ヨーロッパ文学の継承者としてのラテンアメリカ文学:磯﨑憲一郎・寺尾隆吉トークイベント

ラテンアメリカ文学の位置づけが目ウロコだった。

「面白そうなものを読む」という動機で、言語や文化にかまわず手を出してきた。文学の美味なるところをつまみ食いした自覚はあるものの、どうやってこの出汁が取れたのかは分からない。小説技法やテーマ、物語構造は、世代や社会を超えて受け継がれていくものだが、それがどのように行き渡ってきたのかは、皆目見当がつかなかった。

そんな私にとって、ラテアメ文学の立ち位置が示されたこの対談は、大変ありがたいものだった。

ヨーロッパ近代文学の継承者

ラテアメ文学は、いわゆる「ブーム」のように扱われがちだが、全く異なるという。

確かに、昭和の終わりのマジックリアリズムの流行と、令和の初めの『百年の孤独』文庫化のお祭り騒ぎは、一時的な熱狂のように見える。

しかし、これは(日本から見た)表面的なものだという。ラテンアメリカ文学は、むしろ文学の継承者だというのだ。

20世紀の後半はヨーロッパ近代文学が終焉を迎えた時代になる。ロブ=グリエやミシェル・ルトールといったヌーヴォー・ロマン系は、実験小説の袋小路に入り、「つまらない」「中身がない」と言われる局面にあった。

この行き詰まりを打破したのが、ラテンアメリカ作家の五人衆(マルケス、ジョサ、ドノソ、コルタサル、フエンテス)だという。ボルヘスが翻訳したフォークナーを読み、同時にウルフやカミュやサルトルを通じて、ヨーロッパ近代文学を受け継いだ五人衆になる。

つまり、ラテンアメリカ文学は、辺境からの突然変異ではなく、近代文学の正統な後継者という視点だ(これは寺尾隆吉氏の近著で詳説されているという。読んでみよう)。

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この視点のおかげで、色々と腑に落ちる。

例えば、フォークナーが作り上げた、土地・歴史・血縁・暴力が複雑に絡み合うヨクナパトーファのサーガは、マルケス『百年の孤独』のブェンディア一族のサーガにつながっている。もちろん両者は異なるが、同じ「血」が流れている物語のように感じられる。

他にも、ウルフ『灯台へ』における、1人称でも2人称でも3人称でもない、無人称とでも呼ぶべき描写は、『族長の秋』や『予告された殺人の記録』に受け継がれているという。『灯台へ』は未読なので、答え合わせが楽しみだ。

「現実と虚構を対比させる」←この枠組みそのものが揺さぶられ、行き詰まっているのがヨーロッパ近代文学なら、そのリアリズムが取りこぼしてきた現実を、「そもそも現実とは何?」と問い返す試みが、マジックリアリズムだったのかもしれぬ。

この、ヨーロッパ文学の継承者としてのラテンアメリカ文学という

新しい世代として思い浮かぶのは、グアダルーペ・ネッテルや、マリアーナ・エンリケス、エルビラ・ナバロ、サマンタ・シュウェブリンになるだろう。

いくつか読んで感じるのは、狂気が自然現象のように語られることや、政治的トラウマが通底音のように響く点だろうか(『寝煙草の危険』『花びらとその他の不穏な物語』)。

巨大な物語が解体されたと言われて久しい。だが、解体された物語がどこへ行ったのかは分からない。もし、ヨーロッパ文学の後継者としてラテンアメリカ文学を位置付けるなら、解体された物語は、より私的で身体的で、不穏な領域に引き受けられているように見える。

「黄色」の秘密

他にも、『十二の遍歴の物語』なら「聖女」が一番好きという話や、『百年の孤独』で黄色い蛾をまとうマウリシオが印象的なのに、登場するのはたった数頁という驚き(←私も同感)など、様々なネタがあり、あっという間の2時間だった。

質問コーナーは無かったが、終了後、寺尾さんをつかまえて、長年の謎をぶつけてみた。読書会で謎だった「黄色」についてだ。

Q.『百年の孤独』に「黄色」が象徴的に使われています。日本でピンク映画、米国ならブルーフィルムのように、色に込められた文化的な意味があります。作中に散りばめられている黄色には、ラテンアメリカ圏でどんな意味があるのでしょうか?

・不眠症の仔馬
・ マウリシオが連れている蛾
・ 小町娘のレメディオスに捧げられる薔薇
・ マコンドに最初にやってくる汽車
・ 葬式の朝、マコンドじゅうに降る花

A.「幸せ」という意味かもしれませんね。ホームパーティに呼ばれるとき、黄色いアイテム―――ハンカチとかボールペンとか―――を身に着けてきてね、と言われることがあります。黄色いものを身に着けておくと、願いが叶うと言われています。

なるほど!いわゆる「幸せの黄色いハンカチ」のような、一種のゲン担ぎかもしれぬ。「今日のラッキーカラー」のような、めざましテレビの占い的なものだと考えると、親近感がわく。

地球の反対側のラテンアメリカ文学が、急に身近に感じられる一夜だった。

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人生の手遅れ感を養う3冊

万人に手渡せる「人生を変える運命の一冊」という魔法のような本は無い。人にもよるし、タイミングも重要だ。

ただし、人生の見方を一変させるような本はある。

強制的に生き方を振り返り、「これでよかったのか?」という疑問を投げかけ、自分が自分に吐き続けてきたウソと向き合わされる。

ずっと正しいと信じてきたことが間違いで、それを認めざるを得ない状況に追い込まれる。素直になればいいのに、できない。過ちを認めることは、それまでの人生を否定することになるから―――そこで、どういう決断をするか?

有名なのはスクルージだろう。

ディケンズの『クリスマス・キャロル』に出てくる、高慢で傲慢なエゴイストだ。財を築き、社会的にも成功しており、「正しい人生」を生きてきたと信じていた。

だからこそ、過去・現在・未来を強制的に見させられ、自分が積み上げてきたものが誤りだったかもしれない―――その可能性を突き付けられる。これを受け入れることは、単なる後悔や反省を超えた残酷なものになる。自分の人生そのものを、根こそぎ問い直すことになるからだ。

スクルージは逃げ道を塞がれ、選択を迫られた。「選択をしない」という選択はできなかった。だから人生を変えることができた、とも言える。

多くの人は、スクルージを見て、「私はこんなヤツとは違う」と感じるだろう。ストーリーの都合により戯画化され、前半に冷酷であるほど、ラストの涙は尊く見える。

しかし、私こそがスクルージであることに気づかされる―――そういう作品が存在する。そればかりか、選択しなければならないのは、他でもない私の人生なんだということを、強制的に思い知らされる。

人生の「手遅れ」感に苛まれる『タタール人の砂漠』

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ある種の読書がシミュレーションなら、これは人生の「手遅れ感」の予行演習になる。

この感覚は、カフカ『掟の門』のラストだ。かけがえのない人生が過ぎ去って、貴重な時が自分の手からこぼれ去った、あの「取り返しのつかない」感覚に呑み込まれる。

大事なことは、これから始まる。だからずっと待っていた。ここに来たのは間違いだから、本気になれば、出て行ける。けれど、もう少し様子を見ていた......習慣のもたらす麻痺が、責任感の強さという虚栄が、自分を飼いならし、日常に囚われ、もう離れることができない―――気づいたらもう、人生の終わり。

わずかな残りの時間ぜんぶを使って、後悔しながら振り返る。

そして、なにか価値があることが起っているのに、自分は一切関与できない、それも自分から動こうとはしないために。そういう焦りのようなむなしさに苛まれる。そうやって、じっと待ち続けるあいだにも、時は加速度的に、容赦なく流れ去る。

だが、遅すぎた。何も始まっていなかった人生であることを、人生の最後になって知るということは、なんと残酷なことか。これが、自分の人生でなくてよかった。確かに日々は短調な積み重なりにすぎず、むなしく時が流れてゆくのみ。

期待と、言いしれぬ不安と、焦燥の中で宙吊りになった苦しみから解き放たれるような「なにか」を待つのが日常である限り、いつまで経っても、自分の人生は始まらない。

若い人こそ読んで欲しいが、分からないかもしれない。だが、歳経るごとにダメージが増加し、40超えたら大ダメージになる。手遅れにならないうちに、読んでおきたい。

日々の積分が人生であり、私の命を微分すると「今」になる。だから、今を蔑ろにするということは、私の命を無駄にすることになる。

自己欺瞞が暴かれるとき『春にして君を離れ』

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自分が自分に吐くウソ―――これに気づくのは難しい。

誰かの矛盾を突くのは簡単だし、マスコミの不備を指摘するのは易しい。だいたい『言葉』や『記憶』こそあやふやなもの。しかし、そんな私が最も疑わない―――あらゆるものを疑いつくした後、最後に疑うもの―――それは、自分自身だ。

私は、自分を疑い始めるのが怖くて、家族や周囲に注意を向けて気を紛らわしているのかもしれない。自己正当化の罠。

では、こうした日常の諸々から離れたところに放り出されたら? たとえば旅先で交通手段を失い、宙吊りされた場所に居続けたら? 読む本も話し相手もいないところで、ひたすら自分と向き合うことを余儀なくされたら?

そんな中年女性が主人公だ。クリスティーにしては異色作、誰も死なないし、犯人もいない。中年の女性の旅先での数日間が、一人称で描かれる。

しかし、暴かれるものはおぞましい。読み手はきっと自分になぞらえることだろう。

最初は、直近の出来事を思い出し、何気ないひとことに込められた真の意味を吟味しはじめる。それは次第に過去へ過去へとさかのぼり、ついに自己欺瞞そのものに及ぶ。

  • 私は人格者であり、人生の成功者だ
  • アイツのような惨めな境遇ではない
  • パートナーのダメな部分は、私が正してやらないと

こうやってリストアップすると、この女の「自己中心」が見える。しかし、それは「ほんとう」なのだろうか?疑いはじめるとキリがない。自分の人生が蜃気楼のようなものだったことに気づく恐ろしい瞬間が待っている。

「自分の人生」を生きなかった男の末路『セールスマンの死』

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かつては敏腕セールスマンだったが、今では落ち目の男が主人公。

家のローン、保険、車の修理費、定職につかない息子、夢に破れ、すべてに行き詰まった男が選んだ道は――という話。だれもが自由に競争に参加できる一方で、競争に敗れたものはみじめな敗者の境涯に陥るアメリカ社会を容赦なく描き出している。

見どころは、このセールスマンの葛藤。

前向きで、強気で、ひたむきだ。人生の諸問題はプラス思考でなんとかなると押しまくる。今で言う「ポジティブシンキング」の成れの果てを突きつけられているようだ。自分に都合よく現実を解釈し、自らを欺き続ける主人公への違和感は、そのまま自分の人生への違和感になる。

そしてついに、目を背け続けてきた現実が、過去が、彼をつかまえる。自己欺瞞が徹底的にあばかれるとき、読み手は思わず自分を振り返りたくなる。私の人生はカラッポなんかじゃないって。同時に、彼がおかしい――いや、狂っているのかどうかも分からなくなってくる。いっそ「狂気」のせいにしてしまえれば救われるのに、と願いながら読む。

興味深いのは、彼が何を「売って」いるのかという謎だ。

戯曲では、彼が持ち歩くサンプル・ケースの中身は明らかにされていない。彼が売っているのは委託された商品などではなく、「自分そのもの」であるという解釈が適切だろう。成果や結果を期待されながらも、結局は時間を切り売りしているわたしにとって、この解釈は痛い、痛いぞ。

彼の狂気が私に同期する。彼の絶望が私に浸透する。

「お話」と分かってはいても「ひとごと」ではないのだ。終盤、追い詰められれば追い詰められるほど、全てを捨てて、やり直したくなる。リセットへの誘惑の演出がまたいい。フラッシュバックを多用し、過去の人物と現在の彼との対話を繰り返す。彼がたどりついた結論は、そのまま私の未来になるかもしれない。

自己欺瞞の人生を直視する

 『タタール人の砂漠』のジョヴァンニ・ドローゴ
 『春にして君を離れ』のジョーン・スカダモア
 『セールスマンの死』のウィリー・ローマン

偶然か必然かにかかわらず、主人公たちは、自分の人生を直視することを余儀なくされる。そして、自分にウソを吐き続けてきたことを認めざるを得ない状況に追い込まれる。

私は物語の最後までたどり着き、主人公たちの絶望に寄り添いながら、読者という安全な場所から、「これが物語でよかった、私の人生でなくて、本当によかった」と胸をなでおろす。

でも、本当?

