読むべき最高のテキストは東大入試現代文にある

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年4月18日


Toudaino

いま読むべき本、考えるべきテーマは、東大入試の現代文に集まっている。

日本最高の学府は、未来の知を背負う人として、どういった人を求めているか?  何をテーマとし、どんな本を俎上に載せ、どこに着目し、どんな問いを投げ、いかなる解答を期待しているか? そこに、「入試問題」という形をとった、東京大学からのメッセージを見ることができる。

これが数学や英語の問題だと、ちょっと手が出ないかもしれない。

だが、これが現代文なら、とっつきやすい。

東大のメンツにかけて「いま考えるべきテーマ/読む価値のある本はコレだ!」として選び抜き、しかも、「良いところはこの部位」と切り出してくれる。つまり、どんな知が求められているか? への東大の応答が、入試現代文そのものなのだ。

『東大のヤバい現代文』は、そうした脂の乗った良問を、関連書籍とともに美味しく料理してくれる。ナニ、東大と臆するなかれ、丁寧な解説で、何が重要かだけでなく、なぜ重要なのかが分かる仕掛けになっている。

「歴史=記録されたもの」を揺さぶる

常識に揺さぶりをかけるのが、宇野邦一『反歴史論』からの入試問題と解説だ。

わたしが当然のように考えていた「歴史とは、人間社会の活動の記録だ」という常識に、ガツンと一撃を喰らわせられる。

『反歴史論』から切り出された入試問題文では、「記録されたもの」だけが歴史ではないという主張が展開される。国家や社会の代表的な価値観によって中心化されがちな、いわばメインストリームとしての歴史に対し、歴史を「記憶」とする考え方が紹介される。

そこでは、記録されたものだけを歴史とする「常識」に抗うかのような、「記憶としての歴史」が対比される。これにより、わたしの常識だった「歴史」とは、国家や社会の価値観によって等質化され、個人の思考や欲望のありかたを方向づける装置であることが暴かれる。

東大現代文には、こうした常識を問い直す、当たり前の前提を取っ払うような問題文が、よく出題されるという。これは、学問の入口にいる受験生へのメッセージだという。すなわち、知性というものは知識で頭を一杯にすることではなく、そうした知識の前提となっているものを問い直す行為になる。

本書は、この問題文の「~を説明せよ」の背後にある意図にまで踏み込んで解説するだけでなく、その意図をさらに掘り下げ・拡張する書籍を紹介してくれる。クライブ・カッスラーの冒険小説からエマニュエル・カントの哲学書まで幅広く、ブックガイドとして扱うのもいいかも。

「芸術=オリジナリティ」を疑う

あるいは、わたしの芸術観が、浅沼圭司『読書について』からの入試問題と解説で揺さぶられる。

優れた創作とは天才の証であり、芸術作品は唯一無二の存在だと信じていた。だが、それは近代に確立された通念に過ぎないということが暴かれる。

芸術は、唯一無二のオリジナリティが求められるものである一方で、「芸術」というジャンル・枠組みに組み込まれている……これが近代における芸術の常識だという。唯一無二なのに、同じジャンルというのは矛盾している。真に独創的であるならば、そうした「枠組み」自体を破っているから。

つまり、独創的な作品Aと、オリジナリティあふれる作品Bが、同じ枠組みにあるということは、原理上ありえない。にもかかわらず、その矛盾を解消するために、芸術に「ジャンル」が求められるのだ、という考え方である。

例えば、個々の作品を「水彩画」、「油絵」、あるいは「グラフィック・デザイン」といったジャンルで括れる一方、さらに広げて「平面作品」というネーミングも可能だ。

そして、「平面作品」があるということは、「立体作品」が出てくる。さらに、「視覚芸術=美術」として括れる。視覚があるということは、聴覚芸術=音楽が出てくる……芸術のオリジナリティを疑うところから、芸術の体系システムを導き出すことができるのが面白い。

解説では、今村仁司『近代の労働観』や青山昌文『美学・芸術学研究』を引きながら、古代ギリシャの手仕事の序列(ポイエーシスとテクネ―)や、ルネッサンス期の工房の職人の位置づけを説明する。

そこでは、画家や彫刻家という表現はあっても、作品のオリジナリティや個性を目指すところではないという説が紹介されている。ゴンブリッチ『美術の物語』とぶつけると面白い反応が得られるかも。

問うことで読めること

東大現代文は、知的意外性に満ちた文章を突きつけて、「説明しなさい」というスタイルで突き放す。読み手(受験生)は否が応でもその意外性も含め、理解することを余儀なくされる。

おそらく、意外性のない、誰でも思いつきそうな文章では、ロクに読まれることなく解答できてしまうからこそ、こうした知的に歯ごたえのある食材が求められるのかもしれぬ。

漫然と読むだけでは「なるほどー」で終わってしまうが、問いを念頭に置くことで、同じ文を別の目で読むようになる。書き手が疑っている常識に向き合い、さらに―――ここからは入試の外に出るが―――「書き手が疑っていること」そのものを、批判的に見るのだ。

知的な姿勢というものは、自分自身も含めた反証可能性を頭のどこかに置きつつ、問いを抱えて向き合う態度なのかもしれぬ。

良い問いで、良い読みを。

 

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世界はこんなにも不思議で面白い『銀河の片隅で科学夜話』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年4月5日


Ginga

これ好き、丁寧で上質な科学エッセイ。

深夜に寝しなにちびちび読みたいのに、軽妙洒脱な語り口に引き込まれ、するすると読んでしまう。多宇宙論と文学の深い関係を語ったかといえば、民主主義を壊すには、サクラが17%いればいいことを証明したり、倫理学のトロッコ問題を4,000万ものビッグデータでねじ伏せる。

量子力学とボルヘス

たとえば、多宇宙論と文学について。

量子力学と論理学を成立させるため、1957年にヒュー・エヴェレットが唱えた、「複数の宇宙」を仮定した主張だ。これによると、観測する度に分岐する、複数の平行世界が作り出されることになる。世界が進行するにつれ、無数の瞬間に、いくつもの多世界への分岐が生じるというのだ。

わたしは物語に毒されているので、複数世界を行き来するギャルゲーや小説をいくつか思い出してしまうのだが、エヴェレットが多宇宙論を主張する「前」に世に出た、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの作品が紹介される。

それは、1935年に出版された『伝奇集』にある短編で、「枝分かれする小径の庭園」になる。分岐してたえず数を増やしていく庭園の小道が登場する。それは失われた、「迷路でできた迷路」であり、曲がりくねりつつ広がり、迷路そのものに過去と未来を収め、星々までも含んでしまう―――エヴェレットがこれを読んだかどうかは分からないが、響きあうものがあるという。

言われてみれば確かにそうかも。そして、いったんそうした目を持ってしまったなら、今度はボルヘスを科学の可能性として読めやしないかと試みたくなる。

たとえば、認識が存在を規定する世界観なら、「庭園」よりも「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」の方がしっくりくる。捏造された百科事典をめぐる奇譚なのだが、この宇宙が誰かの夢ではないことは、確率に過ぎないという読後感が残る。ひょっとすると、エヴェレットはこっちを読んでいたのかもしれない。

