宇宙、生命、心と進化を一気通貫に語る『時間の終わりまで』

新卒が「一生やりたい仕事が見つかった」というのは、離乳食が終わったばかりの2歳児の「カレーの王子様は世界で一番おいしい食べ物である」と同じぐらい説得力がない(※)

本人が真顔であるほど、微笑ましい。自分の知る狭い世界でもって、それが全てであると言い切ることに無理がある。新しい仕事やカレーマルシェに出会って、世界が拡張されることを願う。

物理学に触れるようになって、同じ可笑しみを抱くようになった。

原子や中性子、クォークなど、どんなに小さいモデルを考えても、それだけでは説明しきれず、これまでの研究と矛盾する現象が生じる。

より巨大な望遠鏡を作り出し、宇宙の果てまで見渡そうとしても、私たちが知る宇宙とは、光が届く範囲でしか観測できない。

それにもかかわらず、現代の物理学でもって、物質や宇宙の全てがそうなっていると結論づけるのは、早すぎる一般化ではないだろうか。

「いやいや、素粒子論は何千回もの実験によって確かめられているし、シュレーディンガー方程式は10億分の1より高い精度で実験データと合致する。数学に裏付けられた物理学ほど確かなものはない」

素粒子物理学の第一人者ブライアン・グリーンは、そう主張する。確かに、その通りだと思う。研究や方程式については文句のつけようがない。

しかし、だからといって、その理論を、まんま絶対真理であるかのごとく断言されてしまうと、新卒や2歳児を見るように、微笑んでしまう。

「いやいや、2歳児と物理学を同じと見なすのは変だろう」

その通り。100年以上の歴史を持つ素粒子論と、離乳食が終わったばかりの2歳児を比べるのは変だし失礼だろう。

『時間の終わりまで』の魅力

だが、ブライアン・グリーンの『時間の終わりまで』を読むほどに、私たちが知っていることがいかに限られているかが見えてくる。

本書は、自然科学における素粒子や原子、分子といったミクロな観点から、ブラックホールや銀河、宇宙全体までを一気通貫で説明する。その旅路の中で、生命誕生における遺伝子や進化といった生命科学、心や自由意思、芸術や宗教といった人文科学にも目くばせしつつ、壮大なスケールで語り上げる。

数式は登場せず、記述は平易で、何よりも喩えが上手い。予備知識ゼロでどんどん入ってくるのが愉しく、知的好奇心がMAXに満たされる(物理学や数学の素養がある人には、巻末の脚注に数式が用意されている)。

特に興味深いのは、「分子ダーウィニズム」と呼ばれる化学的な闘争だ。

エントロピーと進化という切り口から、物理学の観点から生命誕生を語る試みである。

世代を下るごとに、より安定した分子配置が生じていくうち、「最初の生命」といえる分子集団が誕生したという。カオスな状態から、丁度良いサイズで分子が組織化されていく姿は、ビックバン以来、粒子が集まり、星や惑星や銀河を形成していくダイナミズムに重ねるように描かれており、知的興味を掻き立ててくれる。

エンパイアステートビルで宇宙の時間を喩える

喩え話で面白かったのが、「もしエンパイアステートビルで宇宙の時間を喩えたら」である。

宇宙の時間が、エンパイアステートビルの高さだと考えて、各フロアが時間の長さを示すと見なす。そして、ある階が表す時間の長さは、その下の階の時間の10倍と仮定する。

1階はビックバン直後の最初の10年になる。2階はその10倍の100年だ。3階は1000年になる。フロアを上へ行くほど、急激に長い時間が経過することになる。

ビルを上へ昇ったり下へ下りたりしながら、ビッグバンの影響、惑星や銀河の誕生、太陽系の誕生からその死、そして文字通り「時間の終わりまで」を探索する。

エンパイアステートビルの喩えのおかげで、最新の物理学が見せてくれる宇宙の歴史や宇宙全体の姿を、より生々しく体感することができる。

一方、物理学のおかげで体得した感覚からすると、物理学そのものの狭さに気づくようになる。

現在は、ビッグバンから始まって138億年ほど経過したとされている。エンパイアステートビルなら、10階から上にいく階段を上り始めたぐらいだ。人類の歴史は、階段の一段分にも満たない、あっという間の出来事になる。

このスケールで考えるならば、2歳児と物理学の長さは同じくらい瞬時のことになる。

さらに、エンパイアステートビルを上り下りしながら、宇宙の広大さを体感できるようになった。時間のスケールを自在に変えることで、そこで働く力(引力・斥力)を見える化するのは、惑星であり、恒星系であり、銀河であるからだ。

地球という惑星が巨大に見えるのは、せいぜい2メートルのヒトのサイズだから。カメラを引いて見るならば、太陽と比べ、地球はちっぽけな存在になる。太陽系が視野に収まるならば、太陽そのものも針先の点になる。銀河サイスだと、見ることすらできなくなる。

それほど宇宙は大きいのだが、その宇宙すらも、せいぜい光が届く範囲からの観測にすぎず、その外側にあるものは「分からない」が正解になる。

物理学の限界

ゴリゴリの還元主義者であるブライアン・グリーンは、「私たちは物理法則に支配されている粒子たちが詰め込まれた袋にすぎない」と言い放つ。

還元主義とは、基本的な構成要素を把握することで、宇宙のあらゆることを完全に説明できるという立場だ。惑星や銀河だけでなく、生命の誕生、意識や心、宗教や芸術など、あらゆることは粒子の振る舞いに過ぎないという。

それは物質としてなら正しいかもしれないが、説明にならないのではないだろうか? 美人はタンパク質で構成されると言うのは正しいかもしれないが、なぜ美しいのかは説明したことにならない。

そして、還元主義が「還元」できるのは、ヒトが理解できるサイズでしかない。コンピュータの助けを借りたとしても、要素が多すぎたり複雑すぎてモデルにできなかったり、そもそも測定/計算不能な対象であるならば、物理学として成立できない。たとえ正しくてもだ。

物理学に対する解釈が、まるで違っていて面白い。物理学が「正しい」のではなく、正しくなるように物理学は書き変わってきた、と見なす方が自然だ。

惑星の観測結果から得られたニュートンを元にした教科書が、観測技術の進展により得られた結果と合わなくなった。定数を足したりパラメーターを加えても成り立たなくなると、新たな分野として、ハイゼンベルクの教科書を作ろうとしているが、わたしには、「繕う」としているように見える。

ハイゼンベルクが正しくないと言っているわけではない。ある一つの理論で全てを説明できるという態度が妥当なのかと感じるようになった。

『時間の終わりまで』は、物理学で全てを説明しようとする、たいへん野心的な一冊だ。私たちが何を知っているかについて、これほど原理的に語ろうとしたサイエンス本は稀有だろう。一方で、私たちが知っていることがいかに小さいかについても、よく見えるようになった。

@yokichiさんのtweetより引用

| | コメント (0)

75歳以上は死を選べる制度『PLAN75』

75歳以上の高齢者に死ぬ権利を認める法案が可決され、通称「PLAN75」という制度が施行された日本。

75歳以上であれば、誰でも利用できる。住民票は不要で、支度金として10万円が出る(使い途は自由)。国が責任をもって安らかな最期を迎えるように手厚くサポートする制度だ。

この映画で最もクるのが、その生々しさ。

役所での手続き、コールセンターでのやり取り、いかにも「ありそう」な社会だ。劇中、制度への加入を促進するコマーシャルが流れるが、思わず信じ込んでしまえる。

あなたの最期をお手伝い

もちろん反対の声もあるだろうが、それを押し切って導入され、諾々と従ってしまうだろうなぁという肌感だ。

主人公は、78歳の角谷ミチ(倍賞千恵子)。夫と死別して以来、ずっと独りで暮らしてきた。つつましい暮らしを続けてきたが、あることがきっかけとなり、PLAN75を考えるようになる。

貧乏な老人は死ねというのか?