安全圏にいるというのは幻想で、他ならぬ私自身が、私の人生から目を逸らして、他人の人生を見て安心しているんじゃないの?「自分の人生を生きる」ことから逃げる言い訳を吐き続けているのは、私じゃないの?

その通り、私がスクルージなのだ。私はドローゴのように無為に時を過ごし、ジョーンのように事実を歪め、ウィリーのように自分に嘘を吐き続けてきた。自分の人生を生きなかったことを思い知らされるのは、こんなに酷い気分なのか。

そして私は知っている。「自分の人生を生きる」選択ができた時まで、時を戻すことはできない。人生にはリセットボタンなどなく、あるのは電源ボタンだけなんだと。

そして私は、これも知っている。人生はオートセーブだから、「いま」選択をやり直すことだってできる。自分が好きだと言える方、後悔しない方の選択なら、いまからでもできる。

走馬灯を眺める時に味わう苦悩を、いま味わうことで、自分の人生を生き直すことができる。そんな3冊だ。

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ラテンアメリカ文学の最初の一冊から最狂の一冊まで

ラテンアメリカ文学と聞いて、身構える必要はない。

「マジックリアリズムが難しそう」「『百年の孤独』で挫折した」という声を聞くが、難しいと感じてしまうには理由がある。読み方が、少し違う。

私たちは普段、以下のように小説を読んでいる。

  • 誰が語っているのかが明白だ
  • 出来事には原因と結果がある
  • ラストには何かしらの意味が回収される

もちろん例外はあるけれど、王道があってこその逸脱として存在している。こうした暗黙の約束があるので、理解できた、納得できたという感触が残る。安心して読めるのだ。

だが、ラテンアメリカ文学作品は、現実と虚構、過去と現在、語り手と聞き手の境界が、はっきりと区切られない場合が出てくる。話者が入れ替わったり、いつの話なのか、夢か現か分からなくなったりする。

「結局のところ、何がどうなったのか?」という意味を目指すと、手ごたえが無くなり、フラストレーションが溜まる。いわゆる「あらすじ」に回収されない読書になる。「よく分からないけれど、確かに何かに触れた」という感覚だ。

ラテンアメリカ文学の巨匠・ボルヘスは言った。

詩や小説では、意味はさほど重要ではない。重要なのは、ある順番やリズムで語られた言葉が、読者の心の中に何を生み出すかだ。
――ホルヘ・ルイス・ボルヘス

だから、物語を理解するというより、体験するかのように触れあえばいい。世界の見えかたが少し変わる、そういう変化を楽しめる人にとっては、これほど豊かな読書体験はなかなか得られないだろう。

とはいえ、いきなり突入するのはお薦めできない。

名作とか代表作と言われている作品ほど、初心者にとっては過酷だったりするから。これは、読解力の問題というよりも、慣れ・ガイド・経験の有無だったりする。だから、『ラテンアメリカ文学ガイドブック』を推す。

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ラテンアメリカ文学の代表的な作家100人を紹介し、読むべき作品も合わせて解説している。

かなり辛口なのだが、これは悪書を踏んで読者の時間を無駄にしないための優しさだと考える。つまり「何を読むべきか」と共に、「何を読まなくてもいいか」を判断するための材料も盛り込まれている。話題作だからといって褒めることもないし、逆に、時流に乗ったという事象ごとバッサリ切り捨てる口調もいい。

私の場合、自分の嗅覚だけを信じてきたけど、運よく当たりを読んできたことが、このガイドのおかげで分かった。

最初の一冊はアンソロジー

手触りを楽しむには、短篇集がお薦め。しかもアンソロジーだと、いろんな作家がお試しできるのでお得だ。

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異常な物語が、淡々と描かれたり、スーパーナチュラルな展開なのに、描かれるのは男女の三角関係のドロドロだったり、何の説明も無く(しかし確信をもって)酷い最期に至る話が続々とある。出来事の異常さそのものよりも、異常の何気なさのほうに不気味になる。

この、「何気ない異常」の感覚こそ、マジック・リアリズムの本質だ。よく読むと明らかにおかしい。だが、登場人物や作者はおかしいと感じていないように描かれるのだ。

よくある「日常と非日常の境界が曖昧になる」というよりも、むしろ、もともと境界はないのだ。だから、小説に落とし込むときに生ずる、「異様の扱いが異常とされていない」ズレが、眩暈を引き起こす。

オクタビオ・パス、カルロス・フエンテス、バルガス=リョサ、ガルシア=マルケス、ビオイ=カサーレス―――ラテンアメリカ文学の沼で出会える大御所たちが、どういうお話を書く人なのか、どんな肌触りなのかを確かめることができる。岩波の短篇集はハズレなしというジンクスを再確認する、全部あたりのアンソロジー。

人工的な眩暈を楽しむ一冊。

お手軽に現実を見失えるコルタサル

次はぜひ、これを。

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コルタサルが示す入口は、とてもありふれている。友達のアパートに滞在したり、カメラを携えて散歩にでかけたり、旅行帰りに渋滞にまきこまれたりする。そんな日常の出来事を追っていくうちに、紙の裏側、脳の外側にたどりつく。

目を凝らしても境界線なんて見つからない。知らないうちにわたしの常識が通用しない場所に立っている。登場人物だけでなく、読み手ごと、世界ごと"もっていかれる"感覚に酔う・揺らぐ。「夜、あおむけにされて」は眩暈と吐き気を味わう。「南部高速道路」なんてご丁寧にも、"もっていかれた"あと、"もどされる"感覚で、まっすぐ立ってるのが難しいくらい。

さもなくば、最初から「あちら」と「こちら」が交ざっている作品もある。区別不可能な「混ざっている」ではなく、見分けのつく「入り交じり」だ。注意深く進めていくうち、「あちら」と「こちら」がついに混じりあうところに達すると、分別することの無意味さに気づく。「すべての火は火」を読了後、逆まわしに読むならば、より合わさった縄が解けるような気分になるだろう。

これは、構成と文章の超絶技巧もさることながら、著者の現実認識に因っているのではないか。伝える都合上、「あちら」とか「なにか」といった、現実とは別物のような物言いをしてきたが、そうした幻想的といわれる非日常は、もともと現実とつながっていると考えているから、こんな奇妙な感覚をもたらす小説になったのではないか。

つまり、現実が変化して非現実になるのではなく、メビウスの輪に表裏がないように、現実/非現実は地続きなのだ。

"現実への揺さぶり"が、クセになりそうになる。

エッシャー的無限に誘いこむボルヘス

度数の高い幻想ならこれ。

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読むドラッグ。幾重にも読みほどいても、さらに別のキリトリ線や裂け目が現れ、まるで違った「読み」を誘う。シメントリカルな伏線の配置や、果てしなく反復される象徴されるものを、「罠だ、これは作者のワナなんだ」とどんなに用心しても酔える。

それでも囚われる。

語りはしっかりしてて、描写は確かだから、思わず話に引き込まれ、知らずに幻想の"あっち側"に取り込まれる。どこで一線を越えたのか分からないようになっているのではなく、「一線」が複数あるのだ!そして、どこで一線を越えたかによって、ぜんぜん違ったストーリーになってしまう。語り手の夢なのか、語られ人の夢なのか、はたまたそいつを読んでいる”私"の幻なのか、眩暈を見まいと抗うのだが、目を逸らすことができない。「「「胡蝶の夢」の夢」の夢」の夢……

ボルヘスは「作家のための作家」だ。

例えば、あらゆる本のあらゆる組み合わせが揃っている「バベルの図書館」は、まんまエッシャーの不思議絵をカフカ的に読ませる。「カフカ的」と表したのは、明らかな歪みや矛盾をアタリマエとして淡々精緻に記されている点がそうだから。作品でいうなら「城」だ、あの「城」に図書館があるのなら―――いや、もちろん"ある"に違いない―――まさに本作で描かれたまんまの無限回廊になっているはず。

あるいは、「隠れた奇跡」。まさに銃殺刑に処されようとする男に奇跡が訪れる話なのだが、似たプロットを手塚治虫の短編「処刑は3時におわった」で読んでいる。ぜんぜん違う話、かつ、どちらも傑作、そして読後やるせなさを感じるはず。

さらに、架空の世界を、「それが存在した」という要約や注釈で差し出している「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」もスゴい。最初は、このプロットの白眉であるレム『完全な真空』『虚数』 を思い出す。

だが、現実を侵食するようになり、ついには飲み込んでしまう様子は、ラヴクラフトをまざまざと呼び起こす。ラヴクラフトでは街や家に限定された「リアル」が、世界ぜんたいに拡張されている感覚になる。靴下が裏返されるように現実がでんぐりかえる恐怖を味わうがいい。

読むことで完成する「完璧な小説」

そんなボルヘスが「完璧な小説」と評しているのがこれ。

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これは、読者が読み進める行為によって、初めて完成するという小説だ。

絶海の孤島に辿り着いた《私》は、無人島のはずのこの島で、毎晩パーティを開く奇妙な男女の一団に出会う。そこにいたある女に魅かれるが、彼女は《私》に不思議な無関心を示す。やがて《私》はグループのリーダー、モレルの発明した機械の秘密にたどり着くのだが……という話

どうやら、パーティに集う人々に、《私》の姿は見えていないようだ。まるで《私》が幽霊であるかのように、彼らは気づかない。これは罠なのか、油断していて捕えるつもりなのか、そう疑う語り手。

最初の謎は、早い段階でピンとくるが、問題はその後だ。秘密に気づいた《私》がとった行動が、非常に示唆的だ。それは、「わたし(《私》、読者)は、リアルに意識を這わせて生きている」欺瞞を暴く。わたしが現実だと思っている表象へのリアクションこそが、「わたしが生きる」ことを気づかせる。

「パーティを続ける人々と、それを見つめる《私》との関係」は、「《私》と、それを読み読者(=私)」と相対関係にある。つまり、以下の等式が成り立つ。

      パーティに集う人々 : 《私》 = 《私》 : 読み手

この関係から、私が抱いている他者性に一撃を食わせる。《私》が見るのをやめれば、パーティの人たちは不在となるし、読み手である私が読むのをやめれば、《私》は不在となる。これは、他者を他者たらしめているのは、ほかならぬ自分自身であるという事実を突きつけてくる。

読むという行為を通じて、私が私であることが、何によって支えられているのかを改めて気づかせてくれる。オクタビオ・パスが「美しい水死人」の解説で書いたこの一文が示唆的だ。

肉体というものは想像上のものでしかなく、われわれはその幻影の圧政下に生きているのである。そうした中で、愛は特権的な認識であり、愛を通してわれわれは世界の現実だけでなく、自分自身の現実をも全体的、かつ明晰に把握することができるのである。つまるところわれわれは影を追い求めているにすぎないのだが、そのわれわれ自身もまたじつは影でしかないのである。

影でしかない存在が現実と関わっても、残すものは幻でしかない。それでも、関わろうとする情熱を支えているのは愛なのだ。表紙の女と、裏表紙の《私》の奇妙な関係が分かるとき、あっと驚くかもしれない(そしてきっと、二度じっと見るはずだ、表紙と裏表紙を)。

だが、それでも関わろうとする《私》は、たしかに現実を認識しているのだ―――私という読者が見ている存在とは独立に。

何回読んでも面白い『百年の孤独』

人生で3回読んだけど、3回とも違う意味で面白い。

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ストーリーも展開もオチも分かっているのに、なぜ楽しめるのか?

