税とは略奪である『課税と脱税の経済史』

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税の本質は略奪だ。

こん棒を手にしてた昔よりは洗練されてはいるものの、「ある人から奪い、ない人からも奪う」という本質は変わらない。こん棒が別の呼び名になり、略奪システムが巧妙になっているだけ。本書の前半を読むと、様々な試行錯誤と権力闘争の元に、人類の英知を結集し進化してきたものが、現代の税制だということが分かる(不完全じゃんというツッコミ上等。それは人類が不完全である証左なり)。

一方、脱税は多角的な側面を持つ。

上に政策あれば下に対策あり。税回避は、国家の略奪への対抗手段ともいえる。あるいは、政府よりも最適な資源配分をするための経済合理性を追求する行為だ。あるいは、法の抜け穴やグレーゾーンを見出し、そこで資源を最大化する戦略的なゲームだ。本書の後半を読むと、貧民から富豪まで、創意工夫を尽くして進化してきたものが、税回避のいたちごっこであることが分かる(これは人類の歴史が続く限り続く)。

『課税と脱税の経済史』は、奪う側と奪われる側の双方の視点から、古今東西の歴史を振り返り、「なぜ我々は税金を納めるのか」「そもそも税とは何なのか」を炙り出す、いわば「税の世界史」ともいえる。

税逃れの爆笑エピソードから、強制力の行使による無慈悲で残酷な結末、人間の行動心理の裏を衝いたやり方など、豊富な事例を眺めていくうちに、私が囚われている税への偏見と刷り込みが、クリアになってゆく。そこでは、人類の最悪な部分と最善な部分の両方を垣間見ることができる。この知的興奮がたまらない。

源泉徴収制度の「自然さ」と「不自然さ」

税への見方が360度ひっくり返ったのが、源泉徴収だ。

会社が給料を支払う際、予め税金を差っ引いた額が振り込まれる。わたしが受け取る時には税金は徴収済みというわけだ。召し上げられた税金は、会社がまとめて国に納める。取られた税金は、年末調整で返ってくる。面倒くさい確定申告は会社がやってくれる―――そんな風に考えていた。

だが違う。

源泉徴収の起源は古く、ナポレオン戦争の時代まで遡る。もとは、住み込みの使用人の納税義務を主人が肩代わりする制度だった。「賃金を支払う」というプロセスの一環で行われ、使用人一人ひとりから徴税するよりも、効率的に集めることができる。

所得税なのだから、被雇用者である「わたし」に対して課税されるにも関わらず、実際に納付するのは雇用主である故、納税しているという感覚が薄い。こういう巧妙な仕組みを発明したのはどこかというと―――世界史のなかで最も悪徳を積み重ねてきた国とだけ言っておこう。

今では賃金だけでなく、金利や配当、株式売却によって得られるキャピタルゲインの課税にまでこの方式が用いられている。また、途上国では、スマホなどの輸入品にまで源泉課税の対象となっているという。

このように「自然に」納税しているシステムだが、本書を読みながら改めて考えるとヘンだ。こうある。

年末になると年間の税額が再計算され、源泉徴収された金額と照合される。源泉徴収されていた額が過多だった場合、納税者から政府に無利子貸し付けを行ったことと同じことになる。
(『課税と脱税の経済史』p.366より)

この「納税者から政府に無利子で貸し付けられた」という発想は無かった。

言われてみれば確かにそうだ。納税が遅れると、延滞税という形で利子が課される。これは、延滞利息のようなものだ。延滞利息は取るのに、還付金(わたしの給料の一部)の利子は付かないの?

年末調整で返ってくるのは、税金ではなく、わたしの給料だ(「還付金」という別名になっているので、勘違いしやすい)。「わーい、【税金が】返ってきた」と無邪気に喜んでいたが、政府に貸してた【わたしの給料が】返ってきたのだ。だから、利子の一つも貰いたいもの―――と発想が転換される。それほど長期間でもないし、微々たるものかもしれない。だが、会社全体、いや、法人全体からすると、結構な額になるだろう。

こういう風に考えられてしまうのは、政府にとってかなり都合が悪かろう。

源泉徴収制度は、戦費調達のために1803年のイギリスを皮切りに世界中に広まった。アメリカの源泉徴収制度の設計者の一人であるミルトン・フリードマンは、後に大いに後悔したという。

「反乱を引き起こすことなくここまでの増税が可能になったのは、政府が国民の金を、彼らが目にする前にとりあげているからだ」
(『課税と脱税の経済史』p.368より)

数百年かけて浸透し、当たり前のように運用され、この制度ありきで世の中が回っているため、いまさら異を唱える方が異常なのかもしれない。だが、本書を通じて知った源泉徴収制度に対する不自然な感覚は、忘れずにいたい。

経済学者もお手上げの税の帰着問題

税の帰着問題は、税の負担が、最終的に誰に行き着くのかを特定する問題だ。

課税が企業や市場や投資家や消費者にどのように影響を影響を与えるのかが見えにくいため、厄介な問題だという。

ん?簡単じゃん。

税は、ものごとや人に対して課税される。だから、その「対する」ものが、税の名前の由来となっている。名は体を表すというように、税金の名前を見れば一発でしょう―――と考えていた。

だが、わたしの考えは甘いようだ。

例えば、一般的な法人税について。「法人」に課税するのだから、株式会社だったら株主が最終的に負担する……のではない。

利益に対する法人税が引き上げられると、短期だと株価が下がって株主がワリを喰う。だが、長期で見ると利益水準が低下するから、投資先としての魅力が減る。株主や投資家は、より税負担の小さい分野の企業や、海外の投資先を代替するので、税負担は感じにくいという。

法人税課税を行なう国においては資本ストックが減ることになり、そのために労働生産性が下がり、やがて賃金率も下がる。いずれにせよ、法人税の負担を引き受けるのは富豪ではなく、彼らに雇用されている勤勉な労働者である。
(『課税と脱税の経済史』p.207より)

他にも、より税負担の小さい小規模法人へ企業体を変えたり、租税回避のために負債を増やして資本を調達するという手もあるという。借入金の利息は損金になるので、(税引き前の利益が減るので)税率が引き上げられたとしても影響を受けにくい。

もちろん、シナリオ通りに進むとは限らない。だが、「法人税の最終負担は株主」という図式は一面的であり、著者によると、「法人税の帰着は闇の中」だという。

税の名前が、最終的な負担者だという発想は安直すぎる。

最近だと、トランプ大統領による関税200%のニュースがあった(朝令暮改に終わったが)。特定の産業を保護する意図があったかもしれないが、税の帰着先を考慮せずに強行した場合、短期的には米国内の消費者への負担増や、(米国を含む)経済全体への悪影響が起きていただろう(そして、歴史に学ばないケーススタディとして、経済学の教科書がさらに厚くなっていただろう)。

法に触れない税回避(ただし大企業に限る)

節税ネタや脱税の話が満載だが、庶民レベルだと涙ぐましい話になる(そしてオチは残酷なものが多い)。一方、多国籍企業の有名どころがやっている税回避は、様々な法の目をかいくぐる、高度な知能ゲームのように見えてくる。

例えば米国のここ。

場所は、デラウエア州ウィルミントン市北オレンジ通り1209番地だ。なんの変哲もない建物が見える。だがここには、28万5,000もの企業が入居しているという。

デラウェア州は法人税率が低く、特に法人に対する税制優遇が充実しているため、税負担を軽減するために、ここに本社を置くことが多い。さらに、法人の設立手続きがネットで完結し、匿名性が保持され、連邦税法からも回避できるというメリットがある。

いわゆるタックス・ヘイブンなのだが、本書ではタックス・サンクチュアリと呼んでいる。ヘイブン(避難所)ではなくサンクチュアリ(聖域)という方が、ネーミングセンスがあるといえる。法人税を納める必要があるのなら、可能な限り低税率である場所で納めるほうが、結果的に安く済ませることができる。それだけでなく、連邦法や国際法の司直の手が届きにくいという意味でも、聖域なのだろう。

税回避の基本レシピはこうだ。

世界を見渡すと、税率の低い国と高い国がある。税率の低い国にある子会社Aで資金を調達して、税率が高い国にある子会社Bへ貸し付ける。

子会社Bは、貸付金の利息をAに支払う必要があるものの、利息は経費として計上できるし、税控除の対象となるため、法人税の負担を圧縮できる。

一方、子会社Aは、利息の収入が得られる。この収入には税が適用されるが、そもそも税率が低いため、企業グループ全体として節税ができるという仕組みだ。

移転価格操作と呼ばれるこの手法、さすがにあからさまなので、各国の税務当局にもバレバレだろう。だが、カネではなく、株式や出資などの所有権を提供したり(エクイティファイナンス)、特許や商標などのロイヤリティをやり取りにするといった形にすることで、ある程度の偽装は可能だ。