この物語のリアルさに拍車を掛けているのが、貧困の描き方だ。

もちろん生活保護という選択肢も残されているものの、そちらを選びにくいように描かれている。だんだんと彼女が追い詰められていくが、PLAN75を選ぶのはあくまでも自分、自己責任という社会だ。

撮り方によって、もっとおどろおどろしく描いてもいいし、ブラックユーモアをたっぷり混ぜてもいい。だが、そうしたケレン味を避け、ドキュメンタリータッチで淡々と描いている。

この映画を、「グロテスク」だの「あってはならない」と評するのは簡単だ。「良い映画だが、早く忘れたい映画」という評もある。

おぞましい、弱者切り捨てだとして、拒絶反応するのは楽だろう。自分の居心地の悪さを、そのまま「正しさ」として反発してしまえるのなら、とても簡単だから。不安を掻き立てる不協和音や、耳障りな電話のコールといった演出からも、そういったメッセージを読み取ることもできる。

だが、提示された社会が既視感ありまくりなのだ。「あってはならない」のではなく、自己責任という名のもとに切り捨てられる社会は、ここにある。自分がそこに立ったら、どうするだろう? と否が応でも考えさせられてしまう。それだけの説得力を持っている。

PLAN75が必要な理由

現時点でのわたしの結論はこうだ。

PLAN75を導入してほしい。なぜなら、わたしが利用したいから。75歳になったら「必ず」ではなく、75歳以上のいつでも好きな時に申し込めて、プランの実行中にいつでも好きな時にやめられる。死ぬときは選びたいと願っており、激烈でなく後始末の楽な奴を考えているから、願ったりかなったりである。

この映画では登場しなかったが、病気で苦痛だらけの毎日を過ごしている人や、あらゆる面で望みは絶たれ、ただ生きているだけの人がいる。考えてみると、貧困問題をクローズアップしていたものの、寝たきり・介護問題はスルーされていた(介護を受ける側は、あらかたPLAN75を実施済だと考えると寒くなってくるが)。

自分がその一人になる可能性は十分にあるため、そうなる前に、わたしが利用したいという独善的な理由だ。

しかし、親しい人がPLAN75を利用しようとするなら、それは全力で止めたい。たとえ何歳であったとしても、生きている限り、なにかしらの希望はあるはずだから(死んだらゼロだ)。苦しいことや辛いことも、後になって振り返ったら薄れて、代わりに、嬉しいことや楽しいことを思い出すだろうから。

矛盾しているだろ? 自分でも承知している。

「子のためなら、何だってする」

意図しているのかは不明だが、監督は、強烈な皮肉を利かせていることに気づいているだろうか?

フィリピンから出稼ぎにきた女性が登場する。故郷では夫と娘が待っており、病気の娘の手術代を稼ぐ必要があるのだ。だが、かなりの金額のため困っている。

それを、キリスト教の互助会でカンパしてもらうのだが、監督の意図としては、自己責任を押し付ける日本と対照的な存在とするためのエピソードらしい。

「フィリピンは9割がキリスト教徒で、助け合うという文化が根付いている。自分でなんとかしなさいという日本と対照的な存在として描きたかったのです」

早川千絵監督インタビュー

互助会のリーダーが、彼女を励ましてこう言う。

「私たち母親は、子どものためなら、何だってする」

だが、同じようなセリフを吐いて、PLAN75を選択した老母がいた。子どもや孫に迷惑がかからないよう、できるだけ身を小さくして生きて、そっと人生から退場する。溌溂とした若者ばかりのフィリピンの互助会メンバーと、老いた日本人グループが対照的だった。

老人は社会の「荷物」か?

『PLAN75』はカンヌ国際映画祭でカメラドール特別表彰が授与されている。これに遡ること40年前に、同じくカンヌでパルムドールを受賞したのが『楢山節考』だ。

貧しい村での口減らしのため、70歳になると楢山参り(姥捨て)をする風習があった。息子のことを思いやる老母と、母を捨てに行く息子の葛藤を描いたドラマになる。原作は深沢七郎の処女作だったはず。

もし、ブラックユーモアに全振りするなら、筒井康隆『銀齢の果て』になる。70歳以上の老人に殺し合いさせるシルバー・エログロ・バトルロワイヤル。刃物と弾丸が飛び交い、「長生きは悪」という黒い哄笑に塗れる老人文学の金字塔なり。

あるいは、戸梶 圭太『自殺自由法』を思い出す。

「死ぬ自由」が公的サポートを得た世界で、「使えない国民を自殺まで誘導する」国家プロジェクトが実行された世界だ。公共自殺幇助施設「自逝センター」に向かう人々の人間模様が滑稽なり。安楽死できるカプセル装置が近所にあり、死にたくなった人は、コンビニ感覚で死ねる。もし、「グロテスク」という形容を用いるなら、この小説のラストがぴったりだろう。

コミックなら藤子・F・不二雄「定年退食」になる(「退職」ではなく「退」)。

地球規模の環境汚染により、食糧難が深刻化した未来のお話だ。稼ぎの無い年金暮らしをしているのだが、食糧を節約しようと努力する。この世界は定員制で、抽選でもれた人々は、年金、食糧、医療、保険一切が打ち切られるというディストピアだ。ここでは、未来を担う若者に、老人が席を譲る世界になる。


これをさらに過激にしたのが、浅野いにお「TEMPEST」だ。

少子高齢化社会に対処するため、国は「高齢者特区」を建設し、そこで集中的に介護することで医療の効率化を図る。85歳以上の「最後期高齢者」になると、「人権カード」を国に返還し、実質的に「人」でなくなる。ラストの重苦しさでいうならば、これが最重量級だろう。

PLAN75は実施済み

実は、PLAN75はヨーロッパで施行されたことがある。名前は「T4」と呼ばれている。

もともとは、治癒不能の重い病気を抱える患者に対し、慎重な診察のもと、安楽死がもたらされるよう、医師の権限を拡大するという、限定的な計画だった。

しかし、計画は暴走し、医師が「生きるに値しない」と選別・抹殺していくことになる。

対象となった人は多岐に渡り、うつ病、知的障害、小人症、てんかんに始まり、性的錯誤、アル中、ユダヤ人も含まれていた。こうした人びとが何万人も、ガス室に送られ、効率的に殺されていった。

歴史ではユダヤ人のホロコーストが有名だが、「社会の役に立たない」「弱者切り捨て」の立場を具体的に実行したのは、ナチスのT4と言える(『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』)。

最後に、劇中のコマーシャルより引用する。わりと近い未来に、わたしたちは居る、と思っている。

PLAN75は、75歳以上の方なら、どなたでも利用できます
ご利用者の皆さまの、一人一人に寄り添った終活のサポート
まずは、お気軽にお問い合わせください
24時間365日電話サポート
あなたの最期をお手伝いします

もし、映画を観ることがあったら、スクリーンに映し出される題字に注目してほしい。「PLAN」の文字列は明瞭に映し出されているけれど、「75」の文字がぼやけているように見えた。わたしの見間違いかもしれないので、ぜひ、確かめてほしい。いったん導入されたら、「75」は、入れ替え可能だということを暗示しているのかもしれない。

PLAN75オフィシャルサイト

 

| | コメント (0)

なぜ鬱な映画を観るのか

「鬱な映画」と呼ばれる作品がある。

「鬱」と一言でいっても、その意味は幅広く、不安、違和感、自己欺瞞、悔しさ、自己嫌悪、敗北感などのネガティブな感情を指し示す、便利な言葉でもある。

そして「鬱な映画」というと、鬱病そのものを正面きって描こうとしている映画や、精神的な病をスパイスとして投影しているもの、あるいは、観終わるとダウナーな気分にさせるような作品など、これまた種々様々だ。

エンターテイメントなのだから、胸躍らせワクワクさせる展開や、観ててスカッとするシーン、あるいは感動で涙が止まらなくなるラストを求めるのではないだろうか。お金と時間と集中力を使って、わざわざ落ち込むような映画を観るのはなぜか。

一つは、怖いもの見たさというか、悲劇を味わいたいという動機が挙げられる。

不運な出来事に巻き込まれ、抜け出そうと足掻くものの、ことごとく失敗し、ラストは絶望の中で最悪の選択をしてしまう……極限状態に放り込まれた普通の人々の悲劇を、自分は、安全な場所で鑑賞する。

極限状態に陥った人はどうなるか、そこから戻ってくることが可能かを描いた映画は数多くある。いくつかピックアップしてみた(カッコ内は監督と公開年)。ナチス成分多めだが、わたしのためのメモなので、他にも強力なものがあれば、教えてほしい。

  • ダンサー・イン・ザ・ダーク(ラース・トリアー、2000)
  • レクイエム・フォー・ドリーム(ダーレン・アロノフスキー、2001)
  • シンドラーのリスト(スティーヴン・スピルバーグ、1994)
  • 縞模様のパジャマの少年(マーク・ハーマン、2008)
  • ソフィーの選択(アラン・パクラ、1983)
  • ホテル・ルワンダ(テリー・ジョージ、2006)

