『タコの心身問題』『イカの心を探る』『ふらんけんフラン』で頭足類の「心」を考える

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年1月14日


 ヒト以外の存在について、「賢い」という言葉を使う際は注意したい。なぜなら、そこに擬人化の罠が潜んでいるから。「賢い」とは何か、「知性」とはどんな意味かを吟味したうえで使う必要がある。

擬人化の罠

 「擬人化の罠」とは、動物を観察する際、人に似た属性の有無を探し、人の基準で行動を評価すること。たとえ人に似た行動をしても、その行動を生んだ根源的なメカニズムまでが人と同じとは限らない。なぜなら、それぞれ異なる身体と神経系をもち、それぞれ異なる生息環境で生きているため、同じ行動原理であると考えるほうに無理がある。

 擬人化に偏って仮説を構築しようとすると、検証できる範囲が限定されてしまう。実験で上手に芸ができるから、「賢い」とする研究は、その動物と人との距離において、知的か否かを測ろうとする考えが裏側にある(あらゆる動物の最上位に人を据えた宗教の影響やね)。したがって、動物の「知性」とは、その動物にとってのコストパフォーマンスの最も良い行動原理を裏付けるものでなければならぬ。

 しかしながら、面白いことに、「知性」を定義しようとすると、必ずそこにヒトの存在が求められる(ヒトがいないと知的か否かの判定はできないし、ヒトを超えた知性は文字通り”人知の外”になる)。知的存在についてSF作品からのアプローチで、[SF読書会『ソラリス』×『ランドスケープと夏の定理』に参加したら読みたい本が激増した件について]に書いた。今回は、『タコの心身問題』『イカの心を探る』が楽しかったので、頭足類の「心」について考えてみる。

タコの心身問題

 一冊目、ピーター・ゴドフリー=スミス『タコの心身問題』について。生物哲学の教授であり、一流のダイバーである著者が、タコとの交流を通じて「心とは何か」「心はどのようにして"生じる"のか」を考える。進化は「まったく違う経路で心を少なくとも二度、つくった」という主張は、言い得て妙なり。

 まず著者は、タコの「目」について注目する。高度に発達しており、網膜、角膜などの構造は、ヒトの目と物理的に似ているだけでなく、視神経が網膜の前に突き出しているため、盲点がない。遠い祖先は海かもしれないが、そこから出て目を進化させてきたヒトと、海の中で目を進化させてきたタコが、結果的に近似した目を持つというのが面白い。

 これを専門用語で収斂進化と呼ぶという。異なるグループの生物が、環境や食物に適応し、系統に関わらず身体的特徴が似通った姿に進化する現象のことだ。異なる系統である鳥とコウモリの「翼」が似ているのと一緒やね。

タコに「心」はあるか

 そして、タコの生態や実験を紹介しつつ、ある種の「心」があることを考察する。この件がたいへん面白い。集めた貝殻で自分の”庭”を作ったり、状況に合わせて姿形や色を自在に変化させたり、閉まった蓋を開けたり、タコを知れば知るほど、「賢い」と見えてくる。

 たとえば、野生のタコがココナッツの殻をシェルター代わりに使っているレポートを紹介する。半分に割られた殻を持ち運び、危険を察知すると上手に中へ入り込む「道具を使うタコ」は、youtubeでも話題になっていた。他にも、貝や竹を使って入り込む様を見ていると、「ひょっとして、ヤドカリを真似ているのでは?」と思えてくる。

 一方で著者は、安易にタコを「賢い」とする姿勢に慎重になる。動物の「心」について考えるとき、人はどうしても自分の心を前提にしてしまいがちだ。単純な生物の「心」は、人の心を単純にしたものだとか、人が「賢い」と考える実験でもって動物の知性を測るといった「擬人化の罠」である。

 著者は折に触れてこの罠を指摘する。たとえば、タコの脳の大きさでもってタコの知性を測ろうとするのは誤りだという。まず「脳の大きさ」は、単純な比較ではなく、身体サイズに対する比でなければならない。その場合、タコは不釣り合いなほど巨大な脳を持っていることになる。さらに、タコはニューロンの大半(およそ3分の2)を、頭ではなく腕に持っている。

 つまり、タコは身体サイズからすると異様ほど大規模なニューロンを持ち、しかも独自の身体性の下で、頭からの指令と、自律した腕とが協調し、「タコであること」が成り立っているのである。巨大脳と大規模なニューロンは、タコの「心」の存在を示唆している。

  この「心」のありようについて、翻訳者も慎重に言葉を扱っている。原著のタイトル ”OTHER MINDS” の ”MIND” が複数形になっていることに注意を促し、日本語訳にあたっては、原則的に “mind” に「心」、”intelligence” に「知性」、”consciousness” に「意識」という訳語を当てて訳し分けている。

 ヒトの場合、「心」は、学習や意識といった、主に「頭脳」に結び付けられる精神活動を指す。しかし、頭足類の場合、そうした機能は必ずしも「頭脳」だけに限らず、わたしたちが「腕」や「脚」と呼んでいる箇所にも及ぶ。ヒトの言葉をそのままあてはめるなら、タコは腕で「考えて」いることになる。

 では、なぜタコは巨大な脳とニューロンを発達させたのか?

 著者は頭足類の歴史をさかのぼる。その祖先は、身体を保護する貝殻のようなものを進化させ、初期の捕食者となったという。その後、殻を捨てて遊泳を始めたのが頭足類となる。そして、殻を失ったことによる脆弱性を補うために、高い知能を発達させたというストーリーだ。

 つまり、タコはヒトとは異なる経路で、別のデザインで知能を得ており、いわば「心」の収斂進化が、少なくとも2度起きたというのである。この指摘は、たいへん興味深い。

海の霊長類・イカの心を探る

 『タコの心身問題』は、著者のタコ愛ゆえにタコに少々肩入れしすぎている。公平を期すため、イカの話も聞こうじゃなイカ……と手にしたのが池田譲『イカの心を探る』。著者は、イカ研究の第一人者で、イカやタコの行動科学を対象とした「頭足類学」を提案している。

 イカやタコといった頭足類は、精巧なレンズ眼、身体サイズに合わないほどの巨大脳、さらに体色模様でのコミュニケーションといった知的な振る舞いにより、「海の霊長類」と呼ばれているという。そして、イカの行動や社会性、アイデンティティーなど、イカの知性についての研究がまとめられている。『タコの心身問題』のイカバージョンといっていい。

 ところが、こと「知性」について考えるなら『イカの心を探る』の方が、より面白く、さらに深い考察まで進めることができる。そして、タコとは対照的な行動から、頭足類の進化について新しい仮説を立てることができる。

 まず重要な指摘は、イカやタコといった頭足類は、地球の全面積の7割を超える海洋において、完全に適応していることだ。一口に海といっても、浅瀬から深海、沿岸から沖合、熱帯から寒帯まで様々だが、頭足類は、どの環境でも種を繁栄させている。

イカは、鏡に映った「自分」を認識できる

 次にユニークだったのが、「イカに鏡を見せる」ミラーテストだ。アオリイカに鏡を見せると、同じ仲間を見たときとは違った行動をとるのだ。そっと鏡に近づき、触ろうとするのである。これは、イカが「自分が分かる」ことを示しているのではないか?

