統計の「正しさ」とは何か『統計学を哲学する』


N/A

確率・統計についてモヤモヤしているこの感覚、伝わるだろうか。

コイン投げで喩えるならこうだ。

  • コインを投げ続けると、表と裏の出る数は、同じ回数に近づく ←分かる
  • 次にコインを投げると、表が出る確率は1/2だ ←分からない

歪みのないコインを投げ続けたデータを見ると、表が出る確率は1/2に近づいていくだろうが、それは次に表が出る確率が1/2であることを意味しない。この2つは違うものなのに、同じものとして扱われてることにモヤモヤする。

もちろん、この発想は一般的ではないことは承知している。だから公言せずに独りでモヤモヤしていた。現実世界から得られたデータを数学的に裏付ける統計学こそが最強の学問であり、「科学的に証明された」とは「適切な統計的処理により結論にお墨付きが出た」と同義だと自分を納得させてきた。

ところが、このモヤモヤ、私だけではないらしい。本書を読むことで、私がどこで間違えていたかが分かった……と同時に、このモヤモヤこそが統計学を哲学する箇所であることも見えてきた。

富くじのパラドックス

私は、「コインをたくさん投げて得られた」統計データの話と、「理想的なコインならこんな結果になるはずだ」という理論上のモデルの話を混同していたのだ。

  • 観測されたデータから導かれる傾向に基づく「統計モデル」
  • 理論的な仮定を前提として数学的に導かれる「確率モデル」

両者の違いは、富くじのパラドックス(lottery paradox)だと、見えてくる

 富くじのパラドックス

  ・100枚のくじがある

  ・あたりは1枚で、残り99枚ははずれ

  ・100人に対し、くじを1枚ずつ配る

観測されたデータから判断する統計モデルでは、一人一人のくじを独立した事象と見なす。そのため、「その人が持っているくじが外れである確率は99%」という判断を下すことになる。

ベイズ統計を用いると、事後確率は0.99になる。もし「事後確率0.99以上はその仮説が正しいと判断する」というルールを採用するならば、「その人が持っているくじは外れである」となる。

この評価は個々のくじに対するものであり、全体(1枚はあたりがある)ことが反映されていない。統計モデルからすると、100人の全員に対して「はずれ」と判断しても、問題ないことになる。だがこれは、前提と矛盾する。

一方、確率モデルでは「あたりは1枚ある」ことを前提に確率を計算する。100人全てについて、「あたりを持っている確率」を再分配する形で考え、観測データに基づいて「ある人がはずれである確率が高い」という情報を更新しつつ、「誰かはあたりである確率が存在する」ことを維持していく。

いま、「100枚のうちあたりは1枚」という前提で話しているが、実際に統計が適用されるのは現実だ。くじの総数もあたりの数も分からないし、引いた結果が必ず出るとは限らない。それにもかかわらず、「確率99%」は「確率100%」で正しいとしてしまっているのではないだろうか

「いや、99%と100%は違う」というツッコミはあるだろうが、くじの数を一億枚に増やしてみよう。はずれる可能性は99.999999%になる。もちろん現実での統計値は、1億回も取れない。

統計の「正しさ」とは何か

この、統計で「正しい」とはどういうことか?

この疑問に正面から答えたのが本書だ。推定値の偏りのなさや帰無仮説の判断、尤度やp値など、統計学の「正しさ」を掘り下げていくと、認識論的に「正しいとは何か」という哲学の問題になる。言い換えるなら、「統計学はなぜ哲学の問題となるか」という疑問に対し、統計学と哲学の両方から迫ったのが本書だ。

また、一口に統計学と言っても、それは一枚岩の理論を指すわけではなく、ベイズ主義や頻度主義といった様々な理論が含まれる。それぞれにおける正当化のアプローチは異なっており、数学的な証明には還元されない哲学的な問い(=調査の対象となる世界がどのようなモデルとなっているか?)が待ち構えている。

一方で、「『正しさ』なんてどうでもいい、次の予測ができればいい」というプラグマティックな立場もある。世界の正しいモデルを追求するよりも、次のコインの裏表が分かればいいという深層学習からのアプローチだ。では、AIから得られた結果は「正しい」と呼べるのか?呼べるのであれば、何を根拠に正当化されるのかといった問題がある。

ベイズ主義、頻度主義、深層学習といった理論や技法を横軸とし、それぞれの正当化の根拠を掘り下げ、統計学と哲学の限界がどこにあるかを明らかにする。

例えばベイズ主義の場合。ベイズ統計は、仮説やモデルそのものを正当化しない。代わりに、そのモデルを前提として、仮説やパラメータがどれだけ妥当なのかという信念を、観測データに基づいて更新していく。

その結果、「どのモデルが観測データに適合するか?」といった比較検討にも適しているといえる。しかし、これは「どのモデルが『正しい』か?」というよりも、むしろ、「どのモデルが観測データを最もよく説明できるか」という話になる。

これは、ぶっちゃけ「正しさ」とは、観測データと既存の理論との整合性に還元されているのかもしれない(乱暴すぎるかも)。つじつまが合うようにモデリングして、それまでのデータや理論の蓄積とより整合性が取れている数値を、「正しい」とみなしているのではないか……と懸念する。

この「正しさ」を一歩間違えると、再現性の危機や研究グレーの世界になる。[科学研究はどこまで信用できるか]で書いたが、「正しさ」をはき違える例は枚挙にいとまがない。

テセウスの船のパラドックス

モヤモヤの奥にあるものが、テセウスの船の喩えだ。

  1. テセウスが乗っていた船を構成する板は一枚ずつ新しい板に交換される
  2. すべての板が交換された後、その船は元の船と同じと言えるのか?

「同一性とは何か」を提起する哲学の問題なのだが、これを科学研究の在り方についてなぞらえている。科学者とはテセウスであり、自分が乗っている理論(=船)で研究を続けていく。新たな観測データや、別のモデルや仮説、解釈に合わせて、元の理論との整合性を取りつつ、部分修正していく必要がある。

たとえ損傷が激しくても、船を降りて、いわば外側から全体をオーバーホールすることはできない。乗り続けたまま、補修していくほかはない。

私がモヤモヤしているのは、整合性を取っている箇所になる。

科学者は、新たなデータや仮説と、現在の理論と合っていない箇所の整合性を取ろうとする。つまり、新しい部分と理論が関連している箇所だ。いわば船の外壁に近く、海という現実に接している部分だ。

そして、船の内側に行けば行くほど、「実績がある」とか「証明済み」として顧みることがなく、その定数や方程式は、パラダイムシフトでもない限り検証されない(むしろ、その定数や方程式に整合するように、解釈やモデルが改変されるといっていい)。

しかし、その内側の部分に、「確率99%」で正しいとしてしまっている箇所があるのではないか?事実としては「1枚あたり」があるはずなのに、見落とした仮説が混ざっているのではないかと考える。

その結果、理論の継ぎはぎでは整合性が取れず、理論と合わないどころか、矛盾したデータが無視できないほど出てきたため、「黙って計算だけしてろ」と開き直る科学者まで登場する始末だ。

この検証をするためには、最新のデータで理論全体を内側から再テストする必要がある。ただし、できるのは船に乗っている科学者ではない存在―――充分な計算量と膨大なデータ処理能力を持ち、人のバイアスからフリーであるAIにやってもらうと面白いかもしれぬ。

ただし、そうした検証が可能だとして、出てきた結果の何をもって「正しい」とするのかという泥臭い問題は、相変わらず哲学の領域に残されている。



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映画の意味を理解する『映画分析入門 Flim Analysis』

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『時計じかけのオレンジ』より

観た人なら思い出したくもないあの嫌なシーンだが、観てない人にも不穏さは伝わるだろう。

本書によると、キューブリック監督は、光源を若者たちの背後に置くことで、彼らの頭を黒で表現したという。この技巧によって、横たわる老人に対して、暴力を振るう彼らが人間性を失っていることがよくわかる。

「映画を批評的に見るためには、どうすればよいか」という疑問に対し、「映画は意味だ」と喝破するのが本書になる。冒頭はこの文章から始まる。

映画とは技巧(テクニック)と意味との結婚である。セットを作り、俳優に演技を指示し、カメラの位置を決め、撮影した大量のショットを編集する時、映画製作者は単に物語を語っているのではない。「意味」を作っている。

そして、製作者が意図する「意味」を分析的に解釈することが、批評的な見方の第一歩になるという。

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本書は二部構成となっている。

第一部では、物理的なアプローチ(カメラ、音響、美術)から「何を見ればいいのか」を掘り下げる。『シャイニング』 『鳥』『エイリアン』『羊たちの沈黙』 『ファイト・クラブ』など70作品を俎上に、「なぜこの映像なのか」「なぜこのセットや技巧を使っているのか」を問いながら、それらが意図している意味のレベルから明らかにする。

第二部では、批評的な枠組み(歴史、政治、思想)から「どう見ればいいのか」を解説する。ポストモダン、ジェンダー、エスニック、サイエンスなど、文化や社会を解釈するための価値体系を、映画の道具立てで語り尽くす。

意味の次元から見ることができるようになれば、違った角度から映画を楽しむことができる。映画を見る「引き出し」が増えるのだ。

例えば、映像のメタファーだ。

『シャイニング』のテーマの一つに、獣性と文明(人間性)の葛藤があるという。

雪に閉じ込められた景観荘(オーバールックホテル)で次第に人間性を失っていくジャックの物語がメインの筋だが、本書では、彼の妻子の後ろ姿を採りあげる。赤いフード付きのコートを着て生垣の迷路を歩く妻の姿や、無精ひげと乱れた髪が毛むくじゃらのジャックは、赤ずきんと狼を想起させる。

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『シャイニング』より

私たちは獣であるが、様々な圧力により、市民の皮を被っているに過ぎない。(先住民の呪いであれ、禁酒生活のフラストレーションであれ)ひとたびその皮が剥がれたら、その下の獣性が剥き出しになる―――そういう「意味」が含まれているというのだ。

ジャックの「獣性」は映画の後半で思い知らされることになるが、その前段として赤ずきんがあったことは知らなかった。もちろん、この母子が生垣の迷路を歩いたシーンは覚えている。だが、私の心に(意識させないまま)赤ずきんのメタファーが刷り込まれていたことは、本書を読むまでは気づかなかった。

本書がユニークなのは、製作者の意図しない意味も掘り当てている点にある。

あたりまえだが、映画に出てくる画像は全て編集されている。監督が意図した通りに演じられ・撮られ・編集されているのだから、「意図しない意味」の入る余地なんて無いのでは?

本書によると、見方によって、製作者の意図しない意味は現れてくるという。

物語は常に、ある語りの視点から語られる。

そこから私たち観客は映画を見るのだから、ある意味で、世界を特定の方法で見ていることになる。そして、映画なら必ず視角がある。映画の全体であれ、それぞれのショットであれ、視覚の構造があり、それが意味を作り、特定の価値観へと入り込むのかを決めるのだという。

例として、ヒッチコック『鳥』が挙げられる。

小さな町を舞台に、鳥が人間を襲い始めるという筋立てだ。物語は、この町を訪れるメラニーに焦点を当てている。自立した女性で社交的で恋愛にもポジティブなのだが、行く先々で鳥に襲われる。

極端なハイアングルショットで撮られるメラニーは、最終的には男性による保護が必要な弱い存在として描かれているという。他にも、息子に対し支配的だった母親が、鳥の攻撃で取り乱し、フレーム内の背景に小さくなるドリーショットがあるという。

最初は大きく、積極的・支配的だった女性たちが、鳥の攻撃によりパニックに陥り、萎縮し、守られる立場となる。一方で、小さく・被支配的だった男性たちが、冷静さを保ち、秩序を守ろうとする(映像の中でも大きく映される)。

『鳥』は1963年の作品だ。インタビューによると、ヒッチコックは彼女たちを受動的で従属的な女性にしようと意識したわけではなく、単にホラー映画を作ろうとしただけだという。

しかし、ヒッチコックが育った保守的なカトリック文化の中では、性的に独立した女性は罰せられた。『鳥』においては、そうした女性が文明にとって危険な存在として描かれている。ヒッチコックは無意識のうちに、映画の中に彼の価値観や想定を持ち込んだのである。

確かに、言われてみるとヒッチコックの作品に、彼の価値観が切り取られているのかもしれない。会社のカネを横領して逃亡した先で殺されるのは女性だし、東西陣営のスパイ陰謀に巻き込まれても、最終的にはアメリカ合衆国が正しかったというオチだ。

様々な映像技術や事例を通じて、これまで見てきた映画を別の観点から捉えなおしたり、これから見る映画をより多面的に味わうことができる。

それはそれで素晴らしいことなのだが、これやり過ぎると、映画を楽しめるのだろうか?という気になってくる。映画に限らず、作品を楽しむとき、作者の意図や、作品の文化的背景には、あまり目を向けないようにしている。なぜなら、そこを分析的に踏み込もうとすると、作品世界から一歩引いてしまうからだ(より「メタ」的に見ると言ってもいい)。

ほらアレだ、「作者の気持ちを答えなさい」を念頭に出題文を読むのと一緒だ。作者の気持ちなんてどうでもいい、この物語に脳天までどっぷり浸かりたいのだから、俯瞰の視点は脇に置いておきたいというやつ。

さもないと、「この表現はどういう効果を狙ったのか?」という問いを常に抱えることになり、鑑賞そのものが答え合わせになってしまう。私の場合、小説でよくやらかす失敗だが、これは不毛だ。

だから本書は、映画を分析して、批評を書く人にとってはバイブルになるだろうが、純粋に映画を楽しみたいという人にとっては注意が必要な一冊になる。映画の意味が分かることと、映画そのものを楽しむことは、バランスを取る必要があるからね。

あるいは、既に見た作品をもう一度楽しむときには、『映画分析入門』は最良のガイドとなるかもしれない。



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人生を豊かにする(かもしれない)名言集『ささる引用フレーズ辞典』

いい言葉にはパワーがある。

ふと目に留まったフレーズに励まされたり、油断しているときに胸に刺さったりしてくる。不安なときに思い出して前を向くための道しるべだったり、心を動かし、ポジティブな気分をさらに強化する触媒だったりする。強い言葉じゃなくても、言葉に強くさせられることがある。

そういう、言葉のストックがある。迷いを断ち切りたいとき、気分をアゲたいとき、深淵を覗き込みたいとき、それぞれの効能を見込んで、読み直す。すると、私専用のレシピのように効いてくる。そんな成分強めなのがこちら。

疲れた大人に、よく刺さる『心にトゲ刺す200の花束』
苦しくて辛いとき寄り添ってくれる一冊『絶望名言』
若い頃の自分に教えたい名言集『他人が幸せに見えたら深夜の松屋で牛丼を食え』

疲れ気味のおっさんなので、ポジティブなやつは苦手だ。やまない雨はないとか、あきらめなければ夢はかなうとか、キラキラしすぎてて眩しい。

それよりも、辛くて苦しいときに、絶望の底を見させてくれて、「まだマシかも」と思わせてくれる名言のほうが良く刺さる。

今回紹介するのは、清濁併せ呑むタイプのやつ。本書で出会った、火力高めの好きなフレーズはこちら。

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  • 悲観は気分、楽観は意志(アラン)
  • 誰もがそれぞれの地獄を耐える(P.ウェルギリウス)
  • 大きな棍棒を手に、穏やかに話せ(セオドア・ルーズベルト)
  • 良い女の子は天国に行ける、悪い女の子はどこへでも行ける(H.G.ブラウン)

ポジもネガもひっくるめて、刺さるフレーズや、かっこいい寸鉄、思わず引用したくなる名言ばかりを集めたやつ。以前に紹介した同著者の『エモい古語辞典』の通り、格調高め・古典多めになる。

「人生」の名フレーズ

いい言葉には磁力がある。

ある名言が別のフレーズを思い出すきっかけとなる。私の内側に蓄積された言葉を引き寄せる磁石となる、そういう名言集なのだ。せっかくなので、本書で紹介された言葉と、そこから引っ張り出されたフレーズを並べてみよう。

まず、本書で出会った刺さる言葉はこれ。

ことしから丸儲けぞよ娑婆遊び(小林一茶)

小林一茶は50代後半で脳梗塞に倒れ、一時は半身不随になり、言語障害にも陥ったのだが、九死に一生を得た後に詠んだのがこれ。もう死んだようなものだけど、拾った命だから、後は生きてるだけで丸儲け、娑婆で遊びつくそうぜというやつ。

ん?

この「生きてるだけで丸儲け」は明石家さんまの座右の銘のはず(長女の「いまる」もここから名づけたという)。

1985年8月12日、日本航空123便が群馬県の高天原山ヘ墜落し、520名の死者を出した史上最悪の事故があった。明石家さんまもこの便に搭乗予定だったのだが、「オレたちひょうきん族」の収録が早く終わり、123便をキャンセルして、一つ前の便にしたのだというエピソードを思い出す。

小林一茶や明石家さんまほどドラマチックではないかもしれない。けれど、「今日は残りの人生の最初の日」という心もちでやってゆきたい。

「恋愛」の名フレーズ

恋愛モノの名言が厚めなのもいい。

恋、恋人、初恋、恋人と逢う、愛、遠距離恋愛、失恋、片思い、嫉妬、キス、性行為、性欲、結婚、夫婦、友情……と、多彩なテーマに分けられている。

特に気に入ったのはこれ。

好きなものは呪うか殺すか争うかしなければならないのよ(坂口安吾)

兎のように長い耳を持つ耳男と、美しくも残酷な夜長姫の物語なのだが、恋愛の本質を射抜いていると思う。同じ本質なら、私はこちらを推したい。

恋は戦!
恋人たちの間にも明確な力関係が存在する!
搾取する側とされる側
尽くす側と尽くされる側
勝者と敗者
好きなったほうが、負けなのである!!
(かぐや様は告らせたい 第1話)

嫁様に告白をしたのも私だし、プロポーズしたのも私だ。「男が女を好きになるほど、女は男を好きにならない」という至言の通り、連戦連敗、負け戦だらけの人生なのかもしれないと考えると、ちょっとは気が楽になる。

「心」の名フレーズ

幸福や悲しみ、怒り、笑い、希望など、「心」をテーマにした名フレーズも沢山ある。

この辺りは、編者と私の趣味がズレてて楽しい。生きることにおいて何を価値とするかについては、それぞれの人生経験によって選び取られる言葉が変わってくるから。

例えば、「復讐」をテーマにしたフレーズとしては、スペインの有名なことわざを持ってくる。

優雅な生活が最高の復讐である 

17世紀のイギリスの詩人ジョージ・ハーバートの言葉で、他者からの悪意や敵意に対し、怒りや報復で応じるのではなく、相手への執着を断ち、自分の人生を豊かで満足の行くものにすることこそが、最も効果的な「復讐」になる……という考えだ。

憎くてキライな奴のことを考える時間こそが、無駄で害悪だという考え方は分かる。だが私は、ジョン・ウィック(キアヌ・リーヴス)のこれを推したい。

復讐をしてもしなくても
大切な人は帰ってこないので
復讐した方がスッキリするんじゃないかな
ジョンウィック/キアヌ・リーヴス

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名フレーズの元祖

意図してなのか偶然か、私が知ってる名フレーズの元祖(元ネタ?)に出会えて嬉しいものもあった。「生きているだけで丸儲け」もそうだが、人生の真理は共通的なので、経験を積むほどこの真理に近づくからこそ、名言は近似するのかもしれぬ。

例えば、清少納言のこれ。

説経の講師は、顔よき。講師の顔をつとまもらへたるこそ、その説くことのたふとさもおぼゆれ。
(講師は顔がいい男にかぎる。顔を夢中になって見ていられるおかげで、説く内容も尊く感じられる)
清少納言「枕草子」第三一段

出典元は忘れたけれど、キャバ嬢のマンガで、こんなやりとりがあった。

「なんであんなゲス男に?」
「クズみたいな男でも、顔がいいとなんか許せる」

金銭感覚ゼロとか、暴言を吐くとか、生活がだらしないとか、クズみたいな男はいる……んだけれど、ただ一つ「見た目が良い」というだけで、なんか許してしまう。それは許しちゃだめなんだけれど、分かる(ハロー効果の一種なのかもしれない)。

あるいは漱石のこれ。

前後を切断せよ、
妄りに過去に執着する勿れ、
徒らに将来に望を属する勿れ、
満身の力をこめて現在に働け
(夏目漱石)

ロンドンに留学していた漱石が、孤独や言語の壁、文化的な違いに心を病んでいた頃の手紙だという。この頃の異文化体験が彼の個人主義に影響を与えたとされている。

ん?

これ、私がtumblrで拾った釈迦の名言と近似してる。これだ。

“Do not dwell in the past, 
 do not dream of the future, 
 concentrate the mind on the present moment.”