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』が嫌われる理由

たとえば、このテの中で真っ先に挙げられるのが、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』だろう。

女手ひとつで息子を育てている母親が主人公であり、苦しい家計の中で、必死になって貯金をしている。なぜなら、彼女は視力が弱ってゆく病気で、いずれ盲目になるからだ。病気は遺伝性で、息子も遠からずそうなる運命にある。

手術を受けさえすれば治るのだが、そのお金が高額のため、それこそ身を粉にして働き続ける。彼女の努力や誠実さは、実に残酷な形で裏切られることになるのだが、この映画を有名にも悪名にもしているのは、そこではない。

観始めるとすぐに分かるのだが、この映画は2つのモードで進行する。一つは、失明の運命に怯えながら働く日々を描いた現実モード。もう一つは、目を輝かせ、元気いっぱいに走り回り、歌い・笑い・踊るミュージカルだ。

現実モードのカメラは手持ちで、焦点が合わず、意図的にブレている。一方、ミュージカル調のときのカメラは固定されているか、あるいはクレーンで撮られており、「いかにも映画」な感じがする。

つまり、主人公の現実と妄想が、交互に重ねられながら、物語は進行してゆく。現実が彼女を追い詰め、逃げ場が無くなり、恐ろしい結末に向かって進むほかなくなる一方で、妄想の中の彼女は自信と魅力に満ち溢れ、運命なんて跳ね飛ばす勢いだ。

そして、ラストに近づくにつれ、現実と妄想が合わさってゆく。ひどい手ブレが無くなり、ピタリと焦点が合うようになってくる。彼女は妄想の中のように、いや、妄想よりも懸命に歌い続けようとするのだが、ついに現実に追いつかれる。

この時、観客は思い知る、「これが現実だ」と。自分は安全な場所から悲劇と向き合おうとしていたのに、その座っている場所は、彼女を見ていた人々と同じ椅子だったことに気づかされる。

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を酷評する人は、これが後味の悪いバッドエンドだから、という理由だけではない(そんな映画は沢山ある)。悲劇に感動したがってた動機ごと殴りつけられたからこそ、怒り狂っているのである。

無辜の女性が酷い目に遭うのを見て、心を痛め、涙を流したい。そうすることで、自分自身が向き合っている現実から一時だけでも目を背けたい……意識する/しないに関係なく、悲劇を味わい、号泣する準備をしていた所が、安全でもなんでもなく、現実とピタリ一致することが分かってしまう。

監督の意図を悪趣味だとかサディスティックと批判するのは容易い。でもこれ、手加減しているよね。ラストに、「あるもの」が彼女に手渡され、それが希望であるかのように扱われるが、監督が本当に邪悪なら、その持ち主を連れてきて、彼女を凝視するように仕向けるだろう。

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』が批判される理由を掘り下げると、「人が悲劇を見る理由」を裏切っているからであることが分かる。

『Cake ケーキ~悲しみが通り過ぎるまで』で予習する

もう一つ、鬱な映画を見る理由としては、精神を病んだ人が、どのようになるかを見たい、というものがある。「もし自分が心を壊したらどうなるか」を、映画でシミュレートするわけだ。

過酷な毎日に心をすり減らしている中、愛する人や大切な存在を失ったことがきっかけとなり、自暴自棄になる。何をやっても上手くいかなくなり、殻に引きこもり、自分を痛めつけるようになる。さらには生きる気力すら失い、茫然自失となる。

そこから、周囲の手助けにより自分を取り戻すようになるか、さらに酷い展開になるか、作品によって異なる。

だが、どれほどの負荷をかけると心が壊れて、そこから日常を取り戻すためにどんなプロセスがあるのかを、ひと連なりのストーリーで向き合うことができる。

鬱をリアルに描いた映画としてよく挙げられるのは、こちらになる。『鬱な映画』にあった。これも自分用のメモとして。

  • Cake ケーキ~悲しみが通り過ぎるまで(ダニエル・バーンズ、2014)
  • 普通の人々(ロバート・レッドフォード、1980)
  • めぐりあう時間たち(スティーブン・ダルドリー、2003)
  • シルヴィア(クリスティン・ジェフズ、2003)
  • リトル・ミス・サンシャイン(ヴァレリー・ファリス、2006)
  • なんだかおかしな物語(ライアン・フレック、2010)
  • メランコリア(ラース・トリアー、2011)
  • スケルトン・ツインズ 幸せな人生のはじめ方(クレイグ・ジョンソン、2014)
  • アノマリサ(チャーリー・カウフマン、2015)

たとえば、鬱状態の寛解を描いた作品として、『Cake ケーキ~悲しみが通り過ぎるまで』がある。

我が子を交通事故で失った母親が主人公だ。

自身も事故に巻き込まれ、肉体的にも精神的にも後遺症を負った彼女は、生きる理由を見出せず、周囲への怒りといら立ちを支えに、なんとか生き延びている。セラピーの会の中で人間的なつながりを見出そうとするのだが……という展開らしい。

もし、我が子を亡くしたなら、きっと耐えられなくなるだろう。だが、わたしがどのように苦悩するか、そしてどう回復するか(あるいはしないか)は、映画を通じて、予習することができる。

あるいは、わたしの親しい人がそういう目に遭ったなら、わたしはどう振舞うのか。正解なんて無いだろうが、どんな言葉があるのか、どういう振る舞いができるのかは、予め知っておくことができる。

当たり前なのだが、鬱病になった場合、きっと何もできないだろう。

以前、鬱に効く映画として『シネマ・セラピー』を紹介したことがある。だが、これは、気分が落ち込んだときにお薦めの作品であって、鬱病ではない。

実際に鬱病になったら、薬を飲んで横になるだけで、何かを能動的にしようという気力は全く出てこないに違いない。もちろん、映画を観ることすらできない。

映画を見る元気がある状態で、自分に降りかかる悲劇への振る舞いをシミュレートすることで、わたしは、家族も含め、現代を生きる適応度を高めているのかもしれない。




| | コメント (0)

『ゾンビ(’78完全版)』を観ると人生が豊かになる理由と、荒木飛呂彦が選ぶホラーBest20

まだ小学生だった息子を連れて、サッカー観戦したことがある。

試合が始まるのは少し先で、選手たちはシュート練習をしていた。プロを生で観るのは初めてなので、息子はえらくはしゃいでいたことを覚えている。

ボールにインパクトが加わると、すこし遅れて「キィン」という金属音が響いたり、ゴールを外したボールが飛んでくる「シューッ」という音が印象的だった。

その音で、ある映画のシーンを思い出した。トラックに積んだガラスが横滑りして、そこにいた男の首が切断されてしまう場面だ。

ほとんど意識せず、息子の顔の前に、私の右手を差し出した。同時に強い痛みが走り、「キィン」という音が届いた。

シュートを外した選手、練習を観ていた人、そして私自身が一番驚いていた。ボールが当たっていたら、子どもの頭は吹き飛んでいたと言えば大袈裟だが、ただでは済まなかったはずだ(後ろはコンクリの階段だった)。

最悪を予感して人生を楽しむ

たまたま不幸を免れたものの、突然の不運は起こり得る。

見通しの悪い交差点からは自転車が飛び出してくるものだし、老人はブレーキとアクセルを踏み間違えるものだ。工事中のビルから落ちてくるのは鉄骨で、急ブレーキを踏んだトラックから滑り出るのは強化ガラスである。

そこに居合わせたとき、不運は不幸になる。

これを、ありえない、と切って捨てることも可能だ。

旅先の田舎でチェーンソーを持った男に襲われたり、偶然に乗り合わせた客船が沈没したり、致死力の高い疫病に感染する、なんてあり得ない。そう考える人もいる。

だけど、どこまでの「ありえなさ」だろうか? 最悪のことはいつだって起こり得る。そう考えて生きている。

世の中は危険で醜くて、不運はそこここで起きているけど、たまたま不幸になっていないだけ。巧妙に隠されているだけで、死は、いつだってそこにある。だから、最悪を予感しつつ人生を楽しむようにしている。

この「最悪を予感して人生を楽しむ」上で、最も役に立つのが、ホラー映画だ。

人を怖がらせることを目的として作られたホラーは、「ありえなさ」に振り切って描かれている。人の命は現実世界ほどの価値をもたず、残酷さ、非道さ、おぞましさをありありと見て取ることができる。

