プロジェクトを成功させる2つの技法『BIG THINGS どデカいことを成し遂げたヤツらはなにをしたのか?』

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超巨大ビルを建設したり、前例のないプロジェクトを成功させるなど、どデカいことを成し遂げたヤツらはなにをしたのか?

サブタイトルの答えは、ITエンジニアにおなじみの「モジュール化」「イテレーション」になる。

モジュール化とは、システムやアプリケーションを独立した部品(モジュール)に分割する設計手法のこと。分割することで複雑なシステムを管理しやすくし、保守性や品質を向上させることができる。

イテレーションとは、アジャイル開発において、計画・開発・テストを繰り返し行う短い開発サイクルのこと。反復を繰り返すことで、顧客からのフィードバックやリスクの発見を早期に行い、対策を講じやすくする。

モジュール化とイテレーション、この2つが、プロジェクトを成功に導く鍵になる。そしてこの手法を、システム開発ではなく、巨大プロジェクトに応用せよという。本書では、エンパイアステートビルの建築や、ピクサー映画の制作などで、モジュール化とイテレーションがどのように実現されているかを紹介している。

成功したビル建設と映画製作に共通するもの

例えば、エンパイアステートビルの建設は、モジュール化とイテレーションの好例だ。

ニューヨークで最も高い443mの標高を誇る102階建てのビルディングだ。著者に言わせると、特筆すべきなのは建てる前の計画になる。十分な時間をかけ、階層ごとに必要な建材と作業者の配置、必要な工数の設計と見積もりを行い、そのプロセスを繰り返すことで進められたという。

施工も階層ごとに行われ、まず最初の階を作り上げ、2階、3階と順番に建設されていった。これにより、建設チームは建設プロセスに習熟し、効率と品質を高めることができた。建設チームのメンバーは、102階のビルを建てるというよりも、一つのフロアの建築を102回繰り返したのだ

102階という巨大なビルディングを、「ひとつの階層」を102個に分けた組み合わせとして見なす(本書では「レゴのように」と表現されている)。そして、一つの階層を建設することを反復(イテレーション)したのだ。その結果、13ヶ月という驚異的なスピードで予算内で達成したというのだ。

あるいは、ピクサーの映画製作のプロセスは、「創造性という偶発要素を、いかに巨大プロジェクトに織り込むか」という課題への回答となっている。

『トイ・ストーリー』や『ファインディング・ニモ』、最近だったら『インサイド・ヘッド2』など、高いクオリティの作品を次々と生み出しているピクサーだが、「創造性」と「計画性」という、一見相反する要素を、どのように折り合いをつけているのか?

他の製作会社と同様、アイデアを作り出し、脚本を書き、絵コンテを書く。ピクサーが違うのは、この構想段階において、一度完全な作品を作り上げる手法を取っている。

初期段階で詳細化したストーリーボードを元に、アニマティック(簡易アニメーション)を作り上げてしまう。そうすることで、映画全体のストーリー、シーンの構成、キャラの動き、カメラアングルを視覚的に確認することができる。

次にこれを社内の複数のチームでくり返しレビューを行い、ストーリーの問題点やキャラ設定の整合性を見直し、改善点を見つけ出す。この段階で何度も修正を行い、ストーリーテリングを改善させてゆく。創造的なアイデアは、この段階で試され、評価され、フィードバックされてゆく。

そうした上で、実際の製作(アニメーションやモデリング、レンダリング)に入っていく。つまり、構想段階で一度「完成」した映画を持つことで、根幹が確立され、製作途中の大幅な変更や修正を最小限に押さえることができるというのだ。

この手法は、ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオでも採られている。『ズートピア』ではシナリオを400本書いては捨て、なおかつ最初に作られたアニマティックでは、キツネのニックが主人公だった。それを見てダメ出しが出たため、いったん捨てて、主人公をウサギのジュディにして作り直されたというのだ([物語を作る側の視点から『ズートピア』の面白さ、怖さ、凄さを語り尽くす]にまとめた)。

試行錯誤のコストは少額で済むが、製作フェーズに入ると、コストは一気に膨らむ。だから、創造的なアイデアは初期段階で反復検証しておくのだ。そうすることで、緻密な計画と作品の創造性を両立させることができる。

契約を2つにする裏技

プロジェクトはプログラミングと違う。

プログラムのようにモジュール化ができるわけがない。そういうツッコミもあるだろう。だが本書では、プロジェクトの中で反復可能な箇所を探して、それをレゴのように扱えと説く。

本書では、地下鉄の建造から道路網の構築まで、さまざまなモジュール化の例が挙げられている。プロジェクトそのものを一つのモジュールと見なしてはどうだろうか?つまり、ミニ・プロジェクトを先行して動かすのだ。

企画段階から参加できる場合、私が意図的にやっているのは、「契約を2つにする」になる。

これを提案すると、オーバーヘッドが増えるので、契約を2つにするのは自社も顧客もとても嫌がる。それでも、「見積もりのためのフェーズを入れましょう」とか何とかゴリ押しして、「検証フェーズ」「実行フェーズ」に分けるようにしている。分割統治は古代ローマからの知恵だが、プロジェクトも然り。大きくなりそうなとき、動かす前に(←ここ肝心)プロジェクトを分けるんだ。

そして、検証フェーズで初期検討から構築まで、一通りやってみることで、大きな問題はあらかた出てくる。ミニとはいえ、プロジェクトを1回まわすことでメンバーは習熟し、実行フェーズでは、おおよそ見積もった通りに進めることができる。

これはプロジェクトが形を成す前に介入できる立場だからできる技なので、いつでも使えるわけではない。だが、「契約を2つにするコスト」の方が、「見切り発車で引き起こされる様々なトラブルを乗り越えるコスト」よりも、うんと安い。アジャイル開発だと、製品の開発までを繰り返すが、クラウドやネットワークの構築も込みで、反復させるのだ。

失敗プロジェクトの筆頭はオリンピック

では、上手くいかないプロジェクトには、どんな特徴や共通点があるか?

本書では、様々な事例が紹介されているが、その最たる例はオリンピックになる。

データ入手が可能な1960年以降、夏・冬のオリンピックは、全て予算超過をしているという。つまり、開催費の見積もり範囲内で行われたオリンピックは、一つも存在しないという。コスト超過率の最高(最悪)は予算を720%超えた、1976年のモントリオール大会になる。

スポンサーから国家、行政、委員会、運営団体など、ステークホルダーが大きすぎ&多すぎることと、威信とかプライドとかにトチ狂った偉い人の横ヤリが入りやすいリスクは容易に想像がつく。

だが、本書によると、オリンピックの失敗の主要因は「経験不足」にあるという。

オリンピックには常時開催地というものがない。そのため、開催の権利を勝ち取った都市は、開催経験をまったく持たないことになる。「いや、東京オリンピックは過去に2回やっているよ?」と反論したくなるが、1964年と2021年なので、初回の関係者は引退しているか死んでる。イテレーションとは真逆の、一発勝負なのがオリンピックなのだ。

ひとたび開催国となるや否や、ステークホルダーは「早く決めたい」衝動に衝き動かされることになる。

超大型プロジェクトなのだから、早く始める必要がある。早く予算を決めて、早く契約し、人を集めて、着手したい……「とにかくプロジェクトを早く始動させたい」という衝動、これが罠になる。

この衝動が、計画軽視の姿勢につながる。作業が始まるのを見届けたいという欲求が、計画立案を蔑ろにし、まるでプロジェクトに本格的に着手する前に片づけるべき、厄介ごとのように扱うようになる。

結果、予算稟議を通すため、契約締結を間に合わせるため、ロクに検討されていない計画がまかり通ってしまう。「本当にそれでいいの?」というチェックもしないまま、形式的な審議でOKとされてしまうという。

これ、本当の問題は、計画立案の段階で、「計画を立てる人」がいないことだろう。スポンサーや利害関係者、行政関係ぐらいで、全体のプロジェクトマネージャー(とそのチーム)が不在のまま、計画が成立してしまうことが元凶だと考える。

本書では、プロジェクトを泥沼に沈める「戦略的虚偽」という方法も出てくる。契約を勝ち取ったり、関係者の承認を得たいとき、計画を表面的なものにする。つまり、重要な課題や予算に跳ねそうな要件を伏せておくのだ。そうすることで、コストや期間の見積もりを低く抑え、通しやすくなる。

いったん通った計画は、実行段階で火を噴く。当然だ、しゃんしゃん会議にするためにスルーしていた問題だから、遅かれ早かれ予算超過や工期遅延として目に見えるようになる。

重要なのは、この段階ではプロジェクトは後戻りできない状態になっていることだ。既に承認は下りており、対外的にも発表している。いまさら計画が間違っているとは口が裂けても言えない。火を噴いている各所で逐次的に人やカネを投入して鎮火する―――という展開になる。

戦略的虚偽の狙いはまさにここで、「後戻りできない時点までプロジェクトを進めてしまう」のだ。いったんそうなってしまえば、追加予算の逐次投入をくり返し、とにもかくにもプロジェクトは完了する。メインスタジアムが完成しなかった開催国はあったが、だからといってオリンピック開催を中止した国は無い。要するに、嘘でもなんでも通したもん勝ちなのだ。

モントリオール市長は、1976年のモントリオールオリンピックについて、「コストが予算オーバーすることはありえない。男が妊娠するのと同じくらいありえない」と断言し、ゴーサインを出した。

予算を720%オーバーしたとき、風刺マンガで市長の妊娠姿が描かれ、市民は憤慨した。

だが、それがどうしたというのか?ドラポ―市長はオリンピックの誘致に成功した。モントリオール市は巨額の債務を返済するのに30年以上かかったが、それを負担したのは納税者だった。ドラポ―は落選さえせず、オリンピックの10年後に引退した。

本書には書かれていないが、このイベントを、何度も繰り返しているのは、オリンピック委員会(とそこに関わる愉快な面々)だろう。過去の開催国の人たちとのつながりもあり、プロジェクトを管理しやすいモジュールに分割する知見もあるだろう。

スポンサーとの癒着や、オリンピックを食いものにする姿勢など、批判もあるものの、「モジュール化」と「イテレーション」について経験豊富なのは、オリンピック委員会なのかもしれぬ。

台所のリフォームから巨大プロジェクトまで、何が失敗要因で、どうすれば上手くいくかを、豊富な事例で語った一冊。



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『美術の物語』ポケット版が復刊されるぞい!

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『美術の物語』は世界で最も読まれている美術の本だ。

原始の洞窟壁画からモダンアートまで、西洋のみならず東洋も視野に入れ、美術の全体を紹介している。これほど広く長く読まれている美術書は珍しい。「入門書」と銘打ってはいるものの、これはバイブル級の名著として末永く手元に置いておきたい。

『美術の物語』は、ハードカバーの巨大なやつと、ポケット版がある。ポケット版は、長らく絶版状態となっており、べらぼうな値段がついていたが、今秋、河出書房新社から復刊されるぞ。新装版と銘打っているので、このPHAIDON版とほぼ同じだと予想する。もった感じとかはこの写真で想像してほしい。

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PHAIDON社のポケット版(絶版)

本書のおかげで、興味と好奇心に導かれるままツマミ食いしてきた作品群が、社会や伝統のつながりの中で捉えられるようになった。同時に、「私に合わない」と一瞥で判断してきたことがいかに誤っており、そこに世界を理解する手段が眠っていることに気づかされる。さらに、美術品の善し悪し云々ではなく、人類が世界をどのように「見て」きたのかというテーマにまで拡張しうる、まさに珠玉の一冊なり。

まず、軽妙で明快な語り口に引きよせられる。このテの本にありがちな、固有名詞と年代と様式の羅列は、著者自身により封印されている。代わりに、「その時代や社会において、作品がどのような位置を占めていたか」に焦点が合わせられている。今でこそ美術館や博物館に陳列されている作品は、最初から「美術作品」として制作されていなかった。それは、儀式を執り行うための呪術具であったり、文字の読めない人々に教義を説く舞台装置だったり、視覚効果の実験場として扱われていた。

ゴンブリッチは、そうした文脈から切り離されたところで美術を語ることはできないという。すなわち、時代のそれぞれの要請に対して、画家や彫刻家たちが、置かれている状況や前提、制度、そして流行に則ってきた応答こそが、美術の物語たりえるというのだ。

これこそ「美術」というものが存在するわけではない。作る人たちが存在するだけだ。男女を問わず、彼らは形と色を扱うすばらしい才能に恵まれていて、「これで決まり」と言えるところまでバランスを追求する。

そして、エジプト美術から実験芸術まで、色と形のバランスの試行錯誤が、物語の形で一気に展開されるのだが、これがめっぽう面白い。というのも、これは克服と喪失の歴史だからだ。

「見たままを描く」問題

単純に「見ているものを見たまま描く」ことに収斂するならば簡単だ。しかし、そうは問屋が卸さない。この問題を追及するとき、必ずぶつかる壁があるからだ。三次元の空間をいかに二次元で表現するか、「光」をどう表現するか、静止したメディアの中で、いかに動きを生み出していくか、細部の明瞭さと再現性のトレードオフ、そして、「ちょうどいい構成」とは何かという最重要課題がある。さまざまな時代の芸術家たちがこの課題に取り組み、成果を挙げ、ときには危機に陥りながらも技術をつないできた。