この手法で、イギリスのスターバックス社は、およそ30億ポンド(4,200億円)に対し、納めた法人税は860万ポンド(12億円)に留めていたという。商標のロイヤリティはオランダの関連会社に支払い、コーヒー豆や焙煎の代金をオランダやスイスの子会社に支払うことで、スターバックス本体は借金まみれにする―――2013年に明るみになったこの手法は、「限りなくグレー」と言われている。

こうしたサンクチュアリについて、ちょっと邪悪な発想を思いついた。

こんな狭い場所に「本社」が集中しているならば、放火や爆破といった「事故」を意図的に起こすことで、名目上は本社機能を停止させることが可能だ。

株は一時的に下がることは明白だから、下がった瞬間に買い、回復したら売ればいい。28万5,000もの企業に及ぶから、その差額は莫大なものになるだろう。実際に爆破しなくても、「爆破予告」だけでも効果が見込まれる(ジョン・グリシャムあたりが既に書いてそう)。

マルサの女

本書は、元IMF財政局次長マイケル・キーンと、公共政策を専門とする経済学教授ジョエル・スレムロッドの共著になる。

そのため、フィクションへの言及があまりなかった。史実の方が小説より奇なりだったのは、リアルの人は、「フツーこんなことはやらんやろ」という馬鹿なことをしでかすから。

なので、本書にフィクション作品を加えたい。史実や現実がこれほど馬鹿馬鹿しい&面白いのだから、脱税をテーマにした作品は、必然的に面白くなる(はず)。日本の税制にも詳しい著者たちにお薦めしたいのはこれ(ひょっとして観ているかもしれないが)。

脱税摘発の超プロフェッショナルであり、日本のタックス・ポリス―――国税局査察部―――人呼んで、彼らをマルサという。

マルサ(税務調査員)として働く女を主人公に、コメディと社会派を融合させた映画だ。脱税する人々をどうやって炙り出し、摘発まで持っていくかを緻密に、執拗に描いている。これ観てきた昭和のオッサンなら、脱税は割に合わないと身に沁みる一方で、旨い汁を啜っている人はカメラにすら写らないんだなーと学習していることだろう(私含む)。

あるいは、スコセッシ監督の『ウルフ・オブ・ウォールストリート』とか、ケビン・コスナー主演『アンタッチャブル』、トム・クルーズ主演『法律事務所』が浮かぶ。

本書は、経済史という体裁を取っているものの、そのサブタイトルに「【悪】知恵で学ぶ租税理論」がついてくる。これに脱税をテーマとしたフィクションをラインナップとして付ければ、『脱税大全』と銘打ってもいいだろう。

税とは略奪だ。やり方は変わっても本質は変わらない。奪われる者、抵抗する者、逃げる者、隠したりごまかしたりする者、『課税と脱税の経済史』には、人類の英知と不完全さ、そして馬鹿さ加減が詰まっている。

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古事記は音読すると面白い『口訳 古事記』(町田康)

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「音読」をテーマにしたオフ会でお薦めされたのがこれ。

日本最古の歴史書であり、神話と伝承の源泉である古事記。とっつきにくいイメージがあったが、河内弁でしゃべりまくったのが町田康の『口訳 古事記』になる。

町田康の文体って、リズム感があって、言葉に勢いがある。大量殺人事件「河内十人斬り」を一人称で描いた『告白』には独特のグルーヴ感があり、ハマると止められない中毒性の高い徹夜小説だった

だから彼の小説は、音読すると面白さマシマシになる。漫才のようなノリツッコミや、寄席のような口上は、声に出して読みたい物語なり。例えばこれ、日本最凶の問題児・スサノオノミコトがスーパーサイヤ人よろしく空を飛んでくるシーンだ。

なにしろ泣くだけで山の木が枯れ海が干上がるほどのパワーの持ち主がもの凄いスピードで昇っていくのだから、コップが落ちた、茶碗がこけたみたいで済む訳がなく、震度千の地震が揺すぶったみたいな感じになって、山も川もまるでアホがヘドバンしてるみたいに振動、国土全体が動揺してムチャクチャになった。

このことがすぐに天照大御神(アマテラスオオミカミ)のところに報告された。

「ご注進、ご注進」
「何事です、騒騒しい」
「えらいこってす、芦野原中国(アシハラノナカツクニ)が動揺してムチャクチャになってます」
「マジですか」
「マジです」

一つ一つの行動が災害級の大迷惑で、読んでる方が「どうすんだよこれ」と呆れていると、「マジですか」「マジです」とすっとぼけた会話でシメる(これ、狙ってやってるリフレインだな)。なお、カミサマの名前の読みはルビがふってあるので安心して音読できる。

声に出すのも憚られるような、糞尿・ゲロ・おっぱい・女陰・エログロ描写が丸だしで、ゲラゲラ笑いながら音読する。ギャグ漫画よりもマンガ的で、神話だから規制無しで、しかもカミサマだからなんでもあり。

ぶっ飛んだストーリーなのだが、さすが神話、どこかで聞いた話と繋がるのが面白い。

例えば、お供えのために、オオゲツヒメという女神が料理を任される。オオゲツヒメは、自分の鼻や口や尻穴からひり出したもので食事をこしらえるのだが、どう見ても鼻汁・ゲロ・糞尿なので、スサノオノミコトが激怒して殺してしまう。

すると不思議なことに、女神の屍骸から穀物が生えてくる。具体的には、眼から稲、女陰から麦、尻穴から大豆が生えてくるのだが、これ、インドネシアのハイヌウェレ神話と酷似している。

ハイヌウェレは尻から大便ではなく食べものをひり出す少女で、彼女を気味悪がった村人から殺されることになる。少女の死体からは多種多様なイモが生えてきて、その地域の主食となったという。

生命を生み出すのは女性。その死体から食べものが生えてくるという食物起源神話は、赤坂憲雄の『性食考』で知った。生きることと食べることの源を女に求めるのは、考えているよりも普遍性を持つのかもしれぬ。

Wikipedia[ハイヌウェレ型神話]より

XRF-Hainuwele

By Xavier Romero-Frias (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

また、女陰を見せつけて大騒ぎするシーンがある。天岩戸に隠れたアマテラスを呼び出す宴会の件だ。天宇受売命という女神が踊り狂ってトランス状態となる。

踊るうちに、玉やら鏡やら神聖な御幣やら、後は祝詞の力、天の香山の木や草の力やら、後は桶の律動的な拍子、踊りそのものなどが合わさって、天宇受売命(アマノウズメ)は神がかって、思考がなくなり神の力そのものとなって、のけぞって衣服の前を両手で左右に引っ張って乳を丸出しにし、それから、下半身に巻いた裳を結んだ紐を押し下げ、腰を前に突き出した。

その結果、女陰が丸出しになった。

その乳と女陰が丸出しになった状態で、首を振り、頭につけた蔓草を振り乱し、手に結んだ笹を振り回し、なお踊り狂った。

神々が集い、天地を揺るがすほどの大爆笑の騒ぎに、「なんだろう?」と気になるのは仕方ない。気になったアマテラスが岩戸を少し開けた後のお話はご存知の通り。問題はヴァギナ・ディスプレイになる。

女性器の世界史とも言えるブラックリッジの『ヴァギナ』で知ったのだが、古今東西、女陰には、魔物を祓い、幸運を呼び込むパワーがあると信じられていた。

ヨーロッパやアジアの神話において、女性がスカートをたくし上げることで、敵を威嚇したり、荒ぶる海を鎮めたり、戦争において士気を高めたという伝承が多々ある。クールベの『世界の起源』の通り、お釈迦様を除いた人類の源なのだから、そこに神秘性を見出すのは、普遍的なものなのかもしれぬ。

こんな風に、破茶滅茶で奇天烈なのだが、どこか懐かしさを覚えつつ読み上げる。アタマで読むのではなく、ボディで味わう感じ。詩のような歌のような呪文のような神々の名が、最終的には地名や言葉の由来となる。自らの正統性のエビデンスとするために編まれた物語が、これほどのエンタメになるなんて。

まさに音読するための一冊なり。

なお、ビジュアルで古事記を攻めたいという方には、こうの史代『ぼおるぺん古事記』をお薦め。ボールペンだけで書かれた絵物語とでもいうべき古事記。エロもグロもエッチなところも余さず丁寧に描かれているのがいい。

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「悪の美学」――魅力的な悪役の作り方『荒木飛呂彦の新・漫画術』

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「悪役が物語を面白くする。魅力的な悪役がいることは名作に欠かせない条件だ」―――累計発行部数で1億2千万部を超える『ジョジョの奇妙な冒険』の作者・荒木飛呂彦は、こう喝破する。

優れた知性やカリスマ、才能と意志の強さ、あるいは独自の哲学を持つ悪役は、単なる「倒されるべき存在」ではない。バットマンに対するジョーカー、ルークにとってのダースベイダーのように、主人公との対立構造をよりドラマティックに仕立て上げ、物語の魅力を大きく引き上げる肝と言える。

しかも、悪役は人である必要はない。荒木先生に言わせると、あらゆる物語は「主人公 vs. 悪役」の構造になっている。主人公の目的や望みを阻むものであれば、なんであれ「悪役」とすることができる。ドキュメンタリーなどでは、社会システムや法制度が「敵」になることだってありうる。

なぜ「悪役」か?

