科学と美学で読み解く美的体験のメカニズム『なぜ脳はアートがわかるのか』

N/A

「アートがわかる」とはどういうことかが分かる一冊。

著者はノーベル賞(医学・生理学)を受賞したエリック・R・カンデル。神経科学の教科書『カンデル神経科学』やブルーバックス『記憶のしくみ』の著者と言えば早いかも。

『なぜ脳はアートがわかるのか』は、お堅い教科書ではなく、現代アートを俎上に、認知科学、大脳生理学、医学から、美術史、美学、哲学まで、さまざまな知を総動員して、美的体験のメカニズムを解き明かしたもの。

ジャクソン・ポロックやアンディ・ウォーホルなど、アート作品が掲載されているのがいい。読み手は実際にそれを見ながら、還元主義的なアプローチで自分の美的体験を追検証できるような仕組みになっている。これから触れるアートにも適用できるので、いわゆる「応用が利く」やつ(この手法、『ブルーピリオド』の矢口八虎に紹介したい)。

フランシス・ベーコンの「顔」

この手法を、フランシス・ベーコンの作品を見たときの<私>の美的体験にあてはめてみる。

Three Studies for the Portrait of Henrietta Moraes.jpg
Fair use, Link

Three Studies for the Portrait of Henrietta Moraes [Wikipediaより]

パッと見た第一印象は、「顔」らしいと感じる程度だ。

とはいえ、輪郭は歪み、身体もねじれていて、かろうじて顔らしいと感じる程度だ。視覚刺激から目・鼻・輪郭の位置関係を抽出し、視覚システムのFFA(Fusiform Face Area)が「顔」として認識する(ボトムアップ)。同時に「これは人の顔だ」という前提のもと、既知の顔のイメージと照合しようとする(トップダウン)。

もっと抽象化して

(^_^) 

と書くだけでも、私は顔だと認識できる(パレイドリア作用)。これにより、著しく崩れていても「顔」と判断しようとするのだ。

しかし、パーツの一部で「顔」だと認識しようとしても、他の箇所が捻じれているため、違和感が生じる。ボトムアップで知覚された顔の可能性と、トップダウンで補おうとする唇や輪郭が一致せず、認知不協和が生じる。「不気味だけど目が離せない」といった感想は、この不協和から来る。

さらに、顔としての原型を留めていない箇所(例えば口)に注意を向けるのだが、口らしき部分は暴力的に抽象化され、何が描かれているのか、見れば見るほど分からないようになっている。

そこで<私>は、抽象的に描かれた口や輪郭の筆致や色彩から読み取れるもの―――例えば感情の奔流―――を想像する。

それも、私自身の記憶や経験から引き出せるものと、つなげようとする。怒りのあまり、大切な人を、酷い言葉で刺してしまった瞬間と、その直後に訪れた激しい後悔を思い出す。20年くらい前だけど、あのときのヒリヒリする疚しさは、痛いくらいに感じ取れる。

ベーコンの作品は、口が写実的に描かれていないものが多い。口の代わりに捻くれたぐちゃぐちゃの色がある。絵そのものは静かなのに(あたりまえだ)、まるで叫んでいるかのように見える。そういう感情の暴力を、<私>の中に生じさせる効果が、この絵にはある。

このプロセスそのものが、カンデルの言う「アートがわかる」という体験の一端なのだ。

「アートが分かる」とは何か

『なぜ脳はアートがわかるのか』では、人間の認知システムを、写実主義と抽象芸術で解き明かす。

人は、進化の過程で、具体的な対象を処理する能力に特化してきた。例えば、顔や身体、輪郭や色彩といった要素は、視覚システムに備わったボトムアップによって素早く処理される。

網膜に映った光のパターンから線や輪郭を抽出し、低次野で処理しながら「これは顔だ」「これはリンゴだ」と判断する能力は、生存に直結するため、極めて重要なものになる。「見たものをありのままに」描こうとする写実主義は、このボトムアップ処理から発達してきたものになる。

一方、抽象芸術はこのボトムアップ処理だけでは十分に理解できない。そこでは現実世界の具体的な形や遠近感が意図的に解体され、色・線・フォルムといった構成要素に還元されているためだという。

トップダウン処理では、蓄積された記憶や経験、知識を引き出しながら、あいまいな刺激に意味を与える。パレイドリアに代表されるように、人間の脳は「何か」を見つけようとする性質がある。

写実的に描かれたベーコンの「目」を手がかりに、「顔」だと認識できるのは、ボトムアップ処理のおかげだが、抽象的な「口」を見ようとすると、視覚システムは手がかりを失い、トップダウン処理になる。そして、これがハマると、鑑賞者は画面に「自分だけの物語」や「感情の奔流」を感じ取ることができる。

「アートが分かる」とは、作品をきっかけとし、ボトムアップやトップダウンのアプローチにより、<私>の中に新しい意味や感情を生成することに他ならない。

著者エリック・カンデルは、アートと科学の還元主義的アプローチに注目する。科学者が複雑な現象を要素に分解し、そこから全体像を再構築するように、アーティストもまた形象を分解し、<私>に再構築を委ねる。そこには、アートと科学の還元主義的アプローチの交差がある。

アートと科学の間に立つ一冊。

| | コメント (0)

読んだら手遅れ『かわいそ笑』

N/A

読んだり聞いたり、そのお話に触れることで呪われる―――そんな物語がある。

例えば『リング』や『残穢』が有名だ。ビデオを観たり、そのお話を知ろうとする行為そのものが不幸を招くストーリー。

だから、『リング』や『残穢』を観たり読んだりした人は、そのストーリーに触れることで、伝染するのじゃないのかしら、と怯える。おしゃべりするときの飛沫や、空気感染のように、物語を媒介して、ウィルスがべっとりと付いている(憑いている?)ように感じられる。

『かわいそ笑』は、この汚される感覚を何倍にもして味わわせてくれる。

ただ、注意してほしい。これは「ホラー」と一言で済ませられる作品ではない。語られるのは呪いの恐怖譚ではなく、その物語のすぐ傍にいる人の悪意に焦点が当たっている。そしてこの悪意は読んでいる私自身に向けられている。

最初のページを開くとこれ。

Photo_20250706093201

「本ページに限り無断複製、転載を認可します」とある。行ってみると分かるが、この先で私もこの悪意に参加できる仕掛けが施されている。そして、最後のページを読んだら最後、このQRコードの先に生きたくなること請け合う。いわば、読者参加型怪談かもしれぬ。