たとえば、「見たままを描く」問題について。古代エジプトの画家は、「見たまま」ではなく、「知っている」ことを基準に描いた。つまり、人体を表現するとき、その特徴が最も良く出ている角度からのパーツを組み合わせたのだ。顔は横顔だが目は正面から、手足は横からだが、胴体は正面図といった描き方は、古代エジプト美術の様式としてルール化された。絵を描くことに慣れていない人や子どもが、この描き方をする。

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ツタンカーメンの「目」は正面、「足」は横からになっている

絵に短縮法(foreshortening)を入れたのは、ギリシャ人だという。手前のものは大きく、奥のものは小さく描くことで、「見えている」ことを表わそうとした。ルネサンス期においても、遠近法や解剖学の知見により、「世界はこう見えるはず」という前提に則って描かれてきた。

しかし、世界は本当に「見えるように」描かれてきただろうか。美しい肉体美を生き生きとした形で「リアルに」表現した作品であるならば、それは、「見えるように」ではなく「見たいように」描かれた理想像にすぎない。また、毛の一本一本や各部分の輪郭を精密に描いたとしても、それは拡大された世界であって、決して見る人(≠描く人)が見る像ではない。本書では、ダ・ヴィンチとミケランジェロ、ラファエロとティツィアーノ、コレッジョとジョルジョーネ、デューラーとホルバインといった巨匠たちの作品を一つ一つ挙げながら、こうした問題がどのように取り組まれていったかを詳しくたどる。

いちばん驚いたのが、レオナルドの『モナ・リザ』だ。これは、見る人に想像の余地を「わざと」残している作品だという。人間の目の仕組みを知り尽くしているからこそあんな風に描いているというのだ。人は「そこにある」ことが分かっている物については、適切なヒントを与えることで、目が勝手に形を作り上げてくれる。輪郭線をくっきりさせず、形が陰の中に消えて、形と形が溶け合うように、柔らかい色彩でぼかして描く。この仕掛けを教わった後、図版と向き合うと、まるで初めてかのように見え、動いていないのに残像を見るような思いがする。この喜びは、新しい目をもらったようなもの。

それでもしかし、とまだ続く。ロマネスクからロココまで、さまざまな様式や手法どおりに世界は「見えている」のか、と逆照射する人が出てくる。茶色の縦線は木、緑の点は葉っぱ、肌の色あい、水、空、光……自然の事物にはそれぞれ決まった色と形があり、その色と形で描いたときに、対象を見分けることができる───この信念に疑問を投げかけ、乗り越えるために傑作をものにした人がいる。マネとその後継者が色の表現にもたらした革命は、ギリシャ人が形にもたらした革命に匹敵するという。

つまり、人が世界を「見て」いるとき、対象のそれぞれが固有の色や形をもってそこにあるのを見ているのではなく、視覚を通じて受けた色彩の混合体を感じていることを発見したというのだ。そしてその発見を絵というメディアにするとき、犠牲になったのは「正確さ」だという。

セザンヌは、色彩によって立体感を出すという課題に没頭していた。色の明るさを殺さずに奥行きを感じさせ、奥行きを殺さずに整然とした構成にするために労苦を重ねた結果、多少輪郭がいびつでもよしとした。ゴッホは、写実を至上としなかった。本物そっくりに描いてある絵を指して、「立体メガネ」で見ているようだと言ったという。彼は、絵によって心の動きを表わしたかったという。感情を伝えるためなら、形を誇張し、歪曲することさえあったというのだ。

ピカソのヴァイオリンを「ゲーム」として見る

著者は、ピカソに代わって言う。「目に見える通りに物を描く」などということを、われわれはとっくにあきらめている。そんなことは所詮かなわぬ夢だったのだと。描かれた直後から、いや描いている途中から、モティーフはどんどん変化してゆく。はかない何かを模写するのではなく(カメラが一番得意だ)、なにかを構成することこそが、真の目的だと。あるモティーフ、たとえばヴァイオリンを思うとき、人はヴァイオリンの様々な側面を同時に思い浮かべることができる。手で触れられそうなくらいクッキリ見えているところ、ぼやけているところ、そうした寄せ集めこそが「ヴァイオリン」のイメージなのだと。

本書を読むまで、わたしには、ピカソのヴァイオリンが理解できなかった。これをヴァイオリンの絵として見ろというには無理があると思っていた。が、これはゲームなのだという。つまり、カンヴァスに描かれた平面的な断片を組み合わせて、立体を思い浮かべるという、高度なゲームなのだと

二次元で三次元を表現するという、絵画にとって避けられないパラドクスに対し、これを逆手に取って新しい効果を出そうとする試みが、キュビズムになる。見るとは何か? から出発し、これほど明快なキュビズムの説明は受けたことがない。分からないから、と忌避していた自分が恥ずかしい。

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ヴァイオリンと葡萄

このように、「見たままを描く」テーマで駆け足で眺めたが、ほんの一端だ。ラファエロの構図の完璧さや、フェルメールの質感が、なぜ世紀を超えた傑作たりうるかなど、歴史の中に位置づけて説明されると腑に落ちる。いわゆる名画を単品でああだこうだと眺めてきたなら、絶対に見えない場所に連れて行ってくれる。

制作を支える技術から、それを成り立たせる社会情勢まで視座に入れているため、ずっと抱いていたさまざまな疑問に答えてくれているのも嬉しい。たとえば、偶像崇拝を禁じたキリスト教で、なぜ聖画があるのか? という長年の謎に対し、図像擁護派の巧妙な主張を示してくれる。

慈悲深き神は、人の子イエスの姿をとってわれわれ人間の前にあらわれる決心をされたのですから、同じように、図像としてご自分の姿を示すことを拒否されるわけがない。異教徒とちがって、われわれは、図像そのものを崇拝するのではない。図像を通して、図像の向こうの神や聖人たちを崇拝するのです。

宗教画は、読み書きができない信徒たちにとって、教えを広めるのに役立つ。すなわち、文字が読める人に対して文がしてくれることを、文字の読めない人に対しては絵がしてくれるというのだ。もちろん容認されるモチーフや構図に制限がついてまわるが、その範囲でなら作り手たちの創造性に任されていたという。

読んでいくうちに、過去の記憶がどんどん呼び起こされていくのも面白い。出だしのラスコー壁画のトピックは中学の国語のテストで、レンブランドの生々しい自画像の話はZ会の英語の長文問題で、そして教会建築のアーチ断面におけるヴォールト構造の記述はケン・フォレットの『大聖堂』で、読んだことがある。最近だったら『ブルーピリオド』で八虎がハードカバー版を読んでいたのと、「このテーマを絵画でやる意味あるの?」という問いかけへの回答も書かれている。

本書は美術の権威として、さまざまな種本となっているのだ。本書は、これからわたしが見る/見なおす美への新しい視点のみならず、かつて通り過ぎるだけで見落としていた美について、新しい光をもたらしてくれる。さらには、読み手が抱いている疑問―――例えば、美術とは何か、「見る」とはどういうことか、写真やVR技術が発達し、AIが絵を描くようになったいま、これからの美術はどうなっていくか―――のそれぞれに応じて、答えを見出すことができるだろう。

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前半が文章、後半が図版で、照らし合わせながら読める(そんな読者のためにスピンは2本ある)

一生つきあっていける、宝のような一冊。

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問題領域の重なる人を探す『宇宙・動物・資本主義──稲葉振一郎対話集』

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  • 新自由主義って何十年も「新」って言い続けてるよね
  • 物理学が発生するようなローカルな環境を研究するのが物理学の正体
  • ピンカー『暴力の人類史』は過去の暴力を過大に見積もりすぎ
  • カズオ・イシグロ作品につきまとうのは、人の主観性の有限性
  • ナウシカ「風の谷」と未来少年コナン「ハイハーバー」とシン・エヴァ「第3村」を比較する

上のリストはほんの一例。実に様々なことが語られており、ハッとさせられたり、思わず爆笑したり、忙しい読書だった。第一線で活躍する研究者や批評家、作家と、稲葉振一郎氏の対談を500頁超に詰め込んだ鈍器本がこれだ。

『宇宙・動物・資本主義』という奇妙なタイトルが物語っており、なんのこっちゃと首をかしげていた。だが、読み終わったら分かった。確かにこれは、宇宙・動物・資本主義といわざるを得ない。この3語で網羅しているのではなく、この3語ぐらい離れたテーマが飛び交いつつも、混ざりあっている。

本書は、自分と問題領域が重なる人を探し、その人のアイデアを自分で拡張していくといった読み方をすると、最高に楽しくなる。

第1部 人間像・社会像の転換

  • 新世紀の社会像とは?(×大屋雄裕)
  • 〈人間〉の未来/未来の〈人間〉(×吉川浩満)
  • 社会学はどこまで行くのか?(×岸政彦)

第2部 動物・ロボット・AIの倫理

  • 動物倫理学はいま何を考えるべきか?(×田上孝一)
  • AI「が」創る倫理──SFが幻視するもの(×飛浩隆×八代嘉美×小山田和仁)

第3部 SF的想像力の可能性

  • 学問をSFする――新たな知の可能性?(×大澤博隆×柴田勝家×松崎有理×大庭弘継)
  • SFと倫理(×長谷敏司×八代嘉美)
  • 思想は宇宙を目指せるか(×三浦俊彦)

第4部 文化・政治・資本主義

  • ポップカルチャーを社会的に読解する──ジェンダー、資本主義、労働(×河野真太郎)
  • 「新自由主義」議論の先を見据えて(×金子良事)
  • 中国・村上春樹・『進撃の巨人』(×梶谷懐)
  • どうしてわれわれはなんでもかんでも「新自由主義」のせいにしてしまうのか?(×荒木優太×矢野利裕)

物理学の正体を暴く人間原理

驚いたのは、発想の柔軟なところ。言い換えると、私のアタマの堅さなのだが、例えば物理学だ。稲葉振一郎著の『宇宙倫理学入門』についての、三浦俊彦氏の発言なのだが、こうある。

私がかねてから興味を持って追いかけている「人間原理」は、理論物理学は物理学が存在する宇宙だけを研究している、あるいは物理学が発生するようなローカルな環境を研究するのが物理学の正体である、という実態を暴いたことに重要さがありました。

(p.329 第8章「思想は宇宙を目指せるか」より三浦発言)

このテーマについて、物理学の限界=その時代の技術の限界 『物理学は世界をどこまで解明できるか』などで考えたことがある。かいつまむと、物理学の限界は、観測する機械の発達に制限されるだけでなく、それを理解できる人間という限界と重なるという話だ。

ただし、お二人の対談は、あっという間にこの話を抜き去り、地球外生命体の探索の話からネオ・ダーヴィニズム、フランク・ティプラーの仮説、シンギュラリティ、神の恩寵説、系外惑星の発見が人間主義をリライトする可能性へと、次々と繰り出してくる。

そして、探査機を飛ばすのではなく、宇宙へ人間を送り込むためには人間自体を改変していく必要性の議論、さらにはレム『ソラリス』やストルガツキー『ストーカー』を引きながら、「異質な知性体」のテーマに斬り込む。

しかしよく考えれば「人間にとって異質で理解不可能な存在(AIや知的生命体)」という概念自体が、そもそも自己矛盾を犯しているのではないか、という疑問も浮上します。哲学的に言えばドナルド・デイヴィッドソンの「根源的解釈」以降の合理性を巡る議論に通じる論点ですね。つまり、我々にとって理解不可能なものが存在していたとして、果たしてそれは知性と呼ぶべきものなのかという。

(p.329 第8章「思想は宇宙を目指せるか」より稲葉発言)

「知性がある」という時点で、「人間にとって理解できる範囲で、なおかつ、人間のモノサシで知的と評価できる」ことになる。先ほどの、「物理学が発生するようなローカルな環境を研究するのが物理学の正体」にもつながる。

たかだか数頁の対話の中に、沢山の仮説や議論や作品を突っ込んでくる。そのテーマの一番おいしいところを切り取って、手際よく見せてくれる。対話する相手の知性がお互いに分かり合っているので、こんなにポンポンやり取りできるんだろうな……

同じ議論が、レムの短編「GOLEM XIV」で展開されている。「GOLEM XIV」は自己学習できるAIで、人間を超えた知性を有しているとみなされている。彼(?)はこう語り掛ける。

諸君の一員でない者はすべて、それが人間化している程度に応じてのみ、諸君にとって了解可能なのだ。種の標準の中に封じ込められた「知性」の非普遍性は煉獄をなしているが、その壁が無限の中にあるという点が風変わりである。

スタニスワフ・レム「GOLEM XIV」

人が「知性」を評価する基準は、我々自身の限られた経験や認知の範囲に依存している。「知的だ」とみなす行為や考え方は、我々自身の文化や歴史によって形成された評価基準に基づいている。

