『土と内臓』はスゴ本

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2017年1月15日】


 人体をトポロジー的に見ると、消化器官を中心とした「管」となる。もちろん胃や腸には逆流防止のための弁が備えられているが、位相幾何学的には「外」の環境だ。

 この見方を推し進め、内臓をぐるりと裏返しにしてみる。くつ下を裏返すように、内側を外側にするのだ(このグロい思考実験は、クライヴ・バーカーのホラー小説でやったことがある)。裏返しにされた小腸や大腸を見ると、そこに植物の根と極めてよく似た構造と営みを見出すことができる。「水分や栄養素を吸収する」相似だけでなく、そこに棲む微生物との共生関係により、健康や成長面で重要な物質がやり取りされている。根と腸は、微生物とのコミュニケーションや分子取引をする市場なのだ。

 本書の結論は、微生物を中心とした人体の腸と植物の根の相似型であり、これに頭をガツンとやられた。ばらばらに得てきた知識が本書で一つにまとまるとともに、わたし自身が囚われていた先入観がぐるりと―――そう、くつ下を裏返すようにぐるりと逆転されたから。

 マクニール『疫病と世界史』が人類と微生物の負の歴史なら、本書は正の歴史として双璧を成す。しかも、歴史だけでなく、進化生物学、医化学、分子生物学、植物生態学、土壌生物学の知見を取り込んだエビデンスベースドなものになっている。

 原題は "The Hidden Half of Nature" 「隠された自然の半分」になる。目に見えるものが自然(nature)の全てではない。小さすぎて肉眼では見えない微生物や、地面や体内に隠れている根や内臓に光を当てることで明らかになる本質(nature)こそが重要なのだ―――そんなメッセージが込められている。

 土に隠された半分として、「根圏」が紹介される。植物の根の分泌物と土壌微生物とによって影響されている土壌空間のことだ。そこでは、根細胞から糖質が豊富な化合物が分泌され、微生物の餌となる一方で、植物にとって有益なミネラルが微生物によってもたらされる。クローバーや枝豆の根にある根粒菌が微生物と共生し、窒素化合物を生産することは知っていた。これは『植物は「知性」をもっている』で知ったが、常識が書き換えられることを請合う。

 だが、最近の研究ではもっと多様な栄養素が供給されているという。例えば、植物にたどりついた微量栄養素のうち、リンの80%、亜鉛の25%、銅の60%は菌根菌が運んでいる研究が紹介されている。根は、単純に養分や水分を吸収するだけでなく、植物にとって不可欠なフィトケミカル(植物栄養素)を生産する場所でもあるのだ。

 体内に隠された半分として、「内臓」それも腸に焦点をあてると、驚くほどよく似た世界が現れる。そこでは、栄養分や水分を吸収するだけでなく、そこで一種の生態系を成している腸内細菌とのやりとりを通じて、生きていくために必要な栄養素を生成していることが見えてくる。小腸の内側は絨毛と呼ばれる繊維状の小さな突起で覆われており、植物の根毛のように表面積を何倍にも増やし、栄養吸収を大幅に向上させている。

 そして、同時にそこは微生物たちの餌場でありお花畑(腸内フローラ)なのだ。ヒトは食べたものを吸収しているだけでなく、「ヒトが食べたもの」を食べる微生物の代謝物をも吸収している。生体リズムや睡眠に重要な働きをするセロトニンは、脳よりも腸の微生物群で生成されるほうが多いと聞いたことがある。それだけでなく、腸内細菌は、ドーパミンや短鎖脂肪酸、各種のビタミンを合成している。これらは、健康にとって不可欠でありながら、ヒト単体では生成することができない。言い換えるなら、こうした微生物群をもひっくるめて、「わたし」なのである。

 では、どうしてそうした本質(nature)が半ば隠されてきたのか? もちろん、小さすぎたり覆われていたりして物理的に困難だったというのもある。だが、本書に描かれている人類と微生物の歴史を追いかけていくうち、「人は見たいものしか見ない」カエサルの箴言が浮かび上がってくる。

 たとえばコッホ。結核菌やコレラ菌を発見した近代細菌学の開祖であり、その功績は人類史に残る大きなものだ。病原体の特定の指針「コッホの原則」は教科書にも載っているし、細菌を培養する寒天培地やペトリ皿は、今日でも使われている。その一方、「微生物研究=培養できる微生物の研究」に限られてしまったという見方ができる。

 つまり、培地で殖やせない微生物は分類できず、したがってコッホの原則を用いて研究できない。コッホの細菌論が広く受け入れられたことにより、自然(nature)から切り取られた微生物が研究の中心となり、土や内臓に宿る生態学的な研究は後手に回ったといえる。

 あるいはスティーヴン・ジェイ・グールド。動植物の化石に着目したグールドは、微生物の融合に着目し、細胞内共生説を主張するマーギュリスの考えを一顧だにしなかったという。

マーギュリスは、遺伝子の水平伝播やゲノム総体の獲得(単一の遺伝子内で起きる小さな変異ではなく)が、生命進化の初期には決定的に重要だったと考えた。細菌のような単細胞生物が別の細胞と合体すると、ゲノムは2倍になる。一方、多細胞生物は、新しく細菌を獲得しても、全体として数多くの細胞に新しい細胞が1つ加わるだけだ。
(「第4章 協力しあう微生物───なぜ「種」という概念が疑わしくなるのか」より引用)

 今日では細胞内共生説はほぼ定説化しているといえる[Wikipedia:細胞内共生説]が、これも隠された本質(nature)の一部なのかもしれぬ。

 隠された自然の半分が明らかになるにつれて、その本質にどのような攻撃を加えてきたか見えてくる。人体への抗生物質の過剰投与により微生物の生態系が乱れ、免疫性疾患や代謝異常が起きている事象は、そのまま化学肥料の過剰投与により土壌微生物の生態系が乱れ、作物の生育に悪影響を及ぼしている事象とつながる。人体に焦点を当てたのが、ブレイザー『失われてゆく、我々の内なる細菌』なら、土壌に焦点を当てたのがモンゴメリー『土の文明史』になる。どちらもスゴ本なり。

 『土と内臓』は、このモンゴメリーが妻と共に著したもの。根と腸、科学と歴史、医療と病気、見えている半分と隠された半分が、「微生物」というキーで一気通貫する。世界の見え方をも変えるスゴ本。

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『土の文明史』はスゴ本

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2010年4月28日】


 土壌の肥沃さと土壌浸食から歴史をとらえなおす快著。文明の発展は土壌の搾取と放棄のくり返しによるものだということが分かる。

結論

 本書のシンプルな結論を図で説明する(p.17より引用)。「土」はもっとも正当に評価されていない、かつ、もっとも軽んじられた、それでいて欠くことのできない天然資源である。肥沃な土壌は、地下からの岩石の風化と地表での侵食、およびその間の微生物・昆虫・ミミズなどの生物と植物類の生態系のバランスの上に成り立っている。あらゆる文明の興亡は、「いつこの土壌を使い尽くすか」「肥沃度をどのように保(も)たせるか」に依拠する。土壌の生成を上回るペースで浸食を加速させる農業慣行により、肥沃な土壌を失ったときが、文明の滅ぶときである。つまり、土の寿命こそ文明の寿命なのだ。
Tuti
超広角で大深度で人類史的な視座

 環境破壊が歴史を変えた着眼点に「土」をもってくるところがユニークだ。しかも著者は、堆積物のコアを放射性炭素年代測定で調査する。どの年代にどの程度の侵食/風化がなされたか、さらに遺跡物からどのような農耕慣行がなされていかをファクトベースで主張しており、非常に説得力がある。土地の劣化がそのまま帝国の衰亡の直接的な引き金ではないにしろ、社会の基盤そのものを脆弱にしたのは、土壌の流出による人口を養うコスト増を指摘する。

 そして、面白い/恐ろしいことに、同じ指摘はくり返されてきたという。古代ギリシア・ローマ帝国の衰亡、ヨーロッパの植民地制度、北米大陸におけるアメリカの西進において、土壌肥沃度の重要性はさまざまな形で訴えられてきたというのだ。家畜の放牧や肥料などにより、土地に再投資することで土壌を維持する方法を試みた者もいる。土壌肥沃度を高めることが重要であるとわかっていながら、その主張はくり返し無視され、土壌は喪失されてきたという。

 著者は、あたりまえのように使われてきた農耕技術についても、土壌の荒廃を加速するものとしてダメ出しする。たとえば灌漑には、隠れた危険があるという。灌漑をくり返すことにより、地下水が毛管現象で蒸発し、土中に塩分が残るようになる(塩類化)というのだ。また、鋤の使用により単位面積あたりの生産高は向上したが、風雨による侵食スピードと土壌の流出を加速することで、土地は荒廃しやすくなるという。目先の収穫のために長期的な生産量が犠牲にされ、数百年で土地は使い物にならなくなる。

 この著者の広角視点により、人類が土地を消費してきた歴史があらわにされる。土壌の形成は非常にゆっくりとしたものだから、それを捕らえる視線も長期スパンになる。だいたい文明は800年から2000年、おおむね30世代から70世代存続している。簒奪や植民地化により、新たに耕作する土地があるか土壌生産性が維持されている限り、社会は発展し反映する。いずれも可能でなくなったとき、すべては崩壊する。

アスワン・ハイ・ダムの皮肉

 この例外であるナイル河流域の運命は、笑ってはいけないのだが笑い話にしか見えない。エジプトの農業はファラオからローマ帝国を経てアラブの時代に至るまで7000年ものあいだ持続可能だったが、これにはちゃんとわけがある。ナイル河の毎年の氾濫により、塩類がほとんど含まれない肥沃なシルトが沿岸に運ばれているからなのだ。

 しかし、アスワン・ハイ・ダムの建設により、農業環境が破壊される。氾濫がなくなり灌漑用水のおかげで二毛作・三毛作が可能となったが、シルトは運ばれなくなり塩類化が進んでいるという。氾濫防止と灌漑用水を目的として建設されたダムが、逆にそれを加速するなんて、皮肉な話だ。

 さらに、低下する収穫量を回復させるため、農業生産は化学肥料で維持されるようになるのだが、その化学肥料は、アスワン・ハイ・ダムで発電される電気によって生産されるのだ。いまではナイル河沿岸の農家は、世界有数の化学肥料の消費者となっている。アスワン・ハイは、もはや皮肉は通り越したところにある記念碑だな。

植民地化→グローバル化=土壌搾取のアウトソーシング

 近現代の欧州および北米の歴史は、土壌流出のアウトソーシングの歴史だといっていい。ヨーロッパは繰り返される飢餓問題を、食料を輸入し人間を輸出することで解決した。言い換えると、ヨーロッパは食糧生産をアウトソースしながら、工業経済を築き上げたというのだ。

