読むほどに酔うほどにハマる呪術的リアリズム『やし酒飲み』

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読み始めた瞬間、何かがおかしい。文を二度見し、首をひねりながら先を追う。冒頭からしてこれだ。

わたしは、十になった子供の頃から、やし酒飲みだった。わたしの生活は、やし酒を飲むこと以外には何もすることのない毎日でした。

「だった」と「でした」とが入り混じっている。誤植?まさか岩波文庫がそんなわけない。対等関係の常体(だ・である)と、フォーマルで丁寧な敬体(です・ます)が混在し、独特の語調を生み出している。

そして原文(英語)の方が違和感マシマシになる。

I was a palm-wine drinkard since I was a boy of ten years of age. I had no other work more than to drink palm-wine in my life.

「10歳の頃からずっとsince)やし酒のみだった」とsinceを使うなら、I have been~とする方が自然だろうし、「やし酒を飲む以外more than)何もしない」ならば more than じゃなくて except が普通じゃね?と思う。

この違和感は意図的で、わざと正しくない(broken)使い方をしているという。書かれた文章だけど肉声で語られているような感覚で、読むと酔うような文章に仕立てられている。もっとも原文が壊れているので、そのまま翻訳できない。「翻訳不能性」を逆手に取って、歪んだ日本語で語ることで、ねじれたリアリティを醸すように訳している(合わない人は悪酔いするかも)。

さらに、物語そのものは王道の「行きて帰りし」なんだけど、展開がブッ飛んでいる。

あらゆる死者が集まる街があり、親指が破裂して子どもが生まれる(急激に成長し大食漢になり親とバトルする)。木から腕が生えて木の内部に取り込まれた先に街がある。「死」は売買できて、「恐怖」は貸し出せる。

そもそも主人公が妙な術を使う。

やし酒を飲むしか能が無かったはずなのに、神でありジュジュマン(juju-man)だと名乗り、ピンチになると火や煙に姿を変えて難を逃れる(jujuとは西アフリカにおける呪術・まじないを意味する)。攻撃はもっぱら銃やナイフを使ったりする、神なのに。自分の死を売り渡してしまったので不死になるが、「恐怖」は返却されてきたので、「不死身なのに怖い」思いをする(←こういう発想が出てくる文化圏なのだ)。

現実の中に説明されないまま超自然現象が語られるのは、マジックリアリズム(魔術的リアリズム)と呼ばれ、マルケスやドノソが粘り気のある傑作を書いている。これに比べると、幻想色が強く、まじないや呪術が説明抜きで語られる本作は、ジュジュリアリズム(呪術的リアリズム)なのかもしれぬ。

これ、マルケスの魔術的リアリズムよりも、ずっと「まじない」に引き寄せられている。だから、物語に理屈や象徴を読み取る前に、まず呪われる。そんな、物語に呪われる語りの力がある

まるで見てきたように語られるのだが、「妖怪」とか「幽霊」といったラベルが通用しないところが幻想譚とは違うところ。カフカのような圧ある不条理文学なのかと思いきや、妙に具体的な数字を挙げてくる。

突拍子もない筋立てに、「四百人ばかりの赤ん坊の死者」とか「収容能力四十五人、直径百五十フィートの袋」あるいは「七ポンド十八シリング六ペニーで私たちの死を売り」なんて言われると、思わず想像してしまう。

これは詐欺師のやり方で、大真面目にウソを語るんだけど、数字を入れることで信憑性を増やす。最初に提示された数字に引っ張られて、その後の判断に影響を及ぼすことをアンカリング効果というが、その異種とも言える。数字を出すことで具体的に考えさせる思惑があるのだろう。この辺は、「ほら吹き男爵」として有名なミュンヒハウゼン男爵で用いられた手法なり。

こんな風に、読むほどに酔うほどにハマれる。空想の赴くままの寝物語か、酔っぱらいの回顧録を、クダ巻きながら聞かされるという感覚だ。いずれにせよ、読み終えたときには、こちらの意識まで千鳥足になっている。

これ、17年前の再読なんだけど、物語に酔っぱらって書いていることが分かる。無制限の想像力が爆発する「やし酒飲み」



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「正しさ」ではなく「マシな悪」を引き受ける『政治哲学講義』

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時速100km以下で即爆破する新幹線を描いたNetflix『新幹線大爆破』では、様々な選択が突き付けられる。中でも強烈なのがこれだ。

  • 強制停止する:はやぶさ60号の乗客・乗務員は助からないが、被害は限定的
  • 何もしない:終点の東京駅で、新幹線が大爆発を起こす

これは有名な、トロリー問題における運転手の選択になる。

【運転手】路面電車が暴走している。そのまま進めば5人が轢かれ、待避線に逸れると1人が轢かれる。運転手は進路変更すべきか?

旅客機をハイジャックし、満員のスタジアムに墜落させようとするテロリストがいる。これ阻止するため、戦闘機のパイロットがやったことを描いたのは、シーラッハの戯曲『テロ』になる。これは、トロリー問題の別バージョンだ。

【歩道橋】路面電車が暴走している。そのまま進めば5人が轢かれるが、歩道橋の上にいる男を突き落とせば止められる。突き落とすべきか?

トロッコ問題とも呼ばれるこのジレンマ、「運転手」バージョンと「歩道橋」バージョンで、別物に見える。「運転手」の方は問題として取り組むことができるが、「歩道橋」は問題以前の前提のところで禁忌を犯しており、問題として成立していないように思える。

言い換えるなら、「運転手」バージョンで、待避線を選び、1人を殺すことと、「歩道橋」バージョンで、男を突き落とすことついて、同じ「1人の命」なのに、本質的に違うように見えるのだ。

あくまでも<私には>そう見える話なのだが、なぜだろうか?

「人を傷つけるな」 vs. 「善いことをせよ」

『政治哲学講義』によると、それは衝突している義務が異なっているからだという。

義務には、「消極的義務」と「積極的義務」がある。「人を傷つけるな」といった義務が、消極的義務となる。一方で、「善いことをせよ」というのが積極的義務となる。両者は裏表のようで、このような関係になっている。

  消極的義務 積極的義務
遵守 加害しない(不作為) 善行する(作為)
違反 加害する 善行しない

「運転手」の問題は、どちらを選んでも「加害する」になる。そのため、「1人か5人か」を選ぶ消極的義務の中での問題となり、義務違反を最小化するために1人を犠牲にするという理屈は、一応は、成り立つ。

一方、「歩道橋」バージョンは、「善行する(5人を助ける)」と、「加害する(1人を殺す)」の衝突が起きている。

この場合私たちは、それぞれの義務を果たす、あるいはそれに背くといった、行為の性質の違いを考慮に入れなければならない。「歩道橋」の一人の加害が許されない理由は、異なった義務が衝突する場合、より厳格な消極的義務が優先されるからではないか。

『政治哲学講義』p.93より

たとえ5人を見捨てることになるとしても、「加害しない(消極的義務の遵守)」ことを優先する。作為の方が不作為よりも責任を問われることは、医療倫理の「何よりも害を与えてはならない(Primum non nocere)」にも繋がるという。

この考え方は、安楽死(尊厳死)の議論にも見出される。薬物注射で患者に死を直接もたらす積極的安楽死と、生命維持装置につながず、死にゆくままに任せる消極的安楽死だ。前者は殺人罪に抵触するとして規制されている場合が多いが、後者は法的・倫理的に許される余地があるという。

