読むことで完璧になるメタフィクション―――フエンテス『アウラ』とカサーレス『モレルの発明』

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多くの作家は、見切ったと思っても手元に残すものはある。フエンテスは見切ったけれど、彼の『アウラ』はすばらしい作品だ。彼は自分が知的に細部まで構築できる短編や中編ではものすごい力を見せる。
山形浩生『翻訳者の全技術』より

この人をしてここまで言わせしめるのは、相当なものなんだろうと手を出したら、確かにもの凄い作品だった。どれくらい凄いかというと、斬られたことに気づかないまま、倒される感覚だ。

「君は広告に目を止める。こんないい話はめったにあるもんじゃない」―――から始まる『アウラ』は、ぬるっと読ませるくせに、斬れ味するどい達人の技にやられた。

カルロス・フエンテス『アウラ』は、わずか50ページ程度の短編に、私を強烈に惹きつける異様な魅力を放っている。その最大の特徴は、全編が二人称現在形で語られていることにある。

言い換えるなら、読者自身が主人公となり、「君は手を差し出す」「君は彼女の目をみつめる」と語られていく構造になっている。この語り口が不穏な没入感を生み、読み手の現実感覚を揺らし始める。

物語は、古風な屋敷に住む老婦人の依頼で、回想録の整理にやってきた青年が、アウラという女性に出会い、不可思議な出来事に巻き込まれていく……という筋書きだ。幻想文学でありながら、構造やテーマは極めて精緻で、時間と記憶、そして欲望が絡み合っている。

卑怯とも言えるのは、「君」という書きっぷりでありながら、情報がコントロールされている点だ。老婦人に紹介され、アウラを見つめるのだが、アウラはきちんと描写されない。

「君=読者」なんだから、目の前にいて言葉を交わす人を「見て」いるはずだ。なのに、アウラがどんな顔立ちで、どういう姿かたちなのか描かれない。「ふくれあがる海のような目」とか「緑色の服を着た君の美しいアウラ」といった、曖昧な言い回しになる。

それでも、「君=主人公」の反応からしてアウラは若い女性であることは分かる。アウラを美しいと思い、欲しいとさえ願う。アウラもまんざらでもない様子だ。

時折はさまれる未来形に疑問を感じつつも、短編だからあっという間に読み終わる。宙吊り状態から降ろされ、物語の中で用意された答えを受け取りはするけれど、達人に斬られたことに気づくためには、すこし時間が必要だ。

そして、「これは読むことで完成する小説だ」と思い至る必要がある。これに近い感覚だと、アドルフォ・ビオイ=カサーレス『モレルの発明』だろうか(私のレビューは [ここ] )。

絶海の孤島に辿り着いた《私》は、無人島のはずのこの島で、一団の奇妙な男女に出会う。《私》はフォスティーヌと呼ばれる若い女に魅かれるが、彼女は《私》に不思議な無関心を示し、《私》を完全に無視する。やがて《私》は彼らのリーダー、モレルの発明した機械の秘密を……

『モレルの発明』は、普通に読むと、SF冒険小説になる。絶海の孤島で秘密裏に行われた実験といえば、H.G.ウェルズ『モロー博士の島』が有名だが、そのオマージュとなる。

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だが、『モレル』の方は、読者がこれを読み進める行為を経て、初めて完成するという多重構造を持っている。名前を持たない《私》の一人称の、二重の語り/騙りによって仕掛けられた奇妙な傑作だ。

『モレル』が発表されたのが1940年で、『アウラ』が世に出たのは1962年だ。『モレル』は《私》の一人称で、『アウラ』は「君」の二人称によって語られ/騙られる。

特筆すべきは、どちらも読者が物語をメタフィクションとして読むことで、物語の中の願望が完遂される構造だ。単なるプロットではなく、「読む」という行為そのものが《私》と「君」の運命を変える装置になっている。

そのくせ、「ようこそこちら側へ」なんてベタな展開は用意していない(『MYST』というアドベンチャーゲームは、まさにそんなラストだった)。もちろん、『モレル』『アウラ』は、普通の小説としても読める。メタフィクションとして扱うかも含め、読み手に委ねられている。

そこまで考えが至って、ようやく、私は『アウラ』に完全に魅了されていることに気づく。そしてこれ、『モレル』と同じように、くり返し読まされることになるんだろうな……と、ぼんやり覚悟する。

フエンテスのポリフォニックな語りは『老いぼれグリンゴ』でお腹いっぱいになったけれど(レビューは [ここ] )、こんなに斬れ味鋭い傑作があったなんて! 山形浩生さんに感謝。



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映像美に酔うか、読む悦びに徹するか―――映画『イングリッシュ・ペイシェント』と原作『イギリス人の患者』のあいだ

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映画『イングリッシュ・ペイシェント』を観た。長年の思い込みを改めることになった。

実はこれ、公開時にも観たので、28年ぶりに再会したことになる。

当時は、原作『イギリス人の患者』を読んだばかり。記憶と感情がもつれあうような感覚が印象的だった。アカデミー賞やゴールデングローブ賞を総ナメした前評判は上々で、間違いなかろうという判断の下、お付き合いしていた女の子を誘ってゴールデンウイークに観に行ったのが運の尽きだった。

ストーリーは大幅に改変(?)というよりも、背景だけ拝借しただけで、原作とはまるで違う装いだった。人生を破壊された4人の生き様を重ね合わせた原作とは異なり、主人公の愛と喪失だけに焦点を絞ったラブストーリーになっていた。

登場人物の設定も別物で、メインキャラの関係性を捻じ曲げ、まるで別の役割を与えたため、キャラの行動原理がペラペラになっていた。特に、私のお気に入りのインド人の工兵がモブみたいになっていたのが残念だった。

映像美はさすがに素晴らしかったものの、映画音楽が煩わしく、「ほら、ここが感動する場面ですよ」と言わんばかりに弦楽器を奏でるのが耳障りだった。

そんなわけで、映画館から出る頃にはすっかり不機嫌になっていた。酷評する私の横を歩いていた彼女の感想は「可もなく不可もなく?」と当り障りのないもので、さんざんなデートだったことを覚えている。

昨年、原作を再読し、昨日、映画を改めて観たのだが、この2つは別の世界線の物語だと思う方が、より堪能できることが分かった。

『イギリス人の患者』の読みどころ

まず原作の『イギリス人の患者』。

著者のマイケル・オンダーチェは詩人でもあり、比喩や象徴に満ちた文章となっている。さらに、エピソードは直線的ではなく、断片的な記憶やトラウマに沿って行ったり来たりしながら浮かび上がっていく形式のため、「何が起きたのか」を読み手が解きほぐすしかない。

普通の小説とは一線を画し、「誰が何をしているのか」は、読み進めないと分かるような仕掛けにしている。これ、一歩間違えると「分からない」と投げ出す読者が続出するだろう。だが、タイトルにもなっている「イギリス人の患者」とは誰なのか? という謎が、読み手の心を掴んで離さない。

この謎に導かれて、彼とその周囲の人たちの記憶をまさぐり、想像し、確かめていくことで、読者自身が物語を編みなおすような読書体験ができる。読者は、登場人物の記憶の深いところで重なっているため、その心情の揺れがダイレクトにシンクロする。

ここが、この小説を唯一無二にしている点だ(感想は [ここ] )。

『イングリッシュ・ペイシェント』の見どころ

次に映画化された『イングリッシュ・ペイシェント』。

監督のアンソニー・ミンゲラは、構図や光の使い方が叙情的で、風景が感情を語るような作風だ。『イングリッシュ・ペイシェント』では廃墟や砂漠を、『コールドマウンテン』では雪景色と南部の風土を、絵画のように映し出す。

なので、とにかく絵がきれいだ。カメラワークや色彩設計をはじめ、俳優の演技や音楽ですら、「あれは美しい物語だった」というインパクトを観客に与えるという一点に集中している。

そのため、物語の時間軸は整理され、映画のストーリーの流れが明確になっている。ラブロマンスだけを中心に据え、他のものはカットして、単線的に映像美を目指している。そこにミステリー的な要素はなく、原作の謎である「イギリス人の患者とは誰なのか?」は、パッケージに描かれている。