誰でもウンコはするし、身体には大量の血が詰まっている。それが見えにくいだけで、確かにそれは存在する。ホラーは、ナイフや牙やチェーンソーを使って、明るいところに出してくれる。社会や人間の厭な面や、キレイでないほうの真実を暴き立ててくれるのだ。

安全圏から暗黒面を見る

『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』で同じような熱い主張に出会った。

ホラー映画の良いところは、「世界の醜く汚い部分をあらかじめ誇張された形で、しかも自分は安全な席に身を置いて見ることができる」点にあるという。人生のキレイでない部分に向き合う予行演習としては、ホラーは最高の教材となる。

倫理学の問題で「5人の命を救うために1人を見殺しにできるか?」という問いがある。何が正義なのかは選択肢があるが、そこからさらに「その1人が君の愛する人ならどうするか?」という形で、主人公が追い込まれていく。ホラーの醍醐味はそこにあるという。

極限状態が描かれているので目を覆いたくなるかもしれませんが、自然災害や犯罪に遭遇したらそういう選択を迫られることもあり得るという現実の可能性を、フィクションの形でエンタメとして見せてくれるのがホラー映画なのです。

だから皆さんには、せめて映画の中だけでも、きちんとそういうものに向き合ってほしい。「見るべき」映画という以上に、「見なければならない」のがホラー映画とまで言っていいかもしれません。

そして、ロメロ監督の『ゾンビ』の魅力を滔滔と語る。

ノロノロとした動き、人を襲って食べる様子は、それまでのホラー映画のモンスター(狼男、吸血鬼)と大きく異なり、徹底的に無個性な存在になる。それは、サラリーマン集団や街を歩く人々を遠くから眺めたときの無個性性に通じるものがあるという。

無個性な、人っぽく見えない存在だから、ためらいなく頭を打ち抜くことができる。むしろ、撃たないとこちらが殺られるルールになっている。人なのに人ではないという矛盾、元は人間なのにゾンビは殺してもいいパラドックスが、ゾンビ映画の世界観になる。

荒木飛呂彦が選ぶホラー映画Best20

実は、「ジョージ・A・ロメロ監督のゾンビ」といっても複数ある。どのゾンビを見るべきなのか。

  1. Night of the Living Dead
  2. Dawn Of The Dead
  3. Dawn Of The Dead (The Directors Cut) 

1と2は視聴済みだが、氏曰く、3こそ必見だという。いわゆる『ゾンビ(完全版)』らしい。これは観る。『ゾンビ』から始まって、『サンゲリア』『バタリアン』『ブレインデッド』『死霊のはらわた』『28日後…』とゾンビの傑作を語りつくす。

さらに、「田舎に行ったら襲われた」系のホラー(テキサスチェーンソーとか)、13金などの猟奇殺人、SFホラー(エイリアン)や構築系ホラー(CUBE)など、縦横無尽に語っている。「荒木飛呂彦が選ぶホラー映画Best20」を挙げるので、このリストでピンと来る人はぜひどうぞ。

  1. ゾンビ完全版(’78)
  2. ジョーズ
  3. ミザリー
  4. アイ・アム・レジェンド
  5. ナインスゲート
  6. エイリアン
  7. リング(TV版)
  8. ミスト
  9. ファイナル・デスティネーション
  10. 悪魔のいけにえ(’74)
  11. 脱出
  12. ブロブ/宇宙からの不明物体
  13. 28日後…
  14. バスケットケース
  15. 愛がこわれるとき
  16. ノーカントリー
  17. エクソシスト
  18. ファニー・ゲーム U.S.A.
  19. ホステル
  20. クライモリ

本書で知った、私が見るべきホラーを挙げておく。

『プレシャス』

「ホラー」というジャンルではない。ニューヨークのハーレムという過酷な環境で、16歳の黒人少女がありとあらゆる不幸の中で生きている。ジャンクフードで育ったことをうかがわせる肥満した体、母親からの虐待、もう十分悲惨なのに、それだけでは終わらない。これは殺人鬼も怪物も出てこないけれど、まぎれもなくホラー映画。

『REC/レック2』

ドキュメンタリータッチで描かれた作品。テレビ局のレポーターが取材中のアパートで事件に巻き込まれ、そこで起きる惨劇と脱出劇が、手持ちカメラで撮影した体で映し出される。最初の『REC/レック』を観たとき、たいへん怖い思いをしたのだが、氏曰く、2は1のラストシーンから始まっており、よりパワーアップしているので、通しで観ろとのこと。観る。

『ホステル』

「痛み」の映画。想像力が及ぶ限界に近いくらい「痛い」映画。東欧を旅する若者があるホステルを訪れて、そこで悲惨な目に遭う。プロット、ストーリー含めて語り口が非常にうまく、不気味さ100点満点。製作総指揮がクエンティン・タランティーノだから作れた映画で、普通の投資家なら、企画段階で、「これを作っちゃまずいだろう」と思うはずの内容とのこと。観る。

よいホラーを観た後は、「生きてるッ」って実感がする。生き延びたというか、死を免れた嬉しさがジワる。残酷な結末に「私はこうはならないぞ」と思いつつも、「運が悪けりゃしょうがないか」と諦めもつく。生きているなら、必ず起こり得るのは死だ(今の私がゾンビでないかぎり)。

よいホラーで、よい人生を。

| | コメント (0)

なぜイヤな映画をわざわざ観るのか

いわゆる「胸糞映画」というジャンルがある。

下品だったり悪趣味だったり、観た後に気分が落ち込むような作品だ。

ずばり恐怖を主題としたホラーの枠に限らない。幽霊や殺人鬼がいなくても、おぞましく理不尽な展開を描いた映画はあるし、鮫やゾンビが出なくても、残虐バッドエンドに至る作品はある(体感だが、普通の人しか出てこない胸糞映画の方がエグい)。

わざわざお金と時間をかけるのだから、泣いて笑って感動するようなものを観たがるのではいのだろうか? もちろん普通はそうなのだが、胸糞映画も一定の需要がある(さもなくば、跡形もなく消えているだろう)。

私がそうだ。

読み手の心を抉り、読後感がトラウマになるものを「劇薬小説」と呼び、好んで摂取してきた(「危険な読書」にまとめた)。読書は毒書なのだ。

映画も然り。自ら切開することで、自分の皮膚という境界が分かるように、精神的に痛めつけることで、自分の心がどこにあるかを知らしめる子どもが酷い目に遭うシーンを観て「痛い」と感じる場所こそが、わたしの心の在処なのだ。

だが、なぜ、そういう作品を観るのか?

ただ「好きだから」だけでなく、その「好き」を支える動機は何か。私の個人的な好みを越えて、一定の需要がある理由はあるのか。

「ざまあみろ」という感情

よく言われるのが、「人の不幸は蜜の味」というやつ。

妬みの裏返しだ。他人の幸福―――例えば、お金、美貌、健康な身体、若さ、素敵な恋人や配偶者―――そういう「持てる」人に対し、羨ましいと感じる。その嫉妬が募りすぎると、やがて自分自身の身を焼くようになる。

だから、芸能人や政治化のスキャンダルが暴露され、みじめな姿を目にすると、この上もなく甘美に癒される。メシウマ(他人の不幸で飯がうまい)や、シャーデンフロイデ(ドイツ語)とも呼ばれる。

この「羨ましい」という感情と、「ざまあみろ」という感情は、苦痛と報酬のメカニズムだという研究がある(※1)。

若い男女が集められ、あるシナリオを読むように指示される。その際、主人公を自分に置き換えて読むように条件づけられる。シナリオの主人公は異なる設定になっている。

①被験者と同じような境遇だが、学業成績や能力に優れている

②被験者とは異なる境遇で、平均的な能力

様々なバリエーションの中で、上記①の場合に、被験者は強い羨望を感じ、前帯状皮質が活性化した。そして、妬まれた主人公が不幸になると、より強い活性化が見られたという。

前帯状皮質は、ACC(Anterior cingulate cortex)と呼ばれ、脳の左右の神経信号を伝達する脳梁を取り巻く"襟"のような形をしている。血圧や心拍数のような自律的機能、共感・情動といった認知機能、そして、身体の痛みに関係しているとされている。

この研究により、自分に似た境遇だが、自分よりも「持てる」人に対して、羨ましいという苦痛が生じ、その人が不幸になると報酬が得られるのではないかという仮説が立てられている。

では、この「ざまあみろ」という感情を味わうために、人が酷い目に遭う映画を観るのだろうか?

