後知恵を先知恵にする「ジェイコム株誤発注事件」

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「言ったよね、ちゃんと確認しないとダメって」

トラブルが起きると、ドヤ顔で口撃してくる人がいる。原因が判明した後になって、「なぜ、その原因を前もって潰しておかなかったのか」と詰めてくる。

全てが分かった「後」なら、リスクを減らす方法も、トラブルを回避する方法も思いつく。だが、トラブルが起きる「前」に、その原因を知るのは難しい。

それにもかかわらず、後から得た「答え」でもって、当時の判断を責める。これを「後知恵」「事後孔明」という。

そういう口撃には、「ごめんなさい、予知能力がなくて」と返している。皮肉が理解できない人には、噛み砕いて「どこを確認しておくかを、後ではなく、予め知ってたら良かったですね」なんて説明する。

事象を原因と結果でつなぎ、因果によって説明しようとする限り、後知恵の罠から逃れることができないのかもしれぬ。

では、トラブルが起きた後になって、「こうしておけば良かった」と責任を問うのは、全て後知恵なのだろうか。

ジェイコム株誤発注事件の判決の核心は、まさにここだ。

異例中の異例の判決で、裁判官自身が、後知恵の罠について戒めているからだ。後からだったら何でも言える。だが、後から責任を問うとき、その判断となるものは何になるか。

事実として、確かに売買システムにバグがあった。だが裁判所は、後から判明したことから開発時の責任を問うことに慎重だった。一方で、目の前で膨らんでいく異常な数字を見ながら売買を止めなかったことには、重い責任を認めた。

同じ事件の中で、一方は「後から判明したことを使っている」として退けられ、もう一方は、同じく後から引かれた線でありながら、責任判断の根拠になった。

その違いはどこにあるのか。

■3行まとめ

3行でまとめる。

  • 新規上場株で、1株61万円で売るはずが、1円で61万株で発注してしまった
  • すぐ取消したがバグにより取消せず、出続ける異常値を知りながら取引所は売買を止めなかった
  • 判決はバグについては重過失を否定して免責を認める一方、「午前9時35分00秒までに売買を止めなかった」ことを重過失として、約107億円の賠償を命じた
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これ、バグに限らず、オペミス、デグレ、思考停止、イレギュラーな対応等が幾重にも絡み合い、「どうしてこうなった」としか言いようがない異様な事件だ。

十数分たらずの間に起きたことを、分秒刻みで整理する。アルファベットは取引所の株式総務グループの担当者。


9:27:56


証券会社の従業員が「1円・61万株」の売り注文を発注。端末の警告表示を認識したうえで、意味を確認せずEnterキーを2回押下


9:28ころ


取引所が異常を検知。銘柄の異常注文抽出基準5000単位を超えていた


9:29:21


証券会社が取消注文を入力


9:29:26


システムが「全数量約定済」と「内出来数量1822株」という論理的に矛盾する電文を発信


9:30ころ


株式総務グループ4名が板画面を確認。発行済株式数1万4500株と公募株数を把握。E(リーダー)は「誤発注であればすぐに取り消される」と考えていた


(この間)


Mが「売買停止を考えざるを得ないのではないか」と発言。他のメンバーが「売買停止して他の市場参加者から取引の機会を奪うのはどうか」と応じる


9:32〜33ころ


Eが会議を中座して板を確認。経過を1分程度で聞き、「売買停止をするほかないとの考えに傾いた」


9:33:17〜9:35:40


証券会社が取消注文5回・変更注文2回を入力。いずれも実行されず


9:33:25


約定株式数4万3535株。発行済株式数の3倍を超過


9:34ころ


Mが「その場合に備えて」別室の売買監理グループへ向かう。Eも向かい、入口から人が集まっているのを確認したが、何らの依頼や発言もせずに戻る


9:35:00


【裁判所認定:この時点までに売買停止が可能であった】


9:35:25


Kが「証券会社に状況確認をしたうえで要否を判断すべき」と考えて架電


9:36ころ


証券会社が「取り消そうと思っても取消しが入らない状況」と伝える


9:37:17まで


証券会社自身の反対注文により、売り注文が板から消滅


9:37:25ころ


Eが売買停止を通告しようと電話を代わるが、既に消滅を双方で確認。売買停止は最後まで実行されなかった

■争点と裁判所の判断

証券会社の言い分としてはこうだ。

  • 確かに「1円・61万株」というミスをしたが、システムのバグのせいで取り消しができなかった
  • 取引所の権限で売買停止ができたはずだが、その体制が不備で時間がかかりすぎた
  • バグの発見や修正も容易にできたはず

一方、取引所の主張はこうなる。

  • 売買停止の影響は、市場全体になるため、簡単にはできない
  • 制度やマニュアルに不備はなく、適切に対応した結果で、義務違反は無い
  • バグの発見は容易ではない

対立構造をまとめると、こうなる。

  • 「バグは見つけられたはず」vs.「発見は困難」
  • 「すぐ売買停止にできたはず」vs.「軽々しく止めてはいけない」

先に「答え」すなわち判決をまとめる。

  • バグについては債務不履行の責任があるが、「重過失」ではない
  • 売買停止が遅れたことは「重過失」である
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■なぜバグが「重過失」ではないのか

誤発注が取り消しできなかったのは、バグが原因だ。

バグ自体は、事件の5年以上前、2000年2月に、別件の不具合を直したときに作り込まれていた。

ある特殊な注文を取り消そうとすると、取消対象を見つけられず、処理が止まる不具合が発生していた。そこで、「すでに全て約定(売買が成立)している注文なら、検索せずに処理を終える」というルートが追加された。

だが、そのルートにバグがあった。「すでに全て約定している」かどうかの判断に、一時的に保存された情報を参照していたのだが、この参照先が消されてしまうと、まだ約定していない注文が残っていても、システムは「全数約定済み」と判断して、取消処理を終えてしまうのだ。

このバグは、テストを経てリリースされ、5年もの間、公になることはなかったが、「1円・61万株」の注文という、最悪のタイミングでもって取消不能を引き起こす。これは言い逃れのできない事実だ。

証券会社は、こうした取消不能を引き起こす条件で回帰テストや機能テストを行っていれば、容易に発見できたはずだと主張した。確かにその通りかもしれない。

だが、ここで契約が出てくる。「取引所に故意または重過失がある場合を除き賠償の責任を負わない」とある。いわゆる免責規定だ。だから争点は、「バグを作り込んだこと、5年間見つけられなかったことが重過失にあたるか」に絞られることになる。

裁判所は、バグが引き起こした重大性は認めつつも、「事故後なら再現条件を作れる」ことと、「事故前にその条件を思いつくのが容易だった」ことは別だとし、バグを重過失とはしなかった。

判決文としては珍しい一文がある。以下に引用する。

もっとも、現在においては本件バグの存在と本件不具合の発生条件が明らかになっているところ、その結果から本件バグの作込みの回避容易性等について議論する(いわゆる後知恵の)弊に陥ることがないように判断することが要請される。

■なぜ売買停止の遅れが「重過失」なのか

一方で、売買停止が遅れた……というか売買停止をしなかったことについては、重過失が認められた。

重過失というからには、重大な過失になる。

例えば、こんな感じ。

  • 火災報知器が鳴り、煙と炎が見えた
  • さらに、ビルの防災管理者も認識し、避難ルートもあった
  • あとは、スイッチを押せば非常放送が流れ、避難誘導ができた
  • だが、「もう少し様子を見よう」と何もしなかった

取引所にとって、売買停止せざるを得ない状況であることは、情報として伝わっていた。売買停止の規定や手順は存在しており、決裁者は出張中であるものの代行者が指名されていた。

ビル火災の場合

取引異常の場合

火災報知器が鳴り、煙と炎が見えた

5000単位を超える異常注文を検知し、発行済株式数1万4500株や公募株数を確認した

ビルの防災管理者も認識し、避難ルートもあった

「市場の異常」や「システム障害」を理由とする売買停止の規定と手順があった

スイッチを押せば非常放送が流れ、避難誘導ができた

決裁後、売買監理グループ複数人の立会いの下、専用端末から止められる状態だった(1分程度)

「もう少し様子を見よう」と何もしなかった

「売買停止せざるを得ないのでは」という発言があったが、停止しなかった

取引所の担当者は、何もしていなかったわけではない。証券会社への照会、売買停止の検討、停止操作に備えた人員の確認などを行っていた。

しかし、具体的に「売買を停止する」と決め、決裁を求めるところまでは進まなかった。裁判所が問題にしたのは、担当者が動かなかったことではなく、異常を止めるための行動を起動しなかったことである。

裁判所は、遅くとも9時33分30秒ごろには、市場で異常が発生していることを認識できたと判断した。そこから決裁→端末操作までに必要な約1分を考慮しても、9時35分には売買を停止できたとした。

しかし、証券会社自身が反対注文を出したことで、問題の売り注文は板から消滅した。取引所が売買停止を通告しようとしたときには、すでに停止対象となった異常注文は消えていたため、売買停止は実施されなかった。

裁判所が重過失としたのは、目の前で拡大していた異常を把握し、停止する権限と手順があり、短時間で実行できたにもかかわらず、遅くとも9時35分までに停止措置を講じなかったことである。

ここで、バグに対する判断との違いがはっきりする。

バグを「見つけられたはずだ」と言うためには、事故のあとで初めて分かったこと——バグの所在、失敗の機序、条件の重なり方——を使うしかない。そして使った瞬間、それは後知恵となる。

ところが売買停止のほうは、判断材料は全て当日にある。

「1円・61万株」という数量も、「発行済株式数1万4500株と公募数との差」が異常であることも、「約定した株式数が発行済株式数の3倍を超過」も、「停止に1分かかる」ことも、全て取引場に揃っていた。

裁判所は、当日その場所にあった情報だけで線を引いた。判決が、「板画面の情報から容易に認識することができた」といちいち断りを入れているのは、そのためである。

「9時35分00秒」という一線が、後から引かれたから、後知恵というわけではない。判決は必ず後から書かれるのだから。後知恵かどうかを決めるのは、その知恵の材料の日付になる。

■最悪のことが起きるなら、それは何か

以下は、私の考えとなる。

バグが顕在化して被害をもたらしたなら、それを見つける方法や、防ぐ対策は、容易に思いつくだろう。問題は、それが起きる前に見つけることだ。

今回のバグは、特殊な条件が何重にも重なった場合に顕在化するものだった。予知能力者でもない限り、見つけることは難しい。

だから、後知恵をそのまま判断基準にすることはできない。代わりに「後」から得られた情報の抽象度を上げて、教訓とする他ない。

ここでは、プレモーテム(事前検死)の手法が使える。

人の死の原因や状況を明らかにする「検死」は、あたりまえなのだが、人が死んだ「後」に行われるものだ。だが、「事前」とはどういう意味だろうか?

