手放してもいい。けれど、忘れたくない物語 こうの史代『空色心経』

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ほんとうに苦しいとき、指一本すら動かせない。起き上がることはもちろん、眠ることすらかなわず、「早く終わりにしたい」という気持ちで一杯になる。

そういうときに、寄り添ってくれる本がある。

もちろん、辛いときは本なんか読めない。それでも、「あそこにあれがある」と思える本、読まずとも握りしめられる、お守りのような一冊がある。私にとってのお守りとなる本は、クシュナー『なぜ私だけが苦しむのか』と頭木弘樹『絶望名言』だ。

これに、本書を追加したい。予感として、ほんとうに辛い日が来ることは分かっている。こんな日々が続くわけがない。出会ったならば別れがあるし、存在するなら(それが何であれ)失われる日が来るだろう。

そのときに、この人のお話を思い出したい。

舞台は現代日本、新型感染症による不安が充満する、少し前の日々を描いたものだ。主人公は麻木あい、スーパーで働きながら、「ワクチンは毒」とする夫とのすれ違いに苦しんでいた。

一方、遥か昔のインド、観自在菩薩が釈迦が独話と対話を重ねる。「在る」とは何か、なぜ私たちは悩むのか、この苦しみから抜け出すには?―――意図してやっているのか、中性的に描いている。

麻木あいは黒色の線で描き、観自在菩薩は青色の線で描かれている。時空を隔てた二つの世界を、代わる代わる二つの色で描く様子は、まるでエンデの『はてしない物語』のギミックのようで面白い。

そしてこの仕掛けは、黒で描かれる麻木あいの苦悩の一つひとつに、青色の文字で答えが示されていることで発動する。もちろん彼女は、青色は見えない。夫婦生活を続けていく上での未練や、「こうすればよかった」といった後悔なんてものは、一切空の立場からすると、実体を持たない。

「苦しい」とか「悲しい」といった感情は、(そもそも存在しない)体や心に執着するから生じるものであって、全てが空っぽであることに気づけば、消滅するはず。そんな千年以上も前の「答え」が青色で重なる。

でも、苦しい思いは確かにある。これを否定しないでほしい。

この「悲しい」と感じる心は確かに存在する。なぜなら、物理的な痛みや、胸が潰されるような感覚があるから。般若心経だろうが何だろうが、この苦しみを無かったことにはできない。そういう思いも含めて青色の線とフキダシですくい上げる。

一切空は、痛苦を否定しているわけではない。「空」は実体がないことを言っているだけであり、「痛い」「苦しい」という意味はちゃんとあるのだから。その痛みや苦しみは、そう感じる私から生じている。

ちょっと面白いなと思ったのは、ギリシャの哲人・エピクテトスと呼応するところ。

自分が死ぬことを恐れている青年に、エピクテトスが告げた言葉だ(『語録』のどこかにあるはずだが、発掘できなかった)。

死は何ら恐ろしいものではない。
むしろ死は恐ろしいという死についての考え、
それが恐ろしいものなのだ。

私は、自分が死ぬとか、大切な人との別れ、病気や事故を恐れる。だけど、私を苦しめるのは、死とか別れとか病気そのものよりも、それに対する思いのほうなのだ。もちろん、「死」という出来事そのものがもたらす苦痛はあるだろう。だけど、それよりも「死んだらどうしよう」などと思い悩む私の感情や判断こそが、私を苦しめるのだ。

これ、言い方を変えるならば、死に対する私の思い悩みから離れることができるならば、たとえ死が訪れたとしても、淡々と死んでいけるだろう。外的な出来事はいかんともしがたい。だが、それへの反応や解釈を見直すことで、それに振り回されずに済む。

この考え方は、知識としては知っている。二ーバーの祈りとか、イチローのコントロールの話とか、耳にしたことがあるかもしれない(変えられないものをスルーして、変えられるものだけに集中する技術)。

しかし、ギリシャの哲人や仏教の教えでも、私たちのリアルな悩みは容易に解決しない。不安をやり過ごす最適解だと知ってはいても、どうやってそれが自分の身に起きるのかが分からない。

それを、物語の演出として上手いこと忍び込ませている。読者は、「麻木あい」という一人の女性の身に起きた出来事に立ち会うことで、こうしたリアルな不安とどのように向き合うのかを知ることができる―――そういう作品なのだ。

黒い線で描かれた世界に交じる青い線に、いつ、彼女は気づくだろう? 苦しみの世界のすぐそばにある青い線に触れさえすれば、その悩みを正しく見つめ直すことができるはずなのに……そういう、もどかしい思いを抱えながら、読み進めるうちに、般若心経の考え方がストンと腑に落ちる。ああ、彼女は私なんだと、未来の私なんだと気づく。

そして、分かってしまえば、なんのことはない。もうこの本を所有していることすらいらない。

次に、私が苦悩するとき―――ひょっとしてそれは、彼女の苦悩かもしれない―――でもそんな時は、この物語を思い出しさえすればいいのだから。モノとしての本は不要で、だれか必要とする人に差し上げてしまってもいい。

手放してもいい、けれど、忘れたくない一冊。



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見切る読書で積読を解毒する『翻訳者の全技術』

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何十年も向き合ってきて、今でも何度も読み直す本がある。辛いとき・キツいとき「あの棚にあの本がある」と思い浮かべるだけで励みになる本がある。もし出会わなかったら、今の私は無かったと断言できる本がある。ガチガチの価値観を更新し、アンパンマンの頭のように「私」を取り換えてしまった本がある。

おそらく数十冊、多くても百冊ぐらいの、そんな本を、エッセンシャルブックと呼んでいる。沢山の本をとっかえひっかえ読んだり、新刊本をブックハンティングするのは、そんな本と出会うためだと思ってきた。

だが、そろそろ振り返って、積読山と向き合わねばならぬ。

理由は2つある。

ひとつは、量こそ遥かに多いけど、クズみたいな本が大量にある書店よりは、年月をかけて賽の河原のように積んできた山の方が、「あたり」を引く確率が高いこと。

もう一つは、残りの人生ぜんぶ費やしても、この山を読みつくせないことは明白であるばかりか、この山から選んだ「あたり」を読む時間すら残されていないから。

とはいえ、本を読むスピードと、本を買う+借りるスピードは、比ぶべくもない。積読は山ならぬ山脈を成し、家のあちこちで繁殖する。仕方がないのだとあきらめるか、自虐的になるか、それでもあがく。

そんな時に、山形浩生『翻訳者の全技術』を手にした。これは、翻訳に限らず、山形浩生の読書論であり人生論であり「知との向き合い方」を語った本だ。

読書家の悩み「積読」

で、山形に言わせると、積読は、本に対する裏切りだという。どこかの誰かに読まれるだろうという期待を込めて作られた本を読まずに積むのは、期待を踏みにじる行為だという。死蔵された本は文字通り死んでいる。

痛い。ド正論で、めちゃくちゃ痛い。

でも、そういう自分はどうなん?と思う。

彼は、ピケティ『21世紀の資本』をはじめ、様々な領域で大量の本を翻訳してきた。Linuxのようなオープンソースの古典『伽藍とバザール』、囚人実験の先駆け『服従の心理』、Netflixでドラマになってる『エレクトリック・ステイト』などを翻訳している。めちゃくちゃ引き出しがある人で、真の教養人といえる(彼の紹介する本や解説には、めちゃくちゃお世話になった)。

彼の本棚の写真を見たことがあるが、とにかくデカくて横幅のあるやつだった(もちろんそれだけじゃないだろう)。

だから、その正論は諸刃の剣ともいえる。自分も積読に悩まされるんじゃないの?

正解だった。

彼は白状する、本棚の前を通るたびに「すみませんすみません」と罪悪感に囚われていたという(ここ笑った)。積読とはそういう後ろめたいものであり、借金の督促状みたいなものだという。

この先は、twitterでやってる半分自虐、半分自慢みたいな積読話になるかと思った。あるいは、『積読の本』に登場する12人の積読家のように開き直るのだろうかと半ば期待した。

しかし山形は、正論パンチを続ける。

20代、30代ならご愛敬だが、「いつか読む」という可能性は、先送りすればするほど失われる。「読まない本にこそ価値がある」などと言ってみせるのは倒錯であり、放置すればするほど精神は淀み、知は腐敗するという。

積読について開き直ったりやせ我慢をしたり、何かしらポジティブな主張するのが流行っている。そうしたエクスキューズを一つひとつ抽出し、丹念に潰してゆく。言い訳を先回りして塞ぎ、弁解や逃げ口上をつるし上げる。

以下なんて、完全なホラーだ。心拍バクバク、血圧マシマシ、冷や汗タラタラしながら読んだ。

そうした無価値の山と化した積ん読を放置しているのは、その人の怠慢であり、未練でしかない。そしてそれを「読まなくったっていいんだ」とうそぶくのはごまかしであり、自分が目を向けられずにいる己の失敗やまちがい、自分のかつての浅はかさ、そして何より、自分の怠慢と先送り。やると言ってやらなかった数々の小さな積み重ね。果たせなかった約束の数々。できもしないことを、できる、やると大見得切ってしまった恥ずかしさ。もう読むことはないと自分でもわかっている積ん読には、そのすべてが淀んでいる。 そうした無数の無責任、不義理。かつてのプライド。

しかし、なんだか様子がおかしい。

この本は、インタビュアーを相手に放談会を行ったもののまとめだ。そのため、話が突然スライドしたり深みにハマったりしている。だが、この積読の箇所だけは妙に腰を据えて神妙に語っている。

おそらく、これは彼の体験であり、反省であり、告白なんだろう。

本を読む人なら誰だって、言われなくても分かっている。それをあえてド正論で追い詰めても仕方ないことは分かっている。だから、これは、かつての自分に向けた正論パンチなんだろう。

