『プロジェクト・ヘイル・メアリー』好きにお薦め『太陽の簒奪者』

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面白い本に出会うコツは「これ面白いよ!オススメ!」と公言すること。すると、「それが面白いならコレなんてどう?」とオススメ返しされることがある。その面白さは高確率で「あたり」だ。

『太陽の簒奪者』なんてまさにそう。

野尻抱介『太陽の簒奪者』は、実は10年前に読んでいる。だから、ストーリーも展開もラストも全部知っている。

けれども、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を読んだ身で改めて読むと、めちゃくちゃ興奮した。もちろん展開は全く異なるんだけど、物語世界への没入感覚が酷似している。

西暦2006年11月9日、水星から何らかの質量あるものが噴き上げられていることが観測された。宇宙望遠鏡で観測したところ、噴出物は鉱物で、水星の赤道上から射出されていることが確認された。

水星には大気がない。従って地表から射出されれば、そのまま宇宙空間に広がっていくことになる。噴出は継続し、鉱物は幅数キロのリボン状を保ちつつ、太陽を中心とする半径4千万キロのリングが出現する。

リングはしだいに明瞭になり、地球上から観測できるようになる。

肉眼では絹糸のように見えるリングは軌道運動をしておらず、太陽に対して静止している。太陽に落下しないのは、ソーラーセルとして動いているのだという仮説が立てられる。

さらに、リングが成長していることが観測される。毎日50キロメートル、植物のように幅が拡張していることが確認される。

このままだと50年後には太陽を覆う「リングによる皆既日食」が始まり、年間日照の10%が奪われることが判明する―――タイトルが『太陽の簒奪者』という理由はここにある。

そして、50年を待たずして壊滅的な寒冷化が始まるという気象学者の予測に、人類は危機に陥りつつあることを自覚する……という入口だ。

  巨大なリングは、誰が、なぜ作ったのか。

  リングの成長を止める手立てはないのか。

  人類はどうなってしまうのか。

こうした疑問に対し、現代科学の技術の総力を注ぎ込むなら、何ができるのか? これを描いたのが前半だ(ここがヘイルメアリーしてる)。

だが、人類がやれることは驚くほど限られている。

例えば核兵器。あれは人間同士が殺し合うのには効率的でも、太陽系規模の脅威に対してだと、絶望的なまでに役に立たない。

だから、まずは現場に行って何が起きているのかを確認する他ない。宇宙船を作るのも飛ばすのも時間がかかる。

緊急事態だから、どうしても急ごしらえの船になる。限られた時間で、科学者を送り込み、かつ、現地調査しなければならない。現場は水星だから、太陽フレアやコロナ質量放出からの粒子が飛び交い、原子力エンジンからの放射線も脅威になる。さらには、機材の故障も考慮する必要が出てくる―――

この、「何を優先して何を犠牲にするか」と「冗長性をどうするか」についての沢山のアイデアと一つの決断が示されており、そこがリアルに感じた。

そして後半。ヘイルメアリーを読んだ方なら、「そうクるのか!」と別の意味で驚くだろう。もちろん全く違う展開だし、終わり方も異なる。でも、このテーマのSFにガチに取り組んでいる傑作だという点は請け合う。

『プロジェクト・ヘイル・メアリー』とは別の読み応え・違う興奮にうち震えるべし。



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徹夜したらもったいない長編小説『ザリガニの鳴くところ』

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イッキ読みした。物語はゆったりと進むのに、先を知りたくてページをめくってしまう。

この作品のテーマはここに集約されている。

ここには善悪の判断など無用だということを、カイアは知っていた。そこに悪意はなく、あるのはただ拍動する命だけなのだ。たとえ一部の者は犠牲になるとしても。生物学では、善と悪は基本的に同じであり、見る角度によって替わるものだと捉えられている。

生きること、ただ命をつないでいくことには善悪の区別などない。行為や結果について「善」や「悪」というレッテルを貼るのは人間の性であり、そこから自由であろうとすると、どういう人生になるかが物語られている。

「カイア」はこの物語の主人公だ。舞台は米国ノースカロライナ州の広大な湿地帯になる。親兄姉に見捨てられ、極貧の中、ただひとりで暮らす彼女は、貝を掘ったり魚を釣ったりして生き延びようとする。町の人々からはつまはじきにされる、貧困白人(ホワイトトラッシュ)なのだ。

一方、捨てる神あれば拾う神あり。わずかだが支えようとする人もいて、彼女が掘ってきた貝を買い取ったり、文字を教えようとする人もいる。そのおかげで暮らしが成り立ち、本を読む喜びを知り、生物学に興味を抱き、湿地の生態系をより深く知ろうとする。

「湿地の少女」と呼ばれるようになったカイアは、大人の女性へと美しく成長していくのだが、ある日、町の青年が死体で発見される―――湿地で。差別と偏見に満ちた目がカイアに注がれ、警察は証言と証拠を集めていくのだが……というのが大枠のストーリー。

古くはシンデレラの元ネタのロドピスで、ユゴー『レ・ミゼラブル』の少女コゼット、バーネット『秘密の花園』のメアリを思い出す。悲惨な状況にいる少女がさらに酷い目に遭いつつも、生まれ持つ何か縁として逃れ出で、幸せになろうとする―――その健気さに、分かってながらも絆されてしまう。

カイアの過去と事件が起きた現在を行ったり来たりしながら、次第に事実が明らかになっていくのだが、伏線と情報の出し方が上手い。

レイチェル・カーソンばりの自然描写の中、健気&したたかに生きる少女の成長譚としても面白いし、貧困と差別と不平等を描く社会派小説としても読める。恋の甘さと愛の苦味を知るラブロマンスとしてもいい。あるいは青年の死の謎を解き明かすミステリ&法廷モノにもなっている。

様々な物語要素を織り合わせながら、冒頭のテーマを問いかけてくる。善とか悪といった人間のレッテルから離れ、生き物たちが自然のままの姿で生きていける場所はあるのか、という問いだ。そこは、本書のタイトルでもある「ザリガニの鳴くところ」と呼ばれている。

ページを繰る手が止まらなくなる語りだが、その手をおさえつつ、味読してほしい(とってもおいしいから)。

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SFの世界を一冊で一望する『サイエンス・フィクション大全』

Sf

見てくれ! これがサイエンス・フィクションの家系図だ。

図の左上に、SFの祖先「Fear and Wonder(恐れと驚き)」がある。

アニミズムや神話・伝説・迷信の流れと、テクノロジーや実験・観察・啓蒙主義の流れが混交し、自然科学とユートピアとロマン主義を養分として、ゴシック小説の巨大な畑が出来上がっている。

ゴシック小説から、科学と技術と恐怖を組み合わせた最初のSF『フランケンシュタイン』が生み出され、ウェルズやハクスリー、ヴェルヌ、アシモフ、ブラッドベリ、ギヴソン、イーガンを始めとする大きな流れがある。これらを支えてきたのはダイムノヴェル(10セントで買える大衆小説)やペーパーバックによる文学と漫画のメディアだ。

映像メディアからは月世界旅行やメトロポリスを始めとして、トワイライトゾーン、スタートレック、スターウォーズ、エイリアン、マトリックス、E.T.を代表とした巨大な流れがある。映画に限らず、TVやゲーム、動画などの映像メディアは文学と共鳴しながら、サイバーパンクやハードSF、スペースオペラといったサブジャンルを生み出している。

さらにゴシックの源から、ホラーとSFが結びつき、ポーやラヴクラフトを経由して、アン・ライスやスティーブン・キングが待ち構えるモダンホラーに流入している。同様にファンタジーも、トールキンやルイスが世界を広げつつ、互いに共鳴しあい、一つのジャンルを作り上げている。

この一枚でSFの全てを語るのは無謀の極みだが、それでもこの挑戦は素晴らしい。見晴らしはかなり良くなるだろうから。

『サイエンス・フィクション大全』は、この画像のような試みだ。科学から刺激され、科学を刺激する Sense of Wonder が、文学や映像にどのように表現されてきたかをまとめている。

SFを道案内する5テーマ

このテの本を作ろうとすると、ぶ厚い無味乾燥なものになる。というのも編集者は、「あれがない」とか「これじゃない」といった批判を怖れるからだ。そして、網羅性やマニア受けを目指すと、とっつきにくい辞書になる。

だが本書は、そうした網羅性よりも、見て楽しく読んで深まるカタログのような事典を目指している。

鍵となるテーマは5つだ。

People and Machines(人間と機械)では、ロボットやフランケンシュタインを入口に、ヒトがどのように機械化していったか、さらにはSFが「現実の」サイボーグにどのような影響を与えていったかが解説される。SFと現実に引かれた境界線は錯覚でしかないことが分かってくる。

Travelling The Cosmos(宇宙の旅)では、スクリーン上のSF作品と、現実の映像を並べた紹介が面白い。スペースシャトル船内での軽装のエンジニアと、『エイリアン』の甲冑のような宇宙服の対比は、狙って並べているはずだ。一般相対性理論で導かれるワームホールの模式図の次に『カウボーイビバップ』を出してくるので、編者は”分かって”並べている(もちろんその次は『スタートレック』のエンタープライズ号なり)。

Communication and Language(コミュニケーションと言語)では、地球外生命との交流が、現実とSFでどう行われてきたかが対比されている。深宇宙探査機パイオニア号に搭載された銘板や、DNAの二重螺旋をM13星雲に送信したアレシポ・メッセージは現実の話だし、『未知との遭遇』の5つの音階や『2001年宇宙の旅』のモノリスは映画の話だ。

Aliens and Alienation(エイリアンと疎外感)は、ヨーロッパの帝国主義と地球を侵略するエイリアンを重ねた紹介が面白い。ウェルズ『宇宙戦争』を始め、『第9地区』『アバター』における征服・被征服の関係を、ポストコロニアリズムで読み解いている。フィクションの話なのに、現実に起きている人種差別の問題とシームレスにつながっている。

Anxieties and Hopes(不安と希望)では、核の時代におけるサイエンスフィクションの可能性を紹介する。広島に投下された原子爆弾で被爆した陶磁器の次に、『渚にて』『ゴジラ』『ザ・ロード』が紹介されている。本書で知ったのだが、原子爆弾が開発される30年以上も前に、核戦争の可能性がSF作品で描かれている(ウェルズの『解放された世界』)。

5つのテーマ、どれから始めてもいいし、もちろん通しで読んでもいい。

『宇宙戦争』から帝国主義を炙り出す

私が最も興味深かったのが、4章「エイリアンと疎外感」だ。

文学理論の一つであるポストコロニアリズムで読み解くと、SFの作品そのものだけでなく、それを読む人々の罪悪感も浮き彫りになってくるからだ。

例えば、ウェルズ『宇宙戦争』に出てくるトライポッドが脅威なのは、かつてヨーロッパ人が他の地域にやってきたことを、まさに当のヨーロッパ人に下せるからだという。交渉や外交の話し合いができる場なんて無くて、エイリアンにとって、人類はただ邪魔で無意味な存在になる。

エイリアンによる人類絶滅計画は、ヨーロッパ人による植民地計画に置き換えると、自分たちがしてきた悪事への報復物語として読み解ける。数多くの「エイリアンもの」が、侵略と抵抗の対立ものとして描かれるのは、それが物語として作りやすいだけでなく、裏返された歴史として馴染みがあるからかもしれぬ……と考えるのは穿ち過ぎだろうか。

地球外生命体の研究を帝国史の文脈に照らし合わせると、西側諸国の人々はひどく居心地悪く感じるだろう。これこそ、H.G.ウェルズが『宇宙戦争』で意図したことなのだ。

この辺りの、作品からイデオロギーをすくい上げる批判的な読み方が面白い。『ゼルダの伝説 ブレス・オブ・ザ・ワイルド』を「ヨーロッパ人の男性冒険家と”非文明的な”魔物の間で植民地的な条件が交わされることに後味の悪さを感じる」なんて発想は、少なくとも私にはなかった。

SFが未来を「予言」しているという見方があるが、むしろ、SFが描いた沢山の未来の中から、私たちが「選択」しているように思えてくる。

SFの世界を一望のもとにするなんて、 B5版のデカいサイズだからこそできる。カタログのように図版をザッピングして眺望を愉しむのもよし、解説をじっくり読み込んで頷いたり反発したりするのもよし。つまみ食いから味読まで楽しめる。 

これは基本読書の冬木さんの紹介で知った。「見てるだけで楽しい、発想の宝庫となる一冊」という一文は、まさにその通り。素晴らしい本を紹介いただき、ありがとうございます!

