『ナチスは「良いこと」もしたのか?』と『縞模様のパジャマの少年』

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「ナチスがしたことは悪行だけではない。良いこともした」という言説を見かける。悪の代名詞とも言われるナチスだが、評価できる部分があるという主張だ。

例えば、公共事業を拡大して失業者を減らすことで経済復興を果たしたり、充実した家族政策により出生数を向上させた。もちろんそれでナチスの蛮行が減殺されることはありえないが、これらは「良いこと」と言えるのではないか、という意見だ。

『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』は、こうした見方に異議を唱える。ナチスがした「良いこと」とされる政策の一つ一つを取り上げ、その背景や目的を精査し、ナチスのオリジナルなものだったか、さらに成果を生んだものかを考察する。

結論を一言で述べると、著者のこのツイートになる。著者は歴史学者であり、ドイツ現代史を専門としているプロフェッショナルである。

ナチスの経済政策

例えば、経済政策だ。

ヒトラーが政権に就いてわずか数年でドイツの雇用状況が劇的に改善され、失業問題がほぼ解決したのは事実だという。雇用の安定と共に経済も回復し、国民総生産も急増したという。

ドイツの経済の奇跡はどのように成し遂げられたのか。その理由として、アウトバーンの建設や、様々な雇用創出計画が挙げられる。ナチスは「良いこと」もしたという人は、こうした経済政策を指摘する。

これに対し、前政権のパー ペン・シュライヒャーの政策を引き継いだものに過ぎないという。ナチスが何か新機軸を打ち出したわけではなく、いわば手成りの政策を踏襲しただけである。そのため、ナチスの功績として称えるには当たらないという。

さらに、ナチ政権下での雇用回復の原因は、ヒトラーが政権を握る前に、ドイツ経済が景気の底を脱し、回復局面に入ったからだという。恐慌時に大量解雇やコスト削減を進めた企業努力や、前政権の対策が効果を上げ始めていたが、それら全ては「総統の功績」としてプロパガンダされた。

まだある。ヒトラーの「ドイツ経済は4年後に戦争可能になっていなければならない」という計画の下、なりふり構わず軍備拡張に注力した。ダミー会社が発行する擬似公債「メフォ手形」を導入することで、軍需取引を国内外の目から隠し、最終的には国家支出の61%に達したという。爆発的に増えた財政支出を軍備に振り向けた結果、1936年頃から軍需産業を中心に好景気に沸くことになる。

これに加え、占領地域に対する経費・分担金の要求や、ユダヤ人からの収奪、外国人労働者の強制労働など、ナチスがした「悪いこと」が挙げられている。こうした背景を考えると、「ナチス政権で経済は回復したのだから、『良いこと』もした」というのは一面的すぎるという。

なお、ナチス体制を経済から捉えなおした白眉といえばアダム・トゥーズ『ナチス 破壊の経済』がある。訳者・山形浩生氏によると、「ナチスが果たした経済回復」という通俗的な理解を、膨大なデータを実証的に用いて覆しているとのこと [ALL REVIEWS ナチス 破壊の経済]

ナチスの家族政策

あるいは、ナチスがした家族政策だ。

例えば、結婚したばかりのカップルに100ライヒスマルク(現在の価値で70万円強)が貸与され、子どもを1人産むごとに返済が一部免除され、4人産めば全額もらえるという制度がある。あるいは、母親学校を開催し、乳児の下着やベッド、食料品などの現物支給があった。

だが、こうした支援策は、どんな政策とセットで行われたのかを考慮する必要があるという。支援対象となったのは、ナチスにとって政治的に信用ができ、人種的・遺伝的な問題もクリアされていることが前提となる。ナチスが「反社会的分子」とした人々はここから排除され、障碍者の場合は断種されていた。さらに、支援対象となっていても、子どもを産まない「繁殖拒否者」には罰金が科されていた。

こうした背景には、人種主義的な「民族共同体」を作るという目的があったことを指摘する。「人種的に価値の高い」ドイツ人を増やすための施策であり、結婚資金の貸付を行ったという部分だけを切り取って、「良いこと」とするのは短絡的だというのだ。

出生数の増加についても容赦がない。事実として、1000人あたりの出生数は、1933年には落ち込んでいた(14.7人)が、1939年に増加した(20.3人)。だがこれは、景気回復により結婚の絶対数が増えたためであり、出産奨励策の影響は限定的だという。

ナチスの独自性

他にも、労働者のための福利厚生や、環境保護政策、タバコ撲滅運動など、ナチスがした「良いこと」とされる政策について、背景や有効性を検証する。

一見「良いこと」に見えても、到底同意できない目的の下に実施されていたり、プロパガンダによってナチスの功績とされたことが次々と指摘される。

冒頭に引用したツイートに対し、賛同する声が上がる一方で、「ナチスはこんな『良いこと』もした」という反対意見が殺到し、炎上状態になった。本書は、そうした意見に対する、歴史学の知見からのアンサーとなっている。

この知見は、いま・ここでも適用できる。一見「良い」とされる施策でも、その目的が何であり、どのような政策とセットで行われるのかを吟味する必要がある。さらに、ある施策の一部分だけを切り取って「悪い」とみなす短慮も抑制すべきだろう。

一点、気になったのが「それはナチスのオリジナルではない」という論旨だ。経済政策や環境保護は、前政権の踏襲だったり、元々そうした時代背景の下に行われたものであるため、ナチス独自のものではない、という批判だ。

これは、参考文献にある『ナチスの発明』(武田知弘、彩図社、2011)へのカウンターとしての批判だろう。だが、ナチスのオリジナルかどうかは、「良い」「悪い」の判断とは別物のように見える。一時的にせよ奏功した施策について、ナチスの功績としてプロパガンダされているが、それは「ナチスの功績」ではない……という表現の方が妥当だろう。

ただし、この言い方だと「ナチスは良いこともした」という立場からの再反論を招くおそれがある。前政権の政策を踏襲したナチスの判断は正しかった、つまり「良いこと」ではないか、という主張が出てくる。

そのため、「ナチスのオリジナルかどうか」については、「良いこと」とは分けて考えたほうがよさそうだ。

健康帝国ナチス

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本書で紹介されている、プロクター『健康帝国チス』には、国家ぐるみで健康施策を推し進めた経緯が紹介されている。

がん患者登録制度を導入し、組織的ながん研究を進めたことや、職業病とがんの関係を明らかにする実験を行ったこと、喫煙と肺がんの関係を世界で初めて確定させたという。

このテの話は警戒する必要がある。国民に「健康」を強要し、「役に立たない」と見なした人々を排除した歴史は、『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』で学んだ。

ナチスほど国民の「健康」に執着した組織はなかった。タバコとアルコールの追放運動を大々的に行い、X線検査、学校での歯科検診、身体検査を制度化した。全国的なキャンペーンが行われ、栄養のある食事、運動、休養が啓発された。「健康」を満たせない者は「役に立たず」として収容所へ送られた(アニメ『PSYCHO-PASS』や伊藤計劃『ハーモニー』を思い出す)。

「健康」は、一見、中立的な善に見える。だが、誰も反対しないからこそ、「健康」をレトリックとして、先入観を押し付けることができる。ナチスの場合、人種主義的な「民族共同体」を構築するための手段が「健康」だったといえる。こうした背景を考えると、禁煙運動をしたから「良いこと」もしたというのは短絡すぎるだろう。

ナチズムは、アーリア人種の優越の下、ハンディキャップのある人々を抹殺するというだけのものではなかった。領土を拡大し、ユダヤ人とジプシーを殺戮する、というだけでもない。ナチズムは、こうした概念を極端に推し進め、「ドイツ民族の生殖」を長期的に管理しようとする運動でもあったというのだ。

ナチズムが大衆の人気を集めたのは、ドイツ人におけるユダヤ人憎悪だけではないという。反ユダヤ主義はナチスのイデオロギーの中核だったが、大衆が惹かれたのはそこだけではなく、上述のような健康志向を始めとする「若さへの回復」を見たからだという。疲弊したドイツを浄化し、復活させる鍵としての「健康」が魅力的に映ったのかもしれない。

この指摘は覚えておく必要がある。

「健康」や「若さ」は、「良いこと」に見える。だが、これを免罪符にしてしまうと、あらゆる悪行が正当化されてしまう。一見、善に見える言葉であっても、無条件に飲み込むことのないようにしたい。

「良い」「悪い」といった言葉は、主観的で、個人の価値観や社会的な規範、そして時代や文化によっても定義が変わってしまう。「ナチスは『良いこと』もした」という人は、どこを切り取り、どういう価値観に則した上でそう言えるのかを明らかにしないと、水掛け論の沼にハマるだろう。

縞模様のパジャマの少年

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ナチスがらみでもう一つ。

見ると確実に胸糞が悪くなる映画ワーストNo2である、『縞模様のパジャマの少年』を観た。このワースト順位は『後味が悪すぎる49本の映画』で付けられたものだ。

胸糞映画としてよく挙げられる『ミスト』(第10位)や『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(第4位)をブチ抜いているから、さぞかし嫌な気分になるだろう―――とワクワクしながら観た。

結論から述べると、Amazonの紹介文の通りだった。

忘れられない映画だ。力強く、言葉にできないほど感動的だ」(ピート・ハモンド)。純真無垢な8歳の少年ブルーノは、母親の言うことを聞かずに林へ冒険に出かける。すぐに一人の少年と出会い、奇妙な友情を育んでいく。舞台は第二次世界大戦下。人間の魂の力をテーマとするこの感動的で素晴らしいストーリーは、あなたの心をつかんで離さないだろう。

『後味が悪すぎる~』では「唯一無二の絶望感」と評するが、同じ絶望感は、ドラム式洗濯機にまつわる事故を知ったときに味わったことがある(検索しないように!)。

最初は、ナチスが流ちょうな英語をしゃべるのに違和感があるし、100回観た『大脱走』と比べると警備が甘いんちゃう?とツッコミを入れたくなるが、そこは仕方がない。

「縞模様のパジャマ」とは、収容所の囚人服だ。劣悪な環境でろくな食事も得られず、常に飢えている。そんな彼(シュムール)と出会い、鉄条網越しに友情をはぐくむ主人公ブルーノの物語だ。

これ、胸糞映画という警告抜きで、単純にポスター見ただけで映画館に入った人にとっては、酷すぎることになっただろう。少年の運命に唖然とし、その理不尽さに憤り、可哀そうに思って涙するだろう。

そして、その少年を不憫に思っている自分が、たまらなくイヤになるだろう。一緒になって収容されている他の人々は?背景のモブのように描かれているが、その一人一人が同じ運命に向かっていくのに、その少年を呼ぶ声だけに胸を裂かれている自分は?と思えてくる。

素晴らしく胸糞悪いラストは、絶対に忘れることが無いだろう。そして、嫌な気分になりたいときに、このポスターを眺めるだけで味わえる。

収容所で行われたことは悪魔の所業そのものだが、ラストは、運命が悪魔に抗っているとみなすこともできる。悪に抗っているという一点だけを切り取れば、「良いこと」といえるだろうか? いや、決してそうは言えない。どう切り取っても悪でしかなく、悪いことしか起きない映画として傑作だ。

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「あのときやっときゃ良かった」という後悔は、実際にはやれる可能性などなかったのだからソク忘れよう

これは友人の話なのだが、「やれたかも」という夜は確かにあるそうだ。

「飲み会で意気投合した女の子と帰りの電車がたまたま一緒で、飲みなおそうという流れからカラオケへ」とか、「夏合宿の雑魚寝が寝苦しくて抜け出したら、後輩の子がついてきた」とか。

