要件を知る人、決める人、契約する人——全部バラバラだったプロジェクトの末路:国民健康保険組合事件

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この記事は以下の節で構成されている。
かなりの長文のため、「プロジェクトの炎上リスクを下げるよい質問」だけを知りたいなら、
最後の5.だけを読むといいかも。

 1. 3行でまとめる
 2. 決められない構造
 3. 「現行踏襲」という同床異夢
 4. 「現行踏襲」はいつ火を噴くか
 5. 「決められない構造」を可視化する質問

要件を洗い出し、仕様を確定する会議であれば、当然、そこにいるのは「要件が何かを知っている人」だ。

例えば、実際に業務で利用する担当者だったり、そのシステムを運用する情シスの人だったり。あるいは、そのシステムと連携している他システムの担当かもしれない。どんな形にせよ、作り上げるシステムを「利用する人」だから「ユーザ」だと呼ばれる。

しかし、要件定義の場に、「ユーザ」がいなかったらどうなるか?

あたりまえだが、決めるべきことが決まらない。会議に出るのは「窓口」の人で、「その要件は持ち帰って確認します」とだけ言う。そして、持ち帰った先から帰ってこないまま、時間だけが過ぎてゆく。

そんなことがありうるのか?

要件を決めるべき場に「ユーザ」が不在で、実現したい「何か」が分からないのに、プロジェクトは進められるのか? 冗談みたいな地獄だが、実際にあった。

それが、国民健康保険組合事件だ。

3行でまとめる

  1. 国民健康保険組合の基幹システムのリプレース。提案時は95機能、240人月で、提案2億4000万、その後追加も含め3億3000万円で契約
  2. 要件が決まらず、懸案が解決されないまま規模が膨らみ続け、稼働は延期。着手から2年後、ベンダが「倍額を超える費用負担か、処理数を半分以下に削減するか」の二択を突きつけて決裂
  3. ユーザが契約解除して6億円を請求、ベンダも4.6億円を反訴。裁判所は双方の債務不履行をどちらも認めなかった

ユーザ側(国保:国民健康保険)の主張

  • 完成させていない: 納入期限を過ぎてもシステムは完成せず、一部稼働した部分もテスト段階にすぎない
  • 前工程の報告書が契約内容だ: 1920万円払って同じベンダに作らせた現状分析調査報告書には「現行システムの機能をすべて網羅する」とあり、それが約束のはず
  • 処理は増えていない:基本設計書347処理に対し最終時点は233処理。むしろ減っている。追加要求のせいで膨らんだというのは事実に反する

つまり「現行システムをすべて網羅する」という約束にもかかわらず、作れなかった。しかも、規模が膨らんだという言い分も数字が合わないという主張だ。

ベンダ側の主張

  • ユーザが決めなかった: 懸案事項が期限までに解決されず、要求は変転を続けた。契約は国保だが、システムを使うのは労組だった。労組本部と38の支部の二重構造が意思決定を止めた
  • 仕様は凍結した:DFDを凍結し、凍結後の追加・変更は別扱いと説明した。ユーザは異議を述べず、基本設計書の検収書も交付したが、その後も追加があった
  • 規模が倍以上になった以上、金は払われるべき:開発工数は大幅に増加した。追加料か処理削減か、どちらかを選んでもらうしかない

つまり、決められないユーザのせいで膨らんだのだから、増えた分は負担するか、要件を減らして欲しいという主張だ。

裁判所の判断

  • どちらも債務不履行ではない:どちらも「懸案が片付かない以上やむを得ない」という共通認識で作業を進めていた
  • 「凍結」は「確定」ではない:ベンダ自身が凍結後の変更もあり得ると説明し、PLも社内に「未決定事項を凍結した状態で納品した」と報告していた。基本設計が確定していない以上、ユーザが要求を出すのは当然
  • ただしベンダはPM義務を怠った:提案書に書いたレビューとプロトタイプは不十分で、規模の拡大を把握したのは着手2年後。納入期限を過ぎるまで追加費用を示唆した形跡すらなく、そのうえでの倍額要求は「唐突かつ過激」

裁判所は結局、ユーザの解除を、注文者の任意解除(民法641条)として扱った。この場合、債務不履行が無くても契約解除としてみなされるため、ユーザは損害を負担することになる。

その上で、国保は「懸案事項を目標期限までに解決しなかった」こと、ベンダはPM義務違反だったことを認める。裁判所は、任意解除によるベンダの損害を算定したうえで、ベンダ自身のPM上の問題を考慮して、その損害を6割減額した。国保が負担すべき額を4割とし、既払金との差額1億1340万円をベンダに返還させた。

決められない構造

「現行踏襲って言ったじゃん!」vs.「おまえが決めなかったから!」という、地獄のような争いだが、争点だけを見ていると、プロジェクト破綻の原因を見誤る。

既に裁判になっているのだから、プロジェクトは炎上どころか爆発してる。その責任の押し付け合いで、互いに最も有利なポイントから議論するのが裁判になる。だから、争点だけでなく、このプロジェクトの特徴的な構造に目を向けたい。

ヒントは出ている。

原告は2者おり、国保と労組とあるところだ。

システムを実際に使うのは、国保の本部と、労組38支部の担当者になる。ベンダにとって、国保は契約相手だから直接ヒアリングできるが、労組38支部については、国保を経由する必要があった。

「原告国保は、重要事項の決定に際して、原告労組支部の意見を聞かなければならなかった」とある。また、遅延に対応するため、納期を6ヶ月延長するのではなく、段階的な稼働に対応する方針としたのだが、その理由は、「納期の延長だと労組に説明できない」ことによる。

つまり、国保の意思決定の実質的な制約条件は、労組だったのだ。ベンダからすると、要件を決めるためのヒアリングや、疑問や懸案の解消、意思決定を求めても、「いったん労組に確認する」ところでストップする。

そして労組側は、一体ではない。全部で38支部あり、意見を集約・決定するのに時間も手間もかかる。実際、労組側の会議体(電算化検討委員会)は7ヶ月で5回しか開催されていない。

さらに、労組とプロジェクト側との帯域が非常に狭かった。労組側とプロジェクト側の打ち合わせにおいて、労組の参加者は、R書記の1名のみになる。38支部・600分会・7000群から成る巨大組織に比べて、代表は書記1名のみで、プロジェクトとの接点は極めて限られていた。

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図:判決から読み取れる主な連絡経路を模式化 

判例を見る限り、支部担当者とベンダが直接同席したのは、基本設計書の納品から3ヶ月後、しかも一度だけになる。ベンダはオブザーバー参加であり、要件を合わせるような立場ではなかった。ベンダは設計が終わった後で、部屋に呼ばれただけになる。

ここからは私の想像だが、「基本設計書」という表紙であっても、そこに「ユーザの要望」が反映されているとは到底思えない。

ベンダは提案書に「利用者の意見が反映された使いやすいシステムを構築するため、設計、開発作業の各段階ごとに、利用者とベンダがレビューを行い、確認しながら作業を進める」と書いた。

だが実態は、そうでなかった。ベンダはこの二重構造が、プロジェクトの遅滞を招いたと主張した。判決ではこの主張をそのまま取り上げられなかったものの、国保の「懸案事項を目標期限までに解決しなかった」協力義務違反は認めている。

期限までに決めるべき人は、国保にはいなかったのかもしれぬ。

一般に、仕様検討において、ユーザ側の「窓口」となる人は、経営企画部やIT戦略部といった事業企画部系が多いように見える(組織マトリクス図だと経営幹部の横にくっついている組織)。

そして、私の経験上、この立場にいる人は、会議を仕切り、テキパキ割り切って進める人が多い(というか、Go/NoGoを即断しないと回らないので、割り切らざるを得ない)。さらに、経営層へ案件を上げるため、社内でも一定の権限を持ち、各組織へは「質問を投げかけ、回答をもらう」という立場にいる。

だから、仕様検討において出てきた課題は、「各組織へ投げて、回答をもらう」ことで完結する、と考える(だって、「窓口」だからね)。この人は、「ユーザの代表」であったとしても、必ずしも「要件を知っているユーザ」ではない。

しかし、本当に必要なのは、各組織から帰ってくる「回答」の濃淡やばらつきを見極め、取りまとめることだ。一つの課題について、38支部からの回答を一覧表にすることが、「取りまとめ」ではない。「こうしてほしい」「ああするべきだ」「もう使わないのでどうでもいい」などの要望を一つ一つ拾い上げ、どの要望を採用するのか、他の課題との優先順位も考えながら決めていく。

場合によっては支部からの圧力を突っぱねたり、なだめたり、バーター取引するといった「寝技」も必要になる。全ての支部に向けて「こう使え!」とルールを命じなければならない場合だってある。

