「語りえぬもの」とは何か?『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考 』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年5月19日


「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』は、この一文で終わっている。

ウィトゲンシュタインは、この一文を証明するために『論考』を書いた。
すなわち、この一文が分かることは、『論考』が分かることに等しい。

何度も挑戦し、挫折し、さまざまな回り道をしてきたが、古田徹也氏が著した『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』で、ようやくたどり着いた。やっと「分かった」と言えるようになった。

しかし、本当に「分かった」のか? 独りよがりに陥っていないか?

それを確かめるために、自分の言葉で説明しなおす。「語りえぬもの」とは何か? なぜ沈黙しなければならないのか? 「語りえぬもの」について、わたしの理解を確かめたい。

「語る」とは何か

まず、「語る」について語ろう。ここで言っている「語る」とは、何か意味のあることを言葉で表現することだ。たとえば、

  • あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。
  • ない僕達はまだ知らあの日の名前を花見た。

最初の文は、意味が通るが、二番目の文は何を言っているのか分からない。「語る」とは、最初の文の、何事か意味のあることを言っていることだ。

そして、この語ることができるものを、どんどん積み上げてゆく。

  • あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。(経験の記述)
  • 火星のオリュンポス山頂にiPadが刺さってる。(想像上の話)
  • 運動方程式はF=maである。(科学的知見)

日本語だけではなく、英語でもドイツ語でも「語る」ことができる。どんなに突飛な話でも、肯定文でも否定文でも、順序を入れ替えても、意味が通るのであれば、「語る」ことはできる。まだ発見されていない物質や物理法則も、「語る」に入れていい。

そうやって、語ることができることで世界を埋め尽くしてゆく。でも、未来のことや発見されていないことなんて、何て呼べば良い?

Katarienu

「究極の言語」で語りつくす

なので、『論考』は、「究極の言語」を提案する。語りえるものを最大限に拡張するため、古今東西の(未来も含めた)あらゆるものを語りつくすことができる言語だ。これなら、すべてのことが「語りえる」のだろうか?

『論考』によると、否、になる。

なぜなら、世界を語りつくしたとしても、その「語り」を保証する対応づけそのものは、語ることができないから。「語り」を保証する対応づけとは、語りを構成する文字列(音声)が、まさにその対象である、とわたしたちが信じていることだ。

たとえば「あの花」という文字列から、それがあの日見たまさにあの花であることは想起できるが、その関係性(「あの花」=「あの夏の日に見た花」のイコールの部分)は、語ることができない。わたしたちは、「あの花」と言われて、あの夏に見た花を思い浮かべるのみである。

「語る」に先立ち成り立っているもの

「言葉とその対象に対応づけがあること」なんて、わたしたちは当たり前すぎて見過ごしてしまうかもしれない。だが、わたしたちが意味のあることを語るに先立ち、それを意味あるものにするために、言葉と対象に対応づけがある。

そして、その対応づけは、語ることができない。世界を埋め尽くす「語ることができるもの」の中で、わたしたちは想起する他ないのだ。

では、「語りえぬもの」とは、語りを保証する対応づけだけなのか?

「視界=世界」という思考実験

これも、否、になる。

『論考』では、独我論者を攻撃することで、「語りえぬもの」が見えてくる。独我論者とは、自分にとって存在していると確実に言えるのは、自分だけだという立場である。つまり、自分の目に映るものだけが全て(=世界)であり、それ以外は疑いうる、と主張する。

つまり、彼の目には世界はこうなっている(視界=世界)。

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『論考』では、独我論者は間違っていると指摘するが、「言おうとしていること」は正しいという。

まず、この絵は正しいかというと、間違っている。仮に、「視界=世界」としよう。すると、この「目」は何なのか? ということになる。独我論者の世界の中に、独我論者自身のの目は存在しない。しかし、彼の目は確かに存在する。だから、この絵は間違っている。

私の限界=世界の限界

しかし、独我論者が「言おうとしていること」は正しい。確実に存在するといえるのは、自分という主体が認識する範囲が限界であり、それを超えたものは、あるかないか分からないという考え方である。最も目がいい人でも、視界が届く範囲が世界になるのだ。

これを言葉で置き換えると、言葉が届く範囲が「語ることができる」範囲になる。語ることができる最大最長の範囲なら、究極の言語を持ってくればいい。その究極の言語をもってしても、届く範囲は、主体が認識する限界を超えることができない。

究極の言語でもって最大限に語りつくした世界が主体なのであり、その向こう側は、語ることができないのである。

『論考』には、他にも「語りえぬもの」が出てくるが、ここでは2つの方向から「語りえぬもの」にアプローチした。

ひとつは、「語りえる」ことを語り尽くす前に、語ることそのものを成立させている対応づけであり、もうひとつは、「語りえる」ことを語り尽くした後に、それでも届かない限界になる。

語りえることを語り始めるに先立つ静寂、あるいは、語りえることについて語り尽くした後の沈黙、これこそが、「語りえぬもの」になるのだ。

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なぜ「このシステムは使えない」は納品直前に噴き出すのか——旭川医科大学事件が示した本当の敗因

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非常にしばしば結構しょっちゅういつもあるのが、「これ使えない、ちょっと直して」という追加要求だ。

「画面に項目を入れるだけ」とか「帳票の見た目を少し変えるだけ」など、「ちょっとした修正」は、いつでも、いつまでも発生する。一つ一つは小さく見えるかもしれないが、データの持ち方から考え直す必要があったり、集計ロジックに手が入ることだってある。

そして、「お客様」のために良かれと思って対応していくうちに、そんな「ちょっと」がボディブローのように効いてくる。変更管理が追いつかなくなり品質に影響が出たり、追加コストが当初見積もりを上回る。最悪の場合、スケジュールに間に合わなくなる。

「ちょっと」でも、積もればプロジェクトは破綻する。その最悪の例が、札幌高裁判決2017年の旭川医科大学事件(判例)だろう。ユーザ側は、旭川医科大学で、ベンダ側はNTT東日本などになる。

3行でまとめる。

  • 病院情報管理システムの導入にあたり、既存パッケージをベースに開発を進めた
  • 契約後、仕様変更が噴出したため、ユーザ・ベンダ合意の下、スケジュールの見直しと要件の再整理、仕様凍結を行った
  • その後も追加要望が止まらず、現行システムのマスタ抽出をめぐってプロジェクトが頓挫し、訴訟となった

それぞれの主張をまとめると、こうなる。

ベンダ側の主張

  • 前提は、パッケージをベースに、一部をカスタマイズするもの
  • しかしユーザ側は、契約後に大量の追加要望を出してきた
  • 追加の多くは開発対象外であり、対応すれば納期に間に合わない
  • ユーザの要望に応じて、追加の625項目を受け入れる代わりに、スケジュール変更と仕様凍結合意を取り付けた
  • それにもかかわらず、さらに171項目、追加要望を出してきた
  • 現行システムのマスタ抽出や、現行システムの情報提供も不十分だった
  • そのため、プロジェクトが頓挫した

