぜ」から始めた場合、本当の原因にはたどり着かない。

「なぜ」と聞いた時に出てくるのは、理由ではなく、「回答者が理由だと思い込んでいること」や「理由に見せかけた自己防衛のための言い訳」だという。

これを回避するためには、「なぜ質問」ではなく「事実質問」をせよという。

事実質問とは、「答えが1つに絞られる質問」と定義している。迷ったり考えたりしなくても、素直にシンプルに答えることができる質問になる。事実質問は、以下の特徴がある。

  • 「なぜ?」「どう?」を使わない
  • 「いつ」「どこ」「誰」「どれくらい」を使うか、「はい/いいえ」で答えられる
  • 過去形・現在進行形
  • 主語が特定されている

具体的には、以下のような言い換えをすることを推奨する。事実質問に言い換えることで、返ってきた答えに対し、さらに話を深掘りすることができる。

元の質問 言い換え後
なぜ遅刻したの? 今日はいつ家を出たの?
会議、どうだった? 会議は何時間ぐらいだった?
みんな、ふだん運動してますか? あなたが最後に運動したのはいつだった?

推論の梯子

これ、推論の梯子をやり直すときに有効だ。

推論の梯子とは、認識の前提を見直すためのメタファーだ(読書猿『問題解決大全』で知った)。

私たちは、何かを認識したり行動するとき、推論の梯子の上にいるという。

  • 行動:私は確信に基づいて行動する
  • 確信:私の結論は事実だ
  • 結論:私は結論を引き出す
  • 推論:私は自分が付け加えた意味に基づいて推論する
  • 意味:私は(文化的・個人的な)意味を付け加える
  • 選択:私は観察しているものから事実を選ぶ
  • 事実:(ビデオに記録できるような)観察可能な事実や経験

ベースとなっているものは「事実」であっても、そこから何を選び、そこに意味を汲み取り、推論し、結論を見出し、行動するかは段階を踏んで行っている。本当はこのような段階を踏んでいるにもかかわらず、順番をすっ飛ばしたり無視すると、認識の違いが起きる。

自分の認知を再検討したり、相手との認識の相違を確認する際、この梯子を下りてゆくことで、どこからズレが起きているかを明らかにすることができる。

そして、一番下の事実である「遅刻が多い」からスタートして梯子を上るとき、「なぜ?」を持ってくると、認識が歪む可能性が高くなる。以下は、事実からの選択に「なぜ?」と問いかけた失敗例だ。

  • 事実:太郎は遅刻が多い
  • 選択:「なぜ?」という質問に、太郎は「ギリギリまで寝ている」と答えた
  • 意味:花子は「ギリギリまで寝ている太郎は怠惰だ」という意味を加える
  • 推論:花子は「太郎は怠惰だ」という意味に基づいてさらに問う
  • 結論:花子は「太郎は怠惰だ」という結論を引き出す
  • 確信:花子は太郎を怠惰だと確信する
  • 行動:花子は太郎に「余裕をもって起きろ」と指示する

問題解決のための理由を考えるのは、推論の梯子の上の「意味」「推論」の段階だろう。だが、選択の段階で「なぜ?」と問うてしまっため、検討すべき事実に基づかないまま、推論が進んでしまう。

一方、「選択」の段階で、「いつから?」「その前は?」を問うことで、太郎に事実を思い出してもらうことができる。太郎に理由を考えてもらうのではなく、事実を思い出してもらうために、問い方を変える。

「なぜ?」を「いつ?」に変えるだけで、一緒になって事実を見直し、原因を探る建設的な会話になるのだ。

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(ネタバレ全開)ナボコフ『ロリータ』に耳まで浸かる読書会

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ロリータいいよロリータ。いくら読んでも楽しさが尽きぬ。そして、どんなに読んでも「読んだ」気にならぬ。

先日、ロリータ読書会に参加したので、再読の楽しみが倍増した。ここでは、読書会で教わったネタも交えつつ、再々々読に向けたメモをまとめる。

むかし、「変態男の少女愛」だけで思考停止していた俺、もったいない。ストーリーの表層をなぞって満足するのは初読時だけで、面白くなるのは再読から。面白さは細部に宿るし、その細部を追っていった目を上げた瞬間に広がる全体にも宿っている。

これは、小説読みが好きなあらゆる要素が詰まっている。

ぱっと思いつくだけでも、宙吊り、オマージュ、信頼できない語り手、どんでん返し、多声性、異化、ミステリー性、寓意、内的独白、間テクスト性、エピファニー、デウスエクスマキナ、アポリア、アイロニー、自由間接話法、、視点変更、メタフィクション、入れ子構造、非線形叙述、ギャグ、カタルシス、不気味の谷、オノマトペ、パロディ、パスティーシュ、言葉遊び……たぶん、「『ロリータ』に出てくる小説技巧」で、世の中の小説の技巧はほぼ網羅できるかも(足すならマジックリアリズムぐらい)。

どこをどんなに読んでも、必ず宝が詰まっている。それに気づくか、気づかないかだけ。

もちろん上辺の筋を追うだけでもいい。「起きたこと」を並べるだけならこうなる。

年月 場所 出来事 H.H. Lo
1910 パリ ハンバート・ハンバート誕生    
1923夏 パリ ハンバート、アナベルと出会う 13    
1923冬 コルフ島(ギリシャ) アナベル、発疹チフスで死亡 13    
1911 オーシャン・シティ クィルティ誕生 14    
1935-01-01 ピスキー (ミッドウェスト) ドロレス(ロリータ)誕生 25 0  
1935-04 パリ ハンバート、娼婦モニークから「本物の快楽」を得る 25 0 1-6
1935 パリ ハンバート、ヴァレリアと結婚する 25 0 1-8
1939夏 パリ ハンバートの伯父死亡、遺産相続の話 29 4 1-8
1939夏 パリ ヴァレリアの浮気、離婚 29 4 1-8
1940春 ニューヨーク ハンバート、合衆国に到着 30 5 1-9
1943-44 ニューヨーク ハンバート、神経衰弱で入院 33 8 1-9
1945 ラムズデール ヘイズ一家がピスキーから転居 35 10  
1947-05 ラムズデール ハンバート、ヘイズ家に下宿開始 37 12  
1947-06-26 キャンプQ ドロレスが夏のキャンプへ出発 37 12  
1947-06末 ラムズデール ハンバート、シャーロットと結婚 37 12  
1947-07末 チャンピオン湖 ドロレス、処女喪失 37 12  
1947-08-05 ラムズデール シャーロット、ハンバートの秘密を知る 37 12  
1947-08-06 ラムズデール シャーロット、交通事故で死亡 37 12  
1947-08-14〜15 ラムズデール ハンバート、ドロレスを迎えに行き、Trip One開始 37 12  
1947-08-15 ブライスランド 最初の宿泊 37 12  
1947-08-16 レッピングヴィル ハンバート、シャーロットの死をドロレスに告げる 37 12  
1947-09 ソーダ(ミズーリ) 中西部を通過 37 12  
1947-09 スノウ (ワイオミング) ハイプレーンズ地域を通過 37 12  
1947-10 チャンピオン(コロラド) チャンピオンホテルに滞在 37 12  
1947-11 カスビーム(アリゾナ) チェスターナットに滞在、クィルティ尾行 37 12  
1948-04 エルフィンストーン ドロレスが体調を崩す 38 13  
1948-08 ビアズレー(オハイオ) 旅を終え、定住開始ドロレスが学校に通う 38 13  
1948-12 ビアズレー(オハイオ) ハンバート、プラット校長と面談 38 13 2-11
1949-5 ビアズレー(オハイオ) ドロレス、「特別なリハーサル」に参加 39 14 2-12
1949-05-29 ビアズレー(オハイオ) Trip Two開始 39 14 2-14
1949-06上旬 チェスターナット・コート ドロレス、クィルティと密会 39 14 2-16
1949-06下旬 チャンピオン チャンピオンホテルでテニス 39 14 2-20
1949-06-27 エルフィンストーン ドロレスが体調悪化、入院 39 14 2-22
1949-07-05 エルフィンストーン ドロレスが病院を去り、ハンバートと別れる 39 14 2-23
1950 ケベック(カナダ) ハンバート、リタと関係を持つ 40 15 2-26
1951-09〜1952-06 カントリップカレッジ  ハンバート、教職に就く 41 16  
1952-09-22 コールモント (ワシントン) ドロレスからの手紙:結婚と妊娠の知らせ 42 17 2-27
1952-09下旬 コールモント付近 → 旅路 ハンバート、手紙を受け取る 42 17  
1952-09末 コールモント ハンバート、ロリータと再会 42 17 2-27
1952-09末 クィルティ邸 ハンバート、クィルティを銃撃・殺害 42 17  
1952-09末 (未詳) ハンバート逮捕後、獄中で回想録(『ロリータ』)を執筆 42 17  
1952-11-16 (獄中) ハンバート死亡(心臓疾患) 42 17  
1952-12-25 グレイ湖付近 ドロレス死去(難産のため) 42 17  

人は書物を読めない、ただ再読するだけ

表の最後を見てほしい。ドロレスは難産で死ぬ。享年17歳。

ん?作中でドロレスが死ぬシーンなんてあった?