だが、イイ感じなのはそこまでで、「朝まで歌っただけ」とか、「ちょっと雑談してから部屋に戻って寝た」とか、他愛のないものに収束する。

まんざらでもない態度や視線に、選択を間違えなければチャンスをモノにできるはず……だが悲しいかな、ヘタレ童貞は何をどうすれば良いかわからない。ギャルゲ―なら2つか3つの「選択肢」だけだが、リアルは無限だ。深夜、女の子と二人っきりというシチュに、胸の鼓動がドキドキ目先はクラクラ、何も思い浮かばない。

かくして何も無いままとなる。その後の進展もなく(むしろ素っ気なくなる)、「やれたかも」は、「かも」のまま、思い出となる……と、その友人は言っていた。

そんな思い出を抱える人たちを、『やれたかも委員会』は、こう励ます。

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吉田貴司『やれたかも委員会』第1話より

「あのときやれたかもしれない」―――そんな美しい思い出を、全力でブッ壊しにくるのが、本書である。

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『「あのときやっときゃ良かった」という後悔は、実際にはやれる可能性などなかったのだからソク忘れよう』は、飲み屋街でクダ巻いているおっさんの名言集だ。アルコールが入っている分、下卑たものや差別的なヨタも交じっているものの、じんわり沁みるセリフや、刺さる至言もある。表立っては聞けない人生の経験則がこれだ。

やりたいことは、やれるうちに

このアドバイス、当たり前といえば当たり前のことなのだが、彼の話を聞くとまた変わってくる。

歳とってからやればいいと
思っていても、
いざ歳をとってしまうと
しんどくてやらない
(男・48才)

就職して最初のボーナスが出た時、両親に海外旅行をプレゼントしようとしたという。彼が23才で、両親が50前後の時の話だ。ところが両親は、旅行なんて歳とってからでも行けるから、いらないって断ってしまう。

そんなもんかと話は立ち消えになるのだが、月日が経ったいま、あのとき行っておけば良かったと両親の後悔を聞かされる。歳をとると、時間はあるけどしんどくて意欲が無くなってしまうのだと。

これ、わたしの自戒の言葉「あとで読むは、あとで読まない」に通じる。いずれ、そのうち、ヒマになったら読もうと積む本は、必ずといっていいほど、あとで読まない。そうこうするうち、気力が萎えて読めなくなり、積読山に囲まれて衰えていくだろう。問題なのは、積読山に囲まれて死ぬのではなく、死ぬまでの長い時間を、読む気の失せた積読山に囲まれて過ごすことだ。

俳優と政治家の共通点

なるほど!と思ったのはこれ。

俳優だけ二世が多いのは 誰でもできるから
(男・46才)

お笑いとか音楽の世界では、二世は最初だけ話題になって、すぐ消える。あれは、客が善し悪しを判断するからだという。どんな漫才師の息子だろうと、つまらないヤツはつまらないし、ミスチルの息子だからといって売れるわけじゃない。

でもなぜか、俳優だけは二世がはびこっている。

理由は客が上手い下手を判断できないから。客は演技の上手い下手なんて求めていないし、よっぽどの大根でない限り、誰でもできる。ダメな俳優にダメ出しをしない(できない)業界にも問題があるのかもしれない。

これは政治家も然り。善し悪しで判断されるのではなく、カバン(金)、カンバン(知名度)、ジバン(後援会)で誰でもできるから二世が蔓延るのかもしれぬ。

会う人を大切に

かなり刺さったのがこれ。

今生の別れは 気づかない
(男・59才)

「今生の別れ」とは、これを最後にして、生きている間はもう会うことがない別れのこと。ドラマや映画で、遠い異国に旅立つといった場面でお馴染みかもしれない。酒を酌み交わしたり、ホームで抱き合って泣いたりするあれだ。「今がその時」とはっきり分かっている形で演出される。

でも現実はそうじゃない。そんなドラマチックなものではなく、「あいつ死んだの?こないだ飲んだのに」という形で、突然に訪れる。人は死ぬ。これは絶対だ。だが、いざ死んでしまった時、「なぜ?」と問うてしまう。

だからこそ、人と会うときを大事にしたい。この気持ち、一期一会やね。

ロールモデルを意識する

せやな!と膝を打ったのはこれ。

親とちがって、先輩は選べる
(男・55才)

人生で誰に一番影響を受けるか―――親とか恩師とかいう人もいるけれど、ほとんどの人は少し上の先輩に影響されているのでは?という。

進路を決めるときや、仕事を決めるとき、身の回りの少し上の人に憧れて決めてきたという。そのとき目指す先輩は、それぞれ違う人だったかもしれないけれど、大なり小なり影響を受けてきたのではないかというのだ。

そして、親や上司は選べないけれど、先輩は選べるという。しょうもない先輩につかまるのではなく、敬えない先輩とは付き合う必要なしと説く。代わりに、「あの人だ!」と言える人を探せというのだ。

これは確かにそうかも。決定的な指針をもらうというよりも、「なんとなく良いかも」という「なんとなく」は、思い返すと先輩からもらってきたような気がする。新しい環境になったとき、無意識のうちにロールモデルを探していた。

これは読書猿『アイデア大全』で紹介されている「ルビッチならどうする?」につながる。人生の師匠・メンターを予め決めておき、行き詰まったときにその人に問うのだ。ポイントは、その人が先輩のような身近な人でなくてもいいこと。既に他界した人でも、フィクションに登場する人でもいい。孟子の「私淑」を実践してきたといえる。

中年初心者向けの名言

既に知ってたものもある。こんなの。

  • ほとんどの不調は、睡眠が解決する
  • 無理やり勃起させると、緊張は治まる
  • 口説くときは文字で、ケンカは会って
  • 田舎の人は圧力を受けながら生きている
  • 眠れない夜は横になって目を閉じているだけでもいい

けれど、こうしたセリフがなぜ出てきたのか、どうしてそう考えるようになったのかを語るおっさんたちの身の上を聞いていると、爆笑したりしんみりしてくる。

当たり前すぎるけれど、その言葉を吐くまでの半生の積み重ねが重い。「人生のネタバレだよ」なんて言って若者に薦めたいけど、おそらくピンとこないかもしれない。むしろ中年になったばかりの自覚のないおっさんに読んでもらうと、「そうかも」と思い当たるかもしれない。

人生は巻き戻しても同じ

タイトルにもなっているこれは、童貞時代の美しい思い出を殺しにかかってくる。

「あのときやっときゃ良かった」
という後悔は
実際にはやれる可能性など
なかったのだから
ソク忘れよう
(男・42才)

このおっさんの理屈はこうだ。

―――もっと色んな女の子と、あのときヤレたのにヤレなかったのがもったいない……なんて悔しい気持ちになることもあるかもしれぬ。

しかし、ヤル気になればヤレたのに、その子とヤレてないというのは、そのときの自分が最適だと思った行動の結果なんだ。どう転んでもその行動に向かっていった末に、やれなかったのだ。だから、最初からその子とヤルという選択肢など無かったことと同じ。

機会損失だと考えるから後悔するって発想になる。初めからそんなチャンスなんて無かったんだと考えたら、後悔することなんてない―――

その通りなんだけど、ミもフタも無いんだけど、涙が止まらないのはなぜだろう……

人生は巻き戻しても同じだ。

なぜなら、巻き戻される私も、同じように、未熟で童貞で女心を分かっていないあの頃に戻されるだけから。「ループもの」が物語として成立するのは、ループする存在が記憶なり経験を保ったまま、もう一度やり直せるから。

だけど、いま「やり直したい」と考える理由を、言葉にして伝えることができる。なぜ後悔しているのか、後悔しないためにどうすれば良かったのか、かつての自分にメッセージを託せるなら……本書は、そんなおっさんたちの魂の叫びを集めたものかもしれない。

わたしも含め、そんなおっさんたちに贈るのはこれやな。

今やり直せよ。未来を。
十年後か、二十年後か、五十年後から
もどってきたんだよ今

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本書は、はてなブックマークでmaketexlsrさんから教わった(ありがとうございます!)。前作の『他人が幸せに見えたら深夜の松屋で牛丼を食え』と一緒に、これも若い人……いや中年初心者にそっと渡したい。

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『後味が悪すぎる49本の映画』を読んだら、なぜファニーゲームが大嫌いなのか理解できた

後味が悪すぎる49本の映画

精神的ダメージがありすぎて、読んだことを後悔する小説のことを、劇薬小説という。生涯消えないほど深く心を傷つけるマンガのことを、トラウマンガと呼ぶ。

劇薬小説とトラウマンガは、このブログで追いかけているテーマだ。

最近なら、[BRUTUSのホラーガイド444] あたりが参考になるだろうし、最高傑作は、[スゴ本の本] の別冊付録で紹介している。許容範囲オーバーの激辛料理を食べると、自分の胃の形が分かるように、琴線を焼き切る作品を読むと、自分の心の形が分かるはず(痛みを感じたところが、あなたの心の在処だ)。

『後味が悪すぎる49本の映画』は、この映画版だ。観ている人の気分をザワつかせ、逃げ道を一つ一つ塞ぎ、果てしない絶望に突き落とし、胸糞の悪さを煮詰める―――そんな作品が紹介されている(49は主に紹介される作品であり関連する他の胸糞も合わせると100を超える)。

ハッピーエンド糞くらえとばかりに、嫌な映画をこれでもかと並べてみせてくれる。下品だったり悪趣味だったり、観た後、確実に気分が落ち込むような作品だ。

いわゆる、恐怖をテーマとしたホラーに限らない。ゾンビや殺人鬼がいなくても、おぞましく理不尽な映画は沢山ある。むしろ、モンスターが普通の人間に見える方が、何倍もおそろしく、リアルだ。

そんな胸糞作品を、なぜわざわざ観るのか?観るとダメージを食らうのに、時折、無性に食べたくなるのはなぜか?私の理由は、[なぜイヤな映画をわざわざ観るのか] で語った。

わたしが知らない胸糞映画

そして観るべき映画は本書から選ぼう。

なぜ本書が信頼できるのか?

それは、私にとって胸糞最悪の作品を、高く評価しつつ、かつ、私の知らないエグそうなのを紹介しているから。私の悪趣味にジャストフィットしながらも、未見の作品を先回りしてくれる、理想的な先達だからだ。

本書で紹介されている、ワースト10からも分かる。

もちろんワースト1が最悪中の最悪で、超有名な「ぜったいに観てはいけない」やつだ。私が観たのは3作品しかないが、正直、『ファニーゲーム』を凌駕する後味の悪さを堪能できるなら、ぜひ観たい。

  ワースト10 ミスト

  ワースト9 ファニーゲーム

  ワースト8 子宮に沈める(本書の紹介で観た。現実の方がエグい)

  ワースト7 未見

  ワースト6 未見

  ワースト5 未見

  ワースト4 ダンサー・イン・ザ・ダーク

  ワースト3 未見

  ワースト2 縞模様のパジャマの少年(本書の紹介で観た。唯一無二の絶望感)

  ワースト1 未見

ネタバレに配慮しつつ、読ませる批評も面白い。その作品が、どのように作用して、どんなダメージをどれくらい食らったかを、詳細にレポートしてくれる。著者自身のダメージのみならず、映画業界から社会現象への影響もまとめてくれており、ありがたい。

  • 史上最強の薬物防止啓蒙映画(レクイエム・フォー・ドリーム)
  • 2日くらい食事が喉を通らなくなった(バイオレンス・レイク)
  • 現実の顛末は検索してはいけない(子宮に沈める)
  • 唯一無二の絶望感(縞模様のパジャマの少年)
  • 最恐(ヘレディタリー/継承)
  • 鑑賞が拷問(ソドムの市)

おかげで、スタンリー・キューブリックが「全ての映画の中で最も恐ろしい」と評した作品や、映倫がR-18指定すら審理拒否した作品、裁判のやり直しまで引き起こした作品を知ることができた。

なぜファニーゲームが胸糞No.1なのか

本書のおかげで、嫌な気分の出所も分かった。

カンヌを騒然とさせ、発禁運動まで引き起こした問題作『ファニーゲーム』は、胸糞映画史上ぶっちぎりのNo.1だ。湖畔でバカンスを楽しむ親子3人と、そこを訪問する2人組の男の話なのだが、なぜこんなに大嫌いな作品なのか、2回観ても分からなかった。

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いや、おぞましさ、不快指数、いやらしさ、苦痛は分かりやすく伝染する(シナリオもカメラも、そういう風に仕込んでいる)。大ダメージを食らって立ち直れなくなるけれど、もう一度味わいたくなる。治りかけのカサブタを触って破って出血するように、また観たくなる(嫌いなのに!)。

なぜこんなに嫌いなのか?嫌いなのに観たくなるのか?