 「鏡に映った自分自身を認識できるか?」を試験するミラーテストは、サルや犬猫、イルカなど、様々な動物において試されている。面白いのは、対象の動物に麻酔をかけ、普通では自分で見ることのできない場所にマーキングをする。目覚めた動物がそれを鏡で見つけて、触ったりなどすれば、「鏡に映っているのは自分である」と認識できたとするのである。これをイカでやったのである。

 本書や小論[頭足類の社会性と知性基盤](pdfファイル)によると、個体数が少なく、はっきりとしていないようだが、少なくとも「鏡に向かった”自分”には、同種個体とは異なる反応をする」ことは結論づけてもよさそうだ。ちなみにタコの場合、振る舞いに差は無かったそうである[ミラーテスト:タコ]

イカの巨大脳は、社会性と世代「内」学習の賜物

 では、イカの知的な振る舞いはイカに生じたのか? この問いに対し、たいへん面白い考えが示されている。著者は、問いを変えて、「なぜヒトの脳は大きいのか」「ヒトはどんな歴史的経路をたどって大きな脳を獲得したのか」というアプローチから、巨大脳と社会性を関連付ける。

 つまりこうだ、ヒトは様々な状況で、家族や友人、見知らぬ人とコミュニケーションを取る。そして、コミュニケーションを通じて情報を得たり、食べ物や欲しいものを手に入れている。上手くやりとりできた場合、自分に有利な結果を得ることができ、結果、生き残って子孫を残す上で有利にはたらくことになる。脳が大きいほうが「他者とのやりとり」に有利で、これが進化上の選択圧になったという仮説である。

 著者は、イカにもこの仮説を当てはめる。貝の仲間だったイカが、殻を捨て、遊泳という機動性を手に入れる一方で、自分の弱さを補うために群れで行動する。群れにおいて、あるいは繁殖という場面において、他の個体とコミュニケートしているように見えることから、イカの持つ「社会性」が巨大脳をもたらしたというのである。

 イカの社会性を考える上で、もう一つ面白い観点がある。それは「学習」である。孵化後に急速に発達する記憶や学習の能力を駆使して、生存に必要なスキルを学ぶ。巨大な脳はあれど、このスキルは誰から学べばよいのか。

 イカの寿命は1~2年と短く、子どもが親から学ぼうとしても親は既に死んでいる。それでは巨大な脳はコスト高ではないかと考えられるが、何も世代間で学習するだけではない。つまり、彼らは世代「内」で学習するという考えである。

 彼らの齢は年齢ではなく日齢になるが、すべてのイカが、一年間の同じ月、同じ日に産卵するわけではない。イカは年中産卵するが、メスごとに産卵時期が異なっている。早く生まれたイカほど早く成長し、少し長く生きている年上の個体が、「何か」を年下の個体に教える―――そういう可能性を指摘する。

 たとえば、レオ・レオーニ『スイミー』がそうだろう。スイミーの仲間たちは、みな同じ世代に見える。仲間の一部がマグロに食われても、残ったスイミーが知恵を絞り、隠れた仲間を集めて反転する。そのとき、「ぼくが目になろう!」と言ったように、何らかの知恵の伝承がなされているのではないか、という仮説である。

 翻って、タコの社会性はどうかというと、これはイマイチらしい。タコは単独行動が基本で、『タコの心身問題』では、タコが集まって生活するコミュニティ「オクトポリス」が紹介されているが、これは例外とのこと。

 しかし、これは本当だろうか? ヒトに比肩するレンズ眼を備え、体色の変化による威嚇や誘惑が可能であるということは、そのまま視覚によるコミュニケーションを過去にしていた証左にならないだろうか。

 すなわち、かつてタコはイカのような社会的な行動をとる戦略で、巨大脳を発達させてきたが、何らかの理由により単独化したという仮説である。現在における、人による観察の結果だけで判断するのは早急だろう。

頭足類のオーバースペックに対する一つの回答

 実というと、頭足類の巨大脳となったか、有力な説明が、既にある。

 なぜ、大部分のニューロンが腕に分散されており、無限関節での操作ができ、類推や考察ができるのか。異常なほど目が良く、視覚画像からパターン認識を行い、記憶と学習により道具が使えるのか。相手を見分けて、(反射的ではなく)相手に応じた擬態ができるのか。

 イカやタコは、できることが多すぎるのだ。

Furann2

 あくまでも―――あくまでも仮説なのだが、かなり魅力的だし、検証も可能である。

 結果は、つぎはぎだらけの人造美少女ふらんに委ねよう。ふらんとは、エロくてグロいホラー・コメディ『フランケン・ふらん』の主人公兼トリックスターで、改造手術を得意とする。第7巻のエピソード53.OCTOPUSで、「妹的生命体」をタコで作る話からの引用だ。

Furann3

 そして、この続きがおぞましい&素敵なんだな。気になる人は、確かめてほしい(グロいで)。 進化とは「現在」を頂点とした適応の歴史であり、現在、ヒトが頂点だと考えていることから陥っているバイアスを見事に覆した考察である。『タコの心身問題』と『イカの心を探る』のそれぞれの著者に、ぜひ見てご意見を伺いたいものである。

 頭足類に「知性」や「心」はあるか? あるとするなら、どのように実証できるか? これを考えてゆくと、「心とは何か?」「知性の検証にヒトは必須か?」につながってゆく。

 そして、ふらんの回答を見ると、知性の検証が必要なのは、反対にヒトの方なのかも……と思えてくるから、さらに面白い。知的生命体として、ヒトはまだ、ヒヨッコなのかもしれないからね。

Takonosinsin

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運が通れば道徳は引っ込む『不道徳的倫理学講義』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年8月25日


たとえば、高速道路に「たまたま」飛び出した人をはねて死なせてしまったとする。ドライバーは「注意して運転していれば避けられたはず」として、過失の度合いが図られる。

あるいは、通勤中、「たまたま」通り魔に襲われたとする。「過失」を無理やり探すなら、その道を選んでしまったことになるのだろうか。

この「たまたま」が厄介だ。

それまでの善行・悪行に関係なく、「たまたま」悪い目に遭う。悪い結果になっていないのは、偶然に過ぎないのに、結果が「たまたま」悪ければ、悪い原因が遡及される。

理想の世界では、善人には報酬が、悪人には報復が与えられる。災厄に見舞われた人には埋め合わせとする幸福が与えられる。

だが、現実は違う。善悪と幸不幸が同期しない。現実は、むしろ運に左右される。そのため、善悪を語る場から、運を排除しようとする。

宗教や神話は、「神意」や「天命」と呼ばれる神の意志=運命を取り入れ、前世や来世の因縁で語る。善悪と幸不幸は同期しているが、それは前世からの報いであり、来世へ持ち越されるという理屈だ。

では、善悪を語る倫理学の場では、「運」はどのように扱われるのか?

「道徳と運」をペアで語れる哲学者は少ない。ほとんどは、運の要素に目を背けて、道徳の側面を語りたがる。

実際のところ、理想は道徳が支配し、現実は運に左右される。道徳を否定するものが運であり、運に抗うものが道徳である。「不道徳」とはすなわち「運」なのである。道徳と運は、いかにも相性が悪い。

『不道徳的倫理学講義』では、この食い合わせの悪い「道徳と運」に真っ向取り組む。タイトルの「不道徳」は「運」を指し、いわば「運」を倫理学で解く講義になる。確固とした道徳理論を語る哲学者たちも、「運」の要素から見ると、みな苦戦している(または見なかったことにしている)。

運の問題を回避したプラトン

まず、プラトン。彼は因果応報の神話を真実だという。善への報酬と悪への報いは、あの世を含めると公正だという。

そして、現実は違い、運の要素がついてまわる。プラトンは、この運の影響を最小限にするのが、知恵や勇気、節制や正義といった「徳」だとする。徳を最大化することで、運に関係ない善さを手に入れることができるとする。

だが、そうした徳も、運の影響下にあるのではないか? と著者は指摘する。知恵や勇気を身に付けたり、節制や正義を実現できる条件自体が、まさしく運によって左右されるのではないかというのだ。不遇な星の下に生まれ育ったのであれば、徳もへったくれもなかろう([On a plate]は、この格差を分かりやすく描いている)。

プラトンは『国家』のラストで、この運と徳の問題を巧妙に回避する。因果応報の神話にて、前世での自分が「選んだ」ことにするのだ。よりどりみどりではないものの、自分がどう生まれ・育ちとなり、どんな人になるかは、あの世で自分が決めたことであり、神意でも偶然でもないとする。

ポイントは、「よりどりみどり」ではない、という点だ。実は、選択肢を選ぶ順番が決まっているのだ。すなわち、前世で積んだ徳の順で、選んでいくという仕掛けだ。

悪い結果が出たとき、本当は運が悪いだけなのに、「前世の選択」や「徳」の概念で説明しようとする。これは[公正世界仮説]と呼ばれる認知バイアスによるものだろう。プラトンのみならず、多くの哲学者や宗教家が因果応報で説明しようとしてきたが、これは人としての仕様バグなのかもしれぬ。

