料理観を揺さぶり、変化させる『料理の意味とその手立て』

自炊歴も30年になると、料理も適当になってくる。

テキトーという意味ではなく、あり合わせのものでなんかするイメージ。レシピ通りに作らないし、調味料も目分量になる。代わりに、食費と洗い物の最小化を目指したり、極限までサボったり、変わった料理に挑戦したりする。

自分の中で、「料理とはこんなもの」という料理観みたいなものが出来上がっている。そのため、普通のレシピは、レパートリーを増やすためにチラ見する程度になる。

一方で、私の料理観を揺さぶり、変化させるような本もある。何気なくやってた一手間が、実は深い意味を持っていたり、伝統&科学に裏打ちされた本質が見えてきたりする。

ウー・ウェン著『料理の意味とその手立て』が、まさにそんな一冊だ。

中国家庭料理を紹介しているのだが、いわゆるレシピ集というよりも、料理についての考え方をまとめたエッセイと言ったほうがしっくりくる。料理する人には見慣れたことかもしれないが、これらは、本質的なことだと思う。

  • 大事なのは、塩の味を表に出さないで、素材の味を表に引き出すこと
  • 炒めものとは、加熱したボウルで素材を和えること
  • どう食べたいのか考えながら切る
  • 混ぜない。まんべんなく味つける必要はない

料理の本質=塩する

塩についてはかなりの分量を割いている。

これは、かなり信頼できる。世界各国の料理を食べ歩き、料理の本質を追求した『料理の四面体』に、「料理の原則=素材に塩したもの」とあった。

世の中の大半のレシピには、「最後に味をととのえる」ために塩を入れろとある。それはそれで大切なのだが、むしろ準備段階での、「素材の味を引き出すための塩」が大事だと説く。

味噌を使えば味噌味、醤油を使えば醬油味になる。けれども、「塩味」と感じさせない程度の塩しか使わない。そのため、ウー・ウェンさんのレシピでは、塩が極端に少ない。ほんの少量を上手に使って、肉や野菜の味そのものをはっきりさせる。

料理を始める前に塩しておく。肉や野菜が「汗をかいている」と表現されるのがこれだ。下味としての塩ですらない。この加減は目分量では無理なので、分量と時間をきちんと量って(計って)上手くなりたい。

切り方ひとつで「おいしさ」が変わる

「どういう風に食べたいか考えながら切る」という指摘が鋭い。

切り方ひとつで味がガラリと変わるのは、『おいしく食べる 食材の手帖』にあった。肉であれ野菜であれ、繊維に沿って切るか、繊維を断つように切るかの違いだ。

繊維を断つということは、素材が保持している水分が出やすく、少ない調味料でしっかり味付けできる。さらに、火が通りやすくなり、柔らかくなる。逆に、繊維に沿うように切れば、無駄な水分が出ないため、歯ごたえが出てくる。

これ、チンジャオロースを作るときに気をつけている。ピーマンやパプリカは、繊維に沿って切り、牛肉は繊維を断つようにしている。野菜モノはさっと火を通して歯ごたえを楽しむ一方、肉に下味をしっかりつけて、口当たりよくするには、繊維を断つ方が良いから。

いつも同じ切り方しかしてこなかったが、今後は、その食材をどういう風に食べたいかによって、切り方を意識するようにしよう。

混ぜない、いじらない

本書で心がけるようになったのは、「火入れのとき、触るのは最低限」だ。

焼いたり炒めるとき、菜箸を使って混ぜたり、フライパンをあおりたくなる。これをガマンしろという。味がまんべんなく行き渡る必要はないというのだ。

一つの料理で、味が濃かったり薄かったり、リズムがあるほうが美味しい。もちろん、生焼けの肉があるのはダメだが、火が通っていれば、多少ムラがあったりコゲ目が強かろうと、かまわない。「均一」を目指さなくてもいい。

嗅覚同様、味覚もすぐに慣れる(鈍感になる)。だから味が均一になるほど、飽きやすくなる。それなら、少しムラがあるほうが味に変化が出るという発想だ。

パスタソースの乳化は例外として、この考え方を取り入れている。基本、放り込んだら放置気味にして、最後にぐるりと回すくらいにしている。

味をつける必要があるものは、フライパンに入れる前に下味を付けている。だから、火を入れる時には味のことを心配しなくてもいい。

料理の意味=身体を養うこと

料理の意味は「身体を養う」ことだという。

身体によいものを食べることで健康を目指す医食同源の考え方だ。一回の食事でパーフェクトに栄養を取らなくてもいいし、一日や数日のサイクルで、だいたいバランスが取れていればいい。

その考えは、陰陽五行に裏打ちされている。

古代中国の五行思想で、万物は5種の元素から成立し、互いに影響を与え合い、循環するという思想だ。日曜と月曜を除いた五つの曜日(火水木金土)や、五臓六腑の五臓など、日本でも馴染みのある考え方だ。

これをレシピに適用し、五味を目指せという。すなわち、苦、鹹(塩辛い)、酸、辛、甘の五つだ。献立を考える時、どの料理がどの味を中心にするのかを考え、その味が重ならないようにすれば、自ずとバランスが取れ、食卓が茶色にならない(←これ重要)という。

我が家の場合、「酸」が足りない。もう少し黒酢を取り入れてみよう。本書の酢鶏のレシピが参考になりそうだ。

■材料

  鶏もも肉 1枚

■下味

  こしょう 少々
  酒 大さじ1
  しょうゆ 大さじ1
  片栗粉 大さじ1

■合わせ調味料 (ミツカンのカンタン黒酢で代用できそう)

  黒酢 大さじ1
  しょうゆ 大さじ1
  はちみつ 大さじ1
  しょうがすりおろし 大さじ
  こしょう 少々

■その他

 揚げ油 カップ1
 パセリ 適量

~作り方~

 1 鶏肉を一口大に切り、下味をつけて20分程度おく
 2 肉に片栗粉をまぶし、180度の油で揚げて、油をきる
 3 炒め鍋に合わせ調味料を入れて煮立たせ、2を入れて絡める
 4 刻んだパセリをたっぷりかける

 

人生で食べる数は決まっている。
より料理で、よい人生を。

 

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生きるとは死を食べること、死ぬとは食べられること『死を食べる』『捕食動物写真集』

生きるとは何か、死とはどういうことか。

生きる「意味」とか「目的」を混ぜるからややこしくなる。複雑に考えるのはやめて、もっと削いでいくと、この結論に至る。

 ・生きるとは、他の生き物を食べること
 ・死とは、他の生き物に食べられる存在になること

見た目がずいぶん変わるから、気づきにくくなっているだけで、私たちが口にしているもの全ては、他の生物である。

ひょっとすると、幾重にも加工され尽くしているから、それは「肉」ではないと主張する人もいるかもしれない。だが、葉肉であれ果肉であれ、生きていた存在を食べることで、わたしたちは生きている。

死を食べて生きている

誰かの死を食べることで、私たちは生きていることを理解するなら、『死を食べる』をお薦めする。

動物の死の直後から土に還るまでを定点観測した写真集だ。

死んだ直後のキツネから、まずダニが逃げ出し、入れ替わるようにハエや蜂が群がってくる(スズメバチは肉食だ)。膨れ上がった体から蛆が飛び出し、その蛆を食べるために他の動物がやってくる―――いわば九相図の動物版で、どんな死も、誰かが食べることで土に還るのだ。

キツネからクジラまで、さまざまな死の変化を並べることで、「死とは、誰かに食べられる存在になること」であり、そして「生とは、誰かの死を食べること」が、ごくあたりまえのように理解できる。

誰かの死を食べて生をつなぐことは、人間だって同じだ。

私たちが毎日食べる、魚も、牛や豚や鶏の肉であれ、突き詰めていけば動物の死骸なのだから。キレイに血抜きされ、清潔にパックされているから気づきにくいだけなのだ。だが、私たちは「死」を食べて生きている。この写真集の最後のページを見ると、つくづくそう思えてくる。