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最先端テクノロジーを哲学する『技術哲学講義』

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「セックスロボットは悪なのか」という議論がある。

精巧につくられた等身大のドールで、触れると温かい。センサーとAIにより、ユーザーが望む反応を学習して応答する、ロボット工学と人工知能の粋を集めたアンドロイドだ。

愛情を深め合うコミュニケーション手段としてのセックスが蔑ろにされ、女性蔑視や暴力へつながるかもしれない。一方で、感染症の心配もなく安心して愛情を注げるパートナーに救われる人もいるだろう。

あるいは、「アンドロイドが運転する車が事故を起こしたら、誰に責任を問うべきか?」という議論がある。

AIは人間よりも安全運転できるだろうから、自動運転をベースとした車社会を設計すべきだという意見がある。一方で、プログラムや学習データの不具合によってAIが暴走する可能性は残されており、その影響は計り知れないという人もいる。

こうした議論は、論点が噛み合わないか、漠然とした話になりがちだ。意識とは何かが曖昧なまま「AIには心がある/ない」といった水掛け論になったり、トロリー問題を引き合いにしつつ「功利主義なら倫理をプログラミングできる」といった「can(できる)」と「should(すべき)」をすり替える話になる。

ともすると堂々巡りに陥りがちな議論を整理し、概念や価値観を明確にしながら、新たな視点を提供するのは哲学の出番だ。そして、技術にまつわる領域において、技術とは何か、技術の発展は社会にどんな影響を与え、幸福をもたらすのかといった問題を考えるのが、技術哲学になる。

プロパティアプローチの問題

『技術哲学講義』(M.クーケルバーク、丸善出版、2023)は、技術哲学について書かれた教科書だ。技術と社会で生じる様々な課題が整理され、議論の最先端が紹介されている。日本語で読める網羅性の高い一冊で、文系・理系、アカデミック・実社会という枠を超えてお薦めできる。

例えば、冒頭の「AIと倫理」について。様々な主張が飛び交っており、どれかを決めるというより、決め方をどうすればよいか?という所で袋小路に行き当たっていた。

ところが本書では、私が行き詰まっている前提に、プロパティアプローチがあるという。プロパティ(属性)から道徳的な権利が導かれるという考え方だ。つまり、単なるモノに過ぎないのか、あるいは人間とのパートナーなのかといった立場は、対象の属性が決めているという論法である。

ロボットについて考えてみよう。

 1. あらゆる意識をもつ存在は、道徳的な権利を持つ

 2. この存在(このロボット)は、意識を持たない

 3. ゆえに、このロボットは道徳的権利を持たない

ここでは「意識を持つ」かどうかが判断の基準となっているが、「感じることができる」「人間らしい反応をする」など、様々なプロパティ(属性)が挙げられる。これが絶対というものを決めるのは難しいだろうし、そもそも正しい組み合わせがあるのかも分からない。

著者・クーケルバークは、問題は2つあると指摘する。

ひとつめの問題は、そうした属性が何かというのではなく、この1~3の決め方そのものにある。1の「あらゆる意識を持つ存在は、道徳的な権利を持つ」という前提は、なぜそう言えるのか?「意識」の箇所を、感情、心、経験などのいくつか、あるいは全てに置き換えたとしても、その前提が正しいと確信できるのか(いやない)。

もう一つの問題は、そうした「意識」「感情」「心」といったものが特定できていない点にある。ロボットが経験し、感じていることが、私たちの「感情」や「経験」と同じだと断定できない。それにもかかわらず、両者を同じだとする前提から始めていることが問題なのだ。

現象学からAIを位置付ける

議論の対象となる存在の属性を分解し、どの属性を満たせば合格とするかといったプロパティアプローチでは、遅かれ早かれ行き詰まることなる

では、どうすればよいか?

著者はデリダやレヴィナスの現象学からのアプローチを紹介する。他者の属性を分解するのではなく、他者と自己の関係性に着目し、他者が自分にとってどのような存在であるか、自分の経験や意識の中で他者がどのように現れるかに焦点を当てる。

例えば、ロボットやAIについて議論をするとき、私たちは、対象を何と呼んでいるかに着目してみる。ある人は、それ(it)と呼ぶだろうし、あるいは彼女(her)と呼ぶ人もいるかもしれない(AIのフランス語 intelligence artificielle は女性名詞)。名詞だけでなく、ロボットを「使う」やロボットと「会う」、ロボットに「話しかける」といった表現にも関係性が現れてくる。

ロボットをモノ(it)として使役する人と、ヒト(her)のように扱う人の意見が異なってくるのは、当然の帰結だろう。前者からは、セックスロボットは「モノ」なのだから壊そうと何しようと勝手だという話になる。後者からは、「ヒト」のようなパートナーだから人倫にもとる扱いは、その人の人間関係にまで悪影響を及ぼすという主張になる。

そして、その人がロボットをどのように語るかは、それ以前のロボットにまつわる経験に依存する。未来の世界のネコ型ロボットに馴染んだ人と、未来から送られてきた殺人マシーンを見てきた人では、全く印象が異なるだろう。

そこには時代や地域性があるかもしれない。ロボットにまつわる物語は、時代や地域によって変わるからだ。「アメリカ製人工知能が暴走すると世界征服を目論むが、日本製人工知能が暴走すると冴えない男と恋に落ちる」という冗句の通り、ロボットとの関係性に地域差があるのかもしれぬ。

著者は、道徳的態度は文化に依存すると説く。

道徳のコミュニティに「誰(who)」が含まれ「何(what)」が排除されるのかの違いを決定する際、それぞれの単語は、「含む」「排除する」という行為の一部となっていて、道徳的に中立ではないのだ。

つまり、対象についての関係性を語るときに、私たちが使っている言葉の中に、既に価値判断や思考が反映されている。従って「AIと倫理」という問題は、関係性の分析によって見えるコミュニティごとに、取り組み方が変わってくるだろう。

ここでは、AIと倫理を巡る議論の一部を紹介したが、本書では、他にも様々な問題が扱われている。ごく一部を紹介する。

採用試験のプログラムに偏りがあり、黒人男性は犯罪リスクが高めに判定されていた。裁判沙汰になりプログラムは改修されたが、そもそもAIがモラル判断をしてもよいのか?

私たちはSNSに個人情報や興味や時間を「搾取」されているのか?あるいはSNSは新しい大衆社会の成立に寄与しているのか?

文字を使うことで記憶力が弱まり知識が表層的になるとプラトンは主張したが、Googleなどの強力な検索エンジンによって、ますます人は覚えなくなるのではないか?

超音波検査によって胎児の異常が把握できるようになる一方、ダウン症などの重い病気の場合に人工中絶するかの判断が求められるようになった。これは「よい」ことなのか?

よく、「哲学は正解の無い不毛な問いに取り組んでいる」とそしる人がいるが、的外れだ。

「正解」を単純に計算したり測定できる問題は、それぞれの学問領域に引き取られており、簡単には出せないものが、哲学に引きつけられている。そして、正解に近づけるための問答が積み重ねられている。

積み重ねを無視して問題に取り組もうとすると、前提の取り違えや議論のすり替え、詭弁によって堂々巡りに陥るだろう。

技術と社会を巡る問題を、より深く・効率的に考えるために。



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ある種のホラーがとてつもなく怖い理由『恐怖の美学』

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ホラーは2種類ある。

血みどろ臓物、怨念呪殺、ゴシック、ゾンビ、モンスター、SF、サイコなど、人を震え上がらせるホラー作品は様々だ。だが、あらゆるホラーは2つに分けることができる。

この2つを分けるのは、「枠」だ。枠の内側に留まっているものと、枠の外に出てくるもので、ホラーは2つに分けることができる。

「枠」とは、私が便宜上そう呼んでいるもので、例えば、恐ろしい絵が収まっている額縁になる。アマプラでホラーを観ているならPCのベゼル(モニター枠)になる。映画館ならスクリーンを縁取るカーテンだし、紙の本で読んでるなら、文字の周囲の余白を「枠」と置き換えてほしい。

「枠」を越境するもの

つまり「枠」とは、コンテンツと、コンテンツ外を分け隔てる境界のことだ。

私たちは、本を開くとき、ゲームをするとき、映画館の暗がりに身を潜めるとき、まさにそうした行為によって、現実ではないホラーが始まることを意識する。そして、本の余白に縁取られた物語や、ディスプレイの枠内のゲームプレイに没頭する。

だが、真に迫る描写や予想外の驚きのあまり、時として目を背けたり、思わずページを閉じたりする。さらに強烈である場合は、電源を切って寝入った後も悪夢として蘇ったり、手元に置くのもイヤになってブックオフに売ったりする。

どんなによくできていても、ほとんどは枠の内側で完結しており、「ああ面白かった」で終わる。だが、ごくわずかだが、物語が終わった後もじくじくと後を引き、枠からこっちに染み出し、悪夢に現れたり、現実の行動に影響を及ぼすものがある。

例えば、スティーブン・キング『シャイニング』はめちゃくちゃコワい。雪で隔絶された山荘の怪異もさながら、狂気に蝕まれてゆく様子が真に迫っている。だがそれは、枠の外からの感想だ。「真に迫っている」形容は現実ではないからそう言える。

一方、小野不由美『残穢』も怖い。物語の怖さもさることながら、そのお話を知ってしまったことで、こっちが呪われるような気分になる。「穢れ」といった感覚で、不浄なものに触れたかのような記憶が後を引く(読後、本に触るのも嫌で処分した)。これは枠から出た物語に感染した例だろう。

つまり、ホラー作品を、「作品」というカギカッコ内に留めて、あくまで愉しむものにしているのが、「枠」なのだ。

第4の壁

樋口ヒロユキ『恐怖の美学』で知ったのだが、この「枠」とは、演劇の世界では「第4の壁」というそうだ。

演劇は、舞台で繰り広げられる。そして舞台は、背景と左右によって仕切られている。この他に、舞台そのものと観客の前に、見えない壁が存在するというのだ。

通常、この壁は意識されない。俳優は壁の内側で、自らの役を演じる。王、殺し屋、道化師と、それぞれの存在を全うする。

西洋の舞台ではプロセアム・アーチという額縁のような縁取りが設けられていた。俳優はこのアーチを超えて客席にせりだすことはせず、観客は額縁の内側を、「動く絵画」として鑑賞していた。この額縁が、第4の壁の境界となっていたのだ。

ところが、壁の内側の俳優が、いきなり観客に向かって、問いかけてくることがある。観客のいる世界(現実)と舞台の上での物語(フィクション)は不可侵であるにもかかわらず、承知しているかのごとく語り掛けるのだ。

