神が創ったにしては杜撰すぎ、偶然にしては精緻すぎ『進化の技法』

生物は、神が創ったにしては杜撰すぎるし、偶然の進化にしては精緻にできすぎている。

進化と発生のメカニズムを解きほぐした本書を読むと、そう感じる。

本書によると、生物の進化は、転用と闘争の歴史らしい。それは、文字通りの食うか食われるかだけでなく、取り込むか取り込まれるかの歴史になる。

ヒトについて言えば、全体を構成するゲノムのうち、私たち自身の遺伝子が占める割合は、たったの2%に過ぎない。では残りの98%は何か? 太古のウイルスや、跳躍する遺伝子が暴走した配列になるという。

この太古のウィルスや跳躍遺伝子は、もとは「私」では無かったものになる。いや違うか、言い方がよろしくない。今は「私」とは不可分の要素だが、生命史を遡ると、「私」の外からやってきたものになる。

生命のM&A

例えばミトコンドリア。

生命は電動であり、そのエネルギーはミトコンドリアで生成されていることは、ニック・レーン『生命、エネルギー、進化』で学んだ。

そして、ミトコンドリアは「私」の細胞核のDNAとは似ておらず、むしろ、細菌の一種であるシアノバクテリアの近縁となる。つまり、「私」の中にいる別の存在なのだ。

生命現象として見た場合、シアノバクテリアを取り込み、エネルギー供給役として融合させることで、「私」は生きている。もとは別個の生物だったものが一つになり、より複雑な新しい生命になったという(細胞内共生説)。複数の企業が合併・併合する、いわば生命のM&Aといえるだろう。

本書では、細胞内共生説を提唱したリン・マーギュリスが紹介されている。残念なことに、マーギュリスの主張は1970年代の生物学会では受け入れられず、嘲笑されるか無視されたという(『土と内臓』を読むと、生物学の泰斗スティーヴン・ジェイ・グールドは、一顧だにしなかったことが分かる)。

やがてテクノロジーが追いつき、DNA配列決定法により、マーギュリスの正しさが立証される。本書では、技術が学術を塗り替える様が、ドラマティックに描かれている。

ウイルスが私たちを作った

あるいは、シンシチン。

哺乳類に共通して存在するタンパク質の一種で、胎盤形成に大きな役割を果たしているという。子宮に胚を付着させ、栄養を供給するためには、シンシチンが不可欠なのだ。

興味深いのは、シンシチンの遺伝子配列がウイルスそっくりであるところ。だが、シンシチンはウイルスのように感染しない。そこから、次の説が導かれている。

すなわち、シンシチンとは、感染能力を奪われたウイルスになる。

つまりこうだ。太古の時代、とあるウイルスが、私たちの祖先の体内に侵入した。ゲノムを乗っ取って、自分のコピーを作らせようとしたのだ。ところが返り討ちに遭い、感染能力を奪われた、こき使われるようになった……その成れ果てが、シンシチンになる。

それだけではない。もっと「使える」ウイルスであれば、積極的に利用しようとするというのだ。本書ではフランスの研究が紹介されているが、東京大学の研究成果によると、同じ機能を別のウイルスにバトンタッチする、「Baton pass仮説」が提唱されている。

DNAというレシピ

この発想は面白い。

わたしの常識では、遺伝子とは「親から子へ」受け継がれていくイメージがある。だが、使えるものなら同世代でもコピーしていこうというのだ。『見えない巨人 微生物』で、同様のアイデアに触れた。遺伝子の水平伝達と呼ばれる事象で、抗生物質に耐性を持つDNA分子が、同世代間で伝播していくことに似ている。

このアイデアは、料理のレシピにも似ている。

親から子へ受け継がれていくのは、あくまでも「作り方」の情報であって、素材はその時にあるものであり合わせる。最初のタンパク質は親からもらうが、後は自前で調達する。

同世代からもっと良いものを教わったら、それを転用したり、手に入りにくいなら別のもので代用する。「もとはウイルスだったけれど、シンシチンとして働いてもらう」もありだ。

何を変えていくか、あるいは変えないかは、資源や栄養など物理的・環境的な制約によって左右される。つまり進化の方向はランダムではなく、特定の目が出やすいサイコロになっているというのだ。

各世代の生物は器官や体づくりにまつわる(遺伝子や細胞、胚に書き込まれた)レシピを受け継いでいる。こうした遺伝情報は未来を物語っていて、ある進化の道筋を別の道筋よりも選ばれやすくしている。すべての生物の体と遺伝子の内部では、過去、現在、未来が渾然一体となっているのだ。

進化とは、転用と闘争の40億年の歴史だ。私たちは、私たち自身の中に過去を見、未来をも見ることができるのだ。

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この本がスゴい!2021

「後で読む」は、あとで読まない。
「後で読む」は、あとで読まない。

「試験が終わったら」「今度の連休に」「年末年始は」と言い訳して、結局読まなかった。「定年になったら読書三昧」も嘘になるだろう。そもそも、コロナ禍で増えた一人の時間、読書に充てたか?(反語)

だから「いま」読む。

たとえ一頁でも一行でも、目の前の一冊に向き合う。いま元気でも、一週間後には、読めなくなるかもしれないから。

今年は、死を意識した一年でもあった。「やりたいこと」を先延ばしにしてるうちに、感染して望みが断たれる可能性が爆上がりした。

時の経つのは早い。人生が長いほど、一年は短くなる。体感時間は加速する一方、人生の可処分時間は、短くなる。

だから「いま」読む。

積読を自嘲したりマウント取るのもヤメだ。いま読まない理由を並べ立てて開き直る不毛も捨てよう。そして、ずっと取っておいた、とっておきの本を、いま読む。

そんなつもりで、今年読んできた中からスゴ本を選んだ。

どれも、わたし一人のアンテナでは出会えなかった作品ばかりだ。お薦めいただいた方、つぶやきで繋がれた方、ありがとうございます。

本は縁だ。このリストが、あなたの選書の手助けとなれば嬉しい。そして、あなたにとってのお薦めを伝えてくれると、もっと嬉しい。

 

ニヤニヤが止まらない甘酸っぱい恋
『14歳の恋』

甘酸っぱさに転がりまくる、悶死必至の初恋物語。

最初の一話で、心を持っていかれた([ここ]でお試しが読める)。そしてニヤニヤが止まらない。読んでるときもそうだし、思い出してもニヤついてしまう。思い出し笑いならぬ、思い出しニヤニヤしてしまう。

中学2年、思春期真っ盛りの14歳。

「14歳」はまだ子どもだけど、クラスの中では大人っぽいとされるこの二人、実は小学校からの友だちなのだ。周囲の「大人っぽい」というレッテルを守りながら、互いを意識しだすようになり、秘密の恋を始める……

……もうね、ずっとニヤニヤなんですよ。世間の泥に塗れ、自意識の膿に溺れたオッサンには、二人の初々しさとピュアピュアさが眩しすぎて苦しすぎる。

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『14歳の恋』第1話より

手が触れ合ったりとか、互いの体温を意識したりとか、アイコンタクトとか、うなじの色っぽさにふらっときたりとか、顔まっかっかになったりとかに、読んでるこっちもドギマギしてくる。

なので続けて何話も読めない。心が保たない。一話一話、読み終えるごとにドキドキが収まるまで休憩して、次の話にハートが耐えられるか自問しつつ進めていく。

この眩苦しさ、あれだ、「月がきれい」と同じだ。中学3年生で初めて同じクラスになり出会った二人が、ゆっくり恋を育てていくお話。

現実では、恋が終わってしまう分岐が沢山ある(というか、その方が多い)。クラスの皆にからかわれるエンド。すれ違いエンド。性欲に負けるエンド。そして、進路先の違いエンド……そんなバッドエンドをかわしながら乗り越えながら、二人の時間を重ねていく。その関係性を大事にしてくれーと切に願う。

結論。『14歳の恋』が好きな人には「月がきれい」をお薦めするし、「月がきれい」が好きな人には『14歳の恋』をお薦めする。どちらも知らない人がいたら、おめでとう! 羨ましいぞ。切なくて甘酸っぱくて、幸せな気分でのたうち回るがいい。

 

最近の古代遺跡は人工衛星から探す
『宇宙考古学の冒険』

イタリアやフランスで、畑に模様を見かけたら、そこに遺跡がある可能性が高い。

Utyuukoukogaku01Wikipedia ”Cropmark” より

かつて、そこには石壁や住居の基礎があった。そうした構造物は、長い時間をかけてゆっくり土に埋もれてゆく。

地表に牧草などが根付いた場合、その根は深く伸びることができない。そのため、牧草の生育が悪くなり、上空から見ると、奇妙な模様が浮かび上がる(考古学で、クロップマークと呼ぶ)。

Diagramm bewuchs.jpgWikipedia ”Cropmark” より

クロップマークは、航空写真で確認できるが、もっと微妙な、植生の健康状態の違いは、近赤外線データから読み取ることになる。人の目には同じに見えるが、近赤外線画像だと、クロロフィル(葉緑素)の違いは、赤色の違いによって判別できるからだ。

この発想を広げて、人工衛星から撮影した画像データを元に、地下に眠る遺跡を探すのが、宇宙考古学になる。

単なる解像度の高い写真ではない。地上 640km から撮影された電磁気スペクトルデータを解析し、肉眼では見えない地下の遺構を浮かび上がらせる。

あるいは、離れたところから、掘る前に、光学技術によって対象を把握する。

LIDAR(LIght Detection And Ranging)と呼ばれるリモートセンシングによって、莫大な数の遺跡が続々と見つかっている。人工衛星やドローン、航空機に搭載することで、何十年もかけてきた広大な面積のマッピング調査が、ほんの数週間で終わる。これにより、莫大な費用と時間をセーブして、ピンポイントで調べることができる。

『宇宙考古学の冒険』の著者サラ・パーカックは、人工衛星から遺跡を探し出すニュータイプの考古学者だ。宇宙から探すことで、これまでに、古代都市3,000ヶ所、古墳1,000ヶ所、ピラミッド17ヶ所の痕跡を見つけ出している。これは、一人の考古学者のキャリアで発見できる数ではない。

さらに、映画『レイダース・失われたアーク』に出てくる幻の古代都市タニスを特定している。タニスの路地や居住区の大部分は発掘されておらず、地上から見ることはできない。だが彼女は、人工衛星からの視点で、大規模な地下構造を明らかにする。

本書では、未来の考古学も描かれている。リモートセンシングや超音波を用いて、地下の構造物を三次元化する。必要な場所を絞り込み、小さな穴を穿ち、文字通りピンポイントで探索する。喩えるならば、腹腔鏡下手術のようなものかもしれない。

書評全文:人工衛星から遺跡を探す『宇宙考古学の冒険』

 

『君の名は。』とグレッグ・イーガンの関係
「貸金庫」(『祈りの海』所収)

きっかけは、グレッグ・イーガンのこのツイート。

イーガン:『君の名は。』を観ました(私の短編『貸金庫』にインスパイアされたらしいけど、プロットは全く違う)。ちょっと甘ったるい所もあるけれど、全体的に素晴らしく、美しいビジュアルでした。

おお! ハードSFの巨匠が、『君の名は。』を観たのか! 一挙に湧いた親近感と、”あの”イーガンがtwitterで呟いている気安さも相まって、おもわずこんな呟きをした。

Dain(筆者):グレッグ・イーガンの『貸金庫』、読んでないのですが、肉体を持たず、一日ごとに宿主(人間)が変わる意識が主人公の物語みたい。おそらく、イーガン先生、『とりかえばや』『転校生』『おれがあいつであいつがおれで』みたいな、男と女が入れ替わる物語を知らないのでは?

すると、こんなコメントをいただいた。

Hashimoto:こんにちは。『君の名は』を監督した新海誠さん自身がインタビューで「貸金庫」からの影響に言及しているんです。

紹介いただいたリンク先に行くと、新海誠のインタビューがある。お薦めのSFとして、「貸金庫」を挙げている。

「あり得たかもしれない自分」とか「こうではなかったかもしれない自分」、あるいは「災害などがなかったかもしれない日本」という言い方もできますけど、そういう並行世界的な想像力に貫かれた作品を初期の頃は書いていて、中でも短編集『祈りの海』に収録されている「貸金庫」という物語は、毎日、違う人になる話なので、少し影響があるかと思います。([FILMERS.2016.8.22]より)

さらに、イーガンのツイートに対し、『君の名は。』の初期プロットを紹介している。

新海誠:とても光栄です。あなたの『貸金庫』は、初期のプロットを作るうえで、インスピレーションを得た作品の一つです。目覚めるたびに違う身体になっているヒロインの物語です。

どうしても気になるのが「貸金庫」だ。

『君の名は。』と比べて、どこが似ており、どう違うのか? アイデアの源泉を探るべく、読んで分かった。「貸金庫」はロマンチックなものではなく、「自分とは何か?」という根源的な問いに向き合う、切なすぎる物語だと分かった。

30ページの、短い、ほんとうに短い短編だ。

奇妙な人生をモノローグで振り返り、最後に、ある決意をする男の話だ。男は、目覚める度に別の身体になっており、その身体の「ふり」をすることが「わたし」の日常になる。

睡眠がトリガーとなることは『君の名は。』と同じ。だが、三葉と瀧のように特定の人と入れ替わるのではなく、同年代の人に毎日乗り移る感じ。また、岐阜と東京という距離はなく、同じ街の人の身体になる。

身体の本来の持ち主を、「わたし」は宿主と呼び、宿主の特徴や住んでいる場所を、ノートに記録しはじめる。このノートを隠しておく場所が、「貸金庫」なのだ。

なぜ、こんなことが起きているのか、「わたし」とは一体誰なのか、全ての謎が明らかになとき、やるせない思いに苦しくなる。そして、それでも、「わたし」が踏み出そうとしている、明日という日に、胸を撃たれる。

「わたし」とは何か、記憶とは何か、自分という存在を定義するものは何か? ややもすると、哲学的思弁に陥りがちなこうした問いに対し、ひとつの男の決断という形で、応答している。

そして、「貸金庫」でイーガンが示した、「わたしとは何か?」への応答が、『君の名は。』になっていることに気づいて、再び胸が震える。この震えは、T. Hashimotoさんのおかげ、ありがとうございます。

書評全文:『君の名は。』の初期プロットと、グレッグ・イーガン『貸金庫』の関係

 