あるいはメタ怪談、いや、メタ・メタ怪談といえばいいのだろうか。

元ネタはネットに落ちてた怪談だ。かなり古びており、コピペにコピペ、伝聞に伝聞を重ね、原形を留めていないほど改変された書き込みだ。

それに触れた人たちのインタビュー、匿名メール、心霊写真、ワードのメモ帳、……バラバラの断片を著者がつなぎあわせるたび、浮かび上がってくるのは、あまりにもたちの悪い悪意だ。いわゆる自己責任系怪談―――「読んだ人が呪われる話」よりも、もっとおぞましい。読まなければよかった、一刻も早くこの本を手放したい、この禍々しさを擦りつけたい、そういう気にさせてくれる。

著者がクリエイターとして参加している「恐怖心展」が、この夏、渋谷で開かれる。

Photo_20250706092601

[恐怖心展] より

「先端」「閉所」「視線」といった、
様々なものに対して抱く「恐怖心」を
テーマに、展示を行います。
そこで展示される様々なものを通して、
あなたの恐怖心に向き合うきっかけに
なれば幸いです。

私は、7/25(金)16:00ごろに入場するつもり。よろしければ、ご一緒しましょう(twitterで@メンションしてください)。



| | コメント (3)

「ぼくの考える最強パスタ」に足りないもの『料理は知識が9割』

これが、ぼくのかんがえたさいきょうのパスタだ。

Photo_20250629191701

カットトマト1缶を煮詰め、隠し味に悪魔のトマトソース(ロピア)とKiriのクリーミーポーションを溶かしている。バジルの葉と鷹の爪とニンニクとウスターソースとコンソメと、とにかく美味しそうな要素を全部ぶちこんだ、私の、私による、私のための料理だ。

美味しいものを入れれば入れるほど、料理は美味しくなる。料理とは足し算であり、脂と塩と糖と旨味の合計だ。最強の料理とは、寿司とラーメンと焼肉を合体させたものだ。

少なくとも『料理は知識が9割』を読むまではそう思っていた。

ところが、料理とは足し算だけでは無いみたいだ。引き算もできるし、それがむしろ味の深みにつながるという。さらに、料理の方程式は掛け算であり、料理の最終形を念頭におきながら、逆算して美味しさを再構成していくことが重要だと説く。

N/A

著者はシェフクリエイト、料理教育のエキスパート集団だ。レシピを提供するだけでなく、料理の理論と実践を体系的に学べるカリキュラムを展開している。「なぜ美味しいのか」「どうしてこの手順なのか」といった、分量やプロセスの背景を言語化してくれる。レシピではなく、知識を伝えてくれるのだ。

例えば、煮込むという工程。レシピだと「ビーフシチューを90分間煮込む」とあるが、その背景をこう解説する。

  • 「煮込む」とは、肉を柔らかくすることが目的
  • 肉の固さの原因はコラーゲン
  • 加熱によりコラーゲンはゼラチン化する
  • 加熱時間は温度との兼ね合いで決まる

コラーゲンがゼラチン化するのは80度以上だけど、グツグツ煮立たせる(100度)と肉が縮んで硬くなるので、煮込みの温度は95度前後を目安にする。一般的に95度前後で煮込む場合は少なくとも90分の加熱が必要―――だから「90分間煮込む」というのだ。

旨さの方程式

料理を美味しくする要素とは、脂と塩と糖の足し算だと思っていた(要するにラーメン)。しかし、本書では、要素は5つあり、それぞれの要素の掛け算で決まるという(旨さの「量」に相当するのは旨味+塩味だけ)。

Photo_20250629191901

『料理は知識が9割』(シェフクリエイト)p.45より

レシピ通りに作っても「なんかおいしくない」と感じる時がある。その場合は、これを振り返ればいい。私は「旨さの量」だけを気にしていたが、他の要素は「掛け算」なのだから、ケアするほど美味しくなるし、蔑ろにすると、それこそゼロになってしまう。

分かりやすい例なら「温度」だろう。ラーメンのスープがぬるいと、他のすべての要素が優れていても、台無しになってしまう。

甘味で「引き算」する

私が参考にしたのは「味の特徴」の箇所だ。

味の特徴である、辛味、酸味、苦味、渋みは、原則として甘味で和らげることができるという。逆に、甘味が前面に出てきた場合、それ以外の味で和らげることができる。

例えばこんなの。

  • 甘味は味を和らげる(レモンジュースに砂糖、マスタードに蜂蜜など、酸味や辛味を和らげる)
  • 甘味を和らげる(角煮が甘いときの酢やレモン汁の酸味、和からしの辛味で、甘味を和らげる)

要するに、味には「引き算」ができるのだ。

でも「塩」は引き算できないでしょ?と思うだろう。その通りで、方程式では、引き算の要素ではなく、旨味とのセットである「旨さの量」の要素となっている。

人の味覚は、相対的なものだ。味を単独で知覚しているのではなく、他の味と比較しながら判断している。だから、甘味が強くてくどいとき、酸味が加わることによって、「甘い・酸っぱい」のバランスを取ろうとして、甘さが穏やかに感じられる。

こんな風に、「おいしくする知識」が体系的に説明されている。この知識があることで、レシピからもっと自由に美味しい料理を作ることができる。

ちなみに、本書にレシピは1つだけある。それは、第10章「世界一長いハンバーグのレシピ」で、17ページに渡り文字だけでびっしりと説明されている。これ全部やったら面倒くさいことこの上ないが、絶対に美味しいハンバーグになる確信しかない(というより、プロはここまで気を配って作っているのか!と驚く)。

本書を読んで、「ぼくのかんがえたさいきょうのパスタ」の改善点は以下の通り。

  • トマトパック400gを煮詰めた後、塩を加える(煮詰めると水分が飛んで250gぐらいになるので、塩は小さじ1/2弱を入れる)
  • バジルを入れたら煮込まない(香りが飛ぶ)
  • ベーコン(イノシン酸)を増やす(カツオ節で代替できるか?は課題)
  • 香味野菜、キノコ類(複数)を入れる
  • パスタの茹で時間を減らして、その分ソースと一緒に煮込む

美味しいものを足せばよいのではなく、「できあがり」をイメージした掛け算で料理する。引き味でバランスを整える、レシピ通りでOKではなく、レシピの背景を理解する。

私に足りなかったのは、隠し味でもKiriでもなく、知識だったことが分かる一冊。

| | コメント (0)

「鶏肉を洗うな」は本当か?―――『すごい科学論文』に学ぶ現物に当たる重要性

N/A

著者の日課は、科学論文を読み漁ること。「ネイチャー」や「サイエンス」など世界的な学術誌から最低でも1日に100本(多いと500本)、年間だと5万本の論文に接しているという(全読は無理にせよ、アブストラクトだけでもすごい!)。