こうした、各部を聞いて回りながらする、粘り強い調整は、「窓口」の人には向いていない、というか、できない。

かくして課題は放置される。

決めて欲しい要件は、「ヒアリング結果」という一覧で返ってくるだけで、結局どうするのかは書いていない。ある処理について松竹梅の3案を持っていっても、組織ごとにバラバラの回答になる。スケジュールが押して、優先順位を決めてくださいとお願いすると、「全部最優先で」という回答が来る。各組織の調整をしてくださいとお願いすると、「なんでワタシがしなきゃならないの?」と真顔で返事される(殺意が湧くのはこの瞬間だ)。

対策としてよくあるのが、籍はベンダだが席だけユーザの立場に移るパターンだ。ユーザの各組織の「御用聞き」のように立ち回り、意見を集約する。優先度や要件で衝突が起きるようなら、プロジェクト会議に上げて、そこで決着をつける。

ただ、今回の場合、この対策をするのであれば、ベンダは国保の向こう側の労組に移る必要があった。これは契約上、難しかったのかもしれぬ。

「現行踏襲」という同床異夢

「決めるべき人が決めるべき場にいなかった」という地獄みたいなプロジェクトだ。

おそらく、ベンダ側も何かしらの算段は講じていただろうが、見積もりの甘さかもしれぬ。

そこで安易に「ベンダが甘かった」という結論に飛びつくと、教訓を見失う。

このプロジェクトの構造として、もう一点、注意喚起したい。「国保の基幹システムのリプレース」という点だ。

国保の本部と、労組の38支部・600分会・7000群の組織で利用してきた、現行システムがある。それを刷新するのがこのプロジェクトの目的だ。

そのため、国保は慎重に進める必要があると判断し、現行システムの分析を委託している。1,920万円で委託し、およそ8ヶ月かけてベンダは現状分析を行った。ベンダは現行機能を網羅した報告書を提示し、国保と支部のネットワーク化を提案している。

その後、国保は複数社のRFP・見積書の提出を依頼し、最終的に、あるベンダに開発を依頼する。このベンダは、1,920万円で現状分析を行ったベンダと同一である。

ベンダの分析報告書には「現行システムをすべて網羅する」と記載されており、現状調査を行ったところで開発をするのだから、当然、現行システムについて熟知している……と国保は考えていたはずだ。

そして、ベンダも同じことを考えていた可能性がある。現状分析の過程で、現行システムの設計書やソースコードは分析していたはずだ。

ここからが私の想像だが、これがリプレース対象の全てだと考えていたのかもしれない。すなわち、現行のシステムの要件は明確になっており、ここに新たな要件を追加すれば出来上がりという前提の下、見積もりを行っていたと推察する。

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この図は、IPAの「システム再構築を成功に導くユーザガイド」からの引用だ。

ユーザから「現行踏襲でお願い」されたとき、その「現行」の一言に含まれている様々なギャップを可視化したものだ。

  • 左上の、オレンジの枠は、「設計書に書いていること」
  • 中央の、グレーの枠は、「ソースコードで実装されている範囲」
  • 右下の、四角形の枠は、「動作している現行システムそのもの」

設計書に書いていることや、ソースコードで実装されているものは、理解しやすい。

まず、設計書に無いけれど、ソースにあるもの。これは、バージョンアップや不具合の改修で手を入れたけど、設計書に反映するのが漏れていたもの。暫定対処だったものが恒久化したり、設計書を横断的に変更しなければならないけど、してなかったもの。

あるいは、設計書にあるけれど、ソースに反映されていないもの。実装モレなんだけど、たまたま見つかっていないか、微細なのでスルーされているもの。

問題なのは、「現行動作しているシステムそのもの」だ。

ユーザは目の前で動いているシステムが「現行」だと考える。だが、それは運用保守者の手作業や、業務担当者が一緒に使っている独自のツールで動かしているものだ。これは、設計書にもソースにも無いけれど、それがないと「業務が回らない」ため、やっているものだ。

あるいは、過去に問題が生じて、「そういう運用にする」とルール化され、それがなぜそうするのか、伝えられないまま、ルールだけが手順書に残されているものだ。

一時的にマスタ設定値を手修正して、システム負荷を下げたり、エクセルでデータ並び順を変えていたり、「締め日が月曜の場合、△△作業は締め日ではなく、翌日にすること!」と手順書に書いてある。

また、設計書には「10秒以内にレスポンスを返す」と書いてあるが、実装されているサーバの性能が優れているため、現状では3秒で返却されている、といったこともある。この場合、ユーザは、新システムも3秒でレスポンスするものだと考えるだろう。

そして、そうした例外的な運用やツールは、全国的に統一されているわけではなく、支店の数、いや組織の数だけ存在する(いわゆるローカルルールとか裏ツールというやつ)。

「現行踏襲」の一言で済まされているが、それぞれの組織ごとに、見ているものが違うのだ。

「現行踏襲」はいつ火を噴くか

同じ言葉なのに意味が違い、その違いのズレが、プロジェクトに致命的な要因となる。

これは、後から火を噴く火種となる。

例えば、現状分析や見積もりの段階では、設計書を見て、「この通りに作ればいい」と考えるだろう。そして開発者はソースコードを見て、「こう実装されている」と理解するはずだ。実際にシステムを利用しているユーザは、「いま目の前の通りに動くはず」と期待するだろう。

この3者がそれぞれ違う「現行」を前提に話を進めていくと、何が起きるか?

まず、要件定義を掘り下げていく過程で食い違いが出てくる。

ベンダとユーザが、ある機能について、どのように運用しているか、どう改善するかといったテーマで議論していくと、ベンダが把握している機能と、ユーザが使っている運用のズレが見えてくるだろう。

ただ、ベンダとユーザが同席して、そこまで要件を深掘りするかどうかは、プロジェクトのスケジュールによる。多くの場合、いくつか「ズレ」は散見されるが、後工程で詳細化し吸収していくといった方針で進められていくだろう。

次に見つかるのが、テストの場合だ。

パイロットユーザとして選ばれた担当が、実際に触り始めて気づく。そして、「今そんな動かし方をしていない」「こんなアウトプットだと、運用できない」といったユーザの声が噴出する。プロジェクトが変更対応に耐えられる範囲なら、仕様バグや仕様検討漏れといった形で吸収し、体裁を繕うだろう。

さらに厄介なのが、「移行できない」という形で露見する場合だ。

日次処理や月次処理のバッチを動かそうとするとエラーが出てくる。そこを修正してもまたエラーが出てくるという場合だ。現行システムの運用者の勘と経験で対応していた例外的な手作業が、コードにも設計書にも記載されていないと起きる。移行作業という時間的制約がある中で、先が見えないモグラたたきのような悪夢だ。

最悪なパターンが、移行して、使い始めてから「これではない」という場合だ。

各組織で吸収されていたズレが、その場において明らかになるが、プロジェクトは後戻りできないところにいる。「業務が回らない」とい怨嗟をどうやって抑えるか、あるいは、別にリリースを区切って手を入れていくか、そもそもそういうレベルで対応できるようなズレか、といったところから議論が始まる。非機能要件が炎上要因となるのは、ここ。

「決められない構造」を可視化する質問

決められない構造はプロジェクトを殺す。

課題を提示して、〇日までに決めてくださいと依頼しても、決まらない。これは、依頼する相手と、実行する人、決定できる権限が一致していないことから生まれる悲劇だ。

いま関わっている、あるいは関わろうとしているプロジェクトが、この「決められない構造」になっているかどうか、分からない。国保の事件も、こんな歪な構造だったことは、プロジェクトが炎上爆発して、裁判となったので明るみに出たのだから。ましてや、現在あなたが渦中にいるプロジェクトがどうなのか、分かるべくもない。

だが、決められない構造となっているかどうかは、質問により炙り出せる。

この課題について、誰が意見を集め、誰が調整し、誰が最終的に決めますか?

「誰が決めますか?」という問い方だと、形式的に決裁者の名前が返ってきて終わる恐れがある。国保の場合なら、「(国保の)窓口の担当です」か、せいぜい「(労組の)R書記」だろう。

だから、「支部が38もあって、600分会もあるので、R書記のお一人で意見集約から調整をするのは現実的ではないと思います。おそらく、ヒアリングや取りまとめをしている人がいると思いますが、その人はどなたですか?」という更問いになる。

そして、「そんな人はいない」や「全部R書記に一任している」といった回答であるなら、もっと本質的な質問になる。

もし、意見が割れたとき、誰が一つに決めますか?