H.G.ウェルズと核爆弾

あるいは、中性子爆弾とSF小説について。

物理学者レオ・シラードが、1933年、中性子をぶつけて原子核を崩壊させる実験で、あるアイデアを思いつく。

それは、「崩壊で中性子が飛び出し、それが別の崩壊を連鎖的に引き起こしたら、膨大なエネルギーが放出されるのではないか?」という着想だ。シラードは仲間とともにこのアイデアを検証するのだが……後はご存じの通り、マンハッタン計画で実現することになる。

本書では、なぜシラードは核兵器の原理を構想したのだろうかという点に着眼する。

そして、1914年に出版されたH.G.ウェルズの『解放された世界』の影響が決定的だったという。小説では、ウラニウム放射線を用いて、何日も繰り返し爆発する手投げ弾が登場する。あらゆる戦場で強力な核兵器が用いられ、人類は絶滅の危機に瀕する。

そこで目覚めた指導者たちが世界政府を作り、人類に最終的な平和をもたらす―――というストーリーだが、現実がそうでないことは今を見ればわかる。事実は小説よりも奇なりというが、現実が芸術を模倣すると喝破したワイルドが正しいのかも。

民主主義を壊すには、サクラが17%いればいい

たいへん興味深いのが、セルジュ・ガラム博士の「世論力学」だ。

様々な利害が対立する中で、どのように合意を形成するか? 単純に多数決を取るのではなく、互いの意見を出し合い、メリット・デメリットを検証していく、コンセンサス形成が重要だ。

このコンセンサス民主主義をモデル化したのが、ガラム博士だという。

人は全ての事案に対して詳しいわけではない。l巨大不明生物の進行状況だとか、なぜ宇宙船がカウントダウンしてるといった、専門家でも難しい問題に、適切な判断が下せるわけがない。

だから、他人の意見を尋ねたり、定見を持った人(専門家とは限らない)の主張を参考にしたりする。そうして意見の変更や調整が繰り返され、集団全体が合意する方向性が定まってゆく。

ガラム博士は、この意見形成をシミュレートし、確率分布の時間的分布を記述する式を作成することで、民主主義のコンセンサスを数理モデル化した。

そして、このモデルを色々動かすことで、集団は非常に興味深い振る舞いをすることが見えてくる。

まず、全員が浮動票―――つまり、みんな確固たる意見がない―――状態からスタートした場合、時間の経過につれて賛否のいずれかが優位になり、最後は全員賛成、もしくは全員反対になる。どちらに倒れるかは運しだいといったところだ。

だが、一定の固定票―――つまり、確固とした主張を持つ人がいる―――場合、賛否に与える影響は大きくなる。重要なのは、その主張の正しさ如何ではなく、どの程度の固定票がいるかになる。固定票が17%を超えると、無敵になる。残りの浮動票がどう動いても、最終的に固定票に収束する。

つまり、サクラを雇ってレビューを書かせたり、組織票をSNSにバラまいたり、切り取った「民意」をブロードキャストしたり、やり方はさまざまだが、その数が17%を超えると、合意形成を恣意的に操れるようになる。

これは良いことを聞いた。わたしは、「操られる」ほうの立場だが、(エコーチェンバーでなく)周囲の声が一つに合わさろうとするとき、その中にどの程度のサクラがいるのだろうか? という目で見るとしよう。その上で一緒に合唱するか、その輪から外れるかを選ぶこととしよう。

著者は量子力学の専門家なのだが、文学や歴史についても造詣が深く、世界の面白さについて、様々な分野から、縦横無尽に語ってくれる。寝る前に一話ずつ読むと、一ヵ月くらい不思議で楽しい夢が見れそう。

 

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健康ディストピア

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年4月20日


Health

「健康は義務です、不健康は犯罪です」とアナウンスしながらドローンが行き交い、市民の健康係数を測定する。サーモグラフィで自動測定し、体温が高いと「風邪で休まないのは犯罪です」と勧告する。

健康係数が良いなら、健常者と判定され、執行対象にはならない。

しかし、規定値を下回ると、潜在的な不健康者として判定され、様々な制限が加えられる。食事制限や運動が義務化され、タバコ等の嗜好品が限定されたり、保険金の割引オプションが利かなくなる。

さらに悪くなると、当人の健康状態が周囲への悪影響を及ぼす潜在感染犯と判断され、執行対象となる。マスクと手袋の着用が強制され、守らない場合は捕縛され、厚生施設でセラピーが施される……

……という物語を思い浮かべたのは、御田寺圭さんの「コロナ後の世界」に忍び寄る「健康・健全ディストピア」を読んだから。コロナ禍の先、社会保障や医療リソースが制限され、健康であることがルール化された相互監視未来を、「ヘルシー・ディストピア」と言い表している。すごい。

「健康=正義」の社会

そこでは、「健康=正義」される。

タバコを嗜む人、お酒が好きな人、メタボといった不健康な人は、医者から注意を受けたり、白い目で見られるだけでない。はっきりとルール(条例・法令)違反として改善が義務付けられる。免疫力が低下する高齢者は、それだけで健康色相が濁っていると判別される。

もちろんこれ、アニメの『PSYCHO-PASS』から派生した、わたしの妄想だ。人の心理状態や犯罪傾向を測定し、規定値を超える犯罪係数を持つ人間を「潜在犯」と見なし、社会から排除もしくは殺処分する人々を描いた傑作だ。

人の心というものは、数値化できるか? 特に、未だ犯罪に至っていないのに、PKディックの『マイノリティ・リポート』のように犯罪予防できるのか? といった疑問は、Amazonプライムで確かめていただくとして、ここでは、「健康」について述べたい。

不健康は悪なのか

「健康」は、一見、誰も反発したり疑義を唱えられない中立的な善のように見える。誰だって病や苦痛を避けたいから、健康であるに越したことはない。どれだけお金を積んだって、健康はお金では買えない。もちろんその通りだ。健康であることは、「よいこと」とされるのが一般的だ。

しかし、誰も反対しないからこそ、この言葉を使えば、先入観を押し付けることができる。無条件に「よいこと」だと認められるからこそ、製品を売るために用いられても、そのレトリックに気づきにくい。

「健康的な体形」は、それにそぐわない体形に烙印を押す。「健康的な生活」、「健康的な食事」、「健康的なセックス」など、この言葉に訴える際、ある種の価値判断が密やかに発動する。「ダイエット」や「フィットネス」といった言葉を援用することで、健康への欲望を作り出し、操作することが可能だ。その価値判断は、健康の名のもとに押しつけられるため、健康ファシズムと呼ばれている。

こうした、健康という言葉の背後にあるモラル的な風潮をあぶりだしたのが、『不健康は悪なのか』という論文集だ [書評はここ]

これは、不健康を賛美する本ではない。母乳育児を推進する全米授乳キャンペーン、ヘルスケア用語に覆い隠された肥満嫌悪、「ポジティブであり続けること」を強要される癌患者、定義変更により創出される精神疾患など、「健康」という言葉に隠されたイデオロギーが、グロテスクなまでに暴かれる。

健康が強制される社会

ご注意いただきたいのは、こうした健康について管理された社会が完全にダメというわけではないこと。

公衆衛生にかかるコストや健康を維持するために必要なリソースは、個人では負担しきれない。だから社会で担うのだという発想で、社会保障や医療システムができている。「健康であることは望まれること」を前提とした、このベースラインは維持していきたい。

だが、「健康であることが強制されること」となる世界を懸念している。個人の努力目標ではなく、社会から制限や強制される方向に加速し、その大義名分として「健康=正義」という棍棒が振り回される社会までを妄想する。