人はなぜ遊ぶのか
ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』

人は遊ぶ存在だ。

じゃんけんからサッカー、コスプレからワルツまで、古今東西、老いも若きも、人は様々な遊びを楽しんできた。「遊ぶこと」それ自体を目的とする行為を、なぜ人はするのか。

この疑問に対し、ロジェ・カイヨワが、神話や文化人類学、歴史学や社会学から解きあかしたのが『遊びと人間』だ。

「遊び」といってもその範囲は膨大だ。一人でするもの、複数でするもの、人数が決まっているものや、道具の有無、時間や場所が指定されているもの、厳密にルール化されているものから、自由度の高いものまで、つかみどころがない。

これを捌いていく手際が鮮やかだ。

まず、遊びを定義することで、外堀を埋める。つまり遊びとはこういうものなのだ。

  1. 強制されず、自由な活動
  2. 生活から隔絶され、予め決められた時空間に制限される
  3. 展開が決まっておらず、創意の工夫が残されている
  4. 富を生み出さない、非生産的な活動
  5. ルールがあり、そのルールだけがその場で通用する
  6. 非現実であり、虚構の活動である意識がある
  7. 次に、個々の遊びに共通する性質を示し、類型化する。さらに、この「共通する性質」こそが人を遊びに駆り立てる動機となり、遊びを通じて文化が生まれてきたのだと主張する。

この分析の中で、「人はなぜ遊ぶのか」に答えようとする。

遊びの原理は強力な本能(競争、幸運の追求、模倣、眩暈)に応じたものであり、遊びは本能を訓練し、それを強制的に制度化するという。同時に、本能は、遊びの教育のおかげで、文化の諸様式を豊富にするのだというのだ。

「遊びは本能」と言い切ってしまうと、なんだ、「本能」というそれ以上説明できない言葉に逃げているではないか、というツッコミが入ってしまう(今だと生得的モジュールとか適応と言われていそう)。

オオカミの仔がじゃれ合う「遊び」は、成長した後に必須となる狩りの予行演習である。誰に教わったわけでもないのだから、それは本能である。

この観察結果を人に当てはめ、その社会・文化的活動の予行演習に相当するものを遊びと定義するならば、「人はなぜ遊ぶのか」という問いへの答えは、結果的に「本能」になるだろう。

書評全文:人はなぜ遊ぶのか『遊びと人間』

 

サッカーの観方が180度変わる
『アオアシ』

何度も何度もトリハダが立つ。座って読んでたはずのに、いつの間にか立ち上がってるくらい興奮している。

それまで、敵陣を貫くキラーパスや、神技のようなボールコントロール、突き刺さるようなロングシュートなど、ボールを扱うプレイヤーを中心に観ていた。

だが、『アオアシ』読んだら、ボールの周りにいない選手の方が気になるようになった。ボールを持っていない選手がどこに居て、何を見て、何をしようとしているかを見たいと感じるようになった。

主人公は、サッカー大好き中学3年の青井葦人(あおいアシト)。粗削りながら特異な才能を秘めており、努力と根性でのし上がっていく王道マンガ……と思いきや、180度違ってた。

もちろん努力と根性もある。サッカーが好きな田舎の少年が、エリート養成のユースチームで技術的に通用するはずがない。それこそ寝る間も惜しんで練習する。

でも、当たり前だけど、みんな練習してきたんだ、積み上げてきた質と量が違う。そんな単純に、努力と根性でクリアできるはずがない。

だから葦人は考える。いまは「できない」、じゃあ「どうする」と問いを立て、考える。そして、仲間、監督、はたまた敵役からヒントを求め、考え抜き、実行する。葦人の名前は、パスカル「人は考える葦である」から採っているんだと思うくらい、考える。

葦人の武器は一つだけ。ストーリー開始時点、本人は気づかない能力で、フィールド全体を俯瞰し、記憶することができる。鳥の目を持っているのだ。

サッカーをテレビで観戦しているとき、「あそこスペースが空いてる」とか「反対サイドがフリーなのに」と、もどかしく感じることがあるだろう。その「目」だ。

足りない技術、高いハードル、限られた時間という制約の中で、葦人は、それを乗り越える以上のことをやってくれる。そういうシーンを目の当たりにすると、全身が総毛だつ。

Aoashi『アオアシ』第16話「クロウ」より

このゾッとする 場面はゴールだけじゃないんだ。もちろんゴールシーンも印象的だけど、ボールを持っていないときが多い。どのように自分が動き、周囲を動かすか、そのために何を見、どうやってメッセージを伝え、エリアを連携しあっていくかこそが醍醐味なんだ、ということが分かる。

これは、読書猿さんとのマンガ対談「ビジネスに役立つスゴいスポーツマンガ4冊!「戦略」「美意識」「言語化」が学べる」でお薦めされたのと、息子がドハマりしているので手にした。ありがとう読書猿&我が子よ!(自分のアンテナでは絶対に見つけられなかった)。

2022年4月よりアニメ放送されるとのこと。あの緊張感と解放感がどんな風に表現されるか、期待しかない。

書評全文:読書猿「大人のためのBESTマンガ36」から3つ選んだ

 

世界史をアップデートする
『詳説世界史B』『詳説世界史研究』

世界史をやり直したら、時代遅れの自分に気づいた。

「世界史やるなら、高校の教科書から入ると良いよ!」というスケザネさんのアドバイスを参考に、山川世界史を読破した。教科書だけだと単調なので、サブテキストの『詳説世界史研究』も並読したのが正解だった(スケザネさん、ありがとうございます)。

そして、わたしの歴史認識が、とても古いことを痛感した。

学校で習った「歴史」は、石油危機と東西冷戦のあたりで終わっている。そして当然のことながら、今に至るまでの間も歴史は書かれていく。

しかし、わたしはそれらを「ニュース」として知る。

メディアやネットを通じた出来事として接する。大きな事件や紛争の報道には、そこに至る経緯も解説されるが、ニュースは次々と上書きされてゆく。記憶に残るものもあれば、消費されるだけのものもある。

結果、わたしの歴史認識は更新されず、穴だらけとなる。どこかのニュースで聞きかじった情報で、頭ン中をお花畑にしていたのだ。

例えば、飢餓人口について。

どこかで「飢えに苦しむ人は大幅に減少している」と耳にしたことがあった。バイアスを克服し、データを元に世界を正しく見るならば、食糧問題や貧困は大きく改善されているという主張だ。影響力のある人が広め、かなり話題になったニュースだと記憶している。

しかし、サハラ以南ではここ半世紀一貫して増加していることを知った(下図参照)。また、世界全体から見ても、2014年を境に増加に転じていることが分かった(世界の食料安全保障と栄養の現状2020年[PDF])。

食糧問題は解消されたと思ったが、それこそわたしの願望でありバイアスだったようだ。一部のデータだけを見て、そのファクトで満ち満ちているように思い込むなんて、どれだけ御目出度いんだろうね。

Sekaisi 『詳説世界史B』 p.417より

あるいは、各地の紛争について。

ベルリンの壁が崩壊し東西冷戦が終結してから、大きな戦争は起きておらず、テロリズムの脅威はあるものの、比較的平和な時代だと考えていた。

しかし、これまでの国家間の通常戦とは異なる性格の紛争が増大していることが分かった。

『詳説世界史研究』では大きく5つの分類に分けている。

  1. 国民国家体制の再編要求:スリランカ、西アジアのクルド人、パレスチナ問題、北アイルランド問題
  2. アフリカ新興国の分裂と主導権抗争:モザンビークの反政府組織、アンゴラのアパルトヘイト、ソマリア、ルワンダ内戦
  3. ソ連邦解体により生まれた領域設定の争い:アゼルバイジャン紛争、チェチェン、ボスニア=ヘルツェゴビナ軍事介入
  4. 経済構造の多極化に伴う権益争い:石油利権をめぐるアメリカとベネズエラ紛争
  5. イラン革命以降の宗教的覚醒:911同時多発テロ、対テロ戦争、アフガニスタン紛争
  6. どれも辿ってゆくと、植民地問題や帝国主義、第二次大戦からの負の遺産であることが分かる。そして、いわゆる私が理解している「戦争」とはずれている。

一元的な統治体制を有する国家どうしが、宣戦を布告し、武力で問題を解決することを「戦争」と呼ぶのであれば、上記のほとんどは当たらない。代わりに、内乱、紛争、武力介入、軍事制圧になる。

血が流れ、住むところは破壊され、難民は増大しているにもかかわらず、単に呼び名が戦争でないから、私は、「比較的平和」などと能天気なことを言っているのだ。この時代錯誤を改めなければならない。

世界史とは、「これで決定版」というものは存在しない。

日々のニュースがどんどん歴史に重なっていく。その上で、今までの世界史の中でどのように位置付けられていくかによって、歴史認識そのものがアップデートされていくのだ。

「食糧問題が解決してほしい」「世界が平和であってほしい」と願い、それに貢献しようと尽くすことは大切だ。だが、願望と現実は異なる。願いでもって、認識を歪めることは避けねばならない。

具体的には、地域や宗派、民族や言語が掲げられたニュースが、歴史の中でどのように位置付けられていくのかを、定期的にアップデートしていく必要がある。教科書は、改版のタイミングで再読していこう。

書評全文:世界史をやり直したら、自分の時代錯誤に気づいた

 

「読み専」として英語をやり直す
『英文解体新書』“Merriam-Webster's Vocabulary Builder”

何度も挫折した英語だが、これが最後の挑戦だ。

かつては漫然と「できたらいいな」だったが、無意味なことに気づいた。そして、「論文・記事やtweetが読める」という目標に絞った。

そこで、読書猿さんとの対談「10年ぶりの独学でも英語がすらすら読めるようになる「スゴ本」厳選5冊」で教わった『英文解体新書』をコツコツ読んだ。



これは、英文読解の思考プロセスに特化した参考書だ。

どこに着目し、どういう風に考えると、正しく読解できるかを体系化し、100語~200語程度の例題を実際に読むことで、その力を身につける。

一つ一つの例文は短いが、ものすごく濃い。カズオ・イシグロの小説やオバマ大統領の演説、ジャレド・ダイアモンド、スティーヴン・キングなど、硬軟取り揃えている。レベル的には難関大学の受験~院試なので、かなり歯ごたえがある。ちょっとキツいという人には、入門編『英語の読み方』がお薦め。

めちゃくちゃ腹落ちしたのが、情報の流れと文章の構造だ。受動/能動態が切り替わったり、省略されたり、語順の入れ替わりが発生するのは、ちゃんと目的がある。それは、受け手への情報をコントロールしたいからだ。

例えば受動態。あまり使うなと学校で教わったが、「なぜ」なのかは覚えていない。それが本書ではこれ以上ないほど明確に解説されている。

まず、英語の基本的なルールとして、主語が文のトピックであり、動詞句が構成する述語部分は、そのトピックに対するコメントになる。つまり、トピックが変わらないのであれば、主語は変わらない(超重要)

The castle is one of the most beautiful buildings in the world. It was built in the Edo period and has since been a symbol of our country.

これは、The castle についての説明だ。一文目の主語は The castle で、文のトピックになる。そして、2文目に移っても、文のトピックは変わらない。

しかし、もし2文目で能動態の文を使おうとすると、「城を建てた人」という新しい情報が入ることになる。伝えたいのは The castle というトピックなので、新しい情報は余分だ。こんな場合に、受動態が必要になる。

受動態は、「あまり使うな」ではなく、使うタイミングがあるのだ。情報を出す際に余分なものを省き、流れをコントロールする仕組みとして用いられているのだ。これを熟読するだけで、読解力の不安が消える。

読解に加え、ボキャブラリーをなんとかしたい。語彙力こそパワー。

目標は2万語。

おそらく学校でやったのを最後に何もしていないので、数千語だろう。こいつを2万までビルドアップする。これも、フツーにやっていてはダメだ。

これも読書猿さん直伝なのだが、“Merriam-Webster's Vocabulary Builder” が素晴らしく良い。語源から関連語句を広げていく構成となっているのだが、目からウロコがボロボロと落ちていく。

例えばPHON 、「音」「声」「話す」という意味がある。 telephone = tele + phone でイメージする通り、「遠く+声」で電話やね。そこからこう広げる。

microphone = micro(小さい) + phone(声)
   → マイクロフォン

xylophone = xylo (木製の) + phone(音)
 → シロフォン、木琴

phonics = phon (声) + ics (~学、~法)
 → 音声学習法(綴りと発音の規則法)

polyphonic = poly (多) + phonic (声)
 → 多声性、ポリフォニー

これまで学んできて、記憶の底に沈殿していた知識の欠片が、次々と繋がっていくのが楽しい。

ビビビとキたのが、PEDだ。

ラテン語で「足」という意味がある。足にするからペディキュア(pedicure)だし、足で踏むからペダル(pedal)だね、という説明で、ピンと来たのが、pedestrian(歩行者)。どうしても覚えられなかったのが、これで完璧になった。ついでにquadruped(四足獣)、biped(二足歩行)、も覚えた。

これらをバラバラに覚えていたら、きっと、もっと苦労していただろう。現在進行中だが、これはモノにしたい。

書評全文:英文読解の思考プロセスに特化した『英文解体新書』

 

物理学と「美しさ」の罠を疑う
『数学に魅せられて、科学を見失う』

数学的に美しい ≠ 科学的に正しい。

美しい数式で書き表せるからといって、それが正しいわけではない。にもかかわらず、両者を混同する物理学者がいる。

科学実験から得られたデータというのは、ノイズだらけで、混沌としており、それらをきれいに説明する数式やモデルを作るのは簡単ではない。

そのため、データを説明する数式の候補をいくつか検討することになる。このとき、よりシンプルに実験を説明する、美しい数式の方が、正しいような気がする(オッカムの剃刀、という言葉があるくらい)。

しかし、数学的に美しいことは、科学的に正しいことを保証しない。ひょっとすると、数学的に美しくない数式やモデルの方が、科学的には正しいのかもしれないのだ。

にもかかわらず、数学的に美しい方が科学的に正しいとする誘惑に駆られ、それに合わせて実験データの取捨選択まで手を染める科学者がいる―――現役の物理学者である著者は、そう告発する。

例えば、CERNの大型ハドロン衝突型加速器(LHC)での実験について。

高エネルギーでの物理現象から生じる粒子を観測する実験では、アルゴリズムが「興味深い」と判断したデータのみ記録され、他の大部分の莫大なデータは捨てられる。そのため、記録された結果からして「実験結果」から程遠いものになる。

あるいは、複数の観測結果を整合性が取れるように行う「微調整(fine-tuning)」という手法について。

「微」という言葉とは裏腹に、ガッツリと調整する。外れ値を除外するとかいうレベルではなく、何十乗も桁が違うものが、巧妙に打ち消し合えるようにチューニングするのだ。

著者は、実験現場で行われる様々な欺瞞に焦点を当てながら、物理学者が引き合いに出す「美しさ」「自然さ」「エレガントさ」にツッコミを入れる。それって主観的な基準ではないの? 客観的であるべし、という科学者の義務を逸脱しているんじゃないの?