単純に窓口として投げるのではなく、対立が起きた時の調整能力を問う。「各分会に確認します」というだけなら、窓口でできる。しかし、「結局どうするの」を窓口担当が決められるとは限らない。

「個別に検討します」というのであれば、「それを検討するのがこの場なので、その人のご都合に合わせて会議をするのはいかがでしょうか」といった提案もできる。分会が多いなら、会議体の規模を縮小して調整の場の数を増やす、分会の代表を選び、決定権限も持たせる等の案も出てくるだろう。

そこで起きるのが、分会ごとに違う回答が得られることだ。当然だろう。38支部もあるので、それぞれ異なる運用をしている可能性が大きい。「マイルール」が38個あると思ったほうが自然だ。その時は、こう問うことで、「決めるのは誰か」を炙り出せる。

自分の部署の希望ではなく、分会全体としての回答は何ですか?

おそらく、「マイルール」を言った人は、「私じゃない」と返事するだろう。まさにそこが欠けている点になる。「決める人がいない」ことが明確になり、「決める人を決める」ことが最優先であることが、皆の目に明らかとなる。

あるいは、担当同士で「私じゃない」「ウチじゃない」とモメることがある。これもよくある話だ。そもそも、システムのリプレースなんて頻繁にある話ではない。コストもかかるし、全社的な施策だし、業務も変わる影響だってある。数年か、十数年にあるかどうかというくらいだ。

そんな場合、そのシステムの「決め方」なんて決まっていると考える方が変だろう。決算処理といった定型業務であっても、まれに起きる例外事象の手作業を、どこの部署でやるのかで押し付け合いがある。定型業務でコレだから、例外中の例外である、新システムの要件の決め方なんて、誰も知らないのが普通だ。

そういう時は、こう問うてみよう。

期限までに回答が出なかった場合や、担当者で回答できない場合、どの会議体に上げますか?

伝書鳩の窓口しかおらず、決めるべき仕様調整の場に決めるべき人がいない。それが明らかになったらどうする? それを問うている。暗にエスカレーションを示唆しているため、言い方によっては、伝書鳩を侮辱していることになるので、できるだけ低姿勢で伝えるのが良いだろう。

口頭では低姿勢で説明するものの、議事録にはきっちり残しておこう。国保の落ち度として認定されたのは「懸案事項を目標期限までに解決しなかった」の一点であり、その期限が記録に残っていたことがそのまま過失相殺の根拠になった。議事録や課題表の中には、「本件の回答が期限に得られない場合、エスカレーションを行い、上位層にて議論する」と残しておく。

いずれにせよ、決めるべき人を決めるべき場に据えて、そこへ課題を持ってくるように仕向ける。

「現行踏襲」の悪夢から醒める質問

「現行踏襲」「現行と同じ」は便利な言葉だけど、実は何も言っていないに等しい。むしろ、「現行踏襲のギャップ図」の通り、極めて危険な言葉だ。

だが、「現行踏襲は危険です」と言っても、ピンと来ないだろう。だから、まず「現行」と呼んでいるものが何を指しているのかに注意を向けるのが、よい質問になる。

ここでいう「現行」は、設計書、ソースコード、実際の動作、現在の運用のどれですか?

喋りながら、ホワイトボードに「現行踏襲のギャップ図」を描いてもいい。おそらく、描いた瞬間、その場にいる人は「現行」の意味が何重であることに気づくだろう。そして、「現行踏襲」の代わりに、「現システムの設計書」や「現在の運用」といった言い方にしてもらうように促す。

受け入れ条件に接続する質問として、これも使える。

「現行どおり」を、何と比較して確認しますか?

言い換えるなら、「何が満たせれば、”現行通り”になるのか?」と問う質問だ。できれば、もっと早い段階で問いたい。

というのも、この質問は、先ほど出た「決める人を決める」にも直結するからだ。「何を満たせば現行通り?」という質問に、「〇〇さんに聞かないと……」と答えたら、その人が決める人になる。「現行通り」と比較する対象は、設計書やソースや手順書とは限らない。

そういう、暗黙のルールが良いか悪いかは別として、みんなの心の中にあるルールがあることが明確になることが重要だ。暗黙のルールは、暗黙であるが故に書かれない場合が多い。だが、それが無いと運用が回らないからルール化されている。そういうルールがあると分かれば、後は書き出すだけだ。

全拠点で共通の運用と、拠点独自の運用を分けてください。

「現行踏襲」と謳う場合、「現行」が拠点数だけ存在することがある。ある支部ではシステムが出力したファイルをそのまま使い、別の支部では独自のフォーマットにExcelで加工したり、さらにまた別の支部ではVBAで自動化している。どの現場の人にとっても、「現行」になる。

そして、「全拠点で共通」と「拠点独自」とが分けられないのであれば、その人は、「決める人」ではないと言える。最低でも「全拠点ではこう使う。拠点の独自のものはそれぞれの責任で加工すべし」と言える人をアサインする必要がある。

結局、「現行踏襲」の同床異夢に陥っていることを気づかせるのが「よい質問」になる。「いつまで経っても仕様検討が終わらない」「重要な課題がオープンなまま突き進んでいる」といった現象が赤信号だ。そうした兆候が出てくる前に、この「よい質問」を投げかけてみよう。

その回答が「持ち帰り確認します」というのであれば、持ち帰り先が次に集まるのはいつかを伺おう。国保の場合、7ヶ月間で5回しか開催されなかった。それが、裁判の過程で明らかになるか、プロジェクトが炎上する前に分かるかは、大きく違うのだから。

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リアル君の名は。おっさんが女の子の匂いを買ってきて身につけたら、たまらない背徳感を味わえた

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年5月22日


「女の子の匂い」をご存じだろうか?

「臭い」ではなく「匂い」である。

よく言われる、せっけんの香りではない。デオドラントや柔軟剤、コンディショナー、乳液、ハンドクリーム、化粧水、オーラルケア、ファンデなどの香料、フレグランスでもない。それらは、女の子から漂ってくる様々な匂いを構成する要素にすぎない。

そうした、外づけの化合物ではなく、女の子自身から発する匂いだ。ココナッツミルクや白桃を想起させる、何とも言えない、「匂い」というより、「あの感じ」といえば分かるだろうか。心地よく、はっとする感じ、あるいは身体的にオンになる感覚である。

これは、わたしの変態性が生み出した妄想にすぎぬ、と考えていた。しかし、優れた先人たちの研鑽と研究の末、「女の子のいい匂い」とは、以下の物質であることが判明している。

 ・高級脂肪酸と安息香酸エストラジオール
 ・ラクトンC10、C11

では、女の子の匂いを再現することはできるのだろうか?

結論からいうと、可能だ。[女の子の匂いを再現する]で解説した方法で、脂肪酸やアルデヒトの「匂い」を再現することができる。しかし、一般には入手困難な試薬であったり、実験器具を要するため、手軽さに欠けるところがあった。

しかし、今回ご紹介するやり方では、お手軽に女の子の匂いを再現できる。ロート製薬が開発した薬用ボディクレンズ(商品名:デオコ/DEOCO)を使う。

ロート製薬の研究によると、女性には、「若いころに特有の甘い匂い」が存在し、それは加齢とともに減少することが解明されている。匂いの正体は「ラクトンC10、C11」であり、10代後半~20代の女性に特有で、30代半ばから減少するという[若い女性の甘いニオイの正体]

デオコを使うことで、この甘い香りまとうことができるという。

で、お試しで使ってみた。

Deoco

結果は、まちがいなく女の子の匂いだったことを報告する。普通のボディソープとして使ったのだが、シャワーで流したあと、全身が女の子の匂いになる。

身体はくたびれたおっさんなのに、目を閉じると若い女の子の匂いに包まれている。おもわず自分を抱きしめ、ありもしない胸をまさぐる。心と体が入れ替わるリアル「君の名は。」か、あるいはプリキュアに変身したかのようで、非現実感がハンパない。

ただし、匂いだから慣れる。しばらくすると、分からなくなる。

ところが、問題はここからである。

時間が経つにつれ、身体についた匂い成分が、汗で揮発する。自分の体臭に、女の子の香りが混ざった新たな匂いがわきあがる。「自分の汗+女の子の匂い」に脳がバグり、背徳感がハンパない。

最も危険なのは、お布団にくるまっているとき。お布団のなかから、むんむんと女の子の匂いがする(おっさんの汗なのに!)。ぶっちゃけありえない非現実感と、人としてダメになる背徳感に打ちのめされる。

このイリュージョン、体感してほしい。
(効果は個人差があります)

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「語りえぬもの」とは何か?『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考 』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年5月19日


「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』は、この一文で終わっている。

ウィトゲンシュタインは、この一文を証明するために『論考』を書いた。
すなわち、この一文が分かることは、『論考』が分かることに等しい。

何度も挑戦し、挫折し、さまざまな回り道をしてきたが、古田徹也氏が著した『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』で、ようやくたどり着いた。やっと「分かった」と言えるようになった。

しかし、本当に「分かった」のか? 独りよがりに陥っていないか?