ハンバートがドロレスと再会する場面(2-27)で、いつか一緒に暮らす提案を拒絶されたとき、自動拳銃を取り出したり、「あなたが本書を読んでいる頃には彼女はもう死んでいて」なんて物騒な記述はあるにはあった。だが、拳銃が使用されるのはクィルティに向けてであり、ドロレスではない。一体いつ、ドロレスが死んだことになったのか?

この謎、初読時には絶対に分からない。なので、最初のページに戻ってほしい。冒頭の「序」だ。ジョン・レイ博士なる人が、この小説の由来を述べている。正式なタイトルは『ロリータ、あるいは妻に先立たれた白人男性の告白録』であるとか、プライバシーのため登場人物は変名だとか、作者のハンバート・ハンバートは初公判の前に他界していることが書いてある。

「リチャード・F・スキラー」夫人は1952年のクリスマスの日に、北西部最果ての入植地であるグレイ・スターで、出産中に亡くなり、生まれた女児も死亡していた。

一度でも読んだ人なら、リチャード・F・スキラーが誰であるのかは明白だ。だが、一回読んだだけでは、彼女の運命がどうなったのかは分からない。この小説は、そういう風に書いてある。他の登場人物がどうなったかは「序」に全部書いてある。そこには「読者」も含まれる。初読時に受けたときの衝撃や感情も記されている(自分のことが書かれていると気づいて、慄く読者もいるかもしれぬ)。

再読することで、初めて見えてくる世界がある。この小説は、そういう風に書いてあるのだ。これ、ナボコフが「小説を読むこと」について述べていることと一致する。『ナボコフの文学講義』のここだ。

ひとは書物を読むことはできない。ただ再読することができるだけだ。
(『ナボコフの文学講義 上』ナボコフ、河出文庫、p.57)

N/A

この一行だけ切り取られていることが多いが、その真意は直後に明かされている。本を読むということは、一行一行、一頁一頁、目を追って動かす作業そのものだ。「その書物に何が書かれているのか」を知る過程そのものに、時間的・空間的なハードルがある。絵画の鑑賞のように、絵をパッと見た後、細部を楽しむ―――そういう風に書物はできていないし、私たちの肉体もできていない。

だから、再読、再々読を繰り返すことでしかないというのだ。再読を繰り返すことで、初めて作品全体と向き合いながら細部にも目を行き渡らせることができる―――これを実践したのが『ロリータ』になる

Qについて

再読を誘う仕掛けはいくらでもある。読書会で知った最大の成果は「Q」だ。

ドロレスを唆し、ハンバートから引き離したクィルティ(Quilty)。「唆した」のかどうかは、ツッコミたくなるが、彼はあちこちに、本当にあっちこっちに登場している。

劇作家の名前として初登場(1-8)するだけでなく、近所の歯医者、彼の戯曲名「魅惑の狩人(The Enchanted Hunters)」はそのままハンバートとドロレスの「初宿泊」のホテル名(1-25)、ドロレスがサマーキャンプに出かけるのは「キャンプQ」であり(1-25)、ドロレスを連れ去って移動しながら宿泊するモーテルの宿帳に記すのは「Q」である(2-24)

そもそも、ハンバートが教養をひけらかすために要所要所でフランス語を使っているのだが、フランス語でWhatにあたる「Que」が登場する(1-8、2-2、2-6、2-14等多数)。ハンバート自身が無自覚にQを使って手がかりを残していると考えると面白い。

そして、queは英語だと「手がかり」「合図」になる。「Q」は見失ったロリータを探す手がかりでもあるし、ストーリーにきっかけを与え、展開を促す合図でもあるのだ。英語で「Q」で始まる言葉は少ない。そんな言葉を、イメージや暗示、連想を紡ぎつつ、ハンバートだけでなく読者が読み解く手がかりとしても残していく。その響きから、読み手はQで始まる重要な単語―――Question―――を思いつくかもしれぬ。

あるいはQuest(ニンフェットの探索、1-12)、Queen(ドロレス、2-6)にも結びつく。原文で読むとき、「Q」を探しながらだとより捗るだろう。

チェホフの銃の向き先

これは初読時の衝撃だが、チェホフの銃が効果的に使われている。

チェホフの銃とは、「物語の冒頭で銃が壁に掛かっているなら、最後には発砲されなければならない」というルールのことだ。登場させる小道具には何かしらの意味があり、無意味な小道具を出すなという約束事になる(こと銃のような物騒なものは特に)。

『ロリータ』におけるチェホフの銃は、元々はドロレスの実父のものだった。それをシャーロットが譲り受けて(2-17)、最終的にはハンバートが手に入れる。32口径、8連装の自動拳銃だ。

当然、この銃はクライマックスで使われるのだろうな……ということは想像できる。

では誰に向けて?

初読時、私が引っ掛かっていたのは、ドロレスの呼び方だ。ハンバートは彼女のことを、ロリータ、ロー、ローラ、ドリーと呼んでいた(これらはドロレスから派生した呼び名)。あるいはニンフェットとも呼んでいた(これは9~14歳までの女の子で、その2倍以上の年上の魅せられた旅人に対してのみ発動するニンフ/nymphic、1-5)。

この他に、カルメン(カルメンシータ)とも呼んでいた。

最初はドロレスのお気に入りの曲「小さなカルメン」からだが(1-11)、心の中だけでの呼びかけだったのが、実際にドロレスに向かって「カルメン」と呼ぶようになっていた(2-2)。

そして、カルメンといえばメリメの悲劇だろう。平凡な兵士ドン・ホセが、ジプシー女カルメンと出会い、恋に落ち、破局していく物語だ。妖艶で奔放なカルメンは、自由を愛し、社会の規範に抗おうとする一方、ドン・ホセは彼女に執着するあまり脱走し、彼女と一緒になろうとする。

束縛しようとするドン・ホセに対して、彼女の心は離れてゆき、闘牛士エスカミーリョを愛するようになる。彼女のことが忘れられず、ドン・ホセは復縁を迫るものの、自由を失うくらいなら死を選ぶと言い放つカルメン。逆上したドン・ホセは、持っていた短刀で刺し殺してしまう……というストーリーだ。

なので、メリメの悲劇を踏襲して、ハンバートはドロレスを撃ち殺すのだろう、と考えていた。

自由を愛するドロレスと、執着するハンバートは、まんまカルメンとドン・ホセになる。

しかし、チェホフの銃の向き先は、闘牛士エスカミーリョになる。

これには二重の意味で驚いた。ハンバートがドロレスではなくクィルティを撃ったことだけでなく、「ドロレスを撃つだろう」という私の(読者の)予想を巧みに出し抜いたことにも驚いた。ドロレスを「カルメン」と呼んだのはハンバートだが、ハンバートがクィルティに向けて銃を撃たせたのはナボコフだ。

その意味で、ハンバートとナボコフが結託して私を騙したことになる。古典的な作劇テーマを借用しながらも、その予想を出し抜くアイロニー。これは初めて読むときしか味わえない初読者の叫びなり。

『ロリータ』攻略本

引っ掛かるところには全てネタがあると思っていい。そして、ネタは調べるほど宝になるし、宝に注釈をつけると、本文より膨大になるだろう(それこそ『青白い炎』ぐらいに!)。

読書会で教えてもらったのだが、研究者による注釈本があるとのこと。ポー、プルースト、シェイクスピア、ドン・キホーテ等の文学的引用の典拠、言葉遊びや語呂合わせの読み解きがなされている。

ハンバートはもちろん信頼できない語り手だが、それでも信頼するならば、その境界はどこになるか?といった線引きをしている。また、序文・裁判調書・手記といった物語構造のメタ化や、銃、蝶、色彩、地名など、作品に登場するアイテムやモチーフ、文化的背景を解説している。いわばロリータ攻略本なのだろう。

N/A

答えは一つと限らないが、一つの答え合わせとして読むといいかもしれぬ。

翻訳の妙・注釈の妙

翻訳者の若島正がすごい。

引っ掛かるところは原文と突き合わせながら読んだのだが、何度も何度も唸らされた。読み手が知っている情報量を玩味した意訳が超絶技巧なり。

生きた肉鞘(p.46):原文では「animated merkin(1-8)」。merkinは女性用のカツラ(ただし陰毛のカツラ。剃毛してパイパンになった娼婦が生えているフリをするために使う)。現代なら「生オナホ」だけど、これを「肉鞘」と訳すのが凄い。シャーロットの人権とは?