悪さ加減を選ぶ

世の中には、様々なジレンマがある。あちらが立てば、こちらが立たない。トロリー問題は、こうした問題を抽象化した思考実験の一つだろう。

私たちは、「限られたワクチンを誰に渡すのか」とか「感染拡大を防ぐために経済活動を制限するのか」といった生々しい問題に直面させられてきた。利害の対立が生じるときや、どちらを選んでも悪い結果を招くことが明白なとき、どうすればよいか。

普通であれば、「どちらが正しいか」といったべき論で考察されることが多い。正義論の原理原則があって、そちらに即したほうの選択肢こそが「あるべき」であるという組み立てだ。

だが本書は、そうした正義の命ずるままに選択を行ったとして、果たして「正義は達せられた」と胸を張れるかと問う。やむを得ない選択だとしても、そこに何かが損なわれたと感じたり、やりきれなさを感じるのではないかと指摘する。

そして、そうした割り切れなさを考えるために、考える立場として「どちらがマシな悪か」という悪さ加減からアプローチする。「正しさ」というポジティブな視点からではなく、「悪さ」というネガティブな見方から、選択の重さを測る。

特に政治的な問題がそうだ。

どちらを選んでも、非難されることになる。ひょっとすると選択したことにより自分自身が破滅する場合もある。それでも「よりマシな悪(lesser evil)」を選び、引き受けるために、どのように考えることができるかが、紹介されている。

  • 人望ある船員1人の命か、隊の規律か:メルヴィルの『ビリー・バッド』
  • 国家への忠誠か、家族の愛か:ソポクレス『アンティゴネー』
  • 燃え上がる邸宅から誰を先に救うか:ゴドウィン『テレマコスの冒険』
  • ハイジャック機の164人を撃墜してスタジアムの7万人を救うのか:シーラッハ『テロ』
  • サルトルの「汚れた手」vs.カミュ「正義の人びと」
  • 我が子を放置して貧しい人々に募金する:ディケンズ『荒涼館』

本書が優れているのは、このように具体的な事例として文学作品を選んでいること。トロリー問題のように、「問題」とするために背景や他の選択肢を切り捨てるようなことはしていない。「他にやれることは何か」「どう考えれば”悪さ”を減らせるか」という取り組み方をしているので、一件落着という形でスッキリしない。

だが、それが現実なのだろう。「正しい答え」なんてものはなく、どちらを選んでも手が汚れるし、後悔もする。であれば、よりマシな悪を引き受ける他なかろう。

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読書会に参加すると「問い」が増える―――『イギリス人の患者』読書会

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『イギリス人の患者』の読書会に参加した。

戦争で人生を破壊された四人の男女の物語を、詩的でイメージ豊かに描いた傑作だ。人生で3度読み、いまは原書に取り組んでいる。ブッカー賞受賞。

読書会では、予想を完全に裏切られたのが面白かった。何度も読んだので、答え合わせのつもりで参加したのだが、違う意見・異なる「読み」が飛び交い、たいへん刺激的だった。

それだけでなく、議論が白熱し、話をつなげていくうちに、私の中から新しい読み方が生まれたことに驚いた。一種の仮説に近いが、おそらく、この「読み」は新しい正解なのだろう。

作品をどう読もうと、それは読者の勝手だ。だが、より面白い読みや、さらに小説世界を深める読みの方が、「正解」なのだと思う。つまり小説の「正解」とは、その作品を面白くする視点の数だけある、と考える。

この記事では、読書会で得られた/気づいた「正解」を、問いの形でまとめてみる。なぜなら、これらの「正解」たちの裏付けは、これから私が読んで確かめる仮説にすぎないのだから。ネタバレを回避するよう、可能な限り配慮する。

「イギリス人の患者」とは誰なのか?

この謎が、読者を宙吊りにさせ、先を読ませる仕掛けになっている。

燃える飛行機の中から救出され、全身を火傷し、モルヒネのおかげで痛みをしのぐことができる状態の男だ。周りからは「イギリス人」とだけ呼ばれており、自分以外のあらゆることを知っている。

「あらゆること」とは、銃器や爆弾や航空機について、サハラ砂漠に棲む動植物について、トスカーナ地方のワインについて、何を問うても、即座に、明晰に答えてくれる。しかし、自分の名前や出自、過去については一切答えようとしない。

イギリス人を看護するハナ、彼女のおじさんであるカラバッジョ、爆弾処理にやってきた工兵のキップとの交流によって、現在と過去とが絡み合い、次第に明らかになってゆく。

初読時に私が抱いた印象は、「自分の過去を隠している」だった。身の危険を及ぼすことになるワケアリの立場のため、自分が誰であり、何を知っているのかを隠し、記憶喪失のフリをしているのではないか……そういう考え方だ。

もう一つ、「自分の過去を封印している」という考えだ。自分の愛が(結果的に)招いたことになる悲しすぎる出来事を、二度と思い出したくないがために、周囲からも自分からも心を閉ざしているのではないか……読書会では主流の意見だった。

それが、ハナやカラバッジョ、キップたちとのやり取りによって、次第に心を開いてゆく。最終的なトドメとなるのは、カラバッジョの「おまえ、分かっていたはずだ」という指摘だ。自分が隠していたこと、封印していたことが、実はそうではなく、筒抜けだったこと―――それを知らされたことがきっかけとなって、最後の告白になる。そういう物語構造だ。

とても納得感があるのだが、読書会で熱く語っているうちに、一つの仮説を思いついた。

「イギリス人」が誰か?この謎は、もちろん読者は知らない。だが、それだけでなく、「イギリス人」と呼ばれた男も、知らないのではないか?物語が進行していくにつれ、過去が断片的に描写されてゆくことで、男は、自分が誰なのかを思い出していく。同時に読者も、彼が誰なのかを知ってゆく。

死期を悟った男が「死ねば三人称になる」とカラバッジョに告げるのは、過去の中での自分を三人称で呼べる(名前で呼べる)ようになった、即ち、自分の名前を取り戻したからなのかもしれぬ。

この作品の裏テーマは、実は「記憶」であり、イギリス人の患者の「記憶」と、読者の「物語を読む」ことで知ることになる「記憶」を同期させる構造が仕込まれているのではないだろうか?

他にも、様々な問いがある。

ハナの恋愛

若く、美しい女としての一番の季節を、血と包帯と膿に費やしたハナ。ハナは、なぜ「イギリス人の患者」に惹かれたのか?

読書会で出した私の答えは、「名前が無いから」だ。死んでいく兵士たちを名前で呼んでやるのに精いっぱいだった日々を過ごすことによって、親しくなった人たちは皆死んでしまうことに打ちのめされる。それくらいなら、最初から名前の無い存在としての「イギリス人の患者」の傍らに居たほうが、心を痛めなくて済む……そう考えたのではないか。

しかし、この仮説だとハナがキップに惹かれる理由が必要になる。キップは健康な男だからと考えていたが、そこは、もう一度読む中で探してみよう。

物語に登場するオンダーチェ

読書会での指摘で気づいたのだが、作中に作者が出てくる。

地の文で明らかに作者としか見えないような形でコメントが為される。『ドン・キホーテ』のセルバンテスみたいに作者を自称してこないが、はっきり物言いをする。

語られている内容と語り手の知識にズレが生じるとき(イギリス人の患者が知らないはずの過去が語られるとき)、オンダーチェが語っていることが分かる。ここを鍵に、再読してみる。

ラストのキップの衝動的な行動にも、オンダーチェの「手つき」が透けて見える。戦争によって破壊された人生を、この上もなく美しく描くことで、戦争の醜さ、狡さ、邪なところを浮き彫りにしよとする「目つき」も見える(サハラ砂漠に引かれた戦線を獲りあうヨーロッパ諸国と、易々と交易するベドウィンたちの対照描写)。「物語への介入」とまでは言わないが、探すほど、作者の手つき・目つきが垣間見える。

何度も読んだはずの作品に、さらに「問い」が生まれることになった。4度目の読みで、これを確かめてみよう。これは読書会のおかげ。ちいさな読書部さん、ありがとうございました。



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読書猿の薄くて濃い本『ゼロからの読書教室』

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そもそも「本を読む」って良いことなのだろうか? どうして本を読むのだろうか?

