
著者の日課は、科学論文を読み漁ること。「ネイチャー」や「サイエンス」など世界的な学術誌から最低でも1日に100本(多いと500本)、年間だと5万本の論文に接しているという(全読は無理にせよ、アブストラクトだけでもすごい!)。
そんな中から、特に面白いもの、今までの常識や定説を覆すもの、インパクトのあるものを選んだのが本書になる。著者が「これはすごい!」と感じたのが判断基準なので、さまざまな分野の論文が俎上に上る。
ある意味「ごった煮」となっているカオス感が楽しい。専門が薬学で、脳科学についても詳しいのでそっち系が多い。例えばこんな感じ。
- 鶏肉は洗うな(洗うと雑菌が飛び散るので不衛生)
- 生物と無生物を分ける新しい定義「寄生される」
- クジラとフクロウの収斂進化に学ぶ失明治療のヒント
- 乳腺は汗腺が発達した器官という観点からのおっぱい成分分析レポート
- DNA配列をAIに学習させたら、「天然」よりも高性能なDNA配列を編み出した
- Chat-GPTの価値観は欧米圏(主な学習ソースが欧米圏だから)
注が豊富で、巻末に論文タイトルが挙げられているので、気になるものは自分でチェックすると、さらに楽しい。
鶏肉は洗うな?
例えば、「鶏肉は洗うな」の話。
著者は、ノースカロライナ州立大学のシューメイカー博士の論文(※1)を紹介しながら、生肉を洗う危険性を注意喚起する。生肉を洗うと、表面に付着した微生物が飛び散り、キッチンを汚染し、食中毒の原因となる。
一般人300人を集め、鶏肉焼きとレタスサラダを作ってもらった後、料理やキッチンの細菌を調べるというリサーチだ。
参加者が会場から去ったあと、鶏肉から出た細菌がどれほど残存しているかを調べたところ、生鶏肉を洗った場合、サラやキッチンから多くの細菌が検出されました。予想通りです。
生鶏肉を洗わなかったグループでは、さすがにキッチンに飛び散った細菌は少量ですが、驚いたことにサラダには、洗ったグループの半分程度の細菌が付着していました。食中毒の危険性は依然高かったのです。
『すごい科学論文』p.132より引用
なぜ、鶏肉を洗わなくてもサラダが汚染されたのか?理由は、鶏肉を触った手を充分に洗わなかったからだという。
でもそれって、「鶏肉を洗う/洗わない」とは関係なく、「手の洗浄が不十分」という話なのでは?と疑問が浮かぶ。
実際に [論文] を確かめると、まさにその話になっている。「洗う/洗わない」というグルーピングはしているものの、「食品の安全教育が料理の行動に及ぼす影響」がメインテーマになる。
被験者の300人は、全員が「ふだん鶏肉を洗っている人」になる。この人たちを、2つのグループに分ける。
- 介入群(142人):食品の安全教育のビデオレターを送る
- 対象群(158人):何もしない
ビデオレターには「鶏肉を洗わないで」というメッセージが含まれたもので、Eメールにより複数回送付され、介入群の82%は見たと答えている。
「鶏肉を洗う」という行動について、食品の安全教育が及ぼした結果は以下の通り。介入群の大半(93%)は「洗わなかった」ため、「鶏肉を洗うな」というメッセージの効果はあったと言えるだろう。
|
鶏肉を洗った |
鶏肉を洗わなかった |
介入群(教育あり) |
7% |
93% |
対象群(教育なし) |
61% |
39% |
一方、サラダが汚染されていた結果は以下の通りになる。
|
鶏肉を洗った |
鶏肉を洗わなかった |
介入群(教育あり) |
30% |
15% |
対象群(教育なし) |
26% |
31% |
先に引用したのは、介入群の数値の箇所だ。確かに「サラダには、洗ったグループの半分程度の細菌が付着」していた。
ん? むしろ洗わなかったほうが汚染率高くない?対象群の数字を見ると、そう言いたくなる。「26%(洗った)」と「31%(洗わなかった)」だと洗わなかった方が汚染率は高めだ。
元の論文(※1)も同じようなトーンで、「洗う/洗わない」というよりも、生肉に触れた手を介して汚染が広がっていたことが原因だと見ている。
Hand-facilitated cross-contamination is also suspected to be an important factor in explaining the cross-contamination that occurred in both groups. Lack of proper hand washing means that participants may have been preparing the meal with contaminated hands and spreading the bacterial tracer to other surfaces around the kitchen.
手を介した交差汚染は、両グループで交差汚染が発生した理由を説明する上で、重要な要因であると考えられる。適切な手洗いが行われなかったため、参加者は汚染された手で調理を進め、キッチン内の他の表面に細菌マーカーを広げてしまった可能性がある。
「生肉を触ったら、充分に手をキレイにせよ」というメッセージが伝わってくる。だが、最初にサラダを準備して、ラップして冷蔵庫にでも入れておけば?とツッコミを入れたくなる。
「手を洗う」動画は少ない
また、食品の安全教育についてなら、ビデオレターによる啓蒙よりも、Youtubeなどの料理動画を改善する方が効果がある気がする。
普通、料理の動画は編集されている。冷蔵庫から食材を出して洗ったり、調味料を量るシーンなど編集でカットするだろうし、切ったり剥いたりする作業は早送りするものが多い。
なかでも、「洗う」シーンは皆無に等しい。例えば肉を切ったシーンの後、同じまな板で野菜をカットする場合がある。当然、まな板は洗浄しているだろうし、包丁や手も洗っているはずだ。
だが、カメラは固定しており、一瞬で切り替わるため、あたかも洗っていないかのように見える。動画を見る人は料理のプロセスを求めているだろうし、テンポよく場面を繋ぐには「手を洗う」シーンは邪魔になる。そのため、カットされてしまうのだろう。
家庭料理や調理学校など、オンサイトで料理を学ぶのであれば、衛生観念はきちんと教えられる。初心者向けのレシピ本だと、最初の章でレクチャーされる(はずだ)。
しかし、これだけ動画が普及したいま、Youtubeだけで見よう見まねで料理する人は増えてくるだろう。その場合、「手を洗いなさい」と教えてくれる人は誰もいないことになる。
ちょっと気の利いた編集だと、「ジャー」という水の音を流したり、アルコール除菌スプレーをするワンカットを挟んだりする。あるいは、肉を切るまな板と野菜を切るまな板を別物にするのもある。
そんな気配りは、George ジョージ、くまの限界食堂でチラと見るくらい小数派だが、衛生観点のシーンはあたりまえになってほしい。
「鶏肉は洗うな」という”定説”は、細部まで見ると違った顔を見せてくれる。科学論文はやっぱり面白い。
※1 Shumaker E.T. et al ”Observational Study of the Impact of a Food Safety Intervention on Consumer Poultry Washing” J.Food Prot,85,2022
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