我が情熱の笏杖(p.27):原文「the scepter of my passion(1-4)」まんまだけど、「彼女(アナベル)の不器用な手の中に握らせた」の訳が好き。原文だと彼女が握って拳(fist)になるイメージだけど、アナベルも初体験なので、不器用さが滲み出てる。

クィルティ殺しを悔いている(p.57):原文だと「Guilty of killing Quilty(1-8)」で、ギルティ、キリング、クィルティと子音の韻を踏んでいる。これを、クィルティ、殺し、悔いていると韻を踏みながら日本語にしている。さらに、クィルティのアナグラムが「悔いている」になっている(天才かよ!)。ここ絶対、ニヤニヤしながら翻訳してたはずwww

我が恋人よ、紫の上よ(p.392):原文だと「my darling, my own ultraviolet darling(2-18)」で、紫(violet)には「高貴」というニュアンスがあり、それを超えた(ultra)ものとして、ハンバートがドロレスに呼びかけている。これを源氏物語に引き寄せて紫の上と訳したのがスゲェ(もちろんロリコン光源氏に見染められた若紫のこと)。

片方の靴下(p.17):靴下を片方だけ履くロリータ。注釈で若島は、「もう片方がどこにあるか探せ」と出題してくる。ちなみに答えはp.69(1-10)で床に白い靴下が片方、落ちている。

こんな風に、延々と(永遠と)読める。いわゆる顕微鏡的な読みをしても、十分耐えられるほどの強靭さを、この小説は持っている。

さらなる読み解き

ハンバート・ハンバートは、明らかに嘘だと分かることを重ねている。

読み手(陪審員もしくは小説の読者)にもすぐにバレるような、辻褄の合わない嘘のつき方だ。例えば、ホテル「魅惑の狩人」での最初の夜、ドロレスから誘ったかのような書きっぷりになっている(1-29)。あるいは、記憶の混濁を自ら告白している(2-28)。

だから読み手は、信頼できない語り手として接するのだが、書き手はそれ以上に読ませるのが上手い。

ついつい引き込まれてしまうものの、ハッと気づいて「これは本当のことなのだろうか?あるいは少女性愛を正当化させるための虚言なのだろうか」と自問することになる。

だが、たとえ全てが嘘だったとしても、この小説は成り立つ。仮に、嘘もしくは嘘と思われる箇所を塗りつぶしたとしよう。すると、ほとんどのページは真っ黒になり、文は消え、言葉は失われていくが、それでも残るものがある。

それは、ハンバートからドロレスへの愛、だと思う。

二人は、性的搾取と支配で成り立つグロテスクな関係であり、彼は「理想の少女像」を重ねているに過ぎない。

だが、それでもなお彼の言葉が文学として魅惑的であるため、嘘と知りつつもそこに愛(?)を汲み取りたくなる。

もちろん、ドロレスもハンバートも存在しないフィクションのキャラクターだ。それでも、そこに真実の愛(「真実の愛」ってなんだ?)があるとするなら、フィクションが語るからこそ「真実の」と言えるのかもしれぬ。

Fiction is the lie through which we tell the truth.
フィクションとは、真実を語るための嘘だ
アルベルト・カミュ

Art is the lie that enables us to realize the truth.
芸術とは、私たちに真実を悟らせる嘘である
パブロ・ピカソ

もちろん現実ではあり得ないし、あってはならない。だが、フィクションの中でなら成立する真実なのかもしれぬ。

現実では、カルメンを刺したのは「痴情のもつれ」かもしれないし、ドロレスを連れて旅したのは「未成年者略取」になるだろう。同意の有無に関わらず「強姦」は成立する。

だが、フィクションの中では、これを何と呼ぶのか。たとえ全てが嘘でも、どうしても「愛らしきもの」が残ってしまう。 それは現実では成り立たないが、フィクションだからこそ成立する「真実」だと言える(そう思ってしまうのは、それこそH.H.の策略なのかもしれぬ)。

『ロリータ』は、少女愛を綴ったエロ小説としても読める(肩透かしするかもしれないが)。アメリカを横断・縦断するケルアック的ロード・ノヴェルとしても読める(On the Roadの方が後発だが)。僅かな手掛かり(cue)を元に姿なき誘拐犯を追いかけるミステリとしても読める。そして、全てがハンバート・ハンバートの妄想だという読みもできる(←この読み方は読書会で知った!)。

物語は物騙りと言われる。

フィクションとはずばり「嘘」だ。それでも、嘘の中に真実があるとするならば、それは何か?何だと思いたいか?これは読者に委ねられたテーマだろう。

『ロリータ』はどんな読み方にも答えてくれる強靭さと多様さを兼ね備えている。

次は、どんな風に読もうか。

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むいさん、ロリータ装丁のネイル、素敵でした(まさにultravioletですね!デラウェアみたいで美味しそうだと思ったことは秘密です)。 東京ガイブン読書会の中のお二方、楽しい会をありがとうございました(ドノソの会は期待しています、もし席が取れたら3回目を読みます)。他の方も、もっと長くお話したかったです。また会える日を楽しみにしています!

 

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ふわっとした議論を終わらせる『解像度を上げる』

N/A

  • ふわっとした議論
  • 問題を裏返しただけの対策
  • それは症状であって原因じゃない
  • 説得力が弱い

言い方は色々あるが、結局のところ、取り組むべき課題が不明瞭な状態だ。「部門統合でシナジーを得る」とか「顧客満足度が低いから顧客満足度を上げる」など、何も言っていないに等しい妄言を聞くのもウンザリだ。

では、どうすればいいか?

この問いかけに対し、具体的に応えているのが『解像度を上げる』になる。

画像描写がキメ細かく、イメージが明瞭であることを解像度が高いというが、ビジネスの現場でも用いられている。物事への理解度や表現の精緻さ、事例の具体性や思考の明瞭さのメタファーとして「解像度」という言葉が用いられる。

解像度が高い場合、取り組んでいる領域について、明確で簡潔で分かりやすい答えが返ってくる。顧客が困っていることを深く知り、解決のためにどんな競合製品を使っており、そこでどんな不満を持っているかも把握している。その上で、取るべき打ち手と打つべき布石が、(その打ち手である理由・どうしてその順番かも含めて)納得させることができる。

本書では、解像度を高くするために「深さ」「広さ」「構造」「時間」の4つのアプローチから迫っている。

  • 深さ:原因や方法を、細かく具体的に掘り下げる
  • 広さ:考慮する原因や方法の多様性を確保する
  • 構造:「深さ」や「広さ」の視点で見えてきた要素を、意味ある形で分け、要素間の関係やそれぞれの相対的な重要性を把握する
  • 時間:要素の変化や機序、プロセスの流れを捉えることになる

本書は起業家向けのスタートアップ製品やサービスの例を紹介している。スタートアップが気になる人はそちらを参照してもらうとして、この記事では、私がいま取り組んでいる問題「加入中の顧客の離脱を防止する」に適用してみる。

「深さ」を掘り下げる

最初は「顧客が他社に移る離脱を防止したい」になる。具体性も何もない。

「深さ」は、何よりも事実ベースで原因や方法を考えろとある。だから、年間で見た解約率や、解約したユーザからのヒアリング調査(料金が高い等)に取り組むのが初手だろう。また、解約はどのタイミング(契約〇ヶ月目~1年目が全体の〇%)か、解約の前の行動(コールセンターへの問い合わせ)が洗い出される。

すると、割引キャンペーン終了直後に解約申込が集中していたり、解約の〇%が『解約申込の連絡の前に』何らかの問い合わせをしているといった事実が見えてくるだろう。解約の予兆が洗い出されるはずだ。

また、解約の主な理由として、「料金が高い」といった不満や、競合他社がさらに安価な提案をしている事実が見出されるかもしれぬ。解約リスクとなる予兆データ(加入〇ヶ月目で問い合わせが来た)がシステム連携されておらず、離脱防止に向けた全社施策につなげられていないことも分かるだろう。

こんな風に、現場や顧客にインタビューをして、事実ベースから洞察を掘り下げていく。掘り下げる問いは “Why so?” (なぜそうなのか?)を自問自答していく(いわゆるイシューツリー/ロジックツリーの下へ行くときの問いやね)。

