ChatGPTをドラえもんに進化させる6ステップ

わかった風なオトナは、現代を「答えのない時代」と呼びたがる。

いわゆる、「正解が無い」という意味だろう。そして若者に向かって、「今までのやり方は通用しない」と脅す。正解を探すよりも、選んだ答えを正解にする努力が必要だとドヤる。

これは、知的怠惰だ。

正解の領域がハッキリしたものと、予測不能なものがあるだけだ。いつの時代でも同じことで、答えを求めて問い続けることが重要だ。「正解が無い」からといって問うのを切り捨てるのは、問うのを止めた言い訳に過ぎぬ。「今までのやり方は通用しない」のは当のオトナなのである。

では、予測不能なものを、どう正解に近づけるか?

それは、問いの精度による。

漠然とした問いだと、漠然とした答えしか返ってこない(Garbage In, Garbage Out)。「未来はどうなる?」という問いからは、無数の答えに不安になる。だが、「未来をどうする?」という問いなら、答えは「私なら……」に絞られてくる。そして、その答えをどう実現するかを考え始めることができる。良い問いは、良い答えへの探求を促す。

良い問いと答えへの探求、そして触ることができる答えが紹介されているのが、『温かいテクノロジー』である。

著者は、人型ロボットPepper(ペッパー)くんや、家庭用ロボットLOVOT(らぼっと)を開発した林要氏だ。「AIやロボットの発展は人を幸せにするのか」といった漠然とした疑問について、様々な側面から掘り下げ、問いの精度を上げたうえで、一つの解を示してくれる。それが、「温かいテクノロジー」なのだ。

生産性のためだけにロボットは存在する?

例えば、「ロボットの存在意義は、利便性の向上か?」という問いだ。

ロボットの語源となったチェコ語「robota(ロボタ)=労働」の意味通り、人よりも安価かつ効率的に働いてくれるものが、ロボットという存在だった。心を持たず、疲れを知らず、同じ作業を何度も繰り返すことができ、「生産性や利便性の向上」こそ至上とされていた。

これに疑問を抱くようになったきっかけとして、ペッパーくんの初期開発のエピソードが紹介されている。

現場でトラブルが生じ、ペッパーくんが起動しなくなったことがあったという。試行錯誤を繰り返していたとき、周りで見ていた人から「ペッパーくんがんばれ」と声援が上がったという。そして、なんとか起動に成功したとき、その場にいた全員が喜んだという。

それまで、「ロボットが人のために何かをする」ことが価値だと思っていたが、「人がロボットを助ける」ことで、助けた人が嬉しくなるということに気づいたというのだ。

また、ペッパーくんの改善要望として「手を温かくしてほしい」というリクエストや、言葉が通じない国では「ハグできるロボット」として大人気だったことを踏まえて、ロボットの存在意義の多様性に目を向けるようになる。

「AIが人を排除する」発想はどこから来るのか?

利便性の向上には貢献しないけれど、ただ存在するだけで意味がある―――そんなロボットの開発の中で、「AIが人を排除する」という発想を深掘りするようになる。

ロボットやAIの発展に伴い、人の仕事が奪われ、最終的には人類は不要の存在となる……世の中には、そう考える人が少なからずいる。ビジネス誌の煽り文句「ChatGPTで消える職業」に乗せられ、AIを脅威だと考える人たちだ。

本書では、「AIが人を排除するのか?」ではなく、「なぜAIを脅威だと考える人がいるのか?」と問い直す。

この発想の底に、フランケンシュタイン・コンプレックスがあるのではないかと指摘する。メアリー・シェリーの小説『フランケンシュタイン』に由来する言葉で、人造人間を創造するあこがれと、その人造人間によって人類が滅ぼされるのではないかという恐怖が入り混じった心理だ(映画『ターミネーター』が分かりやすいかも)。

そして、利便性があり、効率的である存在ならば、それは人類に取って代わることができるという発想の底に、「生産性こそ全て」とする価値観を喝破する。

そもそもぼくらは、なにを恐れるべきなのでしょうか。「人類がいらなくなる」という発想自体、AIが導き出したものではありません。AIやテクノロジーを使って、効率化して、生産性を上げたい。その延長線上で、「だれかが排除されてもしかたない」と考えるのも「自分は排除されたくない」と望むのも、どちらも人類です。

「人類は不要だ」とする根っこには生産性至上主義が横たわっているというのだ。

ロボットを作るとは人間を知ること

生産性に全振りする価値観から離れたところで、「人を幸福にするロボットとは何か」を模索する。

その経緯は「幸福とは何か」「愛とは何か」「人はどんなときに愛を感じるのか」といった問いに置き換わり、LOVOTの開発の隅々にまで反映されている(その名の通り、愛とロボットが掛け合わされている)。

例えば、「愛」について。

いきなり「愛とは何か」だと大上段なので、愛の反対の無関心から攻める。「愛が無関心に変わるとき、何が起きているのか」という問いに取り組む。

人が何かを愛そうとするときに生じるハードルとして、「3ヶ月の壁」があるという。例えば、新しいオモチャを買ってもらった子どもは、最初は肌身離さず遊んでいるのに、しばらく経つと興味が冷めてしまう。

このとき、何が起きているのか。

新しく興味を惹くものを見つけたとき、その脳内にはドーパミンと呼ばれる神経伝達物質が分泌されている。ドーパミンは快感や意欲を誘発し、これが「好き」という経験に繋がってくる。SSR確定ガチャを引いたときや、確変に入ったときに脳内にほとばしるアレである。

しかし、ドーパミンの寿命は短い。あれほど好きだったにも関わらず、繰り返されるうちに、興味が失せてゆく。対象への学習が終わり、新奇性を失った結果として、「飽きる」という感覚を抱くようになる。

この期間が、およそ3ヶ月になるという(スマホゲームのキャンペーンが1シーズンごとである理由はここにある)。SNSゲームなら3ヶ月ごとにキャンペーンを打ち、ユーザーをドーパミン漬けにすれば良い。

だが、ペットや人間関係の場合、事情が変わってくる。

3ヶ月のあいだ継続的に世話をしたり触れ合ったりしていくうちに、別の物質が分泌されるようになる。それがオキシトシンになる。赤ちゃんを抱っこしているとき、飼い犬に見つめられているとき、「守ってあげたい」という思いを抱くのも、このオキシトシンの効果だという。

恋愛における「恋」と「愛」も同様の影響があるという。恋はドーパミンが優位な学習ステージで、愛はオキシトシンが優位な愛着形成ステージにある。そのため、コミュニケーションを目的とするロボットは、この3ヶ月の間に「守ってあげたい」という気にさせることが重要となる(実際、LOVOTはそのように設計されている)。

ロボット開発の話なのに、人の話になってゆく。逆に、人の幸福を掘り下げていくと、LOVOTのインタフェースに繋がっていくのが面白い。肯定も否定もせず、ただひたすら寄り添い、自分を必要としてくれる―――そんな存在を実感するとき、人は幸せに感じるのだ。

ChatGPTをドラえもんにする6ステップ

人に寄り添うLOVOTは、ドラえもんの先祖になるという。

メカニズム的なものではなく、伴侶としてのロボットという意味でのドラえもんである。

パートナーの半歩先を見据えて、得手不得手を判断し、少しだけ挑戦的な目標を立て、適切なアドバイスをして導いていく。人生のコーチング的な役割を担うのが、最終目的になるというのだ。

そして、現在のAIが、一人一人に寄り添って、コーチングをする存在となるためには、次のステップが必要だという。

  1. 自ら「注目点」を選択し、物語を構築する
  2. 物語の「因果関係」を確認して、編集する
  3. 自ら仮説を構築し、物語を抽象化して「概念」に捉え直す
  4. 未来予測の幅を広げ、副次的に「わたし」が生成される
  5. 生成された意識が「共感」を深める
  6. コーチング能力を獲得する

環境からの膨大な情報を全て把握しようとすると、処理能力が追いつかない(フレーム問題)。だから自分の経験を物語(エピソード)として整理して、帰納・演繹・アブダクションを組み合わせることで、出来事の因果関係を把握する。

その過程の中で「経験したものを物語る主体=わたし」が誕生し、その「わたし」を他の主体(=あなた)に当てはめてゆく。そして、予測したものと実際との誤差がポジティブなものなら「うれしい」、ネガティブなものなら「悲しい」というフィードバックが自律的にできるようにする。

そうすることで、「あなたが経験した物語」を聞いて、「わたしが予測した結果」との差異のポジ/ネガによって、「うれしい」「悲しい」を自律的に行えるようになる。

今のAIは、さまざまな出来事や言葉、表現などに「うれしい」や「悲しい」とラベルを貼ったものを学習しているだけだ(それでも十分に、”それっぽく”見える)。そうではなく、「うれしい」を報酬予測誤差の計算結果として導き出せるようになる。