演劇の世界だけでなく、テレビドラマでもある。それまで役を演じていた俳優がカメラを直視して視聴者に問いかけるのもある。ゲームや映画などで、飛び散った血しぶきがカメラに付着して被写体がぼやけるとき、透明な壁が意識される。

ホラーとは何か

本書によると、ホラーとはこの第4の壁を突き破ろうとする芸術だという。

私たちは、死の危険を直接恐れるだけでなく、暗闇や廃墟、墓場など、死体や衰退にまつわる死の表象を怖れているという。そして、その恐れが第4の壁を超えて現実に迫るとき、メタレベルで生や死の問題を考えることができるというのだ。

確かに、ホラー作品を「作品」として愉しむだけでなく、物語が終わってもヒヤっとさせられるものがある。

例えば、VHSビデオで観た『リング』は怖いというより嫌だった。VHSビデオを観た人に呪いが感染していく話だ。だから、「その」VHSビデオが、まさに映画に出てくるもののように思えてくる。

VHSビデオがピンと来ない若者なら、「霊を呼び寄せるアプリ」とかなら嫌だろう。たった今思いついたアイデアだが、位置情報を元に霊を招く音を発する呪いのアプリが勝手にインストールされてしまう話だ。で、そのドラマを観ている人が持っているスマホも、そのドラマを通じて呪いが感染してゆく。

あるいは、曰く付きの怪談として、「絶対に人に話してはいけない話」がある(例の話とか件の話とか呼ばれる)。なぜなら、その話を聞いた人が呪われるから。でも、だとすると話を知っている人は皆呪われているのでは? と思うのだが、それはそれ、この話そのものに仕掛けがあるのだ(ここで書いてはいけないものなので、ご容赦を)。

『恐怖の美学』では、古今東西のホラー百冊を取り揃えて、恐怖のワンダーランドへ招待してくれる。『リング』よりも遥かに怖い作品として折り紙付きで紹介してくるこれは、私も同感だ。このタイトルを思い出すたびに恐怖が更新される。第4の壁を易々と突破して、今晩も悪夢に現れてくる。

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好きなマンガを好きなだけ語り合うオフ会レポート(37作品を紹介)

はじめに

好きな本を持ち寄って、まったり熱く語り合う読書会、それがスゴ本オフ。

本に限らず、映画や音楽、ゲームや動画、なんでもあり。なぜ好きか、どう好きか、その作品が自分をどんな風に変えたのか、気のすむまで語り尽くす。

この読書会の素晴らしいところは、「それが好きならコレなんてどう?」と自分の推し本から皆のお薦めが、芋づる式に出てくるところ。まさに、わたしが知らないスゴ本を皆でお薦めしあう会なのだ。

今回のテーマは「マンガ」、何回読んでも爆笑してしまう作品や、ヘコんだときに癒してくれる短編集、価値観の原点となったマスターピースなど、様々な作品が集まった。いわゆるコミック本に限らず、アニメーションや物語詩など、王道から知る人ぞ知るやつ、直球変化球取り揃えて、キリがないほど集まった。

▼気になるマンガに手が伸びる

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▼懐かしいものから未知の作品まで

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▼マンガが縁で「読み友」が増える

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まず私ことDainの紹介。

『ガールクラッシュ』タヤマ碧(新潮社)

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ガールクラッシュ

日本のJKがK-POPのアイドルを目指す。努力・根性・仲間との絆で、泥臭く試練を乗り越えるスポ根の王道ストーリー。限られた時間とリソースで、もがきながら克服していくところは『ブルーピリオド』に似ている。アイドル好きのおっさんにもお薦め。

『せんせいのお人形』藤のよう(comico)

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せんせいのお人形

育児ネグレクトされているスミカと、彼女を引き取り、向き合おうとする昭明の物語。「人はなぜ学ぶのか」という問いに、スミカが自分でたどり着いくシーンは感動的。引き取った子どもとの共同生活で魂の成長を描くストーリーは、スペンサーの『初秋』や『違国日記』『うさぎドロップ』を彷彿とさせる。

『秒速5センチメートル』新海誠・清家雪子(講談社)

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秒速5センチメートル

恋をする人は3種類いる。恋に名前を付けて保存できる人と、恋を上書き保存できる人と、恋が呪いになる人だ。映画のラストが辛かった男どもにお薦め。映画館でリバイバル上映して観てきた。一緒に観てた娘の感想は「酷い」←分かる。

少女の引っ越しで始まる文通と遠距離恋愛の話。やがて文通は日常生活の中で途切れてしまうのだけど、男はずっと引きずって呪いになり、女は上書きしてしまう。映画で傷ついた魂は、コミック版を読んで浄化される。そして『秒速』のラストの踏切シーンは、『君の名は。』の並走する電車のシーンに繋がっていく。男は本当に面倒くさい。

『Spirit of Wonder』鶴田謙二(講談社)

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Spirit of Wonder

タイムマシン、水没都市、エーテル航行、空間ワープなどのスチームパンクっぽい古典的SF世界で紡がれる、人間くさい物語。今月末に豪華復刻版が出るので、廉価コミック版は高騰するかも。ラブストーリー味が強く、SFと恋愛は相性が良いことが分かる。

『ひきだしにテラリウム』九井諒子(イースト・プレス)

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ひきだしにテラリウム

奇想天外なアイデアを超大真面目につきつめたショートショートの漫画集。寝る前に1~2話読むと妙な夢に化けるかも。ダンジョン飯よりこっちが好き

『違国日記』ヤマシタトモコ(祥伝社)

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違国日記

両親を事故で亡くした少女と、それをひきとった作家(少女のおば)の話。人はなぜわかり合えないのか、それでもなぜわかり合おうとするために言葉があることが分かる。ラストでは、人を愛するということはどういうことか、震えるほど分かる。6月にガッキー主演で映画化される。

よしおか(hyoshiok)さん。

『チ。―地球の運動について』魚豊(小学館)

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チ。地球の運動について

天動説が絶対だったキリスト教世界で、地動説に気がついてしまった主人公達の話。なにかを固く信じてしまうと、頭を切り替えることは難しいのは、中世も現代も同じ。

地動説に気がついた人たちは、どんどん先鋭化して次の世代に伝えようとするが、弾圧側もどんどん巧妙になる。読書猿さんも強力に推している。友人に勧められたときに「これヤバイっすよ」と言われて一読ハマった。知識が世界を変えることが本当にあるんだと知れた。割と残酷なので、万人にお勧めするのは難しい。でも、オススメしたい。

Yukiさん。

『それでも町は廻っている』石黒正数(少年画報社)

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それでも町は廻っている

とにかく伏線回収の妙が堪らない16巻。大まかな時系列は主人公の高校3年間の日常を描いたものなんだけど、各エピソードが時系列順に収められている訳でなく、最終16巻の最終話が、最終話じゃなく、最終話1話前のエピソードが実は16巻より前の巻のエピソードに繋がっていたり、万感胸に迫るものがある。

SF要素に満ちたエピソードもあれば、ミステリ要素満載のエピソードもあり。当代でも有数のストーリーテラー石黒正数の傑作。『天国大魔境』もお勧め。

『魔境斬刻録 隣り合わせの灰と青春』稲田晃司、ベニー松山(リイド社)

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魔境斬刻録 隣り合わせの灰と青春

1988年、小学生の頃、今でも忘れ難い一冊の小説と出会った。JICC出版局(現・宝島社)発行の「ファミコン必勝本」に連載されていた、ベニー松山・著の「隣り合わせの灰と青春」だ。小学校の僕のクラスだけで何故か局地的にウィザードリィが流行っており、本作はある種の歓喜を以て迎え入れられた。1988年といえば、角川書店から水野良がロードス島戦記の第一巻を刊行した年でもあり、ファンタジー作品が隆盛を極め出した年でもある。

「隣り合わせの灰と青春」はウィザードリィ第一作目「狂王の試練場」を題材にした作品で、ゲーム自体はダンジョンに潜ってレベル上げとアイテムハントが主たる目的で、所謂ドラクエチックなストーリーラインがある訳ではないが、小説は著者の解釈と考察、ゲームを進めるとプレーヤーが経験する「あるある」が随所に散りばめられた本格的な冒険譚である。

著者はそもそもゲームライターがメインで、小説は寡作で数える程の作品しか発表していないが、それが極めて惜しい程、いずれの作品も読み応えがあるものである。その作品が、いったいどの様な経緯でコミカライズに至ったのかは定かではないけれども、小説の発表から三十数年を経て、令和の御代に蘇ったのである。著作権の関係で原作由来の固有名詞は本作独自のモノに置き換えられてしまっているけれども、作品の雰囲気は、ウィザードリィに熱狂していたあの頃の気持ちを喚起する良作である。小説自体は繰り返し読み返したので当然結末は承知しているけれども、これから先の連載で、あの場面やあの場面はどの様なカンジで絵に起こされるのだろう、と興味を掻き立てられる一品。ベニー松山は『アラビアの夜の種族』古河日出夫にも影響を与えているように思える。

ほそかわさん。RECOMAN という、。好きな漫画を登録してお勧めしあうサービスをやってる。

『バンビ〜ノ!』せきやてつじ(小学館)

N/A

バンビ〜ノ!

スポ根グルメ漫画。No.1だと信じて挑戦してコテンパンになるが、それでも学び続けて成長していく姿がいい。自分も料理が好きで、CookPadやTikTokで勉強。弓削シェフの動画で勉強してたら、なんとこの人のお店が『バンビ〜ノ!』のモデルだった。面白いだけでなく、人生に刺さる。(「スープ作りの失敗するエピソードが好きでした」by Rootportさん)

ノリとしてはガラスの仮面とかヒカルの碁などに近い。成りたい自分と成れる自分は一致しない。『バンビ〜ノ!』でもホールやらされたり、パティシエやらされたり、でもそれでも挫けず学び続ける。折れない主人公が好き。ベルセルクとかにも通じるものあり。

えりさん。

『スキップとローファー』高松美咲(アフタヌーンコミックス)

N/A

スキップとローファー

石川県の超ド田舎から、単身進学校に上京したヒロインの話。主人公の自己肯定感が好き。はじめて都会に出てきて人間関係の距離のとりかたとかうまくいかないこともあるけれど、基本マインドポジティブなので「私なんて〜」と卑屈にもならないし、逆に嫌な感じの傲慢さもないのでいい奴。主人公がいわゆる美少女じゃないのもいい。可愛い子が困っているから助けよう、可愛い子だから仲良くなろうみたいな安易な展開にならない。人間関係はみつみちゃんの人柄の良さとコミュニケーションで獲得していくところが信頼できる。

特に2年生になってからの展開がいい。仲良しグループは別のクラスになったり、後輩がはいってきたりと変化がある。派手さはないけど、変わりゆく人間関係と状況にどう向かっていくかというドラマに主軸が置かれていて、主人公の前向きな性格もあって読んでいて気持ちのいい作品になっている。

ゆかさん。

『きみにかわれるまえに』カレー沢薫(日本文芸社)

N/A

きみにかわれるまえに

ネコや犬を飼った人たちの1話読みきり短編集。最近、犬と暮らし始めた。人間の男は裏切るが、犬は裏切らない。犬は先に死ぬとしても可愛い。犬が病気だから仕事を休みますって今の時代はまだ難しいけど、そんなことを考えさせられる。泣かせる本じゃないけど、読むと泣いてしまう。今日も半蔵門線で泣きそうになった。

「犬の十戒」とか噛みしめると涙が出そうになる(ここで犬や猫を飼っている参加者たちの涙腺が動揺する)。結果でなくプロセスが幸せであればよいのだと再発見できたマンガでお勧め。