積読を解毒する

では、そんな山形が、どのように積読山を崩していったのか。

読まない本とは、かつて自分が自分にした約束の不履行だ。他の誰にも任せられない後ろめたさは、時間が経つほど毒を持つ。

私の場合、「『あとで読む』は、後で読まない」と肝に銘じ、一頁でも一行でも「読んだ」ことにしている。

本当は、そんなことをしても読んだことにならず、単に自分をごまかしていることは百も承知だ。それでも、莫大なお金と時間を費やして集めてしまった山を前にして、正気を保つために必要な儀式だと思っている。

彼の場合、一冊ずつ取り組んでいったという。「これはすごい本に違いない」というハードルを、手元の一冊を読むことで下げる。相手の手のうちを見抜きながら、その著者や分野への期待効用を下げていく読み方だ。

本書で自身が述べているが、山形浩生は頭がいい。

この「頭がいい」とは、対象の本質をすばやく理解し、自分の言葉で説明できるという意味だ。「結局何が言いたいの?」という問いを常に発している人だ。

もちろん「結局何が言いたいの?」というスタンスは誰だって持っているだろう。だが彼の場合、これを徹底している。本を読むとき、頭(テーマ)と尻(結論)を先に読んで、あらましを捕まえる。推理小説でも末尾の種明かしから読むとのことだ(もったいなくない?)。

「結局何なの?」と突き詰めていくと、大したことを言っていないことに気づくという。トロツキーはスターリンの罵倒を繰り返しているだけだし、ピンチョンは思わせぶりなネタを並べるだけで無内容だし、フエンテスも反近代的な妄想をまぶしているものばかりだという。

すごいと思い、いつか読んでやろうと積んでいた本は、実はそんな大したことないことに気づく。自分で勝手に期待していたものに、自分で幻滅していく。「こんなものか」と気づいてしまう

これは、知的対象を神棚から引きずり下ろすような態度だ。山形の読書は、「崇高な対象への崇敬心」を丁寧に解体していくベイズ推定的なプロセスとも言える。

つまりこうだ。そもそも積読山に刺さっているということは、「これはすごいに違いない」とか期待したからそこにある(事前確率やね)。

でも、実際に本を読み進めていくと、それっぽいネタが並んでいるだけで整理もされていないし、前作と似たような展開だと気づいてしまう。

もし本当に「すごい本」なら、きっとこんな内容であるはずという期待との一致度(尤度)が乖離している……なので、「読んでみたけど、大したことないかも」という事後確率が更新されていく。

こんな風に、主観的に信じた仮説(=すごい本)を、実際の検証(=読書)によって体系的に修正していく。このやり方、多かれ少なかれ、誰もがやっていることだろう。だが彼の場合、それを徹底的にやる。本質をつかみ取る頭の良さを発揮して、「結局何なの?」を突き詰める。必要なら原著にあたり、自分が理解するために翻訳する(彼が翻訳してきた膨大な本は、もとはと言えば自分の理解のために始めたものが多いという)。

私なら「エラい人が誉めているけど俺に理解できないのは、俺が足りないから」と尻込みするところを、原著に当たった上で「そいつ自身が分かってないまま有難がってるだけじゃねーか」と切断する。

これだと、ガッツリ崩していくことができる。彼は10年かけて、「見切って」いったという。彼が若いころに影響を受けた橋本治と対談をした後、強く失望して、「見切る」ところなんてかなりキツかったと思う。

これ、すごく分かる。というか、分かりすぎて怖い。

例えば、私はコーマック・マッカーシーが好きだ。

『すべての美しい馬』なんて好きすぎて何回も読んでいる。おまけに英語を勉強しぃしぃ、あの難解な原文にも挑戦している。けれども、『すべての美しい馬』から始まる国境三部作も、『ブラッド・メリディアン』も『地と暴力の国(ノーカントリー・フォー・オールドマン)』も『チャイルド・オブ・ゴッド』も『ザ・ロード』も読んできた。

なので、だいたい手の内は分かる。モチーフを変えてもテーマは変わらない。読後感も想像できる。だから、最後の2作とされる『ステラ・マリス』『通り過ぎゆく者』は、積んだままだ。「こんなものか」と思いたくないから。

おそらく、積読山を本格的に崩すには、こうした自分でかけた呪い(幻想)を解呪していく覚悟が必要なんだろう。

でも、そんな「見切る」ような読み方をしていったら、どれもこれも「大したことない」になってしまうのでは?それは山を崩すには効率的かもしれないが、本を楽しむというより、本を読む自分を評価するような読書になってしまうのでは?

それでも、残るものはあるという。見切るとは「こいつはダメ」ということではなく、もうこれ以上読まなくてもいいということ。その作家なり分野の本質的な輝きを見せる本は手元に残しておく。フエンテスの『アウラ』やディレーニの『時は準宝石の螺旋のように』は保存してあるという。

おそらくそれが、彼にとっての、エッセンシャルブックなのかもしれぬ。

私の場合は何だろうか。それを見限ったら、私でなくなってしまう作品。マッカーシー『すべての美しい馬』やウィリアムズ『ストーナー』だろうか。開高健は全て隈なく読んだが、『オーパ!』だろうか。レイコフ、ベイトソン、ボルヘスは、新しく手を出すよりも再読したい(せねば)と考える。

何が残るかと「見切る」ことによって、積読を解毒していく。そういう読書が、必要なのかもしれぬ。

……とはいえ、彼が絶賛していたフエンテスの『アウラ』は手に入りそうなので、新たに積読山に入れるんだけどねw

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狂気で片づけるにはあまりにも人間的な物語『花びらとその他の不穏な物語』

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すべての人間はモンスターであり、
人間を美しくしているのは、
私たちのモンスター性、
他人の目から隠そうとしている部分なのです
(グアダルーペ・ネッテル)

この著者の言葉どおりの短編集。すごく好き。人間の不穏当な部分に光を当て、そこで育まれる狂気を静かに描き出す。人の持つモンスター性から、一切の暴力を削ぎ落すと、こんな人生になるのかしら?と考えると愉しい。

例えば、夜な夜なパリのトイレを探し回る男を描いた「花びら」。男が探しているのは、ある女性が残した痕跡だ。

並々ならぬ嗅覚へのこだわりがある男は、人目にさらされない唯一の場所に残された印(しるし)を匂いのかたちで思い出にしていた。白い便器についた一筋の液体に心身の不調を嗅ぎ取ったり、鴨のマンゴーソースといった料理がどのように「解釈」されたかを分析していた。

女性用トイレを探索するたび、新しい解釈を見出し、刺激的な発見に心をときめかせていたのだが、ある日、独特の香りと出会う。第一印象は控えめなものの、生命深部から湧き出る生々しさに虜になる。「フロール(花)」と名づけ、その痕跡の主を探そうとする。

見咎められるリスクを慎重に回避しつつ、毎晩毎晩、フロールを探し求める―――読者は、その異常性を目の当たりにしつつ、これは極めて自然に描かれるラブストーリーであると考えざるを得ない。

果たして男はフロールを見つけられるのか?出会った二人に何が起きるのか?

不穏な雰囲気のまま、読者はラストにたどり着く。これも一つの愛の物語なのだろうと自身を納得させるしかない。そんなストーリーが6つ、用意されている。「まぶた」の写真を撮り続けるうち、理想のまぶたを追い求める男や、男の私生活を、道一つ隔てた部屋から覗き見する女など、歪んだ、でもひたむきな執着心と向き合う。

なぜ、こんなに不安にさせられるのだろう?

すぐに気づくのは、「理由」がないことだ。

どの物語でも、誰が何を求めているのかが詳細に説明される。全てのストーリーは一人称で語られているため、隠されるものは無い―――にも関わらず、「なぜ」については、塗りつぶされたように現れてこない。

主人公の目を通して、読者は、物語の目撃者となるのだが、何が起きているのかクリアなのに、どうしてそうなったかは自分で考える他ない。もちろん「こいつは狂ってる」と一言で片づけることだってできる。でも、そんな風に考える人は、そもそもラストまでたどり着けないだろう。それほど、ひたむきで、執拗で、自然な想いなのだ。

小説好きなら、他の作家のオマージュのようなものを嗅ぎ取って、嬉しくなるかもしれない。

例えばこれ、「盆栽」の冒頭だ。

結婚して以来、ぼくは日曜日の午後、青山植物園を散歩する習慣があった。仕事を家事―――週末に家にいれば必然的に、妻のミドリにあれこれ用事を頼まれる―――から解放され、のんびり羽を伸ばすひとつの手段だ。ブランチをすますと、何か本を手に近所をぶらぶらし、新宿通りに出て東門から園内に入った。

名前のない「ぼく」が語り手で、感情を抑制させ、淡々とした日常から入るやり方、読みやすさと軽やかさを兼ね備えた翻訳調……と言えばあの人を思い浮かべる人も多いだろう。『ノルウェイの森』を読んだ人なら、「妻のミドリ」に反応するかもしれない。

これが村上春樹の小説なら、「ぼく」はこの後、謎めいた女と出会って深い仲になるのが定番だ。だが、「ぼく」は謎めいたお爺さんに出会うことになる(お爺さんの名前は「ムラカミ」だ)。ハルキ風味を醸しつつ、まるで違う未来へ連れていかれる(これが二重に愉しい)。

あるいは、ある男の生活をひたすら覗き見する女を描いた「ブラインド越しに」もそうだ。男を「あなた」と呼び、その行動を観察し、見えない部分は妄想し、反応する女の様子はエロスよりも執念じみたものを感じる。

なぜ女がそのような行動をするのか、理由は一切説明されない。一方、覗き見される男も不可解な行動をとるのだが、その理由は分からないままだ。

読んでるときは気づかなかったのだが、これ、ホーソーンの「ウェイクフィールド」のオマージュのように見える。

「ウェイクフィールド」とは、妻子ある身でありながら、ある日、「ちょっと出てくる」と家を出て、そのまま帰ってこなくなった男の名前だ。彼は、自分が家出した家の通りを挟んだ向かい側に部屋を借り、妻の暮らしを観察しながら、何年もひっそりと暮らす―――のだが、この男女を逆転すると、「ブラインド越しに」が成立するように見える。

