
ロリータいいよロリータ。いくら読んでも楽しさが尽きぬ。そして、どんなに読んでも「読んだ」気にならぬ。
先日、ロリータ読書会に参加したので、再読の楽しみが倍増した。ここでは、読書会で教わったネタも交えつつ、再々々読に向けたメモをまとめる。
むかし、「変態男の少女愛」だけで思考停止していた俺、もったいない。ストーリーの表層をなぞって満足するのは初読時だけで、面白くなるのは再読から。面白さは細部に宿るし、その細部を追っていった目を上げた瞬間に広がる全体にも宿っている。
これは、小説読みが好きなあらゆる要素が詰まっている。
ぱっと思いつくだけでも、宙吊り、オマージュ、信頼できない語り手、どんでん返し、多声性、異化、ミステリー性、寓意、内的独白、間テクスト性、エピファニー、デウスエクスマキナ、アポリア、アイロニー、自由間接話法、、視点変更、メタフィクション、入れ子構造、非線形叙述、ギャグ、カタルシス、不気味の谷、オノマトペ、パロディ、パスティーシュ、言葉遊び……たぶん、「『ロリータ』に出てくる小説技巧」で、世の中の小説の技巧はほぼ網羅できるかも(足すならマジックリアリズムぐらい)。
どこをどんなに読んでも、必ず宝が詰まっている。それに気づくか、気づかないかだけ。
もちろん上辺の筋を追うだけでもいい。「起きたこと」を並べるだけならこうなる。
| 年月 |
場所 |
出来事 |
H.H. |
Lo |
章 |
| 1910 |
パリ |
ハンバート・ハンバート誕生 |
0 |
|
|
| 1923夏 |
パリ |
ハンバート、アナベルと出会う |
13 |
|
|
| 1923冬 |
コルフ島(ギリシャ) |
アナベル、発疹チフスで死亡 |
13 |
|
|
| 1911 |
オーシャン・シティ |
クィルティ誕生 |
14 |
|
|
| 1935-01-01 |
ピスキー (ミッドウェスト) |
ドロレス(ロリータ)誕生 |
25 |
0 |
|
| 1935-04 |
パリ |
ハンバート、娼婦モニークから「本物の快楽」を得る |
25 |
0 |
1-6 |
| 1935 |
パリ |
ハンバート、ヴァレリアと結婚する |
25 |
0 |
1-8 |
| 1939夏 |
パリ |
ハンバートの伯父死亡、遺産相続の話 |
29 |
4 |
1-8 |
| 1939夏 |
パリ |
ヴァレリアの浮気、離婚 |
29 |
4 |
1-8 |
| 1940春 |
ニューヨーク |
ハンバート、合衆国に到着 |
30 |
5 |
1-9 |
| 1943-44 |
ニューヨーク |
ハンバート、神経衰弱で入院 |
33 |
8 |
1-9 |
| 1945 |
ラムズデール |
ヘイズ一家がピスキーから転居 |
35 |
10 |
|
| 1947-05 |
ラムズデール |
ハンバート、ヘイズ家に下宿開始 |
37 |
12 |
|
| 1947-06-26 |
キャンプQ |
ドロレスが夏のキャンプへ出発 |
37 |
12 |
|
| 1947-06末 |
ラムズデール |
ハンバート、シャーロットと結婚 |
37 |
12 |
|
| 1947-07末 |
チャンピオン湖 |
ドロレス、処女喪失 |
37 |
12 |
|
| 1947-08-05 |
ラムズデール |
シャーロット、ハンバートの秘密を知る |
37 |
12 |
|
| 1947-08-06 |
ラムズデール |
シャーロット、交通事故で死亡 |
37 |
12 |
|
| 1947-08-14〜15 |
ラムズデール |
ハンバート、ドロレスを迎えに行き、Trip One開始 |
37 |
12 |
|
| 1947-08-15 |