ちょっと面白いなと思ったのは、”Why so?” だけでなく、”Why not so?”(なぜそうではないのか?)という視点も併せよという。例えば「なぜその課題がこれまでに解決されなかったのか?」という視点から考えるのだ。

すると、「これまでは事業の成長に重きを置いており、解約が課題視されていなかった」という問題も炙り出されてくるかもしれぬ。経営層は「新規獲得数」をKPIに重視しすぎており、そもそも顧客を維持するコストに投資していないといった不都合な事実が明るみ出てくる。

「広さ」を確保する

離脱防止のための方法や多様性(=広さ)を確保するために、視点を変えろと説く。離脱防止の課題について、顧客視点と社内視点で考えてみる。

顧客視点だと、サービスや自社の価値をどう見ているか?といった疑問に置き換えることができる。

そこから、サービスの価値を上げるために、料金や契約面の見直しが検討できるかの議論になるだろう。長期割引やより細やかな料金プラン、バンドルやセットサービスを思いつく。提携店舗とのポイント還元もありだろう。

さらに、AIボットによるサポートの充実、顧客満足度調査とフィードバックを定期的に実施する、地域イベント・社会貢献活動を通じてブランド・信頼を向上させるといった泥臭いやり方もある。

社内視点からだと、もっと顧客データを活用できないかといったアプローチになる。例えば、解約予兆モデル(利用低下や問い合わせ増・料金の変動)を作り、このモデルに沿った行動を取った顧客を事前にアラートし、ハイリスク顧客には特典やサポートを自動提示する仕組みを入れる。

本書で紹介されている「リフレーミング」を取り入れるなら、「解約する顧客」とは「継続しなかった顧客」になる。両者は同じなのだが、「継続しなかった顧客」というワードから、「継続した顧客」が導かれる。

すると、両者はどう違うのか?という疑問が生まれる。それまで(解約しなかった)普通の顧客として扱われてきたが、解約リスクのある期間で辞めなかった理由を調査する。「解約しなかった顧客」を分析することで、継続要因を特定できるかもしれぬ。

「時間」と「構造」で要素を整理する

順番的には、最初に「深さ」で事実ベースで要素を分解しつつ、「他にないか?」という視点で問題要素を広げていくのが「広さ」だろう。そこに「時間」軸を導入し、顧客ライフサイクルや季節性に沿って、解約が起きるタイミングを含めて要素を洗い出していく。

出てきた要素は、MECEを意識しながら関係性に応じて要素をまとめたり分けたりする。おそらくキレイなMECEにはならないだろうが(しなくてもいいが)、Excelでツリー図を広げていく。

この記事では、問題の精緻化と打ち手の検討を並行して行ったが、本書では、まず問題の解像度を上げろという。その上で、レバレッジポイントとなる課題(おそらくここでは「顧客を維持するコスト」)に取り組む。現実的に対応できる範囲で、かつ、課題を十分に解決できる打ち手を選べという。『イシューからはじめよ』にある「本質的で質の高い、かつ、答えの出せる問い」がこれになる。

優れた問題解決本に共通するのはここだろう。解くべき問題や意思決定すべき判断ポイントは、実際に取り組んだり判断する前に、問題そのものを見極めることが重要だ。

ふわっとした問題は、意思決定の速度も精度も奪う。解像度を上げる問いを続けることで、問題を見極め、課題に落とし、具体策に落とすことができる。そんな一冊。

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(ネタバレ全開)『存在の耐えられない軽さ』読書会が楽しすぎた

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ダンジョン化しつつある渋谷で行われたリアル読書会に行ってきた。課題本はミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』だ。11名で3時間、あっという間だった。

『存在の耐えられない軽さ』は3回読んだ。邦訳が出た30年前に1回、世界文学全集で新訳が出た15年前に1回 [書評]、そして今回 [書評]なので、テーマもストーリーも承知しているので、もう味わうところは無いかな……と思っていたら大間違いだった。

この読書会で新たな発見があり、再々々読が楽しみとなった。対話を通じて意見の相違を確かめあい、さらに深く広く読む手がかりを得る―――読書会のおいしいところはここやね。

序盤で作品の感想を言いながら、「この会で皆と話したいテーマ」を述べる点が良かった。全員が一巡すると、『存在の耐えられない軽さ』で解きたい謎の一覧ができあがる。

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なぜトマーシュとテレザは別れないのか?

複数人が疑問に思っていたのは、「なぜトマーシュとテレザは別れないのか?」になる。トマーシュとテレザは恋人として一緒に暮らし、結婚している。トマーシュはテレザを愛し、テレザはトマーシュに身も心も捧げている。にも関わらず、トマーシュは他の女と情を通じる。生まれてこのかた、いったい何人の女と?友達に追求されると、トマーシュはこう答える。

「まあ、二百人くらいかな。それほど多いってわけじゃない。女たちとおれの関係はだいたい二十五年つづいている。二百を二十五で割ってみろよ。一年に新しい女が八人ほどになるのがわかるだろ。別にたいした数じゃないんじゃないの」
(第5部9章より)

一方でテレザはトマーシュを愛し、トマーシュただ一人に愛されようとする。彼の裏切りを知った後も、その意志を貫こうとする。

愛についての認識は、二人ではあまりにも違っていた。愛と性は別物であり、愛はテレザに、性欲は他の女に振り分けることができるトマーシュと、ふたつは分かち難く結びついているとみなすテレザとは、全く合わない。こんな二人が一緒にいられるはずがない。でもなぜ?

二人が別れない理由は、あちこちに埋め込まれている。読書会は、その理由を掘り起こす作業となった(かなり楽しい)。

なかでも面白かったのは、重荷のメタファーを用いた共依存の関係だ。二人は互いを背負い合っているのではないかという観点だ。

テレザは重いスーツケース一つもって、故郷と母を捨てて、トマーシュのところへやってきた。「女とは寝ても女は泊めない」ことを信条とするトマーシュからすると、重荷でしかない。それを「松脂で塗り固めた籠に入れられ、河の流れに放り出された子供」として引き受ける(もちろんこの子供とはモーゼで、重荷=愛=モーゼのメタファーは、彼の立場を危うくする論説にもつながるのだが、これは別のテーマなので割愛する)

もう一つは、「眠る」と「寝る」の違いだ。「ベッドを共にする」と語られるとき、睡眠と性交の二つの意味が重なっている。トマーシュの手を握り眠り続けるテレザは、一緒に眠ることができる唯一の存在としてあるのかもしれぬ。

トマーシュはつくづく思った。ひとりの女と寝るのとその女と眠るのとは、たんに違っているばかりか、ほとんど矛盾さえする二つの情熱なのだと。愛情は性交したいという欲望ではなく(この欲望は数かぎりなく多くの女に適用される)、眠りをともにしたいという欲望によってこそ現れる(こちらの欲望はただひとりの女にしか関わらない)のだと。
(第1部8章)

俺はここに、テレザの美しさを加えたい。トマーシュが抱いてきた二百人の誰よりも美しかったからではないかと想像する。

ポイントは、テレザの「美しさ」は直接的に言及されていないこと。一方、テレザの母親の美しさは徹底的に描かれている。「ラファエロのマドンナに似ている」と言われ、求婚の季節がやってきたとき、彼女には九人の求愛者がいた。金持ち、ハンサム、スポーツマン、芸術家等の中から、誰を選んでよいか分からなかったから、九人目の最も男らしい男を選んだ。その男とデキてしまったのがテレザになる。

九人の求婚者から愛を捧げられるくらいなのだから、テレザの母親は、きっと美しい女性だったに違いない。そんな母親から生まれ、母に似ており、かつ、母親から嫉妬されるくらいだから、この上もなく美しい見目をしているだろう―――想像を掻き立てられる。

にもかかわらず、テレザについて「美しい」と述べている箇所は、ほぼ無い。目の色、髪の色、背格好、顔つき、姿形、服を脱ぐとどんな肉付きかといった描写は無い。わずかに、彼女の就職祝いの飲み会で、トマーシュの同僚の医師がダンスに誘ったとき(トマーシュは踊るのが好きではない)、「美しい」が出てくる。

ふたりがフロアのうえを滑るように見事に進み、テレザはかつてないほど美しく見えた。彼女がどれだけ正確かつ従順にパートナーの意志をほんのちょっとだけ先取りするのかを見て、彼は唖然とした。
(第1部7章)

美しい存在を「美しい」と描かないのは、小説の基本的な技法だ。二百人以上の女と懇ろになるトマーシュはきっと美男子だろうし、「ラファエロのマドンナ」と呼ばれた母親が嫉妬するテレザは美女だろう。しかし、クンデラは「二人は美男美女だった」なんて書かない。