本書では、主人公補正というキーワードで解説してくれる。

脚本・監督のミヒャエル・ハネケは、ウィーン大学で心理学や演劇を学んだエリートであり、批評家から監督へ転身した経歴を持つ。そして、本作の中核にあるテーマは、ハリウッド映画への批判だという。

ハリウッド映画の主人公は、悪役に追い詰められ、窮地に陥っても、なんとか状況を打開しようとする。決してあきらめず、努力や工夫や運に助けられ、事態を好転させる(か、あるいは、そうでなくても何らかの決着に落ち着く)。

その展開は、観客が期待している「お約束」を満足させるために、主人公の行動が最終的に上手くいくように仕向けられている―――この主人公補正を見抜き、ことごとく潰していく。そして、絶対にやってはいけない「補正」を分かりやすく実行した後、どう考えても異常な展開に突き落とす。監督の悪意を、こう解説する。

これで観客の気分が悪くならないはずがないのだが、そんな観客に「あれれ、あなたは人が死ぬスリリングな映画が好きなんじゃないのかなナ?」と問いかけてくるのが本作なのだ。つくづく、性格の悪いインテリのおっさんの悪意が爆発したような映画である。

そうなんだ、映画が嫌いなんじゃなくて、監督の悪意が100%伝わってくるんだ。分かった上でやっているのだ、監督は。間違った意味でのカクシンハンなのだ。「映画でしょ!これは!最悪の!」と、こっちを指さしながらゲタゲタ笑っている監督が嫌いなのだ。計算されつくしたシナリオとセリフとカメラワークに、完全に手玉に取られ、かつ、映画を観て胸糞になっている自分も含めて計算されている展開が、とてつもなく嫌なのだ。

というわけで、本書のおかげで3回目が観たくなった(「役に立たないシナリオ」という前代未聞の展開が分かっていないので、確認してみる)。

こんな風に、未見の胸糞は観たくなり、二度と観たくない胸糞はもう一度観たくなるという、不思議なチカラを秘めた一冊。

あなたの胸糞をぜひ教えて欲しい。きっと本書で紹介されているはず。もしなければ著者である宮岡太郎さん( @kyofu_movie) に伝えると喜ばれるだろう。

 

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予定調和は裏切られ、予想のナナメ上を裏切る『寝煙草の危険』

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都合が悪いのは現実だけで沢山だ。

せめて物語のなかだけは、予定調和に進んでほしい。ご都合主義と言われてもいい、悪いものが潰えて、弱き人、良き人が救われる、そんなストーリーになってほしい。

なぜなら、現実がそれだけで酷い世界だから。頭の弱い女は利用され、貧乏老人は虐げられ、居所のない子どもたちは食いものにされる。ポリティカル・インコレクトネスな世間だからこそ、物語だけでも救われてほしい。

そんな現実逃避を踏みにじってくるのが、ホラー短編集『寝煙草の危険』だ。

頭のイカレた老人が、通りでいきなり排便する(しかも下痢気味)。通り一帯に悪臭がたちこめ、近所の人が袋叩きにするのだが、どちらも救われない。ホームレスの老人も、正義感に満ちたその人も、その通りに住む全ての人が、救われない。

一応、老人の呪いという体(てい)で話は進むのだが、それを目撃した人たちは次々と不幸に遭う。強盗に遭って破産する、飼い猫を殺して食べた後自殺する、解雇される、店をやっていけなくなる、大黒柱が事故で死ぬなど、酷い運命が待っている。

悪いことがおきるとき、それに釣り合うカウンターが用意されているのがセオリーだ。だが、何のバランスもない。そんなに非道なことをしていないのに、したこと、していないことに見合わない非道な目に遭う。

そして、物語なら、なぜそんなことになったのか、因果の説明がある。本当に「呪い」なら、呪う側の出自や呪われる側の過去が語られるはずだ。だが、無い。

悪いことが起きることに何の理由もない、これが最も恐ろしい。なぜなら、それは現実で嫌というほど味わっているから。

これが「ショッピングカート」。20ページに足らない短編で、ひどく嫌な気になる。そしてラストの救いようのないナナメ上の展開にゾッとするあまり、引き攣った笑い声が漏れる。

「ホラー作品」なのだから、一応、体裁上は、幽霊やゾンビ、呪いといった定番の超自然モチーフを用いる。にもかかわらず、そこに描かれるものは現実よりも容赦ない。人身売買や貧困老人、ストリートチルドレンといった現代の問題を、キングのホラー風味とマルケスのリアリズムで味つけるとこうなるのか。

狂った(でも生々しい)世界はボルヘスみがあって好きだ。リアルが狂っているのか、それを見ている「私(=主人公、読者も可)」が狂い始めているのか、どちらであっても楽しい。

藤ふくろうさんが、「(アルゼンチンの政情からくる)死と不安の距離が近いリアルを、ゴシック形式で語ったホラー」と推していたのを耳にして手にしたら正解だった。「死者が帰ってきて、生きている人たちを圧倒してくる」「死者がイキイキしている」が刺さった。

ふくろうさんの紹介は、文学ラジオ空飛び猫たち(番外編)の26:40ぐらいから聞ける。聞いたら読みたくなるし、読んだら不穏になる一冊なり。

 

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ジョージ・オーウェル『1984年』を山形浩生訳で読んだら驚くほど面白かった

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有名だけど退屈な小説の代表格は、『一九八四年』だ。全体主義による監視社会を描いたディストピア小説として有名なやつ。

2017年、ドナルド・トランプが大統領に就任した際にベストセラーになったので、ご存知の方も多いだろう。「党」が全てを独裁し、嘘と憎しみとプロパガンダをふりまく国家が、現実と異なる発表を「もう一つの事実(alternative facts)」と強弁した大統領側近と重なったからかもしれぬ。

『一九八四年』は、学生の頃にハヤカワ文庫で読んだことがある。「ディストピア小説の傑作」という文句に惹かれたのだが、面白いという印象はなかった。

主人公のウィンストンは優柔不断で、あれこれグルグル考えているだけで、自ら行動を起こすというよりも、周囲の状況に流され、成り行きで選んでゆく。高尚な信念というより下半身の欲求に従っているように見える。

「党」を体現する人物との対話も、やたら小難しく何を言っているのかさっぱりだった。

例えば、「二重思考(double think)」という概念が登場する。「2つの矛盾する信念を同時に抱き、かつ両方とも受け入れる」というのだが、そんなことが可能だとは思えなかった。党のプロパガンダを洗脳するだけで充分じゃないの?と考えていた。

ところが、山形浩生さんがボランティア(?)で翻訳した『1984年』を手にしたら、一変した。

翻訳が変える読後感

主人公はノスタルジックな記憶にしがみつき、現実が何なのか分からなくなっている不安定なキャラが浮かび上がる。「書く」ことで自分を確かめようとする態度がいじらしくも哀れに見える。

  オレンジにレモン、とセントクレメントの鐘
  お代は三ファージング、とセントマーチンズの鐘
  お支払いはいつ、とオールドベイリーの鐘
  ……

折に触れて言及される詩の意味も分かった。子どもの頃の童歌だったのだが、中年になったウィンストンは、どうしても続きが思い出せない。その内容のノスタルジックな響きと、続きを思い出させてくれる人たちの立ち位置が秀逸なり。

初めて読んだとき、適当に読み流していたけれど、これ、物語の根幹に関わるキーとなっている。特に最後のフレーズを教えてくれる人物の皮肉が利いている(まさに「過去を支配する者は今を支配する」だ!)。これを伏線として読み直すことができたのは、巻末の解説のおかげだ。

恋仲となるジュリアも、別のキャラになった。

乙に澄ました女というイメージが壊され、いたずらめいた下品さが醸しだされ、性に(生に)忠実であることがよく伝わってくる。原文は読んでいないが、翻訳だけでここまで生き生きとキャラが立ってくるのか、と驚いた。彼女がウィンストンに持ちかける内容に似合った口汚さがいい。

そして「党」の主張も、よく理解できるようになった。これも、分かりやすい翻訳のおかげ。

二重思考の「矛盾する信念を同時に抱く」とは、その信念を適用させる対象をコントロールすればいい。辞書を編纂し、人々を教育し、その言葉が指し示す範囲のうち、党に不利益となるものをキャンセルする。ある概念を適用する範囲を狭めることで、本来であれば並び立たないような表現を成立させるのだ。

例えば「自由(free)」という言葉について。「フリーランチ(無料の食事)」や「アレルギーフリー(アレルギー原因物質を含まない)」という意味として使える。しかし、「言論の自由」や「信教の自由」といった使われ方はしない。「自由」という言葉を適用する範囲から、知的や思考を指し示す概念そのものが存在しなくなっているのだ。

それでも、昔を知る人は「知的自由」という言葉が成立していた時代を覚えているかもしれない。知的には党に従うのが当然のため、知的自由という言葉の代わりに知的には隷属することになる。

「知的自由」を知る人は粛清されるか年老いて死んでいくだろうが、そこに至るまでは「自由」という言葉は矛盾した使われ方をしているように見えるだろう。アレルギーからの束縛を受けないという意味で自由である一方で、思想や信仰、知的には党の束縛を受けることが「自由」になる。

「矛盾する信念を同時に抱く」という定義のキモはここにある。二重思考というのは、そこに至るまでの過渡期として、推奨される考え方なのだ。「党」が意味付けたい言葉が完全に浸透したならば、そこに矛盾は無くなり、二重思考という概念すら不要となる。

人生経験による変化

作品は変わらないが、作品を読む「私」が変化する。

別の作品に触れたり、人生経験を通じて識ったことにより、より豊かな読み方ができるようになった。

例えば、意味をコントロールすることで思考を変えることについて。かつて、無邪気にも、そんなことはあり得ないと考えていた。

だが、新しい言葉が古い言葉を上書きすることは、普通にあり得る。

そして、当たり前のことだが、昔の意味を知らない人にとっては、今の意味が全てになる。「スパム」は缶詰ではなく迷惑メールだし、「KY」は捏造報道ではなく「空気を読む」意味に上書きされている。これらはコントロールされた訳ではないが、全体主義国家がやれば意図的に変えることも可能だろう。

あるいは、ウィンストンが101号室で被る壮絶な恐怖も、より生々しく感じられるようになった。

その人にとって最も恐ろしいものを突き付ける展開は、スティーヴン・キング『IT』やクライブ・バーカー『腐肉の晩餐』を読んだ身としては、気持ち悪い汗が出るほどエグかった。

死んだ方がマシというよりも、早く殺して欲しいと心から願うくらい、「死ぬことが希望」になる。目的は洗脳ではないのだから、これは効果的だろう。

『一九八四年』が、あらためてディストピア小説の傑作だと思い知った。それと同時に、ウィンストンの悲しみに寄り添えるようになった。すべて新訳のおかげ(山形さん、ありがとうございます)。

以下、Typoが散見されたのでまとめておく。

原文に当たって確認した訳ではないので、私の指摘が誤っているかもしれぬ。そして、(これはありそうだが)「党」がコントロールする言葉の歪曲を表現するために、あえて誤植のように翻訳しているのかもしれない(こっちのほうが怖い)。