ブライスランド |
最初の宿泊 |
37 |
12 |
|
| 1947-08-16 |
レッピングヴィル |
ハンバート、シャーロットの死をドロレスに告げる |
37 |
12 |
|
| 1947-09 |
ソーダ(ミズーリ) |
中西部を通過 |
37 |
12 |
|
| 1947-09 |
スノウ (ワイオミング) |
ハイプレーンズ地域を通過 |
37 |
12 |
|
| 1947-10 |
チャンピオン(コロラド) |
チャンピオンホテルに滞在 |
37 |
12 |
|
| 1947-11 |
カスビーム(アリゾナ) |
チェスターナットに滞在、クィルティ尾行 |
37 |
12 |
|
| 1948-04 |
エルフィンストーン |
ドロレスが体調を崩す |
38 |
13 |
|
| 1948-08 |
ビアズレー(オハイオ) |
旅を終え、定住開始ドロレスが学校に通う |
38 |
13 |
|
| 1948-12 |
ビアズレー(オハイオ) |
ハンバート、プラット校長と面談 |
38 |
13 |
2-11 |
| 1949-5 |
ビアズレー(オハイオ) |
ドロレス、「特別なリハーサル」に参加 |
39 |
14 |
2-12 |
| 1949-05-29 |
ビアズレー(オハイオ) |
Trip Two開始 |
39 |
14 |
2-14 |
| 1949-06上旬 |
チェスターナット・コート |
ドロレス、クィルティと密会 |
39 |
14 |
2-16 |
| 1949-06下旬 |
チャンピオン |
チャンピオンホテルでテニス |
39 |
14 |
2-20 |
| 1949-06-27 |
エルフィンストーン |
ドロレスが体調悪化、入院 |
39 |
14 |
2-22 |
| 1949-07-05 |
エルフィンストーン |
ドロレスが病院を去り、ハンバートと別れる |
39 |
14 |
2-23 |
| 1950 |
ケベック(カナダ) |
ハンバート、リタと関係を持つ |
40 |
15 |
2-26 |
| 1951-09〜1952-06 |
カントリップカレッジ |
ハンバート、教職に就く |
41 |
16 |
|
| 1952-09-22 |
コールモント (ワシントン) |
ドロレスからの手紙:結婚と妊娠の知らせ |
42 |
17 |
2-27 |
| 1952-09下旬 |
コールモント付近 → 旅路 |
ハンバート、手紙を受け取る |
42 |
17 |
|
| 1952-09末 |
コールモント |
ハンバート、ロリータと再会 |
42 |
17 |
2-27 |
| 1952-09末 |
クィルティ邸 |
ハンバート、クィルティを銃撃・殺害 |
42 |
17 |
|
| 1952-09末 |
(未詳) |
ハンバート逮捕後、獄中で回想録(『ロリータ』)を執筆 |
42 |
17 |
|
| 1952-11-16 |
(獄中) |
ハンバート死亡(心臓疾患) |
42 |
17 |
|
| 1952-12-25 |
グレイ湖付近 |
ドロレス死去(難産のため) |
42 |
17 |
|
人は書物を読めない、ただ再読するだけ
表の最後を見てほしい。ドロレスは難産で死ぬ。享年17歳。
ん?作中でドロレスが死ぬシーンなんてあった?
ハンバートがドロレスと再会する場面(2-27)で、いつか一緒に暮らす提案を拒絶されたとき、自動拳銃を取り出したり、「あなたが本書を読んでいる頃には彼女はもう死んでいて」なんて物騒な記述はあるにはあった。だが、拳銃が使用されるのはクィルティに向けてであり、ドロレスではない。一体いつ、ドロレスが死んだことになったのか?