(過去に囚われるな
 未来を夢見るな
 今の、この瞬間に集中しろ)

漱石が釈迦のこの言葉を知って使ったのか、釈迦の言葉だという私の認識が間違っているか、あるいは単なる偶然かは分からないが、真理であることに変わりはない。あるいはエピクテトスの「過去と未来に囚われず、今だけに集中しろ」と言っているので、そこから持ってきたのかもしれぬ。

こんな感じで、芋づる式に名フレーズから名言、過去の刺さった言葉の棚卸ができる。いわゆる名言集の名言集だ。

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アメリカ文学の最高峰であるフォークナー『響きと怒り』を読んだので、可能な限り言語化してみる(脳汁は出た)

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二十世紀アメリカ最高の作家と評されるウィリアム・フォークナー。

その最初の傑作である『響きと怒り』を読んだのだが、正直これ、面白いと言っていいのか、分からない。

1回目の通読に、何度も読み直しさせられたり、辻褄の合わないフレーズを理解するのに苦労させられた(後にそれはフォークナーの超絶技巧であることが判明する)。仕掛けだらけの難解さに加え、同名の別人が登場し、読み手の混乱に拍車をかける。

「この”クエンティン”って、あのクエンティンだよな?」などと呟きながら、行ったり来たりするうちに、散りばめられたピースが組み合わさり、物語の全容が浮かび上がってくる。300ページの長編小説を読み通すのに一週間もかけたのは珍しい。

さらに、全てを読み終えたいま、改めて1ページ目から読み直している。河出書房の新訳だけでなく、岩波文庫とも読み合わせながら読む。歯ごたえはあるものの、噛みしめると滋味あふれる、中毒性のある読書なり。

意識の流れを体感する

第一印象を一言で表すと、ピカソのヴァイオリンだ。

Pablo Picasso, 1912, Violin and Grapes, oil on canvas, 61 x 50.8 cm, Museum of Modern Art.jpg
By Pablo Picasso - [1], PD-US, Link

「ヴァイオリンと葡萄」パブロ・ピカソ、1912

ヴァイオリンがどんなものかなんて、みんな知っている。写真でも実物でも、いくらでも見ることができるから。だが、「ヴァイオリンとは何か?」「ヴァイオリンを『見る』とはどういうことか」を考える時、私たちはヴァイオリンの様々な側面―――渦巻きのあの形、胴体の木目や弦、特徴的なf字孔―――などを思い浮かべる。

ピカソのヴァイオリンは、そうした断片を組み合わせて、手で触れられそうな立体を構造化するゲームをしている気にさせられる。キュビズムは、様々な側面から表現したモチーフをキャンバスという同一平面上に展開している。多視点を融合し、形態の断片からの再構築を促している。

フォークナーは、ピカソが絵画でやったことを、小説でやっている。

つまりこうだ。『響きと怒り』では、キャディという女性がヴァイオリンになる。20世紀初頭にアメリカ南部の没落貴族に生まれ、性的に自由奔放でありながら母性的な魅力も併せ持ち、崩壊する一家の象徴のような女だ。

物語の中心でありながら、直接的な語り手としては登場しない。なおかつ、物語の進行とともにキャディは一家から遠ざかり、その不在だけが強調されるようになる。

彼女は、三人の兄弟(ベンジー、クエンティン、ジェイソン)の目を通して語られる。愛情と安心の源泉だったり、純粋さと葛藤の対象だったり、一家の没落の原因として語られるのだが、各人の思いや立場によって歪んでいる。そのため、信頼できない語り手として読み解くしかない。

彼女のイメージ、声、におい、触れた感じを呼び覚ますさまざまな縁は残されており、それらをトリガーにして記憶が蘇り、語り手の「いま」の内面に、描写に、直接挿入されてゆく。時間や論理は線形ではなく、フラッシュのように瞬く。「意識の流れ(stream of consciousness)」というやつだ。

ピカソは各部分の断片からヴァイオリンを描いたが、フォークナーは三人の意識の流れからキャディを描く。読み手は、三人の断片からキャディの存在と不在をありありと感じ取ることができる仕掛けになっている。

『響きと怒り』の難解なところ

その一方で、読むほうにも骨折りを必要とする。咀嚼しやすい一口サイズに調理された文章を期待すると、ひどく難解に感じるだろう。

まず、冒頭からしてよく分からない。

くるんとした花がさく場所たちのあいだの、柵のすきまから、打っている人たちが見えた。その人たちは旗があるところに歩いてきて、ぼくは柵にそって歩いた。ラスターは花の木のそばの草のなかでさがしていた。その人たちは旗をぬいて、打っていた。それから旗をもどして、テーブルに行って、一人が打って、もう一人が打った。

すぐに分かるのは、この文章に目的語が無い点だ。「何か」を打ったり、「何か」をさがしているのだが、それが何なのか書かれていない。読み進めていくうちに、打っているのはゴルフボールで、探しているのは25セント玉なのは分かるのだが、この章では、目的語―――すなわち、人物の意図や動機を推察するワード―――が欠けている。

しばらくすると分かるのが、第一章の語り手はベンジーで、三十三歳で、知的障碍者であることだ。まともな会話ができず、うめいたり叫んだりするだけだ。もちろん言葉なんて知らない。そんな障碍者が語り手となったとき、どのような読書体験となるのか?フォークナーは、ベンジーの見たもの、聞いたことを「そのままの形」で描写することで再現する。

しかも、何かがおかしい。ひとつの語りの中で、冬の描写や春の情景が連続してつむがれている。ベンジーのお世話係の名前も違う。子ども時代としか思えない出来事も、「いま」として語られている。太文字で印字されている箇所が、過去の回想なのかと思いきや、その過去も複数に飛び飛びなので、いつの話なのか分からなくなる。

一見、ランダムに切り替わる場面転換は、ジョーゼフ・ヘラー『キャッチ=22』を彷彿とさせる。極限状態かつ脱出不可能におかれた主人公が時系列に語った物語を切り刻み、シャッフルして構成された不条理小説だ。彼の視線は正確で、思考がクリアでまともに見えるほど、語りのカオス度にゾっとさせられる。

だが、ベンジーの思考は、支離滅裂では無いようだ。知的障碍者なのは周囲とのコミュニケーションだけで、彼の思考の焦点はただ一つに定まっている―――姉のキャディだ。

「いま」の時点ではキャディはいない。ベンジーは、姉を愛し、姉を追い求めていたが、もういない。知的障害である故、ベンジーは姉の名前をつぶやくことすらできない。だから彼は、ゴルフをする人たちを執拗に見つめ、その口から「キャディ!」と発せられる音を聞くことで彼女を思い出そうとする。

ともするとベンジー意識の流れに吞み込まれそうに思えても、キャディの思い出と不在によって「いま」に立ち戻る。この作品が喪失と破滅の物語であることが、うすうす分かってくる。

意識の流れ=思考の横滑り

ジョイスやウルフやフォークナーで有名なので、「意識の流れ」は文学臭がぷんぷんするが、日常でもよくあるやつ。何かのイメージや臭いをきっかけとして、昔のことを思い出したり、今の状況と関係のない思考に横滑りしたりすることはあるだろう。人は、放っておくと、とりとめもないことを思い浮かべたり、しなくてもいい考えに取り憑かれたりする。あれだ。

その思考を垂れ流すだけなのか、読者に与える影響をきちんと計算して書くのかは、作家の力量になる。

たとえばスティーヴン・キング。怪物が潜んでいる暗がりに向かう人は、その暗がりから想起される過去の「いやな出来事」を思い出す(いじめられた記憶や、家族を失った事故とか)。最初は独り言として「」に書かれていたのが、地の文で執拗に内面が掘り起こされ、気づいたら「いま」目の前に怪物いる……というパターン。

原文だとイタリック体で、翻訳版だとゴシック体で記載されている。キングフリークスにはお馴染みのゴシック体を用いた回想と現在との接続は、『響きと怒り』が発祥だったと考えると面白い。

他にも、「どこかで読んだ気がする」感が呼び覚まされる。

例えば、キャディらの母・キャロラインの毒親っぷりと嫌味ったらしい繰り言は、ガルシア=マルケス『百年の孤独』で4ページにわたり一度も句点「。」を使わず延々と愚痴をこぼすフェルナンダの長広舌そっくりだ。

あるいは、読点を一切使わないまま、過去の対話と眼前の光景を重ね合わせるクエンティンの独白のような地の文は、コーマック・マッカーシー『越境』で何度も目にした。

これ、過去に経験した作品が、「いま」と重なったことがある人にはピンとくるだろう。映画に喩えるなら『スターウォーズ』や『アキラ』を初めて観る人が感じるデジャヴと似ているかもしれない。

ストーリーの骨子はベタな、それこそ新聞の三面記事にありそうなやつだ。ピカソのヴァイオリンがありふれたモチーフであるように、この家族に起きる破滅も、よくある悲劇にすぎぬ。

それを、語り手からダダ漏れる騒々しい声を重ね合わせ、炙り出そうと四苦八苦するうちに、この悲しみが、主観的な出来事として私の内側で再構成されてゆく。キャディに対するベンジーの思いが溢れ出し、彼の意識を埋め尽くすとき、その悲しみを、「そのままの形」で感じることができる。

どこに持ってゆくこともできず、何かに昇華することもできず、それでも人生が続くことを受け入れるしかないことを思い知ることになる。

シェイクスピアは、妻の死を嘆くマクベスにこう言わせた。

Tomorrow, and tomorrow, and tomorrow,
Creeps in this petty pace from day to day,
To the last syllable of recorded time;
And all our yesterdays have lighted fools
The way to dusty death. Out, out, brief candle!
Life's but a walking shadow, a poor player,
That struts and frets his hour upon the stage,
And then is heard no more. It is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury,
Signifying nothing.

明日また明日、そしてまた明日と、
一日一日、小刻み這いずってく。
〝時〟そのものが消滅する、終末のその瞬間まで。
そしてわれらのすべての昨日は、
愚者が死に塵に還る道を照らしてきた。
消えろ、消えろ、短いロウソク。
人生はただ、うろつき回る影法師、あわれな役者。
出番のあいだは舞台の上で大見得を切り、
がなり立てても、芝居が終われば、
もうなんの音も聞こえぬ。
人生とは愚者の語る物語、
響きと怒りすさまじいが、
意味するところはただの無だ。

人生とは「愚者の語る、響きと怒りに満ちた物語」であるならば、そこからタイトルを得た本作は、人生の虚無をそのままの形で受け取ることができる。



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「本を読む人は高収入」「読書は学力と人格を高める」そして「読書家は早死にする」は本当か?『読書効果の科学』

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読書は素晴らしい!なぜなら……

 ・本を読む人は高収入
 ・読書する子ほど成績が良い
 ・優れた小説は人格を涵養する

なんてことを耳にする。読書のメリットは、世界各国における横断的・継続的な調査において有意な相関が見出され、「科学的に証明された」なんて聞かされる。その後のセリフは「だから本を読め」と続く。

本当?

このブログを読む人は、多かれ少なかれ、読書に興味を持っている方だろう。そんな皆さんが、自分がしていることの「効用」を高らかに謳われると、くすぐったいような反面、疑わしく思われるかもしれない。あるいは「収入や教養のために読んでるわけじゃない」なんて反発するかもしれぬ。

そして、カンのいい方なら、「疑似相関」とか「因果の逆転」といったキーワードを思い浮かべるかもしれぬ。

正解。

なので、思い浮かべた方は以下を読まなくてもいい。

本書は、世の中にはびこる「読書有用論」の根拠となっている統計調査を片っ端から掘り起こし、その「科学的」なところをバッサリ斬り落とした上で、統計から読み取れることを解説し、そこから得られる提言を紹介する。

本を読む人は高収入

まずこれ、「読書と年収」について。

「1ヶ月に本を何冊読みますか」という質問の答えと、その人の年収を比べる調査だ。ここで言う「読書」とは、物理的な「本」に限らず、Kindleなどの電子書籍や、オーディオブックも含めたものになる。

「読書と年収」については、日本と米国で調査されており、共通した結果が得られた。これによると、年収が低い人ほど「本を読まない」と答える傾向があったという。そして、高所得世帯ほど、読書量が多いという結果だった。

「読書量が多いと年収は高い」は本当か(マイナビ、2022)

おとなの読書習慣調査2022(オトバンク、2022)

Who doesn’t read books in America? (Pewresearch、2021)

では、本を読めば高収入になるのか?

「本を読んでお金持ちになろう」という意識高い系の主張に、著者はクギを刺しにくる。「読書」という活動が「年収」に影響を与えるという仮説を立証するならば、一時的なアンケートによる横断調査ではなく、過去を振り返った縦断調査が必要だと説く。

その結果がこれ。

子どもの頃の読書が成人の意識・意欲・行動に与える影響(濵田秀行ら、2016)

結論から言うと、子どもの頃の読書行動と、大人になってからの年収との相関は限定的だったという。本を読むとお金持ちになるという仮説は立証されず、年収に最も大きな影響があったのは、「親の収入」というミもフタもない結果だった。

では、なぜ「本を読む人は高所得」なのか?

これは、因果が逆で、「読書量→年収」ではなく、「年収→読書量」なのではないかと説明する。収入が低いと本を買ったり読んだりするゆとりはなく、ある程度以上になると、そうした余裕が生まれてくるのではないかという。

読書という行動は、本を買う金銭的な余裕だけでなく、その本を読むための時間的・精神的なゆとりを必要とする。もちろん、収入をやりくりして本を買う人もいるだろうが、少数派なのだろう。

本を読む子は成績が良い

次にこれ、「読書と学力」について。

さすがにこれはYESだろうと思ってたら、面白い結果を見せられた。小学校6年生と中学校3年生を対象とした全国学力テストの成績と、「親の蔵書数」「子の読書時間」の調査だ。

全国学力・学習状況調査(教育課程研究センター、2023)

予想通りなのが、「読書は好き」と答えた子どもの成績が良かった点だ。そして、親の蔵書数が多いほど、子の成績も良いという傾向が見られた。これは、国語だけでなく、理科や数学においても同じ傾向があったという。

「読書が好き」なら国語の成績も自然に良くなるように思えるし、国語の成績が良いということは、数学や理科の出題文を読み解く力もあり、結果的に理数の成績も良いということは想像に難くない。

そして、「親の蔵書数が多い」ことからは、(相対的に見て)知的活動に盛んで、子の教育に力を入れる親像が見えてくる。もちろん、全員が全員そうだとは言えないが、そういう傾向がありそうだという予想はつく。

予想を裏切ってくるのが、「1日に何時間、本を読みますか?」への回答だ。

もちろん、「ほとんど読まない」子の成績は芳しくないが、「30分から1時間」と答えた子の成績が良かったという。しかし、驚いたことに、「2時間以上」と答えた子の成績は低くなってくる。この傾向は、小学生、中学生、国語、数学、理科の全てにおいて見られたという。つまり、本を読む子ほど成績は良くなるが、1日に2時間も3時間も読むような子は、逆に成績が悪くなる。

でもこれ、冷静に考えて見るとその通りかもしれぬ。

いまどきの子は忙しい。やれ予習だ復習だ、塾だ習いごとだとスケジュールが埋まって、自分の時間というものがほとんどない。さらに隙間の時間を埋めてくるスマホがいる。そんな中で1日に2時間も3時間も本を読んでいるということは、それだけ何かが犠牲になっているはずだ。

それは学校の勉強であり、睡眠時間になる(案の定、何時間も読む子の睡眠時間はダントツで低かった)。

でもこれ、思い出してみると、想像がつく。私の場合、授業そっちのけで本を読んでたし、定期試験前は特に捗った(現実逃避ともいう)。キングやクーンツの「厚さ」は完徹に丁度よかった。そりゃ勉強もせずに本ばかり読んでたら、成績悪くなるわな。

こうしたデータを受けて、著者は「読書は学力を向上させるかもしれないが、読みすぎは良くない」と至極まっとうな指摘をする。

読書は人格を高める

さらにこれ、「読書と人格」について。

「古典や名著を読むことで人格を高めることができ、読書は豊かな人間性をもたらす」なんて言う人がいる。あるいは、「小説を読むことで他人の考えに共感し、相手を理解する力が育つ」なんて言う人がいる。

本を読むと人格や共感力が養われるのだろうか?読書を高尚な何かと勘違いしている人だけが、そういうことを口走っているだけのように思える。本を読んでも下劣なことが大好きな人はいるし(私だ)、本は読めても空気が読めない人がいる(私だ)。

ところが、本が読める人は顔が読めるという論文がある。

「顔が読める」すなわち「相手の表情からその人の気分を推察する」能力を測るテストがある。これだ

The "Reading the Mind in the Eyes" Test (Baron-Cohen, S. Wheelwright,2001)

アジア版 Reading the Mind in the Eyes Test の感情価による刺激分類(坂田浩之、2020)

“Reading the Mind in the Eyes” ずばり「目から心を読み取る」テストで、RMETとも略されている。

「目は心の窓」や「目は口ほどにものを言う」という諺があるように、昔からまなざしを通じて相手の感情を読み取ろうとしてきた。その心理テスト版がこれ。

具体的には目の部分だけの画像を見せて、その画像の周囲には、「イライラしてる/嫌味ったらしい/不安で心配/友好的」の選択肢がある。被験者は画像の人がどんな感情を抱いているかを、4つの中から1つ選ぶ。

画像と感情の組み合わせは色々で、「ふざけてる/真剣になってる/楽しんでる/リラックスしてる」という気分的なものや、「押しの強い/消極的でためらいがち/真面目で本気/慎重で注意深い」といった感情というより性格的なものがある。

様々な被験者でテストしてみたところ、「相手の気持ちを読む」スコアと読書との相関性が見出せたという研究がある。

Bookworms versus nerds: Exposure to fiction versus non-fiction, divergent associations with social ability, and the simulation of fictional social worlds(Raymond A. Mar,2006)

Leisure reading and social cognition: A meta-analysis.(Mumper, Micah L.、2016)

これによると、特にフィクションを読む人は、RMITのスコアが良いという結果が得られている。

では、小説を読むと、相手の気持ちを推し測る人になれるのかというと、結論を急ぎ過ぎだろう。

確かに、小説の魅力の一つに、登場人物の心の動きに共感したり反発するといった感情移入がある。だから小説を読むほど共感力が増し、相手の気持ちを思いやる人間になる―――なんて、学校の先生なら言いそうだ。その後のセリフは「だから本を読め」と続く。

でも、こう考えられやしないか?もともと、他者の感情や心の動きに興味があり、共感したがっている性格の人が、物語に楽しみを見出しているのではないかと。小説は、登場人物の感情を深掘りするメディアでもある。だから、共感力が高い人ほど、面白さを強く感じるだろう。

先の研究では、ノンフィクションを好む人は、RMITのスコアが悪かったという。つまり、相手の感情に興味が薄いからこそ、フィクションを敬遠し、ノンフィクションに惹かれているといえる。そういう人に「共感力を高めるためにフィクションを読め」と強要するのは無理筋だろう。

読書家は早死にする

本を読むと死亡リスクが増すという研究論文がある。

ここまでくると、眉に唾する準備はできているだろう。

読書と健康の関係についての研究は、真っ二つに分かれている。

一つは、読書をするとストレスが軽減され、知能が向上し、ひいては身体の健康に寄与するという内容だ。

A chapter a day: Association of book reading with longevity(Avni Bavishi 、2016)

米国の研究報告で、50歳以上を対象とし、読書を習慣的に行っているかを12年間に渡り追跡調査した結果になる。

これによると、「本を読む人は、全く読まない人と比べて約2年長く生きる可能性が高い」といった結果が得られている。本を読むと共感力が増して、社会的なつながりが深まり、孤独感が軽減される―――その後のセリフは「だから本を読め」と続く。

一方、日本の研究では真逆の結果になる。65歳以上を対象とした大規模なもので、日本老年学的評価研究という財団法人まで作られて行われた研究だ。

Prospective Study of Engagement in Leisure Activities and All-Cause Mortality Among Older Japanese Adults(Kobayashi,T、2022)

こちらは、余暇活動をアンケートしている。ゴルフやゲートボールやハイキングといったアクティブなものから、手芸や読書といった体を動かさない活動が、その人の健康や寿命に、どのような影響を与えているかを調査したものだ。

6年間に渡る追跡調査の結果、読書を趣味と答えた人の死亡率は高かったという。

では、読書が死亡リスクを引き上げているのだろうか?