恒常的に本を読む人なら誰しも、一度は(何度も?)問いかけたこの疑問に、正面から向き合ったのがこれ。その答えは、あとがきにある。

読書は誇るべき立派な行いではない。どちらかというと後ろ暗いことだ。こっそり楽しむ楽しみだ。(中略)我々の誰もが好きな本を読んでいいのと同じように、読まないことを好きに選んだって構わない。

私もそう思う。ここでは、楽しむための読書に焦点を当てているが、小説に耽るのはあまり誉められたことではない。

なぜなら、小説は「なんでもあり」だから。神話や叙事詩、戯曲、定型詩といった形式を経て生まれた小説には、韻律や構成の制約がなく、また、英雄譚や恋愛といったテーマの縛りもない。現実に起き得ないことも可能になるし、倫理や論理も超えるし、読者の中で完結するような曖昧さも許される。

さらに、世界を「知る」ことで支配したいという欲望を満たすことができる。物語を通して自分が経験し得ない人生や感情をシミュレートし、「私は知っている」という知的征服感覚を得られる。

一方、都合が悪い現実から目を背け、都合のよい(性癖に合致した)世界に耽溺できる。自分の価値観にぴったりの物語の中にいれば、現実に傷つけられず安全に承認欲求を満たせる。小説に耽るのは、一種の自慰行為―――精神的なオナニーなのかもしれぬ。

『ゼロからの読書教室』は、NHKの基礎英語に連載していた内容をまとめたものだ。中高生向けなので、もちろん「オナニー」という言葉は出てこない。だが、読書の「後ろめたい」愉しみを知っている人には伝わるだろう。

なぜ小説が良いのか?

では、フィクションを読むのは、楽しみのためだけなのだろうか? それでいいと思っていたが、面白い視点を得た。

それは、”物語は、事実の「意味」を変える” という視点だ。物語は、起きてしまう事実を変えることはできない。だが、その起きた出来事の解釈を変えることができる。つまり、同じ出来事であっても、物語があれば出来事の意味が変わる。

例えば、同じ人と同じ映画を見に行くとしても、その人が好きだから一緒に行くと思うなら、それは恋をしており、恋愛という物語を生きていると言える。相手のちょっとした言動が、嬉しかったり悲しかったりする。出来事が同じでも、どんな物語にするかで、人生における意味が変わってくるというのだ。

物語によって変えられた「意味」は、今度は現実に影響を及ぼす。「あの人の仕草は自分への好意?」という思い込みから始まる告白しちゃう流れは、ラブストーリーでよく使われる。

ラブストーリーなら微笑ましいが、ストーリーの力は悪用できる。普通の社会では殺人は最悪の犯罪だが、戦争を賛美する社会なら殺せば殺すほど英雄扱いされる。人殺しは極端な例とはいえ、「あいつらが私たちの平穏を脅かす」という「ストーリー」は、どのSNSにも溢れている

このストーリーの力に抗うにはどうすればよいのか?

そこで小説が登場する。小説を読むということは、物語の力とうまく付き合う方法を学ぶことになるのだという。

つまりこうだ、今まさに物語を生きている人は、その物語をウソだとは思わない。恋をしている人は、「この恋はフィクションであり現実とは関係ありません」とは思わない。

一方、小説を読む人は、それがフィクションだと自覚しながら楽しむ。密室で死体が発見されても、パニックにならずに、冷静に手がかりを探したり、前のページに戻って怪しい言動やアリバイを探したりする。

どれだけ没頭しても、小説の物語は、自分が生きているものとは違う。物語に対して、ちょっと距離をおいて冷静に眺められるようになる

物語の摂取なら、映画やドラマでもできる。だが小説は、知識と想像力を働かせて能動的に読む必要がある。自分のスピードで繰り返すことで、その嘘とうまく付き合うことができる。多様な物語に触れることで、嘘に対するある種の免疫がつくという。

これ、とても実感が湧く。

私一人のささやかな経験だが、フィクションに慣れ親しんでいる人ほど、嘘への耐性が強く見える。現実で語られるストーリーを、いったん「ストーリー」として受け止め、吟味できる(疑り深いということだが)。陰謀論にハマる人は、「話の出来過ぎ感」への感度が低いように見える

世の悩みのほとんどは、既に誰かが悩んでいた

では、小説だけが特別なのか?

世の大人(特に、中高生にとっての大人である先生や親)は、小説を読むことを読書と考えがちだ。取扱説明書や問題集や便覧を熟読する子に、「こんなの読書と呼べない」と言い放ち、挙句の果てに「子どもが本を読まなくなった」と嘆く。

もちろん間違っているのだが、本書はわりとキツい言い方をしてて笑う。そして、本は問題解決の手引きにもなってくれると言う。

世の中の悩みのほとんどは、既に誰かが悩んだことがあり、悩みを克服した人が本に書き残してくれているという。

もちろん、全ての悩みの解法が本にあるなんて言えない。だが、「ここまで考えた」経過までは残されているはずだ。だから、その本を探し当てることで、自分で悩むだけでなく、先人の悩みの足跡もたどることができる。

この「本に相談する」という発想から、本の探し方、知らない(でも必要な)本との出会い方、図書館の使い方、テーマの広げ/深め方が解説される。本に限らず、「信頼できるサイトの見つけ方」なんて、いまの中高生に最も伝えるべき情報だろう(国会図書館のリサーチ・ナビは義務教育のレベル)。

いま自分が抱えている悩みや問題と、それと同じ悩み・問題を抱えていた人をつなぐのが本だ。そのつなぎかた、言い換えるなら、「悩みを解決する調べ方」の調べ方が書いてあるのが本書だ。

もちろん、そこに印刷されているQRコードを読み取り、手を動かし始める中高生もいるかもしれない。しかし、すぐに反応しないかもしれない。それでもいいと思う。この本に、悩みの解決法の調べ方が書いてある―――それだけが伝われば、将来、自分がぶつかったときに思い出すことができるから。

そういう、次の世代への種となるような一冊。

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「色とは何か」を歴史、科学、芸術から解析する『色の歴史図鑑』

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「色は、実在しない」という、刺激的な一文から始まる。

え? そこらじゅうに「色」あるじゃない? むしろ色が無いなんてものは存在しない。色は常に実在し、たとえ私がいなくても、ずっと存続し続けるように思える。

ところが、これは誤解だという。私たちが知覚している色は、私たちの頭の中以外には存在しない。色は、いわば光のトリックであり、生物がそれを見て初めて現れるものだと言うのだ。

では、色とは何か? 

