科学と美学で読み解く美的体験のメカニズム『なぜ脳はアートがわかるのか』
「アートがわかる」とはどういうことかが分かる一冊。
著者はノーベル賞(医学・生理学)を受賞したエリック・R・カンデル。神経科学の教科書『カンデル神経科学』やブルーバックス『記憶のしくみ』の著者と言えば早いかも。
『なぜ脳はアートがわかるのか』は、お堅い教科書ではなく、現代アートを俎上に、認知科学、大脳生理学、医学から、美術史、美学、哲学まで、さまざまな知を総動員して、美的体験のメカニズムを解き明かしたもの。
ジャクソン・ポロックやアンディ・ウォーホルなど、アート作品が掲載されているのがいい。読み手は実際にそれを見ながら、還元主義的なアプローチで自分の美的体験を追検証できるような仕組みになっている。これから触れるアートにも適用できるので、いわゆる「応用が利く」やつ(この手法、『ブルーピリオド』の矢口八虎に紹介したい)。
フランシス・ベーコンの「顔」
この手法を、フランシス・ベーコンの作品を見たときの<私>の美的体験にあてはめてみる。
Three Studies for the Portrait of Henrietta Moraes [Wikipediaより]
パッと見た第一印象は、「顔」らしいと感じる程度だ。
とはいえ、輪郭は歪み、身体もねじれていて、かろうじて顔らしいと感じる程度だ。視覚刺激から目・鼻・輪郭の位置関係を抽出し、視覚システムのFFA(Fusiform Face Area)が「顔」として認識する(ボトムアップ)。同時に「これは人の顔だ」という前提のもと、既知の顔のイメージと照合しようとする(トップダウン)。
もっと抽象化して
(^_^)
と書くだけでも、私は顔だと認識できる(パレイドリア作用)。これにより、著しく崩れていても「顔」と判断しようとするのだ。
しかし、パーツの一部で「顔」だと認識しようとしても、他の箇所が捻じれているため、違和感が生じる。ボトムアップで知覚された顔の可能性と、トップダウンで補おうとする唇や輪郭が一致せず、認知不協和が生じる。「不気味だけど目が離せない」といった感想は、この不協和から来る。
さらに、顔としての原型を留めていない箇所(例えば口)に注意を向けるのだが、口らしき部分は暴力的に抽象化され、何が描かれているのか、見れば見るほど分からないようになっている。
そこで<私>は、抽象的に描かれた口や輪郭の筆致や色彩から読み取れるもの―――例えば感情の奔流―――を想像する。
それも、私自身の記憶や経験から引き出せるものと、つなげようとする。怒りのあまり、大切な人を、酷い言葉で刺してしまった瞬間と、その直後に訪れた激しい後悔を思い出す。20年くらい前だけど、あのときのヒリヒリする疚しさは、痛いくらいに感じ取れる。
ベーコンの作品は、口が写実的に描かれていないものが多い。口の代わりに捻くれたぐちゃぐちゃの色がある。絵そのものは静かなのに(あたりまえだ)、まるで叫んでいるかのように見える。そういう感情の暴力を、<私>の中に生じさせる効果が、この絵にはある。
このプロセスそのものが、カンデルの言う「アートがわかる」という体験の一端なのだ。
「アートが分かる」とは何か
『なぜ脳はアートがわかるのか』では、人間の認知システムを、写実主義と抽象芸術で解き明かす。
人は、進化の過程で、具体的な対象を処理する能力に特化してきた。例えば、顔や身体、輪郭や色彩といった要素は、視覚システムに備わったボトムアップによって素早く処理される。
網膜に映った光のパターンから線や輪郭を抽出し、低次野で処理しながら「これは顔だ」「これはリンゴだ」と判断する能力は、生存に直結するため、極めて重要なものになる。「見たものをありのままに」描こうとする写実主義は、このボトムアップ処理から発達してきたものになる。
一方、抽象芸術はこのボトムアップ処理だけでは十分に理解できない。そこでは現実世界の具体的な形や遠近感が意図的に解体され、色・線・フォルムといった構成要素に還元されているためだという。
トップダウン処理では、蓄積された記憶や経験、知識を引き出しながら、あいまいな刺激に意味を与える。パレイドリアに代表されるように、人間の脳は「何か」を見つけようとする性質がある。
写実的に描かれたベーコンの「目」を手がかりに、「顔」だと認識できるのは、ボトムアップ処理のおかげだが、抽象的な「口」を見ようとすると、視覚システムは手がかりを失い、トップダウン処理になる。そして、これがハマると、鑑賞者は画面に「自分だけの物語」や「感情の奔流」を感じ取ることができる。
「アートが分かる」とは、作品をきっかけとし、ボトムアップやトップダウンのアプローチにより、<私>の中に新しい意味や感情を生成することに他ならない。
著者エリック・カンデルは、アートと科学の還元主義的アプローチに注目する。科学者が複雑な現象を要素に分解し、そこから全体像を再構築するように、アーティストもまた形象を分解し、<私>に再構築を委ねる。そこには、アートと科学の還元主義的アプローチの交差がある。
アートと科学の間に立つ一冊。
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