なぜ2人の死が途中で明かされるのか

あえて直接的に描かれないテレザの美は、小説の構造にまで及んでいることに気づかされた。

『存在の耐えられない軽さ』のメインキャラクターは、トマーシュ、テレザ、サビナ、フランツの4人だ。そして中心的な位置にいるのは、トマーシュとテレザになる。

全部で第7部まである小説の、ちょうど真ん中あたりで、トマーシュとテレザの死が明かされる。芸術家として成功する一方、空虚な日々を過ごすサビナの元へ届いた一通の手紙がこう明かす。

ふたりは近年とある村で暮らし、トマーシュはトラックの運転手として働いていた。彼らはしばしば連れだって隣町へ行き、ちいさなホテルで夜を過ごすことがあった。道路は丘をいくつも横断し、カーブが多かった。そのためトラックが峡谷に転落した。すっかり押しつぶされた死体が発見され、警察はブレーキの状態がひどく悪かったのを確認した。
(第3部10章)

通常、物語は時間に沿って進んでゆく。そして、主人公やメインキャラクターの死といった大きなイベントは、物語のラストに持っていくことが多い。もちろん、冒頭にクライマックスを持ってきたり、フラッシュバック/フォワードやキャラの想起といった時間軸の逆転はあるが、ど真ん中で主人公を殺すのは珍しい。

一般的に読者は「この物語の主人公はどうなるのだろうか?」という疑問を持って作品に向かう。不遇な状況を逆転させたり、未知の運命に翻弄されたりする主人公を見て、「それからどうなる?」という期待をもってページをめくる。

しかし、この作品では、メインキャラの2人は半分のページのところで唐突に死ぬ。そして、残りのページでその死に向かって起きることが、死とは関係なく紡がれてゆく。どうしてこんなイレギュラーな構成になっているのか?

面白かった意見としては、「これは恋愛小説ではないから」というものがあった。

もし『存在の耐えられない軽さ』が恋愛小説なら、小説の物理的なラスト(最後のページ)は、物語の時間軸としてのラスト(二人の恋愛の結末や、エピローグ的なもの)にするだろう。「そして二人は、いつまでも幸せに暮らしましたとさ」や、生き別れであれ死に別れであれ「もう二度と会うことがなかった」的に終わらせるだろう。

しかし、クンデラはこれを恋愛小説としたくないが故に、二人の死を真ん中に持っていったのだというのだ。なるほど、確かにこれ、恋愛を描いているけれど、いわゆる「恋愛小説」にしてしまうと、込められている様々なテーマ(重さと軽さをはじめとする様々な二項対立、ニーチェの永劫回帰と人生の選択、キッチュの自己陶酔)から外れてしまう。

なるほどーと納得する面々に、参加者の一人が集英社文庫の帯を見せる。

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「20世紀恋愛小説の最高傑作」らしいwwwということで一同爆笑する。二人の恋愛は物語をドライブする推進力にはなっている(この二人はどうなるのか?という宙吊り)けれど、これを恋愛小説にしてしまうのは、表層的すぎるかもしれぬ。

そして、二人が若くして死ぬのは「二人をハッピーエンドにするため」という説も語られる。愛と性は一緒だとする女と、心と肉は分離できる男が、いつまでも一緒にいられるわけがない。プラハの春による翻弄が二人を結びつけはしたが、政情が落ち着き、生活が続くなら、どこかで破綻する。そうなる前に死ねば、少なくとも死ぬまでハッピーだったといえるから。

これにもう一つ、俺の考えを加える。クンデラ(というより物語の仕掛け上)、物語的結末を「その後二人は、いつまでも幸せに暮らしました」とすることはできない。だから、二人は一緒に、小説のページの途中で死ぬ必要があったと考える。

順に説明する。テレザの美しさは(直接的には描かれていないものの)伝わっている。一方で、テレザの母がそうであったように、その美貌は時間とともに変化してゆく。テレザは母のようになることを恐れていたはずだ。母が女らしさを否定するような素振りをしたり、老いの醜さを見せつけるような態度をする(もちろん、テレザの美貌を否定するため)。

この母の呪いは伝わっており、それゆえに、テレザは年齢を重ねることで醜くなることを恐れている。自分が老いても、トマーシュは愛してくれるのだろうか、と。二人の間に子どもはおらず、二人の絆と呼べるものは互いの想いだけになる。テレザが美しいままで死ぬためには、若くして死ぬ必要がある―――そういう物語上の要請により、運命が決められていったと考えることはできないだろうか。

音楽のアーキテクチャが組み込まれた物語

目次がちょっと変わっている。

第1部 軽さと重さ
第2部 心と体
第3部 理解されなかった言葉
第4部 心と体
第5部 軽さと重さ
第6部 <大行進>
第7部 カレーニンの微笑

「軽さと重さ」が1部と3部で同じタイトルだし、「心と体」も2部と4部で重なっている。その間に3部「理解されなかった言葉」が挟まり、シンメトリーな構造になっている。「軽さと重さ」をA、「心と体」をB、「理解されなかった言葉」をCとするなら、こんな構造だ。

A-B-C-B’-A’

各部では同じテーマ「軽さと重さ」や「心と体」を様々な人物や立場、象徴、事件でくり返し描こうとしている。同一の出来事を複数の視点から語り分けられ、多声的に聞こえることもあれば、性格のズレから不協和に聞こえたりする(墓地に対するサビナとフランツの見方とか)。

これは、音楽の構造を意識した物語構成となっているのではないか?

私のこの疑問は、この読書会で解消された。副主催の方より、これはソナタ形式を念頭においた構成となっているという。導入→展開→再現のそれぞれの中で、主調A、主調Bが繰り返される。A-B-C-A’-B’というのが普通だが、後半のA’とB’を逆転させるのもアリだという。

確かに小説の章立てはソナタ形式に則っているのかもしれない。第1部の後半で、ベートーベンの弦楽四重奏のモチーフを、わざわざ楽譜付きで引用している。

“Muss es sein?”(こうでなければならないのか?)
“Es muss sein!”(こうでなければならない!)
(第1部15章)

この問答は、物語のあちこちで、様々なキャラ、イベントの中で応答される。これはヒントの一種として読むと面白いかも。

音楽と物語を重ね合わせて読むという試みは、パワーズでやった(再読すれば再読するほど夢中になるリチャード・パワーズ『黄金虫変奏曲』)。バッハの変奏曲(Goldberg Variations)をyoutubeで聞きながら、スコアと首っ引きで綿密に読んだのだが、かなり幸せな読書だった。

ひょっとすると、同じ仕掛けが『存在の耐えられない軽さ』にも施されているかもしれない。GPTさんに「ベートーベンで7楽章まである組曲は?」と聞いてみたところ、「弦楽四重奏曲第14番」とのこと。4回目に読むときは、これを流しながら重ね読みしてみよう。

誰がキッチュか

読書会で問いかけられた謎の一つに「誰がキッチュか?」というものがあった。

一般的なキッチュ―――大衆ウケはいいけど俗悪で美的価値は低く、けばけばしい作品―――という用法から離れ、小説では別のニュアンスが与えられている。サビナの目線から語られているように見えるが、これ、作者の代弁者「私」の主張になる。

そのニュアンスとは、世界の汚れや禍々しさ、不協和、不合理を否定するものとしての「キッチュ」だ。「このキッチュ」は異議を排除し、一致団結の情動に結びつこうとする。

キッチュは立て続けにふたつの感動の涙を流させる。最初の涙が言う。「なんて美しいんだろう、芝生のうえを走っているちびっ子たちは!」
第二の涙が言う。「なんて美しいんだろう、芝生のうえを走っているちびっ子たちを見て、全人類とともに感動するのは!」
この第二の涙だけがキッチュをキッチュたらしめるのである。
(第6部8章)

読書会に参加する前までは、単純に、フランツ=俗物=キッチュと考えていた。カンボジアの恵まれない子どもたちを助ける運動(=大義)のために身を捧げるが、その大義とは何の関係もない事件に巻き込まれてカンボジアで死ぬ。これぞ俗物の鑑!と思っていた。

だが、読書会ではもっと刺激的な読みを得られた。私なりに再解釈すると、現実のリアクションから離れて、理想主義に走るとき、このキッチュは現れる。

不幸な目に遭う人々にに心を痛めるのはキッチュではない。「不幸な目に遭う人々にに心を痛める自分に酔う」ところからキッチュが始まる。サビナが感じていた熱狂的なものへの嫌悪は、このアピールに酔う人々に向けられたものだろう。読書会では、もっと生々しい(ネットに書くと叩かれそうな)固有名詞や作品名が飛び交っていたが、ここでは自重しておく。

こんな風に、次から次へと、様々なネタや読み方が提案され、捏ねられ、飛び交わされた。命の軽さからマッカーシー『ブラッド・メリディアン』が提案されたり、クンデラの最高傑作として『不滅』が強く推されたりした(これは私)。二次会では『桐島、部活やめるってよ』の映画版が強く推されたので、手を出してみる。

分からないものは分からないでいいし、裏読み・深読みは自由でいい。互いのリスペクトや礼儀正しさは必要だが、必要以上に政治的な正しさは求められない。「私とあなたの意見は違う」が、そのままの意味でやり取りできる喜び。そういう意味で、リアルの読書会は大変楽しかった。

同じ本を読む人は、わりと近くにいることが確かめられて、嬉しい会だった。これはやはり、ネットのおかげなり。

東京ガイブン読書会の主催の方、ご参加の方、ありがとうございました!