この難題に対し、物理学、美術史、心理学、文化人類学など、様々な分野から光を当て、浮かび上がらせたのが本書になる。さらには、宗教や絵画、食品・医療における配色の応用や、コマーシャリズムにおける色の役割にも踏み込む。

色は主観か客観か

様々な人が「色とは何か」の問題に取り組んできたのだが、中でも面白かったのが、ゲーテとニュートンだ。

色とは、客観的に測定できる光の性質に過ぎないとするニュートンと、色は見る人の主観的な存在だとするゲーテの主張が対決調で描かれる。

まずは、アイザック・ニュートン。17世紀の科学者に言わせると、色は、光そのものの中にあるという。

光をプリズムで分光する実験を通して、色とは白色光に含まれる物理的な性質だとし、客観的に測定可能なものだとした。例えば、プリズムで分光した「赤」は、さらにプリズムを通したとしても赤色のままになる(赤はそれ以上に分けられない)。

彼にとって、赤や青といった色は光の波長に対応付けされた自然の事実であり、見る人の感覚とは関係なく存在するものだとした。

次は、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ。19世紀の文学者に言わせると、色は我々の見るまなざしの中にこそ宿るという。

たとえば、白い壁にある赤い丸をしばらく見つめたあと、目を逸らすと、うっすらとした青緑が現れる。赤色を見続けると「赤」への感応度が下がり、その直後に白を見ると、赤が欠落した色(=赤の反対の色相の色)が残像として見える。

補色残像という現象は、物理的な光の性質だけでは説明がつかない。ゲーテは、色とは感覚であり、私たちが世界と出会う経験の一部だとする主観的な現象だとした。

実はこれ、どちらも正しい。というか、主観 or 客観という二分的なものではない。物理学(光学)はニュートンの理論をベースにしながらも、色覚理論や認知科学はゲーテの主張に支えられている。

私たちが「赤」を感じるとき、それはニュートンの言う物理現象でありながら、ゲーテの言う見るという行為の結果でもあるのだ。

色覚理論を応用したゴッホ

「色は、我々の見るまなざしの中に宿る」という観点を絵画に応用した画家の一人に、ゴッホがいる。本書では、「包帯をしてパイプをくわえた自画像」がその応用例として紹介されている。

Vincent Willem van Gogh 106.jpg
画像:Wikimedia Commons より(出典
ライセンス:パブリックドメイン

この作品では、衣服の青緑と背景のオレンジが補色の関係(色相環の反対の色の組み合わせ)になっており、並べることで双方がより鮮やかに見える効果が生まれている。

人間の眼には、それぞれ特定の色に反応する細胞がある。ある色を長く見続けると、その細胞が疲労し、脳はその色に「対応する反対側の色」を補って知覚しようとする(ゲーテが観察していた「補色残像」の現象も、まさにこの仕組み)。

したがって、補色の組み合わせは、単に視覚的な対比を生むだけでなく、生理的にも脳が“補完的な色”を足すことで、色が一層強く感じられることになる(味覚でたとえるならば、お汁粉にひとつまみの塩を加えると、甘さが際立つやつ)。

本書ではこの自画像が取り上げられているが、より強烈な青とオレンジの対比として、私は「星月夜」や「夜のカフェテラス」を思い出す。どちらも、空の濃い群青~コバルトブルーに浮かび上がる、赤みがかった黄~オレンジの対比があまりにも鮮やかで、色が発光しているかのように感じられる。

……というか、私の中のゴッホ像は、ほとんど「オレンジとブルーの画家」だと言ってもいい。この組み合わせで、デヴィッド・マレルの『苦悩のオレンジ、狂気のブルー』を思い出したので、再読しよう(傑作ですぞ)。

ゴッホは、自力で色覚理論に到達したわけではない。

色覚理論の元を辿ると、19世紀のタペストリーの織工場におけるトラブルになる。

現場の作業員から「指定された色の通りに織っているのに、出来上がったタペストリーの色がくすんでいる」という申告が上がっていた。フランスの科学者ミシェル・シュヴルールは調査と実験をくり返し、染料や繊維の問題ではなく、人の認知が起こす錯覚によるものだと突き止める。

シュヴルールはこの知見をまとめ、一種の科学的な声明として出版する。万人の視覚に共通する、再現性のある現象として広く普及したという。「色が何であるか」というよりも、「色がどう見えるか」という考え方は、染織工や建築家、画家に影響を与えたという(印象派なんてまさにこれ)。これが巡り巡って、ゴッホの目に留まったという寸法だ。

科学が芸術に与えた影響は計り知れないが、「色」を切り口にすると、より鮮やかに見ることができる。

他にも、「紫が高貴な色とされたのは、染料を抽出するプロセスに莫大な費用がかかったから」という身も蓋も無い話や、「晩餐会のコースの最中に、青色の照明に切り替える実験」といった迷惑な話など、色にまつわる様々なネタが詰め込まれている。

また、古今東西の「色の図鑑」が収められているのも嬉しい。自然科学者、職工、デザイナー、医師、冒険家、料理人など、それぞれの立場に裏打ちされたカラーチャート、色見本、カラーグルーピングがこれでもかと紹介されている。ユザワヤの色見本のサンプルが好きな人にはたまらないだろう(私だ)。

 

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「色は、実在しない」からスタートして、人類が色をどのように理解していったのかの歴史を辿る―――本書は、いわば色の世界史と言えるだろう。

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読むことで完璧になるメタフィクション―――フエンテス『アウラ』とカサーレス『モレルの発明』

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多くの作家は、見切ったと思っても手元に残すものはある。フエンテスは見切ったけれど、彼の『アウラ』はすばらしい作品だ。彼は自分が知的に細部まで構築できる短編や中編ではものすごい力を見せる。
山形浩生『翻訳者の全技術』より

この人をしてここまで言わせしめるのは、相当なものなんだろうと手を出したら、確かにもの凄い作品だった。どれくらい凄いかというと、斬られたことに気づかないまま、倒される感覚だ。

「君は広告に目を止める。こんないい話はめったにあるもんじゃない」―――から始まる『アウラ』は、ぬるっと読ませるくせに、斬れ味するどい達人の技にやられた。

カルロス・フエンテス『アウラ』は、わずか50ページ程度の短編に、私を強烈に惹きつける異様な魅力を放っている。その最大の特徴は、全編が二人称現在形で語られていることにある。

言い換えるなら、読者自身が主人公となり、「君は手を差し出す」「君は彼女の目をみつめる」と語られていく構造になっている。この語り口が不穏な没入感を生み、読み手の現実感覚を揺らし始める。

物語は、古風な屋敷に住む老婦人の依頼で、回想録の整理にやってきた青年が、アウラという女性に出会い、不可思議な出来事に巻き込まれていく……という筋書きだ。幻想文学でありながら、構造やテーマは極めて精緻で、時間と記憶、そして欲望が絡み合っている。

卑怯とも言えるのは、「君」という書きっぷりでありながら、情報がコントロールされている点だ。老婦人に紹介され、アウラを見つめるのだが、アウラはきちんと描写されない。

「君=読者」なんだから、目の前にいて言葉を交わす人を「見て」いるはずだ。なのに、アウラがどんな顔立ちで、どういう姿かたちなのか描かれない。「ふくれあがる海のような目」とか「緑色の服を着た君の美しいアウラ」といった、曖昧な言い回しになる。

それでも、「君=主人公」の反応からしてアウラは若い女性であることは分かる。アウラを美しいと思い、欲しいとさえ願う。アウラもまんざらでもない様子だ。

時折はさまれる未来形に疑問を感じつつも、短編だからあっという間に読み終わる。宙吊り状態から降ろされ、物語の中で用意された答えを受け取りはするけれど、達人に斬られたことに気づくためには、すこし時間が必要だ。