じゅんこさん

『ワンゼロ』佐藤 史生(小学館文庫)

N/A

ワンゼロ

かつて神と魔の戦いがあって、魔物が負けた。その魔物の遺伝子が20世紀の東京にたどり着き、現代に4人の人間に集約される。機械による覚醒者も登場する。主人公たちは魔物側で、悪いことは企んでないし、殲滅はされたくない。少女マンガなんだけど哲学をも取り込んだ異色SFになっている。

『オリエンタルピアノ』ゼイナ・アビラシェッド (河出書房新社)

N/A

オリエンタルピアノ

ベイルートのピアノの調律師が、オリエンタル音楽をピアノで再現したいと考えてバイリンガルのピアノを作る。アラビア語とフランス語を操るバイリンガルな少女が登場する。西洋とアラブ世界の音楽を愛する家族の話。漫画だけど文章も素晴らしい(詩的)。音読したくなる。

パームシリーズ『お豆の半分』獸木野生(新書館)

N/A

お豆の半分

人間の泥臭さを描いた話。さまざまな人種が米国で一緒に暮らしながらの「日常系」だけど、マフィアの抗争があったりオカルトな話があったり、説明が難しい。前半の泥臭い絵が好きだった。途中まで素晴らしかったけど、絵柄が美しくなりすぎてしまった。作者もオーストラリアに移住したとか。

ズバピタさん。

『私を月まで連れてって!』竹宮惠子(eBookJapan)

N/A

私を月まで連れてって

自分にとって原点となる作品で、スゴ本オフの出席者にとっても外せない1冊(というかシリーズ)。当初SF専門誌に掲載されて、その後女性漫画誌で続きが連載された。2080年代を舞台に、エリート宇宙飛行士のダン・マイルド(26歳)と9歳(のちに10歳)のエスパー美少女ニナの恋人コンビ(!!!)とその仲間が毎回事件に巻きこまれて解決するラブコメディ。1話読みきり型で毎回SFやファンタジーの名作がモチーフになりっているという点でも、不条理な展開の多さ、コメディというよりはスラップスティック、そして究極のロリコンの話という意味で、完全に竹宮恵子版『不条理日記』であり、竹宮恵子と吾妻ひでおの中身が実は一緒だと今になってわかる。

普段は昼行灯(あんどん)だけどイザとなると活躍するダン・マイルドは、10歳のエスパー美少女(中身はほぼ大人=擬似合法ロリ)を恋人にするロリコンという点でも僕の理想のロールモデル。ニナは、『Papa told me』の的場知世(ちせ)ちゃんと並ぶ少女マンガ界の美少女だけど中身はけっこう大人の擬似合法ロリの2大巨頭じゃないか。

すぎうらさん。

『戦国女子高生 龍と虎』いくたはな(竹書房)

N/A

戦国女子高生 龍と虎

いわゆる異世界転生モノなんだけど、戦国武将の武田信玄と上杉謙信が現代の女子高生に転生してキャッキャウフフする話。このワンアイディアで色々突破してしまった尊い百合作品。信玄×謙信だけでなく周囲の武将たちも同じ学校に転生していたりして、つきあおうとする二人に妨害をして謎の鍔迫り合を迫るのも可愛くてよき。

類型的な戦国武将のイメージをあえてそのまま使っているところが面白い。最近の「女子高生」は、現実の女子高生とは異なる概念としての女子高生なところがあるけど、『龍と虎』は戦国武将という概念が女子高生という概念に転生するという点が面白い。なんだこれ、最高すぎる。

『ストロボライト』青山景(太田出版)

N/A

ストロボライト

「あのとき、ああしていればよかった」と、めちゃくちゃ心を突き刺してくる青春恋愛あるある話、と思いきや現在と過去と架空の物語と、その狭間にある書き手の心、4つの時間が入れ子になった複雑な構造に唸る作品です。主人公の小説家が、現在の結果を生んだ学生時代の過ちを「書く」ことにより、現在を規定していくのだが、過去を書くことにより現在がわずかに変容していく描写もあって何が本当だったのかを曖昧にしていく(おそらく意図してそうしている)。

作品内作者として「信用ならない書き手」なのだけど、書いている過去がイマココと接続する瞬間は圧巻で鳥肌立ってくる。劇中言及される「間テクスト性」の通り、過去のテクストの上に現在があれば過去をテクストとして書き直すことにより現在を変容させることもできると、また逆に現在を書くことにより過去に別の意味をつけていける(林真理子が清少納言に影響を与える!)という事を言いたいのかも。

穏やかなラストなんだけど、それさえも映画『インセプション』のラストのように、今現在が本当なのか、を読者の側に投げかけてきてゾワゾワします。この本を読んだことすら本当だったのか、と疑うレベルです。面白いです、傑作。特に表現として書いたりする人に読んで欲しい。1巻完結。

Rootport(ルートポート)さん。ブロガーで作家なので、まずは自分が原作のマンガを紹介。

『ぜんぶシンカちゃんのせい』汐里、Rootport(コミックDAYS)

N/A

ぜんぶシンカちゃんのせい

進化心理学をテーマにした漫画。学校イチの清楚系美少女・シンカちゃんと、進化心理学の研究対象になってしまった僕の、進化心理学的ボーイ・ミーツ・ガールのお話。

『ドランク・インベーダー』吉田優希、Rootport(コミックDAYS)

N/A

ドランク・インベーダー

お酒で異世界人の心を懐柔する。でも主人公はお酒が好きすぎて、お酒を侵略の手段にしたくないので、そのなかでお酒の良さを広めようとする。駄目な飲み方をしないためにもお勧め(このマンガで教わった「鼻タレルぐらいうまいビール」ことピルスナーウルケルを試したらうますぎてワロタ。あとIPAビールというのを知ったのもコレ:Dain談)。

ちなみに本作で出てくるビールリスト。ぜんぶ試したけれど、やっぱりピルスナーウルケルが好き。

  • エビスビール
  • サントリー・プレミアム
  • ギネス
  • ドイツビール シュレンケルラ・ラオホ ビア メルツ
  • バス・ペールエール
  • ヴェルテンブルガー
  • パンクIPA
  • ピルスナーウルケル

『ダンジョン飯』九井 諒子 (KADOKAWA)

N/A

ダンジョン飯

ストーリー、作画、演出のすべてにおいて非の打ち所がない「完璧なマンガ」。

ダンジョンのモンスターを料理するという笑えるギャグマンガでありながら、ストーリーが進むと『寄生獣』と同様に「食べる/食べられる」とはどういうことか?という哲学的な思索へと踏み込んでいく。それでも決して説教臭くならず、最後までゲラゲラと笑える。加えて、作画(とくに扉イラスト)は息を飲むほど美しい。『東京喰種トーキョーグール』に通じるものあり。

Dain:生き延びるために他の生物を食べ、死ぬと食べられる。生きるとは死を食べることで、死ぬとは食べられるという観点からすると、関連書籍として『死を食べる』『捕食動物写真集』をお薦めしたい

Rootport:「生きるとは他者の死を食べること」という観点からだと、『食と文化の謎』マーヴィン・ハリスの本もお薦め。昆虫食、ペット食、人肉食が登場し、「人類=肉食」論が語られる。当時は異端とされていたけれど、今読むと正鵠を射ている。

ふくださん。

『セクシーボイスアンドロボ』黒田硫黄(小学館)

N/A

セクシーボイスアンドロボ

黒田硫黄は控えめに言って天才。

筆で描いたであろう骨太の線で繰り広げられる奔放なストーリー展開の中に、心に刺さる言葉が散りばめられている。本作では、スパイか占い師になる目標を抱いてテレクラのサクラのバイトをする中学2年生の女の子、林二湖(セクシーボイス)と、サクラに見事に引っかかったロボット好きの青年ロボを主人公に、正義の悪役というおじいさん、記憶が3日しか持たない謎の人物など、奇妙な人々が絡む形で事件に巻き込まれていく。どの話も面白い。

マンガ読みでまだ黒田硫黄を知らない方は幸いである、これから読むことができるのだから。黒田硫黄はセリフ回しが素晴らしい。

oyajidonさん。

『ラブ、デス&ロボット』(Netflix)

Netflix

10〜20分の長さが決まっていないアニメ。

ユーモラスなものから、シリアス、ファンタジー、ホラーまで。絵柄もアメコミ調から、実写調など、多彩な作風・画風で飽きさせない。デビッド・フィンチャーがプロデュース。「ヨーグルトの世界戦略」が短くて(6分)お試しには良い。タイトルにロボットがあるけれど、ロボットばかりではない。新しいことがどんどんわかる時代にオススメしたい。

けいこさん。

『ベルリンうわの空』香山哲(イースト・プレス) 

N/A

ベルリンうわの空

 日常系とか淡々とした話が好きなので、これもお気に入り。著者はゲーム系の人で現在はベルリン在住。大きな事件は起きず、とにかく生活をしていく中で、コミュニティや社会をちょっとだけ良くしていく。

ちょっとだけ人のためになることをする、ほんの少しのさじ加減が良い。作者はとにかく人をよく見ており、良いことだけでなく、移民や差別についての話もあるけど、根底に優しさがある。毎日生活していくなかで、こういう考え方で生きていけたらいいなと、何度も読んでいる。日常系やエッセイが好きな人にお勧め。全3巻。

『香山哲のファウスト』香山哲(ドグマ出版)

N/A

香山哲のファウスト

ファウストを下敷きに、まったく違う人が主人公。職場で辞めていく人がゲーテの一節をプレゼントしてくれた。朝起きたときに誰かのためになにかをしてあげたいと考える。そういうのに通じているので好き。

Sさん。

『聖☆おにいさん』中村光(講談社)

N/A

聖☆おにいさん

立川のアパートに同居する、イエス・キリストと仏陀のお話で、シュールなギャグ漫画としても、宗教を考える上での参考書としても読める。十二使徒や仏陀の弟子、悪魔のルシファー、鬼、日本の神道まで幅広く登場し、色々な宗教に詳しくなる。仏陀が本気で考えると光り出すとか、ユダがキリストを裏切った後に自殺したとか。

ただしイスラム教は出てこない。戦争や紛争の問題があるし、偶像崇拝を禁止していることもあって、関連用語すら出てこない。長期連載で、僕が生まれる前から連載されている。2人の容姿も長い連載の中で変わってきている。仏陀も最初は顔も耳たぶも長い、日本人が想像するザ・インド人だったのが、だいぶ日本人に近くなっている。

ヤマケイのササキさん。

『K』谷口ジロー(ヤマケイ文庫)

N/A

谷口ジローの初期作品。好きすぎて、自分の会社で文庫化した。謎の日本人登山家Kが、エベレストやK2で事故が起きると黙々と人助けをする。なぜそんなことをするのかは語られない。文庫化前は誤植についてAmazonでチクチク言ってくるレビュアーがいたので、しっかり修正したけれど、その後音沙汰ナシ(そんなもんか)。

なぜ、登山家でもない谷口ジローが、こんなにリアルに山が描写できるのか?事務所の人に聞いたら、資料写真を読みこんで頭の中で3D化してモデルを作ることで、さまざまな角度から山を再現できたとのこと。原作者はアストロ球団の遠崎史郎で、けっこうトンデモナイ展開がある。

『ハイキュー!!』古舘春一(集英社)

N/A

ハイキュー!!