この謎、初読時には絶対に分からない。なので、最初のページに戻ってほしい。冒頭の「序」だ。ジョン・レイ博士なる人が、この小説の由来を述べている。正式なタイトルは『ロリータ、あるいは妻に先立たれた白人男性の告白録』であるとか、プライバシーのため登場人物は変名だとか、作者のハンバート・ハンバートは初公判の前に他界していることが書いてある。
「リチャード・F・スキラー」夫人は1952年のクリスマスの日に、北西部最果ての入植地であるグレイ・スターで、出産中に亡くなり、生まれた女児も死亡していた。
一度でも読んだ人なら、リチャード・F・スキラーが誰であるのかは明白だ。だが、一回読んだだけでは、彼女の運命がどうなったのかは分からない。この小説は、そういう風に書いてある。他の登場人物がどうなったかは「序」に全部書いてある。そこには「読者」も含まれる。初読時に受けたときの衝撃や感情も記されている(自分のことが書かれていると気づいて、慄く読者もいるかもしれぬ)。
再読することで、初めて見えてくる世界がある。この小説は、そういう風に書いてあるのだ。これ、ナボコフが「小説を読むこと」について述べていることと一致する。『ナボコフの文学講義』のここだ。
ひとは書物を読むことはできない。ただ再読することができるだけだ。
(『ナボコフの文学講義 上』ナボコフ、河出文庫、p.57)

この一行だけ切り取られていることが多いが、その真意は直後に明かされている。本を読むということは、一行一行、一頁一頁、目を追って動かす作業そのものだ。「その書物に何が書かれているのか」を知る過程そのものに、時間的・空間的なハードルがある。絵画の鑑賞のように、絵をパッと見た後、細部を楽しむ―――そういう風に書物はできていないし、私たちの肉体もできていない。
だから、再読、再々読を繰り返すことでしかないというのだ。再読を繰り返すことで、初めて作品全体と向き合いながら細部にも目を行き渡らせることができる―――これを実践したのが『ロリータ』になる。
Qについて
再読を誘う仕掛けはいくらでもある。読書会で知った最大の成果は「Q」だ。
ドロレスを唆し、ハンバートから引き離したクィルティ(Quilty)。「唆した」のかどうかは、ツッコミたくなるが、彼はあちこちに、本当にあっちこっちに登場している。
劇作家の名前として初登場(1-8)するだけでなく、近所の歯医者、彼の戯曲名「魅惑の狩人(The Enchanted Hunters)」はそのままハンバートとドロレスの「初宿泊」のホテル名(1-25)、ドロレスがサマーキャンプに出かけるのは「キャンプQ」であり(1-25)、ドロレスを連れ去って移動しながら宿泊するモーテルの宿帳に記すのは「Q」である(2-24)。
そもそも、ハンバートが教養をひけらかすために要所要所でフランス語を使っているのだが、フランス語でWhatにあたる「Que」が登場する(1-8、2-2、2-6、2-14等多数)。ハンバート自身が無自覚にQを使って手がかりを残していると考えると面白い。
そして、queは英語だと「手がかり」「合図」になる。「Q」は見失ったロリータを探す手がかりでもあるし、ストーリーにきっかけを与え、展開を促す合図でもあるのだ。英語で「Q」で始まる言葉は少ない。そんな言葉を、イメージや暗示、連想を紡ぎつつ、ハンバートだけでなく読者が読み解く手がかりとしても残していく。その響きから、読み手はQで始まる重要な単語―――Question―――を思いつくかもしれぬ。
あるいはQuest(ニンフェットの探索、1-12)、Queen(ドロレス、2-6)にも結びつく。原文で読むとき、「Q」を探しながらだとより捗るだろう。
チェホフの銃の向き先
これは初読時の衝撃だが、チェホフの銃が効果的に使われている。
チェホフの銃とは、「物語の冒頭で銃が壁に掛かっているなら、最後には発砲されなければならない」というルールのことだ。登場させる小道具には何かしらの意味があり、無意味な小道具を出すなという約束事になる(こと銃のような物騒なものは特に)。
『ロリータ』におけるチェホフの銃は、元々はドロレスの実父のものだった。それをシャーロットが譲り受けて(2-17)、最終的にはハンバートが手に入れる。32口径、8連装の自動拳銃だ。
当然、この銃はクライマックスで使われるのだろうな……ということは想像できる。
では誰に向けて?