それを確かめるために、自分の言葉で説明しなおす。「語りえぬもの」とは何か? なぜ沈黙しなければならないのか? 「語りえぬもの」について、わたしの理解を確かめたい。

「語る」とは何か

まず、「語る」について語ろう。ここで言っている「語る」とは、何か意味のあることを言葉で表現することだ。たとえば、

  • あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。
  • ない僕達はまだ知らあの日の名前を花見た。

最初の文は、意味が通るが、二番目の文は何を言っているのか分からない。「語る」とは、最初の文の、何事か意味のあることを言っていることだ。

そして、この語ることができるものを、どんどん積み上げてゆく。

  • あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。(経験の記述)
  • 火星のオリュンポス山頂にiPadが刺さってる。(想像上の話)
  • 運動方程式はF=maである。(科学的知見)

日本語だけではなく、英語でもドイツ語でも「語る」ことができる。どんなに突飛な話でも、肯定文でも否定文でも、順序を入れ替えても、意味が通るのであれば、「語る」ことはできる。まだ発見されていない物質や物理法則も、「語る」に入れていい。

そうやって、語ることができることで世界を埋め尽くしてゆく。でも、未来のことや発見されていないことなんて、何て呼べば良い?

Katarienu

「究極の言語」で語りつくす

なので、『論考』は、「究極の言語」を提案する。語りえるものを最大限に拡張するため、古今東西の(未来も含めた)あらゆるものを語りつくすことができる言語だ。これなら、すべてのことが「語りえる」のだろうか?

『論考』によると、否、になる。

なぜなら、世界を語りつくしたとしても、その「語り」を保証する対応づけそのものは、語ることができないから。「語り」を保証する対応づけとは、語りを構成する文字列(音声)が、まさにその対象である、とわたしたちが信じていることだ。

たとえば「あの花」という文字列から、それがあの日見たまさにあの花であることは想起できるが、その関係性(「あの花」=「あの夏の日に見た花」のイコールの部分)は、語ることができない。わたしたちは、「あの花」と言われて、あの夏に見た花を思い浮かべるのみである。

「語る」に先立ち成り立っているもの

「言葉とその対象に対応づけがあること」なんて、わたしたちは当たり前すぎて見過ごしてしまうかもしれない。だが、わたしたちが意味のあることを語るに先立ち、それを意味あるものにするために、言葉と対象に対応づけがある。

そして、その対応づけは、語ることができない。世界を埋め尽くす「語ることができるもの」の中で、わたしたちは想起する他ないのだ。

では、「語りえぬもの」とは、語りを保証する対応づけだけなのか?

「視界=世界」という思考実験

これも、否、になる。

『論考』では、独我論者を攻撃することで、「語りえぬもの」が見えてくる。独我論者とは、自分にとって存在していると確実に言えるのは、自分だけだという立場である。つまり、自分の目に映るものだけが全て(=世界)であり、それ以外は疑いうる、と主張する。

つまり、彼の目には世界はこうなっている(視界=世界)。

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『論考』では、独我論者は間違っていると指摘するが、「言おうとしていること」は正しいという。

まず、この絵は正しいかというと、間違っている。仮に、「視界=世界」としよう。すると、この「目」は何なのか? ということになる。独我論者の世界の中に、独我論者自身のの目は存在しない。しかし、彼の目は確かに存在する。だから、この絵は間違っている。

私の限界=世界の限界

しかし、独我論者が「言おうとしていること」は正しい。確実に存在するといえるのは、自分という主体が認識する範囲が限界であり、それを超えたものは、あるかないか分からないという考え方である。最も目がいい人でも、視界が届く範囲が世界になるのだ。

これを言葉で置き換えると、言葉が届く範囲が「語ることができる」範囲になる。語ることができる最大最長の範囲なら、究極の言語を持ってくればいい。その究極の言語をもってしても、届く範囲は、主体が認識する限界を超えることができない。

究極の言語でもって最大限に語りつくした世界が主体なのであり、その向こう側は、語ることができないのである。

『論考』には、他にも「語りえぬもの」が出てくるが、ここでは2つの方向から「語りえぬもの」にアプローチした。

ひとつは、「語りえる」ことを語り尽くす前に、語ることそのものを成立させている対応づけであり、もうひとつは、「語りえる」ことを語り尽くした後に、それでも届かない限界になる。

語りえることを語り始めるに先立つ静寂、あるいは、語りえることについて語り尽くした後の沈黙、これこそが、「語りえぬもの」になるのだ。

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なぜ「このシステムは使えない」は納品直前に噴き出すのか——旭川医科大学事件が示した本当の敗因

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非常にしばしば結構しょっちゅういつもあるのが、「これ使えない、ちょっと直して」という追加要求だ。

「画面に項目を入れるだけ」とか「帳票の見た目を少し変えるだけ」など、「ちょっとした修正」は、いつでも、いつまでも発生する。一つ一つは小さく見えるかもしれないが、データの持ち方から考え直す必要があったり、集計ロジックに手が入ることだってある。

そして、「お客様」のために良かれと思って対応していくうちに、そんな「ちょっと」がボディブローのように効いてくる。変更管理が追いつかなくなり品質に影響が出たり、追加コストが当初見積もりを上回る。最悪の場合、スケジュールに間に合わなくなる。

「ちょっと」でも、積もればプロジェクトは破綻する。その最悪の例が、札幌高裁判決2017年の旭川医科大学事件(判例)だろう。ユーザ側は、旭川医科大学で、ベンダ側はNTT東日本などになる。

3行でまとめる。

  • 病院情報管理システムの導入にあたり、既存パッケージをベースに開発を進めた
  • 契約後、仕様変更が噴出したため、ユーザ・ベンダ合意の下、スケジュールの見直しと要件の再整理、仕様凍結を行った
  • その後も追加要望が止まらず、現行システムのマスタ抽出をめぐってプロジェクトが頓挫し、訴訟となった

それぞれの主張をまとめると、こうなる。

ベンダ側の主張

  • 前提は、パッケージをベースに、一部をカスタマイズするもの
  • しかしユーザ側は、契約後に大量の追加要望を出してきた
  • 追加の多くは開発対象外であり、対応すれば納期に間に合わない
  • ユーザの要望に応じて、追加の625項目を受け入れる代わりに、スケジュール変更と仕様凍結合意を取り付けた
  • それにもかかわらず、さらに171項目、追加要望を出してきた
  • 現行システムのマスタ抽出や、現行システムの情報提供も不十分だった
  • そのため、プロジェクトが頓挫した

つまり、追加要望のリスクを警告し、受け入れる範囲を決め、仕様凍結まで合意した。それを破ってプロジェクトを止めたのは、ユーザの責任だという主張だ。

ユーザ側の主張

  • 仕様凍結後の171項目は、開発対象外の追加要望ではない
  • それらは、未確定だった画面・帳票・操作性の確認や、不具合の指摘だ
  • それらは、業務に適合させるために、当然必要なカスタマイズだ
  • その対応を拒否したため、ベンダは完成義務を果たしていない

まとめると、仕様凍結の時点で、画面や帳票で確定していないものがあり、業務に適合していないものは不具合のため、修正するのは当然だという主張だ。

要件の追加 vs. 業務不適合

両者の主張を煮詰めると、「これは要件の追加である」vs.「いいえ、業務に合わないので不具合だ」という構造だ。請求額はユーザは19億円、ベンダは22億円という巨額の訴訟だが、この応酬は非常にしばしばしょっちゅうよくある。

通常なら、最初から詳細を細かく決められないため、「画面イメージ」「帳票イメージ」といった形で合意する。そしてプロジェクトが進み、実際に画面や帳票が確認できる時点―――テストや検収の段階で、現場から「使えないから、ちょっと直して」という声が出てくる。

モックやプロトタイプで触ってもらうという対策もあるが、全ての画面や帳票を試作するわけではない。その結果、プロジェクトの終盤のときに、「業務不適合による不具合」という理由で変更を強要される。

ユーザからすると「これくらい直してよ!」だし、ベンダにとっては「今さら言ってくるな」になる。だが、「このままだと使えない」というセリフの効果は抜群で、泣く泣く対応するのが常だった。