『死を食べる』は、食べられる側の「死」を一枚ずつ撮影して、その変化をタイムラプス的に眺めたものだ。一方、食べる側を撮影したのが、『捕食動物写真集』である。

肉食生物の食事風景

『捕食動物写真集』は、肉食生物が、他の生き物を捕えて食べる瞬間を切り取っている。

最初のページに、注意書きがある。

以下のジャンルごとに、比較的ソフトな映像から始めて、次第に刺激が強いものになるように並んでいるとのこと。見るのがキツいようなら、そのジャンルの写真はやめて、他のジャンルに進むなど、無理のないように見て欲しいとある。

 ・魚類
 ・虫
 ・爬虫類・両生類
 ・鳥類
 ・哺乳類

過激さの基準は、食われる側の描写だろう。

魚を頭から丸呑みにしたウツボは、比較的ソフトだと判断されている。一方、カエルを半分咥え込んだヘビは、刺激が強いとされている。ちなみに、表紙の写真は、最もソフトなレベルなので、これで無理なら止めた方が良い。

そこに至るまで長時間の格闘があったのだろうが、下半身を呑まれたカエルの目が、諦めたかのように見える。食われる側の「目」が見えてしまうと、途端に残酷に見えてしまうのかもしれない。

一方で、食う側の姿は美しい。鋭くぶ厚いくちばしで力強くついばむコンドル、ガリガリという音さえ聞こえてきそうな頭骨を噛み砕くカワウソ、顔中を血まみれにして髄をすするライオンなど、「生きてるッ」感がダイレクトに伝わってくる。

どれも至近距離で、どうやって撮ったのか不思議なくらいのクローズ・アップになっている。クモやハエの複眼なんて、顕微鏡写真レベルの解像度である。びっしりと毛に覆われたクモの頭は、「ヒッ」と声がでるくらい迫力がある。

「残酷」も「美しい」も、ヒトから見た価値にすぎない。生き物はただ、他の生き物を捕えて食べているだけなのだから。

本書はK.F.さんのお薦めで手にした一冊。K.F.さんのおかげで、素晴らしい本に出会えました、ありがとうございます!

 

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実際の炎上プロジェクトを通して学ぶ。ITエンジニアが修羅場をシミュレートできる3冊+α

ITエンジニアが修羅場をシミュレートできる3冊+α」

……という記事を書いたのだが、長いのでまとめをここに記す。

  • 火消しのセオリーと、初見殺しの見分け方
  • お客の反応(否定、怒り、懐疑)の傾向と対策
  • 炎上プロジェクトで真っ先にすべきこと
  • 「やらないこと」の決め方
  • みずほ勘定系基幹システムMINORIに見る修羅場
  • 2021年2月のATMシステム障害の原因

実際の炎上プロジェクトを通して学ぶ、修羅場シミュレーターとしての3冊+αだ。

『問題プロジェクトの火消し術』はリカバリーするために何が必要で、どうやって話を持っていけばよいかが、具体的に書いてある。そのまま使える言葉がゴシック体で強調表示されているため、なんならメールにコピペして使えるくらい生々しい。

『プロジェクトのトラブル解決大全』は修羅場でどう動けばよいのかがまとめられている。いわゆる「正解」があるというより、上手く動けるPMは、たいていこんな言動を取るという、ベストプラクティス集だと思えばいい。

『みずほ銀行システム統合』は、修羅場まっしぐらのアンチパターン集としてお薦めする。ここでは、「片寄せしないシステム統合」と「現状把握の禁止令」の2例しか紹介していないが、あなたが読めば、もっと出てくるに違いない。

『システム障害特別調査委員会の調査報告書』は、その答え合わせとして読むといい。「どのように失敗したのか」を知っておけば、同じ轍を踏もうとするお客に、「みずほの障害はこれでした」と告げることができる。

これらを読みながら、「自分ならどう動く・話すだろう?」と考えると良いかも。できうることなら、一生涯、そんな目に遭いたくないものの、来るべき本番に備えて、予習だけはしておこう。経験で学んでいたら、命がいくつあっても足りない。初見殺しは、過去の修羅場で学ぼう。

次のプロジェクトの生存率を上げるために。

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プロが教える「伝わる動画」の技法『動画の文法』

問題:以下の3つのカットを並べ替えて、次の文章を動画にしなさい。

「太郎くんは、花子さんを、愛している」

Youngman_27
太郎くん
Youngwoman_45
花子さん
Heart_multipleハート

解答:最初が太郎くん、次がハート、最後が花子さん。


Youngman_27

Heart_multiple

Youngwoman_45

最初に出てくるカットに映っている存在が、動作の主(主語)になる。そして、その次のカットが動作そのものになる。そして、その動作の対象(目的語)になる。

止め絵なので脳内で再生してみてほしい。

すると、確かに太郎くんが目に入って、次にハートがドキドキしていたら、太郎くんの心象だと感じるだろう。そして、次に映ったものが、ドキドキの対象だと想像がつくはずだ。

問題2:上のカットを並べ替えて、次の文章を動画にしなさい。

「太郎くんと、花子は、愛し合っている」

解答はこの記事の末尾に載せておくが、テレビを見て育ち、日常的に動画を見ている皆さんにとっては楽勝だろう。それくらい、動画を見ることは、ごく当たり前のことになっている。

動画には文法がある

動画は、言葉と同じコミュニケーションツールなのだから、言葉と同じようにルールがある。

動いている絵をバラバラにならべても、伝わらない(※)。視聴者に伝えたい意図があり、それを限られた時間内で、正確&効果的に伝達する。そのための「文法」のようなルールが、動画にもあるというのだ。

言葉を例にするなら、問題文の「太郎は花子を、愛している」、これは入れ替えが可能だ。主語や目的語を、助詞(てにをは)で示せるから。一方で英語の場合、順番は入れ替えができない。単語を入れ替えると、意味が変わってしまう。

・太郎は花子を、愛している
・花子を、太郎は愛している
・太郎は愛している、花子のことを
・Taro Loves Hanako.

動画は英語に似ており、順番が決まっている。ここではSVOで示されているが、他にも、「最初にアップで出てくるのは主役である」とか、「俯瞰で始まって、俯瞰で終わる」という、視聴者と作成者との間に、暗黙のお約束というのがある。

『動画の文法』は、そうしたお約束を言語化したものだ。

NHKのディレクターで長年培ってきた経験を、動画の普遍的なルールとしてまとめている。

基本的な動画の原理から、コラージュ編集、モンタージュ編集、ストーリーを成立させるための条件、カット順序の必然性、イマジナリーラインのルール、ジャンプカット、同ポジ、省略法、倒置法、音声編集、カラーグレーディング等……500ページ超の大ボリュームに、これでもかと詰め込んでいる。

もちろん、ルールを破ることもある。原則があるということは、例外もあるから。TVコマーシャルや映画の予告、番宣などで、約束事を守らない映像を見たことがあるだろう。

だが、それは「破ってもいい条件」を満たしたときだけに成立するテクニックになる。それを無視すると、「通じない動画」になる。文字通り、何を言いたいのか、さっぱり分からない動画だ。

もちろん、本書では、どういう動画が面白くないかについても、徹底的に教えてくれる。

動画が「おもしろい」とはどういうことか

「面白くない動画」は、何を伝えたいのか分かりにくく、余計なものが入っていてゴチャゴチャしている。見ててイライラしてくるので、スキップしたり倍速にして、「結論」を探そうとする。

しかし、たいていは最後まで見たとしても、何が言いたいのか分からない場合が多い。「いかがでしたか? ご視聴ありがとうございました」で締められてイライラMAXとなる。

一方で、「おもしろい」動画もある。いわゆる拡散される面白動画のことではない。あるテーマに沿って解説したり実況してみせる動画だ。伝えたいことが分かりやすく入ってくるし、ストレスなく見ることができる。

もちろん、ネタが優れているとか、解説の仕方が上手いという理由で、「おもしろい動画」になっているのもある。だが、同じ素材であったとしても、面白いのもあるし、つまらないのもある。

その違いは何か?