そしてついに、「理論物理学者がみな、自分たちの非科学的な手法を認めたくなくて、集団的幻想に陥っているのではないか」とまで言い出す。

これは、物理学が哲学を見失っているから生じていることは分かる。そして、どうすれば物理学が正気を取り戻すのかを考えるのは、哲学の勉強になる。おそらく、実在論と知識の哲学をやり直すことになるだろうが、来年の勉強にしよう。

本書は、@rmaruyさんの書評のおかげで出会えた一冊。原書から読み解いたまとめは、ブログ「重ね描き日記」にある。@rmaruyさん、ありがとうございます!

書評全文:数学的に美しいと、科学的に正しいのか?『数学に魅せられて、科学を見失う』

 

男同士の恋愛にときめく
中村明日美子『同級生』

2人の男の子が恋に落ちる、ピュアすぎるラブストーリー。

ひとりは学校一の秀才。入試で全科目満点を叩き出すぐらい優秀で、真面目がメガネをかけた理知的な印象がある。すぐ赤面する。

もうひとりはバンドマン。ライブでギター弾いてて、女の子にも人気者。くしゃっとした明るい髪と人好きのする顔立ちだ。すぐ赤面する。

そんな、普通なら決して交わることのない2人が、あることをきっかけに互いを意識し、距離を近づけてゆき、思いを伝え合う。

初々しく、可愛らしく、読んでるこっちが甘酸っぱい気持ちで一杯になる。あふれ出すリビドーを持て余していた自分と比べると、なんとも純粋な恋で、痛苦しくなる。そこに欲望があるのだが、互いに相手のことを慮るのが素晴らしい。

20211103

中村明日美子『卒業生』-春-「京都にて」より

そして、身構えていたのが、彼らの日常が幸せすぎること。

男同士の恋愛というハードルが、もっと高いものだと構えていた。「男性が好き」ということに気づき、戸惑い、苦悩するといった展開があるのではないか? と不安に思いながら読んだ。

なぜなら、同性愛が犯罪だった時代や国もあったから。例えば、E.M.フォースター『モーリス』は、文字通り「禁断の恋愛小説」として隠れるように読まれてきた。

100年前の英国、ケンブリッジ大学で出会った2人の恋を描いた小説だ。同性愛が罪とされ、社会的に抹殺される厳しい状況だった。愛の深さゆえに傷つき、傷の深さゆえに慰めあう青年たちの恋は苦しく、美しい。

『モーリス』と比べると、『同級生』は、同性愛に苦悩したり傷つけあったりするような場面は無いに等しい。そこに違和感を抱いているわたし自身が、実はおかしいのだ。

「同性愛者は自分の性嗜好に苦悩するのが普通だ」という思い込みがあるからこそ、ゲイの幸せな日常を描いた作品に違和感を抱いている。そして、苦悩しないゲイに、物足りなさを感じてしまっている。

このわたしの価値観が、情けないんだろうな、ということに気づく。「男が好き」とか「女が好き」とかじゃない。「あなたが好き」なんだなと。

好きになった人が、同性だったり、異性だったりするだけなんだと。

本書は、スケザネさん、タケハルさんとの読書会で知り合えた作品。読書会の様子は、「ボーイズラブには葛藤があるべきか、「普通の」ラブストーリーとは何か、BLの主役はネコなのか、アニメ『同級生』をテーマに2時間語り合ったことを8000字ぐらいでまとめる」に書いた。スケザネさん、タケハルさん、ありがとうございます!

書評全文:「普通のBL」とは何か?

 

『チェンソーマン』を10倍楽しく読む方法

めちゃめちゃ面白い(語彙力

息止めて一気読みした。

「悪魔を身に宿して悪魔を狩る少年・デンジのダークヒーローもの」ぐらいの予備知識で始めたが、読めば読むほど総毛立つ。

もし、未読の方がいるならば、この幸せもの! ぜひともこの傑作を一気読みする贅沢を味わってほしい。

最初はデビルマンめいた展開を予感してたが、軽々と超えてくる。そして、わたしが楽しんだ作品の様々なイメージや設定を惹起させてくる。

例えば、『モンスターズ・インク』や『ドロヘドロ』の「扉」とか、ギュスターヴ・ドレの版画、鮫+台風=シャークネード、敵の血で回復するBloodborne、五十嵐大介『魔女』のネズミ、ワシントンD.C.にあるベトナム退役軍人記念館の58,318人の名前が刻まれた壁、ボルヘスのバベルの図書館(インターステラーの書架群も可)、涼宮ハルヒのエンドレスエイト、『フリクリ』のタバコ、アリ・アスター監督『ヘレディタリー』の儀式(ラストのやつ)、榎本俊二ばりのカッティング。あるいは大友克洋『童夢』の壁ズンや、冷蔵庫にストックしたお肉を食べるところなんて、「NOTHING WILL BE AS IT WAS」まんまじゃねーか!

昔見た作品のネタ・構図・カット・演出・ライティング・脚色・オマージュ・コラージュ・イマージュの、一番美味で最高のやつが、これでもかと惜しげもなく詰め込まれている。読むたびに記憶から宝が発掘されてくる。わたしが知らないだけで、もっとずっと沢山あるはず。

初読時は物語の面白さに惹きこまれて気づかなかったが、これ、もの凄く計算して作っている。

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『チェンソーマン』第44話「バン バン バン」より

例えばここ。空いっぱいに打ち上げられた花火を逆光にしたキスシーンなのだが、これ普通、ボーンとかドカーンとか凄い大音響のはず。そこを一切、音を入れない。次のページも、その次のページも、音がないシーンが続く。

無音にするのは意味がある。

これは、次の予告なんだ。読み手はこの後、空白を埋め尽くすほどの音圧にさらされる。ボーンとかドカーンが、時間差のように激しく耳を撃つことなる(マンガなのにうるさく感じる)。

音の演出ひとつとってもこんな風に、読み手にどんな経験をしてもらうかを計算し尽して、このマンガは描かれている。

そこで、『チェンソーマン』を10倍楽しく読む方法。いますぐ、デカいディスプレイにつなげるんだ。

私自身、ふだんはパソコン、もしくはスマホで読むのだが、ふと思い立ち、ディスプレイで読んだら凄まじい画圧になった。見てくれこのキスシーン。デカい方がドラマティックでしょ?

画面がデカいと、チェーンソーのスピード感もハンパなくなる。「スピード感」を出すためには、画面を横切る効果線が必要だ。だが、小さい画面だと、(あたりまえだが)効果線も物理的に短い。これがデカい画面になると、線がギュィーンと伸び、よりダイナミックに視覚効果が与えられる。

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28型で読むと圧を感じる

おかげで、最初に読んだとき、このシーンで胸がキューンとなった。そして、デンジいーなーと思った。

この後の展開も、デカい画面のおかげで音圧や風圧すら感じられる(マンガなのに!)。そして、この後は何度読んでも胸がギュイィーンとなる。そして、デンジみたいな目には遭いたくないなーと思う。

アニメをディスプレイで見るのは慣れているのに、マンガでそうしない理屈はない。

結論:チェンソーマンは大きなディスプレイで読もう

 

奇妙で異様な読書体験入門
ピンチョン『ブリーディング・エッジ』

トマス・ピンチョン作品には、中毒性がある。

他のどの作家にも似ていない、異様な読書体験になる。ピンチョン作品は普通に殴れる堅牢なハードカバーが多いので、鈍器本として有名だ。上下巻に分かれているものは両手装備ができ、殺傷能力も十分に期待できる。

そんな中、一巻本として完結しており、ピンチョン・マゾヒズムも楽しめる『ブリーディング・エッジ』は、入門として適切かもしれない。

出てくるキャラは100人を超える。ページをめくるたび新キャラが増殖し、好き勝手にしゃべりまくり、動き回る。ディープ・ウェブを徘徊する3Dインタフェース、戦闘少女サブカルチャーのスパイクヒール、バスケットボールの先祖となるマヤ文明の儀式、ヒトラーが愛用したアフターシェーブローション、誘拐した子どもをスパイに育てる施設、LSAが起動する創造性、「私を見ろ」と話しかけるペニス……ギャグ、挿話、エピソードトーク、戯れ歌、いいまつがい、百科全書的なネタの1割しか分からなくても、5分おきに笑わせられる。次から次へと奔流のように翻弄されながら、訳注や GoogleMap を頼りにストーリーをつかみとる。

主人公はマキシーン、おせっかい母ちゃんだ。小学児童2人を育て、円満離婚の<元>夫と付き合い、ベレッタをバッグに、詐欺調査のエキスパートとして働く。主役も脇役もキャラが入り混じる『逆光』や『ヴァインランド』とは異なり、マキシーンだけ見てればいい。彼女が、次から次へと首をツッコみ、マンハッタンを駆け回り、事件と事故の目撃者となる様を見てればいい。

舞台は2001年のニューヨーク。春分の日から始まるから、同時多発テロの半年前。00年のドットコム・バブルが弾けた直後で、Google は IPO前、マイクロソフトが「悪の帝国」と呼ばれていた時代だ(懐かし―!)。会計検査士の資格を剥奪されたものの、不正を見る目は超一流のマキシーン。ひょっこり見つけた変なお金の流れから、アメリカの闇にうっかり踏み込んでゆく。

対する敵役は大金持ちのゲイブリエル・アイス。バブル崩壊に乗じて、膨大な量の光ファイバーケーブルとサーバを買占め、検索エンジン(Yahoo! だ!!)のクロールから隠れた深淵「ディープ・ウェブ」に進出して、巨万の利益を吸い上げる。秘匿していた情報を嗅ぎまわるマキシーンは邪魔っちゃ邪魔なんだけど、家族や会社も含めて入り組んだ妙な関係になってしまっているのが笑える。

プロットの奔流も様々で、後期資本主義の構造的な悪を糾弾する流れもあるし、インターネット監視社会を幻視するハードボイルドな光景も見られる。バーチャル・リアリティが、ミート・リアリティを浸食する怪談チックな演出も入っているし、洗脳装置としてのテレビジョンが定期的に浮上してきたり、やってることはドロドロなのに、妙にスタイリッシュな不倫とか、ワケが分からないよ(でも楽し―)。

デフォルメされ戯画化されたキャラ造形や、マキシーン完全ご都合主義的なストーリー展開、陰謀&パラノイア小説だと思っていたら、完璧な家族小説だったとか、臨界突破した伏線のせいで2回以上読む必要が出てくる物語構造など、規格外の異様な小説となっているが、ピンチョンならば平常運転やね。

これがピンチョンの最新作『ブリーディング・エッジ』の紹介だ。

ん? わけ分からんって?

それで合ってる。ピンチョンの小説を読むということは、説明できない体験をすることだから。

ピンチョンの小説体験に代わる何かを説明するのは難しい。ちょっと見てみな、ピンチョンの感想を語る人は、ピンチョンの他の作品を引き合いにあれこれ述べている。他の何かと比べられない、唯一無二の存在なのだ。ドストエフスキーのおしゃべりの響き合いと、千夜一夜のてんこ盛りエピソードと、白鯨の脱線と引用が交じり合い、足して割らない濃密な物語に揉みしだかれ、惑い、迷い、ビクつき、笑い、憤る。

そういう、異様な体験なのだ。

これ、独力で取り組もうとすると、けっこう大変だ。そういうとき、読書仲間がいると捗る。「鈍器本を読もう」という読書会があって、それに参加するために読んだ。また、その読書会そのものがカオスで楽しい。顛末は、「ピンチョン『ブリーディング・エッジ』読書会が楽しすぎて時が溶けた」に書いた。これ読めたのは、主催者のふくろうさん(@0wl_man)のおかげ。ありがとうございます!

書評全文:ピンチョン『ブリーディング・エッジ』を読むという異様な体験をした

 

単純化した構造で歴史を語る危うさ
『グローバル・ヒストリー』

「開国」という言葉に、違和感がないだろうか? 世界史を学びなおし、世界の中での日本を見直すと、「開国」という表現が奇妙に見えてくる。

なぜなら、江戸時代は鎖国をしていたというが、オランダや中国、朝鮮や琉球、アイヌと交易を行っていたからだ。近代化に向けた啓蒙のニュアンスを感じるからだ。

確かに、鎖国方針の停止は大きな転換点だ。しかし、普通にあった西洋以外との交易を無視して、欧米との交易開始を、「国を開く」と強調することにもやっとしている。

著者であるドイツの歴史学者・ゼバスティアン・コンラートによると、この「開国」というレトリックは、日本だけでなく、中国、朝鮮にも適用されているという。西洋以外とのつながりを無視し、欧米との関係の開始を際立たせるために用いられる表現になる。

同様に、「国民」「革命」「社会」といった概念もまた、ヨーロッパの局地的な経験を、普遍的な理論として他の地域に押し付けるための用語になる。

この背景には、歴史を記述する際、ヨーロッパを中心とするヘゲモニーが横たわっている。ウィリアム・マクニール『西洋の台頭』に代表されるように、ヨーロッパが達成した成果が、周辺へと伝播する一方通行の世界史だというのだ。

一方で、近年の歴史学では、ナショナル・ヒストリーからの脱却も目指されている。

ナショナル・ヒストリーとは日本史、フランス史、ベトナム史といった国民史のことで、一国内だけで歴史的変化を説明するアプローチだ。

これは、教育のプロセスの中で、ナショナル・アイデンティティを形成し、国民国家を建設するプロジェクトとしては有効だったかもしれない。だが、イデオロギーや政治・経済活動、ウェブを基盤とするコミュニケーションの広がりが地球規模になっているいま、一国の歴史だけで自国を語るのは、現実的ではないだろう。

ヨーロッパ中心史観から脱却し、ナショナル・ヒストリーの限界を乗り越えるため、グローバル・ヒストリーが提案されている。

グローバル・ヒストリーは、研究対象ではなく、固有の視点になる。

個人や社会が、他の個人や社会と相互作用する仕方にとりわけ注意をはらう。その結果、領域性、地政学、循環、ネットワークといった空間的メタファーが、発展、ずれ、後進性といった時間の語彙にとって代わる傾向がある。

この傾向は、必然的に、近代化を目的とした歴史叙述を否定するという。つまり、社会的な変化の方向は決まっており、古い伝統から、近代社会へ発展していく……といった観念を批判する。世界の全ては、ヨーロッパの歴史通りに経験していくという考えの否定である。

その実例は、コンラート自身が示している。

「記憶をめぐる戦争」と名づけられた、日本の歴史教科書の問題だ。コンラートは1990年代の教科書の記述内容についての議論を俎上に、日本、中国、韓国と異なる場所で共時的に起きた構造を明らかにする。

冷戦の終焉に伴い、政治的・経済的な変容の中で、韓国や中国の犠牲者の声が日本で耳を傾けられるようになり、新しい政治的連携が国境を超えて生まれたという。これは戦争記憶の回帰ではなく、地政学的構造によって条件づけられた、新しいアジアの公共圏の到来だと示している。

グローバルヒストリーには課題もある。

個々の人物への焦点から、グローバルなファクター(領域性、地政学、循環、ネットワーク)に視点を切り替えることによって、あたかも個人や集団の役割が存在しないかのように描かれてしまわないか、という懸念だ。

例えば、ホロコーストがグローバルな諸力によって説明されうるなら、ナチスの所業や責任を、外部化してしまわないか、という恐れである。時空間の尺度を広げることで、起こったことが不可避であり、あたかも必然であったかのようにミスリードされる危険性がある。

全てをグローバルで捉えようとすると、歴史の中から固有名詞が失われていく。十字軍を開始したのは誰か、太平天国の乱で苦しんだのは誰か、そしてヴァンゼー会議の議長は誰かといった「人」の行為主体性が失われることになる。

こうしたミスリードに陥らないためには、グローバルなファクターと、「人」の行為主体性とのバランスが重視されることになる。歴史を単純化した構造で語りたい誘惑は、常につきまとう。だが、その構造だけでは語ったことにはならない。なぜなら、歴史は人の営為であるのだから。

書評全文:単純化した構造で歴史を語る危うさ『グローバル・ヒストリー』

 

経済学は「科学」なのか?
『社会科学の哲学入門』

経済学は「科学」だろうか?