 著者の視線があまりに幅広なのでピンとこないのだが、要するに、遠く離れた大陸の土壌肥沃度を搾取するいっぽうで、自国の経済の工業化を推進するものが植民地政策の本質なのだそうな。結果、その流れは現代の「市場のグローバル化」につながる。より豊かな市場を求めて農産物が海外流通するのが、今日のグローバル化した農業だ。これは、ヨーロッパの都市への食糧供給を助けるために成立した植民地プランテーション遺産の反映なのだ。つまり、土を現金に換えているだけにすぎない。そして収穫物が搾り取れなくなった土は棄てられ、新たな市場を含めた開拓がなされる。植民地は、文字通り「食い物にされた」というのだ。

 北米も同様だという。植民地の拡大ではなく、農地の西進化が土壌を搾取した歴史になる。タバコと綿花栽培は、手っ取り早く農作物を現金化することで大いに開墾されたが、農場経営者は地力を回復させるためになんの努力もしなかったという。土が与えるものを受け取り、何も与えてくれなくなれば捨てる。古い土地を蘇らせるより、新たな土地を開墾するほうを好んだ結果、土地の荒廃が西へ西へ―――太平洋へ達するまで続くことになる。

ローマ、欧州、北米の土壌搾取の歴史に共通するもの

 良好な土地が無造作に使い捨てされるのを見て、アメリカ農業の愚かしさを嘆くイギリス人の手記があるが、自国も同じ歴史をたどってきたことに反省しない罠に笑ってしまう。ローマ、欧州、北米における土地荒廃の歴史には、共通した罠―――地主制度が潜んでいる。

 つまり、プランテーションの所有者が、自らの土地を耕していなかったことが問題の本質だという。土壌疲弊の問題をもっとも認識すべき人々が、実際に農地で働いていなかった。そこでは雇われた監督と小作人が働いており、彼・彼女らは出来高で給料が支払われる。土壌肥沃度を維持して地主の利益を守るよりも、各年の収穫を最大にするほうを目指すことになる。土地が荒廃すれば、次の場所を開拓し、開拓する土地がなくなれば、他国を収奪する。二千年前の古代ローマと同じように、不在地主制度が土地を浪費するシステムを助長したのだという。

 さらに現代では、この土壌搾取の構造が、より巧妙になっている。地代や農耕機械・化学肥料のローンだ。かつてのような植民地の支配-被支配構造に取って代わり、農業を営む人は、機械化と化学肥料の購入費を稼ぐために、土壌を収奪する。機械化されてた大規模農場は「経営」されるものなのだ。つまり、買ってきた養分を"インプット"し、もっとも市場で求められている収穫物を"アウトプット"する。その間の"メンテナンスコスト"を最小化することが求められており、土壌喪失だとか持続可能性だとかは問題にすらされない―――今のところは。

地球という「島」

 人類史をたどりなおすようにして、土壌が果たした本質的な役割を探る試みは、とても新しく感じた。さらに、農耕の発達が人口増をもたらす一方、それらをたゆみない収穫量の増加によって養うという終わりのないレースだと喝破する視点はスゴいと思う。広く、深く、長いスパンを持った目線でないと、見えない。

 そして、ちと恐ろしいシミュレーションを、過去の「実験」に求めている。大ざっぱにいって、文明の寿命は、農業生産が利用可能な耕作適地のすべてで行われてから、表土が侵食されつくすまでにかかる時間を限界とする。もちろん気候や地質学的条件は異なれど、土地の荒廃は文明の生命線を断つことにつながる。このシミュレーションを、土地利用が限定されたイースター島の歴史に求めている。限られた土壌資源を使い果たし、ついには互いに喰い合う食人にまで行き着いた事例はヒトゴトに思えない。

 荒廃のテンポは非常にゆっくりしているので、なくなったことに気づかないのだ。そして、次の、次の次の世代では、「なくなったこと」がデフォルトとしているため、失いつつあることに気づかないのだ。土壌を地球の「皮膚」に喩え、地球を「島」に喩える著者の皮肉は、ジョークにしたくでもできない。

では、どうすればよいか?

 これだけ脅してきたのだから、対策について考えているかな?かな?とおそるおそる読むのだが、めぼしいものはない。ペルーの「土地を耕さない独特の農法」「輪作・休耕・堆肥と灰の使用」の事例を挙げたり、地産地消を目指す農業の非グローバル化や、都市農業の可能性を模索している。バイオテクノロジーはほんの触れる程度で、土を一切使わない水耕栽培も含めると、別の可能性も見られたかも。さらに、流れ出した「肥沃さ」の行き着く先―――海洋についてまったく触れていない。土壌の肥沃さを吸収する海洋資源を目指すのが近未来だと予測しているので、このテーマは別の本で追ってみよう。「土」に軸足があるのだから仕方ないかもしれないが……

 もちろん人類史をひっくり返して「土」の面から再評価を行ったのはスゴい労作だが、どうすれば土壌を保全する動機付けができるとか、非グローバル化の潮流を作り出せるかとか、持続可能性を高めるテクノロジーについては、別の資料を探すべきなのかもしれない。ただ、すべてをゼニカネで換算するグローバル資本主義の下では、泥の価値は非常に低くみられがちだ。けれどもさらに見方を変えると、銭金を泥に換えられるのなら、地球という土壌を使い尽くす未来を変えられるかもしれない。そして、「銭金を泥に換える」方法(慣行、技術、事業)を見つけた人は、そのまま世界を手にすることになるだろう―――ずいぶんとスケールがデカい話になったが、読み手をそうさせてくれる危機感と視野感覚を煽って広げてくれる、それが「土の文明史」なんだ。

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大学教師が新入生に薦める100冊

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2014年6月17日】


 ドカ読み上等!若さに任せて読みふけろ、読むべき本を読み干すべし。

 このリストは、以下の4500冊超の中から、読むべき100冊を選んだもの。だから、「大学新入生に薦める」というより、若かったわたしに読ませたいリストであり、もう若くないわたしが読むべきリストなのだ。しょうもない新刊ばかり追いかけて踊らされているわたしの目を覚まし、叱咤激励するリストなのだ。

 書籍『東大教師が新入生にすすめる本』文藝春秋編
 書籍『東大教師が新入生にすすめる本<2>』文藝春秋編
 書籍『教養のためのブックガイド』小林康夫ほか
 書籍『大学新入生に薦める101冊の本』広島大学101冊の本プロジェクト編
 書籍『大学新入生に薦める101冊の本 新版』広島大学101冊の本委員会編
 書籍『必読書150』柄谷行人ほか
 サイト[東京大学 学科別 分類による推薦図書]  サイト[本は脳を育てる 北大教員による新入生への推薦図書]  TV番組[NHKBS 私の1冊日本の100冊]  雑誌特集「21世紀図書館 必読の教養書200冊」(文藝春秋2008.12)
 雑誌特集「東大教師が新入生にすすめる本」(UP1994-2014)

 すぐ効く本はすぐ効かなくなる。「即効性のある」とか「教養が身につく」と謳う輩に気をつけよう。下心まるだしで読むのはかまわないが、遅効性で基礎体力よりのリストだと思ってほしい。単に知識を広げるだけなら、ネットを眺めてればいい。単に知見を再確認したいなら、そこらの新刊を漁っていればいい。本におもしろさ「だけ」を求めるのであれば、それが本である必要なし(俺ならネトゲに耽るなぁ)。本で「知的武装」するのは若者の特権だが、今のわたしがやるならば、痴的愚僧ができあがる。そうならぬよう、気をつけよう。人生は短く、読む本は多い。良い本で、良い人生を。

最初の三冊

 まず読むべき三冊。たくさん類書を追いかけるより、これ読んでからにしてほしい。一読したら、似た奴は放っておいてもいいことが分かるから。言い換えると、似たような新刊ばかり読んでいても、いつまで経っても消化不良の不安なまま。今度はその「不安」が次を買う動機になってしまう。買わせるほうも上手なもので、カモの不安を煽って財布を開ける立派なビジネスモデルになっている。学生よ、カモリーマンになる莫れ。

1. 『理科系の作文技術』木下是雄(中央公論社)[レビュー]
2. 『知的複眼思考法』苅谷剛彦(講談社α文庫)[レビュー]
3. 『アイデアのつくり方』ジェームズ・ヤング (TBSブリタニカ)[レビュー]

 

『理科系の作文技術』は、文系理系関係なし。インプットとアウトプットの双方に有効な、最初に読むべき一冊だ。学生は必ず読め(命令形)。類書は沢山出ているし、「文章の書き方指南」は雑誌やジコケーハツ本でも不動の人気だ。だが、このn番煎じに過ぎない見栄えだけのいい出涸らしだ。ライティングの基本の「あたりまえ」がコンパクトにまとまっている。

 たとえば、「事実と意見は分けて書け」という常識。本書は、そもそも「事実とは何か」から入る。事実とは、「自然に起こる事象や自然法則、過去の事件などの記述で、しかるべきテストや調査によって真偽を客観的に確認できるもの」を指す。そして、「事実の書き方」と「意見の書き方」を指南する。「分けて書け」とは、その記述が事実なのか意見なのか、読み手に分かるように区別して書くことなのだ。

 

『知的複眼思考法』は、凡百のロジシン本を蹴散らすスゴ本。「ロジカルシンキング」や「クリティカルシンキング」もジコケーハツで人気があるが、セミナーも新刊も無用、まずはこれを読め。問いの立て方と展開の仕方、批判的・創造的読書の手法を、完全に噛み砕き、腹に落ちるまで説明してくれる。MECEやロジックツリーを作るとき、裏でどのように手を動かしているか、どんなやり方で「自分の頭で考えている」のか、デッサンと思考の跡を見ることができる。

 先行研究を元にリサーチクエスチョンを立てる方法は、大学のみならず社会に出てからの方が頼りになる。わたしの場合、学生のうちに読んでおけば、いらぬ苦労をせずに済んだ一冊。これの劣化コピーを漁るより、学生は必ず読め(命令形)

 

『アイデアのつくり方』には、一時間で読めて一生役立つアイディアのつくり方が書いてある。シンプル&パワフル&忘れがたい方法なのだが、これを実践している人は、あまり見かけない。「アイディアとは、既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもない」と喝破する方法は、マネして→習慣化→血肉化してこそ意味がある。付せん貼ってブックマークして終わりなら、読まなかったことと同義。「いま」「すぐ」動かなければ、タタミの水練以下。実行すれば人生を変える一冊となる。わたしの場合、「yahooメモ帳」(今は「yahooボックス」)にネタ元を保管し、ほぼ日手帳で組み合わせるやり方で実践し続けているぞ。

若さにまかせて読破せよ

 ボリューム満点、歯ごたえ満点であっても、若さがあれば大丈夫。遮二無二読み干してしまえ。そしていったん最後のページにたどり着いたら、必要に応じて再読すればいい。物量に怯んで「そのうちに読もう」と思ったらおしまいだ。「あとで読む」とは、きっと読まないだろうから。