「運」を排除したカント

次はイマヌエル・カント。道徳をめぐる問題圏から運の要素をどこまでも排除しようと試みた論者が、カントだという。

カントは、善いものを2つに分ける。一つは、才能や気質、権力や財産、名誉、健康といった「恵み」である。こうした恵みは、必ずしもそれ自体として善いものではないという。

もう一つは、善い意志になる。これは、無条件で普遍的な義務を自らに立ててそれを果たそうとする意志であり、それ自体として善いものだという。

そして、善い意志の元で行動しても、運が悪かったり、体力や健康に恵まれていなかった場合、良い結果を出せないときがある。だが、それでも善い意志はそれだけで光り輝くという。カントは、外的な要因に左右される結果より、内的な意志に価値を与える。

徳と幸福が一致する条件として、人間の理性を最上に持ってきて、運がもたらす結果に関係なく、善い意志は善いとする思想は素晴らしい。

だが、本当だろうか? どれほど不正や暴力にさらされていようとも、善い意志を持ち続け、道徳的な人生を送っているのであれば、それだけで幸福といえる、とすべきだろうか? 健気だ、不憫だ、と思いこそすれ、その人が幸福だと思うのは難しい。

倫理を語るうえで、道徳的な評価は運に左右されてはならないとするあまり、「道徳と運」について目をそらすか、敵視してきた。運は、理想を裏切る現実であり、秩序や安定を乱す厄介者だからである。

ネーゲルの道徳的運

そんな中で異彩を放つのは、トマス・ネーゲルになる。彼は、「道徳的運」という考え方を提示するのだが、この発想が面白い。

そもそも「道徳」の原理は、個人の自由意志に基づいて選択した行為に対し、責任を帰するところにある。一方「運」とは、個人の意志では制御できない偶然的要素であるが故、責任を帰せないことを指す。だから、「道徳と運」は排他的な存在なのかもしれぬ。運が通れば、道徳は引っ込むのだ。

ネーゲルは、道徳的な義務や責任を負うべきなのは、個人の意志で制御できる行動においてだけだとする。そして、個人で制御できないのだけれど、道徳的な判断の対象として扱われるものを、道徳的運と名づける。

運が良い場合・悪い場合、いずれも個人の意志で制御できるものではない。そうした運一般のうち、道徳的に責任が問われるものが道徳的運という訳である。

もし現実が、個人の意志で完全に制御でき、運の要素が一切入らない均質な世界であるのなら、行為が引き起こした結果を全て引き受ける責任が生ずるだろう。

だが、現実はそうではなく、個人ではどうしようもない状況が「たまたま」起きることがある。また、非難されることは一切していないにもかかわらず、起きてしまったことが「たまたま」悪いこともある。

だから、行為と結果の間には、完全な因果だけしか成り立っていないわけではなく、運の要素がついてまわる。現実は、均質な世界ではないのだ(このあたりの議論は、『それは私がしたことなのか』(古田徹也、新曜社)に詳しい)。

これを無視して、「個人の意志で制御できたならば、悪い結果にならなかった」として、個人に責任を求めるには無理がある。ネーゲルの道徳的運という考え方は、現在は常識とされる現実の不均質な面を浮き彫りにしている。

道徳と運、ままならないものをどのように扱うかを考える一冊。

スペシャルサンクス:面白文章力クラブ

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人類を平等にするのは戦争『暴力と不平等の人類史』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年9月12日


貧富の差は拡大する一方。一向に格差の是正が進む気配はない。

日本に限った話ではない。北米、南米、中国、東南アジア、アフリカ……世界中、至るところで格差は絶賛拡大中だ。格差の拡大は、人類社会の宿命なのだろうか?

古今東西の不平等の歴史を分析した、ウォルター・シャイデル『暴力と不平等の人類史』を読むと、これは事実ではないことが分かる。たしかに貧富の不平等はあるが、これを一掃する平等化が果たされる。人類の歴史は、不平等の歴史でもあるが、平等化の歴史でもあるのだ

本書の目的は、この平等化のメカニズムを解明するところにある。データと史料とエビデンスでもって緻密に徹底的に分析する。

不平等のメカニズム

まず著者は、不平等は人間社会の基本的特徴だという。人類が食糧生産を始め、定住化と国家形成を行い、さらに世襲財産権を認めて以降、不平等が進むのは既定の事実だと述べる。なんとなくそうではなかろうかで済ませがちだが、著者はあくまでデータで示す。

たとえば、物質的不平等を、残された亡骸や住居跡から判別する。上流階級の人間が、その他大勢より背が高かったことを、ギリシャのミケーネで発掘された骨格記録から考証する。

あるいは、古代から中世のイギリスにおける住居サイズの中央値を調べ上げ、不平等との相関を明らかにする。そして、階層分化が激しかった社会は、そうでない社会よりも、貧富の差が体格や住居の差に現れていたことを、データでもって実証するのだ。

土地や奴隷といった資産管理や、徴税・納税が記録として残されている時代になると、著者は、「ジニ係数」と「上位1%の所得シェア」の統計値を推計する。

「ジニ係数」は0から1までの値を取り、0に近づくほど平等に分配されており、1に近づくほど不平等になる。「ジニ係数=1」なら、たった一人が全所得を独占していることになる。「上位1%」は全人類を富者から貧者まで並べ、上位の1%がどれだけ独占しているかを示す。

「ジニ係数」と「上位1%」、著者はこの2つの視点を元に、膨大なデータと史料を駆使しながら、貧富の格差がどのように拡大し、そして均されていったか明らかにする。

そこで明らかになるのは、数千年にわたり、文明のおかげで平和裏に平等化が進んだことはなかったという事実である。古代エジプトであれヴィクトリア朝時代のイギリスであれ、ローマ帝国であれアメリカ合衆国であれ、社会が安定すると不平等が拡大したことは動かしがたい。

富を紙にする「戦争」

この貧富の差を解消し、不平等を大幅に是正する存在がある。

戦争だ。

それも国家レベルで大量動員し、国土を焦土と化すほどの大規模なものになる。物理的な破壊のみならず、没収的な課税、インフレ、政府規制などにより、エリート層の富は消え去る。

著者は、戦争の規模とそれが平等化の是正に与える影響をデータでもって示してくれる。なかでも史上最大の平等化装置となったのは、第2次世界大戦だという。1935~1975年の上位1%の所得シェアの推移を見ると、大戦を境に、20%から8%へと急激に低下している。

日本における不平等も、太平洋戦争が解消してくれたと言える。

まず、戦争が行われている間、政府規制、大量動員、インフレ、物理的破壊が、所得と富の分配を平準化した。戦後になると、財閥の解体による私有財産の再分配が行われ、農地改革による地主制度が根絶したという。これに加え、海外資産の喪失と金融の崩壊により、富は紙になった。

さらに、企業別労働組合の創設や、累進性の高い所得税や相続税といった制度の適用により、所得と不平等と富の蓄積はある程度押さえられたと分析している。

太平洋戦争を境に、日本のジニ係数は0.6から0.3へと大幅に低下している。何百万もの人命と、国土に甚大な被害をもたらした戦争が、結果として、他に見られない独自の平等化をもたらしたというのだ。

ただ、あらゆる戦争が平等化をもたらすかというと、違う。近代以前の略奪と征服を特徴とする伝統的な戦争は、たいてい勝者側のエリートに利をもたらし、急激に不平等を拡大させていた。さらに、戦争規模が小さい場合、平等化は一時的なものにすぎないという。格差解消のために戦争を求める声もあるが、徹底的な破壊と大量の血が必要となりそうだ。

全員を貧民にする「革命」

不平等を是正するのは戦争だけではない。それは何か?