王道のラブストーリーを、ひたすら美しく哀しく描いたのがこれだ。「小説とは別物」という姿勢で、もう一度観たら、きちんと胸を揺さぶられた。

観てから読むか、読んでから観るか

小説と映画、どっちが先かと言うならば、『イングリッシュ・ペイシェント』が先になる。

一般に、映画は感情の直接的な共鳴を求めるメディアだ。そのため、詩的で抽象的な小説の語りは、そのままでは伝わりづらい。観る人に訴える力を最大化するために、様々なエピソードを削ぎ落し、設定を変えている。それでもいい、まずは直接的に感動してほしい。

その上で小説を読むと、登場人物が霧に包まれたように「見えなく」なるだろう。それぞれのモノローグを通じて、各人の行動原理を改めて探し出すことを、煩わしく感じるかもしれない。でもそれこそが、記憶を手繰るという小説の悦びにつながる。

映画は、「何を失ったか」を美しく描くことで、観る人の心に直接届くように仕立てられている。小説は、「失ったものをどう記憶するか」を多層的に描くことで、読む人の心を深く沈めるように書かれている。

28年ぶりに観て(読んで)ようやく腑に落ちた。『イギリス人の患者』と『イングリッシュ・ペイシェント』は、同じ素材からまったく異なる物語が紡がれた、いわば”別の世界線”の作品なのだ。

などと感動している私の隣にいる嫁様の感想は、「可もなく不可もなく!」だったと申し添えておく。

なお、『イングリッシュ・ペイシェント(吹替版)』はアマゾンプライムで観ることができる。



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耐久性のある漫画の作り方『マンガの原理』

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何度も読み返す漫画がある。

例えば、こうの史代『長い道』と森薫『乙嫁語り』がそれ。筋もオチも味わい尽くしているのに、気づくと読み返して、噛みしめる度に良さを感じている(読んでる時間が好きなのだ)。こういう「しみじみと好き」な漫画は、インパクト重視のキャラは出てこないし、ド派手な演出は少ない。

では、地味(?)だけど滋味があり、何度も噛みしめたくなるような作品は、どう違うのか?

『マンガの原理』(大場渉、森薫、入江亜季)によると、耐久性を重視した作品だという。読み捨てられるような作品ではなく、心に残り続けるためには、どのようなセオリーがあるか。漫画を読む体験を心地よく感じてもらうには、どんな技法があり、それは具体的にどの作品のどこに反映されているか。

漫画は技術

こうし原理原則を、4つの章と68の技法に分解して紹介している。

 1. コマ割りと視線誘導の原理
 2. 絵の原理
 3. フキダシとセリフの原理
 4. キャラ・ネタ・ストーリーの原理

本書は「漫画は技術だ」と言い切る。「センス」というふわっとした表現ではなく、技術だから言語化できるし、努力によって身に着けることもできる。「漫画のセンスがいい」とはどういう技術に裏打ちされたものかが説明されている。

技法と適用例により、「何がマンガを面白くさせているのか」という根本的なところが見えてくる。私が無意識のうちに「好き」とか「楽しい」と感じていたことが、どういう技術によって支えられていたのかが、言葉と例(実際の漫画の引用)で見える。

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マンガを描く人にとってのバイブル本としては、『マンガの創り方』がある。こちらは「今のネタを面白いネームに落とし込む方法」に特化したものになる。『マンガの原理』は、これに加えて、具体的な視線誘導やセリフ回し、キャラの立て方など、ネームの先まで指南してくれる。

例えば、視線誘導の原理。

「何かある」と読者に予見させ→それをキめるコマを配置する「フリとウケ」や、右ページ左下から、左ページ右上のコマへ視線を「跳ね上げる」技術、次のページをめくらせるために読み手の意識を途切れさせない方法など、読者を最後のページまで連れていくための、様々な視線誘導の技法が紹介されている。

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『マンガの原理』p.33より

こうしたテクニックに共通しているのは、「読むコストを下げる」だろう。スムーズに読んでもらい、読み手の期待を上げて受け止め、目を留めてほしいコマを凝視してもらう―――これらの技法は全て、より少ない読者のコスト(=集中力や意識)でもって、ストレスなく物語に没入してもらうためにある。

ジャンプの漫画講義録(松井優征)で、「防御力をつければ勝率も上がる」という記事があるが、あれの実践編といっていい。

種明かしされても読みたくなる

一番驚いたのが、『乙嫁語り』の解説だ。

何度も読み返していたまさにそのシーンが俎上に上がっており、「なぜこのように描かれているのか」が徹底的に説明されている。作品を解剖することで種明かしをしてしまうと、面白さは半減しそうかと思いきや、むしろ逆で、舐めるように味読した。

例えば、「見せ場では絵とセリフは別のコマに」という技術がある。大事なセリフを言わせる時のコマは、「セリフを印象的に見せるための構図」で描かれるべきだという。さらに、そのセリフの結果としての表情やリアクションは、「表情やリアクションを見せるのに最適な構図」で描けとアドバイスする。

その例として『乙嫁語り』の第66話「馬を見に」のシーンが紹介されている(以下に引用する)。12歳で結婚し、大人の男になり切れず、自信を失っている少年カルククに、妻のアミルがまっすぐな思いを伝えるところだ。

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乙嫁語り 10巻より

アミルの「私が好きなのはカルククさんです」というセリフは、まっすぐ目を見ている構図で描かれているし、「信じられませんか?」のリアクションは、セリフ無しの3コマを使って(しかも「跳ね上げ」の箇所で)、描かれる。

まさにセオリー通りなのだが、本当に重要なシーンは、この次の見開きページになる。

『乙嫁語り』の10巻では、第62~65話を使って、「強い男になるために努力するけれど、まだ成長途中のカルクク」が描かれる。大人でない、男らしくないと感じている様子が、彼の言葉や態度の端々で4話かけて伝わってくる。それを跳ね飛ばし、ストレートに好きだと伝えるアミルの思いと、それを受け止めるカルククの感情が一気に広がるのが、この次の見開きなのだ。

にもかかわらず、この次の見開きのページは、『マンガの原理』では引用されていない。ずりぃwwwとは思いながらも、本書を読む人は当然『乙嫁語り』も読んでるだろうし、この次のシーンも、もう一度読むでしょ(ニッコリ)という、編集者の目くばせなのかもしれぬ。

ワンピースのネームは手抜き?

「なるほど!」と思う一方で、「ホント?」と半信半疑になる技法もある。

例えば、1段分を1コマにする「ヨコ1コマは原則禁止」のルール。これは、作者がラクできる一方で、コマ割りの技術が身につかなくなるからダメだという。あるいは、「変形ゴマは必要なし」という指摘。変形ゴマとは台形だったり斜めのコマで、映画の中でレンズが見えてしまうようなメタ表現による雑味が出てしまうという。他にも「汗と照れ線はNG」といったルールがあるが、その真偽はともかく、作者の持ち味だったりするので、一概にNGでは無いような気がする。

さらに、私では判別つかなかったのが、『ONE PIECE』のネームについて。

毎週一定のページを描かねばならない週刊誌での連載は過酷です。『ONE PIECE』(尾田栄一郎)みたいにちゃんとコマを割る方が正しいし人気が出ると分かっていても、ネームがずるずる遅れる担当作家に対して「このままだと原稿が落ちちゃいそうだから、今回は大ゴマを多くして、少ないコマ数で締め切りに間に合わせよう」と言ってしまう編集者はたしかに存在します。

これ、オブラート(?)に包みつつ、言ってることは「ONE PIECEは大ゴマが多くて少ないコマ数で間に合わせている」ということなのだろうか。

私自身、ほとんど『ONE PIECE』を読んでいないので、是か否か分からないが、その後の指摘で「清書が間に合わないのは目立つが、ネームで手を抜くのはバレにくい」「ヨコ1コマばっかり並ぶ、単調な漫画ができあがる」と述べている。

GPT御大に調べてもらったところ、「(アラバスタ編と比較して)1話あたりの情報量が低下し、コマ割りや構成の不自然さが目立つ」という否定的な意見と、「(ある意味斬新な)演出上の工夫であり、手抜きではない」という意見と両方あるという。この辺、マンガを沢山読んでいる人の意見を伺いたいものだ。

