「ジャンプ最高のマンガ」がバラバラになる理由『好き嫌い 行動科学最大の謎』

「週刊少年ジャンプで最高のマンガは?」

この答えは、必ずといっていいほど割れる

気持ち的にスラムダンクを推したいが、やはりドラゴンボールだろうか。だが、ワンピこそ最高という人、完結さえすればH×Hだという人、売上的にも鬼滅という人、様々だ。

面白いことに、学生時代の友人だと被るのに、若者と話すと違ってくる。たしかに呪術やヒロアカは凄いけど、それを「ジャンプ最高傑作」と言われると違う気がする。

老害承知で「ドラゴンボールって知ってる?」と尋ねると、「知ってはいますが、読んでません」とにべもない。さらに、「あれ好きな人って、マンガだけでなく、ゲームやアニメで何度も目にしているから好きなんでしょ?」と畳みかけられる。

ううむ、確かに……

ドラゴンボールがジャンプ最高傑作である理由

私のモヤモヤは、『好き嫌い 行動科学最大の謎』で解消される。

何度も目にしたキャラや、あちこちで耳にした音楽が好きになる。これは、単純接触効果という名前がついている。くりかえし触れることで、そのキャラや音楽を学習し、認知が容易になるためだという。

つまり、認知処理が容易であれば心地よく、それが刺激そのものに対する感情に移し替えられるというのだ。なるほど、「オレンジ色の道着」というだけで想起できるぐらい、わたしの認知処理は馴染んでいるのかもしれぬ。

ただし、何度も接触すれば好きになるかというと、そうではない。

これは、テレビのCMやネット広告でよくある。何度も触れているうちに、キライになる場合もある。

なぜか? この疑問にも、本書は答えている。

ポイントは、最初に意識された印象によるという。特に肯定的でも否定的でもなく、単に目新しい、という条件であれば、接触を繰り返すことで好みを高める。

だが、初めの感情がわずかでも否定的だった場合、接触が繰り返されることで、キライが積み重なっていく場合があるという(※1)。

「第一印象が最悪だったけれど、会っていくうち好きになっていく」というラブコメの王道パターンは、ファンタジーなのかもしれないね。

「ジャンプ最高傑作」が割れる理由

そうはいっても、接触効果だけで説明がつくのだろうか?

よく売れていて、馴染みがあるものが、自動的に一番になるのだろうか。ほんとうに、「売れてるものが一番なら、世界で一番おいしいラーメンはカップ麺だ」なのだろうか?

本書では、その秘密にもメスを入れる。

ホルブルックとシンドラーの研究によると、人は、23.5歳のときに聴いた音楽を、最も好む傾向がある(※2)。この時期は、人生で最高感度の臨界期であり、コンラート・ローレンツの「刷り込み」のように、ここで聴いた音楽が長く耳に残るというのである。

これの傾向は、レミニセンスピーク(レミニセンスバンプ/Reminiscence bump)という言葉でも説明される(※3)。

記憶に残るほど衝撃を受ける出来事や変化は、青年期~若年成人期に起こるというのだ。この頃に聴いた音楽は、記憶の中に残りやすいことになる。

Lifespan Retrieval Curve.jpg
Reminiscence bump より引用(Public Domain, Link

過去の「良い」と感じた音楽だけが、記憶の中で残り続ける。だが、現在は、「良い」と感じた音楽も、そうでない音楽も耳に入ってくる。過去だけが、自分の良いと感じたものを再生できるというのだ。

記憶とは、自分の聴きたい曲だけを流すラジオ局のようなものだ。好きな音楽のことを考えて多くの時間をすごしたなら、その音楽を聴けばいまでもすぐに思い出があふれてきて、快感をくすぐられるのは当然なのである。

なるほど、私がスラムダンクやドラゴンボールを最高だと思うのは、それを若いころに読んだからだということになる。フライングで買えるコンビニまで30分自転車こいだ記憶や、深夜のテンションで友だちと回し読みした思い出も込みで、「最高」と感じているのかもしれぬ。