革命だ。

持てるものから強制的に奪い、持たざる者に分け与える。抵抗するエリートは追放するか、抹殺する、暴力的な革命だ。本書では、レーニン、スターリン、毛沢東が成し遂げたことが、どれほど平等化において効果的であったかを検証する。

「金持ちを吊るせ、奴ら全員に死を!」というレーニンの訴えは、スターリンの富農撲滅策で遂行される。小作農が地主の土地を奪い取ることを奨励し、標的が不足すると富農の定義を拡大した。雇用している者、碾き臼などの生産設備を所有しているもの、商売をしている者が、次々と含められ、逮捕や強制差し押さえが行われた。ブルジョアやエリートを標的とした大粛清では、150万人が逮捕され、その半数が抹殺されたという。

その経済の行く末は破滅的になる。没収を免れるため、農民は生産を抑え、家畜を殺し、農具を破壊した。耕地面積も収穫量も、革命前と比べて激減した。金持ちを殺し、追放し、奪ったことにより、格差は激減する。国全体が貧しくなったのだから。

毛沢東が成し遂げた平等化も、緻密に検証されている。

1950年の土地改革法により、地主の土地のみならず商業資産も没収対象となった。村の集会に強制的に引き出された地主は、糾弾され、財産は没収され、処刑されたという。最終的には1000万人以上の地主が財産を没収され、土地の40%が再分配され、殺されるか、自殺に追いやられたのは200万人に上る。

大量の血が流されたが、この革命により、中国における平等化は劇的に進んだという。中国全体の市場所得ジニ係数は、実証的には分かっていないものの、推測値として0.31(毛沢東が死去した1976年)が挙げられている。さらに、1980年前後の都市部の所得ジニ係数は0.16と推計されている。

ただ、あらゆる革命が平等化をもたらすかというと、違う。これは戦争と同様で、平等化のためには中途半端な暴力は役に立たず、充分な破壊と血を必要とする。キューバやニカラグアでの革命政権は、暴力的な強制に頼らず、民主的共存を目指したため、有効な平等化を果たせなかったことが、データでもって示される。特に、フランス革命は歴史として有名だが、富の分配への影響は地味なものだったことが明らかにされている。

暴力革命がもたらしたもの

血と暴力による革命のおかげで小さくなったジニ係数は、経済自由化により劇的に反転する。

毛沢東の死後、20年で国民市場所得のジニ係数は0.23から0.51になり、本書が執筆された時点(2017年)では0.55とみられている。さらに、家計純資産のジニ係数は、1990~2012年の間に、0.45から0.73まで上昇したというデータも示されている。また、ロシア市場収入のジニ係数は、1980~2011年で0.26から0.51に上昇する。

社会が安定し、資産が保護され、経済が回り、富が蓄積するようになると、ほとんど人類の仕様のように格差は広がる。著者は、暴力革命が平等化において果たした役割と、その後に拡大した貧富の差を指摘した後、こうまとめる。

これらの事例のほとんどでは、共産主義政権が名目上は権力を握り続けているものの、経済の自由化が急速に不平等を押し広げてきた。同じことが共産主義政権崩壊後の中欧社会にも当てはまる。共産主義が何億何千万という人命を犠牲にしてまで、どんな価値あるものを得たのかということは、本書の研究の対象外とするところではない。だが、ひとつだけ確かなことがある。共産主義が多くの血を流して手に入れた大幅な物質的平等というものは、もはや影も形もなくなっている

平等化の四騎士

人類の仕様としての不平等と、それを大幅に解消する暴力的破壊。ここでは、「戦争」と「革命」を中心に紹介したが、本書では、これに2つを加え、以下を平等化の四騎士として紹介する。

  1. 大量動員戦争
  2. 暴力革命
  3. 国家の破綻
  4. 致死的伝染病の大流行

どれも膨大なデータと徹底的な検証により導き出された「平等化の騎士」であり、どれだけ不都合だろうとも、いったんはファクトとして受け止める必要がある。

読んでいて、どうしてもぬぐえぬ違和感があった。それは、「平等化」をジニ係数や上位1%で見る視点だ。

わたしは、「平等化」とは、富の分配の話だと考える。単純に、富める者から貧しい者へ、富を分配すればいいのに、人類はそれをするのが不得意だ。一方、平等化の四騎士は、極めて得意だということが、本書の主張である。

だが、そこでなされていることは、「富の分配」ではなく、富の破壊である(2.は、「富の分配」を目指していたかもしれないが、実際は、富の破壊だった)。戦争、革命、崩壊、疫病の現場において、エリートは奪われる富を持っていた。だが、貧乏人は奪われるといったら命しか残っていなかった

生き残ったエリートは、富の大部分を失い、生き残った貧者は、生産設備に対する労働力の相対的な価値が上がり、賃金が上昇した。これを数字にすると、ジニ係数の低下になるが、死んだ人は「貧者」としてカウントされない(文字通り、死人に口なし)。違和感の正体はこれだ。

平等化の四騎士がやっていることは、富の破壊であるだけでなく、貧者の口減らしでもある。ジニ係数だけを見ていると、貧者が奪われるものを見失うだろう。

Bouryokuto1

 

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「動作」に特化した創作者のためのシソーラス『動作表現類語辞典』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年9月20日


文章を書いていて、似たような表現をくりかえすことがないだろうか。

わたしは、よくある。そんなとき役立つのは、シソーラス・類語辞典だ。関連するワードや概念を別の言葉で表現することで、ボキャブラリーを広げ、マンネリに陥らぬようにする。

よく使うのは名詞や形容詞の言い換えだが、所作や行動に特化した『動作表現類語辞典』が斬新なり。これ、小説やシナリオを書く人にとって、強力な一冊になるだろう。

見出しは全て「動詞」で、五十音順に並んでいる。

たとえば、「教える(teach)」だと……アドバイスする、補助する、承知させる、文明化する、コーチする、調子を整える、忠告する、開発する、監督する、規律に従わせる、改善する、叩き込む、強化する etc……とある。

かなりのバリエーションだが、「教える」は様々な行動になる。ありがちな「アドバイスする」から、状況により「叩き込む」こともありだ。えっちなシーンだと、「教える=開発する」という意味も持つ。眺めるだけで、妄想と語彙力がマシマシになる。

本書がユニークなのは、もとは俳優が用いる演劇の方法論「アクショニング」をベースにしている点だ。

アクショニングとは、舞台や映画で何かを演ずるとき、セリフや行為の一行一行に対し、注釈のように動詞を割り当て、何を「する」のかを考えることだという。そうすることで、俳優は、セリフの方向付けや演技のニュアンスを豊かにする。

この何かを「する」は、必ず「他動詞」すなわち目的語を持つものが選ばれる。誰か(何か)に対して「アクション」をする、常に対象となる客体が必要だというのだ。そして、動作対象に自覚的になることで、セリフの一行、一つのしぐさに、意味と具体性が出てくる。

演技に説得力を持たせるアクショニングは、小説やシナリオを書く時にも役立つ。

すなわち、キャラクターの所作や発話の背景にあるアクションを念頭に、表現を決めることができる。

たとえば、登場人物が「教える」とき、どのように教えるか? ちょっと「アドバイスする」程度から、徹底的に「叩き込む」ように教えるのか? 何かに目覚めさせるなら「開発する」も使っていきたい。

このとき、人物が何を欲し、どんなアクションをしたいのかを予め考え抜いておくことで、そのアクションに対する、より具体的でリアルな動詞を見出すことができる。

カート・ヴォネガットは創作論の中で、「たとえコップ一杯の水でもいいから、どのキャラクターにもなにかをほしがらせること」と指摘した。物語の本質は、登場人物が欲しがっているものを手に入れようと行動することにある。その行動に意味と具体性を与えることがアクショニングであり、これにより演技や描写の説得力が増す、という仕掛けである。

物語作家や俳優、パフォーマーは必携の一冊。

Dousa

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ミスが全くない仕事を目標にすると、ミスが報告されなくなる『測りすぎ』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年9月24日


たとえば天下りマネージャーがやってきて、今度のプロジェクトでバグを撲滅すると言い出す。

そのため、バグを出したプログラマやベンダーはペナルティを課すと宣言する。そして、バグ管理簿を毎週チェックし始める。

すると、期待通りバグは出てこなくなる。代わりに「インシデント管理簿」が作成され、そこで不具合の解析や改修調整をするようになる。「バグ管理簿」に記載されるのは、ドキュメントの誤字脱字など無害なものになる。天下りの馬鹿マネージャーに出て行ってもらうまで。