激しく同意するコメントもあるし、気づかなかった指摘もある。その一方で、ちょっとヘンかも?と感じる主張もある。本書への意見が賛否両論なのも分かる。

でもこれって、それだけマンガが多様な証拠なのではないだろうか。

もし「マンガの原理」なるものが統一的で画一的であるならば、誰もがそれを学んでマネした結果、単調で画一的な作品だらけになるだろう。でもそうではなく、「原理」とはいえど、あるジャンルや特定の条件で発動するルールであるならば、例外も起きうるのだから。

こんな感じで、頷いたり反発したりする、忙しい読書と相成った。マンガを描く人・創る人向けのバイブル本だが、読む人にも発見がある、マンガライフを充実させる一冊。

 

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手放してもいい。けれど、忘れたくない物語 こうの史代『空色心経』

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ほんとうに苦しいとき、指一本すら動かせない。起き上がることはもちろん、眠ることすらかなわず、「早く終わりにしたい」という気持ちで一杯になる。

そういうときに、寄り添ってくれる本がある。

もちろん、辛いときは本なんか読めない。それでも、「あそこにあれがある」と思える本、読まずとも握りしめられる、お守りのような一冊がある。私にとってのお守りとなる本は、クシュナー『なぜ私だけが苦しむのか』と頭木弘樹『絶望名言』だ。

これに、本書を追加したい。予感として、ほんとうに辛い日が来ることは分かっている。こんな日々が続くわけがない。出会ったならば別れがあるし、存在するなら(それが何であれ)失われる日が来るだろう。

そのときに、この人のお話を思い出したい。

舞台は現代日本、新型感染症による不安が充満する、少し前の日々を描いたものだ。主人公は麻木あい、スーパーで働きながら、「ワクチンは毒」とする夫とのすれ違いに苦しんでいた。

一方、遥か昔のインド、観自在菩薩が釈迦が独話と対話を重ねる。「在る」とは何か、なぜ私たちは悩むのか、この苦しみから抜け出すには?―――意図してやっているのか、中性的に描いている。

麻木あいは黒色の線で描き、観自在菩薩は青色の線で描かれている。時空を隔てた二つの世界を、代わる代わる二つの色で描く様子は、まるでエンデの『はてしない物語』のギミックのようで面白い。

そしてこの仕掛けは、黒で描かれる麻木あいの苦悩の一つひとつに、青色の文字で答えが示されていることで発動する。もちろん彼女は、青色は見えない。夫婦生活を続けていく上での未練や、「こうすればよかった」といった後悔なんてものは、一切空の立場からすると、実体を持たない。

「苦しい」とか「悲しい」といった感情は、(そもそも存在しない)体や心に執着するから生じるものであって、全てが空っぽであることに気づけば、消滅するはず。そんな千年以上も前の「答え」が青色で重なる。

でも、苦しい思いは確かにある。これを否定しないでほしい。

この「悲しい」と感じる心は確かに存在する。なぜなら、物理的な痛みや、胸が潰されるような感覚があるから。般若心経だろうが何だろうが、この苦しみを無かったことにはできない。そういう思いも含めて青色の線とフキダシですくい上げる。

一切空は、痛苦を否定しているわけではない。「空」は実体がないことを言っているだけであり、「痛い」「苦しい」という意味はちゃんとあるのだから。その痛みや苦しみは、そう感じる私から生じている。

ちょっと面白いなと思ったのは、ギリシャの哲人・エピクテトスと呼応するところ。

自分が死ぬことを恐れている青年に、エピクテトスが告げた言葉だ(『語録』のどこかにあるはずだが、発掘できなかった)。

死は何ら恐ろしいものではない。
むしろ死は恐ろしいという死についての考え、
それが恐ろしいものなのだ。

私は、自分が死ぬとか、大切な人との別れ、病気や事故を恐れる。だけど、私を苦しめるのは、死とか別れとか病気そのものよりも、それに対する思いのほうなのだ。もちろん、「死」という出来事そのものがもたらす苦痛はあるだろう。だけど、それよりも「死んだらどうしよう」などと思い悩む私の感情や判断こそが、私を苦しめるのだ。

これ、言い方を変えるならば、死に対する私の思い悩みから離れることができるならば、たとえ死が訪れたとしても、淡々と死んでいけるだろう。外的な出来事はいかんともしがたい。だが、それへの反応や解釈を見直すことで、それに振り回されずに済む。

この考え方は、知識としては知っている。二ーバーの祈りとか、イチローのコントロールの話とか、耳にしたことがあるかもしれない(変えられないものをスルーして、変えられるものだけに集中する技術)。

しかし、ギリシャの哲人や仏教の教えでも、私たちのリアルな悩みは容易に解決しない。不安をやり過ごす最適解だと知ってはいても、どうやってそれが自分の身に起きるのかが分からない。

それを、物語の演出として上手いこと忍び込ませている。読者は、「麻木あい」という一人の女性の身に起きた出来事に立ち会うことで、こうしたリアルな不安とどのように向き合うのかを知ることができる―――そういう作品なのだ。

黒い線で描かれた世界に交じる青い線に、いつ、彼女は気づくだろう? 苦しみの世界のすぐそばにある青い線に触れさえすれば、その悩みを正しく見つめ直すことができるはずなのに……そういう、もどかしい思いを抱えながら、読み進めるうちに、般若心経の考え方がストンと腑に落ちる。ああ、彼女は私なんだと、未来の私なんだと気づく。

そして、分かってしまえば、なんのことはない。もうこの本を所有していることすらいらない。

次に、私が苦悩するとき―――ひょっとしてそれは、彼女の苦悩かもしれない―――でもそんな時は、この物語を思い出しさえすればいいのだから。モノとしての本は不要で、だれか必要とする人に差し上げてしまってもいい。

手放してもいい、けれど、忘れたくない一冊。



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見切る読書で積読を解毒する『翻訳者の全技術』

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何十年も向き合ってきて、今でも何度も読み直す本がある。辛いとき・キツいとき「あの棚にあの本がある」と思い浮かべるだけで励みになる本がある。もし出会わなかったら、今の私は無かったと断言できる本がある。ガチガチの価値観を更新し、アンパンマンの頭のように「私」を取り換えてしまった本がある。

おそらく数十冊、多くても百冊ぐらいの、そんな本を、エッセンシャルブックと呼んでいる。沢山の本をとっかえひっかえ読んだり、新刊本をブックハンティングするのは、そんな本と出会うためだと思ってきた。

だが、そろそろ振り返って、積読山と向き合わねばならぬ。

理由は2つある。

ひとつは、量こそ遥かに多いけど、クズみたいな本が大量にある書店よりは、年月をかけて賽の河原のように積んできた山の方が、「あたり」を引く確率が高いこと。

もう一つは、残りの人生ぜんぶ費やしても、この山を読みつくせないことは明白であるばかりか、この山から選んだ「あたり」を読む時間すら残されていないから。

とはいえ、本を読むスピードと、本を買う+借りるスピードは、比ぶべくもない。積読は山ならぬ山脈を成し、家のあちこちで繁殖する。仕方がないのだとあきらめるか、自虐的になるか、それでもあがく。

そんな時に、山形浩生『翻訳者の全技術』を手にした。これは、翻訳に限らず、山形浩生の読書論であり人生論であり「知との向き合い方」を語った本だ。

読書家の悩み「積読」

で、山形に言わせると、積読は、本に対する裏切りだという。どこかの誰かに読まれるだろうという期待を込めて作られた本を読まずに積むのは、期待を踏みにじる行為だという。死蔵された本は文字通り死んでいる。

痛い。ド正論で、めちゃくちゃ痛い。

でも、そういう自分はどうなん?と思う。

彼は、ピケティ『21世紀の資本』をはじめ、様々な領域で大量の本を翻訳してきた。Linuxのようなオープンソースの古典『伽藍とバザール』、囚人実験の先駆け『服従の心理』、Netflixでドラマになってる『エレクトリック・ステイト』などを翻訳している。めちゃくちゃ引き出しがある人で、真の教養人といえる(彼の紹介する本や解説には、めちゃくちゃお世話になった)。

彼の本棚の写真を見たことがあるが、とにかくデカくて横幅のあるやつだった(もちろんそれだけじゃないだろう)。

だから、その正論は諸刃の剣ともいえる。自分も積読に悩まされるんじゃないの?