健康な生活を営むことは、権利ではなく、義務となる。

不健康な生活は排除され、健全で安楽な社会といえば、ハクスリー『すばらしい新世界』が有名だろう。苦痛や不快のない、安楽で幸福な科学文明の未来を描いたディストピア小説だ。あるいは、伊藤計劃『ハーモニー』における、パンデミックにより崩壊した政府に成り代わった、新たな統治機構「生府」を思い出す方もいるかもしれぬ。

いずれにせよ、そこには高度な医療経済社会が築かれ、健康や幸福を目指すことは権利ではなく義務とされ、そこからの逸脱は禁じられる。「健康的である自由があるように、不健康になる自由だってある」なんてセリフは、戯言となる。

「うちの収容所に病人は一人もいない。健康な人と死人だけだ」

それはフィクションの話で、ディストピアに振り切った物語にすぎない、と指摘できる。

どの時代の政府であれ、国民の健康は国力に直結するのだから、大なり小なり健康管理社会になるもの。それを極端にしたフィクションなのだ、とも言える。

しかし、「健康=正義」を推し進めると何が起きるのかは、フィクションではなく過去を振り返ればいい。

T4作戦だ。

1939年ヒトラーの命令書から始まり、「不健康であり、生きるに値しない」と医師が選別した人々が、次々にガス室へ送られた作戦だ。

ナチスの強制収容所といえばユダヤ人の迫害に着目されがちだが、この作戦により、うつ病や知的障害、小人症、てんかんに始まり、性的錯誤、アル中患者といった人が、記録されているだけでも7万人、一説によると20万人も犠牲になったという[Wikipedia:T4作戦]

ヒトラーが署名したのは、治癒不能の重い病気を抱える患者に対し、十分慎重な診察のもと、安楽死がもたらされるよう、医師の権限を拡大する命令書だった。

当初は、苦しみから解放するという建前だったが、社会の幸福のため、科学的正当性のもと、社会を合理化する推進力になる。「健康であること」を医師が選別し、著しく不健康な存在は、社会から排除したのだ。

当時は戦力増強という目的があったものの、ナチスほど国民の「健康」に執着した組織はなかったという。

タバコとアルコールの追放運動を行い、飲酒運転には高額な罰金を課した。結核の早期発見のためのX線検査、学校での歯科検診、身体検査を制度化した。栄養のある食事、運動、新鮮な空気、適切な休養が啓発された。決められた「健康」を満たせない者は「役に立たない」とみなされる。つまり国民は、「健康」を強要されたのだ。

この件は、『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』に詳しい [書評はここ]。そこに出てくる、ブーヘンヴァルト収容所の所長の言葉が強烈だ「うちの収容所に病人は一人もいない。健康な人と死人だけだ」

誰が「健康」を決めるのか

繰り返すが、社会システムに組み込まれた健康に反対しているわけではない。国民皆保険制度は、半世紀以上にも渡り、日本の健康を支えてきた。必要なときに必要な医療が受けられる、いわば日本の財産ともいえる。

だが、限定される医療リソースを奪い合う状況を抜けた後、健康についての強制力が無条件に発動することを恐れている。結果として狂気への道になったとしても、始めた人は善意を敷き詰めていることが人の常だから。

ここで何らかの結論を出したいわけではない。問題は、こうした物語やレトリック、歴史的事実を吟味することなく、「ふいんき」で流されていくことを心配している。人類はムードに流されやすい。不安は煽られやすいし、恐怖は思考を止めやすくする。

「健康=正義」の世の中になるとき、この文章は非常に奇妙に見えるはずだ。だが、健康であることは、誰が決めるのか(決められるのか、そもそも決めるようなことなのか)を吟味する上で、考える材料となるだろう。

考えるきっかけや、参考となる作品を教えていただいた、御田寺圭さん、@kei9744さん、@chakabocoさん、@itachirei08さん、ありがとうございました。

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笑いのしくみを探る『喜劇の手法』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年5月3日


笑うのは人間だけだとアリストテレスが言ったとか。

真偽ともかく、大きな口をあけて、アッハッハと哄笑するのは楽しい。いや、楽しいから笑うのか。この笑い、可笑しさ、ユーモアについて考えるのに、有用な一冊が『喜劇の手法』だ。

「人はなぜ笑うのか」という漠然とした疑問に対し、『喜劇の手法』は、喜劇を通じて笑いの仕組みに迫る。しかも、シェイクスピアやモリエール、ゴーゴリの作品から具体的な例を挙げ、劇作家たちが、どんな手法を用いて観客を笑わせるかを吟味している。

本書がすごいのは、紹介される喜劇を観ていなくても面白さが伝わるところ。技法を分類し、それぞれにおいて特徴的なシーンに焦点を当て、その背景とともに脚本を抜き出してくる。こんな風に。

  • だます(変装、一人二役、嘘、変身)
  • 迷う双生児、偶然の一致、反復、循環、逆転)
  • 間違える誤解、身代わり、自縄自縛、誤算)
  • 語る傍白、アイロニー、沈黙と間、機知合戦)

ゴーゴリ『検察官』と『カイジ』の鉄骨渡り

たとえば「誤解」の手法としては、ゴーゴリ『検察官』を紹介する。旅の途中に無一文になった若者が、大物の検察官と取り違えられ、地元の市長や有力者たちに歓待されるという話だ。

最初は戸惑っていた若者も、検察官になりきって、あることないこと言い出すところや、中央権力に媚びてすり寄る田舎者が笑いどころになる。本書では、個々の笑いどころに通底する、ある視点に焦点を当てる。

それは、観客の視点だという。

つまりこうだ。調子に乗ってカネを巻き上げる若者や、お追従しまくる田舎者といった登場人物には、それぞれの視点がある。だが、それらの視点に対し、絶対的な優位を保っているのが、観客の視点になる。

人違いという些細な誤りが拡大し、登場人物は混乱する。混乱は人の醜悪な面を、過剰なまでに暴く。そうした混乱を前にしても、観客は巻き込まれることなく、渦中の人物たちとは距離を置いて眺めることができる。

それは「観客席」という絶対的な場所で、すべての状況が把握できているからだという。この絶対的な優位性が、『検察官』を喜劇たらしめているというのだ。

なるほど、人の愚かさや醜さを、全てを知る視点から眺める優越感が、この作品の「笑い」になる。『賭博黙示録カイジ 』で鉄骨渡りする人が必死であればあるほど、それを安全な場所から眺める観客にとっては最高のエンターテイメントになるのかもしれない。

シェイクスピアと高橋留美子の共通点

あるいは、「機知合戦」。シェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』を元に、スティコミシアの技法が紹介される。『じゃじゃ馬ならし』の劇中劇として、じゃじゃ馬な女と、強引な男との掛け合いが出てくる。

どちらも相手を言い負かそうとして。相手の言葉尻を捉えて投げ返し、どちらが優位になるかのマウンティング合戦がテンポよく進む。お互いに対立しているのに、この掛け合いのセリフ運びについては、完璧に息が合っているのが面白い。

この掛け合いを、スティコミシアと呼ぶそうな。ギリシャ劇以来の歴史あるもので、「隔行対話」とも呼ばれるという。丁々発止の連続で、よりもと漫才などは基本的にスティコミシアで成立しているお笑いだろう。