4.『ゲーデル、エッシャー、バッハ』ダグラス・ホフスタッター(白揚社)[レビュー]
5.『ドン・キホーテ』ミゲル・デ・セルバンテス(岩波書店)[レビュー]
6.『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー(光文社古典新訳文庫)[レビュー]
7.『ローマ人の物語』塩野七生(新潮社)[レビュー]
8.『オリエンタリズム』エドワード・サイード(平凡社ライブラリー)
9.『野生の思考』レヴィ=ストロース(みすず書房)
10.『レ・ミゼラブル』ヴィクトル・ユゴー(岩波書店)
11.『精神の生態学』グレゴリー・ベイトソン(新思索社)

 

『ゲーデル、エッシャー、バッハ』は、一生モノの一冊。天才が知を徹底的に遊んだスゴ本。不完全性定理のゲーデル、騙し絵のエッシャー、音楽の父バッハの業績を"自己言及"のキーワードとメタファーで縫い合わせ、数学、アート、音楽、禅、人工知能、認知科学、言語学、分子生物学を横断しつつ、科学と哲学と芸術のエンターテイメントに昇華させている。この一冊を読むための「予習」が偉い大変だった。わたしの失敗は、不完全性定理をこれで学ぼうとしたところ。何度も挑戦しては挫折したのだが、ふと思い立って『数学ガール』で回り道をしたらすんなり行けた(それでも最初に手にしてから8年かかった)。これは柔軟で賢いアタマを持つ若者こそが読むべきだろう。

 

『ドン・キホーテ』は、なるべく早いうちに読んでおいたほうが吉。なぜなら、あらゆる物語が持つ感染力への免疫ができるから。これを、騎士道物語(今ならラノベ)に熱中するあまり、自分を伝説の騎士だと思い込んでしまったこじらせ中年の狂気のロードストーリーと読むこともできる。前半分がまさにその通りだから。だが後半になると、物語がメタ化してくる。「ドン・キホーテの物語」が本編に登場し、偽者が登場したり、ファンに付きまとわれたりするのだ。それだけでなく、ドン・キホーテ自身が前編の狂気と整合性を取ろうとし始める。物語がページを乗り越えて、読み手に感染してくるのだ。人によると、これを換骨奪胎して自らの物語として創造しなおすかもしれない。盗める古典の宝の山としておすすめ。

 

『カラマーゾフの兄弟』は、小説のラスボスだ。「東大教師が新入生に薦める本」としてランキングしたとき、ダントツで一位だったのが、これなのだ。わたしが小説を読む理由は、そこに欲望が書いてあるから。欲望は様々な形を取る。権力欲、支配欲、愛欲、性欲、意欲、我欲、禁欲、強欲、財欲、色欲、食欲、邪欲、情欲、大欲、知識欲、貪欲、肉欲… 「カラ兄」には、ありとあらゆる「欲望」が書いてある。アリョーシャの、ドミートリーの、イワンの、そしてフョードルの持つ、気高いものから残酷な欲望まで、わたしは、読む行為を通じて彼らの欲望をオーバーライドするのだ。

教養としてのサイエンス

 なぜそれが正しいのか?これを理解できるということは、どこまで裏づけが噛み砕いてあれば、確信が持てるのかにつながる。最新科学に騙される人は、似非科学に騙されるのに似ている。やり方は古典的といってもいい。自ら学ばない人を信じ込ませるだけ。

12.『ご冗談でしょう、ファインマンさん』リチャード・ファインマン(岩波現代文庫)
13.『パワーズ・オブ・テン』フィリップ・モリソン(日経サイエンス)
14.『医学の歴史』梶田昭(講談社学術文庫)
15.『ホーキング、宇宙を語る』スティーヴン・ホーキング(早川書房)
16.『宇宙は何でできているのか』村山斉(幻冬舎新書)
17.『フェルマーの最終定理』サイモン・シン(新潮社)[レビュー]
18.『エレガントな宇宙』ブライアン・グリーン(草思社)
19.『ワンダフル・ライフ』スティーヴン・グールド(早川書房)
20.『植物は何を見ているか』古谷雅樹(岩波ジュニア新書)
21.『磁力と重力の発見』山本義隆(みすず書房)
22.『自然界における左と右』マーチン・ガードナー(紀伊国屋書店)
23.『生命とは何か』エルヴィン・シュレーディンガー(岩波書店)[レビュー]
24.『ヒトは食べられて進化した』ドナ・ハート、R・W・サスマン(化学同人)
25.『物理学とは何だろうか』朝永振一郎(岩波書店)
26.『文系のための生命科学』東京大学生命科学教科書編集委員会編(羊土社)
27.『利己的な遺伝子』リチャード・ドーキンス(紀伊国屋書店)[レビュー]

 

『フェルマーの最終定理』は、知的没入感が圧倒的だ。生々しい感情たっぷりの、ゾクゾクずるほど人間くさいドラマだ。多くの数学者をロマンと絶望に叩きこんできた超難問「フェルマーの最終定理」、これに関わる歴史をひもとくことは、人類にとっての数学を振り返ることになる。完全な秘密主義で、たった一人で仕事を進めていったワイルズは、集中力とプレッシャーの中で、精神的にかなり辛い思いをする。この産みの苦しみは、ワイルズと著者と読み手が一体となって味わうといい。そして、「現代の数学と未来へのインスピレーションとの完璧なる統合」とも讃えられる証明に至ったとき、一緒に歓喜の涙を流すことだろう。

 

『生命とは何か』は、量子力学の巨人が生命の本質に迫ったスゴ本。表題へのズバリの回答よりも、むしろ「生命体」や「生命活動」とは何かという問い直しへのアプローチが素晴らしい。生きている細胞の営みを物理的に定義しなおした場合、どのようになぞらえることができるか? この疑問について、実にうまく言い表す。「原子はどうしてそんなに小さいのか」という問いを、「(原子と比べて)人はどうしてそんなに大きいのか」に置き換えるのだ。そして、時計仕掛けの生物という「発見」から、染色体は生物機械の歯車になるし、生命活動を遺伝子のパターンの維持と読み替えられる。メタファーの力を利用して、物理学と生物学の両方から手を伸ばして握らせようとしている。

 

『利己的な遺伝子』は、読んだふりをしやすく、かつ誤解を招きやすい。タイトルどおり「利己的な遺伝子」なる遺伝子がいて、生物の行動ひいては運命を操っていると言うならば、「まえがき」すら読んでいない可能性大。誤読する人のあまりの多さに、「それは違うぜ」とドーキンス自身がまえがきで憤慨している。

 彼が本当に言いたかったことは、「生物のあり方や行動様式を説明するとき、遺伝子の自己複製というレベルからだと整合的に理解できるよ」になる。自然淘汰の単位を「種」に求めたり、種内の「個体群、集団」と考えたり、あるいは、「個体」を単位とする人もいる。この単位を「遺伝子」とし、淘汰を説明しようとしたのが本書なのだ。ただし、あたかもこの「遺伝子」が意志を持ち、自分の遺伝子を最大化するように個体を操っているかのような書き方をしているのも事実だ。だから、彼の憤慨も自ら招いたようなものだろう。

あなたを拡張するフィクション

 自分を縛る日常であれ観念であれ、いったん脇において置けるのがフィクションのいいところ。「わたし」の範囲を拡張できるのだ。他人の人生を生きるリスクを犯すことで、自分のリアルのリスクを回避できる。いわば、昨日までの日常を新しい目で見るのだ。人生が旅なら、本当の旅の発見とは新しい風景を見ることではなく、新しい目を持つことだから。

28.『一九八四年』ジョージ・オーウェル(ハヤカワ文庫)
29.『アンナ・カレーニナ』レフ・トルストイ(光文社古典新訳文庫)[レビュー]
30.『イワン・デニーソヴィチの一日』ソルジェニーツィン(新潮文庫)[レビュー]
31.『ワイルド・スワン』ユン・チアン(講談社文庫)
32.『ガリヴァー旅行記』ジョナサン・スウィフト(岩波文庫)
33.『塩狩峠』三浦綾子(新潮文庫)
34.『こころ』夏目漱石(新潮社)
35.『外套』ゴーゴリ(岩波文庫)
36.『モモ』ミヒャエル・エンデ(岩波書店)
37.『もやしもん-TALESOFAGRICULTURE-』石川雅之(講談社)
38.『三国志』吉川英治(講談社)
39.『山月記・李陵』中島敦(岩波文庫)
40.『大聖堂』ケン・フォレット(新潮社)[レビュー]
41.『蒼穹の昴』浅田次郎(講談社)
42.『高野聖』泉鏡花(新潮文庫)
43.『春の戴冠』辻邦生(新潮社)
44.『夕凪の街桜の国』こうの史代(双葉社)
45.『幼年期の終わり』アーサー・C・クラーク(早川書房)[レビュー]
46.『竜馬がゆく』司馬遼太郎(文藝春秋)
47.『魔の山』トーマス・マン(新潮社)
48.『西部戦線異状なし』エーリヒ・マリア・レマルク(新潮社)
49.『百年の孤独』ガルシア=マルケス(新潮社)

 

人生を滅ぼした女から、何を学ぶか?『アンナ・カレーニナ』は、結婚が捗るぞ。「女とは愛すべき存在であって、理解するためにあるものではない」といったのはオスカー・ワイルド。これは、夫婦喧嘩という名のサンドバック状態になってるとき、かならず頭をよぎる。論理的に分かろうとした時点で負け、相手の感情に寄り添えるならば、まだランディングの余地はある。しかし、アンナの夫と不倫相手は、そこが分かっていなかった。体裁を繕うことに全力を費やしたり、売り言葉に買い言葉で応じたり。優越感ゲームや記憶の改変、詭弁術の駆け引きは目を覆いたくなるが、それはわたしの結婚でもくり返されてきたことの醜い拡大図なのだ。結婚前のわたしに読ませたかった、そして結婚後のわたしには涙なしには読めないスゴ本なり。

 

『イワン・デニーソヴィチの一日』は、平凡な極限が淡々と描かれる。スターリン時代の強制収容所における極めて特殊な状況なのに、出てくる人物像はどこまでも普遍的だ。「人間ってやつは、どこまで行っても、人間なんだ」と思えてくる。密告、裏切り、処罰、労働……苛酷な状況下で、人の心が折れようとするとき、イワン・デニーソヴィチはそれでも生き延びようとする。どう見ても地獄の毎日の中で、どうやって幸せを感じるのか?その方法は、「いま」「ここ」の「わたし」と、これっぽっちも変わらないことがよく分かる。どんな世の中であっても、生きている「かもしれない」、確信めいたものを受け取れる一冊。

若さ=未熟

 四十にして惑わずというが、迷わないくらい自分がしっかりしている意味ではない。年とってくると、やれることが限られてきてしまう。要するに、「めぼしい選択肢がなくなりました」という意味なのだ。そのくせ、未熟だった部分は熟さないまま腐っている。厭な部分は頑固に堅く、大切なところは腐り、やりたいこと/やれることは限定される……これが、老いなのだ。そうなる前に、これで経験を積め。