「なぜ、そんなことをするのか?」が説明されない宙吊りの状態が続くと、読み手は、無理にでも理由を持ってこようとする。不穏さを楽しむにはちょうどいい。

作者は、「もともと人はそういうモンスター性を秘めた存在だ」という動機があり、それをどういうモチーフにすると面白いか?といった設計で、これらを書いているように見える。

そこで描かれる登場人物のモンスター性は、読み手が内に秘めたモンスター性とは異なっている。そのため読者は、自分の習癖(性癖・手癖・執着)に気づくことなく、安全な場所から読んでいられる。

安全に狂気を楽しめるものの、読み終えると、それは、狂気ですらないことに気づかされるかもしれない。

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脳は不確実性を最小化する推論エンジンだ『脳の本質』

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まず結論、脳の本質は「予測」になる。

脳とは、過去・現在・未来に生じる不確実性を最小化する推論エンジンというのが、本書の主旨だ。

私たちは、感覚データそのものを見たり感じたりすることはできない。知覚できるものは、知識(生成モデル)に基づき「予測」した世界になる。身体の外だけでなく、身体内部の環境を予測するため、感覚データと予測との間に生じる誤差(予測誤差)を最小化するサイクルが稼働している。

私たちはよく、「現在の状態から未来を推論する」というが、その現在ですらリアルタイムに把握しているわけではなく、過去の推論に拠るものだ。刻々と変化する環境において、脳は、ひたすら予測と後付け(予測の上書き)を続ける。「現在」とはそこにあるものではなく、私たち一人ひとりの脳により決定されたものなのだという。

ベースは、神経科学者カール・フリストンの「自由エネルギー原理(Free Energy Principle)」だ。脳の機能をベイズ的推論として捉え、生物の知能を統一的に説明することを目指している。

これまでの研究成果と、そこから生じる疑問をあまりに上手く説明してくれるので、手品のタネを見るような読書となった。

「見る」とは何か

「見る」という行為の説明が面白かった。

私たちが「見る」とき、カメラで撮影した画像を解析しているかのように「見て」いると思っていた。だが単純に画像データを分析して、線や面や光の当たり具合を判別して、そこに写っている対象を認知しているわけではなく、もっと複雑なことをしているようだ。

脳は直接外界を「見る」ことはできない。一方、網膜に写った映像から得られるものは感覚データだ。脳はこのデータを元に、外界の状態を知覚するのだが、ここにベイズ推論が行われている。

脳はあらかじめ「このような状況であれば、こういうものが見えるはず」という事前分布を持っていて、そこに感覚データが入ってくると、それに基づいて「今、何が見えているのか?」という事後分布を推定する。これはまさにベイズ推定の枠組みであり、脳は確率的な推論装置として働いているとも言える。

このとき脳は、「予測(=事前分布)」と「感覚入力」の差(予測誤差)をできるだけ小さくしようとする。この差異を最小にするように内部モデルを更新していく働きが、自由エネルギー理論における「自由エネルギー最小化」と呼ばれる原理である。

私たちが「見る」とき、見る対象といきなり対峙するのではなく、その場所や身体の向き、光源や視覚の状況から「こういうものが見えるはず」が分かっている。一方で、見る対象の一部が何かで覆われていたり、本来の色や形でないことがある。それでも見たものを認知することができる。

例えば、白熱電球に照らされると、白いものはオレンジ色がかっている。しかし私たちは、(オレンジ色に見えてても)白いものだと分かる。あたかもカメラのホワイトバランス調整がされたように認識できるのはなぜか。

それは、脳が「この照明のもとでは、白いものがオレンジがかって見える」という環境モデルをすでに持っているからである。そのため、網膜にオレンジ色の刺激が届いていても、脳は「これは白熱電球のせいだ」と判断し、“本来の色”として白を知覚する。

これは感覚入力をそのまま受け取っているのではなく、脳が状況を加味して予測誤差を修正している結果だ。この一連のプロセスは瞬時に行われるため、普通、私たちは意識の上にすら上ってこない。

優れたバッターは「未来」を打つ

バッティング経験が豊富な打者の例も面白かった。

打者の瞳に映ったボールが視覚野に入力されるまでに0.1秒かかる。さらに、脳からの信号によって筋肉が収縮するまでに0.1秒。つまり、打者が「見た」と思ってから実際に体が反応するまでに、合計0.2秒のタイムラグが存在する。

マウンドとバッターボックスの距離は18.44m。時速150km(=約41.7m/s)のストレートなら、およそ0.44秒でキャッチャーミットに到達する。

つまり、見てから判断して振るならば、わずか0.2秒ちょっとのあいだに、ストレートなのか変化球なのか、どんなコースに来るのか見極めなければならない。人間の処理能力としてはほとんど限界に近く、実際には「見てから判断する」だけでは間に合わない。

にもかかわらず、経験を積んだバッターは、ボールを「見て」いると言う。投手のモーション、肩や肘の角度、指先のリリースの仕方、ボールの初期回転など、わずかな情報を総動員して、球種や軌道を瞬時に「予測」している。いわば、打者の脳は、ほんの一瞬の映像から、未来のボールの位置を計算している。

加えて、打者の体は、運動を先取りするように準備を始めている。構えた状態からの体幹のひねり、バットの角度、手首の使い方、スイングの速度や加速度——それらを実現するための指令は、脳の運動野から発せられ、少し先の未来である「ミートの瞬間」を想定して、筋肉に伝わる。

このとき脳が目指しているのは、「未来の筋感覚」、つまりまだ来ていないはずの感覚を先取りして打ちにいくことだ。これが自己受容感覚(筋感覚)としての「予測」であり、打者の内部モデルがもたらす運動の設計図である。

一方で、打者の腕や体幹の筋肉から脊髄を通って脳へと送られる信号は、現在の身体の状態に関する情報だ。

現在の感覚信号と予測信号の差が予測誤差になる。これがゼロになるように、脊髄の運動ニューロンはリアルタイムで修正を加えながら、わずか数十ミリ秒先の未来に向けてスイングを完成させる。

バッターに限らず、私たちの脳は、身体を動かす前に、未来の筋感覚を予測した信号を発する。運動ニューロンは、筋肉の収縮度合いだけでなく、関節の曲がり具合や曲がる測度、加速度まで符号化している。

これは、実際に身体を動かさなくても、スイングしている人を見た場合や(ミラーニューロン)、自分でイメージする場合でも発せられるという。運動は期待の自己実現といわれるが、私たちは脳だけでなく、身体によっても認知を行っているのだ。

「怒り」の正体

推論エンジンとしての脳は、運動だけでなく、感情についても同じように説明できる。

「感情は伝染する」と言われるが、怒り狂う人を見ていると、こちらも不快な気分になり、怒りっぽくなる。また、呼吸や脈拍など、内臓の状態にも左右されることが多いという。

スタンリーとシンガーによる研究で、被験者にアドレナリンを投与する実験があった。あるグループには、投与される薬剤は血圧や心拍数を上げる作用があるという説明があり、別のグループには何の説明もなかった。

被験者の中にはサクラがいて、投与後の効果を測定する部屋で、わざと皆を怒らせるような言動をする。被験者は自分の感情や生理的興奮度を報告する……といった実験だ。

予想通り、薬剤の説明があったグループの人は冷静だった一方で、説明の無かったグループでは、サクラに振り回され、一緒に怒る人が多かったという。

心臓はドキドキするのだが、その理由が分かっているならば、怒りという感情に至らず、身体に生じていることの理由が不確実である場合は、感情に振り回される。

私たちが感情を言い表す際、「腸が煮えくり返る」「心臓をワシづかみにされる」「肝を冷やす」など、内臓を使う表現が多い。内臓と感情は結びつきがある証左ともいえる。

だが、脳からすれば、直接内臓を把握することができない。血圧や脈拍や感覚データから判断するしかないという点では、身体の外の認知と同様だ。脳は、身体に生じているデータ(内受容信号)から原因を推定しようとする。その予測の差が小さければ何も生じないが、差が大きく、不確実であるほどネガティブな感情―――例えば怒りが生じるというのだ。

実際には、不確実性が増した場合、そのときの感情価(快不快)と覚醒度によって、喜びや恐れ、怒りといった感情につながるという。

脳の推測が期待したものに添わないほど不確実性が増し、ネガティブになるという理屈は、私の感覚にも合う。また、これを逆手に取るならば、怒りが生じたとき(生じそうになったとき)、原因をできるだけ早く突き止めるだけで、怒りを治めることができるかもしれないという考えにも同意できる。

この怒りを観察するという姿勢は、仏教の「正見(しょうけん)」に通じるものがあって面白い([恐怖なしに生きる]に書いた)。

私たちは、絶えず変化する環境に対し、モデルを学習する。このモデルは現在を推論するだけでなく、未来を予測するためにもある。世界を探索し、適応的で予測可能な知識を用いることで、「こうしたらどうなる?」という疑問に答える能力を鍛えている。

予測誤差が生じた場合、モデルを書き換え、記憶し、知識を更新する。それは、過去・現在・未来に起こりうる、推測と現実の差を最小化することで、私たちの究極の目的―――生き延びる―――を実現するというのだ。



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「自分は大丈夫」という人に『だます技術』

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大学を卒業したてのころ、詐欺にひっかかった。

手口はこうだ。

まず、私宛に郵便が来る。

  • あなたの年金保険料に未納があり、受給できなくなる
  • 〇月✕日までに、未納分(4万円ぐらい)を振込め
  • 不明点は、XX-XXX-XXXX(担当者名)まで連絡すべし

宛先の住所氏名は合ってるし、ちょうど親から「4月から社会人なんだから、保険料は自分で払え」と言われたばかりだった。さらに、引っ越しの準備で切羽詰まっていたので、「早く振り込まないと給付資格が失われる」と焦って振り込んでしまった。