最終的にはAIが、コーチングする対象の人に向けて、自分が行ってきたことをなぞるように学習する。つまり、「その人の注目点は何か」「なにを因果関係としているのか」「それらをどのように物語化しているのか」をその人から学ぶのだ。その人の得意不得意、興味の対象、望んでいることが理解できるようになる。

ChatGPTの次の未来、ドラえもんの造り方は、第6章で詳しく説明している。同時に、近い将来、AIがどのようなパートナーとなるかも併せて書いてある。現時点で考えうる正解は、まさにこれだろう。

精度の高い、良い問いと、具体的に考え抜かれた正解が導かれている。AIの見え方を一変させる、知的冒険に満ちた一冊。



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ルーク・スカイウォーカーの初登場までに17分もかかった理由『脚本の科学』

面白い物語の法則として「主役はできるだけ早く登場させて印象づけろ」というものがある。

にも関わらず、最初の『スター・ウォーズ』はこのルールを破っている。小さな宇宙船を追跡する超大型戦艦から始まり、悪の親玉に捕まるお姫様を描き、辛くも脱出するロボットのコンビを描く。

メイン・キャラクターであるルーク・スカイウォーカーが出てくるのは、映画が開始して17分が経過してからになる。

一方、『スター・ウォーズ』のオリジナルの脚本では、4ページ目からルークが紹介されるシーンがある。ほぼ冒頭から登場するのだが、このシーンは映画に入っていない。脚本家のジョージ・ルーカスは慣習に従ってルークを冒頭で出しているが、監督のジョージ・ルーカスはそうしなかった。

なぜか?

様々な説が考えられるが、『脚本の科学』によると、「その必然性が無かったから」になる。

いきなり始まる怒涛のバトル&追跡劇で息つく暇もない観客は「逃げ切れるだろうか?」とハラハラするし、窮地に陥ったお姫様を見て「彼女の運命やいかに」と宙づりにされるだろう。そして暗黒卿が探し出せと命令する「設計図」とは何だろうとフックに掛かるはず。

仮にこれを、ルークの日常から始めたなら、まだるっこしい出だしになるはずだ。彼の生い立ちや普段の生活を描き、帝国軍の襲撃を描き、家族を失った悲しみを描き、旅立ちを描かなければならない。舞台が宇宙になり、レイア姫やダースベイダーが登場するのはずっと先になるだろう。

監督のルーカスは、まず「スター・ウォーズ」というジェットコースターに乗ってもらい、手に汗握らせたかった。ルークの生い立ちや動機付けは重要だが、それは追々やればいい。そのために彼を冒頭に持ってこなくても、観客を十分に面白がらせることはできると踏んだのだろう。

面白いと感じるとき、観客に何が起きているのか

では、どういう時に観客は面白いと感じるのだろう?言い換えるなら、面白いと感じるとき、観客には何が起きているのだろう?

この問いに対し、映画の脚本を紐解きながら解説したものが、『脚本の科学』になる。ヒトの認知プロセスから映画の面白さをリバースエンジニアリングしたものだ。

例えば、因果関係を探そうとする傾向について。

人は、因果関係によって世界を理解したいという止みがたい衝動を持っているという。

だから脚本家は、主人公のゴールを設定し、その達成に向けて奮闘する様子を描く。キャラクターが自分の「欲しいもの」を口にするとき、観客はそれが手に入るのか入らないのかを待ち受けることになる。あるいは、ゴールへの障害となるもの(ライバルやトラブル)が立ちはだかるとき、観客はどうやって解決するかを虎視眈々と期待する。

そのゴールが遠大であればあるほど、ライバルやトラブルが強大であればあるほど、観客は「主人公はどうやって手に入れるのだろう?」という期待あるいは不安を抱きながら、絶えず予測し続ける状態に陥る。

展開する物語から、キャラクターや状況に関する情報がアップデートされていく。同時進行で観客は、自分が立てた予想を更新してゆく。ゴールであれ、トラブルであれ、その成り行きが明らかになるまで、自分の予想を持ち続けることになる。

優れた脚本家は、この宙吊り状態を上手く作り出し、観客が物語の将来を見通すように促す。物語を咀嚼しつつ、自分の見立てと結果を答え合わせするとき、観客は面白いと感じるのだ。

生(き)のままの現実世界では、「これがゴールだ」と印象付けられることはないし、「これがトラブルだ」と曰くありげにクローズアップされることもない。ゴールが達成されるときに音楽も鳴り響かないし、失敗したときの原因は終わってから判明する。因果関係が見えにくい現実とは異なり、編集された世界では観客に分かるように強調されている。

脳波がN400のとき「面白い」手がかりを感じている?

『脚本の科学』というタイトル通り、脳科学の知見による指摘もあった。いわゆる「脳科学」なので、どこまで確からしいかは保留にしても、興味深い主張だ。

つまりこうだ。

映画においてキャラクターの意図が破綻するとき、観客はN400の脳波を生じているという。例えば、そのキャラなら言わないようなセリフを述べたり、物語が一貫していないとき、あるいは登場人物が葛藤するとき、観客にN400が生じる。

脚本を読んでいるのなら読者はそこで立ち止まり、少し戻って意図を確認しようとするし、動画を見ているのであれば巻き戻して確認しようとする。劇場で映画を見ているのであればより身を乗り出して、先を知ろうとする。

因果関係を知ろうとする観客は、物語についての理解を刻々とアップデートする必要がある。自分の中にある「制作中の物語」と、目の前で進行する物語との辻褄合わせを行い、ズレが生じそうなときに、理解を再構築するのだ。

それぞれの観客が持っている嗜好や期待、社会的規範も含めた「こうなるだろう」「こうあるべきだ」と突き合わせ、眼や耳から入ってくる情報と一貫性を保つべく、理解を軌道修正していく。その契機となるものが、N400だというのである。

Wikipediaによると、N400(神経科学)は、刺激が提示されてから約400ミリ秒でピークを持つ負の方向の振れとして命名されている。視覚や聴覚による単語や写真、顔、音、言葉において、意味のある刺激に対する脳の反応だと考えられている。予測できない単語に遭遇し、意味的な間違いや不自然さがあると、より大きく反応するという。

「エラーを見つけること=面白い」?

一貫性のないところや、違和感を抱き、普通でない点に反応する。エラーを見出すことに報酬を感じて、「愉快だ」という快感を得る。この情動は、適応的な働きがあると述べているのが、ダニエル・デネット『ヒトはなぜ笑うのか』である。

たとえば、私たちは果糖がもたらす感覚を「甘い」として心地よく味わう。それは、エネルギーたっぷりであるが故に、グルコースの摂取を求めるよう、「甘さ」が動機づけられている。甘い・美味しいという感覚は、グルコースを摂取した報酬になる。

同様に、「可笑しい」という感覚は、今まで当然だと思っていた知識や信念の中に、首尾よくエラー(おかしさ)を見つけた報酬だという。私たちがチョコやケーキを求めるように、ジョークやユーモアを求めているのは、こうした理由によるというのだ。

では、なぜエラーを見つけることが報酬になるのか?

『ヒトはなぜ笑うのか』では、このユーモアの報酬システムを、「メンタルスペース」を用いて説明している。

頭の中で活性化する概念や記憶、耳や目などから入ってくる情報や感覚などは、粒度も精度も種々雑多だ。だから、トピックごとに一定のまとまりを持って、ワーキング領域を割り当て、その中で理解しようとする(この概念的な領域のことを、メンタルスペースと呼ぶ)。

時間に追われながら、リアルタイムでヒューリスティックな検索をしている脳が、入ってくる言葉や概念を完璧にチェックできるわけではない。だからこそ、エラー発見に報酬を与えるのだ。

検証されないままであれば、メンタルスペースで生じるエラーは、最終的には世界に関するぼくらの知識を汚染し続けることになる。そのため、信念と推量の候補たちを再点検する方策が欠かせない。エラーを猛スピードで発見・解消する作業は、強力な報酬システムにより維持されねばならない。
『ヒトはなぜ笑うのか』(ダニエル・デネット、勁草書房、2017)p.37

この強力な報酬システムこそが、ユーモアの情動となる。ジョークを聞いて「愉快だ」と笑う情動と、映画を観て「面白い」と夢中になる感情は、似て非なるものかもしれぬ。だが、それぞれの契機となるものが「エラーを見つけること」にある点で一致していることは、興味深い。

「面白い」は科学的に説明できるか?