こんな風に、ディスカッションを通じて話題や発想がどんどん飛び出てくると、読んでるこっちにも、そのアイデアの回転率が伝わってくる。発言が呼び水になって、以前に考えてたこと、読んでた本に接続されてくるのが心地よい。

BOTが社会を変える可能性

一方で、新たなストーリーが生まれそうな呼び水もある。

この点で最近気になっているのは、こうしたフィクショナルなキャラクター、エージェントと、ソーシャルネットワーク上の活動を分析する計算社会科学という分野との融合です。Twitterのbotによって政治的な傾向が偏ってしまう、という研究が代表的ですが、人間ではないものが人間社会に影響を与えてしまい、民主主義のようなわれわれが今まで運営してきたブラットフォームのセキュリティホールになってしまう事例が多々見られます。

(p.259「学問をSFする」より大澤発言)

「学問とSF」という一見相反するようなテーマを俎上に、イノベーションを促したSFや、確率薬理学、計算社会学、伝説や童話をSFで解釈するなど、おもちゃ箱をひっくり返したようなお話がひしめいている。「全ての学問はAIに関する」なんて、確かにそうだなぁと思わせる発言も出てくる。

ポイントは「人間ではないものが人間社会に影響を与えてしまう」という点だ。twitterのエコーチェンバーが有名だが、「その人に興味があると思われる」トピックを自動的に集約していくうちに、より強い言葉に触れる機会が増え、より感情を刺激するネタが投下されていくうちに、思想がどんどん過激になる。

少し強い言葉をSNSに投げ込んだら、思いのほか「いいね」を貰えて、その反響に気をよくして、さらに強い言葉、キツい言い回しと、承認欲求を求めるあまり、極端に走る人がいる。最終的には「つぶやく」だけでなく、物理的な阻止や、訴訟など、実際の行動に出る。

これは個人に焦点を当てた話だが、社会集団にも同じ現象が見られる。

誰かを傷つける酷い言葉や、感情を波立たせるエモい言葉、代弁してもらえるキャッチーなセリフなどが広まるとき、それをbotが拾い上げ、目につきやすいタイムラインの上位に配置する。再拡散が繰り返され、その言葉はあたかも社会の気運を示しているように感じられてくる(単純接触効果やね)。

しかし、そのbotのアルゴリズムに思想的な方向性を持たせ、社会の関心全体を特定の方向に誘導しているのではないか、と感じることがある。正確には「あった」というべきだろう。7~8年くらい前だろうか、特定の考え方のtweetが数多く目につくようになり、違和感を覚えたことがある(2年くらい前から、そうしたtweetの氾濫は解消されている)。

中の人による誘導だと勘ぐっているが、中の人の立場からしても、どこまで誘導できているかコントロールできていないと思われる。

これを、もう少し踏み込むと、一つのストーリーが出来上がる。

フィクションなら「魔法使いの弟子」パターンの物語。世論をコントロールしようとしてbotのパラメーターに手を加えるのだけれど、当面は上手くいっているが、そのうち極端な方向に走り出し、制御不能になる。最終的には中の人がターゲットとなり弑されるというやつ。

ノンフィクションなら陰謀論になる。twitter Japan の人事異動を調べ上げ、当時のtweetの政治色と世論の動向とを比較しながら、関与していた可能性のある人を特定し、インタビューする。もちろんその人は否定するだろうし、そもそもこの試みそのものがナンセンスかもしれない。けれども、世論の動向にbotが与えた可能性を調査する方法は今後も役に立つだろうし、何よりも牽制になるかもしれぬ。

テレビや新聞など、マスコミは自身が信ずる政治色に、世間を(ゆるやかに?)誘導しようとして、事実の取捨選択や、その語り方の色味を変えてくる。マスコミの情報を受け取る我々は、そうした着色は折り込み済みで、ある種のうすらぼんやりとした色眼鏡を通して見る。

しかし、twitterなど、比較的新しい媒体では、そうした「着色」が行われているかが分からないため、色眼鏡によるフィルタリングは意識して行いにくい。その結果、より強い方向、より感情を刺激する方向に流されがちだと考える。

―――こんな感じで、対談の中から引っ掛かるテーマを元に、自分でも考え込んでしまう。通して読むのもいいけれど、パラパラめくって、気になるワードから自分で考えを広げていくのも楽しい。

自分と問題領域が重なっている人を探し、その人のアイデアを広げていく一冊。




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人事制度の脆弱性を衝いて給料UPする『人事制度の基本』

「年収を上げる」と検索すると、ずらり転職サイトが並ぶ。ライフハック記事の体裁だが、最終的には転職サイトに誘導する広告記事だ。

しかも見事なまでに中身がない。転職しないなら、「副業を始める」とか「スキルアップする」といった誰でも思いつきそうなトピックを、薄ーく書きのばしている。

ここでは、もう少し有益な書籍を紹介する。想定読者はこんな感じ。

  • スキルアップはしてるけど、給料UPにつながらない
  • 転職も考えたが、今の場所で評価されたい
  • 自分をプレゼンして「良く見せる」のがヘタ

そんな人に、2つのアプローチで給料を上げる方法を紹介する。

  1. 人事制度の脆弱性をハッキングする
  2. 上司のバイアスを逆に利用させてもらう

この記事は1のアプローチから攻める。

紹介する本はこれだ、『この1冊ですべてわかる 人事制度の基本』(西尾太、日本実業出版社)。

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著者は人材コンサルタント。400社、1万人以上をコンサルティングしてきた人事のプロフェッショナルというべき人で、豊富な実例とともに人事制度の設計から運用の仕方を紹介している。「汎用的で、普遍性があり、長持ちする」制度設計を目指したという。

ここで解説されている人事制度をモチーフに脆弱性を探し、そこから攻略する。もちろん本書の制度がそのまま今の勤務先に当てはまるとは限らない。だが、多かれ少なかれ、オーバーラップするところはあるはずだ。

人事制度の構造

ハッキング対象となる、人事制度の構造はどうなっているのだろうか?

本書によると、うまくいっている企業の人事制度の構造は、ほぼ同じ形をしているという。まとめると、以下の通りになる。

まず、「会社が社員に求めるもの」があり、それに対し、社員の個々人がどのような状態にあるのかを確認する、「評価とフィードバック」があり、その結果が「報酬や昇格」に反映される。「会社が社員に求めるもの」と「評価」で明らかになったギャップを埋めるものが「教育施策・育成」になる。

この「会社が社員に求めるもの」とは何か?これは様々な要素で構成されているが、機能している人事制度においては、全て開示されているはずだ。

  1. 行動指針:会社の価値観(ビジョン・ミッション・バリュー)が示されている「経営理念」に共感し、会社と共に目指してもらうことを求めるために明文化したもの
  2. 階層別に求められる行動:新人レベル、課長クラス、部長クラスなど、それぞれの階層で求められる行動を示した等級要件(キャリアステップ)のこと
  3. 職種別に求められる知識・スキル:「営業職」「技術職」など、職種別に必要な能力的要素

そして、これらの要素を実装しているものが「目標達成」になる。会社としての経営目標や事業計画があり、最終的には売上げや利益が全社目標になる。だが、そこへ至るために組織としての目標があり、個々人の目標がある。

さらにざっくり言ってしまうと、「会社が社員に求めるもの」があり、会社の価値観が行動指針に示される。それが2つの方向―――「階層別に求められる行動」と「職種別に求められる知識・スキル」に具体化される。具体化されたものができているか、できていないかは、会社の目標からカスケードされた「目標達成」度合いによって測定される。

「行動指針は」は天から降ってくるものなので、こちとらどうしようもない。また、技術職などで求められる知識は、各自スキルアップをしているだろう(それ用の教本もある)。なのでここでは語らない。

ここでは、人事システムの構造の中から、自分でなんとかできる「階層別に求められる行動」「目標達成」に焦点を絞って説明する。

何ができれば評価されるか

英検準一級に合格したら1万円アップとか、課長になるにはオラクルマスターゴールド必須など、評価基準が明確になっていれば分かりやすい。

だが、給料そのものをアップしたり、特定の職位の必須条件にする企業は少ない(資格を取ったら金一封を出すかもしれないが)。

資格でないのなら、何が評価の基準となるのか?

それが、「階層別に求められる行動」になる。例えば、新人の仕事と課長の仕事は違う。これを明記したもので、「等級要件」と呼ばれる。会社によって呼び方が異なり、「グレード要件」「資格要件」という場合もあるようだ。

本書によると、等級要件が課長クラスのものはこれ。

  • 目標に対する進捗管理を怠らず、問題の本質を捉え、適切に対処する
  • 新しい価値創造に敏感で、数値的背景を持ちつつ、現状を改革するアイデアを具現化する
  • 傾聴とフィードバックを行い、メンバーの能力向上を図り・教え・育てる
  • 社外の有力なネットワークを持ち、会社の価値向上を図る

ただし、これでも抽象的すぎる。「問題に適切に対処する」とか「メンバーの能力向上を図る」とはどういうことか?

これをさらに落とし込んだものを、「コンピテンシー」と呼ぶ。そのクラスとして成果を上げるために欠かせない行動の「型/モデル」のことを指す。課長クラスだとこれ。

理念浸透


会社の理念に共感し、理念に則った行動を行い、周囲に理念を浸透させる

変革力


現状への危機意識を持ち、これまでの慣例に囚われない新たな取り組みを行う

目標設定


業績を向上させ、組織効率を高める適切な目標を、達成基準を明確にした上で、設定する。組織目標を明示し、個人目標にブレイクダウンし、個々の適切な目標を設定させる

計画立案


リスクを想定した現実的な計画を立案する。リスク発生別のプランも用意する


進捗管理


目標達成に向け、計画の進捗管理を行う。マイルストーン時点での達成状況を確認し、実行の優先順位を明確にする。進捗に問題があるときは修正を行い、達成に向けて管理する


計数管理


組織のPLやBSを把握・活用し、売上げを伸ばし経費を抑える施策を行う

人材育成


メンバーそれぞれの能力向上を行う。個別の目標・課題設定を促し、評価し、よい点・改善点のフィードバックを行い、気づきを与え、成長させる

解決案の提示


適切な状況判断を行い、解決のための複数の選択肢を案出する。各案のメリ・デメリをを整理し、合理的な決断を促す

傾聴力


相手が「分かってくれた」と思うまで話をよく聞き、理解する。相手に理解していることを示し、信頼を得る

人的ネットワーキング


社内外の人的ネットワークを構築・活用する。企画を通すための根回しや理解を得て、実現への組織的合意を形成する。多面的な人材ネットワークを持ち、協力・協業することで、新しいビジネスの可能性を高める

スペシャリティ


業務に必要な専門知識や技術を有し、実際の業務において活かす。自らの専門性を常にブラッシュアップし、他の専門性との連携を行う

「コンピテンシーモデルの基づく等級要件書:課長クラス」(p.286)より一部改変

本書では、さらに各コンピテンシーモデルが掘り下げられて解説されている。同じ「目標設定」でも、課長と部長では違っていたり、役員だけに求められるコンピテンシーモデルが記載されている(コンピテンシーモデルは、全部で45ある)。ここでは割愛する。

つまり、上の表の行動が取れているのであれば、課長クラスに相応しいということになる。あなたの知っている課長像とは違うかもしれないが、あくまでも参考だ。自分の会社の等級要件書をチェックしてみよう。もし、等級要件書が無い、またはアバウトなやつなら、本書の巻末の付録が参考になる。

これは、いわば採点表だ。

フィギュアスケートにおいてジャンプの種類や難度で得点が決まる採点表のようなものだ。それほど厳密ではないものの、コンピテンシーモデルにおいて、「こういう行動を取って結果を出している」と示すことができれば、それは等級ポイントとして加算される。

もちろん、「ウチはそんな厳密にやってない」というツッコミはその通りだ。本書はある意味、あるべき人事システムを目指した解説書なので、現場はそう回っていないのが実情だ。

それでも、こうは言えないだろうか、「このコンピテンシーモデルを実現できる人なら、どの会社でも課長をやっていける」と。そういう意味で汎用的なモデルだと言っていい。だからこれは、出世のチートシートとして扱ってみよう。

どうすれば評価されるか

人事の採点表が手に入った。どのように行動すればよいかも分かった。

でも、評価されなければ意味ないじゃん?

その通り。あなたは能力があり、十分に上位をやっていけるコンピテンシーがあるとしても、認められなければ評価されない。

上司に恵まれ、いい仕事をしたらちゃんと見て、きちんと報いるなら問題ない。だが、そういう上司は少ない。ゼロとは言わないが、とても少ない。「いい仕事をしたら自動的にいい評価が得られる」というのは幻想だ。

ではどうすればよいか?