そして、自分が若いころに読んだ/聴いた作品がスペシャルになるが故に、「ジャンプ最高」は割れるのだろう。

他にも、作品が賞を受賞すると、Amazonの★評価が大きく下がる理由や、フィギュアスケートや音楽コンテストで、後の演者の方が得点が高くなる理由など、興味深いトピックが紹介されている。

行動科学の観点から「好き/嫌い」を探ることで、自分の「好き」がいかに不確かでバイアスにまみれているかが明らかにされる。

本書は、骨しゃぶりさんのお薦めで出会うことができた。骨しゃぶりさん、ありがとう!


※1 Richard J Crisp and Bryony Young “When mere exposure leads to less liking”

https://www.researchgate.net/publication/5308635_When_mere_exposure_leads_to_less_liking_The_incremental_threat_effect_in_intergroup_contexts

※2 「モリス・ホルブルックとロバート・シンドラーの研究」とあるが、論文名は原注がないため特定できず(『好き嫌い』p.171)

※3 Howard Schuman and Jacqueline Scott “Generations and Collective Memories” American Sociological Review Vol. 54, No. 3 (Jun., 1989), pp. 359-381 (23 pages)

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英文読解の思考プロセスに特化した『英文解体新書』

英語を読むのが苦手だ。

たとえばこれ。

That the guy survived the accident surprised everyone.

意味は分かる。難しい単語は無いから、単語だけをつなげばなんとなく分かる。でも、それじゃダメなんだ。

問題なのは、最初の That が何なのかを知るために、最後まで読む必要があるところ。

この That は、「あの」を意味するザットじゃなくって、「奴が事故を生き延びたこと」を指していて、なおかつ、この文全体の主語になっている。それに気づくために、全部読む必要がある(←ここがダメ)。

これ、短い文だからなんとかなってしまうけれど、ちょっと長くなると、たちまち問題が顕在化する。

Although almost everyone admits that social media has changed the way in which people live, whether it will remain as popular in the years to come as today remains to be seen.

最初が Although だから、前提とか条件なんだろうな……とかあたりを付けるんだけど、その中で主語や動詞が出てくるので、どこがどこに掛かっているのか迷子になる。

得意な人なら、that や in which、カンマを道しるべにして頭から読み解いていくのだろう。だが、それができない。いったん文章を最後まで読み、後戻りして意味を当てはめながら構造を考えている。

もちろん、そういう勘所は、普段から英語に慣れる環境を作り、多読多聴することで自然と身につくものなのだろう。だけど、そこまで英語を頑張るつもりはない。論文の概要や tweet をサクっと読めればそれでいい。

それも、なるべく少ない努力で、頭から構造が分かる(推理する)ことができるようになりたい。

英文読解の思考プロセスに特化した参考書

ムシが良すぎる目標だが、読書猿さんからお薦めされたのが『英文解体新書』だ。一言で述べるなら、英文を読むための思考プロセスに特化した参考書になる。

どこに着目し、どういう風に考えると、正しく読解できるかを体系化し、100語~200語程度の例題を実際に読むことで、その力を身につける。

たとえば、最初の例文だと、予測を立てて、英語の語順に従って選択肢を絞り込む方法を提示する。

  1. 最初の That を見た時点で、次の可能性を考える。

    A. That が代名詞として、文の主語となっている場合(That is great.)

    B. That が名詞を限定している場合(あの本の、「あの」のザット)

    C. That が接続詞として後に節を作り、that 節全体が文の主語となっている場合(That he passed the exam is ture.)

  2. 次の the guy を見た時点で、AとBの可能性は消える。なぜなら、Aだと、次に来るのは動詞だから。動詞に the は付かない。Bだと that guy ならあるけど、guy に既に the が付いている。