『脚本の科学』は、映画に夢中になっている観客の脳内で進行している認知プロセスに焦点を当て、ストーリーテリングの原則を明らかにしようとする。

このテの本は、スナイダー『SAVE THE CATの法則』やシド・フィールド『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと』など、既に名著と呼ばれるものが出ている。本書はこれらに向こうを張るべく、脳科学からのアプローチを採用している。

様々な作品が俎上に載せられているが、中でも第10章を丸々使って「神経科学で読み解くスター・ウォーズ」が圧巻だ。今でこそ伝説級の超大作だが、その最初に公開された作品(エピソード4)を俎上に、「どのように面白くしているのか」を丸裸にしている。

ただし、「脳科学」という怪しげな手垢が付き始めている以上、鵜呑みにしないようにする必要はある。それでも、本書を通じて興味深い論文や書籍に出会えた。以下、私のためのメモ。「面白い」を科学的に説明するための手がかりとしていきたい。

『フィルム・アート 映画芸術入門』(D.ボードウェル&K.トンプソン、名古屋大学出版会、2007):物語の「語り方」のパターンと観客の理解への影響について解説しているらしい。物語の設定やキャラの説明の密度と「面白さ」の相関を考察する際に役に立ちそう(いわゆる「情報密度」の話)。

“Enlarging the scope: grasping brain complexity”(Emmanuelle Tognoli , J A Scott Kelso,2017):映画を鑑賞する人のニューロンの活動パターンと、ストーリーの理解との同期を研究した論文とのこと。

「面白い」はなぜ面白いのか、これからも追及していきたい。



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「加齢臭」はいつから臭い始めたか―――流行語は音もなく世界を変える

あなたは「加齢臭」があるだろうか?

脂っぽく、傷んだチーズのような臭いだ。若いころにはなくても、齢をとるとしはじめる、おじさん臭、オヤジ臭と呼ばれることもあるが、男性に限らない。

面白いのは、加齢臭という言葉が生まれる前から、中年期の男女には独特のニオイがあった。この言葉が広まってから、急に臭うようになったわけではない。

「加齢臭」という言葉を遡ると、コラムニストの泉麻人氏に至る。朝日新聞1999.6.12夕刊でこう書いている。

飲み会の席に若い女性などが混じっていると、「通勤電車のオヤジの体臭がたまらない!」なんて話題がよくもち出される。三十代の頃は「わかる、わかる」と一緒になって笑いとばしていたものだが、自分も四十過ぎの年代に入ると、穏やかではない。オレもニオッているのではないだろうか。(中略)「加齢臭」を消す中高年向けのエチケット商品が、秋に発売されるという。熱心な研究開発意欲には脱帽するが、ニオイ消しを怠ったオヤジがノケ者にされる社会を想像すると、それは”臭う通勤電車”以上に息苦しいような気もする。

本書によると、加齢臭という”病気”を命名したのは資生堂になる。研究開発センターの調香師が、中高年者の独特のニオイが気になり分析したところ、「ノネナール」という物質が原因であることを突き止め、1999年に発表した。

「加齢臭」がメディアで喧伝されるようになり、人口に膾炙するにつれ、ニオイを気に病む人が増えるようになった。加齢臭対策のデオドラントやボディソープ、サプリメント、ダイエット療法が売れるようになった(Amazonで検索したら、これらに加えて、シャツやパンツ、インソール、枕カバー、メガネのつるなど約6,000商品が並んでいた)。いまや「加齢臭」は立派なマーケットと化している。

「サーチライト」としての概念

それまで、あまり認知されていなかったものが、ある言葉が与えられることによって実体を得、広く喧伝されるようになる。

生まれたときには辞書にないのに、広く知られるようになると、普通の会話でも当たり前のように使われるようになる。流行語の一種だが、一時的なものではなく、社会的に定着するようになった言葉になる。こうした言葉のことを、本書では、社会記号と呼んでいる。

社会記号には、「加齢臭」の他に、「草食男子」「おひとりさま」「できちゃった婚」などが挙げられる。本書は、さまざまな社会記号を取り上げながら、なぜある言葉は定着し、なぜ別の言葉は一過性で消えていくのかを分析する。さらに、こうした言葉の浮き沈みの背後にある、私たちが抱いている欲望を解説する。

興味深いのは、本書で紹介されるタルコット・パーソンズの説明だ。概念とは「サーチライト」のようなもので、このライトに照らされて、経験的世界という暗闇の中で対象を認識する。真っ暗な舞台に机や椅子があっても、私たちはそれを認識できない。だが、サーチライトが当たることによって、初めて「ある」ことが分かる。

同じように、ある言葉が与えられることによって、それまで見過ごされてきた事物に光が当たり、初めて認知される。「オヤジから漂う脂じみたニオイ」「ガツガツ異性を求めない男子」「一人で行動する」「結婚前の妊娠」も昔からあった。だが、新語が与えられて初めて認識されるようになったのだ。

ハリトシス・マーケティング

これを応用したのが広告業界だ。

  1. 白衣を着た人が、ネガティブな用語を紹介する
  2. 「それ」があたかも病気で、は解決不能なことをPRする
  3. でもご安心を、「これ」さえ買えば解決すると紹介する

「あなたに自覚はなくとも、あなたの周囲の人は気づいています、見ています」という宣伝の仕方で、自分では確かめようもない。恐怖を煽ることで買わせるやり方だ。

その最も成功した例はリステリンになる。20世紀初頭の、若い女性に向けた広告で、

Often a bridesmaid, but never a bride.
介添え人には選ばれるが、結婚相手には選ばれない

なぜなら、あなたの口臭(ハトリシス)が酷いから。あなたは自分の口臭に気づかないし、周囲の人は教えてくれない……でもリステリンなら口臭予防になる、という寸法だ。

当時のアメリカ人は、ハトリシス(halitosis)という言葉を知らなかった。だが、広告会社が、古い医学事典からこの用語を掘り出してきて、病名として大々的なキャンペーンを行って広めたという。

効果は絶大で、リステリンで口をゆすぐことが、アメリカ人の習慣として定着することになる。「リステリン」という商品を売る前に、それが解決するという「病気」を売ることで、不安に訴えかける。

「健康」(という名の商品)を売るために、まず「病気」を作り出す手法は、[健康をモラル化する社会『不健康は悪なのか』] で詳述したが、その「病気」をうまく命名することで、音もなく社会を変えてゆくことができる。

社会記号は欲求が込められている

次々と現れては消えていく社会記号は、人々の生き方や社会構造が変化していく予兆のようなものになる。その中でも定着するものは、人々の暗黙の欲求が反映されているという。

例えば、「おひとりさま」が定着したのは、他人に気を遣うより、自分が好きなように気ままに行動しても良いではないか、という欲求が芽生えている証左になる。これまでカップルやグループで訪れるような場所やイベントを、一人で巡っていた人はいた。だが、「おひとりさま」という語が欲求に形を与え、後ろ盾となってくれる。

暗黙の欲求に対して言葉がお墨付きを与えてくれる。言語化されて初めて、「そうそう、それだったんだ」と気づかされ、動機付けを呼び覚まし、行動を促す。言い換えると、言葉によって私の欲求はコントロールされているのかもしれない。

本書によると、「優れた社会記号は最終的には風俗店の名前になる」という。風俗店の名前はオヤジギャグの極致みたいなものだから、むべなるかな、真理なのかもしれぬ。風俗店名のテキストマニングをして、その年の流行語と突き合わせると面白いかも。



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骨しゃぶりさんと本屋を巡ったらめちゃくちゃ楽しかった話

きっかけは、骨しゃぶりさんの「人付き合いって大事かなと思ったら読みたい3冊」

確かに人付き合いは大事やなと思い立ち、骨しゃぶりさんとサシオフ(差しでオフ会)してきたらめちゃくちゃ楽しかった。

重要なのは、「リアルで会って話する」こと。表情や相槌を見ながら言葉や事例を選ぶことができるし、こちらのレスポンスの影響も即座に分かる。「読むことは人を豊かにし、話すことは人を機敏にし、書くことは人を確かにする」というけれど、読み書きが達者なブロガー同士が「話す」となると、面白い化学反応が起こる。

ChatGPTとスタニスワフ・レム

興味深い話になったのは、流行りの生成AI(Generative AI)ネタ。

文章で指定して画像を生成するのだが、私がやってもイマイチなやつしか出てこない(私の呪文がイケていない自覚はある)。

骨しゃぶりさんも、似たような悩みを抱えていたみたいだ。まず、別ソフトで3Dでポージングを作り、それを元にAIにバリエーションを生成するよう指示をして、出来上がった大量の結果を、一つ一つ「これは良い」「これはダメ」と選り分けていき、さらにそれらをフィードバックしているようだ。