天真楼文庫のKindle版第一刷(2023年12月1日)のを元にしている(いま確認したら、12月15日版が出ており、かなり修正されているものと思われる)。

該当ページ 修正前 修正後
p.12 それから穴だらけになってまわりの生みがピンク色になって穴から水が入った見たいにいきなり沈んで、 それから穴だらけになってまわりの海がピンク色になって穴から水が入った見たいにいきなり沈んで、
p.21 ウィンストンは内蔵が冷え込むように感じた。 ウィンストンは内臓が冷え込むように感じた。
p.27 献身的なドタ作業要員で、 献身的な作業要員で、
p.43 新潮に構築されたウソを語ること。 慎重に構築されたウソを語ること。
p.56 特別なに規則を曲げることで規定より一歳早く――スパイ団に入った。九歳にして部隊長となった。十一歳のとき、叔父の会話を盗み聞きして 特別な規則を曲げることで規定より一歳早く――スパイ団に入った。九歳にして部隊長となった。十一歳のとき、叔父の会話を盗み聞きして
p.56 人生の目的は敵ユーラシアの妥当と、スパイ、妨害工作者、 人生の目的は敵ユーラシアの打倒と、スパイ、妨害工作者、
p.70 数字は終えなかったが、それが何らかの形で満足すべきものなのだということはわかった。 数字は追えなかったが、それが何らかの形で満足すべきものなのだということはわかった。
p.70 選集の配給量は30グラムだったと示唆するものを全員追跡し、 先週の配給量は30グラムだったと示唆するものを全員追跡し、
p.71 その深いと汚れと物不足、果てしない冬、 その不快と汚れと物不足、果てしない冬、
p.79 だが一つのことさえなければ、彼女との暮らしも絶えられただろう。 だが一つのことさえなければ、彼女との暮らしも耐えられただろう。
p.81 だが本当の常時などほとんど考えられないできごとだった。 だが本当の情事などほとんど考えられないできごとだった。
p.86 連中は疑惑など受けるほどのドン材ではなかった。 連中は疑惑など受けるほどの鈍才ではなかった。
p.91 いつもしれは、昔のテーマを焼き直していた―― いつもそれは、昔のテーマを焼き直していた――
p.91 唇はぶあつく黒人敵だった。 唇はぶあつく黒人的だった。
p.96 石は固く、水は塗れていて、支持のない物体は地球の中心に向かって落ちる。 石は固く、水は濡れていて、支持のない物体は地球の中心に向かって落ちる。
p.101 酸っぱいビールの匂いが漂ってきた。 酸っぱいビールの臭いが漂ってきた。
p.103 そしてさほど遠からぬ小さな文具やで、 そしてさほど遠からぬ小さな文具屋で、
p.104 醜悪なチーズめいた酸っぱいビールの匂いが 醜悪なチーズめいた酸っぱいビールの臭いが
p.106 ダーツの試合はまた全開となり、バーにかたまった男たちは宝くじの話を始めた。 ダーツの試合はまた再開となり、バーにかたまった男たちは宝くじの話を始めた。
p.106 その戦争ですか?」とウィンストン どの戦争ですか?」とウィンストン
p.108 その言葉Wをきくのは、 その言葉をきくのは、
p.108 そのreg’larには連れ戻されるよ、いやホント。 その連中には連れ戻されるよ、いやホント。
p.108 ロバ年も前だったか―― ロバ年も前だったか――
p.108 アイドパークにときどき出かけて、 ハイドパークにときどき出かけて、
p.111 というのもそれを懸賞できるような基準は存在せず、 というのもそれを検証できるような基準は存在せず、
p.112 質問だれたら、カミソリの刃を買いたいと 質問されたら、カミソリの刃を買いたいと
p.112 髪はほぼマッ尻だが、 髪はほぼ真っ白だが、
p.112 彼に漠然とした地勢の雰囲気を与えていて、 彼に漠然とした知性の雰囲気を与えていて、
p.119 セーターでの一晩をサボるより センターでの一晩をサボるより
p.122 肉体はふくれあがって宇宙を見たし 肉体はふくれあがって宇宙を満たし
p.122 飢えや寒気は睡眠不足、 飢えや寒気や睡眠不足、
p.123 クラやミンのない場所とは 暗闇のない場所とは
p.127 すでに本能の息に達し他習慣ではあり、 すでに本能の域に達した習慣ではあり、
p.140 ある巨大な一家であふれかえるほどの満員ぶりで、話の曾祖母から生後一ヶ月の赤ん坊までいて、 ある巨大な一家であふれかえるほどの満員ぶりで、曾祖母から生後一ヶ月の赤ん坊までいて、
p.141 肌の毛穴にすすまみれのロンドンのほころが詰まっているように感じ 肌の毛穴にすすまみれのロンドンのほこりが詰まっているように感じ
p.142 顔に浮かんだ無精はかすかに皮肉っぽく、 顔に浮かんだ微笑はかすかに皮肉っぽく、
p.153 どのみちジュリアは完全に明いた晩がめったにない。 どのみちジュリアは完全に空いた晩がめったにない。
p.153 ハトの糞の匂いがプンプンしていた。 ハトの糞の臭いがプンプンしていた。
p.162 最後の訪問時に勝ったガラスの文鎮が、 最後の訪問時に買ったガラスの文鎮が、
p.166 人はそれが起こるまでの感覚を短縮する道を選んでしまうのだ。 人はそれが起こるまでの間隔を短縮する道を選んでしまうのだ。
p.172 ウィンストンはそれを彼女の手から鳥 ウィンストンはそれを彼女の手から取り
p.188 そのページを破って運ストンに渡した。 そのページを破ってウィンストンに渡した。
p.191 さらに一部のルートで異同するトラックの通過 さらに一部のルートで移動するトラックの通過
p.191 すえた匂いの部屋で、 すえた臭いの部屋で、
p.193 ドアめがけて欠けだした ドアめがけて駆け出した
p.195 自分もその行動も、二度とだれにもつたわれない。 自分もその行動も、二度とだれにも伝わらない。
p.195 生涯で始めて、ウィンストンはプロレを軽蔑もせず、 生涯で初めて、ウィンストンはプロレを軽蔑もせず、
p.200 テレスクリーンが着られてから、部屋は死んだように静まりかえった テレスクリーンが切られてから、部屋は死んだように静まりかえった
p.201 飲み物をこっちに持ってきて暮れ、 飲み物をこっちに持ってきてくれ、
p.205 我々の下界は、人々をまったく見分けがつかないほど変えてしまえるのだ。 我々の世界は、人々をまったく見分けがつかないほど変えてしまえるのだ。
p.205 立ち上がる都ゆっくり行ったり来たりし始めて、 立ち上がる都度ゆっくり行ったり来たりし始めて、
p.206 だが我々がの戦いが奉じる全般的な目標と、 だが我々の戦いが奉じる全般的な目標と、
p.207 やらねばならないことなのだだが人生が再び生きる価値のあるものとなったら、 やらねばならないことなのだが人生が再び生きる価値のあるものとなったら、
p.214 深紅の垂れ幕をかけた遠大では、 深紅の垂れ幕をかけた演壇では、
p.219 イギリス初頭を含む大西洋の島々、 イギリス諸島を含む大西洋の島々、
p.220 捕虜に対する意趣晴らしといった行為は、 捕虜に対する意趣返しといった行為は、
p.226 馬肉の塊を持っている蚊どうかが、 馬肉の塊を持っているかどうかが、
p.229 戦争の物流兵站面だけを考えテイル。 戦争の物流兵站面だけを考えている。
p.230 公式の合意は決して交わされるれることも野押さされることもなかったが、 公式の合意は決して交わされるれることも直されることもなかったが、
p.245 現実には制服不能であり、ゆっくりした人口変化でのみ制服可能となるが、 現実には征服不能であり、ゆっくりした人口変化でのみ征服可能となるが、
p.248 事実を考えて見たりしなかった 事実を考えてみたりしなかった
p.249 どこかで犯罪を犯すかもしれない人物を一層するため どこかで犯罪を犯すかもしれない人物を一掃するため
p.255 どちらが買っているかは、彼らにとっては完全にどうでもいいことである。 どちらが勝っているかは、彼らにとっては完全にどうでもいいことである。
p.258 旧式の時計を見てみると、まだ23=30でしかなかった。 旧式の時計を見てみると、まだ20=30でしかなかった。
p.269 騒々しい、ひどい匂いの場所だった。 騒々しい、ひどい臭いの場所だった。
p.275 長い時間に思えるものが杉田 長い時間に思えるものが過ぎた
p.277 オレがそう行ったんだ。どうやら何度も何度も言ったらしいぜ。 オレがそう言ったんだ。どうやら何度も何度も言ったらしいぜ。
p.277 オレが行ってることを聞いて、 オレが言ってることを聞いて、
p.278 顔色が一篇したように 顔色が一変したように
p.278 口と目が異様に大きく見栄 口と目が異様に大きく見え
p.284 苦痛に直円したら、英雄などない、 苦痛に直面したら、英雄などない、
p.293 ゆっくりと商人するようにうなずいた。 ゆっくりと承認するようにうなずいた。
p.293 過去はホント運の実在性があるものかね? 過去はホントウの実在性があるものかね?
p.294 記録をどう支配できるんですか? 私の記憶は支配できてないでしょう!」 記憶をどう支配できるんですか? 私の記憶は支配できてないでしょう!」
p.294 だがウィンストン、襲えてやるが、現実は外部にあるものではない。 だがウィンストン、教えてやるが、現実は外部にあるものではない。
p.296 ちても寒く、抑えようもなく震え、歯はカチカチ鳴り、 とても寒く、抑えようもなく震え、歯はカチカチ鳴り、
p.297 自分が絶叫しているかどうかもわからなくあんった。 自分が絶叫しているかどうかもわからなくなった。
p.297 レバーを戻してイットあ。 レバーを戻して言った。
p.298 どこかりら、実際の言葉は決して交わされることがなくても、 どこか、実際の言葉は決して交わされることがなくても、
p.303 どれほど完全に我々に幸福しても、助かるなどとは思うなよ。 どれほど完全に我々に降伏しても、助かるなどとは思うなよ。
p.311 富でもせいたくでも長命でも幸福でもない。 富でも贅沢でも長命でも幸福でもない。
p.311 純粋な権力がどういう井美香はすぐわかる。 純粋な権力がどういう意味かはすぐわかる。
p.312 というのもあらゆる人間は死ぬ運命にあり、誌こそは最大の失敗だからだ。 というのもあらゆる人間は死ぬ運命にあり、死こそは最大の失敗だからだ。
p.315 「その通り。苦しめませるのだ。 「その通り。苦しませるのだ。
p.316 鎮江に、あらゆる瞬間に、勝利のスリルがあり、 あらゆる瞬間に、勝利のスリルがあり、
p.326 ジュリアといっしょにものもあった。 ジュリアといっしょのものもあった。
p.329 決して口に出されたのを効いたことがないのに、 決して口に出されたのを聞いたことがないのに、
p.339 顔の肉付きがマシ、 顔の肉付きが増し、
p.339 ハゲた逃避ですらあまりに深いピンクだった。 ハゲた頭皮ですらあまりに深いピンクだった。
p.340 どんなチェス問題でも黒が買ったことは どんなチェス問題でも黒が勝ったことは
p.341 オブライエンは行った。 オブライエンは言った。
p.342 彼女が何か曰く言い型形で変わったのが感じ取れた。 彼女が何か曰く言い難い形で変わったのが感じ取れた。
p.358 その言葉の存在により、どの範囲の単語がギャンセルできたかを明確にするということ その言葉の存在により、どの範囲の単語がキャンセルできたかを明確にするということ
p.358 そのときいも望ましからぬ意味は そのときも望ましからぬ意味は

 

 

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エンタメの恐怖はニセモノなのか『恐怖の正体』(春日武彦著、中公新書)