悪役とは、主人公がぶつかり、対峙し、乗り越えるべき困難を体現している存在であり、その障壁が巨大で強大であればあるほど、作品は面白くなる。そのためにも悪役は徹底的に「悪」で「強い」という設定にするのが基本になるという。

僕は『ジョーズ』(1975)が大好きなのですが、何度観ても「素晴らしい!」と思えるのは、海の王者としてのサメを凶悪な殺人兵器のように描き、その圧倒的な恐怖を「これでもか」とばかりに表現しているからだと思います。

確かに!信じられないほど巨大かつ凶暴で、人肉の味を覚えてしまったホオジロザメが、ひたすら怖かった。ただデカいだけではなく、用心深く狡猾で、人間が仕掛ける罠を見抜くほど頭がいい。

『ジョーズ』は、鮫のパニック映画というのでは不十分で、圧倒的に勝てない状況で悪意を持った怪物と対峙する恐怖を描いた物語といえる(最初に見た時、沈みゆくオルカ号のシーンで絶対に勝てないと絶望した)。最近なら『ゴジラ -1.0』で、その絶望を踏まえた上でさらに絶望を上書きする仕掛けになっている。

悪役は、単に強いだけでなく賢く狡猾でなければならない。必ず主人公とセットで考えて、主人公の一歩も二歩も先を行き、読者や観客を「どうやって勝つんだこんなヤツに……」と絶望させなければならない。

悪役が強くて賢く圧倒的であればあるほど、それを乗り越える主人公が輝く。絶望的な状況を逆転するカタルシスに読み手は歓喜する。物語を面白くする要素や仕掛けは多々あれど、「良い」悪役こそが人気の要だ―――『ジョジョ』に登場する強烈な悪役であるディオ・ブランド―や吉良吉影を生み出した荒木先生が言うと、説得力が増す。

ディオ・ブランド―の作り方

では、この「良い」悪役は、どうやったら作ることができるのか?『荒木飛呂彦の新・漫画術』は、悪役の作り方を中心に、面白い漫画やストーリーの秘密を開陳する。

本書を唯一無二にしているのは、ディオ・ブランド―や吉良吉影をどうやって作ったのかを、具体的かつ実践的に解説している点だ。「いわば企業秘密を公開するに等しい」と言われている理由はここにある。

まず、悪役は、主役とセットで考えろという。悪役を魅力的にするために、主人公をどういうキャラクターにするのかが軸になるという。『ジョジョ』第一部では、主人公はジョナサン・ジョースターになる。

そして、必ずしも「善と悪」を拮抗させる必要はないという。ディオのように強烈なキャラにすることもできたが、そうしてしまうと、読者との乖離ができてしまう。

だから、平凡な役回りで、ホームズにおけるワトスンのような「基準点」という位置にしたという。『ジョジョ』第四部の康一くんのような、読者と同じ常識を持っているキャラクターという「ゼロ地点」があるからこそ、そこに悪とのギャップの激しさが浮き彫りになるという。

そうした上で、主人公には絶対に勝てないような強さ、美しさ、カッコよさ、知性、才能を対比させていったという。作品には表現しない可能性があるが、家族関係や生い立ちも考えたという。

そうしたキャラのバックグランドを「身上調査書」としてまとめる。身上調査書とは、キャラの特徴をまとめたもので、名前や身長・体重、出身・経歴といった属性から、性格や生い立ち、将来の夢、何を恐れているのかといった思想的なものまで考える。いわばそのキャラクターの世界観を一貫したものにするペーパーだ。

当時の身上調査書は失われているらしいが、記憶で再現してもらったものがこれになる。

Dio

身上調査書を記入していくことで、ディオ・ブランド―の存在が浮かび上がっていくという。「性格」の欄を埋めていくと「嘘と虚飾」「支配」「排除」といった言葉が並んでいく。

要するにディオはパラサイトなんです。自分の本心を隠してジョースター家という貴族に寄生し、奪えるものを奪いながら、乗っ取っていく。そのときジョナサンが邪魔なので、排除しようとすわけです。そこから、ジョナサンとディオの戦いが始まっていきます。

ディオの悪役がハマっていくことで、「吸血鬼」のアイデアとつながっていったという。当時の『少年ジャンプ』に連載されていたのは、『ドラゴンボール』『キン肉マン』『シティハンター』といった名作&傑作揃いで、その中で自分の個性を出していくためには、ジャンプで誰もやっていないダークな世界につなげる存在が必要だと考えたそうだ。

当時の編集部は、時代を反映してか、もっと明るくイケイケの世界を描くようアドバイスがあったという。しかし、身上調査書のディオとのキャラとは合わないため、自分の意志を貫き、最終的に「吸血鬼」になった。もし、編集部の圧に負けていたら、おそらくジョジョはこれほどメジャーにはならなかっただろうし、本書も無かったと思うと感慨深い。

こんな風に、ディオ・ブランド―を始め、吉良吉影、ファニー・ヴァレンタイン大統領といったジョジョの歴代悪役の身上調査書を公開しながら、どのように悪役を作っていったかを解説する。

悪役の哲学

面白いと思ったのは、悪役を作るときは、その時代時代の価値観が反映されている点だ。

例えば、吉良吉影のデザインには、バブル経済が終わり、「アゲアゲのキャラクターはちょっと違う」という感覚が反映されている。ディオのような最強のカリスマといった、ある意味分かりやすい敵とは一線を画し、日常の中に潜んでいるヤバい悪を目指したという。

これは、猟奇的殺人鬼レクター博士が登場する『羊たちの沈黙』(1991年)や、コリン・ウィルソン『殺人百科』のシリアルキラーが該当する。どこにでもいる普通で目立たずに生きながらも、残虐な罪を犯す存在こそが、時代に相応しい悪役になる。

そして、ジョジョに限らず、その作品が生まれた時代ならではの、カルチャー的な「悪」に目を向けよという。

本書で紹介されているのは、大英帝国の時代を生きたアガサ・クリスティーやコナン・ドイルの作品になる。注意深く読むと、謎やトリックの話を書いているように見えて、その背後には帝国主義が生み出した闇が存在しているという。

それは、ひたすら利益追求を目指すイギリス商人の強欲さだったり、彼らに蹂躙された新大陸の呪いだったりする。そういう時代の影のようなものまでも描くことができるのであれば悪のキャラクターに深みが出てくるという。

このように、悪役には「悪とは何か」という問いに対する、作者の哲学が反映されているというのだ。正しさに相対する悪をとことん考えることによって、「良い」悪役を生み出す―――これが、悪役の作り方の基本になるという。

この考え方は面白い。私は作品を享受する側だが、悪役を通じて作品の価値観のベースラインを伺い知ることはある。

一般に、正義というものは、普遍的な価値観として語られることが多く、一貫性を求められるために画一的で変化に乏しく、いわゆる「お約束」になりがちだ。

一方、「悪」というものは、その時代や社会の価値観に応じて形を変え、個性的な存在として描かれることが多い。怪物的な存在だったり、退廃的で道徳的な側面がクローズアップされたり、あるいは、社会的な格差や構造そのものを「悪」とすることだってできる。

悪には、その時代時代において抑圧された欲望を体現する自由がある。昔は「家父長制」から「ジェンダー優位」「多様性の尊重」まで、それぞれの時代の「お約束」を守らなければならない正義とは異なり、「悪」は計算高く変化し、社会の不条理を衝くことができる。

例えば、「女が自由に生きること」が抑圧されていた19世紀では、若い女を誘惑する吸血鬼は、伝統的な家父長制を揺るがす「悪」として機能していた。あるいは、消費社会において飼い馴らされた男性性を暴力で破壊する『ファイト・クラブ』のタイラー・ダーデンは、「良い」悪役と言えるだろう。

正義という秩序の外側に悪を相対させ、その葛藤が物語を動かす。立ち位置の象徴が、主人公と悪役であり、両者の乖離が激しく、悪が絶対的であるほど、その時代に生きる私たちは、物語を面白く感じるのかもしれない。

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高橋留美子先生を絶句させた短編から大長編『カラマーゾフの兄弟』『失われた時を求めて』を気軽に楽しむ方法、今井美樹『PRIDE』が全く違う曲に聴こえるエピソードまで、「愛と憎しみ」をテーマにした読書会「スゴ本オフ」のレポート