決定的な要素として、「編集による表現(モンタージュの効果)」だという。個々のカットを巧みに組み合わせることで、特定の感情を伝えたり、名演技をしたかのように視聴者に思い込ませることができる(クレショフ効果と呼ばれる)。

例えば、飯テロの「空腹感」や、目まぐるしく切り替わる「スピード感」といった直接的な感覚から、「嫉妬」や「慈しみ」といったストーリーをもつ感情がある。そうした感覚や感情を、カットの組み合わせによって、視聴者が無意識に関連付けて解釈してもらう。

このとき、視聴者の心は動かされている。動画が面白いというのは、この心の動きのことになる。

イマジナリーラインの本質

動画を見るほう(私だ)にとっても、得るものが大きかった。今まで、漠然と「テンポが悪い」「展開が面白くない」等と思っていたことが、なぜそうなのか、どうすれば良くなるのか、具体的に言語化されているからだ。

なかでも最も腑に落ちたのが、「イマジナリーライン」だ。丸1章費やして、イマジナリーラインの本質を解説してくれたおかげで、いくつかのドラマがなぜ面白くないか分かった。

イマジナリーラインは想定線とも呼ばれている。「2人の対話の間を結ぶ仮想の線」と定義され、この線を越えたカメラの移動や編集をしてはいけない、とされている。

Topview_man

…………………

Topview_woman

最初に出てくるカットに映っている存在が、動作の主(主語)になる。そして、その次のカットが動作そのものになる。

被写体が、1人だろうが複数だろうが、人だろうがモノだろうが、被写体同士を結ぶのではなく、被写体が「方向性をもつ動作」をしているとき、イマジナリーラインはその動作の方向に設定される、と考えます。

そして、動作の方向だから「ライン」と読んでいるものの、ルールとしては、これは、「線」というより「面」と考えるほうが理解しやすいというのだ。カメラは、イマジナリーラインの「面」のこちら側では自由に動けるけれど、面をすり抜けるのは、原則的に禁止されている。

なぜか。

私たちが動画を見る時、(あたりまえだが)被写体を撮影したカメラの方からしか、撮影された世界を見ることができない。そのため、被写体がどんな位置・方向にいるかは、カメラが切り取った位置関係から把握している。

動画は複数のショット・アングルを切り替えて進めるけれど、そのとき、イマジナリーラインの面を突き抜けてしまうと、対象がいるべき方向が(脳内と)合わなくなってしまう。

心地よく世界を眺めていたのに、辻褄が合わなくなった対象を再構築する必要が出てくる。これは非常にストレスフルだし、何よりも、動画の世界から現実に戻されてしまう。だから、イマジナリーラインの面をすり抜けるのは、原則的に禁止されている。

では、イマジナリーラインの破り方はあるのか?

本書でいくつか紹介されているが、代表的なのは、ヒキ(話者から引いた)画を入れることだという。ヒキ画とは、シーンの状況説明をするための俯瞰画像のことだ。これにより、イマジナリーラインは再設定することができる。

だが、ヒキ画を入れることでストーリーの進行も滞るし、見ている方も冷めてしまうというデメリットもある。イマジナリーラインを破るなら、それなりの理由が必要だと釘を刺すが、ごもっともなり。

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私自身、あまり自覚してこなかったが、この説明でピンときた。世間で評判とされて、とりあえず第一話だけ見るのだが、その一話で切ってしまうドラマが多々ある。漠然と「展開がダルい」と思っていたが、これ、イマジナリーラインの破り方が下手なだけだったのかもしれぬ。

動画を作る人にとって、本書は教科書みたいな存在になるだろう。守るべきルールと、破っていい条件の両方が詳述されており、実践するだけで、良質の動画が編集できる一冊。

問題2の解答:最初が太郎くん、次が花子さん、そして最後をハートにすると、「太郎くんと、花子さんは、愛し合っている」になる。

Youngman_27

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これは、日常的に動画を見ている人には当然すぎて、「なぜこれが問題として成立するの?」と、逆に疑問に思えてくるかもしれない。

しかし、動画を見慣れていない人や、自分で動画を編集しようとする人には、途端に難しくなってくるだろう。

「やりたいこと」が先にあって、それをどうやって編集すれば視聴者に伝わるかという逆引き辞典のようなデザインパターン集があれば、人気を博するかもしれない。

 

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炎上プロジェクトの火消し術『プロジェクトのトラブル解決大全』

飛び交う怒号、やまない電話、不夜城と化した会議室。

集められたホワイトボードが衝立のように立ち並び、全員が立って仕事をしている(座る間が無いから)。週をまたぐとメンバーの疲弊が目に見えはじめ、月を跨げば一人二人といなくなり、仕事場はお通夜となる。

トラブルの無いプロジェクトは存在しない。炎上するかボヤで済むかの違いなだけで、大なり小なりトラブルは付きものである。

自分が所属する部署は大丈夫かもしれない。だが、隣のブースだとか、同期がいるチームで炎上しているのを横目で見ながら仕事する、なんてことがある。ホワイトボードは目につくし、大きな声はイヤでも耳に入ってくるので、プロジェクトが炎上⇒鎮火するパターンなんてものも、なんとなく伝わってくる。

消火作業のイロハとか、怒った客をあしらう方法、リカバリ計画の立て方なんてのも、肌感覚で分かってくる。

そして、トラブルの扱いが分かってくる頃には、「応援要員として2週間、サポートに行ってくれ」なんて片道キップが渡される(2週間で終わった試しがないが)。

トラブル解決にはセオリーがある

トラブルの解決法は、現場から現場へ、暗黙知のノウハウのように伝えられる。

だが、今はリモートワークが中心だ。

なので、そうした伝達が難しくなっているのではないかと感じる。ネットを賑わすような大炎上を噂に聞くだけで、自社内で起きているトラブルや火消しに気づかない人が増えているのではないだろうか。解決法も知らないまま、キャリアを重ねているのではないか。

そして、火を見たこともないまま、「応援要員として2週間、サポートに行ってくれ」と肩をたたかれる。

火を見たこともない人に、消火を任せるようなことはさせたくない(第一、危険だ)。さりとてオンラインで肌感覚は伝えにくい。

などと考えていたら、暗黙知を言語化してまとめた本があった。

書いた人は、日本IBMの中の人。10億円の破綻プロジェクトを半年で再生させたり、600名のメンバーを引っ張ってきた、スゴ腕のPMである。

そんな人が、プロの火消し術を惜しみなく伝えてくれる。「トラブル解決にはセオリーがある」と断言し、自身が培った経験を言語化してくれている。

現場で見るべき最初のポイント:ホワイトボード

例えば、ホワイトボード。

著者は、「現場で見るべき10のポイント」を掲げ、その一番にホワイトボードを挙げている。これは完全同意。

ホワイトボードには、進捗報告書やプロジェクト計画書に載っていない、生の情報が書かれている。

そして、ホワイトボードが集まっているエリアには、課題表が書かれているはずだ。いつ、どんな問題が起き、誰が、どこまで解析し、影響範囲の特定と対策が(不完全ではありつつも)存在するはずだ。それを見ることで、火事場の中心はどこか、キーマンが誰かが分かってくる。

トラブルに陥っているプロジェクトでは、資料はほとんどメンテされていない。対応に大わらわなので、きちんとした報告にまとめられるわけが無いからだ。代わりにホワイトボードに殴り書かれた骨子が重要になる。