恐怖の正体

ネットで肝試しするなら「蓮コラ」画像が手軽だ。ちょっと検索するだけで簡単にゾワゾワできる。「集合体恐怖症(トライフォビア Trypophobia)」で検索するのもあり。生理的にダメな、見てはいけないものを見ている感覚を味わえる。

あるいは、youtubeで「フライングスーツ flyingsuits」を検索してもいい。ムササビみたいな恰好をして滑空する映像を「一人称で」見ることができる。スカイダイビングとは異なり、切り立った崖から飛び降りるのがスタートだ。だから映像は、飛び降り自殺する人が見ている(見ていた)視点と重なる。

高所恐怖症なら、「Raw Run」で検索しよう。スケボーで長い坂道を延々と滑り降りる映像なのだが、背筋ゾゾゾとなるのを請け合う。乗ってる人はほぼ丸腰で、ヘルメットもしていないのもある。公道なので、もちろん対向車も来る。それをかわしながらカッ飛んでいくのだが、時速100kmを超えるらしい。転んだら死ぬ映像を、まるで自分が乗っているかのように体感できる。

こうした映像を見るとき、わたしが感じているものは、間違いなく「恐怖」だ。目が見開かれ、肌が粟立っている。胸がキュっとなり、脳汁ブッシャ―となっているのが分かる。いや、恐怖に直面している時は自覚症状がない。観終わった後、食いしばった歯や、鳥肌が残る腕を見て、恐怖への反応を後追いで知ることになる。

考えてみると、わたしは様々なものを怖いと感じる。

びっしりツブツブが並んでいる様や、制御不能のスピード、こっちへ向かってくるゴキブリ―――この「怖い」という感覚は何なのか。なぜ人は「怖い」と感じるのかについて語ったのが『恐怖の正体』になる。

「怖い」とは何か。色々なアプローチでこの感情(感覚?)を解き明かそうとしてきた。

本書がユニークなところは、恐怖と娯楽との関係から「怖い」の正体に迫っているところ。すなわち、精神科医である著者自身が診てきた患者や、読んできた小説、観てきた映画を通じて、恐怖の正体を示そうとする。

死に対する反応―――「危機感」と「不条理感」

恐怖とは何かついて、さまざまな定義づけがされてきたが、本書ではさらに洗練させ、「危機感」「不条理感」「精神的視野狭窄」の3要素を満たしているという。

最初の2つ要素である「危機感」と「不条理感」については、安全な状態から外れることへの生理的・動物的な反応であり、死もしくは死に関するものに触れたときに起きる人間的な感情になる。さらに、著者は自身の甲殻類恐怖症を挙げ、そこに根源的な不快感も交じっているという。

これは確かにそうだろう。蓮コラを見た時のゾワゾワの根っこには、感染症によって皮膚に出たブツブツや発疹を忌避する感覚がある。発疹に危機感を抱きにくい人は、適応のフィルターにかけられ、生き残っている人はふるいにかけられた結果だと言える。トライフォビアは、感染症から身を守るための進化的なメカニズムなのかもしれない。

本書では、『異形コレクション 恐怖症』(井上雅彦監修、光文社文庫)に収められている柴田よしき「つぶつぶ」を例に挙げる。

そこでは、いちごの表面のあの小さなつぶつぶを爪楊枝の先でほじくりだし、果肉をすっきりさせたくなる衝動に駆られる男が登場する。そして、いちごだけではなく、日常のさまざまな箇所に集合体が潜んでいることを示す。私たちが気づいていないだけで、そこらじゅうに集合体はあるという結論に、おもわず周囲を見回してしまう。

めまいに似た感覚―――「精神的視野狭窄」

最後の「精神的視野狭窄」は、追い詰められて余裕が失われ、認識する対象を無意識のうちに絞り込もうとする反応を指す。時が急に粘り気を増し、視野は狭まり、音はくぐもって聞こえ、焦りばかりが増してくる。

これは体感したことがある。車にはねられたとき、溺れそうになったとき、およそ千人が見ている舞台上でセリフを忘れた時、まさにこの感覚だったことを、はっきりと覚えている。

このめまいに似た感覚は一人称だが、仮に三人称で眺めるならば、映画のドリー・ズーム・ショット(めまいショット)になるだろう。

ドリー(台車)に乗せたカメラを後ろに引きながら、人物をズームアップする。画面の中での人物の大きさは変わらないが、背景は遠ざかるようになる。ヒッチコック『めまい』やスピルバーグ『ジョーズ』で、観客の不安や焦りを掻き立てるのに効果を発揮している。

アドレナリンによる過覚醒が、体感時間の減速や対象のディテールをくっきりと知覚させ、心を鎮めるためのエンドルフィンの分泌が脳の認知を遅らせる。その感覚を引き起こす対象は危険をもたらすものであり、逃げるか戦うかする必要がある。日常モードのままでいたならば、間違いなく命にかかわる。

危険を危険だと察知できず、のほほんとしている人もいただろうが、これも適応の結果、生き残っていないのだろう。

「エンタメの恐怖」は恐怖ではない?

優れた恐怖論だけでなく、怖い作品を紹介するガイドともなっている。

ヨルゴス・ランティモス監督『籠の中の乙女』や岡本綺堂『蛔虫』は、ネタバレを食らったが、それでも観て/読んでみたい(それくらい怖いのが分かる)。

ただ、納得できないのは、こうした小説や映画の恐怖は、本当の恐怖ではないという点だ。

娯楽における恐怖を味わう人は、安全地帯におり、苦痛を受けない。だからそこで味わうものは、抜け殻の、フェイクの恐怖だという。

よく「なぜ恐怖は娯楽となり得るのか」というテーマがあるが、これは言葉のトリックだという。つまり、娯楽となり得る恐怖は恐怖ではないのだから、「なぜ」という設問が成り立たないというのだ。恐怖のまがいものであり、カニカマみたいなものだという。

これは本当かなぁと思う。

同じテーマはノエル・キャロル『ホラーの哲学』でさらに深掘りされている。「フィクションのパラドックス」と呼ばれているものだ。恐怖に限らず、私たちはなぜ、小説や映画に心躍らせ、涙し、憤り、笑うのか。スクリーンやタブレット、紙は媒体に過ぎず、フィクションに過ぎない物語から引き起こされる感情は、果たして本物なのか、というテーマだ。

ホラーの哲学

もし本当に恐怖を感じているのなら、おとなしくページをめくったりシートに座って映画を見ていることなんてしないだろう。現実でモンスターと出会ったならば、危険だと感じて逃げようとする。本を放り出すか、映画館から逃げ出すはずだ。だから、フィクションを「現実」だと信じていないはずであり、そこから導かれる感情が偽物だという主張だ。これを錯覚説という。

あるいは、映画や小説で味わう恐怖は、ごっこ遊び(Make-Believe)のようなカッコつきの偽物のようなものだという。ゾンビや吸血鬼は存在しないかもしれないが、こうしたフィクションが、映画や小説といった形では現実に存在する。私たちは、そうした作品を通じてイメージを共有し、それを楽しむという主張もある。これを「ごっこ説」という。

ノエル・キャロルは、錯覚説、ごっこ説、どちらの主張も追求した後、「フィクションを怖がる」説明について行き詰まることを示す。そして、エンタメを通じて得られる「あの感覚」は、恐怖以外の何物でないと主張する。その上で、思考説を紹介する。

思考説とは、対象が現実だという信念が無くても、本物の恐怖が引き出されるのではないかという考えだ。心に浮かんだことが現実にあるか否かはともかく、その思考内容そのものが感情を誘発するのだという。

例えば、断崖絶壁の上に立っているとする。このとき、「落ちる」という考えが頭をよぎり、ヒヤっとすることはないだろうか。もちろん、足場はしっかりしているし、後ろから押してくる人もいない。自分で飛び降りる意思もないから、落ちる可能性はない。それでも、崖から真っ逆さまに「落ちる」という思考に怯え、身体が震え、足がすくんでしまうかもしれない。落ちるという出来事ではなく、落ちる思考内容が、感情を引き出しているのだ。

高い崖から飛び降りる一人称の映像や、見通しの悪い坂道をスケボーで滑り降りる動画を見る時、私は安全な場所に座っており、何の危険もない。だが、肌が粟立ち、胸がキュっとなり、脳汁ブッシャ―となっているのが分かる。これは「恐怖」ではないだろうか。

youtubeの例だと、「それは『フィクション』ではなく、現実の画像を撮影したものだから」という再反論もできるだろう。この反論には、『天空の城ラピュタ』のフラップターの疾空シーンや『ベイビー・ドライバー』のカーチェイスにある一人称の目線をどうぞ。

スリル溢れるシーンだけでなく、「危機感」「不条理感」「精神的視野狭窄」を与える物語としてなら、例えばミヒャエル・ハネケ『ファニーゲームU.S.A.』やアリ・アスター『ミッドサマー』を推したい。恐怖の正体が何であるか、触れるくらいはっきりと分かるだろう。

あるいは来月公開される、『ボーはおそれている』がそうかも。「みんな、どん底の気分になればいい」と、アリ・アスター監督が笑顔でお届けするホラーらしい(ほぼ3時間、自分の精神が保てるのか心配だ……)。

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「若い頃の自分に教えたいこと」を集めた名言集『他人が幸せに見えたら深夜の松屋で牛丼を食え』

他人が幸せに見えたら深夜の松屋で牛丼を食え

40~60代のおっさん達に、「もし若い頃の自分にアドバイスができるなら、何を伝える?」と聞きまくって集めた名言集。

聞いた場所も、東京なら赤羽・上野、大阪なら新世界、名古屋なら栄の飲み屋街に限定してる。出てきた答えは、下品で下世話で下半身ネタだらけだけれど、心底その通り!と言いたくなる名言ばかり。

誰も教えてくれなかったけれど、長いこと生きてきて、ようやく身に沁みて分かった、何気ない一言が集められている。職場呑みの宴席とか、独りで入った飲み屋のカウンターで、こっそり教わる人生の教訓だ。

わかる人には痛いほどわかるやつで、分からない人は、きっと、幸せな人生だと言えるだろう。

人は、傷ついた分だけ、性格が悪くなる

ラブソングとかで、「傷ついた分だけ、人は優しくなれる」というフレーズがある。手垢にまみれまくっているが、これはウソ。

あんなの心地いいだけで、タワゴトです。真実は真逆で、傷ついた分だけ、性格が悪くなる―――という会社員(40代)の名言。

これは分かる。相手のことを思いやるために必要なのは想像力。「これ言ったらアカンなぁ」という言葉や、「こう伝えると呑んでもらえそうかも」という言い方は、コミュニケーションする相手がどのように感じるかを想像できる能力に尽きる。

そして、想像力と、「自分がいかに傷ついたか」は、これっぽっちも関係がない。この会社員さんの義理の兄がまさにそれで、かなり酷い目に遭って、性格がねじ曲がったとのこと。

イヤな目に遭っても、優しくなれるのは聖人君子であって、普通の人はイヤな奴になるのがオチだそうな。

不安はほとんど的中しない

ほんこれ。

私自身がそうだった。仕事を進めていくときに、「こうなったらどうしよう?」「ああなったら終わりだ」とあれこれ心配事が噴出してきて、不安に押しつぶされそうになった。

特に、夜寝る時がサイアクで、悶々と悩むあまり寝られなかったり、ムリヤリ眠るために深酒したりしていた(もちろん翌日は頭が働かない)。今から考えるとバカなことをしたと思う。

東京の公務員のおっさんはこう言う。

心配性の人に教えてあげたいのは、今まで「あー、やっぱり不安が的中した」って経験がありますか?雨が降るとか転ぶとか、小さいことではなく、重病になるとか、予期せぬトラブルになるとか、ないでしょう?どうせ当たらないのなら、不安で眠れないなんて、もったいないですよ。寝なさい。

私が若いころ、こう言ってくれる人は居なかった。

なので、「悩みごとメモ」を1年間記録して、翌年、振り返ってみたら、見事に心配は的中していなかったことを確かめた。ほぼ日手帳を使った具体的なやり方は、「ITエンジニアのメンタルを守る4冊」に書いたので、試してみるといい。

人生の最後の楽しみは美食だから歯だけは大事にしろ

最近、わりと、ひしひしと感じているのがこれ。

60代の自営業のおっさんに言わせると、セックスの愉しみや、酒を呑んで騒ぐ楽しみも、そのうち飽きて、面倒くさくなる。

早い人だと40代で、性欲は急速になくなっていき、釣りとか旅行とか、そういう趣味みたいなものも興味が失せていく。もちろん人によりけりだけれども、ワクワクするものが減っていくのはホントのこと。

それでも、「食事が楽しい」という気持ちは残っていく。

そうすると、食に対するモチベーションは、(他の趣味とは違って)相対的に高くなっていく。入れ歯になると不便になるだけでなく、食事がまずくなる。老いてくると、たくさん食べられなくなる。本当に美味しいものを、少しだけ食べる。これが美食の喜びなんだけれど、これが楽しめなくなるのは悲しい。

めっちゃ分かる。

40歳で吉牛特盛が食いきれなくなって、若くないことを知ったし、天下一品こってりで胸焼けするようになって、老いていることを知った。ビールはロング缶を買わなくなって久しい。歯と胃腸と肝臓は大事にして、できるだけ長いこと「美味しい」を維持していかないと。

女は、お前の意見など、求めてはいない

これも分かる。若かりし頃の自分に、100回ぐらい言いたい。

女から相談をもちかけられたとき、どのように対応するのがベストか?