好きな本を持ち寄って、まったり熱く語り合う読書会、それがスゴ本オフ。本を介して人を知り、人を介して本に出会う読書会だ。

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本に限らず、映画や音楽、ゲームや動画、なんでもあり。なぜ好きか、どう好きか、その作品が自分をどんな風に変えたのか、気のすむまで語り尽くす。

今回は「愛と憎しみ」のテーマで、皆さんの推し作品が集まった。知らないけれど気になる作品と出会うだけでなく、プレゼンの熱に当てられて読み返したくなる作品にも再会できた。

皆さんの「このテーマでその作品を語るのか!!」という着眼点が素晴らしく、その眼力と発想に恐れ入る。何を選ぶかも自由だし、選んだものをどう解釈するかも自由だ。その感性がシンクロするときが、とてつもなく嬉しい。

読書は孤独ではないとして「同じ本を読む人は遠くにいる」という言葉がある(by 読書猿)。オフ会をやると、同じ本を読む人は割と近くにいることに気づいて嬉しくなる。

愛のために始まり、憎しみによって終わるドラマ『ブレイキング・バッド』

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私が紹介したのは、テレビドラマ『Breaking Bad』

高校で化学を教える冴えないおっさんが主人公だ。身ごもった妻と高校生の子どもを養い、ローンの返済に追われる毎日なのだが、ある日、肺がんで余命宣告されてしまう。このままだと借金を残すことになり、家族がバラバラになってしまう。そこで持ち前の化学の知識を生かし、超高純度のドラッグを精製して売りさばくという、人生最大の賭けに出る。

ドラッグの品質はダントツで、人気が出るのだが、他の売人やマフィアが黙っちゃいない。そうした連中に巻き込まれていくうち、このおっさん、どんどん悪くなっていく。最初は愛する妻子のためにお金を稼ぐのだが、カネがカネを呼び、愛が憎しみを呼び、引き返せないところまで疾走していく。

その経緯を、ときにコメディタッチ、ときに残虐に、あますことなくつぶさに見させられるのだが、「どうしてこうなった」という言葉しかでてこない。第1話にすべてが込められており、1話を見ると2話を、2話を見ると次々と観たくなる、麻薬のようなドラマだ。

愛によって始まった物語が憎しみによって完結する、そういう傑作が『Breaking Bad』。これを超えるようなすごいドラマがあったら教えて欲しい(ただしゲーム・オブ・スローンズを除く)。

高橋留美子先生を絶句させた傑作短編『半神』

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確かにこれは「愛と憎しみ」だ!と膝を打ったのが、ナリナリさんが推しの萩尾望都『半神』。短編集『半神』の冒頭に収録されている、わずか16ページの短いマンガだ。あの高橋留美子先生をして、「あれは・・16ページ・・16ページであれを・・」とバグらせたといういわくつきの神作だ。

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萩尾望都『半神』より

ナリナリさんの圧のあるコメントを引用する。

オススメの理由は、物語の内容と形式がここまで見事に調和した作品が存在することを誰かに知ってもらいたいから。要約すると「結合双生児の妹に姉が愛憎を抱く話」となるでしょうか。

しかし、この要約では本作の良さは伝わりません。漫画という視覚メディアによって、容貌も含めて容赦なく描き出される”姉と妹”の視覚的な対比があってはじめて凄みが生まれる作品です。

本作に出会ったことで、物語にはその内容に適した形式があり、それに則って語られたときにいっとう輝くことを知りました。

一度読んだら一生忘れられなくなる傑作を、わずか16ページで描き切るだけでも凄いのに、漫画という媒体のビジュアルに乗せて「愛と憎しみ」を畳みかけてくるのも凄い。そう、まさにこれこそ「愛と憎しみ」がテーマの作品と言える。

愛の歌がまるで違って聴こえる「PRIDE」

今井美樹 -「PRIDE」Music Video

びっくりしたのが、ミムラさんご紹介の今井美樹『PRIDE』

ん?

「私はいま~」で始まるやつでしょ? 愛する人への思いを「やさしさとは、許し合うことを知る」とか「わがままさえ、愛しく思えたら」といった歌に込めた、やさしさに溢れる良いバラッドじゃん。おっさんホイホイの名曲だと思う。

確かにこれは「愛」なんだけど、「憎しみ」は? と思っていたら、この曲が作られた時代と、作った人―――布袋寅泰の話になる。時系列で言うと、こんな感じになる。

 1986 布袋寅泰と山下久美子が結婚
        ★
 1997 布袋寅泰と山下久美子が離婚
 1999 布袋寅泰と今井美樹が結婚

山下久美子との結婚当初、布袋寅泰のネームバリューはそれほど無かったという。ヒットメーカーである妻とすれ違いがちになるのだが、そこで現れたのが今井美樹。音楽活動を通じて接近したと言われるのだが、当時は「略奪愛」だのバッシングがあったという。

私「PRIDE」が発表されたのは★のタイミング。ちょうど不倫のドロドロ三角関係があったという時期に重なる。

このゴシップ、私は知らなかったのだが、知ってしまった今、同じ歌がまるで違うものに聞こえる。これを作詞作曲し、どういう思いで今井美樹に歌ってもらったのかと考えると、味わい深いものになる。美しい歌詞の裏には、愛だけでなく様々な感情が込められているのかもしれぬ。

王道を音読する『失われた時を求めて』

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王道なのが、よしおかさん推しのプルースト『失われた時を求めて』だ。

フランス文学、いや20世紀の文学を代表する全14巻の大長編で、「私」という語り手が幼少期から成人するまでの人生を振り返る形で進み、貴族社会の衰退とブルジョワの台頭を背景に、記憶や時間、愛、芸術といったテーマを考察したもの。

よしおかさんは、音声SNSであるClubhouse(クラブハウス)で音読会をしながらゆっくり読んでいるとのこと。岩波文庫版を読んでいるのだけれど、メリットは注釈が非常に充実している点だという。

それも、「その時点での」注釈であるところが素晴らしい。例えば、ある登場人物に注が付いており、それを読むと、どこで登場したかが事細かに書いてあり、長い小説にありがちな「こいつ誰だっけ」を解決してくれる。

注釈だけでなく、場面索引というのもある。最初は、こんなの付けてどうすんだと思ってたけれど、音読しているうちに、場面を思い出して「そういえばこんなんだっけ」という気にさせてくれるという。

フランスの歴史や地名を知らなくても、注が付いているので安心すればいい。どんどん読んで、どんどん忘れてしまっても、ちゃんと注釈が補ってくれる。

お薦めの読み方は、14巻の中から、目をつぶって1冊抜き取り、そこから読むというやり方。注釈がしっかりしており、ストーリーらしいストーリーはなく、情景描写の累積だからなせる読み方だという。伏線がどうかとか、心理描写と場面のここがつながっているといった考察も研究がなされており、注釈に反映してある親切設計。

基本的に、主人公の「私」とそのガールフレンドだけ見ていればいい。「私」のガールフレンドへの想いは、まさにラブ&ヘイトになる。主人公に1ミリも共感できず、バカなやつだなぁと思うのだが、そういう、人の人生を淡々と眺めるような読み方ができる。

私の場合、1巻だけ読んで、貴族もブルジョワもひっくるめ、鼻もちならないフランス的なマウンティング合戦にウンザリして投げたことがある。ヘンに構えず、元気なうちに読んでみようという気になった。

王道をオーディブルで『カラマーゾフの兄弟』

もう一つの王道が、ズバピタさん推しのドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』だ。

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ドストエフスキー最高傑作の一つとされる長編小説で、メインストーリーは、父親殺しの謎を軸に、兄弟が異なる思想や感情に翻弄される姿が描かれている。その根底に流れるものは、人間と人間同士の「愛と憎しみ」という相反する感情のせめぎ合いだ。極端な感情のぶつかり合いを描きつつ、それでもなお人間が「救済」や「赦し」を求める姿が浮かび上がってくる。

愛憎劇の決定版ともいえるカラ兄なんだけど、ズバピタさんは面白い取り組み方をしている。本ではなくオーディブル版を堪能しているという。ナレーターの演じ分けが素晴らしく、思わず引き込まれてしまうとのこと。

父フョードルと長男ディミトリーが、ひとりの女性を奪い合う近親憎悪のエグさが真に迫る感じで、ラジオドラマを聴くようにドストエフスキーの世界に浸れる。まだ2巻までしかないのが悩みどころという。

カラ兄は何度も読んで、今も読み返しているのだけれど、ラジオドラマのように聴けるのは知らなかった。2巻は、ゾシマ長老のところに兄弟たちが集まる場面が収録されているみたいだが、カラ兄の中で2番目に笑えるところなので聴きたいwww(一番笑えるのは、チキチキ!絶対に笑ってはいけないゾシマさんのお葬式)。