これも因果の逆転だろう。65歳を超えてゴルフやハイキングに勤しむ高齢者なら、心身ともに充実したエネルギッシュと言える人だろう。一方で、心身ともに衰えて、身体を動かすようなことができなくなり、「趣味と言えば本を読むくらい」の人もいる。

さて、同じ高齢者であっても、エネルギッシュな人と、趣味は読書くらいしか選べない人と、どちらが6年以内に死んでいる可能性が高いかというと、言わずもがな。読書が死亡リスクを引き上げているのではなく、体調不良で死に近い人でもできる趣味が読書であるに過ぎない。

新しい読書のありかた

本書は、小中学生の先生や、教育行政に携わる人に向けて書かれている。「本を読む効用は確かにあるけれど、それは緩やかなものだから、向いてない子に無理強いせず、長い目で見守ってほしい」というメッセージが込められている。

そして、読書にまつわる様々な神話をメッタ斬りにして、「科学的に証明された」エビデンスがいかに歪んでいるかを暴き出す。

ちょっと笑ったのが、フィンランドの読書事情。国を挙げて読書に力を入れており、アンケート調査で「読書を習慣的にしている」と回答する子どもが圧倒的に多く、学習到達度がOECD上位である理由はそのおかげだとされている。

しかし、そのアンケートで「読書」とされるものは幅広く、マンガや雑誌のみならず、電子メールやネットフォーラム、twitterやfacebookのフィードも「読書」に含まれる(ネットフォーラムはYahoo!知恵袋みたいなものだという)。その「回数」をカウントしている。

一方で、日本の読書アンケートでは、「1ヶ月に〇冊読みますか」という質問になる。「冊数」という質問の仕方から、「読書とは本を読むこと」が前提となっている。

「読書」が電子やオーディオブックといった様々な媒体になっている昨今、この問い方は時代遅れだといっていいだろう(そして、その結果から「日本人は本を読まなくなった」と推論することも時代遅れだといっていだろう)。

では、統計情報から得られた、科学的に正しいと推定できる読書家の像はどのようなものだろうか。本書では読書のあり方を提言の形でまとめている。統計調査から浮かび上がる読書家の像は、しごくまっとうで、ある意味、面白みのないものになる。

  • 効果は緩やか:読解力や語彙力の向上など、確かに効果はあるものの、それは緩やかなもので、万能でもなければ即効性もない
  • 個人差が大きい:合わない子に無理強いするものではない。動画その他のメディアで代替可能
  • 読み過ぎ注意:読書が好きだとしても、時間は有限であるため、読書もしつつ他の活動にも目を向けたい(特に子ども)

本が好きな人は、本が好きな人であるにすぎぬ。教養があるとか、人格者だとかとは関係ない。そういうものを求めて読書する人はいるにはいるが、そんな動機だといずれ本を手にしなくなる。

貴族の嗜みであった平安時代、立身出世の手段として奨励された明治時代、人格を陶冶する教養のための読書は昭和かせいぜい平成まで。知識でも教養でも人格でも、その気になれば全部youtubeで賄える。読書に高尚な何かを求め、それを「科学的に立証された」と言おうものなら、その舌を引っこ抜くのが本書になる。

「読書の効用」を生温かい目で見守りつつ、気楽に読もうぜ、という気分にさせてくれる一冊。




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『ルパン三世 カリオストロの城』を映画館の大画面・大音響で観てきたら100分が秒だった

「さて、面白くなってきやがったぜ!」

「バカヤロウ!そいつがルパンだ、俺に化けて潜り込んだんだ!」

「今宵の斬鉄剣は一味違うぞ」

「奴はとんでもないものを盗んでいきました……あなたの心です」

VHSで1万回、DVDで1万回、金曜ロードショーで10万回くらい観てきた『ルパン三世 カリオストロの城』を、IMAXで観てきた。

ストーリー、セリフ回し、物語の緩急、名セリフ、名シーン、ラストのカタルシス、めちゃくちゃ好きだ。もちろん12万回観たので、次に何を言ってどうなるかは全部知ってる。でもこれは、これだけは劇場で観たかった(それもデジタルリマスター版をIMAXで)。

で、観たんだが、本当に一瞬だった。最初のカジノからラストのあのセリフまで、100分が秒だった(でも考えてみると、あれほどの物語と人物とアクションを100分でまとめるなんて凄いことだと思う)。

映画そのものは一瞬だったが、「なんでこんなに面白いのだろう?」とつらつら考えていると、新たな発見があった。これ、ルパンやクラリスだけでなく、「時計塔」がめちゃくちゃ重要だ。

「いや、時計塔が重要なのはあたりまえでしょ?いろいろイベントもあるし」とツッコミが入るかもしれぬ。もちろんその通りだ。

その通りなんだけど、「物語の構造」と「物理的な配置」と「演出の構造」が重なっているのが時計塔なんだ。以下に説明する。

これ、行きて帰りし物語として見ると、時計塔がその境界に立っている。カリオストロ城が俯瞰で映るシーンには、必ず城が左、時計塔が右に配置されている。なので観客の脳内にはこういう構造になっている。

カリオストロ城ーーーー時計塔ーーーー湖

で、ルパンはローマ水道から時計塔の下を通って城へ侵入しようとする。つまり舞台の右から左に向けて進んでいく。スクリーンが舞台でこれが演劇なら上手から下手に向かってルパンが移動するのが物語の前半の構造だ。

演劇の世界では、上手から下手への移動は、過去への遡行や困難への進行を意味する。ルパンが乗り越えなければならない障害や、過去の出来事を思い出すのは物語の前半にある。

そして、物語の後半では、今度はルパンは城から時計塔へ逃げていく。つまり、下手から上手へ移動する。演劇の世界では、勝利や成功、未来を意味する。

思い出しやすい例を挙げるなら、ルパンがぴよーーーーーーんっと飛ぶシーンは左に飛んでいたし、時計塔へ逃げるシーンは常に右を向いていた。

で、この上手→下手への移動と、下手→上手への移動の区切りは、時計塔の鐘が鳴るときで区切られている。

物語の最初、ボーンボーンと鳴るときに、観客には時計塔の存在が印象付けられ、かつ困難に向けて物語が進むことが示唆される。

そして物語のある重要な場面で、やはり連続でボーンボーンと鳴る。そこでは困難な状況から脱出し、勝利へ向けたスタートの鐘の音になる(さらに、最後に時計塔が鳴るときは、みなさんご存知のあのシーンになる)。

つまり、時計塔の鐘が連続で鳴らされるシーンは3回あり、最初の2回は、物語が進む方向が切り替わったことと重ね合わされている。

宮崎駿の映画初監督作品だが、この構造を意図して作り込んでいたに違いない。私が気づいていなかっただけで、スタジオジブリ作品にも「音響」と「キャラの進行方向」と「物語の構造」との重ね合わせがあるのかもしれぬ。

もはや金ローの定番であるこの傑作、ひょっとすると観たことがない人がいるかもしれない。もし、そんな人がこれを読んでいたら……羨ましい! あなたはこれから、カリオストロの城という大傑作を観るという幸せが待っているから。

そして、この作品を劇場で観たことがないあなた、あなたも幸せな人だ。100分を秒で溶かす体験が待っているから。おそらくあなたも5億回くらい観てきたとおもう。それでも45周年リバイバルが良いチャンスになるはず。

大画面で『カリオストロの城』を観るこの機会、お見逃しの無きよう。



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この本がスゴい!2024

「あとで読む」と思った本が、後で読まれた試しがない。

毎年毎年、おんなじことを言っている。好きで読書しているわけだから、「あとで読む」ことにして積む本は、煩悩の山だとも言える。「いずれ」「そのうち」と言い訳して、自嘲したり開き直る己の愚かさにホトホト嫌気がする。

死を前にして人生を振り返り、己の愚かしさに気づき、改心する人物は、スクルージが有名だ。だが本当は、奇跡も魔法もないんだよ。「もう一度やりなおす」はあり得ない。イワン・イリイチのように後悔したまま、死んでゆくのが現実だ。

もっと怖いのは、生物としての死じゃなくって、読書人としての死だ。

命が尽きるずっと前に、本が読めなくなる。目がかすれ、感性と体力、そして集中力が失われる。寿命よりも健康寿命が短く、健康寿命よりも読書寿命はもっと短い。積読には賞味期限がある。読書余命が尽きたあと、長い長い余命のあいだ、後悔しながら積読山を眺めるのは、いくら後悔しても足りないだろう。

かつて知識人として仰ぎ見た先輩たちが、「最近の〇〇は質が落ちた」「イマドキの〇〇はダメ」と嘆いているのを見ていると、「ダメになったのはお前の感受性じゃないの?」と問いたくなる。

味読という言葉があるように、味わえるうち、味覚が残っているうちに、知ること、楽しむことに貪欲でありたい。

一方で、「本なんて気楽に読めばいいじゃない?」というツッコミもあるかもしれぬ。のんびりと、読める時に読める作品を手にすればいい。その通りだ。だが私は、気楽にも読むし貪欲にも読む。

だから、読める「いま」のうちに、読む。未読の本に手を出し、既読の一冊を読み返す。そんな心持ちで、この一年を読んできた。

この記事では、2023年12月~2024年11月に読んできたなかで、「これは!」というスゴ本を選んだ。ほとんどが、誰かの呟きで巡り合えた一冊だったり、強力にお薦めされた作品だったりする。私一人では、けっしてたどり着けない傑作ばかりだ。わたしが知らないスゴ本を読んでいる「あなた」のおかげ。ありがとうございます!


努力できる才能こそが才能だ
『ルックバック』藤本タツキ

N/A

「才能がある」というのは誉め言葉だと思ってたけど、結果を出している人には、誉め言葉にすらならない。よくいう「天賦の才」や「ギフテッド(gifted)」という言葉には、生まれつきの特別な能力を強調するニュアンスがある。

だが、才能を開花させている人は皆、努力を積み重ねている。「好きだから続けられる」というのはその通りだけど、結果に結びつかないときや、成長が見えないときに、それでも研鑽を重ねられるか。

結果を出せる人は、生まれつきの得意に加えて、後天的な努力を継続できるマインドセットを持っている。だからこそ、成長の停滞期でも黙々と頑張れるのだと思う。

絵の分野では特に顕著で、最初から高い技術やセンスを持っている人もいるが、描き続けてフィードバックを受け取り、それを改善に活かすプロセスが、最終的な成果を左右する。この「描き続けること」こそが、才能なんだ。

この、努力を続けられる才能は、何によって焚きつけられるのか。『さくらの唄』では鬱屈した日常から目を背けるためだったり、『かくかくしかじか』のスパルタ教師の強制だったり、あるいは『ブルーピリオド』では藝大受験の名を借りた自己実現のためだったりする。

『ルックバック』は、嫉妬になる。

自分より絵の上手い奴がいるのが許せない!という嫉妬に衝き動かされて、他の全てを犠牲にして、ひたすら絵の練習に励むシーンがある。学校の授業中も、家に帰ってからも、休みの日も、四六時中、起きているときは全て絵を描き続ける。描き続ける背中と、積み重ねられたブックと教則本で、彼女がどれだけ努力をしてきたかが語られる(小学生だぜ?)。

彼女の努力は、やがて一つの出会いをもたらすことになる。その出会いを契機に、マンガという共通した夢を目指すようになる。誰かの背中を追いかけるとはどういうことか、ものを創り出すということの苦しみ、いまのままではいられないという葛藤、そして心からの感謝を味わうことになる。

表紙だけでなく、かなりのシーンが「背中」を映している。机に向かい、ひたすら描く(セリフは少なく、まさに背中が語る物語なのだ)。

もし、未読の方がおられたら、幸せもの。ぜひ読んで欲しい。「心揺さぶられる」ではなく、心揉みしだかれるレベルなので、うかつに読むと大変なことになる(140頁の中編なのだが、読むたびに揉みしだかれる)。

劇場で2回観た傑作。アマプラでは前半だけ10回観てる(「私、部屋から出てよかった」のところまで)。


高品質の課題を定義する技術
『イシューからはじめよ』安宅和人

N/A

間違ってはいないけれど、的外れのことに努力を注いだ結果、労力と時間だけが失われ、結局、結果に結びつかない―――そんなことに悩んでいる人向けの一冊。例えば

  • お客の要望を100%満たすことに全ての努力を捧げる
  • 「問題かもしれない」ことを片端からトライ&エラーで解決する

あながち間違いには見えないのだが、生産性が悪すぎる。無限の体力と時間があれば、数をこなしているうちに当たるかもしれない。だが、リソースが限られている現場で的を射るには技術が必要だ。

そして、この的を射る技術を言語化したものが、『イシューからはじめよ』である。

イシュー(issue)とは、一般的に「課題」「問題点」などを意味する。ビジネスの上で明確に特定され、解決していくことが目指されるものになる。本書では「本当に白黒はっきり区別する必要のある問題」と述べられている。

「問題かもしれない」と言われることが100あるとすれば、本当に白黒はっきりさせるべき問題は、せいぜい2つか3つくらいになるという。

普通の人なら、がんばって100を分析 ⇒ 優先順位付け ⇒ 対処していこうとするだろう(それだけでヘトヘトになるはずだ)。これを絞り込み、適切な問題にする方法論が、本書の目的になる。ノリ的にはこれだ。

「世界を救うために1時間与えられたなら、55分を問題を定義するのに使い、5分で解決策を見つけるだろう」

要するに「課題の質を上げよ」ということなのだが、アインシュタインのセリフらしい(真偽不明)。間違った問題に全力投球する愚を犯すより、「これは何に答えを出すためのものか」「そもそも求めるレベルで答えを出せる課題か」といった自問を繰り返すことで、イシュー度(=課題の質)を高めてゆく。

『イシューからはじめよ』は、この55分をどう使うかに全振りしている。読むだけでなく、自分の今の目の前の仕事で実践していくことで、課題の質を磨き上げることができる。

では、具体的にどうしていけばよいか?

本書では様々な手法が紹介されているが、ここでは地球温暖化問題について、「So What?」を繰り返していくことにより、イシューである度合いがが高まっていく例を挙げる。

この手法は、漠然としたイシュー候補に対して、「So What?(だから何?)」という仮説的な質問を繰り返すことで、検証すべきイシューが磨かれていくやり方だ。トヨタ自動車のカイゼン活動における「なぜなぜ5回」のアプローチに似ているが、「なぜなぜ5回」は原因究明のためである一方、「So What?」は課題見極めのためにある。

最初の見立て①の仮説に対し、「So What?」を投げかけることで、②の仮説になり、さらにその②に質問することでより具体化され③になり……と、イシュー度(白黒はっきりさせる具合)が高まっているのが分かる。


見立て


本質的な問い


①地球温暖化は間違い


何を「間違い」としているのか曖昧


②地球温暖化は世界一律に起こっているとは言えない


地球の気候に多少のムラがあるのは当然


③地球温暖化は北半球の一部で起きている現象だ


地域が特定されたので白黒つけやすい


④地球温暖化の根拠とされるデータは、北米やヨーロッパのものが中心であり、地点にも恣意的な偏りがある


地域がさらに特定されたので、検証のポイントが明確になる


⑤地球温暖化を主張する人たちのデータは、北米やヨーロッパの地点の偏りに加え、データ取得方法や処理の仕方にも公正さが欠けている


「データ」に加えて「取得方法・処理の仕方」に問題があるという仮説があるため、答えを出すべきポイントが明確なイシューとなる

p.97 「So What?」の繰り返しによるイシューの磨き込みより

①の「地球温暖化は間違い」といった焦点の定まらない主張だと反論しようがないが、⑤にまで磨き込まれていれば、白黒はっきりさせるために何をどう検証すればよいか、見えてくる。

「So what?」の他に、「空・雨・傘」といった技法が登場するため、気づく方もいるだろうが、これはマッキンゼー&カンパニーのコンサルになる。ただし、本書が他のマッキン本と異なるのは、完全に血肉化されているところだろう。

本書は、「コンサルティングファームの報告書のリード文に最終的に何を書くか」を丁寧に解説したものだ。だがこれは、そのまま、「どの課題に取り組めば、成果が出たといえるか(そしてそれをどう伝えるか)」という現場の問題に応用できる。

与えられた問題に疑問をいだかず、唯々諾々と取り組んでいるうちに終業時刻となる。怖いのは、頑張って残業しても終わらないところ。ドラッカー『現代の経営』にこうある。

重要なことは、正しい答えを見つけることではない。正しい問いを探すことである。間違った問いに対する正しい答えほど、危険とはいえないまでも役に立たないものはない

間違った99の課題を正しくクリアしようとする行為は、端的に言って「悪」だ。だから、正しい1つの課題を見出すことに注力しよう。

どうせなら成果が出る仕事に取り組もう。価値のある仕事とは、質が高い課題に宿るのだから。


このホラーがすごい!2024 国内編1位
『禍』小田雅久仁

N/A

ホラーのプロが選んだ「本当に怖いベスト20」の国内編第1位がこれ。

ホラーのプロとは、ホラー作家だったり編集者だったり、海外ホラーの翻訳家だったりホラー大好きな書店員だったりする。ベスト20のラインナップを見る限り、相当の目利きであることが分かる。

予備知識ゼロで飛びついたのだが、結論から言うと、これはすごい。

『禍』は、7つの短編が収録されている。それぞれの短編にはモチーフがあり、それに因んだり、そこを契機として物語が転がったりする―――思いもよらぬ方向に。

モチーフは、口、耳、目、肉、鼻、髪、肌と、どれも人体にまつわるものばかり。

私にも、あなたにもある、ごくありふれたパーツだ。そして、普通の人の日常から描かれるのだが、最初は微細な違和感だったものが、どんどん嫌悪感に膨らんでいって、どうしようもないほど「汚された」気分にさせられる。なんとも言えず気持ちが悪く、胸の奥がえずくようにモヤモヤする。

例えば、耳がモチーフの短編を読むうちに、知らず知らず自分の耳を触りたくなるだろうし、肌がモチーフの短編だと、服の布地と触れている私自身の肌が粟立ってくるのが分かる。鼻の話を読みながら、何度も鼻をつまんで「ある」ことを確認した。物語に感覚が侵食されていくのがたまらなく嫌らしい。この汚物感、短編を読み終えるごとに増してゆく。「怖い」というよりも薄気味悪い小説なり。

もう一つ。ここに出てくる女がいい。吐息の湿り具合やむっちりした肉感、全裸に点々と浮かぶ黒子が生々しく伝わってくる。バスに乗り合わせた女が押し付けてくる肉の重みと温みを感じるシーンや、深夜のエレベーターにうずくまって甘い匂いを立てているところなんて、一歩間違えると恐怖以外の何物でもない。

ふと、二の腕や腰に女の体がねっとりと柔らかく押しつけられるのを感じた。気づかぬうちにバスが発車してロータリーを回りはじめており、遠心力で女の肉が重たく押しよせてくるのだ。しかもその感触は、まるで女が故意に溢れんばかりの肉をこちらにあずけてきているかのようだったが、そんなはずはない。こちらが意識しすぎているのだろう。そうおのれに言い聞かせつつも、女と触れあっているあたりに籠もる、じりじりと炙ってくるような温みを無視することができなくなっていた。

『禍』「柔らかなところへ帰る」より

現実ではありえない感覚へ連れていかれるのは小説ならではの醍醐味だろう。映像化やコミカライズは可能だろうが、おそらく、どことなく間抜けな絵面になるかもしれぬ。読み手の想像力を振り回し、とんでもないところに投げ飛ばす奇天烈な短編でもある。


このホラーがすごい!2024 海外編1位
『寝煙草の危険』マリアーナ・エンリケス

N/A

海外編でぶっちぎり1位だったのがこれ。今年読んだホラーで私も推したい。

ふつう、物語って、現実から逃避するために読む。現実はそれだけで酷い世界であり、頭の弱い女は利用され、貧乏な老人は虐げられ、居場所のない子どもは食いものにされる。ポリティカル・「イン」コレクトネスな世間だから、物語の中に逃げこみたくなる。

せめて物語のなかだけは、予定調和に進んでほしい。ご都合主義と言われてもいい、悪いものが潰えて、弱き人、良き人が救われる、そんなストーリーになってほしい。

そんな現実逃避を踏みにじってくるのが、これだ。

頭のイカレた老人が、通りでいきなり排便する(しかも下痢気味)。通り一帯に悪臭がたちこめ、近所の人が袋叩きにするのだが、どちらも救われない。ホームレスの老人も、正義感に満ちたその人も、その通りに住む全ての人が、救われない。

一応、老人の呪いという体(てい)で話は進むのだが、それを目撃した人たちは次々と不幸に遭う。強盗に遭って破産する、飼い猫を殺して食べた後自殺する、解雇される、店をやっていけなくなる、大黒柱が事故で死ぬなど、酷い運命が待っている。

悪いことがおきるとき、それに釣り合うカウンターが用意されているのがセオリーだ。だが、何のバランスもない。そんなに非道なことをしていないのに、したこと、していないことに見合わない非道な目に遭う。

そして、物語なら、なぜそんなことになったのか、因果の説明がある。本当に「呪い」なら、呪う側の出自や呪われる側の過去が語られるはずだ。だが、無い。

悪いことが起きることに何の理由もない、これが最も恐ろしい。なぜなら、それは現実で嫌というほど味わっているから。

これが最初の短編「ショッピングカート」のお話だ。20ページに足らないのに、ひどく嫌な気にさせられる。ラストの救いようのないナナメ上の展開にゾッとするあまり、引き攣った笑い声が漏れる。

こんな話が次から次へと畳みかけられる。世界が狂っているのか、私が狂い始めているのか、確かめてみたくなるストーリーばかりなり。

私のホラーベストと、最近怖かったやつ

すぐれたホラーを読むと、「生きてるッ」って実感できる。これは、登場人物が酷い目に遭えば遭うほど、「生きてるッ」って思う。現実にすり潰された心に、まだ、怖いと思える場所が残っていることに、ホッとする。

これは「文学ラジオ空飛び猫たち」の藤ふくろうさんのコメント「どんどん数が増えてくるイキイキとした死者」「異常心音が大好きで録音して聞きまくるフェチ」で惹かれて手にしたら大正解だったふくろうさん、ありがとうございます!)