この「良い」を選ぶのが大変だという点について、お互い問題意識が一致した。ランダム生成であれ、パターン生成であれ、出来上がったものから「良い」と評価するのが人である限り、この問題は免れ得ない。

もちろん、生成→評価→フィードバックのサイクルを再帰的に回すことはできる。指示するときに予め「出来たものの改善点を指摘してね」「その改善点を踏まえて再作成してね」と、AI自身に評価させた後、「そのサイクルを3回まわして」と再帰的にフィードバックさせればいい。

ただし、それでも「AI自身の評価」がどこまで妥当なのかは分からない。ChatGPT4.0との問答を紹介する記事を見ても、評価サイクルはせいぜい数回で、「そこそこ」のアウトプットでしかない。そして、人が介入するとなると、サイクルごとに何が「良い」のかを改めて指示する必要がある。

そこで思い至ったのが、スタニスワフ・レム『虚数』だ。存在しない本の序文集というメタ短編小説集になる[レビュー]。そこに収録されている「ビット文学の歴史」だ。骨しゃぶりさんにお薦めする。

ビット文学とは、AIにより生成されたあらゆる作品を意味する。AIが読み、批評し、新作を執筆する世界になる(その世界線における『ビット学全集』の序文が、「ビット文学の歴史」になるのでややこしい)。

ドストエフスキーが書くはずだった作品をAIが書き、それを別のAIが批評する。ゼロを用いない代数学を完成させ、自然数論に関するペアノの公理の誤りを証明する。シンギュラリティ後を描いたSFは数多いが、この作品は、批評家もAIであるところ。多数の審美眼に揉まれ、人の手を離れたところで作品がブラッシュアップされていく。

すばらしい傑作が猛スピードで生成されていくのだが、それらを読む「人間」は誰もいなくなることが示唆されている。

ChatGPTがレムの奇想にたどり着くには、あと一歩、「別のアカウントのChatGPTと会話する」なのかも……と考えると面白い。

生成AIの未来は過去に通った道?

AIによるレタッチはどこまで許容できるか、という話も面白かった。

一般的にレタッチとは、写真などの明るさや色合いを調節したり、映り込んでしまった不要なものを除去するといった画像編集を指す。

AIの登場により、有名な画家の作風を学習させ、あたかもその人が描いたかのような画像を生成する。例えばレンブランドの画風をAIに学ばせて、レンブランドの新作を出力するプロジェクトがあった(コンピュータは創造性を持てるか?『レンブラントの身震い』)。

Stable Diffusionの登場により、さらに手軽になった。有名なイラストレーターの特徴を真似させて、好きなキャラクターに望むポーズで出力させることが可能になった。

だけど、それは問題があるのではないか?そうした研鑽の積み重ねから画風だけを模倣するのは、一種の盗みではないか?そんな疑問も出てくる。

コピーされる側は、相応の時間と努力を積み重ねた上で、作品をものにしてきた。30秒で描いた絵に100万ドルは高すぎるという批判に、ピカソは「今まで30年間の研鑽を積んできたので、30秒と30年かかっています」と返答した小話もある[ネタ元:美術の物語]

一方で、骨しゃぶりさんの指摘も面白い。画家であれイラストレーターであれ、完全にゼロから独力で自分の画風を作り上げたわけではない。先人の作品を観察し、そこから学び、優れた点を取り入れてきた。だから、模倣すなわち悪とするのも一概に言えない。

確かにそうだなぁ……とも思うが、それでも、努力の積み重ねを、コピペ&クリックでお手軽にできてしまうのも違和感がある。

ああでもない、こうでもないと二人でうんうん言っていたら、骨しゃぶりさんが、「今の状況って、写真が一般に広まり始めた頃と似ているのでは?」と言いだす。

曰く、貴族や大商人などが専門画家を雇って描かせてきたが、写真技術の普及によって、一般市民にも肖像画が残せるようになった。あるいは、カメラが扱いやすくなり、ボタン一つで誰でも写真が撮れるようになった―――そういうとき、画家たちは何を言っていたか?自分たちの職が失われると抗議の声をあげたのか、あるいは、写真と絵画は別物と割り切ったのか?

なるほど!それで思い出したのが2つある。

一つは、『舞踏会へ向かう三人の農夫』だ。1914年の春に撮影された一枚の写真から緻密な思索を張り巡らせ、20世紀全体を描いたリチャード・パワーズのデビュー作にして傑作だ。

この小説には隠れたテーマが沢山あり、そのうちの一つが、「プリントとオリジナル」だ。かつて芸術作品とは、オリジナルがただ一つだけだった。だが、写真の普及とともに、芸術の一回性は失われることになった。この辺りの事情は、『三人の農夫』のネタ元でもあるヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術』に詳しい。

もう一つは、エルンスト・ゴンブリッチ『美術の物語』だ。原始の洞窟壁画からモダンアートまで、西洋のみならず東洋も視野に入れ、美術の全体を紹介しており、美術関連で最も広く読まれている一冊といっていい(2100円のポケット版がお手軽なのだが、価格が高騰しているので要注意。書影はハードカバー版)。

写真の普及に伴う画家の発言や、美術の影響を読み取ると面白い。「写真のように描く」のが目的ではなかったゴッホやセザンヌにとって、写真は脅威ではなかっただろう。また、複数の写真をモザイクのように組み合わせた絵を作ったデイヴィット・ホックニーからすると、写真は手段の一つになる。

絵画の歴史を振り返ると、いかに3次元を2次元に写し取るかに工夫が凝らされてきた歴史になる。これは私の妄想だが、写真が一般的になる時期と、写実が主流から外れる時期は、重なっているように見える。19世紀後半から20世紀初頭を再読すると、新たな発見が得られるかも。

Stable Diffusionの未来は、ベンヤミンやゴンブリッチから振り返ると、面白いかもしれない。

若い女性の匂いについて

意見が真っ二つに分かれることもある。

ロート製薬が開発したボディソープ「デオコ」についてである。若い女性に特有の甘い匂いの元であるラクトンC10、C11が配合されており、普通に使うだけで、匂いだけ女の子になれる。

初めて使った時のときめきを2019年5月ごろ[レポート]に記載したのだが、これが骨しゃぶりさんの目に留まり、使ってみたそうだ。ただし普通に良い匂いという感想である。ボディソープとして優秀なので、以降ずっとリピートしているそうな。

それは布教者として大変ありがたいのだが、「普通に良い匂い」だけに留まらず、女の子の匂いでしょう!と詰め寄ってもピンと来ないみたいである。

骨しゃぶりさんに言わせると、匂いが経験と結びついて初めて情動を刺激する(プルースト効果)のであって、「女の子の匂いを嗅ぐ」という経験が無い人にそれを求めても無益だという。[骨しゃぶりさんのレポート]を見ると、[まなめ王子も同様]らしい。

どうやら、勘違いをされているみたいだ。「女の子の匂いを嗅ぐ」という行為は普通やらない。

そもそも、「匂いを嗅がせて」なんてお願いしたら変態である。そうではなく、同席したり、すれ違ったり、さっきまでいた部屋に入ったときにどうしても感じてしまう何かである。ファンデとかデオドラントとかはすぐに判別できる。そういう外付けではなく、温度や湿度のように伝わってくるやつなんだ。ゼロ距離になる必然性はなく、街を歩いてても、すれ違った瞬間に感じることがある。

ちょうど二人で街歩きをしている最中だったので、「いまの人はラクトンの香りしてたよ」と教えても、分からないみたいだ。骨しゃぶりさんの鍛錬不足なのか、あるいは、私の鼻が異常なのか……

なので、パトリック・ジュースキントの『香水』を買って差し上げた。匂いがいかに人を支配し、狂わせるかについて描いた、ある人殺しの物語である。これを読むことで、ほぼ無限とされる様々な匂いの中で、「若い女性の匂い」が最重要な理由と、究極の匂いをまとうと何が起きるかが、よく分かる。

他にも、「おっぱい vs お尻」「試験の過去問集めとマタイ効果」「再現性の危機とScience Fictions」「はてブ界隈盛衰史とアルゴリズムの変遷」「投資本の正答率を実績値から答え合わせする」など、面白いお話が沢山できた。お薦めいただいたオギ・オーガス 『性欲の科学』と Stuart Ritchie”Science Fictions”は読むぜ!