これはpost-mortem(検死)をもじった造語で、pre-mortem(事前検死)になる。プロジェクトが終わった後に振り返るのではなく、実施前に検証するのだ。

まだ始まってもいないのに、「プロジェクトは大失敗でした。なぜですか?」という問いを立て、失敗していないうちから失敗を想定して学ぼうとする手法である。メンバーは、プロジェクトに対し否定的だと受け止められることを恐れず、懸念していることをオープンに話し合うことができる。

「仕様変更が大量に出て、手戻りで品質が悪化するかも」とか、「コアメンバーの〇〇さんが休職して、プロジェクトが遅滞する」とか、縁起でもない話をする。荒唐無稽なやつから割と現実的なものまで出てくる。

もし上手くいかないことがあるとしたら、それはどんな理由だろう?
ヤバい順に考えてみよう

もちろん、それで全てが網羅されるわけではない。だが、少なくとも「何が最悪か」という観点で、できうる手立てを考えることはできる。現実的にできるかどうかは、その後に考えればいい。

2000年に対応した「特殊な注文を取り消そうとすると、処理が止まる不具合」の修正について、これを当てはめてみよう。

修正内容は、取り消しをするためのルートを設けることだから、ここで考えられる最悪のパターンは何か?という立ち位置で考える。だから、この試験観点のレビューをするときの良い質問はこうなる。

この修正が裏目に出るとしたら、最悪、何が起きますか?

裏目に出たときのパターンとしては、こんなものが集まってくるだろう。

  • 取り消すべき注文を取り消せない
  • 取り消してはいけない注文を取り消す
  • 取消処理が停止し、後続処理を詰まらせる
  • 取り消した結果の通知と実態が異なる

そして、「取り消すべき注文を取り消せない」というパターンが出たら、次に、

では、取消不能となるケースを、試験対象から外してもよいでしょうか?

この問いから、今回の状況まで思いつけたかは分からない。それでも、「元の不具合が直った」だけでレビューを終えず、修正が裏目に出る可能性を一度は吟味できる。

私たちに予知能力はない。だが、最悪の結末を仮定して、そこから現在へ逆算することはできる。

■平時に有事を考える

裁判所が引いた「9時35分00秒」という一線を、単なる後知恵とみなし、「あのとき止めていれば、107億円を賠償せずに済んだのに……」と考えるだけでは、この事件から教訓を得るのは難しい。

確かに「9時35分00秒」が、後から裁判所によって引かれた線であることは間違いない。だが、後から引かれた線が、すべて後知恵になるわけではない。

では、なぜ売買停止は、「9時35分00秒」までに完了しなかったのか。

判決が認定した当日の動きを、意思決定のプロセスとして整理すると、次のようになる。

  1. 売買監理グループが市場を「監視する」
  2. 異常を認識し、株式総務グループへ「連絡する」
  3. 株式総務グループが「情報を収集・分析する」
  4. 売買停止の要否を「判断する」
  5. 担当執行役員または代行者の「決裁を得る」
  6. 売買監理グループが停止「操作を行う」

この整理で注目したいのは、3の「情報収集・分析」だ。

監視、連絡、決裁、端末操作には、行為の終わりがある。ところが情報収集や分析には、放っておけば終わりがない。何が分かれば判断へ進むのかが決まっていなければ、「もう少し確認しよう」「証券会社の回答を待とう」と、判断を先送りできてしまう。

もちろん、売買停止は重大な措置だ。様々な状況を分析し、抑制的に運用しようとすること自体には理由がある。

だからこそ、平時に決めておく必要がある。

一定の条件を満たしたら直ちに停止するのか。停止までしなくとも、決裁者の判断を強制的に起動するのか。一定時間内に判断できなければ、安全側へ倒すのか。

こうしたことを、有事の最中に悠長に議論していては間に合わない。平時に時間をかけて判断条件を定め、有事には実行するだけにしておく。

今回の事件で得た後知恵を、将来の先知恵へ変えるなら、よい質問はこうなる。

(重大なエラーへの対応を検討するとき)
このエラーが出たら、オペレーターは誰に報告し、その人は何を判断しますか?

(「システム管理者へ連絡すればいい」という回答への更問い)
システム管理者が捕まらない場合は、どうなります?

(「情報収集する」という回答への更問い)
何が分かれば情報収集を終え、次の判断へ進めますか?

(判断条件を決めきれない場合)
何分以内に判断できなければ、誰にエスカレして、どちらの判断をデフォルトにしますか?

管理者・責任者はいつもいるとは限らないし、判断材料も完璧に揃うとも限らない。そういうとき、「デフォルトはどうするか?」「何が分かれば、次に進めるか」を決めておく。

私たちに予知能力は無い。だから、後知恵でドヤ顔で詰めてくる人には「ごめんなさい、予知能力が無くって」と返せばいい。

私たちに予知能力は無い。だけど、後知恵から固有名詞を引きはがし、抽象度を上げることで、まだ答えを知らない未来に向けた「よい問い」になるのなら、後知恵は先知恵になる。



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『戦争の世界史 大図鑑』はスゴ本

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年3月13日


 古来、歴史とは戦史を指す。人類の歴史が始まって以来、人は常に戦ってきた。

 古代から現代まで、戦争の歴史を俯瞰する本書を眺めていると、どの時代であれ、必ずどこかで戦争が行われていることが分かる。戦争がない世界の方が例外であり、戦争が人間の常態なのだ。

 本書は、記録に残っている各戦争の年月日に始まり、原因・経過・結果・影響を概説している。さらに、決戦が行われた場所の地図や戦術構成、兵力、戦闘技術、死傷者数といった基礎史料を網羅している。

 実はこれ、「大図鑑」の通り巨大な図鑑だったのだが、そのコンパクト版が出たのだ。巨大版は、重い! デカい! ハードカバー! なのだが、いかんせん持ち運びに不適だし、何よりも腰にクる重さである。今回のコンパクト版は、迫力はほぼそのままで、持って出かけられるくらいにまで軽くなっているのが嬉しい。

 本書が優れているのは、徹底的なビジュアルにこだわっている点にある。オールカラーで構成されており、の多彩な写真、絵画、地図、図解などを駆使して、多角的かつ斬新な視点から、戦争を捉えようとしている。ここは、巨大版、コンパクト版と変わらない。大きさだけを縮小し、中身は完全に同じなのである。

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大きさ比べ

 さらに、年代も場所も広範囲にわたって概説しているため、どんどんページをめくっていくことで、「いつ」「どこで」を取っ払って、「どのように」人は争ったのかに着目することができる。そして、時代を超えた視点から、全く別の時代の戦闘どうしの類似点やアイデアが浮き彫りになり、見るたびに発見がある。

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中はこんなカンジ

 たとえば、優れた将軍は、時代を超えた特質を備えていると指摘されている。チンギス・ハン率いるモンゴル騎馬軍と、1940年春にフランスに侵攻した装甲師団との間に類似性を見出し、機動力が戦闘と決する事例として紹介されている。

 あるいは、敵軍包囲という古来の戦法は、古代ローマの世界でも第2次世界大戦でも等しく奏功しているが、5千年分の戦略図を眺めていると、戦いとは畢竟「どのように敵を包むか」のせめぎあいであり騙し合いであることが見えてくる。

テクノロジーが戦争を変える

 テクノロジーが変えた戦争も興味深い(ここが一番面白い)。

 たとえば、古代ローマとカルタゴが争ったポエニ戦争。初期はカルタゴが制海権を握っており、陸戦が本業のローマ軍は、海戦での経験が圧倒的に不足していた。ローマ軍はコルウスという鉤の付いた乗船橋を開発し、カルタゴ軍のガレー船が近づくと、ローマ軍はコルウスを落とし甲板にめり込ませ、それを渡って軍団兵が大挙して乗り込んだのだ。

 つまり、船を操る海戦を、ローマ軍が最も得意とする陸上に変えてしまったのだ。この件は、『ローマ人の物語 ハンニバル編』(塩野七生、新潮文庫)で予習していたが、本書で指摘されているのは、軍の凄さだけでなく、ローマ人の工学技術と発明の才能である。

 小火器(火打石式銃からAK47まで)の変遷は、歩兵の役割の変化の歴史であることも分かる。銃はいわゆる「飛び道具」だから、弓兵のような立場だと考えていた。だが、銃器の精度や射程距離が伸びるまでの間は、弓兵よりも槍兵のような立ち位置であったことが分かる。

 つまり、遠距離(弓)と至近距離(サーベルや刀)の間にある、ミドルレンジを槍兵が担っていたのだ。16世紀の欧州が境目で、マスケット銃で武装した歩兵が増えるに従って、槍兵の占める割合が低下したという。

ブレイクスルーが戦争を変える

 同時に、銃器に対する防御効果がなくなったため、甲冑の人気が衰えていったのも興味深い。テクノロジーが装備を変えた例だろう。16世紀の伝記作家ルイ・ド・ラ・トレモイユは、「戦争でこのような武器が使われるとしたら、騎士が武器を扱う腕前や、強さ、不屈の精神、規律はもはや何の役にも立たない」と嘆いたが、21世紀のドローンによる遠隔攻撃について、同じ嘆きが繰り返されていないだろうか。