50.『愛するということ』エーリッヒ・フロム/鈴木晶訳(紀伊國屋書店)[レビュー]
51.『君たちはどう生きるか』吉野源三郎(岩波文庫)
52.『自分の中に毒を持て』岡本太郎(青春出版社)
53.『生きがいについて』神谷美恵子(みすず書房)
54.『自分のなかに歴史をよむ』阿部謹也(ちくま文庫)
55.『人間臨終図巻』山田風太郎(徳間書店)
56.『高校生のための東大授業ライブ』東京大学教養学部編(東京大学出版会)
57.『夜の果てへの旅』ルイ・フェルディナン・セリーヌ(中央公論新社)

 好きな本を持ち寄って、まったり熱く語り合うオフ会で、「恋愛」についてブックトークをしたことがある[スゴ本オフ:LOVE]。そこでダントツで集まったのが、この『愛するということ』だ。お薦めの恋愛本を紹介する目的なのに、だんだん話が「恋愛とは何か?」にシフトしていくのが面白かった。なぜその本がオススメなのか?についての説明が、そのまま「自分にとって"恋愛"とはこういうもの」に換えられる。

 

そこでの最大公約数的な一冊が、これになる。フロムはこう言い切る―――「愛は技術だ」とね。愛とは、人が自らの孤独を癒そうとする営みであり、愛するとは、幸福に生きるための「技術」なのだという。ただし、よくあるハウツー本と受け取ってしまうと失敗する。この「愛」とは、(私が相手から)愛される技術ではなく、(私が相手を)愛する技術なのだ。読み手は、自分の中での「愛」の定義が逆転していくことに気づくだろう。

この古典を読め

 迷ったら古典。時空にフィルタリングされても、読む対象としてあるのなら、それだけで手にする理由になる。全ての新刊がダメだというつもりはない。ただ多すぎて玉石混交すぎて拾いきれないのだ。しかもオススメ屋たちが寄って集って持ち上げるので、誘惑に流されないために多大な精神力を要する。新しい本に手を出す前に、この古典と比べてみよう(これは、わたし自身への戒めでもある)。

58.『国家』プラトン(岩波書店)[レビュー]
59.『詩学』アリストテレス(岩波文庫)[レビュー]
60.『戦史』トゥキュディデス(岩波書店)
61.『神曲』ダンテ・アリギエーリ(集英社)
62.『職業としての学問』マックス・ヴェーバー(岩波書店)
63.『雇用・利子および貨幣の一般理論』ジョン・メイナード・ケインズ(岩波文庫)[レビュー]
64.『君主論』マキアヴェッリ(岩波書店)
65.『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』マックス・ヴェーバー(岩波書店)
66.『エセー』ミシェル・ド・モンテーニュ(中央公論新社)
67.『方法序説』ルネ・デカルト(岩波書店)
68.『リア王』シェイクスピア(白水Uブックス)
69.『オデュッセイア』ホメロス(岩波書店)[レビュー]
70.『ファウスト』ゲーテ(新潮社)[レビュー]
71.『リヴァイアサン』トマス・ホッブズ(岩波書店)

 

『国家』を読めば、ソクラテスは死刑になって当然だということが分かる。質問には質問で返す。詭弁術を駆使し、言葉尻をとらえて後出しジャンケンする。「無知の知」とは、「知らないということを知っている」よりも、「僕は無知だから教えて」と先にジャンケン出させるための方便だ。論敵を排し、取り巻きを並べたら、後はずっと俺のターン。比喩でもって説明した後、その比喩が事実であるという前提で論を重ねる。反論もそう、極端な例外を持ってきて事足れりとみなし、一点突破全否定オッケーとするのは酷すぎる。さらに多重レトリックが汚い。AをBに、BをCに言い換えて、最後のCにだけ噛み付く藁人形のメソッドだ。

 騙されるな、ソクラテスは、とんでもない食わせものだ。太ったソクラテスよりも、痩せたブタのほうがマシだ、ブタは食えるが、ソクラテスは食えない奴だから。レトリカルな口先三寸の言論人は、現代にもいる。そのご先祖様のやり口を確かめるべし。そして、沸々と煮えたぎりながら、こうつぶやくべし。「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」

 

『詩学』は、創作のデザインパターンだ。小説、シナリオなど、創作にかかわる人は必読。「現代にも通ずる古典」というのではない。二千年以上も前に答えは書かれていて、今に至るまでめんめんとコピーされてきたことに驚いた。本書が古びていないのではなく、新しいものが創られていないんだね。本書によると、恐怖、怒り、憎しみ、嫉妬、喜楽、哀切など、登場人物が抱く感情を観客に伝染させるのは、「おそれとあわれみ」によるという。これを引き起こすことが悲劇の目的であり、その効果的な方法が伝授されている。

 面白いのは、これを読んでいると、今まで観てきた映画、読んできた小説やマンガが次々と思い起こされ、その劇的構造がどんな影響を及ぼしたのか分析してしまう。物語をメタ化するだけでなく、その物語を見せる側と受ける側を含めた、劇場が丸ごと見えてくるのだ。

このルポルタージュを読め

 新しい知識を得るだけでなく、新しい見方を身につけられるルポ、ノンフィクション、論文を集めた。自分の知識や見解を裏付けるような、「自分の世界の本」ばかり読む人がいる。どれを手にしても、自分を確かめるだけの読書になってしまう。いわば、自己承認欲求を満たす読書だ。井の中の蛙の自慰読書に陥る莫れ。知識の面でも観念の上でも、想像を凌駕するノンフィクションを読むべし。世界の遠さや認識の広さ、そして人の業の深さを思い知れ。

72.『ベスト&ブライテスト』D・ハルバースタム(朝日文庫)
73.『アフリカ――苦悩する大陸』ゲスト(東洋経済新報社)[レビュー]
74.『ルワンダ中央銀行総裁日記』服部正也(中公新書)
75.『チベット旅行記』河口慧海(講談社)[レビュー]
76.『深夜特急』沢木耕太郎(新潮社)
77.『エロティシズム』ジョルジュ・バタイユ(二見書房)
78.『沈黙の春』レーチェル・カーソン(新潮文庫)
79.『夜と霧』ヴィクトール・フランクル(みすず書房)[レビュー]
80.『アフォーダンス-新しい認知の理論-』佐々木正人(岩波科学ライブラリー)
81.『誰のためのデザイン?』ドナルド・A.ノーマン(新曜社)
82.『フォークの歯はなぜ四本になったか』ヘンリー・ペトロスキー(平凡社)[レビュー]
83.『言語の脳科学─脳はどのようにことばを生みだすか』酒井邦嘉(中公新書)
84.『統辞構造論』ノーム・チョムスキー(岩波文庫)

 

『アフリカ――苦悩する大陸』では、「なぜ、アフリカは貧しいままなのか?」の疑問に対し、明快に答える。すなわち、政府が無能で腐敗しているからだという。私腹を肥やす権力者、国民から強奪する警察官、堂々とわいろを要求する官僚――これら腐りきった連中がアフリカを食い物にし、援助や支援が吸い取られる。資源に恵まれた国であっても同様だ。奪い合い→内戦化→国土の荒廃を招くか、あるいは、外資が採掘場所を徹底的に押さえ、オイルダラーが国民まで行き渡らない構造になっているという。

 ただし、その一刀両断っぷりに疑問を感じる。「アフリカ」という一言で多様すぎる大陸を丸めてしまっているところや、為政者さえ良ければ全て解決するという姿勢に疑問を抱く。内戦の火種を煽って兵器を売りつける先進国の武器商人や、その対価を紙幣ではなく資源で求めるグローバル企業の存在がスルーされている。本書を批判的に読むと、次の一冊が見つかる(わたしの場合は、アビジット・V・バナジー『貧乏人の経済学』だった)。

 

『夜と霧』は、人類必読のホロコーストの記録だ。強制収容所に囚われ、奇蹟的に生還した著者の手記。目を覆いたくなるのは、その姿の痛々しさや残酷さだけではない。そんなことを合理的に効率的に推し進めていったのが、同じ人間だという事実―― このことが、どうしても信じられなかった。旧版、新版の両方を読んでも、まだ信じられぬ。

 極限状態に陥ったとき、目の前の苦悩そのものの意味を問わない。わたしは、そこから逃れようとするだろうし、適わないのなら、次元を変えてでも達成しようとするだろう。つまり、物理的に逃げられないのなら観念の世界へ逃げるとか、外界をシャットアウトするとか。しかし、著者フランクルは違う。ニーチェの言葉「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」を思い出させ、別の結論にたどり着く。「なぜ生きるのか」―――この答えは、あなた自身の目で確かめてほしい(旧版をお薦めする)。

学問のOS

 正しさとは何かを突き詰めてゆくと、正しさの根っこについていかに自分が不勉強かに行き当たる。そのツケを相変わらず支払っているのだが、自分で探さずとも良書は既に紹介されている。あとは読むだけというが、固くなった頭で読みほぐせるか。かえすがえすも、学生さんが羨ましい。

85.『システムの科学』ハーバート・サイモン(パーソナルメディア)
86.『論理哲学論考』ルードヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン(光文社古典新訳文庫)[レビュー]
87.『オイラーの贈物』吉田武(ちくま学芸文庫)
88.『無限と連続-現代数学の展望』遠山啓(岩波新書)
89.『論理トレーニング101題』野矢茂樹(産業図書)[レビュー]
90.『科学革命の構造』トーマス・クーン(みすず書房)[レビュー]

 

『論理哲学論考』は、要するに「数学」である。同音異義や様々なニュアンスを含む日常言語を用いて、哲学の問題を論じることはできない。プラトン以来、西洋哲学の歴史は、言語の論理を理解していないことによるナンセンスな言説の積み重ねだという。これを克服して、問題をクリアにすることが、哲学の目的になるという。日常言語からくる混同を回避するために、厳密に論理的なシンタックスに則った記号言語を構築する必要があるといい、実際にそれを成し遂げたのが本書だ。論理的な人工言語を用いて、哲学のするべきことは、考えることのできるものの境界を決めると同時に、考えることのできないものの境界に線引きをするのだ。薄い本なのに、ずっと後回しにしてきたのが悔やまれる。

 

『科学革命の構造』は、科学的な正しさとは、フレームワーク上の定義に過ぎないことが分かる。科学の大発見をしたときの最初の言葉は、「エウレカ!(見つけたぞ)」ではなく、「こりゃおかしい」だ。何と比べて「おかしい」のか?それこそが、その時代・場所での正しさのフレームワーク(=パラダイム)になる。

 これは、「科学とは何か」について本質的なところで答えた名著だ。科学における「進歩」について新たな見方をもうけ、コペルニクスやニュートン、アインシュタインが人類にもたらした「知」を問い直す。ただし、科学を純朴に信仰する人にとっては劇薬級だろう(あるいは、いちゃもんつけて理解を拒むかもしれぬ)。なぜなら、何か統一理論みたいなものがあって、そこへ連続的に進化していくような「科学」について、疑問を投げかけ、揺さぶってくるから。科学を鵜呑む前に、読み干すべし。