まともな人間が(ほぼ)誰もいないブエンディア一族の奇妙な生きざまや、日常的に非日常が描かれるマジックリアリズムの磁力、あるいは、奇妙で悲惨でユーモラスなエピソードが隙間なく詰め込まれているストーリーは、読むほどにスルメのように味が出る。

しかし、そうしたストーリーやキャラだけでなく、『百年の孤独』の文体や構造そのものに、面白さが練り込まれているのかもしれぬ。

例えば、中毒性のある文章について。『百年の孤独』の書き出しが顕著なり。

長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、恐らくアウレリャノ・ブエンディア大佐は、父親のお供をして初めて氷というものを見た、あの遠い日の午後を思い出したに違いない。

もう一度言うが、これは書き出しだ。「銃殺隊」も「ブエンディア大佐」も「あの遠い日の午後」も、一切説明抜きで、この文章から始まっている。

疑問が次々と湧き上がるが、説明は一切無い。

そもそも、この文はおかしい。「長い年月が流れて」なら、未来の話だろうし、「あの遠い日の午後を思い出した」のは過去の話になる。では、これをしゃべる語り手はいつの場所にいるのか?あるいはこれを聞いている(読んでいる)私は、どこにいるのか?

もちろん、すべての物語が終わった後、神の目線から、過去のお話を聞いているのだという解釈は成り立つ。事実、ほとんどの文章は過去形なので、昔話の民話だと見なすことは可能だ。

だが、語り手自身が分かっていないことをしゃべっているようにも見える箇所がある。まだ起きていない未来の出来事だからと留保付きで述べるのだ。「思い出したに違いない」なんてまさにそうで、違和感がついてまわる(普通なら「思い出した」に留めるはずだ。なぜなら、すべてが終わった過去を振り返っているのだから)。

物語は進んでゆくうちに、「あの遠い日の午後」も語られるし、アウレリャノ・ブエンディアが「大佐」になるエピソードも紡がれるし、銃殺隊の前に立つシーンも出てくる。しかし、彼が夏の日の午後を思い出したかどうかは、そのシーン、つまり銃殺隊の前に立つ場面にならない限り、語り手自身も分かっていないのではないか―――そういう予感がついてまわる。

そんな文章が要所要所に練り込まれている。こうした違和感を掻き立て、目を留める引っ掛かりが設けられている。

これを一種のフラグ、伏線の変異体と見なしてもよいが、引っ掛かる度に、聞いている(読んでいる)この瞬間が、いつなのかを見失う。。

読み進めていくうちに、違和感の正体は、「銃殺隊の前に立つ」時と、「初めて氷というものを見た」時間、そして「思い出したに違いない」と語るときが、同じ瞬間に集約されているのではないかという疑いに変化する。そして読み終わるとき、この違和感は、『百年の孤独』そのものを貫く巨大な伏線だったことが明らかになる。

既視感と未視感が混ざったような、軽い吐き気を覚える。『百年の孤独』で感じる中毒性の正体の一つがこれ。

自分を酔わせているのがどこかが分かってても、眩暈が止まらない。マジックリアリズムの種が明かされても楽しめる、一生モノの一冊。

ラテアメ文学で最狂&最凶の悪夢

ラテアメ文学で、私のイチオシはこれ。

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「おれ」の一人称で語られている他人の悪夢を覗いているうち、私自身がそこに居る。

夢だから、断片的で支離滅裂で、因果も時系列もデタラメだ。なのに、そこで起きた感覚だけは、べっとり肌身に粘りつく。

忌まわしい、ふりほどきたい、逃れたいのに、なぜか顔を近づけて嗅ぎたくなる。歯をむき出しにして齧りたくなる。語りかける口調に、思わず耳を傾ける。知りたくない(最悪の)展開を、目を凝らして待ち構える。嫌悪感と接近衝動の両方に衝き動かされるように読む。

そういう、中毒のような効果をもたらすのがこれ。読んだことを後悔するような劇薬小説だ。

語り手であるウンベルトの妄想という可能性は残しつつ、語られている対象はクリアに伝わる。物語られるモノは、極めて明瞭に描写される。

例えば、畸形のわが子<ボーイ>のために、世界中から畸形ばかりを集めて、畸形の楽園を作るエピソードがある。捻くれた背中や非対称な顔面、欠損した器官はむしろ「美」であり、私たちが普通だと感じる手足や姿かたちは、むしろ「醜」とされる。

あるいは、修道院で老婆に囲まれ、ウンベルトはインブンチェとなる。インブンチェとは、”縫い塞がれた”存在だ。目、口、尻、陰部、鼻、耳、手、足、すべてが縫いふさがれ、縫いくくられた妖怪だ。

ウンベルトは少しずつ切り取られ、老婆たちが吸収する。生きていくために必要な器官は、老婆たちのものと取り替えられ、元の身体は20%しか残っていない。

老婆たちはおしめを替えたり、服を着せたり、面倒は見てやるのだが、大きくなっても、何も教えない。話すことも、歩くことも。そうすれば、いつまでも手を借りなければならなくなるから。

成長しても、決して部屋から出さない。いることさえ、世間に気づかせないまま、その手になり足になって、いつまでも世話をする。このおぞましさは、江戸川乱歩『芋虫』や早見純の劇薬マンガ『ラブレターフロム彼方』を思い出す。

畸形や欠損が「前提」として扱われ、自然に語られる。そこには、忌避感も痛みも伴わない語りだけが続けられる。どんなに異様な内容でも、普通に起きるのが夢だ。だからこれを夢だとしてもいい(でも誰の?私の?)。

極彩色の悪夢を強制的に見させられているうちに、私は、語りの対象がオーバーラップしていくことに気づく。最初にウンベルトがいた「修道院」と、<ボーイ>がいた隔離「屋敷」が、同じ場所に重なっていく。ウンベルトがボーイとなることを暗示しているが、時系列的におかしい。窃視しているはずの「おれ」が実は「ボーイ」に見られてたり、経験していないはずの記憶を「おれ」が持っていたりする。

私は、安全な場所からの読者ではなかったのだ。

強者と弱者が入れ替わり、支配する者とされる者が転倒する。奪う/奪われる、見る/見られるといった立場の倒錯と、屋敷と修道院のそれぞれのキャラが相似形となっていることに気づき、融合し、闇の奥に閉じられる。語り手が完全に縫い括られる感覚と共に、物語は終わる。

狂気が正気の世界に呑み込まれる感覚は、こんなものなのだろう。あるいは、私が死ぬとき、現実に起きたことと頭の中で想像したことが、一度に一挙に超早送りされるなら、こんな光景なのだろう。

『夜のみだらな鳥』は、安易な理解を拒絶するが、読み返すほど愉しい。

それは、理解できなかったからではなく、むしろ逆で、「理解したと思った感覚」が、読み返す度に裏切られるからだ。分かった瞬間が罠で、ページをめくると、足元が崩れ去る。物語は崩れない。私の読みが崩れるのだ。

誰が語り、誰を見ているのか(見られているのか)、どこまでが記憶で、どこからが妄想か。判断基準が、普通の読み方では太刀打ちできず、毎回書き換えられていく。初読で「読んでる間ずっとカオス」「理解不能な混沌」と判断するのは簡単だ。だが、ひとたびこの悪夢に魅入られたなら、逃れるのは難しい。

つまり、再読は答え合わせではなく、別の悪夢を見るためのトリガーなのだ。読むたびに、読んでいる私の輪郭が、少しずつ奪われていく。信頼できないのは語り手ではなく、私自身なのだ。物語に理性を混濁させられる感覚は、一種の自傷行為なのかも。この悪夢に耐えられるか、正気でいられるかを、ぎりぎりで味わう。

その感覚が、たまらなく愉しい。

ラテアメ文学の美味しいところを紹介してきたが、ほんの一部にすぎぬ。『ラテンアメリカ文学ガイドブック』を観る限り、私自身、豊穣な果実を一口しか味わっていないことがよく分かる。

以下は自分メモ。読む前から面白いと断言できる傑作はこちら。楽しみすぎる。

  • アルテミオ・クルスの死(フエンテス)
  • 燃える平原(ルルフォ)
  • 夜明け前のセレスティーノ(アレナス)
  • ラ・カテドラルでの対話(リョサ)
  • 蜘蛛女のキス(プイグ)
  • 圧力とダイヤモンド(ピニェーラ)

ラテンアメリカ文学の魅力は、現実を壊すことではなく、現実のほうが最初から少しおかしかったと気づかせるところにある。

欧米文学(とその影響を受けた日本文学)では、現実との距離は「幻想文学」というジャンルで「安全に」守られている。そこでは、幻想と現実は対立したり包含する概念であり、文体や物語構造、あるいはジャンルといった明示的な印(しるし)により区別されている。だから、読み手は、安心して自分が狂っていない前提で読むことができる。

しかし、ラテアメ文学では、全てがあくまで現実に基づいたものになる。一見「現実ばなれ」した描写でも、書き手は何らかの現実に依っている。幻想と現実を分け隔てする印は無く、両者は最初から混交し、安心して読める「お約束」は消え失せている。

そして、読み終えた後、世界が変わるのではなく、私の世界への見方だということが、遅効性で分かる。そういうメタ的な悦びを喜ぶ愉しみが、ラテンアメリカ文学だ。論理性とか因果は、現実を理解するためにあるのではなく、私が狂わないための縁(よすが)の一つに過ぎないことが腑に落ちる。

ラテンアメリカ文学の沼にようこそ。



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誰もいない空間が、なぜこんなに怖くて惹かれるのか『リミナルスペース 新しい恐怖の美学』

この場所に見覚えがあるだろうか?

HobbyTown USA Oshkosh interior under construction 2002 (The Backrooms).jpgBy Bill Magritz, CC0, Link

「あの部屋」とか「黄色い空間」と呼ばれ、ネットで有名なのだが、実際には「どこでもない場所」になる。友達と映画を撮影していたら、突然、見知らぬ場所に迷い込む。

不気味な迷路空間を彷徨ううちに、異形の存在に見つかり、逃げ惑う。(よせばいいのに)振り返って撮ろうとしたり、(やってはいけない)暗がりに隠れたりする―――その結果、残された映像が発見されたという体(てい)のyoutube作品だ。Found Footage形式とも呼ばれ、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』風のホラーになる。

The Backrooms (Found Footage)


現実の裏側に、無限に続く無人の空間がある。ひとたび迷い込んだら、理由も目的も分からないまま彷徨う―――こうした空間をリミナルスペースと呼び、人の恐怖心を掻き立てると言われている。

長く続くコンコースや、映画館のホールといった、ありふれた場所でもいい。ただし、人が全くいないところがポイントだ。普通なら大勢の人が行き交い、活気あふれる場所なのに、人の気配が無い。そういう「場所」だ。

ある人は、映画『シャイニング』の舞台となるホテルの長い長い廊下や、『8番出口』の白くて清潔で無機質な空間を思い出すかもしれない(デヴィッド・リンチは室内で夢の空間を、アンドレイ・タルコフスキーは現実の風景を異界として撮っていた)。あるいは弐瓶勉『BLAME!』の敵意に満ちた迷宮のような巨大構造体が浮かんでくる人もいるかもしれぬ。

N/A

そういう場所が、なぜ不安を掻き立てるのか。その一方で、美しいと感じ惹かれてしまうのはなぜか。膨大な映像作品を駆使し、そんな不安と恐怖の美学を探求するのが『リミナルスペース』になる。読むと、一番手軽な方法―――夢―――でリミナルスペースに迷い込むことができるぞ(本人談)。

リミナルスペース=非場所

このリミナル(liminal)とは、元々はラテン語のlīmen(リーメン)で、「境界」や「戸口」という意味だという。

なので、リミナルとかリミナリティというのは、境界にある状態で、中途半端で確定していない状態のことになる。戸口に立っているということは、家の中でも外でもない、どっちつかずの位置になる。

そこは、具体的な「場所」にはならない。

ホテルの廊下や駅のコンコース、ショッピングモール、映画館のロビーは、具体的な「場所」というよりも、どこかへ行くために通過するエリアになる。このようなエリアは人類学の用語で「非場所」と呼ばれており、歴史や文化的背景と結びつかないものとされている。

なぜ怖いのか

普通、こうした場所には「人」がいる。

廊下も壁紙も階段も、人のためにあるのに、肝心の人がいない。あるべき存在がいない、その空っぽさが薄っすらと不安を掻き立てる。

そして、そんな状況が続くと、人の脳は「説明」を求めはじめる。

  • なぜここに居るのか?
  • 皆はどこへ行ったのか?
  • どうすれば出られるのか?