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ナポレオン時代の小火器

 また、弾丸の製造技術が戦術そのものを変えた例として、ミニエー弾が紹介されている。1850年頃、精密機械製造技術と大量生産技術の発達によりもたらされたブレイクスルーである。銃身内に腔線(らせん状の溝)が刻まれており、弾丸が旋回することで、射程も精度も飛躍的に向上したのだ。

 ここは、『銃の科学』(かのよしのり著、サイエンス・アイ新書)でも同じ指摘があった。ナポレオンの時代では、太鼓に合わせて行進し、敵の前で密集隊形を組んでいた。だが、そんなことをしていたら、格好の的になる。そのため、戦列を作って圧倒するのではなく、散開方式が中心になったのだ。古代のファランクス(重装歩兵による密集陣形)方式を消したのは、ミニエー弾を大量に製造する技術だったのである。

土木が戦争を変える

 長い目で見ると、要塞や大型船の変化を促したのは、火薬兵器の技術開発であることが分かる。陸上戦における顕著な変化は、大砲が積極的に導入されるようになった1500年代以降になる。すなわち、このあたりから、城塞の設計思想が変わったというのだ。

 古代から中世にかけては、背の高い石造りの城塞により、敵の侵入を阻んでいた。これが、近代になると城壁は低い土塁となり、敵からの砲弾を遮ることが目的となる。さらに、稜堡(突出部)を塁壁前面に突き出し、大砲などの発射兵器を配置し、敵がどの方向から接近してきても対処るように構造を変えたのだ。

 いわゆる星形要塞が代表的なもので、突き出た稜堡により互いの死角を失くし、さらに稜堡同士から同一の敵を狙うことで十字砲火を実現している。戦争が土木を変えたこの例は、『土木と文明』(合田良実、鹿島出版)で学んだ。土木から人類史を眺めたスゴ本なり。

写真が戦争を変える

 アメリカ南北戦争あたりから、戦争写真が増えてくる。それまでは、戦争は絵画により描かれ、伝えられてきたが、近代から写真による生々しい姿を目にすることができる。戦争写真家の草分け、マシュー・プレイディによる映像は、戦争をロマン視していた大衆に、戦争の現実を突きつけた。

 ゲティスバーグでは8千人が死亡し、戦場の至る所に死体が転がった。死体は夏の猛暑でたちまち膨れ上がったが、撤去には何週間もかかったという。その写真が、そのまま掲載されている。この写真は、当時の大衆の厭戦気分にも影響したという。

 また、ベトナム戦争に報道記者として付き従ったカメラマンの写真が、アメリカ人の厭戦気分を煽り、最終的に戦争の終結に向けた世論の後押しとなったという。人類の愚行の歴史ともいえる写真は、何度も撮影され、報道されており、『世界を変えた100日』(ニック・ヤップ、ナショナル・ジオグラフィック)で見ることができる。

 人類は忘れっぽい。ややもすると、こうした歴史が「なかった」ことにされてしまう。わたしが知らなかった、もしくは忘れていた戦争が、ここでは隈なく見ることができる。

戦争が「敵」を変える

 世界大戦により、「敵」の定義が変化したという指摘は鋭い。

 戦争の目的が資源の奪い合いである局地的なものであれば、攻撃対象は敵の兵士になる。ところが、近現代における総力戦は、国家の全資源が動員されることになる。一国の経済と民間人が、丸ごと戦争努力に総動員されれば、必然的に工場や民間人が軍事行動の標的となる。結果、第2次大戦では、民間の死亡者数が、軍人死亡者数を、はるかに上回ることになったのである。

 「戦争」という言葉は一つだが、それが指し示している行為は、技術、文化、宗教の背景とともに変化していることが分かる。仮に「戦争」を、「戦闘員同士の殺し合い」と見なすならば、第2次大戦の死亡者数で、軍人を上回った民間人は、「なかった」ことにされる。また、仮に「戦争」を、「人間同士の大規模な殺し合い」と見なすならば、異教徒は人にあらずと殲滅された人々は、戦争による死者数にカウントされない。

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もちろん日本刀も

フィクション・ノンフィクションを繋げる資料として

 今まで読んできた本が、どんどん繋がってくるのが面白い。

 アレクサンドロスは有名だが、彼の死後、配下の将軍どうしで主導権争いの戦争が行われる。その戦争の主導者は、『ヒストリエ』(岩明均、講談社)にもう登場している。ゆっくりと物語の時間が進む『ヒストリエ』では、まだそこに至っていないため、一種のネタバレのように覗き見ることができる。

 また、『ガリア戦記』(カエサル、講談社学術文庫)が傑作であり第一級の史料であることは疑いないが、真実の中に利己的なプロパガンダも含まれている指摘もされている。

 さらに、デーン人のイングランド侵略におけるアシンドンの戦いでは、『ヴィンランド・サガ』(幸村誠、講談社)のクヌート王を、源平合戦の倶利伽羅峠の圧倒的な逆転攻勢では、古川日出男が翻訳した『平家物語』を思い出す。

 概観としての戦争の世界史なら、技芸としての戦争から、商業化・産業化された戦争までを語った『戦争の世界史』(ウイリアム・マクニール、中公文庫)や、『ヨーロッパ史における戦争』(マイケル・ハワード、中公文庫)に繋がる。これが現代になると、SFよりもSFな現実のルポルタージュ『ロボット兵士の戦争』(P.W.シンガー、NHK出版)になる。

「戦争の歴史」≒「人類の歴史」

 戦争は文明より古い。戦争の変化の歴史が、人類の歴史と、ぴったりと重なっている。人類の様々な創意工夫は、戦争によりきっかけを得、数多くのブレイクスルーにつながった。その変遷を本書でざっと見るだけでも、ブレイクスルーどうしの繋がり合いに目を見張るだろう。

 より深く人類を知るための一冊。

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これはスゴ本

 

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1巻完結ラノベの傑作『MONUMENT あるいは自分自身の怪物』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年3月17日


 妻が珍しく薦めてきたのがこれ。

 妻は、わたしの3倍くらい読むのだが、小説は、不思議なほどに被らない。お互い好き勝手に読み散らかし、海外、国内、ジャンルも選り好みしないものの、同じ一冊にたどり着いていた、ということはあまりない。それだけ小説という世界が豊穣なのか、夫婦ともども先鋭的に選書してるのかは、ご想像にお任せする。

 そして、ごくたま~に、「これ、面白かったよ。あんたにも合いそう」というのが出てくる。長い付き合いだから、お互いの趣味嗜好は分かりすぎるほど分かっているから、面白さは保証されている。他の人はいざ知らず、少なくともわたしにとっては間違いないことは分かっている。「騙されたと思って読んでみ?」なんて駆け引きなしで読む。

 結論:面白かった! なんでこれが1巻完結なの!?

 そう、巧妙な伏線&物語構成、ストライクゾーンど真ん中のキャラクターによる、「物語を純粋に楽しむこと」と、もう古典名作と言っていい小説や映画を、上手くまぶした会話や描写による、「読み手の経験に呼応する面白さ」が、絶妙に混ざっている。この面白さ、もっと長く味わっていたいと思うものの、1巻で完璧に終わらせている。

 これ、やりようによっては、もっと長引かせることもできたはず。特殊能力を持つイケメン主人公(中身は暗い過去を持つゲス野郎)が、巨額の報酬に釣られ、魔法学校に潜入するために下工作をするのだが、完全にナナメ上の展開になるところで、丸々1巻を費やしてもいいはず。

 そして、魔法が組み込まれた「この世界」―――読み手であるわたしたちが住む歴史に、魔法という概念が併設された世界―――この説明の語りだけでも、優に1章使ってもいいのに、エピグラフでさらりと触れているだけ。

人類が火を熾すよりも先に、発火の魔術に目覚めた世界。あらゆる理論や法則に、応用として個人の魔力資質の差異が組み込まれている世界。ソクラテスもプラトンも、ベートーヴェンもモーツァルトも、フロイトもユングも、ヒトラーもスターリンも、手塚治虫も藤子・F・不二雄も存在していたけれど、魔法がある世界。不思議な力が存在しても、結局は似たような歴史を歩んできた世界の物語。

 あまりにもさり気なく書いてあるので、魔法の位置づけだとか、魔法という法則に基づいた社会制度や規格、物理的制約などの説明が、軽く扱われた気になる。だって主人公やヒロインの能力、実質的に無双じゃないか! 「この世界」は、読み手であるわたしの世界とずいぶん違うのに、まるで同じ様相に見える。ハードSFが(そのSF内で通用する)科学的厳密さを追求しているように、魔法的厳密さも書き込んで欲しいものよ。

 いや、これはライトノベルだから、そこは聞かないお約束でしょう。などと、いったんは納得したのだが、まさか、このエピグラフが伏線だとは思ってもみなかった。

 主人公(ゲス野郎)の暗い過去、進行する事件が牽引する「謎」、ヒロインが抱える苦悩、そして魔法的厳密さの不在―――これらが、MONUMENTと呼ばれる魔法遺跡の探索の果てに交わるとき、一挙に、一気に、タイトルとともに分かるようになっている。

 カタルシスとカタストロフが同時に味わえる。Amazonレビューでネタバレかましているので注意して。

Monument
物語・構成・キャラ、どれも素晴らしい

 

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川上未映子・村上春樹の対談『みみずくは黄昏に飛びたつ』がタメになるのでまとめる

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年3月23日


 物語を紡ぐ人、解く人にお薦め。

 小説論としても小説家論としても面白いし、村上春樹の深いところを掘り出しているのもいい。村上春樹が語ってきたことは様々な本になっているが、同じく日本語で小説を書く川上未映子が、「作家∧読者」という立場からインタビューするのは珍しい。谷古宇さん、素晴らしい本を薦めていただき、ありがとうございます。

一冊で2^2度おいしい

 本を書く人は本を読む人でもある。それぞれの作家が書いてきた作品を、より深く読むための縁にもなるし、「物語とは」「文体とは」「悪とは」といったテーマについて、いま生きている作家からヒントをもらえる。なぜなら、2人の作家について、作者・読者の2つの立場からナマの声が書いてあるから(2^2度おいしい)。