例えば、『ファニーゲーム U.S.A.』という作品で考えてみよう。ミヒャエル・ハネケ監督で、映画史上、最も”不快”な暴力が描かれている。ある家族が酷い目に遭うのだが、まったくもって楽しめない。

湖畔の別荘でバカンスを楽しむくらい裕福で、上品で教養のある3人家族だ。そこに現れたのが、純白の手袋をし、純白のポロシャツを着た2人の青年。最初は礼儀正しく振舞うものの、徐々に残忍な本性を露わにしていく……

もし、メシウマの副菜としてこの映画を観るのなら、その純粋な暴力に打ちのめされるだろう。観客を本気で嫌な気にさせようと、監督が本腰で悪意を込めているのが分かる。覚悟を決めないと、正視すら難しいかもしれぬ。

おそらく、「ざまあみろ」という感情が成り立つためには、他人に降りかかる不幸のバランスが必要となるのかもしれぬ。株価の暴落で成金が貧乏になるとか、出世頭だったのに不倫がばれてクビだとか、そういった幸・不幸のバランスだ。

そして、天秤の不幸側があまりに重すぎる場合、「ざまあみろ」と感じた自分すら含めて打ちのめされるに違いない。

不安の排泄「カタルシス」

哲学・演劇からのアプローチだと、カタルシスを得るために観ると言える。

アリストテレスが『詩学』の中で主張している、精神の浄化のことだ。

身体の中に溜まった感情から解放されるとき、快楽をもたらすという理屈だ。物語を通じ、不安や恐怖、哀切や怒りといった、様々な感情を抱く。それは、登場人物の感情が観客に伝染する場合もあれば、監督の演出によって掻き立てられるときもある。

そこで呼び起こされた「怖れ(ポボス)」と「憐れみ(エレオス)」によって、観客が抱いていた感情は排出され、魂の浄化を得ることになる。これがカタルシスである。

ポイントは、怖れや憐れみを引き起こすためには、「不幸」の要素が必要だということ。多かれ少なかれ、物語の中には不幸がある。観客は自分に似た人物が不幸な目に遭うのを見て、自分もそうなるのではないかと怖れる。あるいは、理不尽な不幸に遭うのを見て、憐れみを覚えるのだ。

登場人物の行動が観客に及ぼす影響については、ミラーニューロンの研究が傍証になる。

ミラーニューロンとは、自分が行動するときと、他人の同じ行動を見るときの両方において活性化する神経細胞を指す。他人の行動を見て、まるで自分が同じ行動をしているように、「鏡」のような反応をすることから名づけられている。

ミラーニューロンは、新生児が他者の行動を理解し模倣する助けとなるとされている。身体の運動や、相手の表情を観察し、それを真似ることで、複雑な動作や経験を伝達していくことができる(※2)。

また、最近の研究では、扁桃体を含む大脳辺縁系や島皮質にも関与していることが明らかになっている。この部位は、情動や共感に深く関わっている。

他人の感情を自分のことのように感じるメカニズムは、ミラーニューロンの研究によって、明らかにされつつある。映画を観て、私たちが怖れや憐れみを感じる時、ミラーニューロンが活性化しているのかもしれない。

では、このカタルシスを得るために、人は胸糞映画を観るのだろうか?

もちろん、心を動かされ涙を流したり、溜まった鬱屈が解放されることで、スッキリするラストになる映画はあるだろう。むしろ、そういう作品の方が普通だ。

だが、観客の感情を捉えたまま、最後まで離さず、そのまま沼に引きずり込むような映画もある。モヤモヤした心を抱えたまま、一生忘れないことになる。

ジャック・ケッチャム原作の『隣の家の少女』がそうだ。原作であれ、映画であれ、この物語に触れたら、傷痕が残り続けることになる。

主人公はアメリカの片田舎の少年だ。隣に引っ越してきた少女に、淡い恋心を抱くところから物語は始まる。この作品のテーマは「痛み」だ。虐待・監禁・陵辱を受ける少女を、少年は、ただ眺めることしかできない。そのもどかしさに、観客は大いにミラーニューロンが活性化するに違いない。

だが、観客は、カタルシスを得ることはない。少女に襲い掛かる不幸に、怖れや憐れみを感じるかもしれない。それにもかかわらず、ラストに至っても感情は排出されない。物語は終わるし、因果の決着はつくが、傷痕は開いたままだ。

「物語はカタルシスを得るためのもの」という思い込みを逆手にとった作品なのかもしれない。

まとめ

この記事では、「なぜイヤな映画をわざわざ観るのか」という疑問に対し、以下の観点からアプローチしてみた。

  • 「ざまあみろ」という感情と、苦痛と報酬のメカニズム
  • 哲学・演劇の「カタルシス」と、ミラーニューロンの研究

少し抽象度を上げて、「なぜ悲劇を見るのか」という設問にすると、さらに以下のアプローチが生まれる。次のテーマとして追いかけてみよう。

公正世界説の援用:悲劇には不幸が生じる。「幸福→不幸」か、あるいは、「不幸→幸福」の順番の違いはあるが、必ず不幸がある。幸福~不幸の推移は、何らかの因果が示される。通常その因果は聴衆にとっての正義(=世界がそうあるべき、必ず正義は勝つ)に則っている。それを観ることで、世界が公正であることを再確認できる。

人生の予習:悲劇をもたらすものには、普遍性がある。持てるものを失う(金、地位、若さ、信頼、健康など)ことが、物語の中心になる。そのとき、登場人物は、どう振舞うのか(どう振舞うと、どんな結果になるのか)を学習するため。自分に降りかからない安全な場所から、安心して悲しみを味わう知的な喜び。社会や人間の醜い部分、汚い側面を拡大し、2時間で消費できるくらいのストーリーとして提供してくれる。本来であれば、そうしたえげつない部分は、危険を伴ったり、起きてしまったら避けることができない不幸として遭遇する。だが、映画館のシートという安全な場所から眺めることができる。不幸に繋がりそうなことを予測したり、それを回避するために先人(映画の主人公たち)が何を考え・行動してきたかを学習することができる。現代社会での適応率を高める人生の予習としての悲劇。

悲劇は「悲しみ」でない:アウグスティヌス『告白』第3章の悲劇論より。悲劇は悲しみではなく、「偽りの悲しみ」を扱っている。悲しい曲が悲しみを歌っているのではなく、短調の曲であれば人は悲しいと感じる。熟した果物が甘いのは糖分を含んでおり、摂取する側は栄養効率がいいし、果物側は種子を遠くまで運んでもらえる。人はネガティブに反応しやすいため、物語を遠くまで伝達してもらえる。文化的ミーム論。

人はなぜ悲劇を愛するのか : アウグスティヌス『告白』Conf.3.1.2~3.1.3の悲劇論

https://cir.nii.ac.jp/crid/1050282814198178816

悲しい音楽はロマンチックな感情ももたらす

https://www.riken.jp/press/2013/20130524_1/#note2

Why Do We Like Sad Stories?

https://www.verywellmind.com/why-do-we-like-sad-stories-5224078

Why do we love tragedy?

https://www.quora.com/Why-do-we-love-tragedy

注釈

※1

 https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/19213918/

Hidehiko Takahashi 1, Motoichiro Kato, Masato Matsuura, Dean Mobbs, Tetsuya Suhara, Yoshiro Okubo

When Your Gain Is My Pain and Your Pain Is My Gain: Neural Correlates of Envy and Schadenfreude,Science, 323,937-939,2009

※2

『進化でわかる人間行動の事典』p.210、小田 亮など、朝倉書店、2021




| | コメント (0)

水の中のタイムカプセル『世界の水中遺跡』

水の中には、すごい遺物が眠っている。

考えてみてくれ、地球の大部分は水に覆われている。しかも、風雨にさらされ、人が歩き回る地表と比べ、水の底は安定している。そう考えると、人の手が届きにくく、探し当てられなかっただけで、水中には数多くの遺物・遺跡があるはずだ。

それが、最新技術のおかげで、そうした遺跡が続々と見つかっている。『世界の水中遺跡』では貴重な画像とともに紹介している。

  • 縄文時代の貝塚(当時の有機物が残存している状態)
  • ヒエログリフが刻まれた紀元前300年の石碑
  • 古代ギリシャの暦の計算装置(アンティキセラ装置)
  • 元寇のモンゴル兵が用いた火薬兵器
  • 中世のヴァイキング船が丸ごと