  3. Cなら接続詞で、文の最初だから主語だろうと予想して追っていくと、the accident とつながらない形で、surprised everyone と動詞と目的語に辿り着く。

こんな感じで、目だけは左から右に進めながら、予想を立て、可能性を排除しながら読んでいく。

当たり前だが、英語と日本語では構造が違う。その構造の英語らしさを押さえておくと、読み取りが各段に精確になる。

情報の流れを考える

腑に落ちたのが、受動態について。

学校で、受動態をあまり使わないようにと習った覚えはうっすらとある。だが、その理由は「主語が曖昧になるから」といった程度しか覚えていない。そして、受動態を使うべきタイミングは、まったく覚えていない。

だが、本書の「情報の流れと特殊構文」で腹落ちした。

まず、英語の基本的なルールとして、主語が文のトピックであり、動詞句が構成する述語部分は、そのトピックに対するコメントになる。言い換えるなら、トピックが変わらないのであれば、主語は変わらない。

The castle is one of the most beautiful buildings in the world. It was built in the Edo period and has since been a symbol of our country.

この文章は、The castle についての説明だ。一文目の主語は the castle で、文のトピックになる。そして、2文目に移っても、文のトピックは変わらない。

しかし、もし2文目で能動態の文を使おうとすると、「城を建てた人」という新しい情報を入れることになる。話者が伝えたいのは城がトピックなので、新しい情報は余分になる。こんな場合に、受動態が必要になる。

受動態は、主語が曖昧になるからダメというのではなく、情報を出す際に余分なものを省き、流れをコントロールする仕組みだということが分かった。

難関大学レベルの参考書

こんな感じで、英語を読む勘所を押さえていった。

情報の流れや文章の構造を考えながら、省略が起きたり、語順の入れ替わり、構文の擬態、破格的な構造が紹介される。難しさ的には難関大学の受験レベルになる。

例文となるものは、カズオ・イシグロの小説やオバマ大統領の演説、ジャレド・ダイアモンド、スティーヴン・キングなど、硬軟取り揃えている。

本来なら、沢山の記事や書籍を浴びるように読むことで身につけるポイントが、およそ250頁、2,200円で手に入る。[ここ] の技法で35日で読み切った。

結果、読解の苦手意識は完全に消えて、ムスカの「読める……読めるぞ!」状態になっている。コストパフォーマンス的には最高の一冊と言っていい。

ただし、一読して身についたとはとても言えぬ。周回を重ねて自分のモノにしよう(読書猿さんありがとう!)。

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辞書を丸ごと読んだら楽しかった『MD現代文・小論文』

きっかけは『独学大全』だ。

語彙力を底上げするならこれだぞーとお薦めされたのと、どうせなら丸ごと読んでやれと思い、93日かけて踏破した。継続は力というのは本当で、読むことそのものより、続けることに注力した。

この記事の前半は、その続け方のコツを紹介し、後半では、『MD現代文・小論文』の魅力と問題点について語ろう。

まず、700ページを超える辞書をどうやって読んだか?

もちろん、一日に数ページずつ読んでいくことを積み重ねていけばできる。700ページをノルマで割れば、何日かかるか、計算上は予測できる。

だが、それってかなり大変だ。単調だし、飽きるかも。「ノルマ」なんて決めて、それを守れるのか? 三日坊主にならないか? 「そもそも何でやってるんだろう?」 と我に返る可能性だってある。

習慣を作る

だから、毎日読む習慣を作った。

具体的には、読むタイミングを決めた。PCを立ち上げる前、昼食後、寝る前と決めて、その時に手に取るようにした。

大事なのは、手に取ったとしても読まなくてもいい、というルールにしたこと。面倒ならページを開くだけで、読まなくてもいい……とハードルを極限まで下げたこと。三日坊主なら四日目に再スタートを切ればいいのだ。

そして、読んだページを記録するようにした。

具体的には、スプレッドシートに全ページをナンバリングして、読んだ日と共に塗りつぶしていくという単純な方法だ。全体は膨大だけど、毎日少しずつでも進んでいるのが目に見えるようにした。