 だから、小説を「読む人」にとってのヒントがあるだけでなく、「書く人」にとっても数多くの気づきが得られる。ここでは、「村上作品の本質」と「小説にとって共通的なヒント」を明らかにしながらまとめてみよう。

 また、わたしにとって、村上春樹の長編はもう充分で、新作は文体の変化を楽しむぐらいしか余地がないことがハッキリした。本人が告げる通り、構造やテーマ、キャラクターや描写を追求するつもりがなく、文体を向上するだけであれば、わたしが読むものはない。短編やエッセイ、インタビューやステートメントとしての作家だな。

村上作品の本質

 いきなり根幹から。「物語を書くとはどういうことか?」から始まるやりとりで語られている。小説を書くことを説明するとき、一軒の家で喩えており、次のようになる。

 まず、一階。みんながいる団らんの場所であり、楽しくて社会的で、共通の言葉でしゃべっている。言葉を通じて分かり合えるパブリックなところになる。

 次に、地下一階。暗い部屋があるが、一階(パブリックな場所)とつながっているところもあり、誰でも降りていける。いわゆる日本の私小説が扱っているのは、この地下一階で起きていることになる。いわゆる近代的自我みたいなのもここで、それぞれが抱えている地下一階を見せることで、共有されやすい面もある。

 そして、地下二階。ここに村上作品の本質がある。あらゆる民族や伝承に共通する神話的な「お話」を起こし、物語にして伝える。古くは宗教が担っていた、個人の経験を越えた「世界とはこういうもの」という感覚で、河合隼雄の『影の現象学』では「集合的無意識」と呼んでいる。村上春樹の長編は、集合的無意識を物語にしたものになる。

集合的無意識の奪い合い

 村上春樹の小説が世界中で読まれている理由は、「そういう人々の地下部分あたる意識に、物語がダイレクトに訴えかけているところがあるから」だという。これも、意図してやっているわけでないという。そこに意味やメタファーを考えて付けているわけではなく、「僕としてはそういう風にしか書けない」のだと言う。ここはマネできないところ。

 この集合的無意識について、川上が興味深い指摘をしている。フィクションというものは実際的な力を持ってしまうことがある。小説を読んで人を刺す、といった分かりやすいものから、投票行動における浮動票のベクトルといった見えにくいものまで、様々な形で現れる。そうした世界中の出来事が、物語による「みんなの無意識」の奪い合いの結果だというのである。

 以前、別の媒体で、「いま読んでる本は何ですか?」という質問に、『新釈雨月物語・新釈春雨物語』と答えたのを目にしたことがある。中国の古典を元にした怪奇譚の短編集で、上田秋成が書いたものを石川淳が新釈したものだ。人と人外のかかわりあいを描く異化が扱われており、こうした伝承にヒントを得て、物語の核にしているのではないだろうか。

 じっさい、『騎士団長殺し』には春雨物語の「二世の縁」が出てくる。土の中から即身成仏を掘り出す話で、そこを起点に小説を書き始めたと言っている。集合的無意識を「意識的に」探すなら、文化や言語に依存しない、人として普遍的な行為―――たとえば、性・食・死―――を、神話や伝説に見ようとするだろう。フレイザー『金枝篇』、イェンゼン『殺された女神』、最近だったら赤坂憲雄『性食考』あたりを参考にしてそうだ。

 そうした伝承を現代の話にパラフレーズすることで、集合的無意識に訴えかける。読者は読者で、「これは私のために書かれたのだ」とそこにシンボルやメタファーを都合よく解釈し、自分の個人的な体験や深読みを当てはめる。そういう「代入」を促すような仕掛けは、ここにあるのだ。

作家と読者の信用取引

 本人はノープランで小説を書いており(p.115)、メタファーをいちいち意識していない(p.130)とはっきり述べている。にもかかわらず、読者がついてきてくれるのは、作家と読者との間で、一種の信用取引が成り立っているからだという。

 村上長編の構造は、「失われたものを、もう一つの世界で取り戻す」に尽きる(p.176)。これを、ディテールやモチーフを変えながらも同じようなことを書いてきて、それでも読者がついてきてくれるのは、村上曰く、「けっして読者を悪いようにはしなかったから」

 これは、村上小説が優れているだけでなく、読者にも恵まれているといえる。それだけの信頼関係を、多数を相手に成り立たせてきたのは、素晴らしいことだと思う。

アイデアの出所と文章の規範

 村上作品と読者の win-win の関係は、再現不可能だろう。作品がどうのだけでなく、時代とマーケティングの結果でもあるのだから。では、書き手として見習うところはあるのか?

 ある。

 基本的な点としては、小説を書くアイデアは、誰しもが経験の内に持っていること。意識しようとしまいとネタはあるが、重要なのは、必要なときにそれが引き出せるか、ということにある。このインタビューでは、キャビネットと抽斗の比喩が使われている。ジェイムズ・ジョイスの「イマジネーションとは記憶のことだ」という言葉の通り。

 そして、文章の規範は2つある。

 一つは、比喩の構造。「比喩とは、意味性を浮き彫りにするための落差」だから、その落差の幅を想定→逆算することで、読み手をはっとさせることができる。村上はチャンドラーから学んだというが、あれ、計算してやってたのか。

 もう一つは、やりとりの「動き」。ゴーリキー『どん底』の会話を例にしているが、全部を語らないことで、伝わっている意味の呼気を感じ取れるところ。

  乞食だか巡礼だかが話しているんだけど、
  おまえ、俺の話、ちゃんと聞いてんのか
  って一人がいうと
  俺はつんぼじゃねえや
  と答える

 「聞こえているよ」と答えると、そこで会話は終わる。でもそれじゃドラマにならないから、「つんぼじゃねえや」と答える。そこに語られなかった意味のリズムが生まれる。リズムの重要性は、「優れたパーカッショニストは、一番大事な音を叩かない」と語られているが、この言い回しも好き(本当に一番大事な音を叩くか叩かないかは、もはや関係ないことに注意)。

 村上作品の面白さはここにあるし、上手いなぁと思わされるのもここ。落差に驚かされ、うまい比喩に唸らされ、絶妙な会話にニヤッとさせられる喜び。それがストーリーを駆動する原動力となっている。物語にビルトインされているから、そこだけ抜き出して「名言集」みたいにもできない。切り取ってしまうと干からびてしまう。

「書く」ことについて最も重要なこと

 「全部書く」こと。これに尽きる。 書き始めると、一日十枚書くという。何があっても、とにかく十枚書く。もちろん推敲や編集はするが、それは書くを遂行してから。小説の神様みたいな「何か」が降りて来てくれそうにない日でも、必ず十枚書く。

 では、「今日はここを書かないといけないけれど、ちょっと来そうにないな」という日はどうする? 川上が絶妙な質問を投げると、「そのへんの風景描写とかやってる(笑)」とのこと。

 これ、レイモンド・チャンドラーもやっていたと聞いたことがある。村上もチャンドラーに影響を受けたのかもしれぬ。これだ。

毎日、決まった時間に、タイプライターの前に座る
座っているあいだ、書いても書かなくてもよい
ただし、他のこと(本を読んだりとか)はしてはいけない

 ヤル気が出るまで待っていたら、仕事は終わらない。ヤル気を待っていたら、その日が時間切れとなってしまう。ヤル気がなくても手を動かしているうち、だんだん調子が出てくるというのは真だ。これはマネする。

女であることの性的な役割を担わされすぎている

 これ、常々思っていたけれど、真正面に質問したのはこれが初めてらしい。

 つまりこうだ。村上作品は、「失われたものを、もう一つの世界で取り戻す」つまり異化の物語であるが、その異化の入口ないし契機として、「女」が使われる。日常→非日常へと手を引いて連れていくためにセックスが持ち出されるというのだ。

 イザナギノミコトの黄泉国でもオデュッセウスの冥界行でもいいけれど、いわゆるカタバシス(冥界訪問譚)の導く存在として女が出てくる。それは「お約束」としていい。だが、そこに女が、「性的な役割を全うしていくだけの存在になってしまう」のはどうかというのだ。

 はっきり質問の形で見えると、思い当たる。性行為の担当・謎かけ担当といった女に役が割り当てられていると感じていた。だから、村上作品の女性は見えやすかった。川上は「女の人は、女の人自体として存在できない」と鋭い指摘をしている。

 これに対し村上は、登場人物のことも、深く書き込んでいないという。「インターフェイス(接面)が主な問題であって、その存在自体とか、重みとか、方向性はむしろ描きすぎないように意識している」(p.247)と躱している。

 ただし、例外として、『1Q84』は真正面から女性の登場人物に向き合った話だという。わたしは未読なので、村上ファンに尋ねてみたい。

リアル・ファンタジー

 結局のところ、リアリズムの手法でファンタジーを描いたのが村上長編ではないか? という予想が確認できた。

 書いてることは現実的にありえないことだが、書き方がリアリズムなので、荒唐無稽感が甚だしい。それでも「お話」が面白ければ付いて行けるが、どういうつもりで書いたんだろう? 何も考えていないのでは? といったん疑問を抱き始めると、読むのをやめるか、「そういうもの」として読むしかない(答え:何も考えていない)。

 そして、「そういうもの」と納得ずくで付き合っている幸せな読者がいることが、何よりも財産なのだろう。わたしは、そうした読者が掬い取った様々なメタファーや解釈を、聞くのが楽しい。

 読みの豊饒さに、あらためて驚くことができるのだから。

Mimizuku

 

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ピンチョン『ヴァインランド』を7人で読んだら、7つの小説になった

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7人で2時間、『ヴァインランド』を語り合ったのだが、同じ本を読んだはずなのに、全員が違う本を持って来たような感覚が面白い。

というのも、普通なら、作品が提供するストーリーラインに乗っかった上で、好き嫌いを語れるのだが、そういう明確な「あらすじ」そのものがのたくっているから。

必然的に目を閉じて象を撫でた感想となる。そうした断片を持ち寄って再構成された『ヴァインランド』が、元の小説と似ても似つかないものとなり、巨大な伝言ゲームをやっているようでさらに面白い。