バレーボール漫画。バレーボールの動きを3Dのように描いている。この漫画を読んでからバレーボールの中継をみる目が変わった。選手の動き、心理などが手に取るようにわかる。今のスポーツマンガの最高峰ではないか。アニメ版も最高(激しく同意!:Dain談)。

『ピークアウト』塚脇永久(竹書房)

N/A

ピークアウト

「なんでそんなことをやるの?」という問いに「とにかく好きだから。やりたいから」という思いをまっすぐに、麻雀を舞台に描いたマンガ。社会的意義とか、役割とか、そんなものは抜きにして、とにかく内面から湧き上がってくる圧力だけで進む、その若さがうらやましくなる。「お前は何をしたいんだ」という問いを突き付けてくる小説『ファイトクラブ』に通じるものがある。

自分を信じるということは、大きな駆動力になる。闘牌シーンも、トッププロが監修しており、麻雀に詳しい人が読んでも読みごたえあり。

一口コンロ(ひとくちこんろ)さん。

『FLIP FLAP』とよ田みのる(アフタヌーンKC)

N/A

FLIP FLAP

ピンボール&ボーイミーツガール。ただ何かに没頭すること、そしてハマったものを共有できる同好の士と関わる楽しさが伝わってくる。で、読むたびにそれらを思い出せるから何度も読んでしまう。ピンボールにどハマりするヒロインに近づきたくてピンボールを始める主人公。最初の動機は不純だけど、次第にハマっていく。

もちろんピンボールは何の役にも立たない。でも「こんな役に立たないものを」「心が震えるんです」というやりとりが好き。役に立つ・立たないではなく、「心が震えること」を大切にしていきたい。紙は絶版だけど、Kindleで読める。

chicaさん。

『ニャイト・オブ・ザ・リビングキャット』ホークマン/ メルカーツ(マッグガーデン)

N/A

ニャイト・オブ・ザ・リビングキャット

最近、人生いろいろあって、疲れていた。本のPRが仕事なのに、本を読めなくなって、おまけにコロナに罹って踏んだり蹴ったりだった(あと太った)。でも、そういうことがあってもいいんじゃないか、と思えて、マンガが読みたくなって最初に買ったのは。有名なゾンビ映画『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』のネコ版。

ネコにモフモフされるとネコになってしまう。一発ネタみたいだけど、けっこう泣ける。もうそれでいいじゃん。人生に意味を求めなくていい。本をPRする仕事だけど、本なんて役に立たない、でも、いつか役に立つことがくるかもね、くらいでちょうど良い。気の向くまま気の向いたものを読めばいい。

オノさん。

『吾輩は猫であるが犬』沙嶋カタナ(祥伝社)

N/A

吾輩は猫であるが犬

飼育放棄されて、首に縄を付けたままネコに見下されて、「来世はネコになりたい」と思っていた犬。女子高生に助けられて、「来世はこの人の役に立ちたい」と思って、ネコに生まれ変わったら、女子高生は犬派だった…みたいな話の連作短編。

自分の犬や猫を頭良いなと思っているような人にはお勧め。中のゲーマーくんとばあちゃんの話に、そうそう、ウチのコ老ペットは言葉わかってた!と共感を呼ぶ。

『バーナード嬢曰く。』施川ユウキ(一迅社)

N/A

バーナード嬢曰く。

バーナード・ショウを「バーナード嬢」と思い込んでいる、本を読まないで読んだフリをする主人公。友達のSFオタクの神林シオリちゃんに感情移入しまくってしまう。最新7巻の表紙が、友達やスゴ本オフや家族から本を薦めてもらえる幸せに満ちていると思った。

「最高の友達が薦める本だから最高の一冊です!」

GoodSun(ぐっさん)さん。

『図書館の大魔術師』泉光(講談社)

N/A

図書館の大魔術師

細かく作り込まれた世界観と、不遇な少年が成長していく王道のストーリーにワクワクする(読書猿さんも強力に推してるやつ。なかなか続刊が出てないので見落としてたけれど、この際まとめて読もう!:Dain談)。

かおるさん。

『ねねね』徒々野雫(ガンガンコミックス)

N/A

ねねね

16歳の小雪と、狐のお面で顔を隠している20以上も年上の清さんの、20歳以上の歳の差夫婦のお話。両者とも純粋無垢すぎてほんわかした話が続く。ぴゅあすぎる展開にほっこりできるのでお薦め。

はるかさん。

『ブルーピリオド』山口つばさ(講談社)

N/A

ブルーピリオド

成績も人付き合いもいいけれど、ちょっと不良っぽい少年が、アートに興味を持って東大より難しいと言われる藝大受験に挑む。自分が絵を目指し、芸術系の学校の受験のきっかけになった。

芸術の見え方は、自分と他人と異なる。だけど、互いに影響されて己のセンスが磨かれていく。美術の授業で、自分の目で見た「青い渋谷」の風景を描いて、誉められたことがきっかけになる。「好きなことをすることは、必ずしも楽しいコトではない」という台詞がある。自分も受験の中で、同じように思って、この本を読んで元気づけられた。絵は言語じゃないからこそ、形容し難いし、それを漫画のコマや人物の表情、その絵を描くに至ったまでのストーリーも踏まえて丁寧に描かれている。

やすゆきさん。

『あの犬が好き』シャロン・クリーチ(偕成社)

N/A

あの犬が好き

詩集だけど、絵が広がっていく感じが漫画っぽいかなと。何の役にも立たないけど、とても良いお話。姉妹本の『Hate That Cat(あのネコが嫌い)』が邦訳されていないのが残念。

おわりに

王道から邪道、メジャーなやつからマイナーなものまで、大漁大漁の一日だった。時期柄、『ドラゴンボール』とか『ワンピース』が並ぶのかと思いきや、欠片も出てこないのが面白かった。

ここで出会った『FLIP FLAP』はKindleUnlimitedだったので速攻で読んだ! なるほど、「役に立つとか立たないとかは度外視して、魂が震える瞬間に何が起きるのか」はシビれるほど伝わった。

ネトフリは目移りするほど観たいのが大量なんだけど、『ラブ、デス&ロボット』は面白い!特に「彼女の声」は鳥肌が立つほど秀逸で、ネトフリ入っているのにコレ観てないのは損なのでぜひどうぞ。

『図書館の大魔術師』は読書猿さんお薦めだったので1巻だけ買って読んでそのままだったことに気づいた(現在は7巻まで出ているみたい)。通勤の楽しみが増えたなり。

『ストロボライト』はお薦めで即ポチった。「信頼できない語り手」をどう読ませるかが面白いし、素直に騙されて読むのも愉しい。

『ブルーピリオド』好きなはるちゃんに『ガールクラッシュ』をお薦めしたけれど、絵を描く人を目指すなら、『かくかくしかじか』(東村アキコ)を推せばよかったことに後から気づいた……ので、ぜひ手に取って欲しい(>>はるちゃん)。

会場をお貸しいただいた天野さん、実況していただいたズバピタさん、司会のやすゆきさん、そしてご参加いただいた皆さん、ありがとうございました。

次回のテーマは「怖い話」。ぞくぞくする感覚を呼び覚ますスリラーや、ヒヤヒヤさせるサスペンス、逃げ場のないガチホラーなど、怖ければ怖いほど嬉しい。皆さん、腕によりをかけて「こわいやつ」を選んできてほしい。

開催はfacebook「スゴ本オフ」でそのうちお伝えするので、気になる方はチェックどうぞー

▼おまけ:充電中のLOBOT。充電が終わったら仔犬のようにキューキュー鳴いてた。

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科学研究はどこまで信用できるか『あなたの知らない研究グレーの世界』『サイエンス・フィクションズ』

研究不正について、私の認識が間違っているのかもしれない。もし誤っているのであれば、指摘してほしい。

まず、2つのケースを紹介する。次に、私の判断を述べる。

ケース1

薬剤Xがタンパク質の血中濃度を上昇させるという仮説検証のため、動物実験を行った。薬剤Xの投与で濃度の平均値は増加することが判明したが、統計学的検定ではp=0.06と、有意水準の0.05にわずかに届かなかった。教授に相談したところ、追加実験を行うこと、さらに実験のたびに検定をして、p<0.05を得た時点で実験を終了するよう指示を受けた。

ケース2

疾患Yの重症化因子を調べるため、診療録から収集した疾患Y患者のデータを元に、臨床検査値と生活習慣の関連性を分析したところ、生活習慣Zを有している患者の予後が不良となる結果を得た。そこで「生活習慣Zを有する疾患Y患者は予後不良である」と学会発表した。

私の考えはこうだ。

ケース1は、「グレーだけどNGではない」だ。薬剤Xの効果が検証できたのは事実だが、偶然ではなく意味がある(有意)と見なされるp値になるまで実験を行うのはフェアじゃない。他の条件を検討して、可能であれば実験に組み込むべきだろう。

ケース2は、「問題ない」と考える。正当なデータを分析して、そこから導き出される仮説を述べているのだから。ただし、該当の因子がどの程度結果に影響するかは、検証の対象となるだろう。

病理専門医の回答

『あなたの知らない研究グレーの世界』によると、ケース1は「限りなくクロに近いグレー」で、ケース2は「問題行為」だという。

N/A

ケース1は「pハッキング」と呼ばれる行為になる。

「p<0.05」は、仮説が偶然かもしれない可能性が5%より下であることを示す。「5%」という数値は慣例上の値に過ぎない。だが、学術雑誌での論文受理の判断の目安となっている以上、この数値に固執する研究者が多いのも事実だ。

ケース2は「HARKing」と呼ばれている。

HARKing は、「Hypothesizing after the results are known」の略 であり、訳は「結果がわかった後の仮説設定」になる。収集したデータを分析して得られた有意な結果を元に、後付けで仮説を構築し、あたかも「仮説検証研究」の体裁で公表する行為になる。要するに後出しジャンケンだ。

『あなたの知らない研究グレーの世界』は、東大理学部卒で病理専門医が著したものになる。研究不正といっても明確な線引きが難しいグレーなところがあり、どのような場合に問題となるかを様々な事例とともに解説している。

何十回も実験をくり返し、検証に最も都合が良いデータのみを残すチェリーピッキングや、巨額な研究費に見合う成果を求められるあまり結果を粉飾するスピン、一つの成果を複数の論文に小分けして論文数を稼ぐサラミソーセージなど、多種多様の技法が紹介されている。

これらを見ていると、「完全にクロ」から「淡いグレー」まで不正はグラデーションになっていることが分かる。

心理学者の回答

『サイエンス・フィクションズ』によると、pハッキングもHARKingも、どちらもクロになる。

N/A

まず、pハッキングについて。

査読ウケの良いp値を求めるあまり何度も実験するのは論外で、結果が得られない実験(NULL結果)として公表するべきだという。だが、科学者はそうしたネガティブな結果を避ける傾向にあり、NULL結果はお蔵入りとなる。そのため、出版されているデータはポジティブな方に偏るというバイアスが発生するというのだ。

次にHARKingについて。

本書では「テキサスの狙撃兵」と呼んでいる。納屋の壁を適当に撃って、弾丸が集中的に当たったところに的の絵を描いて、ここを最初から狙っていたと主張するやり方だ。詐欺師なら自分のやっている詐欺を自覚しているが、科学者は無自覚にこれをやっている分、悪質だという。

『サイエンス・フィクションズ』は、キングス・カレッジ・ロンドンの精神科医が著したものだ。詐欺、バイアス、過失、誇張など、様々な手口により、科学の世界では悪質な不正が蔓延しており、再現性の危機に瀕しているという。