「愛と憎しみ」の作品リスト

テレビドラマ、マンガ、音楽、小説、オーディブルと、お薦めされた作品を紹介した。

他にも、ガチのホラーから、子ども向けの絵本の朗読、ミステリー、ファンタジー、SFなど、今回もたくさん集まった。「愛と憎しみ」というテーマ、最初は難しいと思ったけれど、皆さんのお話を伺っているうちに、どんどん芋づる式に出てくるのが嬉しい。

愛と憎しみは反意語のように扱われるが、けっこう近いところにいる。愛の反対は憎しみではなく無関心だとマザーテレサが言ったとか言わなかったとか。一方、憎しみの反対も愛ではなく無関心だろう。愛も憎しみもアドレナリンを放出し、強い感情でドライブする。

物語をドライブするのは愛憎にまつわる感情や行動だ。そういう意味で、物語になりやすい要素とも言える。このテーマに合うものは、源氏物語や聖書を持ってこなきゃダメかと思っていたけれど、もっと気軽に眺めるなら、そこら中にあるものなのかもしれぬ。

『モンテ・クリスト伯』アレクサンドル・デュマ(岩波文庫)
『ヴィンランド・サガ』幸村誠(講談社)
『Breaking Bad』(AMCテレビドラマ)
『からくりサーカス』藤田和日郎(小学館)
『ムーンフラッシュ』パトリシア・マキリップ(早川書房)
『ポルトガル短編小説傑作選』ルイ・ズィンク(現代企画室)
『マレー素描集』アルフィアン・サアット(書肆侃侃房)
『血ぬられた光源氏』藤本泉(アドレナライズ)
『春にして君を離れ』アガサ・クリスティ(ハヤカワ文庫)
『重力ピエロ』伊坂幸太郎(新潮社)
『プロジェクト・ヘイル・メアリー』アンディ・ウィアー(早川書房 )
『悪魔の手毬唄』横溝正史(角川文庫)
『償いの雪が降る』アレン・エスケンス(創元文庫)
『異端の肖像』より「生きていたシャルリュス男爵」澁澤龍彦(河出文庫)
『八ケ嶽の魔神』国枝史郎(講談社)
『ウェン王子とトラ』チャンジエンホン(徳間書店)
『失われた時を求めて』プルースト(岩波書店)
『哀れなるものたち』(エマストーン主演映画)
『フランケンシュタイン』メアリ・シェリー(光文社古典新訳文庫)
『偶然の確率』アミール・D・アクゼル(アーティストハウス)
『数字に弱いあなたの驚くほど危険な生活 病院や裁判で統計にだまされないために』ゲルト・ギーゲレンツァー(早川書房)
『子どものための哲学』永井 均(講談社現代新書)
『半神』萩尾望都(小学館)
『夜は一緒に散歩しよ』黒史郎(メディアファクトリー)
『PRIDE』今井美樹
『冗談』ミラン・クンデラ(岩波文庫)
『Under the Rose』船戸明里(幻冬舎コミックス)
『カラマーゾフの兄弟』フョードル・ドストエフスキー(オーディブル版)

 

オフ会の告知はここでしているので、気になる方はどうぞー
facebook:スゴ本オフ

 

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不安障害に『このすば!』、抑うつ状態に『ワンパンマン』、グリーフケアに『葬送のフリーレン』、パーソナリティー障害に『チェンソーマン』、処方箋としての物語『実践・アニメ療法』

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Bさんは30代前半の女性会社員。真面目一筋の完璧主義者で、勤務先の評価も高く、最近昇進したばかり。業務だけでなく責任が増え、仕事のチェックを任されるが、時間的余裕はなく、焦燥感とイライラがつのるようになる。会議の席でミスを指摘されたのをきっかけに、自分を許せなくなり、動悸、冷や汗、めまいの日々が続くようになり、ついに通勤電車で動けなくなる。

精神科医は、まず抗不安薬と休職を処方し、不安障害の急性期を乗り越えた後、アニメ療法を提案する。Bさんと相談し、『この素晴らしい世界に祝福を!』(このすば!)を用いてセラピーを開始する……

アニメ療法?

聞きなれない言葉だが、物語療法の一つとして、有力視されているという。受診者の体験や考え方を「物語」として捉え、それを見直し、再構築することで、心の負担を軽減するカウンセリングだ。

アニメ療法とは

アニメ療法は、アニメを活用して精神的・心理的なケアを行う新しいアプローチのこと。もともとは、「物語療法」が出自となる。

私たちは、生きていく上で何らかの信念を抱えている。この信念は人生を形成するテーゼとなり、周囲の人間関係や世界観を形作っている。通常なら自身を肯定するこの信念が、何らかの失敗体験をきっかけとして、自分を否定するようなものに変わったらどうなるか?

そんな経験は、皆さんもあるかもしれない。成績がふるわないとか、受験や就職に失敗したとか、仕事が上手くいかない、上司や同僚とのそりが合わない等、上手くいかないことが多々ある。

そうした失敗体験を「自分のせいだ」としてしまうことがあるかもしれぬ。自分の努力が足りないとか、性格が悪いからと、自分こそが問題の原因だと決め付けてしまう。この認識が次の失敗を招き、自己否定を強化するという悪循環に陥ってしまう。

このスパイラルから抜け出すためには、まず「自分=問題」という支配の物語から脱出する必要がある。カウンセラーは受診者との対話を通じて、支配の物語の元となっているものを探ると同時に、「自分」と「問題」を切り離して考えるように促す(これを外在化と呼ぶ)。

物語療法は、この脱出の手助けとなる。

いまの悪循環を直接書き換えるのではなく、まず、代替となる人生を、物語の形で提示する。受診者は、物語と比較しながら、自身の体験や考え方を「物語」として捉え、見直し、再構築することができる。

カウンセラーは、物語への感情移入を促し、キャラとの類似性を考えてもらい、キャラを通じて、受診者が抱えている問題の外在化を図る。自分の人生と直接向き合うのではなく、物語やキャラとの比較をしながら、自分と問題とは別物であり、問題には解決方法があることに気づくのだ。

物語療法は、元は小説や映画で用いられていた。このブログでも、以下のガイドブックを紹介している。

文学の手法を取り入れた医療『ナラティブ・メディスン』

鬱に効く映画『シネマ・セラピー』

アニメ療法は、この物語療法の流れを汲む。アニメの場合、一つのお話が30分と短く、小説を読むよりも手軽でエネルギーを使わなくて済む。デフォルメされたキャラや背景は、映画よりも情報量が少なく、物語に没入することができるという。

さらに、アニメであれば何でもよいというわけではないという。受診者と相談しながら作品を選ぶのだが、ポイントとしては「抑圧と葛藤で自己表現ができない主人公」が「何かをきっかけとして変身し、自分も含め環境を変えていく」ストーリーが含まれるものを挙げている。本書で紹介されている作品を見る限り、いわゆる「日常系」は入らなさそうだ。

『このすば!』によるカウンセリング

カウンセリングは、1回につき数十分から1時間程度、全部で7セッションに渡る。

セッションの序盤は、いきなり受診者に焦点を当てるのではなく、「物語の意義」がメインとなる。どんなお話だったか、好きなキャラと嫌いなキャラ、気に入ったセリフや、キャラの行動に賛成/反対するところを、自由に語ってもらう。

中盤になると、キャラの性格や行動と、受診者との共通点を探ることになる。「なぜ好き/嫌いなのか」「どうしてそう思ったのか」といった質問を投げかけ、自分の悩みと似ている点を、自身の言葉で語ってもらう(ただし、焦点は作品に当てる)。

さらにセッションが進むと、キャラがどのように問題を解決していったかに焦点を当てる。どのように悩み、葛藤し、克服していったかを参考にし、自身の悩みの軽減策を探っていく。どんな小さい例でも良いから、キャラの問題解決と似た出来事を思い起こしてもらう。

『このすば!』は、異世界転生モノの先駆けになる。運だけは強い主人公カズマと、いろいろと残念な女神アクア、Mっ気のある変態クルセイダーのダクネス、爆裂魔法を一日に一発しか撃てない魔法使いのめぐみんたちが織りなす、おバカでちょっとHなギャグアニメなり。

異世界ファンタジーだから、その世界での使命なり冒険が待っているもの。だがカズマはその日暮らしに明け暮れる。「魔王討伐」という分かりやすいミッションがあるのだが、ガン無視する。で、行き当たりばったりでなんとかなってしまうお気楽さと、ノー天気なスタンスが好き。

Bさんもカズマの「深刻に考えすぎない性格」や「失敗しても前向きに受け止める楽観的なところ」を評価する。構えず、気軽に人と話せるところを、自分には無いものとして受け止めている。