 1. 相談された内容に応じて、適切なアドバイスをする

 2. ひたすら話を聞く(アドバイスしてはいけない)

この記事を読む方なら、正解は言うまでもない。

だが、私は不正解ばかりを選んできた。もっと言うなら、今でも嫁様の話に不正解を選ぶときがある(あれほど酷い目に遭ってきたにも関わらず!)。ひょっとすると、私は、適切な解答をしようとするあまり、学習能力が無いバカかもしれぬ。

40歳の会社員曰く、

女としょうもない口喧嘩をする原因は、女の話に「そうだね」が言えない自分にある。昔の俺もそうだったんだけど、女の質問にマジで答えてはダメなの。例えば女が「あの映画、面白かったよね」って聞いてきたら、「あの映画はああでこうで」と返しちゃダメなの。女は別にこっちの意見など求めていないのだから、単に同意してほしいだけなんだから、いい関係と続けたいなら、「そうだね」を貫くべし。

これ、ハタチぐらいの私に聞かせたかった。

ただし、これは女に限らず、人間全般に言えるかもしれぬ。

弁護士や医者ではなく、他ならぬ私に「相談したい」というのであれば、そこに求めているものは、専門的なアドバイスではない。「相談する」ことそのものが、したいことなんだ。

「いま抱えているものを吐き出すことで、ラクになりたい」という動機かもしれないし、「モヤモヤを言葉にすることで、少しは客観視したい」のかもしれない。「私というサンドバックを相手に言葉をぶつけて反応を確かめたい」もある。

そこで求められているのは、適切なアドバイス云々というよりも、いい塩梅での相槌とか、一通り聞いた後の短いコメント程度に過ぎない。話すのでいっぱいいっぱいなので、サンドバッグの話なんぞ聞いちゃいないのが真実だろう。そしてこれは、女も男も関係ないはずだ。

そして、どうしても「適切なアドバイス」がしたいのであれば、それは、話を聞いているその場ではなく、後日にしたほうが吉だろう。

「〇〇って、アナタと似てる」という女は、脈あり

これは知ってた。だが、知らない男がいるかもしれないので、念のため書いておく。40代会社員の名言だ。

女の知り合いから「〇〇てアナタと似てるよね?」って言われた経験ない? 別に芸能人だけじゃなくて、絵画に描かれてる人物とか、アニメのキャラとかなんでもいいんだけど。もしそういう経験があるのなら、そのコ、かなりの確率でキミに好意を持ってるよ。

事実として知っていたけれど、この40代会社員の方は、その理由まで説明してくれる。

そのコは誰かの顔を見て、キミの顔を連想したことになる。これは、日ごろから「キミの顔」を意識していないと、そういう連想に至らない。

そして、最も重要なことに、実際はその〇〇〇とキミが似ていなかったときには、ほぼ確実に惚れられていると言える。なぜなら、キミのことを強く意識しているだけに、そんなに似ていなくても、似ているようにみられているから……という理屈だ。

これ、「流れ星が消えるまでに願い事を3回唱えると叶う」と通じるものがある。

流れ星が輝くのは一瞬で、「あっ流れ星!」で終わってしまうくらい短い。でも、常日頃から願い事を考えているのであれば、そんな一瞬でも間に合うだろう。そして、それくらい片時も忘れず強く願っているのであれば、その実現方法も色々と考えるだろうし、いずれ自分のチカラで叶えてしまう……というやつ。

あるいは、ルミネの宣伝コピーの「試着室で思い出したら、本気の恋だと思う」にも近いかも。(女性が)服を選ぶときに、誰かのことを思い浮かべるということは、その人のことが頭の片隅にあるわけで、「服を選ぶ」という自分の好みを反映する瞬間に、片隅から出てくるヒトは本命なのだ。

こんな感じで、飲み屋のオッサンの半分グチ、半分自分に言い聞かせの名言(迷言?)が並んでいる。

正直「?」となるようなものもあるけれど、そのオッサンの半生を知ると、なるほどな、とうなずきたくなる。「他人が幸せに見えたら深夜の松屋で牛丼を食え」なんてまさにそう。20代から30代にかけて、周りが急に「結婚しました」とか「彼女ができました」とか言い出して、ちょっと孤独を感じた夜は、牛丼を腹いっぱい食べるといい、というアドバイスだ。

  • 贅沢して、遊ぶべきは、老後じゃなくて今
  • ハメ撮りする際は、自分を映しても、しゃべっても、いけない
  • ローションオナニーは、やめておけ
  • 合コンで狙うのは「バッグぱんぱん女」
  • 巨乳は、すぐに、飽きる

人生を通じて学んだオッサンの箴言を見ていると、私も何か言いたくなる。どこにも書いて無さそうで、若い人によく言っているのは、銀行口座の話だな。

入社ほやほやの若い連中に、必ず伝えているのは、「給料の振込先の銀行は一生つきあうつもりで選べ。そして変えるな」というやつ。

なぜなら毎月の振込実績が、その銀行からカネを借りるときの評価基準になるから。家なり子の教育なり親の介護なり、ローンを組むときが必ず来るから。これ、『ナニワ金融道』で教わったけれど、同じことを先輩から教わった(入社ほやほやの頃)。

聖人君子や偉人たちの名言集よりも、こっちのほうがしっくりとクる。タイムマシンが発明されたら、若いときの自分に渡したい名言集。

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ミスを責めるとミスが増え、自己正当化がミスを再発する『失敗の科学』

失敗の科学

人はミスをする。これは当たり前のことだ。

だからミスしないように準備をするし、仮にミスしたとしても、トラブルにならないように防護策を立てておく。人命に関わるような重大なトラブルになるのであれば、対策は何重にもなるだろう。

個人的なミスが、ただ一つの「原因→結果」として重大な事故に直結したなら分かりやすいが、現実としてありえない。ミスを事故に至らしめた連鎖や、それを生み出した背景を無視して、「個人」を糾弾することは公正なのか?

例えば、米国における医療ミスによる死亡者数は、年間40万人以上と推計されている(※1)。イギリスでは年間3万4千人もの患者がヒューマンエラーによって死亡している(※2)。

回避できたにもかかわらず死亡させた原因として、誤診や投薬ミス、手術中の外傷、手術部位の取り違え、輸血ミス、術後合併症など多岐にわたる。数字だけで見るならば、米国の三大死因は、「心疾患」「がん」そして「医療ミス」になる。

うっかり見落としたり、忘れてしまうといったミスは、人間だからあたりまえだ。だが、あまりにも多すぎるこの数字は何を物語っているのか。

ミスが再発するメカニズム

マシュー・サイド著『失敗の科学』は、ミスそのものよりも、ミスに対する「姿勢」に着目する。

無謬主義である医療業界には、「完璧でないことは無能に等しい」という考え方が是とされる。失敗は脅威であり不名誉なこととされているため、スタッフはエラーマネジメント(ミスの防止・発見)のトレーニングをほぼ受けていないという。

ミスが起きたとき、人は失敗を隠そうとする。自分を守るために、失敗を認めようとはしない。ちょうど映画のシーンを編集でカットするように、失敗の記憶を消し去ってしまう。自分の過ちを認めるよりも、事実の解釈を変えてしまうこともある。

1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300のヒヤリ・ハットが存在するという。ヒヤリ・ハットは揉み消され、インシデントが共有されることはない。

ひとたび事故が起きて、予期せぬ結果について説明が必要なとき、どう答えるのか?

医療事故の調査によると、「ミス」ではなく「複雑な事態が起こった」と表現されるという。「技術的な問題が生じた」「不測の事態によって」といった婉曲法によって明らかにしない。情報開示に対する抵抗は強く、「患者が知る必要がない」「言っても理解できない」という言葉を盾に取り、事実を語ろうとしない。

疫学的調査によると、受診1万件につき、医療ミスを原因とする深刻な損傷が44~66件発生しているという。しかし、実際にヒアリングをしたところ、この結果通りの申告をしている病院は1%に過ぎなかったという。また、50%の病院は、受診1万件につき5件未満と報告していた。つまり、大半の病院が組織的に言い逃れをしていることになる。

ミスを認めない体質により、インシデントが共有されず、再発が繰り返され、重大事故につながる―――この負のスパイラルは、医療業界に限ったことではないという。あり得ない証拠をでっち上げる検察官や、自己保身のあまり事実を捻じ曲げる経済学者が登場する。

ミスを厳罰化するとミスが報告されなくなる

では、こうしたミスを無くすにはどうすれば良いか?

「失敗は悪」として罰則を設ければよいという考えがある。ミスを厳罰化することで規律を正そうとする発想である。

この仮説を検証するためにリサーチが行われた。投薬ミスが慢性化している複数の病院が選ばれ、一つのグループは懲罰志向で、ミスを厳しく問い詰めさせた。もう一つのグループは非難をしない方針で運営した。

もうお分かりかと思うが、懲罰志向のグループにおいては、ミスの報告は激減した。一方、非難しないグループでは、報告件数は変わらなかった。そして、実際にミスが起きた件数は、懲罰志向のグループが遥かに多かったという。

これと似た経験がある。かつて「品質を向上させるため、バグをゼロにする」というトチ狂った信条の上司が着任し、エラーを見つけ次第、厳しく叱責するようになった。バグは激減したのだが、それは品質が良くなったわけではなく、報告されなくなったに過ぎない(その上司が離任するまで、報告用とは別の管理簿を作ってしのいだ)。

同様に、かつて「いじめ撲滅」を目標にして、いじめが起きた学校や教室を処罰対象にする試みが行われた。数字の上ではいじめは減ったが、告発の手紙を遺して自殺した子どもに対しても、「いじめではなかった」と強弁されていた(レビュー『測りすぎ』参照)。

ミスから学ぶ組織の作り方

では、どうすればよいか?

失敗を認め、そこから学習することで、再発させない。どうすればこれが実現可能になるのか?