普通の物語だと、そうしたホラー的状況では「敵」が現れる。幽霊だったり殺人鬼だったり、あるいはパンデミックでアポカリプスだったり、いない「理由」が明かされる。いつまで経っても説明が無いと、人の認知は暴走を始める(『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』は、このパニックがめちゃくちゃリアルだった)。

安全であるはずの場所は、何の理由もなく意味を失っている。これは足元が失せるくらいの恐怖なり。

一方で、現実のリミナルスペースに迷い込むと、認知を歪ませることができる。

私は自覚的にこれが好きで、でかいデパートに行くと、エレベーターやエスカレーターではなく、「階段」を探す。たいていはトイレの近くにひっそりとたたずみ、当然、利用する人は誰もいない。

この、無気配の空間への不安感は、昨年堪能した「恐怖心展」にも確かにあった。日常の非日常性からしか得られない養分がある。

好きな人は結構いるもので、「リミナルスペース」や「liminalspaces」でtwitterを探すと、「廃墟ではないけど人の気配が無い空間」を愉しむことができる。同士からの情報によると、東成田駅生ける廃墟として名高いらしい。

ポイントは、新しい廃墟なんだろう。

悪夢を探索するような(現実の)路地裏なら、例えば飛騨金山の筋骨めぐりとか、豊浜町の小野浦あたりが有名だが、昭和レトロの雰囲気なので、ここにリミナル性を感じる人は世代が違ってくるかもしれない。

そうではなく、新しくて人がいるはずなのに、無人―――そういう空間がリミナル性を掻き立てるのだろう。

書籍の『リミナルスペース』からは、絵画から映画や漫画や小説、youtube、ネットコンテンツなど、大量の作品が引き合いに出されている。ネットを参照しつつリミナルスペースのぞわぞわ感を堪能する。

本書で強力にお薦めされており、かつ、私が惹かれているのは、ダニエレブスキー著『紙葉の家』とジョーダン・ピール監督『アス』だ。

『紙葉』はレイアウトや構成に仕掛けが施してあり、入れ子状になった物語を読み解く行為そのものがリミナルだというし、『アス』には 『The Backrooms』を彷彿とさせるシーンがいくつも登場するという。どちらも見たい見たいと言っているうちに絶版になりアマプラから外れていた。なんとかして、リミナル感を味わいたい。

また、この記事を書くにあたり知ったのだが、『The Backrooms』は映画化されるらしい。しかも、あのA24で(!)

youtubeシリーズが世界的にヒットしたことにより、A24制作し、2026年(今年じゃん!)公開予定だという。

THE BACKROOMS (2026) Trailer

ただ、トレイラー見る限り、より「異形」っぽくなっているのが気になる。『サイレントヒル』や『バイオハザード』で見慣れた姿形だったり、『クーロンズ・ゲート』のオマージュ形態(?)なので、「異形」なのに懐かしさを感じる。

しかも、映画というメディアなので、何かしらのストーリーが求められるはず。それはリミナルスペースの魅力である「説明の無い恐怖」とは反りが合わないかもしれぬ。「変な空間に入り込んで逃げ惑う」という話は、エンタメ映画でめちゃくちゃコスられてきたネタなので、一歩間違えると陳腐の沼にハマる。とはいえ、A24ならヤってくれるはず……観ている人を惑わせる映画になるはず。

本書は、リミナルスペースに取り憑かれた人が、そのゾクゾク感・不安感・恐怖心をおすそ分けする一冊。日常に潜む非日常性に触れたい人には、最高の手引きとなるだろう。



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17人で5時間かけたピンチョン『重力の虹』読書会で分かったこと(ネタバレ全開)

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現代文学の金字塔とも呼ばれるピンチョンの『重力の虹』は、その難解さでも有名だ。

「3回読めば分かる」とか「何回読んでも難解だ」とも言われている。上下巻1450ページの鈍器本に1万円出して3ヶ月かけてヒーヒー言いながら読んだ(こうなることが分かってて読むのを、ピンチョン・マゾヒズムという)。

しかし、最後のページにたどり着いたが、果たして私は本当に「読んだ」と言えるのか?

意味を解体し、理解を拒む展開について、「分かった」とは、とてもじゃないが言えないものの、「面白かった」と言い切れるのか。どんなに頑張っても1時間に20ページの遅々としたスピードだったが、これは普通なのか。百科全書的に編みこまれた知識の断片には深い意味があるのか、あるいは衒学的な目くらましに過ぎないのか。

作品に仕込まれた謎よりも、そもそもこの読書体験って何だったんだろうね?

そんな疑問を抱きつつ、読書会に参加した。

偶然か陰謀か、『重力の虹』が同じ日に2つ開催されたため、両方とも参加した(主催者・参加された方、ありがとうございました!大変楽しく&濃密な時間を過ごせました)。

みなとシェア読書会@川崎 7人で2時間
東京ガイブン読書会@新宿 11人で3時間

主に川崎編で出たトピックには【川】、新宿編で挙げられたネタには【新】と表記する。また、「上巻p.063」は「上63」と表記する。

考えるな、感じろ【川】

まず、異様なまでの読みづらさ。

通常の描写から始まったと思いきや、知らず知らずのうちに、誰が誰に向けているか不明瞭になり、トピックの焦点がどんどんズレてゆき、そもそも何を語っているのか分からなくなる。置いてけぼりになった論点や伏線(?)は回収されないどころか、因←→果が逆転されるのは、慣れるまで(慣れてからも)分かったとはとてもいえぬ。

これ、単純に「難しい」というよりも、情報の入ってくるその「入り方」が普通の小説と違うからだ。背景と前景が安定せず、文脈(コンテクスト)が勝手に切り替わり、読み手が想定する順序で因果が接続されない。

じゃあ「普通の小説」とは?読者を迷子にさせないための暗黙の了解がある。例えばこんなん。

  • 地の文は状況を説明する:「状況が混乱している」ということを説明する地の文はあるが、それは「状況が混乱している」ことを整理して伝えている
  • 会話の宛先が明示される:会話は「」で括られ、誰宛か判別できるようになっている。「」が無くても文脈で推定できるようになっている
  • 伏線→回収、原因→結果の順序がある:記載の順番が逆転し、結果から描かれることもあるが、結果には原因があることが前提となっている

こうした「普通」を破壊して、自動運転で読める部分が、全てマニュアルドライブになっている。暗黙の了解が無い、いわば「話が通じない」場に投げ込まれる。書いてある言葉は分かるが、その意味が伝わらず、目が滑るのは、こうした理由による。

では、どうすればよい?

一つは、再読を前提とした読みになる。因果の回収はひとまず置いといて、ひたすら人物相関に着目して、何が起きたかは2回目以降の謎解きとする。その手がかりは、 [122人の相関図を作ってみた] に書いた。

もう一つは、筋が通る意味の解釈を諦める。自分に引き寄せる読みを、いったん手放す。「読もう」と構えると意味や道理が逃げていくから、「読むという行為」に身を投じる。意味化しようとする衝動を抑える、一種のデトックス読書やね。

タルベーラ監督の『サタンタンゴ』という映画がある。ひたすら美しく、かつ、意味のない光景が7時間、延々と続くそうだ。そこに意味を求めず、ひたすら「観るという行為」を続けると、意外と読めるそうな。

意味を得るために読んだり観たりするのではなく、読書や鑑賞という体験そのものに身を置くことが目的となる―――『重力の虹』は、そういう滞在型の読書なのかもしれぬ。

仕掛けを解除しろ【新】

一方、ピンチョンはモチーフに意味を重ねてきているから、そのモチーフを拾い上げるという攻略法が提案された。

例えば、冒頭のここ。

一筋の叫びが空を裂いて飛んでくる。前にもあった、だが今のは何とも比べようがない。いまさら手遅れだ。〈疎開〉は続くが、ただの見てくれでしかない。列車の中は真っ暗。わずかなもない、どこにもだ。頭上に組み上がった鋼材は鉄の女王と同じくらい古び、そのはるか上にガラス屋根。昼間なら光を通すだろうが今は闇だ。ガラスが落ちてきたらどんなことになるだろうかと不安になる――もうすぐ―――壮観だろう。水晶宮の崩落。漆黒の中にかすかなキラメキもないまま起こる、巨大な不可視のクラッシュ。
(『重力の虹』上13より)

太字化は私。小説の中には、不自然なくらい多用されている言葉があり、それは「光」「ゼロ」「不可視」だという。言われてみればあちこちどころか、畳みかけるように頻出している。そして、同じ「光」でも、そのシニフィエが様々に重ねられる。爆発する閃光だったり、ドラッグでキマった脳内物質の輝きだったり、しゃべる電球だったりする。

要所要所の重要なシーンで「不可視(invisible)」が使われている。降霊会では「不可視の手」が登場し(上63)術に登場する幽霊はもちろん「見えない」し、鍵となる合成化学物質イミポレックスGは「透明性」を持つ(下579)。虐殺され、歴史から抹殺された人々は「不可視の王国」(下72)と呼ばれる。

「重なり」を解除するのであれば、ビアンカとイルゼの二重写し(下66)が指摘されていた。どちらも「映画を見て興奮した男が女に言い寄ってできた子」としては共通している。

ただ、「この世は常に二重の照明に照らされていて(下67)」の表現からすると、似たような境遇という意味だけでなく、異なる映画で同じ人が出演しているとも読み取れるという。さらに、ビアンカの代わりに肌の色が透けそうに白い(下66)青年ゴットフリートが仄めかされている。

これはラストの00000号の贄とされた男性verがゴットフリートなので、女性verがビアンカとも読めるのでは、という指摘が面白かった。つまり、読者が男性なら、同性のゴットフリート、女性ならビアンカが、読者の代わりの贄になるという「読み」だ。

モチーフやキャラクターの重なりを解くような読み方が提案された。いわばナボコフの仕掛けを解除するような読みなり。また、「糞便」が出てくるのは、「これから重要な出来事になりますよ」というフラグとして読む。1回目を読んだいま、確かにそうだといえる。これは再読の楽しみとしよう。

ハリウッド映画との親和性【川】

主人公のスロースロップは、ハリウッド向けという意見があった。

追われて、逃げて、勝手に巻き込まれる。でもなぜ追われるのか、どうして巻き込まれるのか状況を理解していない。でもなぜか重要人物として狙われるという意味で、完全にハリウッド向きだといえる。

本人は「世界の謎を解こう」などと思っていないのに、世界の方が勝手に追いかけてくるというドタバタ展開は、めちゃくちゃ作りやすい。

謎の組織に追われるし、敵か味方か分からずに、陰謀に巻き込まれる。全部がつながっていそうで、でも証拠が無い。秘密エージェントとか軍産複合体といった「黒幕」は、ハリウッドが100年ぐらいコスり続けてきたネタになる。

実際、読書会で知ったのだが、デカプリオ主演の『ワン・バトル・アフター・アナザー』の原作が、ピンチョン『ヴァインランド』だそうな。映画は予告編しか見ていないが、ヴァインランドってそんな話だったかな……そのうちアマプラで観れそうなので楽しみに待つ。

ただ、ハリウッドとの決定的な違いは、「ピンチョンは意味を回収させない」に尽きる。ハリウッド映画のラストは、巨悪の正体が暴かれ、陰謀は潰える。あるいはそうした状況から主人公は脱出し、自由を勝ち取る。敵は誰で、何が起きていたか、主人公はどう変わったかといった、物語をドライブさせていた因果が明確に回収される。

しかし『重力の虹』では、スロースロップは分解し、物語の焦点は奪われ、意味は霧散し、読者を置き去りにしたまま、ロケットは飛んでいく(あるいは飛んで来る)。小難しい話を取っ払えばハリウッド映画向きだが、ハリウッド映画を成立させるための因果を殺しにかかるのがピンチョンだといえよう。

「選ばれし者」と「見捨てられし者」【新】

くり返し出てくるテーマとして、カルバン派の予定説にがある。「選ばれし者」と「見捨てられし者」が「上13」を皮切りに、何度も姿かたちを変えて採りあげられる。

神に選ばれ、救済が約束されている者と、そこから切り捨てられている者がいる。努力や行為でどうなるものでもなく、ただ、最初からそう二分されている。エリート/排除された存在、白人/有色人種、帝国/植民地といった形で登場する。

面白いのは、アメリカ合衆国の開拓における西への移動は、自己正当化として「選ばれし者」が量産されている点にある。「フロンティア精神」「約束の地」「自由への移動」として語られているが、先住民たちは最初から居なかったことにされている。

一見したところ、ピンチョンはそうした抑圧や暴力を「批判」しているのではないか?