『じゃじゃ馬ならし』は観たことも読んだこともないが、相手の言葉をつかまえて言い合う説明で思い出すのが、高橋留美子『めぞん一刻』。ほぼ全話といっていいほど、スティコミシアが出てくる。第101話「大安仏滅」のここなんて典型かも。

Mezon
高橋留美子『めぞん一刻』 第101話「大安仏滅」より

ここ、「二年」という言葉尻をスティコミシアする様子と、「観客席」の優位性の両方があることが分かる。コブラ vs. マングースみたいな七尾さんと八神さんと、その間で息も絶え絶えな五代くんを、安全な場所から笑うことができる。

喜劇の手法の源泉と応用

おそらく、『喜劇の手法』を読むと、そこで紹介されている作品だけでなく、その技法を応用したコミックや映画や小説が思い起こされるだろう。そこでの面白さの源泉を味わうことができる。取り違え、誤解、騙す、アイロニーなんて、ラブコメの典型にして王道だし。

もちろんここで紹介されている技法が笑いの全てだとは限らないだろう。だが、人がどういう時に面白いと感じ、笑うのかについて、個々の例を通じて考えることができる。

笑いの本質を、具体的に考察する一冊。

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「いまを生きる」に自覚的になる『瞬間を生きる哲学』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年5月10日


tumblr で知った仏陀の言葉が好きだ。

 過去にとらわれるな
 未来を夢見るな
 いま、この瞬間に集中しろ

 Do not dwell in the past,
 Do not dream of the future,
 Concentrate the mind on the present moment.

そう、わたしは過去や未来ばかり見る。やったことを後悔し、不確かなことを心配する。ああすれば良かったと憤慨し、こうなったらダメだと心を痛める。

この、今を後回しにする生き方を批判し、「いま」「ここ」に充足する方法を考察したのが『瞬間を生きる哲学』だ。哲学や芸術から援用し、瞬間を生きるための具体的な技術を指し示す。

生のユーティリティ化

たとえば、今を後回しにして、「何かのため」に生きる生き方を、「生のユーティリティ化」と喝破したところがすごい。ユーティリティとは、「有用性」「効用」と訳され、何らかの役に立つということ。何の役に立つというのか?

それは、入試のためとか就職のため、あるいは家族のためとか老後のため。安定した幸せな人生のため、明日や来年、場合によっては死後に設定された目標に役立たせるために、「いま」を立て続けに収奪する。

つまり、アリとキリギリスの教訓を内面化し、将来のために、いま努力する社会だ。「いつか」「どこか」のために、今を最適化する。わたしは、今を生きることしかできない。それにもかかわらず、「いま」「ここ」以外に、何かの目的や価値があると思い、そのために生きようとしてしまう。

「いまを生きる」技術

では、どうしたら「いまを生きる」ことができるのか?生を生として瞬間をじっくりと味わう―――そもそもそんなことが可能なのか?

こうした疑問に対し、プルースト文学やフロー体験、赤塚不二夫「これでいいのだ」や、サルガドの報道写真、イスラーム哲学やサティ瞑想など、様々なアプローチから「いま」「ここ」に迫る。

特に面白いのは、リアリティ炙り出し装置としての芸術のところ。漫然と過ごしてきた瞬間の一つを切り取り、それに光を当て、生々しく浮かび上げるのは、芸術の役割だという。プルースト『失われた時を求めて』の、紅茶に浸したマドレーヌが象徴的だ。

たしかに「そのとき」そこに居たはずなのに、「いま」「ここ」として実感を持って生きられなかった―――そんな瞬間が蓄積したのが過去だという。そうした中から、なにかのはずみで、思いがけず、現に生きられた時間として襲来してくる。これを、現実の再創造と呼ぶという。

記憶の彼方から圧倒的なリアリティをもって迫ってくる感覚は、確かにある。マドレーヌではないが、味や香りがトリガーとなって、それを食べた昔をありありと思い出すことはある。

いまを生きるものは永遠を生きる

では、過去を想起する形でしか「いまを生きる」ことはできないのか? 本書ではチクセントミハイのフロー体験を元に、今現在「いまを生きる」方法を紹介する。

いわゆる「時を忘れる」ことだ。何か好きなものに夢中になって、気づいたらえらい時間が経っていた……なんてことはないだろうか?

たとえば、物語に夢中になったり、音楽と一体化したり、仕事に没頭するような体験だ。行動へのフィードバックが即座に返る全能感と、行動と思考と感覚が一体化した多幸感で、時間ばかりか我を忘れるような活動だ。無我夢中で愛し合うこともそうだろうし、スポーツだと、「ゾーンに入る(being in zone)」と表現される。

この感覚はある。わたしの場合、いまがそうで、こうやって記憶をまさぐり、体験と照らしながら文章を書くとき、溢れる脳汁を感じる。あるいは、最初の中ジョッキを傾けるとき、SEKIROのラスボスを倒すとき、「生きてる!」と触れるくらい感じることができる。

このとき、人は永遠を生きるという。

この世、この生を大肯定し、死すら圧倒するほど生が露出する瞬間だというのだ。ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』にある、「現在に生きる者は永遠を生きる」という言葉と、アウグスティヌスやトルストイが言った「過去や未来なんて存在せず、ただ現在だけがある」が、重ね合わさるところ。

えいえんはあるよ、ここにあるよ

この「永遠」は、無限に遠い未来という時間的な意味ではない。

過去や未来のない無時間を指すと考える。ずっと「いま」なら死も無い(なぜなら、死は「いま」として体験できない、生の外側の存在だから)。『ONE』のラストの「えいえんはあるよ、ここにあるよ」にある、時間の無い「いま」である。

どんな未来になるのか不透明な状況で、どうしたら不安から逃れ、いまを生きることができるか? おそらく、わたしがやってはいけないのは、「テレビやネットを見る」だろう。未来が不確定であることを改めて確認し、不安を強化するか、ガセやデマに翻弄されるだろうから。

代わりに、「いま」「ここ」を充足させよう。読むこと、食べること、表現することに集中しよう。そして何より―――『失われた時を求めて』に取り掛からなくちゃ。

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「感染する自由か、監視された健康か」というレトリック『現代思想5:感染/パンデミック』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年5月16日


「健康」という言葉には色が無く、中立的な善のように見える。

しかし、誰も反対しない中立的な言葉からこそ、先入観や政治色を押し付けることができる。無条件に「よい」だと認められるからこそ、レトリックに気づきにくい。

たとえば「感染する自由か、監視される健康か」と迫られるときには、そのレトリックの向こう側を考える。わたしは、二者択一を迫るメッセージには、無条件で警戒している。あるはずの他の選択肢を覆い隠してしまうことを、恐れている。

情報が近すぎるし、早すぎるから、立ち止まって吟味したい。

LINEによる健康調査

引っ掛っているのは、LINEの健康調査だ。

厚生省による新型コロナ対策のための調査として、LINEを用いたアンケート調査がある。5/1より複数回にわたって行われ、わたしも回答している。

立ち止まって考えたいのは、これが大きな議論や反発がされることなく、なんとなく受け入れられているように見えることだ。

ひょっとすると、わたしの感度が鈍いのかもしれないが、個人が利用するアプリに、同意なく調査依頼を送ることは、どこかで問題視されていたのかもしれない。

だが、一部の反発がつぶやかれただけのように見える。この先にあるものは、携帯端末を通じた監視社会だから、様々な意見が百出するかと思いきや、たくさんの話題の一つとして流されようとしているように見える。