つまり、追加要望のリスクを警告し、受け入れる範囲を決め、仕様凍結まで合意した。それを破ってプロジェクトを止めたのは、ユーザの責任だという主張だ。

ユーザ側の主張

  • 仕様凍結後の171項目は、開発対象外の追加要望ではない
  • それらは、未確定だった画面・帳票・操作性の確認や、不具合の指摘だ
  • それらは、業務に適合させるために、当然必要なカスタマイズだ
  • その対応を拒否したため、ベンダは完成義務を果たしていない

まとめると、仕様凍結の時点で、画面や帳票で確定していないものがあり、業務に適合していないものは不具合のため、修正するのは当然だという主張だ。

要件の追加 vs. 業務不適合

両者の主張を煮詰めると、「これは要件の追加である」vs.「いいえ、業務に合わないので不具合だ」という構造だ。請求額はユーザは19億円、ベンダは22億円という巨額の訴訟だが、この応酬は非常にしばしばしょっちゅうよくある。

通常なら、最初から詳細を細かく決められないため、「画面イメージ」「帳票イメージ」といった形で合意する。そしてプロジェクトが進み、実際に画面や帳票が確認できる時点―――テストや検収の段階で、現場から「使えないから、ちょっと直して」という声が出てくる。

モックやプロトタイプで触ってもらうという対策もあるが、全ての画面や帳票を試作するわけではない。その結果、プロジェクトの終盤のときに、「業務不適合による不具合」という理由で変更を強要される。

ユーザからすると「これくらい直してよ!」だし、ベンダにとっては「今さら言ってくるな」になる。だが、「このままだと使えない」というセリフの効果は抜群で、泣く泣く対応するのが常だった。

しかし、ものには限度というものがある。

裁判所は、ユーザ側の主張を退ける。

ベンダ側は、専門部会の場においても、「追加要望の多くは仕様外のもの」「対応するのは難しく」「(開始日に)間に合わなくなる」と明確に警告を発していた。

さらに、「このままだと業務に適合しない」というユーザの要望に適合させるため、625項目の要望追加とスケジュール変更、仕様凍結を行った。

裁判所はこれを、「新たな機能の開発要望はもちろん、画面や帳票、操作性に関わるものも含め、一切の追加開発要望を出さないとの合意」に相当すると見なしている。

そして、仕様凍結した6486項目のうち、未完了なのは1項目のみで、それもユーザの協力が得られず保留したことによる。システムは、ほぼ完成していたと裁判所は認定している。

これに加えて、マスタ抽出義務を怠ったこと、現行システム情報を十分に提供しなかったこと等を重視して、ユーザの協力義務違反と判断し、ユーザ請求を棄却、ベンダ請求を14億円の範囲で認めることになる。

おそらく、ユーザ側は「全部が決まってないなら、不具合の指摘として後から修正できる」なんて、本気で信じてる訳でもなかろう。訴訟になった以上、171項目を「追加要望」としてしまうと、敗色濃厚となってしまう。だから「不具合の指摘」と位置付けざるを得なかったと考える。客観的に見ると苦しいが、訴訟では持てるカードで戦うしかないのだから。

後になって「使えない」と言われる理由

この事件を「ユーザが仕様凍結を破った」とだけ読むと、教訓を取り逃がす。問題は、なぜ仕様凍結後に、これほど大量の「使えない」が噴き出したのかである。

別に、ユーザ側も意地悪で言っているわけではない。「このままだと使えないシステムになる」という危機感があり、現場からの強い要望があったため、不具合という言い方になっていると考える。

ただ、なぜその強い要望が、後になって噴出したのか

前段として、スケジュールが必達ではなかったという事情がある。ユーザ側は、仮に運用開始日が当初予定から変更されても、「現行システムの使用を継続すれば足りることであって、開発対象を絞ってまで本件システムの運用開始を早めなければならない事情はなかった」と主張している。これは本音に近いだろう。

むしろ、納期を守るために要件を削る方にリスクを感じていたと推察される。総合病院の情報システムだから、現場の医師、看護師、薬剤師、専門技師、会計事務という、様々な立場の人々が利用する。現場の人にとって使えないものを入れたら、単なる効率低下では収まらず、医療サービスの安全性の低下ひいては人命にまで関わるかもしれない。

だから、多少遅れても現行システムを使えば済むし、むしろ変なものを入れて現場が混乱することを避けたい、と考えた可能性がある。

さらに、仕様検討に関わったメンバー選定にも問題がある。この紛争の根本的な原因として、判決では以下のように認定されている。

  • 現行システムに固執する現場の医師らの要望を十分に反映させないまま要求仕様書等を取りまとめて本件契約を締結した
  • その後、現場の医師らの追加開発要望を抑えるための努力を放棄した
  • 仕様凍結の意味について、現場の医師らには、そのような認識が必ずしも浸透していなかった

ここからは私の推測だが、仕様検討の段階で、現場の意見を集約して要件にまとめあげる仕組みが不十分だったのではなかろうか。

仕様検討の場では、大量のドキュメントを広げ、皆で巨大なディスプレイを見ながら、「現行システムはどうなっているか」「新システムは何が必要か」を検討・取捨選択する必要がある。

会議の拘束時間もあるだろうし、確認すべきドキュメントも多岐にわたる。病院の現場だから、ただでさえ多忙だ。そんな中で、ドキュメントを読み込み、会議に参加し、要件を提示することなど、至難の業だろう。

「使えるか」を判断できる現場の人は、要件定義の段階から参加してもらう必要がある。ただし、名前だけ参加者に入れて通常業務の片手間でレビューを頼んでも機能しない。曜日や時間帯を決めて、「現場の人がレビューアーが入っていること」を前提とした会議体にするといった工夫が必要だ。

そうした考慮をしないまま「仕様凍結」して突き進んだ結果だといえる。

現場からの「使えない」という声そのものは正しい場合が多い。だが、これは魔法の言葉ではない。重要なのは、その声が届くタイミングとコントロールだ。仕様凍結後もその声を活かすなら、リリースを刻むなどの変更管理が必要になる。次に「使えない」を耳にしたときは、14億円の判決を思い出そう。

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秘密の悩みは、バーチャル師匠に相談せよ

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年6月14日


精神的にヤバいとき、どうするか? 自分ではどうしようもできず、かつ、誰にも相談できない悩みだったら、どうするか?