初読時、私が引っ掛かっていたのは、ドロレスの呼び方だ。ハンバートは彼女のことを、ロリータ、ロー、ローラ、ドリーと呼んでいた(これらはドロレスから派生した呼び名)。あるいはニンフェットとも呼んでいた(これは9~14歳までの女の子で、その2倍以上の年上の魅せられた旅人に対してのみ発動するニンフ/nymphic、1-5)。
この他に、カルメン(カルメンシータ)とも呼んでいた。
最初はドロレスのお気に入りの曲「小さなカルメン」からだが(1-11)、心の中だけでの呼びかけだったのが、実際にドロレスに向かって「カルメン」と呼ぶようになっていた(2-2)。
そして、カルメンといえばメリメの悲劇だろう。平凡な兵士ドン・ホセが、ジプシー女カルメンと出会い、恋に落ち、破局していく物語だ。妖艶で奔放なカルメンは、自由を愛し、社会の規範に抗おうとする一方、ドン・ホセは彼女に執着するあまり脱走し、彼女と一緒になろうとする。
束縛しようとするドン・ホセに対して、彼女の心は離れてゆき、闘牛士エスカミーリョを愛するようになる。彼女のことが忘れられず、ドン・ホセは復縁を迫るものの、自由を失うくらいなら死を選ぶと言い放つカルメン。逆上したドン・ホセは、持っていた短刀で刺し殺してしまう……というストーリーだ。
なので、メリメの悲劇を踏襲して、ハンバートはドロレスを撃ち殺すのだろう、と考えていた。
自由を愛するドロレスと、執着するハンバートは、まんまカルメンとドン・ホセになる。
しかし、チェホフの銃の向き先は、闘牛士エスカミーリョになる。
これには二重の意味で驚いた。ハンバートがドロレスではなくクィルティを撃ったことだけでなく、「ドロレスを撃つだろう」という私の(読者の)予想を巧みに出し抜いたことにも驚いた。ドロレスを「カルメン」と呼んだのはハンバートだが、ハンバートがクィルティに向けて銃を撃たせたのはナボコフだ。
その意味で、ハンバートとナボコフが結託して私を騙したことになる。古典的な作劇テーマを借用しながらも、その予想を出し抜くアイロニー。これは初めて読むときしか味わえない初読者の叫びなり。
『ロリータ』攻略本
引っ掛かるところには全てネタがあると思っていい。そして、ネタは調べるほど宝になるし、宝に注釈をつけると、本文より膨大になるだろう(それこそ『青白い炎』ぐらいに!)。
読書会で教えてもらったのだが、研究者による注釈本があるとのこと。ポー、プルースト、シェイクスピア、ドン・キホーテ等の文学的引用の典拠、言葉遊びや語呂合わせの読み解きがなされている。
ハンバートはもちろん信頼できない語り手だが、それでも信頼するならば、その境界はどこになるか?といった線引きをしている。また、序文・裁判調書・手記といった物語構造のメタ化や、銃、蝶、色彩、地名など、作品に登場するアイテムやモチーフ、文化的背景を解説している。いわばロリータ攻略本なのだろう。

答えは一つと限らないが、一つの答え合わせとして読むといいかもしれぬ。
翻訳の妙・注釈の妙
翻訳者の若島正がすごい。
引っ掛かるところは原文と突き合わせながら読んだのだが、何度も何度も唸らされた。読み手が知っている情報量を玩味した意訳が超絶技巧なり。
生きた肉鞘(p.46):原文では「animated merkin(1-8)」。merkinは女性用のカツラ(ただし陰毛のカツラ。剃毛してパイパンになった娼婦が生えているフリをするために使う)。現代なら「生オナホ」だけど、これを「肉鞘」と訳すのが凄い。シャーロットの人権とは?