そんな中から、特に面白いもの、今までの常識や定説を覆すもの、インパクトのあるものを選んだのが本書になる。著者が「これはすごい!」と感じたのが判断基準なので、さまざまな分野の論文が俎上に上る。

ある意味「ごった煮」となっているカオス感が楽しい。専門が薬学で、脳科学についても詳しいのでそっち系が多い。例えばこんな感じ。

  • 鶏肉は洗うな(洗うと雑菌が飛び散るので不衛生)
  • 生物と無生物を分ける新しい定義「寄生される」
  • クジラとフクロウの収斂進化に学ぶ失明治療のヒント
  • 乳腺は汗腺が発達した器官という観点からのおっぱい成分分析レポート
  • DNA配列をAIに学習させたら、「天然」よりも高性能なDNA配列を編み出した
  • Chat-GPTの価値観は欧米圏(主な学習ソースが欧米圏だから)

注が豊富で、巻末に論文タイトルが挙げられているので、気になるものは自分でチェックすると、さらに楽しい。

鶏肉は洗うな?

例えば、「鶏肉は洗うな」の話。

著者は、ノースカロライナ州立大学のシューメイカー博士の論文(※1)を紹介しながら、生肉を洗う危険性を注意喚起する。生肉を洗うと、表面に付着した微生物が飛び散り、キッチンを汚染し、食中毒の原因となる。

一般人300人を集め、鶏肉焼きとレタスサラダを作ってもらった後、料理やキッチンの細菌を調べるというリサーチだ。

参加者が会場から去ったあと、鶏肉から出た細菌がどれほど残存しているかを調べたところ、生鶏肉を洗った場合、サラやキッチンから多くの細菌が検出されました。予想通りです。

生鶏肉を洗わなかったグループでは、さすがにキッチンに飛び散った細菌は少量ですが、驚いたことにサラダには、洗ったグループの半分程度の細菌が付着していました。食中毒の危険性は依然高かったのです。

『すごい科学論文』p.132より引用

なぜ、鶏肉を洗わなくてもサラダが汚染されたのか?理由は、鶏肉を触った手を充分に洗わなかったからだという。

でもそれって、「鶏肉を洗う/洗わない」とは関係なく、「手の洗浄が不十分」という話なのでは?と疑問が浮かぶ。

実際に [論文] を確かめると、まさにその話になっている。「洗う/洗わない」というグルーピングはしているものの、「食品の安全教育が料理の行動に及ぼす影響」がメインテーマになる。

被験者の300人は、全員が「ふだん鶏肉を洗っている人」になる。この人たちを、2つのグループに分ける。

  • 介入群(142人):食品の安全教育のビデオレターを送る
  • 対象群(158人):何もしない

ビデオレターには「鶏肉を洗わないで」というメッセージが含まれたもので、Eメールにより複数回送付され、介入群の82%は見たと答えている。

「鶏肉を洗う」という行動について、食品の安全教育が及ぼした結果は以下の通り。介入群の大半(93%)は「洗わなかった」ため、「鶏肉を洗うな」というメッセージの効果はあったと言えるだろう。

  鶏肉を洗った 鶏肉を洗わなかった
介入群(教育あり) 7% 93%
対象群(教育なし) 61% 39%

一方、サラダが汚染されていた結果は以下の通りになる。

  鶏肉を洗った 鶏肉を洗わなかった
介入群(教育あり) 30% 15%
対象群(教育なし) 26% 31%

先に引用したのは、介入群の数値の箇所だ。確かに「サラダには、洗ったグループの半分程度の細菌が付着」していた。

ん? むしろ洗わなかったほうが汚染率高くない?対象群の数字を見ると、そう言いたくなる。「26%(洗った)」と「31%(洗わなかった)」だと洗わなかった方が汚染率は高めだ。

元の論文(※1)も同じようなトーンで、「洗う/洗わない」というよりも、生肉に触れた手を介して汚染が広がっていたことが原因だと見ている。

Hand-facilitated cross-contamination is also suspected to be an important factor in explaining the cross-contamination that occurred in both groups. Lack of proper hand washing means that participants may have been preparing the meal with contaminated hands and spreading the bacterial tracer to other surfaces around the kitchen.

手を介した交差汚染は、両グループで交差汚染が発生した理由を説明する上で、重要な要因であると考えられる。適切な手洗いが行われなかったため、参加者は汚染された手で調理を進め、キッチン内の他の表面に細菌マーカーを広げてしまった可能性がある。

「生肉を触ったら、充分に手をキレイにせよ」というメッセージが伝わってくる。だが、最初にサラダを準備して、ラップして冷蔵庫にでも入れておけば?とツッコミを入れたくなる。

「手を洗う」動画は少ない

また、食品の安全教育についてなら、ビデオレターによる啓蒙よりも、Youtubeなどの料理動画を改善する方が効果がある気がする。

普通、料理の動画は編集されている。冷蔵庫から食材を出して洗ったり、調味料を量るシーンなど編集でカットするだろうし、切ったり剥いたりする作業は早送りするものが多い。

なかでも、「洗う」シーンは皆無に等しい。例えば肉を切ったシーンの後、同じまな板で野菜をカットする場合がある。当然、まな板は洗浄しているだろうし、包丁や手も洗っているはずだ。

だが、カメラは固定しており、一瞬で切り替わるため、あたかも洗っていないかのように見える。動画を見る人は料理のプロセスを求めているだろうし、テンポよく場面を繋ぐには「手を洗う」シーンは邪魔になる。そのため、カットされてしまうのだろう。

家庭料理や調理学校など、オンサイトで料理を学ぶのであれば、衛生観念はきちんと教えられる。初心者向けのレシピ本だと、最初の章でレクチャーされる(はずだ)。

しかし、これだけ動画が普及したいま、Youtubeだけで見よう見まねで料理する人は増えてくるだろう。その場合、「手を洗いなさい」と教えてくれる人は誰もいないことになる。

ちょっと気の利いた編集だと、「ジャー」という水の音を流したり、アルコール除菌スプレーをするワンカットを挟んだりする。あるいは、肉を切るまな板と野菜を切るまな板を別物にするのもある。

そんな気配りは、George ジョージ、くまの限界食堂でチラと見るくらい小数派だが、衛生観点のシーンはあたりまえになってほしい。

「鶏肉は洗うな」という”定説”は、細部まで見ると違った顔を見せてくれる。科学論文はやっぱり面白い。

※1 Shumaker E.T. et al ”Observational Study of the Impact of a Food Safety Intervention on Consumer Poultry Washing” J.Food Prot,85,2022

| | コメント (6)

読むほどに酔うほどにハマる呪術的リアリズム『やし酒飲み』

N/A

読み始めた瞬間、何かがおかしい。文を二度見し、首をひねりながら先を追う。冒頭からしてこれだ。

わたしは、十になった子供の頃から、やし酒飲みだった。わたしの生活は、やし酒を飲むこと以外には何もすることのない毎日でした。

「だった」と「でした」とが入り混じっている。誤植?まさか岩波文庫がそんなわけない。対等関係の常体(だ・である)と、フォーマルで丁寧な敬体(です・ます)が混在し、独特の語調を生み出している。

そして原文(英語)の方が違和感マシマシになる。

I was a palm-wine drinkard since I was a boy of ten years of age. I had no other work more than to drink palm-wine in my life.