なぜ詐欺なのか分かったのかというと、ホンモノの督促状が来たから。引っ越しのドタバタで郵便物や振込控えは失われており、あきらめるしかなかった。

4万円の授業料は高くついたが、このおかげで、「自分はそんなものにひっかかるわけない」と思っていた人生から変わった。

つまり、私の人生には、「詐欺にひっかかる」という選択肢があると思うようになった。そのため、郵便物、メール、美味しい話、個人情報の入力、口座決済、明細や控えなどを、「騙されているかも?」という目でチェックするのが自然になった。

もし、あなたの人生において「詐欺にひっかかる」ことがあるならば、それはどのような選択肢になるのかを解説したのが『だます技術』だ。

  • AIで音声や顔を変えて有名な投資家になりすます
  • 「サッカーの代表試合をリアルタイムで見たいのに間に合わない人」を狙う
  • 期間限定・場所指定で「お得なチラシ」と思わせる
  • ワンタイムパスワードでも騙せるやり方

本書には、24の詐欺の手口が紹介されている。エッセンスだけ抜き出しているから、「こんなのに騙されるわけがない」と思うかもしれない。だが、リアルではもっと巧妙で複雑で、様々なテクを組み合わせて仕掛けてくる。

あるいは「騙されるほどカネ持ってないし」と思うかもしれない。だが、大金ではなく僅かな金額を少しずつ騙し取られていくこともある。「騙されている?」という目で見ないと分からないようにカモフラージュしてくる。

さらには、あなたではなく家族が狙われることがある。どんなにあなたが注意深く気を付けていても、家族から攻略されるなら、防ぎようがない。

そんな現実に、予防保全として本書が役に立つだろう。おそらく、本書で紹介される詐欺の手口はニュース等で知っていることが多いかもしれぬ。だが、騙される側がどのように考えているかは、発見があるはずだ。

生成AIやスマホアプリといった、現代的なものもあるが、基本的な詐欺の手口は変わらない。詐欺チームは、あなたの感情に訴えかけ、認知を歪ませ、判断を誤らせるプロフェッショナル集団だ。巻頭に折り込みがあって、24の詐欺の例が書かれている。キリトリ線で切り取って、家族の目につくところに貼るだけでも、魔除けになるかもしれぬ。

「詐欺にひっかかる」という選択肢が人生に現れたとき、「これ進研ゼミでやった」と言えるようになりたい。

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税とは略奪である『課税と脱税の経済史』

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税の本質は略奪だ。

こん棒を手にしてた昔よりは洗練されてはいるものの、「ある人から奪い、ない人からも奪う」という本質は変わらない。こん棒が別の呼び名になり、略奪システムが巧妙になっているだけ。本書の前半を読むと、様々な試行錯誤と権力闘争の元に、人類の英知を結集し進化してきたものが、現代の税制だということが分かる(不完全じゃんというツッコミ上等。それは人類が不完全である証左なり)。

一方、脱税は多角的な側面を持つ。

上に政策あれば下に対策あり。税回避は、国家の略奪への対抗手段ともいえる。あるいは、政府よりも最適な資源配分をするための経済合理性を追求する行為だ。あるいは、法の抜け穴やグレーゾーンを見出し、そこで資源を最大化する戦略的なゲームだ。本書の後半を読むと、貧民から富豪まで、創意工夫を尽くして進化してきたものが、税回避のいたちごっこであることが分かる(これは人類の歴史が続く限り続く)。

『課税と脱税の経済史』は、奪う側と奪われる側の双方の視点から、古今東西の歴史を振り返り、「なぜ我々は税金を納めるのか」「そもそも税とは何なのか」を炙り出す、いわば「税の世界史」ともいえる。

税逃れの爆笑エピソードから、強制力の行使による無慈悲で残酷な結末、人間の行動心理の裏を衝いたやり方など、豊富な事例を眺めていくうちに、私が囚われている税への偏見と刷り込みが、クリアになってゆく。そこでは、人類の最悪な部分と最善な部分の両方を垣間見ることができる。この知的興奮がたまらない。

源泉徴収制度の「自然さ」と「不自然さ」

税への見方が360度ひっくり返ったのが、源泉徴収だ。

会社が給料を支払う際、予め税金を差っ引いた額が振り込まれる。わたしが受け取る時には税金は徴収済みというわけだ。召し上げられた税金は、会社がまとめて国に納める。取られた税金は、年末調整で返ってくる。面倒くさい確定申告は会社がやってくれる―――そんな風に考えていた。

だが違う。

源泉徴収の起源は古く、ナポレオン戦争の時代まで遡る。もとは、住み込みの使用人の納税義務を主人が肩代わりする制度だった。「賃金を支払う」というプロセスの一環で行われ、使用人一人ひとりから徴税するよりも、効率的に集めることができる。

所得税なのだから、被雇用者である「わたし」に対して課税されるにも関わらず、実際に納付するのは雇用主である故、納税しているという感覚が薄い。こういう巧妙な仕組みを発明したのはどこかというと―――世界史のなかで最も悪徳を積み重ねてきた国とだけ言っておこう。

今では賃金だけでなく、金利や配当、株式売却によって得られるキャピタルゲインの課税にまでこの方式が用いられている。また、途上国では、スマホなどの輸入品にまで源泉課税の対象となっているという。

このように「自然に」納税しているシステムだが、本書を読みながら改めて考えるとヘンだ。こうある。

年末になると年間の税額が再計算され、源泉徴収された金額と照合される。源泉徴収されていた額が過多だった場合、納税者から政府に無利子貸し付けを行ったことと同じことになる。
(『課税と脱税の経済史』p.366より)

この「納税者から政府に無利子で貸し付けられた」という発想は無かった。

言われてみれば確かにそうだ。納税が遅れると、延滞税という形で利子が課される。これは、延滞利息のようなものだ。延滞利息は取るのに、還付金(わたしの給料の一部)の利子は付かないの?

年末調整で返ってくるのは、税金ではなく、わたしの給料だ(「還付金」という別名になっているので、勘違いしやすい)。「わーい、【税金が】返ってきた」と無邪気に喜んでいたが、政府に貸してた【わたしの給料が】返ってきたのだ。だから、利子の一つも貰いたいもの―――と発想が転換される。それほど長期間でもないし、微々たるものかもしれない。だが、会社全体、いや、法人全体からすると、結構な額になるだろう。

こういう風に考えられてしまうのは、政府にとってかなり都合が悪かろう。

源泉徴収制度は、戦費調達のために1803年のイギリスを皮切りに世界中に広まった。アメリカの源泉徴収制度の設計者の一人であるミルトン・フリードマンは、後に大いに後悔したという。

「反乱を引き起こすことなくここまでの増税が可能になったのは、政府が国民の金を、彼らが目にする前にとりあげているからだ」
(『課税と脱税の経済史』p.368より)

数百年かけて浸透し、当たり前のように運用され、この制度ありきで世の中が回っているため、いまさら異を唱える方が異常なのかもしれない。だが、本書を通じて知った源泉徴収制度に対する不自然な感覚は、忘れずにいたい。

経済学者もお手上げの税の帰着問題

税の帰着問題は、税の負担が、最終的に誰に行き着くのかを特定する問題だ。

課税が企業や市場や投資家や消費者にどのように影響を影響を与えるのかが見えにくいため、厄介な問題だという。

ん?簡単じゃん。

税は、ものごとや人に対して課税される。だから、その「対する」ものが、税の名前の由来となっている。名は体を表すというように、税金の名前を見れば一発でしょう―――と考えていた。

だが、わたしの考えは甘いようだ。

例えば、一般的な法人税について。「法人」に課税するのだから、株式会社だったら株主が最終的に負担する……のではない。

利益に対する法人税が引き上げられると、短期だと株価が下がって株主がワリを喰う。だが、長期で見ると利益水準が低下するから、投資先としての魅力が減る。株主や投資家は、より税負担の小さい分野の企業や、海外の投資先を代替するので、税負担は感じにくいという。

法人税課税を行なう国においては資本ストックが減ることになり、そのために労働生産性が下がり、やがて賃金率も下がる。いずれにせよ、法人税の負担を引き受けるのは富豪ではなく、彼らに雇用されている勤勉な労働者である。
(『課税と脱税の経済史』p.207より)

他にも、より税負担の小さい小規模法人へ企業体を変えたり、租税回避のために負債を増やして資本を調達するという手もあるという。借入金の利息は損金になるので、(税引き前の利益が減るので)税率が引き上げられたとしても影響を受けにくい。

もちろん、シナリオ通りに進むとは限らない。だが、「法人税の最終負担は株主」という図式は一面的であり、著者によると、「法人税の帰着は闇の中」だという。

税の名前が、最終的な負担者だという発想は安直すぎる。

最近だと、トランプ大統領による関税200%のニュースがあった(朝令暮改に終わったが)。特定の産業を保護する意図があったかもしれないが、税の帰着先を考慮せずに強行した場合、短期的には米国内の消費者への負担増や、(米国を含む)経済全体への悪影響が起きていただろう(そして、歴史に学ばないケーススタディとして、経済学の教科書がさらに厚くなっていただろう)。

法に触れない税回避(ただし大企業に限る)

節税ネタや脱税の話が満載だが、庶民レベルだと涙ぐましい話になる(そしてオチは残酷なものが多い)。一方、多国籍企業の有名どころがやっている税回避は、様々な法の目をかいくぐる、高度な知能ゲームのように見えてくる。

例えば米国のここ。

場所は、デラウエア州ウィルミントン市北オレンジ通り1209番地だ。なんの変哲もない建物が見える。だがここには、28万5,000もの企業が入居しているという。

デラウェア州は法人税率が低く、特に法人に対する税制優遇が充実しているため、税負担を軽減するために、ここに本社を置くことが多い。さらに、法人の設立手続きがネットで完結し、匿名性が保持され、連邦税法からも回避できるというメリットがある。