環境を作る

次に、続けやすくする環境を作った。

一人で黙々と読んで記録してても飽きる。だから、記録したものを公開するようにしたのだ。

具体的には、記録したスプレッドシートを、誰でも参照可能な状態にして、毎日「これを学びました」と、twitterでつぶやくのだ。

 

ポイントは、誰かが見ている状態にすること。

ひょっとすると、誰も気にも留めないかもしれない。他人の勉強ログなんて見に来ないかもしれない。でもいいの、「見ているかもしれない」がポイントなの。一種の逆パノプティコンを作り上げるんだ(※)。

twitter だけでなく、独学大全を実践するdiscord「独学広場」がある。「これを学びました」と公開するのにうってつけだ。

確かに「辞書を読む」のは目的だが、最終目的だ。目の前の小さな目的は、「これを学びました」をtwitterやdiscordに投稿する。そしてこれを続けることなのだ。

これらのやり方は、『独学大全』の実践だ。持ってる方は、p.144「習慣レバレッジ」、p.160「ラーニングログ」、p.172「コミットメントレター」を参照してほしい。

語彙力を底上げする辞典

次は、『MD現代文・小論文』の魅力について。

本書は、入試問題に頻出するテーマや重要語句を4000語選び抜き、入試問題の用例と共に詳説したものだ。

受験に特化した辞書だが、同時に、現代社会の焦点となるトピックを、コンパクトにまとめた辞書でもある。いうなれば、「現代用語の基礎知識」と「国語・現代文の巻末の重要語」のハイブリット版なのだ。

たとえば、「援助交際」「縁語」が同じページで詳述している。古今集の在原業平の和歌で掛詞の修辞法を学んだ後、パパ活やJKお散歩の語源をめぐる解説を読む。この取り合わせのアンバランスが面白い。

絶対に読んで欲しいのが「近代」だ。

時代区分としての位置づけだけでなく、産業革命や資本主義、ヒューマニズム、階級社会、大衆と民主主義とファシズムといった切り口で、12,000字に渡り説明する。この項目自身がちょっとした小論文になっており、ひたすら面白いだけでなく、さらに広げて語りたくなる。

辞書を読んで楽しいのは、知らない言葉に出会うことだけではない。知っている言葉に知らない意味を見出すとき、知的興奮はMAXとなる。

たとえば、「蓋然性」という言葉には確率で計算できない意味もあることを知ったとき、驚きと納得が同時に押し寄せてきた。確かにヒューリスティックなものは、数学で計算できない「可能性」として扱われる。

あるいは、日本語としての「間(ま)」は、時間と空間の両方を指していることを知ったとき、思わず膝を打った。わざわざ「時間」や「空間」という言葉を用いる時、私たちはニュートンやユークリッドから輸入した見方で世界を捉えているのだという。

『MD現代文・小論文』の問題点

一方で、「古い」という問題もある。

編まれたのが1998年のため、出てくる言葉や説明に、どうしても古臭さを感じてしまう。

たとえば、「クリントンのセクハラ疑惑」って、今の高校生だと「?」だろう。「湾岸戦争」の詳しい解説に時代を感じる。「ポストモダン」の説明でリオタールの「大きな物語の終焉」を引くのはいいけれど、ソーカル事件が入っていないのはちぐはぐな感じを受ける。

爆笑したのが「マルチメディア」、すごく丁寧に解説されている。最近の若者なら、たとえ知ってたとしても社会や情報の教科書で歴史として学ぶ言葉じゃないかしらん。いまの流行りの「DX」との間に累々と横たわる、ユビキタス、ニューメディア、OAなど、時代の徒花を思い出して遠い目になる。