そんなとき、バーチャル師匠を召喚する。いわば仮想的な師匠である。

バーチャル師匠とは

あらかじめ「人生の師」を決めておき、困ったときに相談する。師から直接、教えを受けてなくてもいいし、生きている必要すらない。師を模範として慕い、学んでいればいい。それこそ、マスター・ヨーダを師としてもいい。私淑と呼ばれる方法で、『アイデア大全』(読書猿、フォレスト出版)から学んだ。

700年前の詩人ペトラルカも、私淑を実践した一人だ。
Peto

彼は詩人としての名声を博してはいたものの、うつ病に悩まされ、精神的危機に陥っていた。自己欺瞞による惨めさと、絶対に叶うことのない恋と、欲情が生み出したドロドロの愛憎関係に悩まされていた。

誰にも言えない悩みだから、脳内で相談する。彼にとっての、バーチャル師匠はアウグスティヌスだった。『告白』を読み込み、写本に書き込み、ついには脳内で擬人化できるまでに至る。

彼は、このバーチャル師匠向かって、赤裸々に心情を吐露する。アウグスティヌスは霊的な存在として立ち上がり、雄弁に弟子を叱る。『わが秘密』は、この師弟問答の対話体で成り立っている。

不幸だという嘆きには……

たとえば、自分のことを不幸だ、惨めだという嘆きには、「死」を考えよという。絶対確実なのは死ぬことだから、死をひたすら省察えよと説く。落ち込んでるとき、不吉なことを考えない方がよいのではと思うのだが、アウグスティヌスによると、人はみな死を遠くに見すぎだという。そして、愛や名誉といった欲望によって、死への省察が曇らされることが、苦悩の原因だというのだ。

なるほど、死が確定的なことは分かる。だが、「まだ」死なないつもりでいる限り、真にやりたいことが先送りされる。結果、目の前の欲望に引きずられ、現実とのFIT/GAPを感じるというわけか。自分の意思で、自分の不幸を選び取るという感覚は、確かにそうかも。

脳内アウグスティヌスは、キケロの言葉を引きつつ、「死ほど確かなものはなく、死の時ほど不確かなものはない」と述べる。それは明日どころか、次の瞬間だってありうる。これをありありと実感できるのなら、「まだ」死なないつもりから生じるさまざまな苦悩も消えることだろう。代わりに、限られた時のなかで真にやりたいこと(すべきこと)が何かを探し、それを実行しようとするに違いない。

悩みごとで自分を壊さないために

笑ってしまうのが、バーチャル師匠に嘘をつくこと。自分の脳内の話だから、嘘なんてつきようがない。にもかかわらず、あえて嘘を言い、論破され、考えを改める。本音の自分を守りつつ、建前の自分に折伏される経緯を記すことで、自己欺瞞を表面化させる。

本音の自分の「昔の女が忘れられないけど、今の女が愛おしい」という告白に、バーチャル師匠は叱責する。それを「愛」という名で呼ぶこと自体が、神の愛への冒涜になる。恋人どうしが互いに掻き立てる感情を「愛」と呼ぶことで、宗教的口実を与えているというのだ。

アウグスティヌスにとって愛とは、神の愛しかないのだから、同じ名で呼ぶなという建前は分かる。だが、本人は、あまりにも俗物的な告白をする。このコントラストが非常に面白いのだが、本音 vs 建前でキャラを分けるのは、自分を壊さないための多重人格なのかも。

さらに、異なる人格どうしの対話を記すことで客観視できる。脳内でこれをやると、だんだんすごい勢いになって収拾がつかなくなる。いったん「書く」ことで、正しいか否かに関係なく、確定させる。その上で吟味できるから、暴走を押さえることもできる。

ペトラルカは本書を誰にも見せず、生涯にわたって何度も手を加えたという(『わが秘密』というタイトルにした所以はこれ)。

私淑の実践をお試しあれ。

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映画『ニューヨーク公共図書館』を観たら、未来の図書館が見える

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年5月31日


フレデリック・ワイズマン監督『ニューヨーク公共図書館』を観てきた。ニューヨーク公共図書館(NYPL)そのものを主役とし、そこに集う人々を丹念に描いており、ものすごく贅沢な3時間が、あっという間だった。

図書館を超えた図書館の姿を眺めているうちに、「図書館とは何か?」についての具体的な回答と、その回答から導かれる未来の図書館が見えてきた。

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図書館とは何か

「図書館とは何か?」について持っているイメージは、この映画によって覆るかもしれない。静謐な空間で賢そうな人が本に没頭するといった静的な姿がある一方、大盛況の就職セミナーや講演会、パソコン教室、低所得者への支援といった動的な面が際立つ構成となっている。

そうした営みを見ているうちに、図書館とは、ただ本を集めて貸し出すだけの場所ではない、ということに気づく。

NYPLに集う人は、様々な「知りたい」ことを抱えてくる。面接でどうふるまえば合格できるか知りたい、ネットの情報を手に入れたい、移民局の資料から祖先をたどりたい……そうした「知りたい」についてサポートする、それが図書館なのだ。本を集めて提供するのは、図書館の目的ではなく、手段なのである。

「図書館とは何か?」について、本編で明かされている。プロジェクト会議で建築デザイナーが、「図書館は人だ」と断言する。図書館は、ただ本を集めた書庫ではない。知りたいことについて一生かけて学ぶ場所だという。

本を集めただけでは、「知りたいこと」へたどりつける保証はない。「検索すればいい」というが、どの言葉を検索すればいいか、みんなが分かっているとは限らない。さらに、キーワードがおぼつかないのであれば、検索結果が正しいのか、検索結果が全てなのかすら分からない(ソクラテスの探求のパラドクスやね)。

「知りたいこと」へたどりつくためには、学ぶ人と、学びを手助けする人がいる。図書館には本が沢山あるが、本だけがある場所ではない。たまたま本というメディアが多いだけで、その本質は、「知りたいこと」と人を結びつける場所が、図書館なのだ。

インターネットと図書館

そして、いまやネットの時代だ。

「知りたいこと」のかなりの部分は、インターネットで手に入る。いや、ネットですべて完結し、本なんて開く必要すらないかもしれぬ。あるいは、デジタル化された本を自宅から「借りる」ことだってできる。建物としての図書館や、物理的な本は、ネットに浸食され、不要になるのではないか?

この疑問に対し、NYPLは明確に応える。

まず、「知りたいこと」と人を結びつけることが図書館であるなら、その手助けとなる電子本やネットはどんどん活用すべし、というスタンスをとる。

幹部会議で予算の割り当てが象徴的だ。紙の本とデジタルの本、どちらに重点を置くべきかが議論になる。「デジタルの本の貸出は前期の300%です」という報告を受けて、デジタルライセンスの購入に大きく割り当てる。

さらに、「ニューヨークの300万人はデジタルの暗闇にいる。その人たちにインターネットアクセスを広げる」と宣言する。具体的には、図書館のネット端末の充実はもちろん、低所得者へルータを格安で貸し出すところまでする。ネットを最も必要としている人は、ネットに接続できない人なのだ。

この試みが政治家の目を引き、福祉対策として評価され、NYPLの予算が増額され、継続的に行われるようになる。図書館が社会を動かした事例である(という話だったはず……違ってたらご教示ください)。

未来の人が知りたいこと

「知りたいこと」と人を結びつける場所が図書館であるなら、未来の図書館が見えてくる。すなわち、未来の図書館は、未来の人が「知りたいこと」と人を結びつける場所になる。

では、未来の人が知りたいこととは何だろう?

すでに起きている未来としては、超「超高齢化社会」だ。

そこでは、医療情報へのニーズがさらに増えるだろう。しかし、「がんが消える」エセ医学の氾濫により、正確な医療情報へのアクセスが難しくなっている。本だけでなくネットも同様だ。高齢者やその家族は、膨大な情報を前に途方にくれた挙句、SEO対策ばっちりのイワシの頭を拝まされることになる。

現在、図書館のリファレンスでは、医療関係の相談は不可となっている。直接的な質問への回答は難しいとしても、ライブラリーという形で見せるのはできないだろうか?