だが、ちょっと待てよ。そんな見え見えの批判なんぞするか?するはずがない。抑圧されていた側のエンツィアンは、脱植民地化の闘争の中で00001号を手に入れることで、「選ばれし者」と同じ行動・同じ発言をしているのではないか?

これ、カルバン派の話に閉じず、そういう認知になってしまうという人間のバグを示しているのかもしれぬ(批判というよりも諦念に近い)。

「重力の虹」とは【川】【新】

タイトルにはどんな意味があるのか?いろいろな意見が出てきて愉しい。

というよりも、『重力の虹』というタイトル自体が、ひとつの意味に収束しないよう(させないよう)に設計されているから、様々な象徴の束としてあれこれ言い合うのが楽しい。

  • ロケットが打ち上げられ、一時的に抗った後、重力に囚われ落下する弧を指し、多様な色あいは、ロケットを追い求める国家・組織・人種の多様さを喩えている
  • 重力は迫害されている人を捕えているメタファーで、そこからの開放を指す。
  • 「虹が見える」とはその弧から離れていること=ロケットの発射・着弾の場所から離れて他人事のようだという暗喩

虹は希望や祝福の象徴なのに、落下する爆弾の軌跡として描かれる反転の皮肉が効いている。ナチスも連合国も科学者も軍も企業も、それぞれの違う目的を目指しているのに、同じ重力に囚われた軌跡を描くところも面白い。

「重力の虹」について、序盤でケネディとマルコムXとの会話で種明かしされているという指摘があったが、場所が探せず(上131にハープが「重力に逆らって」というシーンがあったが、違うみたい)。再読の楽しみとしよう。

他にも、様々なヒント・ネタ・再読の手がかりをもらったので、並べておく。

  • 円城塔の書評が読み解きに役立ちそう→虹には向こう側がない : トマス・ピンチョン『重力の虹』をめぐって(新潮2015年1月)
  • 早川文庫のオーウェル『一九八四年』のピンチョンの書評を読むと、ピンチョンがなぜあんな小説を書いたのかの手がかりになる
  • 科学+歴史+神話をストーリーに落としむといえば、リチャード・パワーズが似ているかも
  • 大規模で複雑な世界をそのまま描くポストモダン作家として、ドン・デリーロも似ている
  • 面白さで言えば『重力』よりも『競売ナンバー49の叫び』が上(未読なので読む!)
  • 読むスピードは20頁/1時間という回答が多かった
  • お薦めしていた「磯崎憲一郎・寺尾隆吉とガルシア・マルケスを読む」会は [ここ] (1/22@早稲田大学)、無料・予約不要やで

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実は、もう再読を始めている。読書会という期限が無いので、気楽に時間をかけて読み解いていくつもり。と同時に、人物相関図も充実させていこう。

あるいは『V.』か。



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ピンチョン『重力の虹』の「主要」登場人物122人の相関図を作ってみた

N/A N/A

イメージの濁流に呑み込まれ、もみくちゃにされ、ヨロヨロと頁を繰り、茫然としながら叩きのめされる読書、それがピンチョン。

ラーメンに例えるなら「全部入り」の百科全書なり。

第2次大戦末期のヨーロッパを舞台に、神話や歴史に始まって文学、数学、化学に物理学、冒険と暴力と陰謀とパラノイア、ガチ怖ホラー、泣かせるメロドラマ、エロス100%の恋愛モノ、スカトロSM満載で、果てしなく続く洒落とギャグと注釈と二重解釈と地文と話者の逆転とクローズアップとフラッシュフォワードに翻弄され、読解不能。

どれくらいもみくちゃにされるかというと、人物の相関図でイメージが湧くかもしれぬ。「主要」登場人物は122人で、関係図を作ってみた。

Gr0

Gravity's Rainbow / Character Network (interactive)

丸い奴は人物で、〇の大きさが(私が考える)重要度、〇の色が陣営(家族や組織、国家、企業など)を示している。マウスオーバーして出てくる説明書きは、索引を参考にした。関係の強いものを線でつないだけれど、自分でも分けわからんくなった(笑)。

まれに、「読んだ」「面白かった」という方がいらっしゃるが、どうやって【読んだ】のだろう(あやかりたい)。私の場合、とてもじゃないが、1回目では「読んだ」とは言えず、最後のページにたどり着いたというのが正直なところ。

ただし、1行1行目で追って、頭の中で作り上げ、メモやノートを取り、辞書を引きネットで調べ、ページを繰り戻し、あるいは索引と首っ引きになって、行ったり来たりしているうちに、ふいに、脳汁が溢れ出す。これは映画や漫画ではなく、小説でしか味わえない快楽なり。

そして、読んで確信したことは、1回目より2回目、2回目より3回目の方が、さらに強烈な快楽物質が出るということ。

というのも、膨大な注釈と合わせて読んでいくうちに、小説全体の構造がおぼろげながら見えてくる。怒涛の展開につながる伏線が張り巡らされていたり、意外すぎる人物が噛み合っていたり、それぞれの目的やら運命が二重露光のように写り込んでいることが分かる。

1回だけじゃ嚙みきれず、呑み込めず、何度も読み込んで解き砕いていくうちに、さらに旨味が溢れ出す、そういう小説なのだろう。

なのでここでは、ネタバレ全開で、2回目を読む私のために、この人物相関図を使って『重力の虹』の構造を解体してみよう。

<以下ネタバレ。ただし、ネタが割れたところで、の面白さや謎は微塵も揺るがない>

翻訳者・佐藤良明の解説にもあったが、『重力の虹』は複数の物語が入れ子のように複雑に絡み合っている。絡み合う物語を解きほぐすと、作品1~5までの、5つの物語に解体することができるという。

相関図では、それぞれの作品で焦点となる人物をピックアップし、見つけ出せるようにした(右上の「作品」のチェックボックス)。以下の画像は、焦点人物を炙り出した図となる。

作品1:ナチの新型ロケットを巡るパラノイア戦

テクノロジーと権力が、どのように人間を狂わせるかを描く。

Gr1

<ゾーン>を主舞台に、ナチスドイツが開発した新型ロケットの打ち上げを巡る心理戦をメインとする。ロケット工学(素材、流体、制御技術)を人間ドラマにしたもの。

<ゾーン>とは、ナチス政権崩壊後に生じた権威が空白状態となった空間であり、連合国が分割統治するまでの間、存続が許された地帯になる(地上だけでなく、地下、上空、海上も含む)。

メインキャラはヴァイスマン。ナチスのロケット開発の中枢にいるSS将校で、ロケットを単なる兵器ではなく、混濁する世界から天へ至る「システム」として信仰する。「科学+神秘主義+美学+暴力=ロケット」という狂気の方程式。

出てくる全員が狂ってて好き。ペクラーが開発する新物質、アハトファーデンの流体力学、ネリッシュの自動制御をナチズム批判に落とし込むのは容易いが、完璧な信仰は完璧な狂気に通じる。ペクラーの慰問のため、愛娘を演じる少女をあてがわれる話に勃起しながら泣いた。

作品2:暴力を正当化する帝国主義&テクノロジー

帝国主義やテクノロジーが生き物のように描かれる。

Gr2

メインキャラは、ロシアのロケット技術諜報員・チチェーリン。異母兄弟のエンツィアンが対位法的に配置され、北が南を征服する制圧の歴史として描かれる。ドイツによる南西アフリカの暴虐はここで初めて知った。そしてジェノサイドをドイツが認めたのは、2021年であることは、この記事を書いてて知った[URL]

そして、ドイツという国家が崩壊したゾーンで、遺棄されたロケットを軸に新しい権力構造が再編されてゆく。第2次大戦の「戦勝国」などおらず、単に、ナチの技術に群がる集団が跋扈するのみ。

米国はフォン・ブラウンら技術者を、ソ連は鹵獲したV2を回収し、それぞれ新しい大陸間弾道ミサイルを「開発」する。最初は、国家による技術泥棒(しかも火事場泥棒)だと思っていたが、「効率的に人を殺すシステム」そのものが、崩壊したナチスを離脱して、大国に乗り換えたように見える。

作品3:&ドラッグでだいたい解決

ジャンル混交ハチャメチャなヤツがこれ。

Gr3

『重力の虹』の主人公であるタイロン・スロースロップが焦点キャラなので、メインストーリーとして扱われている。

「セックスした場所にロケットが着弾する」という摩訶不思議な謎を背負う一方、精力絶倫&いいオンナが寄ってくる運命に翻弄される。ミステリでありSFでありファンタジーであり、冒険あり神話あり、ホラーもサスペンスも純度100%のラブストーリーも盛り込み、魔法少女や幽霊、ロリ&エロ&グロなんでもありの全部入り。

このスロースロップという男、不自然なくらいめちゃくちゃモテるのだが、「主人公だから仕方ないか」で済まされているような気がするw 大抵トンでもない目に遭うのだけれど、だいたいセックスするか、ドラッグをキめるかすると解決する。弾丸は全て当たらない(主人公だから)。迷ったり行き詰まると救いの手が偶然にも差し伸べられる(主人公だから)。

いかにもピンチョンらしく、読んでて楽しいのがこれ。なんでもありだから、どこへ連れていかれるかも分からない。物語が進むにつれ、地の文に紛れ込み、小説自体へと同化していく過程が面白い(というか怖い)。ゾイレとボーディーンが好き。

作品4:合理を突き詰めると狂気になる

科学的合理性を人格化したようなポインツマン、こいつがめちゃくちゃ面白い。

Gr4

スロースロップを追いかける科学者という役回りのポインツマンを主役にすると、また別の作品となる。

人は条件反射によって完全に把握・コントロールできると信じている。ホワイト・ビジテーションに集う科学者を統括し、スロースロップの勃起の謎を解き明かそうとする。

重要なのは、狂人として描かれていない点だ。作品1〜3は、皆が皆、どこか狂っているか、完全に狂っているかのどちらかだ。だが、ポインツマンは違う。学識があり、研究実績があり、体制側から「正しい科学者」として扱われる。近代科学が人格を持ったらこうなるだろうと想像がつくキャラなのだ。

世界の全ては因果律で支配されており、理解することは支配することだと考えるポインツマン。彼にとって唯一、目障りなのがスロースロップになる。だって「セックスした場所にロケットが落ちる」なんて、因果律を無視したありえない話だから。

だからポインツマンは死に物狂いで追いかけて、自らが信じる科学的合理性の中に回収しようとする。その「回収」も度が過ぎて、マーヴィ少佐の受難につながるのだが……ここは抱腹絶倒&気の毒すぎて、黒い笑いが止まらなかった。

合理の名の下に行われる暴力ほど、救いがない。

作品5:主役はロケット

特定のキャラがいるわけではなく、無理やり言うなら、ロケットという概念がしゃべっているようなシーンがある。

沈黙の別世界から表面を突き破って、ヴァイオレントに(ジェットエンジンが音の壁に衝突する、将来には宇宙船が光の壁を破壊するだろう)憶エテオケヨ、今週ノ<ゾーン>のバスワードは FASTER THAN THE SPEED OF LIGHT、光ヨリモ速クだ、キミラの声も指数関数的にスピードアップさせるのだ―――
(下巻 p.632 )

この辺りはカタカナ交じりで分かりやすい。地の文の中に、ナレーションでもなく作者でもなくキャラの誰かの独白でもない、明らかに別者(別物?)のセリフが入ってくる。このセリフは、物語と独立している訳ではない。例えばこの「FASTER THAN THE SPEED OF LIGHT」は物語の中で、実際に合言葉のパスワードとして用いられる。

一人称で、時制は現在形で、誰に向けてかも分からず、物語の外側から語りかける。

こいつ、一体誰だろう?といぶかしんでいたが、解説で腑に落ちた。確かにロケットという存在(概念?あるいはロケットを飛ばすシステムそのもの?)が人格を持ち、未来から現在(まさに私が読んでいる今)に向けて語り掛けているのだろう。

これ、作品2の「テクノロジーが覇権組織を乗り換える」にも呼応する。

覇権国家がテクノロジーを奪い合う構図ではなく、連合/枢軸、資本/共産関係なく、その暴力をより洗練させてくれる組織に乗り換える(憑依する?)のだ。水が低きに流れるように、テクノロジーはより高度に集積させてくれる処に寄ってくる。

Vロケットの標的は、冒頭ではロンドンだった。だが、ラストは未来そのもの(いま読んでいる私含む)を狙ったかのようにも読み取れる。

なお、作品1~5への分解は、ボラーニョ『2666』を思い出す。5つの独立した物語がサンタテレサの虐殺を指し示す構造となっている。元々、5冊の本として刊行予定だったものを合体させたため、別々の「部」として分かれており、(800頁だけど)読みやすい。

あるいは、メルヴィル『白鯨』を引き合いにする人もいるかもしれぬ。400頁×上中下巻で百科全書的に 「鯨」を描いたところは似ているものの、分解すれば、劇(Drama)と物語(Narrative)と鯨学(Cetology)のモザイク構造になる(岩波赤の下巻の解説に、どの章がどのパートに当たるかのマッピング図が分かりやすい)。ドラマの視点は「わたし」の一人称なので、そこだけ読むと素直な小説になる。

しかし、ピンチョンの『重力の虹』は、700頁×上下巻のボリュームで、それぞれの物語が捩じりあい絡まり合う。『白鯨』に喩えるなら、劇/物語/ロケット学が同じ章・同じ文に入り混じるようなもの。

複数の話者、人称を使い分け、誰が誰に話しているのかも解きほぐしが必要なくらい混交しており、リニアに読むと頭がヘンになる。博覧狂気がフルパワーで楽しませてやろうと意気込んだ鈍器本がこれだ(ただし、読み手の方もある種の狂気が必要)。

ピンチョンは「面白い」のか?