どんなにボンクラ上司であっても、会社としてあなたの成果や行動を評価するタイミングがある。年に数回、1 on 1 という形で面談があり、掲げた目標がどれくらい実現できたかをレポートする場があるはずだ。

そのレポートは「目標管理シート」とか「MBOシート」などと呼ばれているだろう。他にもBSC(Balanced Score Card)とか OKR(OKRはObjectives and Key Results)などあるが、本質は一緒。

この目標管理シートをハックする。

目標設定のキモはSMARTだ。

Specific 具体的で、
Measurable 測定可能で、
Attainable 実現可能で、
Relevant 組織目標にリンクしており、
Time limited 期限が明確である

書き方としては、「何を、いつまでに、どのようにして」を明記する。「今年度の全社目標」→「事業部や部門の目標」→「部課の目標」とカスケードダウンされた目標に対して、自分の目標を設定する。

例えば、組織目標が、「2024年12月リリース予定のプロジェクトの完遂」だったら、それに貢献するために自分がどんな役割を果たすのかを、数値目標込みで書く。

めんどう臭い?その通り。私も面倒くさいと思っている。だからAIに任せよう。

プロンプト例

「目標管理シート(MBOシート)の記述例を考えてください。「MBO」とは、Management by Objectives and Self Control のことです。

以下の条件で考えてください。

・ITエンジニアのMBOシート
・中堅レベル
・複数のプロジェクトを掛け持ちしている
・そのうちの一つは、2024年12月にリリース予定(組織目標)

MBOの例は、箇条書きで、文章にしてください。

・具体的であること
・測定可能な目標であること
・実現可能な目標であること
・組織目標にリンクしていること(2024年12月リリースを堅守)
・期限が明確であること

書き方としては、「何を、いつまでに、どのようにして」を明記してください。

GPT-4o回答

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目標3まで例示してくれたが、ここでは割愛。各自、自分のプロフィールで試して欲しい。

そして、出てきた目標について、味付けをする。

どのような味付けかというと、先の表の「コンピテンシーモデル」から拝借する。会社に対し、アピールしたいコンピテンシーモデルを、目標の中にまぶすのだ。

例えば、特定の技術の勉強会を開いているのなら、それを「チームメンバーへの技術指導を行う」「メンバーの育成を図る」といった表現にする。「人材育成」というキーワードを、どのように具体化しているかを語るのだ。

「そんな細かいところ、うちの上司は見やしないよ」というツッコミが出てくるかもしれない。その通りだと思う。本来であれば、部下と一緒に頭を悩まし、目標設定シートを見直し、部下の成長とともに、部下の評価を高める努力をすべきだろう。だが、そういう上司は少ない。ゼロとは言わないが、とても少ない。

それにも関わらず、目標管理シートに力をかけるべきだ。なぜなら、そのうち人事部でAIが導入されるだろうから。

例えば、1人の人間が1000人を公平に評価することは難しいが、AIなら可能だ。全方位的に見ることは困難だとしても、ある基準に則ってスキミングしたりフィルタリングするのはお手の物だろう。

そんなとき、人事部は最初に何をするだろうか?

目標管理シートをAIに喰わせて「結局この社員は、目標を達成できたのか、できなかったのか」と問わせるはずだ。そんな未来は、もうすぐ来るだろう(というか、もう始めている企業もある)。

今年書いたシートが期末に判定されるだけでなく、今まで書いてきたシートをAIに全部喰わせて、「結局この社員は、どのクラスなのか」を判別し、その中から適切なものを人手で選別するのが普通になるだろう。

つまり、期末評価判定をしたり、昇級試験の候補を選別するための予備として、目標管理シートをAIに喰わせることが当たり前になる。人事のメガネに適う以前に、AIに選んでもらう必要があるのだ。

だから、AIに選ばれやすいワードを散りばめる必要がある。あれだ、Googleなどの検索エンジンに引っ掛かりやすくするSEO(Search Engine Optimization)対策のAI版だ。

SEOでは、サイトにキーワードを散りばめたり、上位の外部リンクを貼るといった対策が一般的だが、AIに選ばれやすくするためには、AIの判定基準に合致するキーワードを混ぜ込んでおく。

では、AIに判定基準として学習させるモデルは何だろうか?

ここまで読まれた方には、もうお分かりだろう。階層別に求められる行動を示した「等級要件」と、それを達成するための行動モデルである「コンピテンシーモデル」である。

ここで紹介したやり方は、実際に現れるまで数年かかる(最短でも半期)。だが、そのために何か特別な資格を取るとか、新しい勉強を始めるといったことは不要だ。いまの仕事を着実に進めていけばいい。ただ「自分の仕事の評価のされ方」を変えるのだ。

チートシートも手に入ったし、AI任せるキモも分かったと思う。あなたが頑張るのは、期首の「目標管理シート」を書く時だけ。仕事に負担をかけず、評価を上げる具体的なやり方が実践できると思う。

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『百年の孤独』をみんなで読むと100倍面白い

N/A

ガルシア=マルケス『百年の孤独』は、何度読んでも面白い。

私の記憶力の無さと、再読までに積んだ経験によって、読むたびに面白いと感じるポイントが変わっていく。本は変わらないのだから、再読による発見は、自分の人生の厚みが変わったためなのだろう。

さらに、この小説を楽しんだ人の感想を聞くと、十人十色で面白い。私に近い人もいれば、予想外のところにハマった人もいる。アウト・オブ・眼中の所にのめり込んだ人の話を聞くと、「なるほどなぁ!」と新鮮に読め、一冊で二度も三度も楽しめる。

小説なんだから好きに読めばいい。

引っ掛かった描写。伏線に見えるセリフ。湧き上がるイメージと、それに結びついた自分の読書経験と実人生の体験。学校じゃないんだから、「正解」なんてものはなく、「ぼくのかんがえたさいきょうの読解」の多様性を楽しむといい。

そんな皆さんの感想を伺うべく、『百年の孤独』の読書会に行ってきたので、レポートする。未読の方にはネタバレをしないように配慮する一方で、読んでる方には再読したくなるようなネタを紹介しつつ書いてみる。読書会の開催者はマヤさん(@Mayaya1986)、楽しい会をありがとうございました。

どこに付箋を貼ったか

参加された皆さんが持ってきた『百年』を見ると、あちこちに付箋が貼ってある。

もちろん私のもハリネズミのように付箋だらけなのだが、人により付箋を貼るところが違ってて楽しかった。

なかでも、「孤独」が出てくる箇所に貼った人がいる。

何故に「孤独」か?

本のタイトルにまで登場する「孤独」なのもそうだけど、言われてみると、そこらじゅうに孤独が散りばめられている。この物語を支える通底音が「孤独」なのかもしれぬ。

  • 実際に死の世界にいたが、孤独に耐えきれずにこの世に舞い戻ったのだ(p.81)
  • あれは行動家としては落第だ、消極的で孤独癖が強すぎる(p.159)
  • ふたりは親子というより、むしろ孤独を慰めあう友だちだった(p.240)
  • アウレリャノ・ブエンディア大佐もまた自分をかこむ孤独の殻を破ろうとして、何時間もそれに爪を立てていた(p.266)

愛なき世界を生きる一族なのだから、各々が孤独を抱えていることは当然の帰結だろう。圧倒的な権力の重さに誰にも相談できない孤独から、愛する相手が血のつながった家族であるが故に突き落とされる孤独など、様々な孤独が出てくる。

「孤独」に付箋を貼った人によると、面白いことに、アルカディオ名が付くキャラには、孤独が出てこないという。むべなるかな、家族の中でアルカディオと名づけられる男は、豪放磊落な大男になる傾向がある。お祭り好きで女好きなキャラは、孤独とは程遠いかも。

さらに『百年の孤独』の「孤独」は、soleであってlonelyじゃないという指摘は鋭いと思った。日本型の、ねっちょりジメっとした loneliness というよりも、それぞれが背負ってる業の形が違う故の solitude の孤独だ。

「黄」に付箋を貼った人もいる。

最初は不思議に思ったが、言われてみればなるほど!と腑に落ちた。

不眠症になった仔馬は黄色になるし(p.75)、マコンドに鉄道が開通し、最初にやってくる汽車の色は黄色だ(p.346)。レメディオス(メメ)を付けまわすマウリシオつねに「黄色い蛾」を辺りにはべらせており(p.443)、一族で最も美しいレメディオス(小町娘)に捧げられるのは黄色い薔薇である(p.308)。ある重要な人物が死ぬとき、マコンドの町全体に黄色い花が降る(p.221)。何度も登場する魚の金細工の黄金色や、アメリカ人が経営する農園のバナナの色(表紙を見よ)まで黄色だ。

確かに、重要なアイテムやイベントには、黄色のイメージが閃いているように見える。

黄色に何か意味があるのだろうか?

ユダが着ている服は黄色の場合が多いから、裏切りの色かもという意見や、太陽や黄金からイメージされる豊穣の意味があるのではというのもあったが、参加者みんなに共通したものは、私たちの抱いているイメージとは異なる黄色だ。明るくない、ねっとりとくすんだ黄色になる。

英語圏において、青が、憂鬱(blue monday)やポルノ(blue film)を意味したり、日本語ではピンクがエロス(ピンク映画、桃色遊戯)を意味するように、ラテンアメリカ圏では黄色に特別な意味があるのかもしれない。

『百年』の後に読みたい一冊

『百年』は、様々なイメージを喚起させ、自身の読書体験を呼び覚ますような読書になる。マコンドという特殊な場所のブエンディアという特別な一族を描いているにもかかわらず、どこかで見た(聞いた・感じた・語った)ような懐かしさも覚える。

結果、『百年』の後にお薦めしたい、あるいは読みたい本が山と出てくる。そんなお薦めあいをするのも楽しい。

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持ち寄られた中で、ひときわ目を引いたのがこれ。出版50周年記念版の『百年』だ。

両手でないと持ち上げられないくらい巨大な一冊で、豊富な挿絵と、何よりも家族の姿を写し取ったような家系図が、見ているだけで時を忘れる。

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この家系図、本当によくできており、ホセ・アルカディオ・セグントとアウレリャノ・セグントが瓜二つである(でもアウレリャノのほうが太っている)ように描かれている。レメディオス(小町娘)は、レメディオス・ザ・ビューティ(Remedios the beauty)だし、レベーカやアマランタは、美しい少女時代よりも、長い苦い時を過ごすことを予感させるように少し老けている似姿だ。

アウレリャノを名のる者は内向的だが頭がいい。一方、ホセ・アルカディオを名のる者は衝動的で度胸はいいが、悲劇の影がつきまとう。
(p.285)

そうウルスラが結論付けるように、アウレリャノは思慮深く、アルカディオはマッチョイズムを体現したような顔つきだ。一か所だけ、この法則に合わない所があるが、それは棺を蓋う瞬間に分かるように仕掛けが施されている。

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本当に偶然だった。レベーカの目が塀に向けられた。驚きのあまり彼女はその場に立ちすくんでしまった。彼に向かって別れの手を振るのがやっとだった。
(p.189)

ここ好きなシーンだ。一つ一つの細かい描写も再現されているので、描いた人はきちんと読み込んでいることが分かる。

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ところが、笛のような音や荒い鼻息の騒々しさがおさまったとき、住民のみんなが表へとび出してみると、機関車の上で手を振っているアウレリャノ・トリステの姿が見えた。そして、予定より八ヶ月も遅れてやっとこの町へ到着した花いっぱいの汽車が、夢中になっている連中の目に飛び込んだ。多くの不安や安堵を、喜びごとや不幸を、変化や災厄や昔を懐かしむ気分などをマコンドに運びこむことになる、無心の、黄色い汽車が。
(p.346)

「黄色い汽車」のシーンだ。線路が敷かれ、汽車が開通することで、マコンドと文明が接続されることになる。それまでは野を越え山を越えてきたジプシーの売り子しか外の世界との接点が無かったのに、文明という名の資本主義がもたらされる。

ここ、よく見ると、ほぼミッドポイントになる。マコンドは、汽車前/汽車後で大きく変わっていくことが、後から眺めると、はっきりと見えてくる。プロットを廃し、乱雑に小話を詰め込んだと思いきや、積み上げ方を計算していたのかもしれないと思うと、さらにもう一度読みたくなる。

スペイン語だし、入手困難だが、「欲しい!」と所有欲を掻き立てる豪華版なり。

この読書会で、桜庭一樹『赤朽葉家の伝説』を教えてもらった。桜庭一樹も知っているし、『赤朽葉家の伝説』も(タイトルだけは)知っていた。けれども、『赤朽葉家』が『百年』のオマージュであることは知らなんだ。

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山陰地方の架空の町に居を構える、赤朽葉家が舞台になる。江戸から明治、そして戦後にかけての激動の歴史と共に生きた三代の女性の物語だという。千里眼を持つキャラが出てきたり、「このミステリーがすごい!」などのランキングで上位を連ねたりで、かなり話題になったようだ。『百年』が豊穣な作品なので、こうした優れたオマージュが出るのは嬉しい限り。

私がお薦めしたのが『フリッカー、あるいは映画の魔』だ。

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ある映画監督に取り憑かれるあまり、彼の究極映像を追い求める話なのだが、そのまま悪夢の遍歴となる。実際の映画史と虚構がないまぜとなり、主人公の悪夢を強制的に観させられるような体験ができる。映像美のディテールが凄まじく、この監督の映画を観てぇ……悪魔に魂を売ることになっても……と吼えながら、ラストの「究極の映像」に身もだえするだろう。