そして、「これは読むことで完成する小説だ」と思い至る必要がある。これに近い感覚だと、アドルフォ・ビオイ=カサーレス『モレルの発明』だろうか(私のレビューは [ここ] )。

絶海の孤島に辿り着いた《私》は、無人島のはずのこの島で、一団の奇妙な男女に出会う。《私》はフォスティーヌと呼ばれる若い女に魅かれるが、彼女は《私》に不思議な無関心を示し、《私》を完全に無視する。やがて《私》は彼らのリーダー、モレルの発明した機械の秘密を……

『モレルの発明』は、普通に読むと、SF冒険小説になる。絶海の孤島で秘密裏に行われた実験といえば、H.G.ウェルズ『モロー博士の島』が有名だが、そのオマージュとなる。

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だが、『モレル』の方は、読者がこれを読み進める行為を経て、初めて完成するという多重構造を持っている。名前を持たない《私》の一人称の、二重の語り/騙りによって仕掛けられた奇妙な傑作だ。

『モレル』が発表されたのが1940年で、『アウラ』が世に出たのは1962年だ。『モレル』は《私》の一人称で、『アウラ』は「君」の二人称によって語られ/騙られる。

特筆すべきは、どちらも読者が物語をメタフィクションとして読むことで、物語の中の願望が完遂される構造だ。単なるプロットではなく、「読む」という行為そのものが《私》と「君」の運命を変える装置になっている。

そのくせ、「ようこそこちら側へ」なんてベタな展開は用意していない(『MYST』というアドベンチャーゲームは、まさにそんなラストだった)。もちろん、『モレル』『アウラ』は、普通の小説としても読める。メタフィクションとして扱うかも含め、読み手に委ねられている。

そこまで考えが至って、ようやく、私は『アウラ』に完全に魅了されていることに気づく。そしてこれ、『モレル』と同じように、くり返し読まされることになるんだろうな……と、ぼんやり覚悟する。

フエンテスのポリフォニックな語りは『老いぼれグリンゴ』でお腹いっぱいになったけれど(レビューは [ここ] )、こんなに斬れ味鋭い傑作があったなんて! 山形浩生さんに感謝。



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映像美に酔うか、読む悦びに徹するか―――映画『イングリッシュ・ペイシェント』と原作『イギリス人の患者』のあいだ

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映画『イングリッシュ・ペイシェント』を観た。長年の思い込みを改めることになった。

実はこれ、公開時にも観たので、28年ぶりに再会したことになる。

当時は、原作『イギリス人の患者』を読んだばかり。記憶と感情がもつれあうような感覚が印象的だった。アカデミー賞やゴールデングローブ賞を総ナメした前評判は上々で、間違いなかろうという判断の下、お付き合いしていた女の子を誘ってゴールデンウイークに観に行ったのが運の尽きだった。

ストーリーは大幅に改変(?)というよりも、背景だけ拝借しただけで、原作とはまるで違う装いだった。人生を破壊された4人の生き様を重ね合わせた原作とは異なり、主人公の愛と喪失だけに焦点を絞ったラブストーリーになっていた。

登場人物の設定も別物で、メインキャラの関係性を捻じ曲げ、まるで別の役割を与えたため、キャラの行動原理がペラペラになっていた。特に、私のお気に入りのインド人の工兵がモブみたいになっていたのが残念だった。

映像美はさすがに素晴らしかったものの、映画音楽が煩わしく、「ほら、ここが感動する場面ですよ」と言わんばかりに弦楽器を奏でるのが耳障りだった。

そんなわけで、映画館から出る頃にはすっかり不機嫌になっていた。酷評する私の横を歩いていた彼女の感想は「可もなく不可もなく?」と当り障りのないもので、さんざんなデートだったことを覚えている。

昨年、原作を再読し、昨日、映画を改めて観たのだが、この2つは別の世界線の物語だと思う方が、より堪能できることが分かった。

『イギリス人の患者』の読みどころ

まず原作の『イギリス人の患者』。

著者のマイケル・オンダーチェは詩人でもあり、比喩や象徴に満ちた文章となっている。さらに、エピソードは直線的ではなく、断片的な記憶やトラウマに沿って行ったり来たりしながら浮かび上がっていく形式のため、「何が起きたのか」を読み手が解きほぐすしかない。

普通の小説とは一線を画し、「誰が何をしているのか」は、読み進めないと分かるような仕掛けにしている。これ、一歩間違えると「分からない」と投げ出す読者が続出するだろう。だが、タイトルにもなっている「イギリス人の患者」とは誰なのか? という謎が、読み手の心を掴んで離さない。

この謎に導かれて、彼とその周囲の人たちの記憶をまさぐり、想像し、確かめていくことで、読者自身が物語を編みなおすような読書体験ができる。読者は、登場人物の記憶の深いところで重なっているため、その心情の揺れがダイレクトにシンクロする。

ここが、この小説を唯一無二にしている点だ(感想は [ここ] )。

『イングリッシュ・ペイシェント』の見どころ

次に映画化された『イングリッシュ・ペイシェント』。

監督のアンソニー・ミンゲラは、構図や光の使い方が叙情的で、風景が感情を語るような作風だ。『イングリッシュ・ペイシェント』では廃墟や砂漠を、『コールドマウンテン』では雪景色と南部の風土を、絵画のように映し出す。

なので、とにかく絵がきれいだ。カメラワークや色彩設計をはじめ、俳優の演技や音楽ですら、「あれは美しい物語だった」というインパクトを観客に与えるという一点に集中している。

そのため、物語の時間軸は整理され、映画のストーリーの流れが明確になっている。ラブロマンスだけを中心に据え、他のものはカットして、単線的に映像美を目指している。そこにミステリー的な要素はなく、原作の謎である「イギリス人の患者とは誰なのか?」は、パッケージに描かれている。

王道のラブストーリーを、ひたすら美しく哀しく描いたのがこれだ。「小説とは別物」という姿勢で、もう一度観たら、きちんと胸を揺さぶられた。

観てから読むか、読んでから観るか

小説と映画、どっちが先かと言うならば、『イングリッシュ・ペイシェント』が先になる。

一般に、映画は感情の直接的な共鳴を求めるメディアだ。そのため、詩的で抽象的な小説の語りは、そのままでは伝わりづらい。観る人に訴える力を最大化するために、様々なエピソードを削ぎ落し、設定を変えている。それでもいい、まずは直接的に感動してほしい。

その上で小説を読むと、登場人物が霧に包まれたように「見えなく」なるだろう。それぞれのモノローグを通じて、各人の行動原理を改めて探し出すことを、煩わしく感じるかもしれない。でもそれこそが、記憶を手繰るという小説の悦びにつながる。

映画は、「何を失ったか」を美しく描くことで、観る人の心に直接届くように仕立てられている。小説は、「失ったものをどう記憶するか」を多層的に描くことで、読む人の心を深く沈めるように書かれている。

28年ぶりに観て(読んで)ようやく腑に落ちた。『イギリス人の患者』と『イングリッシュ・ペイシェント』は、同じ素材からまったく異なる物語が紡がれた、いわば”別の世界線”の作品なのだ。

などと感動している私の隣にいる嫁様の感想は、「可もなく不可もなく!」だったと申し添えておく。

なお、『イングリッシュ・ペイシェント(吹替版)』はアマゾンプライムで観ることができる。



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耐久性のある漫画の作り方『マンガの原理』

N/A

何度も読み返す漫画がある。

例えば、こうの史代『長い道』と森薫『乙嫁語り』がそれ。筋もオチも味わい尽くしているのに、気づくと読み返して、噛みしめる度に良さを感じている(読んでる時間が好きなのだ)。こういう「しみじみと好き」な漫画は、インパクト重視のキャラは出てこないし、ド派手な演出は少ない。

では、地味(?)だけど滋味があり、何度も噛みしめたくなるような作品は、どう違うのか?