よいホラーで、よい人生を。


科学者は嘘吐きではない。嘘吐きが科学者にいるだけ
『サイエンス・フィクションズ』スチュアート・リッチー

N/A

詐欺、バイアス、過失、誇張など、様々な手口により、科学の世界では悪質な不正が蔓延しており、再現性の危機に瀕していると警鐘を鳴らすのがこれ。

例えば、pハッキング

査読ウケの良いp値を求めるあまり何度も実験するのは論外で、結果が得られない実験(NULL結果)として公表するべきだという。だが、科学者はそうしたネガティブな結果を避ける傾向にあり、NULL結果はお蔵入りとなる。そのため、出版されているデータはポジティブな方に偏るというバイアスが発生するというのだ。

あるいは、HARKing

本書では「テキサスの狙撃兵」と呼んでいる。納屋の壁を適当に撃って、弾丸が集中的に当たったところに的の絵を描いて、ここを最初から狙っていたと主張するやり方だ。詐欺師なら自分のやっている詐欺を自覚しているが、科学者は無自覚にこれをやっている分、悪質だという。

さらには、データの改ざん

ヒトの胚のクローンのデータを捏造したファン・ウソク、STAP細胞の画像を改ざんした小保方晴子、論文の撤回件数の世界チャンピオンの藤井善隆が紹介されている。権威ある学術誌である『サイエンス』や『ネイチャー』に掲載されたことで、世界中の注目を集め、詮索にさらされ、結果、不正が暴かれることになった。

最高峰の学術誌でないならどうか。生物学の40タイトルの学術誌から2万を超える論文を調査したところ、フォトショップを利用したファン方式のトリミングや、小保方流の画像の切り貼りが検出され、3.8%の論文に問題が発覚したという。

または、チェリーピッキング

新しい抗がん剤となる化合物の薬効を検証するとき、予想された結果が出ない場合、実験者は仮説を疑うのではなく、自分の技術が未熟なせいだと考える。特に、教授が考えた仮説を助手が実験する場合がそうだ。

助手は、あきらめることなく何十回も実験をくり返し、ついに望む結果を得ることになる。教授は大いに喜び、助手を高く評価するだろう。問題は、誰も悪意を持っていないことだ。むしろ、熱意と野心を持った教授のもとで懸命に努力する若き研究者の美談にすら見える。

だが、やっていることは結果の出なかった実験(NULLの結果)の棄却だ。不都合な事実に目を向けず、売れる(=論文になる)サクランボだけを結果とするチェリーピッキングという技法だ。

悪意の有無に関係なく、自分が携わっている分野の常識が「正しいはず」という前提で、データを分析し、結果にまとめる。さらに、その結果を元にして「正しいはず」という思い込みの元、別の実験が行われ、バイアスが再生産されてゆく。

こうした確証バイアスが分野全体に及んでいたのが、アルツハイマー病のアミロイドカスケード仮説になる。この仮説は、アミロイドβの蓄積が病気の要因とするもので、莫大な研究資金が投入されてきた。だが、アミロイドβと病気は、因果ではなく相関関係であることが明らかになっている。

にもかかわらず、アミロイドカスケード仮説を支持する研究者がいる。かつて教科書で学び、慣れ親しんだ「常識」があまりにも強固であるため、バイアスに気づけないのだ。マックス・プランクがいみじくも言ったように、「古い間違った考えは、データによってではなく、頑迷な支持者が全員死んだときに覆される」まんまだ。

性善説に則った査読システムは、限界に達しているという。

右肩上がりに出版される莫大な論文数や、研究プロジェクトの巨大化、インパクト・ファクターにより決まる人事査定、「論文数=ボーナス」とするインセンティブ、資金提供する企業との癒着、「出版か、さもなくば死を(publish or perish)」とする風潮がある。

これらが、査読による学術論文の品質を歪め、ひいては科学システムの本性を捻じ曲げているという。

査読する人は、そのデータが改ざんされていることなんて考えない。まっとうな科学者がまっとうに研究をした成果なのだから、当然、そのデータは正しいものだとして受け取る。もちろん、データの整合性や生データの乖離をチェックするツールはある。だが、そうしたチェックを見越して改ざんされたデータの場合、悪意を見抜くことはできない。

こうした問題解決のためには、オープンサイエンスを突破口にせよと説く。

オープンサイエンスとは、科学的プロセスのあらゆる部分を、可能な限り自由にアクセスできるようにする試みだ。研究論文の全てのデータと、それを分析するために使用した全てのコードやソフトウェア、関連する全資料が公開され、ダウンロード可能とする。

実験を始める前に、仮説はワーキングペーパーの形でオープンサイエンスフレームワークに登録される。タイムスタンプ付きで記録されることにより、HARKingを困難なものにできる。全ての論文は出版される前のプレプリントの形で公開され、学術誌の編集者は自分が掲載したい論文を選ぶキュレーターのような役割となる。

そして、「再現できなかった」「仮説が否定された」ことを公開するNULL論文の拡充を提唱する。「刺激的だが根拠が薄い」研究よりも、「退屈だが信頼できる」研究を重視し、再現研究により多くのインセンティブを与えることによって、歪められた科学を正せという。

オープンサイエンスの試みは重要だろうし、科学の品質保証の一つとして、取り入れていく必要があるだろう。

科学の歴史は、発見と反証の歴史だ。

天動説、瀉血、エーテル、フロギストンなど、広く受け入れられていた理論が、後に誤りであったことが明らかになった例は枚挙にいとまがない。アルツハイマー病の仮説が誤っていた例を始め、科学的発見が間違っていたエピソードが多数紹介されているが、誤りを発見できたというまさにその点で、科学はきちんと機能していると考えていい。

また、改ざんしたり虚偽のデータを捏造する科学者がいるのは認める。科学者だって人間だから、カネや名声の誘惑に負ける人だっているはずだ。だがそれは、嘘吐きの科学者がいるだけであって、科学者が嘘吐きであることにはならない。

そして、エーテル理論の話と同様に、嘘吐きの嘘はいずれバレる。バレたからこそ、本書で紹介されることになったのだから。全ての嘘を即座に暴けるほど、今のシステムは洗練されていないが、遅かれ早かれ、誤りは正されていく。

科学は人間の活動であるが為に、人間の欠点である偏見や傲慢や不注意や虚栄心などが刻み込まれている。だが、科学は人間の活動であるが故に、自分で自分の誤りに向き合うことができる。

科学の「正しさ」とは何か?本書にツッコミを入れながら読むと、さらに一層面白い。

本書は、骨しゃぶりさんのブログ「9割の人が知らない再現性の危機 - 本しゃぶり」で知った。翻訳版でようやく読めた骨しゃぶりさん、ありがとうございます!)


山形浩生訳で再読したら驚くほど面白かった
『1984年』ジョージ・オーウェル

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有名だけど退屈な小説の代表格は、『一九八四年』だ。全体主義による監視社会を描いたディストピア小説として有名なやつ。

2017年、ドナルド・トランプが大統領に就任した際にベストセラーになったので、ご存知の方も多いだろう。「党」が全てを独裁し、嘘と憎しみとプロパガンダをふりまく国家が、現実と異なる発表を「もう一つの事実(alternative facts)」と強弁した大統領側近と重なったからかもしれぬ。

これ、学生の頃にハヤカワ文庫で読んだことがある。「ディストピア小説の傑作」という文句に惹かれたのだが、面白いという印象はなかった。

主人公のウィンストンは優柔不断で、あれこれグルグル考えているだけで、自ら行動を起こすというよりも、周囲の状況に流され、成り行きで選んでゆく。高尚な信念というより下半身の欲求に従っているように見える。

「党」を体現する人物との対話も、やたら小難しく何を言っているのかさっぱりだった。

例えば、「二重思考(double think)」という概念が登場する。「2つの矛盾する信念を同時に抱き、かつ両方とも受け入れる」というのだが、そんなことが可能だとは思えなかった。党のプロパガンダを洗脳するだけで充分じゃないの?と考えていた。

ところが、山形浩生訳の『1984年』を手にしたら、今までの読みが一変した。

主人公はノスタルジックな記憶にしがみつき、現実が何なのか分からなくなっている不安定なキャラが浮かび上がる。「書く」ことで自分を確かめようとする態度がいじらしくも哀れに見える。

  オレンジにレモン、とセントクレメントの鐘

  お代は三ファージング、とセントマーチンズの鐘

  お支払いはいつ、とオールドベイリーの鐘

  ……

折に触れて言及される詩の意味も分かった。子どもの頃の童歌だったのだが、中年になったウィンストンは、どうしても続きが思い出せない。その内容のノスタルジックな響きと、続きを思い出させてくれる人たちの立ち位置が秀逸なり。

初めて読んだとき、適当に読み流していたけれど、これ、物語の根幹に関わるキーとなっている。特に最後のフレーズを教えてくれる人物の皮肉が利いている(まさに「過去を支配する者は今を支配」する!)。これを伏線として読み直すことができたのは、本書のおかげ。

恋仲となるジュリアも、別のキャラになった。

乙に澄ました女というイメージが壊され、いたずらめいた下品さが醸しだされ、性に(生にも!)忠実であることがよく伝わってくる。原文は読んでいないが、翻訳だけでここまで生き生きとキャラが立ってくるのか、と驚いた。彼女がウィンストンに持ちかける内容に似合った口汚さがいい。

そして「党」の主張も、よく理解できるようになった。これも、分かりやすい翻訳のおかげ。

二重思考の「矛盾する信念を同時に抱く」とは、その信念を適用させる対象をコントロールすればいい。辞書を編纂し、人々を教育し、その言葉が指し示す範囲のうち、党に不利益となるものをキャンセルする。ある概念を適用する範囲を狭めることで、本来であれば並び立たないような表現を成立させるのだ。

例えば「自由(free)」という言葉について。「フリーランチ(無料の食事)」や「アレルギーフリー(アレルギー原因物質を含まない)」という意味として使える。しかし、「言論の自由」や「信教の自由」といった使われ方はしない。「自由」という言葉を適用する範囲から、知的や思考を指し示す概念そのものが存在しなくなっているのだ。

それでも、昔を知る人は「知的自由」という言葉が成立していた時代を覚えているかもしれない。知的には党に従うのが当然のため、知的自由という言葉の代わりに知的には隷属することになる。

「知的自由」を知る人は粛清されるか年老いて死んでいくだろうが、そこに至るまでは「自由」という言葉は矛盾した使われ方をしているように見えるだろう。アレルギーからの束縛を受けないという意味で自由である一方で、思想や信仰、知的には党の束縛を受けることが「自由」になる。

「矛盾する信念を同時に抱く」という定義のキモはここにある。二重思考というのは、そこに至るまでの過渡期として、推奨される考え方なのだ。「党」が意味付けたい言葉が完全に浸透したならば、そこに矛盾は無くなり、二重思考という概念すら不要となる。

ある時期までは「『自由』という言葉の定義が変わった」といえる。それは「元はこういう意味だった」ことを知っている人が存在することが前提だ。だが、元の意味を知っている人が粛清されるか追放されれば、そもそも「元の意味」なんて存在しないことになり、結果、言葉の定義が変わったことにならない。その状態へ至るまでの過渡期が、二重思考なのだ。

作品は変わらないが、作品を読む「私」が変化する。

別の作品に触れたり、人生経験を通じて識ったことにより、より豊かな読み方ができるようになった。

例えば、意味をコントロールすることで思考を変えることについて。かつて、無邪気にも、そんなことはあり得ないと考えていた。

だが、新しい言葉が古い言葉を上書きすることは、普通にあり得る。

そして、当たり前のことだが、昔の意味を知らない人にとっては、今の意味が全てになる。「スパム」は缶詰ではなく迷惑メールだし、「KY」は捏造報道ではなく「空気を読む」意味に上書きされている。これらはコントロールされたと思いたくないが、全体主義国家がやれば意図的に変えることも可能だろう。

あるいは、ウィンストンが101号室で被る壮絶な恐怖も、より生々しく感じられるようになった。

その人にとって最も恐ろしいものを突き付ける展開は、スティーヴン・キング『IT』やクライブ・バーカー『腐肉の晩餐』を読んだ身としては、気持ち悪い汗が出るほどエグかった。

死んだ方がマシというよりも、早く殺して欲しいと心から願うくらい、「死ぬことが希望」になる。目的は洗脳ではないのだから、これは効果的だろう。

『一九八四年』が、あらためてディストピア小説の傑作だと思い知った。それと同時に、ウィンストンの悲しみに寄り添えるようになった山形さん、ありがとうございます!)


13歳を攻略するマンガかと思ったら13歳が攻略する話だった
『恋文と13歳の女優』じゃが

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『恋文と13歳の女優』第一話より

子役少女とマネージャー、この恋を応援していいものやら。ギャラリーとして見ているこっちがハラハラさせられる。

13歳の中学生と、14歳年上のマネージャー。年上にあこがれる女の子と、彼女の才能を開花させたいと奔走するマネージャー。アイドルマスター的な話なのかと思ってたら、もっと複雑で芸能界の生々しい現実をも見させられる展開に引き込まれる。

天才子役として芸能界でブレイクし、幼いころから大人びた振る舞いをする文乃(あやの)。演技力も抜群で、子役から女優へのキャリアを歩み始めようとしている。

そんな彼女のマネージャーを任されることになった一色(いっしき)。テレビ業界での顔が広く、仕事ができる27歳だが、何かのトラウマを抱えているように見える。

もちろん一色は大人なので、どんなに彼女に迫られても、大人としての態度を保ち続け、やさしさと愛情は違うということを諭そうとする。その一方で、彼女の寂しさやメンタルを支えてあげたいという葛藤が、不幸な記憶を呼び覚ますことになる。

対する文乃は、大人よりも大人びた態度と、持ち前の演技力を駆使して、一色に想いを伝えようとする(この、あざとかわいさが可愛いくていじらしい)。このアンバランスさがめちゃくちゃ惹かれる。

これ、漱石で知った”Pity is akin to love”(同情は愛情の始まり)を思い起こす。文乃の、すこし陰のある家庭環境と、それに触れないように接する優しさは、「可哀そうたぁ惚れたってことよ」になりかねない。同情と愛情の勘違いから始まる恋もある。

危ういんだけど、お互いに立場があることを了承しつつも、相手を大切にしようとする想いが伝わってくる。きっと、文乃の恋は叶わないだろう。そして、彼女を通じ、一色は過去と向き合うことになるだろう。その結果、お互いが傷つくことになるかもしれぬ。それでも、この想いは見届けたいと感じさせられる。

1~2巻はアンリミで読めるし、comicFUZでは無料で第1話が読めるので、ぜひ。


死ぬときに思い出す傑作
『イギリス人の患者』マイケル・オンダーチェ

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死ぬときに思い出す小説の一つ。

あれを読めば良かったとか、これがまだ途中だったとか、未練は必ずあるはずだ。どんなに読んでも足りることはないから。そんな後悔の中で、エピソードや描写を思い出し、読んでよかったと言える作品の一つが、『イギリス人の患者』だ。

映画が公開されたときだから、20年以上前に読んだのだが、いま再読しても美しい。詩的で情緒豊かに紡がれる、四人の男女の破壊された人生の物語だ。

あらすじはシンプルだ。

第二次世界大戦の終わり、イタリア北部の半ば廃墟となった修道院が舞台となる。そこで生活を共にするのは、看護婦のハナ、泥棒のカラヴァッジョ、インド人の工兵のキップ、そしてイギリス人の患者となる。人生のわずかな期間にすれ違う男女が、自身の半生を思い出す。

ただし、けっして読みやすい、ストレートなお話ではない。

時系列は無警告で前後するし、エピソードの粒度や解像度はバラバラだ。後になって、作者が計算ずくでやっていることに気づいて舌を巻くのだが、わざとつかみどころのないようにしている。全ての登場人物から距離を置いた書き方で、読み手が、感情移入させないように仕組んでいる。

例えば、家族の死が登場人物に知らされるシーンがある。普通の物語なら、そんな重要なイベントを出すときは、登場人物が知る時と、読者が知るタイミングを合わせる(その方がドラマチックになるから)。

だが本書は、先に読み手に知らせる。読者には事前予告しておき、後に、登場人物に知らせる。読み手は、普通の小説とは異なり、一歩引いて、枠の中の世界を観察するかのように感情を眺めることになる。これに描写の分からなさ感と相まって、「幻想的な」とか「詩的な」と評されている。

これは「合う人にだけ深く刺さり、そうでない人はそれなりにすら楽しめない」と言われるくらい読み手を選ぶ作品だ。再読すると、そのサービス精神の無さを改めて感じる(若書きだからではない。マイケル・オンダーチェが49歳の脂の乗り切った時に書いた3作目だ)。万人ウケする作品ではないのに、映画公開時、テレビや新聞で激賞されていたのを思い出し、なんだかなぁと呟く(映像美が凄まじいので、そこを評価されたのかもしれぬ)。

じゃぁこれ、世界の描写の美しさだけを目指した、表層的な作品かというと、違う。

世界的に権威ある文学賞であるブッカー賞を受賞するだけでなく、ブッカー賞の50周年を記念して、「ブッカー賞の中のブッカー賞」となったのが本作だ。そんな作品が表層をなぞるはずがない。

4人の被写界深度はめちゃくちゃ浅い。だから、体言止めが多用された彼・彼女の心は手で触れられるくらい露わになる。一方、周囲は朧になる。重要イベントは読者にだけ予告されているので、観察よりは窃視するように見て取れる。作者は登場人物が嫌いなのだろうかと、ふと思う(ただし工兵のキップを除く)。

一方、周囲は霧の中のようにかすんでいる。ピントが全然合わないので書割ですらない。このコントラストが強すぎるので、ストーリーとして何が起きているのかつかみにくくなっている。醒めつつある夢の中で自己はハッキリしているのに、周りがぼんやりしている、そんなもどかしさを感じたことはないだろうか。それに似ている。

じゃぁ読み手を煙に巻くような不親切な小説かというと、そうでもない。

タイトルにもなっている、イギリス人の患者がカギになる。

炎上する複葉機から救い出された時には既に全身が燃えさかっており、地上に激突した衝撃で両足は破壊され、身じろぎもままならない。皮下組織まで熱傷を負い、特にひどいのは脛から上で、紫色を通り越して骨だ。

幸いにも喋ることはできる。とはいえ第二次世界大戦の末期だ。エジプトとリビアの間の砂漠で撃墜されたため、当然、スパイとして疑われる。取調官に対し、イギリス人の患者は、十字軍とサラセン人の歴史のこと、フィレンツェの聖母マリアのこと、キプリングの文体のことを並べ立て、煙に巻く。

唯一燃え残った携行品はヘロドトスの『歴史』で、非常に細い文字で詩句警句、観察日記、備忘録が書きこまれているものの、男の身元が分かる情報は一切無い。

一体、この男は誰なのか?というミステリーが、読み手を牽引する要素となる。男の運命を追っていけば、一応、話のスジは追えるようになっている。けれども、ドラマティックな要素は全て過去の中で、いま進行するのは、終わってしまった愛、戦争、欲望、裏切りを振り返るしかない感情に襲われる。

痛み止めのモルヒネで朦朧となって呟くひと言、ふた言に惹かれる。その言葉にお構いなしに、けれども献身的に尽くす看護婦ハナとの絡みが好きだ。

やがて戦線が移動し、より安全な施設へ移動しようということになっても、男とハナの二人だけは残る。そして、廃墟同然の場所でささやかな生活を始める。

男の人生がどんなもので、なぜそんな運命となったかは、後に明らかになるのだが、私はそれよりも、この二人だけの生活の方が好きだ。後に、この生活に加わるカラヴァッジョとキップの半生も心痛むが、物語スタート時点の、戦争に破壊された人生を拾い上げて、それでも生きている限り生活を続けていく態度が好きだ。

私が死ぬときに思い出すシーンの一つは、ここ。

物語にいくら穴があいていても、女は頓着せず、聞いている男への配慮もしない。とばした章の粗筋など語らず、ただ本を持ってきて、「九十六ページ」「百十一ページ」と言って読みはじめる。ページ数だけが位置を示す標識だった。女は患者の両手を取り、持ち上げて匂いをかいだ。まだ病人臭がする。

瓦礫の山で入れない部屋がいくつもあり、階下の図書室には砲撃で穴があき、月の光や雨が自由に入ってきて、年中ずぶ濡れの肘掛け椅子がある。女は図書室に忍び込み、適当な本を取ってきて、男に読み聞かせるシーンだ。

ここから犬の足の裏の臭いの話になり、彼女の父親の話になり……と取り留めもなく過去が紡がれてゆく(どれも好き)。他にも沢山ある。物語の本筋に関わらない、なんてことのない描写なのだが、惹かれる。誰かの思い出や、他人の夢の出来事を共に眺めるような読書になる。

「誰が何しているのかよく分からない」という人には映画をお薦めする。観て聴く芸術だからこそ、被写界深度は深く、何が起きているのかを映(ば)えるように枠内に収めてくれる。(私を含め)泳ぐ人の洞窟のシーンに心撃たれた人も多いが、ここも思い出してしまうだろう。

何もかもが手遅れになって、自分ではどうすることもできず、ただ、終わるのを待つしかない。それでも、生きている限り、生きていることを続けていくしかないし、生きていくということは、(ここで書くのを含め)語り続けていくことなんだと思わせる。

最期は、こういう記憶と共にしたいと思う傑作。

映画がお好きな方なら、驚異的な映像美でアカデミー賞で作品賞をはじめ最多9部門受賞した『イングリッシュペイシェント』をご存知かもしれぬ。その原作がこれ。美しすぎるこのシーンは、走馬灯の一つになるに違いない(アマプラで観れるぞい)。


ビジネス交渉での虎の巻
『戦略的交渉入門』田村次朗、隅田浩司

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「その価格では厳しい、30%下げてほしい」と、初手から無理な数字をふっかけてくる。それは難しいと答えると、「なぜですか?どの程度なら下げられますか?」と畳みかけてくる。答えに窮すると、「できるのか、できないのか、答えてください。できないなら議論は終わりです」と言い放つ。

価格交渉や要件定義の場で、高圧的な態度で話す人がいる。相手を説き伏せ、自分の思い通りの結論に持っていきたがる。一方的にまくし立てて、質問に質問を重ね、相手に話す機会を与えない。

典型的なパワープレイ、二分法、アンカリングの交渉術である。これらはビジネス上の技法であることを、そもそも知らなかった若いころは、さんざんやられたものだ。顧客だけでなく営業や上司からもやられたことがある。