 

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問題を再定義すると解法は変わる『ライト、ついてますか』

枠組みを変えることで問題を再定義することを「リフレーミング」と呼ぶ。リフレーミングの見事な例は、孫正義のこれ。

頭頂部で起きていることは1㍉だって変わっていないのに、ネガティブからポジティブへ再定義されている。こういう発想って、どうやって生まれてくるのだろう?

おそらく、これを読んでいたのではないか?

N/A

本書は、見方を変えることで問題を別の角度から捉えなおし、問題を「再発見」する本だ。ユーモア小話仕立てのエピソードを俎上に、「問題は何か」「それは本当に問題なのか」「それは誰の問題なのか」「それを本当に解きたいのか」を分析していく。

「エレベーター問題」は誰の問題か

有名なやつだと、「エレベーター問題」がある。

とあるビルのオーナーが問題を抱えている。様々な企業が利用するテナントビルなのだが、「エレベーターの待ち時間が長い」という苦情が寄せられているのだ。

普通なら、「エレベーターの待ち時間が長い」という入居者の不満を問題だとみなし、エレベーターの増設や速度を改善するといった解決策を考える。

だが、この問題を「誰の問題か?」という観点から問い直すと、ビルのオーナーにとっては別の対策が見えてくる。

  • 賃貸料を値上げして入居者を減らす
  • 待ち時間はゆったりとした働き場所だからこそだと入居者を説得する
  • 歩行時間と消費カロリーの表を張り出し、階段を使う気にさせる

もっと多くの対策が出てくるのだが、どれも「エレベーターの待ち時間が長い」という利用者の問題ではない点に注意してほしい。代わりに、オーナーに苦情が行くことが問題となっている。

採用された解決策は、「エレベーターの前に鏡を置く」になる。これにより、利用者は自分の顔色を確認したり、身だしなみを整えることができる。エレベーターが来るまでの間は、「待ち時間」でなくなったというわけ。

エレベーター問題は古典的な事例だが、「ネットが繋がらないときに出てくるChromeのミニゲーム」は現代の応用例になる。

すぐ「問題」に飛びつく弊害

「これは問題だ」と言われたとき、私たちは自動的に解答を探そうとする。

著者に言わせると、これは、「学校に通いすぎたことによる弊害」らしい。問題に集中しようとするあまり、最初に目についた「問題」らしく見える文章に飛びつき、速く解こうとする。なぜなら、試験ではスピードがものを言うからだ。

しかし、「問題」は変えられる。

例えば「先着順のチケット予約受付に、人気アーティストのリクエストが殺到し、予約処理が間に合わない」という悩みがあるとする。これを解くべき問題だとするなら、「より強力なサーバを増やす」「同時接続セッション数を増やす」といった対策が浮かぶだろう。

だが、「その悩みは本当に問題か?」という視点で捉えなおすと、どうなるか?

すると、「予約処理を間に合わせる」のではなく、リクエストにさえ応えられれば良いのではないか……という発想を得られる。そこから、予約処理や課金処理に時間がかかっていることに気づき、「リクエスト受け付けと予約を分ける」という考え方につながる。

最終的には、「一定期間リクエストを受け付け、そこから抽選で当選者を確定し、後日、予約処理をしてもらう」ことだってありだろう(Switch2の招待販売制を思い出そう)。

一見「問題」に見えるものに飛びつき、解こうとすると、取れる打ち手は限られてくる。代わりに、「本当に解くべき問題は何か」という観点から、問題を再定義することで、より抜本的な対策が見えることもある。

ライト、ついてますか?

タイトルにもなっているこの「問題」が面白かった。

長いトンネルの先に、世界一眺めの良い展望台があった。トンネルの中では車のライトをつけて欲しいので、トンネルの入口に「ライトをつけて下さい」という標識を立てた。

ところが、問題が発生した。トンネルを抜けて展望台に到着してもライトがつけっぱなしで、展望台を散策した後、バッテリーが上がってしまうというトラブルが多発したのだ。

もし問題が「バッテリーが上がる」なら、展望台に充電施設を置けば解決する。だが、維持費がそれなりにかかる。トンネルの出口に「ライトを消せ」という標識を出せばライトを消し忘れることは無くなるだろうが、夜中にライトを消してしまう可能性だってありうる。

色々考えて、こういう標識の案が出たという。

「もし昼間でライトがついてるなら、ライトを消せ
 もし夜間でライトが消えてるなら、ライトをつけろ
 もし昼間でライトが消えてるなら、ライトを消したままにしろ
 もし夜間でライトがついてるなら、ライトはついたままにしろ」

厳密性はいいのだが、車を運転しているとき、こんなに大量の文章を読まされ・判断させられるのは酷だろう。本当に解くべき問題は「バッテリーが上がる」ではなく、「ライトを消す」ことでもない。ドライバーに気づいてもらい、(必要なら)つける/消すの判断をしてもらうことだから、標識はこれでいい。

ライト、ついてますか?

これ、要件定義の泥沼にハマっているときに思い出したい。

顧客が突き付ける条件付け・場合分けの迷宮を彷徨っているとき、「結局何がしたいのか」をしばしば忘れる。「この要件で、業務やビジネスの上で何を解決する(改善する)のか?」という視点から捉えなおすと、別の解法が浮かぶかもしれぬ。

そういう意味で、お守りになってくれる一冊。

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後知恵バイアス・事後孔明の寓話として読む『失敗の本質』

N/A

経営幹部の必読書として有名な『失敗の本質』が面白かった&タメになった。

太平洋戦争における失敗の本質は、「国力で圧倒的に差がある米国にケンカを売ったこと」に尽きる。人を含めたリソース差が決定的であり、他の理由は後付けに過ぎない。「もし~だったら」と歴史にIFを求めても、いわゆる後知恵だ。

だが、この後知恵をあえてやったのが『失敗の本質』だ。

「なぜ開戦したのか」という問いはスルーすると序章で謳っている。代わりに「日本軍はどのように負けたのか」というテーマで日本軍の組織構造を研究する。インパール作戦やミッドウェー海戦など代表的な負け戦を6つ選び、いかに日本軍がダメで、米国や英国が優れていたかを力説する。

日本軍ダメダメ論

本書の前半は失敗の事例研究になる。各作戦(ミッドウェー、ガダルカナル、インパール、レイテなど)の背景や経緯は、膨大な戦史資料から引かれている。緊迫していく戦場の空気や、臨場感あふれる戦闘描写は、結果が分かっていてもハラハラさせられる。

この、見てきたような書きっぷりは、塩野七生『ローマ人の物語』と重なる。

ただし、『ローマ人の物語』は「ローマ軍TUEEEEEE!!」と激賞する一方、『失敗の本質』では「日本軍YOWEEEEEE!!」で塗りつぶされている。曖昧な作戦目的、兵力の逐次投入、兵站軽視、陸海軍の反目、代替案の欠如、「空気」が場を決める等、日本軍のダメっぷりがこれでもかと糾弾されている。

「日本軍のここがダメ」の非難が激しすぎて、ちょっと可愛そうに見えてくる。たとえば、ミッドウェーで完敗した理由の一つに、暗号解読されていて作戦が筒抜けだったところ。だが本書はそうではないと断ずる。

たとえ暗号解読よって日本側の作戦計画を知られていたも、第一機動部隊が慎重な索敵と厳重な警戒、そし周到な奇襲対処策を講じ、適切な航空作戦指導を行っていたならば、この要因は必ずしも致命的マイナスとはならなかっただろう。
(p.99 ミッドウェー作戦)