 

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コーマック・マッカーシーの国境三部作完結編『平原の町』の再読に向けたメモ

われわれが出来事をつなぎ合わせて物語を作り上げその物語がわれわれ自身の本質となる。これが人と世界のつながり方だ。人が自分について世界が見る夢から逃れたときこのことが罰ともなり褒美ともなる。

終盤でビリーが聞かされるこのセリフこそが、エッセンスになる。各人は自分の人生を物語る吟遊詩人のようなものだ。そして聞き手がいる限り、物語は生き続ける。

もう一つ。以下は著者コーマック・マッカーシーがインタビューに応じて答えたものだが、彼のあらゆる作品の通底音となっている。

流血のない世界などない。人類は進歩しうる、みんなが仲良く暮らすことは可能だ、というのは本当に危険な考え方だと思う。こういう考え方に毒されている人たちは自分の魂と自由を簡単に捨ててしまう人たちだ。そういう願望は人を奴隷にし、空虚な存在にしてしまうだろう。

野生動物に流れている血が人間の内にも流れていることを実感させ、人間の残虐性を剥き出しにする一方、無償の善意にも開かれている世界を克明に描き、そこに根強く残る人間のあり方を自問させ続ける―――これを「西部劇」のフォーマットでやったのが、国境三部作(ボーダー・トリロジー)だ。ただし、西部劇からは形式だけを流用して、全く別物に換骨奪胎している。

国境三部作の構成

国境三部作は、以下の構成となっている。

  1. 『すべての美しい馬』:主人公はジョン・グレイディ・コール(当初16歳)、1949~50年の物語 [レビュー]
  2. 『越境』:主人公はビリー・パーハム(当初16歳)、1940~44年の物語 [レビュー]
  3. 『平原の町』:二人の主人公が合流する、1952年の物語

第一作のラストで目的地を失ったジョン・グレイディ、第二作のラストで居場所を失ったビリーが、第三作で共に行動をする。19歳のジョン・グレイディと、28歳のビリーの物語だ。カウボーイとしての生き方しかできないにもかかわらず、できる場所がどんどん失われている時代だ。

ジョン・グレイディは寡黙だが直情径行、無鉄砲に行動し、挫折する。一方でビリーは兄貴分として見守る一方で、彼の行動に若き日の自分を重ね、シンパシーを感じている(第二作でビリーは、捉えた狼をメキシコの山へ返しに行く旅に出る)。

ジョン・グレイディはメキシコの町フアレスで、娼婦マグダレーナと恋に落ち、結婚しようとする。ビリーは呆れながらも協力するが、売春宿の経営者が立ちはだかり、事態は悲劇の道を突き進んでいく……という筋立てだ。

西部劇のフリをしたアンチ・西部劇

ストーリーの表面をなぞるだけなら、カウボーイと娼婦が恋に落ちる展開は定番中の定番だ。月並みで、平凡とすら言える。強くて優しい若者と、純粋で無垢な16歳の少女が、互いに想い合い、命を懸けて愛し合う。彼女の名前がマグダラのマリア(Maria Magdalena)を想起させるのは偶然ではない。

だが、前二作を読んできたなら、とてもそんな陳腐な解釈はしないだろう。『すべての美しい馬』も『越境』も、西部劇のフォーマット―――カウボーイと馬と旅、ロマンスと決闘―――をなぞりながら、西部劇のお約束とは真逆の決着に至っているからだ。そこには、西部劇ではお馴染みの、「正義」も「勝利」もない。

ジョン・グレイディもビリーも、夢とあこがれを抱き、アメリカとメキシコの国境を越えるが、大切なものを失い、身も心もズタボロにされていく。西部劇のフリをしながら、「西部劇的なるもの」と決別するのが、前二作だ。

そんな眼で『平原の町』を眺めると、違った物語が浮かび上がってくる。売春宿の経営者のセリフが分かりやすい。マグダレーナを身請けしようと相談を持ちかけてきたビリーに向けた言葉だ。

あんたの友だち(ジョン・グレイディ)は非合理な情熱にとらわれてる。あんた(ビリー)が何をいっても無駄だよ。あんたの友だちは頭のなかである物語を作ってるんだ。これから物事がこうなるという物語を。その物語のなかで彼は幸せになる。そういう物語のどこがまずいかわかるかね?

この言い分は、至極まっとうに聞こえる。ここはメキシコのフアレスで、あんたら(ビリーとジョン・グレイディ)は国境の向こう側からやってきた。愛し合っているから結婚するというのは、あんたらの物語なのであり、ここでは通用しない、絶対に本当にならない物語だ。

実際その通りだし、ビリーも反論できない。事実、ジョン・グレイディがやろうとしているのは、彼女をそそのかして連れていくことなのだから。アウトローなのはアメリカ人になる。

第二作目『越境』で、狼をメキシコの山へ返そうとしたビリーに対し、「おまえはこの国を勝手に入ってきて何をしてもいい国だと思ってるんだろう」と咎められるシーンがある(16歳のビリーは反論できなかった)。それと同じだ。「メキシコ」や「フロンティア」に勝手な幻想を抱いて国境を越え、自由だの平等といった価値観がまかり通ると信じる。だがそれは、絶対に本当にならない物語だ。

自由や独立といったアメリカが国是とする価値観を体現した西部劇が、同じお膳立てとフォーマットで、「それはおまえらの物語にすぎない、そしてそれは本当にならない」と立証される(それも血と力とでだ)。ジョン・グレイディとマグダレーナを待ち受けるものは、陳腐な悲恋などではなく、作り上げた物語が思い通りにならない悲劇として捉えなおさなければならない。

女皆殺しの町フアレス

もう一つ、重要な要素がある。『平原の町』の舞台だ。

前二作は旅の物語でもあった。何かを探すため、あるいは何かを求めるため、彼らは国境を越えた。絶えず移動し、追いかけ/追われながら一つの場所に留まらなかった。わずかに居所を見つけたとしても、物語が彼らを駆り立てその場所から追いやった。

ところが第三部では、ほとんど居場所が変わらない。ビリーとジョン・グレイディは、ニュー・メキシコの牧場に雇われている。マグダレーナのいる売春宿は、国境を越えたフアレスにある。

『平原の町』が出版された1990年代後半には、このフアレスで女性連続殺人事件が起き、それから20年足らずのあいだに同類の事件が5千件近くも発生している。一連の事件は「女皆殺し(femicide)」とも呼ばれ、犯人とされる人物が捕まっても犠牲者は後を絶たず、犠牲者は700人以上に上ると言われている。

GoogleMapで見ると分かる。町の外は荒野が広がっており、立ち入るものは誰もいない。道路の左右には何もなく、ちょっとハンドルを切るだけで誰の声も届かない所へ行ける。誘拐された女性はそこでレイプされ、喉をかき切られて、簡単に土をかけられ放置される。

私はロベルト・ボラーニョ『2666』で知ったが、女性の人権が極めて軽く、モノのように扱われる真空地帯のように描かれているのが印象的だった[レビュー]。『ボーダータウン 報道されない殺人者』というタイトルで映画にもなっており、ジェニファー・ロペス、アントニオ・バンデラスが出演している。

もちろん、『平原の町』の時代はこの事件が起きるずっと昔の話だ。だが、作品の舞台をフアレスに設定した理由として、この事件を外すことはできないだろうし、何よりもマグダレーナの運命を読み取ることができる。実際のところ、『コーマック・マッカーシー 錯綜する暴力と倫理』(山口和彦著、三修社、2020)によると、1952年にフアレスで現実に起きた事件を元に、このエピソードは作られているという。

『平原の町』=ソドムとゴモラ

さらに、この『平原の町』のタイトルだ。

原題だと、”Cities of the Plain”になる。訳者解説によると、この”Cities”は、ソドムとゴモラの町を指す。聖書では「低地の町々」の訳語が一般的だが、タイトルの響きを考慮して「平原の町」にしたという。

聖書によると、ソドムとゴモラの町の人々は、高慢、堕落、および道徳的退廃の罪で、神によって罰せられたとある。啓示により町から脱出するロトの妻が、神の警告に背いて振り返り、塩にされてしまった逸話はあまりにも有名だ。

フアレスという町は、国境をまたいだアメリカ側の町であるエル・パソと一体化している。フアレス/エル・パソと、ソドム/ゴモラが”Cities of the Plain”であることが分かると、思い当たることが一挙に出てくる。

ジョン・グレイディはくり返し警告を受けていた。盲目のピアノ弾きの老人のこのセリフを思い出す。

うむ。これだけはいっておこう。あんたの愛に味方はいない。あんたはいると思っているがいない。誰ひとり。たぶん神さえも味方じゃない。

彼の行動はポジティブに見るなら一途、ネガティブなら高慢と受け取ることもできる。彼をロトの妻とすると、ロトはビリーになるのかもしれない。そう考えるのは面白いが、私の解釈が見当違いの可能性もある。