研究不正の手口

例えば、データの改ざん。

ヒトの胚のクローンのデータを捏造したファン・ウソク、STAP細胞の画像を改ざんした小保方晴子、論文の撤回件数の世界チャンピオンの藤井善隆が紹介されている。権威ある学術誌である『サイエンス』や『ネイチャー』に掲載されたことで、世界中の注目を集め、詮索にさらされ、結果、不正が暴かれることになった。

最高峰の学術誌でないならどうか。生物学の40タイトルの学術誌から2万を超える論文を調査したところ、フォトショップを利用したファン方式のトリミングや、小保方流の画像の切り貼りが検出され、3.8%の論文に問題が発覚したという。

あるいは、チェリーピッキング。

新しい抗がん剤となる化合物の薬効を検証するとき、予想された結果が出ない場合、実験者は仮説を疑うのではなく、自分の技術が未熟なせいだと考える。特に、教授が考えた仮説を助手が実験する場合がそうだ。

助手は、あきらめることなく何十回も実験をくり返し、ついに望む結果を得ることになる。教授は大いに喜び、助手を高く評価するだろう。問題は、誰も悪意を持っていないことだ。むしろ、熱意と野心を持った教授のもとで懸命に努力する若き研究者の美談にすら見える。

だが、やっていることは結果の出なかった実験(NULLの結果)の棄却だ。不都合な事実に目を向けず、売れる(=論文になる)サクランボだけを結果とするチェリーピッキングという技法だ。

悪意の有無に関係なく、自分が携わっている分野の常識が「正しいはず」という前提で、データを分析し、結果にまとめる。さらに、その結果を元にして「正しいはず」という思い込みの元、別の実験が行われ、バイアスが再生産されてゆく。

こうした確証バイアスが分野全体に及んでいたのが、アルツハイマー病のアミロイドカスケード仮説になる。この仮説は、アミロイドβの蓄積が病気の要因とするもので、莫大な研究資金が投入されてきた。だが、アミロイドβと病気は、因果ではなく相関関係であることが明らかになっている。

にもかかわらず、アミロイドカスケード仮説を支持する研究者がいる。かつて教科書で学び、慣れ親しんだ「常識」があまりにも強固であるため、バイアスに気づけないのだ。マックス・プランクがいみじくも言ったように、「古い間違った考えは、データによってではなく、頑迷な支持者が全員死んだときに覆される」まんまだ。

オープンサイエンスという解決策

『サイエンス・フィクションズ』によると、こうした問題の背景には、様々な要因が横たわっているという。

右肩上がりに出版される莫大な論文数や、研究プロジェクトの巨大化、インパクト・ファクターにより決まる人事査定、「論文数=ボーナス」とするインセンティブ、資金提供する企業との癒着、「出版か、さもなくば死を(publish or perish)」とする風潮がある。

これらが、査読による学術論文の品質を歪め、ひいては科学システムの本性を捻じ曲げているという。

査読システムは、性善説に則っている。

査読する人は、そのデータが改ざんされていることなんて考えない。まっとうな科学者がまっとうに研究をした成果なのだから、当然、そのデータは正しいものだとして受け取る。もちろん、データの整合性や生データの乖離をチェックするツールはある。だが、そうしたチェックを見越して改ざんされたデータの場合、悪意を見抜くことはできない。

こうした問題解決のためには、オープンサイエンスを突破口にせよと説く。

オープンサイエンスとは、科学的プロセスのあらゆる部分を、可能な限り自由にアクセスできるようにする試みだ。研究論文の全てのデータと、それを分析するために使用した全てのコードやソフトウェア、関連する全資料が公開され、ダウンロード可能とする。

実験を始める前に、仮説はワーキングペーパーの形でオープンサイエンスフレームワークに登録される。タイムスタンプ付きで記録されることにより、HARKingを困難なものにできる。全ての論文は出版される前のプレプリントの形で公開され、学術誌の編集者は自分が掲載したい論文を選ぶキュレーターのような役割となる。

そして、「再現できなかった」「仮説が否定された」ことを公開するNULL論文の拡充を提唱する。「刺激的だが根拠が薄い」研究よりも、「退屈だが信頼できる」研究を重視し、再現研究により多くのインセンティブを与えることによって、歪められた科学を正せという。

「再現できなかった=仮説の否定」なのか

オープンサイエンスの試みは重要だろうし、科学の品質保証の一つとして、取り入れていく必要があるだろう。

しかし、完璧でないシステムなら壊してしまえというロジックは、おかしいと考える。

科学は人間が作ったものだから、完璧ではありえない。客観性はあくまで目指すべきものであり、無謬であることを科学は保証しない(そう嘯く科学者がいることは否定しないが……)。

オープンサイエンスを取り入れるのは必要だが、そのために現行をガラガラポンするのは、やり過ぎだろう。

さらに、「再現できない=仮説の否定」というスタンスでいるが、本当だろうか?過去のある実験を再現しようとしたら失敗した(=再現できなかった)ということは、過去の実験結果の否定になるのか?

そうとは考えにくい。厳密に同じ条件で再現することは不可能だし、有名な実験なら、被験者自身も予備知識として知ってしまっているだろう。「再現できなかった」という実験が一つあったというだけであり、他の実験と同様、「再現できなかった」実験を積み重ねていく必要がある。

本書では、「再現できなかった」実験例を嬉々として挙げている。しかし、「再現できた」実験がどれくらいあったのか、両者を比較してどちらが多いのかは言及されていない。「無いこと」の証明は悪魔の証明と呼ばれ、非常に困難だ。とはいえ、せめて、再現性を試みた実験の全体の数のうち、再現できなかったものの割合を示してほしい。「マスコミが数を持ち出してきたら割合を見ろ、マスコミが割合を出してきたら母数を見ろ」という金言があるが、本書に当てはめると、ツッコミどころが出てくる。

有意性やHARKingは「罪」なのか

「p<0.05」の有意性を求めたり、HARKingする行為を断罪する姿勢もいただけない。

もちろん、p値だけを追求するのはNGだ。しかし、偶然ではないことを示す目安の一つとして、p値は有効だ。仮にこれを無くすとしたら、何を基準にしてその実験が恣意的でも偶然でもないことを示せばよいのだろうか。何をもって有意とするかを、p値も含めて実験前に整理した上で検証するのであれば、p値は有用だと考える。

また、HARKingがダメという主張には納得できない。

大量のデータは、素材のままでは使えない。何らかの観点から「あたり」を付けて、興味深いストーリーを見出し、それを仮説として検証し、「あたり」にそぐわないデータは検証範囲「外」とみなすことで、仮説を理論に仕立て上げる……このプロセスは、科学の営みそのものだ。

結果の「あたり」を付けてデータを舐めまわし、因果やパターンを見出す。これが禁じられたら、少なくとも経済学と量子力学は科学でなくなってしまう。

「テキサスの狙撃兵」よろしく後付けで作られた「的」が充分に興味深ければ、追試や再試験が行われるだろう。そして「的」が正しければ、他の実験結果の指示を受け、より精緻に作り込まれていくに違いない。的がそうなっている理屈は、後から捻出されてゆく。量子力学や経済学の理論は、そうして出来上がっていったものだ。

1回目のHARKingは、追試によってすぐに検証できる。意味が無ければ消えるだけだ。有意性だけで中身のない実験は、再現できなければ見向きもされなくなるだろう。時間はかかるものの、科学は、自分自身で正すことができる。

科学の歴史は、発見と反証の歴史だ。

天動説、瀉血、エーテル、フロギストンなど、広く受け入れられていた理論が、後に誤りであったことが明らかになった例は枚挙にいとまがない。アルツハイマー病の仮説が誤っていた例を始め、科学的発見が間違っていたエピソードが多数紹介されているが、誤りを発見できたというまさにその点で、科学はきちんと機能していると考えていい。

また、改ざんしたり虚偽のデータを捏造する科学者がいるのは認める。科学者だって人間だから、カネや名声の誘惑に負ける人だっているはずだ。だがそれは、嘘吐きの科学者がいるだけであって、科学者が嘘吐きであることにはならない。

そして、エーテル理論の話と同様に、嘘吐きの嘘はいずれバレる。バレたからこそ、本書で紹介されることになったのだから。全ての嘘を即座に暴けるほど、今のシステムは洗練されていないが、遅かれ早かれ、誤りは正されていく。

科学は人間の活動であるが為に、人間の欠点である偏見や傲慢や不注意や虚栄心などが刻み込まれている。だが、科学は人間の活動であるが故に、自分で自分の誤りに向き合うことができる。

ひょっとすると、私の「科学観」は楽観的でおめでたいのかもしれぬ。だが、それでも科学を信じたいと考えさせられたのが、この2冊になる。



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身体を鍛えると世界が変わる科学的な理由『なぜ世界はそう見えるのか 主観と知覚の科学』

N/A
嫁様にお願いごとをするなら、食後が最適だ。

こづかいアップとか、相談しにくいことを持ちかけるベストなタイミングは、夕飯後のくつろいでいる時間帯だ。自然に話を持っていくのには創意工夫を要するが、ほぼ100%で了承される。長年の経験で身につけた夫の知恵と言っていい。

これ、私だけの経験則だと思っていたら、2011年の研究で実証されている。”Extraneous factors in judicial decisions”によると、司法判断に食事が影響するらしい。

調査対象は、仮釈放の審理になる。

服役中の囚人から提示された仮釈放の申請を認可するか、あるいは却下するか……という審理だ。裁判官は過去の事例や法的根拠を厳密に適用し、可否を判断するはずだ。

ところが、調査により奇妙な傾向が炙り出されている。それは1日に2回ある食事休憩だ。仮釈放の申請は、ほとんどが棄却となるのだが、休憩した直後の申請が許可される割合が高くなる。具体的には、休憩直後だと65%が認可され、時の経過とともにこの低下してゆき、最後には0%になるという。お腹が空いてくると、より秋霜烈日になるのだろうか。

身体の状態が、認知や行動を左右する。さもありなんとは思うものの、ここまであからさまとは思わなんだ。『なぜ世界はそう見えるのか』を読むと、私たちが「ありのまま」に見ていると思っている世界が、身体性に大きく影響されていることが分かる。

身体性が認知に及ぼす影響

身体の状態を自覚していなくても、認知に影響を及ぼすという実験が教訓的だ。

この実験は、被験者に一定の運動量でエアロバイクを漕いでもらった後、「どれくらい長い距離を漕いだか」を見積もってもらう。運動中には決められた量のスポーツ飲料を飲む必要があるのだが、この飲み物に仕掛けがある。

あるグループは、糖質で加糖されたゲータレードで、別のグループは、人工甘味料を加えてありカロリーゼロのものになる(味は同じ)。被験者は自分が口にしたゲータレードが普通のものだと思っている。

45分間漕いでもらった後、自分が漕いだ距離を見積もってもらう。結果は瞭然で、カロリーゼロの被験者の方が、糖分をとったほうよりも、より長い距離を漕いだと申告したという。

お腹が空いているときは物事をネガティブに考えがちだというが、「お腹が空いている」ことを自覚しているかによらないようだ。むしろ、物事をネガティブに捉え始めたら、ひょっとして糖分が足りなくなっているのかも……と考えたほうがよいかも。

他にも、糖分に限らず身体性が認知を歪ませる実験が紹介されている。

例えば、坂の傾斜を見積もる研究が面白い。老若男女の様々な被験者を集め、色々なシチュエーション下で、これから上る坂の傾斜度がどれくらいかを答えてもらう。

結果はこうだ。スポーツ選手など、運動能力の高い人ほど、坂の傾斜を低く見積もる傾向があるという。運動能力の高さはそのまま身体の効率的な使い方につながるため、坂の傾斜という障害も、より楽に見えるのかもしれぬ。