我が情熱の笏杖(p.27):原文「the scepter of my passion(1-4)」まんまだけど、「彼女(アナベル)の不器用な手の中に握らせた」の訳が好き。原文だと彼女が握って拳(fist)になるイメージだけど、アナベルも初体験なので、不器用さが滲み出てる。
クィルティ殺しを悔いている(p.57):原文だと「Guilty of killing Quilty(1-8)」で、ギルティ、キリング、クィルティと子音の韻を踏んでいる。これを、クィルティ、殺し、悔いていると韻を踏みながら日本語にしている。さらに、クィルティのアナグラムが「悔いている」になっている(天才かよ!)。ここ絶対、ニヤニヤしながら翻訳してたはずwww
我が恋人よ、紫の上よ(p.392):原文だと「my darling, my own ultraviolet darling(2-18)」で、紫(violet)には「高貴」というニュアンスがあり、それを超えた(ultra)ものとして、ハンバートがドロレスに呼びかけている。これを源氏物語に引き寄せて紫の上と訳したのがスゲェ(もちろんロリコン光源氏に見染められた若紫のこと)。
片方の靴下(p.17):靴下を片方だけ履くロリータ。注釈で若島は、「もう片方がどこにあるか探せ」と出題してくる。ちなみに答えはp.69(1-10)で床に白い靴下が片方、落ちている。
こんな風に、延々と(永遠と)読める。いわゆる顕微鏡的な読みをしても、十分耐えられるほどの強靭さを、この小説は持っている。
さらなる読み解き
ハンバート・ハンバートは、明らかに嘘だと分かることを重ねている。
読み手(陪審員もしくは小説の読者)にもすぐにバレるような、辻褄の合わない嘘のつき方だ。例えば、ホテル「魅惑の狩人」での最初の夜、ドロレスから誘ったかのような書きっぷりになっている(1-29)。あるいは、記憶の混濁を自ら告白している(2-28)。
だから読み手は、信頼できない語り手として接するのだが、書き手はそれ以上に読ませるのが上手い。
ついつい引き込まれてしまうものの、ハッと気づいて「これは本当のことなのだろうか?あるいは少女性愛を正当化させるための虚言なのだろうか」と自問することになる。
だが、たとえ全てが嘘だったとしても、この小説は成り立つ。仮に、嘘もしくは嘘と思われる箇所を塗りつぶしたとしよう。すると、ほとんどのページは真っ黒になり、文は消え、言葉は失われていくが、それでも残るものがある。
それは、ハンバートからドロレスへの愛、だと思う。
二人は、性的搾取と支配で成り立つグロテスクな関係であり、彼は「理想の少女像」を重ねているに過ぎない。
だが、それでもなお彼の言葉が文学として魅惑的であるため、嘘と知りつつもそこに愛(?)を汲み取りたくなる。
もちろん、ドロレスもハンバートも存在しないフィクションのキャラクターだ。それでも、そこに真実の愛(「真実の愛」ってなんだ?)があるとするなら、フィクションが語るからこそ「真実の」と言えるのかもしれぬ。
Fiction is the lie through which we tell the truth.
フィクションとは、真実を語るための嘘だ
アルベルト・カミュ
Art is the lie that enables us to realize the truth.
芸術とは、私たちに真実を悟らせる嘘である
パブロ・ピカソ
もちろん現実ではあり得ないし、あってはならない。だが、フィクションの中でなら成立する真実なのかもしれぬ。
現実では、カルメンを刺したのは「痴情のもつれ」かもしれないし、ドロレスを連れて旅したのは「未成年者略取」になるだろう。同意の有無に関わらず「強姦」は成立する。
だが、フィクションの中では、これを何と呼ぶのか。たとえ全てが嘘でも、どうしても「愛らしきもの」が残ってしまう。 それは現実では成り立たないが、フィクションだからこそ成立する「真実」だと言える(そう思ってしまうのは、それこそH.H.の策略なのかもしれぬ)。
『ロリータ』は、少女愛を綴ったエロ小説としても読める(肩透かしするかもしれないが)。アメリカを横断・縦断するケルアック的ロード・ノヴェルとしても読める(On the Roadの方が後発だが)。僅かな手掛かり(cue)を元に姿なき誘拐犯を追いかけるミステリとしても読める。そして、全てがハンバート・ハンバートの妄想だという読みもできる(←この読み方は読書会で知った!)。
物語は物騙りと言われる。
フィクションとはずばり「嘘」だ。それでも、嘘の中に真実があるとするならば、それは何か?何だと思いたいか?これは読者に委ねられたテーマだろう。
『ロリータ』はどんな読み方にも答えてくれる強靭さと多様さを兼ね備えている。
次は、どんな風に読もうか。
むいさん、ロリータ装丁のネイル、素敵でした(まさにultravioletですね!デラウェアみたいで美味しそうだと思ったことは秘密です)。 東京ガイブン読書会の中のお二方、楽しい会をありがとうございました(ドノソの会は期待しています、もし席が取れたら3回目を読みます)。他の方も、もっと長くお話したかったです。また会える日を楽しみにしています!
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