そして、交渉の「術」だから対策がある。『戦略的交渉入門』には、こうした交渉「術」への対策がふんだんに盛り込まれている。

まず、この質問をすること自体がおかしいことに気づく必要がある。

「30%値引きせよ」と言ってきたのは相手だ。「その価格が厳しい」のはなぜか?価格だけが論点であり、他は交渉の余地が無いのか?そもそも、なぜ「30%」なのか?(30なんてバカの数字じゃねーか!)。

冷静に考えるならば、こうした疑問点が湧き上がり、そんな質問にまともに応対する必要すらないことに気づく。だが悲しいかな、人間は質問されると答えなければならないと感じてしまう生き物なのだ

質問されると、それが思考のトリガーとなって回答を探し始めてしまう。礼儀正しく質問されると、たとえ答える必要のないものでも、社会的礼儀上、無視することができない。その結果、できない理由を考え始めてしまう。

さらに「30%」という大きな数字に引っ張られることになる(アンカリング)。「30%は無理」→「それなら20%ならどうか?」などと、前提も整理しないまま、数字の交渉になってしまう。結果、「アンタでは話にならない。持ち帰って検討してくれ」と言われてしまい、「どうしたらできるか」と「20%ならできるか」が宿題にされてしまう。

そして、できない理由を並べ立てても、その一つ一つを「それをクリアすればできるのか」「どうやったらできるのか」の議論に持っていってしまう。最終的には、「できないできないと文句を言うのではなく、どうすればできるのかを考えるのがあなたの仕事だ」とまで言い放つ。

この返し方は、「説明を押し付ける技術」として、『議論の技術』とともに解説している。「なぜ30%下げられないのか?」という議論の前に、そもそもの言い出しっ屁が「なぜ30%下げて欲しいのか?」を説明する必要がある(立証責任のルール)。そこを端的に聞くことで、押し付けられた立証責任を相手に打ち返すことができる。

このとき、相手の放った質問に質問で答えることになる。よく、「質問に質問で答える」ということは良くないことだと言われる。しかし、この場合は失礼ではない。なぜなら、立証責任は相手方にあるからだ。「どうしてそんな質問が出てきたのか、その理由や背景を教えてください。そうすることで、あなたの質問の意図をつかめますから」と返すのだ。

すると相手は、「価格競争が激しくなってきて~」とか「社内での圧力が厳しくて~」とか理屈を色々と言ってくるだろう。営業担当は即席で理屈をでっち上げるのが上手なので、思わず「なるほど」と思ってしまうかもしれぬ。

『戦略的交渉入門』は、理由にならない理由に納得してはいけないと説く。理由っぽく聞こえる「激しい」とか「厳しい」には、何の数字も根拠もない。「それ、あなたの感想ですよね?」とか「データやエビデンスを出してみろよ!」とツッコミを入れたくなるが、そこは我慢して、「形容詞を説明してもらう」ことに専念せよという。

相手の根拠を疑うようなので、角が立つかもしれないと心配になるかもしれぬ。だが、ここが重要だ。「値引きが必要であるということを社内でも通すために、価格競争においてどんな状況なのか、何がどの程度『厳しい』のか、もう少し詳しく教えてください」というのだ。

相手の主張を支えるデータや根拠を求め、相手に答えてもらう。結果が曖昧であやふやであってもいい。「厳しい状況が~」とか「昨今の情勢で~」といった抽象的であってもいい。「30%値引き」という要求には具体的な裏付けがなことを間接的に理解させ、「その要求で説得することは難しい」といことを分かってもらうために、答えてもらうのだ。

そして、そこで返ってきた言葉は、必ず記録すること。交渉の終了時、メールでの返信時に、その言葉をそのまま使うのだ。「厳しい状況が~」という相手のセリフそのまんまを使う。そしてこちらは、提示した価格が妥当である根拠を、具体的に説明すればいい。

他にも、「できるか、できないかで、答えてください」と二分法で迫ってくる人への対応法や、最重要のリソース「集中力」を確保するためのBATNAなどは、[この記事] にまとめた。人間のバイアスを利用して交渉を有利に進めるやり方と、その対応策だ。

ハーバード・ロースクールで培われた、交渉による問題解決能力の入門書。痛い目に遭った人ほど「あるあるwww」と頷きながら読むに違いない。そして、幸いにもこれから交渉に臨む人であれば、「これ進研ゼミでやった」というガイド本になるだろう。

若かりし頃に知っておけばよかった一冊。


『「あのときやっときゃ良かった」という後悔は、実際にはやれる可能性などなかったのだからソク忘れよう』裏モノJAPAN編集部

N/A

おっさん初心者に向けた名言集。

これは友人の話なのだが、「やれたかも」というのは確かにある。

「飲み会で意気投合した女の子と帰りの電車がたまたま一緒で、飲みなおそうという流れからカラオケへ」とか、「夏合宿の雑魚寝が寝苦しくて抜け出したら、後輩の子がついてきた」とか。

だが、イイ感じなのはそこまでで、「朝まで歌っただけ」とか、「ちょっと雑談してから部屋に戻って寝た」とか、他愛のないものに収束する。

まんざらでもない態度や視線に、選択を間違えなければチャンスをモノにできるはず……だが悲しいかな、ヘタレ童貞は何をどうすれば良いかわからない。ギャルゲ―なら2つか3つの「選択肢」だけだが、リアルは無限だ。深夜、女の子と二人っきりというシチュに、胸の鼓動がドキドキ目先はクラクラ、何も思い浮かばない。

かくして何も無いままとなる。その後の進展もなく(むしろ素っ気なくなる)、「やれたかも」は、「かも」のまま、思い出となる……と、その友人は言っていた。

「あのときやれたかもしれない」―――そんな美しい思い出を、全力でブッ壊しにくるのが、本書である。

これは、飲み屋街でクダ巻いているおっさんの名言集だ。アルコールが入っている分、下卑たものや差別的なヨタも交じっているものの、じんわり沁みるセリフや、刺さる至言もある。表立っては聞けない人生の経験則がこれだ。

例えば、「やりたいことは、やれるうちに」というアドバイス。当たり前といえば当たり前のことなのだが、彼の話を聞くとまた変わってくる。

歳とってからやればいいと思っていても、
いざ歳をとってしまうとしんどくてやらない
(男・48才)

就職して最初のボーナスが出た時、両親に海外旅行をプレゼントしようとしたという。彼が23才で、両親が50前後の時の話だ。ところが両親は、旅行なんて歳とってからでも行けるから、いらないって断ってしまう。

そんなもんかと話は立ち消えになるのだが、月日が経ったいま、あのとき行っておけば良かったと両親の後悔を聞かされる。歳をとると、時間はあるけどしんどくて意欲が無くなってしまうのだと。

これ、わたしの自戒の言葉「あとで読むは、あとで読まない」に通じる。いずれ、そのうち、ヒマになったら読もうと積む本は、必ずといっていいほど、あとで読まない。そうこうするうち、気力が萎えて読めなくなり、積読山に囲まれて衰えていくだろう。問題なのは、積読山に囲まれて死ぬのではなく、死ぬまでの長い時間を、読む気の失せた積読山に囲まれて過ごすことだ。

あるいは、かなり刺さったのがこれ。

今生の別れは 気づかない
(男・59才)

「今生の別れ」とは、これを最後にして、生きている間はもう会うことがない別れのこと。ドラマや映画で、遠い異国に旅立つといった場面でお馴染みかもしれない。酒を酌み交わしたり、ホームで抱き合って泣いたりするあれだ。「今がその時」とはっきり分かっている形で演出される。

でも現実はそうじゃない。そんなドラマチックなものではなく、「あいつ死んだの?こないだ飲んだのに」という形で、突然に訪れる。人は死ぬ。これは絶対だ。だが、いざ死んでしまった時、「なぜ?」と問うてしまう。

だからこそ、人と会うときを大事にしたい。この気持ち、一期一会やね。

せやな!と膝を打ったのはこれ。

親とちがって、先輩は選べる
(男・55才)

人生で誰に一番影響を受けるか―――親とか恩師とかいう人もいるけれど、ほとんどの人は少し上の先輩に影響されているのでは?という。

進路を決めるときや、仕事を決めるとき、身の回りの少し上の人に憧れて決めてきたという。そのとき目指す先輩は、それぞれ違う人だったかもしれないけれど、大なり小なり影響を受けてきたのではないかというのだ。

そして、親や上司は選べないけれど、先輩は選べるという。しょうもない先輩につかまるのではなく、敬えない先輩とは付き合う必要なしと説く。代わりに、「あの人だ!」と言える人を探せというのだ。

これは確かにそうかも。決定的な指針をもらうというよりも、「なんとなく良いかも」という「なんとなく」は、思い返すと先輩からもらってきたような気がする。新しい環境になったとき、無意識のうちにロールモデルを探していた。

これは読書猿『アイデア大全』で紹介されている「ルビッチならどうする?」につながる。人生の師匠・メンターを予め決めておき、行き詰まったときにその人に問うのだ。ポイントは、その人が先輩のような身近な人でなくてもいいこと。既に他界した人でも、フィクションに登場する人でもいい。孟子の「私淑」を実践してきたといえる。

タイトルにもなっているこれは、童貞時代の美しい思い出を殺しにかかってくる。

「あのときやっときゃ良かった」という後悔は
実際にはやれる可能性などなかったのだから、
ソク忘れよう
(男・42才)

このおっさんの理屈はこうだ。

―――もっと色んな女の子と、あのときヤレたのにヤレなかったのがもったいない……なんて悔しい気持ちになることもあるかもしれぬ。

しかし、ヤル気になればヤレたのに、その子とヤレてないというのは、そのときの自分が最適だと思った行動の結果なんだという。どう転んでもその行動に向かっていった末に、やれなかったのだ。だから、最初からその子とヤルという選択肢など無かったことと同じ。

機会損失だと考えるから後悔するって発想になる。初めからそんなチャンスなんて無かったんだと考えたら、後悔することなんてないというのだ―――

その通りなんだけど、ミもフタも無いんだけど、涙が止まらないのはなぜだろう……

人生は巻き戻しても同じ人生だ。

なぜなら、巻き戻される私も、同じように、未熟で童貞で女心を分かっていないあの頃に戻されるだけから。「ループもの」が物語として成立するのは、ループする存在が記憶なり経験を保ったまま、もう一度やり直せるから。

だけど、いま「やり直したい」と考える理由を、言葉にして伝えることができる。なぜ後悔しているのか、後悔しないためにどうすれば良かったのか、かつての自分にメッセージを託せるなら……本書は、そんなおっさんたちの魂の叫びを集めたものかもしれない。

本書は、はてなブックマークでmaketexlsrさんから教わった(maketexlsrさん、ありがとうございます!)。はてブの人たちは、タメになる情報や、鋭い分析をしてくれて本当にありがたい(ちょっとヘンな人がいるのも嬉しい)。


ミスを責めるとミスが増える
『失敗の科学』マシュー・サイド

N/A

人はミスをする。これは当たり前のことだ。

だからミスしないように準備をするし、仮にミスしたとしても、トラブルにならないように防護策を立てておく。人命に関わるような重大なトラブルになるのであれば、対策は何重にもなるだろう。

個人的なミスが、ただ一つの「原因→結果」として重大な事故に直結したなら分かりやすいが、現実としてありえない。ミスを事故に至らしめた連鎖や、それを生み出した背景を無視して、「個人」を糾弾することは公正なのか?

例えば、米国における医療ミスによる死亡者数は、年間40万人以上と推計されている。イギリスでは年間3万4千人もの患者がヒューマンエラーによって死亡している。

回避できたにもかかわらず死亡させた原因として、誤診や投薬ミス、手術中の外傷、手術部位の取り違え、輸血ミス、術後合併症など多岐にわたる。数字だけで見るならば、米国の三大死因は、「心疾患」「がん」そして「医療ミス」になる。

うっかり見落としたり、忘れてしまうといったミスは、人間だからあたりまえだ。だが、あまりにも多すぎるこの数字は何を物語っているのか。

本書は、ミスそのものよりも、ミスに対する「姿勢」に着目する。

無謬主義である医療業界には、「完璧でないことは無能に等しい」という考え方が是とされる。失敗は脅威であり不名誉なこととされているため、スタッフはエラーマネジメント(ミスの防止・発見)のトレーニングをほぼ受けていないという。

ミスが起きたとき、人は失敗を隠そうとする。自分を守るために、失敗を認めようとはしない。ちょうど映画のシーンを編集でカットするように、失敗の記憶を消し去ってしまう。自分の過ちを認めるよりも、事実の解釈を変えてしまうこともある。

1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300のヒヤリ・ハットが存在するという。ヒヤリ・ハットは揉み消され、インシデントが共有されることはない。

ひとたび事故が起きて、予期せぬ結果について説明が必要なとき、どう答えるのか?

医療事故の調査によると、「ミス」ではなく「複雑な事態が起こった」と表現されるという。「技術的な問題が生じた」「不測の事態によって」といった婉曲法によって明らかにしない。情報開示に対する抵抗は強く、「患者が知る必要がない」「言っても理解できない」という言葉を盾に取り、事実を語ろうとしない。

疫学的調査によると、受診1万件につき、医療ミスを原因とする深刻な損傷が44~66件発生しているという。しかし、実際にヒアリングをしたところ、この結果通りの申告をしている病院は1%に過ぎなかったという。また、50%の病院は、受診1万件につき5件未満と報告していた。つまり、大半の病院が組織的に言い逃れをしていることになる。

ミスを認めない体質により、インシデントが共有されず、再発が繰り返され、重大事故につながる―――この負のスパイラルは、医療業界に限ったことではないという。あり得ない証拠をでっち上げる検察官や、自己保身のあまり事実を捻じ曲げる経済学者が登場する。

では、こうしたミスを無くすにはどうすれば良いか?

「失敗は悪」として罰則を設ければよいという考えがある。ミスを厳罰化することで規律を正そうとする発想である。

この仮説を検証するためにリサーチが行われた。投薬ミスが慢性化している複数の病院が選ばれ、一つのグループは懲罰志向で、ミスを厳しく問い詰めさせた。もう一つのグループは非難をしない方針で運営した。

もうお分かりかと思うが、懲罰志向のグループにおいては、ミスの報告は激減した。一方、非難しないグループでは、報告件数は変わらなかった。そして、実際にミスが起きた件数は、懲罰志向のグループが遥かに多かったという。

これと似た経験がある。かつて「品質を向上させるため、バグをゼロにする」というトチ狂った信条の上司が着任し、エラーを見つけ次第、厳しく叱責するようになった。バグは激減したのだが、それは品質が良くなったわけではなく、報告されなくなったに過ぎない(その上司が離任するまで、報告用とは別の管理簿を作ってしのいだ)。

同様に、かつて「いじめ撲滅」を目標にして、いじめが起きた学校や教室を処罰対象にする試みが行われた。数字の上ではいじめは減ったが、告発の手紙を遺して自殺した子どもに対しても、「いじめではなかった」と強弁されていた(レビュー『測りすぎ』参照)。

では、どうすればよいか?

失敗を認め、そこから学習することで、再発させない。どうすればこれが実現可能になるのか?

本書では、ミシガン州立大学での実験が紹介されている。被験者に単純なテストを受けてもらい、ミスをした時にどのように反応するかを、脳波測定する実験だ。

着目するべき脳信号は2つあるという。1つ目は、自分のミスに気づいた後50ミリ秒で自動的に現れる信号だ。これは「エラー関連陰性電位(ERN)」と呼ばれ、エラーを検出する機能に関連する前帯状皮質に生じる反応になる。

2つ目は、これはミスの200~500ミリ秒後に生じる信号になる。「エラー陽性電位(Pe)」と呼ばれ、自分が犯したミスに意識的に着目するときに現れる。

自分のミスに気づくERNの信号と、そのミスを意識的に着目するPeの信号、この2つの信号が強いほど、失敗から素早く学ぼうとする傾向があることが分かった。さらに、Peの信号が強い人ほど、「知性や才能は努力によって伸びる」と考える傾向があったという。

ミスから学ぼうとするマインドセットは、個人のみならず組織でも育成できる。

本書では、究極の失敗型アプローチとして「事前検死」が紹介されている。

人の死の原因や状況を明らかにする「検死」は、あたりまえなのだが、人が死んだ「後」に行われるものだ。だが、「事前」とはどういう意味だろうか?

これはpost-mortem(検死)をもじった造語で、pre-mortem(事前検死)になる。プロジェクトが終わった後に振り返るのではなく、実施前に検証するのだ。

まだ始まってもいないのに、「プロジェクトは大失敗でした。なぜですか?」という問いを立て、失敗していないうちから失敗を想定して学ぼうとする手法である。メンバーは、プロジェクトに対し否定的だと受け止められることを恐れず、懸念していることをオープンに話し合うことができる。

これはわたしも行っている。ディスカッションで「もし上手くいかないことがあるとしたら、それはどんな理由?ヤバい順に考えてみよう」と問うて反応を見るやり方だ。荒唐無稽なやつから割と現実的なものまで出てくる。

人だから、ミスが起きるのは当然のこと。そのミスを再発させず、トラブルにまでつなげない仕組みが必要となる。そのためには、まずエラーを受け入れるオープンな姿勢が肝要となる。

フランスでの試みだが、エラーを称賛し、学習・共有する文化を広げようとする『なぜエラーが医療事故を減らすのか』(レビュー)は、まさにこれだろう。

ヒヤリ・ハットから事故への連鎖を止めるための、様々な事例が紹介されている。例えば、成人向けと小児向けの薬剤を同じ棚に置かない。会話のプロトコルをルール化し、「入力の"打つ"」と「注射の"打つ"」と分けて復唱させることで、単に「打つ」だけで伝えないようにする(「この薬剤を打っておいて」と言われたら、「その薬剤データを入力しておくのですよね」と復唱する)。あるいは、多すぎる薬量がオーダーされた場合にはシステムが警告する。

有形無形のさまざまな関所が設けられている。

こうした関所のことを、並べたスイス・チーズで視覚的にモデル化する。一つ一つのチーズは穴だらけだが、並べることにより、エラーという矢の通り道を塞ぐ。幾つもの穴をすり抜け、刺さったチーズが「ヒヤリ・ハット」になる。それぞれのチェックは完璧ではないが、エラーの原因は一つとは限らない。刺さった最後のチーズは確かに目立つかも知れないが、そこへ至る一連の流れを見なおし、各ステップでの不具合を見つけ出し、システム全体としての改善を図ることが必要になる。

スイス・チーズ・モデルに基づけば、不幸にして最後のチーズとなった医療者を責めるのは意味がない。事故の当事者は、たくさんあったはずの防御装置の欠陥を明るみに出した者にすぎないのだから。

ヒューマンエラーは原因ではなく、むしろ結果なのだ。これを報告・学習できる組織になるために、マネジメント層へ『失敗の科学』をお薦めしたい。


毎日を楽しむことが人生を楽しむこと
『三拍子の娘』町田メロメ

N/A

この魅力、読んでもらった方が早い。「卵10個割った」

この一話で取り込まれ、追いかけてるうちに完結した(全3巻)。

  • 苦労の星のもとに生まれたが、奇跡的に楽天的に育った長女・すみ(28歳)
  • めんどくさがりで自堕落だけど、愛嬌だけでねじ伏せてきた次女・とら(22歳)
  • 秀才で美少女で健気な女子高生・ふじ(18歳)。

この三人が一つ屋根の下で暮らす毎日を描いたのが、『三拍子の娘』だ。特別なことなんてなく、穏やかで楽しくて愛おしい日々がつづられるのだが、母に死に別れ、父に捨てられるという、わりとキツい過去を抱えている。

それでも、ポジティブに向き合おうとする姿勢に共感する。下向いててはやってられねーという気分にさせられる。日常の切り取り方がエッセイのようにさりげない一方で、脳内で展開される壮大な宇宙や菩薩像とのアンバランスも楽しい。

健気さにグッくるセリフもある。例えばこれ。

大人になったら
自分で自分を幸せにしなくちゃいけないの!
だから今のうちくらいは
私たちが幸せにしてあげる!