「身体を鍛えれば、世界が変わる」というフレーズは陳腐に聞こえるかもしれないが、比喩ではなくホンモノなのだろう。

「身体能力」が、あなたが世界にどのように「適応」しているかを左右する。自分は世界をありのままに見ているというのが私たちの共通感覚だ。だがそうではなく、私たちは「自分が世界にどのように適応しているか」を見ているのである。

(『なぜ世界はそう見えるのか』デニス・プロフィットp.77)

これ、逆に考えると腑に落ちやすい。体調を悪くしたとき、普段は何でもない階段がキツく見えたり、衰えてくると駅まで歩く道のりを遠く感じたりする。私は、世界をありのままに見ているというよりも、私が関われる身体能力の範囲に見え方が左右されているのかもしれぬ。

メタファーと認知

「世界をどのように見ているか」というテーマは、ジョージ・レイコフのメタファー論からも解説されている(私のレビューは『レトリックと人生』はスゴ本に書いた)。

例えば、「上」と「下」の表現だ。人の気分や感情は、向きなど存在しない。しかし、「気分が上向く」「ダウナーな感じ」というように、上と下の向きがある。そして、「上」はポジティブで生き生きとした隠喩で扱われ、「下」はその反対だ。

これは、私たちの行動を見ると分かる。気分が良いときは立ち上がるし、なんだったら飛び上がるかもしれない。反対に、元気がないときは座り込み、ひどいときは横たわったまま動けなくなる。

こうした行動に裏付けられるレトリック表現を用いているうちに、世界をそうしたメタファーで理解するようになったのかもしれない。

こうしたイメージについて、「上」や「下」という言葉すら必要ではないことを検証する実験がある。

被験者は、2つの箱に入ったビー玉を、一つ一つ指でつまんで移動させる。箱は上の棚と下の棚に位置しており、ある被験者は、上の棚の箱にあるビー玉をつまんで、下の棚の箱に移動させる。別の被験者は逆で、下の箱のビー玉を上の箱に移動させる。

ビー玉を移動させている被験者には、「昨年の夏はどうでしたか?」とか「小学校の思い出を語ってください」という質問を投げかける。

すると、上から下へ動かしている被験者は、失敗した出来事や不運なエピソードを語る傾向があり、下から上へ移動させている被験者は、楽しかったことやポジティブな思い出を語ったという。

正直、できすぎている感じもするが、動作イメージが認知を形作ることはありうると思う。ビー玉での実験ではなく、例えば高層ビルのエレベーターに乗って、上昇している時と下降している時でエピソードが変わるかを調査したら面白いかも。

口と手の並行性

身体性と認知のテーマのうち、口と手の並行性の研究も面白い。

まず手から。手は大きいものを握ったり抱えたりできる。一方で、小さなものを摘まみ上げることもできる。手は扱う対象の大きさによって「握る」行為と「摘まむ」行為を使い分けることができる。

そして口について。小さいものを形容するとき、英語では「little」「tiny」など、口をすぼめた形になる。一方で、大きいものは「large」「huge」など開いた口の形になる。「小さい/大きい」は、スペイン語では「chico/gordo(チコ/ゴルド)」、フランス 語では「petit/grand(プティ/グランド)」、ギリシャ語では「µικρός/μακρος(ミクロス/マクロス)」、日本語は「チイサイ/オオキイ」になる。

手を使う対象の大きい/小さいと、発話する口の開きの大きい/小さいについて、並行性があるのではないかという仮説を立て、これを検証した実験がある(※1)。

被験者は特殊なスイッチを手にする。このスイッチは、2つの部分に分けられている。一つは、掌で握りしめることでONにする部分、もう一つは、指で摘まむことでONにする部分である。被験者は画面に表示された課題に応じて、握ってONにするか、摘まんでONにする。

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”Effect of Syllable Articulation on Precision and Power Grip Performance”より引用

そして、ONにするとき、特定の子音を声に出して発話することが求められている。発話する子音は、口を大きく開けるものや、唇を突き出すもの、口をすぼめるもの等、様々なものが用意された。

発話する口の大きさと、スイッチを入れる手の開き方の組み合わせはこうなる。

  1. 口を大きく開けながら、掌で握ってONにする
  2. 口を小さくすぼめながら、指で摘まんでONにする
  3. 口を大きく開けながら、指で摘まんでONにする
  4. 口を小さくすぼめながら、掌で握ってONにする

そして、課題への反応速度、正答率が最も高かったのが、1と2になる。つまり、口の大きさと手の開き方が同じとき、早く正確に回答できたというのだ。一方で、3や4のように、口と手の形が異なるとき、成績が悪くなった。

手の制御と発話、それぞれ全く異なる行動でありながら、神経系が共通していることが炙り出されている。ヒトになるまでの長い間、私たちの祖先は四つ足で行動していた。その間はモノを運ぶ際は、口を使っていたはずだ。

やがて二本の足で歩くようになり、両手を用いてモノを掴めるようになり、なおかつ発話でコミュニケートできるようになるまでにも、長い年月を必要としただろう。口と手の進化に並行性があることは、ここからも想像できる。

口と手の並行性は、私の経験からも思い当たる。赤ちゃんに向かって、「いないいない、ばぁ」というとき、私は両手を広げる。ひと仕事終えて「ぱあっとやろうぜ!」というとき、私は両手を広げる。「むむむ……」と唸りながら考えごとをするとき、私の両手はグーのはずだ。確かに、口の形と手の形は同期している。

身体を通じた理解

私たちが何かを「理解」するにあたって、身体が関与している。このレイコフのメタファー論を裏付ける研究成果も出ている。

例えば、fMRI を用いた脳機能イメージングによる研究だ。行為に関する様々な文章を読んでもらい、それに応じて脳のどこが反応しているかをリアルタイムに測定する。

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Wikipedia 一次運動野より

脳の運動野と呼ばれる場所には、身体部位がマッピングされている。図は脳の断面から見た皮質上の場所と、それに対応する身体部位を示している。例えば「手」の場所が損傷すると、手が自由に動かせなくなる。

被験者には「蹴る」「摘まむ」「なめる」といった行為に関する文を読んでもらい、その時の脳の状態を fMRI で検査する。その結果、「蹴る→足」「摘まむ→手」「なめる→舌」とそれぞれ対応する運動野が活性化することが明らかになっている(※2)。

単純な行為の文章だけでなく、複雑な状況を読んだ場合の研究も進められている。例えば、責任の委譲に関する文を読むとき、両手の筋肉が微動する。これは、「皿を片づける」といった物体を移動させる文を読んだときと同じだという(※3)。

他者の行為を「観察する」ときと、自分が同じことを「行動する」ときの両方で活性化するニューロンをミラーニューロンと呼ぶ。ミラーニューロンの研究は「見る」を契機とする脳の観察だが、このように「読む」を契機とした研究もある。

行為を示す言語表現を読んだり聞いたりするとき、その行為を受け手がシミュレートしていると言えるだろう。

これは、物語が私たちに与える影響そのものになる。

そこに登場する人々が様々な出来事を経て、何らかのリアクションをする。非道な目に遭って辛くて痛い思いをするかもしれない。あるいは、この世のものとは思えない快楽を堪能する場合もある。

私たちは演劇や語りや文章を通じて、そうした経験や感情を「追体験」するというが、ミラーニューロンや身体各部位の神経系によって、文字通り「体感」しているのかもしれない。

この「体感」を引き出すメカニズムを、様々な文学作品から分析しているものが、『文學の実効』になる。文学作品から人の認知の仕組みを解き明かしている。私が物語を面白いと感じるのは、読むことが私の身体に及ぼす影響に薄々気づいているからかもしれぬ。

面白いと感じるとき、私の身体に何が起きているのか。このテーマを考える上で、『なぜ世界はそう見えるのか』は改めて読み解いていきたい一冊。

※1 “Effect of Syllable Articulation on Precision and Power Grip Performance” L. Vainio, M. Schulman, M. Vainio Published in PLoS ONE 9 January 2013 Psychology [URL]

※2 “Somatotopic representation of action words in human motor and premotor cortex” Olaf Hauk 1, Ingrid Johnsrude, Friedemann Pulvermüller,Neuron. 2004 Jan 22;41(2):301-7 [URL]

※3 ”Processing abstract language modulates motor system activity” A. M. Glenberg, M. Sato, L. Cattaneo, L. Riggio, D. Palumbo, and G. Buccino, 2008.Quarterly Journal of Experimental Psychology 61: 905-19. [URL]



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人生最後のチャンスかもしれない『秒速5センチメートル』を映画館で観るのは。

サブスクで見放題なのは知ってる。くり返し見たから。

けれど、映画館で観たらまるで違う作品だった。

音が違う。

ホームを吹き抜ける風の音や、覆いかぶさってくる波の轟音、ブレーキをかける列車の車輪が軋む不協和音が耳を聾するばかりで怖いくらいだった。そして沈黙。深々と降りしきる雪の「無音」がよく聴こえた。列車の連結部の鉄板の音が、第1話と第3話で違うことも分かった。液晶テレビのペラッペラなスピーカーとはまるで違う音響にどっぷり浸った。

光が違う。

恐ろしいほどの解像度で描かれる世界の広がりが、丸ごと目に入ってくる。第1話の暗く沈んだ冬の夜の闇と、第2話の広い青い海原と、そしてラストの桜吹雪と雪のひとひらが対照的で、闇と光の映像対比がやっと分かった。あの手紙を書いている机の単語帳に「confession」とあるのが分かったし、第1話で夜を駆けるアカゲラの翼が翻る様と、第2話で彼女が飛ばした紙飛行機が転回する角度が同期していることも見て取れた。貧相なディスプレイでは分からなかった違いだ。

『秒速5センチメートル』は、現在進行する桜前線に同期して、3/29からリバイバル上映している。やっている期間は非常に限られているので、ディスプレイで観た方は、ぜひ劇場で確かめてほしい。

以下、『秒速5センチメートル』を見たことのない人への紹介。

これは、3編の短編で構成されたオムニバスで、初恋が記憶から思い出となり、思い出から心そのものとなる様を、驚異的なまでの映像美で綴っている。

わたしの心に大ダメージを与えた傑作

私の人生に大ダメージを与えたアニメーションだと言っていい。

ノスタルジックで淡く甘い恋物語を予想していたから、強い痛みに見舞われたのだ。わたしの心が身体のどこにあってどのような姿をしているのか、痛みの輪郭で正確になぞることができた。「痛い」と感じる場所が、心の在処だ。

徹底的に打ちのめされた。涙と鼻汁だけでなく、口の中で血の味がした(奥歯を噛みしめていたから)。それほど長い映画でもなかったのに、疲労感で起き上がれなくなった(ずっと全身に力を込めていたから)。

何度も観ているうちに、「観たときの出来事」が層のように積まれていく。どんな季節に、誰と、何を思い出しながら観たかが、痛みとともに刻まれていく。あるときは彼の気持ちになり、またあるときは彼女に寄り添い、「観た」という記憶が思い出になる。「桜花抄」の焦燥感も、コスモナウトの広大さも、そして「秒速5センチメートル」の切なさも、ぜんぶ宝物だ。

何度も観ているうちに、わたし自身の記憶と重なる。思春期のときに罹る「ここじゃない」感も覚えている。社会人になって心が少しずつ死んでいく感覚も知っている。だからこそ彼にシンクロしてしまい、そのキスが完璧であればあるほど、それに囚われてしまっていることにもどかしく、やるせない気持ちになる。その背中を見ている彼女が純粋でまっすぐで情熱的で、いじらしさを通り越して痛ましさまで感じてしまう。