経済学者は好きなことを勝手な方法で分析し、主張する。何やら数式やモデルは出てくるが、客観性も再現性も無さそうに見える。

頻繁に書き変わる教科書は、更新のたびに理論が書き変わり、新しいモデル(あるいは例外)が追加される。

そしてひとたび、想定外の事象が起きたら、「ブラック・スワン」などというカッコイイ名前を付けて説明できたことにする。現実の経済に経済学が追いついていない証拠に見える。かくして理論を疑わずに済み、経済学者の心は守られる。

そして、経済学の教科書は順調に厚みを増し、理論やモデルの補注だらけ、パラメーターまみれになる。

経済学の古典とも言えるマルクスやケインズを齧ると、別の疑いが出てくる。

教科書の元となる彼らの思想そのものが、なんら客観性もなく、個人の人生観で歪められたバイアスではないか、という疑いだ。

例えば、大学教授への道が閉ざされ、借金に追われて住居を転々としたマルクスが構想したのは、「破滅へ向かう資本主義」だった。一方で、絵画や古書への造詣も深く、裕福なパトロンとして人生を愛したケインズは、「持続可能な資本主義」の立役者となった。

同じ「資本主義」でも偉い違う。これは、二人の生きた時代の違いだけでなく、二人の出自や生活環境、持てる者/持たざる者に因る歪みではないか。

そして、時代ごとの為政者の思惑に、「たまたま」マッチした思想がもてはやされ、一世を風靡した後、共に消えていく(そして時が流れ、また流行や思惑に合いそうなとき、ゾンビのように復活する)。

そういう疑いを抱いているのは、わたしだけだと思っていた。

だが、吉田敬『社会科学の哲学入門』では、この疑いが検証されている。経済学を始めとする社会科学への欺瞞は、何十年も前から議論されており、現在進行形で続いているのだ。

例えば経済学には、パラダイムがない。その分野で支配的規範となる「物の見方や捉え方」が無く、ミクロ、マクロ、学派、主義、流派によってバラバラである。

あるいは、数式をありがたがる理由は、物理学への羨望だ。数学のおかげで、物理学や天文学が成功してきた。そのため、数式を用いて形式的に説明することが「科学的」である証だと見なされている。

また、科学者も人であり、人である限り何らかの価値観を持っている。本書では、マックス・ヴェーバーやアーネスト・ネーゲルを引きつつ、科学的論証には、研究者者の価値判断が混入している事例を紹介している。

科学哲学の観点から、社会科学の営みの根本へとガイドしてくれる。これも読書猿さんにお薦めされた一冊。ありがとうございます。

書評全文:経済学は「科学」なのか?『社会科学の哲学入門』

 

「人はなぜ〇〇するのか?」への最新回答
『進化でわかる人間行動の事典』

人はなぜ〇〇するのか?

〇〇には、様々なものが入る。「笑う」「遊ぶ」「描く」「踊る」「歌う」「助ける」「学ぶ」など、44の行動をピックアップして、それぞれについて、進化的観点から、最新の論文を集めたのがこれだ。

例えば、人はなぜ笑うのか?

本書は、この問いを、「『笑い』には、どのような機能があるのか」という問いに置き換え、さらに笑いの役割からアプローチする。

つまり、人類が生き延びていく上で、笑いがどのような役目を果たしているかを考察する。その行動が適応度にどれだけ影響したのかという観点から、「人はなぜ笑うのか」を考えるのだ。すると、笑いの様々な役割が見えてくる。

生まれたばかりの赤ん坊は、ニッコリと笑うことがある。生理的微笑と呼ばれるもので、自分の意志ではなく、反射神経の働きともいわれている。これは、親からの養育行動を引き出す機能を持つと言われている。

霊長類の遊びにおける「笑い」(play face)は、攻撃的な追う・咬むといった動作が、「本気の攻撃ではない」ことを明確にするシグナルとされている。カイヨワの『人はなぜ遊ぶのか』にも通じる「笑い」だ(ただし、本書にカイヨワは出てこない)。

他にも、様々な問いついて、現時点での暫定解が得られる。これまで読んできた本と重なるところが多い。

  • 人はなぜ火を用いて料理をし、集団で食事をするのか(食べる) → 料理はヒトの生存戦略「火の賜物」
  • 人はいつから歌っており、なぜ歌うのか(歌う) → 人は歌で進化した『人間はなぜ歌うのか』
  • 教える/教わることで、人はどのように優位になったか(教える、学ぶ、まねる)
  • 人はなぜ装い、見せびらかすのか(飾る、見栄を張る)
  • 人はなぜ結婚をするのか、いつから一夫一婦制なのか(結婚する、恋愛する) → 結婚のスゴ本
  • 人を殺すことが適応的になる場合があるのか、またそれはどんな場合か(殺す)

人の心は自然淘汰によって形成されたという前提から、「人とは何か」について、具体的に迫る一冊。本書は、shorebirdさんの書評で知り、その足で書店へ走った。これまで読んできた人間行動の科学を一望できる本に出会えてよかった。shorebirdさん、ありがとうございます。

書評全文:「人はなぜ笑うのか」への最新回答『進化でわかる人間行動の事典』

 

人生を変えるのは音楽かもしれない
『楽園ノイズ』

恋と音楽と青春を一冊に圧縮したラノベ。いわば、読むセッションだ。

それも、肌が泡立つやつ。ヒリヒリする緊張感と、想いをぶちまける解放感が混ぜこぜになって、確かに昔に聴いた曲があふれ出す。これは、釘宮ボイスで再生するのが正しい。

「僕」の趣味は音楽。

といっても、いわゆる「バンドマン」ではなく、薄暗い自室に閉じこもって画面をにらんでマウスで音符を切り貼りする。できた曲をYoutubeにアップロードして反応を待つ音楽オタクだった。

「だった」と過去形なのは、出来心で女装した動画をアップロードしたから。一部のマニアにウケて十万視聴を突破したのはいいけれど、よりにもよって音楽の先生にバレてしまう。で、授業の準備やら問題児の様子見やら、面倒を押し付けられるハメになる。

先生を通じて出会う女の子たちは、コンプレックスを抱えるピアニストや、複雑な家庭のドラマー、不登校のヴォーカリストだ。共通するのは、超一流の才能を持っていること。音楽オタクの僕には二重の意味で高嶺の花だ。

これが普通のラノベなら、彼女たちの厄介ごとを「僕」が解決しちゃうのだが、その辺リアルに出来ていて、彼は踏み込まない。

ただ、音楽が好きだからこそできる方法、つまり一緒にセッションすることで、彼女たちにあるきっかけをもたらす。そして、彼女たちは自分で変えてゆく。その様子を見ていると、人生を変えることもできるのは、音楽なのかも……と思えてくる。

10章に渡って駆け抜ける青春は、騒がしく悩ましく彩られた大切な時間だ。

アップテンポな会話で愉快にさせた後、急転直下でキツい展開へ。終盤で回収される伏線は、交響曲の後半で冒頭のフレーズが「戻ってくる」かのような既視感だし、クライマックスとなる第9章では、文字列から音圧が伝わってくる。

そして、最終章、めちゃくちゃ胸にクる。瞳から汗を、体中に涙を感じる。

音楽が、私が私だったことを思い出す。

落ち込んだとき、慰められたCDがあった。試練を目の前に、自分を鼓舞するために歌った歌があった。なにもかも忘れて「無」になるためにヘビロテした曲があった。そのどれも、今は聴いていないことに気づいた。

だが、この小説を読むと、それらが全部いっぺんに思い出してくる。音楽が、自分を支え、変えてきたことに気づく。

音楽の力を思い出す一冊。

書評全文:人生を変えることもできるのは音楽かもしれない『楽園ノイズ』

 

だまされたと思って読んでほしい
『インド夜想曲』

「だまされたと思って読んで欲しい、読まずに死んだらもったいないから」と手渡された一冊。

150ページほどの、ほんとうに短い小説だから、後で読もうと放置して幾年月、昨今のコロナ禍で死が身近になった今、読まずに死ねるかと開いたらあっという間だった。

静謐で、濃密で、これ以上ないほど贅沢な一時間となった。

インド、ボンベイ。主人公がタクシーに乗るところから始まるので、紀行文学の体をした小説というのが第一印象。地の文が「僕」で語られる点は村上春樹に似ているけれど、「僕」が雰囲気に流されない点は似ていない。

読み始めてすぐ、「僕」は誰かを探していることが分かる。どうやら失踪した友人のようだが、彼のほうは会いたくないらしい。だが「僕」は、手がかりを丹念に集め、手繰り寄せ、近づいていく。

ボンベイ、マドラス、そしてゴアと、友人の痕跡をたどってゆく。夜のバス停で出会う美しい目をした少年、もと郵便配達のアメリカの青年、5つ星ホテルで隣り合わせた女など、様々な人々と交流する。「僕」は、地図上の移動だけでなく、階層をも上下しつつ、インドを探ってゆく。

12章の断片に分かれるどのシーンどのシーンも印象的で、いかに醜悪な光景でも、はっとする一瞬を切り取っている。読み進めるうち、ほんとうに友人に会えるのか、そもそもなぜ、彼を探しているのか、気になってくる。

だが、作者は、要所要所にヒントを残している。私が一番好きなのはこれだ。

「肉体のことです」僕がこたえた。「鞄みたいなものではないでしょうか。われわれは自分で自分を運んでいるといった」(p.48)

過ぎ去った現実は、大体において、実際にそうだったよりも改善される。記憶はおそるべき贋作者だ。その気がなくても、時間の汚染は避けられない。こうして、いくつものホテルが僕たちの空想の世界を満たしている。(p.110)

最初はふらついていた足取りは、ラストに近づくにつれ、だんだん確かなものになってゆく。「僕」が目指しているものが、だんだん私にも見えてくる。ほんとうに短いので、惜しみ惜しみ進みながら、最後のページに達する。

そうやって読んだいま、わたしからもお薦めする。読まずに死んだらもったいない。だまされたと思って読んで欲しい、と。

書評全文:だまされたと思って読んでほしいアントニオ・タブッキ『インド夜想曲』

 

この本がスゴい!2021フィクション
『蛇の言葉を話した男』

今年読んだフィクションNo.1。

読み始めたら止まらない、そういう本は、確かにある。巻を措く能わずとか、page-turnerと形容される、中毒性の高い物語。

これがそれ。

どれくらい止まらないかというと、この写真を見て欲しい。

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背表紙を見てほしい。少しナナメに歪んでいることが分かるだろうか。あるいは、小口(開くところ)だと斜めにひしゃげている。これが、一気に読んだ証拠だ。

説明する。

まっさらの本は、背表紙も小口もまっすぐで、上からのぞいたら、長方形に見える。

扉を開くと、開いたほうに背表紙が引っ張られ、斜めに歪む。扉を閉じれば、歪みは元に戻る。そして、閉じている間は、本は元の形に戻ろうとする。

ところが、開きっぱなしだと、背表紙はずっと引っ張られたままとなり、歪みが戻りにくくなる。その時間が長いほど、歪みは強化される。つまり、一気に読まれるような本であるほど、このようにひしゃげてしまうのだ。

文字通り、「蛇の言葉を話した男」のお話だ。不条理と諧謔と異形を折り込んだ、壮大な寓話になる。帯にはこうある。

これがどんな本かって?
トールキン、ベケット、M.トウェイン、宮崎駿が
世界の終わりに一緒に酒を呑みながら
最後の焚き火を囲んで語ってる、そんな話さ。

確かに、ジブリ風味やトールキン的世界はある。

だが、わたしはむしろ、異なる価値体系で、世界を問い直している点に、ハクスリー『すばらしい新世界』を感じる。

人間性が喪失した世界で、それでも人であろうとすると、どんな目に遭うか―――『すばらしい新世界』の黒いユーモアに笑った人、まちがいなく、『蛇の言葉』で爆笑するだろう。

倒錯した価値観の語られ方は、アゴタ・クリストフ『悪童日記』と同じ匂いがする。語り手は、わたしたちの価値観とはまるで異なるのだが、その世界に付き合っていくうちに、狂気と正気は多数決だということに気付く。

神話の誕生を垣間見る感覚は、ガルシア=マルケス『百年の孤独』とシンクロする。

終末が運命づけられ、「最後の〇〇」や「△△と最後に会った男」など、ラスト・オブ・〇〇臭が漂う中で、過剰で濃厚で圧倒的な密度で騙られる物騙り。その展開に身を任せ楽しんでいるうち、仕込まれた寓意に気付いて驚愕する仕掛けになっている。