しかし、ものには限度というものがある。

裁判所は、ユーザ側の主張を退ける。

ベンダ側は、専門部会の場においても、「追加要望の多くは仕様外のもの」「対応するのは難しく」「(開始日に)間に合わなくなる」と明確に警告を発していた。

さらに、「このままだと業務に適合しない」というユーザの要望に適合させるため、625項目の要望追加とスケジュール変更、仕様凍結を行った。

裁判所はこれを、「新たな機能の開発要望はもちろん、画面や帳票、操作性に関わるものも含め、一切の追加開発要望を出さないとの合意」に相当すると見なしている。

そして、仕様凍結した6486項目のうち、未完了なのは1項目のみで、それもユーザの協力が得られず保留したことによる。システムは、ほぼ完成していたと裁判所は認定している。

これに加えて、マスタ抽出義務を怠ったこと、現行システム情報を十分に提供しなかったこと等を重視して、ユーザの協力義務違反と判断し、ユーザ請求を棄却、ベンダ請求を14億円の範囲で認めることになる。

おそらく、ユーザ側は「全部が決まってないなら、不具合の指摘として後から修正できる」なんて、本気で信じてる訳でもなかろう。訴訟になった以上、171項目を「追加要望」としてしまうと、敗色濃厚となってしまう。だから「不具合の指摘」と位置付けざるを得なかったと考える。客観的に見ると苦しいが、訴訟では持てるカードで戦うしかないのだから。

後になって「使えない」と言われる理由

この事件を「ユーザが仕様凍結を破った」とだけ読むと、教訓を取り逃がす。問題は、なぜ仕様凍結後に、これほど大量の「使えない」が噴き出したのかである。

別に、ユーザ側も意地悪で言っているわけではない。「このままだと使えないシステムになる」という危機感があり、現場からの強い要望があったため、不具合という言い方になっていると考える。

ただ、なぜその強い要望が、後になって噴出したのか

前段として、スケジュールが必達ではなかったという事情がある。ユーザ側は、仮に運用開始日が当初予定から変更されても、「現行システムの使用を継続すれば足りることであって、開発対象を絞ってまで本件システムの運用開始を早めなければならない事情はなかった」と主張している。これは本音に近いだろう。

むしろ、納期を守るために要件を削る方にリスクを感じていたと推察される。総合病院の情報システムだから、現場の医師、看護師、薬剤師、専門技師、会計事務という、様々な立場の人々が利用する。現場の人にとって使えないものを入れたら、単なる効率低下では収まらず、医療サービスの安全性の低下ひいては人命にまで関わるかもしれない。

だから、多少遅れても現行システムを使えば済むし、むしろ変なものを入れて現場が混乱することを避けたい、と考えた可能性がある。

さらに、仕様検討に関わったメンバー選定にも問題がある。この紛争の根本的な原因として、判決では以下のように認定されている。

  • 現行システムに固執する現場の医師らの要望を十分に反映させないまま要求仕様書等を取りまとめて本件契約を締結した
  • その後、現場の医師らの追加開発要望を抑えるための努力を放棄した
  • 仕様凍結の意味について、現場の医師らには、そのような認識が必ずしも浸透していなかった

ここからは私の推測だが、仕様検討の段階で、現場の意見を集約して要件にまとめあげる仕組みが不十分だったのではなかろうか。

仕様検討の場では、大量のドキュメントを広げ、皆で巨大なディスプレイを見ながら、「現行システムはどうなっているか」「新システムは何が必要か」を検討・取捨選択する必要がある。

会議の拘束時間もあるだろうし、確認すべきドキュメントも多岐にわたる。病院の現場だから、ただでさえ多忙だ。そんな中で、ドキュメントを読み込み、会議に参加し、要件を提示することなど、至難の業だろう。

「使えるか」を判断できる現場の人は、要件定義の段階から参加してもらう必要がある。ただし、名前だけ参加者に入れて通常業務の片手間でレビューを頼んでも機能しない。曜日や時間帯を決めて、「現場の人がレビューアーが入っていること」を前提とした会議体にするといった工夫が必要だ。

そうした考慮をしないまま「仕様凍結」して突き進んだ結果だといえる。

現場からの「使えない」という声そのものは正しい場合が多い。だが、これは魔法の言葉ではない。重要なのは、その声が届くタイミングとコントロールだ。仕様凍結後もその声を活かすなら、リリースを刻むなどの変更管理が必要になる。次に「使えない」を耳にしたときは、14億円の判決を思い出そう。

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秘密の悩みは、バーチャル師匠に相談せよ

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年6月14日


精神的にヤバいとき、どうするか? 自分ではどうしようもできず、かつ、誰にも相談できない悩みだったら、どうするか?

そんなとき、バーチャル師匠を召喚する。いわば仮想的な師匠である。

バーチャル師匠とは

あらかじめ「人生の師」を決めておき、困ったときに相談する。師から直接、教えを受けてなくてもいいし、生きている必要すらない。師を模範として慕い、学んでいればいい。それこそ、マスター・ヨーダを師としてもいい。私淑と呼ばれる方法で、『アイデア大全』(読書猿、フォレスト出版)から学んだ。

700年前の詩人ペトラルカも、私淑を実践した一人だ。
Peto

彼は詩人としての名声を博してはいたものの、うつ病に悩まされ、精神的危機に陥っていた。自己欺瞞による惨めさと、絶対に叶うことのない恋と、欲情が生み出したドロドロの愛憎関係に悩まされていた。

誰にも言えない悩みだから、脳内で相談する。彼にとっての、バーチャル師匠はアウグスティヌスだった。『告白』を読み込み、写本に書き込み、ついには脳内で擬人化できるまでに至る。

彼は、このバーチャル師匠向かって、赤裸々に心情を吐露する。アウグスティヌスは霊的な存在として立ち上がり、雄弁に弟子を叱る。『わが秘密』は、この師弟問答の対話体で成り立っている。

不幸だという嘆きには……

たとえば、自分のことを不幸だ、惨めだという嘆きには、「死」を考えよという。絶対確実なのは死ぬことだから、死をひたすら省察えよと説く。落ち込んでるとき、不吉なことを考えない方がよいのではと思うのだが、アウグスティヌスによると、人はみな死を遠くに見すぎだという。そして、愛や名誉といった欲望によって、死への省察が曇らされることが、苦悩の原因だというのだ。

なるほど、死が確定的なことは分かる。だが、「まだ」死なないつもりでいる限り、真にやりたいことが先送りされる。結果、目の前の欲望に引きずられ、現実とのFIT/GAPを感じるというわけか。自分の意思で、自分の不幸を選び取るという感覚は、確かにそうかも。

脳内アウグスティヌスは、キケロの言葉を引きつつ、「死ほど確かなものはなく、死の時ほど不確かなものはない」と述べる。それは明日どころか、次の瞬間だってありうる。これをありありと実感できるのなら、「まだ」死なないつもりから生じるさまざまな苦悩も消えることだろう。代わりに、限られた時のなかで真にやりたいこと(すべきこと)が何かを探し、それを実行しようとするに違いない。

悩みごとで自分を壊さないために

笑ってしまうのが、バーチャル師匠に嘘をつくこと。自分の脳内の話だから、嘘なんてつきようがない。にもかかわらず、あえて嘘を言い、論破され、考えを改める。本音の自分を守りつつ、建前の自分に折伏される経緯を記すことで、自己欺瞞を表面化させる。

本音の自分の「昔の女が忘れられないけど、今の女が愛おしい」という告白に、バーチャル師匠は叱責する。それを「愛」という名で呼ぶこと自体が、神の愛への冒涜になる。恋人どうしが互いに掻き立てる感情を「愛」と呼ぶことで、宗教的口実を与えているというのだ。

アウグスティヌスにとって愛とは、神の愛しかないのだから、同じ名で呼ぶなという建前は分かる。だが、本人は、あまりにも俗物的な告白をする。このコントラストが非常に面白いのだが、本音 vs 建前でキャラを分けるのは、自分を壊さないための多重人格なのかも。

さらに、異なる人格どうしの対話を記すことで客観視できる。脳内でこれをやると、だんだんすごい勢いになって収拾がつかなくなる。いったん「書く」ことで、正しいか否かに関係なく、確定させる。その上で吟味できるから、暴走を押さえることもできる。

ペトラルカは本書を誰にも見せず、生涯にわたって何度も手を加えたという(『わが秘密』というタイトルにした所以はこれ)。

私淑の実践をお試しあれ。

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映画『ニューヨーク公共図書館』を観たら、未来の図書館が見える

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年5月31日


フレデリック・ワイズマン監督『ニューヨーク公共図書館』を観てきた。ニューヨーク公共図書館(NYPL)そのものを主役とし、そこに集う人々を丹念に描いており、ものすごく贅沢な3時間が、あっという間だった。

