世界を丸ごと理解するために「科学哲学の冒険」
「おまえは科学リテラシーが足りない」なんて言われると、グゥの音もでない。
理系をハナにかけてる輩からふっかけられると、いつもこうだ。でも科学ってなんなの?極論すれば、科学って宗教の一種でしょ?誰も見たこと/聞いたこと/観測すらできないことを、信じる・信じないの話じゃないの?ホラ、高度に発達した科学は魔法と変わらないなんて言うし――そんな独善に陥っていたわたしに、良いお灸になった。
もちろん原子は肉眼で見えないが、たしかに実在している。そしてその原子の本当の姿について、人類は知識を深めていっている――これは"常識"の範疇なんだろうが、この常識的な考え方をただ信じるだけでなくて、議論を通して正当化しようとする――これが、本書のテーマ「科学哲学」だ。
…なのだが、どうも著者が主張したい「科学的実在論」の形勢は不利だ。科学は確かに知識を深め、役に立っているのだが、哲学の凶器「相対主義」のバッシングに耐えられそうもない。いわゆる、「お前がそう思うんならそうなんだろう お前ん中ではな」というやつ。では客観性のための実験はというと、「ヒュームの呪い」「グルーのパラドクス」「決定不全性」を出してきて、帰納に対する懐疑論という寝技に持ち込む。
著者は一つ一つの批判に辛抱強く反論してゆくのだが、その反論にさらに反論が重ねられ、とてもスリリングな展開になっている。スルーすることもできるのに、わざわざ強力な反論を持ってくるので、「著者はマゾか?」と呟くこと幾度か。
そうした積み重ねが、「科学とは何か?」という問いに対する答えの歴史になっている。対話形式の構成は、この問答にぴったり。読者の「どうして?」を先回りするように質問者が訊いてくれるのだ。テツオとリカコという典型的な文系/理系キャラで、質問をためらうほど初歩的な(けれど重要な)議論もなされる。
たとえば、科学と似非科学の違い。結局はカール・ポパーの反証可能性で結着をつけるのだが、そこから科学の真のありようが見えてくる。つまりこうだ。ポパーによると、科学とは仮説を反証する試みになる。したがって、立てられる仮説は、どんな結果がでたらそれが間違いということになるか、ハッキリしなければならない。科学は「どうなったら間違いか」が明白だし、似非科学はそうではないというのだ。
これは面白い。なぜなら、科学の定義の中に、「間違っている」ことを含んでいるからだ。考えてみると、たしかに科学の歴史の中には、後で間違いだったと分かった主張がある(エーテルや熱素)。間違いの有無は、科学であるか否かとさしあたり関係はなく、「間違った科学」が、それでも「科学」だと言えるのは、間違いを証明できるからなんだ。
なるほどなるほど、と首肯するわたしをヨソに、著者は自分の首を絞めにかかる。でも、「その科学が間違っている」「真理を明らかにしている」って、どうやって分かるの?科学が人の営みである限り、人の主観に依存しない物自体にはたどり着けない。「科学の科学」あるいは「メタ科学」でも持ってこないと、この疑問は解けないぞ。
残念ながらこの議論には、ズバッとした結論がでない。「科学とは何か?」をめぐる様々な主張はスッキリと整理されているのだが、帰納への懐疑があまりにも強力なのだ。最初に"常識"と呼んだ科学に対する"信用のようなもの"は、ロジカルに証明され得ないが、だからといって、著者の思いが色あせることはない。「科学とは何か?」という問いに対し、こう述べる。
科学というものは世界を理解しようという試みだ
そして実際に、世界を理解できる試みのように私には思える
上の主張を、単に"常識"として流すのと、徹底的に疑った上で「思う」のとは、ずいぶん違う。科学を合理的に疑うために、本書はかなり有用な一冊となった。さらに、盲目的に「科学」を信じているのとは、違う目線を得ることができた。
以下は自分メモ。現在翻訳中とのこと。
カートライト「いかにして物理法則は嘘をつくか」
How the laws of Physics Lie, Oxford U.P.,1983
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