課題管理で【絶対】やってはいけないこと

課題管理表のポイントが強調されているが、どれもその通りだと思う。

「課題の期限は意志をもって決める」や「課題管理はリーダー胆力が試される」など、いちいち頷くことが、理由をつけて説明されている。

担当者をアサインするのは嫌われ役だし、「いつまでならできるの?」と詰めるのは精神安定上よろしくないのは承知の上で、やるべきこと、やってはいけないことが書いてある。

中でも、一番やってはいけないことがあるのだが、そこもきちんと説明されている。少し考えれば誰しも容易に想像がつくのだが、なぜかこのNGをやってしまう人が多い。

それは、「課題提起人を担当者にする」ことだ。

ある事象が問題だと指摘し、その理由を説明してきた人に、「じゃぁその担当者としてよろしく」と課題をアサインしてしまう。これは最悪オブ最悪だ。

なぜなら、「言い出しっぺが引き受ける」ことになり、課題が出てこなくなるから。雉も鳴かずば撃たれまい。プロジェクトが悪化しているのに、その「症状」が見えなくなり、デスマーチまっしぐらになる。

課題管理でやるべきこと

本書では、「課題対応に適した人を割り当てよ」でまとめているが、一点、補足したい。

ふつう、課題を指摘する人は、その課題に近い人が多い。直接的な被害を受けていたり、原因の近辺を担当していることで、事象を上手く説明できる。だが、課題に詳しいからといって、その人をアサインするのは愚の骨頂だ。

だが、別の人をアサインするといっても、その人は課題に詳しいわけではない。その結果、アサインされた人が課題提起人に何度も聞きに行くことで、非効率的になってしまう。

じゃぁどうするか?課題を分割するのだ。かつてのローマ帝国のごとく、分割してマネジメントする。

でも、どうやって課題を切り分ける? そのときこそ、課題提起人を呼ぶ。誰よりもその課題に対して問題意識を持っており、原因となりそうなところや影響範囲、解析方針もアタリがついているだろう。だから、どうやって分ければよいか、一番アテにできる。

そうして、課題を小さく分けて、扱いやすくした上で、別の人に対処してもらうといい。

他にも、「軌道修正は朝会で伝えよ」「悪い報告を歓迎しろ」「現場は定時パトロールせよ」「課題管理表は、対応すると決めた1~2割増しで報告しろ」など、すぐに使えるノウハウを詰め込んでいる。

もちろん、炎上しないに越したことはない。だが、プロジェクトはトラブる。炎上かボヤかの違いなだけで、大なり小なり燃える。だから、本書で予習しよう。

炎上を食い止め、プロジェクトを前に進める一冊。

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難民キャンプ、被災地、スラム街を「観光」する『不謹慎な旅』

不謹慎な観光ガイド。

風光明媚な観光スポットとは言い難い。戦争や天災、公害、差別、事故現場など、大きな悲劇を経験した「負の遺産」となっている場所になる。

さらに、遠い過去ではなく、まだ記憶に生々しい場所をわざわざ選んでいる。そのため、いまだ悲しみの傷が癒えない人が居たりする。そうした人たちの声を拾い上げ、カメラも向けている。

そういう、嫌な記憶となっている所を観光するなんて、失礼で悪趣味だという誹りを免れない。なので、タイトルから先回りして、「これは不謹慎な旅です」と言い切る。

普通の観光地は、旅行ガイドやTV番組等で紹介し尽くされている。GoogleMapを使えば、居ながらにしてそこの景色を見ることだってできる。そんな「普通の」観光地では飽き足らない人のための、不謹慎な観光ガイド。

エジプト・カイロ「豚の場所」

「世界で一番ゴミだらけの首都」とされている、エジプト・カイロを訪れる。

中でもゴミが集中しているのは、マンシェイェト・ナーセル地区だという(通称「豚の場所」)。1日に運び込まれるゴミの量はトラックにして2000台、5000トンとも言われる(※)。

地区の住民6万人の大半は、ゴミ処理業に従事している。収拾し、分別し、再利用できる資源は売り、生ごみはブタの餌にする。ブタの飼育は、豚肉食を禁忌としないコプト教徒が行い、肥やした後、食べたり売ることで生計の足しにしている。

驚くべきは、そのリサイクル率。85%を越えるという(ヨーロッパの平均は32%)。住民は、ゴミの中で暮らし、ゴミによって生計を立てているともいえる。

アラブの春から10年、エジプトの政治は激変し、大規模デモや暴動、クーデター、テロが続いた結果、旅行客は激減し、エジプトの観光業は冷え込むことになる。経済の冷え込みは社会の混乱を招き、回収されないゴミの山に如実に表されるようになる。

行政破綻が表立って見えるのは、ゴミの山だと聞いたことがある。レバノンの首都ベイルートでは、都市機能が麻痺するほどゴミ問題が深刻化している。「観光」として出かけなくても、近い未来、あちこちで見られるようになるのかもしれぬ。

岩手県大槌町役場

東日本大震災の津波被害を受け、ボロボロの姿をさらしている大槌町役場が紹介されている。

鉄筋二階建ての庁舎で、大破して焦げた外壁がむき出しになり、止まった時計が張り付いている。窓ガラスは喪失し、エアコンのダクトやケーブルが垂れ下がっている。

著者が訪れた当時、庁舎の扱いについて、解体派と保存派と、意見が対立していたという。

解体派は、使い物にならない建物を取り壊して更地にし、再利用すれば良いという意見だ。「助けられなかった後悔や、つらい記憶が蘇る」という声もある。

一方、保存派は、災害の脅威や教訓を伝える「震災機構」として残すべきと考える。建物を壊しても、「つらい気持ち」は無くならない。だったらむしろ、後世に伝えるべきだという。

国が支給する復興交付金をどう使うのかについて、「不幸で稼ぐのか?」「どうせ町を出て戻らない連中が言うな」など、町を二分する意見を丹念に拾い集めてゆく。

世界最大の難民キャンプ・ロヒンギャ

100万人が避難生活をする難民キャンプ、ロヒンギャが凄まじい。

2017年のロヒンギャ武装勢力と治安部隊の衝突を機に、周辺の住民がバングラデシュに逃れて作った町だ。丘から眺める場所の全てがバラックやテントに埋め尽くされている。巨大な「都市」と言っていい。

Kutupalong Refugee Camp (John Owens-VOA)

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kutupalong_Refugee_Camp_(John_Owens-VOA).jpg

John Owens (VOA), Public domain, via Wikimedia Commons

ただし、これは横へ広がる都市だ。

通常であれば、一つの場所に人が集まってくると、建物は上へ向かう。つまり、2階建やビルのように縦方向に伸びてゆく。だが、難民キャンプではそうはゆかず、人々は横へ横へと広がっている。

難民相手に商売をする露店や出店も出現しているという。援助物資を売って得た資金を元手にして、嗜好品等を外部から調達し、難民どうしで経済をまわす。祖国の情報を求める人々がインターネットカフェに集うし、難民キャンプを案内するツアーまである。

著者は難民商店で「ショッピング」をし、そこでミネラルウォーターを「グルメ」と称して飲み干す(中身は井戸水だそうだ)。いささか露悪的な表現だが、そうでもしないと正視すらままならないのかもしれぬ。

見世物としてのミゼットプロレス

いわゆる見世物小屋を巡る旅もある。

見世物小屋とは、珍奇さや禍々しさを売りにして、普通では見られない芸や獣、人間を見せる興行のことだ。海外だと「フリークショー(Freak show)」と呼ばれている。

花園神社酉の市(東京都新宿区)、神宮例祭(札幌市中島公園)、筥崎宮放生会(福岡県福岡市)を巡りながら、悪食、珍獣、危険な曲芸など、奇怪でグロテスクな芸を紹介する。

しかし、最近では世間の風当たりは強く、世間が許容しない・風紀を乱すといった理由で、興行場所を確保しづらくなっている。生きた蛇を食べるヘビ女などは、動物愛護団体の猛反発を受け、虫に代わってしまったという。