いわゆるタックス・ヘイブンなのだが、本書ではタックス・サンクチュアリと呼んでいる。ヘイブン(避難所)ではなくサンクチュアリ(聖域)という方が、ネーミングセンスがあるといえる。法人税を納める必要があるのなら、可能な限り低税率である場所で納めるほうが、結果的に安く済ませることができる。それだけでなく、連邦法や国際法の司直の手が届きにくいという意味でも、聖域なのだろう。

税回避の基本レシピはこうだ。

世界を見渡すと、税率の低い国と高い国がある。税率の低い国にある子会社Aで資金を調達して、税率が高い国にある子会社Bへ貸し付ける。

子会社Bは、貸付金の利息をAに支払う必要があるものの、利息は経費として計上できるし、税控除の対象となるため、法人税の負担を圧縮できる。

一方、子会社Aは、利息の収入が得られる。この収入には税が適用されるが、そもそも税率が低いため、企業グループ全体として節税ができるという仕組みだ。

移転価格操作と呼ばれるこの手法、さすがにあからさまなので、各国の税務当局にもバレバレだろう。だが、カネではなく、株式や出資などの所有権を提供したり(エクイティファイナンス)、特許や商標などのロイヤリティをやり取りにするといった形にすることで、ある程度の偽装は可能だ。

この手法で、イギリスのスターバックス社は、およそ30億ポンド(4,200億円)に対し、納めた法人税は860万ポンド(12億円)に留めていたという。商標のロイヤリティはオランダの関連会社に支払い、コーヒー豆や焙煎の代金をオランダやスイスの子会社に支払うことで、スターバックス本体は借金まみれにする―――2013年に明るみになったこの手法は、「限りなくグレー」と言われている。

こうしたサンクチュアリについて、ちょっと邪悪な発想を思いついた。

こんな狭い場所に「本社」が集中しているならば、放火や爆破といった「事故」を意図的に起こすことで、名目上は本社機能を停止させることが可能だ。

株は一時的に下がることは明白だから、下がった瞬間に買い、回復したら売ればいい。28万5,000もの企業に及ぶから、その差額は莫大なものになるだろう。実際に爆破しなくても、「爆破予告」だけでも効果が見込まれる(ジョン・グリシャムあたりが既に書いてそう)。

マルサの女

本書は、元IMF財政局次長マイケル・キーンと、公共政策を専門とする経済学教授ジョエル・スレムロッドの共著になる。

そのため、フィクションへの言及があまりなかった。史実の方が小説より奇なりだったのは、リアルの人は、「フツーこんなことはやらんやろ」という馬鹿なことをしでかすから。

なので、本書にフィクション作品を加えたい。史実や現実がこれほど馬鹿馬鹿しい&面白いのだから、脱税をテーマにした作品は、必然的に面白くなる(はず)。日本の税制にも詳しい著者たちにお薦めしたいのはこれ(ひょっとして観ているかもしれないが)。

脱税摘発の超プロフェッショナルであり、日本のタックス・ポリス―――国税局査察部―――人呼んで、彼らをマルサという。

マルサ(税務調査員)として働く女を主人公に、コメディと社会派を融合させた映画だ。脱税する人々をどうやって炙り出し、摘発まで持っていくかを緻密に、執拗に描いている。これ観てきた昭和のオッサンなら、脱税は割に合わないと身に沁みる一方で、旨い汁を啜っている人はカメラにすら写らないんだなーと学習していることだろう(私含む)。

あるいは、スコセッシ監督の『ウルフ・オブ・ウォールストリート』とか、ケビン・コスナー主演『アンタッチャブル』、トム・クルーズ主演『法律事務所』が浮かぶ。

本書は、経済史という体裁を取っているものの、そのサブタイトルに「【悪】知恵で学ぶ租税理論」がついてくる。これに脱税をテーマとしたフィクションをラインナップとして付ければ、『脱税大全』と銘打ってもいいだろう。

税とは略奪だ。やり方は変わっても本質は変わらない。奪われる者、抵抗する者、逃げる者、隠したりごまかしたりする者、『課税と脱税の経済史』には、人類の英知と不完全さ、そして馬鹿さ加減が詰まっている。

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古事記は音読すると面白い『口訳 古事記』(町田康)

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「音読」をテーマにしたオフ会でお薦めされたのがこれ。

日本最古の歴史書であり、神話と伝承の源泉である古事記。とっつきにくいイメージがあったが、河内弁でしゃべりまくったのが町田康の『口訳 古事記』になる。

町田康の文体って、リズム感があって、言葉に勢いがある。大量殺人事件「河内十人斬り」を一人称で描いた『告白』には独特のグルーヴ感があり、ハマると止められない中毒性の高い徹夜小説だった

だから彼の小説は、音読すると面白さマシマシになる。漫才のようなノリツッコミや、寄席のような口上は、声に出して読みたい物語なり。例えばこれ、日本最凶の問題児・スサノオノミコトがスーパーサイヤ人よろしく空を飛んでくるシーンだ。

なにしろ泣くだけで山の木が枯れ海が干上がるほどのパワーの持ち主がもの凄いスピードで昇っていくのだから、コップが落ちた、茶碗がこけたみたいで済む訳がなく、震度千の地震が揺すぶったみたいな感じになって、山も川もまるでアホがヘドバンしてるみたいに振動、国土全体が動揺してムチャクチャになった。

このことがすぐに天照大御神(アマテラスオオミカミ)のところに報告された。

「ご注進、ご注進」
「何事です、騒騒しい」
「えらいこってす、芦野原中国(アシハラノナカツクニ)が動揺してムチャクチャになってます」
「マジですか」
「マジです」

一つ一つの行動が災害級の大迷惑で、読んでる方が「どうすんだよこれ」と呆れていると、「マジですか」「マジです」とすっとぼけた会話でシメる(これ、狙ってやってるリフレインだな)。なお、カミサマの名前の読みはルビがふってあるので安心して音読できる。

声に出すのも憚られるような、糞尿・ゲロ・おっぱい・女陰・エログロ描写が丸だしで、ゲラゲラ笑いながら音読する。ギャグ漫画よりもマンガ的で、神話だから規制無しで、しかもカミサマだからなんでもあり。

ぶっ飛んだストーリーなのだが、さすが神話、どこかで聞いた話と繋がるのが面白い。

例えば、お供えのために、オオゲツヒメという女神が料理を任される。オオゲツヒメは、自分の鼻や口や尻穴からひり出したもので食事をこしらえるのだが、どう見ても鼻汁・ゲロ・糞尿なので、スサノオノミコトが激怒して殺してしまう。

すると不思議なことに、女神の屍骸から穀物が生えてくる。具体的には、眼から稲、女陰から麦、尻穴から大豆が生えてくるのだが、これ、インドネシアのハイヌウェレ神話と酷似している。

ハイヌウェレは尻から大便ではなく食べものをひり出す少女で、彼女を気味悪がった村人から殺されることになる。少女の死体からは多種多様なイモが生えてきて、その地域の主食となったという。

生命を生み出すのは女性。その死体から食べものが生えてくるという食物起源神話は、赤坂憲雄の『性食考』で知った。生きることと食べることの源を女に求めるのは、考えているよりも普遍性を持つのかもしれぬ。

Wikipedia[ハイヌウェレ型神話]より

XRF-Hainuwele

By Xavier Romero-Frias (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

また、女陰を見せつけて大騒ぎするシーンがある。天岩戸に隠れたアマテラスを呼び出す宴会の件だ。天宇受売命という女神が踊り狂ってトランス状態となる。

踊るうちに、玉やら鏡やら神聖な御幣やら、後は祝詞の力、天の香山の木や草の力やら、後は桶の律動的な拍子、踊りそのものなどが合わさって、天宇受売命(アマノウズメ)は神がかって、思考がなくなり神の力そのものとなって、のけぞって衣服の前を両手で左右に引っ張って乳を丸出しにし、それから、下半身に巻いた裳を結んだ紐を押し下げ、腰を前に突き出した。

その結果、女陰が丸出しになった。

その乳と女陰が丸出しになった状態で、首を振り、頭につけた蔓草を振り乱し、手に結んだ笹を振り回し、なお踊り狂った。

神々が集い、天地を揺るがすほどの大爆笑の騒ぎに、「なんだろう?」と気になるのは仕方ない。気になったアマテラスが岩戸を少し開けた後のお話はご存知の通り。問題はヴァギナ・ディスプレイになる。

女性器の世界史とも言えるブラックリッジの『ヴァギナ』で知ったのだが、古今東西、女陰には、魔物を祓い、幸運を呼び込むパワーがあると信じられていた。

ヨーロッパやアジアの神話において、女性がスカートをたくし上げることで、敵を威嚇したり、荒ぶる海を鎮めたり、戦争において士気を高めたという伝承が多々ある。クールベの『世界の起源』の通り、お釈迦様を除いた人類の源なのだから、そこに神秘性を見出すのは、普遍的なものなのかもしれぬ。

こんな風に、破茶滅茶で奇天烈なのだが、どこか懐かしさを覚えつつ読み上げる。アタマで読むのではなく、ボディで味わう感じ。詩のような歌のような呪文のような神々の名が、最終的には地名や言葉の由来となる。自らの正統性のエビデンスとするために編まれた物語が、これほどのエンタメになるなんて。

まさに音読するための一冊なり。

なお、ビジュアルで古事記を攻めたいという方には、こうの史代『ぼおるぺん古事記』をお薦め。ボールペンだけで書かれた絵物語とでもいうべき古事記。エロもグロもエッチなところも余さず丁寧に描かれているのがいい。

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「悪の美学」――魅力的な悪役の作り方『荒木飛呂彦の新・漫画術』

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「悪役が物語を面白くする。魅力的な悪役がいることは名作に欠かせない条件だ」―――累計発行部数で1億2千万部を超える『ジョジョの奇妙な冒険』の作者・荒木飛呂彦は、こう喝破する。

優れた知性やカリスマ、才能と意志の強さ、あるいは独自の哲学を持つ悪役は、単なる「倒されるべき存在」ではない。バットマンに対するジョーカー、ルークにとってのダースベイダーのように、主人公との対立構造をよりドラマティックに仕立て上げ、物語の魅力を大きく引き上げる肝と言える。

しかも、悪役は人である必要はない。荒木先生に言わせると、あらゆる物語は「主人公 vs. 悪役」の構造になっている。主人公の目的や望みを阻むものであれば、なんであれ「悪役」とすることができる。ドキュメンタリーなどでは、社会システムや法制度が「敵」になることだってありうる。

なぜ「悪役」か?