正解だった。

彼は白状する、本棚の前を通るたびに「すみませんすみません」と罪悪感に囚われていたという(ここ笑った)。積読とはそういう後ろめたいものであり、借金の督促状みたいなものだという。

この先は、twitterでやってる半分自虐、半分自慢みたいな積読話になるかと思った。あるいは、『積読の本』に登場する12人の積読家のように開き直るのだろうかと半ば期待した。

しかし山形は、正論パンチを続ける。

20代、30代ならご愛敬だが、「いつか読む」という可能性は、先送りすればするほど失われる。「読まない本にこそ価値がある」などと言ってみせるのは倒錯であり、放置すればするほど精神は淀み、知は腐敗するという。

積読について開き直ったりやせ我慢をしたり、何かしらポジティブな主張するのが流行っている。そうしたエクスキューズを一つひとつ抽出し、丹念に潰してゆく。言い訳を先回りして塞ぎ、弁解や逃げ口上をつるし上げる。

以下なんて、完全なホラーだ。心拍バクバク、血圧マシマシ、冷や汗タラタラしながら読んだ。

そうした無価値の山と化した積ん読を放置しているのは、その人の怠慢であり、未練でしかない。そしてそれを「読まなくったっていいんだ」とうそぶくのはごまかしであり、自分が目を向けられずにいる己の失敗やまちがい、自分のかつての浅はかさ、そして何より、自分の怠慢と先送り。やると言ってやらなかった数々の小さな積み重ね。果たせなかった約束の数々。できもしないことを、できる、やると大見得切ってしまった恥ずかしさ。もう読むことはないと自分でもわかっている積ん読には、そのすべてが淀んでいる。 そうした無数の無責任、不義理。かつてのプライド。

しかし、なんだか様子がおかしい。

この本は、インタビュアーを相手に放談会を行ったもののまとめだ。そのため、話が突然スライドしたり深みにハマったりしている。だが、この積読の箇所だけは妙に腰を据えて神妙に語っている。

おそらく、これは彼の体験であり、反省であり、告白なんだろう。

本を読む人なら誰だって、言われなくても分かっている。それをあえてド正論で追い詰めても仕方ないことは分かっている。だから、これは、かつての自分に向けた正論パンチなんだろう。

積読を解毒する

では、そんな山形が、どのように積読山を崩していったのか。

読まない本とは、かつて自分が自分にした約束の不履行だ。他の誰にも任せられない後ろめたさは、時間が経つほど毒を持つ。

私の場合、「『あとで読む』は、後で読まない」と肝に銘じ、一頁でも一行でも「読んだ」ことにしている。

本当は、そんなことをしても読んだことにならず、単に自分をごまかしていることは百も承知だ。それでも、莫大なお金と時間を費やして集めてしまった山を前にして、正気を保つために必要な儀式だと思っている。

彼の場合、一冊ずつ取り組んでいったという。「これはすごい本に違いない」というハードルを、手元の一冊を読むことで下げる。相手の手のうちを見抜きながら、その著者や分野への期待効用を下げていく読み方だ。

本書で自身が述べているが、山形浩生は頭がいい。

この「頭がいい」とは、対象の本質をすばやく理解し、自分の言葉で説明できるという意味だ。「結局何が言いたいの?」という問いを常に発している人だ。

もちろん「結局何が言いたいの?」というスタンスは誰だって持っているだろう。だが彼の場合、これを徹底している。本を読むとき、頭(テーマ)と尻(結論)を先に読んで、あらましを捕まえる。推理小説でも末尾の種明かしから読むとのことだ(もったいなくない?)。

「結局何なの?」と突き詰めていくと、大したことを言っていないことに気づくという。トロツキーはスターリンの罵倒を繰り返しているだけだし、ピンチョンは思わせぶりなネタを並べるだけで無内容だし、フエンテスも反近代的な妄想をまぶしているものばかりだという。

すごいと思い、いつか読んでやろうと積んでいた本は、実はそんな大したことないことに気づく。自分で勝手に期待していたものに、自分で幻滅していく。「こんなものか」と気づいてしまう

これは、知的対象を神棚から引きずり下ろすような態度だ。山形の読書は、「崇高な対象への崇敬心」を丁寧に解体していくベイズ推定的なプロセスとも言える。

つまりこうだ。そもそも積読山に刺さっているということは、「これはすごいに違いない」とか期待したからそこにある(事前確率やね)。

でも、実際に本を読み進めていくと、それっぽいネタが並んでいるだけで整理もされていないし、前作と似たような展開だと気づいてしまう。

もし本当に「すごい本」なら、きっとこんな内容であるはずという期待との一致度(尤度)が乖離している……なので、「読んでみたけど、大したことないかも」という事後確率が更新されていく。

こんな風に、主観的に信じた仮説(=すごい本)を、実際の検証(=読書)によって体系的に修正していく。このやり方、多かれ少なかれ、誰もがやっていることだろう。だが彼の場合、それを徹底的にやる。本質をつかみ取る頭の良さを発揮して、「結局何なの?」を突き詰める。必要なら原著にあたり、自分が理解するために翻訳する(彼が翻訳してきた膨大な本は、もとはと言えば自分の理解のために始めたものが多いという)。

私なら「エラい人が誉めているけど俺に理解できないのは、俺が足りないから」と尻込みするところを、原著に当たった上で「そいつ自身が分かってないまま有難がってるだけじゃねーか」と切断する。

これだと、ガッツリ崩していくことができる。彼は10年かけて、「見切って」いったという。彼が若いころに影響を受けた橋本治と対談をした後、強く失望して、「見切る」ところなんてかなりキツかったと思う。

これ、すごく分かる。というか、分かりすぎて怖い。

例えば、私はコーマック・マッカーシーが好きだ。

『すべての美しい馬』なんて好きすぎて何回も読んでいる。おまけに英語を勉強しぃしぃ、あの難解な原文にも挑戦している。けれども、『すべての美しい馬』から始まる国境三部作も、『ブラッド・メリディアン』も『地と暴力の国(ノーカントリー・フォー・オールドマン)』も『チャイルド・オブ・ゴッド』も『ザ・ロード』も読んできた。

なので、だいたい手の内は分かる。モチーフを変えてもテーマは変わらない。読後感も想像できる。だから、最後の2作とされる『ステラ・マリス』『通り過ぎゆく者』は、積んだままだ。「こんなものか」と思いたくないから。

おそらく、積読山を本格的に崩すには、こうした自分でかけた呪い(幻想)を解呪していく覚悟が必要なんだろう。

でも、そんな「見切る」ような読み方をしていったら、どれもこれも「大したことない」になってしまうのでは?それは山を崩すには効率的かもしれないが、本を楽しむというより、本を読む自分を評価するような読書になってしまうのでは?

それでも、残るものはあるという。見切るとは「こいつはダメ」ということではなく、もうこれ以上読まなくてもいいということ。その作家なり分野の本質的な輝きを見せる本は手元に残しておく。フエンテスの『アウラ』やディレーニの『時は準宝石の螺旋のように』は保存してあるという。

おそらくそれが、彼にとっての、エッセンシャルブックなのかもしれぬ。

私の場合は何だろうか。それを見限ったら、私でなくなってしまう作品。マッカーシー『すべての美しい馬』やウィリアムズ『ストーナー』だろうか。開高健は全て隈なく読んだが、『オーパ!』だろうか。レイコフ、ベイトソン、ボルヘスは、新しく手を出すよりも再読したい(せねば)と考える。

何が残るかと「見切る」ことによって、積読を解毒していく。そういう読書が、必要なのかもしれぬ。

……とはいえ、彼が絶賛していたフエンテスの『アウラ』は手に入りそうなので、新たに積読山に入れるんだけどねw

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狂気で片づけるにはあまりにも人間的な物語『花びらとその他の不穏な物語』

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すべての人間はモンスターであり、
人間を美しくしているのは、
私たちのモンスター性、
他人の目から隠そうとしている部分なのです
(グアダルーペ・ネッテル)

この著者の言葉どおりの短編集。すごく好き。人間の不穏当な部分に光を当て、そこで育まれる狂気を静かに描き出す。人の持つモンスター性から、一切の暴力を削ぎ落すと、こんな人生になるのかしら?と考えると愉しい。

例えば、夜な夜なパリのトイレを探し回る男を描いた「花びら」。男が探しているのは、ある女性が残した痕跡だ。

並々ならぬ嗅覚へのこだわりがある男は、人目にさらされない唯一の場所に残された印(しるし)を匂いのかたちで思い出にしていた。白い便器についた一筋の液体に心身の不調を嗅ぎ取ったり、鴨のマンゴーソースといった料理がどのように「解釈」されたかを分析していた。

女性用トイレを探索するたび、新しい解釈を見出し、刺激的な発見に心をときめかせていたのだが、ある日、独特の香りと出会う。第一印象は控えめなものの、生命深部から湧き出る生々しさに虜になる。「フロール(花)」と名づけ、その痕跡の主を探そうとする。

見咎められるリスクを慎重に回避しつつ、毎晩毎晩、フロールを探し求める―――読者は、その異常性を目の当たりにしつつ、これは極めて自然に描かれるラブストーリーであると考えざるを得ない。

果たして男はフロールを見つけられるのか?出会った二人に何が起きるのか?