『マンガの原理』(大場渉、森薫、入江亜季)によると、耐久性を重視した作品だという。読み捨てられるような作品ではなく、心に残り続けるためには、どのようなセオリーがあるか。漫画を読む体験を心地よく感じてもらうには、どんな技法があり、それは具体的にどの作品のどこに反映されているか。

漫画は技術

こうし原理原則を、4つの章と68の技法に分解して紹介している。

 1. コマ割りと視線誘導の原理
 2. 絵の原理
 3. フキダシとセリフの原理
 4. キャラ・ネタ・ストーリーの原理

本書は「漫画は技術だ」と言い切る。「センス」というふわっとした表現ではなく、技術だから言語化できるし、努力によって身に着けることもできる。「漫画のセンスがいい」とはどういう技術に裏打ちされたものかが説明されている。

技法と適用例により、「何がマンガを面白くさせているのか」という根本的なところが見えてくる。私が無意識のうちに「好き」とか「楽しい」と感じていたことが、どういう技術によって支えられていたのかが、言葉と例(実際の漫画の引用)で見える。

N/A

マンガを描く人にとってのバイブル本としては、『マンガの創り方』がある。こちらは「今のネタを面白いネームに落とし込む方法」に特化したものになる。『マンガの原理』は、これに加えて、具体的な視線誘導やセリフ回し、キャラの立て方など、ネームの先まで指南してくれる。

例えば、視線誘導の原理。

「何かある」と読者に予見させ→それをキめるコマを配置する「フリとウケ」や、右ページ左下から、左ページ右上のコマへ視線を「跳ね上げる」技術、次のページをめくらせるために読み手の意識を途切れさせない方法など、読者を最後のページまで連れていくための、様々な視線誘導の技法が紹介されている。

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『マンガの原理』p.33より

こうしたテクニックに共通しているのは、「読むコストを下げる」だろう。スムーズに読んでもらい、読み手の期待を上げて受け止め、目を留めてほしいコマを凝視してもらう―――これらの技法は全て、より少ない読者のコスト(=集中力や意識)でもって、ストレスなく物語に没入してもらうためにある。

ジャンプの漫画講義録(松井優征)で、「防御力をつければ勝率も上がる」という記事があるが、あれの実践編といっていい。

種明かしされても読みたくなる

一番驚いたのが、『乙嫁語り』の解説だ。

何度も読み返していたまさにそのシーンが俎上に上がっており、「なぜこのように描かれているのか」が徹底的に説明されている。作品を解剖することで種明かしをしてしまうと、面白さは半減しそうかと思いきや、むしろ逆で、舐めるように味読した。

例えば、「見せ場では絵とセリフは別のコマに」という技術がある。大事なセリフを言わせる時のコマは、「セリフを印象的に見せるための構図」で描かれるべきだという。さらに、そのセリフの結果としての表情やリアクションは、「表情やリアクションを見せるのに最適な構図」で描けとアドバイスする。

その例として『乙嫁語り』の第66話「馬を見に」のシーンが紹介されている(以下に引用する)。12歳で結婚し、大人の男になり切れず、自信を失っている少年カルククに、妻のアミルがまっすぐな思いを伝えるところだ。

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乙嫁語り 10巻より

アミルの「私が好きなのはカルククさんです」というセリフは、まっすぐ目を見ている構図で描かれているし、「信じられませんか?」のリアクションは、セリフ無しの3コマを使って(しかも「跳ね上げ」の箇所で)、描かれる。

まさにセオリー通りなのだが、本当に重要なシーンは、この次の見開きページになる。

『乙嫁語り』の10巻では、第62~65話を使って、「強い男になるために努力するけれど、まだ成長途中のカルクク」が描かれる。大人でない、男らしくないと感じている様子が、彼の言葉や態度の端々で4話かけて伝わってくる。それを跳ね飛ばし、ストレートに好きだと伝えるアミルの思いと、それを受け止めるカルククの感情が一気に広がるのが、この次の見開きなのだ。

にもかかわらず、この次の見開きのページは、『マンガの原理』では引用されていない。ずりぃwwwとは思いながらも、本書を読む人は当然『乙嫁語り』も読んでるだろうし、この次のシーンも、もう一度読むでしょ(ニッコリ)という、編集者の目くばせなのかもしれぬ。

ワンピースのネームは手抜き?

「なるほど!」と思う一方で、「ホント?」と半信半疑になる技法もある。

例えば、1段分を1コマにする「ヨコ1コマは原則禁止」のルール。これは、作者がラクできる一方で、コマ割りの技術が身につかなくなるからダメだという。あるいは、「変形ゴマは必要なし」という指摘。変形ゴマとは台形だったり斜めのコマで、映画の中でレンズが見えてしまうようなメタ表現による雑味が出てしまうという。他にも「汗と照れ線はNG」といったルールがあるが、その真偽はともかく、作者の持ち味だったりするので、一概にNGでは無いような気がする。

さらに、私では判別つかなかったのが、『ONE PIECE』のネームについて。

毎週一定のページを描かねばならない週刊誌での連載は過酷です。『ONE PIECE』(尾田栄一郎)みたいにちゃんとコマを割る方が正しいし人気が出ると分かっていても、ネームがずるずる遅れる担当作家に対して「このままだと原稿が落ちちゃいそうだから、今回は大ゴマを多くして、少ないコマ数で締め切りに間に合わせよう」と言ってしまう編集者はたしかに存在します。

これ、オブラート(?)に包みつつ、言ってることは「ONE PIECEは大ゴマが多くて少ないコマ数で間に合わせている」ということなのだろうか。

私自身、ほとんど『ONE PIECE』を読んでいないので、是か否か分からないが、その後の指摘で「清書が間に合わないのは目立つが、ネームで手を抜くのはバレにくい」「ヨコ1コマばっかり並ぶ、単調な漫画ができあがる」と述べている。

GPT御大に調べてもらったところ、「(アラバスタ編と比較して)1話あたりの情報量が低下し、コマ割りや構成の不自然さが目立つ」という否定的な意見と、「(ある意味斬新な)演出上の工夫であり、手抜きではない」という意見と両方あるという。この辺、マンガを沢山読んでいる人の意見を伺いたいものだ。

激しく同意するコメントもあるし、気づかなかった指摘もある。その一方で、ちょっとヘンかも?と感じる主張もある。本書への意見が賛否両論なのも分かる。

でもこれって、それだけマンガが多様な証拠なのではないだろうか。

もし「マンガの原理」なるものが統一的で画一的であるならば、誰もがそれを学んでマネした結果、単調で画一的な作品だらけになるだろう。でもそうではなく、「原理」とはいえど、あるジャンルや特定の条件で発動するルールであるならば、例外も起きうるのだから。

こんな感じで、頷いたり反発したりする、忙しい読書と相成った。マンガを描く人・創る人向けのバイブル本だが、読む人にも発見がある、マンガライフを充実させる一冊。

 

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手放してもいい。けれど、忘れたくない物語 こうの史代『空色心経』

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ほんとうに苦しいとき、指一本すら動かせない。起き上がることはもちろん、眠ることすらかなわず、「早く終わりにしたい」という気持ちで一杯になる。