「10歳の頃からずっとsince)やし酒のみだった」とsinceを使うなら、I have been~とする方が自然だろうし、「やし酒を飲む以外more than)何もしない」ならば more than じゃなくて except が普通じゃね?と思う。

この違和感は意図的で、わざと正しくない(broken)使い方をしているという。書かれた文章だけど肉声で語られているような感覚で、読むと酔うような文章に仕立てられている。もっとも原文が壊れているので、そのまま翻訳できない。「翻訳不能性」を逆手に取って、歪んだ日本語で語ることで、ねじれたリアリティを醸すように訳している(合わない人は悪酔いするかも)。

さらに、物語そのものは王道の「行きて帰りし」なんだけど、展開がブッ飛んでいる。

あらゆる死者が集まる街があり、親指が破裂して子どもが生まれる(急激に成長し大食漢になり親とバトルする)。木から腕が生えて木の内部に取り込まれた先に街がある。「死」は売買できて、「恐怖」は貸し出せる。

そもそも主人公が妙な術を使う。

やし酒を飲むしか能が無かったはずなのに、神でありジュジュマン(juju-man)だと名乗り、ピンチになると火や煙に姿を変えて難を逃れる(jujuとは西アフリカにおける呪術・まじないを意味する)。攻撃はもっぱら銃やナイフを使ったりする、神なのに。自分の死を売り渡してしまったので不死になるが、「恐怖」は返却されてきたので、「不死身なのに怖い」思いをする(←こういう発想が出てくる文化圏なのだ)。

現実の中に説明されないまま超自然現象が語られるのは、マジックリアリズム(魔術的リアリズム)と呼ばれ、マルケスやドノソが粘り気のある傑作を書いている。これに比べると、幻想色が強く、まじないや呪術が説明抜きで語られる本作は、ジュジュリアリズム(呪術的リアリズム)なのかもしれぬ。

これ、マルケスの魔術的リアリズムよりも、ずっと「まじない」に引き寄せられている。だから、物語に理屈や象徴を読み取る前に、まず呪われる。そんな、物語に呪われる語りの力がある

まるで見てきたように語られるのだが、「妖怪」とか「幽霊」といったラベルが通用しないところが幻想譚とは違うところ。カフカのような圧ある不条理文学なのかと思いきや、妙に具体的な数字を挙げてくる。

突拍子もない筋立てに、「四百人ばかりの赤ん坊の死者」とか「収容能力四十五人、直径百五十フィートの袋」あるいは「七ポンド十八シリング六ペニーで私たちの死を売り」なんて言われると、思わず想像してしまう。

これは詐欺師のやり方で、大真面目にウソを語るんだけど、数字を入れることで信憑性を増やす。最初に提示された数字に引っ張られて、その後の判断に影響を及ぼすことをアンカリング効果というが、その異種とも言える。数字を出すことで具体的に考えさせる思惑があるのだろう。この辺は、「ほら吹き男爵」として有名なミュンヒハウゼン男爵で用いられた手法なり。

こんな風に、読むほどに酔うほどにハマれる。空想の赴くままの寝物語か、酔っぱらいの回顧録を、クダ巻きながら聞かされるという感覚だ。いずれにせよ、読み終えたときには、こちらの意識まで千鳥足になっている。

これ、17年前の再読なんだけど、物語に酔っぱらって書いていることが分かる。無制限の想像力が爆発する「やし酒飲み」



| | コメント (0)

「正しさ」ではなく「マシな悪」を引き受ける『政治哲学講義』

N/A

時速100km以下で即爆破する新幹線を描いたNetflix『新幹線大爆破』では、様々な選択が突き付けられる。中でも強烈なのがこれだ。

  • 強制停止する:はやぶさ60号の乗客・乗務員は助からないが、被害は限定的
  • 何もしない:終点の東京駅で、新幹線が大爆発を起こす

これは有名な、トロリー問題における運転手の選択になる。

【運転手】路面電車が暴走している。そのまま進めば5人が轢かれ、待避線に逸れると1人が轢かれる。運転手は進路変更すべきか?

旅客機をハイジャックし、満員のスタジアムに墜落させようとするテロリストがいる。これ阻止するため、戦闘機のパイロットがやったことを描いたのは、シーラッハの戯曲『テロ』になる。これは、トロリー問題の別バージョンだ。

【歩道橋】路面電車が暴走している。そのまま進めば5人が轢かれるが、歩道橋の上にいる男を突き落とせば止められる。突き落とすべきか?

トロッコ問題とも呼ばれるこのジレンマ、「運転手」バージョンと「歩道橋」バージョンで、別物に見える。「運転手」の方は問題として取り組むことができるが、「歩道橋」は問題以前の前提のところで禁忌を犯しており、問題として成立していないように思える。

言い換えるなら、「運転手」バージョンで、待避線を選び、1人を殺すことと、「歩道橋」バージョンで、男を突き落とすことついて、同じ「1人の命」なのに、本質的に違うように見えるのだ。

あくまでも<私には>そう見える話なのだが、なぜだろうか?