また、辞書を通しで読むことで、あることに気づいた。

それは、「現代文」は日本製だということだ。

村上春樹や大西巨人、柄谷行人や梅棹忠夫といった定番ばかりで、オーウェルやソンタグ、カフカやボルヘスといった海外の評論・小説が皆無なのだ。

『MD現代文・小論文』の不具合かとも考えたが、そもそも本書は、入試現代文から精選された辞書だ。だから、入試現代文からして、翻訳モノがないからなのかもしれぬ。

ちなみに、手元にある教科書を確かめてみると、翻訳モノは皆無だった。第一学習社「新訂 国語総合 現代文編」(2016検定済)と、東京書籍「精選現代文B」(2013検定済)をめくったが、小説、評論、詩歌、随想、全てが Made in Japan である。

書店に行けばそれなりのスペースを海外文学が占めており、外国語で書かれ、翻訳されたノンフィクションも数多くある。ネットで目にする日本語も、元をたどれば外国語だったものも少なくない。にもかかわらず、「現代文」から除外されている。次の課題として調べてみよう。

『MD現代文・小論文』は、問題点もあるが、それを補って余りあるハイブリットな辞書だ。全部読まずとも、「やたら綿密に書いてある語句」だけを拾い読みしても、十二分に面白い。語彙力を爆上げすることを保証する。


※ 中心に監視塔を立て、周りに囚人を配置することで、効率よく監視できる悪名高いパノプティコンだが、これを逆に利用する。「見られているかもしれない」環境を自ら作ることで、サボりにくくなるのだ。

Panopticon.png

Wikipedia「パノプティコン」より

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「普通のBL」とは何か?

アニメ映画の『同級生』を薦められたとき、身構えた。

男子校が舞台で、2人の男の子が恋に落ちるお話だ。

ひとりは学校一の秀才。入試で全科目満点を叩き出すぐらい優秀で、真面目がメガネをかけた理知的な印象がある。すぐ赤面する。

もうひとりはバンドマン。ライブでギター弾いてて、女の子にも人気者。くしゃっとした明るい髪と人好きのする顔立ちだ。すぐ赤面する。

そんな、普通なら決して交わることのない2人が、あることをきっかけに互いを意識し、距離を近づけてゆき、思いを伝え合う。

ゲイの幸せな日常

初々しく、可愛らしく、読んでるこっちが甘酸っぱい気持ちで一杯になる。あふれ出すリビドーを持て余していた自分と比べると、なんとも純粋な恋で、痛苦しくなる。そこに欲望があるのだが、互いに相手のことを慮るのが素晴らしい。

そして、身構えていたのが、彼らの日常が幸せすぎること。

幸せな結末にするにせよ、しないにせよ、そこへ至るまでの紆余曲折こそが、物語になる。

簡単に2人を幸せにすると、ストーリーが転がらない。だから作者は障壁を設ける。すれ違ったり、モチを焼かせたり、ライバルを登場させたり、あの手この手で人の恋路の邪魔をする。ラブストーリーの定番だ。

だから、男同士の恋愛というハードルが、もっと高いものだと身構えていた。自分が「男性が好き」ということに気づき、戸惑い、苦悩するといった展開があるのではないか? と不安に思いながら読んだ。

なぜなら、同性愛が犯罪だった時代や国もあったから。ソドミーという言葉そのものが、「不自然な」性行為を指すから。

100年前の英国のBL『モーリス』

たとえば、E.M.フォースター『モーリス』だ。

100年前の英国、ケンブリッジ大学で出会った2人の恋を描いた小説だ。同性愛が罪とされ、社会的に抹殺される厳しい状況だった。愛の深さゆえに傷つき、傷の深さゆえに慰めあう青年たちの恋は苦しく、美しい。

「すきだ」という気持ちを伝えることがいかに難しいか。もし、相手が異性愛なら、そのまま第三者へ暴露されるアウティングの危険性もある。警察につきだされても仕方がないような時代だった。

だから、『モーリス』は「禁断の」恋愛小説と言われている

フォースター自身が、同性愛を抱き苦しんでいたという。『インドへの道』『眺めのいい部屋』が高く評価され、文壇での地位を確立したが、生きているあいだ、『モーリス』を刊行することはなかった。