不穏な雰囲気のまま、読者はラストにたどり着く。これも一つの愛の物語なのだろうと自身を納得させるしかない。そんなストーリーが6つ、用意されている。「まぶた」の写真を撮り続けるうち、理想のまぶたを追い求める男や、男の私生活を、道一つ隔てた部屋から覗き見する女など、歪んだ、でもひたむきな執着心と向き合う。

なぜ、こんなに不安にさせられるのだろう?

すぐに気づくのは、「理由」がないことだ。

どの物語でも、誰が何を求めているのかが詳細に説明される。全てのストーリーは一人称で語られているため、隠されるものは無い―――にも関わらず、「なぜ」については、塗りつぶされたように現れてこない。

主人公の目を通して、読者は、物語の目撃者となるのだが、何が起きているのかクリアなのに、どうしてそうなったかは自分で考える他ない。もちろん「こいつは狂ってる」と一言で片づけることだってできる。でも、そんな風に考える人は、そもそもラストまでたどり着けないだろう。それほど、ひたむきで、執拗で、自然な想いなのだ。

小説好きなら、他の作家のオマージュのようなものを嗅ぎ取って、嬉しくなるかもしれない。

例えばこれ、「盆栽」の冒頭だ。

結婚して以来、ぼくは日曜日の午後、青山植物園を散歩する習慣があった。仕事を家事―――週末に家にいれば必然的に、妻のミドリにあれこれ用事を頼まれる―――から解放され、のんびり羽を伸ばすひとつの手段だ。ブランチをすますと、何か本を手に近所をぶらぶらし、新宿通りに出て東門から園内に入った。

名前のない「ぼく」が語り手で、感情を抑制させ、淡々とした日常から入るやり方、読みやすさと軽やかさを兼ね備えた翻訳調……と言えばあの人を思い浮かべる人も多いだろう。『ノルウェイの森』を読んだ人なら、「妻のミドリ」に反応するかもしれない。

これが村上春樹の小説なら、「ぼく」はこの後、謎めいた女と出会って深い仲になるのが定番だ。だが、「ぼく」は謎めいたお爺さんに出会うことになる(お爺さんの名前は「ムラカミ」だ)。ハルキ風味を醸しつつ、まるで違う未来へ連れていかれる(これが二重に愉しい)。

あるいは、ある男の生活をひたすら覗き見する女を描いた「ブラインド越しに」もそうだ。男を「あなた」と呼び、その行動を観察し、見えない部分は妄想し、反応する女の様子はエロスよりも執念じみたものを感じる。

なぜ女がそのような行動をするのか、理由は一切説明されない。一方、覗き見される男も不可解な行動をとるのだが、その理由は分からないままだ。

読んでるときは気づかなかったのだが、これ、ホーソーンの「ウェイクフィールド」のオマージュのように見える。

「ウェイクフィールド」とは、妻子ある身でありながら、ある日、「ちょっと出てくる」と家を出て、そのまま帰ってこなくなった男の名前だ。彼は、自分が家出した家の通りを挟んだ向かい側に部屋を借り、妻の暮らしを観察しながら、何年もひっそりと暮らす―――のだが、この男女を逆転すると、「ブラインド越しに」が成立するように見える。

「なぜ、そんなことをするのか?」が説明されない宙吊りの状態が続くと、読み手は、無理にでも理由を持ってこようとする。不穏さを楽しむにはちょうどいい。

作者は、「もともと人はそういうモンスター性を秘めた存在だ」という動機があり、それをどういうモチーフにすると面白いか?といった設計で、これらを書いているように見える。

そこで描かれる登場人物のモンスター性は、読み手が内に秘めたモンスター性とは異なっている。そのため読者は、自分の習癖(性癖・手癖・執着)に気づくことなく、安全な場所から読んでいられる。

安全に狂気を楽しめるものの、読み終えると、それは、狂気ですらないことに気づかされるかもしれない。

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脳は不確実性を最小化する推論エンジンだ『脳の本質』

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まず結論、脳の本質は「予測」になる。

脳とは、過去・現在・未来に生じる不確実性を最小化する推論エンジンというのが、本書の主旨だ。

私たちは、感覚データそのものを見たり感じたりすることはできない。知覚できるものは、知識(生成モデル)に基づき「予測」した世界になる。身体の外だけでなく、身体内部の環境を予測するため、感覚データと予測との間に生じる誤差(予測誤差)を最小化するサイクルが稼働している。

私たちはよく、「現在の状態から未来を推論する」というが、その現在ですらリアルタイムに把握しているわけではなく、過去の推論に拠るものだ。刻々と変化する環境において、脳は、ひたすら予測と後付け(予測の上書き)を続ける。「現在」とはそこにあるものではなく、私たち一人ひとりの脳により決定されたものなのだという。

ベースは、神経科学者カール・フリストンの「自由エネルギー原理(Free Energy Principle)」だ。脳の機能をベイズ的推論として捉え、生物の知能を統一的に説明することを目指している。

これまでの研究成果と、そこから生じる疑問をあまりに上手く説明してくれるので、手品のタネを見るような読書となった。

「見る」とは何か

「見る」という行為の説明が面白かった。

私たちが「見る」とき、カメラで撮影した画像を解析しているかのように「見て」いると思っていた。だが単純に画像データを分析して、線や面や光の当たり具合を判別して、そこに写っている対象を認知しているわけではなく、もっと複雑なことをしているようだ。

脳は直接外界を「見る」ことはできない。一方、網膜に写った映像から得られるものは感覚データだ。脳はこのデータを元に、外界の状態を知覚するのだが、ここにベイズ推論が行われている。

脳はあらかじめ「このような状況であれば、こういうものが見えるはず」という事前分布を持っていて、そこに感覚データが入ってくると、それに基づいて「今、何が見えているのか?」という事後分布を推定する。これはまさにベイズ推定の枠組みであり、脳は確率的な推論装置として働いているとも言える。

このとき脳は、「予測(=事前分布)」と「感覚入力」の差(予測誤差)をできるだけ小さくしようとする。この差異を最小にするように内部モデルを更新していく働きが、自由エネルギー理論における「自由エネルギー最小化」と呼ばれる原理である。

私たちが「見る」とき、見る対象といきなり対峙するのではなく、その場所や身体の向き、光源や視覚の状況から「こういうものが見えるはず」が分かっている。一方で、見る対象の一部が何かで覆われていたり、本来の色や形でないことがある。それでも見たものを認知することができる。

例えば、白熱電球に照らされると、白いものはオレンジ色がかっている。しかし私たちは、(オレンジ色に見えてても)白いものだと分かる。あたかもカメラのホワイトバランス調整がされたように認識できるのはなぜか。

それは、脳が「この照明のもとでは、白いものがオレンジがかって見える」という環境モデルをすでに持っているからである。そのため、網膜にオレンジ色の刺激が届いていても、脳は「これは白熱電球のせいだ」と判断し、“本来の色”として白を知覚する。

これは感覚入力をそのまま受け取っているのではなく、脳が状況を加味して予測誤差を修正している結果だ。この一連のプロセスは瞬時に行われるため、普通、私たちは意識の上にすら上ってこない。

優れたバッターは「未来」を打つ

バッティング経験が豊富な打者の例も面白かった。

打者の瞳に映ったボールが視覚野に入力されるまでに0.1秒かかる。さらに、脳からの信号によって筋肉が収縮するまでに0.1秒。つまり、打者が「見た」と思ってから実際に体が反応するまでに、合計0.2秒のタイムラグが存在する。