たとえば、医療機関に委託することで、良質な医療情報を「本のリスト」として示す。あるいは、そうしたリストの本を集めた書棚を展示するのもいい。本だけでなく、信頼できるネット情報も選んでもらう。情報はどんどん古くなるため、一定期間で更新をかけてゆく。

つまり、図書館に行くことで、スクリーニング済の情報が手に入るのだ。NYPLのように、図書館が単独で活躍する必要はない。図書館は、医療機関と連携して、「知りたいこと」と人を結びつける場所として振舞う。個人が行っている例としては、[一般市民も使える医学図書館]がある。このポータル的な役割を担うのだ。

未来の図書館

上記は、わたしのジャストアイデアにすぎぬ。だが、未来の図書館の一つとして提案したい。

映画を観ることで、図書館の本質が見えてくる。「日本にはNYPLがない」と徒に嘆くのではなく、「図書館は、知りたいことと人を結びつける場所」という本質から考えてみよう。すると、いま抱えている「知りたいこと」に応じて、さまざまなアイデアが湧き出してくるに違いない。

それこそが、未来の図書館なのだ。

 

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『死ぬまでに読みたい1000冊 人生を豊かにする世界の名著』をネットワーク化した

カリスマ書店員が14年かけて選び抜いた究極のブックリスト。

まず、圧倒的な物量で殴ってくる。

「1000」は書評の数で、冊数ではない(プルースト『失われた時を求めて』も1冊とカウント)。主要の1000作品に加えて、言及された関連書籍も含めると、著者3000人以上、作品数6000以上になる。

紀元前2100年のギルガメシュ叙事詩から2016年のホワイトヘッド『地下鉄道』まで、古今東西の作品をまんべんなく配置して、小説、戯曲、エッセイ、歴史・哲学、自然科学、社会科学、コミック、児童文学など、ジャンル総なめで、狂気のリストと言ってよい。

いわゆる古典・名著に限らず、ベストセラーやロングセラー、ミステリ、ホラー、映画化されて有名になった作品など、著者のお眼鏡に適った「面白い本」「読むべき本」が一堂に集まっている。

紹介されている本は、小説が多めなのは分かるが、メモワールや自伝・伝記がかなり多い印象だった。代わりに自然科学系が少なめで、サイエンス好きな方には物足りなく感じるかもしれぬ(下図はGPTに分析してもらった)。

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ハードカバーで、デカくてゴツくて重い(2.3kg)ので、両手持ち鈍器本として有用なり。意地でも寝っ転がって読んだのだが、腕のトレーニングにもなった。

フルカラーで、作品に関連するイラストや写真・図録が大量に揃っている。細部の書評に入る前に、良質な本のカタログとして、百科事典のように眺めて楽しんでもいい。

これが好きなら次はこれ

最大の特徴は、「これ好きなら次はこれ」とお薦めをつなげている点だ。例えばこんな感じ。

  • エーコ『薔薇の名前』→→ボルヘス『伝奇集』
  • 村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』→→ヴォネガット『スローターハウス5』
  • マクニール『世界史』→→ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』
  • ボルヘス『伝奇集』→→カサーレス『モレルの発明』
  • カミュ『ペスト』→→サラマーゴ『白の闇』
  • バルザック『ゴリオ爺さん』→→シェイクスピア『リア王』

本は単品ではなく、つながりを持っている。テーマ、モチーフ、時代性、描写、構成など、似た匂い・味をする作品をレコメンドしてくれる。この嗅覚がすばらしい。

エーコとボルヘスは迷宮(=メタフィクション)での遊戯だろうし、村上春樹とヴォネガットは現実の裂け目(井戸と別世界)、カミュとサラマーゴは災厄により社会の底が抜けた状況、マクニールとダイアモンドは、「この順で文明史を読め」というメッセージなんだろうね。

ほら、飲み屋でお試しセットで3杯ぐらいを飲んで、好みの銘柄を言うと、それを手がかりに、もっと合うやつを見繕ってくれるやつ。あのノリで、自分の知ってる(好きな)本を手がかりに、知らない本をお薦めしてくれる。

このブログのテーマでもある、「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」を地で行っており、本を手がかりに別の本へ通じる扉としても使える。

死ぬまでに読みたい1000冊のネットワーク

このつながり、本と作家のネットワークを、インタラクティブなものにしてみた。

『死ぬまでに読みたい1000冊』ネットワーク

  • 「これが好きなら次はこれ」とお薦めされたり、書評で他の本や作家に言及されている「つながり」の数をカウント
  • 「つながり」が5つ以上のものだけをリストアップ
  • 「つながり」数が多い作家・作品は大きいノード
  • ノードをクリックすると、そのノードにつながっているノードのみを表示
  • 「つながり」の線をマウスオーバーすると、本書の該当ページを表示

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遊び方としては、こんな感じ。

  1. 好きな作家や作品を検索する
  2. そのノードをクリックする
  3. そのノードとつながっているノードを探索する

例えば、「村上春樹」を検索してクリックするとこうなる。

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本書の中で、村上春樹の書評の中で言及している作家・作品や、他の作家や作品で村上春樹に言及していると、それらが「つながり」として見える。ハルキストからすると、フィッツジェラルドやヴォネガットが出てくるのは納得だろうが、トレヴァーやオコナーが現れるのは意外かもしれぬ。そして、本書で紹介されているオコナー短篇集に手が伸びるという寸法だ。

あと、左上の「物理:OFF」をONにするとキモくなるので、絶対にクリックしないように。

米国人にとって最高のブックリスト

じゃぁこれ、最強&最高の一冊かというと、話はそう簡単じゃない。

私の好みに合わないところ、価値観のズレ、明らかな誤りが散見される。

まず、書評されている内容が、よくあるヤツであること。

基本的に、引用+あらすじ+誉め言葉で構成されている普通のやつ。その本を読んで何を受け取ったかとか、どう感じたかといった個人的な経験はほぼ無い。代わりに、どこかで聞いた美辞麗句が並んでいる。例えばこれ。

  • アメリカの小説の中で最もオリジナルで影響力がある一冊(重力の虹/ピンチョン)
  • きわめて読みやすい文章で描き出す壮大な歴史ドラマ(疫病と世界史/マクニール)
  • 独特の世界を貫いてゆく特異な想像力の呪縛(ねじまき鳥クロニクル/村上春樹)

私の好みは、評者の嗜好が滲み出るような好みなのだが、そんなものは脱臭された、ニューヨークタイムズの日曜版の書評みたいなものになる。松岡正剛『千夜千冊』の、どろり濃厚なヤツを期待して読むと肩透かしを食らうかもしれぬ。あと、ネタバレに一切配慮していないのでご注意を。