で、どんな風に幸せにするかは第46話「この土曜日はわたしのもの」で確認してほしい。「この土曜日はわたしのもの」と叫びたくなるくらいハッピーになるには、自分にとって何なのか、思い巡らせたくなるから。


ナチスを神話にさせないために
『ナチスは「良いこと」もしたのか?』小野寺拓也、田野大輔
『縞模様のパジャマの少年』マーク・ハーマン監督

N/A

「ナチスがしたことは悪行だけではない。良いこともした」という言説を見かける。悪の代名詞とも言われるナチスだが、評価できる部分があるという主張だ。

例えば、公共事業を拡大して失業者を減らすことで経済復興を果たしたり、充実した家族政策により出生数を向上させた。もちろんそれでナチスの蛮行が減殺されることはありえないが、これらは「良いこと」と言えるのではないか、という意見だ。

『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』は、こうした見方に異議を唱える。ナチスがした「良いこと」とされる政策の一つ一つを取り上げ、その背景や目的を精査し、ナチスのオリジナルなものだったか、さらに成果を生んだものかを考察する。

結論を一言で述べると、著者のこのツイートになる。著者は歴史学者であり、ドイツ現代史を専門としているプロフェッショナルである。

例えば、経済政策だ。

ヒトラーが政権に就いてわずか数年でドイツの雇用状況が劇的に改善され、失業問題がほぼ解決したのは事実だという。雇用の安定と共に経済も回復し、国民総生産も急増したという。

ドイツの経済の奇跡はどのように成し遂げられたのか。その理由として、アウトバーンの建設や、様々な雇用創出計画が挙げられる。ナチスは「良いこと」もしたという人は、こうした経済政策を指摘する。

これに対し、前政権のパー ペン・シュライヒャーの政策を引き継いだものに過ぎないという。ナチスが何か新機軸を打ち出したわけではなく、いわば手成りの政策を踏襲しただけである。そのため、ナチスの功績として称えるには当たらないという。

さらに、ナチ政権下での雇用回復の原因は、ヒトラーが政権を握る前に、ドイツ経済が景気の底を脱し、回復局面に入ったからだという。恐慌時に大量解雇やコスト削減を進めた企業努力や、前政権の対策が効果を上げ始めていたが、それら全ては「総統の功績」としてプロパガンダされた。

まだある。ヒトラーの「ドイツ経済は4年後に戦争可能になっていなければならない」という計画の下、なりふり構わず軍備拡張に注力した。ダミー会社が発行する擬似公債「メフォ手形」を導入することで、軍需取引を国内外の目から隠し、最終的には国家支出の61%に達したという。爆発的に増えた財政支出を軍備に振り向けた結果、1936年頃から軍需産業を中心に好景気に沸くことになる。

これに加え、占領地域に対する経費・分担金の要求や、ユダヤ人からの収奪、外国人労働者の強制労働など、ナチスがした「悪いこと」が挙げられている。こうした背景を考えると、「ナチス政権で経済は回復したのだから、『良いこと』もした」というのは一面的すぎるという。

なお、ナチス体制を経済から捉えなおした白眉といえばアダム・トゥーズ『ナチス 破壊の経済』がある。訳者・山形浩生氏によると、「ナチスが果たした経済回復」という通俗的な理解を、膨大なデータを実証的に用いて覆しているとのこと [ALL REVIEWS ナチス 破壊の経済]

あるいは、ナチスがした家族政策だ。

例えば、結婚したばかりのカップルに100ライヒスマルク(現在の価値で70万円強)が貸与され、子どもを1人産むごとに返済が一部免除され、4人産めば全額もらえるという制度がある。あるいは、母親学校を開催し、乳児の下着やベッド、食料品などの現物支給があった。

だが、こうした支援策は、どんな政策とセットで行われたのかを考慮する必要があるという。支援対象となったのは、ナチスにとって政治的に信用ができ、人種的・遺伝的な問題もクリアされていることが前提となる。ナチスが「反社会的分子」とした人々はここから排除され、障碍者の場合は断種されていた。さらに、支援対象となっていても、子どもを産まない「繁殖拒否者」には罰金が科されていた。

こうした背景には、人種主義的な「民族共同体」を作るという目的があったことを指摘する。「人種的に価値の高い」ドイツ人を増やすための施策であり、結婚資金の貸付を行ったという部分だけを切り取って、「良いこと」とするのは短絡的だというのだ。

出生数の増加についても容赦がない。事実として、1000人あたりの出生数は、1933年には落ち込んでいた(14.7人)が、1939年に増加した(20.3人)。だがこれは、景気回復により結婚の絶対数が増えたためであり、出産奨励策の影響は限定的だという。

他にも、労働者のための福利厚生や、環境保護政策、タバコ撲滅運動など、ナチスがした「良いこと」とされる政策について、背景や有効性を検証する。

一見「良いこと」に見えても、到底同意できない目的の下に実施されていたり、プロパガンダによってナチスの功績とされたことが次々と指摘される。

冒頭に引用したツイートに対し、賛同する声が上がる一方で、「ナチスはこんな『良いこと』もした」という反対意見が殺到し、炎上状態になった。本書は、そうした意見に対する、歴史学の知見からのアンサーとなっている。

この知見は、いま・ここでも適用できる。一見「良い」とされる施策でも、その目的が何であり、どのような政策とセットで行われるのかを吟味する必要がある。さらに、ある施策の一部分だけを切り取って「悪い」とみなす短慮も抑制すべきだろう。

「良い」「悪い」といった言葉は、主観的で、個人の価値観や社会的な規範、そして時代や文化によっても定義が変わってしまう。「ナチスは『良いこと』もした」という人は、どこを切り取り、どういう価値観に則した上でそう言えるのかを明らかにしないと、水掛け論の沼にハマるだろう。

ナチスがらみでもう一つ。

見ると確実に胸糞が悪くなる映画ワーストNo2である、『縞模様のパジャマの少年』を観た。このワースト順位は『後味が悪すぎる49本の映画』で付けられたものだ。

N/A

胸糞映画としてよく挙げられる『ミスト』(第10位)や『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(第4位)をブチ抜いているから、さぞかし嫌な気分になるだろう―――とワクワクしながら観た。

結論から述べると、Amazonの紹介文の通りだった。

忘れられない映画だ力強く、言葉にできないほど感動的だ」(ピート・ハモンド)。純真無垢な8歳の少年ブルーノは、母親の言うことを聞かずに林へ冒険に出かける。すぐに一人の少年と出会い、奇妙な友情を育んでいく。舞台は第二次世界大戦下。人間の魂の力をテーマとするこの感動的で素晴らしいストーリーは、あなたの心をつかんで離さないだろう。

『後味が悪すぎる~』では「唯一無二の絶望感」と評するが、同じ絶望感は、ドラム式洗濯機にまつわる事故を知ったときに味わったことがある(検索しないように!)。

最初は、ナチスが流ちょうな英語をしゃべるのに違和感があるし、100回観た『大脱走』と比べると警備が甘いんちゃう?とツッコミを入れたくなるが、そこは仕方がない。

「縞模様のパジャマ」とは、収容所の囚人服だ。劣悪な環境でろくな食事も得られず、常に飢えている。そんな彼(シュムール)と出会い、鉄条網越しに友情をはぐくむ主人公ブルーノの物語だ。

これ、胸糞映画という警告抜きで、単純にポスター見ただけで映画館に入った人にとっては、酷すぎることになっただろう。少年の運命に唖然とし、その理不尽さに憤り、可哀そうに思って涙するだろう。

そして、その少年を不憫に思っている自分が、たまらなくイヤになるだろう。一緒になって収容されている他の人々は?背景のモブのように描かれているが、その一人一人が同じ運命に向かっていくのに、その少年を呼ぶ声だけに胸を裂かれている自分は?と思えてくる。

素晴らしく胸糞悪いラストは、絶対に忘れることが無いだろう。そして、嫌な気分になりたいときに、このポスターを眺めるだけで味わえる。

収容所で行われたことは悪魔の所業そのものだが、ラストは、運命が悪魔に抗っているとみなすこともできる。悪に抗っているという一点だけを切り取れば、「良いこと」といえるだろうか? いや、決してそうは言えない。どう切り取っても悪でしかなく、悪いことしか起きない映画として傑作だ。

N/A

ナチスを神話にさせないために、定期的に観返していくつもり。


最先端テクノロジーを哲学する
『技術哲学講義』M.クーケルバーク

N/A

「セックスロボットは悪なのか」という議論がある。

精巧につくられた等身大のドールで、触れると温かい。センサーとAIにより、ユーザーが望む反応を学習して応答する、ロボット工学と人工知能の粋を集めたアンドロイドだ。

愛情を深め合うコミュニケーション手段としてのセックスが蔑ろにされ、女性蔑視や暴力へつながるかもしれない。一方で、感染症の心配もなく安心して愛情を注げるパートナーに救われる人もいるだろう。

あるいは、「アンドロイドが運転する車が事故を起こしたら、誰に責任を問うべきか?」という議論がある。

AIは人間よりも安全運転できるだろうから、自動運転をベースとした車社会を設計すべきだという意見がある。一方で、プログラムや学習データの不具合によってAIが暴走する可能性は残されており、その影響は計り知れないという人もいる。

こうした議論は、論点が噛み合わないか、漠然とした話になりがちだ。意識とは何かが曖昧なまま「AIには心がある/ない」といった水掛け論になったり、トロリー問題を引き合いにしつつ「功利主義なら倫理をプログラミングできる」といった「can(できる)」と「should(すべき)」をすり替える話になる。

ともすると堂々巡りに陥りがちな議論を整理し、概念や価値観を明確にしながら、新たな視点を提供するのは哲学の出番だ。そして、技術にまつわる領域において、技術とは何か、技術の発展は社会にどんな影響を与え、幸福をもたらすのかといった問題を考えるのが、技術哲学になる。

『技術哲学講義』(M.クーケルバーク、丸善出版、2023)は、技術哲学について書かれた教科書だ。技術と社会で生じる様々な課題が整理され、議論の最先端が紹介されている。日本語で読める網羅性の高い一冊で、文系・理系、アカデミック・実社会という枠を超えてお薦めできる。

例えば、冒頭の「AIと倫理」について。様々な主張が飛び交っており、どれかを決めるというより、決め方をどうすればよいか?という所で袋小路に行き当たっていた。

ところが本書では、私が行き詰まっている前提に、プロパティアプローチがあるという。プロパティ(属性)から道徳的な権利が導かれるという考え方だ。つまり、単なるモノに過ぎないのか、あるいは人間とのパートナーなのかといった立場は、対象の属性が決めているという論法である。

ロボットについて考えてみよう。

 1. あらゆる意識をもつ存在は、道徳的な権利を持つ

 2. この存在(このロボット)は、意識を持たない

 3. ゆえに、このロボットは道徳的権利を持たない

ここでは「意識を持つ」かどうかが判断の基準となっているが、「感じることができる」「人間らしい反応をする」など、様々なプロパティ(属性)が挙げられる。これが絶対というものを決めるのは難しいだろうし、そもそも正しい組み合わせがあるのかも分からない。

著者・クーケルバークは、問題は2つあると指摘する。

ひとつめの問題は、そうした属性が何かというのではなく、この1~3の決め方そのものにある。1の「あらゆる意識を持つ存在は、道徳的な権利を持つ」という前提は、なぜそう言えるのか?「意識」の箇所を、感情、心、経験などのいくつか、あるいは全てに置き換えたとしても、その前提が正しいと確信できるのか(いやない)

もう一つの問題は、そうした「意識」「感情」「心」といったものが特定できていない点にある。ロボットが経験し、感じていることが、私たちの「感情」や「経験」と同じだと断定できない。それにもかかわらず、両者を同じだとする前提から始めていることが問題なのだ。

議論の対象となる存在の属性を分解し、どの属性を満たせば合格とするかといったプロパティアプローチでは、遅かれ早かれ行き詰まることなる

では、どうすればよいか?

著者はデリダやレヴィナスの現象学からのアプローチを紹介する。他者の属性を分解するのではなく、他者と自己の関係性に着目し、他者が自分にとってどのような存在であるか、自分の経験や意識の中で他者がどのように現れるかに焦点を当てる。

例えば、ロボットやAIについて議論をするとき、私たちは、対象を何と呼んでいるかに着目してみる。ある人は、それ(it)と呼ぶだろうし、あるいは彼女(her)と呼ぶ人もいるかもしれない(AIのフランス語 intelligence artificielle は女性名詞)。名詞だけでなく、ロボットを「使う」やロボットと「会う」、ロボットに「話しかける」といった表現にも関係性が現れてくる。

ロボットをモノ(it)として使役する人と、ヒト(her)のように扱う人の意見が異なってくるのは、当然の帰結だろう。前者からは、セックスロボットは「モノ」なのだから壊そうと何しようと勝手だという話になる。後者からは、「ヒト」のようなパートナーだから人倫にもとる扱いは、その人の人間関係にまで悪影響を及ぼすという主張になる。

そして、その人がロボットをどのように語るかは、それ以前のロボットにまつわる経験に依存する。未来の世界のネコ型ロボットに馴染んだ人と、未来から送られてきた殺人マシーンを見てきた人では、全く印象が異なるだろう。

そこには時代や地域性があるかもしれない。ロボットにまつわる物語は、時代や地域によって変わるからだ。「アメリカ製人工知能が暴走すると世界征服を目論むが、日本製人工知能が暴走すると冴えない男と恋に落ちる」という冗句の通り、ロボットとの関係性に地域差があるのかもしれぬ。

著者は、道徳的態度は文化に依存すると説く。

道徳のコミュニティに「誰(who)」が含まれ「何(what)」が排除されるのかの違いを決定する際、それぞれの単語は、「含む」「排除する」という行為の一部となっていて、道徳的に中立ではないのだ。

つまり、対象についての関係性を語るときに、私たちが使っている言葉の中に、既に価値判断や思考が反映されている。従って「AIと倫理」という問題は、関係性の分析によって見えるコミュニティごとに、取り組み方が変わってくるだろう。

ここでは、AIと倫理を巡る議論の一部を紹介したが、本書では、他にも様々な問題が扱われている。ごく一部を紹介する。

採用試験のプログラムに偏りがあり、黒人男性は犯罪リスクが高めに判定されていた。裁判沙汰になりプログラムは改修されたが、そもそもAIがモラル判断をしてもよいのか?

私たちはSNSに個人情報や興味や時間を「搾取」されているのか?あるいはSNSは新しい大衆社会の成立に寄与しているのか?

文字を使うことで記憶力が弱まり知識が表層的になるとプラトンは主張したが、Googleなどの強力な検索エンジンによって、ますます人は覚えなくなるのではないか?

超音波検査によって胎児の異常が把握できるようになる一方、ダウン症などの重い病気の場合に人工中絶するかの判断が求められるようになった。これは「よい」ことなのか?

よく、「哲学は正解の無い不毛な問いに取り組んでいる」とそしる人がいるが、的外れだ。

「正解」を単純に計算したり測定できる問題は、それぞれの学問領域に引き取られており、簡単には出せないものが、哲学に引きつけられている。そして、正解に近づけるための問答が積み重ねられている。

積み重ねを無視して問題に取り組もうとすると、前提の取り違えや議論のすり替え、詭弁によって堂々巡りに陥るだろう。

技術と社会を巡る問題を、より深く・効率的に考えるための一冊。


人生で一番お薦めしたマンガ
『寄生獣』岩明均

N/A

「あなたにとって、人生最高のマンガは?」というお題は、かなり難しい。

鋼の錬金術師、アドルフに告ぐ、HUNTER×HUNTER、ハイキュー!!、ゴールデンカムイ、ザ・ワールド・イズ・マイン……二度と忘れられぬ斬新な表現だったり、魂を撃ち抜くストーリー、感情をぐちゃぐちゃにする展開に数日茫然としたり、脳汁ダダ漏れのカタルシスに多幸感あふれまくりだったり、マンガの最高を決めるのは不可能だ(だいたい、そのときの気分や心の向き先によって最高がコロコロ変わるのが常)。

しかし、「わたしが一番お薦めしたマンガは?」と質問を変えるなら、『寄生獣』一択になる。

計算され尽くした物語としての面白さだけでなく、込められたメッセージの消化率、読む度に考えさせられ「自分ならどうする?」とぐるぐるさせられる哲学的な問題など、自分ひとりだけで考えて語るのはもったいない、もっと沢山の人に読んでもらわねば……!と布教し続けてきた。単行本、デラックス版、文庫版、さまざまなバージョンを買っては布教し、買っては布教した結果、紙媒体のものは手元にない。

『SFマンガで倫理学』で紹介されていたのをきっかけに、電子版を購入して一気読みして、アニメ『寄生獣 セイの格率』を観て、さらに本編の裏側を描いた『寄生獣 リバーシ』も読んだ。どちらも素晴らしかったナリ。

ただ、今回の再読で気付いた疑問がある。ネタバレに配慮しつつ書くと、「なぜ市役所は包囲されたか」だ。

”それ”の存在は、部分的には知られていたものの、組織立てて行動をして、市役所ひいては彼をターゲットとして大規模な人員を動員するほどまでは、確証が無かったはずだ。だいたい、あの作戦を誰が許可するか(許可できるか)を考えると、”それ”の存在よりも困難に思えてくる。

この謎について、『寄生獣 リバーシ』で一部明かされていたので、喉のつっかえが降りた気分になった。

N/A

もう一点、アニメの寄生獣で気づいたのだが、いわゆるグロシーンは極端に暗い画像になっている。これは寄生獣だけでなく、Reゼロ、魔女の旅々などでもそうなので、時代がそうなっているのだろうと感じた。子どもに言わせると「原作がグロすぎる」ということで、アニメの配慮が妥当だそうな。

万が一、あなたが寄生獣を知らなかったなら、幸せものだ。この傑作をまっさらな状態から読めるなんて、素晴らしい体験になるに違いない。読むべし、読むべし。


このフィクションがスゴい!2024
『百年の孤独』ガブリエル・ガルシア=マルケス

N/A

人生で3冊読んだけど、3冊とも面白かった。

最初は水色のハードカバー版で、次は白黒のやつ、そして最近出た新潮文庫を読んだことになる。ストーリーは知っているし、あのラストの感情の奔流は何度も味わっているのに、それでも無類に面白い。

何度も読んだのに、なぜ、面白いのだろうか?

まともな人間が(ほぼ)誰もいないブエンディア一族の奇妙な生きざまや、日常的に非日常が描かれるマジックリアリズムの磁力、あるいは、奇妙で悲惨でユーモラスなエピソードが隙間なく詰め込まれているストーリーは、どこから見ても面白い。

しかし、3冊目の新潮文庫を読みながら、そうしたストーリーやキャラだけでなく、『百年の孤独』そのものに面白さが練り込まれていることに気づいた。

ここでは、物語の展開や登場人物の運命にはできるだけ触れずに、ネタバレ抜きで、『百年の孤独』の面白さを語ってみる。

例えば、中毒性のある文章について。『百年の孤独』の書き出しだ。

長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、恐らくアウレリャノ・ブエンディア大佐は、父親のお供をして初めて氷というものを見た、あの遠い日の午後を思い出したに違いない。
(新潮文庫版 p.9)

銃殺隊?
ブエンディア大佐?
「あの遠い日の午後」って?

疑問が次々と湧き上がるが、説明は一切無い。

そもそも、この文章はヘンだ。「長い年月が流れて」なら、未来の話だろうし、「あの遠い日の午後を思い出した」のは過去の話になる。では、これをしゃべる語り手はいつの場所にいるのか?あるいはこれを聞いている(読んでいる)私は、どの時代にいるのか?

もちろん、すべての物語が終わった後、神の目線から、過去のお話を聞いているのだという解釈は成り立つ。事実、ほとんどの文章は過去形なので、昔話の民話だと見なすことは可能だ。

だが、語り手自身が分かっていないことをしゃべっているようにも見える箇所がある。まだ起きていない未来の出来事だからと留保付きで述べるのだ。「思い出したに違いない」なんてまさにそうで、違和感がついてまわる(普通なら「思い出した」に留めるはずだ。なぜなら、すべてが終わった過去を振り返っているのだから)。

物語は進んでゆくうちに、「あの遠い日の午後」も語られるし、アウレリャノ・ブエンディアが「大佐」になるエピソードも紡がれるし、銃殺隊の前に立つシーンも出てくる。しかし、彼が夏の日の午後を思い出したかどうかは、そのシーン、つまり銃殺隊の前に立つ場面にならない限り、語り手自身も分かっていないのではないか―――そういう予感がついてまわる。

そんな文章が要所要所に練り込まれている。

大丈夫、ほとんどの文は普通に読めるのだが、アウレリャノ・ブエンディア大佐のエピソードはくり返し触れられ、語られているので分かりやすいのだが、他にも、こうした違和感を掻き立て、目を留める引っ掛かりが設けられている。

これを一種のフラグ、伏線の変異体と見なしてもよいが、引っ掛かる度に、聞いている(読んでいる)この瞬間が、いつなのかを見失う。。

読み進めていくうちに、違和感の正体は、「銃殺隊の前に立つ」時と、「初めて氷というものを見た」時間、そして「思い出したに違いない」と語るときが、同じ瞬間に集約されているのではないかという疑いに変化する。そして読み終わるとき、この違和感は、『百年の孤独』そのものを貫く巨大な伏線だったことが明らかになる。

既視感と未視感が混ざったような、軽い吐き気を覚える。『百年の孤独』で感じる中毒性の正体の一つがこれ。

物語で繰り返される変奏が、この既視感+未視感をさらに加速させる。

例えば、「この会話は以前にした(はず)。それも別の人が別の時に」という既視感(聞いているから既聴感か)。

「何をぼんやりしているの」。ウルスラはほっと溜め息をついた。「時間がどんどんたってしまうわ」
「そうだね」とうなずいて、アウレリャノは答えた。「でも、まだそれほどじゃないよ」
(新潮文庫版 p.196)

事態は切迫しており、取り返しのつかない状況になりつつある。話ができる時間は限られているのに、言いたいことは言えなくて沈黙が長引き、ありふれた日常の会話に戻っていくシーンだ。

そこから2世代たってから、こんな会話が交わされる。

曾祖母の声に気づいた彼はドアのほうを振り向き、笑顔を作りながら、無意識のうちに昔のウルスラの言葉をくり返した。

「仕方がないさ。時がたったんだもの」つぶやくようなその声を聞いて、ウルスラは言った。「それもそうだけど。でも、そんなにたっちゃいないよ」

答えながら彼女は、死刑囚の房にいたアウレリャノ・ブエンディア大佐と々返事をしていることに気づいた。たったいま口にしたとおり、時は少しも流れず、ただ堂々めぐりをしているだけであることをあらためて知り、身震いした。

(新潮文庫版 p.508)