■『ヴァインランド』と『一九八四年』

『ヴァインランド』の語りの現在点が1984年なのは、オーウェル『一九八四年』を意識しているのではないか、という指摘があった。

確かにその通りだ。さらにピンチョン自身、オーウェル生誕100周年を記念した『一九八四年』で書評を寄稿している(早川の新訳版に収録されているはず)。

『一九八四年』では、テレビとカメラが一体化した監視装置が出てくる。人々はテレビを通じて情報を知るだけでなく、テレビに備え付けられたカメラで監視もされている。

Big Brother Is Watching You.
ビッグブラザーが見ている

このスローガンは『一九八四年』という作品からスピンオフして、監視社会を象徴するセリフとして折々で使われるようになった。

『ヴァインランド』では、国家非常事態計画らしきTV番組を見ていると、突然こう切り替わる。

From now on, I’m watching you.
これからはワタシが君たちを見つめていよう

暗示のようなのはここだけに見える。

というのも、情報統制のやり口は、あまりに対照的だからだ。

オーウェル的ディストピアでは、権力は情報を減らす。歴史を書き換え、言葉を減らし(ニュースピーク)、検閲と監視で記憶そのものを統制する。「真実はいつも一つ」を、言葉通り実践している。

一方、ピンチョン的ユートピア(?)では、真逆に見える。テレビ、映画、CM、音楽、ドラッグ、ファッションなど、ブランドとキャラクターと固有名詞が、飽和攻撃のように押し寄せる。

「情報が無い」と「情報がありすぎる」は、逆なのに同じところに進んでいくのが面白い。オーウェルでは、情報が無さ過ぎて、現実が見えない。一方、ピンチョンでは情報がありすぎて、現実が見えない。

オーウェルが想像した悪夢とは全然ちがう1984年が来たけれど、これはこれで別の悪夢に見える。そして2026年、TVよりはるかに大量の情報が流れてゆく小さな画面を、一日中見つめている。

■ゾイドは「主人公」だったのか

最初に登場し、派手にぶっ壊した後、逃げ回るハメになるゾイド・ホイーラー。普通の物語だと主人公ポジだが、主人公らしからぬという指摘もあった。

「主人公らしくない」というよりも、主人公ポジなのに主人公の仕事をほとんどしない人物として描かれている。

由緒正しき英雄譚に当てはめると、ゾイドには十分その素材はある。妻フレネシを奪われ、たった一人で娘を育てる。国家権力の権化であるブロック・ヴォンドという強大な敵がいる。過去には秘密がある。

普通なら、喪失 → 旅立ち → 仲間との出会い → 修行 → 敵との対決 → 帰還 という円環構造になる。

だが、ゾイドはやらない。逃げる → 仕事をする → 娘を育てる → 精神障害を装うため窓を破る → 妻の思い出に浸る……などとふらふらしている。そして、肝心の物語の方が、ゾイドを置き去りにして先へ行ってしまう。

その代わりに、修行するのはDL(ダリル・ルイーズ)が受け持つ。師匠がいて、修行して特殊能力で敵を倒す。過ちを犯し、贖罪の旅をする……なんて、主人公的なイベントが割り当てられている。

ゾイドの娘プレーリーは、ビルドゥングスロマン的に動く。両親の秘密を聞かされ、母フレネシを探す旅に出て、導き手により母の秘密を知り、自分の出自を理解し、ラスボスと遭遇する。

フレネシは典型的な悲劇の主人公だ。理想を求め、運動の中心となり、誘惑に駆られ、欲望に負け、仲間を裏切り、転落する。逃亡を重ね、最後に帰還する。

つまり、『ヴァインランド』には「主人公らしい物語」が無い、というわけではない。あるにはあるのだが、「主人公らしさ」という性格や運命が、複数のキャラに分配されているのではないか。

冒頭だけ読むと、ゾイドの物語に見えるのだが、進めるうちに、ゾイド → プレーリー → DL → フレネシ → ウィード → ヴォンド と焦点が切り替わってゆく。脇役が主役となるエピソードの脇役が次の主役となるといった感じ。

普通の小説なら、主人公が世界を横断するのが物語になるが、ピンチョンは逆に、物語の方がキャラクターたちを通り過ぎてゆく。これ、『V.』のベニー・プロフェイン、『重力の虹』のタイロン・スロースロップまんまや。ピンチョン特有の、物語の方を通過させる役回りなのかもしれぬ。

■「サナトイド=三丁目の夕日」説

サナトイド(Thanatoid・死者みたいな人)とは何だったのか?という議論も面白かった。

生前に果たせなかった強い思いに囚われている、いわゆる地縛霊みたいな存在だ(1998年訳版では、シンデルロ)。霊だけど実体を持ち、コミュニケーションもできる。

60年代のトラウマが80年代に戻ってきた生ける死者(Living Dead)なのかもしれぬ。

面白かった意見は、生きている人とサナトイドの違いは、「過去だけに生きること」なのかも、という指摘だ。

もちろん、生きている人間も、過去をふり返って後悔するし、昔を懐かしんだりする。だけど、ずっと過去を引きずっているわけではなく、現在に何かをしたり、未来へ進もうとする(あるいはそうせざるを得ない)。

一方サナトイドは、ずっと過去にいる。果たされなかった過去がずっと現在を占領しており、時間が前に進まない。

60年代の東京を舞台にした『三丁目の夕日』というマンガに重なる。「昔は良かった」とずっとそこだけに留まっているとしたなら、その人はサナトイドになってるのではないだろうか。

そして、60年代に青春を過ごし、80年代にふり返る人たちにノスタルジーを発動させるためのトリガーとして、ロックやポップやドラッグが洪水のように溢れているのが『ヴァインランド』なのでは? というような意見を述べた。

■記号化されたカルチャー

『ヴァインランド』にあふれる固有名詞は、「昔はよかった」と言うためのアイテムなのだろうか?

いや、それは違うという反対意見が面白かった。

その方は、『アメリカン・サイコ』で、様々なブランド名が挙げられていることを指摘する。1980年代ニューヨークのエリートビジネスマンの告白なのだが、アルマーニやヴェルサーチ、ラルフ・ローレン、ロレックスなど、高級ブランド名が延々と並べられる。殺人や拷問の惨たらしい描写と、高級ブランドやレストランのカタログ情報が、同じ熱量で列挙されている。

確かにこの記号の洪水は、『ヴァインランド』の固有名詞の飽和に通じるものがある。

ただ、『アメリカン・サイコ』ではブランド名は交換可能で、意味を持たない記号として扱われているように見える。名刺もレストランもファッションブランドも、固有名詞を増やせば増やすほど、意味が薄くなっていく(それこそ、殺人が本当にあったのかどうか疑わしくなるくらい、現実が摩耗していく)。

一方『ヴァインランド』の固有名詞は異様に広い。ギリガン君SOS、ジェダイの帰還、スター・トレック、ジミヘン、13金など、朝食シリアルとTV番組と映画が同じ平面に並んでいる。固有名詞を増やすほど、当時の政治や文化に接続する(接続し過ぎる)チャンネルが増えていく

つまり、固有名詞の洪水が『アメリカン・サイコ』では「意味の空虚化」だとすれば、『ヴァインランド』は「意味の過積載」となる。両者は似た技法で逆方向の効果を狙っているのかもしれぬ。

■DLの「一年殺し」とAIDS

暗殺技術「一年殺し」は、AIDSの隠喩ではないかという指摘が面白かった。

女忍者DLの技「デス・タッチ」は、相手に触れるだけで、確実に殺すことができる。秘孔を突く北斗神拳みたいなものだが、爆殺するような派手なやつではない。ごく軽く触れるだけ。

その場では何も起きず、相手も何も感じない。だが身体の内部では死へのプロセスが始まっており、一年後に、突然、死ぬ。

これをAIDS(後天性免疫不全症候群)の隠喩として読む。

性的な接触 → その場では何も起きない → 本人の知らないところで身体内部に死が入り込んでいる → 時間差で死がやってくる。

この構造が、1980年代のAIDSへの恐怖と不気味なほど重なる。

いまではHIV感染症には有効な治療法が確立されており、適切な治療で健康を維持できる。しかし『ヴァインランド』が書かれた1980年代後半は違う。「特効薬がない」「性的接触によって感染する」「感染してもすぐには分からない」「発症すれば死」という恐怖が社会を覆っていた。

もちろん、ピンチョン自身が「デス・タッチはAIDSの隠喩だ」と明言しているわけではないし。

だが、1990年に刊行された小説で、娼婦との接触を通じて、気づかぬうちに「時間差でやってくる死」を身体に埋め込まれるというギャグを読むなら、AIDS危機との連想はかなり自然に思えてくる。

■ワン・バトル・アフター・アナザーの原作疑惑

私は小説→映画の順だったが、読書会のメンバーには、映画→小説の順に履修された方もいた。「映画が面白かったので、原作も読んでみよう」というノリで手を出したというが、かなりキツかったらしい(だろうなぁ……)。

原作というより翻案、翻案というより、刺さりそうなところを摘まみ食いするようなものかな、というのが私の印象だ(映画のスタッフロールでは、inspired by になっていた)。

サナトイドやDLといったキャラクターだけでなく、輻輳する時間構造や分散された主人公といった、「ただ1つのストーリーに回収させることを拒むための様々な仕掛け」が、全て無かったことにされている。

「小説は小説、映画は映画だから、映画化できるところをキレイに抜き出した」とも言える。単線の時間、単純な敵役、単独の親子関係という構造だけにして、後は全て捨てた。ピンチョンという、ハリウッドとは真逆のストーリーを紡ぎ出す作家を、シンプルに料理するならこうなる、と実演してみせたケーススタディとして考えると、面白いかも。

映画化とは、「あらすじ化」かもしれぬ。

  • 誰を主人公にするか
  • 誰の欲望でストーリーを回すか
  • 何を原因とし、何を結果とするか
  • 誰を敵にして、どこにクライマックスを置くか

これらは、『ヴァインランド』が巧妙に距離を置いてきた「あらすじを作る」ことそのものになる。だから、『ワン・バトル』は、ピンチョンの小説を「あらすじ」にするとどうなるか?という実験を、1億4千万ドルかけて162分にしたものだと言えるだろう。