リベラルアーツの世界へようこそ

 教養とは何かについて、詠み人知らずのメッセージがある。「学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ」―――ずいぶん詩的な言い回しだが、言わんとしていることは分かる。知識をひけらかす人には、「検索早いね」で済む。だがその知識がどのように形になったかは、自分で辿らない限り分からないままだろう。

91.『知の技法』小林康夫(東京大学出版会)
92.『日本人の英語』マーク・ピーターセン(岩波新書)[レビュー]
93.『疾病と世界史』ウィリアム・マクニール(中公文庫)[レビュー]
94.『堕落論』坂口安吾(新潮文庫)
95.『本はどう読むか』清水幾太郎(講談社)
96.『民族という虚構』小坂井敏晶(東京大学出版会)
97.『理系のための研究生活ガイド』坪田一男(講談社)
98.『歴史とは何か』エドワード・ハレット・カー(岩波書店)
99.『銃・病原菌・鉄』ジャレド・ダイアモンド(草思社)[レビュー]
100.『レトリック感覚』佐藤信夫(講談社)[レビュー]

 

『疫病と世界史』は、感染症から世界史を説きなおしたスゴ本。宿主である人と病原菌の間の均衡に焦点を当てて、歴史を捉えなおす。人類史とは疫病史、ヒトが病気を飼いならす歴史なのだ。「人類の出現以前から存在した感染症は、人類と同じだけ生き続けるに違いない。人類の歴史の基本的なパラメーターであり、決定要因であり続ける」メッセージは、人類が肉体を有する存在である限り有効だろう。

 古い文書から、人に有害な微生物や寄生生物を探り出すことは、ほとんど望み薄だ。だが著者は、この難問に「移動手段の発達」と「疫病の地域性」というツールを使う。当時の移動手段(徒歩、馬、帆船)でどれくらいの人数がどこまで到達できるか、というアプローチをとる。例えば、帆船時代は、海があまりにも広すぎたがため、ペスト菌が拡散するより前に宿主を殺してしまっていた。汽船の出現が船脚と容量を増すことにより、感染が長時間循環できるようになり、海は突然、かつてないほど通過しやすい場所になったという。このような「あぶりだし」のアプローチ手法は、他でも応用が利きそうだ。

 

『銃・病原菌・鉄』は、「なぜ西欧が世界の覇権たりえたか」という疑問に対し、非常に明快かつ説得力のある形で答えている。著者は、遺伝学、分子生物学、進化生物学、地質学、行動生態学、疫学、言語学、文化人類学、技術史、文字史、政治史、生物地理学と、膨大なアプローチからこの謎に迫る。直接の原因は、西欧が「銃・病原菌(への免疫)・鉄」を持っていたからになる。

 ではなぜ、西欧が「銃・病原菌・鉄」を最初に持ちえたのか?ここからが面白い。歴史を逆に回し、紀元前11,000年から西暦1,500年の間で、何がおこっていたのかを追求し始める。人口稠密、定住化、家畜の存在や余剰食糧、技術発達の下地を説き明かす。そして、適正ある野生種の存在や種の分散の容易性は、東西方向に伸びる陸塊、すなわちユーラシア大陸の形にあったというのだ。つまり、アフリカやアメリカ大陸は南北に長いため、先の要因において西欧に遅れをとったという。シミュレーションゲームのように、初期設定が今を決定付けている理解に達したとき、きっと慄くこと請け負う。

 

『レトリック感覚』は、名著中の名著になる。ことばを扱う全ての人にとって、強力な武器となる一冊。「言葉」という、使い慣れた道具の構造が分かり、より効果的に扱えるようになる。これまでヒューリスティックに馴れていた手段が、一つ一つ狙い撃ちできるようになる。

 レトリックというと、言葉をねじる修飾法とか、議論に勝つ説得術といった印象がある。アリストテレスによって弁論術・詩学として集大成され、ヨーロッパで精錬された修辞学は、言語に説得効果と美的効果を与える技術体系だ。著者に言わせると、科学・実用主義が、技巧に走るレトリックを駆逐してしまったのが現代であり、せっかく手にした道具を自ら捨ててしまったことになる。この、言葉への感覚を取り戻すのが本書になる。見えないところで基礎体力となる一冊。

 100冊リストはこれでおしまい。定期的にリストを見直すと、自分の課題図書が整理されるのでありがたい。わたしの課題は、チョムスキー『統辞構造論』とベイトソン『精神の生態学』、そしてレヴィ=ストロース『野生の思考』を攻めていきたい。そして山を越えたら吉田武『オイラーの贈物』を攻略するんだ……なんて書くと死亡フラグになってしまう。「いつか読む」は、きっと読まない。だから今から読み始めよう。

 「これが入ってないなんて!」気持ちは分かる。100冊に絞るのに幾度となく涙を呑んだ。だから、以下の全リストから選んだ、あなたのオススメを伝えてほしい。なぜなら、「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」のだから。

「2014_大学教師が新入生に薦める本.csv」をダウンロード

 人生は短く、読む本は多い。良い本で、良い人生を。

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いま本を書いている人、これから書く人の宝物となる一冊『本を書く』

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2022年3月12日】


いま本を書いている人、これから書こうとする人、あらゆる「書く人」にとって、宝物となり、お守りとなる一冊。

作家が答えるべき2つの問い

巷に数多に散らばっている、量産型のハウツー本ではない。もっと根っこの、書く意志を焚きつけるメッセージが連なっている。「本を書きたい」人は、ぐっと背中を押されるだろうし、「いま書いている」人は、挫けそうな心を励まされるだろう。

どの本を書いているときでも、作家は二つの問いに答えなければならない。この本は完成するだろうか? そして、私にそれができるだろうか?

もちろん、だれも保証してくれない。

書き始めの興奮がおさまってくると、この疑問が沸き上がってくる。どんなに書いても終わらない日々が続いたり、書くべきことが言葉にならずにぐるぐる廻っていると、この不安が沸き上がってくる。

そして、何かとんでもない間違いをしでかしているような気になってくる。部分的な修正では対処できない、本の全体におよぶ構造的な問題に陥っているのではないか。あるいは、まるっきり見当違いのことを追いかけているのではないかと。

この問いについて、正解はない。抱えている不安も込みで、この問題に対処できるのは、書き手その人だけだから。構造的な問題を見つけ出し、欠陥があれば、それを最小限にする方法を考える(場合によっては書き直すことも辞さず)。

書く仕事とは薪割りのようなもの

書く「コツ」みたいなことは書いてない。だが、「書くということはどういうことか」をうかがい知ることはできる。

ソロー『森の生活』を見習って、やったことのない薪割りに挑戦するシーンなんてそうだ。

カナダの片田舎に引きこもって執筆するのだが、冬は極寒となる。「薪は人を二度暖める」と言ったソローを実践し、薪割りに励む。しかし、激しい労働の結果、木っ端にまみれ、ザクザクとなった木片ができあがる。

何度か失敗をくり返した後、夢のお告げであることを知る。それは、「狙いを薪割り台に定めること」だ。割ろうとする木のてっぺんではなく、「台」を狙って振り下ろすのだ。

薪割り台に乗っている木を、まるで透明なものであるかのように素通りしなければ、その仕事を片付けることはできない。

薪割りエピソードは伏線で、薪と台の関係は、ヴィジョンと作品の比喩として語られる。

ヴィジョンとは、書こうとする意志のコアになる。その外面は、問いや落書きで埋めつくされたメモや、本に引かれた傍線や(手書きの)注釈だったりする。だが、それをそのまま紙に書きつけようとしても、言葉はまとまらず、バラバラな木っ端になるだろう。

だから、ヴィジョンを明確に心に置いたまま、まるで透明なものであるかのように素通りして、作品に集中するのだ。

取っておくな、使い尽くせ

テクニカルなものは無いが、心構えのようなアドバイスはある。

「自分の骨を知れ」や「いまにも死にそうな人のように書け」、あるいは「自分が愛するテーマではなく、自分だけが愛するテーマを探せ」とか、「取っておくな、全て使い尽くせ」など、𠮟りつけ、励まし、尻を叩き、手を引っ張る。

そして、どんなに書くのに苦労しても、どれほど愛着がある文章であろうとも、それを入れることで全体が弱まるのであれば、大胆に捨てろと言い切る。これには勇気が要るけれど、それをしなかったが故に、水増しされた本がなんと多いことか。

それでも、書くのは自分だ。なにをどう書くのかも含めて、書き手の仕事である。お手軽なヒントを求めようと縋りつく人には、「プロセスに意味はない。跡を消すがいい。道そのものは作品ではない」とバッサリ斬りおとす。

この章の最後に、ミケランジェロが弟子に宛てた手紙が引用されている。こうある。

「描け、アントニオ、描け、アントニオ 描け、時を無駄にするな」

私自身、本を書くという長い長い作業をしているとき、支えとなった。挫けそうなときに開くだけで、薪をくべ、心を燃やし続けることができた。

本書は長らく絶版となっていたが、この度復刊された。旧版はべらぼうな中古価格となっていたが、ようやくお薦めできて嬉しい。

どのページを開いても、勇気づけられるメッセージが並んでいる。『本を書く』は、あらゆる「書く人」に贈りたい。

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読んで悶えて尊くて死ねるラブストーリー『僕の心のヤバイやつ』『純粋男女交際』『その着せ替え人形は恋をする』『お隣の天使様にいつの間にか駄目人間にされていた件』

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2022年3月19日】


『僕の心のヤバイやつ』が好きだ。

中二病ど真ん中の「僕」と、学校イチの美少女のラブストーリー。青春の眩しさと後ろめたさに、うわああぁぁってなるよね。読むたびにゴロンゴロンして体力使うよね。

ここでは、そんな青春の甘酸っぱさに身悶えする作品を紹介する。『僕の心のヤバイやつ』が好きな人にお薦めのやつ。

もどかしくってじれったい一方で、そんな青春が1㍈たりともなかった過去を塗りつぶし、エロスがグロスで汚れちまった今の心を浄化する、そんな作品ばかりだ。

ドキドキしすぎて心が保てなくなるか、あまりの輝きに灰化するか、選べ。

まず、ゴールがスタートのやつから。

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面白いことに、これが第1話の最初のページになる。

普通のラブストーリーは、すったもんだの挙句、カップルが成立するところで終わる。物語としての恋愛の本質は遅延であり、恋の成立をできるだけ先送りしようとする。

だが、『純粋男女交際』は、ここから始まるのだ。

ん? もう相思相愛なんだから、何も起こらないんじゃない? いや、言い方が正しくない。物語としての特殊性なんて無くて、カップルなんだから、やることは同じなんじゃない? いや、これは邪な言い方だな。デートしたり、まったりしたり、年頃の男女がするようなことをするだけじゃないのか?