運命から全力疾走した先に運命が待ち構えている構図や、叙事的に言葉を重ね、丁寧に現実を語っているのに幻想に誤読できてしまう描写など、ぜんぜん違う物語なのに、新しい『百年の孤独』を読んでいるかのような気になってくる。

「面白い小説とはセックスのようなもので、途中でやめるわけにいかない」と阿刀田高が言った。まさにこの小説のためにある言葉だ。

これは、冬木糸一さんの[基本読書ブログの記事]と、ふくろうさんの『蛇の言葉を話した男』に眉間を撃ち抜かれる!で、居ても立っても居られずに読んだ。このお二方が太鼓判を押した小説は間違いないぞ。心して眉間を撃ち抜かれるべし。

書評全文:『蛇の言葉を話した男』の面白さを、あらすじ抜きで伝える

 

この本がスゴい!2021ノンフィクション
『反穀物の人類史』

人類は、狩猟採集から農耕牧畜へと進歩した。

穀物による安定した食糧生産が人々の健康を増進し、余暇を生み、文字や文明を育んでいった。文明を狙う野蛮人は、狩猟採集のままの生活で、文字を持たぬ遅れた未開の人々だった。

……と思っている? だったら本書をお薦めする。

著者はジェームズ・C・スコット、イェール大学の人類学部教授だ。メソポタミア、秦・漢、エジプト、ギリシア、ローマなど、文明の初期状態を検証することで、わたしが刷り込まれてきた「常識」に疑義を投げかける。

まず、農耕社会が豊かだったというのは誤りだということが分かる。少なくとも、初期の農業は酷いもので、反対に豊かで多様性に富んでいたのは狩猟採集の人々になる。

その証拠として、残されている農民の骨格を、同時期に近隣で暮らしていた狩猟採集民と比較する。

すると、狩猟採集民の身長が、平均で5センチ以上も高いことから、栄養状態が良かったことが伺える。海洋、湿地、森林、草原、乾燥地など、複数の食物網にまたがっていたうえ、それぞれの季節に応じて移動していたため、食べものは多様で豊かだったと考えられる。

一方、農民の大半は栄養不足による骨の変形が見られ、歯のエナメル質の形成不足や、感染症に関連した病変が見られたという。これは、初期の農民の栄養状態が不安定だったことを示している。

では、どうして農耕生活でこれほど発展できたのか? という疑問が残る。著者は、農耕生活ではなく、農耕するための「定住」で説明を試みる。

狩猟採集民と比べて不健康で、幼児や母親の死亡率が高かったにもかかわらず、定住農民は繁殖率が高く、死亡率の高さを補っても余りあるほどだったという。

まず、定住しない人々は、野営地を移動するため、意図して繁殖力を制限することになる。対照的に定住農民は、短い間隔で子どもを作る負担が軽減される。この違いが、5000年という期間に渡って、複利計算のように大きなアドバンテージとなったというのだ。

次に著者は、古代の初期の農耕についてある共通点に着目する。

それは、全て穀物国家だったという点だ。麦や米、ヒエ・アワ、トウモロコシなど、一定の時期に地上に実が成る穀物が、主要な食物であり、現物税の単位であり、農事暦の基盤を提供していた。

著者は、穀物だけが課税の基礎となるという仮説を立てる。定期的に作物を収奪する人にとっては、麦や米の方が都合がいい。

なぜなら穀物は、地上で育ち、ほぼ同時に熟すからだ。徴税官にとっては、収穫時期に一回遠征するだけで、必要な分を収奪できる。農民は収穫、脱穀までしてくれるから、タイミングよく出向いて、倉庫から徴税すればいい。

地上で実っているのが目視で分かる。粒が細かいので分割や運搬に便利。保存が利いて、兵への分配も容易。さらに、同時に熟すので効率的に収奪できる―――こうした理由で、穀物はコスパのいい課税作物になったのだという。

そして、言い換えるなら、課税に不適な作物で暮らしている人々にとっては、「国家」の範囲外になる。

つまりこうだ。狩猟採集や漁労、焼畑農業、遊牧を生業とする人々から課税するのは難しい。分散して移動している上に、生産物は多様で傷みやすい。

こうした人々を追跡し、課税することは、ほとんど不可能になる。国家の外側には、こうした収奪不可能な生業活動が、多種多様に広がっていたというのである。

著者はさらに、メソポタミア「文明」から見た「辺境」のコミュニティに着目する。

狩猟採集を生業としていたため、文字として記録されなかった人々だ。こうした人々は、文字の使用を拒絶していたという。これは、文字を持つだけの知性が無かったからではなく、むしろ、文字に備わる課税と支配の構造を回避しようとしていたからかもしれない。

文字を記す側である行政官からすると、国家という枠の外にある、徴税が及ばない連中になる。「文字を記す側=中央」と「徴税できない連中=辺境」の構図が出来上がる。

文字を記す側は、自分たちの権力の正当性や血統をプロパガンダする必要がある。自らを中央とするために、課税を逃れ、臣民にならない連中を、「辺境」として非難する必要がある。

この発想は、『遊牧民から見た世界史』で学んだ、中華思想そのものになる。中国皇帝が世界の真ん中で最高の価値を持ち、周辺に行くにつれ程度が低くなり、辺境より先は蛮族として卑しむ華夷思想だ。そしてこの傾向は、中国に限らず、文字を残したあらゆる文明に共通する。

わたしたちは、残された文字に書かれた内容から、当時を想像する他はない。だが、文字として残っていなかったからといって、存在しなかったことにはならない。

定住社会において、「中心」として自らの正当性を記録するのであれば、それは岩や石、粘土に刻んで焼くといった遺し方をするだろう(そして、まさにそれらが、いま見ることができる史料だ)。

だが、移動を中心とした社会では、たとえ記録を残すとしても、運搬に適さない重量物には刻まなかったはずだ。もっと軽い、竹や皮、繊維を編んだものに印をつけるといった手段を取ったに違いない。数千年の時を経て、どちらが残りやすいかを考えると、火を見るよりも明らかだ。

他にも、「暗黒時代」や「野蛮人」という言葉が刷り込んでいるバイアスを解いたり、文明の「発展」と、そこに生きる臣民の「幸福」を実証的に考察する。最新の考古学・人類学の論文や文献で、わたしの常識を揺さぶってくる。

常識を問い直し、自分で考え直す観点と材料が得られる。

本書は、尾登雄平さんの[歴ログの書評]で頭ガツンとやられて手にした。尾登さんが薦める歴史本にハズレなし。特に面白いネタは『あなたの教養レベルを劇的に上げる驚きの世界史』にまとめてくれている。このスゴ本に出会えたのは尾登さんのおかげ、ありがとうございます!

書評全文:文明と穀物の深い関係『反穀物の人類史』

 

スゴ本2022

「後で読む」は、あとで読まない。
「後で読む」は、あとで読まない。
「後で読む」は、あとで読まない。

これは、わたし自身に言い聞かせてる。

「いずれ」「そのうち」「今度の休み」「定年後」読・ま・な・い。

だから「いま」読む。

去年の「この本がスゴい!2020」を振り返ってみる。

『バクマン』終わって『ドロヘドロ』『エマ』に手を出している。R.R.マーティン『氷と炎の歌』は翻訳待ちで、ドラマはシーズン7の佳境(徹夜小説&徹夜ドラマだ)。マルセル・シュウォッブはちびちび読んでる。プルースト『失われた時』は絶賛挫折中なので、次の鈍器ならピンチョン『重力の虹』だな。

去年はエリアーデ『世界宗教史』、大江一道『世界近現代全史』を掲げていたけど、『岩波講座 世界歴史』が出たので、これを最優先に読む!(宣言)。上原亮『実在論と知識の自然化』を進めるためには、定期読書会かラーニングログのような仕掛けが必要だ。

ベイトソンの『精神の生態学』は合わないので損切り、洋書で挑戦していた ”Lost in Math” は、翻訳された『数学に魅せられて、科学を見失う』がまさに今年のスゴ本になっている。

「面白いとは何か、面白いと感じる時、何が起きているのか」というテーマは取り組み中。骨しゃぶりさんお薦めの『ヒットの設計図』『好き嫌い』を手がかりに、今年のスゴ本『進化でわかる人間行動の事典』を加え、レイコフ『レトリックと人生』、デネット『ヒトはなぜ笑うのか』を再読している。物語構造としての面白さや、視線誘導としての面白さは、『ストーリーボードで学ぶ物語の組み立て方』から分析する。

人生の持ち時間は少ない。やりたいことは、「いま」やろう。

これからも、わたしを震わせ、揺るがせ、行動を変えていくようなスゴ本は、このブログや、twitterで発信していくつもり。

もしあなたが、「それが良いならコレなんてどう?」なんてお薦めがあれば、ぜひ教えて欲しい。それはきっと、わたしのアンテナでは届かない、素晴らしい本に違いない。

なぜなら、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるのだから。

 

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人生は残酷だが美しい『地上で僕らはつかの間きらめく』

この小説は、母に宛てた手紙の形で綴られている。

もう一度、最初から始めよう。

母さんへ

僕は今、あなたに声を届けたくて手紙を書いています―――ここに言葉を一つ記すたびに、あなたから遠ざかることになるのだけれど。僕が手紙を書いているのは、あの時に戻るためだ。

「母さん」は読み書きができない。ベトナムからアメリカに渡り、女手一つで家族を養っている。きちんとした教育を受けていないので、英語はほとんどできない。

そんな母に向けて、「僕」は、母との思い出とともに今の思いを綴る―――

―――こんな設定だと、すれっからしの私にピンとくる。ケン・リュウ『紙の動物園』みたいじゃないかと。中国系移民である母の自己犠牲が、涙腺を刺しにくる話だ。

この小説は、そんなお手軽な展開にならない。

「僕」は、母から割とパワフルな虐待を受けていたからだ。じゃぁ、暴力を振るっていた母への恨みつらみの物語かというと、そっちでもない。「僕」は、母が受けてきた痛みも分かるからだ。

人生を擦り減らす痛み、生きるために身体を差し出す苦しみ、この小説には、様々な痛みが描かれている……読んでいると、まるで生きることは痛みだ、と思えてくる。

『地上で僕らはつかの間きらめく』は、ベトナム系詩人であるオーシャン・ヴォンの、最初の小説になる。

語り手の「僕」は、ヴォンとよく似た境遇の、ベトナム系アメリカ人の青年になる。

学校ではいじめられ、家では母から暴力を振るわれた子供時代、バイト先で知り合った青年に恋をしたハイスクール時代、そして詩人となった現在までの、さまざまな出来事が、母への手紙の中で綴られてゆく。

生きることは痛みだという通底音の中に、時折、恐ろしいほど美しい一瞬が輝きを放つ。それは、海と空の広がりを喚起させるイメージだったり、欲望の輪郭を逆光のように染め上げる光景だったりする。

美しいな、と感じたのは、タバコ農場で出会ったトレヴァーの視線だ。

でも、僕がそのとき感じたのは欲望ではなく、静かに蓄積する電荷のような可能性だった。僕をその場にとどめたまま、自身の重力を発散する感情みたいなもの。畑で僕を見たときのあの目。目の前に積み上がっていく緑色のたばこの葉を見ながら、肩を並べて作業をしたあの短い時間、僕たちの腕は時々互いに触れ合った。

人を好きになり始める「あの感覚」を、「静かに蓄積する電荷のような可能性」という表現に撃たれた。

まだ自分の「好き」に気づいていない感覚……これ、切り取った引用だけで伝わるか不安だが、人を好きになったプロセスに注意を払ったことがある人なら分かるだろうか。

スイッチのON/OFFのようにデジタルに切り替わるのではなく、身体の内側を満たしていくなにか―――普通だと「熱」として描かれることが多いが、この熱は発散するのではなく方向を持っている―――を感じたことがあるなら、分かるかもしれない。

「僕」とトレヴァーとの恋が美しい。

自分の中の性的志向に戸惑いながらも、おずおずと歩み寄り、自分の殻を破り、外へ出ると同時に、自分の欲望にも踏み込む。僕もトレヴァーも同じものを欲望していることを自覚して、実行する。その決然たる所作の一つ一つが、美しい。

そうした輝きも束の間の出来事になる。

フラッシュバックやフラッシュフォワードを織り交ぜ、「僕」の語りは行きつ戻りつしながら、現在に向かう。ベトナム戦争のナパーム攻撃やオピオイドの薬害や全身をがんに蝕まれ迎える壮絶な死を描き、生きることは痛みだという基底に戻ってゆく。

読み手は、埋め込まれた輝きの一つ一つを拾い上げるように進めてゆく。私が見つけたきらめきをいくつか並べよう。

だってあなたは覚えているのだから。そして思い出は二度目のチャンスだから。

永遠に続くものなんて存在しない、と人は言う。でも本当は、何かが自分の愛より長続きするのを恐れているだけだ。

本当のことを言うと、アメリカは神の下にある一つの国ではなく、薬物の下、ドローンの下にある国だ

本当は「あなたは幸せなの?」と言いたいのに、いつも「元気?」と言ってしまってごめんなさい

美しいものには命をかける価値がある、と僕は学んだ

私が一番気に入っているのはこれ。

完璧な喜びは、うれしいという感覚さえ排除する。なぜなら、対象によって満たされた魂には、"私"という部分さえ残されてはいないからだ。

これは、「僕」がトレヴァーに乗られた状態での言葉だ。自分がまだそこに存在していること、僕が僕であることを確認するため、背後に手を伸ばす。そこで手に触れたのが、自分の身体ではなく、トレヴァーだったことに気づく。そこには、「僕」すらいないのだ。

人生は残酷な痛みでできている。そこにきらめきを見いだす、詩のような小説。

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イギリスの歴史の教科書に嘘は書いていないが本当の事も省かれている

世界史を学ぶほど、イギリスが嫌いになる。

奴隷貿易、インド支配、アヘン漬け、三枚舌外交など、悪い印象しかない。アフガニスタン紛争やパレスチナ問題など、今なお続く厄介な問題を手繰っていくと、きっとイギリスの悪行が見つかる。にもかかわらず、イギリスが代償を支払ったことは見たことがない。

仮に、歴史の審判なるものがあるのなら、その目はイギリスを素通りしている。でなけりゃ、審判自体が存在しないか。

そんなイギリスが、自国の教科書に何と書いているか?