縄文時代の有機物が大量に残っているのは、琵琶湖の粟津湖底遺跡だ。何千年も前なのに、なぜそんなに保存状態が良いのか? 遺跡の上には粒子の細かな粘土やシルトが積み重なっており、空気と遮断されていたためだという。

砂や泥が数十センチも堆積すると、バクテリアが生息できず、ほぼ完全に真空パックされた状態(不活性)になる。水中では温度も安定しているため、保存には最適な状態となる。いわば、水の中のタイムカプセルなのだ。

長崎県の鷹島海底遺跡には、元寇の新兵器も丸ごと残されていた。「てつはう」と呼ばれる火薬兵器で、鉄片が詰まった手りゅう弾のようなものだ。丸ごと残っていた発掘品をX線CTスキャンで解析し、3Dプリンタで復元したものまである。

20220529

Wikipedia:元寇『蒙古襲来絵詞』より。爆発している黒い欠片が「てつはう」

youtube【海底遺跡】海に沈んだタイムカプセル 水中考古学の世界 | ガリレオX 第28回

こうした遺物は、もし地表に残されていたとしても、風雨にさらされ朽ち果てるか、人の手によって持ち去られていただろう。だが、水中に没したからこそ、700年の時を経て再びまみえることができたのだ。

ビザンツ帝国の沈没船が大量にある黒海も有名だ。

かつて黒海は淡水湖だったが、気温上昇に伴う海水の流入で塩分濃度が急激に上がり、無酸素状態の海になった。生物にとっては過酷だが、60隻の沈没船を保存するには理想的な状態だという。歴史の教科書で学んだコグ船が、ほぼ完全な状態で見つかっている。

近年、こうした水中遺跡が続々と見つかっているのは、最新の科学技術による。

離れたところから対象物を分析するリモートセンシング技術や、水中ドローン(Underwater Drone)が多方向から撮影・実測したデータを再構成する技術(フォトグラメトリ)のおかげで、ダイバーが現地を「発掘」する前に、かなりの情報を手に入れることができる。

以前、人工衛星やドローン、航空機から遺跡を調査する技術のことを書いた(人工衛星から遺跡を探す『宇宙考古学の冒険』)。それと同じ技術革新が、水の中でも起きているのだ。宇宙から遺跡を探すのは、宇宙考古学と呼ばれているが、水中遺跡を探すのは、深海考古学とも、水中考古学とも呼ばれている(Deep Sea/Water Archaeology)。

歴史の手がかりとして残されているものは、文字情報が主なものだ。

石や竹に刻まれたり、皮や紙に残された文字が書き継がれて、今に至る。あるいは、宝飾品や美術品など、貴重なものとして保存されたものに限る。それ以外のものは、捨てられたり、朽ち果てることに任されてきた―――地上では。

また、水中の場合、盗掘されにくいという点も大きい。巨大な墳墓に隠された宝は、何百年、何千年もの間、人の手を免れるのは極めて困難だ。だが水の中なら、盗人も追ってはこない(ただし、潜水技術やソナーの普及により、海に沈んだ宝物を漁る輩がいることも事実だ)。

本来ならば決して見ることも叶わなかったものが、水の中から、続々と発掘されている。十字軍が交易したオリーブオイルの壺や、アラビア文字が墨書きされた唐代の茶碗、ドイツの潜水艇Uボート、沖縄戦で米艦隊に特攻した零戦など、歴史を語る「モノ」が現れている。

地球最後のフロンティアで、活躍が著しいのは水中考古学だ。そう確信させられる一冊。



| | コメント (0)

なぜ空からの大量虐殺が許されるのか『空爆の歴史』

無抵抗な人に向けて、殺傷力の高い武器で、一方的に攻撃する。される側は、男女・子ども関係なく、住んでいる場所を焼かれ、家族を殺され、命が奪われる。

空爆がそれだ。無防備の市民を、空から皆殺しにする。これほど残虐で、非人道的な行為はないだろう。

しかし、なぜか、空爆は「普通に」まかり通って来たように見える。市街地一帯、ひいては都市全体を火の海にするために実行されてきた。

非難や反対の声は挙がるものの、それにより空爆が制限されたり抑止されるかというと、そうはならない。

なぜ、空爆による大量虐殺が正当化されるのか?

この疑問に応えたのが、『空爆の歴史』だ。

空からの植民地支配を振り出しに、ゲルニカ、重慶、ドレスデン、東京、広島、ラオス、コソヴォと続く空爆の歴史を辿りながら、空爆する側のロジックと、黙殺された抗議の両方を知ることができる。

空爆は戦争犯罪

もちろん、空爆による大量虐殺は、戦争犯罪だ。

加害側の圧倒的な優位性を背景に、一般市民を一方的に殺戮する。いくら戦争という非常時とはいえ、そんなことは許されるわけがない。

だから、空爆は何度も禁止されてきた。ハーグ平和会議(1899年)、空戦に関する規則(1923年)、ジュネーヴ諸条約(1949年)と、くり返し宣言されてきた。人口稠密な都市に対し、空から無差別に攻撃することは、明確に国際法に違反するものとみなされていた。

特に、1923年の空戦規則は、当時のルーズベルト米大統領、イギリス政府、日本政府、ドイツのヒトラーでさえ、守るべき規則だと宣言していた(ヒトラーは議会演説および米大統領宛の回答書で約束している)。

ただし、この規則には抜け穴がある。

第22条 普通人民を威嚇し、軍事的性質を有しない私有財産を破壊もしくは毀損し、または非戦闘員を損傷することを目的とする空中爆撃は禁止する。

軍事用でない施設や、一般の市民に対しては攻撃を禁止する、とある。ということは、軍事設備や戦闘員に対してはOK、という理屈だ。

そして、どれが軍事用で、どれが軍事用でないか、あるいは、誰が市民で誰が兵士かを判別してターゲットとするのは、攻撃する側が決める

そして、空爆側のロジックにより、無差別な爆撃は繰り返された。

空爆側のロジック

本書には、空爆する側の「理屈」が紹介されている。

まず、植民地主義における「文明」から「未開」への攻撃になる。帝国主義の時代には、重化学工業の発展に伴い、ヨーロッパが圧倒的な軍事力を持った。同時にヨーロッパ中心的な世界観が普及し、「文明vs未開」の構造のもと、飛行機が軍事利用される。

「未開」側の対空戦力がゼロであり、「文明」側の人命コストを考えると、空爆が高く評価されるのは当然の成り行きとなる。スペインやイタリアが植民地に対して行った空爆が、その嚆矢となる。従来の地上兵力と異なり、機動力に優れ、低コストで攻撃できるという理屈だ。

さらに、「未開」に対して恐怖を与えることができるという。戦線から遠く離れて暮らす人たちを恐怖に落とし、心理的なダメージを与えることができる。空爆には、敵の戦意をくじくテロ効果があるというのだ。

このロジックは、日本軍における重慶爆撃(1938)、イギリスによるドイツ諸都市爆撃(1945)および米軍における日本の諸都市爆撃(1945)、そして広島と長崎への原子爆弾投下(1945)に引き継がれる。

地上部隊の場合の膨大なコスト(戦費および人命)に比べると、より安上がりに、敵国の人命を(兵士・民間人限らず)殺傷することができるからだ。161のドイツの都市から60万人の人間を殺害したイギリス、日本の67都市から60万人を殺したアメリカ合衆国の被害は、(殺された人々の数と比較すると)軽微なものだった。

空爆側のロジックの現実

では、空爆する側の「理屈」は正しかったのだろうか。

本書によると、真逆の結果を招いているように見える。より安く、より大量の市民を効率的に殺害できる、という点においては正しい。しかし、敵国の戦意をくじくことで、戦争を早期に終わらせるという点においては、間違っている。

日本軍の空爆後の、中国・台湾の人々の調査結果や、ドイツ爆撃後のイギリスの爆撃調査班の報告によると、真逆になる。同じ場所を攻撃されたことで、団結心を得て、ナショナリズムを高揚させる効果があった。

これは、アフガニスタンにおける対露感情、ベトナムにおける対米感情も然り。空爆をする側は、週・月単位でのプロジェクトになる。

しかし、空襲を被る側は、何十年に渡って敵愾心を燃やし続けることになる。ここで強調する必要すらないだろうが、2001年9月11日にニューヨークとペンタゴンで起きたことは、その証左だろう。