マウンドとバッターボックスの距離は18.44m。時速150km(=約41.7m/s)のストレートなら、およそ0.44秒でキャッチャーミットに到達する。

つまり、見てから判断して振るならば、わずか0.2秒ちょっとのあいだに、ストレートなのか変化球なのか、どんなコースに来るのか見極めなければならない。人間の処理能力としてはほとんど限界に近く、実際には「見てから判断する」だけでは間に合わない。

にもかかわらず、経験を積んだバッターは、ボールを「見て」いると言う。投手のモーション、肩や肘の角度、指先のリリースの仕方、ボールの初期回転など、わずかな情報を総動員して、球種や軌道を瞬時に「予測」している。いわば、打者の脳は、ほんの一瞬の映像から、未来のボールの位置を計算している。

加えて、打者の体は、運動を先取りするように準備を始めている。構えた状態からの体幹のひねり、バットの角度、手首の使い方、スイングの速度や加速度——それらを実現するための指令は、脳の運動野から発せられ、少し先の未来である「ミートの瞬間」を想定して、筋肉に伝わる。

このとき脳が目指しているのは、「未来の筋感覚」、つまりまだ来ていないはずの感覚を先取りして打ちにいくことだ。これが自己受容感覚(筋感覚)としての「予測」であり、打者の内部モデルがもたらす運動の設計図である。

一方で、打者の腕や体幹の筋肉から脊髄を通って脳へと送られる信号は、現在の身体の状態に関する情報だ。

現在の感覚信号と予測信号の差が予測誤差になる。これがゼロになるように、脊髄の運動ニューロンはリアルタイムで修正を加えながら、わずか数十ミリ秒先の未来に向けてスイングを完成させる。

バッターに限らず、私たちの脳は、身体を動かす前に、未来の筋感覚を予測した信号を発する。運動ニューロンは、筋肉の収縮度合いだけでなく、関節の曲がり具合や曲がる測度、加速度まで符号化している。

これは、実際に身体を動かさなくても、スイングしている人を見た場合や(ミラーニューロン)、自分でイメージする場合でも発せられるという。運動は期待の自己実現といわれるが、私たちは脳だけでなく、身体によっても認知を行っているのだ。

「怒り」の正体

推論エンジンとしての脳は、運動だけでなく、感情についても同じように説明できる。

「感情は伝染する」と言われるが、怒り狂う人を見ていると、こちらも不快な気分になり、怒りっぽくなる。また、呼吸や脈拍など、内臓の状態にも左右されることが多いという。

スタンリーとシンガーによる研究で、被験者にアドレナリンを投与する実験があった。あるグループには、投与される薬剤は血圧や心拍数を上げる作用があるという説明があり、別のグループには何の説明もなかった。

被験者の中にはサクラがいて、投与後の効果を測定する部屋で、わざと皆を怒らせるような言動をする。被験者は自分の感情や生理的興奮度を報告する……といった実験だ。

予想通り、薬剤の説明があったグループの人は冷静だった一方で、説明の無かったグループでは、サクラに振り回され、一緒に怒る人が多かったという。

心臓はドキドキするのだが、その理由が分かっているならば、怒りという感情に至らず、身体に生じていることの理由が不確実である場合は、感情に振り回される。

私たちが感情を言い表す際、「腸が煮えくり返る」「心臓をワシづかみにされる」「肝を冷やす」など、内臓を使う表現が多い。内臓と感情は結びつきがある証左ともいえる。

だが、脳からすれば、直接内臓を把握することができない。血圧や脈拍や感覚データから判断するしかないという点では、身体の外の認知と同様だ。脳は、身体に生じているデータ(内受容信号)から原因を推定しようとする。その予測の差が小さければ何も生じないが、差が大きく、不確実であるほどネガティブな感情―――例えば怒りが生じるというのだ。

実際には、不確実性が増した場合、そのときの感情価(快不快)と覚醒度によって、喜びや恐れ、怒りといった感情につながるという。

脳の推測が期待したものに添わないほど不確実性が増し、ネガティブになるという理屈は、私の感覚にも合う。また、これを逆手に取るならば、怒りが生じたとき(生じそうになったとき)、原因をできるだけ早く突き止めるだけで、怒りを治めることができるかもしれないという考えにも同意できる。

この怒りを観察するという姿勢は、仏教の「正見(しょうけん)」に通じるものがあって面白い([恐怖なしに生きる]に書いた)。

私たちは、絶えず変化する環境に対し、モデルを学習する。このモデルは現在を推論するだけでなく、未来を予測するためにもある。世界を探索し、適応的で予測可能な知識を用いることで、「こうしたらどうなる?」という疑問に答える能力を鍛えている。

予測誤差が生じた場合、モデルを書き換え、記憶し、知識を更新する。それは、過去・現在・未来に起こりうる、推測と現実の差を最小化することで、私たちの究極の目的―――生き延びる―――を実現するというのだ。



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「自分は大丈夫」という人に『だます技術』

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大学を卒業したてのころ、詐欺にひっかかった。

手口はこうだ。

まず、私宛に郵便が来る。

  • あなたの年金保険料に未納があり、受給できなくなる
  • 〇月✕日までに、未納分(4万円ぐらい)を振込め
  • 不明点は、XX-XXX-XXXX(担当者名)まで連絡すべし

宛先の住所氏名は合ってるし、ちょうど親から「4月から社会人なんだから、保険料は自分で払え」と言われたばかりだった。さらに、引っ越しの準備で切羽詰まっていたので、「早く振り込まないと給付資格が失われる」と焦って振り込んでしまった。

なぜ詐欺なのか分かったのかというと、ホンモノの督促状が来たから。引っ越しのドタバタで郵便物や振込控えは失われており、あきらめるしかなかった。

4万円の授業料は高くついたが、このおかげで、「自分はそんなものにひっかかるわけない」と思っていた人生から変わった。

つまり、私の人生には、「詐欺にひっかかる」という選択肢があると思うようになった。そのため、郵便物、メール、美味しい話、個人情報の入力、口座決済、明細や控えなどを、「騙されているかも?」という目でチェックするのが自然になった。

もし、あなたの人生において「詐欺にひっかかる」ことがあるならば、それはどのような選択肢になるのかを解説したのが『だます技術』だ。

  • AIで音声や顔を変えて有名な投資家になりすます
  • 「サッカーの代表試合をリアルタイムで見たいのに間に合わない人」を狙う
  • 期間限定・場所指定で「お得なチラシ」と思わせる
  • ワンタイムパスワードでも騙せるやり方

本書には、24の詐欺の手口が紹介されている。エッセンスだけ抜き出しているから、「こんなのに騙されるわけがない」と思うかもしれない。だが、リアルではもっと巧妙で複雑で、様々なテクを組み合わせて仕掛けてくる。

あるいは「騙されるほどカネ持ってないし」と思うかもしれない。だが、大金ではなく僅かな金額を少しずつ騙し取られていくこともある。「騙されている?」という目で見ないと分からないようにカモフラージュしてくる。

さらには、あなたではなく家族が狙われることがある。どんなにあなたが注意深く気を付けていても、家族から攻略されるなら、防ぎようがない。

そんな現実に、予防保全として本書が役に立つだろう。おそらく、本書で紹介される詐欺の手口はニュース等で知っていることが多いかもしれぬ。だが、騙される側がどのように考えているかは、発見があるはずだ。

生成AIやスマホアプリといった、現代的なものもあるが、基本的な詐欺の手口は変わらない。詐欺チームは、あなたの感情に訴えかけ、認知を歪ませ、判断を誤らせるプロフェッショナル集団だ。巻頭に折り込みがあって、24の詐欺の例が書かれている。キリトリ線で切り取って、家族の目につくところに貼るだけでも、魔除けになるかもしれぬ。

「詐欺にひっかかる」という選択肢が人生に現れたとき、「これ進研ゼミでやった」と言えるようになりたい。

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税とは略奪である『課税と脱税の経済史』

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税の本質は略奪だ。

こん棒を手にしてた昔よりは洗練されてはいるものの、「ある人から奪い、ない人からも奪う」という本質は変わらない。こん棒が別の呼び名になり、略奪システムが巧妙になっているだけ。本書の前半を読むと、様々な試行錯誤と権力闘争の元に、人類の英知を結集し進化してきたものが、現代の税制だということが分かる(不完全じゃんというツッコミ上等。それは人類が不完全である証左なり)。