おそらく、まだ読み取れていない側面があるのかもしれない。国境三部作は様々な語りが織り込まれており、再読を促してくれる。実はこのレビューを書く時点で2回読んでいるのだが、さらに必要だ。現時点での私の理解をログとしてここに記しておく。そして三読するときの縁としておこう。

 

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旅は帰る場所があるから成立する『越境』(コーマック・マッカーシー)

なぜ自分が自分の形を留めていられるかというと、自分を知る誰かがいるから。

誰も自分を知らない場所へ旅するのもいい。そもそも誰一人いない場所を旅するのもいい。だが、いつかは放浪をやめてこの世界のどこかに落ち着かなければならない。さもないと人という存在と疎遠になり最後には自分自身にとってさえ他人になってしまう。

誰かを撮った写真は、近しい人間の心のなかでしか価値を持たないのと同じように、人の心も別の人間の心の中でしか価値を持たず、その人の思い出は、思い出したときにのみ存在するだけであって、思い出す人がいなくなれば、消え去るほかない。

人生は思い出だ、そして思い出が消えれば無になる。だから人は思い出を物語ろうとする―――コーマック・マッカーシーの『越境』を読んでいる間、そんな声が通底音のようにずっと響いていた。

マッカーシーの代表作ともいえる国境三部作(ボーダー・トリロジー)の第二作がこれだ。第一作である『すべての美しい馬』は最高オブ最高なので、うかつに手を出すとがっかりすると思い、敬して遠ざけてきた。だが、読めるうちに読まないと後悔することは分かっている。

なので読んだ。読み終えたら、もう一度読みたくなったので、読んだ。主人公がなぜそれをしたのか、なぜしなかったのか、何度も確かめたくてページを戻った。戻る度に剥き出しの暴力に怯み、崇高美と残虐な現実が同居していることに驚かされる(何度読んでもだ)。

おそらくこれも、『すべての美しい馬』と同様に、人生かけて繰り返す作品になるだろう。

主人公はビリー、16歳の少年だ。罠で捉えたオオカミを、メキシコの山へ返してやろうと国境を越える。彼を待つ過酷な運命はここに書くことができない。だが、主人公であるからには、生き延びて目撃する必要はある。それぞれの運命を全うした人たちが物語る言葉を聴き、証人として生き延びる必要がある。

ビリーは三度、国境を越える。最初は傷ついたオオカミを返すため。その次は、最初の旅により引き起こされた出来事の落とし前をつけるため。そして最後は、それまでの旅を終わらせるため。

コーマック・マッカーシー『越境』の旅路をマッピングしてみた

普通ならば、旅とは日常のしがらみから逃れ、冒険へ召喚され、境界を超越し、様々な危険を冒した後、賜物を携えて帰ってくるものだ。国境を越えることで、二度ともとには戻れない旅に出るのだが、帰郷するたびに大きなものを失っていることに気づく。ビルドゥングスロマンの体(てい)なのに、喪失の物語なのだ。

大切なものを失う一方で、出会う人々から様々な物語を聴かされる。純粋に暴力的な世界を淡々と描くマッカーシー節が光るのはここだ。最も印象に残ったのは、メキシコ革命を生き延びた盲目の老人の話だ。

彼は反乱軍の砲手として活躍していたが、あえなく捕虜となり、銃殺されそうになる。敵のドイツ人が「こんな間違ったしかも勝ち目のない大義のために死ぬのはよっぽど馬鹿げたことだ」と嘲ると、彼は唾を吐きかける。するとドイツ人は奇妙なことに、自分にかかった唾を綺麗に舐めとり、彼の顔を両手で挟み、まるでキスをするかのように顔を近づけてくる。

だがそれはキスではなかった。捕虜の顔を両手で抑えて背をかがめたところはフランスの軍隊でやるような両側の頬へのキスのようにも見えたが、そのドイツ人がしたのは頬をきゅっと窄めて相手の目玉をひとつずつ吸い出し吐き出すことだったのであり、こうして若い砲手の頬の上に濡れた二つの目玉が紐のような神経をだらりと伸ばしてぶら下がりゆらゆら揺れるという奇怪な事態が生じたのだった。

痛みもひどかったが、この解体してしまった世界がもう絶対に戻らないという苦悶のほうがずっと大きかった。みんなはスプーンで目玉を眼窩に戻してやろうとしたがうまくいかず、目玉は彼の頬の上で放置された葡萄のように乾いていき世界は次第に暗くなり色を失いやがて完全に消えてしまった。

彼は銃殺を免れ、追放されるのだが、そのまま彷徨い続けることになる。ドイツ人がなぜそんなことをしたのか、その行為に何の意味があるのか、一切、語られない。

ビリーはこの話を、茹でてもらった卵を食べながら聞くことになる。吸い出された目玉と茹でたての卵の取り合わせは、もちろん一言も示唆されないものの、読み手の心にグロテスクな心象を与えてくる。

目玉を失った老人の物語、間違って英雄にされて殺された男の話、二つの飛行機を山から降ろす話、後半のほとんどは、誰かがビリーに物語るエピソードに満ちている。代わりに、彼が主人公のように行動することは無くなってゆく。まるで、ビリーは物語によって生かされているかのように思えてくる。

ビリーが目指す場所は失われ、長い旅の終点はどこかと問われても、終点はどこなのか知らないしそこへ着いたとしても着いたと気づくかどうか分からないと言う。前作『すべての美しい馬』のラストで呟く、グレイディ・コールの声と重なる。

第三作目は『平原の町』だ。ビリーとグレイディ・コールの二人の行く末が描かれるという。読むのが楽しみだが、怖い。



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ITエンジニアの「心」を守る4冊と、心配事を減らすとっておきの方法

基本的に、ITエンジニアは心配性だと思う。

正常系より異常系、例外処理やエラーハンドリングを考えたり、バックアップやプロセスダウン対策を検討するのが常だから、心配するのが仕事だといっていい。

「もし~ならどうするのか」を心配するのは、エンジニアの性(さが)なのだ。

心配するのが仕事だから、メンタルが参ってしまうときがある。悩むあまり夜眠れなくなったり、プレッシャーに耐えられなくなるときがある。「心が折れる」はまさに本当で、一度そうなったら、戻すのは極めて難しい。

そうならないよう、予防のための本を4冊紹介した。本だけでなく、心配事を減らすとっておきの方法も解説した。私が長年実践しており、こうかはばつぐんだ。

今日から試してみるのもいいし、サプリメントのように読むのもあり、お守りのように大事にするのもよし、ご自由にご利用くださいませ。

ITエンジニアのメンタルを守る4冊

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1冊の単語帳を610日かけて全読したら語彙力が1万語になった

きっかけは、読書猿さんとの飲み会だった。

「海外の記事やSNSを読むのに英語力が足りない。しゃべれなくても書けなくてもいいけど、スラスラ読めるようになりたい」と愚痴ったところ、「まず2万語」と言われたのが最初だ。

語彙力こそパワー、ボキャブラリーを増やすぞとばかりに選んだのがこれだ。

理由は、英語を学んできた人たちの評価がダントツだったことが一つ。もう一つは、お試しで手にしてみたところ、「ちょっと難しいけれど、頑張れば読めないこともない」というレベルだった点だ。

本書を610日間かけて読み切った結果はこうなる。Preply のボキャブラリーテストによると、ほぼ一万語に到達できた。

 7870 words (2021年4月)

 9944 words (2023年4月)

ぶっちゃけ私一人では無理だった。初志は継続せず、どこかで挫折する理由を探し出していた。

だが、私を一人にしない技法を用いることで、完読できたといえる。

挫折を防ぐために周囲の環境を利用する「ラーニングログ」と「コミットメントレター」という技法だ。毎日読んで、読んだ分を記録する。記録した分をSNSで公開するのだが、具体的には[この記事]を参考にしてほしい。

一気に数ページ進む調子のいいときもあれば、難しくて集中力が続かず数行しか読めないときもあった。分からない単語はネットで調べ、文章が分からなければ DeepL に教えてもらい、とにかく「進める」ことだけを考えて、毎日たゆまず、あせらず、一行ずつ読み続けた。