非人道的なだけでなく、効果の面から見たとしても、空爆する側のロジックは正しくないのだ。

空爆のダブルスタンダード

ロジックの矛盾は、日本やドイツの戦争犯罪を裁く場においても噴出する。

戦後の東京裁判やニュルンベルク裁判において、「人道に対する罪」で日本やドイツが裁かれた。だが、その中に空爆における罪は含まれていなかったというのである。都市を爆撃し、一般市民を殺害したことは、正当化できない。

「人道に対する罪」は、従来の戦争犯罪では捉えきれないナチスの犯罪を裁くために導入された概念だ。罪刑法定主義という法の常識を超えて、事後的に作り出された、新しい「罪」の概念となる。

国家による大量殺人が人道に対する罪であるならば、その第一等に当たるのが、空爆だろう。日本は中国各地で、ドイツはイギリスやフランスに対し、大量の爆弾を落としてきた。それが、なぜ裁かれなかったのか。

答えは、「同じ罪を連合国側でも問われることになるから」だろう。だから、俎上にすら乗らなかったのだ。

ニュルンベルク裁判で訴追主席であったテルフォード・テイラーは、裁判から25年後にこうコメントしている。

都市破壊のゲームは、連合軍のほうがはるかに成功をおさめたので、ドイツや日本を訴追する根拠がなく、事実そのような訴追は持ち出されなかった。連合国側も枢軸国側も空爆をきわめて広範かつ残酷におこなったので、ニュルンベルクでも東京でも、この問題は戦犯裁判の一部にもならなかった。

空爆は、低コストで一方的に殺戮を行うことができる。戦闘で死亡する兵士としての「戦死者」の数を、極小にすることができる。これは、軍部にとっては何者にも得難いメリットだろう。

そして、「軍事施設のみを目標にする」という名目でありながら、何をターゲットにするかは攻撃側に委ねられている。さらに「早期に戦争を終わらせることで互いの被害を最小化できる」という理屈は、未来の火種を無視し続ける限り、有効になる。

空爆のダブルスタンダードを暴き出す一冊。

| | コメント (4)

説明を「押し付ける」技術と「押し返す」技術

説明を「押し付けられた」経験はないだろうか。


「この変更は、今月中に対応してリリースすべきです。お客さんも喜ぶし、ウチの利益につながるので、絶対に必要です。逆に、なぜできないのでしょうか? できない理由を聞きたいのではありません。どうすれば間に合わせることができるのか、そのために何をすればよいのか、それを考えるのは、エンジニアの仕事でしょう!」


逃げられない会議の席上で、こんな風に言われたことはないだろうか。私はある。しょっちゅうだ。

  • そもそもスケジュール的に無理がある

  • 変更のインパクトがどの程度なのか分からない

  • 当初の予算内に収まるかも分からない

できない理由をしどろもどろに言わされて涙目になる。できないことが私の罪で、その罪を免れるための言い訳をしているような気にさせられる。


そんな私に、ぜひお薦めしたい本を、レバテックLABにまとめた。


詳細はリンク先に任せるが、私が失敗したのは、「なぜできないのでしょうか?」という質問に、答えようとしたから。


人というのは不思議なもので、「なぜですか?」と聞かれると、反射的に答えてしまうもの。そしてエンジニアというのは真面目なもので、できるだけ正確に答えようとしてしまう。


それは罠だ。 


できない理由を裏返すと、それさえクリアすればできるから、それをクリアするための方法を皆で考えよう、という流れになってしまうから。「詳細が分からないから回答できない」と正確に答えようとすると、「じゃぁ明日じゅうに回答してね」と宿題になる。それおかしくない!?


正しくは、「その質問に、なぜ私が答えなければならないのか?」という視点だ。


いま進行しているプロジェクトは、決められたリソース内で、合意された成果物を生み出すためのものだ。それを、わざわざ変更したい、と言い出しているのは、営業(ないし客)だ。だったら、なぜ変更しなければならないのかについて、答えなければならないのは、言い出しっぺの営業(もしくは客)になる。


その変更に対応できる/できないとかの議論の前に、それを今しなければいけない理由を、きちんと説明してもらおう。


これは「立証責任のルール」と呼ばれている。要するに、言い出しっぺが証明しなければならないというルールだ。議論が上手い人は、立証責任を押し付けるのが上手い人だと言える。


これは悪用もできる。たとえ自分が言いだしっぺで、立証しなければならない場合でも、「あなたは反対なのですか? なぜ反対なのですか?」と質問することで、立証責任を相手に負わせることができる。本書では、立証責任の負わせ方、かわし方が沢山の事例とともに紹介されている。


私がぶつかってきた様々な障壁は、書籍という形で、抜け路・回り道・バックドアがあった。一人泣きながら何日も苦悩したり、周りとぶつかってぎすぎすしてきたことは、実は、数千円と数時間で「答え」が既にあったのだ。


そんなお薦め6冊をレバテックLABにまとめたので、ぜひ読んで欲しい。

| | コメント (0)

「おいしい」を伝える技術『おいしい味の表現術』

「おいしい」としか言えないのがくやしい。

食べたときの、その「おいしさ」をどう伝えるか?

  • ふわとろ
  • 肉汁がジューシー
  • コクがあるのにキレがある

陳腐すぎて、何のコマーシャルだよ? とツッコミたくなる。

私のアタマが染まってしまっているのだろう。宣伝に洗脳されすぎて、自分が感じたことを言葉にする代わりに、グルメ番組の定番セリフをあてはめるだけのような気がしてくる(肉料理ならジューシー、麺類ならコクとか)。

それはクリシェ、常套句みたいなものなんだから、あまり考えず、手垢にまみれた言葉を使えばいいんだよ、という声も聞こえてきそうだ。あるいは、「筆舌に尽くしがたい」に逃げるとか。

だが、くやしいのだ。

「おいしい!」と感動したのなら、その感動をなんとかして伝えたい。具体的に想像できるような言葉で、同じ感覚を追体験できるような表現で伝えたい。

そんな人にとって、福音となる一冊が、『おいしい味の表現術』だ。

「おいしい」を体系化する

「おいしい」に関わる膨大なデータを分析して、その表現を体系化している。味覚や食感といった感覚的な側面だけでなく、食材や調理プロセスなど、「おいしさの情報」も含めて掘り下げる。

例えば、「おいしい」を表現する言葉は、こんな風に体系化される。

  1. 味評価:うまい、ヤバい、舌鼓を打つ、甘露、ほっぺたが落ちる
  2. 味覚:甘、酸、塩、苦、旨、辛、渋
  3. 共感覚:視覚(こんがりキツネ色)、嗅覚(こうばしい、芳醇)、聴覚(じゅうじゅう)、触覚(コリコリ、アツアツ)
  4. 味まわり:揚げたて、炭火焼き、三ツ星レストランの味、国産小麦100%の手打ち

食をめぐるエッセイや小説、マンガを例に、たくさんの表現技法が紹介されているが、特に参考になるのが、「共感覚」と「味まわり」だ。

まず、ジュージューといった音で期待値を上げ、たちのぼる香ばしさと温かさを顔面で感じ、こんがりついた焼き目を目で味わう。箸で崩せる柔らかさに感動しながら一口をほおばる。旨味を舌で受け止めるだけでなく、歯ぐきや口蓋でテクスチャ―を感じとる。

そして、噛むとともに変化する味わいと食感を惜しみながら、香りが鼻へ抜ける広がりに自然と笑顔になり、喉ごしを堪能する。さらに、素材やスパイス、調理プロセスを知り、「情報を食べる」ことで、より深く味を理解することができる。

以上、「おいしい」という言葉を使わずに書いてみた。これに、味のメタファー(広がる、閉じ込める、駆け抜ける、奥行きがある)を交えると、膨大な組み合わせになる。食べる場所の雰囲気や、合わせる飲み物との相乗効果も考えると、「おいしい」は好きなだけ再生産できそうだ(文章生成は、AI と相性がよさそうな気がする)。