次に選書。

いわゆる古典・名著に、ピューリッツァー、ノーベル、ブッカーで賞を取った奴、あと著者が個人的に好きな本が選ばれている。

最後の「著者が個人的に好きな本」が、私の好みに合わなかった。メジャーリーガーの立志伝、上院議員の自伝、アメリカ建国の歴史本が大量にあり、”善きアメリカ市民”にとって「人生を豊かにする本」なんだろうな、という印象だ。

パワーズやデネットの書評が無いことにマジかよと呟いたり、キングを推すならクーンツも出せよと思ったり。特にマンガが壊滅的で、『マウス』や『ウォッチメン』ぐらいしかなく、英語圏のグラフィック・ノベルの域に収まっている。

手塚『ブッダ』『火の鳥』はかすりもせず(ブッダはアイズナー賞を受賞)、エルジェ『タンタンの冒険』、メビウス『アンカル』、ムーア『フロム・ヘル』、サトラピ『ペルセポリス』、大友『AKIRA』、宮崎『風の谷のナウシカ』、ペータース『闇の国々』、ブリッグズ『風が吹くとき』など、「人生で読むべき」大上段で構えるなら、もっとこう、あるだろ!ともどかしい思いもした。

おそらく、英語圏に留まっているため、欧米文学+アルファという観点だけで選ばれており、マンガの射程や池澤夏樹の世界文学全集といった「世界文学」の視点が無いのだろう。なので残雪もカプシチンスキもいない。

アメリカ合衆国の強みといえばSTEMなのに、自然科学系が追いやられている。

ファラデーやファインマンはあるのに、ファーブルもホーキングもいない。

シュレーディンガー『生命とは何か』、ガモフ『不思議の国のトムキンズ』、ポリア『いかにして問題をとくか』、グリーン『エレガントな宇宙』、エンツェンスベルガー『数の悪魔』、スチュアート『もっとも美しい対称性』、ソートイ『素数の音楽』、ハフ『統計でウソをつく方法』、ストール『カッコウはコンピュータに卵を産む』など、影響力でも、ロングセラーでも、物語性でも、本書の選書基準に適うはずの数学・物理学・テクノロジーの名著がごっそり抜けている。

また、誤記(誤訳?)と思われるのがちらほら。

『百年の孤独』でp.308「都市全体の記憶を脅かす伝染性の不眠症」とあるが、その頃のマコンドは「村」やで(せいぜい、大きくなっても「町」ぐらい)。

あと、『カラマーゾフの兄弟』のイワン・カラマーゾフは、p.232「合理主義、無神論、ニヒリズムといった流行中のすべてのイズムを信奉している」とあるけど、真逆だぞ。イワンは、全てのイズムを知り尽くした上で、イズムそのものに絶望していたはず(大審問官を読んだなら、絶対にこの説明にはならないので、誤記と考える)。

この1000冊は、いわゆるカノンとしての1000冊ではない。

何かしらの「答え」を求めて手に取ると、粗と偏りが目につく。でもそういうものかもしれない。

本について語るときに私が語るのは、偏愛であり思い込みであり情熱になる。だから、私が満足するような1000のリストは、私が作り上げるもので、それとこの1000冊との交錯こそが愉しいのかもしれぬ。

そして、交わったノードから、次の「わたしの知らないスゴ本」かもしれない一冊への扉を開けるために、本書は使い続ける本なのだ。

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女の子の匂いを追い求めた男の話『香水』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年6月6日


目はそむけることができる。

耳は塞ぐことができる。

だが、息を止め続け、匂いを拒むことはできない。

匂いはそのまま体内に取り込まれ、胸に問いかけ、即座に決まる。好悪、欲情、嫌悪、愛憎が、頭で考える前に決まってしまう。

匂いは、どんな意志より説得力をもち、感情や記憶を直接ゆさぶる。人は匂いから逃れられない。

だから、匂いを支配する者は、人を支配する。
そんなことができればだが。

これは、そんなことを目指した男の物語である。

Perfume

男の名は、ジャン=バティスト・グルヌイユ。

超人的な嗅覚をもち、あらゆる物体や場所を、においによって知り、識別し、記憶に刻みこむ。におい(匂い、臭い)に対し、異常なまでの執着心をもち、何万、何十万もの種類を貪欲に嗅ぎ分ける。彼に言わせると、世界はただ匂いで成り立っている。

舞台は18世紀のパリ。

通りは汚濁まみれ、垂れ流しの糞尿が鼻を刺す。魚と屠畜の腐臭と、鼻を背けたくなる疫病の膿んだ臭い、死体の山から漂ってくるものは、目にクる。小便とカビと経血の臭いが入り混じり、日常的に街を覆う。バリの香水が世界一なのは、パリが世界一臭い都市だったからなのかもしれぬ。

このパリで、グルヌイユは「匂い」でのし上がろうとする。

においという、精緻で的確で膨大な「語彙」をもつがゆえ、人とコミュニケートする「言葉」の貧弱さを低く見る(というか興味がない)。さらに、においを組み合わせ、新しいにおいを創造することができる。私たちが言葉を操るように、いや、それ以上に、グルヌイユはにおいを操り、意思を伝えることができる。しかも匂いは言葉より強い。私たちは、匂いを拒むことができないのだ。

そんな彼が、究極の匂いを持つ少女を嗅ぎつけてしまったら?

鋭敏すぎる嗅覚を持つグルヌイユにとって、世界一臭い都市パリは、端的にいって地獄である。誰と会っても、どこへ行っても、ひどい臭いから逃げられない。そんな彼にとって、馥郁たる香気を纏わせる少女が、どのように感じられるか。

本書は、「臭い」に限らず「匂い」の描写が素晴らしい。食欲をそそる香ばしさ、情欲を招き寄せる生々しいにおいと、眠りを誘う芳香。危険を発するきな臭さと、もう手遅れとなった血腥さ。あらゆる「におい」がここにある。そして、においは強烈であればあるほど儚い。ページを繰る手を止めて、思わずくんくんする。

目を凝らすように、耳を澄ますように、鼻に集中する。グルヌイユの運命をたどることで、わたしの嗅覚も鋭くなった気がする。

匂いは言葉より強い。彼が追い求めた究極のにおい、ぜひ一緒に嗅いでほしい。

 

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死 ね な い 老 人

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年6月27日


世界一の長寿国であるこの国は、人生100年の時代ともいわれている。

リタイアして、悠々自適の毎日を送る人がいる。趣味やレジャーや学び直しなど、第2の人生を謳歌する人もいる。(未来はともかく)今の高齢者は、高度な医療・福祉サービスを低負担で享受しており、年金をやりくりすることで、暮らしは成り立っている。

その一方で、自分の長寿を喜べない高齢者が増えているという。家族や周囲の人たちに「死にたい」と訴えながら、壁の向こう側で横たわり、生きることを強制される高齢者のことである。『死ねない老人』によると、望まない延命措置を受け、苦しみの中で人生を終える人々は、かなりの数にのぼるらしい。