カウンセラーは、「物語でのカズマたちの失敗」と、Bさんが「現実の自分において失敗だと感じていること」の違いに注意を向ける。そこでBさんは、失敗という出来事ではなく、失敗の感じ方がカズマと違うことに気づく。

「カズマは自分のことを笑えるんですよね、皮肉屋さんだから。悲しい出来事も茶化したりして、アクアは他人の間違いを許せることがすごいと思います。他人の不完全なところを受け入れられるのが。 自分の間違いだけではなく、他人の起こしたトラブルに巻き込まれても受け入れて……」

出来事そのものが決定的なのではなく、その反応を変えることができたなら、カズマのように深刻に考えずに済むのではないか、と考えられるようになる。

さらにセッションを重ね、物語の出来事を話し合ううちに、『このすば!』は、魔王討伐というメインクエストから外れて、サブクエストだけで構成されており、「脱線してもいいし、そっちの方が楽しいよ」というメッセージが込められていることに気づく。

そして「頑張らなくてもいい」というスタンスになるためにどうすればよいかを、カズマが解決してきたクエストと、自分の現実とを比較しながら考えるようになる。

アニメ療法の例

カウンセラーは、物語にあるテーマや教訓を押し付けるのではなく、「その物語からどう感じたか」について、受診者と一緒になって考える。

  • 目標を見失って無気力になっている学生と、どんな敵でもワンパンで倒せるが故にヒーローとしてのモチベーションを喪失しているサイタマとの共通点を考える
  • 最愛のペットを失って日常生活に支障をきたすほど悲しむ女性と、「なんでもっと知ろうと思わなかったんだろう」と嘆く魔法使いフリーレンの気持ちを考える
  • 切り詰めた生活からイライラが募り攻撃的になっている男性と、「なぜデンジがこれほどまでに騙されやすいのか」を考える

私がアニメを見るのは、「面白いから」というだけかもしれない。だが、こうした事例を通じて考えると、私のどこかでアニメに救われているものがあるのではないか?と感じられる。

私自身、『このすば!』のノー天気さに爆笑して「頑張らなくてもいい」と思えた瞬間がある。あるいは、フリーレンの嘆きを自分に当てはめて、「後悔だけはしないように」と考えるようになっている(ちなみに、フリーレンを観た後、意識して妻様との会話の時間を長くするようになった。おそらく私もしくは妻様が死ぬとき、「なぜもっと一緒の時間を過ごさなかったのだろう」と嘆くだろうから)。

アニメ療法は良いことだらけのように見えるが、課題もあるという。

まず、アニメの選定が難しいこと。メンタルがやられると、アニメを30分見るということすら難しくなる(ましてや1クール見るのは大変すぎる)。この場合、短いアニメにするか、受診者が過去に見た作品にするといった対策があるという。

さらに選んだアニメで失敗する場合もある。いじめによるトラウマがある受診者に『聲の形』を紹介したり、うつ病を患っている人に『宝石の国』を薦める例が出てくるが、むしろ悪化しないか心配になる。

また、保険診療の対象になっておらず、自費診療なのが現状になる。アニメ療法の有効性を示すエビデンスが十分に確立されておらず、標準的なプロトコルや医療行為としての法的枠組みもできていない状況だ。

課題はあるが、アニメならではの親しみやすさや、既存の物語療法との親和性など、メリットもある。VRやAIと組み合わせてインタラクティブ性を持たせ、オンラインカウンセリングにも応用できるだろう。

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「なぜ小説を読むのか」という問いへの応答としての『小説』

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なぜ小説を読むのか?

面白いから?

現実を忘れられるから?

主人公から勇気を、物語から興奮をもらえるから?

「この物語」について誰かと話し、あふれ出る気持ちを伝えたいから?自分の意見を代弁させる作品を声高に叫びたいから?

小説を読むことで、物語中の誰かとなり、別の時代、別の場所に生き、見たことのない景色、感じたことのない経験をして、戻ってくる。読む前の「私」と違う存在となる。

単なる娯楽とするならば、映画やゲームや音楽など、他のメディアでも得られる。文字だけで世界を構築することで語彙力を増やし、想像力と創造性を高め、キャラクターへの共感性や描写への感受性を向上させる。

そういう「実利」のために、小説を読むのか?

読むことで得られる「なにか」のために、読むのか?

受け取るだけなのか?

小説から貰えるものを貰えるだけもらって、何も返さないのか?

読んでいるあいだ、物語の中にいる間だけは、形を保っていられる。なぜなら、自分は空っぽであって、中には何もないからだ。代わりに物語が、キャラが、描写が、そこから得られる感情が詰め込まれている。だから、読んでいないときはぐにゃぐにゃで、泥のような存在となる。

だから読む。

読んだもの、自分の中に取り入れたものは、返さない。

ただ読むだけ。

ただ読むだけではダメなのか?

こうした諸々の疑問に対し、一つの小説の形で応答したのが、野崎まどの『小説』だ。念を押すが、『小説』というタイトルの小説だ。

物語が無かったころ、人生は一度きりだった。「もうああだったならば」「こう生きることもできた」という数々の後悔への反発であり、貴族としても犯罪者としても生きる可能性を示し、遠い未来の外宇宙も旅することもできるし、戦国時代の将として活躍することだってできる。男でも女でも人間以外にもなれる。

小説は人生の一回性に対する抗議として書かれたともいえる。小説のおかげで一生が二生にも三生にもなった。現実の、「運命」で片づけられる現象への反抗として、不完全で儚いヒトの記憶への対抗として、小説は書かれ、読まれた。

そういう可能性を、見事な形で小説にしたのが『小説』だ。

あらすじは野暮というもの。

前情報を抜きにして、直接、向き合ってみてほしい。

まさに、私のために書かれた小説が『小説』だ、と強烈に感じるだろう。

本書を手にしたのは、Asylum Pieceさんのこのtweetのおかげ(ありがとうございます!素晴らしい体験でした)。

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めちゃくちゃ笑った後で「美とは何か?」「ホンモノとは?」と悩まされる『モナ・リザのニスを剥ぐ』

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「チェーホフの銃」という小説技法があるが、これは大砲だった。

「序盤で銃を出したら、それは発砲されなければならぬ。さもなくば最初から出すな」というお約束だ。ストーリーの早い段階で導入された要素は、後々になってその意味なり重要性が明らかになるというやつ。

そういう意味では、この作品は銃だらけだ。

「モナ・リザ」のニスを剥ぐという、ルーブル美術館始まって以来の歴史的なプロジェクトが物語の主軸となる。ただし、そこに集まってくる人たちが癖だらけでなかなかに危うい。

カネの亡者でビジネスチャンスとする館長、巧緻の限りに世論操作に奔走するマッキンゼー&カンパニーの面々、カリスマ天才修復士と美人妻(2名)、モナ・リザにガチ恋してしまった清掃員など、どいつもこいつもヤバい奴らだ。

でも、「モナ・リザ」のニスを剥ぐとはどういうことか?

実は、「モナ・リザ」には何層ものニスが塗られている。作品を保護するためなのだが、同時に、色鮮やかにする効果もある。だが、長い時間の経過により、ニスが変質して作品を緑がかった暗い色にしてしまっている。ニスの上塗りで発色は良くなるのだが、一時的なものだ。

だから、繰り返し塗られたニスの層により、私たちが見ている「モナ・リザ」は暗い霧の奥にいる。

これを救い出そうとする試みは何度も検討されてきた。だが、経年劣化でひび割れだらけのポプラ板や、顔料層を傷づけるリスクが大いにあった。歴史的・文化的な価値が極めて高く、現実のルーブル美術館は、修復を避け、温湿度が管理された特殊なケースの中での保存を優先している。

だが、フィクションのルーブル美術館長は、カネ儲けの為に、主任学芸員オレリアンに命じる「やれ」と。古きよきものを愛する彼だけがまともに見えるのだが、いささか心もとない。修復に反対する世論、返還の要求をし始めるイタリア、政府や国家を巻き込んだ騒動に巻き込まれ、絶対に失敗してはいけないプロジェクトを任される。

この「絶対に失敗してはいけないプロジェクト」というのがミソで、こんなん、小説作品として描かれるなら、「押すなよ、絶対に押すなよ!」に決まってるじゃん。登場してくる連中はほぼ全員どこか変だし、なにかやらかしてくれる予感しかしない。