天下りマネージャーが馬鹿なのは、なぜバグを管理するかを理解していないからだ。

なぜバグを管理するかというと、テストが想定通り進んでいて、品質を担保されているか測るためだ。沢山テストされてるならバグは出やすいし、熟知しているプログラマならバグは出にくい(反対に、テスト項目は消化しているのに、バグが出ないと、テストの品質を疑ってみる)。バグの出具合によって、テストの進捗と妥当性が判断できる。

「いじめ」をゼロにする方法

似たようなことは、教育行政で見かける。

「いじめゼロ」を目標にして、いじめが起きた学校や教室を処罰対象にする。「いじめの報告件数」が、教師や学校の評価に響くとなると、いじめは確かに報告されなくなり、統計上は減少する。そして、告発の手紙を遺して自殺した子どもに対しても、「いじめではなかった」と強弁される。

どんなに対策しても、いじめは起きる。重要なのは、いじめは起きる前提で準備をすることであり、その件数は準備の材料にすぎない。ここをはき違えると、いじめの報告されない社会になる。

バグ件数やいじめの報告数は、カウントできる。「数」という比較しやすい値を出せ、場所や時系列といった軸で表現しやすく、Excelやグラフとの親和性も高い。結果、カウントしやすい(加工しやすい・グラフ映えする)数が重視される。バロメーターの1つであり、いち判断材料にすぎない測定値が、目標にすりかわる。

測定値が目標にすり替わるメカニズム

この、測定値という「手段」が、本来それを役立たせるべき「目的」になるメカニズムを描いたのが、『測りすぎ』である。

テストの成績や、犯罪発生率、インパクトファクター(文献引用率)といった測定基準が、本来の役割(実態のバロメーター)から離れ、目標そのものと同一視されるようになる。さらに、目標を達成するために測定基準がゆがめられ、数字に振り回せされる顛末が、これでもかと書いてある。現場を見ずに数字だけを見る馬鹿マネージャーは、どこにでもいる。

ただし、馬鹿には馬鹿なりの理屈がある。本書は、その理屈を徹底的に掘り起こす。

マネージャーとして求められるものは、その成果になる。自分がそこに就いて、どれほどの実績を出せたかどうか、説明責任がある。この「説明責任」が厄介な問題だという。

説明責任(アカウンタビリティ)は、もともと「自分の行為に責任を負う」という意味のはず。だが、一種の言語的トリックによって、測定を通じて成果を示すことに変わっていったという。あたかも、大切なのは測定できる(カウントできる)ものだけであり、測定できないものは埒外と扱われるようになった。

成果主義の風潮と、短期に目に見える結果を出すプレッシャーにさらされると、「カウントしやすい」数値目標を追い求めるようになる。実態は複雑で、その成果も複雑なのに、簡単なものしか測定せず、その数値こそが実態を完全に表していると思い込む。

そして、その数値でもって報酬や懲罰、格付けの基準とみなすのだ。馬鹿マネージャーの思い込みは、下々のものへは「数値目標」という形で上意下達される。

すると何が起きるか? その数値―――テストの成績や、犯罪発生率、インパクトファクター―――だけを良くすることが仕事になってしまうのだ。

たとえば、学力の低い生徒を「障碍者」として再分類し、評価対象から排除することで、成績の平均を引き上げる。「犯罪率を20%下げる」という目標は、記録される犯罪件数を20%に減らすため、未満・未遂に格下げされる。自分の論文の引用件数を引き上げるため、非公式な引用サークルを結成し、互いの論文を大量に引用しあう。

「非公式な引用サークルを結成し、互いに引用しあう」なんて、ランキングや口コミサイトで見かける裏技だが、大学教授もやっているのかと思うと笑ってしまう。

笑えるだけでなく真顔にもなるのがその続きだ。

大学の成果を測定するための管理コストが増えているのだという。インパクトファクターや格付け、評価ランキングを測定し、その値を上げるための「仕事ごっこ」が、本来なら研究や教育に費やす時間を食いつぶすことになる。結果、事務職員の仕事が増えることになる。

大学の教育費が上がっている現実的な原因は、こうした説明責任のための管理コストだというのである。

大学を格付けし、それに応じて助成金を配る行政そのものが、測定のためのコストを跳ね上げ、ひいては教育費の増加を招いている。本書は米国の事情だが、日本の大学も似たような弊害があるかもしれない。大学教育の費用と、事務職員の数を重ねたら、一発で見えるだろうね。

「仕事ごっこ」に気づく

馬鹿なマネージャーは丁重に追い払えばいいが、仕事ごっこが好きな上司はそこらじゅうにいる。

どうすればよいのか。本書では、そもそも何のために測定しているのかを指摘する。

コンピュータを用いて犯罪件数を統計化するのは何のためか? どの地域が最も問題を抱えていて、どこにリソースを配分するのが良いかを判断するためだ。共通テストを受けさせるのは何のためか? 科目ごとの生徒の理解度を教師が把握し、指導方法やカリキュラムを見直すためだ。

問題は、昇進や懲罰をちらつかせ、犯罪件数やテストの点数を「目標」とさせるところにある。測定値は実態の一面を切り取ったバロメーターにすぎず、判断の代わりにはならない。反対に、「それを測定するか?」は判断が必要になる。

  1. そもそも労力を払ってまで測定すべきものか?
  2. 何を、どうやって測定するのか?
  3. 測定値は、どのように扱うのか?
  4. その値は、どうみなされるのか?
  5. 結果は公開すべきか?

特に1. が重要。データの収集や分析には時間と労力がかかる。「事務作業」という名目に、膨大な測定コストが隠れてしまっている。そのコストはメリットと比較すると大きなものになるかもしれないし、本当に知りたいことと何の関係もないかもしれない。

「数値目標」は、上司や政府のスポークスマンがよく掲げる。それらがどれほどまっとうで、どれくらいバカらしいか、あらためて吟味できる一冊。

Hakarisugi

 

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え?ワンオペプロジェクトの担当が死んだのでソースコードが消えたって?

プログラマは、コードを書くのが仕事かもしれない。だが実際は、コード「も」書くのが仕事だ。

要件を整理し、設計の不備を指摘し、開発・テスト環境を作り、データベースやネットワークも整備し、テストもするしデプロイもする。なんでもやらされるというか、やらないと「コードを書く」という仕事が成立しない。

そして、責任感が強く、優秀であるほど、一人で抱え込み、回せてしまう。結果、「その人」に仕事が集まり、「その人」しか回せなくなり、属人化が進んでいく。

そんな状況で、突然その人が死んだら、何が起きるか?

ワンオペ担当者が死亡

「姿勢計測ソフト開発」の判例が参考になる。これは、東京外環道の工事に用いられ、掘削機が想定通りに進んでいるかをリアルタイムに計測するソフトウェアだという。

2017年2月に初期版をリリースした後、機能追加が発注されていく。「一回作って終わり」ではなく、土木工事で検証された結果をフィードバックしていく性質のため、改良版を順次リリースしていた。

2019年4月に、開発していた担当者(Dさん)が死亡した。病気、事故、自殺……理由は明記されていないが、「担当者死亡により作業中止」とある。

リリースは、実行ファイル形式で引き渡されていた。ユーザ側はプロジェクトを引き継ぐため、成果物として最新版の提示を求めるのだが、ベンダ側はそれを見つけられず、裁判になる。

裁判の争点で重要なのは、「成果物としてソースコードも含まれるか?」という点にある。

厄介なのは、成果物が何かについて契約書に書いていなかったことだ。さらに、契約自体が、請負なのか準委任なのかについても明確ではなかった。請負ならソースコードが成果物として扱われるだろうし、準委任なら明記されない限りソースの有無は問われない。

まずユーザ側は「請負契約なのに完成しなかった」と主張した。しかし、裁判所はそこまでは認めなかった。

一方で、姿勢計測ソフトは継続的に改良する性質のものだった。改良や機能追加にはソースコードが必要になる。だから裁判所は、実行ファイルだけでなく、ソースコードも成果物に含まれると判断した。

そして、最新ソースコードを把握・回収できていなかったため、ベンダ側の債務不履行となった。

資産であるソースがどう管理されていたか?