これは、小説の書き方にも現れている。

内面の吐露や感情は表現されているが、肝心の、誰がなにをしたか(しているか)は、ぼかすように描かれ、イングランドの夜の風景の中に、隠し絵のように織り込まれている。秘匿された描写が、なぜ秘匿されねばならぬのか、と問うているように思える。

普通のBLとは

『モーリス』と比べると、『同級生』は、同性愛に苦悩したり傷つけあったりするような場面は無いに等しい。

そして、それに違和感を抱いていた。

わたしの中で、「ゲイとして生きる物語=性的嗜好が障壁となる物語」が出来上がってしまっていた。だから、自らの性的嗜好に苦悩する場面がないと、物足りなく感じてしまっていたのかもしれぬ。

この、わたしの価値観は、非常に情けないことだ。

もちろん、『同級生』の高校生らは、同性が好きである自身に思い悩むことはある。だが、それでも、自分に正直であろうとする(そして、周囲も理解しようとする)。その「思い悩み」が”軽い”と感じてしまっている(←ここが、情けないところ)。

男と男が出会って、恋をして、愛を交わす。『ホモセクシャルの世界史』を見ると、男同士の恋愛は沢山ある。だが、そこに「性嗜好に苦悩する」を入れる必要はないんじゃないか? 

「入れないと物語として成り立たない」と考えること自体が、既に時代遅れになっているのかもしれない。

もちろん、「同性愛に苦悩しない」作品もある。

例えば、よしながふみ『きのう何食べた?』では、不自由さを感じつつも折り合いを付け、2人の居場所を作っているように見える。あるいは、志村貴子『青い花』では、同性愛そのものよりも、「好き」がすれ違うほうに苦悩していると感じた。

そんな作品と照らしながら、原作コミックの『同級生』と続編の『卒業生・冬』と『卒業生・春』まで読むうちに、ごく当たり前の結論に到達する。「男が好き」とか「女が好き」とかじゃない。「あなたが好き」なんだなと。

好きになった人が、同性だったり、異性だったりするだけなんだと。

『同級生』シリーズはもっと続いているみたいだが、この三部作は、『モーリス』とつながっている。幸せでいて欲しいと、強く願う。『同級生』が好きな人は『モーリス』を、『モーリス』が好きな方は『同級生』をお薦めする。

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人工衛星から遺跡を探す『宇宙考古学の冒険』

イタリアやフランスで、畑に模様を見かけたら、そこに遺跡がある可能性が高い。

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Wikipedia ”Cropmark” より

かつて、そこには石壁や住居の基礎があった。そうした構造物は、長い時間をかけてゆっくり土に埋もれてゆく。

地表に牧草などが根付いた場合、その根は深く伸びることができない。そのため、牧草の生育が悪くなり、上空から見ると、奇妙な模様が浮かび上がる(考古学で、クロップマークと呼ぶ)。

Diagramm bewuchs.jpg
Wikipedia ”Cropmark” より

クロップマークは、航空写真で確認できる。

だが、もっと微妙な、植生の健康状態の違いは、近赤外線データから読み取ることになる。人の目には同じに見えるが、近赤外線画像だと、クロロフィル(葉緑素)の違いは、赤色の違いによって判別できるからだ。

宇宙から遺跡を探す

この発想を広げて、人工衛星から撮影した画像データを元に、地下に眠る遺跡を探すのが、宇宙考古学になる。

単なる解像度の高い写真ではない。地上 640km から撮影された電磁気スペクトルデータを解析し、肉眼では見えない地下の遺構を浮かび上がらせる。

宇宙からだと、植生の違いだけでなく、地下を直接探すこともできる。

たとえば、「ヒートアイランド現象」の応用だ。これは、コンクリートが昼間の熱を吸収し、夜に放熱する現象で、結果、郊外に比べると都心部は高温になる。人工衛星から熱赤外イメージングした場合、夏の夜の都心は光り輝いて見えるという。