違うんだなこれが。

二人とも礼儀正しくて、わきまえている優等生なんだ。互いに相手のことを思いやり、嫌なことはしたくない(でもリビドーはある)。なのでめちゃくちゃ気を遣い、気を遣う自分を意識して恥ずかしくなる。

そこに煩悶があり、葛藤がある。

結果、読者はニヤニヤが止まらなくなる。

もっと面白いのは、この物語と並行して、隣のクラスの日常が別のストーリーとして進むこと。男女6人による、色恋のカケラもない日々が淡々と描かれる。弁当代を節約する涙ぐましい努力や、半透明のトレーシングペーパーで折り紙する話とか。男子って、本当、バッッッカじゃねーのwww、と思えてくる。

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初々しい高校生カップルと、ゆるぐだな男女グループの日常のコントラストが眩しい。どっちの青春にも1㍈たりとも関わっていないので、羨ましい妬ましい。『純粋男女交際』は『日々是平坦』に収録されている。

お次はアニメ『その着せ替え人形は恋をする』である。コスプレ ✕ ギャル  ✕ 陰キャ男子の化学反応がめちゃくちゃ面白い。「クラスの美少女が俺にだけ優しい」という、誰もが抱く妄想をトコトン推し進めてくれる。

恋愛をした人ならきっと「わかる」と言ってくれると思うが、ほら、あるでしょ、あの「ぶわっ」とくる感覚。相手から風が吹いてくるような、なんかの圧(光?熱?視線?)を受け手、身体が刷新するような感覚。火照りとか、羞恥心とか、欲求(性欲含む)を自覚するのは、その後。

その「ぶわっ」とくる瞬間までは、そもそも自分が相手のことを好きかどうかも分からない。けれど、それが来たとき、「わかる」やつ。

『着せ恋』だと第5話のラストになる。光と影と音の演出が恐ろしいほどハマっている。その瞬間の顔を見切れている状態にしてジらした後、しっかりと彼女の表情を見せてくれる。これ神演出やな。

5話に限らず、もう何度も何度も周回している。これほど繰り返すアニメは、『TARI TARI』『花咲くいろは』『冴えカノ』以来。視ろ。そして悶えろ。

最後はライトノベル『お隣の天使様にいつの間にか駄目人間にされていた件』だ。自堕落な生活を送る男子高校生と、たまたまお隣さんとなった女子高生の交流を、極甘に描いている。

TVアニメ放送決定とのこと。

素直じゃない二人が出会い、ぎこちない時を重ね、ゆっくりゆっくり関係性を築いていく。好意を抱いていても、それが「好意」であることから目をそらしたり、うまく伝えられずに煩悶する様は、見てるこっちがもどかしい。

マンションが隣で、毎日ご飯を作ってもらい、掃除もしてもらってるような仲なのに、「付き合っている」という自覚の無いところの破壊力が凄まじい。アテられている感がすごい。

読むたびに、「くそっ…じれってーな、俺ちょっとやらしい雰囲気にしてきます!」のセリフが頭をよぎる。相手を大事に思うが故に、耐え難き性春を耐え、忍び難きベーゼを忍ぶ。

じゃぁこれが「恋愛の遅延」になるのか?

恋愛を成就させずにストーリーを引き伸ばし、宙ぶらりんのままにするのかというと、そうではない。段階を踏みながら、時にはすっ飛ばして、二人それぞれの「自分の気持ち」に気づかせる。尊すぎて死者が続出するレベルやな。

リビドー全開のダークな時代だった私には、これほど光属性にあふれた青春を見ると心にクる。そういう、メンタルに灯油と糖分をぶちまける夜があっていい。これは、私を甘やかすファンタジーなんだから。

「完全なる純粋異性交際」とか「お隣さんが一人暮らしJKかつ同学年」なんて、ぶっちゃけありえない。だから、これはファンタジーなんだ、ありえない青春を上書きして幸せになるためのフィクションなんだ。

だから俺はこれを、青春ファンタジー(Seishun Fantasy:SF)と呼ぼう。

読んで悶えろ。観て死ぬがいい。尊すぎる青春ファンタジー。

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なぜ悪口は悪いのか『悪い言語哲学入門』

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2022年3月26日】


「おまえのカーチャンでーべーそ」が悪口なのは、すぐ分かる。しかし、「キミのお母さん綺麗だね、鶯谷で見かけたよ」が悪口になるかは、すぐには分からない。

「どういうつもりで言ったのか」が絡んでくるからだ。

鶯谷に風俗街があることを折り込み済みで語っているのであれば、「おまえの母親は着飾って風俗街をうろつくような女だよ」という悪意が透けて見える。悪意を問い詰めると、「単に事実を言ったまで。本当の事を言って悪いのか?」と居直られるかもしれない。

また、「バカ」という単語ひとつとっても、「バカぁん」と言い方を変えるだけで罵倒していないことになる。惣流・アスカ・ラングレーの「あんたバカぁ?」は、他のメッセージも伝わってくる。

「悪い言葉」があって、それを使うことが悪い、ということだけではなさそうである。言葉の使われ方や話者の意図、さらに使う状況によって、言葉は「悪く」なる。言葉の善悪について、言語学的アプローチから迫ったのが、『悪い言語哲学入門』になる。

トランプ一流の悪口

悪口の巧妙な例として、トランプ前米大統領のスピーチを紹介している。メキシコ移民について、排外主義的な発言をしたとされるこの一節だ。

When Mexico sends its people, they're not sending their best. They're sending people that have lots of problems, and they're bringing those problems with us. They're bringing drugs. They're bringing crime. They're rapists.

メキシコがアメリカへ送ってくるのは、最良の人々ではない。彼らが送る人々といえば、問題を抱えた奴らばかりだ。奴らは私達に問題を持ち込む。麻薬を持ち込む。犯罪を持ち込む。強姦犯だっている。

「移民=犯罪者」とするトリックが隠されており、反駁が難しいという。

なぜなら、何千万ものメキシコ移民のうち、犯罪者がゼロというのはないから。たとえ1件でも、麻薬の密輸が摘発されたなら、「ほら、俺が正しい」と言えるから。

もう一つ巧妙なのは、言い逃れができるという点にある。反対者に「全てのメキシコ人がレイプ犯だと言った」と糾弾されるが、「すべての」とは言っていないとして、批判をかわしている。

正しくは、「移民の一部には犯罪者もいる」と言うべきだろう。そして、「すべての移民は犯罪者である」というのは誤っている。

しかし、「移民は麻薬を持ち込む」「移民は犯罪を持ち込む」という「AはBだ」という断定を繰り返すことによって、「移民=犯罪者」と思わせることができてしまうのだ。

デカい主語には気をつけて

この「AはBだ」という言い方は、総称文と呼ぶ。

  • 蚊はデング熱を運ぶ
  • 男子は握力がある
  • チーターは走るのが速い

特徴や習性を記述した文章で、ヒトの認知システムがもたらす基本形式を反映したものになる。単純ながら強力であり、実際のところ、総称文を使わずに生活することはほぼ不可能だという。

重要なのは、総称文を使う時、単に出来事の報告だけでなく、ある社会集団の価値観(ステレオタイプ、偏見、認識)を表明している点にある。だから、総称文に出会った時、それはどんな価値観の表明であるのかを吟味する必要が出てくる。

シンプルな判断方法としては「主語がデカいとき警戒せよ」になる。

「日本人は」「男は」「高齢者は」で始まる表現は、すこし引いたほうが良いかもしれぬ。そこには、個人的な見解をグループ全体の総意としたり、少数しか当たらない事実を集団全体に当てはめていることがあるから。そして、中傷しながらも「本当のことを言ってるだけ」という言い訳も通してしまう可能性もあるから。

悪口とは何か

罵倒語を使っても悪口にならない場合がある。一方で、事実を述べても悪口になる場合がある。

では、悪口とは何か? 悪口の「悪」とは何なのか?

本書では、言語学的な事例を用いながら、悪口の言語行為を掘り下げる。単なる罵りや悪態だけでなく、相手をランク付けしたり、従属化させることも悪口に当たるとする。

さらに、罵り言葉を挙げながら、そこに共通する「相手を貶める」点を指摘する。

例えば、ムシケラ、悪魔など、卑小な存在だったり、邪悪なものを引き合いに罵倒する例が多々ある。つまり、相手のランキングを下げることが、悪口の機能なのだ。

そして、悪口の「悪」とは、あるべきでない序列や上下関係を作り出し、押し付けようとするところにあるという。本来であれば、人は平等な存在であるにもかかわらず、相手を貶め、低いランクづけにしようとする。平等という価値を蔑ろにしている点が、悪口の「悪」だというのだ。

言葉は「道具」というよりも「巨大な乗り物」

腑に落ちたのがこれ。言葉は、ハンマーのような一人で使う道具ばかりではなく、蒸気船や大型タンカーのようなものである可能性も考慮せよ、という指摘だ。

もちろん、言葉は個人が使うものだから、こうした「個人用の道具」でもある。

例えば「ことば狩り」という用語には、「刀狩り」のような、個人で使う道具のようなイメージがついてまわる。あるいは「寸鉄人を刺す」の寸鉄は、警句のような短い言葉だ。

しかし、個人が発した言葉がSNSやマスコミで増幅され、大きな影響力を持つようになったのも事実だ。「AはBだ」という言葉が、特定の社会的序列を作り出し、それを正しいものとして繰り返し使われるようになった場合、それはもはや、「個人の道具」どころではないだろう。

最初の発言者が退場しても、そのメッセージは残り続け、そのメッセージから派生する別の悪口が妥当なものとして登場するだろう。そして、そういう序列があるのだという、共通的な基盤が出来上がることになる。差別的な表現が無くなりにくいのも、言葉が個人の道具ではない証左になる。

私は無邪気に「バズる」と言うが、良かれと思った場合であっても、かなり恐ろしいことをしているのかもしれない。

「ことば」への見方をガラリと変え、すこし tweet に慎重になる一冊。

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ヨーロッパ偏重のローマ帝国から離れる『岩波講座 世界歴史 03』

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2022年4月2日】


皇帝ネロの時代、ローマは火の海となった。炎は6日と7晩かけて、首都の大半を焼き尽くした。

「都を新しくしたいネロの陰謀」という風評をもみ消そうとして、ネロ帝はキリスト教徒を放火犯に仕立て上げ、火刑に処したという。

しかし、本書よると、これはキリスト教徒のプロパガンダらしい。

ネロの時代において、ユダヤ教とキリスト教は、はっきりと分化しておらず、「キリスト教徒」という集団では認知されていなかった。あくまでユダヤ教内での対立として、暴動を引き起こしていたという。

暴動の首謀者としてクレストゥス(Chrestus)とユダヤ人たちが追放されたという記録があるが、写本を引き継ぐ中で、イエス・キリスト(Christus)に書き換えられたのではないか、という説だ。つまり、刑に処せられたのはユダヤ人集団であり、キリスト教徒だけを狙い撃ちしたわけではないというのだ(※)。