著者は、高齢者医療に25年携わってきた医師だ。現場の生々しい声を聞いていると、いたたまれなくなる。

生きているのが申しわけない

本書によると、「死ねない老人」は2種類に分かれる。

ひとつめは、生きがいを見失い、家族に負担をかけたくないため、死にたい(でも死ねない)老人である。

死ぬ直前までピンピンしてて、突然コロリと逝く「ピンピンコロリ」を理想とする人がいる。だが、医療の進歩により、なかなかコロリ逝かせてくれない。むしろ、病気の後遺症による苦痛や不安・不調を抱え、介護やリハビリを受けながら生きなければいけない時間の方が長くなる。

たとえば、脳梗塞の後遺症で麻痺が残り、家族の迷惑をかけることが嫌になり、「いっそのこと、あのとき死んだほうがよかった」「生きているのが申しわけない」という言葉が出てくる。内閣府[高齢者の地域社会への参加に関する意識調査]によると、生きがいと健康状態は関係があることが分かる。生きる希望を持てずに死を願う「死ねない老人」がこれになる。

意思に反して強制的に生かされる

もう一つは、本人は治療や延命を望んでいないにもかかわらず、周囲の意向によって「長生きさせられてしまう」老人だ。

もちろん、親に長生きしてほしいと願うのは自然な思いだ。だが、一方で、人生の終わりである「死」を認めたくない家族が、本人の望まない最期を強いていることも事実だという。こうした事例を見ていると、本人の意思や苦悶を無視して、ひたすら強制的に生かそうとする行為は、治療なのか虐待なのか分からなくなる。

もっとシビアな例として、パラサイト家族が登場する。本人は「充分に生きた」「楽に逝きたい」と思っていても、家族はその年金をあてにして生活しているため、死なれると困るというのだ。この場合、本人の意思に関係なく、家族の意向が優先されるという。

長生き地獄から逃れるために

人生100年の時代、長い長い、長い老後の末、幸せな長寿を全うすることは、かくも難しい。生き地獄というより長生き地獄である。この2つの「死ねない老人」に対し、本書ではそれぞれの処方箋を考察する。

まず、生きがいを見失った「死ねない老人」に対しては、「誰かの役に立つこと」がカギとなるという。

[全国社会福祉協議会]を紹介しながら、通学路の巡回・見守りや、清掃・美化活動、いじめ相談など、さまざまなボランティア活動を紹介する。「高齢者=ケアされるお荷物」という偏見を壊し、ケアする側として何ができるか? という視点で考えようと促す。

次に、意思に反して強制的に生かされる「死ねない老人」については、諸外国の事例を紹介する。

欧米の安楽死の制度やサービス、終末期の治療方針について意思表示するPOLSTの例を紹介する。ただし、日本の場合の先行きは不透明だ。2008年に、後期高齢者の終末期に関する制度が設けられたが、マスコミから「高齢者に早く死ねというのか」と非難を浴び、3か月で凍結している。

死の制度化は、充分な議論が必要だろう。POLSTが制度化されることで、いま起きていることの逆転現象が生じる可能性があるからだ。つまり、現在、意思に反して生を強制される老人がいるように、将来、意思に反して死を強制される老人がでてくるかもしれないからだ。

こうした問題がクリアされるまで、「死ねない老人」は増え続けるだろう。ネットやコンビニで目にする元気なお年寄りではなく、「老人に死ねというのか!」とデモ行進をする高齢者ではない。「死ねない老人」は、壁の向こうで静かに横たわっている。

「死ねない老人」について、わたしは、むしろ自分の問題として考えたい。問題は現状のままで、自分の順番が回ってきたら―――その可能性は極めて高いが―――上手に楽に死ぬ方法を考えている。

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「倫理的に正しい金儲け」が資本主義を最強にする『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年8月4日


プロテスタンティズムが資本主義を生みだした? さらっと流すと、そう読めてしまう。

もちろん、マックス・ヴェーバーは「プロテスタンティズムが資本主義を生んだ」と言ってない。むしろ『プロ倫』では、そうした安易な一般化はダメと批判する。

ところが、そうした誘惑に駆られるのよ。はっきりした統計データが得られると、そこに「ストーリー」を捏造して説明したくなる誘惑は、抗いがたい。

ヴェーバーが魅せられた誘惑はこれ。弟子の書いた本を読んでいて、あることに気づいた。信じている宗派と、経済的な裕福さに相関があるのだ。

信仰は財産を生む?

人を金持ちにする宗教があるのか、金持ちが信じたがる宗教があるのかは分からない。だが、プロテスタントとカソリック教徒を、収益税を課税する対象1000人当たりで比較すると、こうなる。(p.18 [注6]よりグラフにした)

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この着眼を出発点として、プロテスタントと経済合理性との関係を掘り下げ、近代資本主義への影響を問うたのが本書になる。

本書を面白くかつ難解にしているのは、「ストーリー」の捏造を戒める書きっぷり。

ヴェーバーにはずいぶん論敵がいたようで、膨大な注釈のあちこちで反論する。この丁々発止が面白いが、論難されないよう、言い回しを駆使して捏造を回避する。

おかげで何を言っているのか分からなくなったり、真逆の主張が混ざっているように見えて迷いがちだ。

倫理的に正しい金儲け

だが、タイトルの「資本主義の精神」とは何かを追いかけていくと、「正当な利潤を合理的に、職業として追い求める心構え」だということが見えてくる。ベンジャミン・フランクリンの例を挙げながら、この心構えこそが、資本主義的な企業を推進する原動力として働いたというのである。

では、金を稼ぐことを最高善という倫理は、どのような背景をもとに生まれたのか?

それは、宗教改革によって、キリスト教の合理的な禁欲と生活方法が、修道院から世俗の労働生活のうちに持ち出されたという。

例えば、信仰日記をつけるという習慣がある。自分の犯した罪とさらされた誘惑、恩寵による進歩を日々記録する習慣だ。

これらは表形式で記入され、あたかも功罪の勘定がバランスシートのように扱われる。ヴェーバーはこれを、「生活の聖化は、事業経営にも似た性格をおびるようになりえた」と結論づける。

そして、宗教を土台とする倫理は、信仰によって生み出された生活態度を規定してゆく。労働を義務とみなし、生産性の向上に勤しみ、信用という価値を蓄積する態度は、近代資本主義の原動力となったというのである。

ヴェーバー v.s. マルクス

『プロ倫』が面白いのは、『資本論』に真っ向勝負を挑んでいるところだ。ヴェーバーは、マルクスの唯物史観の真逆をやろうとしている。

つまりこうだ。

社会を上部構造(政治や法律、宗教や芸術)と下部構造(所有や分配といった経済構造)に分けた場合、下部構造が上部構造を規定すると主張したのがマルクスで、それに異を唱えたのが『プロ倫』になる

マルクスの唯物史観が「社会的・経済的存在が、その人の意識を規定する」とするならば、ヴェーバーは「プロテスタンティズムによって作られた倫理が近代資本主義を進めた」と、いうならば唯心史観を突きつけているのだ。

『プロ倫』は正しかったのか?

ただ、ここまで言い切ってしまうと先走りすぎることになる。最初の着眼点から話を膨らませすぎやしないか?