「人を傷つけるな」 vs. 「善いことをせよ」

『政治哲学講義』によると、それは衝突している義務が異なっているからだという。

義務には、「消極的義務」と「積極的義務」がある。「人を傷つけるな」といった義務が、消極的義務となる。一方で、「善いことをせよ」というのが積極的義務となる。両者は裏表のようで、このような関係になっている。

  消極的義務 積極的義務
遵守 加害しない(不作為) 善行する(作為)
違反 加害する 善行しない

「運転手」の問題は、どちらを選んでも「加害する」になる。そのため、「1人か5人か」を選ぶ消極的義務の中での問題となり、義務違反を最小化するために1人を犠牲にするという理屈は、一応は、成り立つ。

一方、「歩道橋」バージョンは、「善行する(5人を助ける)」と、「加害する(1人を殺す)」の衝突が起きている。

この場合私たちは、それぞれの義務を果たす、あるいはそれに背くといった、行為の性質の違いを考慮に入れなければならない。「歩道橋」の一人の加害が許されない理由は、異なった義務が衝突する場合、より厳格な消極的義務が優先されるからではないか。

『政治哲学講義』p.93より

たとえ5人を見捨てることになるとしても、「加害しない(消極的義務の遵守)」ことを優先する。作為の方が不作為よりも責任を問われることは、医療倫理の「何よりも害を与えてはならない(Primum non nocere)」にも繋がるという。

この考え方は、安楽死(尊厳死)の議論にも見出される。薬物注射で患者に死を直接もたらす積極的安楽死と、生命維持装置につながず、死にゆくままに任せる消極的安楽死だ。前者は殺人罪に抵触するとして規制されている場合が多いが、後者は法的・倫理的に許される余地があるという。

悪さ加減を選ぶ

世の中には、様々なジレンマがある。あちらが立てば、こちらが立たない。トロリー問題は、こうした問題を抽象化した思考実験の一つだろう。

私たちは、「限られたワクチンを誰に渡すのか」とか「感染拡大を防ぐために経済活動を制限するのか」といった生々しい問題に直面させられてきた。利害の対立が生じるときや、どちらを選んでも悪い結果を招くことが明白なとき、どうすればよいか。

普通であれば、「どちらが正しいか」といったべき論で考察されることが多い。正義論の原理原則があって、そちらに即したほうの選択肢こそが「あるべき」であるという組み立てだ。

だが本書は、そうした正義の命ずるままに選択を行ったとして、果たして「正義は達せられた」と胸を張れるかと問う。やむを得ない選択だとしても、そこに何かが損なわれたと感じたり、やりきれなさを感じるのではないかと指摘する。

そして、そうした割り切れなさを考えるために、考える立場として「どちらがマシな悪か」という悪さ加減からアプローチする。「正しさ」というポジティブな視点からではなく、「悪さ」というネガティブな見方から、選択の重さを測る。

特に政治的な問題がそうだ。

どちらを選んでも、非難されることになる。ひょっとすると選択したことにより自分自身が破滅する場合もある。それでも「よりマシな悪(lesser evil)」を選び、引き受けるために、どのように考えることができるかが、紹介されている。

  • 人望ある船員1人の命か、隊の規律か:メルヴィルの『ビリー・バッド』
  • 国家への忠誠か、家族の愛か:ソポクレス『アンティゴネー』
  • 燃え上がる邸宅から誰を先に救うか:ゴドウィン『テレマコスの冒険』
  • ハイジャック機の164人を撃墜してスタジアムの7万人を救うのか:シーラッハ『テロ』
  • サルトルの「汚れた手」vs.カミュ「正義の人びと」
  • 我が子を放置して貧しい人々に募金する:ディケンズ『荒涼館』

本書が優れているのは、このように具体的な事例として文学作品を選んでいること。トロリー問題のように、「問題」とするために背景や他の選択肢を切り捨てるようなことはしていない。「他にやれることは何か」「どう考えれば”悪さ”を減らせるか」という取り組み方をしているので、一件落着という形でスッキリしない。

だが、それが現実なのだろう。「正しい答え」なんてものはなく、どちらを選んでも手が汚れるし、後悔もする。であれば、よりマシな悪を引き受ける他なかろう。

| | コメント (2)

読書会に参加すると「問い」が増える―――『イギリス人の患者』読書会

N/A

『イギリス人の患者』の読書会に参加した。

戦争で人生を破壊された四人の男女の物語を、詩的でイメージ豊かに描いた傑作だ。人生で3度読み、いまは原書に取り組んでいる。ブッカー賞受賞。

読書会では、予想を完全に裏切られたのが面白かった。何度も読んだので、答え合わせのつもりで参加したのだが、違う意見・異なる「読み」が飛び交い、たいへん刺激的だった。

それだけでなく、議論が白熱し、話をつなげていくうちに、私の中から新しい読み方が生まれたことに驚いた。一種の仮説に近いが、おそらく、この「読み」は新しい正解なのだろう。

作品をどう読もうと、それは読者の勝手だ。だが、より面白い読みや、さらに小説世界を深める読みの方が、「正解」なのだと思う。つまり小説の「正解」とは、その作品を面白くする視点の数だけある、と考える。

この記事では、読書会で得られた/気づいた「正解」を、問いの形でまとめてみる。なぜなら、これらの「正解」たちの裏付けは、これから私が読んで確かめる仮説にすぎないのだから。ネタバレを回避するよう、可能な限り配慮する。

「イギリス人の患者」とは誰なのか?

この謎が、読者を宙吊りにさせ、先を読ませる仕掛けになっている。

燃える飛行機の中から救出され、全身を火傷し、モルヒネのおかげで痛みをしのぐことができる状態の男だ。周りからは「イギリス人」とだけ呼ばれており、自分以外のあらゆることを知っている。

「あらゆること」とは、銃器や爆弾や航空機について、サハラ砂漠に棲む動植物について、トスカーナ地方のワインについて、何を問うても、即座に、明晰に答えてくれる。しかし、自分の名前や出自、過去については一切答えようとしない。

イギリス人を看護するハナ、彼女のおじさんであるカラバッジョ、爆弾処理にやってきた工兵のキップとの交流によって、現在と過去とが絡み合い、次第に明らかになってゆく。

初読時に私が抱いた印象は、「自分の過去を隠している」だった。身の危険を及ぼすことになるワケアリの立場のため、自分が誰であり、何を知っているのかを隠し、記憶喪失のフリをしているのではないか……そういう考え方だ。

もう一つ、「自分の過去を封印している」という考えだ。自分の愛が(結果的に)招いたことになる悲しすぎる出来事を、二度と思い出したくないがために、周囲からも自分からも心を閉ざしているのではないか……読書会では主流の意見だった。

それが、ハナやカラバッジョ、キップたちとのやり取りによって、次第に心を開いてゆく。最終的なトドメとなるのは、カラバッジョの「おまえ、分かっていたはずだ」という指摘だ。自分が隠していたこと、封印していたことが、実はそうではなく、筒抜けだったこと―――それを知らされたことがきっかけとなって、最後の告白になる。そういう物語構造だ。

とても納得感があるのだが、読書会で熱く語っているうちに、一つの仮説を思いついた。

「イギリス人」が誰か?この謎は、もちろん読者は知らない。だが、それだけでなく、「イギリス人」と呼ばれた男も、知らないのではないか?物語が進行していくにつれ、過去が断片的に描写されてゆくことで、男は、自分が誰なのかを思い出していく。同時に読者も、彼が誰なのかを知ってゆく。

死期を悟った男が「死ねば三人称になる」とカラバッジョに告げるのは、過去の中での自分を三人称で呼べる(名前で呼べる)ようになった、即ち、自分の名前を取り戻したからなのかもしれぬ。

この作品の裏テーマは、実は「記憶」であり、イギリス人の患者の「記憶」と、読者の「物語を読む」ことで知ることになる「記憶」を同期させる構造が仕込まれているのではないだろうか?