断っておきたいのは、この施策に反対しているわけではない。PSYCHO-PASSが象徴する健康ディストピアの入口にいるようで、むしろ興味深いと思っている。そして、権力が健康にどこまで介入するのか、しっかり見たいと考えている。

わたしが問題視するのは、このテーマが、ろくに議論されていないように見えることだ。「健康」という、反発しにくい言葉を盾に、なし崩しになっているように感じられる。重要かつ緊急だから仕方がない。了解だ。だけど、それは議論しなくていい理由にはならない。

ウイルスは社会統制を正当化するのか

わたしのアンテナが低かったようで、この議論は既に海外でされていた。『現代思想5:感染/パンデミック』にある、スラヴォイ・ジジェクの小論(*1)で分かった。

コロナウイルスの蔓延により、社会統制が正当化されてきたことに、リベラルや左派は警鐘を鳴らしてきたという。ウイルスが引き起こしたことは、「誇張した混乱」とされ、社会統制のための権力行使に利用されてきたというのだ。

しかし、ジジェクは、このように社会を解釈したところで、脅威を湛えた現実は消えないという。ウイルスの蔓延を押さえるために必要な措置を、フーコーが普及させた「監視と制御」というおなじみの範例へと切り詰めるべきではないという。

そして、より微妙なニュアンスを表現できる言葉を作り出す必要を訴える。

そこで引用されているのは、デザイン理論家・ベンジャミン・ブラットンのツイート(*2)だ。

単刀直入に言って、あらゆるかたちのセンシングとモデリングを「監視」として、また積極的なガバナンスを「社会統制」として反射的に解釈してしまうのは間違っている。現状に介入するためには、それらとは異なる、もっとニュアンスに富んだ語彙が必要なのだ。

Preempting the replies: It is a mistake to reflexively interpret all forms of sensing and modeling as "surveillance" and active governance as "social control." We need a different and more nuanced vocabulary than the one  habituated from tendentious readings of Foucault.

健康係数を色で分ける

監視・管理・制御のプラットフォームが構築され、社会インフラとして活用されてゆく様は、社会思想史を専門とする水嶋一憲の小論(*3)でまとめられている。

そこでは、アリババグループが開発した「健康コード」システムや、シンガポールにおける感染経路を追跡するためのスマホ用アプリ「トレース・トゥゲザー」、さらには厚生省のLINEによる健康調査が紹介されている。

特に、コードスキャン機能で判断された健康状態を緑・黄・赤の色別にし、色に応じて公共空間のチェックポイントを通過・制限が行われる様は、PSYCHO-PASSの犯罪係数に基づいた色相を彷彿とさせる。心理の計測は難しいが、体温なら比較的簡単だ。

ウイルス検査やトレーシングを、「監視」だとして批判する匿名性原理には、個人の自由をどこまで重んじるかという選択と共に、感染リスクの高い人々を危険にさらしてもよいのかという、倫理的な判断が含まれると説く。

みんな大好きフーコー先生を持ち出して、監視・パノプティコン・生政治で叩く方法は、短絡的すぎるのかもしれぬ。「ウイルスか、自由か」という二択の間に、もっと議論できるポイントがありそうだ。

感染者・接触者を包括的に追跡できる法律

5/14 のナショナルジオグラフィックに、「韓国はいかに感染爆発を食い止めているのか」という記事がある(*4)。ビッグデータを活用した接触者の追跡が奏功したとあるが、それは、「感染者・接触者を包括的に追跡できる法律」による施策だという。

この法律は、2015年に流行したMERS(中東呼吸器症候群)の教訓から制定され、以下の体制が整えられている。

  • 感染者および感染者に接触した人を、追跡して隔離できる
  • クレジットカード会社や携帯電話会社の履歴情報を取得し、それをもとに対象の行動経路が再現できる
  • 再現された経路は、本人の氏名を伏せて公開される

では、日本ではどうするの? という話になる。

上手くいっているから取り入れようとする考え方と、今の内閣でそれするの? という意見もある。おなじみのフーコー先生やビッグ・ブラザーを持ってくる人もいるだろう。この法案が動き出したら、「国民監視法」と名づける新聞も出てくるだろう。

現在、段階的な緩和の方向で進んでいるものの、揺り戻しが来る可能性がある。あるいは、遺伝子の水平伝播による長期化を招き、COVID-20を名づける必要が出てくることも考えられる。

その時になって是非を騒ぐのではなく、今の段階で、どこまでやってよいのか、誰がガバナンスするのかを話し合っておかないと……と考える。

韓国のデータ収集は、プライバシー侵害にあたると考える人がいるが、韓国国民からは広く支持されているという(当記事には、78%が人権よりウイルス封じ込めを優先する回答をしたとある)。日本ではどうだろうか。

おそらく、第二波が来るときだと、議論どころではなく、法案はスピード可決が求められるだろう。強力な手が打てないのは、後ろ盾となる法律がないからという理屈で、迅速に進められるだろう。

「ウイルスか、自由か」の二択にしないために

繰り返すが、現在の流れに反対したいのではない。

むしろ、わたし自身は、自分の健康状態を知らせることに抵抗を感じにくくなっているように思える。

問題は、この「感じにくくなっている」ことについて、反対する人がいるはずなのに、その声が聞こえてこないこと。この感覚がどこまで妥当か、吟味されるべきなのに、その主張が息をしていないように見えることだ。

本来の立場からすると批判するべき人が、率先して賛成してしまっているのではないか? 価値観の風向きが変わるのを見て、歴史や他国の事例を紹介することを躊躇っているのではないか、それを心配している。

わたしは、自分の考え方をアップデートするとき、その背景や根拠、歴史からの吟味を経た上で、実行したい。吟味をせず、いきなり「ウイルスか、自由か」の二択にしてしまいたくない。両者の間に、別の選択肢があるはずだから。

*1 スラヴォイ・ジジェク「監視と処罰ですか? いいですねー、お願いしまーす!」 MONITOR AND PUNISH? YES, PLEASE! (2020/3/16) http://thephilosophicalsalon.com/monitor-and-punish-yes-please/

*2 @bratton,2020/3/9 のツイート

*3 『現代思想5』p.38「コモン/ウイルス」解体するスペクタクル・デジタルメディア技術・コモンのケア

*4 Nathinal Geographic 2020/5/14 新型コロナ、韓国はいかに感染爆発を食い止めているのか

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/051400292/

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オンライン読書会で何が怖いか募集したら、ゾンビや熊を抑えて堂々一位が「生きている人間が一番怖い」だった

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年5月24日


お薦め本を持ち寄って、まったり熱く語り合う読書会、それが [スゴ本オフ]

いつもは皆で集まるのだが、世情が世情なだけに難しいので、Zoomでオフ会することになる。「オンラインでするオフ会」とは奇妙だが、主流になりつつある。

とはいってもノリは同じで、テーマを聞いてピンときたお薦めの作品への愛を語る。本でも映画でも、音楽やゲームなんでもあり、展覧会や舞台を紹介して頂いたこともあった。

で、今回のテーマはホラー。夏には少し早いけれど、現実がホラーに侵食されつつあるいま、リアルに呼応したところに反応してしまう。『呪術廻戦』から『The Last Of Us』まで、様々なホラーが集まる。