じゃぁ映画がつまらないかというと、逆だ逆、めちゃくちゃ面白い映画になってしまった(興行的にはアレだと言われているが)。『ワン・バトル』は『ヴァインランド』への反論になっているのかもしれぬ。

ただし、『ワン・バトル』から『ヴァインランド』に入ると厄介かもしれぬ。

というのも、映画は、「これはこういう話」という一本のストーリーを引いてしまっている。その道筋に沿って物語を散策するのは楽しい。

映画で渡された地図を持って小説に入るのはいい。だがピンチョンは、地図に載っていない場所ばかり歩きたがる。

そしてたぶん、地図から外れたところにこそ、『ヴァインランド』があるのだから。

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今の中を生きるために歌がある『えーえんとくちから』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年3月27日


歌がうれしいのは、過去でもなく、未来でもなく、いまの、この瞬間に自分を合わせてくれるから。

昔を後悔するとき、自分の何%かはその昔にいる。

将来を思い悩むとき、自分の何%かを将来に配分している。未来への心配事の大部分は実現しないし、過去の出来事は変えられないのに。つまり、変えることも実現することもない昨日と明日に、リソースを配分した結果、今日の自分がボヤけてしまう。

そこから自分を取り戻すために、歌が効く。

歌をよむ、なぞる、つぶやく、くちずさむ、その瞬間に集中することで、自分自身に焦点があわさる。車の運転に集中したり、皿洗いに専念したり、ひたすら畑仕事に没頭するのと同じ。わたしが詩を手にするのは、そういう機能を求めているから。

『えーえんとくちから』は、まさにこれ。

26歳で夭折した笹井宏之さんの詩集だ。透明度の高い、解放された空間をのぞき込むように、言葉と向き合える。その一句と「今の」自分だけになれる。結果、昨日の後悔や、明日の心配は、たとえ一時的にせよ考えずに済む。

なにこれ? とひと呼吸考えたあとでジワる。

表題のはコレ。

えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい

次々と読んでいって当たったのを何度も口にしてもいいし、一つ一つに自分なりのストーリーを考えたり固有名詞を付けてもいい。わたしの場合、眠れぬ夜に訥々とつぶやいてみると、ある種おまじないのようにはたらいてくれる。

胃のなかでくだもの死んでしまったら、
人ってときに墓なんですね

目から情報のように「読む」というよりも、むしろ空気や水を呑み込むように、身体の中に言葉を入れる。歌はクリアにするすると入り、胸の中でパッと熾ったり、耳の後ろをざわつかせたりする。記憶を刺激するだけでなく、肉体を伴った反応がきて面白い。

冬の野をことばの雨がおおうとき人はほんらい栞だと知る

あんまり「人」っぽくない詠み手がいるのが面白い。歌は人の専売特許ではないのだから、誰が詠んでもかまやしない。けれど、擬人でもなく、(人が比喩的に見る)なにかですらない。人の世界を早回しで眺めて見、人の言葉で語るならと前置きして、できあがった独り言のようだ。

よかったら絶望をしてくださいね
きちんとあとを追いますからね

どの句が意外に思えるかで、自分の想像性の縁を触られているようで、楽しい。言葉と遊んでいるとき、昨日の自分や、明日のわたしに悩むことなく、確かに、わたしは、今の中を生きている。
過去と未来の心配を避け、今の自分に焦点を合わせる。前中眺さん、この本を教えていただき、ありがとうございます。

Eientokuti

 

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読書会で毒を吐く『春にして君を離れ』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年3月31日


読書は毒書だ。

(小説を)読むとは、大なり小なり毒を浴びること。読んでも残らないなら、読むというより「見た」にすぎぬ。同じ一冊が、深く刺さる人もいれば、かすりもしない人もいる。そういう、読み手の人生経験や過去にダイレクトに反射する作品は、値千金だ。

すぐれた物語は一生を二生にする

なぜなら、自分がそのときどう感じていたか、すべきこと/すべきでなかったことを、物語として読めるから。これ、よくある客観視ではない。「そのとき」の感情や判断は、そのときの感覚や記憶によって歪められている。自分フィルターの歪みを自覚しながら、「そのとき」の感情や判断を、「いま」読んでいる作品を通じ、「自分の物語」として語りなおす試みは、めったにお目にかかれない。だから値千金なのだ。

「すぐれた物語は一生を二生にする」という言葉の秘密はここにある。

作中の人物に対する「いま」の批判が、そのまま「そのとき」の自分になる。もちろん過去は変えられない。口から出た言葉は戻せないし、戻ってやり直すこともかなわない。それは、手元の作品に書かれた言葉を変えられないことと同じだ。

だが、「そのとき」の歪み込みで、過去の認識の仕方を変えることはできる。それはもはや、登場人物の人生ではなく、読み手の人生経験のやりなおしなのだ。断っておきたいのは、「正しかった」「間違っていた」の二択ではないこと。自分の過去を簡単に「間違っていた」とバッサリできるほどの軽さならいいが、(本読んでわざわざ思い出すくらいなら)そんなわけなかろう。

猛毒『春にして君を離れ』

さて、そんな毒書でも、きわめて猛毒で、なおかつ過去をエグエグ抉ってくるのが、『春にして君を離れ』である。アガサ・クリスティーが別名義で書いた作品だが、最高の一冊だと断言できる。クリスティー作品のベストとしても、毒作用の最も高い作品としても、これを推す。

ただし、本書の毒は、自家中毒に近い。身体の外から入ってきた毒物による中毒ではなく、自分の体の中でできた物質による中毒症状だから。『春にして君を離れ』には、陰惨な殺人現場や、邪悪な心理が描かれているわけではない。そうした毒に中(あた)るような読書ではないのだ。

その代わり、作中の人物への批判が、そのまま「そのとき」の自分につながり、書かれた言葉を変えられないように、昔をやり直せないことに気づく。そして、恐ろしいことに、過去はやり直せないが、この本を読み終わった「いま」からならば、やり直せることが分かってしまう。

そして自問するだろう、「本当にやり直す?」ってね。やり直せない過去だからこそ、簡単に「正しい」「間違い」とバッサリできる。では今から「いま」をやり直すことができるなら、簡単にはいかない。

よしおかさん主催の読書会に参加して、上のようなことを考えさせられた。『春にして君を離れ』の紹介はこんな感じ。

優しい夫、よき子供に恵まれ、女は理想の家庭を築き上げたことに満ち足りていた。が、娘の病気見舞いを終えてバクダードからイギリスへ帰る途中で出会った友人との会話から、それまでの親子関係、夫婦の愛情に疑問を抱きはじめる……
女の愛の迷いを冷たく見すえ、繊細かつ流麗に描いた、ロマンチック・サスペンス

小説の主旋律は、自己正当化が、あらゆる価値判断の根拠となっている女の独白だ。自分の誤りを認めないというより、自分に誤りがない前提で物事を考えている。「自分が100%正しい」、故に「間違っているのはあいつであり、ダメなのは夫である」という女である。

男女7人が集まって、延々3時間この作品について語り合ったのだが……

読書会で毒を吐く

まず、「全く何も残らなかった」という人はゼロ。

ネットでは少なからず見かけるが、これを読んで何も感じない人がいる。高校生ぐらいなら分かるが、結構ご年配でもいる。それはそれで、「しあわせ」なことだと思う。自己欺瞞に縁のない、いわゆる「育ちが良い人」なのだろう(解説によると、栗本薫の夫がそうらしい)。

7人がそれぞれ順に語ったのだが、それぞれの過去をエグエグ抉り出しており、読書会は毒書会と相成った。

真っ先に挙げられたのが、この女の性格。嫌味たらしく他人を値踏みし、なおかつ辛辣な評価を下す。階級的には上流で裕福といってもいいのに、一皮むいたら下品そのもの。今風に言うなら、マウンティングにより自分の価値を見いだす人やね。

いっぽう、この女の「分かりやすさ」に警戒した人もいた。

何十年も前の会話を一言一句覚えているのは不自然になる。わたしは小説的仕掛けとして読み流したが、これは一種の「罠」なのかも。この女を自分の配偶者に投影して溜飲を下げたり、あるいは「私はこんなにひどくない」と安心することができる。そんな読みを招き寄せる罠なのだ(文字通り、ラストにつながるのだが)。

ただし、皆さん正直な大人でもあるので、作品が暴きだす自己欺瞞が「読者自身」を指していることを、目を背けずに見つめることはできる(謝ったら死ぬ病の人はいなかった)。

また、ダンナもひどいという意見もあり。

ここまで拗らせるまで向き合おうとせず、仕事に逃げていた夫こそが、このような女を作り上げたのだという指摘だ。そんなズルさを棚に上げて、かわいそうな夫を演出すれば、子どもはどう見るか?ずるずると妻に振り回されるのがそんなに嫌なら、いっそ離婚してしまえばいい。だが時代が許さないだろうし、何よりも外聞に悪い。

さらに、ワレナベ&トジブタ説まで出てくる。これは、お互いさまだと。ダンナは、経営に失敗したら自殺しかねないくらい弱い男である一方、人生の荒波耐性は妻の方がある。自称かわいそうな夫とマウンティングする妻は、共依存の関係なのかも。

個人的な読書体験は語ることによって普遍性をもつ

自分に嘘をつくのをやめる読書会だった(よしおかさんありがとうございます!)。

たった一冊の本について語り合ったにもかかわらず、それぞれの「いま」の思いや「そのとき」の経験について話すことになる。嫌な女だね、馬鹿なダンナだね、で済まないところが『春にして君を離れ』のエグいところなのだ(それで済ますということは、読み手の自己欺瞞から目を背けることになるからね)。

読書とは、個人的な体験にも関わらず、それについて語った瞬間、普遍的な寓意に行き着くのかもしれぬ

よい毒書で、よい人生を。

Harunisite

 