一方、キリスト教徒に対する「迫害」が量産されるのは、4世紀以降になる。

それまでに記されなかった過去を振り返って「当時のキリスト教徒は迫害された」という文書が大量に残されるようになる。

なぜか? 教会指導者たちは、迫害を耐え抜いた、殉教の後継者としてのアイデンティティを確立するために、こうした「伝説」を創りあげたというのだ。

頭をガツンとされたような衝撃を受けた。

ローマ大火やキリスト教徒の迫害については、塩野七生『ローマ人の物語』や徹夜小説『クオ・ワディス』で、歴史的事実だと思っていた。

だが、歴史的事実とは、各時代の書き手が取捨選択したものの集積であり、そのまま受け取る前に、それぞれの書き手のバイアスを意識して読み解く必要が出てくる。4世紀から見るローマと、21世紀から振り返るローマは、別物だと思ったほうがいい。

例えば、近代におけるローマは、自由と文明の象徴として描かれていた。帝国を拡張することを「正義の戦い」と主張し、征服した「野蛮人」に「自由と文明」をもたらすのが、ローマになる。これは、植民地における「支配-被支配」の構造に落とし込み、帝国主義を正当化させるレトリックとしてのローマだろう。

あるいは、20世紀末になると、ヨーロッパ統合の進展を受けて、政治面においてローマ帝国が脚光を浴びることになる。統合された広大な領域と、ローマ全体で通用する共通通貨を踏まえて、「EUは古代ローマ帝国に匹敵」(プロディ欧州委員会委員長)とされる。

「ローマ帝国をどう見るか」というテーマは、そのまま「ローマをどう見たいか」につながり、それぞれの時代の写し鏡になる。

『世界歴史03 ローマ帝国と西アジア』は、前3~7世紀のローマ帝国がテーマとなる。特徴的なのは、昔ながらのヨーロッパ偏重から離れ、西アジアとのつながりが重視されている点にある。

ヨーロッパにとってのローマは精神的な故郷のようなものだろう。そのため、ローマ的なものを受け継ぐのは自分たちだという意識から、西側に重心がかかった「支配側からのローマ帝国」が描かれることになる。

しかし、実像としてのローマは、圧倒的多数かつ多様な「被支配者」や、その外側の西アジアの人々とのつながりの中で成り立っていた。こうした実態を踏まえ、本書では、女性やマイノリティからの視点や、ユーラシア規模での経済活動から、多角的にローマを活写する。

ヨーロッパ人が見たいローマではなく、逆側・裏側・外側からのローマが見えてくる一冊。お試しは、ここ[PDF]で読める。面白さは保証する。


The Historicity of the Neronian Persecution: A Response to Brent Shaw,Christopher P. Jones,Cambridge University Press,2016

https://www.cambridge.org/core/journals/new-testament-studies/article/historicity-of-the-neronian-persecution-a-response-to-brent-shaw/72A73656C0F1372963C197F8945D38D3

この論文の結論は、「『大火の責で、ネロがキリスト教徒を罰した』というタキトゥスの主張を反証できなかった」になる。この記事の主旨と合わないため、削除する。
(@JEREMIA10732539 さん、ありがとうございます)

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科学は人間にとっての約束事にすぎない『科学と仮説』

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2022年4月9日】


10進数が一般的なのは、手の指が10本だからだ。

指の数が8本なら8進数だったろうし、四足歩行のままなら20進数かもしれない。〇進数の〇の中にどの数字が入ったとしても、表記が違うだけで、数は同じだ。単に10が人にとって自然に見えるだけである。10進数なら真で、8進数なら偽なんてことはない。

ポアンカレは、ユークリッド幾何学で同じことを考える。

三次元に座標がマッピングされた空間で、個体として運動する生命にとって、最も使い勝手の良い幾何学が、ユークリッド幾何学の空間になる。非ユークリッド幾何学が今の人間に支配的ではないのは、単純に、ユークリッド幾何学のほうが便利だからにすぎない。

ユークリッド幾何学と、非ユークリッド幾何学の、どちらが真かを考えるのは、メートル法とヤードポンド法のどちらが正しいかを議論するようなもので、ナンセンスだという。

人間が空間を認識する上で、三次元で、一様かつ連続的であるといった性質を前提としている。その性質を本質として備えているのがユークリッド幾何学のため、人間に採用されている規約にすぎないのだ。

ただし、人間が意図的に採用したというのであれば、適切ではないだろう。人間が数学を始めるとき、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の2つがあって、どちらにするかを選べたわけではないのだから。

ヒトが存在する環境だとか、ヒトの身体や認知のデザインによって、ほとんど必然的にユークリッド幾何学になったというのが実際のところだろう。

偽装された定義

この「人間にとっての規約」を出発点として、幾何学から力学、電磁気学にまで及ぶ幅広い分野に共通する客観性を掘り下げたのが、『科学と仮説』だ。人間がする営みであるにもかかわらず、人間が抱く主観を取り去った「客観」なるものの存在が疑わしくなる。

科学理論とは、人間というフィルターで濾された観察の蓄積から、人間が把握しやすい約束事の移り変わりに見えてくる。科学とは、自然の真理なんてものではなく、観察結果を上手に説明できたり、再現させるのに使いやすい約束事に過ぎないのだ。

ポアンカレはこれを、偽装された定義と呼ぶ。

例えば、ニュートンの運動法則がある。世界を統べる原理のように扱われてきたが、これは物理現象を統一的に説明するための約束事にほかならないという。

あるいは、「エーテル」という媒体は、光の性質を説明するために導入された後、捨てられた。宇宙の質量を説明するために導入された「ダークマター」は、それが本当にあるかどうかはどうでもよく、人が理解できる範囲の理屈に合わせるための約束事なのだ。

「力とは何か」を形而上学で語ろうとすると議論は終わらない。だからいったん、質量と加速度の積だと定義して、そのフィルターで世界を観察しなおすのだ。そこで再現性のあるもの、定義の組み合わせで矛盾なく説明できそうなものを選び取って体系化したものが、その時代の科学になる。科学がトートロジカルに見えるのは、こうしたわけなのだ。

しかし、時代と共に技術が洗練され、より細かく、より遠く、より精密に観察できるようになるほど、定義の組み合わせでは説明するのが困難になる。

なぜ科学は複雑化するのか

あたりまえだ。人間が理解できる範囲に留めるべく、単純な定義とシンプルな組み合わせで始まった理屈のため、より精密な観察結果を説明しようとすると、辻褄が合わなくなる。

だから、パラメーターを追加したり、定数を加えることをくり返し、なんとか理論を存続させようとする。結果、オッカムの剃刀はどこへやら、複雑怪奇な体系ができあがる。

この体系を存続させるため、体系に合わないデータは捨てられることになる。

例えば、CERNの大型ハドロン衝突型加速器(LHC)が象徴的だ。

ホッセンフェルダー著『数学に魅せられて、科学を見失う』によると、この実験では莫大なデータが捨てられているという。

高エネルギー下での粒子を観測する実験では、毎秒10億回もの陽子-陽子衝突が起こる。CERNのスパコンでも、全ての衝突データは保存できない。衝突が起きている間、リアルタイムで選別され、アルゴリズムが「興味深い」と判断したものが保存される。その数はせいぜい100~200程度だという。

著者はこれを、悪夢のシナリオと呼ぶが、仕方がないだろう。別に科学者の怠慢なのではなく、今の技術ではこれが限界であり、人間が説明できる範囲での理屈に合わせるためには、こうした取捨選択が必須となる。結果、現在の理論に基づいて説明できそうなデータを集めたものが「エビデンス」となる。

理論を逆算する

技術とともに複雑化する科学を、逆手に取ることもできる。

この100年で、どれほど遠くまで観測することができ、どれほど小さいものまで観察することができるようになったかを考えてみよう。言い換えるなら、宇宙の果てから素粒子の奥まで、どれくらいのスピードで把握できるようになったか。

『ズームイン・ユニバース』が参考になる。極大だと10^27まで、極小だと10^-35になる。これは、観測可能な宇宙の果てから、「場」に満ちた世界までになる。

一人の科学者のキャリアを四半世紀とすると、25年後に観測・説明可能な極大・極小の範囲は、これまでの技術のスピードから推計できる。そして、その世界で立証できる範囲で理屈を組み立てるのだ。

このとき、ポアンカレの偽装された定義を思い出そう。あくまで、25年後の人間に理解できる範囲での約束事にするのだ。科学者としてのキャリアの間に立証できない絵空事は描けない。一方、複雑怪奇な理屈の正当性を擁護すべく弥縫策に奔走するのも馬鹿馬鹿しいだろう。

科学を、客観的な事実の集積としてではなく、人間が取り決めた規約の集積とみなす。そうすることによって、「科学」の見通しはうんと良くなるだろう。

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原書と翻訳で読む The English Patient / イギリス人の患者



  • 砂漠で燃え上がる飛行機から助けられた「イギリス人の患者」
  • たった一人で「イギリス人の患者」を看病するハナ
  • 拷問で親指を失った泥棒のカラバッジョ
  • インドで生まれイギリスで訓練された工兵キップ

時代は第二次大戦の末期、舞台はイタリア北部の廃教会。この四人を軸に、折りたたまれた過去が少しずつ開かれるように、物語は進んでゆく。

歴代ブッカー賞の中でも最も優れた傑作として名高い『イギリス人の患者』なのだが、これ、かなり難しい。

というのも、視点が頻繁に切り替わり、時間が直線的に進まない。主語が曖昧なまま進み、比喩が多用され、何が起きているのか、非常に分かりにくい。

ある一文がハナの内面の語りに見えても、読み進めると作者の声のようにも響く。同じパラグラフに砂漠の回想と廃教会の描写が重なり、回想というよりもむしろ、イギリス人の記憶の断片が現在に侵入してくるような感覚に陥る。

一つの物語として読むならば、「イギリス人の患者とは誰か?」というミステリが解き明かされるにつれて浮かび上がる美しくも悲惨なラブストーリーになる(実際、映画『イングリッシュ・ペイシェント』はそういう<枠>に押し込んだ)。

だがこれを、一人のヨーロッパ人と三人の非ヨーロッパ人の話として読むならば、別物になる。ヨーロッパが引き起こした大戦争に巻き込まれた者たちの物語になる。ただし、彼らは単なる被害者ではなく、ヨーロッパ的価値観を内面化しているが故に苦悩する。

あるいはこれを、二人の若者と二人の年配者の物語として読むならば、別の旋律が重なる。ハナとキップは、これからの時間を生きる存在でありながら、既に戦争によって決定的な傷を負っている。一方、中年を過ぎた二人は、過去の選択と記憶に縛られ、その重力に囚われている。

音と言葉が喚起する感覚を愉しむ

このように物語を解体して読むこともできる。だが、細かいことは脇に置いて、イメージが喚起させる美しさと心地よさに身を任せてもいい。

作者のマイケル・オンダーチェは詩人でもある。今回(ようやく)英語で読めたのだが、ふんだんに音韻を踏まえている文章は、音とイメージの両方が湧き上がってくる。

 I’ll be looking at the moon, 
 but I’ll be seeing you.

That old Herodotus classic. Humming and singing that song again and again, beating the lines thinner to bend them into one’s own life.