作戦がバレていても、実行段階で気づいて対処すべきという理屈はさすがにキツすぎる。「もし~だったら」のタラレバ方式で撫で斬りにする論調は、いっそ清々しい。

所要の航空兵力は、米機動部隊の存在の可能性に備えて控置しておくべきであった。また、米空母の存在を確認したら、護衛戦闘機なしでもすぐに攻撃隊を発進させるべきだった。
(p.104 ミッドウェー作戦)

このときルンガ沖の米輸送船団は、まったくの無防備となった。もし三川艦隊が攻撃を続行し輸送船団を撃破していたならば、ガダルカナル戦の形勢は変わっていた。
(p.114 ガダルカナル作戦)

もし陸軍が偵察機を出していれば、三日前には、この大部隊を補足できたであろう。
(p.195 レイテ海戦)

結果が分かった後で、「あのとき撤退すればよかった」とか「補給するべきだった」と言うが、当時は分かるはずもない。当時の不確実性や情報制約を無視して、「当然そうするべき」と結果論に基づく評価は、事後孔明(英語だとhindsight bias:後知恵バイアス)という。

実際、著者(6人いる)も自覚があるのか、随所に「後知恵によれば」「後知恵の結果論」という表現が散りばめられている。さらに、開き直ってこんな宣言が序章になされている。

われわれは、いわゆる後知恵によって日本軍の失敗を誇張したり、特定の人間に対して過酷な評価・批判に傾いた嫌いがあるかもしれない。しかし、われわれは、日本軍の失敗に籠められた教訓を探るため、ときにはあえて、失敗の誇張や過酷な批判という危険性を承知のうえで分析を進めたのである。
(p.32 日本軍の失敗から何を学ぶか)

さらに、著者たちは元々のテーマ「組織論から日本軍を研究する」に落とし込むために、「日本軍の組織文化が究極の原因である」と後付けを一般化している。

これ、歴史書っぽい体裁をしているけれど、歴史書からピックアップしたケーススタディ集と見たほうがよいかもしれぬ(※注)。その辺りを考えず、手放しに絶賛しているおっさんがいるみたいだが、危うい。

日本軍の失敗の本質と教訓

では、後知恵バイアスにまみれたチェリーピッキングだからダメかというと、そうでもない。バイアス(bias)は斜めに歪んだという意味だから、その偏りを考慮すれば使える教訓が得られる。

以下、偏りを考慮して抽出した「失敗の本質」とそこから得られる教訓を並べてみた。幹部研修で本書を読まされる人には参考になるかもしれぬ。

失敗の本質 教訓(経営・組織戦略への応用)
目的の不明確さとグランドデザイン欠如 ミッドウェー作戦:基地攻略か空母撃滅か目的が不統一。戦争全体の出口戦略なし ビジョン・ミッション・ゴールを明確化、全社共有。OKRやKGIで上位目標と施策を連結
短期決戦・攻撃至上の戦略志向 真珠湾後:短期決戦で米国の戦意を挫く想定。ガダルカナルで逐次投入 短期利益に偏らず持続可能性を重視。撤退基準や中長期戦略を設計。短期・長期の整合性を取りつつロードマップを各層で設計
兵站軽視と補給設計の脆弱さ インパール作戦:補給を軽視し「3週間で決着」と前提。ガダルカナルで補給線崩壊 サプライチェーン、人材、資源配分を現実的に設計と投資
情報・偵察・通信の軽視 ミッドウェー:暗号解読を軽視、索敵不足。レイテ:情報錯綜で「謎の反転」 データドリブン判断。市場調査・顧客情報・KPIを活用し、思い込み排除
陸海空の統合作戦欠如 ガダルカナル:陸軍・海軍の作戦不一致。FS作戦 vs ミッドウェーで戦略が乖離 部門間分断をなくし、クロスファンクショナルチームや共通KPIで統合
価値・情報・作戦構想の共有失敗 山本五十六と南雲忠一の間で作戦意図の齟齬(ミッドウェー) 上下・部門間での情報共有と透明な意思決定を徹底。経営方針の浸透
コンティンジェンシープラン欠如 インパール:撤退計画を立てず、撤退は「敗北を前提にする」として忌避 代替案や撤退戦略、組織のダメコン計画を事前に策定(プレモーテム分析、BCP設計)
学習(フィードバック)不全 ガダルカナル:失敗の教訓が次戦に反映されず、同じ逐次投入を繰り返す 失敗を組織的にレビュー。ポストモーテム/レトロスペクティブの制度化
科学的思考より「空気」に依存 インパール:補給困難の指摘を「精神力で克服」と黙殺 心理的安全性を確保し、異論を歓迎する文化醸成。データに基づく意思決定
組織文化としての「和」優先 インパール許可の過程で「反対は和を乱す」とされ、合理性より融和が優先 合理性・透明性の重視。検証ウェルカムの合議制。客観的な成果測定。第三者評価や外部監査の取り入れ
合理的官僚制と実態の乖離 作戦立案では合理的検討を装うが、実態は忖度と暗黙合意(例:大本営会議) 忖度や暗黙合意ではなく、明文化されたルールと責任を重視。

本書が主張している「日本軍の組織文化が究極の原因である」は過剰な一般化かもしれぬ。だが、「過去の成功体験の過剰適応(過学習)が、時代の変化に対応できなくさせた」という視点は鋭いと感じた。

  • 陸軍は、日露戦争で成功した銃剣突撃白兵戦を信奉し続け、火力中心・機動戦を重視する近代戦の流れに取り残された
  • 海軍は、日露戦争で成功した艦隊決戦思想に固執し、航空機・潜水艦・レーダーの台頭による統合システム戦に遅れた

つまり、組織からすると「過去の成功体験=正しいやり方」という前提から抜け出せなかったと言える。

さらに、第一次世界大戦を通じて西欧諸国が経験した「総力戦」「航空戦力の勃興」「塹壕戦の膠着」という現実を、日本は当事者として体験できなかった。環境の変化を直視する機会を欠いたまま、自国の成功パラダイムを絶対視したのだ。

ここから得られる教訓は、現代にもつながる。

  • 「過去の成功パラダイム」は強みでもあるが、同時に最大のバイアスにもなる
  • 環境変化や技術革新が速い時代には、勝ちパターンに囚われない柔軟性が生死を分ける

日本軍の失敗は「組織文化」というよりも「変化に対する鈍感さ」に置き換えるとしっくりくる。

「過去の成功が選択を見誤らせる」例なら、KodakのフィルムとかNokiaの携帯電話が有名だろう。現在進行中のやつだと、NikeのBoC戦略だろうか。コロナ禍の外出制限で成功した直販モデルが、ポストコロナの消費者や小売チャネルの離反を招いている。

結局のところ、『失敗の本質』を歴史研究として読むと事後孔明のオンパレードになるが、寓話として読むと現代的な教訓を与えてくれる。「勝ちパターン」に固執すると環境の変化に適応できなくなる。

このあたりまえで冷徹な真実は、過去の戦争からも、ビジネスの失敗例からも学ぶことができる。そういう意味で、「経営者にとっての名著」と呼ばれているのだろう。


※注:GPTに聞いたら、こんな感じ。かなりの批判があったみたいだ。GPTさん間違えることもあるので、裏取りはするつもり。半藤一利『昭和史』は積読山にあるはずなので、掘り出してみよう。

半藤一利『昭和史 戦前篇 1926-1945』平凡社ライブラリー, 2009

  • 日本軍の敗因は国力差に尽きる
  • 文化や組織論で説明するのはわかりやすいが、真因をぼかす危険がある

戸高一成『零戦と戦艦大和』NHK出版新書, 2012

  • 戦史を組織論に都合よくはめ込んだ物語
  • 成功例(マレー作戦、真珠湾)を無視して敗戦例だけを集めた「事後的な一般化」

秦郁彦『昭和史の謎を追う(上・下)』文藝春秋, 1993

  • 精神主義や空気による意思決定の強調は「説明過剰」

 

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問いの質を底上げする『問いの技法』

N/A

問いの感度を上げると、的を射たコミュニケーションができる。

 太郎 『あのプロジェクトは失敗だ』
 花子 『それはなぜ?』

一見シンプルなやり取りだが、この「なぜ」には二つの意味がある。

 1.なぜプロジェクトは失敗したのか(原因を問う)
  例:要件追加や人員不足が影響したのか

 2.なぜ失敗だと判断したのか(根拠を問う)
  例:納期遅延やコスト超過など、どの指標を根拠にしたのか

前者は「失敗」を事実として深掘りする問い。後者は「失敗」かどうかを確定させるための問いだ。

これを区別しないと、誤解を招く。例えば偉い人が「なぜ失敗したのか」と問うた場合、その背後には「どの指標を根拠に失敗と見なしたか」が隠れている。根拠を確認せずに原因を語れば、相手の意図とズレることになる。