植民地支配を「なかったこと」にしているのか。あるいは、不都合な事実を歪曲してほっかむりをするのか。さもなくば、嘘八百を並べ立てているのか。

イギリスの中学の教科書『The Impact of Empire/帝国の衝撃を読んでみた。

イギリスには、日本のような教科書検定制度は無い。

だが、学習指導要領に相当する、ナショナル・カリキュラムに準じる必要がある。カリキュラムの「指示」に従い、「イギリス帝国の存在が、イギリスと、海外の異なる地域や人々に与えた影響力を学ぶ」方針に沿って執筆されたのが、これだ。

イギリスの教科書に書いてあること

結論から言うと、嘘は書いていないけれど、本当のことも省かれていた。

まず、植民地支配の歴史は書かれている。

日の沈まぬ国としての大英帝国の栄光の記録が、教科書の大半を成している。どんな試行錯誤を経てインドを支配するに至ったか、帝国の建設者となったのは誰かといった経緯が、物語られている。

奴隷貿易も書かれているし、虐殺は虐殺として書かれている。

例えば、セポイの反乱への鎮圧は、「正義」を超えた報復だとも認めている。

反乱者だと思われる人を片っ端から捕え、裁判抜きで処刑する。さらに、普通に殺すのではなく、大砲の口に縛り付けて粉々に吹き飛ばしたことも書いてある。ヒンドゥー教とやイスラム教徒が確実に地獄に行けるよう、強制的に牛や豚の肉を食べさせた後に処刑したことも書いてある。

あるいは、偽の外交文書で騙したことも書いてある。

アフリカのベナン王国と貿易条約を結ぶ際、英語を読める人が少ないのを良いことに、「ベナンの支配権を譲渡する」という文言を滑り込ませたという。当然、関係は険悪化するが、近代兵器で武装したイギリス人の敵ではなく、都は焼き払われ、財宝はエクセターの博物館に運び去られたことも書いてある。

イギリスの教科書に書いていないこと

一方で、清国をアヘン漬けにしたことは書いていない。

中国産の茶の需要が高騰したが、中国に売るものが無いため、インドからアヘンを持ち込んだことは書いてない。銀の流出を危険視した清国とアヘン戦争が行われ、南京条約や香港の割譲、不平等条約の流れは、一切ない。

これらは、帝国の圧力に曝されるアジア側にとっては危機感を煽られるものとして重視される一方、大英帝国にとっては相対的に「小事」なのだろう。

そもそもこの教科書、時系列に沿って歴史を記述する方法になっていない。

奴隷制や囚人植民地など12のテーマに絞り、その範囲で限定的に説明されており、網羅性は見るべくもない。アヘン戦争が書いてないのと同様に、小事として書かれていない暴力は、まだありそうだ。

しかも、特定の人物を主人公にして、その目を通して描写するという、いわば「歴史物語」の体裁を取っているため、「なぜそれが起きたのか?」「その後どうなったのか?」といった背景や影響は抜け落ちることになる。

三枚舌外交はどう書かれているか

象徴的なのは、イギリスの三枚舌外交だ。

アラブ側の軍事行動の見返りのため、ユダヤ人からの財政援助を求めるため、フランス・ロシアとの協定のため、イギリスは、相矛盾する3つの約束をした。フサイン・マクマホン協定、バルフォア宣言、サイクス・ピコ協定と呼ばれている。

そして、この三枚舌外交により民族対立が先鋭化し、現在まで続くパレスチナ問題が生じることになった―――と、日本の教科書(山川出版、帝国書院)やWikipedia[Balfour Declaration]にある。

もちろん、イギリスの教科書にも、この3つの矛盾した約束が書いてある。

だが、とあるイギリス人の物語という形で描かれている。

名前はガートルード・ベル、熱烈なアラブ主義者で、イギリス政府から高く評価された行政官である。彼女は、矛盾した協定を知ると、大いに心配し、アラブとユダヤの確執を恐れるようになる。

それだけだ。

3つの協定について、丁寧に書かれてはいる。どのような立場の人物が、どんな思惑で、誰と話し、どういう協定を結んだか……は書いてある。民族問題になることを懸念し、ガートルードが孤軍奮闘することも書いてある。

だが、彼女の努力は実を結ばず、睡眠薬で自殺するところでこの物語は終わる。

これは、とても奇妙に見える。

なぜなら、矛盾した協定を問題視しているのが、あたかも彼女一人であるかのような書き方をしているからだ。そして彼女の死が、問題視を帳消しにしているように見える。さらに後日譚のように、石油利権の話や、イスラエル支持のアメリカに対するアラブの反発が添えられている。

ナラティブの必要性

まるでヒトゴトのような書きっぷり。

この教科書で鍛えられたイギリス人は、矛盾した協定がなぜ結ばれたのか、それぞれの立場や思惑を説明できるだろう。そして、問題の複雑さ、解決の困難さについて、一家言を持つに違いない。

そして、決して、「自国のせい」とは思わないだろう。そのため、パレスチナ問題がどのように(how)生じたのかは分かっても、なぜ(why)起きたのかという疑問に向き合うことはないだろう。

しかし、この態度は「正しい」のかもしれない。

もし、問題の原因を過去に探し、その過ちの償いを求めようとするならば、どれだけ支払っても払いきれないぐらいの責務を背負うことになる。金銭的な補償だけでなく、精神的にも耐えられないだろう。良心の呵責に苛まれず、イギリス人が歴史を直視するためには、こうした物語の形で示す必要があるのかもしれぬ。

問題はもはやイギリス一国に閉じず、多数の国家、民族、宗教をまたがり、解決不可能とまで言われている。関わる人々の立場や意志があまりにかけ離れているため、問題そのものを客観的に記述することすら難しい。

そんなとき、歴史を、登場人物の出来事として語らせるナラティブが役に立つのかもしれぬ。「その人の目からは、こう見える」とすることで、少なくとも記述を最後まで続けることができるから。

 

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ポルノではないリアルなセックスを描いた作品(18禁含む)

「エッチ」というキーワードで検索すると、ポルノやアダルトサイトがヒットする。

上位には、不倫・眠姦・NTRが並んでいる。念のため申し述べておくが、履歴を消した検索なので、私の嗜好は反映されてない。

性に興味を持ちはじめた子どもにとって、最初の洗礼はキツいかもしれない。

そしてポルノで学ぶと、「セックスって、こんなものか」と思ってしまうおそれがある。ネットが身近な子どもなら、検索の方法を覚えるほうが、学校の保健体育よりも早いだろう。そして、検索の方が授業よりも速く教えてくれる。

もちろん、適切なキーワードさえあれば、「こんなもの」ではないセックスを知ることができるだろう。だが、その「適切なキーワード」に辿り着く前に、SEO対策済のサイトに誘引されるのが現状だ。

そこで描かれるセックスは、描写が濃密であるほど、情欲を掻き立てる役割を与えられる。検索した人が欲しい情景を見せて、消費されるためのセックスになる。ありえないシチュや都合の良すぎるファンタジーセックスといえるだろう。

そういう、使ってもらうための「こんなもの」ではなく、「ありふれた」セックスはないだろうか。どこにでもいそうなカップルが、関係性を育み、一線を超える―――そんな作品は、ないだろうか。

慣れないため想定通りにいかなかったり、ちょっとしたトラブルに見舞われたりする。二人の関係が変わってしまうことへの不安と、ぎこちない動きにもどかしさを感じながら初々しくぶつかりあう。

あるいは、時間をかけてお互いによく理解し合っている二人が、安心して身をゆだねられるような、日常的なセックスをする。

相思相愛のカップルが、幸せそうに愛し合う、そんな作品はないだろうか。

絵本から学ぶ「ごまかしのない」セックス

『ぼくどこからきたの?』は、ピーター・メイルが著し、谷川俊太郎が翻訳した絵本だ。

男女の違いから始まって、セックスとは何かを説明する。赤ちゃんがどうやってできるか、お腹のどこで大きくなるか、そして、どのように生まれてくるかを描いている。

一切のごまかしをせず、例え話に逃げず、オブラートに包んだり省略することもしないで、具体的に、丁寧に、分かりやすく説明する。小さい子どもでも読めるよう、ひらがなで書かれている。

家庭内性教育はこの一択だ。大切なのは、セックスを冗談や卑猥なもので歪ませたメディアから伝えられること。遅かれ早かれ、子どもは知る。その「知り方」が重要なのだ。

文字が読めなくても大丈夫で、大人が読み聞かせてもいい。だけど、男女が何をしているかが分かるぐらいの年頃からになる。

生臭くて、ぎこちないセックス

『幾日』は、幾花にいろが描いた成年コミックだ(リンク先18禁注意)。

幾花にいろ『幾日』「咬合」より

20211106

さまざまなカップルが、それぞれの事情を抱えて、最終的には幸せなセックスをする。裸のラインが綺麗で、乳お化けじゃないのが良い。モデル並みの身体が現実離れしているけれど、キャラ設定が妙にリアルで、男も女も、身近にいるいる感がある。

たとえば、オフ会したらまさか相手が女の子だったという展開は非現実的だけど、その子と一日中遊び回って車の中でイタしたら臭かったという描写はとても現実的だ。ありそう感/なさそう感のバランスが生々しい。

それが行為を生臭さくする。スマートじゃない、動物的なリアルだ。一方で、コンドーム装着が丁寧に描かれているのも好感が持てる。セーフセックス大事やね。

臭いと匂いは紙一重

音声や映像といった媒体だと、後回しにされがちなのが嗅覚。

匂い(臭い)って、理解しあう上でかなり重要。

意識する/しないに関わらず、向かい合って話をする、一緒にご飯を食べるといったプロセスの中で、お互いの匂い(臭い)で相性を判断している。そもそも、キスの起源は鼻をくっつけあって嗅ぎ合うことなのだから。

そこで山田金鉄『あせとせっけん』、臭いフェチ御用達オフィスラブコメだ。

汗っかきがコンプレックスな地味メガネ女子✕ 匂いフェチ売れっ子商品デザイナーの組み合わせ。体臭が気に入ったのがなれそめというのが良い。「毎日あなたの匂いを嗅ぎたい」というのは完全セクハラだけど、嗅がれる方の「っ!」という表情もカワイイ。

この「嗅ぐ」という行為は、触れたり抱いたりえっちする、ずっと前から始まっているプロセスだということが分かる。

ここで紹介したいのは、本編ではなくスピンオフ(?)の18禁ほう。作家本人が同人の形で出すめずらしい作品なのだが、あのカップルが、ガチで子づくりセックスをする。ストーリーとしてのヤマやオチは無く、ひたすら行為に励むのはリアルなり。

相思相愛で結婚したカップルであっても、避妊せずに性行為をするのは、一種の覚悟というか心構えが違ってくる、あの感覚が伝わってきて生々しい。

ただし、最中に「ワキの臭い嗅がせて」は言わないよね。黙ってするもの/されるもので、わざわざ言葉にするのは羞恥プレイ、ひいては読者サービスの一環なのかも。リンク先18禁ご注意を。

男性同士のセックス

幸せなセックスに、同性も異性もない。そう確信できるのがこれ、中村明日美子『同級生』『卒業生』だ。

男子校が舞台で、2人の男の子が恋に落ちる。

ひとりは学校一の秀才。入試で全科目満点を叩き出すぐらい優秀で、真面目がメガネをかけた理知的な印象がある。すぐ赤面する。

もうひとりはバンドマン。ライブでギター弾いてて、女の子にも人気者。くしゃっとした明るい髪と人好きのする顔立ちだ。すぐ赤面する。

そんな、普通なら決して交わることのない2人が、あることをきっかけに互いを意識し、距離を近づけてゆき、思いを伝え合う。

初々しく、可愛らしく、読んでるこっちが甘酸っぱい気持ちで一杯になる。あふれ出すリビドーを持て余していた自分と比べると、なんとも純粋な恋で、痛苦しくなる。そこに欲望があるのだが、互いに相手のことを慮るのが素晴らしい。

中村明日美子『卒業生』-春-「京都にて」より

20211103

性欲満載の年頃だから、ガマンできるほうが凄いと思う。

そのタガが外れたときにすることといえば、異性のそれと全く一緒。何か特殊なことを考えるのがおかしい。「することは同じ」なのだから。

「ふつう」は難しい

わたし自身、ポルノに染まっており、ありふれた「ふつうの」が何であるか、とらえどころが無くなってしまっている。

  • 性を真正面からとらえ
  • 肯定的で
  • 人間関係を強化する
  • コミュニケーション手段の一つとしつつ
  • 物語そのものの目的としない

これ、かなり難しい。

なぜなら、物語の目的は、葛藤と遅延だから。

主人公から何かを欲しがり、それを探すために彷徨う……というのが、あらゆる物語の原型になる。そして、主人公が求める「何か」を手にすることを遅延させることが、物語のエンジンになるのだから。

仮に、満ち足りた主人公を考えてみると分かる。「欲しいもの=愛する恋人」と相思相愛になり、何の障害も葛藤もなく、ひたすらいちゃいちゃしているだけの物語は、あるにはあるけど、続かない。

そのため、物語に持ち込まれるセックスは、(劣情を掻き立てることを目的としたものでない限り)、紆余曲折や葛藤や冒険を経た、物語のゴールとして扱われる。

しかし、そうした物語の縛りから外されたセックスは、「見る」ものではなく「する」ものなのかもしれない。その意味で、ここに紹介する作品は珍しい部類に入る。極めて個人的なことでありながら、「することは同じ」普遍的なものなのにね。

「ふつうの」を扱った、お薦めがあったら教えてください。

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経済学は「科学」なのか?『社会科学の哲学入門』

経済学は「科学」だろうか?