図書館を超えた図書館の姿を眺めているうちに、「図書館とは何か?」についての具体的な回答と、その回答から導かれる未来の図書館が見えてきた。

Nypl

図書館とは何か

「図書館とは何か?」について持っているイメージは、この映画によって覆るかもしれない。静謐な空間で賢そうな人が本に没頭するといった静的な姿がある一方、大盛況の就職セミナーや講演会、パソコン教室、低所得者への支援といった動的な面が際立つ構成となっている。

そうした営みを見ているうちに、図書館とは、ただ本を集めて貸し出すだけの場所ではない、ということに気づく。

NYPLに集う人は、様々な「知りたい」ことを抱えてくる。面接でどうふるまえば合格できるか知りたい、ネットの情報を手に入れたい、移民局の資料から祖先をたどりたい……そうした「知りたい」についてサポートする、それが図書館なのだ。本を集めて提供するのは、図書館の目的ではなく、手段なのである。

「図書館とは何か?」について、本編で明かされている。プロジェクト会議で建築デザイナーが、「図書館は人だ」と断言する。図書館は、ただ本を集めた書庫ではない。知りたいことについて一生かけて学ぶ場所だという。

本を集めただけでは、「知りたいこと」へたどりつける保証はない。「検索すればいい」というが、どの言葉を検索すればいいか、みんなが分かっているとは限らない。さらに、キーワードがおぼつかないのであれば、検索結果が正しいのか、検索結果が全てなのかすら分からない(ソクラテスの探求のパラドクスやね)。

「知りたいこと」へたどりつくためには、学ぶ人と、学びを手助けする人がいる。図書館には本が沢山あるが、本だけがある場所ではない。たまたま本というメディアが多いだけで、その本質は、「知りたいこと」と人を結びつける場所が、図書館なのだ。

インターネットと図書館

そして、いまやネットの時代だ。

「知りたいこと」のかなりの部分は、インターネットで手に入る。いや、ネットですべて完結し、本なんて開く必要すらないかもしれぬ。あるいは、デジタル化された本を自宅から「借りる」ことだってできる。建物としての図書館や、物理的な本は、ネットに浸食され、不要になるのではないか?

この疑問に対し、NYPLは明確に応える。

まず、「知りたいこと」と人を結びつけることが図書館であるなら、その手助けとなる電子本やネットはどんどん活用すべし、というスタンスをとる。

幹部会議で予算の割り当てが象徴的だ。紙の本とデジタルの本、どちらに重点を置くべきかが議論になる。「デジタルの本の貸出は前期の300%です」という報告を受けて、デジタルライセンスの購入に大きく割り当てる。

さらに、「ニューヨークの300万人はデジタルの暗闇にいる。その人たちにインターネットアクセスを広げる」と宣言する。具体的には、図書館のネット端末の充実はもちろん、低所得者へルータを格安で貸し出すところまでする。ネットを最も必要としている人は、ネットに接続できない人なのだ。

この試みが政治家の目を引き、福祉対策として評価され、NYPLの予算が増額され、継続的に行われるようになる。図書館が社会を動かした事例である(という話だったはず……違ってたらご教示ください)。

未来の人が知りたいこと

「知りたいこと」と人を結びつける場所が図書館であるなら、未来の図書館が見えてくる。すなわち、未来の図書館は、未来の人が「知りたいこと」と人を結びつける場所になる。

では、未来の人が知りたいこととは何だろう?

すでに起きている未来としては、超「超高齢化社会」だ。

そこでは、医療情報へのニーズがさらに増えるだろう。しかし、「がんが消える」エセ医学の氾濫により、正確な医療情報へのアクセスが難しくなっている。本だけでなくネットも同様だ。高齢者やその家族は、膨大な情報を前に途方にくれた挙句、SEO対策ばっちりのイワシの頭を拝まされることになる。

現在、図書館のリファレンスでは、医療関係の相談は不可となっている。直接的な質問への回答は難しいとしても、ライブラリーという形で見せるのはできないだろうか?

たとえば、医療機関に委託することで、良質な医療情報を「本のリスト」として示す。あるいは、そうしたリストの本を集めた書棚を展示するのもいい。本だけでなく、信頼できるネット情報も選んでもらう。情報はどんどん古くなるため、一定期間で更新をかけてゆく。

つまり、図書館に行くことで、スクリーニング済の情報が手に入るのだ。NYPLのように、図書館が単独で活躍する必要はない。図書館は、医療機関と連携して、「知りたいこと」と人を結びつける場所として振舞う。個人が行っている例としては、[一般市民も使える医学図書館]がある。このポータル的な役割を担うのだ。

未来の図書館

上記は、わたしのジャストアイデアにすぎぬ。だが、未来の図書館の一つとして提案したい。

映画を観ることで、図書館の本質が見えてくる。「日本にはNYPLがない」と徒に嘆くのではなく、「図書館は、知りたいことと人を結びつける場所」という本質から考えてみよう。すると、いま抱えている「知りたいこと」に応じて、さまざまなアイデアが湧き出してくるに違いない。

それこそが、未来の図書館なのだ。

 

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『死ぬまでに読みたい1000冊 人生を豊かにする世界の名著』をネットワーク化した

カリスマ書店員が14年かけて選び抜いた究極のブックリスト。

まず、圧倒的な物量で殴ってくる。

「1000」は書評の数で、冊数ではない(プルースト『失われた時を求めて』も1冊とカウント)。主要の1000作品に加えて、言及された関連書籍も含めると、著者3000人以上、作品数6000以上になる。

紀元前2100年のギルガメシュ叙事詩から2016年のホワイトヘッド『地下鉄道』まで、古今東西の作品をまんべんなく配置して、小説、戯曲、エッセイ、歴史・哲学、自然科学、社会科学、コミック、児童文学など、ジャンル総なめで、狂気のリストと言ってよい。

いわゆる古典・名著に限らず、ベストセラーやロングセラー、ミステリ、ホラー、映画化されて有名になった作品など、著者のお眼鏡に適った「面白い本」「読むべき本」が一堂に集まっている。

紹介されている本は、小説が多めなのは分かるが、メモワールや自伝・伝記がかなり多い印象だった。代わりに自然科学系が少なめで、サイエンス好きな方には物足りなく感じるかもしれぬ(下図はGPTに分析してもらった)。

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ハードカバーで、デカくてゴツくて重い(2.3kg)ので、両手持ち鈍器本として有用なり。意地でも寝っ転がって読んだのだが、腕のトレーニングにもなった。

フルカラーで、作品に関連するイラストや写真・図録が大量に揃っている。細部の書評に入る前に、良質な本のカタログとして、百科事典のように眺めて楽しんでもいい。

これが好きなら次はこれ

最大の特徴は、「これ好きなら次はこれ」とお薦めをつなげている点だ。例えばこんな感じ。

  • エーコ『薔薇の名前』→→ボルヘス『伝奇集』
  • 村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』→→ヴォネガット『スローターハウス5』
  • マクニール『世界史』→→ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』
  • ボルヘス『伝奇集』→→カサーレス『モレルの発明』
  • カミュ『ペスト』→→サラマーゴ『白の闇』
  • バルザック『ゴリオ爺さん』→→シェイクスピア『リア王』

本は単品ではなく、つながりを持っている。テーマ、モチーフ、時代性、描写、構成など、似た匂い・味をする作品をレコメンドしてくれる。この嗅覚がすばらしい。

エーコとボルヘスは迷宮(=メタフィクション)での遊戯だろうし、村上春樹とヴォネガットは現実の裂け目(井戸と別世界)、カミュとサラマーゴは災厄により社会の底が抜けた状況、マクニールとダイアモンドは、「この順で文明史を読め」というメッセージなんだろうね。

ほら、飲み屋でお試しセットで3杯ぐらいを飲んで、好みの銘柄を言うと、それを手がかりに、もっと合うやつを見繕ってくれるやつ。あのノリで、自分の知ってる(好きな)本を手がかりに、知らない本をお薦めしてくれる。

このブログのテーマでもある、「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」を地で行っており、本を手がかりに別の本へ通じる扉としても使える。

死ぬまでに読みたい1000冊のネットワーク

このつながり、本と作家のネットワークを、インタラクティブなものにしてみた。

『死ぬまでに読みたい1000冊』ネットワーク

  • 「これが好きなら次はこれ」とお薦めされたり、書評で他の本や作家に言及されている「つながり」の数をカウント
  • 「つながり」が5つ以上のものだけをリストアップ
  • 「つながり」数が多い作家・作品は大きいノード
  • ノードをクリックすると、そのノードにつながっているノードのみを表示
  • 「つながり」の線をマウスオーバーすると、本書の該当ページを表示