月を見る。
見えるのは君。
これこそ、ヘロドトスの本質だ。私は節をつけて何度も口ずさんだ。そのたびに、自分のことだと思った。

歌詞からすると、ビリーホリディの I'll Be Seeing Youだろう(女と別れたバーで飲んだくれたときのセリフだし)。ヘロドトスの言葉として語られるこの言葉、実際には古典ではなく、20世紀のポピュラーソングに由来する。

'They declare war, they have honour, and they can’t leave. But you tw . We three. We’re free. How many sappers die? Why aren’t you dead yet? Be irresponsible. Luck runs out. '

「あいつらは戦争を宣言して、名誉を重んじて、だから立ち去ることができん。だが、おまえたち二人は……おれたち三人はちがう。自由だ。いったい何人の工兵が死ねば気がすむんだ。おまえはなぜまだ死んでいない。もっと無責任になれ。運がいつまでもつづくとはかぎらんのだぞ」

不発弾の処理で部下を死なせてしまったキップに向かって、カラバッジョが言ったセリフだ。ヨーロッパの金持ち連中が始めた戦争に、律儀につき合う必要はないという。律儀につき合った挙句、両手の親指を失うことになったカラバッジョが言うセリフだから、重い。

この作品は、意味を理解する前に、まず音として受け取るべきなのかもしれぬ。むしろ音読することで、言葉の響きとイメージの連なりが、鮮やかに立ち上がってくる。

He wants the minute and secret reflection between them , the depth of field minimal , their foreignness intimate like two pages of a closed book .

閉じた本の隣り合う二ページのように、反射の距離を最小にし、異質のものどうし親密に寄り添うこと……

minute、minimal、intimateと踏む m 音はエロティックであるだけでなく、隣り合う二ページの本は、ヘロドトスの『歴史』を指す。男がいつも携帯し、メモや備忘録代わりにしている一冊だ。

男は考古学者でもあり、ヘロドトスが記した遺跡を見つけ出そうとする探検家でもある。そしてこの一冊をきっかけとして彼女と結びつき、裏切り、そこに記されたエピソードをなぞるような出来事が起こる。

『イギリス人の患者』は何度も読んできたが、ヘロドトスが、一種の予言の書のようにも読めることに、今更ながら気づいた。

死姦の含意に気づく

他にも、原書で読むことによる気づきがあった。慣れない英語なので、どうしてもスローペースで読むことになり、代わりに、引っ掛かった一つの語を緻密に掘り下げるような読みをしたからだ。

最も強烈なのはここ。

We forgive selfishness, desire, guile. As long as we are the motive for it. You can make love to a woman with a broken arm, or a woman with fever. She once sucked blood from a cut on my hand as I had tasted and swallowed her menstrual blood. There are some European words you can never translate properly into another language. Félhomály. The dusk of graves. With the connotation of intimacy there between the dead and the living.

恋人にはすべてが許されるのではないのか。身勝手も、欲望も、策略も。恋する心から出たことなら、すべてが許されるのではないか。女が腕を折っていても愛せる。女に熱があっても愛せる。ならば、なぜ……私が手を切ったとき、女は傷口から流れる血を吸った。私も女の月経の血を含み、飲んだ。ヨーロッパの言語には、他の言語に翻訳しきれない言葉がいくつかある。たとえば、フェルホマリ。墓場の夕暮れ。死者と生者の親しい交わりをいう言葉。

何かがおかしい。

愛の言葉として語られているはずのものが、どこかで倫理の境界を踏み越えている。

いままで、普通にスルーして読み流してきたが、ゆっくり読むと、改めて異様さに気づく。傷ついた女を洞窟に残してから、既に三年の月日が経過している。女の身体は蜘蛛の巣で覆われている。このとき男は裸で、横たわる女に近づき、かつてしたように、女の服を脱がせ、愛したかったと語る。

彼は、生と死の境界すら無効化しようとしたのではないか。

félhomályという言葉が示すように、生者と死者のあいだの曖昧な領域に踏み込み、その危うさを強く意識させる。そこには、死姦を想起させるほどの過激な含意が漂っている。この後、三年前の腕を折った彼女と言葉を交わし、愛し合うシーンが混じりあう。深く読めば読むほど、何が起きていたのか分からないように描かれている。

そもそも、「イギリス人の患者」はイギリス人でもなんでもない。

フェルホマリ/félhomályはハンガリー語である。この物語を紡ぎ、登場する他の三人を言葉ひとつで引き込んできたのは、彼自身だ。だとすれば、彼こそがこの物語の語り手であり、同時に、最も信頼できない語り手でもある。

今回は、日本語訳を傍らに原書に挑戦したわけだが、英文を読めば読むほど、翻訳の絶妙さに惚れ惚れした。「ヨコのものをタテにする」と謗る人がいるけれど、とんでもない、ものすごく苦労して訳している。作者がどの情報をどこまでコントロールしようとしているかを見積もり、それに応じた明瞭さ(不明瞭さ)で訳出していく。機械的な翻訳ではムリだろう。

次回は、音読して沼るつもりだ。



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良い記事を書く3つのコツ『誰よりも、うまく書く』

過去記事の再公開(事情は[こちら])【初出 2022年4月16日】


良い記事を書くコツは3つある。

 ①読みたくなるようなタイトルにする
 ②最初の文を読んだら、次を読みたくなるように書く
 ③次を読んだら、もっと読みたくなるようにして、最後まで読んでもらう

そんなことは分かっている。知りたいのは、最後まで読んでもらうには、具体的に何をどう書けばよいのか?

その答えは、物書きのバイブルである本書にある。

『誰よりも、うまく書く 心をつかむプロの文章術』は、全世界で150万部売上げ、50年近く読み継がれてきたロング&ベストセラーの文章読本だ。ライター・記者・作家志望が必ず紐解くノンフィクション・ライティングの名著とされている。

一読すると、すぐに分かる。最後まで読んでもらう文章を書く上で、必須のこと、NGのこと、ネタの探し方、書き方、推敲の仕方、お手本がそろっている。

ブロガーの端くれとして、このテの本は、さんざん漁ってきたつもりだった。だが、それでも沢山の気づきが得られたので、いくつか紹介してみよう。

どんな立場から書くのか

これは、書き始める前に答えを決めておく必要がある。

ある題材を記事にするとして、それを、自分(=書き手)がどんな立場から語り掛けようとしているのか、という質問だ。

  • 記者としてか、その道のプロとしてか、あるいは、一般人としてか
  • どんな代名詞、時制を使うのか(≒無個性な報告調か、個性的でくだけたものか)
  • 題材に対してどういう態度をとるのか(深くかかわるのか、距離をおくのか、皮肉っぽくあしらうのか)

これらを練っていくと、「この記事は、誰に向けて書くのか」も一緒に考えることになる。知らない人向けに解説するのか、既知なのに意外な事実を暴露するのか、あるある話として共感を集めるのかを考える。

すると、文の調子や用語選び、一文とパラグラフの長さ、最終的には構成のアウトラインまで決まってくる。その題材を知らない人向けに紹介するのなら、なるべく興味を惹きそうなトピックを冒頭に持ってきたり、専門用語の後に例え話を添えるなど、文章そのものが変わってくる。

ほとんどの形容詞と副詞は不要

これマジ。わたしは開高健から「文は形容詞から腐る」と教わったが、本書でも釘を刺してくる。

文をリッチにするため、形容詞を加えたくなる気持ちはわかる。だが、やるほど逆効果になる。

例えば、「茶色い土」や「黄色いスイセン」など、よく知られた目的語の色をわざわざ書く必要は無い。文章が無駄に長くなるだけだから。

形容詞を使うことは、その目的語に書き手の価値判断を加えることだ。だから、書き手の価値判断が、読み手と似たようなものになるのなら、その形容詞は冗長になるだけだ。削れ。

その上で、名詞単独だと、自分の価値判断が伝わらないのであれば使えばいい。どうしてもスイセンを価値判断したいなら、「けばけばしい」のような形容詞を選ぶべきだ。

同じことは副詞にも言える。

動詞と似た意味の副詞を加えると、文章は乱雑になり、読者をうんざりさせる。「ラジオが喧しくがなり立てる」がダメなのは、「がなり立てる」の中に「喧しさ」が含まれているから。「歯をきつく噛みしめる」がダメなのは、「噛みしめる」中に、「きつく」が入っているから。

さらに、限定子も消せという。「いささか」「少しの」「一種の」「ある意味では」といった言葉だ(※)。書き手が見たこと、感じる、考えていることに条件を付けるこうした言葉は、文体を薄め、説得力を弱めてしまうという。

かっこ( )に括れ

では、どうすればよいか?

無駄なセンテンスを削って、読みやすい文章にするには、具体的にどうすれば良いか。本書には、沢山の方法が紹介されているが、わたしにとって白眉だったのは、かっこ( )に括る方法だ。

完全に削除するのは精神的にダメージがくる。だからいったん、役に立っていない構成要素を全て、かっこ( )に括る。

分かり切った形容詞「(高い)摩天楼」や、動詞と同じ意味を持つ副詞「(楽しそうに)微笑む」、文を薄める修飾語「(いささか)分かりにくい」、無意味なフレーズ「ある意味」を丸ごとかっこ( )に入れてしまう。

さらに、一文全体を括ることもあるという。前文のくり返しだったり、読者が知る必要のないことが書かれていると、丸ごとかっこに入れられる。

推敲前の第一稿は、だいたいの場合、半分に削っても情報や著者の声が失われることはない

本当か!? と思うかもしれない。でも本当だ。なぜそう断言できるかというと、わたし自身がそうしてきたから。

自分の文章が良くないことに気づく人はほとんどいない。過剰さや曖昧さがどれだけ自分の文体に忍び込み、どれだけ自分の伝えたいことを邪魔しているかを誰も教えてくれないからだ。

かっこに括るのは、なくても意味は通じることを、自分自身の目で確認するため。自分の文章を組み立てなおす前に、徹底的にそぎ落とし、縮めることをお薦めする。

また、お手本となるノンフィクションが大量に紹介されており、わたしの既読 or 積本リストに照らし合わせても、鉄板でお薦めしたい(以下ほんの一部をご紹介)。

  • ステ ィーヴン・ジェイ・グールド『パンダの親指』
  • オリヴァー・サックス『妻を帽子とまちがえた男』
  • フランク・マコート『アンジェラの灰』
  • ウラジーミル・ナボコフ『ナボコフ自伝 記憶よ、語れ』

他にも、「ユーモアをいつ、どのように使うか」「上手な終わらせ方」「受動態の使いどころ」など、記事を書く上で役立つ手法が並んでいる。

わたしがよく使っている「面白いことに~」という前フリはダメだという。面白いことがあるなら、もったいぶらずに、さっさと書け、というわけ。

サマセット・モームは、「書くことには3つのルールがあるが、それが何なのか、誰も知らない」と言った。3つに限るなら、冒頭の①②③だ。増やしてもいいなら、本書をお薦めする。


※文中では、以下の英単語が並んでいる
a bit, a little, sort of, kind of, rather, quite, very, too, pretty much, in a sense

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