このラストが、『百年』の最後に解読されるアレを読んでいる感情と完全に一致する。人生で一回しか観れない映画があるように、人生で一回しか読めない手記がある。それが『百年の孤独』なのだということが、よく分かる。

『エレンディラ』を挙げていた人もいた。

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これはありかも。ロウソクを消し忘れたまま眠ってしまい、火事になって家を焼いてしまった少女の話だ。

目が覚めたときには、あたり一面火の海で、母がわりの祖母と一緒に住んでいた家は灰になった。その日から、祖母は焼けた家のお金を取り戻すために、町から町へ彼女を連れ歩いて、二十センタボの線香代で春を売らせていた。
(p.86)

娘の計算によると、旅費や食費や何やらで、ひと晩に七十人の客を取ってもあとまだ十年はかかるらしい。

『百年の孤独』で、この少女のところに、アウレリャノ(大佐)が行くのだが……というエピソードを読んだのなら、まさにその少女を描いた短編小説『純真なエレンディラと邪悪な祖母の信じがたくも痛ましい物語』を読みたくなるはず……

お薦めされた方は、「サボテンの方」と言っていたので、『エレンディラ』の方だろう。「大人のための残酷な童話」と銘打っているけれど、確かにその通り。ガルシア=マルケスの短編だと「美しい水死人」が白眉だと思う。

さらに私から。めくるめく『百年』の迷宮にハマった人には、ドノソ『夜のみだらな鳥』を推したい。

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2024年に『百年の孤独』が文庫化されたことは確かに事件だが、2018年に『夜のみだらな鳥』が復刊されたことは、大事件だと思う(長らく絶版で、平気で諭吉の値が付いてた)。

『夜みだ』を読むことは、読書というよりも毒書であり、耐性がある人には中毒症状・禁断症状が現れることになる。

語り手と語られる/騙られる者・場所・時間・記憶が、迷宮状に入り混じり接続し、先の否定が肯定され、後の出来事を未来で予告する。カオスと呼ぶためにはカオス”でない”存在、少なくとも読み手がそうでない必要があるが、丹念に読めば読むほど、うねる物語に呑みこまれ異形化する。

ありのまま、起こった事を話すなら、「彼の語りを読んでいたと思ったら、いつのまにか読まれていた」……何を言っているのか分からないと思うが、わたしも何をされたのか分からない。頭がどうにかなりそうだった。信頼できない語り手だとかメタフィクションだとか、そんなチャチなものでは断じてない。もっと恐ろしいものの片鱗を味わう、そういう毒書だ。

ラテンアメリカ文学の瘴気に当たるのに丁度いい傑作。

湧き上がるイマジネーションを思う存分開放したエッセイが、『『百年の孤独』を代わりに読む』だ。

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「代わりに読む」とは何ぞや?いわゆる「読み屋」みたいなものだろうか?ゲラを予め読んで内容をまとめておき、プロモーションの片棒を担ぐ「プロの書評家」のことだろうか。

本人の動機は、「まだ読んでない友人の代わりに読もう」ということで、その経験を綴ったものがこれになる。ただし、よくあるような、あらすじを要約して背景を解説して評点を付けるようなことはしない。それは、「代わりに読む」ことにはならないというのだ。

理由としては、こう述べている。

なぜなら、小説を読み進めている時間に読む者の心のなかにだけ立ち上がる驚きやワクワクというものは、要約や解説では伝えられず、そのまま時間が過ぎれば消えてしまうものだからだ。なんとかしてその消えてしまうはずの驚きやワクワクを生のままに伝えたかった。
(『百年の孤独』を代わりに読むp.3)

そして、『百年』を読みながら呼び起こされる自身の経験や、映画やドラマや小説やマンガのとあるシーンや会話を語り尽くす。自分も読んだことのある作品もあれば、タイトルすら知らないようなものもある。けれども、「代わりに読む」ことで記憶のスイッチが次々とONになってゆくのを見てるだけで楽しい。「『百年』を読むという経験」を、同時進行で味わえる。併読するとさらに楽しいかも(というか、併読したくなる)。

読書会でお薦めされたのが、『族長の秋』だ。めちゃくちゃ強く推された。

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思い起こすと、ネットでもリアルでも、ガルシア=マルケスの話をすると、たいてい『百年』『エレンディラ』『予告された殺人』『コレラの時代』『水死人』ときて、最後は『族長の秋』を読め(命令形)になる。

そもそも、『百年』の文庫版の解説で、筒井康隆がこう述べている。

ほんとうのことを言うと、実はおれのお気に入りは、マルケスが本書の八年後に描いた「族長の秋」なのである。文学的には本書の方が芸術性は高いのかもしれないが、その破茶滅茶ぶりにおいてはこちらの方が上回っている。
(百年の孤独【新潮文庫】p.660)

そして、解説の最後で、「読むべきである。読まねばならぬ。読みなさい。読め」とまで断言している。

よし読もう。

神話か民話か

『百年の孤独』には、物語を貫くメインプロットが無い。

普通の小説には普通にある。

プロットは、物語の骨組みを示し、「はじめ・なか・おわり」を定義し、出来事を論理的に結び付け、テーマやストーリーラインを強調する。プロットのおかげで、「それがどんな物語であるか」について、読者は物語と分かり合うことができる。

だがそれは、言い換えるなら、プロットが無いと辛くなる。

読み手は、それが何の話なのか手探りで進むことになる。誰かの冒険譚か成功譚なのか、テーマが愛なのか争いなのか、分からないまま読むことになる。各々のエピソードがどのように有機的につながるのか見えないし、登場する新キャラがどんな役にハマるのか分からないまま取り残される。

これは辛い。

ブエンディア一族に起きる出来事はフラットに並べられ、時を経てつながりはするけれど、それは物語の進行とは無関係に配置される。一つ一つのエピソードは面白いが、小話をまとめる因果は存在しない。『百年の孤独』に歯ごたえを感じたり挫折する人は、メインプロットを探そうとして壁にぶち当たっているのかもしれぬ。

これに一番近いのは、民話や昔話だ。

「むかしむかし、あるところに」で始まるお話が、ひたすら並べられている感覚。笑えるホラ話もあれば、残酷で不思議な物語もある。少し時間が経てば伝承や伝説になるかもしれないが、それ未満の小話たち。柳田國男『遠野物語』の登場人物を、一つの家族でやろうとすると、『百年の孤独』に近くなる。

なので無理やりプロットを探そうとせず、やってくる小話やエピソードを、そのまま呑み込んでいけばいい。

「百年は民話だ」ということを読書会で述べると、前日の読書会では「百年は神話だ」という意見が数多く出たという。

人間くさいけれど人間ばなれしたキャラが出てきて、試練を乗り越えたり皆を危険な目に遭わせたりする。英雄的なキャラも出てくるし、絶世の美女も登場する。だから神話だというのだ。

なるほど!その発想は無かった……確かに人とは思えない怪力や、空に消える超常現象、死者とナチュラルに対話するなんて、神話的な要素もあるかもしれぬ。

ただし、物語が神話として成立するための大事な要素が欠けていると思う。それは、「世界がこうなっているという説明」だ。

例えば、雷が鳴って落雷するのはなぜか。人は死ぬとどうなるのか。なぜ海は荒れたり凪いだりするのか。宗教や科学に引き継がれるずっと前に、これらを説明するために、ゼウスやハデスやポセイドンが誕生した。

文化や価値観を反映し、次の世代に向けて「世界がこうなっている理由」を説明し、その共同体のアイデンティティを形成するために、神話が存在する。数々の物語の中から、ほかならぬそのお話が「神話」たりうるのは、この役割の有無だろう。

もちろん、『百年の孤独』が神話になることだって可能だった。だが、(読んだ方なら分かるだろうが)あの終わり方では、神話として成立することはできない。

どこかで耳にしたのだが、おばあちゃんにしてもらった昔話を想起しながら書いたといったことを、作者自身がインタビューで答えている。なので民話として読むのが作者の意図に近いのかもしれぬ。

一方で、仮にこれが民話ではなく神話として読めるのなら、その語り手は誰になるのだろうと考えると、面白くなってくる。私の見立てだと、サンタ・ソフィア・デ・ラ・ピエダしか語り手たりえないと思うのだが、どうだろう。

はてブへのリプライ

はてなブックマークコメントに返事をしてみる。

もう一回読んでみようかな/たかだか10年前くらいまでに読んだ本が、最近読み直すと全然わかっていないことが多くて、自分の人生は何なのだろうとおもう
(reponさん)

ありがとうございます!「もう一回読んでみようかな」と思っていただいただけでも、この記事を書いた甲斐がありました。「読み直そう」と思う時点で、それは価値のある作品で、それほど価値がある作品であるならば、一回や二回読破しただけで「分かる」なんてことは、ないと思います。あるいは、読み直すたびに、分かりなおすのかもしれません。マッカーシーやドストエフスキーを読み直す度に、そう感じます。

文庫版買ったんだけど、まだ読んでない。 違和感を散りばめてある…か、違和感があると気になって読み進められないタチだから、俺には向いてないのかも
(minaminoaniさん)

「違和感があると気になって読み進められない」ということは、(minaminoaniさんにとって)違和感ナシで読める作品が存在することになります。マジ?と思いました。あらゆる作品は、読むたびに感情や記憶を呼び覚まし、何かしらの引っ掛かりを残します。それが無いというのは、いったいどんな作品なんだろうと、逆に気になりました。

読んだことないんだよなあ 買うか!
(esbeeさん)

はい!是非!書店で積んであると思うので、まずはパラパラっと見て、面白そうだと感じたら買って読みましょう。記事にも書いた通り、どの節を抽出しても、全体と相似しているフラクタルな構造のため、どこを読んでも「『百年の孤独』を読んだこと」になりますので。

読書会あれこれ

読書会が良かったのは、好きなだけイマジネーションを語れたこと。

ネットだとネタバレを配慮したり、発想の暴走を自制したりと、気を付ける必要があるが、リアル読書会なら、キャラの最期や物語の最後を好きなだけ語れる。「●●がダメだった」というネガティブな感想も言える自由さもいい。以下、読書会に出てきた様々なコメント。

  • 「そのキャラが死ぬタイミングは、人生に満足した瞬間かもしれない」
  • オレンジ色の円盤がやたら登場するのは(p.279、519、620)、当時のUFOブームの反映かも
  • 翻訳の妙①:両親の骨が入った「信玄袋」に違和感を抱く(ひも付き袋のことなんだろうけど……)
  • 翻訳の妙②:マウリシオの「蛾」と対決するとき、「フマキラー」と訳されてたのにはのけぞった。今は「殺虫剤」となっている(p.443)
  • 最初は家族の物語みたいな朝ドラだと思い、濡れ場の描写で昼メロかと思っていたら、壮大な大河ドラマだったことに気づいた
  • 戦争のシーン(わりとエグい)が辛いと感じる人と、大好物と感じる人がいた
  • 大家族では、いちいち名前なんぞ覚えておらず、爺婆が「●●の所の子か」で済ませているくらいのノリで読むと良いかも
  • 「織り続ける経かたびら」「鋳潰してては作り直す金細工の魚」にも、くり返しのイメージが潜んでいる
  • 表紙の答え合わせ。この花、オランダアイリスだよね?これだけが分からない……
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『百年』はどう読んでも面白いけど、みんなで読むと100倍面白い。みんなでしゃぶりつくそう。

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なぜ『百年の孤独』が面白いのか、ネタバレ抜きで語ってみる

N/A

人生で3冊読んだけど、3冊とも面白かった。

最初は水色のハードカバー版で、次は白黒のやつ、そして最近出た新潮文庫を読んだことになる。ストーリーは知っているし、あのラストの感情の奔流は何度も味わっているのに、それでも無類に面白い。

何度も読んだのに、なぜ、面白いのだろうか?

まともな人間が(ほぼ)誰もいないブエンディア一族の奇妙な生きざまや、日常的に非日常が描かれるマジックリアリズムの磁力、あるいは、奇妙で悲惨でユーモラスなエピソードが隙間なく詰め込まれているストーリーは、どこから見ても面白い。

しかし、3冊目の新潮文庫を読みながら、そうしたストーリーやキャラだけでなく、『百年の孤独』そのものに面白さが練り込まれていることに気づいた。

ここでは、物語の展開や登場人物の運命にはできるだけ触れずに、ネタバレ抜きで、『百年の孤独』の面白さを語ってみる。

既視感と未視感の混交

例えば、中毒性のある文章について。『百年の孤独』の書き出しだ。

長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、恐らくアウレリャノ・ブエンディア大佐は、父親のお供をして初めて氷というものを見た、あの遠い日の午後を思い出したに違いない。

(新潮文庫版 p.9)

銃殺隊?

ブエンディア大佐?

「あの遠い日の午後」って?

疑問が次々と湧き上がるが、説明は一切無い。

そもそも、この文章はヘンだ。「長い年月が流れて」なら、未来の話だろうし、「あの遠い日の午後を思い出した」のは過去の話になる。では、これをしゃべる語り手はいつの場所にいるのか?あるいはこれを聞いている(読んでいる)私は、どの時代にいるのか?