そういうときに、寄り添ってくれる本がある。

もちろん、辛いときは本なんか読めない。それでも、「あそこにあれがある」と思える本、読まずとも握りしめられる、お守りのような一冊がある。私にとってのお守りとなる本は、クシュナー『なぜ私だけが苦しむのか』と頭木弘樹『絶望名言』だ。

これに、本書を追加したい。予感として、ほんとうに辛い日が来ることは分かっている。こんな日々が続くわけがない。出会ったならば別れがあるし、存在するなら(それが何であれ)失われる日が来るだろう。

そのときに、この人のお話を思い出したい。

舞台は現代日本、新型感染症による不安が充満する、少し前の日々を描いたものだ。主人公は麻木あい、スーパーで働きながら、「ワクチンは毒」とする夫とのすれ違いに苦しんでいた。

一方、遥か昔のインド、観自在菩薩が釈迦が独話と対話を重ねる。「在る」とは何か、なぜ私たちは悩むのか、この苦しみから抜け出すには?―――意図してやっているのか、中性的に描いている。

麻木あいは黒色の線で描き、観自在菩薩は青色の線で描かれている。時空を隔てた二つの世界を、代わる代わる二つの色で描く様子は、まるでエンデの『はてしない物語』のギミックのようで面白い。

そしてこの仕掛けは、黒で描かれる麻木あいの苦悩の一つひとつに、青色の文字で答えが示されていることで発動する。もちろん彼女は、青色は見えない。夫婦生活を続けていく上での未練や、「こうすればよかった」といった後悔なんてものは、一切空の立場からすると、実体を持たない。

「苦しい」とか「悲しい」といった感情は、(そもそも存在しない)体や心に執着するから生じるものであって、全てが空っぽであることに気づけば、消滅するはず。そんな千年以上も前の「答え」が青色で重なる。

でも、苦しい思いは確かにある。これを否定しないでほしい。

この「悲しい」と感じる心は確かに存在する。なぜなら、物理的な痛みや、胸が潰されるような感覚があるから。般若心経だろうが何だろうが、この苦しみを無かったことにはできない。そういう思いも含めて青色の線とフキダシですくい上げる。

一切空は、痛苦を否定しているわけではない。「空」は実体がないことを言っているだけであり、「痛い」「苦しい」という意味はちゃんとあるのだから。その痛みや苦しみは、そう感じる私から生じている。

ちょっと面白いなと思ったのは、ギリシャの哲人・エピクテトスと呼応するところ。

自分が死ぬことを恐れている青年に、エピクテトスが告げた言葉だ(『語録』のどこかにあるはずだが、発掘できなかった)。

死は何ら恐ろしいものではない。
むしろ死は恐ろしいという死についての考え、
それが恐ろしいものなのだ。

私は、自分が死ぬとか、大切な人との別れ、病気や事故を恐れる。だけど、私を苦しめるのは、死とか別れとか病気そのものよりも、それに対する思いのほうなのだ。もちろん、「死」という出来事そのものがもたらす苦痛はあるだろう。だけど、それよりも「死んだらどうしよう」などと思い悩む私の感情や判断こそが、私を苦しめるのだ。

これ、言い方を変えるならば、死に対する私の思い悩みから離れることができるならば、たとえ死が訪れたとしても、淡々と死んでいけるだろう。外的な出来事はいかんともしがたい。だが、それへの反応や解釈を見直すことで、それに振り回されずに済む。

この考え方は、知識としては知っている。二ーバーの祈りとか、イチローのコントロールの話とか、耳にしたことがあるかもしれない(変えられないものをスルーして、変えられるものだけに集中する技術)。

しかし、ギリシャの哲人や仏教の教えでも、私たちのリアルな悩みは容易に解決しない。不安をやり過ごす最適解だと知ってはいても、どうやってそれが自分の身に起きるのかが分からない。

それを、物語の演出として上手いこと忍び込ませている。読者は、「麻木あい」という一人の女性の身に起きた出来事に立ち会うことで、こうしたリアルな不安とどのように向き合うのかを知ることができる―――そういう作品なのだ。

黒い線で描かれた世界に交じる青い線に、いつ、彼女は気づくだろう? 苦しみの世界のすぐそばにある青い線に触れさえすれば、その悩みを正しく見つめ直すことができるはずなのに……そういう、もどかしい思いを抱えながら、読み進めるうちに、般若心経の考え方がストンと腑に落ちる。ああ、彼女は私なんだと、未来の私なんだと気づく。

そして、分かってしまえば、なんのことはない。もうこの本を所有していることすらいらない。

次に、私が苦悩するとき―――ひょっとしてそれは、彼女の苦悩かもしれない―――でもそんな時は、この物語を思い出しさえすればいいのだから。モノとしての本は不要で、だれか必要とする人に差し上げてしまってもいい。

手放してもいい、けれど、忘れたくない一冊。



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見切る読書で積読を解毒する『翻訳者の全技術』

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何十年も向き合ってきて、今でも何度も読み直す本がある。辛いとき・キツいとき「あの棚にあの本がある」と思い浮かべるだけで励みになる本がある。もし出会わなかったら、今の私は無かったと断言できる本がある。ガチガチの価値観を更新し、アンパンマンの頭のように「私」を取り換えてしまった本がある。

おそらく数十冊、多くても百冊ぐらいの、そんな本を、エッセンシャルブックと呼んでいる。沢山の本をとっかえひっかえ読んだり、新刊本をブックハンティングするのは、そんな本と出会うためだと思ってきた。

だが、そろそろ振り返って、積読山と向き合わねばならぬ。

理由は2つある。

ひとつは、量こそ遥かに多いけど、クズみたいな本が大量にある書店よりは、年月をかけて賽の河原のように積んできた山の方が、「あたり」を引く確率が高いこと。

もう一つは、残りの人生ぜんぶ費やしても、この山を読みつくせないことは明白であるばかりか、この山から選んだ「あたり」を読む時間すら残されていないから。

とはいえ、本を読むスピードと、本を買う+借りるスピードは、比ぶべくもない。積読は山ならぬ山脈を成し、家のあちこちで繁殖する。仕方がないのだとあきらめるか、自虐的になるか、それでもあがく。

そんな時に、山形浩生『翻訳者の全技術』を手にした。これは、翻訳に限らず、山形浩生の読書論であり人生論であり「知との向き合い方」を語った本だ。

読書家の悩み「積読」

で、山形に言わせると、積読は、本に対する裏切りだという。どこかの誰かに読まれるだろうという期待を込めて作られた本を読まずに積むのは、期待を踏みにじる行為だという。死蔵された本は文字通り死んでいる。

痛い。ド正論で、めちゃくちゃ痛い。

でも、そういう自分はどうなん?と思う。

彼は、ピケティ『21世紀の資本』をはじめ、様々な領域で大量の本を翻訳してきた。Linuxのようなオープンソースの古典『伽藍とバザール』、囚人実験の先駆け『服従の心理』、Netflixでドラマになってる『エレクトリック・ステイト』などを翻訳している。めちゃくちゃ引き出しがある人で、真の教養人といえる(彼の紹介する本や解説には、めちゃくちゃお世話になった)。

彼の本棚の写真を見たことがあるが、とにかくデカくて横幅のあるやつだった(もちろんそれだけじゃないだろう)。

だから、その正論は諸刃の剣ともいえる。自分も積読に悩まされるんじゃないの?