頻繁に書き変わる教科書は、物理学のと好対照を成す。経済学の研究者は好きなことを勝手な方法で分析し、主張し、何やら数式モデルは出てくるけれど、再現性も説得力も無さそうに見える。

わたし自身、もう経済学の勉強はしていない。なぜなら、やればやるほど分からなくなるから。

現実を追いかける教科書

例えば、経済学の教科書は数年で書き変わる。

『クルーグマン国際経済学 理論と政策』が象徴的だ。3~4年で更新され続け、今冬12版が出る。更新のたび、理論が書き変わり、モデルが追加されてゆく。

世界金融危機やブレグジット、中国の台頭といった新しいトピックに対応していると言えば聞こえはいいが、その度に新しいモデルやパラメーターを導入し、既存の理論との整合性を(ムリヤリ?)取る。

そしてひとたび、想定外の事象が起きたら、「ブラック・スワン」などというカッコイイ名前を付けて説明できたことにする。現実の経済に経済学が追いついていない証拠に見える。既存の理論を疑うのではなく、新しい出来事が起きたものと見なすために、新しい名前を付けることで、経済学者の精神は守られる。

結果、経済学の教科書は順調に厚みを増し、理論やモデルの補注だらけ、パラメーターまみれになる。

お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな

いやいや、経済学の古典とも言える思想を辿るなら、そこは揺るがない(はず)。

そう信じて、マルクスやケインズを齧ると、別の疑いが出てくる。

教科書の元となる彼らの思想そのものが、なんら客観性もなく、個人の価値観で歪められたバイアスではないか、という疑いだ。いわゆる「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」疑惑である。

例えば、大学教授への道が閉ざされ、借金に追われて住居を転々としたマルクスが構想したのは、「破滅へ向かう資本主義」だった。一方で、絵画や古書への造詣も深く、裕福なパトロンとして人生を愛したケインズは、「持続可能な資本主義」の立役者となった。

同じ「資本主義」でも偉い違う。これは、二人の生きた時代の違いだけでなく、二人の出自や生活環境、持てる者/持たざる者に因る歪みではないか。ハイルブローナー『世俗の思想家たち』を読むと、この思いは一層強まってくる。

そして、その時代ごとの風潮や為政者の思惑に、「たまたま」マッチした思想がもてはやされ、一世を風靡した後、共に消えていく(そして時が流れ、また流行や思惑に合いそうなとき、ゾンビのように復活する)。

経済学に疑いを抱いているのは、わたしだけだと思っていた。

だが、吉田敬『社会科学の哲学入門』を読むと、誤りだと分かった。

社会科学の教科書がない理由

経済学を始めとする社会科学への欺瞞は、何十年も前から議論されており、現在進行形で続いている。

社会科学の教科書がない理由は、トマス・クーンにまで遡る。

「いや、経済学の教科書はあるぞ」という反論は、私もしたい。だが、時代や地域だけでなく、学派によって偉い違う。だいたい、教科書そのものが数年おきに書き変わる現状では、「パラダイムが無い」と言われても仕方ないかも。

1958年から59年にかけ、クーンはスタンフォード大学の行動科学高等研究センター に滞在していた。そこでは、社会科学者たちが共通的な前提を一切せず議論をしていた。クーンは一種のカルチャーショックを受けることになる。

物理学なら、研究者全員に共有される「なにか」がある。それは前提や教科書、あるいは枠組みだったりする。クーンは興味を抱き、その「なにか」を概念化したものをパラダイムと名づけ、『科学革命の構造』を著すことになる。

つまり、クーンの立場からすると、物理学にはパラダイムがあるが、社会科学にはパラダイムが無いのだ。

クーンのパラダイム論に対し、社会科学者は賛否両論だった。

科学史において中心的な位置を占めてきた物理学と比べると、社会科学はどうしても見劣りする。そのため、社会科学もパラダイムを持つべきだという意見が現れるようになった。

一方、反対する人もいる。スティーヴ・フラーが代表的で、「パラダイムを受け入れる=基本的前提を疑うことなくそれに従って研究を進める」ことがダメだという。社会科学とは、皆が常識と考えるまさにその前提に、批判の目を向ける学問だ。従って、パラダイムを受け入れるのは、自殺行為だというのである。

フラーの立場からすると、経済学の教科書は幾つあってもいいし、どんどん書き変わることこそが、正しいことになるのだ。

経済学にやたら数式が出てくる理由

数式をありがたがる(?)理由も紹介されている。

物理学や天文学がこれほどまでに成功した理由は、数学のおかげだ。数式に基づく数学に基づく形式的な言語に置き換えることで、自然現象の説明や予測に成功してきた。

そのため、社会現象も同様に、数学的ないし形式的に説明したり予測するようになることが、科学的であることの証だと考えるようになったという。言い換えるならば、物理学のようになることが科学的とされたのである。

この考えを「物理学羨望」と呼ぶという。そして羨望のあまり、社会科学の方法は、自然科学と同じであり、前者は後者に還元できるという立場の者も現れるようになる。

一方で、物理学羨望を批判する者も現れる。物理学を科学の典型としてマネする態度を、フリードリヒ・ハイエクが「科学主義」と呼び、攻撃する。

自然現象を分解し、再構成する機械論的な自然科学のアプローチ(自然主義)と異なり、社会科学は、個人の意図や信念といった主観的な要素を取り扱う。そのため、同じ方法ではダメで、意図や信念といったものを解釈を通じて研究する(解釈主義)必要があるという。

同じ学問領域の中でも、自然主義と解釈主義という、まるで正反対のアプローチが存在している。それだけ社会科学が豊かなのか、とりとめのないのか……

自然科学と社会科学は違わない

「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」疑惑も、見事に喝破されている。

ただしこれ、経済学に限ったことではなく、社会科学、自然科学も含め、同じ轍を踏んでいるという主張だ。文化相対主義という。

文化相対主義とは、生まれ育った環境や、現在の立場やグループの慣習によって、「正しさ」が形成されるという考え方だ。あるものが「正しい」「合理的」と判断する基準は、その文化や慣習に内在しており、客観的に判断できるような基準は存在しないという。

仮に、何らかの判断を客観的に正しいと言い切る科学者がいるのなら、その科学者こそ、自分のバイアスに気づいていないことになる。

これ、経済学ならそうだよね、と大きく頷けるだろう。だが、自然科学はそうした価値判断のバイアスから程遠いのではないか? と考える。

本書では、マックス・ヴェーバーやアーネスト・ネーゲルを引きつつ、科学的論証には、科学者の価値判断が混入している主張を紹介している。

私が気づいた例だと、自然科学の研究において、以下のバイアスに陥っている研究者がいる。

  • キリスト教的世界観から「ビッグバン=光あれ!」縛りから離れられず、ビッグバン以前は「現在利用できるデータ・理論から説明できない」と言うべきところを、「無」と答えてしまう。「説明できない=無」ではないことに気づけない
  • 神に創られし人が住まう地球こそ唯一無二という価値観から、生命の誕生は地球説に固執し、地球外で生命が誕生する可能性を否定
  • 太陽系モデルを標準としてしまい、ホット・ジュピターなど系外惑星を見落とす等、自己中心とした宇宙観

上記は、現在進行形で更新されつつあるので見てて楽しい。

科学者も人であり、人である限り何らかの価値観を持っている。だからといって、全てを相対的に見てしまうと、何をもって「正しい」とするか分からなくなる。自然科学、社会科学に限らず、自分のバイアスに自覚的になることが肝要ですな。

科学哲学の観点から営みの根本へとガイドする恰好の入門書。

本書は読書猿さんに教えてもらって読んだ素晴らしい一冊。ありがとうございます! 読書猿さん。

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『蛇の言葉を話した男』の面白さを、あらすじ抜きで伝える

まず証拠。この小説が面白い証拠だ。

Hebinokotoba

背表紙を見てほしい。少しナナメに歪んでいることが分かるだろうか。あるいは、小口(開くところ)だと斜めにひしゃげている。これが、一気に読んだ証拠だ。

説明する。

まっさらの本は、背表紙も小口もまっすぐで、上からのぞいたら、長方形に見える。

扉を開くと、開いたほうに背表紙が引っ張られ、斜めに歪む。扉を閉じれば、歪みは元に戻る。そして、閉じている間は、本は元の形に戻ろうとする。

ところが、開きっぱなしだと、背表紙はずっと引っ張られたままとなり、歪みが戻りにくくなる。その時間が長いほど、歪みは強化される。つまり、一気に読まれるような本であるほど、このようにひしゃげてしまうのだ。

読み始めたら止まらない、そういう本は、確かにある。巻を措く能わずとか、page-turnerと形容される、中毒性の高い物語。

それが、『蛇の言葉を話した男』だ。

あらすじなんて野暮なネタバレはしない。だが、帯文に違和感があるので、そのツッコミでもって紹介としよう。

帯にはこうある。

これがどんな本かって?
トールキン、ベケット、M.トウェイン、宮崎駿が
世界の終わりに一緒に酒を呑みながら
最後の焚き火を囲んで語ってる、そんな話さ。

だいたいあってる。不条理と諧謔と異形を折り込んだ、壮大なファンタジーという趣旨なのだろう。だけどこれだと、エンタメ(プラス寓話)に留まってしまう。

それでも十二分に面白いのだが、痛切に刺さった印象(味・匂い・肌感覚)がいくつかあって、それこそがこの物語を極上の逸品にしている。

たとえば、蛇の言葉を話す「ぼく」。

「ぼく」が、全く異なる価値体系で、世界を問い直しているところがすごい。私たちが常識だと考えていること、重要だと見なしていることは、「ぼく」に言わせると、馬鹿で哀れなものにすぎない。逆に、私たちからすると、「ぼく」のほうこそ頭が足りないと見えるだろう。

『すばらしい新世界』と同じ味

この価値観の倒錯は、ハクスリー『すばらしい新世界』と同じ味がする。

西暦2540年のディストピアを描いた傑作古典だ(もう「古典」って言ってもいいよね)。工場で生産された人間を飼い馴らす完璧な管理社会に、一人の「野蛮人」が連れてこられる―――そんなストーリーなのだが、この「野蛮人」の指摘が、そのまんま『蛇の言葉』と好対照を成す。

人間性が喪失した世界で、それでも人であろうとすると、どんな目に遭うか―――『すばらしい新世界』の黒いユーモアに笑った人は全員、まちがいなく、『蛇の言葉』で爆笑するだろう。

『悪童日記』と同じ匂い

倒錯した価値観の語られ方は、アゴタ・クリストフ『悪童日記』と同じ匂いがする。

『悪童日記』は、双子が「ぼくたち」として綴る日記形式の物語だ。戦火を逃れて田舎へ疎開するが、非情な運命に向き合わされる。読者はすぐに気づくのだが、「ぼくたち」は普通ではない。非常に賢いが、倫理性の欠片もなく、人間ぽく見えない。

その言動は奇異に見えるかもしれないが、戦争によって狂わされた日常にとってはむしろ、合理的に見える―――『悪童日記』の「ぼくたち」にそう感じた人は、『蛇の言葉』の「ぼく」にも同じ思いを抱くだろう。そして、再度感じるかもしれぬ、狂気と正気は多数決だということに。

『百年の孤独』とシンクロ

神話の誕生を垣間見る感覚は、ガルシア=マルケス『百年の孤独』とシンクロする。

衰退が運命づけられ、「最後の〇〇」や「△△と最後に会った男」など、ラスト・オブ・〇〇臭が漂う中で、過剰で濃厚で圧倒的な密度で騙られる物騙り。その展開に漫然と身を任せ楽しんでいるうち、そこに仕込まれた寓意に気づくと驚愕する仕掛けになっている。

運命から全力疾走した先に運命が待ち構えている構図や、叙事的に言葉を重ね、丁寧に現実を語っているのに幻想に誤読できてしまう描写など、ぜんぜん違う物語なのに、新しい『百年の孤独』を読んでいるかのような気になる。

他にも、マイク・レズニック『キリンヤガ』、イタロ・カルヴィーノ『不在の騎士』など、これまで読んできた様々な傑作と、同じ舌触りでありながら、まるで違う物語である。

読み始めたら止まらない、そういう本は、確かにある。巻を措く能わずとか、page-turnerと形容される、中毒性の高い物語。

それが、『蛇の言葉を話した男』だ。

 

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だまされたと思って読んでほしいアントニオ・タブッキ『インド夜想曲』

「だまされたと思って読んで。読まずに死んだらもったいないから」

そう渡されたのが、アントニオ・タブッキ『インド夜想曲』。手渡すときの、いたずらっぽい目つきと、「読んだら【すぐに】  感想教えて」という口調が気になった。

150ページたらずで、そのうち読むつもりだったが、「あとで読む」は後で読まないのは本当だね。そのまま長い年月が経った。昨今のコロナ禍で死が身近になった今、読まずに死ねるかと開いたらあっという間だった。

静謐で、濃密で、これ以上ないほど贅沢な一時間となった。

インド、ボンベイ。主人公がタクシーに乗るところから始まるので、紀行文学の体をした小説というのが第一印象。地の文が「僕」で語られる点は村上春樹に似ているけれど、「僕」が雰囲気に流されない点は似ていない。

読み始めてすぐ、「僕」は誰かを探していることが分かる。どうやら失踪した友人のようだが、彼のほうは会いたくないらしい。だが「僕」は、手がかりを丹念に集め、手繰り寄せ、近づいていく。

ボンベイ、マドラス、そしてゴアと、友人の痕跡をたどってゆく。夜のバス停で出会う美しい目をした少年、もと郵便配達のアメリカの青年、5つ星ホテルで隣り合わせた女など、様々な人々と交流する。「僕」は、地図上の移動だけでなく、階層をも上下しつつ、インドを探ってゆく。

12章の断片に分かれるどのシーンどのシーンも印象的で、いかに醜悪な光景でも、はっとする一瞬を切り取っている。読み進めるうち、ほんとうに友人に会えるのか、そもそもなぜ、彼を探しているのか、気になってくる。

だが、作者は、要所要所にヒントを残している。私が一番好きなのはこれだ。

「肉体のことです」僕がこたえた。「鞄みたいなものではないでしょうか。われわれは自分で自分を運んでいるといった」
p.48

過ぎ去った現実は、大体において、実際にそうだったよりも改善される。記憶はおそるべき贋作者だ。その気がなくても、時間の汚染は避けられない。こうして、いくつものホテルが僕たちの空想の世界を満たしている。
p.110

最初はふらついていた足取りは、ラストに近づくにつれ、だんだん確かなものになってゆく。「僕」が目指しているものが、だんだん私にも見えてくる。ほんとうに短いので、惜しみ惜しみ進みながら、最後のページに達する。

もちろん、『インド夜想曲』を薦めてくれた女の子なんて存在しないし、このごちそうを積読するなど罰当たりなことなんてしていない。ただ、「だまされたと思って読んで。読まずに死んだらもったいないから」は本当だ。そして読んだら分かるはず。あなたを騙したわけではないことを。

 

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無料で米国の有識者にリサーチしてもらう方法

知りたいことの「検索」には限界がある。

問いが漠然としていたり、不案内な分野だったりすると、そもそもキーワードを何にするか分からない。膨大な結果をどうやって絞り込めば良いか分からない。

日本語圏の場合

そういう時は、品川図書館のレファレンスサービスを利用している。メールで問い合わせすると、2週間くらいで返事がくる(大量の参考文献つきで)。無料だし、品川に住んでなくても大丈夫。ちなみに私は、こんな質問をしたぞ。

  • 「最近の若者は……」という愚痴は、いつから?
  • 沢山の翻訳書があるが、高校の現代国語には無いの?
  • 女子大は男性差別であり、男女平等に反する?