そんな中、ミゼットプロレスの歴史にライトが当てられている。

ミゼットプロレスは、その名の通り、小人どうしのプロレスになる。小さな体から繰り出される高度な技や、コミカルな動きに、プロレスファンのみならず魅了された人も多かったらしい。女子プロレスの興行に組み込まれ、広く人気を博したという。

特に、スター選手のミスターボーンは、「8時だヨ! 全員集合」にも出演し、お茶の間の爆笑をかっさらう。

脈絡もなく登場し、舞台を駆け抜ける小人を、わたしも見た記憶がある。今ならその役割が分かる。デウス・エクス・マキナ(お芝居が混乱したとき降臨して、物語を収束させる役)だね。

しかし、同時に非難も殺到する。曰く「かわいそう」「身体障碍者を笑いものにするな」等など。「善意の」投書にメディアは自主規制を始め、女子プロレスの中継があっても、「小人たちの闘い」は存在しないことになる。

負の遺産を巡るダークツーリズム

他にも、女人禁制の山(大峰山)、国産アヘン・ケシ畑(小平市)、牛久入管収容所など、普通ではない場所を観光する。

最近では、アウシュビッツ強制収容所や原爆ドームなど、人類の負の遺産を訪れることは「ダークツーリズム」と呼ばれ、新しい旅行のスタイルとして注目されている。

悲劇の現場へ物見遊山に行くことに、危うさ・ミスマッチを感じる。「不謹慎な旅」という言葉に、一種の開き直りを感じるが、近所でない限り、そういう場所の必要性が語られるのだろう。

※本書では5000トンだが、National Geographic の動画では9000トンと紹介されていた。いずれにせよ、膨大な量になる。

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見えるのに見えていない最大の臓器『皮膚、人間のすべてを語る』

私たちの顔には、ニキビダニが寄生している。

0.2ミリぐらいのダニで、肉眼では見えない。ポケモンで言うなら、8本足のヤドランみたいな姿をしている。分類だと昆虫ではなく、節足動物になる(画像検索しないほうがいい)。

主な生息地は鼻や頬。眉毛やまつ毛、皮脂腺の奥深くに潜んでおり、にじみ出る脂質や微生物を食べて暮らしている。8本の太くて短い足で時速16ミリ移動し、つがいを求めてたまに出てくる。

名前からしてニキビの原因になりそうだが、むしろ逆。脂質や微生物を分解する酵素を持ち、皮膚の常在菌を一定に保ってくれる、共存共栄の関係とも言える。睡眠不足やストレスによるニキビが出そうな場所で、脂や細菌を食べに集まるので、ニキビダニと呼ばれているのかもしれない。

授乳や抱っこで人から人へ伝染し、家族に特有な系統は、何世代にも渡って受け継がれる。たとえ海を渡り、別の大陸に移住しても、そのダニの系統は代々受け継がれ、宿主の乗り換えは滅多にないという。

ヒトと何千年も共存してきたニキビダニのDNAは、一種のタイムカプセルとも言える。つまり、このダニのDNAを解析することで、海を越えた祖先の足跡を追うことも可能だからだ。近い将来、私たちが何者であるかは、ニキビダニの研究によって明らかになるかもしれない。

『皮膚、人間のすべてを語る』の魅力

ニキビダニの研究は、『皮膚、人間のすべてを語る』で知った。読むと痒くなってくる本である。鼻のあたまを鏡に写したり、目を近づけて指紋を眺めたり、脇の下をクンクン嗅いだり、ち〇ち〇をマジマジと観察しながら読んだ。

そして、同じ皮膚なのに全然違うこと、何十年も付き合ってきた「わたし」の皮膚が、実に精妙に出来ていることを、改めて思い知る。皮膚は「わたし」の表面を覆い、外側の環境から守る一方で、赤くなったり青くなることで、心身の調子を外側へ知らせてくれる。皮膚は、最大の臓器なのだ。

著者はオックスフォード大学の皮膚科医なので、皮膚の精妙なメカニズムを平易に語ってくれる。本書が素晴らしいのは、それだけではなく、哲学や宗教、歴史や言語にまで、単なる物質的なあり方をはるかに超えた影響力を語ろうとする点にある。

ワニの崇拝者が身体に刻むタトゥーの話や、マイアミビーチでする日焼の悪影響、あるいは肌色の濃度と緯度/風土の文化人類学的な考察など、皮膚を通じて人を見ると、実に面白い側面が見えてくる。

アポクリン汗腺は「惚れ薬」

例えば、アポクリン汗腺と性的魅力について。

腋の下や乳首の周り、性器の周辺に分布するアポクリン汗腺には、性機能との関りがあるという。他の汗腺と異なり、アポクリン腺からは皮脂成分が分泌される。汗そのものは無臭だが、皮膚表面にいる細菌には、特別なごちそうになる。細菌によって分解されたものが、体臭となる。

2010年にフロリダ州立大学で行われた「におい」の実験が紹介されている(※1)。

女性が着ていたTシャツの「におい」(あえて漢字にしない)を、男性のグループに嗅いでもらう実験だ。すると排卵期の女性が着ていたTシャツを嗅いだ男性は、高いレベルのテストステロンを示したという。

テストステロンとは、男性の主要な性ホルモンであり、生殖組織の発達に深くかかわっているホルモンになる。女性の生殖能力は、「におい」によって、男性のホルモン分泌に影響を与えているといえる。

この「におい」が放出されるメカニズムについては、キャサリン・ブラックリッジ『ヴァギナ 女性器の文化史』で学んだことがある。ココナッツや白桃を想起させる、豊かで甘く深みのある香りだ。あからさまな「におい」というよりも、むしろ「圧」という感じで気づくことが多い。

「人は見た目が10割」という輩がいるが、見る以前に、においによって魅力が形作られていると考えると興味深い。

感動したときの「ゾクゾク感」を測定する

クラシック音楽のクライマックスに引き込まれたり、懐かしいポップソングを耳にすると、背中がゾクゾクしてきたり、首や顔、二の腕にトリハダが立つのを感じることがある。

これはゾクゾク感、鳥肌感と呼ばれている(tingling sensations)。

感動的な映画のラストや、美しい絵画を見た時にも生じるが、特に音楽による刺激が効果的に引き起こすことができるという。皮膚における電気活動(EDA:Electro Dermal Activity)によって測定され、心と皮膚の関係を研究する要となっている(※2)。

音楽と鳥肌感の研究は、たいへん「おもしろい」結果が得られている。

音楽を聞いてゾクゾクする人というのは、いわゆる情に篤い人と思われるかもしれないが、その人の性格とは関係が薄いらしい。

その代わりに、ゾクゾク感を引き起こすのは、音楽への認知的エンゲージメント(没頭、集中度)によるという。聴き手が予期していなかった方向へメロディやピッチが変化し、その後収束するとき、ゾクゾク感が生まれやすくなる(※3)。

さらに、不協和音がすぐに解消されると、聴き手の期待をよい意味で裏切り、ゾクゾク感が増す効果があることが明らかになっている(※4)。著者はこれを、「脳のくすぐりを皮膚で感じ取る」と述べているが、言い得て妙なり。

皮膚は、わたしたちを覆い、日光や微生物から守るためのバリアだけなく、感情を表し、シワや傷痕、入れ墨などにより、わたしたちが何者であるかを表現するスクリーンのようなものでもあるという。

皮膚を通じ、ヒトという存在を改めて知ることができる一冊。


※1 Miller, S. L. and Maner, J. K., 'Scent of a woman: Men's testosterone responses to olfactory ovula pilaris: tion cues', Psychological Science, 21 (2), 2010, pp. 276-83.

https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/20424057/

※2 Goldstein, A., 'Thrills in response to music and other stimuli', Physiological Psychology, 8 (1), 1980, pp. 126-9.

https://link.springer.com/article/10.3758/BF03326460

※3 Timmers, R. and Loui, P., 'Music and Emotion', 32) L Foundations in Music Psychology, eds. Rentfrow, P. J. and Levitin, D. J., MIT Press, 2019, pp. 783 826.