「そんなん読んで面白いの?」と聞かれることがある。

これまで、以下の作品を読んできたけれど、「読んだ」というより「殴られた」「打ちのめされた」が近い。

 『ヴァインランド』
 『メイスン&ディクスン』
 『逆光』
 『ブリーディング・エッジ』

小説に小突き回され、物語に蹂躙される歪んだヨロコビを堪能するために、頁を繰ったという感じ。展開の因果や人物の関係性が分かりやすく描写されていないため、話のつかみどころが少なく、素直に読もうとすると爆死する。

ところどころ「面白い!」と感じる瞬間が激烈で、そのためにガマンするような読書になる(ピンチョン・マゾヒズムという)。

じゃぁ、その面白いと感じるところだけをスキミングすれば良いかというと、そうでもない。緻密に読んでおかないと見落とすどころか、そもそも何がどうなったかさえ分からないことになる。

例を挙げる。

「ノー・・・」中腰の構えで前へ進むと、何やら吊るされた物体があった。濡れた絹布に包まれた、凍りついた太もも。それがグラーンと揺れて彼の顔面にぶち当たる。海が匂う。顔をそむけると、今度は長い濡れた髪の鞭に頬を打たれた。逃げられない、あちらからもこちらからも・・・冷たい乳首・・・尻の深い裂け目、香水と糞と海水の入りまじった匂い ・・・そして、何なんだ・・・この匂いは・・・
(下巻p.257)

作品3のスロースロップの話だ。陽キャのイケイケ話から突然ホラーになるところ。沈みかかった船から、「あるもの」を取りに行かされるときに、彼が目にしたものの描写だ。

どうやら、殺されて吊るされた女の死体らしい。逃げ出したいのだが、唯一の出口にはこわーいおっさん(シュプリンガー)が待っている。既にシュプリンガーにボコボコに蹴られているので、行くしかない。

でも、この女は誰?

この女の名前は出てこない。女の乳首も、尻の裂け目も、確かに知っているのだが、スロースロップは気づかない。

実は、赤文字にした「絹布」がキーワードになる。スロースロップはこの直前にこの「タフタ地」に触れている。そして、「タフタ地」が出てくるのは、100頁ほど戻ったここだ。

「うーん、そこのファスナー、お願い・・・」ファスナーを引き下げると、身をくねらせて服を脱ぎ落とすビアンカ。赤いタフタ地の服がさらりと落ちて現れた、完璧な形の、クリームのように滑らかなお尻に一つふたつ、紫色の志が見える。
(下巻p.140)

スロースロップのお楽しみシーンだ。ビアンカの白く未熟な身体をまさぐり、唇のルージュの中にペニスを含ませ、喉の奥を堪能するところ。彼女の汗や性器の匂いを味わった100頁後に、香水と糞の入り混じった匂いをかぐことになる。このギャップがえげつない。

だけど、読者は100頁も前に女が着ていた服を覚えているわけねぇww 吊るされた女がビアンカだということは、この「赤いタフタ」しか手がかりがない。そういう、緻密な読み方と記憶力を強いるのがピンチョンなり。

これ、読者にめちゃくちゃ不親切なのだが、安心してほしい。訳者である佐藤良明が膨大な注釈で補ってくれる。作品1~5の構造的な読みと、「赤いタフタ」のミクロな読みの両方を必要とする。再読必至で、「ピンチョンは3回読むと分かる」と言われているのはこのせいだ。

だから、「読書とは知識や情報を得るもの」と考える人にとっては耐えがたいものになる。意味なんてないかもしれない。「作者のメッセージや意図」なんて分からないままかもしれない。「1つのまとまったストーリー」なんて無い。そういうものを求める人にとっては、混乱とノイズと不整合だらけで、読書は苦行以外の何物にもならないだろう。

かつての私がそうだった。

実は『重力の虹』、高校生のときに手を出して火傷してから、何度も挑戦→撤退を繰り返してきた。ピンチョンの最高傑作と名高いこの作品は、若さに任せて読み干すくらいの勢いが必要だ。もう若くなくなったいま、読書会をきっかけに、いま読まないといつ読むの? と自分を追い込みつつ、ようやく完走できた。読んでる途中に作品の構造が見え、点と線がつながるときの脳汁ブッシャー感はハンパなかった。いったんハマれば、中毒性の高い作品といえる。

いろいろな「読み」があるだろうから、読書会が楽しみすぎる。それに加えて、何よりも再読がもっと楽しみなり。分解したスロースロップの行く末とか、00001号の運命とか、いまとは全く別の読解になるはず。

相関図も、さらに「厚く」なるだろう。これ、「主要」登場人物の122人だけで、脇役も入れると倍になる。しかも、フィクションのキャラの関係性を描いているだけで、歴史に実在した人や、素材や物質や無生物や概念の中で重要なものは、ごっそり抜け落ちている。これらを重ねていくと、さらに重層な相関になるに違いない。

ピンチョンは再読からが本番だ。



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劇薬小説『夜のみだらな鳥』を味わう読書会レポート

<この記事はネタバレを含むが、バレているものが本当なのか分からない(たぶん、誰にも分からない)。なので、安心して読んで欲しい>

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ドノソ『夜のみだらな鳥』は、読めば読むほど分からなくなる。

「読むクスリ」とも言える中毒性が高い傑作だ(『百年の孤独』よりも酔えるぜ)。もう3回も読んだのに、蠕動するストーリーに呑み込まれ、もみくちゃにされ、おぞましい感覚だけを残して茫然となる。

これ、一人で読むから混乱するのではないか?

つまり、読書会でみんなで攻略すれば、全容をつかめるのではないか。最後まで読んでも分からなかった謎や、回収されていないように見える伏線、あるいは物語構造そのものの見落としが、目玉2つよりも二十四の瞳の方が拾えるのではないか。

そんな期待を軽々と越えてくる読書会だった。

全員が共通しているのは「カオス」の一言だけで、後は種々雑多な感想が飛び出てくる。

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面白いのは、同じ一つの小説なのに、見えているものが違うところ。

注目した点が異なるというよりも、同じものを見てたはずなのに、違うものに見えているところ。ウンベルトが犯した相手は誰? 「ボーイ」とは誰で、結局は死んだのか?(そもそも「ボーイ」は何人なのか?)。なぜ畸形ボーイは畸形なのか?黄色い牝犬の正体は?

見事に答えがバラバラになる。

これ、ドノソが読者を騙すために仕組んだ罠に、全員が全員ハマっている証拠なり。

語りかける一人称の「おれ」が信頼できない語り手であることは承知していても、文の途中で人称が変わり、話題が変わり、呼びかけ先が変わり、時系列が変わり、場所が変わる。話者だけでなく、語られている人・場所も変わる。読み手を混乱させ、物語と共にドロドロにさせる罠なり。

それでも、12種12様の「読み」がある。

そのバラバラの読みを繋ぎ合わせ、私の脳内と辻褄が合うようにしたのが上の絵だ。

物語構造の相似形

物語の舞台として、「リンコナダ屋敷」と「エンカルナシオン修道院」がある。前者はヘロニモの屋敷であり、後者はイネス(尼僧)が奇跡を起こした修道院だ。どちらも物理的に違う場所で、屋敷→修道院という時間軸で語られているように見える。

しかし、読み進めていくうちに、両者は融合されつつあるか、あるいは違う世界線なのに一時的に同じ時空に重なっているように見えてくる(スティーヴン・キング『タリスマン』や今敏『パーフェクトブルー』を思い出してほしい)。

そして、2つの舞台のそれぞれにシンメトリックなキャラが配置されている。同一人物であるが異なる役回りだったり、違う人物が同じ運命に遭ったりする。

例えば「屋敷」のクレメンテと「修道院」のヘロニモ。両者は親戚で、最初は堂々たる人物として扱われているのだが、虐待され、最終的にキチガイ扱いされて拘束具を着せられ、強制的に物語から退去させられる。さらに、この拘束のモチーフは袋詰め→インブンチェ→語り手のウンベルトへ引き継がれる。

インブンチェとは、”縫い塞がれた”存在だ。目、口、尻、陰部、鼻、耳、手、足、すべてが縫いふさがれ、縫いくくられた妖怪だ。ウンベルトは臓器を少しずつ入れ替えられ、体の80%を失い、赤ン坊のような存在になる。これが「ボーイ」なのか老婆なのかも意見が割れた)。

ラテンアメリカ文学の傑作として、ガルシア=マルケス『百年の孤独』とホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』は、双璧を成すと言われている。

物語構造の相似として考えるなら、『百年』は年代記として時系列的にくり返されている(似た名前のキャラは似たような運命に辿り着く)。一方『鳥』は舞台設定と役回りが相似する(2つの舞台を折り曲げると、同じ役割として重なる人物がいる)。『百年』が家系図として縦方向に、『鳥』は空間的に横方向にシンメトリックなのかもしれぬ。

基本テーマ「入れ替わり」

一方で、屋敷も修道院も両立しないという意見もあった。屋敷編で死んでいるはずのアスーラ博士は、時間的に後になる修道院編で手術をして、イネスを老婆に、ウンベルトをインブンチェにする。

この場合、どちらかが創作か、どちらも創作という可能性が出てくる。誰かが嘘をついているか、すべてが嘘なのかもしれぬ。

語り手は、基本的にどちらもウンベルトだが、ヘロニモとして語ったり「ボーイ」として語ったりする。しかも、ヘロニモになり替わったウンベルトが語ったり、ウンベルトに憑依したかのように「ボーイ」が語ったりしているので、本当である保証は無い。

そしてこの「成り代わり・入れ替わり」は、『鳥』の重要なテーマの一つになる。

ヒガンテと呼ばれる巨大な仮面を被るだけで、股を開きヤらせてくれるのがイリスだ(イネスとは別人)。なので、男たちはこぞって仮面を被り、イリスと交わる。屋敷編ではインポテンツだったヘロニモが、仮面を被り、ヒガンテに成り代わり、イリスと交わる。そしてヘロニモに成り代わり、男性機能を果たすのがウンベルトだ。さらにウンベルトが犯す相手としてイネスに成り代わるのがペータ・ポンセだ。

他にも、様々な入れ替わりがある。弱者と強者、不能とギンギン、美形と醜悪、親と子、使用人と雇い主、男と女など、手を変え品を変え、キャラや設定や因果を入れ替える。

読者はどこにいるのか?