人間が一番こわい

いくつかの作品に共通するのが、「生きてる人間が一番怖い」という思いだ。ゾンビや妖怪、ウイルスや獣といった類は、だいたい何をするか分かる。やってることは殺人や破壊でも、当人にしてみれば食事だったり繁殖になる。

だが、生きてる人間は、何をするか分からない。それぞれの欲望を秘め、とんでもなく邪悪なことを平気でしでかし、言い逃れ、あくまで自分が正しいと言い張る。

わたしが紹介した、『The Last Of Us』なんてまさにそうだ。謎の寄生菌のパンデミックが発生し、荒廃した世界で生き抜く男と少女を描いたサバイバルホラーだ。寄生されゾンビ化して襲ってくる異形は、確かに怖い。捕まったら即死というモンスターもいる。

だが、狂った世界で最も怖かったのは、人間だ。

人間は「意図」が分からない。なまじコミュニケートできるからこそ、不気味だ。主人公たちは、異形のモンスターだけでなく、自分たちを陥れようとする人間をも相手にしなくてはならない。

「なぜ人間どうしで争い合うのか?」という質問をもらったが、ネタバレを回避すべく、「いちばん不足している物資は、食料だ」と答えておく。来月続編が出るが、おそらく、最も厄介な敵は、人間だろうな……

「人間が怖い」つながりで出てきたのが、みづほ梨乃『ショコラの魔法』だ。

「どんな願いでも叶えてくれる」魔法のチョコレートをめぐる少女コミックなのだが、これが怖い怖い。人は、さまざまな願いを持っている。キレイになりたいとか、成功したいとか、イヤなあいつを陥れたいとか―――そういう願いが、チョコレートという触媒を経て「欲望」に変わる。

もちろん、約束どおり欲望は満たされる。美しくなるとか、あいつが酷い目に遭うのだが……予想通り、後味の悪いノワールな展開になる(ジェイコブズ『猿の手』のパターン)。「小さい女の子に読ませて大丈夫かよ!?」と思ったけど、むしろ「等価交換」とか「人を呪わば穴二つ」を学ぶ良い機会なのかも。

自然は怖い

心臓がキュッとなるのがこの映像。

米国の有名なクライマーが、素手で岩を登ってゆくのだが、安全装置などは使用していない。

岩の割れ目の狭いすき間に手を差し込んだり、ほんのわずかなでっぱりに指をかけて、身体を持ち上げる。柔らかそうなシューズが、ただ壁に当たっているだけで、どこも引っ掛っていないように見える(でも立っている)。

「フリーソロ」というらしいが、見ているこっちの心臓に悪い。あたありまえだが、落ちたら死ぬ。CGであって欲しいのだが実写。その映画がこれ。

山つながりで、ディアトロフ峠事件の紹介も。

1959年に、ウラル山脈で9名の男女が遭難事故があったのだが、その現場が酸鼻を極めていたという。氷点下の極寒の中で衣服もつけておらず、全員が靴を履いておらず、3人は頭蓋骨折、1人の女性は舌を喪失しており、異常なほど放射線が残っていたという。

この謎に迫ったドニー・アイカー『死に山』が紹介されるのだが、ネタバレ抜きの感想としては、「自然は怖い」になる。この事件がベースとなり、ブレアウィッチプロジェクト(映画版)ができたと聞く、知らなかった!

自然が怖いつながりで、『羆風』が出てくる。吉村昭『羆嵐』かと思いきや、釣りキチ三平を描いた矢口高雄の劇画だという。モデルとなっているものは同じく[三毛別羆事件]だ。人間の味を覚えた羆が数度にわたり村を襲った事件で、圧倒的な暴力の前に、人は成すすべもないことが分かる。『羆嵐』は凄かったので、『羆風』を読んでみよう([Kindle アンリミで読み放題])。

他にも、日常とデモが共存する香港の現実や、フォトショで作る最近の心霊写真の話、日本人だとラヴクラフトは怖くない、あるいは映画版『シャイニング』が許せるか等……

「怖さ」といっても様々であることが分かる。いろいろ伺ったが、わたしにとっては、やはり人間が一番恐ろしく、次が自然になる。お化けや妖怪の類は、怖いというより親しみを感じてしまう。

以下、紹介された作品リスト。次回は、「冒険」をテーマにお薦めしあいましょう。

  • The Last Of Us(ノーティドッグ開発)
  • The Last Of Us Part II (ノーティドッグ開発)
  • 雨月物語 吉備津の窯(上田秋成、石川淳、ちくま文庫)
  • エミリー・ローズ(スコット・デリクソン監督)
  • プリースト 悪魔を葬る者(チャン・ジェヒョン監督)
  • 巷説百物語(京極夏彦、KADOKAWA)
  • うわさの怪談 闇(マーク・矢崎治信、成美堂出版)
  • ショコラの魔法(みづほ梨乃、小学館)
  • 猿の手(ジェイコブズ)
  • 化物語(西尾維新、講談社)
  • オジいサン(京極夏彦、KADOKAWA)
  • ねじの回転(ヘンリー・ジェイムズ)
  • 呪術廻戦(芥見下々、集英社)
  • チェーンソーマン(藤本タツキ、集英社)
  • 絶対帰還。(クリス・ジョーンズ、光文社)
  • ディアトロフ峠事件
  • 死に山(ドニー・アイカー、河出書房新社)
  • ブレア・ウィッチ・プロジェクト(エドゥアルド・サンチェス監督)
  • フリーソロ(ジミー・チン監督)
  • 神秘家列伝(水木 しげる、KADOKAWA)
  • この世の王国(アレホ カルペンティエル、水声社)
  • ヨハネの黙示録(小河陽、講談社)
  • なにをたべたかわかる?(長新太、絵本館)
  • プリニウス(ヤマザキマリ、とり・みき、新潮社)
  • 狂気の山脈にて ラヴクラフト傑作集(田辺剛、KADOKAWA)
  • ハンニバル・レクター博士のモデル(ヘンリー・リー・ルーカス)(URL
  • 風の谷のナウシカ(宮崎駿、徳間書店)
  • ペスト(カミュ、新潮社)
  • インターステラー(クリストファー・ノーラン監督)
  • シャイニング(スティーヴン・キング)
  • シャイニング(スタンリー・キューブリック監督)
  • 羆風(戸川幸夫、矢口高雄、ヤマケイ文庫)
  • 福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件
  • 八九六四 「天安門事件」は再び起きるか(安田峰俊、KADOKAWA)
  • 勇午 香港編(真刈信二、講談社)

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美は人を沈黙させるが、饒舌にもさせる『栗の樹』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年5月31日


Kobayashi

小林秀雄の読書会をするというので、『栗の樹』を読んだら、激しく同意するところと、納得いかないところが割れて、なかなか面白かった。

西行や孔子、ゴッホ、トルストイといった、骨董の真贋といったテーマを通じて、批判対象に徹底的に具体的たらんとする姿勢は、激しく同意する。別の書の「美しい花がある。花の美しさというものはない」なんて、美とは何かについて、有力な応答だと思う。

あるいは、「『平家』は読んでも分からない。昔の人は聞いたのである」という件は100回膝を打った。古川日出男『平家物語』を読んでいる際、たくさんの声・声・声を肌合いで感じつつ、自分でも音読していたから。

言葉は目の邪魔になる

しかし、美について言葉は無用というのは、ちょっと違うのではないか。「美を求める心」でこう述べる。

例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫(すみれ)の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でおしゃべりをしたのです。