※4 Blood, A. J. and Zatorre, R. J., 'Intensely pleasurable responses to music correlate with activity in brain regions implicated in reward and emotion', Proceedings of the National Academy of Sciences, 98 (20), 2001, pp. 11818-23. 25) 

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宇宙、生命、心と進化を一気通貫に語る『時間の終わりまで』

新卒が「一生やりたい仕事が見つかった」というのは、離乳食が終わったばかりの2歳児の「カレーの王子様は世界で一番おいしい食べ物である」と同じぐらい説得力がない(※)

本人が真顔であるほど、微笑ましい。自分の知る狭い世界でもって、それが全てであると言い切ることに無理がある。新しい仕事やカレーマルシェに出会って、世界が拡張されることを願う。

物理学に触れるようになって、同じ可笑しみを抱くようになった。

原子や中性子、クォークなど、どんなに小さいモデルを考えても、それだけでは説明しきれず、これまでの研究と矛盾する現象が生じる。

より巨大な望遠鏡を作り出し、宇宙の果てまで見渡そうとしても、私たちが知る宇宙とは、光が届く範囲でしか観測できない。

それにもかかわらず、現代の物理学でもって、物質や宇宙の全てがそうなっていると結論づけるのは、早すぎる一般化ではないだろうか。

「いやいや、素粒子論は何千回もの実験によって確かめられているし、シュレーディンガー方程式は10億分の1より高い精度で実験データと合致する。数学に裏付けられた物理学ほど確かなものはない」

素粒子物理学の第一人者ブライアン・グリーンは、そう主張する。確かに、その通りだと思う。研究や方程式については文句のつけようがない。

しかし、だからといって、その理論を、まんま絶対真理であるかのごとく断言されてしまうと、新卒や2歳児を見るように、微笑んでしまう。

「いやいや、2歳児と物理学を同じと見なすのは変だろう」

その通り。100年以上の歴史を持つ素粒子論と、離乳食が終わったばかりの2歳児を比べるのは変だし失礼だろう。

『時間の終わりまで』の魅力

だが、ブライアン・グリーンの『時間の終わりまで』を読むほどに、私たちが知っていることがいかに限られているかが見えてくる。

本書は、自然科学における素粒子や原子、分子といったミクロな観点から、ブラックホールや銀河、宇宙全体までを一気通貫で説明する。その旅路の中で、生命誕生における遺伝子や進化といった生命科学、心や自由意思、芸術や宗教といった人文科学にも目くばせしつつ、壮大なスケールで語り上げる。

数式は登場せず、記述は平易で、何よりも喩えが上手い。予備知識ゼロでどんどん入ってくるのが愉しく、知的好奇心がMAXに満たされる(物理学や数学の素養がある人には、巻末の脚注に数式が用意されている)。

特に興味深いのは、「分子ダーウィニズム」と呼ばれる化学的な闘争だ。

エントロピーと進化という切り口から、物理学の観点から生命誕生を語る試みである。

世代を下るごとに、より安定した分子配置が生じていくうち、「最初の生命」といえる分子集団が誕生したという。カオスな状態から、丁度良いサイズで分子が組織化されていく姿は、ビックバン以来、粒子が集まり、星や惑星や銀河を形成していくダイナミズムに重ねるように描かれており、知的興味を掻き立ててくれる。

エンパイアステートビルで宇宙の時間を喩える

喩え話で面白かったのが、「もしエンパイアステートビルで宇宙の時間を喩えたら」である。

宇宙の時間が、エンパイアステートビルの高さだと考えて、各フロアが時間の長さを示すと見なす。そして、ある階が表す時間の長さは、その下の階の時間の10倍と仮定する。

1階はビックバン直後の最初の10年になる。2階はその10倍の100年だ。3階は1000年になる。フロアを上へ行くほど、急激に長い時間が経過することになる。

ビルを上へ昇ったり下へ下りたりしながら、ビッグバンの影響、惑星や銀河の誕生、太陽系の誕生からその死、そして文字通り「時間の終わりまで」を探索する。

エンパイアステートビルの喩えのおかげで、最新の物理学が見せてくれる宇宙の歴史や宇宙全体の姿を、より生々しく体感することができる。

一方、物理学のおかげで体得した感覚からすると、物理学そのものの狭さに気づくようになる。

現在は、ビッグバンから始まって138億年ほど経過したとされている。エンパイアステートビルなら、10階から上にいく階段を上り始めたぐらいだ。人類の歴史は、階段の一段分にも満たない、あっという間の出来事になる。

このスケールで考えるならば、2歳児と物理学の長さは同じくらい瞬時のことになる。

さらに、エンパイアステートビルを上り下りしながら、宇宙の広大さを体感できるようになった。時間のスケールを自在に変えることで、そこで働く力(引力・斥力)を見える化するのは、惑星であり、恒星系であり、銀河であるからだ。

地球という惑星が巨大に見えるのは、せいぜい2メートルのヒトのサイズだから。カメラを引いて見るならば、太陽と比べ、地球はちっぽけな存在になる。太陽系が視野に収まるならば、太陽そのものも針先の点になる。銀河サイスだと、見ることすらできなくなる。

それほど宇宙は大きいのだが、その宇宙すらも、せいぜい光が届く範囲からの観測にすぎず、その外側にあるものは「分からない」が正解になる。

物理学の限界

ゴリゴリの還元主義者であるブライアン・グリーンは、「私たちは物理法則に支配されている粒子たちが詰め込まれた袋にすぎない」と言い放つ。

還元主義とは、基本的な構成要素を把握することで、宇宙のあらゆることを完全に説明できるという立場だ。惑星や銀河だけでなく、生命の誕生、意識や心、宗教や芸術など、あらゆることは粒子の振る舞いに過ぎないという。

それは物質としてなら正しいかもしれないが、説明にならないのではないだろうか? 美人はタンパク質で構成されると言うのは正しいかもしれないが、なぜ美しいのかは説明したことにならない。

そして、還元主義が「還元」できるのは、ヒトが理解できるサイズでしかない。コンピュータの助けを借りたとしても、要素が多すぎたり複雑すぎてモデルにできなかったり、そもそも測定/計算不能な対象であるならば、物理学として成立できない。たとえ正しくてもだ。

物理学に対する解釈が、まるで違っていて面白い。物理学が「正しい」のではなく、正しくなるように物理学は書き変わってきた、と見なす方が自然だ。

惑星の観測結果から得られたニュートンを元にした教科書が、観測技術の進展により得られた結果と合わなくなった。定数を足したりパラメーターを加えても成り立たなくなると、新たな分野として、ハイゼンベルクの教科書を作ろうとしているが、わたしには、「繕う」としているように見える。

ハイゼンベルクが正しくないと言っているわけではない。ある一つの理論で全てを説明できるという態度が妥当なのかと感じるようになった。

『時間の終わりまで』は、物理学で全てを説明しようとする、たいへん野心的な一冊だ。私たちが何を知っているかについて、これほど原理的に語ろうとしたサイエンス本は稀有だろう。一方で、私たちが知っていることがいかに小さいかについても、よく見えるようになった。

@yokichiさんのtweetより引用

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75歳以上は死を選べる制度『PLAN75』

75歳以上の高齢者に死ぬ権利を認める法案が可決され、通称「PLAN75」という制度が施行された日本。

75歳以上であれば、誰でも利用できる。住民票は不要で、支度金として10万円が出る(使い途は自由)。国が責任をもって安らかな最期を迎えるように手厚くサポートする制度だ。

この映画で最もクるのが、その生々しさ。

役所での手続き、コールセンターでのやり取り、いかにも「ありそう」な社会だ。劇中、制度への加入を促進するコマーシャルが流れるが、思わず信じ込んでしまえる。

あなたの最期をお手伝い

もちろん反対の声もあるだろうが、それを押し切って導入され、諾々と従ってしまうだろうなぁという肌感だ。

主人公は、78歳の角谷ミチ(倍賞千恵子)。夫と死別して以来、ずっと独りで暮らしてきた。つつましい暮らしを続けてきたが、あることがきっかけとなり、PLAN75を考えるようになる。

貧乏な老人は死ねというのか?