悪役とは、主人公がぶつかり、対峙し、乗り越えるべき困難を体現している存在であり、その障壁が巨大で強大であればあるほど、作品は面白くなる。そのためにも悪役は徹底的に「悪」で「強い」という設定にするのが基本になるという。

僕は『ジョーズ』(1975)が大好きなのですが、何度観ても「素晴らしい!」と思えるのは、海の王者としてのサメを凶悪な殺人兵器のように描き、その圧倒的な恐怖を「これでもか」とばかりに表現しているからだと思います。

確かに!信じられないほど巨大かつ凶暴で、人肉の味を覚えてしまったホオジロザメが、ひたすら怖かった。ただデカいだけではなく、用心深く狡猾で、人間が仕掛ける罠を見抜くほど頭がいい。

『ジョーズ』は、鮫のパニック映画というのでは不十分で、圧倒的に勝てない状況で悪意を持った怪物と対峙する恐怖を描いた物語といえる(最初に見た時、沈みゆくオルカ号のシーンで絶対に勝てないと絶望した)。最近なら『ゴジラ -1.0』で、その絶望を踏まえた上でさらに絶望を上書きする仕掛けになっている。

悪役は、単に強いだけでなく賢く狡猾でなければならない。必ず主人公とセットで考えて、主人公の一歩も二歩も先を行き、読者や観客を「どうやって勝つんだこんなヤツに……」と絶望させなければならない。

悪役が強くて賢く圧倒的であればあるほど、それを乗り越える主人公が輝く。絶望的な状況を逆転するカタルシスに読み手は歓喜する。物語を面白くする要素や仕掛けは多々あれど、「良い」悪役こそが人気の要だ―――『ジョジョ』に登場する強烈な悪役であるディオ・ブランド―や吉良吉影を生み出した荒木先生が言うと、説得力が増す。

ディオ・ブランド―の作り方

では、この「良い」悪役は、どうやったら作ることができるのか?『荒木飛呂彦の新・漫画術』は、悪役の作り方を中心に、面白い漫画やストーリーの秘密を開陳する。

本書を唯一無二にしているのは、ディオ・ブランド―や吉良吉影をどうやって作ったのかを、具体的かつ実践的に解説している点だ。「いわば企業秘密を公開するに等しい」と言われている理由はここにある。

まず、悪役は、主役とセットで考えろという。悪役を魅力的にするために、主人公をどういうキャラクターにするのかが軸になるという。『ジョジョ』第一部では、主人公はジョナサン・ジョースターになる。

そして、必ずしも「善と悪」を拮抗させる必要はないという。ディオのように強烈なキャラにすることもできたが、そうしてしまうと、読者との乖離ができてしまう。

だから、平凡な役回りで、ホームズにおけるワトスンのような「基準点」という位置にしたという。『ジョジョ』第四部の康一くんのような、読者と同じ常識を持っているキャラクターという「ゼロ地点」があるからこそ、そこに悪とのギャップの激しさが浮き彫りになるという。

そうした上で、主人公には絶対に勝てないような強さ、美しさ、カッコよさ、知性、才能を対比させていったという。作品には表現しない可能性があるが、家族関係や生い立ちも考えたという。

そうしたキャラのバックグランドを「身上調査書」としてまとめる。身上調査書とは、キャラの特徴をまとめたもので、名前や身長・体重、出身・経歴といった属性から、性格や生い立ち、将来の夢、何を恐れているのかといった思想的なものまで考える。いわばそのキャラクターの世界観を一貫したものにするペーパーだ。

当時の身上調査書は失われているらしいが、記憶で再現してもらったものがこれになる。

Dio

身上調査書を記入していくことで、ディオ・ブランド―の存在が浮かび上がっていくという。「性格」の欄を埋めていくと「嘘と虚飾」「支配」「排除」といった言葉が並んでいく。

要するにディオはパラサイトなんです。自分の本心を隠してジョースター家という貴族に寄生し、奪えるものを奪いながら、乗っ取っていく。そのときジョナサンが邪魔なので、排除しようとすわけです。そこから、ジョナサンとディオの戦いが始まっていきます。

ディオの悪役がハマっていくことで、「吸血鬼」のアイデアとつながっていったという。当時の『少年ジャンプ』に連載されていたのは、『ドラゴンボール』『キン肉マン』『シティハンター』といった名作&傑作揃いで、その中で自分の個性を出していくためには、ジャンプで誰もやっていないダークな世界につなげる存在が必要だと考えたそうだ。

当時の編集部は、時代を反映してか、もっと明るくイケイケの世界を描くようアドバイスがあったという。しかし、身上調査書のディオとのキャラとは合わないため、自分の意志を貫き、最終的に「吸血鬼」になった。もし、編集部の圧に負けていたら、おそらくジョジョはこれほどメジャーにはならなかっただろうし、本書も無かったと思うと感慨深い。

こんな風に、ディオ・ブランド―を始め、吉良吉影、ファニー・ヴァレンタイン大統領といったジョジョの歴代悪役の身上調査書を公開しながら、どのように悪役を作っていったかを解説する。

悪役の哲学

面白いと思ったのは、悪役を作るときは、その時代時代の価値観が反映されている点だ。

例えば、吉良吉影のデザインには、バブル経済が終わり、「アゲアゲのキャラクターはちょっと違う」という感覚が反映されている。ディオのような最強のカリスマといった、ある意味分かりやすい敵とは一線を画し、日常の中に潜んでいるヤバい悪を目指したという。

これは、猟奇的殺人鬼レクター博士が登場する『羊たちの沈黙』(1991年)や、コリン・ウィルソン『殺人百科』のシリアルキラーが該当する。どこにでもいる普通で目立たずに生きながらも、残虐な罪を犯す存在こそが、時代に相応しい悪役になる。

そして、ジョジョに限らず、その作品が生まれた時代ならではの、カルチャー的な「悪」に目を向けよという。

本書で紹介されているのは、大英帝国の時代を生きたアガサ・クリスティーやコナン・ドイルの作品になる。注意深く読むと、謎やトリックの話を書いているように見えて、その背後には帝国主義が生み出した闇が存在しているという。

それは、ひたすら利益追求を目指すイギリス商人の強欲さだったり、彼らに蹂躙された新大陸の呪いだったりする。そういう時代の影のようなものまでも描くことができるのであれば悪のキャラクターに深みが出てくるという。

このように、悪役には「悪とは何か」という問いに対する、作者の哲学が反映されているというのだ。正しさに相対する悪をとことん考えることによって、「良い」悪役を生み出す―――これが、悪役の作り方の基本になるという。

この考え方は面白い。私は作品を享受する側だが、悪役を通じて作品の価値観のベースラインを伺い知ることはある。

一般に、正義というものは、普遍的な価値観として語られることが多く、一貫性を求められるために画一的で変化に乏しく、いわゆる「お約束」になりがちだ。

一方、「悪」というものは、その時代や社会の価値観に応じて形を変え、個性的な存在として描かれることが多い。怪物的な存在だったり、退廃的で道徳的な側面がクローズアップされたり、あるいは、社会的な格差や構造そのものを「悪」とすることだってできる。

悪には、その時代時代において抑圧された欲望を体現する自由がある。昔は「家父長制」から「ジェンダー優位」「多様性の尊重」まで、それぞれの時代の「お約束」を守らなければならない正義とは異なり、「悪」は計算高く変化し、社会の不条理を衝くことができる。

例えば、「女が自由に生きること」が抑圧されていた19世紀では、若い女を誘惑する吸血鬼は、伝統的な家父長制を揺るがす「悪」として機能していた。あるいは、消費社会において飼い馴らされた男性性を暴力で破壊する『ファイト・クラブ』のタイラー・ダーデンは、「良い」悪役と言えるだろう。

正義という秩序の外側に悪を相対させ、その葛藤が物語を動かす。立ち位置の象徴が、主人公と悪役であり、両者の乖離が激しく、悪が絶対的であるほど、その時代に生きる私たちは、物語を面白く感じるのかもしれない。

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高橋留美子先生を絶句させた短編から大長編『カラマーゾフの兄弟』『失われた時を求めて』を気軽に楽しむ方法、今井美樹『PRIDE』が全く違う曲に聴こえるエピソードまで、「愛と憎しみ」をテーマにした読書会「スゴ本オフ」のレポート

好きな本を持ち寄って、まったり熱く語り合う読書会、それがスゴ本オフ。本を介して人を知り、人を介して本に出会う読書会だ。

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本に限らず、映画や音楽、ゲームや動画、なんでもあり。なぜ好きか、どう好きか、その作品が自分をどんな風に変えたのか、気のすむまで語り尽くす。

今回は「愛と憎しみ」のテーマで、皆さんの推し作品が集まった。知らないけれど気になる作品と出会うだけでなく、プレゼンの熱に当てられて読み返したくなる作品にも再会できた。

皆さんの「このテーマでその作品を語るのか!!」という着眼点が素晴らしく、その眼力と発想に恐れ入る。何を選ぶかも自由だし、選んだものをどう解釈するかも自由だ。その感性がシンクロするときが、とてつもなく嬉しい。

読書は孤独ではないとして「同じ本を読む人は遠くにいる」という言葉がある(by 読書猿)。オフ会をやると、同じ本を読む人は割と近くにいることに気づいて嬉しくなる。

愛のために始まり、憎しみによって終わるドラマ『ブレイキング・バッド』

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私が紹介したのは、テレビドラマ『Breaking Bad』