もちろん、すべての物語が終わった後、神の目線から、過去のお話を聞いているのだという解釈は成り立つ。事実、ほとんどの文章は過去形なので、昔話の民話だと見なすことは可能だ。

だが、語り手自身が分かっていないことをしゃべっているようにも見える箇所がある。まだ起きていない未来の出来事だからと留保付きで述べるのだ。「思い出したに違いない」なんてまさにそうで、違和感がついてまわる(普通なら「思い出した」に留めるはずだ。なぜなら、すべてが終わった過去を振り返っているのだから)。

物語は進んでゆくうちに、「あの遠い日の午後」も語られるし、アウレリャノ・ブエンディアが「大佐」になるエピソードも紡がれるし、銃殺隊の前に立つシーンも出てくる。しかし、彼が夏の日の午後を思い出したかどうかは、そのシーン、つまり銃殺隊の前に立つ場面にならない限り、語り手自身も分かっていないのではないか―――そういう予感がついてまわる。

そんな文章が要所要所に練り込まれている。

大丈夫、ほとんどの文は普通に読めるのだが、アウレリャノ・ブエンディア大佐のエピソードはくり返し触れられ、語られているので分かりやすいのだが、他にも、こうした違和感を掻き立て、目を留める引っ掛かりが設けられている。

これを一種のフラグ、伏線の変異体と見なしてもよいが、引っ掛かる度に、聞いている(読んでいる)この瞬間が、いつなのかを見失う。。

読み進めていくうちに、違和感の正体は、「銃殺隊の前に立つ」時と、「初めて氷というものを見た」時間、そして「思い出したに違いない」と語るときが、同じ瞬間に集約されているのではないかという疑いに変化する。そして読み終わるとき、この違和感は、『百年の孤独』そのものを貫く巨大な伏線だったことが明らかになる。

既視感と未視感が混ざったような、軽い吐き気を覚える。『百年の孤独』で感じる中毒性の正体の一つがこれ。

再帰的・回帰的な物語構造

物語で繰り返される変奏が、この既視感+未視感をさらに加速させる。

例えば、「この会話は以前にした(はず)。それも別の人が別の時に」という既視感(聞いているから既聴感か)。

「何をぼんやりしているの」。ウルスラはほっと溜め息をついた。「時間がどんどんたってしまうわ」

「そうだね」とうなずいて、アウレリャノは答えた。「でも、まだそれほどじゃないよ」

(新潮文庫版 p.196)

事態は切迫しており、取り返しのつかない状況になりつつある。話ができる時間は限られているのに、言いたいことは言えなくて沈黙が長引き、ありふれた日常の会話に戻っていくシーンだ。

そこから2世代たってから、こんな会話が交わされる。

曾祖母の声に気づいた彼はドアのほうを振り向き、笑顔を作りながら、無意識のうちに昔のウルスラの言葉をくり返した。

「仕方がないさ。時がたったんだもの」

つぶやくようなその声を聞いて、ウルスラは言った。「それもそうだけど。でも、そんなにたっちゃいないよ」

答えながら彼女は、死刑囚の房にいたアウレリャノ・ブエンディア大佐と々返事をしていることに気づいた。たったいま口にしたとおり、時は少しも流れず、ただ堂々めぐりをしているだけであることをあらためて知り、身震いした。

(新潮文庫版 p.508)

この、くり返しのテーマは、時を超え形を変え、さまざまなバリエーションで語られる。

はっきりと登場人物の会話や独白に現れるものもあれば、違う人物が同じ行動をするといった描写に表現されるものもある。さらには、世代を超えて似通った選択をし、同じ運命にたどり着くことでも描かれている。

ただし、くり返しのテーマは、分かりやすくない。むしろ、わざと複雑に、錯綜させて書いているように見える。会話の端々に現れる「堂々めぐり」「くり返し」は分かりよい方で、読み解きというよりも、聴き手の印象を操作するように描いている。

その顕著な例が、名前だ。

ホセ・アルカディオ・ブェンディア
ホセ・アルカディオ
アウレリャノ(大佐)
アルカディオ
アウレリャノ・ホセ
ホセ・アルカディオ(法王見習い)

これら全て別人物だ。「アルカディオ」や「アウレリャノ」が並んでおり、一読しても、誰が誰の話なのか、すぐに分からなくなる(似たような行動や似たような運命を辿るので、最初に読んだときは迷子になったものだ)。まるで、うっそうと茂った樹木の葉っぱの見分けがつかなくなるように、意図的に混同させるように名づけを行っている。

家系図は樹木構造をするのだが、ブエンディア一族の家系図は、ツリー状に広がっていきつつ、一族内での混交も起きている。女を共有したり、一族同士で結ばれることによって、広がった枝が畳み込まれ、一体化しているようにも見える。

初読のときは迷子になって、家系図と人物相関図を作ったりしたものだが、そのうち諦めた。代わりに、誰の話なのかというよりも、むしろ、何の話なのかを注視するようにした。

 

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そうすると、度胸があって面倒見がいいけれど、短絡的な性格が災いを呼び寄せる「アルカディオ」と、物静かで頭が良く、コツコツと時間をかけて運命を変えてゆく「アウレリャノ」という、2つの資質が練り込まれていることに気づく。

そして、度胸があって面倒見がよく、物静かで頭もいいのが、一族の祖である、ホセ・アルカディオ・ブェンディアであることが見えてくる。そして、彼の行動や言葉を、その子孫たちがなぞっているようにも見える。つまり、ホセ・アルカディオ・ブェンディアの人生の中に、一族の運命が練り込まれていると読むことだってできる。

『百年の孤独』=シェルピンスキーの三角形

イメージ的には、シェルピンスキーの三角形になる。

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 1. 正三角形を描く

 2. 正三角形の各辺の中点を結んだ正三角形を描く

 3. 中央の正三角形を取り除く

 4. 上の2と3を繰り返す

この三角形は、奇妙な性質を持っている。

まず、面積だ。

最初の三角形の面積を1とすると、次の3つの三角形のそれぞれは1/4で、全部を合わせると、3*(1/4)=3/4になる。次のステップで9個い三角形の面積は1/16で、総面積は9*(1/16)=(3/4)^2となる。これを続けていくと、残った部分の面積は、数列1,3/4,(3/4)^2,(3/4)^3...となり、公比3/4の等比数列となる。

公比は1未満のため、数列の項は、n→∞のときに0に限りなく近づく。そのため、最終的には元の三角形は、各段階で赤い領域の1/4だけを取り除いたにもかかわらず、消えてしまうことになる。面積という、見える有限の「量」が無限のステップの中で消えてしまう不思議。

次に長さだ。

三角形の周長は、一辺1とすると、3,9/2,27/4,81/8...となる。これは公比3/2の等比数列で、公比は1より大きいので、より多くの三角形を取り除くにつれて、項は際限なく大きくなり、周長は無限に大きくなってゆく……面積がゼロに限りなく近づく一方、無限の長さをもっている。

シェルピンスキーの三角形には、無と無限が詰め込まれている。

ブエンディア一族の家系図は、正三角形とは程遠いのだが、一族のある人物の言動を追いかけていくと、他の人物と似通っており、なおかつ、ブエンディア一族の全体とも相似してくる。

つまり、一族の全体の構造が部分にも同じ形で現れているのだ。

例えば、ホセ・アルカディオの生き様をアルカディオがなぞり、ホセ・アルカディオ(法王見習い)が受け継いでいる。各人の資質が同じ形で運命に現れる。男だけでなく女の運命も互いに似通っており、一人の女の話をしているのか、他の誰かの巡りあわせをなぞっているのか、分からなくなる。

もつれあい、絡み合う部分は、カメラを引くと一族の全体になる。やろうとすれば、この物語は無限に続けることができるだろう。

しかし、物語はいつか終わる。

既視感と未視感と違和感、物語のフラクタルな構造、浮かび上がってくる再帰的なテーマ、これらを抱きつつ後半に差し掛かると、怒涛の奔流に呑み込まれ、もみくちゃにされるだろう。そしてラスト、(ゆっくり読んだ方がいいのに)巻き上がる風に吸い込まれるように、急いで最後のページまで読もうとするだろう。

そして読み終えるとき、自分が完全にこの一冊に取り込まれており、この小さな一冊に、無と無限が詰め込まれていることに気づくだろう。

ハードカバー版よりも小さい新潮文庫版だと、この思いがより一層強く感じられる。全てが入っていながらも、無である世界。それが『百年の孤独』だ。



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採用側の事情から攻略する『採用の思考法』

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大型書店に行くと、就職活動のコーナーがある。

エントリーシートの書き方や、面接のイロハ、オンライン面接の作法といった対策本が並んでいる。

そこで物色している人を見るたびに思う「就活棚じゃなく、右斜め後ろの棚を探せばいいのに」とね。なぜなら、就活コーナーの近くにある「人事・労務」の棚に並んでいる本の方が、役に立つから。

そこでは、採用が上手くいかない人事担当の苦労話や、せっかく登用しても長くは続かず、止めていってしまうミスマッチが語られている。そうした状況で、どうすれば望んだ人材が集まってくるのか、あるいは集まった人たちから、自社に最も合った人をどうやって選べばよいのかが解説されている。

「こうすればいい人材を採用できる」というノウハウが書いてあるのだから、そのノウハウに合った形で自分をプレゼンできたら、「いい人材」として認められる。誰を採用し、誰を落とすかの評価基準のつくり方が書いてあるのだから、その基準をクリアしていることを認めてもらえば、評価されるだろう。そうした「いい人材」の答えの部分が、人事・労務の棚に並んでいる。

就活コーナーに並んでいるものが「教科書」なら、人事・労務棚には、いわば「教科書ガイド」や「教師用指導書」が並んでいるといっていい。

「いい人材」とは何か

中でも、『採用の思考法』は、いい人材を集めて見抜いて離さないノウハウが語られている。中小企業向けの採用コンサルタントが、自らの経験を元に赤裸々に語っている。

これを「採用される側」から読み解くならば、ここで語られる「いい人材」であることをアピールすればいい。もちろん就活コーナーに並んでいる本にも、似たようなことが書かれている。だが、「なぜそれがいい人材なのか」とか、「そもそもその『いい人材』とは何か」まで書いてある。

本書によると、「いい人材」の「いい」とは、採用基準に合致すること。そして、この採用基準は、絶対に妥協せず、一緒に働きたい人の特性や条件を徹底的に言語化しろとアドバイスする(ここを妥協すると、最悪の展開である「間違った人を採用してしまう」ことになるという)。

採用基準の言語化は、人事担当や経営層の仕事になる。「結局のところ、どういう人間がこの会社に必要なのか?」という問いに答えられる人は、経営層だからだ。

そして、いったん言語化した採用基準は簡単には下げるなと釘を刺しつつ、「完璧な人材なんていないから、採用基準となるスキルは絞り込め」と説く。

では、何を取捨選択すればよいのか?

まず、後から伸ばしやすいか、伸ばしにくいかで判断せよという。採用後のトレーニングで、比較的短期間に伸ばせるスキルと、時間をかけて育成するスキルがある。そして、いつまでにどの程度活躍する人材を採用するのかといった時間軸を持って基準となるスキルを選べという。

以下に、比較的簡単に伸ばせる能力と、伸ばすのに時間がかかる能力、さらには伸ばすのがとても難しい能力の例を挙げる。

比較的簡単に
伸ばせる能力

時間を要するが
伸ばせる能力

伸ばすのが
とても難しい能力

口頭/文章でコミュニケーションをする

自律的である

困難や挫折に対して粘り強く立ち向かう

リスクを取る

判断力がある

答えのない問いの答えを探し続ける

業績管理をする

戦略的能力がある

複雑な情報や問題を分析する

コーチング/トレーニングする

傾聴する

新しいアイデアや概念を生み出す

計画を立て、目標設定する

多様性を尊重し、順応性がある

概念を構造化する

自己認識する

機転を利かせる

誠実で正直な態度や行動をする

ミーティングを進行する

あらゆる行動に高い基準を持つ

自信に満ちた態度や行動をする

第一印象をよくする

チームをまとめ、変革を推進する

リーダーの右腕となる

顧客志向で考える

ストレスを管理し、バランスのとれた生活をする

活動的でエネルギッシュである

社内外の調整をする

交渉/説得し、対立を建設的に解消する

情熱的で野心がある

 

コミュ力よりも重要なもの

ちょっと面白いのは、「コミュニケーション能力」の位置づけだ。

このスキルは、面接対策でも重要なポイントとされている。実際、経団連の新卒採用のアンケート調査で、「採用にあたって特に重視したスキル」で、16年連続で1位なのが、コミュニケーション能力だ。

しかし、著者によると、入社時に必要となる能力ではないという。確かに、受け答えがしっかりしており、自分の言葉で話ができる人の評価は高くなるだろうが、「コミュ力がある」というだけで選ぶのは危うい。ソツなく喋って書けるけれど、単なるその場限りの口だけで、粘り強く問題に取り組むのは不得手かもしれない。

これが、コンサルティング・ファームだと逆で、その場の即興で言い逃れたり、言いつくろったりする能力が求められる。「言い逃れる」とかいうのはあまり良い言い方ではないが、コンサルタントには必須かつ超重要なスキルだ。「とっさの一言」が瞬発的に出てくる人が求められる。

本書によると、「コミュニケーション能力が必須」ということは、「我が社ではコミュニケーション能力を育てるつもりはありません」と公言していることと一緒だという。コンサル会社の人が書いたものを眺めていると、確かにその通りだと思う。

もちろんあるに越したことはない。だが、コミュニケーション能力は後から伸ばすことができる。だから、コミュ力だけを重視するなと説く。

では、「伸ばすのがとても難しい能力」をどうやって見極めるか?第5章に大量に紹介されているが、ここでは「困難や挫折に粘り強く立ち向かう能力」に絞って説明する。

面接に応募する人たちは、質問されることを予想して準備してくる。まずは答えやすい質問から入り、それを受けた回答から掘り下げていけという。

例えば、過去のエピソード(全国大会に出たとか、大きなプロジェクトに携わったとか)を色々と聞いてみる。そして、そのときの行動について、こう掘り下げよという。

「その結果を得るために、どんな行動をしたのですか?」

「そのとき、そんな行動をしたのは、なぜですか?」

この質問のキモは、「過去の結果」を問うていない点にある。県大会出場よりも全国大会出場の方が結果としては優れている。しかし、その結果までのプロセスがどうだったかを掘り下げていく必要がある。

なぜプロセスが重要か?