この、くり返しのテーマは、時を超え形を変え、さまざまなバリエーションで語られる。

はっきりと登場人物の会話や独白に現れるものもあれば、違う人物が同じ行動をするといった描写に表現されるものもある。さらには、世代を超えて似通った選択をし、同じ運命にたどり着くことでも描かれている。

ただし、くり返しのテーマは、分かりやすくない。むしろ、わざと複雑に、錯綜させて書いているように見える。会話の端々に現れる「堂々めぐり」「くり返し」は分かりよい方で、読み解きというよりも、聴き手の印象を操作するように描いている。

その顕著な例が、名前だ。

ホセ・アルカディオ・ブェンディア
ホセ・アルカディオ
アウレリャノ(大佐)
アルカディオ
アウレリャノ・ホセ
ホセ・アルカディオ(法王見習い)

これら全て別人物だ。「アルカディオ」や「アウレリャノ」が並んでおり、一読しても、誰が誰の話なのか、すぐに分からなくなる(似たような行動や似たような運命を辿るので、最初に読んだときは迷子になったものだ)。まるで、うっそうと茂った樹木の葉っぱの見分けがつかなくなるように、意図的に混同させるように名づけを行っている。

家系図は樹木構造をするのだが、ブエンディア一族の家系図は、ツリー状に広がっていきつつ、一族内での混交も起きている。女を共有したり、一族同士で結ばれることによって、広がった枝が畳み込まれ、一体化しているようにも見える。

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初読のときは迷子になって、家系図と人物相関図を作ったりしたものだが、そのうち諦めた。代わりに、誰の話なのかというよりも、むしろ、何の話なのかを注視するようにした。

そうすると、度胸があって面倒見がいいけれど、短絡的な性格が災いを呼び寄せる「アルカディオ」と、物静かで頭が良く、コツコツと時間をかけて運命を変えてゆく「アウレリャノ」という、2つの資質が練り込まれていることに気づく。

そして、度胸があって面倒見がよく、物静かで頭もいいのが、一族の祖である、ホセ・アルカディオ・ブェンディアであることが見えてくる。そして、彼の行動や言葉を、その子孫たちがなぞっているようにも見える。つまり、ホセ・アルカディオ・ブェンディアの人生の中に、一族の運命が練り込まれていると読むことだってできる。

つまり、一族の全体の構造が部分にも同じ形で現れているのだ。

例えば、ホセ・アルカディオの生き様をアルカディオがなぞり、ホセ・アルカディオ(法王見習い)が受け継いでいる。各人の資質が同じ形で運命に現れる。男だけでなく女の運命も互いに似通っており、一人の女の話をしているのか、他の誰かの巡りあわせをなぞっているのか、分からなくなる。

もつれあい、絡み合う部分は、カメラを引くと一族の全体になる。やろうとすれば、この物語は無限に続けることができるだろう。

しかし、物語はいつか終わる。

既視感と未視感と違和感、物語のフラクタルな構造、浮かび上がってくる再帰的なテーマ、これらを抱きつつ後半に差し掛かると、怒涛の奔流に呑み込まれ、もみくちゃにされるだろう。そしてラスト、(ゆっくり読んだ方がいいのに)巻き上がる風に吸い込まれるように、急いで最後のページまで読もうとするだろう。

そして読み終えるとき、自分が完全にこの一冊に取り込まれており、この小さな一冊に、無と無限が詰め込まれていることに気づくだろう。

ハードカバー版よりも小さい新潮文庫版だと、この思いがより一層強く感じられる。全てが入っていながらも、無である世界。それが『百年の孤独』だ。

『百年の孤独』の読書会も楽しかった。「どこに付箋を貼ったか」「『百年』の後に読みたい一冊は何か?」など、読めば語りたくなるし、語るほどさらに読みたくなるお話ばかりだった。はてなブックマークの皆さんへの応答も入れて、[『百年の孤独』をみんなで読むと100倍面白い]にまとめた。主催のマヤさん(@Mayaya1986)、楽しい会をありがとうございました!

文庫版『百年の孤独』の解説で、筒井康隆がベタ誉めをしていた『族長の秋』がある。命令形で「読め」とまで言っているので、こりゃ読まねばと読んだら凄まじい一冊だった。わたしへのインパクトは、[筒井康隆が『百年の孤独』を読んだら絶対に読めと命令形でお薦めしたガブリエル・ガルシア=マルケス『族長の秋』はどこまで笑っていいグロテスクなのか分からないバケモノみたいな傑作だった]に書いてある。

けして万人にお薦めしない(できない)傑作なのだが、なんとこれ、来年、新潮文庫で復刊されるとのこと。エグすぎる傑作なので、心して取り組んで欲しい。


このノンフィクションがスゴい!2024
『美術の物語』エルンスト・ゴンブリッチ

N/A

世界で最も読まれている美術の本。原始の洞窟壁画からモダンアートまで、西洋のみならず東洋も視野に入れ、美術の全体を紹介している。これほど広く長く読まれている美術書は珍しい。「入門書」と銘打ってはいるものの、これはバイブル級の名著として末永く手元に置いておきたい。

『美術の物語』は、ハードカバーの巨大なやつと、ポケット版がある。ポケット版は、長らく絶版状態となっており、べらぼうな値段がついていたが、今秋、復刊された(めでたい!)。

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PHAIDON社のポケット版(絶版)

本書のおかげで、興味と好奇心に導かれるままツマミ食いしてきた作品群が、社会や伝統のつながりの中で捉えられるようになった。同時に、「私に合わない」と一瞥で判断してきたことがいかに誤っており、そこに世界を理解する手段が眠っていることに気づかされる。さらに、美術品の善し悪し云々ではなく、人類が世界をどのように「見て」きたのかというテーマにまで拡張しうる、まさに珠玉の一冊なり。

まず、軽妙で明快な語り口に引きよせられる。このテの本にありがちな、固有名詞と年代と様式の羅列は、著者自身により封印されている。代わりに、「その時代や社会において、作品がどのような位置を占めていたか」に焦点が合わせられている。今でこそ美術館や博物館に陳列されている作品は、最初から「美術作品」として制作されていなかった。それは、儀式を執り行うための呪術具であったり、文字の読めない人々に教義を説く舞台装置だったり、視覚効果の実験場として扱われていた。

ゴンブリッチは、そうした文脈から切り離されたところで美術を語ることはできないという。すなわち、時代のそれぞれの要請に対して、画家や彫刻家たちが、置かれている状況や前提、制度、そして流行に則ってきた応答こそが、美術の物語たりえるというのだ。

これこそ「美術」というものが存在するわけではない。作る人たちが存在するだけだ。男女を問わず、彼らは形と色を扱うすばらしい才能に恵まれていて、「これで決まり」と言えるところまでバランスを追求する。

そして、エジプト美術から実験芸術まで、色と形のバランスの試行錯誤が、物語の形で一気に展開されるのだが、これがめっぽう面白い。というのも、これは克服と喪失の歴史だからだ。

単純に「見ているものを見たまま描く」ことに収斂するならば簡単だ。しかし、そうは問屋が卸さない。この問題を追及するとき、必ずぶつかる壁があるからだ。三次元の空間をいかに二次元で表現するか、「光」をどう表現するか、静止したメディアの中で、いかに動きを生み出していくか、細部の明瞭さと再現性のトレードオフ、そして、「ちょうどいい構成」とは何かという最重要課題がある。さまざまな時代の芸術家たちがこの課題に取り組み、成果を挙げ、ときには危機に陥りながらも技術をつないできた。

たとえば、「見たままを描く」問題について。古代エジプトの画家は、「見たまま」ではなく、「知っている」ことを基準に描いた。つまり、人体を表現するとき、その特徴が最も良く出ている角度からのパーツを組み合わせたのだ。顔は横顔だが目は正面から、手足は横からだが、胴体は正面図といった描き方は、古代エジプト美術の様式としてルール化された。絵を描くことに慣れていない人や子どもが、この描き方をする。

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ツタンカーメンの「目」は正面、「足」は横からになっている

絵に短縮法(foreshortening)を入れたのは、ギリシャ人だという。手前のものは大きく、奥のものは小さく描くことで、「見えている」ことを表わそうとした。ルネサンス期においても、遠近法や解剖学の知見により、「世界はこう見えるはず」という前提に則って描かれてきた。

しかし、世界は本当に「見えるように」描かれてきただろうか。美しい肉体美を生き生きとした形で「リアルに」表現した作品であるならば、それは、「見えるように」ではなく「見たいように」描かれた理想像にすぎない。また、毛の一本一本や各部分の輪郭を精密に描いたとしても、それは拡大された世界であって、決して見る人(≠描く人)が見る像ではない。本書では、ダ・ヴィンチとミケランジェロ、ラファエロとティツィアーノ、コレッジョとジョルジョーネ、デューラーとホルバインといった巨匠たちの作品を一つ一つ挙げながら、こうした問題がどのように取り組まれていったかを詳しくたどる。

いちばん驚いたのが、レオナルドの『モナ・リザ』だ。これは、見る人に想像の余地を「わざと」残している作品だという。人間の目の仕組みを知り尽くしているからこそあんな風に描いているというのだ。人は「そこにある」ことが分かっている物については、適切なヒントを与えることで、目が勝手に形を作り上げてくれる。輪郭線をくっきりさせず、形が陰の中に消えて、形と形が溶け合うように、柔らかい色彩でぼかして描く。この仕掛けを教わった後、図版と向き合うと、まるで初めてかのように見え、動いていないのに残像を見るような思いがする。この喜びは、新しい目をもらったようなもの。

それでもしかし、とまだ続く。ロマネスクからロココまで、さまざまな様式や手法どおりに世界は「見えている」のか、と逆照射する人が出てくる。茶色の縦線は木、緑の点は葉っぱ、肌の色あい、水、空、光……自然の事物にはそれぞれ決まった色と形があり、その色と形で描いたときに、対象を見分けることができる───この信念に疑問を投げかけ、乗り越えるために傑作をものにした人がいる。マネとその後継者が色の表現にもたらした革命は、ギリシャ人が形にもたらした革命に匹敵するという。

つまり、人が世界を「見て」いるとき、対象のそれぞれが固有の色や形をもってそこにあるのを見ているのではなく、視覚を通じて受けた色彩の混合体を感じていることを発見したというのだ。そしてその発見を絵というメディアにするとき、犠牲になったのは「正確さ」だという。

セザンヌは、色彩によって立体感を出すという課題に没頭していた。色の明るさを殺さずに奥行きを感じさせ、奥行きを殺さずに整然とした構成にするために労苦を重ねた結果、多少輪郭がいびつでもよしとした。ゴッホは、写実を至上としなかった。本物そっくりに描いてある絵を指して、「立体メガネ」で見ているようだと言ったという。彼は、絵によって心の動きを表わしたかったという。感情を伝えるためなら、形を誇張し、歪曲することさえあったというのだ。

著者は、ピカソに代わって言う。「目に見える通りに物を描く」などということを、われわれはとっくにあきらめている。そんなことは所詮かなわぬ夢だったのだと。描かれた直後から、いや描いている途中から、モティーフはどんどん変化してゆく。はかない何かを模写するのではなく(カメラが一番得意だ)、なにかを構成することこそが、真の目的だと。あるモティーフ、たとえばヴァイオリンを思うとき、人はヴァイオリンの様々な側面を同時に思い浮かべることができる。手で触れられそうなくらいクッキリ見えているところ、ぼやけているところ、そうした寄せ集めこそが「ヴァイオリン」のイメージなのだと。

本書を読むまで、わたしには、ピカソのヴァイオリンが理解できなかった。これをヴァイオリンの絵として見ろというには無理があると思っていた。が、これはゲームなのだという。つまり、カンヴァスに描かれた平面的な断片を組み合わせて、立体を思い浮かべるという、高度なゲームなのだと

二次元で三次元を表現するという、絵画にとって避けられないパラドクスに対し、これを逆手に取って新しい効果を出そうとする試みが、キュビズムになる。見るとは何か? から出発し、これほど明快なキュビズムの説明は受けたことがない。分からないから、と忌避していた自分が恥ずかしい。

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ヴァイオリンと葡萄

このように、「見たままを描く」テーマで駆け足で眺めたが、ほんの一端だ。ラファエロの構図の完璧さや、フェルメールの質感が、なぜ世紀を超えた傑作たりうるかなど、歴史の中に位置づけて説明されると腑に落ちる。いわゆる名画を単品でああだこうだと眺めてきたなら、絶対に見えない場所に連れて行ってくれる。

制作を支える技術から、それを成り立たせる社会情勢まで視座に入れているため、ずっと抱いていたさまざまな疑問に答えてくれているのも嬉しい。たとえば、偶像崇拝を禁じたキリスト教で、なぜ聖画があるのか? という長年の謎に対し、図像擁護派の巧妙な主張を示してくれる。

慈悲深き神は、人の子イエスの姿をとってわれわれ人間の前にあらわれる決心をされたのですから、同じように、図像としてご自分の姿を示すことを拒否されるわけがない。異教徒とちがって、われわれは、図像そのものを崇拝するのではない。図像を通して、図像の向こうの神や聖人たちを崇拝するのです。

宗教画は、読み書きができない信徒たちにとって、教えを広めるのに役立つ。すなわち、文字が読める人に対して文がしてくれることを、文字の読めない人に対しては絵がしてくれるというのだ。もちろん容認されるモチーフや構図に制限がついてまわるが、その範囲でなら作り手たちの創造性に任されていたという。

読んでいくうちに、過去の記憶がどんどん呼び起こされていくのも面白い。出だしのラスコー壁画のトピックは中学の国語のテストで、レンブランドの生々しい自画像の話はZ会の英語の長文問題で、そして教会建築のアーチ断面におけるヴォールト構造の記述はケン・フォレットの『大聖堂』で、読んだことがある。

本書は美術の権威として、さまざまな種本となっているのだ。本書は、これからわたしが見る/見なおす美への新しい視点のみならず、かつて通り過ぎるだけで見落としていた美について、新しい光をもたらしてくれる。

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前半が文章、後半が図版で、照らし合わせながら読める(そんな読者のためにスピンは2本ある)

一生つきあっていける、宝のような一冊。


スゴ本2024

「あとで読む」と思った本が、後で読まれた試しがない。

この「あとで読む」は、「あとで再読する」も含まれる。わたしが明瞭な状態で読み・書き・語れる時間は限られている。

「あとで」と開き直り、積読のメリットを語っても、虚しいだけ。その「あとで」は決して来ない。他人はともかく、何よりも未来の自分が許さない

だから、いま読む。最初の一頁だけでも、背表紙だけでも読む。焦りながらも読むし、のんびりとも読む。精読も再読も耽読も音読も速読も遅読もする。クリティカルにも読むし、斜めに読み飛ばし読みもする。だが、「あとで読む」という選択肢はない。

一方で、本は待っていてくれる。わたしが手にして、読み始めるのを、辛抱強く待ち構えている。それに甘えて、読むべきと思っている山に手を付ける。

読書猿さんからお薦めされた『経済人類学入門』(鈴木康治)、半分まで読み進めた『なぜフィクションか』(シェフェール)は読み切る。『統計学を哲学する』(大塚淳)は動画とともに学びを深めるつもり。

『ストーリーの起源』(ブライアン・ボイド )は図書館の貸出期間の2週間で読み切れないので原書に挑戦する。ケンダル・ウォルトン『フィクションとは何か』は一読で腹落ちしないので再読する。

再読の優先順は、マングウェル、漱石、ナボコフ、川端だ。再読すると、驚くほど「私が」変化していることに気づかされる。テキストは変わらず私を待ってくれるのだが、読んでる私の感性と経験が変わってしまっているのだ。

もちろん、新しい本も読む。「新刊本」という意味ではなく、私にとって未知の出会いとなる本に、積極的に手を伸ばしていく。

私を震わせ、揺るがせ、行動を変えていくようなスゴ本は、これからもブログや twitter で発信していく。

もしあなたが、「それが良いならコレなんてどう?」というお薦めがあれば、ぜひ教えて欲しい。それはきっと、わたしのアンテナでは届かない、震わせ、揺るがせ、行動を変えていくようなスゴ本に違いない。

なぜなら、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるのだから。

N/A

 

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本を読むときに起きていることを、この本を読むことで体感させてくれる『本を読むときに何が起きているのか』

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本を読むときに私の中で起きていることを説明するのは難しい。それは本によるだろうし、私の状況(読んでいる時と場所、私自身の体調)にもよる。そして、私がその本を手にするまでに読んできた本や人生経験にも左右される。

けれども、それでも、カフカのを読んでいるときの、「あの言い様の無い不安な感じ」は、分かってくれるだろうか?ビジュアルにするとこんな感じ。

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『本を読むときに何が起きているのか』p.316より

一文が長く、複雑な構造を持っており、説明的である一方、そこで何が述べられているかを解くのが難しい。具体的な説明が省かれ、曖昧で無機質な表現が解釈の余地を持たせつつも、物語がどちらに向かっているのか分からないため、読み進むにつれ、不安感や圧迫感を抱くようになる。

「本を読む」とはそこに書かれている内容を読み取ることだから、己の動機(カフカを読もう!)に従って読もうとはするのだが、先に述べた(説明的だけど)曖昧な描写から逃れられず、目が泳ぎ、「これはなんだ?」と自問するようになる。

画像はカフカ『アメリカ』(『失踪者』の方が有名かも)を読むときの、視線のさまよいをビジュアルにしたものだ。ニューヨークの景色が光の乱反射として描かれているため、視覚模様は直線的になっているが、私の心象だと蛇行した光線のイメージになる。

あるいは、ボルヘスを読んでいる時のイメージはこれ。

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『本を読むときに何が起きているのか』p.317より

ボルヘスを読んでいると、何か巨大で複雑な構造体が描かれているような気になってくる。語り手は、構造を順序だてて語ろうとするのだが、大きすぎて全貌がつかめないような印象になる。

引用したイメージは、『エル・アレフ』の迷宮的構造に落とし込んだ文章だ。一文は部分だけど、見切れた先もまだ続いていることが分かる。さらにそれぞれの文が何かしらのルールに則って構成されているようで、その構造体の一部分がいま目に見えている……そういうビジュアルだ。

物語全体が無限の構造を暗示しつつも、抽象概念と具体的なディテールの絶妙なバランスを保った書きっぷりなので、分かるけれど分からない不安感に襲われる。ボルヘスの魅力は、読者に認識可能な部分だけを提示し、全体像を暗示することで、まるで巨大な迷宮に入り込んだかのような体験を提供する点にある(『エル・アレフ』は空間的構造だが、「八岐の園」だと時間的になるので、合わせて読むとさらに酔える)。

『本を読むときに何が起きているのか』がユニークなのは、本を読むときに私の中で起きていることを、この本を読むことで私に示そうとしている点にある。ある個所は、上述のように視線のベクトルや心象をビジュアライズして「起きていること」を解説する。

あるいは、「起きていること」を音で説明しようとする。もちろん印刷された言葉そのものは、音を発しない。だが、それを読んでいる私たちの頭の中で音が出ているというのだ。

例として、イーディス・ウォートン『歓楽の家』の人物描写を持ち出してくる。彼女と並んで歩いている時に感じる幸せでいっぱいになる描写だ。

彼女が並んで、足取りも軽く、大股に、歩き始めると、セルデンは、彼女に連れ添っていることに、贅沢な心地よさを感じた。小さな耳の肉づけ、細かく上向きにカールした髪のウェーヴ―――髪はわざと少し明るい色に染めているのだろうか?―――それに長い豊かな黒いまつげなとにも、同じような満足感を感じた。

As she moved beside him, with her long light step, Selden was conscious of taking a luxurious pleasure in her nearness: in the modeling of her little ear, the crisp upward wave of her hair—was it so ever so slightly brightened by art?—the thick planting of her straight black lashes.

彼女と並んで歩いている時の幸せな気持ちは、描写に含まれる「音」にあるという。翻訳だと聴こえないが、ここだ。

Long light step...luxurious pleasure...black lashes...