2018年ならGit等は使えていたはずだが、クラウドリポジトリを使っていたかどうかは、判例からは読み取れない。オンプレサーバや定期的なバックアップがあったかも記載されていない。

分かっているのは、組織的なソース管理はされておらず、Dさんの作業環境に依存していたことだ。

トラックナンバー1(ワン)

ウチはGitにあるから大丈夫、と思うかもしれない。だが、ソースコードは象徴的な例と考えたほうがいい。

例えば、

  • ソースコードは個人アカウントのレポジトリにある
  • 個人のスマホで二段階認証
  • その人しか知らない場所に暗号化鍵が保存
  • パスワードマネージャのマスタパスワードがその人だけ知っている
  • 2FAのrecovery codeが不明
  • DBやファイルの暗号化の鍵の所在

ソースやDBが残っていても、暗号鍵が無ければ復旧できないし、鍵を保存する場所なんて、それこそ個人の裁量に任されている場合があるかもしれない。

GitHubにはコードがある。AWSには本番環境もある。DBも残っている。だが、管理者が死亡した本人だけで、2FAも本人のスマホだけ。だから誰も触れない。これが、クラウド版の「最新のソースコードが見つからない」になる。

姿勢計測ソフト開発は、Dさんがほぼ一人で回していた。

打ち合わせに出て、改良点や追加機能をヒアリングして、ソースに反映する。それをテスト・修正したものを提供し、現地での調整や検収にも関わっていた。ソフトウェア開発の実質的な作業は、Dさんが担っていたことになる。

そして、Dさんがやっていたことの代わりはおらず、開発は中止となった。これは単なる「担当者不在」ではなく、会社として受けた開発が、特定の個人の技能と環境に強く依存していたことになる。

「何人トラックに轢かれたら、そのプロジェクトは破綻するか?」というブラックジョークがある(バスに轢かれる場合は、バス係数と呼ぶ)。複数のメンバーで回していても、「この人がいなくなったらプロジェクトは止まる」という人がいる。

そういう属人的な要素を取り除こうと戒めるためのジョークなのだが、このプロジェクトの場合は、トラックナンバー1(ワン)だったことになる。

ワンオペで回している「その人」の重要性は、トラックナンバーが0になったとき露呈する。属人化の怖さは、「その人が優秀であること」ではない。その人がいなくなった瞬間、プロジェクトが破綻し、企業として契約不履行となる。

これ、他の専門職と比べものにならないくらい大きい。

もちろん、医師や弁護士、会社役員のような場合、「その人」を失うことは、企業にとって大きな痛手になる。だが、カルテや事件記録、契約書や稟議は組織に残る。なので、資格を持った「代わりの人」が引き継ぐことができる。

一方、属人化したソフトウェア開発では、「その人」を失うと同時に、ソースコード、認証情報、暗号鍵が失われる可能性がある。失われるのは、一人分の労働力ではなく、企業が保有しているはずのソフトウェア資産そのものだ。

ワンオペで回している人は、このリスクを自覚しているだろう。

だが、会社は認識しているだろうか?

 

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「いま・ここ」から離れる『世界文学アンソロジー』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年9月29日


Sekaibungaku_

日ごろ「自分」を機械的にやっていると、外面の「自分」が当たり前になる。仕事上の立場だとか、SNSで被っているキャラといった、日常的に使い分けている「自分」が、内面のわたしを乗っ取りはじめる。

そんな「自分」を異化するため、他人の物語を聞く。しかも、できるだけ「いま・ここ」の自分から離れたものがいい。異なる言葉、違う文化の物語を聞くことで、自分にとっての当たり前が、当たり前でないことを思い知る。

『世界文学アンソロジー』を手にすると、このアタリマエじゃ無い感が浮彫りにされてくる。

固まった「自分」に一撃を加える

たとえば、フランツ・カフカの「夏の暑い日のこと」がそう。

わずか2頁の掌編なのに、常識が丸ごと壊される感覚を味わえる。何も悪いことをした覚えがないのに、突然逮捕される『訴訟(審判)』を思い出させる。あるいは、自分の身の上に、何か重要な間違いが起きつつあるのに、それに関わらせてもらえない『城』を予感させられる。常識というものが、いかに脆弱な日常の上に成り立っているか、嫌というほど分からせてくれる。カフカ未体験の人には、比較的短い『変身』がお薦めされているけれど、こっちを推したい。2頁でカフカの喪失感が味わえる。

あるいは、サイイド・カシューア「ヘルツルは真夜中に消える」もそれ。

昼間はユダヤ人として過ごし、真夜中を過ぎるとアラブ人へと変貌する話だ。外見はどこも変わらないのに、話す言葉や信条・思想が完全に入れ替わる。ジキル・ハイドやドリアングレイを想起させられるが、彼がなぜ、どのように変貌するかは、説明が一切ない。わたしの場合だと、社会的な立ち位置や慣習が、自分の内なる信条を強化するが、ヘルツルの場合では、なり替わる人格という内面が外化する。

「いま・ここ」を再確認する

しかし、異なる言葉・違う文化の物語を聞いているうちに、まるで自分のことを言われているような気がしてくる。自分の当たり前を外から眺め、揺さぶるうちに、ぐるりと巡って、まさに「いま・ここ」へ戻ってくる感がある。

イタロカルヴィーノの「ある夫婦の冒険」がそうだった。

夫は夜のシフトで、妻は昼の勤務の日常を切り取った短編だ。ベッドを共にはしているが、その間はわずかだ。相手が帰ってきて、身体を洗ったり食事を一緒にしたりする折々で、ちょっとしたすれ違いとときめきが同居する。自分のライフサイクルと全然違うのに、なぜかこのクスクス笑いをしたことあるぞ……という気にさせられる。仕事にでかけた伴侶が寝ていたベッドの温かい場所を足で探すその動きは、まさにわたしもしたことがある。

そして、フリオ・コルタサル「グラフィティ」がぐっときた。

軍事政権の重苦しい中で、壁に落書きをする若者たちの話だ。落書きといっても、人や鳥や抽象的な図を、チョークでこっそりと書きつける、グラフィティアートだ。監視の目が光っているから、めったなことを描くと、連行される。そんな状況で、若者は、自分が描いた図案の隣に、黒いチョークで言葉が書きつけられていることに気づく。

わたしは痛みを抱えている。

2時間と経たず、警察が直々にその絵を消しにやってくる。それからは、絵だけでやり取りをする。2人称で描かれているため、この話を最後まで聞くと、まるでチョークを渡されたような気になる。描くこと、言葉を発すること、表現することについて、「いま・ここ」も同じのかもしれぬ、そんな気分になっている。

収録作品一覧

日常に凝り固まった自分を、いったん離して眺めるために、異なる言葉、違う文化の物語を聞く。自分の当たり前は、世界の当たり前じゃないことに気づく。その一方で、異なる言葉、違う文化の中に、まさに自分自身を見出す。

短く、特徴的な話を厳選しているため、「はじめての世界文学」の入り口として最適だ。「愛」「家族」「戦争」といったテーマごとに、硬軟とり揃えて、もっと読みたい人向けのブックリストも紹介している(しかも難易度が★で分かる!)。気に入った作品を手掛かりに、もっと奥に行きたい人にはうってつけだ。

『世界文学アンソロジー』は、まさに世界文学スターターパックの一冊といえる。

  • エミリー・ディキンスン(アメリカ)「ことば」
  • 李良枝(韓国/日本)「由煕」
  • サイイド・カシューア(イスラエル/アラブ)「ヘルツル真夜中に消える」
  • フェルナンド・ペソーア(ポルトガル)「わたしは逃亡者」
  • ハンス・クリスチャン・アンデルセン(デンマーク)「影法師」
  • チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ(アメリカ)「なにかが首のまわりに」
  • フォローグ・ファッロフザード(イラン)「あの日々」
  • ジェイムズ・ジョイス(アイルランド)「土くれ」
  • 魯迅(中国)「狂人日記」
  • 石垣りん「子供」
  • プレームチャンド(インド)「私の兄さん」
  • チヌア・アチェベ(ナイジェリア )「終わりの始まり」
  • パウル・ツェラーン(ルーマニア)「死のフーガ」
  • イサーク・バーベリ(ロシア)「ズブルチ河を越えて/私の最初のガチョウ」
  • フリオ・コルタサル(アルゼンチン)「グラフィティ」
  • ファン・ラモン・ヒメネス(スペイン)「わたしはよく知っている/鳥達は何処から来たか知っている」
  • 石牟礼道子「神々の村」
  • クリスタ・ヴォルフ(東ドイツ)「故障――ある日について、いくつかの報告」
  • コレット(フランス)「ジタネット」
  • イタロ・カルヴィーノ(イタリア)「ある夫婦の冒険」
  • 莫言(中国)「白い犬とブランコ」
  • フランツ・カフカ(チェコ)「夏の暑い日のこと」
  • アズィズ・ネスィン(トルコ)「神の恵みがありますように」
  • 宮澤賢治「毒もみのすきな署長さん」
  • ディラン・トマス(ウェールズ)「あのおだやかな夜におとなしく入ってはいけない」
  • ジュール・シュペルヴィエル(フランス)「沖合の少女」
  • ガブリエル・ガルシア=マルケス(コロンビア)「世界でいちばん美しい溺れびと」