語根でグルーピングして覚える

本書が素晴らしいのは、単語を一つ一つ学んでいくのではなく、「語根」を軸にグルーピングしたものをまとめて身につけるやり方だ。

語根とは、単語の意味の基本となる最小の部分となる。

例えば、PRE には「前に」という意味がある(before や in front of)。プレシーズンとかプレビューのプレだ。そこからこうつなげる。

 prediction = pre +  direct(方向)→ 予報、予言

 precede = pre + cede(行く)→ 先行する

 prejudice = pre + judge(判断)→ 先入観 

これらの単語は、一つ一つ個別に覚えてきた。

だが、改めて振り返ると、語根の組み合わせで出来ていることを理解すると、覚えるのが容易になる。感覚的には、漢字を覚えるときに部首から類推するようなものだ。りっしんべん(忄)があると「心」に関わると想像できたりするように、語根は単語の根幹を知る手がかりとなる。

さらに本書では、PREからさらに拡張して解説してくれる。たとえばこうだ。

 preclude = pre + claudere(閉じる;close)→妨げる、除外する

 predispose = pre + dispose(配置する)→仕向ける

 prerequisite = pre + require(必要とする)→前もって必要なもの、前提条件

この3つの単語は、本書で学んだ。もちろん私自身、claudere なんて単語を知らなかった。だが、この言葉はラテン語であり、「閉じる」を意味していることを何度も説明してくれる。他にも、ギリシャ語や古フランス語が、数多くの英語の素になっていることを具体的に知ることができる(というか、英語の大部分がこれらから構成されてていると言っていいかも)。

馴染みのある「プレ」に対し、ラテン語やギリシャ語由来の言葉と組み合わせることで、言葉が生成されているのが分かる。本書では250もの語根や語幹が紹介されており、英語で用いられるもののほぼ全てを網羅している。こうした意味の素となるストックを増やしておくことで、初見の単語でもなんとなく掴めるようになるのだ。

ChatGPTに語根を聞く

これは面白文章力倶楽部で、ふろむださんに教わったアイデアだ。流行りのオモチャ、ChatGPTを利用しない手はない。

こんな風に聞いてみる。

Preclude
そして、AIの回答を鵜呑みにせず、あらためて本書で検証してみる。もちろんChatGPTは言語や辞書のエキスパートと言えるかもしれない。だが、あえて自分が先生役で、彼女の理解度を確認するのだ。

preclude の例文を見ると、prevent と似ているので、指摘してみる。

Prevent

「防ぐ」「阻止する」という意味では同じだが、preclude の方が強い意味を持っており、完全に起こらないようにするニュアンスがあるようだ。ついでに prevent の語源を教えてもらうと、pre(先に)+venire(来る)だそうだ。先に来るなにかが、後から来るものを妨げるニュアンスになっている(もちろんこの解説も鵜吞みにせず、辞書で裏を取る)。

こんな風に本書とChatGPTを組み合わせることで、インタラクティブに語彙を拡張することができる。

読み物としての面白さ

また、無味乾燥になりがちな単語の説明が、非常に面白い記事となっている。

例えば TOXI の項目。トキシンという言葉から毒に関連しそうだとアタリを付けるのだが、この「毒」の説明がやたら詳しい。

toxin は植物やバクテリアなどの生物由来の毒になるし、venom は嚙まれたり刺されたりして入ってくる毒になる(ヘビやクモなど)。さらにヘビの毒もこう解説されている。

Snake venom is often neurotoxic (as in cobras and coral snakes, for example), though it may instead be hemotoxic (as in rattlesnakes and coppermouths), operating on the circulatory system. Artificial neurotoxins, called nerve agents, have been developed by scientists as means of chemical warfare; luckily, few have ever been used.

神経系に作用するコブラの毒は neurotoxic (神経毒)であり、循環系に作用し敗血症を引き起こすガラガラヘビの毒は hemotoxic (血液毒)になるという。

他にも、ボツリヌス菌は非常に強い毒性を持つが、シワ取りのボトックスの原料となっていることや、毒性を決める単位「LD50」の意味は、その生物を死に至らしめる可能性が50%であることを示す、「致死量」だ。ちなみに、ボツリヌス菌の致死量は、投与する生物の体重1キログラムあたり、0.000000015ミリグラムになる。

あるいは、MEDI の項目。ラテン語で medius 意味は middle だという。メディアはすぐに浮かんだが、統計学の median (中央値)は本書に気づかされた。そういえば「メジアン」と言ってたっけ。

目ウロコだったのが medieval の説明。middle から中間、そこから中世ヨーロッパの「中世」という意味を覚えていた。だが、そもそも中世とは、何と何の「中間」であるのかを、本書に教えてもらった。

With its roots medi-, meaning "middle", and ev-, meaning "age", medieval literally means "of the Middle Ages". In this case, middle means "between the Roman empire and the Renaissance"—that is, after the fall of the great Roman state and before the "rebirth" of culture that we call the Renaissance.

なるほど、そうだったんだ。ローマ帝国が終わった後で、ルネッサンスが始まる前の、中間の時代を、medieval と呼んでいたんだね。地球全体が寒冷化し、伝染病や飢饉が広がり、戦乱が多数起きた時代だ。本書では、暗黒時代であり、ゲームやマンガで取り沙汰される、「剣と魔法の時代」ではないと釘を刺している。

こんな感じで楽しく単語力を増強させることができる。おかげで、決してスラスラではないけれど、怯まずに向き合えるようになった。

ただし、マスターしたというには程遠い。章末の理解度テストはボロボロだし、読み返してもきちんと覚えていないものが多々ある。

なので2周目を始める。初回は「とにかく終わらせる」のが目標だった。今回は、スピード+忘れないよう繰り返すことを目指して取り組みたい。本書をマスターしたら、2万語を超える(はずだ)。

2周目のラーニングログは Merriam-Webster's Vocabulary Builder ラーニングログ に記録する。

 

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世界史の教科書を逆に読む

教養ビジネスに騙されずに、世界史をやり直したい。

ビジネス書コーナーに行くと、「教養のための世界史」とか「〇時間で分かる世界史」といった教養本が積んである。試しに手にすると、雑学を身につけるには最適だが、それを読むことで、手垢まみれの「教養」とやらが身につくかどうかは疑問だ。

むかし流行した、自己啓発本と同じである。

「自分の付加価値を高める」みたいな動機付けで誘引し、お財布から出しやすい2千円ぐらい、週末にサクっと読める程度に簡単で、即効で賢くなった気にさせる。知識をひけらかしてマウンティングするぐらいにはなれる。

ただし、すぐ効く本はすぐ効かなくなる。結果、似たような本を継続的に買い続けることになる。

そういう教養商人のカモにならず、世界史を学びなおす上で、「軸」となる本が読みたい。それも、研究者の監修を受けた信頼できるもので、かつ、包括的でバランスのとれた内容のものが読みたい。定期的に改訂があり、新しい情報でアップデートされている必要がある。

テレビや雑誌で有名な「知識人」が書いたものは、裏付けが取れているか分からない。また、歴史家が書いたといっても、ある時点での個人の知識になるため、限定的で古びてくる。特定のテーマで歴史を見るならばそれでも良いが、個別のテーマのハブとなる、確かな軸を手に入れておきたいのだ。

となると一択で、世界史の教科書になる。

帝国書院を勧める理由

高校世界史の教科書として、山川出版社、東京書籍、帝国書院と手を出してきたが、最適解は帝国書院の『新詳世界史B』だった。

理由はずばり構成だ。これを見てほしい。

B01

本文となる「歴史の記述」の周りに、史料や図説やキーワードが囲むように配置されている。それらは、歴史記述がなぜそう言えるのかを示すエビデンスだったり、理解を補う解説だったりする。

全体がこのような構成となっており、歴史記述とは単独で存在するのではなく、様々な史料や図説との関連性のなかで書かれるものだというメッセージが伝わってくる。また、この構成のおかげで、無味乾燥になりがちな本文が、図説と連動して読めるようになっている。

さらに、各見出しの直下にはリード文が記されている。画像では、薄いオレンジで着色された箇所だ。本文で述べているものを要約した文章になる。これは帝国書院の特色で、リード文を読むだけで概観できる。

もっと視点を上げて、世界全体を俯瞰する形でも読めるようになっている。ここだ。

B02

これは、縦軸が時間軸で、横軸が空間軸として描かれた、世界全体史の表だ。主な出来事や概念、資源、テクノロジーが、どのように地域を伝播して広がっていったかが俯瞰できるようになっている。

風土や環境ごとに地域としてまとまっていたのが、文化や社会という別のまとまりで再構成されていく有様が、手に取るように見える。

そもそも、なぜ世界史をやり直しているのかというと、今目の前に見えているまとまりや分断は、どのように生じていったかを把握するためだ。地政学的な要素もあるし、政治・経済的な影響もあるだろう。