それは、「再現性が求められるから」になる。

成果を出し続けるためには、自ら考え、行動する必要がある。壁にぶつかったら粘り強く行動し、諦めずに結果を出すことが求められる。その再現性があるかどうかの見極めが、「なぜその行動を採ったのか」の返答に隠されている。

面接者はその行動の中に、「あきらめず粘り強く取り組む」「周りを巻き込んで問題解決する」「様々な角度から解決の糸口を探す」といった姿勢を、具体的に見ようとする。

もちろん、志望者が入社後に全国大会をもう一度目指すことはない。けれども、全国大会と同じくらい困難なことは、仕事の上でぶつかるはずだ。そのとき、同じように粘り強く立ち向かえるかどうかが再現性のキモなのだ。

では、志望する側は、どのように表現すればよいか?

自分にとっての「粘り強さ」「あきらめの悪さ」「周りを巻き込む力」をこの会社で再現してやろうじゃないか、と語ればいい。具体的には、「困難をどう工夫して乗り越えたか」を伝えた後で、「だからこそ御社では、この粘り強さと巻き込み力を再現することで、目標達成に尽力していきます」云々とまとめる(再現性という言葉は、面接者が最も聞きたいワードなので、最後に入れよう)。

レバテックLABで掘り下げる

レバテックLABで、ITエンジニア向けの記事を連載しているのだが、「人事評価において役立つ本」が少ないことに気づいた。面接のマニュアルみたいなものではなく、採用側の事情や人事制度といった内側から見た対策本だ。

「間違った人」を採用したり昇格させることが続くと、大ダメージを受ける。だから、人事担当は間違えるリスクを避けようと非常にセンシティブになる。前例を踏襲し続けることにより、新陳代謝が衰え、ゆっくりと死に近づいてゆく。

そうならないために、制度として守るべきものは守り、新しい人材として取り込むべきものを取り込む。優れた人事制度というものは存在するし、人を活かす人材マネジメントというものも存在する。評価される側からは見えにくいけれど、人事を大切にする企業は、いつ、どのように評価するかのメソドロジーは、確かにあるのだ。

これらを可視化することで、採用側や評価側の事情を炙り出そうとする試みだ。そうすることで、自分がいつ、どのように評価されるかを特定し、そのタイミングにおいて、適切に応対したり、準備を整えておくことができる。

いわば、人事ハッキングのようなものだ。人事制度やヒューマン・リソース・マネジメントをリバースエンジニアリングすることで、「自分のポジションで評価されやすいものは何か」を見つけだす。評価されやすい答えの全てを書き出すことはできないけれど、こうした場合に、このように取り組めば、「正解」に近づくことができると、例を挙げることはできる。

いま「正解」をカッコ書きで括ったのは、私には分からないから。あなたの勤める企業の人事評価基準は、私にはわからない。だけど、その評価基準がどのように出来上がっており、どのようにあなたに当てはめているかの制度運用は、予想することができる。もちろん、教科書通りに運用されていないだろうし、現場の恣意性やエコヒイキに左右されていることもある。それでも、うまくいっている(と思われている)人事制度の裏をかくことで、ちょっとでも有利になるのなら、そのやり方はどんどん可視化していきたい。

予告:第1回は、7月末~8月頭にレバテックLABで公開される。『採用の思考法』はその1冊目になる。評価される側だけでなく、評価する側も悩みが多いみたいなので、両側から人事ハッキングしてみるつもり。お楽しみに!

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『このホラーがすごい!2024』の国内編1位と海外編1位が面白かったので、私のお薦めを紹介する

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ホラーのプロが選んだ「本当に怖いベスト20」が紹介されている。

ホラーのプロとは、ホラー作家だったり編集者だったり、海外ホラーの翻訳家だったりホラー大好きな書店員だったりする。ベスト20のラインナップを見る限り、相当の目利きであることが分かる。

これがtwitterの人気投票だと、どうしても「売れてるホラー」に偏る。ベストセラーとは普段読まない人が買うからベストセラーになるのだから仕方がないのだが、どこかで見たリストになってしまう。

「売れてる」要素も押さえつつ、なぜそれが怖いのか、どうしてそれが「いま」なのかといった切り口も併せて説明しているので、流行に疎い私には重宝する一冊だった。

いまのホラーはモキュメンタリー(Mockumentary)が一大潮流だという。実際には存在しないものや、架空の出来事を、ドキュメンタリー形式で描くジャンルだ。実話系怪談や、ファウンド・フッテージ(撮影されたフィルムが発見された設定の映画)などになる。『新耳袋』や『食人族』『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』などが有名だね。

この流れがきており、モニュメンタリー・ホラーを代表する『変な家』(雨穴)、『近畿地方のある場所について』(背筋)、『かわいそ笑』(梨)の鼎談が特集されている。

面白いと思ったのは、作家にとって、モキュメンタリーは器(うつわ)であること。最初から目指していたのではなく、使えるリソースを選んでいたら、結果的にモキュメンタリーになったという指摘だ。

ウェブ記事で文章を書こうとすると、フィクションではなくルポ形式になる傾向があるという。さらに、youtubeでフィクションを作るなら、役者を雇って映画のように撮るよりも、一人称カメラでのドキュメンタリー形式になるか、あるいはカメラに向かって語る怪談形式になる。もちろん、カクヨムなどでフィクションを書く場合もあったが、ネットで表現しようとすると、ドキュメンタリー寄りになるというのだ。

確かにこの傾向はある。ネットで目にする形式は横書きが多く、結果、ルポ形式になる(レポート用紙っていうくらいだし)。あるいは、私がフィクションを読む場合、単行本や文庫の縦書きの書籍になる。もちろん例外もあるが、縦書き・横書きの違いと、フィクション・ノンフィクションの親和性が、怪談を入れる器を形作ったと考えると面白い。

ネットならではの怖い話もある。

たとえば、奇怪な現象のレポートを集めたSCP財団はネットで読むからゾワゾワするのであって、書籍にすると「あの雰囲気」が失せてしまうだろう。未読の方に解説すると、SCP財団とは、ネット上での「ごっこ遊び」になる。SCP財団の職員のフリをして、奇妙な現象をレポート「ごっこ」をする(読むほうはそうした報告書を盗み見しているような気分になる)。

あるいは、2chオカ板の死ぬ程洒落にならない怖い話を集めてみない?になる。「きさらぎ駅」とか「八尺様」とかが有名だが、語り手が状況を説明し、他の人が質問したり解釈する形で話が進んでゆく。これもレポート形式のホラーの一種といっていい。書籍化・映画化もされているが、やはりこれはネットで読むほうが怖い、と感じられる。

このホラーがすごい!国内編1位『禍』

お薦めされたので『禍』を読んだ。結論から言うと、これはすごい。

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『禍』は、7つの短編が収録されている。それぞれの短編にはモチーフがあり、それに因んだり、そこを契機として物語が転がったりする―――思いもよらぬ方向に。

モチーフは、口、耳、目、肉、鼻、髪、肌と、どれも人体にまつわるものばかり。

私にも、あなたにもある、ごくありふれたパーツだ。そして、普通の人の日常から描かれるのだが、最初は微細な違和感だったものが、どんどん嫌悪感に膨らんでいって、どうしようもないほど「汚された」気分にさせられる。なんとも言えず気持ちが悪く、胸の奥がえずくようにモヤモヤする。

例えば、耳がモチーフの短編を読むうちに、知らず知らず自分の耳を触りたくなるだろうし、肌がモチーフの短編だと、服の布地と触れている私自身の肌が粟立ってくるのが分かる。鼻の話を読みながら、何度も鼻をつまんで「ある」ことを確認した。物語に感覚が侵食されていくのがたまらなく嫌らしい。この汚物感、短編を読み終えるごとに増してゆく。「怖い」というよりも薄気味悪い小説なり。

もう一つ。ここに出てくる女がいい。吐息の湿り具合やむっちりした肉感、全裸に点々と浮かぶ黒子が生々しく伝わってくる。バスに乗り合わせた女が押し付けてくる肉の重みと温みを感じるシーンや、深夜のエレベーターにうずくまって甘い匂いを立てているところなんて、一歩間違えると恐怖以外の何物でもない。

ふと、二の腕や腰に女の体がねっとりと柔らかく押しつけられるのを感じた。気づかぬうちにバスが発車してロータリーを回りはじめており、遠心力で女の肉が重たく押しよせてくるのだ。しかもその感触は、まるで女が故意に溢れんばかりの肉をこちらにあずけてきているかのようだったが、そんなはずはない。こちらが意識しすぎているのだろう。そうおのれに言い聞かせつつも、女と触れあっているあたりに籠もる、じりじりと炙ってくるような温みを無視することができなくなっていた。

『禍』「柔らかなところへ帰る」より

現実ではありえない感覚へ連れていかれるのは小説ならではの醍醐味だろう。映像化やコミカライズは可能だろうが、おそらく、どことなく間抜けな絵面になるかもしれぬ。読み手の想像力を振り回し、とんでもないところに投げ飛ばす奇天烈な短編でもある。

このホラーがすごい!海外編1位『寝煙草の危険』

ぶっちぎりで1位だったのがこれ。去年私も読んだのだが、私もダントツでこれを推したい。

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ふつう、物語って、現実から逃避するために読む。現実はそれだけで酷い世界であり、頭の弱い女は利用され、貧乏な老人は虐げられ、居場所のない子どもは食いものにされる。ポリティカル・「イン」コレクトネスな世間だから、物語の中に逃げこみたくなる。

せめて物語のなかだけは、予定調和に進んでほしい。ご都合主義と言われてもいい、悪いものが潰えて、弱き人、良き人が救われる、そんなストーリーになってほしい。

そんな現実逃避を踏みにじってくるのが、これだ。

頭のイカレた老人が、通りでいきなり排便する(しかも下痢気味)。通り一帯に悪臭がたちこめ、近所の人が袋叩きにするのだが、どちらも救われない。ホームレスの老人も、正義感に満ちたその人も、その通りに住む全ての人が、救われない。

一応、老人の呪いという体(てい)で話は進むのだが、それを目撃した人たちは次々と不幸に遭う。強盗に遭って破産する、飼い猫を殺して食べた後自殺する、解雇される、店をやっていけなくなる、大黒柱が事故で死ぬなど、酷い運命が待っている。

悪いことがおきるとき、それに釣り合うカウンターが用意されているのがセオリーだ。だが、何のバランスもない。そんなに非道なことをしていないのに、したこと、していないことに見合わない非道な目に遭う。

そして、物語なら、なぜそんなことになったのか、因果の説明がある。本当に「呪い」なら、呪う側の出自や呪われる側の過去が語られるはずだ。だが、無い。

悪いことが起きることに何の理由もない、これが最も恐ろしい。なぜなら、それは現実で嫌というほど味わっているから。

これが最初の短編「ショッピングカート」のお話だ。20ページに足らないのに、ひどく嫌な気にさせられる。ラストの救いようのないナナメ上の展開にゾッとするあまり、引き攣った笑い声が漏れる。

こんな話が次から次へと畳みかけられる。世界が狂っているのか、私が狂い始めているのか、確かめてみたくなるストーリーばかりなり。

私のホラーベストと、最近怖かったやつ

私のホラーベスト

「ホラーベスト」と言っておきながら、お薦めしたいホラーがありすぎる。

最近の怖いやつは、BRUTUSのホラーガイド444を使って最も怖い作品を探すにまとめているし、珠玉のホラーベスト10は『ホラー小説大全 完全版』から選んだホラーベスト10に書いた。