本書では、ミシガン州立大学での実験が紹介されている。被験者に単純なテストを受けてもらい、ミスをした時にどのように反応するかを、脳波測定する実験だ(※3)。

着目するべき脳信号は2つあるという。1つ目は、自分のミスに気づいた後50ミリ秒で自動的に現れる信号だ。これは「エラー関連陰性電位(ERN)」と呼ばれ、エラーを検出する機能に関連する前帯状皮質に生じる反応になる。

2つ目は、これはミスの200~500ミリ秒後に生じる信号になる。「エラー陽性電位(Pe)」と呼ばれ、自分が犯したミスに意識的に着目するときに現れる。

自分のミスに気づくERNの信号と、そのミスを意識的に着目するPeの信号、この2つの信号が強いほど、失敗から素早く学ぼうとする傾向があることが分かった。さらに、Peの信号が強い人ほど、「知性や才能は努力によって伸びる」と考える傾向があったという。

ミスから学ぼうとするマインドセットは、個人のみならず組織でも育成できる。

本書では、究極の失敗型アプローチとして「事前検死」が紹介されている。

人の死の原因や状況を明らかにする「検死」は、あたりまえなのだが、人が死んだ「後」に行われるものだ。だが、「事前」とはどういう意味だろうか?

これはpost-mortem(検死)をもじった造語で、pre-mortem(事前検死)になる。プロジェクトが終わった後に振り返るのではなく、実施前に検証するのだ。

まだ始まってもいないのに、「プロジェクトは大失敗でした。なぜですか?」という問いを立て、失敗していないうちから失敗を想定して学ぼうとする手法である。メンバーは、プロジェクトに対し否定的だと受け止められることを恐れず、懸念していることをオープンに話し合うことができる。

これはわたしも行っている。ディスカッションで「もし上手くいかないことがあるとしたら、それはどんな理由?ヤバい順に考えてみよう」と問うて反応を見るやり方だ。荒唐無稽なやつから割と現実的なものまで出てくる。

スイス・チーズの喩え

人だから、ミスが起きるのは当然のこと。そのミスを再発させず、トラブルにまでつなげない仕組みが必要となる。そのためには、まずエラーを受け入れるオープンな姿勢が肝要となる。

フランスでの試みだが、エラーを称賛し、学習・共有する文化を広げようとする『なぜエラーが医療事故を減らすのか』(レビュー)は、まさにこれだろう。

ヒヤリ・ハットから事故への連鎖を止めるための、様々な事例が紹介されている。例えば、成人向けと小児向けの薬剤を同じ棚に置かない。会話のプロトコルをルール化し、「入力の"打つ"」と「注射の"打つ"」と分けて復唱させることで、単に「打つ」だけで伝えないようにする(「この薬剤を打っておいて」と言われたら、「その薬剤データを入力しておくのですよね」と復唱する)。あるいは、多すぎる薬量がオーダーされた場合にはシステムが警告する。

有形無形のさまざまな関所が設けられている。

こうした関所のことを、並べたスイス・チーズで視覚的にモデル化する。一つ一つのチーズは穴だらけだが、並べることにより、エラーという矢の通り道を塞ぐ。幾つもの穴をすり抜け、刺さったチーズが「ヒヤリ・ハット」になる。それぞれのチェックは完璧ではないが、エラーの原因は一つとは限らない。刺さった最後のチーズは確かに目立つかも知れないが、そこへ至る一連の流れを見なおし、各ステップでの不具合を見つけ出し、システム全体としての改善を図ることが必要になる。

スイス・チーズ・モデルに基づけば、不幸にして最後のチーズとなった医療者を責めるのは意味がない。事故の当事者は、たくさんあったはずの防御装置の欠陥を明るみに出した者にすぎないのだから。

ヒューマンエラーは原因ではなく、むしろ結果なのだ。これを報告・学習できる組織になるために、『失敗の科学』をお薦めしたい。

※1

A new, evidence-based estimate of patient harms associated with hospital care - PubMed (nih.gov)

※2

A safer place for patients: learning to improve patient safety - White Rose Research Online

※3

Mind your errors: evidence for a neural mechanism linking growth mind-set to adaptive posterror adjustments - PubMed (nih.gov)

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「美」とは客観的に測定できるのか、見る者の目に宿る存在なのか『近代美学入門』

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どちらが「美」だろう?
A:客観的に測定できる B:見る者の目に宿る
長い時間をかけて伝統的に作られる 天才の閃きによって成し遂げられる
黄金比や円など、均整の取れたものを評価 個性的で多様で自然なものを評価
数学的に計算可能、再現可能 そもそも数値化できない
模倣的、伝統的、定形的、トラディショナルといった属性を持つ 独創的、革新的、クリエイティブ、イノベーティブといった属性を持つ
職人によって作られる(make) 芸術家によって創られる(create)

よく「美とは観る者の目に宿る」と言われるし、均整の取れた肉体を美しいと感じる。どちらが「美」かを選ぶことは難しい。

強いて言うならば「B」だろうか。

絵画や音楽、文芸や舞踊などの芸術作品で、「これは美しい」と評価されるものは、独創的で唯一無二であることが重要な要素であるように思える。もちろんそこに、伝統的な「型」があるかもしれないが、それを踏まえたうえであえて破ったものが「美」とされているのではないだろうか。

『近代美学入門』(井奥陽子、ちくま新書)によると、AとB、どちらも正解になる。

「美しい」とは何か?この疑問について、「芸術」「美」「崇高」「ピクチャレスク」という概念からアプローチしたのが本書だ。

これらの概念がいつ・どのように成立し、時代の中でどうやって変遷していったかをたどることで、わたしが抱えていた「常識」が常識ではないことに気づかせてくれる、優れた解説書であり啓蒙書でもある。この本に出会えたのはシノハラさんまつながさんのおかげ。ありがとうございます!)

美は客観的に測定できる

古代ギリシャ・ローマまで遡ると、美を数学的にとらえていたという。

例えば、万物を数でできているとしたピタゴラスは、複数の音が美しく調和するのは数学的に示せるとした。黄金比や白銀比など、美しさとは均整や調和のとれた状態であり、美は幾何学的に解き明かすことができるとされた。

この考え方をプロポーション理論と呼び、初期近代まで支配的だった考え方だという。神は宇宙を幾何学に従って創造したのであり、この世界は美しく秩序づけられたものだというのだ。

そこでは、見た目の美しさ(均整、均衡、シンメトリー)だけでなく、性能の良さも美しいとされていたという。古代ギリシャ語の「カロカガティア」は「善い」と「美しい」を合成した言葉で、機能美や用の美を指している(英語ならbeautifulよりfineが近い)。

プロポーション理論は、ニュートンにも通じる。万有引力の法則に代表されるように、宇宙や自然現象は神によって形作られているのだから、それを解明することが神の意思に従うことになる。世界には美が潜んでおり、それを解き明かすのが数学になる。美は計算可能なのだ。

美は観る者の目に「も」宿る

この流れのターニングポイントは科学革命になる。

科学革命に伴う実証主義や経験主義の台頭で、それまでの自然観が根本から見直され、美への意識も影響を受けることになる。

世界について知ることができるのは、わたしたちの感覚を通じてのみとなる。従って、美はそれを備えている対象のうちにあるだけでなく、それを感じ取る主観のうちにもあるとする考え方が広まっていく……といった知的変化だ。

本書では、様々な哲学者や作家を挙げて説明するが、例えば、カントの「美の自律性」が面白い。

古代ギリシャ語の「カロカガティア」(善美)は、「〇〇だから美しい」ということが前提となる。「機能的に役に立つから」「シンメトリーだから」「巧みに作られているから」といった前提があり、だから美しいのだというロジックだ。

しかし、カントはこうした前提から美を解放したという。美は概念や目的に基づかない。「〇〇だから」というのではなく、ただ美しいというものがあることを示す。例えば壊れた懐中時計は時計としての用を成さないものの、それでも美しいと感じることはある。

カントの「自律」とは、外部の権威や伝統から外れて、自分の理性に従うことになる。これを用いるならば、誰が何と言おうとも主観的に美を感じとることは可能だ。

「常識」を手に取る

美は客観的な側面をもつだけでなく、主観的に感じ取れるものにも存在する。美とは、客観主義と主観主義と、双方から説明することができるのだ。

重要なのは、どちらが正解かというより、そうした考え方があることに気づくことだという。

わたしたちが「美しい」と感じるその感覚には、知らず知らずのうちに近代美学の考え方が刷り込まれている。それがダメだというのではなく、意識的に顧みる必要があるというのだ。さもなくば、ヨーロッパ近代の価値観こそが常識であり、このバックグラウンドから外れたものを「間違っている」とか「野蛮」だと考えてしまう恐れがある。

自分たちが無意識のうちに内面化しているものを、ヨーロッパの美術史を解説しながら、あらためて取り出してみせてくれる。

バッハもダ・ヴィンチも、自己表現やオリジナリティを作品で目指したわけではないという。そのため、現代の「芸術作品とは作り手のオリジナルな自己表現を形にしたものだ」という価値観で見てしまうと、バッハやダ・ヴィンチを歪めて見てしまうことになる。

わたしたちが自明の理であるかのように扱っている美や芸術についての考え方は、たかが200~300年前のヨーロッパという一地域で生まれた考え方に過ぎない。自分が囚われている「常識」に自覚的であれと説く。

この主張は、権威に寄り添うことで自分を絶対視したがる人には、かなり耳の痛い話になるだろう。一方、本書を通じて自分の「常識」を手に取って眺めることができるなら、より自由な視点を選ぶことができるだろう。

例えば「〇〇は芸術だ/芸術でない」論争があるが、「それを判断するのは自分にある」と思い込んでいる時点で、美の主観主義に陥っていることが分かる。そこから一歩離れると、より豊かに議論を深掘りできる。

ラーメンは芸術か?

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「ラーメンは芸術か?」「おいしいは客観か主観か」といったテーマで、『「美味しい」とは何か』(源河亨、中公新書)をダシにして、「おいしい」について掘り下げたことがある。

「おいしい」というあの感覚はもちろん主観的なものだが、それを作り上げるバックグランドは食文化や食体験によるものだ。だから「蓼食う虫も好き好き」と言えるのか、あるいは、文化的相対性で片が付くのか、一概には言えぬ。

あるいは、ヒトの生理学上の観点から、「人類標準のおいしさ」はあるのかという議論もできる。仮に、標準的なおいしさというものがあるとして、そこからのバリエーションが歴史的にできあがってきたのか、あるいは、それぞれの地域や社会における「おいしい」条件のANDを取ると、おいしいの普遍性が見出せるのか。

この辺りのお話は、美味しいを哲学すると、もっとおいしい『「美味しい」とは何か』に書いた。「おいしい」を美学として捉えると面白い。

『美の歴史』と『醜の歴史』

「美や芸術についての考え方は、たかが200~300年前のヨーロッパという一地域で生まれた考え方に過ぎない」という指摘から、ウンベルト・エーコの2冊を思い出す。

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どちらも博覧強記のエーコ御大が、古代ギリシア・ローマ時代から現代まで、絵画・彫刻・音楽・文学・哲学・数学・天文学・神学、そして現代ポップアートにいたるあらゆる知的遺産を渉猟し、豊富な図版を元に縦横無尽に語り尽くした画集とも哲学的考察とも言えるものだ。

2冊とも何度も読んでいるのだが、面白いことに、何度読んでも面白いのは、ぶっちぎりで『醜の歴史』になる。

『美の歴史』は、西洋人にとっての美学書になる。いわば西洋人の美にまつわる観念の変遷であるため、「そういうもの」として受け取るならば美しい。だがそれは、わたしが美と感じる一部に過ぎないように見える。

一方、『醜の歴史』は、美と対立する概念のように扱われていない。もっと本質的な知見から出発する。

エーコは、「醜い」の類義語を引いてきて、そこに表わされる不安や不快の反応を指摘する。たとえ激しい反感や憎悪、恐怖にまで至らないにしても、不安の反応を引き出す要素があれば、それを「醜」だと定義づける。

さらに、排泄物や腐敗した死体といった、それ自体で「本質的な醜」を孕むものと、全体の中の諸要素の有機的関係の不均衡に由来する(つまり、比例と調和の不一致からくる)醜さを指摘する。