正解だった。

彼は白状する、本棚の前を通るたびに「すみませんすみません」と罪悪感に囚われていたという(ここ笑った)。積読とはそういう後ろめたいものであり、借金の督促状みたいなものだという。

この先は、twitterでやってる半分自虐、半分自慢みたいな積読話になるかと思った。あるいは、『積読の本』に登場する12人の積読家のように開き直るのだろうかと半ば期待した。

しかし山形は、正論パンチを続ける。

20代、30代ならご愛敬だが、「いつか読む」という可能性は、先送りすればするほど失われる。「読まない本にこそ価値がある」などと言ってみせるのは倒錯であり、放置すればするほど精神は淀み、知は腐敗するという。

積読について開き直ったりやせ我慢をしたり、何かしらポジティブな主張するのが流行っている。そうしたエクスキューズを一つひとつ抽出し、丹念に潰してゆく。言い訳を先回りして塞ぎ、弁解や逃げ口上をつるし上げる。

以下なんて、完全なホラーだ。心拍バクバク、血圧マシマシ、冷や汗タラタラしながら読んだ。

そうした無価値の山と化した積ん読を放置しているのは、その人の怠慢であり、未練でしかない。そしてそれを「読まなくったっていいんだ」とうそぶくのはごまかしであり、自分が目を向けられずにいる己の失敗やまちがい、自分のかつての浅はかさ、そして何より、自分の怠慢と先送り。やると言ってやらなかった数々の小さな積み重ね。果たせなかった約束の数々。できもしないことを、できる、やると大見得切ってしまった恥ずかしさ。もう読むことはないと自分でもわかっている積ん読には、そのすべてが淀んでいる。 そうした無数の無責任、不義理。かつてのプライド。

しかし、なんだか様子がおかしい。

この本は、インタビュアーを相手に放談会を行ったもののまとめだ。そのため、話が突然スライドしたり深みにハマったりしている。だが、この積読の箇所だけは妙に腰を据えて神妙に語っている。

おそらく、これは彼の体験であり、反省であり、告白なんだろう。

本を読む人なら誰だって、言われなくても分かっている。それをあえてド正論で追い詰めても仕方ないことは分かっている。だから、これは、かつての自分に向けた正論パンチなんだろう。

積読を解毒する

では、そんな山形が、どのように積読山を崩していったのか。

読まない本とは、かつて自分が自分にした約束の不履行だ。他の誰にも任せられない後ろめたさは、時間が経つほど毒を持つ。

私の場合、「『あとで読む』は、後で読まない」と肝に銘じ、一頁でも一行でも「読んだ」ことにしている。

本当は、そんなことをしても読んだことにならず、単に自分をごまかしていることは百も承知だ。それでも、莫大なお金と時間を費やして集めてしまった山を前にして、正気を保つために必要な儀式だと思っている。

彼の場合、一冊ずつ取り組んでいったという。「これはすごい本に違いない」というハードルを、手元の一冊を読むことで下げる。相手の手のうちを見抜きながら、その著者や分野への期待効用を下げていく読み方だ。

本書で自身が述べているが、山形浩生は頭がいい。

この「頭がいい」とは、対象の本質をすばやく理解し、自分の言葉で説明できるという意味だ。「結局何が言いたいの?」という問いを常に発している人だ。

もちろん「結局何が言いたいの?」というスタンスは誰だって持っているだろう。だが彼の場合、これを徹底している。本を読むとき、頭(テーマ)と尻(結論)を先に読んで、あらましを捕まえる。推理小説でも末尾の種明かしから読むとのことだ(もったいなくない?)。

「結局何なの?」と突き詰めていくと、大したことを言っていないことに気づくという。トロツキーはスターリンの罵倒を繰り返しているだけだし、ピンチョンは思わせぶりなネタを並べるだけで無内容だし、フエンテスも反近代的な妄想をまぶしているものばかりだという。

すごいと思い、いつか読んでやろうと積んでいた本は、実はそんな大したことないことに気づく。自分で勝手に期待していたものに、自分で幻滅していく。「こんなものか」と気づいてしまう

これは、知的対象を神棚から引きずり下ろすような態度だ。山形の読書は、「崇高な対象への崇敬心」を丁寧に解体していくベイズ推定的なプロセスとも言える。

つまりこうだ。そもそも積読山に刺さっているということは、「これはすごいに違いない」とか期待したからそこにある(事前確率やね)。

でも、実際に本を読み進めていくと、それっぽいネタが並んでいるだけで整理もされていないし、前作と似たような展開だと気づいてしまう。

もし本当に「すごい本」なら、きっとこんな内容であるはずという期待との一致度(尤度)が乖離している……なので、「読んでみたけど、大したことないかも」という事後確率が更新されていく。

こんな風に、主観的に信じた仮説(=すごい本)を、実際の検証(=読書)によって体系的に修正していく。このやり方、多かれ少なかれ、誰もがやっていることだろう。だが彼の場合、それを徹底的にやる。本質をつかみ取る頭の良さを発揮して、「結局何なの?」を突き詰める。必要なら原著にあたり、自分が理解するために翻訳する(彼が翻訳してきた膨大な本は、もとはと言えば自分の理解のために始めたものが多いという)。

私なら「エラい人が誉めているけど俺に理解できないのは、俺が足りないから」と尻込みするところを、原著に当たった上で「そいつ自身が分かってないまま有難がってるだけじゃねーか」と切断する。

これだと、ガッツリ崩していくことができる。彼は10年かけて、「見切って」いったという。彼が若いころに影響を受けた橋本治と対談をした後、強く失望して、「見切る」ところなんてかなりキツかったと思う。

これ、すごく分かる。というか、分かりすぎて怖い。

例えば、私はコーマック・マッカーシーが好きだ。

『すべての美しい馬』なんて好きすぎて何回も読んでいる。おまけに英語を勉強しぃしぃ、あの難解な原文にも挑戦している。けれども、『すべての美しい馬』から始まる国境三部作も、『ブラッド・メリディアン』も『地と暴力の国(ノーカントリー・フォー・オールドマン)』も『チャイルド・オブ・ゴッド』も『ザ・ロード』も読んできた。

なので、だいたい手の内は分かる。モチーフを変えてもテーマは変わらない。読後感も想像できる。だから、最後の2作とされる『ステラ・マリス』『通り過ぎゆく者』は、積んだままだ。「こんなものか」と思いたくないから。

おそらく、積読山を本格的に崩すには、こうした自分でかけた呪い(幻想)を解呪していく覚悟が必要なんだろう。

でも、そんな「見切る」ような読み方をしていったら、どれもこれも「大したことない」になってしまうのでは?それは山を崩すには効率的かもしれないが、本を楽しむというより、本を読む自分を評価するような読書になってしまうのでは?

それでも、残るものはあるという。見切るとは「こいつはダメ」ということではなく、もうこれ以上読まなくてもいいということ。その作家なり分野の本質的な輝きを見せる本は手元に残しておく。フエンテスの『アウラ』やディレーニの『時は準宝石の螺旋のように』は保存してあるという。

おそらくそれが、彼にとっての、エッセンシャルブックなのかもしれぬ。

私の場合は何だろうか。それを見限ったら、私でなくなってしまう作品。マッカーシー『すべての美しい馬』やウィリアムズ『ストーナー』だろうか。開高健は全て隈なく読んだが、『オーパ!』だろうか。レイコフ、ベイトソン、ボルヘスは、新しく手を出すよりも再読したい(せねば)と考える。

何が残るかと「見切る」ことによって、積読を解毒していく。そういう読書が、必要なのかもしれぬ。

……とはいえ、彼が絶賛していたフエンテスの『アウラ』は手に入りそうなので、新たに積読山に入れるんだけどねw

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