いま、一冊だけ挙げるなら、エヴンソン『遁走状態』になる。

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一行目から、「何かがおかしい」と引き込まれ、不安定でグロテスクな状況に巻き込まれた人物の視点で追っていくうちに、現実を確固たるものにしているはずの境界―――私とあなた、生と死、記憶と現実など―――が曖昧にされてゆく。

そんな場合、登場人物を「信頼できない語り手」とみなすことで、読み手である"わたし"を護ろうとする。だが、すぐに分かる。どんどんズレてゆく世界は、それはそれで一貫している。悪夢のように「おかしい」が、その夢の中では、限りなく明晰で合理的だ。

しかも、登場人物が再帰的にふるまうため、展開がループしはじめる。ひょっとすると、信頼できないのは話者ではなく、物語世界でもなく、"私"自身なのかもしれない。世界が壊れているのではなく、登場人物が狂っているのではなく、世界を認識する方法がズレはじめており、現実とうまく折り合わなくなっている。

この「世界」は、小説世界だけでなく、読み手の現実世界も含まれる。文字である、身体がある、"私"であることは分かっても、何が書いてあるのか、自由に動かせるのか、そもそも"ある"のかすら、確信がもてなくなる。死そのものよりもおぞましい、生ける屍状態なのだ。

そういう、嫌な話が全部で19編ある。どれもすばらしく厭な話ばかりだ。

そこでは、登場人物は何かを失われる。それは光だったり言語だったり、記憶や人格そのものだったりする。そのどれもが、"一貫性のある私"を成り立たせなくさせるため、人が世界を感知して「意味あるものにする」機構が壊れた場合、いったいその人に何が起きるのか、つぶさに体感することができる。

私が狂うのは、こんなんだろうなとつぶさに思い知らされる一冊。

すぐれたホラーを読むと、「生きてるッ」って実感できる。これは、登場人物が酷い目に遭えば遭うほど、「生きてるッ」って思う。現実にすり潰された心に、まだ、怖いと思える場所が残っていることに、ホッとする。

よいホラーで、よい人生を。

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「なぜ悲劇を観るのか?」ヒュームの悲劇のパラドクスから物語の効用を考える

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愛する人の死や、不幸な運命を描いた悲劇を、なぜ観るのか。

それも、絶頂からどん底までの落差が激しいほど、悲しみの振れ幅が大きいほど、より一層、好んで観たがる。これを「悲劇のパラドクス」と呼ぶ。イギリスの哲学者ヒュームは「悲劇について」でこう述べる。

巧みに作られた悲劇を観ている人たちが、悲しみや恐怖や不安その他の、それ自体においては不快で嫌な気持ちになる情念から受け取るものは、説明のつかない快楽のように見える

ヒューム「悲劇について」(『道徳・政治・文学論集』所収)

ここでは、ヒュームの主張を軸に、様々な角度から悲劇のパラドクスについて考える。

人の心は動きたがる

まず、芸術作品に触れたときの情念について。

ヒュームはこう主張する―――怠惰で気乗りのしない状態ほど、精神にとって不愉快なものはないという。たとえ不愉快で陰鬱なものであっても、平坦で無味乾燥なものよりはうんとマシなのだ。圧迫感に苦しむ人生にとって、悲劇は気晴らし、息抜きの一つなのだという。

つまり、人の心は動きたがるのだ。「感動する」という言葉に「動」が入っているように、”move”は「感動する」と同時に「動く」という意味を持つ。あるいは、心揺さぶる”stir”は「かきまぜる」、感激させる”impress”には「押し付ける」など、動きの意味が含まれている。

これに加え、喜びや美しさといった幸福に関連したものよりも、危険や苦悩や死、殺人、残虐といった不幸に関するものの方が多い。つまり、幸福のバリエーションよりも、不幸のバリエーションの方がより豊かであり、より多くの観客や読者の心を虜にする。

アンナ・カレーニナの法則

この原理は、ヒュームの死後ちょうど100年後に書かれた、トルストイの大作の冒頭に記されている。

幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある。

幸福や成功となるパターンは少なく、不幸や失敗となるパターンは多い。小説のタイトルに由来して、この法則のことを、「アンナ・カレーニナの法則」と呼ぶ。考えてみればすぐに分かるように、平穏で幸せな毎日が永遠に続くような物語は存在しない(いわゆる日常系の物語ですら、何かしらイベントは発生する)。ずっと幸せだと、聞くほうが飽きるからだ。

だから、平穏で幸せで成功したパターンよりも、それ以外のパターンの方が必然的に多くなる。世の中のありとあらゆる物語を床にぶちまけて、任意の物語のある箇所を拾い上げると、それが幸せである可能性は少なく、「幸せ以外」である確率は非常に高い。放っておくと秩序は無秩序になるエントロピー増大の法則に、物語は準拠しているのだ。

もし、「幸せ」を持ち込むのであれば、幸せな日々が壊されるような物語か、あるいは、困難を乗り越えて幸せをつかみ取る物語になる。そうすることで、物語のバリエーションが増え、キャラクターの運命が動き、ひいては読者や観客の心を動かすことになるから。

心地よい悲しみ?

ヒュームは、快楽と苦痛の原因はそれほど異なってはいないという。

例えば人をくすぐるときだ。やり方が適切だと、くすぐりは喜びをもたらすが、行きすぎると苦痛になる。また、苦痛をもたらしているものを和らげると喜びになる。

これと同じように、弱められ和らげられた悲しみが、「心地よい悲しみ」になるという。人の心というものは、本来感動させられ、影響されるのを好む。憂鬱で悲惨なものであっても、適切に和らげられるのであれば、それに心は迎合し、気持ちの良い悲しみを味わうことができるという。

舞台の光景は、あたかも現実のように見える。しかし、劇場で上演されるものは現実のものではないと、私たちは心のどこかで知っている。英雄の悲運のために目に涙を浮かべる同じ瞬間に、これがフィクションに過ぎないことを思い起こし、安心して涙を流す。

どんなに恐ろしい物語だろうとも、我が身に危険が及ぶことはなく(かつそれを知っているからこそ)、安全に怖さを楽しむことができるのだ。

悲劇の役割

同じような発想は、『物語の役割』(小川洋子、ちくま新書)にある。タイトル通り、「なぜ人が物語を必要とするのか?」というテーマのエッセイだ。

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物語の役割とは何か?それは「受け入れがたい現実を、物語の形に構成しなおして、受け入れる」ためにあるという。

ナマの現実は、ただでさえ苛烈だ。私にとって大切な人の死は耐えがたく、立ち直るためには長い時間を要した。大型トラックと接触しそうになったら、私は恐ろしさのあまり小便をもらすかもしれない。

『物語の役割』では、一つの例として、エリ・ヴィーゼルというユダヤ人作家のエピソードを紹介している(「愛の対義語は無関心」という言葉で有名な人)。

1944年にナチス・ドイツの侵攻を受け、ヴィーゼルは家族と共にアウシュヴィッツ強制収容所に送られる。母と妹はガス室で、父は過酷な生活に耐えられず命を落とす。

ヴィーゼル自身、過酷な労働と飢餓の中で、徐々に人間性を喪失してゆく。少年の公開処刑や父親の死ぬ瞬間を目の当たりにして、正気を保つため、自分の体験をいったん物語として再構成しようとする。そうすることで、めちゃくちゃで理不尽な現実に意味を見出し、向き合おうとする。

行動には意味があり、理由があるからこのような結果になったという、物語のフォーマットに落とし込むことにより、現実を理解することができる。

私がヴィーゼルのような過酷な体験をすることは、おそらく無いだろう。だが、それでも辛い現実に向き合わなければならない瞬間は、必ず来るはずだ。だから、物語の形に再構成された悲嘆や恐怖を味わい、シミュレートすることで、いわば現実の予習ができる。

そう考えると、キツくて辛い物語であればあるほど、一種の「悲しみ免疫」「辛さ耐性」のようなものがつくられ、現実の過酷さをある程度バッファリングすることが可能になるかもしれぬ。

あるいは、大切な人を亡くして泣き叫ぶキャラを見ていれば、実際に自分が同じ目に遭った時に「泣き叫ぶ」という選択肢があることが分かる。ショックのあまり自殺する人もいるのだから、その時に思い出すかどうかは別として、「選択肢がある」というのは重要だ。そしてそれは物語で予習できる。

この意味で、物語は(辛い)現実の予防接種たりうる。

遅延の効用

悲劇とは離れるが、ヒュームは「遅延」の重要性を説く。

物語から得られる快楽について最も重要な要素は「遅延」だと述べている。

何らかのネタを明かすことで観客や読者の心を大きく動かしたいのであれば、その効果を増す最善の方法は、できるだけ巧妙に遅らせることだ。

つまり、物語が提示する謎が解かれることへの「予期」が、先を知りたいと思わせ、その解決が引き伸ばされ、遅延すればするほど、解決したときの喜びは大きくなる。

不気味な影の正体はなかなか掴めないだろうし、(鑑賞者だけは分かっても)主人公は気づかないかもしれない(そして鑑賞者はイライラするはずだ)。さらに、たとえ正体が分かったとしても、「どうやって倒すのだろう?」という謎は残り続ける(おそらく、物語のラストまで)。影との対決がクライマックスになるのは、こういう理由なのだ。

そして、謎を宙吊りにしつつ物語を進めるなら、登場人物たちを不運な状態に突き落とし、越えるべき壁に直面させ、厄介ごとを起こさなければならない。なぜなら、物事がスルスルと進むなら、謎の方も遅滞なく解かれてしまうだろうから。

快楽をもたらす遅延を引き起こすためにも、不幸な出来事は必要なのだ。

こうやって考えていくと、私たちは不幸な悲劇を好むというよりも、むしろ、物語を面白くさせる要素として不幸な出来事がついてまわるのかもしれない。そして、好むと好まざるとにかかわらず、物語を通じて不幸慣れしていくことで、現実の不幸を予習していくことができるのかもしれぬ。

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詩学、批評の解剖、書くことについて、映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと、ライターズ・ジャーニー等々、「物語の作り方本」のエッセンスを濃縮した『物語のつむぎ方入門』

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数学の公式集ってあるでしょ。よく使う関係式や定数や演算を、コンパクトにまとめたやつ。あれの物語版だと思ってほしい。

「なぜそうなのか」といった証明や由来は最小限にして、エッセンスしか載ってない。なので非常に薄い(なんと61頁!)。もし必要なら、自分で出典に当たってくれとばかりに参考文献だけは充実している。

この61頁に、「読者の興味をどうやって興味を惹くか」の基本的なセオリーがまとめられている。小説、マンガ、映画、演劇、どのジャンルにも共通して、物語を面白くするプロットの作り方がある。そして、そのプロットをどう転がせば、読み手や観客の魂を震わせ、深い感動をもたらすかが紹介されている。

いわば、物語作家の虎の巻なのだが、公式集であるが故に、注意すべき点がある。要点というか骨子しか書いていないので、不慣れな人には不親切かもしれぬ。

だから、本書の想定読者は2種類になる。

想定読者1:物語の作り方知っている人

まず最初は、ある程度こうした「面白い物語を作る方法」を知っている人だ。

物語作家や字書き、あるいはネーム作家をやってて、セオリーはある程度知っている。その人の本棚にはシド・フィールド『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと』とかキング『書くことについて』とかフライ『批評の解剖』があるかもしれない。

物語を面白くするセオリーには名前がある。アリストテレスの3幕とかホラティウスの5幕とか、ヴォネガットの「穴の中の男」、キャンベルの「ヒーローズジャーニー」、プロットポイント、伏線の9パターン、チェホフの銃とマクガフィン、スノーフレーク法などよりどりみどりだ。

こうしたセオリーを俯瞰して、自分の持ってる武器だけじゃなくて、もっと幅広く揃えたい人には、宝のカタログに見えるだろう。ちょっと見れば自分がモノにしている方法か、あるいは初見の方法論か見分けられるはず。知らない方法論を見つけたら、そこで紹介されている文献に当たればいい。

想定読者2:「自分にとっての」面白い物語を持っている人

次の人は、自分がハマった面白い作品を持っている人だ。

小説であれ映画であれ漫画であれ、心の底から「面白い!」と断言できる物語を知っている人だ。有名だからとか新刊だからといった理由で選ぶのではなく、面白いから読みたい・観たい人に勧めたい。

おそらく、なぜそれが面白いのか、漠然としてて説明しにくいかもしれない。「ちゃんと言えないけれど、なぜか好きなんだ」という人がこれを読めば、ずばりハマった理由(セオリー)が書いてある。

そして、シェイクスピアからもののけ姫まで、面白くするセオリーを応用した作品が大量に並んでいる。なので、自分がハマった作品を面白くする方法から、自分が知らない(でも同じセオリーで面白くなっている)別の物語を逆引きすることだって可能だ。

逆に、お薦めできない人は、全くの初心者だ。本書は「入門」と銘打っているが、中身は濃厚かつ幅広く、その短さもあって読み流してしまうかもしれない。公式集だけで数学を学ぶ人がいないように、本書だけでプロットを学ぼうとしても無理がある。

解説の元となっている文献にあたるか、あるいは、解説で紹介されている他の作品そのものを味わうことで、「面白さ」をモノにしてほしい。



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