この入れ替えは語り手と読者にも当てはまる。

重要なシーンの端々に、「黄色い牝犬」が出てくる。夜伽話で語られる老婆が憑依先だったり、賭け双六で走らされるコマだったり、青姦で残された体液を舐める存在だったりする。この犬は何だろう?という話になったとき、「これは読者そのものではないか?」という仮説が提示された。

なるほど、物語の節目節目に現れ、語り手とは独立してうろつき、邪魔ものとして追い払われるだけなのに、執拗に出来事を「目撃」しようとする存在―――これは、何が起きているのかを見極めようとする読者のメタファーなのかもしれぬ。

これを手掛かりにするならば、黄色い牝犬が見ていることが、本当に起きていることと見なせるかもしれぬ。そして、本当に起きていることを繋ぎ合わせて、もう一度読み直すなら、さらに別の物語が浮かび上がるかもしれない。

さらなる深みへ

おぞましい物語に魅入っているうちに、魅入られて、自分自身が物語の中にいる感覚。

これ、ヒエロニムス・ボスまんまやね(『快楽の園』を思い浮かべる人もいた)。

El jardín de las Delicias, de El Bosco.jpg
ヒエロニムス・ボス - Galería online, Museo del Prado., パブリック・ドメイン, リンクによる

快楽の溺れる男女、異形の怪物、脆くて崩れやすい世界に魅入られているうちに、「これは他人の物語ではなく、おまえ自身の選択の寓意ではないか?」と問われている気分になる。

読者は、物語を理解しようともがくうちに、物語に取り込まれ、役割を与えられる存在として入れ替わる。ヒエロニムス・ボス『快楽の園』と同型で、他人の地獄を覗いているつもりが、自分自身の寓意を見せられている構造となっている。

『夜のみだらな鳥』は、ストーリーを読み解き、「分かった」気分になる小説ではなく、読み手を混乱させ、(文字通り)夢中にさせ、理解しようとする「わたし」を歪ませる猛毒なのかもしれぬ。

東京ガイブン読書会の方、参加された皆さま、ありがとうございました。おかげで4回目も捗りそうです。

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「本」にする必要性と「本」である必然性―――仲俣暁生・finalvent 座談会

書きたいから書いている。だが、それなりの物量を「本」にする必要性はあるのだろうか? あるいは書いたものが「本」にならざるを得ない必然性はどこから来るのだろうか?

糊口をしのぐ、評価を得るなど、現実的な理由は多々あるが、ブログや動画でやれるし、コスパ的にはそっちの方がよさそうだ。それでもなお、「本」(特に紙の本)にしたくなるのはなぜか。

まず、形として残すためにある。

小説であれ批評であれ、一連の思考をFIXさせる必要性から、「本」という完成品になる。これがブログや電子書籍だと、消える。サ終により丸ごと消える電子本は、諸行無常の響きしかない(このブログも一緒やね)。だが、紙媒体なら物として存在することができる。

そして、物体としてあるから、手渡すことができる。

いくらでも改訂できるファイルではなく、印刷して確定した一冊を、パッケージとして渡すことができる。拡散は電子の方が効率的かもしれないが、「モノ」として誰かに手渡すことができるのは大きい(Kindleだとこうはいかない)。書棚のあそこにあるブツとして、未来の自分にも渡せる。

そんなことを考えさせられる座談会だった。

仲俣暁生・finalvent・坂田散文の鼎談形式で、「軽出版から考える 本を作ること・売ることの未来」というお題だったのだが、出版業界の未来そっちのけで語り倒すのが印象的だった。

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上図は、仲俣さんが投影した図をメモったものになる。電子との掛け合わせでも考える必要があるが、数字は紙媒体の部数になる。産業として見た場合、出版の未来は限定的なもので、稼ぐならマンガ市場になるという。

前提を聞き逃していた可能性があるが、おそらく、「紙媒体としての出版」のことを語ろうとしていたのだと考える。電子書籍にがっかりしている様子や、「自費出版と比べて一桁低い金額で~」といった発言から、紙媒体の未来を模索しているのだと推察した。

そして、モノ書きが紙の本でやっていくなら、軽出版という新しいフィールドを目指せというメッセージを受け取った。

ここにうまくハマるのが、finalventさんが上梓した『新しい「古典」を読む』になる。

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村上春樹や開高健、星新一、橋本治をはじめ、『寄生獣』『めぞん一刻』『のだめカンタービレ』などを採りあげ、「新しい古典」として読み直し、書評形式で文芸批評をする。

全4巻、Kindleアンリミで無料で読めるが、紙の本という形でも手にすることができる。商業出版社を通さず、著者自身が出版できるセルフパブリッシングという形態だ。編集や校正は自分でやる必要はあるものの、印税率は高いという。

読む方の立場だと、選択肢が増えるのは嬉しい。

Kindleで読んで、紙版を購入したのだが、オンデマンドプリントのため、紙質が若干異なる(ちょい厚め)。電子はいつかは無くなる。情報として参照するだけでなく、手元に「本」として置きたいという欲望を叶えるにはうってつけだろう。

書く方の立場なら、finalventさんのメッセージが響いた。

  • 届かないとか金にならないとかは度外視して、本を書くべき
  • youtubeやブログやnoteでは限界があり、自分が生まれて生きたということが本になる
  • 生きて苦しんできた青春の決着をつけるためにも「本」にする必要がある
  • 書いたものが残るかどうかはどうてもいい、それでも書く・残そうとするのがロマン

ネットのコンテンツは、運営が居なくなったら丸ごと消える(こことは別の場所でブログを書いていたが、キレイさっぱり無くなっててワロタ)。あんなに課金したネトゲも、サービス終了したら跡形もなく消える。思い出す者がいなくなれば、思い出の中にすら残らない。

デジタルデータは永遠だと無邪気に思ってた時代もあった。CDやDVDに焼いて、タイムカプセルに入れたら、遠い先の未来でも再生できると思っていた(およそ5~10年で劣化して読めなくなる)。

「自分の遺伝子を残したい」「傷痕でもいいから業界に残したい」など、様々な欲望があり、そのうちの一つに、「書いたものを残したい」という欲があるのかもしれぬ。「青春の落とし前を付ける」と言っていたが、まさにそうかもしれぬ。



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正気が侵食される毒書――劇薬小説『夜のみだらな鳥』三度目の報告書

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他人の悪夢を覗いているうちに、私自身がそこに居る。

夢だから、断片的で支離滅裂で、因果も時系列もデタラメだ。なのに、そこで起きた感覚だけは、べっとり肌身に粘りつく。

忌まわしい、ふりほどきたい、逃れたいのに、なぜか顔を近づけて嗅ぎたくなる。歯をむき出しにして齧りたくなる。語りかける口調に、思わず耳を傾ける。知りたくない(最悪の)展開を、目を凝らして待ち構える。嫌悪感と接近衝動の両方に衝き動かされるように読む。

そういう、中毒のような効果をもたらすのが、ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』だ。読んだことを後悔するような劇薬小説だ。

14年前7年前、そして今回で3度目の毒書なのだが、何回読んでもわけわからぬ(でもそれがいい)。だが、3度も悪夢につき合ってきたので、どんなやり方で、私の精神に大ダメージを与えているのか、その手口は分かるようになった。免疫というか耐性が付いたのかもしれぬ。

さらに、東京ガイブン読書会の12人がかりで読み解いたので、より多様なアプローチでこの悪夢に迫ることができた。ここでは、ネタバレ全開で『夜みだ』を腑分けする。

『夜みだ』の読みかた

まず、筋を追おうとするとロストする。

読書会で教えてもらったのだが、読書SNS(読書メーター?)では、「読んでる間ずっとカオス」「理解不能な混沌」といった感想が多いという。粗筋を知るためにSNSを開いたら、余計に混乱するだろう。

筋をまとめながら読むのは私もするが、こればっかりは苦労する(というか、あきらめた)。なので、語り手に任せて読む。

「おれ」という一人称の語り手らしき人物(=ウンベルト)は、誰かを見つめながら、その誰かに話しかけるように物語を進める。どうやら修道院が舞台のようで、ここに引き取られた老婆たちと一緒にいるらしい。

ではひとまず、彼の言うことを元にストーリーを追ってみる(もちろん、信頼できない語り手という余地は残しながら)。

しかし、進めるうちにおかしくなる。人称が変わり、話者が変わり、呼びかけ先が変わり、時系列が変わり、場所が変わる。話者だけでなく、語られている人・場所も変わる。

普通の小説なら、作者は読者に注意を与えるための印をつける。例えば、カギカッコ「」で括られたら、それを一人の発言だとする。「おれ」「わたし」「ぼく」という人称ごとにキャラクターが区別される。場面が変わるなら段落や章で区切る。

いわゆる「お約束」だ。

そういう「お約束」をぶっ壊しているのが『夜みだ』だ。

じゃぁそういう小説だと思えばいい。かと思いきや、お約束は守りつつ、壊す。いきなり全壊させるのではなく、最初はフツーに読めているのに、「あれ?」と思ったり「なんかヘンだぞ?」と気づかせる。

ウンベルト:語り手(おれ)
ヘロニモ:大地主
イネス:ヘロニモの妻
ボーイ:子

例えば、ヘロニモが死んでいることになっているが、普通に生きている。別に生き返っているわけではなく、時系列が入れ替わっているわけでもない。

読み手は仕方なく、「ヘロニモの死」は誰かの頭の中の妄想として考えるしかない。最近だと「世界線」という便利な概念があるので、それを使うなら、「ヘロニモが死んだ世界線」があるという前提で読む。

あるいは、語り手がウンベルトだと思っていたら、自然に地続きで「ボーイ」が語っている。同じ文章の中で「おれ」「わたし」「ぼく」が次々と切り替わり、ポリフォニックな残響にまみれ、誰がしゃべっているのか分からなくなる。「あなた」は呼びかけ先の人物なのか、あるいは読者である私なのか、分からなくなる。

読み手を混乱させる仕掛けは、そこらじゅうにある。

イネスと同姓同名の女が出てくるし、「イリス」という別の女も出てくる。話の流れ上、ボーイはヘロニモとイネスの子に思えるが、ウンベルトが孕ませたように取れる描写も出てくるし、それに重なるように、ウンベルトが老婆を犯すシーンもあり、かつ、その老婆にイネスが変身する展開も待っている。

しかも、語り手ウンベルトもおかしい。

最初は使用人だったのが、修道院に隠れるように暮らす老人だったり、うわごとを呟く瀕死の病人になる。ペニスを奪われ老婆になり、四肢を(少しずつ)奪われ胴体だけの達磨状態となる。それでも、「おれ」は、狂うことなく普通に語る。

こんな小説を読まされる方は、諦める他ない。狂気や妄想が正当化された作品も読んできた。「そういう作品」なら、夢野久作『ドグラマグラ』やカフカ『審判』が有名だし、キャサリン・ダン『異形の愛』やガルシア=マルケス『百年の孤独』の後半を推したい。

『夜みだ』の唯一無二なところ

でも『夜みだ』は違う。

語り手の妄想という可能性は残しつつ、語られている対象はクリアに伝わる。物語られるモノは、極めて明瞭に描写される。

例えば、畸形のわが子のために、世界中から畸形ばかりを集めて、畸形の楽園を作るエピソードがある。ヘロニモの跡取り息子として誕生した赤ン坊は、その醜い姿形から「ボーイ」とだけ呼ばれる。

大富豪であるヘロニモは、カネに糸目を付けず、世界中から様々な畸形を集め、大金を払って「ボーイ」の周囲に侍らせる。捻くれた背中や非対称な顔面、欠損した器官はむしろ「美」であり、私たちが普通だと感じる手足や姿かたちは、むしろ「醜」とされる。

ヘロニモは、屋敷の周囲一帯を買い取り、全体を一つの街として、世間から隔離する。そこで異形の者たちと共に、ボーイを管理しようとする(管理者はウンベルトである)。

ウンベルト自身は(その頃はまだ)普通の姿のため、異形の世界の中でただ一人、正常な人間として振舞う。屋敷では美と醜が逆転しているため、ウンベルトは「異形」として扱われる。

あるいは、修道院で老婆に囲まれ、ウンベルトはインブンチェとなる。インブンチェとは、”縫い塞がれた”存在だ。目、口、尻、陰部、鼻、耳、手、足、すべてが縫いふさがれ、縫いくくられた妖怪だ。