L(ラ)だけ抜き出すと、まるで「ラララ~」と歌っているようではないかという。さらに、lo と ligh (ロとライ)、xur と sure (ジュアとシュア)、bla と la(ブラとラ)と、リズミカルな音が浮かび上がってくる。

これ、音読すると聴こえてくる。普通、小説を読むときは音読しないが、文字列を目で追ううちに頭の中で「ラララ~」が再生される。彼女と一緒に歩く幸福感が、意味的にではなく、音響的に伝わってくる。

言葉が持つリズムや音域、擬音は、読者との間に共感的な影響を与えることになる。詩人が使う技法がこれだ。

かなり興味を惹かれたのが、「本を読むこと」と「読んだ本を思い出すこと」は違うという主張だ。

ある物語が書かれた本について、「その本を読んだ」というとき、私たちは、その本に描かれた物語を知っている。そして、「私たちが知っている」こととは、「心象」と「描写すること」の物語にすぎない(←これは、「本を読む経験」そのものとは異なる)。

読んだ本を思い出す時、私たちは、そこに描かれた物語で展開されるイメージ群を見ている。そのため、読書体験は、映画鑑賞のようなものだと想像しがちになる。

だが、じっさいはそうではないという。読書は映画鑑賞ではないし、映画鑑賞のようなものですらないという。そこに展開された言葉や文章に没頭し、頭だけでなく自分自身の体感も含め、再構成しようとする。その本に没頭すればするほど、この再構成の経験(=読書体験そのもの)が無自覚的になる(文字通り、「夢中」になっているから)。

読書の物語は、記憶された物語だ。私たちは読書する時、没頭する。没頭すればするほど、経験に対して分析的な思考を向けることが難しくなる。だから、読書の感想を語る時、私たちは「読んだ」記憶について話しているに過ぎない。

そしてこの読書の記憶は正確ではない。

本書の狙いはここにある。「読んだ本を思い出すこと」という話なら、数多くの書評や感想が既にある。そうではなく、「本を読むこと」そのものが、どのような経験なのかに焦点を当て、「その経験」がどう感じ取れるかを説明しようとする。

言葉のビジュアルの間にあるものと、目と頭の間にあるものを可視化する一冊。



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人はどういう思いで積読するのか? 12人の積読家へのインタビュー『積読の本』

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読むスピードより買うスピードの方が早いのだから、棚からあふれた本が積まれていくのは当然のこと。後はフトコロと置き場所と罪悪感の折り合いをどうつけるかの話にすぎぬ。

にもかかわらず、積読ネタの本が出回っているのが面白い。積み人たちそれぞれの言い分(言い訳?)を聞いていると、「あるあるw」と首がもげるほど頷いたり、「こいつ正気か?」とドン引きしたり、楽しいひとときとなった。

「なぜわたしたちは本を積んでしまうのか?」と問いかけながら、12人の積読家たちの溢れんばかりの書棚とともにインタビューしたものがこれ。全員が全員、答えが違っているのが面白い。

  • 本棚に入れてしまうと積ん読じゃない
  • 読まない本を買っているのではなく、自分のための図書館を建てている
  • モノとして残らない電子本は、浪費している気がする
  • 背表紙が見えない本は他人の本みたい

私の感覚と違っているのが、「積ん読に罪悪感をおぼえる段階は通り過ぎた」という人。その気持ちは分かるし、そう言えれば自分を慰めることだってできるのだが、こうなったらオシマイだと思っている。

積ん読になってしまうのは仕方ないとしても、そこに後ろめたさを感じつつ、新たに買ってきてしまう業に身を焦がすのが人の常。積読は必要なんだと自分に言い聞かせ、まだ読んでない本がこんなにあるという喜びと、これらを読む前に自分の命が尽きるだろうという焦りに挟まれる。読みたいけど積んでしまう、アンビバレンツな煩悩が積読なんだ。

しかし、そこを開き直ってしまうのは、やせ我慢を通り越して危うさを感じる。

私の、生物としての命が尽きるよりも、かなり前に、本が読めなくなるだろう。目がかすれ、集中力が落ち、なによりも体力が続かなくなる(そう、本を読み通すのには体力が必要だ)。寿命よりも健康寿命が短く、健康寿命よりも読書寿命はもっと短い。

その時は、罪悪感どころか、はっきりと後悔することは目に見えている。山を前にして、なによりもまず、自分自身が許せないと責めたくなるだろう。

そうなる前に、「読みたい!」と感じる本は、わずかでも齧っておきたい。味読できるうちに、楽しめるうちに、味わっておきたいのだ。積読には賞味期限がある。おいしく味わって読める時間は、あとわずかだ。

そうではなく、単に「あとで読む」「いずれ使う」と積んでいるだけの人にとっては、それは「本」などではなく「資料」なのだろう。

全部が全部とは言わないが、学者や作家、編集者が蒐集しているのは飯の種に過ぎぬ。面白さや楽しさよりも、飯の種を「読んでいる」のではなく「参照している」のだ。そのフトコロから出した代金のいくばくかは経費として落ちる資料と、なけなしの財布をはたいて買い求めた挙句、わたしの傍で焦燥感を掻き立てている山は、本という形をしているものの、別物なんだという気になる。

どうあがいても焦っても、読めないものだとあきらめても、読むしかない。コツコツと積んでは崩し、積んでは崩していくのだろう。

12人の積読感に触れながら、そんなことをつらつらと思った。



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「なぜ30%値下げできないの?どれくらいなら下げられるの?」「できるか、できないかで答えてください」と高圧的に言われたらどうするか?『戦略的交渉入門』

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「その価格では厳しい、30%下げてほしい」と、初手から無理な数字をふっかけてくる。それは難しいと答えると、「なぜですか?どの程度なら下げられますか?」と畳みかけてくる。答えに窮すると、「できるのか、できないのか、答えてください。できないなら議論は終わりです」と言い放つ。

価格交渉や要件定義の場で、高圧的な態度で話す人がいる。相手を説き伏せ、自分の思い通りの結論に持っていきたがる。一方的にまくし立てて、質問に質問を重ね、相手に話す機会を与えない。

典型的なパワープレイ、二分法、アンカリングの交渉術である。これらはビジネス上の技法であることを、そもそも知らなかった若いころは、さんざんやられたものだ。顧客だけでなく営業や上司からもやられたことがある。

そして、交渉の「術」だから対策がある。『戦略的交渉入門』には、こうした交渉「術」への対策がふんだんに盛り込まれている。

「なぜ30%下げられないの?」への対策

まず、この質問をすること自体がおかしいことに気づく必要がある。

「30%値引きせよ」と言ってきたのは相手だ。「その価格が厳しい」のはなぜか?価格だけが論点であり、他は交渉の余地が無いのか?そもそも、なぜ「30%」なのか?(30なんてバカの数字じゃねーか!)。

冷静に考えるならば、こうした疑問点が湧き上がり、そんな質問にまともに応対する必要すらないことに気づく。だが悲しいかな、人間は質問されると答えなければならないと感じてしまう生き物なのだ

質問されると、それが思考のトリガーとなって回答を探し始めてしまう。礼儀正しく質問されると、たとえ答える必要のないものでも、社会的礼儀上、無視することができない。その結果、できない理由を考え始めてしまう。

さらに「30%」という大きな数字に引っ張られることになる(アンカリング)。「30%は無理」→「それなら20%ならどうか?」などと、前提も整理しないまま、数字の交渉になってしまう。結果、「アンタでは話にならない。持ち帰って検討してくれ」と言われてしまい、「どうしたらできるか」と「20%ならできるか」が宿題にされてしまう。

この、質問することで有利な立場に立とうとするやり方は、交渉相手のみならず、上司や営業の連中も使ってくる。上司の上司や、お客の要求にハイハイ言ってきた自分自身を棚に上げ、「どうすればできる?」と質問する。

まずオマエが真っ先に、「なぜ『できる』なんて答えたのか?」を説明しなければならないのに、どうしてオレが「できない理由」を考えなきゃいけないのか?小一時間問い詰めたい。

そして、できない理由を並べ立てても、その一つ一つを「それをクリアすればできるのか」「どうやったらできるのか」の議論に持っていってしまう。最終的には、「できないできないと文句を言うのではなく、どうすればできるのかを考えるのがあなたの仕事だ」とまで言い放つ。

この返し方は、「説明を押し付ける技術」として、『議論の技術』とともに解説している。「なぜ30%下げられないのか?」という議論の前に、そもそもの言い出しっ屁が「なぜ30%下げて欲しいのか?」を説明する必要がある(立証責任のルール)。そこを端的に聞くことで、押し付けられた立証責任を相手に打ち返すことができる。

このとき、相手の放った質問に質問で答えることになる。よく、「質問に質問で答える」ということは良くないことだと言われる。しかし、この場合は失礼ではない。なぜなら、立証責任は相手方にあるからだ。「どうしてそんな質問が出てきたのか、その理由や背景を教えてください。そうすることで、あなたの質問の意図をつかめますから」と返すのだ。

すると相手は、「価格競争が激しくなってきて~」とか「社内での圧力が厳しくて~」とか理屈を色々と言ってくるだろう。営業担当は即席で理屈をでっち上げるのが上手なので、思わず「なるほど」と思ってしまうかもしれぬ。

『戦略的交渉入門』は、理由にならない理由に納得してはいけないと説く。理由っぽく聞こえる「激しい」とか「厳しい」には、何の数字も根拠もない。「それ、あなたの感想ですよね?」とか「データやエビデンスを出してみろよ!」とツッコミを入れたくなるが、そこは我慢して、「形容詞を説明してもらう」ことに専念せよという。

相手の根拠を疑うようなので、角が立つかもしれないと心配になるかもしれぬ。だが、ここが重要だ。「値引きが必要であるということを社内でも通すために、価格競争においてどんな状況なのか、何がどの程度『厳しい』のか、もう少し詳しく教えてください」というのだ。

相手の主張を支えるデータや根拠を求め、相手に答えてもらう。結果が曖昧であやふやであってもいい。「厳しい状況が~」とか「昨今の情勢で~」といった抽象的であってもいい。「30%値引き」という要求には具体的な裏付けがないことを間接的に理解させ、「その要求で説得することは難しい」ということを分かってもらうために、答えてもらうのだ。

そして、そこで返ってきた言葉は、必ず記録すること。交渉の終了時、メールでの返信時に、その言葉をそのまま使うのだ。「厳しい状況が~」という相手のセリフそのまんまを使う。そしてこちらは、提示した価格が妥当である根拠を、具体的に説明すればいい。

「できるか、できないかで、答えてください」への対策

「できるか、できないか、どちらですか?」―――典型的な二分法だ。

稚拙なバージョンだと、「A案かB案のどちらかありません」というのがある。営業がよく使う手で、「顧客の要望どおり30%値引きするか、この案件は失注しかありません。どちらにするんですか?」とか迫ってくるやつ。

もちろん失注はイヤだし、失注させた責任を取らされるのもイヤだ。イヤなら値引きを受け入れろという卑怯なやり方だ。

しかし、これも冷静になって考えると分かる。C案やD案は無いのだろうか。例えば、30%までは無理だとしてもある程度の値下げを飲みつつ長期契約に結びつけるとか、値下げをしない代わりに他の要望が無いかを探るといった絡め手は考えられないだろうか。

A案B案で迫ってくる人には、「他の案は考えたのでしょうか?なぜその二択しか無いと考えるのでしょうか?」と返せばいい。

厄介なのは「できるか、できないか」の二択で詰めてくる連中だ。

この場合「できる/できない」しかない。この二択以外の選択肢は無いのだから、C案やD案は論理的に存在しない。

そして「できない」と答えると、「なぜできないのか?」と畳みかけてくる。この場合、できないと言っているのはこちらだから、できない理由の立証責任はこちらにある。「できる」と答えると、それで言質を取ったつもりになって、「じゃぁ、やって」と結論づける。

「できるか、できないか、言ってみろ!」という状況は、かなり切羽詰まっている。だから、この問いの中に無い前提が見えにくくなっている。問いかける方も答える方も、感情的になっているかもしれぬ。

「できるか、できないか」の選択肢にある欺瞞は、「目的語が無い」という点にある。この問いで詰めてくる連中の戦略は、まず目的語を省略することで、言質を取る。次に、目的語に相当する「何を」とか「いつまでに」とか「どれくらいの品質で」といったものは、フリーハンドにさせるのだ。

ひょっとすると、「できるか、できないか」の判断は、「何を」に依存するかもしれぬ。例えば、機能を削減したり、構成を簡略化したり、1回あたりの出荷数を減らしたりといった工夫によって、「できる」になるかもしれぬ。

あるいは、「いつまでに」を調整して、「できるけれど、リリース時期を後ろ倒しさせてほしい」という前提なら、「できる」かもしれぬ。さらには、最初はお試し版にしてリリースした後、後からブラッシュアップするといった交渉が可能かもしれぬ。

こうした交渉の中身をすっ飛ばして、「できるか、できないか」を迫るのは、言質を取って有利に進めたり、有利な立場に立つための戦略なのだ。

本書では、こうした連中に対し、「まともに答えない」という対策を提案している。

つまり、この話題から離脱するという、「はぐらかし」の戦術が有効だという。例えば、「そのお話に行く前に、御社からご要望いただいている品質について調べてまいりましたので、ご説明したいのですが~」とか、「その話をする前に、前提となる条件について整理したいのですが~」と、問いをかわしてしまうのだ。

もし、相手が話題の転換を拒否したり、渋った場合は、開き直ればよいと説く。すなわち、「現時点ではあなたのご提案にお答えすることになると、私どもとしても厳しい条件しか提示できません。これはかえってお互いにとっての利益にならないのではないでしょうか」と諭す。この場で即答すると、こちらとしても最低限のラインになるという含みを持たせるのだ。

できるか、できないかという二択の前に、「何を」、「いつ」までに、どの程度の「品質」でといった前提の上での議論が必要だ。さらに、契約期間や内容をどうしていくかも含めて交渉する必要がある。そうした前提を飛ばすのなら、交渉が成立しないという「正論」で攻める。

パワープレイには「対話」で攻める

こちらの正論に対し、高圧的な態度で来る人がいる。

矢継ぎ早に質問をすることで優位に立ち、議論の方向性をリードしようとし、極端な数字をふっかけ、「二分法」で決着をつけようとする、パワープレイヤーだ。

パワープレイヤーは、自分と相手との力関係を測定し、自分が強いと分かったら相手に対し強硬な姿勢を取り、自分が弱い立場なら相手には低姿勢や従属的な態度を取ることで合意を形成しようとする。

たいてい発注者や上司といった立場的に上の人がやりがちな戦略で、言葉や態度でプレッシャーをかけなくとも、温厚な発言で交渉決裂を匂わせるといったスタイルの人もいるので、非常に厄介だ。

たしかに厄介なのだが、攻略の方法はある。

まず、パワープレイヤーの交渉スタイルは、比較的ワンパターンだという。基本形は、自分の強さや立場に依存し、相手を威嚇するというもの。威嚇手段も簡単で、こんなロジックで自分の利益を一方的に主張する。

  1. 交渉が決裂したとしても自分が失うものはない
  2. だから、私はあなたよりも強い
  3. したがって、あなたは譲歩するべき

このような交渉スタイルに決定的に欠けているものは、「対話」という発想だという。

交渉のテーブルに着いているのは、利害や立場の異なる人にある。そのため、最初の時点では、それぞれの主張は、当然ながら異なる。しかし、意見の相違を確認した後、そこを出発点として、アイデアを出し合い、互いに利益にある選択肢を形成していく。どちらかが優位に立つとか、相手を従属させなくても、双方が満足できる合意があるはずだと考え、話し合いにより探っていく。こうしたアプローチは、パワープレイヤーが最も苦手とするやり方だ。

一般的に、パワープレイヤーは強烈な自尊心を持っており、自身の意見や価値観に対する防衛本能が強いという。つまり、「自分の意見を受け入れてくれるかどうか」に強い関心を抱いている。自分の意見を受け入れさせるためには、自分の優位性を強調しなければならず、敵対する相手に対して常に威嚇し続けるしかないという発想に囚われているというのだ。

まず、パワープレイヤーの戦術に乗ってはいけないという。カッとなったり不安を抱いたりしたら、相手の思うツボになる。交渉相手を批判せず、冷静に自分たちの主張を維持し、そしてパワープレイヤーの意見を理解することだけに集中しろという。

相手に対して何かを主張する場合は、必ず次の3点セットでアプローチせよという。

  1. 自分たちの提案や要求の内容
  2. なぜその内容や提案が合理的なのかの説明
  3. その提案によって互いの合意がどのように変化するのか(特に相手にとってどのようなメリットがあるのか)

パワープレイヤーに対して敵対的になるわけでもなく、ましてや卑屈な態度になるわけでもなく、一貫して「提案」「合理性」「相手のメリット」を言い続ける(アサーティブな主張という)。相手の態度に左右されることなく、淡々と理詰めで行くのだ。

するとパワープレイヤーは、なんとかして話を捉えて説得しようとする。いつもより饒舌になり、こちらの質問に答えようとするだろうし、自説のメリットを説明しようとする。

このとき、あえて反論しようとせず、積極的に相手の言い分を聞くことが重要だという。「なるほど」と軽く相づちを打ちながら、相手の話を理解しようとする姿勢を見せる。

ここで注意すべき点は、理解することと譲歩することをハッキリ態度で分けることになる。例えば、相手の話の中で、自分に不都合な内容が出てきたとき、あえて相づちを打つのをやめたり、「なるほど」という発言を行わず、沈黙&注視するのだ

パワープレイヤーは、交渉相手に強硬な姿勢を取ってはいても、どこかで相手から何かしらの承認を得たいと考えている。自分の意見を認めて欲しい、自分の優秀さや存在意義、そして自分が交渉上手であることを承認してほしいという欲求があるという。

このような承認欲求の強いパワープレイヤーは、こちらの反応に対して強い関心を持っている。そのため、傾聴しつつも、ところどころで相づちや反応が無くなると、非常に不安になってくるというのだ。

「意見は理解しようとしつつも、譲歩はしない」こうした態度を取り続けていると、いつものやり方では通用しないことが分かってくるはずだ。パワープレイヤーはいらだちを見せ、決裂をちらつかせたりするかもしれない。しかし、こちらはそれに対抗して強硬な態度を見せない限り、パワープレイヤー側の打ち手は無くなってしまう。

そして、パワープレイヤーの主張に対しては、真っ向から否定するのではなく、パワープレイヤー自身に考えてもらえと説く。具体的には、「あなたのご提案を受け入れた場合、最終的にどのような合意内容になるのか、教えていただけませんか?」といった問いかけ効果的だという。

パワープレイヤーの提案を前提にすると、当然、こちらに不利な帰結になる。それを、パワープレイヤー自身の口から説明させることに効果があるというのだ。一般に人間は、自分のことを公正なものだと思っている。そんな自分が、相手に著しく不利なことを主張している―――それを自分自身の口から語ることに抵抗があるだろう。しかし、それをあえて説明してもらうことによって、パワープレイヤーの主張がこちらにとって受け入れがたいものであることを、気づいてもらうのだ(まぁ、この対策は、納得づくでパワープレイを仕掛けてくる人には通用しない。そういう邪悪だがビジネスとしては「正しい」やり方をする人に当たったら、諦めるしかない)。

相手の態度に反応せず、相手の提案や発言内容に集中して交渉する。口調や表情から読み取るのではなく、相手の意図を言葉から判断する。いわゆる空中戦にさせず、ホワイトボードやテキストの画面共有など、「書きもの」に落とし込んで、そこで是々非々を語るのも良いかもしれぬ(「相手/自分」の主張と、合意した場合の「メリット/デメリット」の四象限の表にまとめるのもあり)。

最重要のリソース「集中力」を確保するためのBATNA

アンカリング、二分法、パワープレイ等、本書で紹介される様々な対策は、私の経験に照らし合わせて見ても、極めて有効だ。

その中でも、最も蒙を開かされたのはBATNAの価値だ。BATNA(バトナ)とは、Best Alternative to a Negotiated Agreementの略で、交渉がまとまらなかった時の打ち手のことだ。例えば、部品調達の交渉において、交渉相手とは別の調達先を検討しておくことがBATNAになる。

ただ、ビジネスの現場では、簡単に別の調達先が見つかるとは限らない。交渉相手も、それを知っているからこそ、足元を見てくる場合もある。

しかし、そうした場合であってもBATNAは有効だという。交渉決裂時の状況をシミュレートしながら、現在の取引の価格や条件を、別の視点から再評価するツールとして使えというのだ。

例えば、「その部品を必ず使わなければならないのか」といった観点や、「代わりの取引先が見つからないまま、プロジェクトを進めるとどうなるか」といった視点から、交渉の価値を見つめ直すのだ。

その結果、交渉が決裂した場合、「代替品を使うことによるコストが〇%増加」や、「〇年まで製品の出荷が半減する」といったリスクが見えてくる。

もちろんコスト増や出荷減は避けたいものの、そうしたリスクを、交渉前に予め把握しておくことができる。交渉決裂時の損失を冷静に見出すことで、「コスト増に対する打ち手」や「出荷減による対策」を念頭に入れて、スタートラインに立つことができる。

交渉のテーブルに着く時、「もし、相手と合意できなかったらどうしよう?」と漠然とした不安に駆られるだろう。交渉相手はそうした不安を煽ったり利用しようとするかもしれない。

しかし、BATNAを検討し、交渉の目的をゼロベースで考えることにより、「漠然とした不安」は、「(困難かもしれないが)打ち手のあるリスク」に変化させることができる。

おそらく、あなたは、コスト増や出荷減への打ち手を検討する権限はないかもしれぬ(あくまでも、いち交渉人なのだから)。「それは私の権限ではない」「そんなの机上の空論だ」と言いたくなるかもしれぬ。それでも、上手くいかなかった場合の影響を掌握することで、「恐怖そのものに恐怖する」といった心理状態から脱出することができるだろう(いわゆる、腹をくくるというやつ)。

また、交渉決裂時の状態をシミュレートするにあたり、交渉相手の損失も検討することになる。ひょっとすると、自社よりも相手の損失被害が少ないということが判明するかもしれぬ。それでも、相手の損失がゼロでなければ、そこに打ち手はある。

交渉が上手くいかなかった場合を冷静に検討し、不安要素を言語化しておく。アンカリング、二分法、パワープレイが為された時の打ち手も対策しておく。こうした事前準備により、交渉中に不安や怒り、恐怖といった感情に流されたり、不合理な意思決定に身をゆだねてしまう危険性を、可能な限り除外することができる。

人のリソースは限られている。そして、交渉中に最も必要なリソースは「集中力」だ。集中力を損なわせる感情のゆらぎを排し、「協議事項とお互いの利益」に振り分けるために、予めBATNAを検討しておくのだ。

ハーバード・ロースクールで培われた、交渉による問題解決能力の入門書。痛い目に遭った人ほど「あるあるwww」と頷きながら読むに違いない。そして、幸いにもこれから交渉に臨む人であれば、「これ進研ゼミでやった」というガイド本になるだろう。



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