しかも、そうした要素が時間的にも空間的にも一様に影響を及ぼしているのではなく、ある時代や地域の流行のようなものがあった。「革命」や「民主主義」がまさにそうで、そうしたうねりが、一時的に特定の地域を席巻したことがあった。それが一過性のものなのか、今でも形を変えて残っているのか、それはなぜかを伺い知ることができる。

B03

歴史において、気候や風土の要素を重視している点も素晴らしい。

ある国が強大な力を持ったとしても、巨大な山脈や、大きな気候の変化といった壁が存在したが故に、領土を拡張できなかったという事実がある。あるいは、季節風や海流のおかげで、より低コストで人や情報を伝播させることができたという事実がある。民衆の反乱や戦争、王家の栄枯盛衰の遠因として、地球寒冷化や大規模な環境の変化があったことも、きちんと語られている。

歴史にはそうした制約条件が存在する。言い換えるなら、そうした外部条件の下で、社会は発展していったといえる。気候や風土は、歴史の制約条件となる。

世界全体の自然環境を示すこのページは、教科書を開いた1頁目にある。さらに、各地域史のイントロダクションには、もっと詳細な地図が記されている。歴史を学ぶ上で、それだけ重要な要素なのだ。

歴史を逆さに読む

帝国書院の『新詳世界史B』を2回通読した。初回は普通に、2回目は逆順(現代→過去)に読んだ。

というのも、「どうしてこうなった」の理由を探す読み方にしたかったからだ。

一連の出来事を時系列に沿って、どのような因果になっているかを追いかけるのが順読みだ。これを反転させるのだ。いまある状態がなぜ起きているのかを、歴史記述から拾い上げるように読む。すると、手持ちの視点をさらに増やすことができる。

例えば、ロシア・ウクライナ危機について。

2022年のロシア軍の侵攻が「今」だとして、教科書を遡上していくと2014年のロシアによるクリミア編入が出てくる。ウクライナ政府はこれを認めず、クリミア半島は係争状態にあるという。

もっと遡っていくと、1991年のソ連解体に行き当たる。ロシア住民主導によりクリミア自治共和国が再建されたのだが、同じ場所に住むウクライナ人、クリミア=タタール人との軋轢が高まることになる(これがクリミア編入の原因)。

もっと遡っていくと、1917年のロシア革命の混乱に当たる。革命勢力の支配地域が後に「ソヴィエト社会主義共和国連邦」で塗りつぶされることになるのだが、その中で、ごくわずかに反革命勢力を展開していたのは、ウクライナのエリアになる。元々「ソ連」を牛耳っていた革命勢力と、ウクライナにいた勢力は対立していたのだ。

もっと遡ると、クリミア戦争、南下政策、クリム=ハン国、モンゴルによる支配へと繋がっていく。「クリミア」の元は、モンゴル大帝国のハーンの末裔からとったことに気づく。私は、「あの辺り」として一緒くたにソ連とくくっていたが、その見方は雑すぎていたことが分かる。

こんな感じで、「今」の問題意識を持ちながら、時の流れを遡るように読んでいく。チベット・中国の問題や、パレスチナ問題の根の深さが、よりクリアに見えてくる。

次に読むときに取り組みたいのは、財政軍事国家の視点だ。17世紀イギリスが嚆矢となった制度で、「戦争をするための軍事費をどのように調達するか」という課題に対し、国ぐるみで引き受けた国債で賄うシステムだ。

それまでは、国王の財布と国家の財政は明確な線引きがされておらず、国債を発行したとしても、十分な信頼を得ることができなかった。だが、イギリスの場合、徴税権を持つ議会が元利保証をしたため、国債の信用は高まり、多額の軍事費を集めることができた。

イギリスのやり方を踏襲して、各国はより多額の資金を集め、よりカネをかけた装備で、より多数の損害を与える軍事力を持てるようになったと言えるだろう。

戦争にはカネ(資源)がかかる。そのカネをどのように調達するかという視点で、世界史を読み直したい。そして、教科書を手がかりに、長年積んであるジョン=ブリュア『財政=軍事国家の衝撃』に挑戦するつもりだ。

いまの世界のまとまりが、どのようにできあがってきたのか、その正当性、妥当性も含めて俯瞰していきたい。そのための確かな軸となるものが、教科書になる。

新詳世界史Bは335ページと薄い。一気に読んでもいいが、気になるトピックを調べながら寄り道しながら読み進めるのが楽しい。私の場合、読んだページを記録することで、ラーニングログをとりながら読んだ。参考にしてほしい。

ラーニングログ⑪:新詳世界史B(逆順)

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千夜一夜物語レベルの面白さ『サラゴサ手稿』


この世でいちばん面白い物語は、
『千夜一夜物語』だ。面白さのエッセンスを煮詰め、淫乱で低俗な世界に咲いた気高く美しい枠物語だ。

この世でいちばん面白いファンタジーは、『氷と炎の歌』だ。エロとグロと波乱と万丈と冒険と怪奇の群像劇だ。

この世でいちばん面白い小説は、『モンテ・クリスト伯』だ。究極のメロドラマであり、運命と復讐の逆転劇だ。

そして、『サラゴサ手稿』は、面白さのエッセンスを煮詰めた枠物語であり、エログロ波乱万丈の群像劇であり、究極のメロドラマである。惜しむらくは全三巻と短く、気のすむまで狂ったように読み続けることはできぬ(その点、千夜一夜は全11巻なので延々と没入できる)。

しおり無用の面白さだが、一気に読ませぬ迷宮が仕掛けてあるのでご注意を。ひとたび頁を開いたら最後、物語の物語の物語の中に入り込み、ストーリーのダンジョンを行ったり来たり、延々と彷徨うことになる。

説明する。

『サラゴサ手稿』は枠物語の構造を持っている。すなわち、大きなフレームに囲われた、小さな物語の集合で構成されている。無数のバリエーションを千一夜かけて物語るシャーラザットのようなものといっていい。

ただし、ここで物語るのは一人ではない。主要人物の全員が、それぞれの身の上話を語りだす。しかも、各人の物語が入れ子状になっている。例えばこうだ。

 ジプシーの族長アバドロが語る物語
  その中に出てくるロペ・ソアレスが語る物語
   その中に出てくるドン・ブスケロスが語る物語
    その中に出てくるフラスケタ・サレロが語る物語
              ……を聞いているアルフォンソ

こんな感じで、物語が再帰的に呼び出され、展開され、戻ってゆく。

だが実際のところ、こんな分かりやすいマトリョーシカになるのは珍しく、一つの物語から複数の物語が呼び出されたり、物語が閉じないまま別の物語に回収されたりする。まったく別の日に語られた、まったく無関係な人物の物語が、実は重なっていることなんてこともある。物語どうしのニアミスである。

それぞれの物語はめちゃくちゃに面白い。

森羅万象を百巻の書物にする天才学者の皮肉な運命を描いたかと思うと、母娘どんぶりのエロティック満載の身の上話になったり、科学的に正しく天地創造を語り尽くす話になる。何が出てくるか見当がつかないお化け屋敷をジェットコースターで突き進むような感覚である。

それだけでなく、物語から呼び出された人物の語りの中に出てくる人のおしゃべりにつきあっていくうち、誰が何の話をしているのか皆目見当がつかなくなる。「これ誰の話だっけ?」と何度も戻ったり、ぐるぐる迷わされることになる。

自己増殖していく物語に飲み込まれ、惑い、迷い、溺れていく。そこでは完全に自分自身を見失い、ただひたすら物語に身をゆだねる他ない。

しかし、不思議と嫌ではない。むしろ変な脳汁が出て、妙な高揚感が湧き上がってくる。走り続けていくうちに多幸感に包まれるランナーズ・ハイになるように、読み進めていくうちにストーリー・ハイになる感じ。

最初のうちは、物語の呼び出し関係をメモしながら読んでいたが、あまりに複雑で諦めた。

増殖する物語構造に酔いたい人は素手で挑んでみるのもいい。だが、ダンジョンマップが欲しい人には、下巻の「通覧図」をお勧めする。物語の枠構造と、語られた順番の時系列をマッピングした一覧である。ネタバレしない程度にぼかして書いており、訳者の心意気を感じる。

注意すべきは、200年前の近代小説なので、当時の常識や時代背景を踏まえる必要があることだ。

当時はヴォルテールの啓蒙時代だったり、少し前までイスラーム支配体制が続いていたとか、飛ぶ鳥を落とす勢いだったニュートンの評判とか。そうした世を憂い、皮肉り、あてこする展開が香ばしく、どの時代でも人間の本性は一緒だなと、改めて思い知る。

その辺りの時代背景は注釈と解説が充実しているので、注と本文を行き来しながら進めると、より読み解きやすくなるだろう。

読んで溺れろ、惑うべし、酔うべし。



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