この物語のリアルさに拍車を掛けているのが、貧困の描き方だ。

もちろん生活保護という選択肢も残されているものの、そちらを選びにくいように描かれている。だんだんと彼女が追い詰められていくが、PLAN75を選ぶのはあくまでも自分、自己責任という社会だ。

撮り方によって、もっとおどろおどろしく描いてもいいし、ブラックユーモアをたっぷり混ぜてもいい。だが、そうしたケレン味を避け、ドキュメンタリータッチで淡々と描いている。

この映画を、「グロテスク」だの「あってはならない」と評するのは簡単だ。「良い映画だが、早く忘れたい映画」という評もある。

おぞましい、弱者切り捨てだとして、拒絶反応するのは楽だろう。自分の居心地の悪さを、そのまま「正しさ」として反発してしまえるのなら、とても簡単だから。不安を掻き立てる不協和音や、耳障りな電話のコールといった演出からも、そういったメッセージを読み取ることもできる。

だが、提示された社会が既視感ありまくりなのだ。「あってはならない」のではなく、自己責任という名のもとに切り捨てられる社会は、ここにある。自分がそこに立ったら、どうするだろう? と否が応でも考えさせられてしまう。それだけの説得力を持っている。

PLAN75が必要な理由

現時点でのわたしの結論はこうだ。

PLAN75を導入してほしい。なぜなら、わたしが利用したいから。75歳になったら「必ず」ではなく、75歳以上のいつでも好きな時に申し込めて、プランの実行中にいつでも好きな時にやめられる。死ぬときは選びたいと願っており、激烈でなく後始末の楽な奴を考えているから、願ったりかなったりである。

この映画では登場しなかったが、病気で苦痛だらけの毎日を過ごしている人や、あらゆる面で望みは絶たれ、ただ生きているだけの人がいる。考えてみると、貧困問題をクローズアップしていたものの、寝たきり・介護問題はスルーされていた(介護を受ける側は、あらかたPLAN75を実施済だと考えると寒くなってくるが)。

自分がその一人になる可能性は十分にあるため、そうなる前に、わたしが利用したいという独善的な理由だ。

しかし、親しい人がPLAN75を利用しようとするなら、それは全力で止めたい。たとえ何歳であったとしても、生きている限り、なにかしらの希望はあるはずだから(死んだらゼロだ)。苦しいことや辛いことも、後になって振り返ったら薄れて、代わりに、嬉しいことや楽しいことを思い出すだろうから。

矛盾しているだろ? 自分でも承知している。

「子のためなら、何だってする」

意図しているのかは不明だが、監督は、強烈な皮肉を利かせていることに気づいているだろうか?

フィリピンから出稼ぎにきた女性が登場する。故郷では夫と娘が待っており、病気の娘の手術代を稼ぐ必要があるのだ。だが、かなりの金額のため困っている。

それを、キリスト教の互助会でカンパしてもらうのだが、監督の意図としては、自己責任を押し付ける日本と対照的な存在とするためのエピソードらしい。

「フィリピンは9割がキリスト教徒で、助け合うという文化が根付いている。自分でなんとかしなさいという日本と対照的な存在として描きたかったのです」

早川千絵監督インタビュー

互助会のリーダーが、彼女を励ましてこう言う。

「私たち母親は、子どものためなら、何だってする」

だが、同じようなセリフを吐いて、PLAN75を選択した老母がいた。子どもや孫に迷惑がかからないよう、できるだけ身を小さくして生きて、そっと人生から退場する。溌溂とした若者ばかりのフィリピンの互助会メンバーと、老いた日本人グループが対照的だった。

老人は社会の「荷物」か?

『PLAN75』はカンヌ国際映画祭でカメラドール特別表彰が授与されている。これに遡ること40年前に、同じくカンヌでパルムドールを受賞したのが『楢山節考』だ。

貧しい村での口減らしのため、70歳になると楢山参り(姥捨て)をする風習があった。息子のことを思いやる老母と、母を捨てに行く息子の葛藤を描いたドラマになる。原作は深沢七郎の処女作だったはず。

もし、ブラックユーモアに全振りするなら、筒井康隆『銀齢の果て』になる。70歳以上の老人に殺し合いさせるシルバー・エログロ・バトルロワイヤル。刃物と弾丸が飛び交い、「長生きは悪」という黒い哄笑に塗れる老人文学の金字塔なり。

あるいは、戸梶 圭太『自殺自由法』を思い出す。

「死ぬ自由」が公的サポートを得た世界で、「使えない国民を自殺まで誘導する」国家プロジェクトが実行された世界だ。公共自殺幇助施設「自逝センター」に向かう人々の人間模様が滑稽なり。安楽死できるカプセル装置が近所にあり、死にたくなった人は、コンビニ感覚で死ねる。もし、「グロテスク」という形容を用いるなら、この小説のラストがぴったりだろう。

コミックなら藤子・F・不二雄「定年退食」になる(「退職」ではなく「退」)。

地球規模の環境汚染により、食糧難が深刻化した未来のお話だ。稼ぎの無い年金暮らしをしているのだが、食糧を節約しようと努力する。この世界は定員制で、抽選でもれた人々は、年金、食糧、医療、保険一切が打ち切られるというディストピアだ。ここでは、未来を担う若者に、老人が席を譲る世界になる。


これをさらに過激にしたのが、浅野いにお「TEMPEST」だ。

少子高齢化社会に対処するため、国は「高齢者特区」を建設し、そこで集中的に介護することで医療の効率化を図る。85歳以上の「最後期高齢者」になると、「人権カード」を国に返還し、実質的に「人」でなくなる。ラストの重苦しさでいうならば、これが最重量級だろう。

PLAN75は実施済み

実は、PLAN75はヨーロッパで施行されたことがある。名前は「T4」と呼ばれている。

もともとは、治癒不能の重い病気を抱える患者に対し、慎重な診察のもと、安楽死がもたらされるよう、医師の権限を拡大するという、限定的な計画だった。

しかし、計画は暴走し、医師が「生きるに値しない」と選別・抹殺していくことになる。

対象となった人は多岐に渡り、うつ病、知的障害、小人症、てんかんに始まり、性的錯誤、アル中、ユダヤ人も含まれていた。こうした人びとが何万人も、ガス室に送られ、効率的に殺されていった。

歴史ではユダヤ人のホロコーストが有名だが、「社会の役に立たない」「弱者切り捨て」の立場を具体的に実行したのは、ナチスのT4と言える(『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』)。

最後に、劇中のコマーシャルより引用する。わりと近い未来に、わたしたちは居る、と思っている。

PLAN75は、75歳以上の方なら、どなたでも利用できます
ご利用者の皆さまの、一人一人に寄り添った終活のサポート
まずは、お気軽にお問い合わせください
24時間365日電話サポート
あなたの最期をお手伝いします

もし、映画を観ることがあったら、スクリーンに映し出される題字に注目してほしい。「PLAN」の文字列は明瞭に映し出されているけれど、「75」の文字がぼやけているように見えた。わたしの見間違いかもしれないので、ぜひ、確かめてほしい。いったん導入されたら、「75」は、入れ替え可能だということを暗示しているのかもしれない。

PLAN75オフィシャルサイト

 