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『ニックス』はスゴ本

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年4月2日


 狂おしいほど好き。

 めちゃくちゃ笑い、泣き、怒り、嘆き、途方にくれ、ハラハラ・オロオロ・ドキドキしながら夢中になって読んだ、ユーモアと切なさに満ちた最高の一冊。

面白さを物理的に証明する

 「面白さ」の表現として、ページターナーとか巻を措く能わずというけれど、この小説は物理的に証明することができる。図書館で借りてきたとき、本の背表紙が「歪んで」いるのが証拠だ。

 説明する。

 本を開くと、本の背は開いた方向へ引っ張られる。一定のあいだ引っ張られると、背表紙は、その方向に「くせ」が付く。そして、本を閉じると引っ張られた背は戻る。閉じている時間が長いと、ついた「くせ」は戻ろうとする。つまり、「引っ張られた時間=読んでいる時間」が長いほど、「くせ=歪み」が付いた背表紙となる。

 ちょっと待て。

 『ニックス』のような長い作品(2段700頁)だと、当然、読む時間も長くなるから、くせが付きやすいんじゃないの? その通り。だが、ポイントは「閉じると戻ろうとする」ところ。たとえ読んでる累計時間が長くても、閉じている時間も長ければ(つまり一気に読まれなければ)、背表紙の歪みは解消される。

Nix2
背表紙が歪んでいるのが分かるだろうか

一行目から引き込まれる

 歪んだ背表紙が約束した面白さは、一行目から報われる。こんなプロローグだ。

 もし、母が去ろうとしていることに気づいていたら、サミュエルはもっと注意を研ぎ澄ませていただろう。もっと用心深く耳を傾け、もっと細やかに様子をうかがい、もっと重要な何かを書き留めていただろう。違う行動を取り、違う言葉を語り、さらには違う人間になっていただろう。 そう、捨てるには忍びないという子になっていたかもしれなかった。

 母は家の中から少しずつ物を持ち出していく。あるときはフォークを一本、次の週はセーター、さらに次は詩集を一冊といった形で、自分の物を持ち出していく。一気に全部を持っていくのではなく、少しずつ自分の跡を消してゆく。

 そしてある朝、いなくなる。まだサミュエルが幼い頃、1988年の夏の朝に。

 それから数十年、書けない作家となったサミュエルのもとに知らせが入る―――母が州知事に暴行して逮捕されたという。SNSで炎上し、ワイドショーで騒ぎ立てられるなかで、サミュエルは自分を捨てた母を調べ始める。

 最初は復讐心に駆られていたが、次第に分かってくる母の半生は、サミュエルが長い間信じていたものとは、全く違う人生だった―――こんな感じで、母の過去、サミュエルの過去、そして現在と行ったり来たりしながら進んでゆく。

群盲撫象

 小説を貫くテーマは、エピグラフにもある、盲人が象を語る話だ。

 目の見えない人をおおぜい連れてきて、象に触らせる。ある者は鼻を撫で、別の者は耳を撫で、またある者は尾を撫でる……といった風に。そして、「象とは何か」を語らせたところ、てんでバラバラの答えになり、盲人たちは殴り合ったという話だ。物事や人物の一面だけを見て、それが全てだと理解してしまうことを戒める説話だが、SNSで噴き上がっている「盲人」を見るにつけ、今こそ広めたい教訓だ。

 しかし、2人の人生につきあってゆくと、ある重要な事実に気づく。

 それは、盲人と象の話において、見過ごされがちなのは、一人ひとりの説明は正しいという事実だ。一人ひとりは偽りの象を語っているわけでない。それぞれ偽りの「象」像によって隠された、「真の象」というものが存在するわけではない。

 そうではなく、それぞれにとっての「真の象」―――つまり、これこそが「真の象」だという思い込み―――によって隠された、一つの大きな象がいるだけなのだ。サミュエルの母は、さまざまな側面を持つ。生真面目で、怖がりで、でも大胆で、妻であり母であり女である。ある一面が真実だと確信することにより、別の、より大きな真実を覆い隠す。

それは結局、盲人と象の問題に帰着する。問題は彼らが目が見えないということではなかった―――彼らがあまりに早く探索をやめて、把握すべきより大きな真実があるということに気づかなかったということなのだ。

 では、それぞれの人生を支えている、より大きな真実は何か―――何度もやってくる物語のうねりの中でこれに気づくとき、ほとばしる感情を留めることができなくなる。涙とか感動というよりも、むしろ、彼女がどういう気持ちでいたかが堰を切ったようにわたしの身体を走り抜ける。

人を理解するとは

 人を理解するとは、(より大きな象が支えている)それぞれの真実の中で生きていることをひっくるめて、理解することなのだ。

 そして、この「人」は他人だけではない。

 これは、自分自身にも向けられる。あの日あのとき別の選択をしていればとか、異なる世界線上の「もう一人の自分」とか、ゲームのようにセーブ&ロードをやり直せれば……などと妄想する自分自身にとっても、同じことが言える。

 それぞれの世界線上の自分にとっての「真実」を、ただ一つの真実だと確信することにより、別の、選ばなかった方の真実が覆い隠される。人は、自分の物語にすっかり心を奪われて、もう一人の自分の物語の中では脇役に過ぎないという事実がわからなくなることがある

 すべてを相対化するシニカルなものではなく、それぞれが持ち寄った真実を理解するか否かの話だ。理解することは、憎悪することよりも、難しい。

 ジョン・アーヴィング絶賛との謳い文句で手にしたが、大当たり。平成最後の、最高の海外文学長編として、自信をもってお薦めする。

Nix

 

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レオナルド・ダ・ヴィンチの就活術『ルネサンスの世渡り術』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年4月7日


 いまでこそ巨匠と呼ばれる芸術家も、駆け出しのころは苦労していた。

 技術的に傑出し、神童の誉れ高くとも、それだけで仕事がじゃんじゃん舞い込むことはない。就職先が見つからなかったり、資金繰りに頭を悩ませたり、仕事を干されて汲々とする姿は、現代と変わらない。

 不遇な天才たちは、どうやって逆境を跳ね返していったか。

 そこには、したたかな手練手管が求められる。腕が立つだけでは足りなくて、技術を注文に結び付けなければならぬ。そのためには何でもする。炎上商法で名前を売り、ズルしてでもライバルを出し抜き、相手が強ければ同情を誘い、弱ければ強気に出て、裏で手を組み、ハッタリを効かせ、なんとか生き延びようとあがく。

ルネサンス芸術は「アート」というより「デザイン」

 そんな芸術家たちの生きざまを、イラストで活写したのが本書だ。

 共感したりドン引きしながら、するする読める。面白おかしく誇張しているのかと思いきや、元ネタはジョルジョ・ヴァザーリ『芸術家列伝』とのこと。

 これ、林達夫と久野収の対談『思想のドラマトゥルギー』でお薦めされていたので、気になっていたやつ。しかも著者・壺屋めり氏は歴史学者であり、ヴァザーリを鵜呑みにせず、きちんと考証しているのがいい。

 面白いのは、芸術家の「したたかさ」に学ぶところが沢山あることだ。

 たとえば、芸術家と注文主の関係。ルネサンス時代の芸術家は、注文を受けてから制作を開始し、注文主の意向に合わせた作品にするのが普通だった。

 注文主の要望(=要求仕様)を明確にし、当時の流行(=最新技術とモード)を取り入れ、さらにデッサンに対するフィードバック(=レビュー)をもらう。ルネサンス美術は、いわゆる「アート」というよりも「デザイン」や「公共開発」の仕事に近いことがうかがい知れる。

レオナルド・ダ・ヴィンチの就活

 なかでも、レオナルド・ダ・ヴィンチの就職活動が興味深い。

 フィレンツェの工房で修行を積んだレオナルドは、フリーの画家として独立するのだが、なかなか成果に結びつかなかったという。そこで心機一転して、ミラノへ取り入ろうとするのだが、そのエントリーシートがスゴい。

 もちろん、当時はエントリーシートではなく、ミラノを統治する貴族へ宛てた手紙だが、そこには、彼ができること・作れるものが、箇条書きで残されている。

  1. 軽くて強固な橋
  2. 戦闘装置
  3. 要塞や砦を破壊する技術
  4. 運搬が容易な大砲
  5. 地下トンネルの掘削技術
  6. 装甲車
  7. 大砲、追撃砲、軽砲
  8. 砲撃に適さない状況で用いる、石弓、投石機
  9. 海戦のための、砲弾、火薬、耐火性の船
  10. 平和時における、建造物の設計、大理石、ブロンズ、粘土の彫刻、絵画

 レオナルド・ダ・ヴィンチは、様々な分野で才能を発揮した、万能の天才と言われている。だが、駆け出しの頃は画家だったのではないか。10のセールスポイントのうち、9つまでが軍事技術で占められており、かろうじて、最後の一つが絵画や彫刻になっている。なぜ、自分の得意分野を最後に、しかも一つだけにしたのか?