「おいしい」をマンガで伝える

なるほどなぁ、と唸ったのは、マンガにおける「おいしさ」の表現方法について。

文章もそうなのだが、マンガは味もしないし、香りもない。でも確かに、マンガを読んで「おいしそう!」と思ったり、その味を想像することができる。

本書では、マンガの表現技法は3つに分類できるとする。

  1. 説明ゼリフ
  2. モノローグ
  3. 心象風景

説明ゼリフは、会話(フキダシ)の中で、おいしさを伝える方法になる。実際に食べたり飲んだりしながら、感じたものを説明する。代表例が『美味しんぼ』で、数多くのグルメ漫画で踏襲されている。オーソドックスな手法ながら、どうしても解説チックになってしまい、情報量が多く、わざとらしく不自然なセリフになる傾向があるという。

これを改良したのが、モノローグになる。マンガ手法だと、白枠の中で表現したり、フキダシを雲状にすることで、「心の中」を伝える。『孤独のグルメ』や『ワカコ酒』のように、ひとりで食べる/呑む設定に見られ、食べた感想を、思考の形で伝えることができる。

説明であれ、モノローグであれ、どちらの場合も、言葉=文字で「おいしさ」を伝えるしかない。この限界を、マンガならではの手法で打ち破るのが、心象風景だ。

料理そのものではなく、それを感じ取った内面を比喩的な絵で表現する。極上のワインを飲んだ瞬間、森の奥に古城が見えたり、おいしさが全身を駆け巡るあまり、全裸になったりするあれだ。『神の雫』や『食戟のソーマ』が思い浮かぶ。読者の視覚そのものに訴えることができる。

実際のところ、料理をテーマにした漫画は、これらの組み合わせで「おいしい」が表現されている。第5章「マンガな味」を読むと、グルメ漫画がよりいっそう「おいしく」感じるだろう。

他にも、おいしさにまつわる様々なテーマについて掘り下げている。どれも、それだけで一冊の本になりそうなほどの濃厚で味わい深いネタばかりだ。

  • よく使う割によく分かっていない「コク」と「キレ」の正体は、どんな味なのか
  • 男は「うまい」、女は「おいしい」といったジェンダー差異はあるか
  • 生ビール、生チョコレート、生醤油、生味噌などの「生」をめぐる表現

各章の末尾には大量の参考文献が紹介されており、それらを押さえるだけでも、おいしそうなグルメレポートが出来上がることを請け合う。

特に、「『おいしい』を感じる言葉Sizzle Word」レポートと、『おいしさの表現辞典』は有用だろう。AI に学習させて、画像からレポートを出力させるようにすれば、食べずに「おいしさ」を伝えることができる(本末転倒だが)。

最後に注意する点を一つ。

カレーについての第6章と、ラーメンについての第7章だ。1章を丸々使って、おいしさの表現技法を徹底的に解説する。普通、「飯テロ」は画像だが、これは読む「飯テロ」である。くれぐれも、深夜に開かぬよう、忠告する。




| | コメント (0)

エロと美のあいだ『ヌー道』

みんながマスクをしてるから、人間の口がだんだん猥褻なものに見えてくる。

もちろん、私の性癖が常軌を逸していることは自覚してる(例:釘宮病)。

だが、「秘すれば花」と世阿弥が言う通り、隠されているという意識にエロスが発生することを止められぬ。

というのも、久しぶりに出社したとき、マスクをちょっとずらして、コーヒーを飲む同僚(女性)を目にしたから。そのとき、プライベートな場所を目撃したかのように感じたから。

私が異常なのか?

イエス。

だが、私だけなのか?

などと悶々としていたら、みうらじゅん&辛酸なめ子の対談に出会えた。同じことを考えてるみたいで、「マスクは口にはく下着」「尊さとエロは同じ」など、さらに発展させており、学ぶところが大きい。

タイトルは『ヌー道』、nudeと道をかけている。ハダカの芸術も、究めればそれは道になる。ロダン、ルノワール、裸の/着衣のマハ、グラビア誌などを俎上に、古今東西の裸談義を繰り広げる。

お二人の話を聞いていると、芸術だから無罪だったものが、時代の変化に曝されたり、当時はスルーされていたのに、今では惹起させるものになったことが見えてくる。

エロは変わる

典型的なのは、言葉だろう。かつて「猥褻(わいせつ、漢語)」と呼ばれたものは「エロ(Erōs、ギリシャ語)」になり、今じゃ「エッチ(HENTAI、日本語)」なものになっている。ポイントは、この3つの言葉は同一のものを指していない点にある。微妙に重なり合いながらもズレが生じており、さらにそのズレは動いている。

例えば、「抱かれたい男ランキング」だ。

雑誌やテレビなどでアンケート調査して、抱かれたい芸能人を格付けする。この「男」を「女」にした「抱きたい女ランキング」は今では完全にセクハラだが、なぜ「抱かれたい男」の方は許容されているのか。

この疑問への応答が面白い。

みうら:(世の男性は)悔しくは思うんでしょうが、それが励みにもなるからじゃないですかね。ま、妄想の中の「抱きたい、抱かれたい」をどこまで容認するかってことですよね。

辛酸:誰かを傷つけたり、犯罪になってしまったら問題ですが。そうでなければという風にも。

そのうち、「抱かれたい男ランキング」も程なく消えていくように思える、表からは。あるいは、「抱かれたい」を「癒されたい」にするなど表現を変えて生き延びるかもしれぬ。

さらに、「エロスクラップ」には度肝を抜かれた。

みうらじゅんは、雑誌のグラビアや写真集のページを切り貼りしているのだが、40年間欠かさず続けており、その量も膨大なものになる。これだ。

Nudou

「みうらじゅんフェス:エロスクラップ」より

450巻を超えるというエロスクラップをカラーコピーして、横浜スタジアムの床一面に並べるとこうなる(コピー機が2台壊れたそうだ)。

単純に、「この娘いいなあ」と残しておくだけでなく、どういうレイアウトにすると、より「映える」とか、ストーリーになるような相手や場面、組み合わせを考えながら貼る。自分の性癖にトコトンつきあう熱量に脱帽する。

最初は自分のために始めたのだけれど、友人から「貸して欲しい」と頼まれるようになってから、編集者としての意識が芽生え、エンターテイメント性をも追求するようになる。まさにヌー道(どう)なり。

これ、風俗の史料になるのでは……と思えてくる。

もちろん、いち個人の性癖フルスロットルの集大成なのだが、そこに残されている画像は、その時代を切り取ったものになる。シチュエーション、ヘアスタイル、ポーズ、アングル、身につけているものと肌面積、露出、キャプションといった要素のデータベースともいえる。

未来のヌー道

ダヴィデの包茎からマハの乳輪の色づき、観音菩薩が微乳である理由など、エロとアートの共犯関係を見ていくと、未来のヌー道を考えたくなる。

その際、本書に加えて『官能美術史』を取り上げたい [レビュー]

西洋美術における性愛の歴史に焦点をあてた名著だ。西洋の中で「愛」がどのように定義され、変化していったか、さらに美術史におけるヌードと身体意識の変遷を知ることができる。

レンブラントの冷たい裸体や、中性的なダヴィデ像の中で、ひときわ目立つのが、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた男女の輪切り図になる。表面を覆っているものを取り去るだけでなく、その奥にあるものを視覚化している。

タブーであるハダカは、世界じゅうにまみれている。具が見たいのなら、クリック一つで済む。そんな世界で、あえてハダカを見るのか?

なんて考えると、見たいのは、裸体なのではなく、覆われているものなのではないか、と思えてくる。マスクで隠された口唇のように、見えないからこそ、見たくなる。この追求は、ダ・ヴィンチの「性交断面図[リンク先注意]」を始めとし、現代のエロマンガでも脈々と息づいている。

その未来は、スタニスワフ・レム『虚数』にある[レビュー]。これは、実在しない本の序文集なのだが、未来のポルノグラフィーとして、セックスする人々のレントゲン写真集が紹介されている。衣服を脱がせたポルノと、肉を剥がしたレントゲンが合わさったポルノグラムと呼ぶらしい。

隠すほど、見たくなる。

世阿弥の「秘すれば花」の意味は、「花を隠しなさい」ではなく、「隠してあるからこそ花になる」になる。秘密にしなければ、花にはならないのだ。

ずっと見たくて仕方なくって、長い間追い求めていたものを、ようやく直に「見」たときの感動と達成感は、ハンパなものではなかったはずだ。

自分は何が見たいのか、現代は何が隠されているのかを考え直し、己の性癖と向き合うのにうってつけなのが、『ヌー道』だ。

健闘を祈る。

| | コメント (2)

«歴史認識をアップデートする『世界史の考え方』