そういう意味でチェーホフの銃だらけなんだけど、すごい意味で裏切られてよかった。銃じゃなくて大砲に撃たれ、息できなくなるくらい笑って涙で読めなくなった。

これ読む人へのアドバイス。手元にスマホがあるといいかも。

「なぜスマホ?」といぶかる方もいるかもしれないが、要所要所に美術作品が散りばめられており、検索したくなるはずだから。

カネの亡者の館長はユレヒトの「リューベックの若き女性の肖像」になぞられ、文化省の官僚に呼び出されて行く先にはピュランの円柱が立ち並ぶ。ポンピドゥーセンターの醜悪さのネタは何度も擦られ、メッシーナの「受胎告知」のポーズがハマるシーンもあれば、『太陽がいっぱい』のアラン・ドロンのサングラスも出てくる。著者によるオマージュやトリビュートの遊びだけれど、検索して見ると、小説内描写と不思議とピタリとハマるだろう。

スマホの小さな画面にスクロールされる膨大なコンテンツがある。youtubeのまとめ動画と、ルーブル美術館に展示されている名画が、同じサイズのサムネイルで並んでいる。その中で「モナ・リザ」はどのように位置付けられるのか。ルーブル美術館やダ・ヴィンチの業績といった歴史的文脈から切り離され、視覚の洪水の中でアイコンとして見える「モナ・リザ」は、あの笑顔でなければならない―――そう感じるかもしれぬ。

同時に、私はなぜ「モナ・リザ」が好きなんだろう?「モナ・リザ」の何を美しいと感じているのだろう?とマジ考えさせられた―――本書をラストまで読めば、答えはすぐに思い至るのだけれど、それって本当に「美」なのだろうか?という恐ろしい疑問が待っている。




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あなたの推しを熱く語る読書会(テーマ:愛と憎しみ)2/8(土)にやります

好きな本を持ち寄って、まったり熱く語り合う読書会、それがスゴ本オフ。本を介して人を知り、人を介して本に会う読書会だ。

本に限らず、映画や音楽、ゲームや動画、なんでもあり。なぜ好きか、どう好きか、その作品が自分をどんな風に変えたのか、気のすむまで語り尽くす。

見ている人から「私も好きでした!」なんて推し仲間が増えたり、「それ好きならコレは?」なんて新たな世界が広がったり、フィードバックの即時性もいいところ。

今回のテーマは「愛と憎しみ」。このキーワードでピンときた推しを持ってきてほしい。

日時 2/8(土)13:00-17:00
場所 HENNGE 11階ラウンジ
参加費 1,000円(軽食をお出しします)
事前登録 紹介する本は事前にこのアンケートに登録してしてくれると嬉しい(実況する私が楽したいので)

 ※途中参加・途中退場OK、「見るだけ参加」もウェルカム
 ※当日はtwitterのハッシュタグ#スゴ本オフで実況するよ

過去の様子はこんな感じ。

「食とエロ」の回。本好きはえっちで食いしんぼう

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「遊び」の回。ボードゲームやゲームウォッチが集まった

Play19

「お金」の回。お金持ちになる方法からお金で苦労する話まで

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流れはこんな感じ。

  1. テーマに沿ったオススメ作品を持ってくる
    推しは、本(物理でも電子でも)、映像(映画や動画)、音楽、ゲーム(Switchからボドゲ)など、なんでもあり。持ってきたものは並べておきます。

  2. お薦めを1人5分くらいでプレゼンする
    推しへの愛を存分に語ってほしい。刺さったところを音読するもよし、自己流の解釈もよし。DVD、ブルーレイ、Youtube はプロジェクターで再生するぞい。

  3. 放流できない作品は回収する
    「放流」とは本の交換会のことで、交換できない貴重な作品や図書館から借りた本は、ここで持ち主の手元に戻る。

  4. 交換会という名のジャンケン争奪戦へ
    回収が終わったら、交換会になる。「これが欲しい!」と名乗りをあげて、ライバルがいたらジャンケンで決める。ブックシャッフルともいう。

このブログの右下あたりに、過去のスゴ本オフのレポートがあるので、それを参考にしてみるのもいいかも。

では皆さま、ご参加をお待ちしております。

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傑作を名訳で『アメリカン・マスターピース 準古典篇(柴田元幸翻訳叢書)』

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名作オブ名作。

単に素晴らしい作品と称されるだけでなく、時代を超え場所を超え、普遍的に良きもの、「〇〇といえばこれ」とまで言える傑作を、敬意をこめて「マスターピース」と呼び、集めたものがこのシリーズだ。

なので、知ってる作家なら知っている作品だと思いきや、未読を並べてくれるのが嬉しい(私の見聞不足かもしれないが)。パワーズ、オースター、エヴンソン、エリクソンと、この人のおかげで出会えた傑作も数知れず、感謝しかない。多くの小説を翻訳し紹介してきた柴田元幸が推すから信頼できる。

ヘミングウェイ「インディアン村」

私にとって衝撃的だったのが、ヘミングウェイの短編「インディアン村」だ。いろいろ読んできたつもりだが、これは読んでいなかった(つまり、これが収録されているデビュー作『われらの時代』を読んでなかった)。

形容詞を徹底して排し、簡潔で、ぶっきらぼうに紡がれる物語は、一見、何が起きているのか判別しがたく感じられる。だが、会話の端々や、主人公が「見ているもの」を注意深く読み解くと、蠢いている感情やドス黒い苦悩に、直接、触れことができる。

原文は平易で簡素で、難しい単語はほとんどないのに、この機微を汲むのが難しい(つまり、私の英語力が足りない)。原文で読んでもピンとこなかったこの感触を、見事な訳文で伝えてくれる。

少年がある出来事を眺めるシーンがあるのだが、原文の ”It all took a long time.”「何もかもすごく時間がかかった。」と訳しているのが凄い。彼が何に立ち会っているのかは、父が医師であることと、それまでの短い会話から理解できる。

しかし、具体的に少年が見ている人の姿勢や動き、使われているモノについての描写は、一切ない。会話と動作を手がかりに、「何もかも」を想像するほかないのだが、それがめちゃくちゃ生々しい。書いてあることで書いてないことを掻き立てるスタイルについて、ヘミングウェイは最強なのかもしれない。

フォークナー「納屋を焼く」

「納屋を焼く」は、緊張感に満ちたフォークナーの短編だ。寝る前のお楽しみに、布団の中で一篇ずつ読んでいたのだが、これだけは読んでいるうちに布団から出て座りなおした。

破壊的な父とその支配に抗う息子との葛藤を縦軸に、家族の絆と正義の問題、アメリカ南部の階級社会間の対立が織り込まれている。

フォークナー、肝心なところは目的語を省いたり、動作や断片的な会話だけで炙り出そうとする。切羽詰まった状況なのに、どういう危機が迫っているのかを掴むため、何度も同じところを繰り返し読むことになる。読みやすく、流れるような文体なので、もどかしさは一層つのるような仕掛けになっている。

破壊と再生の象徴的な火、すなわち納屋を焼く炎は直接的には描かれないものの、シルエットのように絶望を浮かび上がらせている。

かつて、「アメリカン・ドリーム」と呼ばれていた自由とチャンスの国は、現在、極端な貧富の格差や不平等といった問題に直面している。

でもこれ、フォークナーが100年前に描いた姿と本質的に変わっていないように見える。テクノロジーや経済の進歩がある一方、根本的な不平等は構造として残り続けていることが分かる。フォークナーを【いま】読むのは、この怒りの炎が現在でも燻り続けていることの確認かもしれぬ。

ラルフ・エリスン「広場でのパーティ」

これはすごい。

ひとりの黒人を、集団の白人がリンチする一部始終を物語ったものなのだが、その語られ方がすごい。

広場に集まった白人たち(銃で武装している)と、その視線に晒され、縛られ、ガソリンをかけられる黒人の様子が、一人の少年の目を通じて語られている。残虐な行為が、まるで日常の延長の非日常―――お祭りかパーティのように、淡々と「普通に」語られている。

白人たちの一人一人の顔と名前はハッキリと区別され、普段の良き市民としてのエピソードが語られているのに、「パーティ」の間は興奮した一つの群衆として扱われ、非人間的なものとして描写される。

しかも、「パーティ」は暴風雨に見舞われ、飛行機が墜落し、衝撃で電線が切れ、白人女性が感電死する。白人の焦げ臭い肉は淡々と処理された後、人々は再び、燃え上がる黒人男性を取り囲む。この、異常なものを普通に語るディストピア感がすごい

そして、この舞台設定となった1920年代からまだ100年しか経っていないことにも注意を向けるべきだろう。人種差別や階級間の対立は今なお続く構造的な問題であり、黒人やマイノリティを「敵」として描くスケープゴート化は、歴史的に繰り返されてきたことを改めて思い知らさせてくれる。

他にも、有閑マダムのマウンティングが意外な過去を暴くウォートン「ローマ熱」や、ユーモアすれすれのグロテスクな運命を描いたウールリッチ「三時」など、読ませる名作ばかりが並んでいる。