一方、脱税は多角的な側面を持つ。

上に政策あれば下に対策あり。税回避は、国家の略奪への対抗手段ともいえる。あるいは、政府よりも最適な資源配分をするための経済合理性を追求する行為だ。あるいは、法の抜け穴やグレーゾーンを見出し、そこで資源を最大化する戦略的なゲームだ。本書の後半を読むと、貧民から富豪まで、創意工夫を尽くして進化してきたものが、税回避のいたちごっこであることが分かる(これは人類の歴史が続く限り続く)。

『課税と脱税の経済史』は、奪う側と奪われる側の双方の視点から、古今東西の歴史を振り返り、「なぜ我々は税金を納めるのか」「そもそも税とは何なのか」を炙り出す、いわば「税の世界史」ともいえる。

税逃れの爆笑エピソードから、強制力の行使による無慈悲で残酷な結末、人間の行動心理の裏を衝いたやり方など、豊富な事例を眺めていくうちに、私が囚われている税への偏見と刷り込みが、クリアになってゆく。そこでは、人類の最悪な部分と最善な部分の両方を垣間見ることができる。この知的興奮がたまらない。

源泉徴収制度の「自然さ」と「不自然さ」

税への見方が360度ひっくり返ったのが、源泉徴収だ。

会社が給料を支払う際、予め税金を差っ引いた額が振り込まれる。わたしが受け取る時には税金は徴収済みというわけだ。召し上げられた税金は、会社がまとめて国に納める。取られた税金は、年末調整で返ってくる。面倒くさい確定申告は会社がやってくれる―――そんな風に考えていた。

だが違う。

源泉徴収の起源は古く、ナポレオン戦争の時代まで遡る。もとは、住み込みの使用人の納税義務を主人が肩代わりする制度だった。「賃金を支払う」というプロセスの一環で行われ、使用人一人ひとりから徴税するよりも、効率的に集めることができる。

所得税なのだから、被雇用者である「わたし」に対して課税されるにも関わらず、実際に納付するのは雇用主である故、納税しているという感覚が薄い。こういう巧妙な仕組みを発明したのはどこかというと―――世界史のなかで最も悪徳を積み重ねてきた国とだけ言っておこう。

今では賃金だけでなく、金利や配当、株式売却によって得られるキャピタルゲインの課税にまでこの方式が用いられている。また、途上国では、スマホなどの輸入品にまで源泉課税の対象となっているという。

このように「自然に」納税しているシステムだが、本書を読みながら改めて考えるとヘンだ。こうある。

年末になると年間の税額が再計算され、源泉徴収された金額と照合される。源泉徴収されていた額が過多だった場合、納税者から政府に無利子貸し付けを行ったことと同じことになる。
(『課税と脱税の経済史』p.366より)

この「納税者から政府に無利子で貸し付けられた」という発想は無かった。

言われてみれば確かにそうだ。納税が遅れると、延滞税という形で利子が課される。これは、延滞利息のようなものだ。延滞利息は取るのに、還付金(わたしの給料の一部)の利子は付かないの?

年末調整で返ってくるのは、税金ではなく、わたしの給料だ(「還付金」という別名になっているので、勘違いしやすい)。「わーい、【税金が】返ってきた」と無邪気に喜んでいたが、政府に貸してた【わたしの給料が】返ってきたのだ。だから、利子の一つも貰いたいもの―――と発想が転換される。それほど長期間でもないし、微々たるものかもしれない。だが、会社全体、いや、法人全体からすると、結構な額になるだろう。

こういう風に考えられてしまうのは、政府にとってかなり都合が悪かろう。

源泉徴収制度は、戦費調達のために1803年のイギリスを皮切りに世界中に広まった。アメリカの源泉徴収制度の設計者の一人であるミルトン・フリードマンは、後に大いに後悔したという。

「反乱を引き起こすことなくここまでの増税が可能になったのは、政府が国民の金を、彼らが目にする前にとりあげているからだ」
(『課税と脱税の経済史』p.368より)

数百年かけて浸透し、当たり前のように運用され、この制度ありきで世の中が回っているため、いまさら異を唱える方が異常なのかもしれない。だが、本書を通じて知った源泉徴収制度に対する不自然な感覚は、忘れずにいたい。

経済学者もお手上げの税の帰着問題

税の帰着問題は、税の負担が、最終的に誰に行き着くのかを特定する問題だ。

課税が企業や市場や投資家や消費者にどのように影響を影響を与えるのかが見えにくいため、厄介な問題だという。

ん?簡単じゃん。

税は、ものごとや人に対して課税される。だから、その「対する」ものが、税の名前の由来となっている。名は体を表すというように、税金の名前を見れば一発でしょう―――と考えていた。

だが、わたしの考えは甘いようだ。

例えば、一般的な法人税について。「法人」に課税するのだから、株式会社だったら株主が最終的に負担する……のではない。

利益に対する法人税が引き上げられると、短期だと株価が下がって株主がワリを喰う。だが、長期で見ると利益水準が低下するから、投資先としての魅力が減る。株主や投資家は、より税負担の小さい分野の企業や、海外の投資先を代替するので、税負担は感じにくいという。

法人税課税を行なう国においては資本ストックが減ることになり、そのために労働生産性が下がり、やがて賃金率も下がる。いずれにせよ、法人税の負担を引き受けるのは富豪ではなく、彼らに雇用されている勤勉な労働者である。
(『課税と脱税の経済史』p.207より)

他にも、より税負担の小さい小規模法人へ企業体を変えたり、租税回避のために負債を増やして資本を調達するという手もあるという。借入金の利息は損金になるので、(税引き前の利益が減るので)税率が引き上げられたとしても影響を受けにくい。

もちろん、シナリオ通りに進むとは限らない。だが、「法人税の最終負担は株主」という図式は一面的であり、著者によると、「法人税の帰着は闇の中」だという。

税の名前が、最終的な負担者だという発想は安直すぎる。

最近だと、トランプ大統領による関税200%のニュースがあった(朝令暮改に終わったが)。特定の産業を保護する意図があったかもしれないが、税の帰着先を考慮せずに強行した場合、短期的には米国内の消費者への負担増や、(米国を含む)経済全体への悪影響が起きていただろう(そして、歴史に学ばないケーススタディとして、経済学の教科書がさらに厚くなっていただろう)。

法に触れない税回避(ただし大企業に限る)

節税ネタや脱税の話が満載だが、庶民レベルだと涙ぐましい話になる(そしてオチは残酷なものが多い)。一方、多国籍企業の有名どころがやっている税回避は、様々な法の目をかいくぐる、高度な知能ゲームのように見えてくる。

例えば米国のここ。

場所は、デラウエア州ウィルミントン市北オレンジ通り1209番地だ。なんの変哲もない建物が見える。だがここには、28万5,000もの企業が入居しているという。

デラウェア州は法人税率が低く、特に法人に対する税制優遇が充実しているため、税負担を軽減するために、ここに本社を置くことが多い。さらに、法人の設立手続きがネットで完結し、匿名性が保持され、連邦税法からも回避できるというメリットがある。

いわゆるタックス・ヘイブンなのだが、本書ではタックス・サンクチュアリと呼んでいる。ヘイブン(避難所)ではなくサンクチュアリ(聖域)という方が、ネーミングセンスがあるといえる。法人税を納める必要があるのなら、可能な限り低税率である場所で納めるほうが、結果的に安く済ませることができる。それだけでなく、連邦法や国際法の司直の手が届きにくいという意味でも、聖域なのだろう。

税回避の基本レシピはこうだ。

世界を見渡すと、税率の低い国と高い国がある。税率の低い国にある子会社Aで資金を調達して、税率が高い国にある子会社Bへ貸し付ける。

子会社Bは、貸付金の利息をAに支払う必要があるものの、利息は経費として計上できるし、税控除の対象となるため、法人税の負担を圧縮できる。

一方、子会社Aは、利息の収入が得られる。この収入には税が適用されるが、そもそも税率が低いため、企業グループ全体として節税ができるという仕組みだ。

移転価格操作と呼ばれるこの手法、さすがにあからさまなので、各国の税務当局にもバレバレだろう。だが、カネではなく、株式や出資などの所有権を提供したり(エクイティファイナンス)、特許や商標などのロイヤリティをやり取りにするといった形にすることで、ある程度の偽装は可能だ。