そして、「菫の花」という言葉が心の中に入ってくると、もう目を閉じてしまうという。花の姿や色の美しい感じを、「菫の花」という言葉に置き換えて、見たことにしてしまう。それはしゃべることであり、見ることではない。言葉は目の邪魔になるというのだ。

ここは、「言葉」を「名前」に替えるなら、その通りだと思う。わたしたちは、ものに名前を付けて、分かったふりをするのが得意だ。新たな経済現象から新種の元素まで、名前さえつければ解明できたとする、悪い癖だ。

名前で分かったふりをせず、その花の美しい感じをそのまま持ち続け、見続けることで、花はかつて見たこともないような美しさを明らかにするという。その通りだろう。

美は人を沈黙させる

半分同意で、もう半分はツッコミを入れたい。

美しいものは、諸君を黙らせます。美には、人を沈黙させる力があるのです。これが美の持つ根本の力であり、根本の性質です。絵や音楽が本当に解るということは、こういう沈黙の力に堪える経験をよく味わうことに他なりません。

ここまでは、そうだなと感じる。心を震わせる芸術に触れたとき、息をのむほどの景色を目の当たりにしたとき、わたしたちは言葉を失って、ただ目だけ・耳だけの存在になる。

しかし、ここから先、物の本質を知ろうとする行為は、物の姿を壊すことだという点には、少し違うと思う。対象の構成要素を分解して、それぞれについて一つ一つ分析していく方法では、美しさを解ることには至らないという。

たとえば、ある花の性質を知るとは、どんな形の花弁が何枚あるか、雄蕊、雌蕊はどんな構造をしているか、色素は何々か、という様に、物を部分に分け、要素に分けて行くやり方ですが、花の姿の美しさを感ずるときには、私たちは何時も花全体を一目で感ずるのです。

言わんとしていることは分かる。それでも、美が強いる沈黙に負け、分析したり、誰かに伝えたくて饒舌になることを、「美が解っていない」かのように語られると、それは違うと思う。

分かるとは分けること

おそらく、小林自身も承知しているだろうが、「分かる」という言葉は「分ける」とも使える。文章では「解る」と表現しているが、これは「分解する」につながる。わたしたちは、世界を知るときに、時間なら因果、空間なら要素の軸に沿って分けようとする。

そのため、菫の花の美に触れたとき、それがどこからやってきたかを知るためは、因果や要素に沿って解る必要がある。小林は、花そのものを分解し、雄蕊や雌蕊に分けてみせた。そんなことをしたら、花はばらばらになってしまう。

しかし、花の色合いが好ましいのであれば、自分を落ち着かせる効果があるからと、因果関係を見て取ることができる。物理的に分解せずとも、花弁のある部分の形が黄金比を成していることに、普遍的な美を見出したのかもしれぬ。

こうした還元主義的なアプローチだけでない。あるいは、関連する古典や歴史、生物学の知識や、その花から想起される思い出をつなぎあわせ、花の美しさは、自分の内側に積み上げてきた経験にも裏打ちされていることに気づくかもしれぬ。

菫の美しさを詠った歌人は、万葉集や西行、良寛そして宣長と連綿と続く。人は、美しいものに触れたとき、それを何とか言葉にして伝えようとする存在なのだ。

理解するためには言葉が必要

菫の花のような自然ではなく、芸術作品だと、人は、さらに饒舌になる。

たとえば、わたし自身、何も知らず、無手でゴッホやセザンヌに向かい合ったとき、「なにかが違う」という違和感しかなかった。なぜ対象物を正確に写し取らず、歪んでいるのかが解らなかった。

しかし、E.ゴンブリッチの世界的な名著である『美術の物語』を通じて、自分が受けたものが何であるかを知ることができた。ピラミッド時代から続く「見たままを写す」美術の歴史から外れたことで、セザンヌはこの世界に地滑り的な変化をもたらしたという。

セザンヌがやろうとしたことは、「色彩によって立体感を出す」ことだという。明るさを殺さずに奥行きを感じさせ、奥行きを殺さず整然とした構成にするために工夫を重ねた結果、多少輪郭が正確でなかろうとも、あまり気にしなかったというのである。

この解説を手がかりに、彼らがやろうとしたことは、写真のような正確さではなく、その絵を見た人がどう感じるかの知覚や体験を重視していると考えるようになった。本書を通じて、いわば新しい目を手に入れたともいえる。

これ、独りでセザンヌの絵を眺めていても、決して得られない「目」だろう。小林を始め、評論家という存在は、まさにそのためにあるのだと考える。

語り尽くしたあとの沈黙

もちろん、言葉を尽くしても語りえぬものがある。ひょっとすると、小林秀雄は、この語りえぬものまでも念頭に置いていたのかもしれぬ。

美しいものに触れ、言葉を失った後、我に返り、ひとしきり饒舌に語る。そこで語りつくせなかった感動が静かに身体に満ちてゆくのを、「感動に満ちた沈黙」と名づけたのかもしれぬ。

小林秀雄の読書会は、哲学Youtuberネオ高等遊民さんの[哲学読書会サークル]でやってる。講師役のスケザネさんの第0回の解説は、[ここ]で聴くことができる。

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適応としての笑い『ヒトはなぜ笑うのか』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年6月7日


  犬、売ります:なんでも食べます。子どもが好きです。

意味が分かったとき、めっちゃ笑った。誤りに気づいて愕然とする男と、その傍らでシッポ振ってる犬まで目に浮かんで、笑いが止まらなくなった。同時に、男が殺人鬼だったパターンも浮かんで、自分のブラックジョークに、息が止まるほど笑った。

ひとしきり笑ったあと、可笑しかった理由を考えても、出てこない。「子どもが好きです」のダブルミーニングは分かるが、それが、どうして狂おしいほどの可笑しみを招いたのか、説明するのは難しい。

絶妙なネタが飛び込んできたり、とんでもない大失敗を目の当たりにしたとき、胸の奥・腹の底に、抑えようのない情動が沸き起こってくる。

このユーモアの情動がどのように引き起こされるのか、さらに、それをどうして愉快だと感じ、笑いにつながるのか―――認知科学者(ハーレー)、哲学者(デネット)、心理学者(アダムズ)の3人の共同研究『ヒトはなぜ笑うのか』が、この謎を解き明かす。

「可笑しさ」のメカニズム

本書では、ユーモアの情動が発動するとき、そこに何らかのエラーの発見があることに注目する。私たちは、ある知識や信念に不一致を見出したとき、可笑しみを感じる。私たちは、何かがおかしいと分かったとき、それを可笑しいと感じる

しかも、不一致であれば必ず可笑しく感じるとは限らない。いったん真だとコミットメントされた要素が偽だと判定されるとき、ユーモアが生じる―――これが「可笑しさ」のメカニズムだという。暗黙裡に当然視していたものが、一気に一挙にひっくり返る発見、これがカタルシスにつながる。

さっきの「犬、売ります」だと、掲示板かSNSのような場所に、犬の買い手を募集していることが分かる。続く「なんでも食べます」は、「(犬は)好き嫌いせず何でも食べる」と整合的に理解される。

そして、「子どもが好きです」が入ってくると、いったんは「子どもに懐きやすい犬」と受け入れられる。だが、その後、「なんでも食べる犬」という全体像と比べると、「好き嫌いせず子どもを食べる犬」と読み取ることができてしまう。