では、都心ではなく、砂漠や草原はどうか。地上に建物がないにもかかわらず、夜間、熱赤外イメージングで明るい場所があったとしよう。この場合、地下にコンクリート構造物がある可能性が高い。

『宇宙考古学の冒険』(著:サラ・パーカック /訳:熊谷玲美)の著者は、こうした手がかりを元に、地下の遺跡を探し出すニュータイプの考古学者だ。宇宙から探すことで、これまでに、古代都市3,000ヶ所、古墳1,000ヶ所、ピラミッド17ヶ所の痕跡を見つけ出している(※1)。これは、従来通りのやり方だと、一人の考古学者のキャリアで発見できる数ではない。

さらに、映画『レイダース・失われたアーク』に出てくる幻の古代都市タニスを特定している。タニスの路地や居住区の大部分は発掘されておらず、地上から見ることはできない。だが、人工衛星の赤外線画像により、大規模な構造が明らかにされたのだ。

宇宙考古学のメリット

宇宙から探すことのメリットは莫大だ。

たとえば本書では、ニューファンドランド島の磁気調査について、地上探査と人工衛星画像を比較している。

まず、地上探査の場合、ざっと見積もると、100日かかるという。

その調査も、遺跡が平らで、邪魔な植生がなく、優秀なスタッフが雇えて、現地で体調を崩すことなく、資材や装置の輸送がスムーズにいき、機器が故障することなく働いた場合になる。機器、資材、飛行機代と国内旅費、ホテル代、食費もろもろ20万ドルかかる。

これが人工衛星画像だと、2,000ドルで済む。

そして、およそ60時間で地上探査と同じ結果が得られる。地上探査の磁力計データの方が多少細かい部分までとらえられるが、スピードとコストを合わせると、宇宙からの調査が、圧倒する。

もちろん、現地に出向いて、実際に発掘する調査が必要となる。だが、そこに「あるかもしれない」可能性を何年もかけて探していた調査が、そこに「ある」ものを対象とした仮説検証型になるのは大きい。

限られた予算と期間の中で一定の成果を上げる必要がある。掘ってみて「ありませんでした」では次の予算確保も厳しいだろう。だから、膨大なデータから「ある」という目星をつけられる宇宙考古学のメリットは計り知れない。

リモートセンシング技術「LIDAR」

離れたところから、掘る前に、光学技術によって対象を把握する。

LIDAR(LIght Detection And Ranging)と呼ばれるリモートセンシングによって、莫大な数の遺跡が続々と見つかっている。人工衛星やドローン、航空機に搭載することで、何十年もかけてきた広大な面積のマッピング調査が、ほんの数週間で終わるのだ。

考古学のビッグデータとも言えるのは、アマゾン川流域の遺跡になる。LIDAR によって、先コロンブス期の遺跡を81ヶ所発見している。推測によれば、アマゾン川流域全体で、18,000ヶ所の遺跡が未発見で、100万人以上が暮らしていたと想定されている(※2)。

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Pre-Columbian earth-builders settled along the entire southern rim of the Amazon”より

リモートセンシングは地上だけではない。LIDAR は、水中に沈んだ物体を探索することにも役立つ。

原理はこうだ。水没した物体の上を流れる海流の動きによって、砂や泥が海面へ持ち上げられている。だから、人工衛星画像で、そうした堆積物の上昇現象を探せばよい。

現在は、ドーバー海峡を中心に沈没船の探索にこの技術が用いられている(※3)。だが、船だけでなく、地震や海面上昇によって海に沈んだ遺跡を探し出すことにも応用できる。この分野は水中考古学として研究されており、クレオパトラ宮殿からタイタニック号の探査といった成果を上げている(※4)。

掘らない考古学

こうしたリモートセンシング技術を受け、本書では、未来の考古学を「掘らない考古学」だと描いている。

LIDARや熱赤外センサーを搭載したドローンを飛ばし、遺跡を特定する。たとえ掘る段階になったとしても、鉛筆ほどの大きさのプローブ(探針)を地下数メートルに打ち込み、そこから超音波を発することで、地下の構造物を三次元化する。