得られた回答を元に記事にしたのがこれ。

英語圏の場合

では、知りたいことが英語圏なら?

Google検索の設定画面で、言語を英語にしたり、検索の際のパラメータに「?gl=us&hl=en」を追加することで、英語圏に限定して検索できる。

だが、英語圏の場合だと、より大変だ。適切なキーワードが分からないし、結果も膨大になるだろう。そもそも得られた情報が確かかどうかも分からない。

そういう時は、ニューヨーク公共図書館(NYPL)のレファレンスサービスをお薦めする。メールで問い合わせすると、2週間くらいで返事がくる。英作文が苦手? DeepLに突っ込めばいい。無料だし、ニューヨークに住んでなくても大丈夫

Ask NYPL: Email

https://www.nypl.org/get-help/contact-us/email

あるいは、英語に自信があるなら、チャットや電話でも受け付けている。いまアマプラでやってる映画「ニューヨーク公共図書館」の最初のあたりで、電話での応対がある。

「ニューヨーク公共図書館」youtube予告編

https://youtu.be/CpnBQrD_U68

「ニューヨーク公共図書館」Amazon

https://amzn.to/3ABKjod

米国に「読書猿」っているの?

ちなみに私は、「米国に読書猿っているの?」という質問をした。

NYPLの中の人(Nickさん)は、読書猿さんを「“Autodidact” 、つまり ”自分で自分を教育する人だね” 」と仮置きして、こんな紹介をしてくれた。

Susan Bauer

https://susanwisebauer.com

編集者、大学教員、著述家。著書は教育から歴史と幅広い

著書 ”the Well-Trained Mind: A Complete Course for Young Writers, Aspiring Rhetoricians, and Anyone Else Who Needs to Understand How English Works”(未邦訳)

Tansel Ali

https://tanselali.com

記憶術のエキスパート、オーストラリア暗記選手権のチャンピオン

著書 “How to learn almost anything in 48 hours : shortcuts and brain hacks for learning new skills fast” (未邦訳)

あと、独学に役立つとして、2冊紹介してもらった。

“The independent scholar’s handbook” Ronald Gross,Addison-Wesley Pub., 1982.

“The Paideia proposal : an educational manifesto” Mortimer Jerome Adler, Macmillan, 1982

今になって気づいたんだけど、この Mortimer Jerome Adler って読書論の古典とも言える『本を読む本』を書いた人じゃねーか!

パレスチナ問題は英米の教科書でどう扱われている?

ただし、質問によっては直接の回答を避けるものもある。

政治的な話や、医療、宗教、金銭がからみそうなものだ。この場合、直接回答ではなく、「ここを参照すると、あなたの知りたいことがあるかも」という導線を示してくれる(むしろ、この方がライブラリアンに近い姿勢だ)。

私が質問したのがこれ。

  • イスラエルとパレスチナの争いの原因の一つに、イギリスの三枚舌外交がある
  • イギリスの責任について、世界史の教科書で、どう説明されているか
  • 日本の高校の教科書では、「マクマホン=フセイン書簡」や「バルフォア宣言」といったキーワードで説明されている
  • この問題について、英国や米国の教科書では、どのように説明されているのか?

NYPLは、直接的なことは回答せず、データベースの入口やリサーチガイドに留まっている。要するに「自分で調べろ」だね。

これ、妥当な回答だと思う。ある特定の資料や人物を紹介すると、その資料や人物の主張を支持していると思われかねないから。

それでも、「パレスチナ問題を扱う教科書への批判調査」というレポートを紹介してもらえた。これは大きい。

A Critical Survey of Textbooks on the Arab-Israeli and Israeli-Palestinian Conflict

The MDC for Middle Eastern and African Studies,2017

https://din-online.info/pdf/mdc1.pdf

このレポートは、米国の高校生・大学生が読む歴史の教科書・指定図書を俎上に、事実関係やバイアス、透明性をレビューしたものだ。「著者が自分の偏見を自覚しているか?」や「イスラエルとパレスチナの両方のバランスが取れているか?」といった観点で批判されている。

オックスフォード大学出版の "A Very Short Introduction" (日本だと「一冊でわかる」シリーズ)がめった斬りにされているのが興味深い。

人に頼ろう

私が一人で「検索」してただけでは辿り着けなかった。「Googleさえあれば何でも分かる」という狭い場所にいる限り、絶対に見えない世界やね。使わないともったいない。

よいリファレンスで、よい人生を。

 

以下、私の質問文と、NYPLの回答を貼っておく。誰かの参考になれば幸いかと。

Q.「読書猿」って米国いる?

Hello!

I am looking for blogs of people who are studying alone and do not belong to a university. I am looking for someone who can teach me how to learn about what I want to know.

For example, when you search on the Internet, you get many answers, but what do you do when you can not find the words to search in the first place?

What kind of books should a university first grader read in order to learn culture and education?

How do I write a script based on a story idea?

Before I ask someone for each of these questions, I am looking for someone to find out what to do if I want to find out for myself.

In Japan, there is a blogger called "Reading Monkey". In the English-speaking world, I want to know what kind of people there are. Add a reading monkey blog to the URL (in Japanese).

https://readingmonkey.blog.fc2.com/

A.自分で自分を教育する人だね!

Thank you for your interesting question!

“Autodidact” is defined as, “a self-taught person” (https://www.merriam-webster.com/dictionary/autodidact).

While not an authoritative source on the topic, you might find this Wikipedia entry on “autodidacticism” to be interesting and inspired (and it’s well sourced):

https://en.wikipedia.org/wiki/Autodidacticism

In NYPL’s catalog (https://catalog.nypl.org) you can find a number of books that should help you with your efforts to teach yourself, including:

https://catalog.nypl.org/record=b21055447~S1

Author Ali, Tansel, author.

Title How to learn almost anything in 48 hours : shortcuts and brain hacks for learning new skills fast.

Publisher Richmond, Victoria Hardie Grant Books, 2015.

https://catalog.nypl.org/record=b15799947~S1

Author Bauer, Susan Wise.

Title The well-educated mind : a guide to the classical education you never had / Susan Wise Bauer.

Imprint New York ; London : W.W. Norton & Co., c2003.

https://catalog.nypl.org/record=b10998139~S1

Author Gross, Ronald.

Title The independent scholar’s handbook / Ronald Gross.

Imprint Reading, Mass. : Addison-Wesley Pub., 1982.

https://catalog.nypl.org/record=b10794353~S1

Author Adler, Mortimer Jerome, 1902-2001.

Title The Paideia proposal : an educational manifesto.

Imprint New York : Macmillan, 1982.

CALL # 808.2 S 

AUTHOR Straczynski, J. Michael, 1954- 

TITLE The complete book of scriptwriting / J. Michael Straczynski. 

PUBLISHER Cincinnati, Ohio : Writer’s Digest Books, 2002, c1996.

CALL # 808.22 W 

AUTHOR Willis, Edgar E. 

TITLE Writing scripts for television, radio, and film / Edgar E. Willis, Camille D’Arienzo. 

PUBLISHER Fort Worth, Tex. : Harcourt, Brace, Jovanovich, c1993.

Online, Library Thing offers a bibliography on the topic of “autodidactism”:

https://www.librarything.com/tag/autodidactism

We hope this helps!

Q.パレスチナ問題は、英米の教科書でどう説明されてる?

Hello.

I like to look for the causes of modern problems in world history.

I would like to know about the UK's responsibility in the Palestinian issue.

It is said that the British government is one of the causes of the conflict

between Israel and Palestine.

However, the British government is not present at the talks for a solution,

and instead, the United States seems to be mediating between Israel and

Palestine.

Israeli–Palestinian conflict

https://en.wikipedia.org/wiki/Israeli%E2%80%93Palestinian_conflict

So, I have two questions.

First.

What does the UK think about this issue? Is it going to remain silent and try

to avoid its responsibility?

Or is it making excuses or dodging responsibility?

Secondly.

Japanese high school students are learning about this issue in their world

history textbooks using the following key words.

McMahon-Hussein Correspondence

https://en.wikipedia.org/wiki/McMahon%E2%80%93Hussein_Correspondence

Balfour Declaration

https://en.wikipedia.org/wiki/Balfour_Declaration

It is said that the British lied to both Arabs and Jews and used them to

their advantage. What do high school students in the UK and the US learn

about this issue in their history textbooks?

A.入口はここ、自分で調べてね

Thanks for your interesting questions.

While we're not able to research on your behalf, you can find resources on the topic via our online catalog:

https://legacycatalog.nypl.org

One location to visit for your research is the General Research Division:

https://www.nypl.org/locations/divisions/general-research-division 

The Stephen A. Schwarzman Building, Room 315 

476 Fifth Avenue [at 42nd Street] 

New York, NY 10018-2788 

generalresearch@nypl.org

Information about the collection and access policies, and links to research guides can be found here:

https://www.nypl.org/about/divisions/general-research-division/access

The New York Public Library (NYPL) subscribes to a large number of databases that can be accessed at our various library locations (http://www.nypl.org/locations). Using these you may search for newspaper, magazine, journal articles:

http://www.nypl.org/databases

An overview of NYPL's databases (including instructions) can be found here:

https://libguides.nypl.org/eresources

With a 14-digit NYPL library card number (not a temporary card number), and four-digit PIN you can access many of these databases (noted by the house symbol) remotely from school, home or office, unless there is a firewall blocking access:

http://www.nypl.org/collections/articles-databases/alpha%3D%26subject%3D0%26location%3D0%26audience%3D0%26language%3D0%26keyword%3D%26limit%3D1

Online, one source that offers a description of textbook coverage is this study titled, "A Critical Survey of Textbooks on the

Arab-Israeli and Israeli-Palestinian Conflict":

https://din-online.info/pdf/mdc1.pdf

We hope this helps and wish you all the best with your research.



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一行で刺す『心ゆさぶる広告コピー』

「言葉の力」というものを、わりと本気で信じている。

なぜなら、わたしに響くから。なんでもない一言や、ちょっとした感謝の言葉で、グッと気分が変わってくるから。

だから自分向けの言葉のコレクションをしている。

ネットや本からかき集めた、どこかの誰かの言葉集は、ダウナー気味の処方箋になったり、心を落ち着かせる呪文になったりする。

『心ゆさぶる広告コピー』が良かった。

もちろんスポンサーがついていて、宣伝のための言葉なのに、たった一言で、私を刺しに来る。

世界がいつかまた、騒がしくありますように

コロナの時代を反映して、コピーが大きく変わっていることが分かる。

たとえば、70年目を迎える大井競馬の開幕の広告がそうだ。

 

 

2020年、外出自粛の世の中で、弱ってゆく活気と、膨らんでゆく不安の中、東京で最初の緊急事態宣言の前日に掲載されたという。

ポイントは「騒がしく」という言葉選びだったという。

「騒がしく」って、本当はネガティブな響きを持つ単語だ。だが、清濁併せ呑んだ”人間のまるごと”を肯定するメッセージを込めて、「賑やか」ではなく、あえてこの言葉を選んだと説明されている。

2020年、夏、部活

学校は休校になり、インターハイを始め、様々な大会が中止になった夏、自主練に打ち込む若者たちを描いている。

野球やサッカー、吹奏楽部などに所属する生徒のインタビューから聞こえてくるのは、悔しさ、不安からくる、「もうできないんじゃないか」という危機感と、「それでもやりたい」と揺れ動く気持ちだ。

  • 発表された時は、無心でした。全然受け入れられなくて(吹奏楽部3年)
  • 何のために部活頑張ってきたんだろう(サッカー部3年)
  • あの空間、あのメンバーで練習する時間が、幸せだったんだなって(テニス部3年)

急激な社会の変化によって、できなくなったこと。やりたかったこと。やれば良かったと後悔していること……そうした「思い」は沢山ある。じゃぁどうするか? となったとき、「できることをやろう」とひたむきに練習する。

  • 今までやってきたことが、決して消えるわけじゃない(バスケットボール部3年)
  • 「あなたがしてきた事は絶対無駄にならないし、この先もずっと自分のためになる。」と母が言ってくれました(ボクシング部3年)
  • 自分たちはこういう経験したからこそ、これからもっと強く生きていけるんじゃないかなと思っています。自分の未来はこれからなんで(野球部3年)

インタビューからすくい取られた言葉の一つ一つが、そのままコピーになっている。私が部活に励んだのは昔のことだが、「じゃあ私はどうする?」という気になってくる。

最後だとわかっていたなら

9.11同時多発テロの追悼会で朗読され、3.11東日本大震災の復興広告に掲載された詩。

もとは、我が子を事故で亡くした母がつづったものだという。後悔、苦悩、思い残し、ああすれば良かった、なぜあんなことをしたのだろう……さまざまな無念が去来するのが分かる。

タイトルから刺しに来ているが、わたしが最も響いた箇所を引用する。

あなたがドアを出て行くのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたし はあなたを抱きしめて キスをして
そしてまたもう一度呼び寄せて 抱きしめただろう

たしかにいつも明日はやってくる
でももしそれがわたしの勘違いで
今日で全てが終わるのだとしたら、
わたしは 今日
どんなにあなたを愛しているか伝えたい

そして わたしたちは 忘れないようにしたい
若い人にも 年老いた人にも
明日は誰にも約束されていないのだということを
愛する人を抱きしめられるのは
今日が最後になるかもしれないことを

私はときどき、いや、しょっちゅう、明日はまた来ると確信し、明日をあてにして生きている。そして、今日どころか、今いうべき言葉―――「ごめんね」や「ありがとう」―――を先延ばしにしてしまう。

その、先延ばしにした今日を、明日になって後悔しないために、この言葉を使おう。

心ゆさぶる広告コピー

本書には、こうした「刺しに来る」言葉が沢山ある。以下、ほんの一例。

  • 幼児と老人を並べた写真に、「人は、一生育つ」というメッセージを添えたベネッセ
  • 「大丈夫。きみの悩みは、 もう本になっている」という言葉とともに、様々な引用句を並べた新潮文庫の100冊
  • 「結婚しなくても 幸せになれるこの時代に 私は、あなたと結婚したいのです」というゼクシィのコピー(これ好き)
  • 「その一石は、誰にとっての正義ですか」と問うてくる北國新聞社の広告(その後「言葉の先に人がいる」と続く)
  • ビルの真ん中に描かれた赤い線に書かれた「ちょうどこの高さ」。3.11の津波は見上げるほどであることが分かる、ヤフーの屋外広告

 

わたしは、言葉によって生きている。だから、言葉を選ぶことによって、生き方をよくしてみよう。その糧となる一冊がこれだ。

よい言葉で、よい人生を。

 

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