いったん受け入れた「子どもに懐きやすい犬」が偽だと判定されるとき、わたしは、可笑しみを感じる。もちろん、「子どもを食べる犬」というグロテスクな結論は偽なのだが、それも含め、この文章に促された誤読(おかしさ)の発見こそが、愉快なのだ。

ユーモアは適応である

この「愉快だ」というユーモア情動には、適応的な働きがあるという。この情動は一種の報酬であり、これを求める動機付けになるというのだ。

たとえば、私たちは果糖がもたらす感覚を「甘い」として心地よく味わう。それは、エネルギーたっぷりであるが故に、グルコースの摂取を求めるよう、「甘さ」が動機づけられている。甘い・美味しいという感覚は、グルコースを摂取した報酬になる。

それと同様に、「可笑しい」という感覚は、今まで当然だと思っていた知識や信念の中に、首尾よくエラー(おかしさ)を見つけた報酬だという。私たちは、チョコやケーキを求めるように、ジョークやユーモアを求めているのは、こうした理由によるというのだ。

ユーモアの報酬システム

本書では、このユーモアの報酬システムを、「メンタルスペース」を用いて説明する。

頭の中で活性化する概念や記憶、耳や目などから入ってくる情報や感覚などは、粒度も精度も種々雑多だ。だから、トピックごとに一定のまとまりを持って、ワーキング領域を割り当て、その中で理解しようとする(この概念的な領域のことを、メンタルスペースと呼ぶ)。

時間に追われながら、リアルタイムでヒューリスティックな検索をしている脳が、入ってくる言葉や概念を完璧にチェックできるわけではない。だからこそ、エラー発見に報酬を与えるのだ。本書の p.37 にこうある(太字化は私)。

検証されないままであれば、メンタルスペースで生じるエラーは、最終的には世界に関するぼくらの知識を汚染し続けることになる。そのため、信念と推量の候補たちを再点検する方策が欠かせない。エラーを猛スピードで発見・解消する作業は、強力な報酬システムにより維持されねばならない

この強力な報酬システムこそが、ユーモアの情動となる。ユーモアの情動とは、メンタルスペースをひっくり返すぐらいの「おかしさ」を発見した「可笑しみ」というご褒美なのである。

適応としての「笑い」

では、愉快なとき、なぜ笑うことがあるのか。

愉快な情動に身を任せて爆笑し、身体を揺すって大声で笑うのはなぜか。単に愉快なら、「甘い」という感覚と同じように、黙って味わえばよいではないか。笑う発声や身振りは、どこから来たのか。

この「笑い」は一つであるが、そこへ至るまでは複数の要因があるとする。本書では、笑う発声や身振りについては、「誤情報だった」というシグナルの適応だ主張している。

つまりこうだ、「敵が近づく音がした!(緊張)→物音は間違いだった(緩和)」から生じるときの声や動作が始まりだという。「安心しろ、ヤバいのはいねぇよ」という合図が、後の私たちにとっての笑い声になるのだ。

そして、「誤情報だ、警戒を解け」というシグナルのレパートリーを持っている者たちにとっての適応度を強化した、と述べている。仲間が笑っていると、つられて笑ってしまう(笑いの伝染)のは、こうした理由で説明することができる。

たしかに私は、「心配いらないよ」という時でも「安心したよ」という時でも笑うし、一緒に笑うことに、人の繋がりを感じる。『新世紀エヴァンゲリオン』の第6話の、この言葉を思い出す。

「ごめんなさい。こういうときどんな顔すればいいかわからないの」

「笑えばいいと思うよ」

人間だけが笑う

「おかしい」を発見すると「可笑しい」と感じるユーモアの報酬システムや、「安心しろ」「愉快だな」という連帯を伝える笑いの適応を見てきたが、本書には、古今東西の賢人たちのアプローチが紹介されている。

面白いのは、「笑い」について調べれば調べるほどに、人間とは何か、知性とは何かといった問題に向き合うことになる。アリストテレスの「動物のなかで人間だけが笑う」理由にも答えることになるのだ。

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やりたいことは全部やる『キミオアライブ』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2020年6月14日


Kimioa

病院のベッドで、ひたすらノートに書く少年。

大病を患い、未来に絶望しかない状況で、「やりたいこと」を書き続ける。リストには、たくさんの「夢」が並んでいる。

  • リコーダーを吹きたい
  • 風船の中に入ってみたい
  • 自分で考えた物語を本にしたい
  • 部屋中を使ってピタゴラ装置をつくりたい
  • 空を飛びたい
    ………………

ささやかな願いから、とんでもない冒険まで、さまざまな夢がある。

あなたは、こんな「やりたいこと」リストを作ったことがあるだろうか?

わたしはある。むかし「夢ノート」が流行ったとき、やりたいこと、行きたいところ、食べたいものなどを綴った覚えがある。リストを作り、名前を付けて保存した。それから十年にもなる。

しかし、少年は違う。名前はキミオ、『キミオアライブ』の主人公だ。

  1. ノートに、やりたいことを書く
  2. 書いたことは、必ず実行する
  3. 実行したら線を引く

キミオは、律儀に、真面目に、一つ一つ、実行していく。

「リコーダーを吹く」は簡単にできるが、ピタゴラ装置はちょっと大変かも。さらに、「空を飛ぶ」のはもっと難しい。飛行機に乗ればいいのか? あるいは、[ジェットマン][ウイングスーツ] みたく、命をカネをかけて飛ぶのか? 

できない理由ではなく、できる方法を探す

しかし、キミオは違う。別の方法で「空を飛びたい」を実現する。

ここが、キミオとわたしの大きな違いだ。

わたしは、「やりたいこと」が浮かんだとき、まず、その「できない理由」を探し始める。お金が無いから、もっと時間があったなら、スキルが足りない、仲間が必要、そもそも法律で許されているの? なんて考えてるうち、名前を付けて保存したくなる。

一方、キミオはこう考える。「もしそれを実現できるなら、どんなやり方がある?」と考える。あるいは、「何が実現されたなら、『できた!』になる?」と考える。そして、できる方法を探し始めるのだ。

やりたいことで、生きていく

この発想力と企画力、そして実行力がすごい。

最初は呆れて馬鹿にしていた周囲の人も、だんだんとキミオに巻き込まれてゆく。

その一方で、キミオ自身も、自分のためだけではなく、仲間と一緒に企画して、知恵を出して実現する喜びを知る。さらに、「あの人の笑顔が見たい」という新たな「やりたいこと」を見出す。

そして、この喜び、楽しさ伝える、動画配信という方法があることを知る。動画配信は、「やりたいことで、生きていく」ための強力な武器になりえる。

後に、チャンネル登録数1000万人を超える youtuber となるのだが、それはまた別のお話らしい……

今をやり直す

『キミオアライブ』の第一話を読んだとき、以下を初めて読んだときと同じ衝撃を受けた。

きっとお前は、二十年、せめて十年でいいから、

戻って人生をやり直したいと思っているのだろう。

今やり直せよ、未来を。

十年後か、二十年後か、五十年後から戻ってきたんだよ、今。

第一話は、『キミオアライブ』 から読める。

第一巻は、コロナで書店が閉まっていた時期に発売され、気づかなかった。読書猿さんが呟いてくれたおかげで、知ることができた。読書猿さんありがとう! おかげで、「やりたいこと」をやらなかった十年後から、今に戻ってくることができた。

人生の持ち時間は少ない。やりたいことは、全部やろう。

 

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