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なぜ鬱な映画を観るのか

「鬱な映画」と呼ばれる作品がある。

「鬱」と一言でいっても、その意味は幅広く、不安、違和感、自己欺瞞、悔しさ、自己嫌悪、敗北感などのネガティブな感情を指し示す、便利な言葉でもある。

そして「鬱な映画」というと、鬱病そのものを正面きって描こうとしている映画や、精神的な病をスパイスとして投影しているもの、あるいは、観終わるとダウナーな気分にさせるような作品など、これまた種々様々だ。

エンターテイメントなのだから、胸躍らせワクワクさせる展開や、観ててスカッとするシーン、あるいは感動で涙が止まらなくなるラストを求めるのではないだろうか。お金と時間と集中力を使って、わざわざ落ち込むような映画を観るのはなぜか。

一つは、怖いもの見たさというか、悲劇を味わいたいという動機が挙げられる。

不運な出来事に巻き込まれ、抜け出そうと足掻くものの、ことごとく失敗し、ラストは絶望の中で最悪の選択をしてしまう……極限状態に放り込まれた普通の人々の悲劇を、自分は、安全な場所で鑑賞する。

極限状態に陥った人はどうなるか、そこから戻ってくることが可能かを描いた映画は数多くある。いくつかピックアップしてみた(カッコ内は監督と公開年)。ナチス成分多めだが、わたしのためのメモなので、他にも強力なものがあれば、教えてほしい。

  • ダンサー・イン・ザ・ダーク(ラース・トリアー、2000)
  • レクイエム・フォー・ドリーム(ダーレン・アロノフスキー、2001)
  • シンドラーのリスト(スティーヴン・スピルバーグ、1994)
  • 縞模様のパジャマの少年(マーク・ハーマン、2008)
  • ソフィーの選択(アラン・パクラ、1983)
  • ホテル・ルワンダ(テリー・ジョージ、2006)

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』が嫌われる理由

たとえば、このテの中で真っ先に挙げられるのが、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』だろう。

女手ひとつで息子を育てている母親が主人公であり、苦しい家計の中で、必死になって貯金をしている。なぜなら、彼女は視力が弱ってゆく病気で、いずれ盲目になるからだ。病気は遺伝性で、息子も遠からずそうなる運命にある。

手術を受けさえすれば治るのだが、そのお金が高額のため、それこそ身を粉にして働き続ける。彼女の努力や誠実さは、実に残酷な形で裏切られることになるのだが、この映画を有名にも悪名にもしているのは、そこではない。

観始めるとすぐに分かるのだが、この映画は2つのモードで進行する。一つは、失明の運命に怯えながら働く日々を描いた現実モード。もう一つは、目を輝かせ、元気いっぱいに走り回り、歌い・笑い・踊るミュージカルだ。

現実モードのカメラは手持ちで、焦点が合わず、意図的にブレている。一方、ミュージカル調のときのカメラは固定されているか、あるいはクレーンで撮られており、「いかにも映画」な感じがする。

つまり、主人公の現実と妄想が、交互に重ねられながら、物語は進行してゆく。現実が彼女を追い詰め、逃げ場が無くなり、恐ろしい結末に向かって進むほかなくなる一方で、妄想の中の彼女は自信と魅力に満ち溢れ、運命なんて跳ね飛ばす勢いだ。

そして、ラストに近づくにつれ、現実と妄想が合わさってゆく。ひどい手ブレが無くなり、ピタリと焦点が合うようになってくる。彼女は妄想の中のように、いや、妄想よりも懸命に歌い続けようとするのだが、ついに現実に追いつかれる。

この時、観客は思い知る、「これが現実だ」と。自分は安全な場所から悲劇と向き合おうとしていたのに、その座っている場所は、彼女を見ていた人々と同じ椅子だったことに気づかされる。

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を酷評する人は、これが後味の悪いバッドエンドだから、という理由だけではない(そんな映画は沢山ある)。悲劇に感動したがってた動機ごと殴りつけられたからこそ、怒り狂っているのである。

無辜の女性が酷い目に遭うのを見て、心を痛め、涙を流したい。そうすることで、自分自身が向き合っている現実から一時だけでも目を背けたい……意識する/しないに関係なく、悲劇を味わい、号泣する準備をしていた所が、安全でもなんでもなく、現実とピタリ一致することが分かってしまう。

監督の意図を悪趣味だとかサディスティックと批判するのは容易い。でもこれ、手加減しているよね。ラストに、「あるもの」が彼女に手渡され、それが希望であるかのように扱われるが、監督が本当に邪悪なら、その持ち主を連れてきて、彼女を凝視するように仕向けるだろう。

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』が批判される理由を掘り下げると、「人が悲劇を見る理由」を裏切っているからであることが分かる。

『Cake ケーキ~悲しみが通り過ぎるまで』で予習する

もう一つ、鬱な映画を見る理由としては、精神を病んだ人が、どのようになるかを見たい、というものがある。「もし自分が心を壊したらどうなるか」を、映画でシミュレートするわけだ。

過酷な毎日に心をすり減らしている中、愛する人や大切な存在を失ったことがきっかけとなり、自暴自棄になる。何をやっても上手くいかなくなり、殻に引きこもり、自分を痛めつけるようになる。さらには生きる気力すら失い、茫然自失となる。

そこから、周囲の手助けにより自分を取り戻すようになるか、さらに酷い展開になるか、作品によって異なる。

だが、どれほどの負荷をかけると心が壊れて、そこから日常を取り戻すためにどんなプロセスがあるのかを、ひと連なりのストーリーで向き合うことができる。

鬱をリアルに描いた映画としてよく挙げられるのは、こちらになる。『鬱な映画』にあった。これも自分用のメモとして。

  • Cake ケーキ~悲しみが通り過ぎるまで(ダニエル・バーンズ、2014)
  • 普通の人々(ロバート・レッドフォード、1980)
  • めぐりあう時間たち(スティーブン・ダルドリー、2003)
  • シルヴィア(クリスティン・ジェフズ、2003)
  • リトル・ミス・サンシャイン(ヴァレリー・ファリス、2006)
  • なんだかおかしな物語(ライアン・フレック、2010)
  • メランコリア(ラース・トリアー、2011)
  • スケルトン・ツインズ 幸せな人生のはじめ方(クレイグ・ジョンソン、2014)
  • アノマリサ(チャーリー・カウフマン、2015)

たとえば、鬱状態の寛解を描いた作品として、『Cake ケーキ~悲しみが通り過ぎるまで』がある。

我が子を交通事故で失った母親が主人公だ。

自身も事故に巻き込まれ、肉体的にも精神的にも後遺症を負った彼女は、生きる理由を見出せず、周囲への怒りといら立ちを支えに、なんとか生き延びている。セラピーの会の中で人間的なつながりを見出そうとするのだが……という展開らしい。

もし、我が子を亡くしたなら、きっと耐えられなくなるだろう。だが、わたしがどのように苦悩するか、そしてどう回復するか(あるいはしないか)は、映画を通じて、予習することができる。

あるいは、わたしの親しい人がそういう目に遭ったなら、わたしはどう振舞うのか。正解なんて無いだろうが、どんな言葉があるのか、どういう振る舞いができるのかは、予め知っておくことができる。

当たり前なのだが、鬱病になった場合、きっと何もできないだろう。

以前、鬱に効く映画として『シネマ・セラピー』を紹介したことがある。だが、これは、気分が落ち込んだときにお薦めの作品であって、鬱病ではない。

実際に鬱病になったら、薬を飲んで横になるだけで、何かを能動的にしようという気力は全く出てこないに違いない。もちろん、映画を観ることすらできない。

映画を見る元気がある状態で、自分に降りかかる悲劇への振る舞いをシミュレートすることで、わたしは、家族も含め、現代を生きる適応度を高めているのかもしれない。




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