高校で化学を教える冴えないおっさんが主人公だ。身ごもった妻と高校生の子どもを養い、ローンの返済に追われる毎日なのだが、ある日、肺がんで余命宣告されてしまう。このままだと借金を残すことになり、家族がバラバラになってしまう。そこで持ち前の化学の知識を生かし、超高純度のドラッグを精製して売りさばくという、人生最大の賭けに出る。

ドラッグの品質はダントツで、人気が出るのだが、他の売人やマフィアが黙っちゃいない。そうした連中に巻き込まれていくうち、このおっさん、どんどん悪くなっていく。最初は愛する妻子のためにお金を稼ぐのだが、カネがカネを呼び、愛が憎しみを呼び、引き返せないところまで疾走していく。

その経緯を、ときにコメディタッチ、ときに残虐に、あますことなくつぶさに見させられるのだが、「どうしてこうなった」という言葉しかでてこない。第1話にすべてが込められており、1話を見ると2話を、2話を見ると次々と観たくなる、麻薬のようなドラマだ。

愛によって始まった物語が憎しみによって完結する、そういう傑作が『Breaking Bad』。これを超えるようなすごいドラマがあったら教えて欲しい(ただしゲーム・オブ・スローンズを除く)。

高橋留美子先生を絶句させた傑作短編『半神』

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確かにこれは「愛と憎しみ」だ!と膝を打ったのが、ナリナリさんが推しの萩尾望都『半神』。短編集『半神』の冒頭に収録されている、わずか16ページの短いマンガだ。あの高橋留美子先生をして、「あれは・・16ページ・・16ページであれを・・」とバグらせたといういわくつきの神作だ。

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萩尾望都『半神』より

ナリナリさんの圧のあるコメントを引用する。

オススメの理由は、物語の内容と形式がここまで見事に調和した作品が存在することを誰かに知ってもらいたいから。要約すると「結合双生児の妹に姉が愛憎を抱く話」となるでしょうか。

しかし、この要約では本作の良さは伝わりません。漫画という視覚メディアによって、容貌も含めて容赦なく描き出される”姉と妹”の視覚的な対比があってはじめて凄みが生まれる作品です。

本作に出会ったことで、物語にはその内容に適した形式があり、それに則って語られたときにいっとう輝くことを知りました。

一度読んだら一生忘れられなくなる傑作を、わずか16ページで描き切るだけでも凄いのに、漫画という媒体のビジュアルに乗せて「愛と憎しみ」を畳みかけてくるのも凄い。そう、まさにこれこそ「愛と憎しみ」がテーマの作品と言える。

愛の歌がまるで違って聴こえる「PRIDE」

今井美樹 -「PRIDE」Music Video

びっくりしたのが、ミムラさんご紹介の今井美樹『PRIDE』

ん?

「私はいま~」で始まるやつでしょ? 愛する人への思いを「やさしさとは、許し合うことを知る」とか「わがままさえ、愛しく思えたら」といった歌に込めた、やさしさに溢れる良いバラッドじゃん。おっさんホイホイの名曲だと思う。

確かにこれは「愛」なんだけど、「憎しみ」は? と思っていたら、この曲が作られた時代と、作った人―――布袋寅泰の話になる。時系列で言うと、こんな感じになる。

 1986 布袋寅泰と山下久美子が結婚
        ★
 1997 布袋寅泰と山下久美子が離婚
 1999 布袋寅泰と今井美樹が結婚

山下久美子との結婚当初、布袋寅泰のネームバリューはそれほど無かったという。ヒットメーカーである妻とすれ違いがちになるのだが、そこで現れたのが今井美樹。音楽活動を通じて接近したと言われるのだが、当時は「略奪愛」だのバッシングがあったという。

私「PRIDE」が発表されたのは★のタイミング。ちょうど不倫のドロドロ三角関係があったという時期に重なる。

このゴシップ、私は知らなかったのだが、知ってしまった今、同じ歌がまるで違うものに聞こえる。これを作詞作曲し、どういう思いで今井美樹に歌ってもらったのかと考えると、味わい深いものになる。美しい歌詞の裏には、愛だけでなく様々な感情が込められているのかもしれぬ。

王道を音読する『失われた時を求めて』

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王道なのが、よしおかさん推しのプルースト『失われた時を求めて』だ。

フランス文学、いや20世紀の文学を代表する全14巻の大長編で、「私」という語り手が幼少期から成人するまでの人生を振り返る形で進み、貴族社会の衰退とブルジョワの台頭を背景に、記憶や時間、愛、芸術といったテーマを考察したもの。

よしおかさんは、音声SNSであるClubhouse(クラブハウス)で音読会をしながらゆっくり読んでいるとのこと。岩波文庫版を読んでいるのだけれど、メリットは注釈が非常に充実している点だという。

それも、「その時点での」注釈であるところが素晴らしい。例えば、ある登場人物に注が付いており、それを読むと、どこで登場したかが事細かに書いてあり、長い小説にありがちな「こいつ誰だっけ」を解決してくれる。

注釈だけでなく、場面索引というのもある。最初は、こんなの付けてどうすんだと思ってたけれど、音読しているうちに、場面を思い出して「そういえばこんなんだっけ」という気にさせてくれるという。

フランスの歴史や地名を知らなくても、注が付いているので安心すればいい。どんどん読んで、どんどん忘れてしまっても、ちゃんと注釈が補ってくれる。

お薦めの読み方は、14巻の中から、目をつぶって1冊抜き取り、そこから読むというやり方。注釈がしっかりしており、ストーリーらしいストーリーはなく、情景描写の累積だからなせる読み方だという。伏線がどうかとか、心理描写と場面のここがつながっているといった考察も研究がなされており、注釈に反映してある親切設計。

基本的に、主人公の「私」とそのガールフレンドだけ見ていればいい。「私」のガールフレンドへの想いは、まさにラブ&ヘイトになる。主人公に1ミリも共感できず、バカなやつだなぁと思うのだが、そういう、人の人生を淡々と眺めるような読み方ができる。

私の場合、1巻だけ読んで、貴族もブルジョワもひっくるめ、鼻もちならないフランス的なマウンティング合戦にウンザリして投げたことがある。ヘンに構えず、元気なうちに読んでみようという気になった。

王道をオーディブルで『カラマーゾフの兄弟』

もう一つの王道が、ズバピタさん推しのドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』だ。

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ドストエフスキー最高傑作の一つとされる長編小説で、メインストーリーは、父親殺しの謎を軸に、兄弟が異なる思想や感情に翻弄される姿が描かれている。その根底に流れるものは、人間と人間同士の「愛と憎しみ」という相反する感情のせめぎ合いだ。極端な感情のぶつかり合いを描きつつ、それでもなお人間が「救済」や「赦し」を求める姿が浮かび上がってくる。

愛憎劇の決定版ともいえるカラ兄なんだけど、ズバピタさんは面白い取り組み方をしている。本ではなくオーディブル版を堪能しているという。ナレーターの演じ分けが素晴らしく、思わず引き込まれてしまうとのこと。

父フョードルと長男ディミトリーが、ひとりの女性を奪い合う近親憎悪のエグさが真に迫る感じで、ラジオドラマを聴くようにドストエフスキーの世界に浸れる。まだ2巻までしかないのが悩みどころという。

カラ兄は何度も読んで、今も読み返しているのだけれど、ラジオドラマのように聴けるのは知らなかった。2巻は、ゾシマ長老のところに兄弟たちが集まる場面が収録されているみたいだが、カラ兄の中で2番目に笑えるところなので聴きたいwww(一番笑えるのは、チキチキ!絶対に笑ってはいけないゾシマさんのお葬式)。

「愛と憎しみ」の作品リスト

テレビドラマ、マンガ、音楽、小説、オーディブルと、お薦めされた作品を紹介した。

他にも、ガチのホラーから、子ども向けの絵本の朗読、ミステリー、ファンタジー、SFなど、今回もたくさん集まった。「愛と憎しみ」というテーマ、最初は難しいと思ったけれど、皆さんのお話を伺っているうちに、どんどん芋づる式に出てくるのが嬉しい。

愛と憎しみは反意語のように扱われるが、けっこう近いところにいる。愛の反対は憎しみではなく無関心だとマザーテレサが言ったとか言わなかったとか。一方、憎しみの反対も愛ではなく無関心だろう。愛も憎しみもアドレナリンを放出し、強い感情でドライブする。

物語をドライブするのは愛憎にまつわる感情や行動だ。そういう意味で、物語になりやすい要素とも言える。このテーマに合うものは、源氏物語や聖書を持ってこなきゃダメかと思っていたけれど、もっと気軽に眺めるなら、そこら中にあるものなのかもしれぬ。

『モンテ・クリスト伯』アレクサンドル・デュマ(岩波文庫)
『ヴィンランド・サガ』幸村誠(講談社)
『Breaking Bad』(AMCテレビドラマ)
『からくりサーカス』藤田和日郎(小学館)
『ムーンフラッシュ』パトリシア・マキリップ(早川書房)
『ポルトガル短編小説傑作選』ルイ・ズィンク(現代企画室)
『マレー素描集』アルフィアン・サアット(書肆侃侃房)
『血ぬられた光源氏』藤本泉(アドレナライズ)
『春にして君を離れ』アガサ・クリスティ(ハヤカワ文庫)
『重力ピエロ』伊坂幸太郎(新潮社)
『プロジェクト・ヘイル・メアリー』アンディ・ウィアー(早川書房 )
『悪魔の手毬唄』横溝正史(角川文庫)
『償いの雪が降る』アレン・エスケンス(創元文庫)
『異端の肖像』より「生きていたシャルリュス男爵」澁澤龍彦(河出文庫)
『八ケ嶽の魔神』国枝史郎(講談社)
『ウェン王子とトラ』チャンジエンホン(徳間書店)
『失われた時を求めて』プルースト(岩波書店)
『哀れなるものたち』(エマストーン主演映画)
『フランケンシュタイン』メアリ・シェリー(光文社古典新訳文庫)
『偶然の確率』アミール・D・アクゼル(アーティストハウス)
『数字に弱いあなたの驚くほど危険な生活 病院や裁判で統計にだまされないために』ゲルト・ギーゲレンツァー(早川書房)
『子どものための哲学』永井 均(講談社現代新書)
『半神』萩尾望都(小学館)
『夜は一緒に散歩しよ』黒史郎(メディアファクトリー)
『PRIDE』今井美樹
『冗談』ミラン・クンデラ(岩波文庫)
『Under the Rose』船戸明里(幻冬舎コミックス)
『カラマーゾフの兄弟』フョードル・ドストエフスキー(オーディブル版)