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辛すぎることは、向き合うんじゃない、やり過ごすんだ。『胃に穴』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年10月8日


わたしを支える言葉に、「開いた窓の前で立ち止まるな」という警告がある。人生は悲哀に満ちており、生きるに値しないと思うときもあるけれど、それでも生きていくためにはどうするか? そのコツが、この言葉だ。

このセリフは、ジョン・アーヴィングの2番目の傑作『ホテル・ニューハンプシャー』で知った。苦しみや悲しみが大きすぎて、生きていくのが辛いとき、真正面から向き合うのは得策ではない。まともに対処しようとするうちに、たまたま開いていた窓から出て、人生から降りてしまうから。

辛すぎることは、やり過ごす

そうじゃないんだ。辛すぎることは、向き合うんじゃない、やり過ごすんだ。

この、やり過ごす方法を教えてくれるのが、フミコフミオ氏の『胃に穴』になる(本当のタイトルはもっと長い)。理不尽な仕事での「怒り」の扱い方や、「正義」を強要する人との向き合う心得、あるいは非人道的な仕打ちを受ける結婚生活のしのぎ方が、経験談とともに紹介される。どれもめっちゃ笑えるが、笑う瞼の内側では泣けてくる。

たとえば、帰るギリギリになって面倒ごとを投げてきて、タイムオーバーか、諦めの「もういいよ」というセリフを狙ってくる部下。これ、上司が怒れない性格だと知ってやる悪質なやつ。わたしならバーンと怒ってやるのに!……とちょっとだけ思うが、たぶんやらない(やれない)。

こういう怒りを溜めておくと、どんどん苦しくなることは、経験的に知っている。ではどうするか?(答:夜半に電柱に怒る)……これ、わたしもやったことがある。毎晩同じ場所でやるとパトロールが来るので、時間と場所を毎回変えるのがポイントだ。

あるいは、正義を強要する人。気に入らない人を常時ロックオンして「あいつサボってる!」と非難する。自分の正しさを証明するために非難するだけでなく、「あいつ、マジでヤバくない?」と周りを巻き込もうとする。

そんな、人の行動のいちいちが気になり大騒ぎする人をどうするか?(答え:露骨に無視する)……これは成功して無さそうだが、「正義」酔いして我と時を失わずに済む最良の方法だと思う。

開いた窓の前で立ちどまらない

悲哀にまみれたエピソードの一つ一つに大笑いするが、ひっそり埋め込まれた一言一言が、中年のおっさんの胸にグサリと突き刺さる。

  • 「結婚はいいものだ」と言ったのは、そう言わなきゃ結婚なんてやってられないから
  • 「正義は我にあり」と信じ切っている人ほど信じがたい行動に出る
  • 他人なんてどうでもいい。大事なのは、自分の人生のジャッジを他人に委ねないこと
  • 人生のすべてで勝つことはできないからやり過ごすようにしよう。やり過ごすための言い訳は武器だ。

どれもこれも突き刺さる。「きっつー」なんて揶揄して言わないと、大きすぎる苦しみと、まともに向き合うことになる。そのとき、開いた窓の前で立ちどまってしまったら、人生を降りることになる。

人生を立ちどまってもいい。そんなのしょっちゅうだ。だが、開いた窓、通過する総武線快速、新宿NSビルの吹き抜け、そこで立ちどまってはいけないのだ。

そうしないために、『ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。』をお薦めする。

Bokuha

 

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ナチスのデザイン『独裁者のデザイン』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年10月14日


ニュースに接するとき、心の中でアラームが鳴るものと、そうでないものがある。

Dokusaisha

アラームが鳴ったものは、後になって、ニュースを装ったプロパガンダだったり、意見誘導のために歪められた情報であることが判明することが多い。100%ではないものの、おおむね信頼できる。

アラームが鳴るものと、そうでないもの。この違いは何だろう?

うまく言語化できなかったが、『独裁者のデザイン』にあった。

本書は、ヒトラー、ムッソリーニ、スターリン、毛沢東といった独裁者に焦点を当て、プロパガンダを駆使してどのように大衆を躍らせ、抑圧していったかを、デザインの観点から見直したものだ。

独裁者のイメージ戦略

デザインそのものには、右や左といった政治色や、善や悪などの道徳的な属性は存在しない。デザインとは、あくまで図案であり設計であり道具といったニュートラルな存在である。

しかし、デザインを利用する側の姿勢によっては、「謀る」という意味も発生するという。デザインは、人の心を一定の方向に動かし、奮い立たせることができる。また、その本質を形や機能と一体化させることで見えなくさせ、人々の日常に溶け込ませることができる。

つまり、デザインの使い方によっては、独裁者の本音を隠しつつ、人心を誘導することも可能だ。その具体的なイメージ戦略がこれだ。

同じ言葉やアイコンを繰り返す

たとえば、「同じ言葉やアイコンを繰り返す」デザインだ。

同じフレーズやヴィジュアルを、何度も過剰なほど繰り返す。敬礼や行進の仕方、制服などのスタイルを統一させ、それを何度も反復して行う。巨大なポスターや垂れ幕を、大量に連貼りして同じメッセージを伝える。

繰り返されるメッセージも、バカにしているのかと思えるほどシンプルな言葉を連呼する。ヒトラーの連呼で定番なのは、「ひとつの民族、ひとつの国家、ひとりの総統」だという。また、ヒトラーだと、「Ja」を連呼し、ムッソリーニの場合は「Si」を連打したとある(どちらも、「イエス」を意味する)。

他にも、イメージが統一された制服や勲章や旗、同じことを称賛するポスターや記録映画、整然たる隊列と行進、そして画一的な敬礼が紹介される。この「同じことを繰り返す」は、様々な宗教や組織において、教理や信条を刷り込み、グループと一体化するため用いられる、古典的な手法だ。

この刷り込みの手法は広告でもおなじみだ。判で押したように商品名や常套句を繰り返すことによって、他のことを考えさせないようにする。商品名だけではなく、「今からでも入れる保険」や「過払い金の請求」など、概念の連呼も効果的だ。テレビやSNSで単純すぎるメッセージが幾度も出てくるとき、何を考えさせないようにしているかを考えたほうがいいかもしれぬ。

こちらを凝視する

特に計算されているのは、「こちらを凝視する」デザインだ。

人は視線に敏感だ。2つの点に「目」を感じたり、暗闇や背後に視線を感じるのは、捕食者の存在をいち早く知るために発達した認知能力だという。その結果、凝視を向けられるとき、人は、否が応でも注意を引き付けられてしまう。

本書では、「モナ・リザ」や、アルブレヒト・デューラー、レンブラントの自画像を用いながら目ヂカラの効果を説明する。そして、様々な映像表現で凝視の力を利用することで、大衆の注意を引き付け、戦略的に不安をプロデュースしたのが、ヒトラーになる。

まず、大衆の不満のはけ口を逸らし、責任を転嫁するために敵をつくる。そして、敵の脅威を繰り返し刷り込むことで、大衆の不安を煽る。この、人の注意を引き付け、不安を煽るには、独裁者がこちらを凝視する視線が強力に働く。

ヒトラーはもういないが、アイドルから政治家まで、この手法は現役バリバリだ。まず、こちらを凝視することで、見る人の注意を引き付けることができる。そして、アイドルならドキドキさせ、政治家なら「このままでいいのか!?」と不安を掻き立てることができる。