他にも、様々な問いがある。

ハナの恋愛

若く、美しい女としての一番の季節を、血と包帯と膿に費やしたハナ。ハナは、なぜ「イギリス人の患者」に惹かれたのか?

読書会で出した私の答えは、「名前が無いから」だ。死んでいく兵士たちを名前で呼んでやるのに精いっぱいだった日々を過ごすことによって、親しくなった人たちは皆死んでしまうことに打ちのめされる。それくらいなら、最初から名前の無い存在としての「イギリス人の患者」の傍らに居たほうが、心を痛めなくて済む……そう考えたのではないか。

しかし、この仮説だとハナがキップに惹かれる理由が必要になる。キップは健康な男だからと考えていたが、そこは、もう一度読む中で探してみよう。

物語に登場するオンダーチェ

読書会での指摘で気づいたのだが、作中に作者が出てくる。

地の文で明らかに作者としか見えないような形でコメントが為される。『ドン・キホーテ』のセルバンテスみたいに作者を自称してこないが、はっきり物言いをする。

語られている内容と語り手の知識にズレが生じるとき(イギリス人の患者が知らないはずの過去が語られるとき)、オンダーチェが語っていることが分かる。ここを鍵に、再読してみる。

ラストのキップの衝動的な行動にも、オンダーチェの「手つき」が透けて見える。戦争によって破壊された人生を、この上もなく美しく描くことで、戦争の醜さ、狡さ、邪なところを浮き彫りにしよとする「目つき」も見える(サハラ砂漠に引かれた戦線を獲りあうヨーロッパ諸国と、易々と交易するベドウィンたちの対照描写)。「物語への介入」とまでは言わないが、探すほど、作者の手つき・目つきが垣間見える。

何度も読んだはずの作品に、さらに「問い」が生まれることになった。4度目の読みで、これを確かめてみよう。これは読書会のおかげ。ちいさな読書部さん、ありがとうございました。



| | コメント (0)

読書猿の薄くて濃い本『ゼロからの読書教室』

N/A

そもそも「本を読む」って良いことなのだろうか? どうして本を読むのだろうか?

恒常的に本を読む人なら誰しも、一度は(何度も?)問いかけたこの疑問に、正面から向き合ったのがこれ。その答えは、あとがきにある。

読書は誇るべき立派な行いではない。どちらかというと後ろ暗いことだ。こっそり楽しむ楽しみだ。(中略)我々の誰もが好きな本を読んでいいのと同じように、読まないことを好きに選んだって構わない。

私もそう思う。ここでは、楽しむための読書に焦点を当てているが、小説に耽るのはあまり誉められたことではない。

なぜなら、小説は「なんでもあり」だから。神話や叙事詩、戯曲、定型詩といった形式を経て生まれた小説には、韻律や構成の制約がなく、また、英雄譚や恋愛といったテーマの縛りもない。現実に起き得ないことも可能になるし、倫理や論理も超えるし、読者の中で完結するような曖昧さも許される。

さらに、世界を「知る」ことで支配したいという欲望を満たすことができる。物語を通して自分が経験し得ない人生や感情をシミュレートし、「私は知っている」という知的征服感覚を得られる。

一方、都合が悪い現実から目を背け、都合のよい(性癖に合致した)世界に耽溺できる。自分の価値観にぴったりの物語の中にいれば、現実に傷つけられず安全に承認欲求を満たせる。小説に耽るのは、一種の自慰行為―――精神的なオナニーなのかもしれぬ。

『ゼロからの読書教室』は、NHKの基礎英語に連載していた内容をまとめたものだ。中高生向けなので、もちろん「オナニー」という言葉は出てこない。だが、読書の「後ろめたい」愉しみを知っている人には伝わるだろう。

なぜ小説が良いのか?

では、フィクションを読むのは、楽しみのためだけなのだろうか? それでいいと思っていたが、面白い視点を得た。

それは、”物語は、事実の「意味」を変える” という視点だ。物語は、起きてしまう事実を変えることはできない。だが、その起きた出来事の解釈を変えることができる。つまり、同じ出来事であっても、物語があれば出来事の意味が変わる。

例えば、同じ人と同じ映画を見に行くとしても、その人が好きだから一緒に行くと思うなら、それは恋をしており、恋愛という物語を生きていると言える。相手のちょっとした言動が、嬉しかったり悲しかったりする。出来事が同じでも、どんな物語にするかで、人生における意味が変わってくるというのだ。

物語によって変えられた「意味」は、今度は現実に影響を及ぼす。「あの人の仕草は自分への好意?」という思い込みから始まる告白しちゃう流れは、ラブストーリーでよく使われる。

ラブストーリーなら微笑ましいが、ストーリーの力は悪用できる。普通の社会では殺人は最悪の犯罪だが、戦争を賛美する社会なら殺せば殺すほど英雄扱いされる。人殺しは極端な例とはいえ、「あいつらが私たちの平穏を脅かす」という「ストーリー」は、どのSNSにも溢れている

このストーリーの力に抗うにはどうすればよいのか?

そこで小説が登場する。小説を読むということは、物語の力とうまく付き合う方法を学ぶことになるのだという。

つまりこうだ、今まさに物語を生きている人は、その物語をウソだとは思わない。恋をしている人は、「この恋はフィクションであり現実とは関係ありません」とは思わない。

一方、小説を読む人は、それがフィクションだと自覚しながら楽しむ。密室で死体が発見されても、パニックにならずに、冷静に手がかりを探したり、前のページに戻って怪しい言動やアリバイを探したりする。

どれだけ没頭しても、小説の物語は、自分が生きているものとは違う。物語に対して、ちょっと距離をおいて冷静に眺められるようになる

物語の摂取なら、映画やドラマでもできる。だが小説は、知識と想像力を働かせて能動的に読む必要がある。自分のスピードで繰り返すことで、その嘘とうまく付き合うことができる。多様な物語に触れることで、嘘に対するある種の免疫がつくという。

これ、とても実感が湧く。

私一人のささやかな経験だが、フィクションに慣れ親しんでいる人ほど、嘘への耐性が強く見える。現実で語られるストーリーを、いったん「ストーリー」として受け止め、吟味できる(疑り深いということだが)。陰謀論にハマる人は、「話の出来過ぎ感」への感度が低いように見える

世の悩みのほとんどは、既に誰かが悩んでいた

では、小説だけが特別なのか?