 

オフ会の告知はここでしているので、気になる方はどうぞー
facebook:スゴ本オフ

 

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不安障害に『このすば!』、抑うつ状態に『ワンパンマン』、グリーフケアに『葬送のフリーレン』、パーソナリティー障害に『チェンソーマン』、処方箋としての物語『実践・アニメ療法』

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Bさんは30代前半の女性会社員。真面目一筋の完璧主義者で、勤務先の評価も高く、最近昇進したばかり。業務だけでなく責任が増え、仕事のチェックを任されるが、時間的余裕はなく、焦燥感とイライラがつのるようになる。会議の席でミスを指摘されたのをきっかけに、自分を許せなくなり、動悸、冷や汗、めまいの日々が続くようになり、ついに通勤電車で動けなくなる。

精神科医は、まず抗不安薬と休職を処方し、不安障害の急性期を乗り越えた後、アニメ療法を提案する。Bさんと相談し、『この素晴らしい世界に祝福を!』(このすば!)を用いてセラピーを開始する……

アニメ療法?

聞きなれない言葉だが、物語療法の一つとして、有力視されているという。受診者の体験や考え方を「物語」として捉え、それを見直し、再構築することで、心の負担を軽減するカウンセリングだ。

アニメ療法とは

アニメ療法は、アニメを活用して精神的・心理的なケアを行う新しいアプローチのこと。もともとは、「物語療法」が出自となる。

私たちは、生きていく上で何らかの信念を抱えている。この信念は人生を形成するテーゼとなり、周囲の人間関係や世界観を形作っている。通常なら自身を肯定するこの信念が、何らかの失敗体験をきっかけとして、自分を否定するようなものに変わったらどうなるか?

そんな経験は、皆さんもあるかもしれない。成績がふるわないとか、受験や就職に失敗したとか、仕事が上手くいかない、上司や同僚とのそりが合わない等、上手くいかないことが多々ある。

そうした失敗体験を「自分のせいだ」としてしまうことがあるかもしれぬ。自分の努力が足りないとか、性格が悪いからと、自分こそが問題の原因だと決め付けてしまう。この認識が次の失敗を招き、自己否定を強化するという悪循環に陥ってしまう。

このスパイラルから抜け出すためには、まず「自分=問題」という支配の物語から脱出する必要がある。カウンセラーは受診者との対話を通じて、支配の物語の元となっているものを探ると同時に、「自分」と「問題」を切り離して考えるように促す(これを外在化と呼ぶ)。

物語療法は、この脱出の手助けとなる。

いまの悪循環を直接書き換えるのではなく、まず、代替となる人生を、物語の形で提示する。受診者は、物語と比較しながら、自身の体験や考え方を「物語」として捉え、見直し、再構築することができる。

カウンセラーは、物語への感情移入を促し、キャラとの類似性を考えてもらい、キャラを通じて、受診者が抱えている問題の外在化を図る。自分の人生と直接向き合うのではなく、物語やキャラとの比較をしながら、自分と問題とは別物であり、問題には解決方法があることに気づくのだ。

物語療法は、元は小説や映画で用いられていた。このブログでも、以下のガイドブックを紹介している。

文学の手法を取り入れた医療『ナラティブ・メディスン』

鬱に効く映画『シネマ・セラピー』

アニメ療法は、この物語療法の流れを汲む。アニメの場合、一つのお話が30分と短く、小説を読むよりも手軽でエネルギーを使わなくて済む。デフォルメされたキャラや背景は、映画よりも情報量が少なく、物語に没入することができるという。

さらに、アニメであれば何でもよいというわけではないという。受診者と相談しながら作品を選ぶのだが、ポイントとしては「抑圧と葛藤で自己表現ができない主人公」が「何かをきっかけとして変身し、自分も含め環境を変えていく」ストーリーが含まれるものを挙げている。本書で紹介されている作品を見る限り、いわゆる「日常系」は入らなさそうだ。

『このすば!』によるカウンセリング

カウンセリングは、1回につき数十分から1時間程度、全部で7セッションに渡る。

セッションの序盤は、いきなり受診者に焦点を当てるのではなく、「物語の意義」がメインとなる。どんなお話だったか、好きなキャラと嫌いなキャラ、気に入ったセリフや、キャラの行動に賛成/反対するところを、自由に語ってもらう。

中盤になると、キャラの性格や行動と、受診者との共通点を探ることになる。「なぜ好き/嫌いなのか」「どうしてそう思ったのか」といった質問を投げかけ、自分の悩みと似ている点を、自身の言葉で語ってもらう(ただし、焦点は作品に当てる)。

さらにセッションが進むと、キャラがどのように問題を解決していったかに焦点を当てる。どのように悩み、葛藤し、克服していったかを参考にし、自身の悩みの軽減策を探っていく。どんな小さい例でも良いから、キャラの問題解決と似た出来事を思い起こしてもらう。

『このすば!』は、異世界転生モノの先駆けになる。運だけは強い主人公カズマと、いろいろと残念な女神アクア、Mっ気のある変態クルセイダーのダクネス、爆裂魔法を一日に一発しか撃てない魔法使いのめぐみんたちが織りなす、おバカでちょっとHなギャグアニメなり。

異世界ファンタジーだから、その世界での使命なり冒険が待っているもの。だがカズマはその日暮らしに明け暮れる。「魔王討伐」という分かりやすいミッションがあるのだが、ガン無視する。で、行き当たりばったりでなんとかなってしまうお気楽さと、ノー天気なスタンスが好き。

Bさんもカズマの「深刻に考えすぎない性格」や「失敗しても前向きに受け止める楽観的なところ」を評価する。構えず、気軽に人と話せるところを、自分には無いものとして受け止めている。

カウンセラーは、「物語でのカズマたちの失敗」と、Bさんが「現実の自分において失敗だと感じていること」の違いに注意を向ける。そこでBさんは、失敗という出来事ではなく、失敗の感じ方がカズマと違うことに気づく。

「カズマは自分のことを笑えるんですよね、皮肉屋さんだから。悲しい出来事も茶化したりして、アクアは他人の間違いを許せることがすごいと思います。他人の不完全なところを受け入れられるのが。 自分の間違いだけではなく、他人の起こしたトラブルに巻き込まれても受け入れて……」

出来事そのものが決定的なのではなく、その反応を変えることができたなら、カズマのように深刻に考えずに済むのではないか、と考えられるようになる。

さらにセッションを重ね、物語の出来事を話し合ううちに、『このすば!』は、魔王討伐というメインクエストから外れて、サブクエストだけで構成されており、「脱線してもいいし、そっちの方が楽しいよ」というメッセージが込められていることに気づく。

そして「頑張らなくてもいい」というスタンスになるためにどうすればよいかを、カズマが解決してきたクエストと、自分の現実とを比較しながら考えるようになる。

アニメ療法の例

カウンセラーは、物語にあるテーマや教訓を押し付けるのではなく、「その物語からどう感じたか」について、受診者と一緒になって考える。

  • 目標を見失って無気力になっている学生と、どんな敵でもワンパンで倒せるが故にヒーローとしてのモチベーションを喪失しているサイタマとの共通点を考える
  • 最愛のペットを失って日常生活に支障をきたすほど悲しむ女性と、「なんでもっと知ろうと思わなかったんだろう」と嘆く魔法使いフリーレンの気持ちを考える
  • 切り詰めた生活からイライラが募り攻撃的になっている男性と、「なぜデンジがこれほどまでに騙されやすいのか」を考える

私がアニメを見るのは、「面白いから」というだけかもしれない。だが、こうした事例を通じて考えると、私のどこかでアニメに救われているものがあるのではないか?と感じられる。

私自身、『このすば!』のノー天気さに爆笑して「頑張らなくてもいい」と思えた瞬間がある。あるいは、フリーレンの嘆きを自分に当てはめて、「後悔だけはしないように」と考えるようになっている(ちなみに、フリーレンを観た後、意識して妻様との会話の時間を長くするようになった。おそらく私もしくは妻様が死ぬとき、「なぜもっと一緒の時間を過ごさなかったのだろう」と嘆くだろうから)。

アニメ療法は良いことだらけのように見えるが、課題もあるという。

まず、アニメの選定が難しいこと。メンタルがやられると、アニメを30分見るということすら難しくなる(ましてや1クール見るのは大変すぎる)。この場合、短いアニメにするか、受診者が過去に見た作品にするといった対策があるという。

さらに選んだアニメで失敗する場合もある。いじめによるトラウマがある受診者に『聲の形』を紹介したり、うつ病を患っている人に『宝石の国』を薦める例が出てくるが、むしろ悪化しないか心配になる。

また、保険診療の対象になっておらず、自費診療なのが現状になる。アニメ療法の有効性を示すエビデンスが十分に確立されておらず、標準的なプロトコルや医療行為としての法的枠組みもできていない状況だ。

課題はあるが、アニメならではの親しみやすさや、既存の物語療法との親和性など、メリットもある。VRやAIと組み合わせてインタラクティブ性を持たせ、オンラインカウンセリングにも応用できるだろう。

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«「なぜ小説を読むのか」という問いへの応答としての『小説』