つまり、こちらを凝視しているポスターや映像には、ドキドキや不安を煽り、そこに付け込みたい意図が隠されている。注意しなければならないのは、凝視するデザインが悪というのではない(デザインに善悪はない)。

わたしが、凝視するデザインから情報を受け取るとき、何かが掻き立てられているはずだ。そのドキドキや不安は、計算されたものだということを意識して扱いたい。

女性や子どもの使いどころ

もう一つ、本書で目から鱗だったのが「女性や子どもの使いどころ」だ。

勇壮なアイコンとして、成人男性がモチーフになる。若者だと力やスピード、壮年だと経験や安心感といったイメージを伝える目的で使われる。これが、女性や子どもを使う場合、お金を無心する意図が隠されているという。

常に敵を作り出し、その敵をただすための戦争をしかける独裁者は、資金を必要とする。強制的に調達するのは最後の手段として、できるだけ国民が自発的にお金を提供する形にしたい。このとき、女性や子どもに寄付を募らせるというモチーフが採用される。

表向きは、父や兄(など戦える男たち)は出征しているから、女性や子どもは節約してお金を集め、戦時公債を購入しようというメッセージになる。その背後には、女性や子どもが率先して資金集めをしているのだから、(老若男女に関係なく)払わねば、という気にさせる。

「金をよこせ」という生々しい欲望を、女性や子どもという緩衝材で包む。本書ではドイツ少女団(ヒトラーユーゲントの女子版)の事例が紹介されているが、今なら募金キャンペーンのキャラクターが女の子である理由やね。政治的メッセージが女性や子どものアイコンを通じて伝えられるとき、その背後に「お金」を探した方がいいかも。

デザインは人を支配する

繰り返すが、デザインそのものに善悪はない。ナチスと同じ方法でデザインをしているから悪ということではない。ナチスは、デザインが人を支配することを熟知しおり、その効果的な手法を古今東西のアートから利用したにすぎない。服飾から空間デザインまで、政治と芸術を合体させたイメージ戦略を統一し、運用することに成功した。

わたしは、そこから「デザインはどのように影響を与え、人を支配するのか」というメカニズムを学び、自分のアンテナに付け加える。次にニュースに触れたとき、わたしの心にどんな影響を与えるかを意図して作られているかを、そのデザインから読み取るためである。

なお、ナチス映画を通じてヒトラーのデザインに焦点を当てたものが、同著者の『RED』。プロパガンダの実践を垣間見ることができる。未来の(あるいは現在の?)扇動者のデザインを予習するのに適している。

デザインは人を支配する。その力から逃れるのは難しいからこそ、メカニズムを理解し、その意図を知っておきたい。

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おかしな議論にごまかされないための『論証のルールブック』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年10月20日


『論証のルールブック』は、簡潔で説得力のある文章を書くためのルールが、50にまとめられている。1つのルールに1つの例文、1つの解説という構成で、この本そのものが簡潔さを目指している。

ごく基本的な常識レベルのものから、見落としがちな盲点まで、まんべんなく網羅されているのがいい。いくつか紹介する。

  • 主張には根拠が必要だ
  • 数字は他のエビデンスと同じような検証が必要だ
  • 長文の論証や、口頭で伝える際、サインポストを活用する

論点先取の見抜き方

「主張には根拠が必要だ」なんて、当たり前すぎて、なにを今さらと感じるかもしれない。確かにその通りだろう。だが、実際に、事実のフリをした意見や、根拠レスの主張に出会ったとき、即座に見抜けるだろうか。

たとえば、この主張なんてどうだろう。

  聖書に神は存在すると書かれているから、神は存在する

  聖書は神が書かれたのだから、正しい

これは、結論が前提に含まれた有名な例で、何も言っていないに等しい。通常は、一文目と二文目の間に、様々なレトリックが散りばめられ、分かりにくくなっている。だが、「前提→結論」の形にすると、論点先取はすぐ見抜ける。

 前提1 神が書いたのだから、聖書は正しい

 前提2 聖書には、神が存在すると書いてある

 結論 それゆえ、神は存在する

導こうとする結論(神は存在する)が、前提の中に既に含まれているのが分かる。証明しようとする事柄そのものを真実だと決めてかかり、根拠のない主張を通そうとする。神と聖書ではなく、地球温暖化やジェンダーの議論で見かけないだろうか。

数字を使った誘導

論証に出てくる数字は、特に注意を払う必要がある。著者は、統計情報の数字は、他のエビデンスと同じく、批判的に検討する必要があるという。問題は数字そのものというよりも、その使われ方だろう。

たとえば、次の主張の数字に注意してみよう。

スポーツ推薦で入学した大学生を、選手として使い物にならなくなったからという理由で退学させることで非難された大学もあった。それは過去のこと。多くの大学で、スポーツ推薦で入学した大学生の卒業率は50%以上だ。

この「50%」という数字に説得力があるか。「多くの大学」とあるが、そうでない大学もあることになる。そうでない大学を含めると、どう変わるのか? 「50%」は以前と比べて改善されているのか……といった検証が必要になる。

数字は、数えられるものを数えた結果であるがゆえに、明確・明白な印象をもつ。人は、数字が出てくると信頼しやすくなる傾向がある。

これを利用して、外挿(既知のデータから未知のことを推測する)による数字が出てくるとき、データの信頼区間が無視されていることがある。「数字は嘘を吐かないが、嘘吐きが数字を使う」のは、この外挿のタイミングになる。

サインポストの効用

「サインポストの活用」は、実際にやっている人には当たり前すぎるだろう。むしろ「サインポストって何?」と思うかもしれない。だが、やるとやらないとでは大きく違う。

サインポストとは、論証の道しるべとなる定型的な表現だ。

たとえば、前提が複数あるとき、こう述べるだろう。「前提は3つあります。第1に……、そして2番目に……、さらに最後に……」。この太字がサインポストになる。

これを使わずに、だらだらと前提を続け、いつの間にか意見も混ぜてくる人がいる。かみ合わない議論に陥るのを避けるために、対話の折り返しでこうまとめている「あなたの主張は〇〇ですね。そしてその前提となるものは4つあるとお見受けしました」。この太字もサインポストになる。

他にも、サマリーに戻るとき、「これが私の基本的な考え方です」で始めたり、話の最後で「これまでのポイントを3つにまとめます」と述べてから進める。そもそも、今から語ろうとしているのは、論証のどこに当たるのかを、予めて伝えておくのだ。

この応用としては、スライドを大量に使うプレゼンのとき、サマリーの全体像をサムネイル化し、各スライドの右上に配置して、どこを語っているかを赤枠などで強調する。「このスライドは、全体のここを説明してますよ」というサインポストである。

主張が受け入れられるか否かは別として、話の内容が一発で通る人とそうで無い人の決定的な違いは、ここにある。

常識を復習する

このように、当たり前すぎて見落としがちな原則が、わずか200頁にコンパクトにまとめられている。

特に面白かったのは、後半の「論証を誤らせるアンチパターン集」だ。原因でないものを原因にする「不当原因」や、人格や国籍・宗教を攻撃対象とする「人身攻撃」は聞いたことがあった。だが、経験的に罠だと分かっていたものに、名前が付いていたことを知って驚いた。

たとえば、「はい」と「いいえ」のどちらで答えても罠にはまる「君はもう、奥さんを殴るのをやめたのか?」という質問は、「複問」という名前があった(どちらを答えても「奥さんを殴った」ことを認めることになる)。

また、「きっとあなたはこんな迷信に惑わされる少数派ではないと思いますが…」という誘導的な前置きは、「井戸に毒を入れる」と呼ばれている(その後の主張の批判に対し、予めプレッシャーを与える常套手段)。

こうしたアンチパターンや詭弁集は、Wikipedia [詭弁] [論点のすり替え] にもあるので、ここから始めるのもいいかも。

知っている人には今更感この上ないが、常識を問い直すという意味で、復習してみるのもいいかも。類書と異なり、第5版までアップデートを重ねており、入門書として使うのもありだ。

ロジカルに伝えるための、薄くて強力な一冊。



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