この手法で、イギリスのスターバックス社は、およそ30億ポンド(4,200億円)に対し、納めた法人税は860万ポンド(12億円)に留めていたという。商標のロイヤリティはオランダの関連会社に支払い、コーヒー豆や焙煎の代金をオランダやスイスの子会社に支払うことで、スターバックス本体は借金まみれにする―――2013年に明るみになったこの手法は、「限りなくグレー」と言われている。

こうしたサンクチュアリについて、ちょっと邪悪な発想を思いついた。

こんな狭い場所に「本社」が集中しているならば、放火や爆破といった「事故」を意図的に起こすことで、名目上は本社機能を停止させることが可能だ。

株は一時的に下がることは明白だから、下がった瞬間に買い、回復したら売ればいい。28万5,000もの企業に及ぶから、その差額は莫大なものになるだろう。実際に爆破しなくても、「爆破予告」だけでも効果が見込まれる(ジョン・グリシャムあたりが既に書いてそう)。

マルサの女

本書は、元IMF財政局次長マイケル・キーンと、公共政策を専門とする経済学教授ジョエル・スレムロッドの共著になる。

そのため、フィクションへの言及があまりなかった。史実の方が小説より奇なりだったのは、リアルの人は、「フツーこんなことはやらんやろ」という馬鹿なことをしでかすから。

なので、本書にフィクション作品を加えたい。史実や現実がこれほど馬鹿馬鹿しい&面白いのだから、脱税をテーマにした作品は、必然的に面白くなる(はず)。日本の税制にも詳しい著者たちにお薦めしたいのはこれ(ひょっとして観ているかもしれないが)。

脱税摘発の超プロフェッショナルであり、日本のタックス・ポリス―――国税局査察部―――人呼んで、彼らをマルサという。

マルサ(税務調査員)として働く女を主人公に、コメディと社会派を融合させた映画だ。脱税する人々をどうやって炙り出し、摘発まで持っていくかを緻密に、執拗に描いている。これ観てきた昭和のオッサンなら、脱税は割に合わないと身に沁みる一方で、旨い汁を啜っている人はカメラにすら写らないんだなーと学習していることだろう(私含む)。

あるいは、スコセッシ監督の『ウルフ・オブ・ウォールストリート』とか、ケビン・コスナー主演『アンタッチャブル』、トム・クルーズ主演『法律事務所』が浮かぶ。

本書は、経済史という体裁を取っているものの、そのサブタイトルに「【悪】知恵で学ぶ租税理論」がついてくる。これに脱税をテーマとしたフィクションをラインナップとして付ければ、『脱税大全』と銘打ってもいいだろう。

税とは略奪だ。やり方は変わっても本質は変わらない。奪われる者、抵抗する者、逃げる者、隠したりごまかしたりする者、『課税と脱税の経済史』には、人類の英知と不完全さ、そして馬鹿さ加減が詰まっている。

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古事記は音読すると面白い『口訳 古事記』(町田康)

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「音読」をテーマにしたオフ会でお薦めされたのがこれ。

日本最古の歴史書であり、神話と伝承の源泉である古事記。とっつきにくいイメージがあったが、河内弁でしゃべりまくったのが町田康の『口訳 古事記』になる。

町田康の文体って、リズム感があって、言葉に勢いがある。大量殺人事件「河内十人斬り」を一人称で描いた『告白』には独特のグルーヴ感があり、ハマると止められない中毒性の高い徹夜小説だった

だから彼の小説は、音読すると面白さマシマシになる。漫才のようなノリツッコミや、寄席のような口上は、声に出して読みたい物語なり。例えばこれ、日本最凶の問題児・スサノオノミコトがスーパーサイヤ人よろしく空を飛んでくるシーンだ。

なにしろ泣くだけで山の木が枯れ海が干上がるほどのパワーの持ち主がもの凄いスピードで昇っていくのだから、コップが落ちた、茶碗がこけたみたいで済む訳がなく、震度千の地震が揺すぶったみたいな感じになって、山も川もまるでアホがヘドバンしてるみたいに振動、国土全体が動揺してムチャクチャになった。

このことがすぐに天照大御神(アマテラスオオミカミ)のところに報告された。

「ご注進、ご注進」
「何事です、騒騒しい」
「えらいこってす、芦野原中国(アシハラノナカツクニ)が動揺してムチャクチャになってます」
「マジですか」
「マジです」

一つ一つの行動が災害級の大迷惑で、読んでる方が「どうすんだよこれ」と呆れていると、「マジですか」「マジです」とすっとぼけた会話でシメる(これ、狙ってやってるリフレインだな)。なお、カミサマの名前の読みはルビがふってあるので安心して音読できる。

声に出すのも憚られるような、糞尿・ゲロ・おっぱい・女陰・エログロ描写が丸だしで、ゲラゲラ笑いながら音読する。ギャグ漫画よりもマンガ的で、神話だから規制無しで、しかもカミサマだからなんでもあり。

ぶっ飛んだストーリーなのだが、さすが神話、どこかで聞いた話と繋がるのが面白い。

例えば、お供えのために、オオゲツヒメという女神が料理を任される。オオゲツヒメは、自分の鼻や口や尻穴からひり出したもので食事をこしらえるのだが、どう見ても鼻汁・ゲロ・糞尿なので、スサノオノミコトが激怒して殺してしまう。

すると不思議なことに、女神の屍骸から穀物が生えてくる。具体的には、眼から稲、女陰から麦、尻穴から大豆が生えてくるのだが、これ、インドネシアのハイヌウェレ神話と酷似している。

ハイヌウェレは尻から大便ではなく食べものをひり出す少女で、彼女を気味悪がった村人から殺されることになる。少女の死体からは多種多様なイモが生えてきて、その地域の主食となったという。

生命を生み出すのは女性。その死体から食べものが生えてくるという食物起源神話は、赤坂憲雄の『性食考』で知った。生きることと食べることの源を女に求めるのは、考えているよりも普遍性を持つのかもしれぬ。

Wikipedia[ハイヌウェレ型神話]より

XRF-Hainuwele

By Xavier Romero-Frias (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

また、女陰を見せつけて大騒ぎするシーンがある。天岩戸に隠れたアマテラスを呼び出す宴会の件だ。天宇受売命という女神が踊り狂ってトランス状態となる。

踊るうちに、玉やら鏡やら神聖な御幣やら、後は祝詞の力、天の香山の木や草の力やら、後は桶の律動的な拍子、踊りそのものなどが合わさって、天宇受売命(アマノウズメ)は神がかって、思考がなくなり神の力そのものとなって、のけぞって衣服の前を両手で左右に引っ張って乳を丸出しにし、それから、下半身に巻いた裳を結んだ紐を押し下げ、腰を前に突き出した。

その結果、女陰が丸出しになった。

その乳と女陰が丸出しになった状態で、首を振り、頭につけた蔓草を振り乱し、手に結んだ笹を振り回し、なお踊り狂った。

神々が集い、天地を揺るがすほどの大爆笑の騒ぎに、「なんだろう?」と気になるのは仕方ない。気になったアマテラスが岩戸を少し開けた後のお話はご存知の通り。問題はヴァギナ・ディスプレイになる。

女性器の世界史とも言えるブラックリッジの『ヴァギナ』で知ったのだが、古今東西、女陰には、魔物を祓い、幸運を呼び込むパワーがあると信じられていた。

ヨーロッパやアジアの神話において、女性がスカートをたくし上げることで、敵を威嚇したり、荒ぶる海を鎮めたり、戦争において士気を高めたという伝承が多々ある。クールベの『世界の起源』の通り、お釈迦様を除いた人類の源なのだから、そこに神秘性を見出すのは、普遍的なものなのかもしれぬ。

こんな風に、破茶滅茶で奇天烈なのだが、どこか懐かしさを覚えつつ読み上げる。アタマで読むのではなく、ボディで味わう感じ。詩のような歌のような呪文のような神々の名が、最終的には地名や言葉の由来となる。自らの正統性のエビデンスとするために編まれた物語が、これほどのエンタメになるなんて。

まさに音読するための一冊なり。

なお、ビジュアルで古事記を攻めたいという方には、こうの史代『ぼおるぺん古事記』をお薦め。ボールペンだけで書かれた絵物語とでもいうべき古事記。エロもグロもエッチなところも余さず丁寧に描かれているのがいい。

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