ヴェーバー本人も分かっていたようで、例えば先のグラフに「ユダヤ教」を入れるとこうなる。

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ここ、「話が違うじゃねぇか」と声出して笑った。

近代資本主義に対する影響として、「プロテスタント v.s. カソリック」よりも、「キリスト教 v.s. ユダヤ教」で比較した方が明白で面白いんじゃないかとツッコミ入れたくなる。ユダヤ教は(文字通りの)生存バイアスを考慮する必要があるだろうが、一考の余地があるだろう。

だがヴェーバーはめげない。ユダヤ教は冒険商人的な資本主義の側に立っており、その倫理(富の追求、勤勉さ、信用、節約)をピューリタニズムは抜き取ったのだという。

結局のところ、ヴェーバーは正しかったのだろうか?

その答え合わせは、ハーバード大学のロバート・バローとラシェル・マクレアリーがしている。1960~90年代の国ごとの経済成長にもとづき、成長率に対して宗教がどの程度影響を与えるかを調査している。

結論からいうと、プロテスタントよりもカソリックの割合が高い国ほど、経済成長していることが明らかになっている。

さらに面白いことに、どの宗派にも共通しているのが、いわゆる「地獄」を信じる人の比率が高い国ほど、経済成長率が高いという結果が出ている。地獄を信じるからこそ、現世で徳を積むべく経済活動に勤しむのだろうか。「ストーリー」を捏造したくなる誘惑に駆られる。

めっちゃ読みにくい岩波文庫と異なり、新訳ではするりと読める。ヴェーバーが描いた「ストーリー」、ご自身の目で検証あれ。

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『世界の歴史教科書を読み比べてみた』を読んで分かった、世界で一番公平な歴史教科書

「嘘は書かないが、不都合な事実は省略する」という手法は、多くの国が自国の歴史を語る際に用いる典型的なアプローチだ。

あからさまな嘘だと客観的な批判を浴びるが、特定の事実を書かない(省略する)ことで、自国に都合の良い歴史<物語>を自然に作ることができる(マスメディアの「報道しない自由」と一緒)。

だから、「報道しない自由」に対処するときと同じように、「何が書かれているか」だけでなく「省略されたものは何か」に注目し、その物語にしようとしている動機も含めて、メタに眺める。

このメタ視点で、「イギリスの歴史の教科書に嘘は書いていないが大事な事も省かれている」を書いた。セポイの虐殺は書かれている一方、清国のアヘン漬けは省略されている。今の中近東の混乱要因の一つである「三枚舌外交」は、一人の行政官の「物語」として書かれているため、他人事のように感じられる。まともに書くと、罪悪感に耐えられないため、ストーリー形式になっているのかもしれぬ。

『世界の歴史教科書を読み比べてみた』は、このメタ視点をさらに拡張したものだ。

  • イギリス:帝国主義の「負の歴史」
  • ロシア:ウクライナ侵攻後の大幅な改訂
  • スイス:被害者と加害者が共存
  • ブラジル:植民地としての被虐史観
  • 韓国:日本との「しこり」
  • チベットと中国:中国を「赦す」姿勢
  • デンマーク:欧州中心主義
  • オーストリア:被害者神話から加害責任
  • バルカン半島諸国:教科書ではなく史料集

教科書は「鏡」

本書の姿勢が好きだ。

まず教科書を「その国の自己像を映す鏡」として扱う。

何を大きく扱い、何を省略し、どこから始めるかに着目することで、その国が次の世代に渡したい価値観が浮かび上がってくる。ロシアの愛国主義、韓国の被害者意識、デンマークの欧州中心的な考え方は、そのまま国家が何を重視するかにつながっている。

次に、同じ出来事を、異なる視点で炙り出そうとしている。

フランス・ドイツ共同教科書が好例だ。例えば普仏戦争は、フランスにとっては「屈辱」、ドイツにとっては「統一の栄光」となっているが、見開きの左ページはフランス視点、右ページではドイツ視点で書かれているという。「正しい歴史」があるのではなく、「それぞれの見方」があるという姿勢だ。

バルカン半島の諸国では、そもそも「教科書」が作れない。国家・言語・宗教・民族が複雑に絡み合い、一つの歴史物語にまとめられないからだ。そのため、教科書ではなく「史料集」という形で工夫している。とはいえ、まだ記憶に生々しいユーゴスラヴィア内戦は、その史料集からも省かれている(書けば火種になる)。

さらに、「書かれていること」と、「省かれていること」の指摘も鋭い。

被害者としての歴史を重視する一方で、加害者としての立場がどう書かれるか(省かれているか)が対照的だ。

例えば、韓国は日本による植民地支配の被害を強調し、慰安婦問題や強制労働を詳述しているが、ベトナム戦争における韓国軍の加害行為についてはほとんど触れられていないと指摘する。

対照的なのがオーストリアだ。かつて「ヒトラーの最初の犠牲者」という被害者神話を維持してきた。だが、1980年代以降、自らのナチス協力の歴史と向き合い、加害者責任を認める記述に転換している。

「どこかに正しい歴史がある」という視点ではなく、「それぞれの価値観を残していくために歴史物語が語られる」というメタ観点で読み解いていく。

「史実はこうだ」と教えるのではなく、「考えさせる教科書」の仕組みも興味深い。韓国の竹島、米国の原爆、イギリスのアボリジニなど、仮想の論敵を相手に、何を根拠にどう主張するかを「考えさせる」。相手の主張を検討させる点では高度な教育だが、(その国にとっての)結論は埋め込まれている。歴史そのものよりも、「公式の過去」が再生産される現場を垣間見ることができる。

山川の『世界史B』は世界最高?

それぞれの国の事情で、どこかしら「こだわり」「しがらみ」が付いてくる。

そういうものだと思っていたが、本書を読み進めていくうちに、本書で語られていない歴史の教科書が浮かび上がってくる。

それは、日本の高校生が学んできた『世界史B』だ。

もちろん、教科書検定や学習指導要領といったチェックが入るし、紙幅や入試の難度といった制約もある。だから、完全に中立というわけにはいかない。領土問題では政府見解に添う必要があるし、植民地支配や戦争責任をどこまで書くかは議論が絶えない。

それでも、愛国主義や、被害者意識、欧州中心主義をできるだけ避け、加害の歴史も描き、世界の各地域をまんべんなく取り上げようとする。この視点から見ると、世界で最も優れているのは、山川『世界史B』ではないのか、と思えてくる。

国家を代弁している歴史教科書を横断的に眺めていくと、山川のフラットさ、バランス感覚が際立ってくる。偏りにまみれた各国の歴史と比較すると、偏りを薄くしようとする編集原理が浮かび上がってくる。

だが、デメリットもある。

ものすごくつまらない。

国家が歴史を利用したくなる誘惑を、意図的に抑制した結果が、あの乾いた、網羅的な羅列になる。教科書「だけ」を読んだら、間違いなく眠くなる。それは、「物語」が無いからだ。

「悪い奴らのせいで酷い目にあったけれど、やっつけた」といった勧善懲悪や、「私たちがこんなんなのは、あんな過去があったからだ」などの理由を説明するような物語が存在しない。