もっと違う未来があったはずで、何度も観ているうちに、その望む未来になっているかもしれないと期待するのだが、そんな訳もなく。あのラストの一瞬はあのままとなる。

もやもやを引きずって、作品そのものに囚われて、いつまでも未練たらたらでいる。

これは、青春の呪いだ。

一生消えないやつ。ええ歳こいたおっさんになって、ようやく分かった。ちゃんと青春してこなかった私が抱えている呪いで、心の中に大きな穴が空いている。なぜあのとき、あの手を放してしまったのか。もう少しだけ力を込めて引き寄せていたなら、「好きだ」というただ一言を伝えていたなら、違う未来になっていたはず。

でも、現実はそうじゃなく、思慕は日常に圧し潰される。傷心を癒すのに時間ほど最適なクスリはない。ただし、時は恐ろしいほど残酷で、痛みを回復するだけでなく、痛みの元となった思いすらなかったことにしてしまう。

「時間は人にとって最もやさしくて残酷なもの」という、とある昔の物語を思い出す。思いが日常によって上書きされた結果から導かれる、残酷な未来だ。その未来が現実として描かれてるのが第3話の「秒速5センチメートル」になる。君が望もうと望むまいと、君が望む未来は永遠に叶わない。そう宣告されるのは、自分自身なのだ。

秒速5センチメートル=気持ち悪い

この作品を「気持ち悪い」「分からない」という人がいる。その心情は理解できる。

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いつまでも未練に塗れて、しかも自ら行動を起こすことのなくどっちつかずの「無」である彼に不気味なものを感じたり、そういう新海誠作品に涙と鼻水でぐしょぐしょになる男どもをキタナイものとして扱いたくなる気持ちは分かる。さらには、「失恋に傷心する」自分自身と作品を重ねて酔う「しぐさ」に辟易したくなるのも分かる。もう若者でないのに、失った青春に執着する見苦しいオッサンを焼却処分したい衝動も覚えるだろう。予定調和もデウスエクスマキナも見えない物語に、落ち着きの無さを感じるかもしれない。

そういう人には、自分の気持ちについて、上書き保存することも、名前を付けて保存することも叶わなかった人の物語だと伝えるようにしている。

「誰かを好きになる」という不思議な感情を、私たちは持っている。たいていの場合は、うまくいくか、うまくいかないかのどちらかだ。そしてどちらの方向であっても、物語は適切に回収してくれる。

しかし、これはどちらにも倒れていない。保存して過去として扱われることなく、いま現在のメモリとCPUを占めている。食品や肉体ならとっくの昔に腐ってただれ落ちているかもしれないが、残念ながら思念は生き延びる。過去は現在を浸食し、物語の形で伝染する。

この物語を「分からない」という人には、川端康成のこの言葉を贈る。

別れる男に、花の名を一つは教えておきなさい。
花は毎年必ず咲きます。

『掌の小説』に出てくる一節だ。

その恋が、君が望む永遠になる可能性は極めて低い。でも、惚れた男に思い出してほしいのであれば、その男に花の名前を教えなさい。男は花の名前なんて頓着しないかもしれない。だが、情を交わしたあなたが教えた花のことは思い出となる。あなたと別れたあとも互いの人生は続く。そして花は毎年、必ず咲く。男はその花を見るたびに、あなたのことを思い出さざるをえない―――プルーストのマドレーヌのように、花の香りをかいでも思い出してしまう。

これは呪いだ。

『秒速5センチメートル』は、この呪いに掛けられてしまった男の物語なのだ。もちろん彼女は意図していない。桜の花びらが散るスピードが秒速5センチメートルであることと、それが舞い散る雪に重ねて見えることを教えてくれた。込められた想いを大切にするあまり、その思い出に名前を付けて保存することも、上書きして保存することもできなくなるあまり、自家中毒に陥っている……と理解してもらえば、あなたの「気持ち悪さ」も幾分か解消され、彼のことを気の毒に思えてくるかもしれない。

『秒速5センチメートル』の呪いを解く方法

彼の呪いは解けない。

そして、彼の呪いと同調してしまっている男も、自分の過去の思いに囚われてしまう。無かったはずだった青春を、秒速5センチの思い出で埋めようとしてしまう(そして失敗する)。

そんな男どもの呪いを解く方法は2つある。

一つは、もう一度『君の名は。』を観ることだ。『秒速』を観ているくらいだから、もちろん『君の名は。』も観ているだろう。だけど、『秒速』を観た後に『君の名』を観るのだ。すると、前者のラストで交錯しかかる視線に覆いかぶさる通過列車と、後者のラストの並走する電車でガチ合う目線のシーンを重ねることで、呪いの一部は解除されるかもしれない。『君の名は。』は、『秒速5センチメートル』で名前を付けて保存できなかった別の世界線の恋物語なのだから。

もう一つは、小説版『秒速5センチメートル』をお薦めする。映画と同じストーリー展開で、映画と相互補完されえちるが、違う角度からその呪いが描かれている。「そういう物語」として名前を付けて保存すれば、少なくとも読者にとって過去のものとできるだろう。

だが、だとすると、彼の思いは結局どうなるのか?物語によって投げ出された彼の思いを受け止めてしまった男どもには辛すぎるのではないか?

そんなあなたに朗報なのが、コミカライズされた『秒速5センチメートル』になる。全2巻で物語が完結している。そして、胸に深く刺さった槍を抜く、ご褒美のようなラストに救われるだろう。そして、あの手紙を見せてくれることで、あなたは優しくなれるだろう。そして、気持ちはあの夜にすでに伝わっていたことに気づいて、2度、救われるだろう。

ちなみに次回の[オフ会]では、このコミカライズ版『秒速5センチメートル』(全2巻)を紹介するつもりだ。欲しい方はぜひジャンケンで勝ち抜いてほしい。

 

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質の高い仕事は、質の高い課題に宿る『イシューからはじめよ』

N/A

「なぜ、お客が望む通りに見積もりができないのか。顧客ファーストだろう?」とドヤ顔で言い放つマネージャーがいた。自社開発のソフトウェアを組み込む提案をしたときの話だ。

確かに顧客ファーストは重要だが、お客の要望をそのまま実現しようとすると、ソフト改修に設計思想レベルでインパクトがあり、コストも時間も莫大なものになる。見積もるだけでも大変だし、べらぼうな額になるのは必至なので、こう返答した。

「お客のいう通りに見積もるのが仕事じゃないです。お客が目指すビジネスにどう貢献できるかを提案するのが仕事です。見積もりはその一部に過ぎません」

愚かな思いつきばかり口走るマネージャーだが、バカではない。リジェクトされるのが分かっている非現実的なコストを見積もる作業はナンセンスであることを懇々と言って聞かせると、ようやく納得してもらえた。彼の言い分では、経営会議での参考になるからというが、選ばれない方に注ぐ努力は無駄なり(バカじゃねーの!?という言葉を吞み込んだ俺偉い)。

  • お客の要望を100%満たすことに全ての努力を捧げる
  • 「問題かもしれない」ことを片端からトライ&エラーで解決する

あながち間違いには見えないのだが、生産性が悪すぎる。無限の体力と時間があれば、数をこなしているうちに当たるかもしれない。だが、リソースが限られている現場で的を射るには技術が必要だ。

そして、この的を射る技術を言語化したものが、『イシューからはじめよ』である。

世界を救うために1時間与えられたら

イシュー(issue)とは、一般的に「課題」「問題点」などを意味する。ビジネスの上で明確に特定され、解決していくことが目指されるものになる。本書では「本当に白黒はっきり区別する必要のある問題」と述べられている。

「問題かもしれない」と言われることが100あるとすれば、本当に白黒はっきりさせるべき問題は、せいぜい2つか3つくらいになるという。

普通の人なら、がんばって100を分析 ⇒ 優先順位付け ⇒ 対処していこうとするだろう(それだけでヘトヘトになるはずだ)。これを絞り込み、適切な問題にする方法論が、本書の目的になる。ノリ的にはこれだ。。

「世界を救うために1時間与えられたなら、55分を問題を定義するのに使い、5分で解決策を見つけるだろう」

要するに「課題の質を上げよ」ということなのだが、アインシュタインのセリフらしい(真偽不明)。間違った問題に全力投球する愚を犯すより、「これは何に答えを出すためのものか」「そもそも求めるレベルで答えを出せる課題か」といった自問を繰り返すことで、イシュー度(=課題の質)を高めてゆく。

『イシューからはじめよ』は、この55分をどう使うかに全振りしている。読むだけでなく、自分の今の目の前の仕事で実践していくことで、課題の質を磨き上げることができる。

「地球温暖化は間違い」のイシュー度を上げる

では、具体的にどうしていけばよいか?

本書では様々な手法が紹介されているが、ここでは地球温暖化問題について、「So What?」を繰り返していくことにより、イシューである度合いがが高まっていく例を挙げる。

この手法は、漠然としたイシュー候補に対して、「So What?(だから何?)」という仮説的な質問を繰り返すことで、検証すべきイシューが磨かれていくやり方だ。トヨタ自動車のカイゼン活動における「なぜなぜ5回」のアプローチに似ているが、「なぜなぜ5回」は原因究明のためである一方、「So What?」は課題見極めのためにある。

最初の見立て①の仮説に対し、「So What?」を投げかけることで、②の仮説になり、さらにその②に質問することでより具体化され③になり……と、イシュー度(白黒はっきりさせる具合)が高まっているのが分かる。

見立て

本質的な問い

①地球温暖化は間違い

何を「間違い」としているのか曖昧

②地球温暖化は世界一律に起こっているとは言えない

地球の気候に多少のムラがあるのは当然

③地球温暖化は北半球の一部で起きている現象だ

地域が特定されたので白黒つけやすい

④地球温暖化の根拠とされるデータは、北米やヨーロッパのものが中心であり、地点にも恣意的な偏りがある

地域がさらに特定されたので、検証のポイントが明確になる

⑤地球温暖化を主張する人たちのデータは、北米やヨーロッパの地点の偏りに加え、データ取得方法や処理の仕方にも公正さが欠けている

「データ」に加えて「取得方法・処理の仕方」に問題があるという仮説があるため、答えを出すべきポイントが明確なイシューとなる

p.97 「So What?」の繰り返しによるイシューの磨き込みより

①の「地球温暖化は間違い」といった焦点の定まらない主張だと反論しようがないが、⑤にまで磨き込まれていれば、白黒はっきりさせるために何をどう検証すればよいか、見えてくる。

「So what?」の他に、「空・雨・傘」といった技法が登場するため、気づく方もいるだろうが、これはマッキンゼー&カンパニーのコンサルになる。ただし、本書が他のマッキン本と異なるのは、完全に血肉化されているところだろう。

本書は、「コンサルティングファームの報告書のリード文に最終的に何を書くか」を丁寧に解説したものだ。だがこれは、そのまま、「どの課題に取り組めば、成果が出たといえるか(そしてそれをどう伝えるか)」という現場の問題に応用できる。

与えられた問題に疑問をいだかず、唯々諾々と取り組んでいるうちに終業時刻となる。怖いのは、頑張って残業しても終わらないところ。ドラッカー『現代の経営』にこうある。

重要なことは、正しい答えを見つけることではない。正しい問いを探すことである。間違った問いに対する正しい答えほど、危険とはいえないまでも役に立たないものはない

間違った99の課題を正しくクリアしようとする行為は、端的に言って「悪」だ。だから、正しい1つの課題を見出すことに注力しよう。

どうせなら成果が出る仕事に取り組もう。価値のある仕事とは、質が高い課題に宿るのだから。

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