世の大人(特に、中高生にとっての大人である先生や親)は、小説を読むことを読書と考えがちだ。取扱説明書や問題集や便覧を熟読する子に、「こんなの読書と呼べない」と言い放ち、挙句の果てに「子どもが本を読まなくなった」と嘆く。

もちろん間違っているのだが、本書はわりとキツい言い方をしてて笑う。そして、本は問題解決の手引きにもなってくれると言う。

世の中の悩みのほとんどは、既に誰かが悩んだことがあり、悩みを克服した人が本に書き残してくれているという。

もちろん、全ての悩みの解法が本にあるなんて言えない。だが、「ここまで考えた」経過までは残されているはずだ。だから、その本を探し当てることで、自分で悩むだけでなく、先人の悩みの足跡もたどることができる。

この「本に相談する」という発想から、本の探し方、知らない(でも必要な)本との出会い方、図書館の使い方、テーマの広げ/深め方が解説される。本に限らず、「信頼できるサイトの見つけ方」なんて、いまの中高生に最も伝えるべき情報だろう(国会図書館のリサーチ・ナビは義務教育のレベル)。

いま自分が抱えている悩みや問題と、それと同じ悩み・問題を抱えていた人をつなぐのが本だ。そのつなぎかた、言い換えるなら、「悩みを解決する調べ方」の調べ方が書いてあるのが本書だ。

もちろん、そこに印刷されているQRコードを読み取り、手を動かし始める中高生もいるかもしれない。しかし、すぐに反応しないかもしれない。それでもいいと思う。この本に、悩みの解決法の調べ方が書いてある―――それだけが伝われば、将来、自分がぶつかったときに思い出すことができるから。

そういう、次の世代への種となるような一冊。

| | コメント (0)

「色とは何か」を歴史、科学、芸術から解析する『色の歴史図鑑』

N/A

「色は、実在しない」という、刺激的な一文から始まる。

え? そこらじゅうに「色」あるじゃない? むしろ色が無いなんてものは存在しない。色は常に実在し、たとえ私がいなくても、ずっと存続し続けるように思える。

ところが、これは誤解だという。私たちが知覚している色は、私たちの頭の中以外には存在しない。色は、いわば光のトリックであり、生物がそれを見て初めて現れるものだと言うのだ。

では、色とは何か? 

この難題に対し、物理学、美術史、心理学、文化人類学など、様々な分野から光を当て、浮かび上がらせたのが本書になる。さらには、宗教や絵画、食品・医療における配色の応用や、コマーシャリズムにおける色の役割にも踏み込む。

色は主観か客観か

様々な人が「色とは何か」の問題に取り組んできたのだが、中でも面白かったのが、ゲーテとニュートンだ。

色とは、客観的に測定できる光の性質に過ぎないとするニュートンと、色は見る人の主観的な存在だとするゲーテの主張が対決調で描かれる。

まずは、アイザック・ニュートン。17世紀の科学者に言わせると、色は、光そのものの中にあるという。

光をプリズムで分光する実験を通して、色とは白色光に含まれる物理的な性質だとし、客観的に測定可能なものだとした。例えば、プリズムで分光した「赤」は、さらにプリズムを通したとしても赤色のままになる(赤はそれ以上に分けられない)。

彼にとって、赤や青といった色は光の波長に対応付けされた自然の事実であり、見る人の感覚とは関係なく存在するものだとした。

次は、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ。19世紀の文学者に言わせると、色は我々の見るまなざしの中にこそ宿るという。

たとえば、白い壁にある赤い丸をしばらく見つめたあと、目を逸らすと、うっすらとした青緑が現れる。赤色を見続けると「赤」への感応度が下がり、その直後に白を見ると、赤が欠落した色(=赤の反対の色相の色)が残像として見える。

補色残像という現象は、物理的な光の性質だけでは説明がつかない。ゲーテは、色とは感覚であり、私たちが世界と出会う経験の一部だとする主観的な現象だとした。

実はこれ、どちらも正しい。というか、主観 or 客観という二分的なものではない。物理学(光学)はニュートンの理論をベースにしながらも、色覚理論や認知科学はゲーテの主張に支えられている。

私たちが「赤」を感じるとき、それはニュートンの言う物理現象でありながら、ゲーテの言う見るという行為の結果でもあるのだ。

色覚理論を応用したゴッホ

「色は、我々の見るまなざしの中に宿る」という観点を絵画に応用した画家の一人に、ゴッホがいる。本書では、「包帯をしてパイプをくわえた自画像」がその応用例として紹介されている。

Vincent Willem van Gogh 106.jpg
画像:Wikimedia Commons より(出典
ライセンス:パブリックドメイン

この作品では、衣服の青緑と背景のオレンジが補色の関係(色相環の反対の色の組み合わせ)になっており、並べることで双方がより鮮やかに見える効果が生まれている。

人間の眼には、それぞれ特定の色に反応する細胞がある。ある色を長く見続けると、その細胞が疲労し、脳はその色に「対応する反対側の色」を補って知覚しようとする(ゲーテが観察していた「補色残像」の現象も、まさにこの仕組み)。

したがって、補色の組み合わせは、単に視覚的な対比を生むだけでなく、生理的にも脳が“補完的な色”を足すことで、色が一層強く感じられることになる(味覚でたとえるならば、お汁粉にひとつまみの塩を加えると、甘さが際立つやつ)。

本書ではこの自画像が取り上げられているが、より強烈な青とオレンジの対比として、私は「星月夜」や「夜のカフェテラス」を思い出す。どちらも、空の濃い群青~コバルトブルーに浮かび上がる、赤みがかった黄~オレンジの対比があまりにも鮮やかで、色が発光しているかのように感じられる。

……というか、私の中のゴッホ像は、ほとんど「オレンジとブルーの画家」だと言ってもいい。この組み合わせで、デヴィッド・マレルの『苦悩のオレンジ、狂気のブルー』を思い出したので、再読しよう(傑作ですぞ)。