後者は「形式的な醜」で、いわゆる文化と歴史に基づいたものになる。美と対になるのはこちらで、アリストテレスのいう「醜いものも、美しく模倣することができる」がこれだろう。そして、美のように時代とともに変遷してゆく。

読み返すたびに、「醜」の例の中に美しさを見出したり、一方で、「美」とされる作品におぞましさを発見することがある。わたしたちが醜いと感じる中には、美のように時代とともに変わる部分と、死のように変わらないものがある(『醜の歴史』はスゴ本に書いたので、気になる方はどうぞ)。

「美とは何か」を多面的に考える

「なぜ美しいと感じるのか」という問いを、美学だけで片づけてしまったらもったいない。『近代美学入門』はあくまで、ヨーロッパの特定の地域で「美」とされるものを扱っている。

おかげで議論の焦点が明確になっているのだが、欲張りなわたしは、学問の範囲を限定せずに「なぜ美しいと感じるのか」を考えると、様々なアプローチが見つかる。

進化心理学から見た「〇〇を美しいと感じる」アプローチだ。

生殖能力が高い個体を伴侶に選ぶことで、自分の遺伝子を次世代に伝える可能性が高くなる。その結果、生殖能力が高い特徴を「美しい」と感じるようになったという考え方だ。

例えば、瞳のリンバルリングや青味がかった白目は、その個体が若いことの生物学的特徴になる。引き締まった大きな身体は外敵から守ってくれるだろう。ヴィレンドルフのヴィーナス像に代表されるように、ふくよかな腰つきや母乳が沢山でる大きな乳房は、神格化されるほどの「美」を有していた(このアプローチは、[美は進化の産物か] と [美しさのサイエンス] に詳述した)。

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あるいは、歴史学、経済学からの「美」へのアプローチだ。

もちろん『近代美学入門』にも西洋史は登場するが、あくまでも美学を支える思想史が中心とされる。人々が何に価値を置くかについては、社会システムの変化も大きいと考えられる。

哲学書が社会を変えたというより、社会の変化がその哲学書を受け入れる下地を作ったという発想だ。社会の変化は、貴族から大衆への芸術の民主化や、植民地化による「ヨーロッパ」の領域の拡大、列車による高速移動が「直線」の概念を一般化したなど、美学以外の歴史や、政治経済の観点から紐解くとヒントが沢山見つかりそうだ。

または、時間軸ではなく空間軸からの視点だ。「ヨーロッパの美術の歴史」を時間軸から見て相対化させたのが本書だ。だが、せっかく隣にあるイスラーム美術があるのだから、イスラームとヨーロッパの美術を比較することで、さらに相対化できるはずだろう。

例えば、絵画ではなく建築の話ですが、『世界建築史15講』で紹介した書籍に、ヨーロッパ(キリスト教建築)とイスラーム、ヒンドゥー建築が紹介されているので、これらを並べて「美をされるもの」に焦点を当てると、さらに面白いかもしれぬ。

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『近代美学入門』は、巻末のお薦め文献も充実している。『美味しいとは何か』『美の歴史』『醜の歴史』も、ここで紹介されたものになる。佐々木健一『美学への招待』、津上英輔『危険な「美学」』が気になるので、手を出してみよう。



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過去は現在に作り変えられる―――嵐が丘、T.S.エリオットから、ガラスの仮面、童夢まで―――鴻巣友季子さん「円環する古典文学」講演会まとめ

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鴻巣友季子さんとEve Zimmermanさんの講演&座談会を見てきた。

お二人とも日英両語に精通し、多岐にわたる翻訳書を上梓されている研究者だ。古典が新たな訳を得て、「新刊書」として世に出るときに「ねじれ」が生じる現象や、原作←→新訳が互いに及ぼす影響について、お二人が濃密に語り合う90分間だった。

現在が過去に及ぼす影響

最も興味深かったのは、文学における現在が過去に及ぼす影響の件だ。

「ん?逆じゃね?過去から現在への影響でしょ?」

わたしも同じことを感じた。過去は既に確定したもので、時は過去から現在に流れるものだ。従って「過去→現在」への影響はありこそすれ、「現在→過去」は無いだろうと思った。

ところが鴻巣さんは、「翻訳」と「翻案」を手がかりに、「現在→過去」への影響を指摘する。

ある古典文学の新訳が出るとき、原作との時空的な隔たりがあると同時に、二重性を持つ。「古典」であると同時に「新作」でもある。訳しなおされた古典は、新刊本として書店に並ぶのだ

現在という立場から見ると、何度も訳しなおされている作品は、旧訳よりも新訳のほうが目にする機会が多い。ブロンテ『嵐が丘』は何度も翻訳が重ねられており、その度に原作の語り直しが行われるという(鴻巣さんの翻訳は新潮文庫で読める)。

さらに、何度も翻訳されるような古典作品は、小説のみならず、舞台や映画、コミックのように形を変えたり、設定やキャラを変えて他の物語に翻案されたりする。有名な作品であるほど原作よりも翻案された方に触れる機会が多く、結果として翻案を真作と誤認することがあるという。

例えば、『嵐が丘』を読んだとき「まるで少女マンガみたい」という若者が多いそうだ。鴻巣さんに言わせると逆で、日本の少女マンガが西洋文学のラブロマンスの影響を色濃く受けた結果になる。個性的なキャラのドラマチックな恋物語は、小説の形で輸入され、日本の作品に翻案されたのだが、私たちが触れる物語は、「翻案されたほう」になる。

また、『嵐が丘』の印象的なシーンを学生に尋ねたところ、「キャサリーン!」「ヒースクリフー!」と互いに呼び合う場面を挙げてきたという。ところが、そんなシーンは原作のどこにもない。実はこれ、『ガラスの仮面』に出てくるエピソードなのだ。劇中作の『嵐が丘』の舞台のシーンを、原作だと誤って記憶した結果になる。

翻案がヒースクリフ像を書き換えてしまう例も面白い。原作では情熱的で冷酷な性格だったヒースクリフが、舞台を日本にして翻案された水村美苗『本格小説』では、献身的で打算のない東太郎に置き換わっている。Zimmermanさんによると、『本格小説』を読んでから『嵐が丘』を再読すると、ヒースクリフの性格が違って見えたという。

先取りの剽窃(Plagiarism anticipation)

現代に生まれる作品が、翻案元となった原作の読みに影響を与える。

鴻巣さんは、現代が過去に与える影響について、T.S.エリオットのエッセイ “Tradition and the Individual Talent“ を紹介する。

The existing monuments form an ideal order among themselves, which is modified by the introduction of the new (the really new) work of art among them. … and so the relations, proportions, values of each work of art toward the whole are readjusted; and this is conformity between the old and the new. Whoever has approved this idea of order… will not find it preposterous that the past should be altered by the present as much as the present is directed by the past. 
(Tradition and the Individual Talent,T.S.Eliot)

現在のなかで名作や巨人たち(monuments)が理想的な並び(order)をしているとする。そこに新しい(まさに最新の)作品が入ってくると、その並びが少し変わることになる。<中略>全体に対する各作品の位置関係、比率、価値が再調整される。つまり、古いものと新しいものの間に協調がなされるのだ。この並びの考え方<中略>考え方を認めるのであれば、現在が過去に位置付けられるのと同じように、過去は現在に作り変えられると言っても、あながち突飛には思われないだろう。
(鴻巣試訳)

その顕著な例として、「傑作は環境になる」という。

鴻巣さんは、「童夢のズン」を例に挙げる。「童夢のズン」と言ってもピンと来ない人がいるので、以下に引用する。これだ。

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『童夢』(大友克洋、1983)より

私の記憶する限り、初めての「ズン」である。これ単行本(ちょっとデカいやつ)で目にした時、眩暈がするほど衝撃を受けた。童夢のズンは、この後の作品『AKIRA』でも登場し、様々な作品に応用されている(最近だったら今日観た『呪術廻戦』にも出てた)。

鴻巣さん曰く、若い人に『童夢』を勧めても、「これよく知ってるやつ」「見た見た、これ✕✕そっくり」と反応はイマイチだという(本当は逆なのに!)。「童夢のズン」は凄すぎるあまり人口に膾炙しすぎて、いまどきのマンガでは「よくあるシーン」になってしまう。凄すぎる傑作は、最終的に「環境」になるのだ。

これはよく耳にする。スターウォーズ、ジョジョ、シェイクスピア、北斗の拳など、傑作に触れた若者は、既に履修済みのセリフや演出をそこに見出し、強い既視感を抱く。

翻案された『ガラスの仮面』の方が、より『嵐が丘』らしく見える。『本格小説』が原作のキャラ像を上書きする。来年のアニメにも「童夢のズン」が描かれる―――このように、翻案された後世の作品の方が、より原作らしく見えることを、「先取りの剽窃(Plagiarism anticipation)」というそうな。

この用語は面白い。逐語訳で考えるなら、「plagiarism」すなわち盗作が成立するためには、盗まれる元となる「原作」が必要だ。だが、原作がまだ世に出ていないうちに先取りして剽窃する……というのが逐語訳になる。

さらにここから捻じれているのが面白い。

原作は既に世に出ていて、古典として何度も翻訳・翻案され、読み継がれてきた。私たちは、そうした原作を手に取るかもしれないが、その前に、翻訳・翻案され、影響を受けてきた幾多の作品を先に浴びる。

そうした目で、初めて古典に触れるなら、あたかも原作の方が剽窃であり、先取りしたのが現代の諸々の作品であるかのように解釈できる。過去が現在に影響を与え、現在が過去を作り変える円環構造となっているのだ。

鴻巣さんとZimmermanとの掛け合いが大変楽しく、大量に映し出されるスライドが面白く(かつ板書するヒマが無く)、聞くのにも書くのにも忙しい講演会だった。

原作の語り直しが原作になる『アルブキウス』

過去と現在の円環構造から思い出すのが、パスカル・キニャール『アルブキウス』だ。

N/A
古代ローマの物語作家アルブキウスの人生を描いた物語だ。残酷でエロティックな物語を紡ぎ出す作家と、彼の数奇な人生とが、互いに必要としていることを炙り出す傑作だ。

書き手であり語り手であるキニャールは、作品の中で自分の存在を隠そうとしない。小さいプロットを並べ、それを書いたアルブキウス自身の現実との葛藤を掲げてみせる。キニャールがあちこち顔を出し、ときに生々しく、ときに悪趣味に、即興も挟みながら騙りかけることで、二千年前の作家が傍らにいるように描き出す。

同時に、同一のプロットが様々なバージョンを保っていることを知る。

古代ローマではプロットは共有され、さまざまな語り手がいたという。同じ筋立てから、いかに魅力的なストーリーに仕立てられるか、説得性ある修辞技法を駆使できるか、作家どうしが競い合っていた。

つまり「原作者」という存在がただ一人いるわけではなく、共有された原作をいかに上手く語れる/騙れるかによって、作家が成り立っていたのだ。

例えば「ホメロス」とか「シェイクスピア」というのは人名というより一種のブランドで、実在する人物がいたかもしれないが、その一人がすべてを担っていたわけではないのでは……と思えてくる。

その名前は、おもしろい物語を約束する、いわば、品質を保証するレーベルのようなものだ。面白い物語になれば、それを取り込むことで「原作」がアップデートされる。原作が原作を生み、より面白く、より「今」に合わせるために意図的に語りなおされる円環構造だ。先取りの剽窃が日常的になされていたのではないかと想像する。

鴻巣さんが指摘する「円環する古典文学」と呼応する一冊として、お薦めしたい。ホントは質問タイムにお伝えしたかったが、お二人のお話に熱が入りすぎて、質疑応答の時間はほとんど無かったのが残念なり。とはいえ、こんな素晴らしい講演会を開催していただき、感謝しかない。ありがとうございました。

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