 実は、これにはちゃんと理由がある。

 当時のミラノは君主国で、そこを統治していたスフォルツァ家は、たたき上げの新興貴族であり、伝統よりも軍事に権力基盤を置いていた。当然、新しい軍事技術は、喉から手が出るほど欲しいし、逆に、そうした技術を持つ人材が、ミラノ外へ流出するのを防ぎたいはず……

 レオナルドは、こうした雇用主のニーズを見極め、一般に知られていない技術を持っている、と自分をプレゼンテーションしたのだ。

 では、その頃のレオナルドは、軍事技術の研究をしていたのだろうか? 実は、当時の作品メモやスケッチが遺されている。そこには、聖母像や友人の肖像、デッサンばかりで、技術関連といえば、航海の道具、給水の機械、釜の3点だけだったという。

 つまり、軍事技術のエキスパートとして自らを「演出」したとき、軍事に関わるものをほとんど作っていなかったのである。もちろん、軍事技術家として設計やデザインを行った業績も残されているが、それらは就職した後でのこと。ハッタリが功を奏した例やね。

 まったくといっていいほど経験がないものを、自らの強みとしてプレゼンする。天才だからこそできたのだと言うことは簡単だが、天才なのに就活に苦労したからと考えると、学ぶところが大きい。就活にお悩みなら、以下もどうぞ。

[答えが見つからないとき、問題を変えてみる6冊]

「人」から見たルネサンス美術史

 ルネサンスの美術作品や歴史についての解説は沢山ある。作品そのものについて、意義や影響を知ることも大切だが、その作品を制作した「人」に焦点を当て、どのように業界をサバイブしていったかを説明したものは珍しい。

 もとは「クーリエ」で連載したものだが、その生き様は、現代でも実践している人がいるのではないかと思われるくらい生々しい(特に炎上商法)。レオナルドの就活は[万能人の自己PR術 レオナルド・ダ・ヴィンチの場合]で前半を読むことができる。

 お試しあれ。

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「物語」にしない、させないトマス・ピンチョン『ヴァインランド』

16年ぶりに再読したけど、ぶちのめされる感が半端ない。

とめどなくエピソードが転がり出てきて、受け止める間もなくキャラが切り替わり、筋が錯綜し、デウス・エクス・マキナが降りてくる(一度ならず何度も何度も)。

16年前はこの感覚を、「TVのチャンネルを替えるかのように話が変奏していく」と評したけれど、2026年の今なら、「タイムラインを高速スクロールしていく」と喩えたい。コンテンツを認知する間もなく次から次へと流れてゆく。読むというより委ねる・浸る感覚と言えば分かるだろうか。

初読時は、「あらすじ」が掴めなかった。メインキャラの軌跡をまとめたり、テーマ(?)らしきものを要約したりもできるが、目をつぶってゾウを撫でるようなもの。部分の和は全体にならぬ。

再読して気づいたのは、「そもそも、ピンチョンって、あらすじ(物語にすること)を拒絶しているのではないか?」という印象だ。

■なぜ物語なのか

そもそも、人はなぜ物語に触れるのかというと、現実が複雑すぎるから。

現実は本来、偶然の要素が多すぎる。回収されない因子が絡み合い、人の知性では把握しきれない矛盾した結果に陥りがちだ。物語はそれらを因果と伏線に配置することで、現実を呑み込みやすくする。

ノイズを筋にする仕掛けとして物語があり、人は、物語を通じて現実を理解していると言える。

例えば、時計の秒針は「チク・チク・チク」としか鳴っていない。にもかかわらず、そこに「チク・タク」と聞く。無差別な連続に、始まり(チク)と終わり(タク)を与えてしまう存在が、人なのだ。

物語とは、「チク・チク」という音を、「チク・タク」と聞く能力なのかもしれぬ。

ただし、100%予想通りなら、つまらない。物語には、少しのズレが必要だ。

脳は受動的に情報を受け取るだけでなく、「次はこうなるはず」という予測モデルを作り、入力との差=予測誤差を使ってモデルを更新するという考え方がある。これを適用すると、

  • こいつが黒幕?
  • この2人は再会する(はず)
  • これは伏線だ
  • 悪役は最後には倒される

のように、読みながら絶えず先を予測している。物語とは、ある意味で予測⇒誤差⇒物語世界の更新を高速で回す装置とも言える。

これが予測通りなら、「やっぱり」で終わる。ずっと「チク・タク」なら、時計の音を聞くこともしなくなるだろう。そしてこれが完全にランダムで「くぁwせdrftgyふじこlp」なら、意味不明で、やっぱり誰も聞かないだろう。

面白い物語では、「予想できる⇒予想を外される⇒でも後から納得できる」が繰り返される。予想外の犯人だけど、伏線は全部あったというミステリなんかがそれ。

だから私たちは、物語を読むときも「最後にはつながるはず」と、未来の理解を先取りしながら拾っていこうとする。物語を読むときの「先を知りたい」という駆動力がこれ。

物語の快楽とは、予想が当たりかけて、少しだけ外れるところにある。

■物語化を拒絶する

だが、ピンチョンはつながらない。

読み始めて、「14歳のプレーリーが母親を探す物語なんだな」と予想する……と脱線する。

抽象度を上げて「じゃぁ、60年代のカウンターカルチャーの敗北を80年代から眺める物語なんだな」とモデルを作る……と脱臼させてくる。

登場人物が出そろってくると「ラストは、ブロック・ヴォンドという権力との対決なのだろう」と考えると、きれいに収束しない(させない)。

予測モデルを作る度に、丁寧に壊しにかかる。それがピンチョン。成立しかけた予測モデルに、大きな予測誤差をぶつけて脱臼させる。

音楽、テレビ番組、映画、車、銃、ドラッグ、ファッションのネタを大量に並べ立て、60年代・80年代のアメリカの国民的記憶を飽和させにくるので、そもそも予測モデルが維持できない。

最初はyoutubeやGoogleで元ネタを検索したりメモっていたが、人はそんなに大量の出来事やアイテムを把握しきれない。認知の限界を超えて投入されるので、どれが伏線で、どれがギャグで、どれが筋で、どれが妄想なのか、分からなくなってくる。

多すぎる登場人物は、ネットワーク図を作ったので見て欲しい。

Photo_20260822131801

ヴァインランド登場人物ネットワーク図

筋の脱線、モデルの脱臼、飽和攻撃に、ピンチョンを読む人は、どこかで予測を諦めるしかない。

■ドパガキ化する私

さらに、小説ならではなのだが、読者のいる場所を揺さぶりにかかる。

読者は、読んでいる「いま」「ここ」という安全な位置から、小説と向き合っている、はずだ。だが、それが怪しくなってくる。

p.189あたりの、「母親が撮った映画を見るプレーリー」のあたりが顕著だ。

プレーリーの母・フレネシが撮った映画を、プレーリーとDL(ダリル・ルイーズ)とタケシの3人で見ているというシーンのはずなのだが……いつのまにか、フレネシ自身の経験として語られたり、DLとタケシのエピソードが挟まってくる。

すると、「『フレネシの経験』を映像と証言を通じて知るプレーリー」を読む私のはずなのだが、このカッコ内の構造が歪んでくる。プレーリーはいなくなり、フレネシの目線になり、(時が跳んで)DLの過去になり、タケシとのなれそめになり、突然タケシが今(映画を見るプレーリー)に入ってくる。

これ、文章で表現するのが難しい。語りの視点と時制が不安定になり、「読む」という物語世界と同期している私自身のフレームが歪んでくる。この、居心地の悪さというか揺らぎが、ドラッグが引き起こすドーパミンなのだろうかと思えてくる。

これが、ピンチョンの分からなさかもしれぬ。

エピソードは回転しながら戻ってくるし、伏線は最遠点から着弾しにくる(ただ、多すぎて私には”回収”と認知できない)。物語として理解しようとする私の足場をぐらぐらさせる。なので、いったん理解するのは止めにして、この眩暈に身を委ねる。

■ヴァインランドはどこか

じゃぁピンチョンは、何を書こうとしていたのか?

ヒントは、『重力の虹』にあるのかもしれぬ。

そこに据えられた「preterite(見捨てられし者)/ elect(選ばれし者)」という概念だ。

カルヴァン派の予定説に出てくる言葉で、神に選ばれ、救済が約束されている者と、そこから切り捨てられている者がいる。努力や行為でどうなるものでもなく、ただ、最初からそう二分されている。エリート/排除された存在、白人/有色人種、帝国/植民地といった形で登場する。

この概念を適用するなら、物語のあらすじを書くということは、どの人物を選び、どのエピソードを無視するかということになる。

「60年代に自由を求めた若者たちが体制と戦い、敗北し、80年代には夢を失った」―――なんて要約した瞬間に、ドラッグも、セックスも、音楽も、裏切りも、テレビも、ギャグも、政治運動と関係のない人々の生活も、全て見捨てられる。

ピンチョンは、こうした物語に歴史を回収させず、大量のキャラクター、過剰な固有名詞を配置し、エピソードが物語になりそうな瞬間を見計らって、脱線と脱臼を繰り返すことで、60年代と80年代の記憶を、一つの歴史へ圧縮せず、矛盾もノイズも抱えたままぶちまけようとしたのかもしれぬ。

ヴァインランドは、カリフォルニア北部の架空の町なのだが、ラストに、登場人物がほぼ全員集まってくる。見捨てられし者と、選ばれし者が全員集まり、60年代と80年代を「そのまま」ぶちまけられる。そういう器が、ヴァインランドなのかもしれぬ。

■ワン・バトル・アフター・アナザー

爆笑したのが、『ヴァインランド』にインスパイアされて作られたという映画だ。

あれほど物語への回収を拒絶し、意味を分解させ、筋を脱臼させていたのに、どうやってハリウッド映画にできるというのだろうか?

ハリウッド映画は、いかにも物語物語した物語だ。

ストーリーは単線で、ラストには悪の正体が暴かれ、陰謀は潰える。あるいはそうした状況から主人公は脱出し、自由を勝ち取る。敵は誰で、何が起きていたか、主人公はどう変わったかといった、物語をドライブさせていた因果が明確に回収される。

アカデミー賞の作品賞、監督賞など最多の6部門を勝ち取った『ワン・バトル・アフター・アナザー』を見たのだが、ガチ・ハリウッド映画だった。

ハリウッド映画なので、物語はオートパイロットで良い。意味も伏線も展開も考えなくても(考えない方が)いい。分かりやすい予測とその裏切りのおかげで、めちゃくちゃ楽しめた。

Wikipediaには「原作:ヴァインランド」とあるが、登場人物の一部と政治的テーマを借用して、現代版に翻案したぐらいで、原作じゃぁないだろう……と思って観ていたら、最後にちゃんとinspired byになってた。

もし、『ヴァインランド』を映画にするなら、ゴジラも幽霊も登場させなきゃならないし、日本の女衒システムや、地下格闘大会、くノ一忍法帖など、それぞれだけで一つの映画になるテーマやモチーフを全部詰め込まなきゃならぬ(映像としてもストーリーとしても成立しないだろう)。

言い換えるなら、『ヴァインランド』の、わずか一筋だけを抜き取っても、めちゃくちゃ面白い物語に化かすことができる。だが、それを頼りにヴァインランドに行こうとするなら、迷子になって途方に暮れることだろう。

世界は物語にならないし、この作品のあらすじは分からない。

だから、また読むしかない。



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