ゴッホは、自力で色覚理論に到達したわけではない。

色覚理論の元を辿ると、19世紀のタペストリーの織工場におけるトラブルになる。

現場の作業員から「指定された色の通りに織っているのに、出来上がったタペストリーの色がくすんでいる」という申告が上がっていた。フランスの科学者ミシェル・シュヴルールは調査と実験をくり返し、染料や繊維の問題ではなく、人の認知が起こす錯覚によるものだと突き止める。

シュヴルールはこの知見をまとめ、一種の科学的な声明として出版する。万人の視覚に共通する、再現性のある現象として広く普及したという。「色が何であるか」というよりも、「色がどう見えるか」という考え方は、染織工や建築家、画家に影響を与えたという(印象派なんてまさにこれ)。これが巡り巡って、ゴッホの目に留まったという寸法だ。

科学が芸術に与えた影響は計り知れないが、「色」を切り口にすると、より鮮やかに見ることができる。

他にも、「紫が高貴な色とされたのは、染料を抽出するプロセスに莫大な費用がかかったから」という身も蓋も無い話や、「晩餐会のコースの最中に、青色の照明に切り替える実験」といった迷惑な話など、色にまつわる様々なネタが詰め込まれている。

また、古今東西の「色の図鑑」が収められているのも嬉しい。自然科学者、職工、デザイナー、医師、冒険家、料理人など、それぞれの立場に裏打ちされたカラーチャート、色見本、カラーグルーピングがこれでもかと紹介されている。ユザワヤの色見本のサンプルが好きな人にはたまらないだろう(私だ)。

 

Photo_20250517102901

「色は、実在しない」からスタートして、人類が色をどのように理解していったのかの歴史を辿る―――本書は、いわば色の世界史と言えるだろう。

| | コメント (2)

読むことで完璧になるメタフィクション―――フエンテス『アウラ』とカサーレス『モレルの発明』

N/A

多くの作家は、見切ったと思っても手元に残すものはある。フエンテスは見切ったけれど、彼の『アウラ』はすばらしい作品だ。彼は自分が知的に細部まで構築できる短編や中編ではものすごい力を見せる。
山形浩生『翻訳者の全技術』より

この人をしてここまで言わせしめるのは、相当なものなんだろうと手を出したら、確かにもの凄い作品だった。どれくらい凄いかというと、斬られたことに気づかないまま、倒される感覚だ。

「君は広告に目を止める。こんないい話はめったにあるもんじゃない」―――から始まる『アウラ』は、ぬるっと読ませるくせに、斬れ味するどい達人の技にやられた。

カルロス・フエンテス『アウラ』は、わずか50ページ程度の短編に、私を強烈に惹きつける異様な魅力を放っている。その最大の特徴は、全編が二人称現在形で語られていることにある。

言い換えるなら、読者自身が主人公となり、「君は手を差し出す」「君は彼女の目をみつめる」と語られていく構造になっている。この語り口が不穏な没入感を生み、読み手の現実感覚を揺らし始める。

物語は、古風な屋敷に住む老婦人の依頼で、回想録の整理にやってきた青年が、アウラという女性に出会い、不可思議な出来事に巻き込まれていく……という筋書きだ。幻想文学でありながら、構造やテーマは極めて精緻で、時間と記憶、そして欲望が絡み合っている。

卑怯とも言えるのは、「君」という書きっぷりでありながら、情報がコントロールされている点だ。老婦人に紹介され、アウラを見つめるのだが、アウラはきちんと描写されない。

「君=読者」なんだから、目の前にいて言葉を交わす人を「見て」いるはずだ。なのに、アウラがどんな顔立ちで、どういう姿かたちなのか描かれない。「ふくれあがる海のような目」とか「緑色の服を着た君の美しいアウラ」といった、曖昧な言い回しになる。

それでも、「君=主人公」の反応からしてアウラは若い女性であることは分かる。アウラを美しいと思い、欲しいとさえ願う。アウラもまんざらでもない様子だ。

時折はさまれる未来形に疑問を感じつつも、短編だからあっという間に読み終わる。宙吊り状態から降ろされ、物語の中で用意された答えを受け取りはするけれど、達人に斬られたことに気づくためには、すこし時間が必要だ。

そして、「これは読むことで完成する小説だ」と思い至る必要がある。これに近い感覚だと、アドルフォ・ビオイ=カサーレス『モレルの発明』だろうか(私のレビューは [ここ] )。

絶海の孤島に辿り着いた《私》は、無人島のはずのこの島で、一団の奇妙な男女に出会う。《私》はフォスティーヌと呼ばれる若い女に魅かれるが、彼女は《私》に不思議な無関心を示し、《私》を完全に無視する。やがて《私》は彼らのリーダー、モレルの発明した機械の秘密を……

『モレルの発明』は、普通に読むと、SF冒険小説になる。絶海の孤島で秘密裏に行われた実験といえば、H.G.ウェルズ『モロー博士の島』が有名だが、そのオマージュとなる。

N/A

だが、『モレル』の方は、読者がこれを読み進める行為を経て、初めて完成するという多重構造を持っている。名前を持たない《私》の一人称の、二重の語り/騙りによって仕掛けられた奇妙な傑作だ。

『モレル』が発表されたのが1940年で、『アウラ』が世に出たのは1962年だ。『モレル』は《私》の一人称で、『アウラ』は「君」の二人称によって語られ/騙られる。

特筆すべきは、どちらも読者が物語をメタフィクションとして読むことで、物語の中の願望が完遂される構造だ。単なるプロットではなく、「読む」という行為そのものが《私》と「君」の運命を変える装置になっている。

そのくせ、「ようこそこちら側へ」なんてベタな展開は用意していない(『MYST』というアドベンチャーゲームは、まさにそんなラストだった)。もちろん、『モレル』『アウラ』は、普通の小説としても読める。メタフィクションとして扱うかも含め、読み手に委ねられている。

そこまで考えが至って、ようやく、私は『アウラ』に完全に魅了されていることに気づく。そしてこれ、『モレル』と同じように、くり返し読まされることになるんだろうな……と、ぼんやり覚悟する。

フエンテスのポリフォニックな語りは『老いぼれグリンゴ』でお腹いっぱいになったけれど(レビューは [ここ] )、こんなに斬れ味鋭い傑作があったなんて! 山形浩生さんに感謝。



| | コメント (0)

«映像美に酔うか、読む悦びに徹するか―――映画『イングリッシュ・ペイシェント』と原作『イギリス人の患者』のあいだ