ウンベルトは少しずつ切り取られ、老婆たちが吸収する。生きていくために必要な器官は、老婆たちのものと取り替えられ、元の身体は20%しか残っていない。

老婆たちはおしめを替えたり、服を着せたり、面倒は見てやるのだが、大きくなっても、何も教えない。話すことも、歩くことも。そうすれば、いつまでも手を借りなければならなくなるから。

成長しても、決して部屋から出さない。いることさえ、世間に気づかせないまま、その手になり足になって、いつまでも世話をする。このおぞましさは、江戸川乱歩『芋虫』や早見純の劇薬マンガ『ラブレターフロム彼方』を思い出す。

畸形や欠損が「前提」として扱われ、自然に語られる。そこには、忌避感も痛みも伴わない語りだけが続けられる。どんなに異様な内容でも、普通に起きるのが夢だ。だからこれを夢だとしてもいい(でも誰の?私の?)。

極彩色の悪夢を強制的に見させられているうちに、私は、語りの対象がオーバーラップしていくことに気づく。最初にウンベルトがいた「修道院」と、ボーイがいた隔離「屋敷」が、同じ場所に重なっていく。ウンベルトがボーイとなることを暗示しているが、時系列的におかしい。美しい「イネス」は貧乏な老婆になろうとし、赤ン坊の若い器官は老婆のために使われ、支配者だったヘロニモは男性性をウンベルトに奪われる。窃視しているはずの「おれ」が実は「ボーイ」に見られてたり、経験していないはずの記憶を「おれ」が持っていたりする。現実から逃げようとした先が悪夢になる。あちこちに現れ、不吉を暗示し、物語を駆動していた「黄色い牝犬」は、読み手である私の視線の代わりだったことに気づかされる。

私は、安全な場所からの読者ではなかったのだ。

強者と弱者が入れ替わり、支配する者される者が転倒する。奪う/奪われる、見る/見られるといった立場の倒錯と、屋敷と修道院のそれぞれのキャラが相似形となっていることに気づき、融合し、闇の奥に閉じられる。語り手が完全に縫い括られる感覚と共に、物語は終わる。

狂気が正気の世界に呑み込まれる感覚は、こんなものなのだろう。あるいは、私が死ぬとき、現実に起きたことと頭の中で想像したことが、一度に一挙に超早送りされるなら、こんな光景なのだろう。

正気を確認するための再読

なぜ『夜のみだらな鳥』を、何度も読み返してしまうのか。

理解できなかったからではなく、むしろ逆で、「理解したと思った感覚」が、読み返す度に裏切られるからだ。分かった瞬間が罠で、ページをめくると、足元が崩れ去る。物語は崩れない。私の読みが崩れるのだ。

誰が語り、誰を見ているのか(見られているのか)、どこまでが記憶で、どこからが妄想か。判断基準が、普通の読み方では太刀打ちできず、毎回書き換えられていく。初読で「読んでる間ずっとカオス」「理解不能な混沌」と判断するのは簡単だ。だが、ひとたびこの悪夢に魅入られたなら、逃れるのは難しい。

つまり、再読は答え合わせではなく、別の悪夢を見るためのトリガーなのだ。読むたびに、読んでいる私の輪郭が、少しずつ奪われていく。信頼できないのは語り手ではなく、私自身なのだ。物語に理性を混濁させられる感覚は、一種の自傷行為なのかも。この悪夢に耐えられるか、正気でいられるかを、ぎりぎりで味わう。

その感覚が、たまらなく愉しい。




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学術論文の被引用数は「7回」「40回」を超えるとバズる『サイエンス・オブ・サイエンス』

N/A

過去のデータを分析して、その傾向から何かしらの因果や法則を見出し、再現性を計測する。この営みを科学という。営むターゲットが素粒子や遺伝子や恒星など、適用先によって呼び名は違えども、本質は一緒だ。営まれてきた研究成果や論文は膨大な数となり、かつ、指数関数的に積み上がっている。

では、適用先を「科学」そのものにしてみたら?つまり、「科学の営み」そのものをターゲットとし、論文、プレプリント、助成金申請書、特許を過去データとし、研究活動の痕跡データを解析する。

なにしろ登録された論文だけでも5,800万件にも及ぶ。論文の最初の1ページをプリントアウトして積み上げると、キリマンジャロの頂上(標高5,895m)まで達する。これを「科学の山」という。

うち1,000回以上引用されたのは頂上付近の1.5m で、ほぼ頂点となる上から1.5cmは、1万回以上引用されたものになる(ちなみに、五合目以下の半分は、一度も引用されたことがないそうな)。

この論文の山そのものが、研究対象になる。いつ、どんなテーマで書かれており、論文同士がどのように引用/被引用されているのか、インパクトのある論文は、どの国の、誰が、どの年齢のとき、どんなチームで書かれたのか、ヒット後のキャリアにどう影響があったのか(本人・チームメンバー)を分析していく。

アインシュタインやエルデシュのようなレジェンドも扱うが、それはむしろ外れ値になる。この山はむしろそうしたスター級の科学者だけでなく、その下の膨大な人々の営みによって支えられているのだから。

本書の研究によって、さらにメタ的な視点も得られる。即ち、科学そのものの進化プロセスをどう加速していくのかといった観点や、科学者の生産性および大学・研究機関における知的資源の配分をどう効率化するのかといった視点からも得るものが大きい。

この学問領域が、「サイエンス・オブ・サイエンス」になる。

本書の想定読者は大きく2つ。

まず、科学者としてのキャリア形成が気になる研究者や学生だ。どんなチームや共同研究が成功を生み出すのか? キャリアのピークはいつで、ヒットの前兆は何か? 若手が成功する確率を上げるには? といった疑問にデータで答えようとする。

次は、そうした研究者を採用・助成・管理する、大学や研究機関になる。テニュア審査や人事、助成金の配分の意思決定に際し、被引用数やh-indexをどう扱えばよいか? 研究の生産性を上げる施策として有効なものは何か? こうしたテーマで、科学が科学されている。

論文マタイ効果

「マタイ効果」とは、キリスト教の聖句「持てる者はますます豊かになり、持たざる者はますます貧しくなる」に由来する。有名な研究者に功績が集中したり、一度注目された論文はさらに注目されるというバイアスのことだ。

有名な例だと、「巨人の肩の上に立つ」という言葉だろう。巨人の肩(=先人の積み重ね)のおかげで、より遠くまで見通せるメタファーだ。12世紀の哲学者シャルトルのベルナルドゥスの言葉なのだが、400年後のアイザック・ニュートンの言葉として有名だ。

本書では、レイリー卿の例が挙げられている(空の青さのレイリー散乱の人)。1886年にある論文をイギリス学会に投稿したところ、掲載レベルではないとして即リジェクトされた。ところが、著者名にレイリーの名が漏れていたことが判明し、名前を追加して再投稿したところ、編集部から陳謝の言葉と共に即掲載されたという。

「何を言ったか」より「誰が言ったか」が大事なのは、SNSだけじゃなさそうだ。

では、実績が少ない若手科学者は、いつまでも評価されないのか?どこまで実績を積み上げればよいのか?

2013年にScience誌に掲載されたWangの論文では、被引用数の閾値が考察されている。世界最大級の学術論文データベースWeb of Scienceを元に、物理・生物・化学・医学・工学・社会科学の領域から解析したものになる(※1)。

Wangによると、被引用数が7回を超えると、優先的選択が急激に高まるという。

注意が必要なのは、「7回引用されればマタイ効果が出る」という訳ではないこと。

無名の新人が書いた論文であっても、掲載されたジャーナルの格や、研究分野のトレンド、著者や共著者の評判といった、社会的要因が引用数を押し上げることになる。Wangはこれを初期魅力度と定義している。

そして、最初の段階では、この初期魅力度によって引用数が左右されるものの、被引用数が7回を超えると、初期魅力度に関係なく、優先的に選択されるようになるというのだ。

さらに、キャリアに対する評判とインパクトを研究したPetersenによると、被引用数が40回を超えると、急増することを指摘する(※2)。

被引用数が多い物理学者を調査したところ、平均的な挙動として、被引用数が40を下回るときは、増加率はゆっくりで、著者の評判が引用数に影響する。

ところが、被引用数が40を超えると、増加率が急激に上昇する。検索結果でもレビュー記事でも目につきやすくなり、自力で引用を呼ぶ仕組みが出来上がる。このクロスオーバー点を超えた論文は、マタイ効果の自己強化ループに乗り、伸びるものは加速度的に伸びていくというのだ。

被引用数が7回を超えると、「引用されているから引用する」ループが回り始め、40回を超えると、自律的に強化されていく。「7回」と「40回」というこの数値、はてなブックマーク数や、twitterの「いいね」に似てて面白い。バズる論文は、似たような挙動を示すのかもしれぬ。

科学の自動化

科学を科学する試みの中で、ロボット科学者「アダム」の話が面白かった。

科学の営みって、結局のところ「仮説生成」と「仮説検証」に尽きる。データや理論から仮説を作り上げるステップと、そうして作った仮説を確かめるステップだ。前者はAIの得意技かもしれないが、後者ができるのは人の領域だとされてきた。

ところが、「仮説を考える+その仮説を確かめる」の両方を自動化したのが、アダムになる。

アダムは、酵母の遺伝子機能に関する仮説検証を完全自動化したロボットだ。

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アダムの全体像(”The automation of science”wayne aubrey,2009 [URL]

遺伝子構造は分かっているが、どのような働きをしているのか分かっていない酵素が数多くある。その酵素の働きを特定するためには、酵母や培養条件を考え、人手で何日もかけて検証していく必要があった。これを全自動化したというのだ。

アダムは既知の酵母の遺伝子情報や、培養モデルをインプットし、酵素の反応を導く遺伝子候補やその結果となる表現型を推定する。そして、酵母株や培養モデルや代謝物の条件を変えながら自律的に実験する。

ロボットなので、プレートやアームや温度湿度の制御も自分でコントロールできる。培養物の成長曲線も観察し、仮説が正しければ得られるはずの結果と照合する。人がやったことと言えば、不要となった培養物の廃棄と、実験器具の補充だったという。

アダムはデータの有意差も自分で検定し、最終的には酵素をエンコードする遺伝子に関する12の検証済み仮説をアウトプットした。

科学文献を調査したところ、12の仮説のうち6つは既に発表されていたという。そのため、この6つについては厳密な意味での新発見とは言えないものの、ロボットが独力で見つけた成果としては大きい。

さらに重要なのは、どの文献にも載っていなかったエンコード遺伝子を3つ発見したという点にある。これは、ロボットが科学的意識を自律的に生み出した最初の事例といってもいいだろう。

24時間366日、不眠不休で働き続けるロボット科学者。夢のような話だが、SF脳からすると、「致死的ウィルスとか放射性反応といった、人だとダメージを食らう実験も任せられるんじゃね?」という発想も浮かぶ。

アダムに任せられた酵母は、ビールやパンに用いられる一般的な(=安全な)種になる。ある意味、象徴的なテーマだね。

ちなみに、アダムの次世代機はGenesisと呼ばれており、独立した1,000ユニットを同時に稼働させ、酵母だけでなく、代謝ネットワークや細胞レベルの挙動を解析する科学のオートメーション・システムになる。アダムを一人の大学院生に喩えるなら、Genesisは1,000人の研究員になるという。

科学を科学する。顕微鏡や望遠鏡を始めとし、遺伝子編集のCrispr-cas9や巨大粒子加速器など、様々な機器を用いて、科学は発展してきた。そのレンズを、科学そのものへ向ける営みが「サイエンス・オブ・サイエンス」だ。

日本でも研究会があり、自分でデータも利用できるみたいだ。

第1回 Science of science研究会へ参加してきました|Metascience Bento-kai

科学をメタ的に眺めることで、科学を加速するアイデアも得られるかもしれぬ。そういうヒントに満ちた一冊。

 

※1 “Quantifying Long-Term Scientific Impact” Dashun Wang,et al,2013 [PDF]
※2 "Reputation and Impact in Academic Careers” Alexander M. Petersen,et al, 2014 [PDF]
※3 "The automation of science” wayne aubrey,2009 [URL]
※4 “Genesis: Towards the Automation of Systems Biology Research” Ievgeniia A. Tiukova,2024 [URL]



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