偉い人がコスト超過を問題視しているのに「人員不足のせいです」と答えれば、「不足なのにコスト増?」と、しなくてもいい説明責任を背負わされるハメになる。

問いへの感度を上げ、問いの背後を明確にすることは、余計な誤解や責任を避ける最初の一歩になる。「ご質問の主旨を腹落ちさせるため、ご判断の根拠を教えてください」のように的を絞り込むことも可能になる。

質の良い問いができるようになるのが、『問いの技法』だ。「問い」とは何かを明確化し、多様な問いを分類・整理して理論化したものになる。

問いの理論を学ぶことで、「問い」の形をしていないものの、暗黙のうちに問われていることに気づけるようになる。あるいは、「問い」の形をした巧妙な説得術も見抜けるようになる。

「問い」とは何か

本書で示される定義は、次の通り。

問いとは条件に合う答えをある範囲のなかから選択することである

上記を分解すると、問いとは、①予め何かしらの前提条件が与えられており、②ある範囲の中から答えを選ぶことで、なおかつ、③その答えは何らかの基準(価値判断)に沿って選ぶことになる。つまり問いとは、前提、選択、基準の3要素によって構成されるという。

ただし「選ぶ」という言葉に違和感を覚えるかもしれない。例えば「方程式の解を求めよ」は「求める」であり、「犯人は誰だ?」は「探す」が自然だろう。

ここで注目すべきは、答えを導く方法(計算や捜査)ではなく、「答えがどの範囲に属するのか」という点だ。数式なら「数値」、犯人探しなら「人物」という範囲が決まっている。

「問い」と「答え」とセットであり、その答えは文脈や意図に依存する。一意に定まるもの(1+1は?)、人によって変わるもの(ここのラーメンは好き?)、状況で変わるもの(面接と職務質問での「あなたは誰?」)がある。

したがって、「問いとは、前提のもとで基準に沿って選ぶこと」と考えると、その性質を整理しやすくなる。

誰かから問いを投げかけられたとき、あるいは、自ら問いが生まれたとき、「その問いとは何か?」と、問いそのものに目を向ける時に役に立つ。そして、「問いの前提、選ぶ基準と範囲は何か?」に置き換えることで、焦点がハッキリとするだろう。

「事実の問い」と「評価の問い」

本書では、様々な問いの分類がなされているが、最も重要なものは「事実の問い」と「評価の問い」だろう。

 太郎 『あの店のラーメン、どうだった?』
 花子 『豚骨スープに細麺で、けっこう美味しかった』

一見シンプルなやり取りだが、この「どうだった?」には「事実の問い」と「評価の問い」がある。

事実の問いは、基本的に答えが一つに定まる客観的なもので、「豚骨スープ」や「ストレート細麺」がその答えになる。一方、評価の問いは、答えは人それぞれのもので、「美味しかった」という主観が答えになる。

事実か評価か、どちらを想定した問いなのかを念頭に置くと、どんな回答が適切か見えてくる。どちらか分からないような問いなら、両方を示すのが良いだろう。ITプロジェクトでよくある問いだと、こんな風になる。

この機能追加に、なぜこんなにコストがかかるの?
→見積もり工数は90時間ですが(事実)、他の要件と並べると割高に感じるかもしれません(評価)

この画面のバグがなんで残っているの?
→再現条件が複雑だからですが(事実)、テスト設計が甘かったせいでもあります(評価)

この状況でリリースしても大丈夫?
→致命的なバグはありませんが(事実)、サポートの工数が増える可能性はあるので不安ですね(評価)

「事実の問いは一つに定まるもの」とはいえ、実際には定めるのが難しい場合がある。あるいは、一度定めても後に変わることもある。例えば「どの政策を採択するか」や「どんな刑罰を科すか」といった問いだ。

この答えは、人によって評価が分かれるが、最終的な結論は所定の手続きで決まる。問題は、「なぜこの政策を選ぶのか」「なぜ死刑にしないのか」のように、あたかも事実の問いであるかのように評価を押し付ける場合である。

これらの問いの背後に、「この政策は現状にそぐわない」「この犯罪には厳罰が妥当だ」といった主観的な評価が隠れている。それを明示しないまま「事実の問い」の形式で突きつければ、相手に説明責任を押し付けることになる(SNSで炎上する「問い」はたいていこれ)。

問いの類型モデルの全体を表にしたものがこちら。上段は事実の問いで、下段は評価の問いとなっている。

もちろん、厳密に分けられないものもあるし、重なるものもある。だが、「問われているもの」はどれに相当するか?という観点で見ると、問いの解像度が上がるだろう。

問いのモデル 説明
記述の問い 事実の問い(答えは一つ) 関ケ原は何年?
評価の問い(人それぞれ) そのラーメン美味しい?
推論の問い 根拠の問い(エビデンス) なぜこの政策が有効なの?
理由の問い(動機や判断の根拠) その本を選んだのは?
説明の問い 原因の問い(客観的な根拠) なぜ雷が発生する?
理由の問い(心の意思) なぜ会社を辞めたのか?
討論の問い 主張の問い(合意形成を目指す) この法案を通すべきか?
意見の問い(多様な立場を表明) この法案をどう思うか?

 

暗黙の問い

問いは必ずしも「質問」という分かりやすい形になっているとは限らない。

相手が答えを返すとき、その背後には暗黙の形で「問われていること」が存在する場合がある。本書ではこれを「問いの先取り」と呼ぶ。問いの先取りは2種類ある。

一つ目は、「予想による先取り」だ。新しい職場に配属されたとき、あいさつとともに簡単な自己紹介をするだろう。誰も「あなたの役割や意気込みは?」などと尋ねてはいないが、そう問われるだろうと予想して答える。

二つ目は、「要請による先取り」だ。会議が4時から始まるのだが、Aさんは作業に没頭して時間に気づいていないとする。その時「もう4時ですよ」と声をかける。

普通なら、これは「今何時?」の答えだが、Aさんが時刻を尋ねていないのに答えだけが返ってくる。Aさんが尋ねるべき「今何時?」という問いを先取りしているからだ。

「相手が何を問うてくるのか?」を見越した上でその問いへの回答もすることは、かなり重要なコミュニケーションスキルになる。ITの現場だとこうなる。

  • 先ほどDBアクセスでエラーログを検知しました。原因とユーザ影響は調査中です(「原因と影響は?」という問いを先取り)
  • 先ほど追加要件のレビューが終わりました。納期とコストへは響きません(「追加要件がプロジェクトに与える影響は?という問いを先取り」

問いに気づく

「何が問題か?」とか「どのようにすべきか?」といった問いなら分かりやすい。だが、問いは質問文の形を伴っているわけではない。暗黙の問いや、5W1Hすら伴わない問いだってある。

そうした問いをキャッチするためにはどうすればよいか?

すぐに使えるのは、語彙に「は?」「か?」をつける方法だろう。「影響は?」「リスクは?」「可能か?」「甚大か?」など、名詞、形容詞、形容動詞につけるのだ。

もう一つは、選択肢を見つける。

問いの定義を思い出そう「問いとは条件に合う答えをある範囲のなかから選択すること」。選択肢が提示されているとき、そこに問いが隠れている。

私が当選した暁には、高齢者福祉に力を入れてい参ります

隠れた問いは「限られた任期の中で、最も力を入れるべき施策は何か?」である。候補者の施策を並べて比較すれば、「子育て支援や経済活性化は?」といった他の選択肢が浮かび上がる。

さらに、「否定」を探すと良いという。普通なら肯定文で伝えられるところを、あえて否定文にしているということは、そこに何かしらの「問い」が示唆されている可能性が高いという。

 太郎 『今日は晴れているね』
 花子 『今日は雨が降っていないね』

花子の場合「雨が降っているかどうか」に何かしらの含みがあることが分かる。わざわざ否定形で述べていることは、「傘を持っていく?」「植木鉢の水やりいる?」といった問いが隠れている可能性がある。ITプロジェクトだとこういうのがある(カッコ内は隠れた問い)

  • 今回のリリースは遅れていない(前は遅れたけれど今回は納期守れる?)
  • 予算はまだオーバーしていない(予算内だけど、予算超過の可能性はあるの?)

否定形は聞き手の想定するリスクを前提にした、「隠れた問い」への返答であることが分かる。そこから隠れた問いを炙り出し、ストレートに答えることで安心させることができるだろう(「納期は守れます」とか「予算内で収まりそうです」)。

問いの感度を上げることは、相手の意図を正しく読み取り、自分の思考をクリアにするための技法だ。知的営みを支える、思考の筋トレといってもいいだろう。

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