シャーウッド・アンダーソン「グロテスクなものたちの書」
アーネスト・ヘミングウェイ「インディアン村」
ゾラ・ニール・ハーストン「ハーレムの書」
イーディス・ウォートン「ローマ熱」
ウィリアム・サローヤン「心が高地にある男」
デルモア・シュウォーツ「夢の中で責任が始まる」
コーネル・ウールリッチ「三時」
ウィリアム・フォークナー「納屋を焼く」
F・スコット・フィッツジェラルド「失われた十年」
ラルフ・エリスン「広場でのパーティ」
ユードラ・ウェルティ「何度も歩いた道」
ネルソン・オルグレン「分署長は悪い夢を見る」

最後に。フィッツジェラルドについては、傑作と名高い「リッチ・ボーイ」「バビロンに帰る」ではなく、「失われた十年」が収録されている。編訳者あとがきによると、「リッチ・ボーイ」「バビロンに帰る」は、村上春樹が既に名訳をものにしているため、自身で訳し直すことに意義が持てなかったからだという。フォークナーの「あの夕日」も同様で、平石貴樹による翻訳が無かったら、「納屋を焼く」とどちらを選ぶかで迷ったと述べている。

これ、見方を変えるなら、「リッチ・ボーイ」「バビロンに帰る」が収録されている『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』や、「あの夕日」が収録されている『アメリカ短編ベスト10』が、次のお楽しみとなるに違いない。



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統計の「正しさ」とは何か『統計学を哲学する』


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確率・統計についてモヤモヤしているこの感覚、伝わるだろうか。

コイン投げで喩えるならこうだ。

  • コインを投げ続けると、表と裏の出る数は、同じ回数に近づく ←分かる
  • 次にコインを投げると、表が出る確率は1/2だ ←分からない

歪みのないコインを投げ続けたデータを見ると、表が出る確率は1/2に近づいていくだろうが、それは次に表が出る確率が1/2であることを意味しない。この2つは違うものなのに、同じものとして扱われてることにモヤモヤする。

もちろん、この発想は一般的ではないことは承知している。だから公言せずに独りでモヤモヤしていた。現実世界から得られたデータを数学的に裏付ける統計学こそが最強の学問であり、「科学的に証明された」とは「適切な統計的処理により結論にお墨付きが出た」と同義だと自分を納得させてきた。

ところが、このモヤモヤ、私だけではないらしい。本書を読むことで、私がどこで間違えていたかが分かった……と同時に、このモヤモヤこそが統計学を哲学する箇所であることも見えてきた。

富くじのパラドックス

私は、「コインをたくさん投げて得られた」統計データの話と、「理想的なコインならこんな結果になるはずだ」という理論上のモデルの話を混同していたのだ。

  • 観測されたデータから導かれる傾向に基づく「統計モデル」
  • 理論的な仮定を前提として数学的に導かれる「確率モデル」

両者の違いは、富くじのパラドックス(lottery paradox)だと、見えてくる

 富くじのパラドックス

  ・100枚のくじがある

  ・あたりは1枚で、残り99枚ははずれ

  ・100人に対し、くじを1枚ずつ配る

観測されたデータから判断する統計モデルでは、一人一人のくじを独立した事象と見なす。そのため、「その人が持っているくじが外れである確率は99%」という判断を下すことになる。

ベイズ統計を用いると、事後確率は0.99になる。もし「事後確率0.99以上はその仮説が正しいと判断する」というルールを採用するならば、「その人が持っているくじは外れである」となる。

この評価は個々のくじに対するものであり、全体(1枚はあたりがある)ことが反映されていない。統計モデルからすると、100人の全員に対して「はずれ」と判断しても、問題ないことになる。だがこれは、前提と矛盾する。

一方、確率モデルでは「あたりは1枚ある」ことを前提に確率を計算する。100人全てについて、「あたりを持っている確率」を再分配する形で考え、観測データに基づいて「ある人がはずれである確率が高い」という情報を更新しつつ、「誰かはあたりである確率が存在する」ことを維持していく。

いま、「100枚のうちあたりは1枚」という前提で話しているが、実際に統計が適用されるのは現実だ。くじの総数もあたりの数も分からないし、引いた結果が必ず出るとは限らない。それにもかかわらず、「確率99%」は「確率100%」で正しいとしてしまっているのではないだろうか

「いや、99%と100%は違う」というツッコミはあるだろうが、くじの数を一億枚に増やしてみよう。はずれる可能性は99.999999%になる。もちろん現実での統計値は、1億回も取れない。

統計の「正しさ」とは何か

この、統計で「正しい」とはどういうことか?

この疑問に正面から答えたのが本書だ。推定値の偏りのなさや帰無仮説の判断、尤度やp値など、統計学の「正しさ」を掘り下げていくと、認識論的に「正しいとは何か」という哲学の問題になる。言い換えるなら、「統計学はなぜ哲学の問題となるか」という疑問に対し、統計学と哲学の両方から迫ったのが本書だ。

また、一口に統計学と言っても、それは一枚岩の理論を指すわけではなく、ベイズ主義や頻度主義といった様々な理論が含まれる。それぞれにおける正当化のアプローチは異なっており、数学的な証明には還元されない哲学的な問い(=調査の対象となる世界がどのようなモデルとなっているか?)が待ち構えている。

一方で、「『正しさ』なんてどうでもいい、次の予測ができればいい」というプラグマティックな立場もある。世界の正しいモデルを追求するよりも、次のコインの裏表が分かればいいという深層学習からのアプローチだ。では、AIから得られた結果は「正しい」と呼べるのか?呼べるのであれば、何を根拠に正当化されるのかといった問題がある。

ベイズ主義、頻度主義、深層学習といった理論や技法を横軸とし、それぞれの正当化の根拠を掘り下げ、統計学と哲学の限界がどこにあるかを明らかにする。

例えばベイズ主義の場合。ベイズ統計は、仮説やモデルそのものを正当化しない。代わりに、そのモデルを前提として、仮説やパラメータがどれだけ妥当なのかという信念を、観測データに基づいて更新していく。

その結果、「どのモデルが観測データに適合するか?」といった比較検討にも適しているといえる。しかし、これは「どのモデルが『正しい』か?」というよりも、むしろ、「どのモデルが観測データを最もよく説明できるか」という話になる。

これは、ぶっちゃけ「正しさ」とは、観測データと既存の理論との整合性に還元されているのかもしれない(乱暴すぎるかも)。つじつまが合うようにモデリングして、それまでのデータや理論の蓄積とより整合性が取れている数値を、「正しい」とみなしているのではないか……と懸念する。

この「正しさ」を一歩間違えると、再現性の危機や研究グレーの世界になる。[科学研究はどこまで信用できるか]で書いたが、「正しさ」をはき違える例は枚挙にいとまがない。

テセウスの船のパラドックス

モヤモヤの奥にあるものが、テセウスの船の喩えだ。

  1. テセウスが乗っていた船を構成する板は一枚ずつ新しい板に交換される
  2. すべての板が交換された後、その船は元の船と同じと言えるのか?

「同一性とは何か」を提起する哲学の問題なのだが、これを科学研究の在り方についてなぞらえている。科学者とはテセウスであり、自分が乗っている理論(=船)で研究を続けていく。新たな観測データや、別のモデルや仮説、解釈に合わせて、元の理論との整合性を取りつつ、部分修正していく必要がある。

たとえ損傷が激しくても、船を降りて、いわば外側から全体をオーバーホールすることはできない。乗り続けたまま、補修していくほかはない。

私がモヤモヤしているのは、整合性を取っている箇所になる。

科学者は、新たなデータや仮説と、現在の理論と合っていない箇所の整合性を取ろうとする。つまり、新しい部分と理論が関連している箇所だ。いわば船の外壁に近く、海という現実に接している部分だ。

そして、船の内側に行けば行くほど、「実績がある」とか「証明済み」として顧みることがなく、その定数や方程式は、パラダイムシフトでもない限り検証されない(むしろ、その定数や方程式に整合するように、解釈やモデルが改変されるといっていい)。

しかし、その内側の部分に、「確率99%」で正しいとしてしまっている箇所があるのではないか?事実としては「1枚あたり」があるはずなのに、見落とした仮説が混ざっているのではないかと考える。

その結果、理論の継ぎはぎでは整合性が取れず、理論と合わないどころか、矛盾したデータが無視できないほど出てきたため、「黙って計算だけしてろ」と開き直る科学者まで登場する始末だ。

この検証をするためには、最新のデータで理論全体を内側から再テストする必要がある。ただし、できるのは船に乗っている科学者ではない存在―――充分な計算量と膨大なデータ処理能力を持ち、人のバイアスからフリーであるAIにやってもらうと面白いかもしれぬ。

ただし、そうした検証が可能だとして、出てきた結果の何をもって「正しい」とするのかという泥臭い問題は、相変わらず哲学の領域に残されている。



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