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遊び方としては、こんな感じ。

  1. 好きな作家や作品を検索する
  2. そのノードをクリックする
  3. そのノードとつながっているノードを探索する

例えば、「村上春樹」を検索してクリックするとこうなる。

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本書の中で、村上春樹の書評の中で言及している作家・作品や、他の作家や作品で村上春樹に言及していると、それらが「つながり」として見える。ハルキストからすると、フィッツジェラルドやヴォネガットが出てくるのは納得だろうが、トレヴァーやオコナーが現れるのは意外かもしれぬ。そして、本書で紹介されているオコナー短篇集に手が伸びるという寸法だ。

あと、左上の「物理:OFF」をONにするとキモくなるので、絶対にクリックしないように。

米国人にとって最高のブックリスト

じゃぁこれ、最強&最高の一冊かというと、話はそう簡単じゃない。

私の好みに合わないところ、価値観のズレ、明らかな誤りが散見される。

まず、書評されている内容が、よくあるヤツであること。

基本的に、引用+あらすじ+誉め言葉で構成されている普通のやつ。その本を読んで何を受け取ったかとか、どう感じたかといった個人的な経験はほぼ無い。代わりに、どこかで聞いた美辞麗句が並んでいる。例えばこれ。

  • アメリカの小説の中で最もオリジナルで影響力がある一冊(重力の虹/ピンチョン)
  • きわめて読みやすい文章で描き出す壮大な歴史ドラマ(疫病と世界史/マクニール)
  • 独特の世界を貫いてゆく特異な想像力の呪縛(ねじまき鳥クロニクル/村上春樹)

私の好みは、評者の嗜好が滲み出るような好みなのだが、そんなものは脱臭された、ニューヨークタイムズの日曜版の書評みたいなものになる。松岡正剛『千夜千冊』の、どろり濃厚なヤツを期待して読むと肩透かしを食らうかもしれぬ。あと、ネタバレに一切配慮していないのでご注意を。

次に選書。

いわゆる古典・名著に、ピューリッツァー、ノーベル、ブッカーで賞を取った奴、あと著者が個人的に好きな本が選ばれている。

最後の「著者が個人的に好きな本」が、私の好みに合わなかった。メジャーリーガーの立志伝、上院議員の自伝、アメリカ建国の歴史本が大量にあり、”善きアメリカ市民”にとって「人生を豊かにする本」なんだろうな、という印象だ。

パワーズやデネットの書評が無いことにマジかよと呟いたり、キングを推すならクーンツも出せよと思ったり。特にマンガが壊滅的で、『マウス』や『ウォッチメン』ぐらいしかなく、英語圏のグラフィック・ノベルの域に収まっている。

手塚『ブッダ』『火の鳥』はかすりもせず(ブッダはアイズナー賞を受賞)、エルジェ『タンタンの冒険』、メビウス『アンカル』、ムーア『フロム・ヘル』、サトラピ『ペルセポリス』、大友『AKIRA』、宮崎『風の谷のナウシカ』、ペータース『闇の国々』、ブリッグズ『風が吹くとき』など、「人生で読むべき」大上段で構えるなら、もっとこう、あるだろ!ともどかしい思いもした。

おそらく、英語圏に留まっているため、欧米文学+アルファという観点だけで選ばれており、マンガの射程や池澤夏樹の世界文学全集といった「世界文学」の視点が無いのだろう。なので残雪もカプシチンスキもいない。

アメリカ合衆国の強みといえばSTEMなのに、自然科学系が追いやられている。

ファラデーやファインマンはあるのに、ファーブルもホーキングもいない。

シュレーディンガー『生命とは何か』、ガモフ『不思議の国のトムキンズ』、ポリア『いかにして問題をとくか』、グリーン『エレガントな宇宙』、エンツェンスベルガー『数の悪魔』、スチュアート『もっとも美しい対称性』、ソートイ『素数の音楽』、ハフ『統計でウソをつく方法』、ストール『カッコウはコンピュータに卵を産む』など、影響力でも、ロングセラーでも、物語性でも、本書の選書基準に適うはずの数学・物理学・テクノロジーの名著がごっそり抜けている。

また、誤記(誤訳?)と思われるのがちらほら。

『百年の孤独』でp.308「都市全体の記憶を脅かす伝染性の不眠症」とあるが、その頃のマコンドは「村」やで(せいぜい、大きくなっても「町」ぐらい)。

あと、『カラマーゾフの兄弟』のイワン・カラマーゾフは、p.232「合理主義、無神論、ニヒリズムといった流行中のすべてのイズムを信奉している」とあるけど、真逆だぞ。イワンは、全てのイズムを知り尽くした上で、イズムそのものに絶望していたはず(大審問官を読んだなら、絶対にこの説明にはならないので、誤記と考える)。

この1000冊は、いわゆるカノンとしての1000冊ではない。

何かしらの「答え」を求めて手に取ると、粗と偏りが目につく。でもそういうものかもしれない。

本について語るときに私が語るのは、偏愛であり思い込みであり情熱になる。だから、私が満足するような1000のリストは、私が作り上げるもので、それとこの1000冊との交錯こそが愉しいのかもしれぬ。

そして、交わったノードから、次の「わたしの知らないスゴ本」かもしれない一冊への扉を開けるために、本書は使い続ける本なのだ。

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女の子の匂いを追い求めた男の話『香水』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年6月6日


目はそむけることができる。

耳は塞ぐことができる。

だが、息を止め続け、匂いを拒むことはできない。

匂いはそのまま体内に取り込まれ、胸に問いかけ、即座に決まる。好悪、欲情、嫌悪、愛憎が、頭で考える前に決まってしまう。

匂いは、どんな意志より説得力をもち、感情や記憶を直接ゆさぶる。人は匂いから逃れられない。

だから、匂いを支配する者は、人を支配する。
そんなことができればだが。

これは、そんなことを目指した男の物語である。

Perfume

男の名は、ジャン=バティスト・グルヌイユ。

超人的な嗅覚をもち、あらゆる物体や場所を、においによって知り、識別し、記憶に刻みこむ。におい(匂い、臭い)に対し、異常なまでの執着心をもち、何万、何十万もの種類を貪欲に嗅ぎ分ける。彼に言わせると、世界はただ匂いで成り立っている。

舞台は18世紀のパリ。

通りは汚濁まみれ、垂れ流しの糞尿が鼻を刺す。魚と屠畜の腐臭と、鼻を背けたくなる疫病の膿んだ臭い、死体の山から漂ってくるものは、目にクる。小便とカビと経血の臭いが入り混じり、日常的に街を覆う。バリの香水が世界一なのは、パリが世界一臭い都市だったからなのかもしれぬ。

このパリで、グルヌイユは「匂い」でのし上がろうとする。

においという、精緻で的確で膨大な「語彙」をもつがゆえ、人とコミュニケートする「言葉」の貧弱さを低く見る(というか興味がない)。さらに、においを組み合わせ、新しいにおいを創造することができる。私たちが言葉を操るように、いや、それ以上に、グルヌイユはにおいを操り、意思を伝えることができる。しかも匂いは言葉より強い。私たちは、匂いを拒むことができないのだ。

そんな彼が、究極の匂いを持つ少女を嗅ぎつけてしまったら?

鋭敏すぎる嗅覚を持つグルヌイユにとって、世界一臭い都市パリは、端的にいって地獄である。誰と会っても、どこへ行っても、ひどい臭いから逃げられない。そんな彼にとって、馥郁たる香気を纏わせる少女が、どのように感じられるか。

本書は、「臭い」に限らず「匂い」の描写が素晴らしい。食欲をそそる香ばしさ、情欲を招き寄せる生々しいにおいと、眠りを誘う芳香。危険を発するきな臭さと、もう手遅れとなった血腥さ。あらゆる「におい」がここにある。そして、においは強烈であればあるほど儚い。ページを繰る手を止めて、思わずくんくんする。

目を凝らすように、耳を澄ますように、鼻に集中する。グルヌイユの運命をたどることで、わたしの嗅覚も鋭くなった気がする。

匂いは言葉より強い。彼が追い求めた究極のにおい、ぜひ一緒に嗅いでほしい。

 

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死 ね な い 老 人

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年6月27日


世界一の長寿国であるこの国は、人生100年の時代ともいわれている。

リタイアして、悠々自適の毎日を送る人がいる。趣味やレジャーや学び直しなど、第2の人生を謳歌する人もいる。(未来はともかく)今の高齢者は、高度な医療・福祉サービスを低負担で享受しており、年金をやりくりすることで、暮らしは成り立っている。

その一方で、自分の長寿を喜べない高齢者が増えているという。家族や周囲の人たちに「死にたい」と訴えながら、壁の向こう側で横たわり、生きることを強制される高齢者のことである。『死ねない老人』によると、望まない延命措置を受け、苦しみの中で人生を終える人々は、かなりの数にのぼるらしい。