もし、山川世界史Bを、各国の教科書と、正確さ、偏りの無さ、網羅性で測定したら、おそらく世界最強だろう。

でも「面白さ」を入れた瞬間、ワーストになる可能性大だ。それは物語を排した欠陥というよりも、むしろ国家の物語に奉仕しないために支払った代償なのかもしれぬ。



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惑星と電子をつなぐもの『科学とモデル』

過去記事の再公開(事情は[こちら]) 初出 2019年8月15日


惑星も電子も中学で習うが、そこで学んだ常識を疑うのは難しい。惑星は太陽のまわりを回り、電子は原子のまわりを回る、と考えていた。
ところが、みんな大好き量子論からすると不確定性が生じ、電子とは、惑星のように軌道を描いているよりも、雲のように確率的に分布する存在となる。

アインシュタインは「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのこと」と述べたが、ラザフォードのモデルに太陽系を見てしまう「偏見」は、弦理論を学んだところで捨てるのは難しい。

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Wikipedia 「ガイガー=マースデンの実験」By 投稿者自身による作品 (CreateJODER Xd Xd), CC 表示-継承 3.0, Link

モデル=世界の一部?

これは、モデルを通じて世界を見るあまり、「モデル=世界」が成立してしまっているからだ。教科書で学んだ原子核モデルはフィクションかもしれないが、太陽や月や星の動きを見た経験から得られる確信が結びついてしまっているのだ。

だから、弦理論は知識として「知って」はいるもの、「確信する」ことはないだろう。モデルは、そのモデルを適用する研究対象にとって分析したり説明するにあたって便利であるように作られている。すなわち、モデルは現象を切り取る断面なのだ。

そのため、超弦理論を扱う一般書を読んだだけで、あたかもそれらが絶対的な真であるかのように確信する人には戸惑いを感じる。その確信はどこからやってくるのか、不思議に思うのだ。専門家なら、もっと慎重に仮説とモデルを扱うだろう。

では、科学者がモデルを扱うとき、そこにどのような確信があるのだろうか? それとも、わたしのように「モデル=現実」の罠に陥ってしまうのだろうか?

「モデルとは何か?」という問いを掘り下げた『科学とモデル』(マイケル・ワイスバーグ)を読むと、科学は、この罠を上手く避けていることが分かる。

モデリングの本質

本書では、モデルを使って問題を解く典型的な例を示しながら、モデリングの本質を探る。モデルとは、ある種の理想化を行うことで、現実を調べる方法だとする。そして、モデリングとは、モデルの構造や分析を通じて、現実世界を「間接的」に研究する方法であるが故、現実世界の完全な表現を目指しているわけではないとする。

その上で、モデリングを3つに類型化する。

まず、「具象モデル」で、ミニチュア模型のような物理的特性によって、現実世界の現象を再現することを目的とする。風洞などが典型的だ。次に「数理モデル」で、現象を数式の形に表現したものになる。最後は「数値計算モデル」と呼ばれ、現実の振る舞いを手続き化し、コンピュータ上の数値計算としてシミュレートする。

そして、モデルは2つの部分から成立するという。

一つはモデルの「構造」で、それぞれのモデルは物理的・数学的な構造から構成されている。そしてもう一つは「解釈」で、モデルの制作者が現実のどの部分を理想化して表そうとしているかによって変わってくる。

このような整理を経て、「”良い”モデルとは何か」「特徴の重みづけはどのようになされるのか」といった分析を行い、「”似ている”とはどういうことか?」という哲学的な領域まで踏み込んでゆく。

モデル=フィクション説

なかでも面白かったのは、「モデル=フィクション」だとするフィクション説。モデルは理想化された現実だから、フィクション的なシナリオを記述するという考え方である。

フィクション説によると、わたしたちは、物語を読んだり映画を観たりするのと似たやり方でモデルに関わっている。フィクションではその世界の全てが書かれているわけではなく、物語の進行や演出上、特徴的なものに絞られる。それ以外の特性は、つじつまの合うよう補う必要がある。

同様に、モデリングされた世界では、死亡率やGDP、引力やクーロン力といった特徴的な数値に絞られ、それらを通じて理想化された現実を理解することになる(他の特性はつじつまの合うよう補正される)。

このフィクション説を唱えている一人に、『タコの心身問題』のピーター・ゴドフリー・スミスがいるという。だが、ワイスバーグは反対の立場をとる。

シンプルな数理モデルならフィクション説も通るかもしれないが、現実的なものからかけ離れた数学的モデリングだとそうは行かないという。p.99より引用する。

たとえば、化学結合についての、近似的な量子力学モデルを調べているとしよう。こうしたモデルは、分子システムに作用する力を考慮し、力すべてに近似的な説明を与えることによって作られる。結果として得られるモデルは、ポテンシャルエネルギー面を通る経路の集合という形をとる。
空間そのものは高次元である(3N-5次元モデル・Nは分子内の原子の数)。この空間を通る経路は、考えることも想像することもできない。それらは、ポテンシャルエネルギーと分子座標系の座標との間に相関があるということ以外は、物質的分子の持つ具体的特性に似たところはほとんどない。

要するに、あまりに抽象的すぎて、端的に想像不可能なのだ。

死亡率や引力といった具体的で経験と結びつけやすいモデルだからといって、モデルと経験を結びつけてもいいわけではない。わたしが陥っていた、惑星と電子の同一視は、この結びつけを自分で強化してしまっていたからなのだろう。

モデル=理論を説明するための方法

理論がモデルで説明されるとき、経験と直接結びつけられて解釈されるのではなく、理論を記述できるモデルによって解釈されることになる。理論が厳密に真だと言えるのは、あくまでモデルの中での話だけなのだ。

これは、かなり難しい。惑星と電子に限らず、わたしが何度もやってしまう誤ちだ。

ある理論を説明するとき、分かりやすく特徴的な側面を抜き出したモデルが用いられることが多い。ところが、わたしは、そのモデルを理解しただけでその理論を「分かった」気になる。そして、そうしたモデルの集積=世界だと判断してしまうのだ。

モデルとアナロジーの違い

これは、アナロジーとモデルを混同させるときにも生じる。

モデルは、現実世界を間接的に分析する方法である一方、分析から導かれる理論を説明し、理解してもらうための方法としても使われる。これは、例えなどの類推を経て説明されるため、アナロジーと分かちがたく結びついている(ex.光は「粒のようなもの」「波のようなもの」)。

だが、本書で扱われる「モデル」の目的が、現実を調べるための抽象化である以上、「理解や説明のため」のアナロジーと重ねてしまうと、意味が拡散してしまう。あくまでも、「具象モデル」「数理モデル」「数値計算モデル」といった、調査のための方法に落とし込めるものにしたい。

現実を、「そのまま」理解することは、人間である限り不可能である。その結果、モデルやアナロジーを通じて理解する他ない。だが、「現実とどれほど似ているか」について厳密に調べようとするならば、本書のようにモデリングの本質まで掘り下げる必要がある。

モデルとは何か、シミュレーションの哲学とは何かについて考える一冊。

Scienceandmodel

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