著者は、高齢者医療に25年携わってきた医師だ。現場の生々しい声を聞いていると、いたたまれなくなる。

生きているのが申しわけない

本書によると、「死ねない老人」は2種類に分かれる。

ひとつめは、生きがいを見失い、家族に負担をかけたくないため、死にたい(でも死ねない)老人である。

死ぬ直前までピンピンしてて、突然コロリと逝く「ピンピンコロリ」を理想とする人がいる。だが、医療の進歩により、なかなかコロリ逝かせてくれない。むしろ、病気の後遺症による苦痛や不安・不調を抱え、介護やリハビリを受けながら生きなければいけない時間の方が長くなる。

たとえば、脳梗塞の後遺症で麻痺が残り、家族の迷惑をかけることが嫌になり、「いっそのこと、あのとき死んだほうがよかった」「生きているのが申しわけない」という言葉が出てくる。内閣府[高齢者の地域社会への参加に関する意識調査]によると、生きがいと健康状態は関係があることが分かる。生きる希望を持てずに死を願う「死ねない老人」がこれになる。

意思に反して強制的に生かされる

もう一つは、本人は治療や延命を望んでいないにもかかわらず、周囲の意向によって「長生きさせられてしまう」老人だ。

もちろん、親に長生きしてほしいと願うのは自然な思いだ。だが、一方で、人生の終わりである「死」を認めたくない家族が、本人の望まない最期を強いていることも事実だという。こうした事例を見ていると、本人の意思や苦悶を無視して、ひたすら強制的に生かそうとする行為は、治療なのか虐待なのか分からなくなる。

もっとシビアな例として、パラサイト家族が登場する。本人は「充分に生きた」「楽に逝きたい」と思っていても、家族はその年金をあてにして生活しているため、死なれると困るというのだ。この場合、本人の意思に関係なく、家族の意向が優先されるという。

長生き地獄から逃れるために

人生100年の時代、長い長い、長い老後の末、幸せな長寿を全うすることは、かくも難しい。生き地獄というより長生き地獄である。この2つの「死ねない老人」に対し、本書ではそれぞれの処方箋を考察する。

まず、生きがいを見失った「死ねない老人」に対しては、「誰かの役に立つこと」がカギとなるという。

[全国社会福祉協議会]を紹介しながら、通学路の巡回・見守りや、清掃・美化活動、いじめ相談など、さまざまなボランティア活動を紹介する。「高齢者=ケアされるお荷物」という偏見を壊し、ケアする側として何ができるか? という視点で考えようと促す。

次に、意思に反して強制的に生かされる「死ねない老人」については、諸外国の事例を紹介する。

欧米の安楽死の制度やサービス、終末期の治療方針について意思表示するPOLSTの例を紹介する。ただし、日本の場合の先行きは不透明だ。2008年に、後期高齢者の終末期に関する制度が設けられたが、マスコミから「高齢者に早く死ねというのか」と非難を浴び、3か月で凍結している。

死の制度化は、充分な議論が必要だろう。POLSTが制度化されることで、いま起きていることの逆転現象が生じる可能性があるからだ。つまり、現在、意思に反して生を強制される老人がいるように、将来、意思に反して死を強制される老人がでてくるかもしれないからだ。

こうした問題がクリアされるまで、「死ねない老人」は増え続けるだろう。ネットやコンビニで目にする元気なお年寄りではなく、「老人に死ねというのか!」とデモ行進をする高齢者ではない。「死ねない老人」は、壁の向こうで静かに横たわっている。

「死ねない老人」について、わたしは、むしろ自分の問題として考えたい。問題は現状のままで、自分の順番が回ってきたら―――その可能性は極めて高いが―――上手に楽に死ぬ方法を考えている。

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「倫理的に正しい金儲け」が資本主義を最強にする『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年8月4日


プロテスタンティズムが資本主義を生みだした? さらっと流すと、そう読めてしまう。

もちろん、マックス・ヴェーバーは「プロテスタンティズムが資本主義を生んだ」と言ってない。むしろ『プロ倫』では、そうした安易な一般化はダメと批判する。

ところが、そうした誘惑に駆られるのよ。はっきりした統計データが得られると、そこに「ストーリー」を捏造して説明したくなる誘惑は、抗いがたい。

ヴェーバーが魅せられた誘惑はこれ。弟子の書いた本を読んでいて、あることに気づいた。信じている宗派と、経済的な裕福さに相関があるのだ。

信仰は財産を生む?

人を金持ちにする宗教があるのか、金持ちが信じたがる宗教があるのかは分からない。だが、プロテスタントとカソリック教徒を、収益税を課税する対象1000人当たりで比較すると、こうなる。(p.18 [注6]よりグラフにした)

100

この着眼を出発点として、プロテスタントと経済合理性との関係を掘り下げ、近代資本主義への影響を問うたのが本書になる。

本書を面白くかつ難解にしているのは、「ストーリー」の捏造を戒める書きっぷり。

ヴェーバーにはずいぶん論敵がいたようで、膨大な注釈のあちこちで反論する。この丁々発止が面白いが、論難されないよう、言い回しを駆使して捏造を回避する。

おかげで何を言っているのか分からなくなったり、真逆の主張が混ざっているように見えて迷いがちだ。

倫理的に正しい金儲け

だが、タイトルの「資本主義の精神」とは何かを追いかけていくと、「正当な利潤を合理的に、職業として追い求める心構え」だということが見えてくる。ベンジャミン・フランクリンの例を挙げながら、この心構えこそが、資本主義的な企業を推進する原動力として働いたというのである。

では、金を稼ぐことを最高善という倫理は、どのような背景をもとに生まれたのか?

それは、宗教改革によって、キリスト教の合理的な禁欲と生活方法が、修道院から世俗の労働生活のうちに持ち出されたという。

例えば、信仰日記をつけるという習慣がある。自分の犯した罪とさらされた誘惑、恩寵による進歩を日々記録する習慣だ。

これらは表形式で記入され、あたかも功罪の勘定がバランスシートのように扱われる。ヴェーバーはこれを、「生活の聖化は、事業経営にも似た性格をおびるようになりえた」と結論づける。

そして、宗教を土台とする倫理は、信仰によって生み出された生活態度を規定してゆく。労働を義務とみなし、生産性の向上に勤しみ、信用という価値を蓄積する態度は、近代資本主義の原動力となったというのである。

ヴェーバー v.s. マルクス

『プロ倫』が面白いのは、『資本論』に真っ向勝負を挑んでいるところだ。ヴェーバーは、マルクスの唯物史観の真逆をやろうとしている。

つまりこうだ。

社会を上部構造(政治や法律、宗教や芸術)と下部構造(所有や分配といった経済構造)に分けた場合、下部構造が上部構造を規定すると主張したのがマルクスで、それに異を唱えたのが『プロ倫』になる

マルクスの唯物史観が「社会的・経済的存在が、その人の意識を規定する」とするならば、ヴェーバーは「プロテスタンティズムによって作られた倫理が近代資本主義を進めた」と、いうならば唯心史観を突きつけているのだ。

『プロ倫』は正しかったのか?

ただ、ここまで言い切ってしまうと先走りすぎることになる。最初の着眼点から話を膨らませすぎやしないか?

ヴェーバー本人も分かっていたようで、例えば先のグラフに「ユダヤ教」を入れるとこうなる。

200

ここ、「話が違うじゃねぇか」と声出して笑った。

近代資本主義に対する影響として、「プロテスタント v.s. カソリック」よりも、「キリスト教 v.s. ユダヤ教」で比較した方が明白で面白いんじゃないかとツッコミ入れたくなる。ユダヤ教は(文字通りの)生存バイアスを考慮する必要があるだろうが、一考の余地があるだろう。

だがヴェーバーはめげない。ユダヤ教は冒険商人的な資本主義の側に立っており、その倫理(富の追求、勤勉さ、信用、節約)をピューリタニズムは抜き取ったのだという。

結局のところ、ヴェーバーは正しかったのだろうか?

その答え合わせは、ハーバード大学のロバート・バローとラシェル・マクレアリーがしている。1960~90年代の国ごとの経済成長にもとづき、成長率に対して宗教がどの程度影響を与えるかを調査している。

結論からいうと、プロテスタントよりもカソリックの割合が高い国ほど、経済成長していることが明らかになっている。

さらに面白いことに、どの宗派にも共通しているのが、いわゆる「地獄」を信じる人の比率が高い国ほど、経済成長率が高いという結果が出ている。地獄を信じるからこそ、現世で徳を積むべく経済活動に勤しむのだろうか。「ストーリー」を捏造したくなる誘惑に駆られる。

めっちゃ読みにくい岩波文庫と異なり、新訳ではするりと読める。ヴェーバーが描いた「ストーリー」、ご自身の目で検証あれ。

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