必要な場所を絞り込み、そこへ小さな穴を穿ち、文字通りピンポイントで探索する。喩えるならば、腹腔鏡下手術のようなものかもしれない。

また、発掘した古文書も、開いたり触れたりすることなく、外側からスキャニングすることで、中身を調べる技術が開発されている。

たとえば、イタリアのヘルクラネウム遺跡で見つかった巻物がある。西暦79年のベスビオ火山の噴火によって焼かれ、炭化状態となっている。非常にもろいため、開いて読むことはできない。

だが、位相差X線イメージングを使うことで、巻物に触れずに中身を読む研究が進められている(現在は実証実験段階とのこと※5)。

この、「開かずに本を読む技術」でピンときた方もいるかもしれないが、J.P.ホーガン『星を継ぐもの』につながってくる。SFオールタイム・ベストとして有名で、ミステリとしても超一級の傑作小説だ。

月面で発見された5万年以上前の<人類>の死体と、その傍らにあった手帳―――経年により手帳は崩れかけており、開いて読むことはできない。そのため、触れずに中身を読む技術を持つエンジニアが呼ばれる―――そんな導入部だった(はず)。

もし、『星を継ぐもの』に、LIDARがあったなら……きっと序盤でラストの謎が解き明かされたに違いない、とワクワクする。いま、わたしたちが地球を調べている技術は、近い将来、月や火星といった惑星を、「離れたところから」「掘らずに」調べることに役に立つだろう。

考古学というと、何年もかけて、地道に発掘するイメージだった。だが、本書を読んで覆された。最先端の技術どころか、SFまで突き抜けた未来が見える。


※1 人工衛星によってなされた4つの考古学的発見

http://karapaia.com/archives/52241203.html

※2 Jonas Gregorio de Souza “Pre-Columbian earth-builders settled along the entire southern rim of the Amazon”

https://www.nature.com/articles/s41467-018-03510-7

※3 Satellites and shipwrecks: Landsat satellite spots foundered ships in coastal waters

 https://phys.org/news/2016-03-satellites-shipwrecks-landsat-satellite-foundered.html

※4 『水中考古学』井上たかひこ(中公新書)

※5 Revealing letters in rolled Herculaneum papyri by X-ray phase-contrast imaging

https://www.nature.com/articles/ncomms6895

 

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文明と穀物の深い関係『反穀物の人類史』

人類は、狩猟採集から農耕牧畜へと進歩した。

穀物による安定した食糧生産が人々の健康を増進し、余暇を生み、文字や文明を育んでいった。文明を狙う野蛮人は、狩猟採集のままの生活で、文字を持たぬ遅れた未開の人々だった。

……と思っている? だったら『反穀物の人類史』をお薦めする。

著者はジェームズ・C・スコット、イェール大学の人類学部教授だ。メソポタミア、秦・漢、エジプト、ギリシア、ローマなど、文明の初期状態を検証することで、わたしが刷り込まれてきた「常識」に疑義を投げかける。

狩猟採集の方が豊かだった

まず、農耕社会が豊かだったというのは誤りだということが分かる。少なくとも、初期の農業は酷いもので、反対に豊かで多様性に富んでいたのは狩猟採集の人々になる。

その証拠として、残されている農民の骨格を、同時期に近隣で暮らしていた狩猟採集民と比較する。

すると、狩猟採集民の身長が、平均で5センチ以上も高いことから、栄養状態が良かったことが伺える。海洋、湿地、森林、草原、乾燥地など、複数の食物網にまたがっていたうえ、それぞれの季節に応じて移動していたため、食べものは多様で豊かだったと考えられる。

一方、農民の大半は栄養不足による骨の変形が見られ、歯のエナメル質の形成不足や、感染症に関連した病変が見られたという。これは、初期の農民の栄養状態が不安定だったことを示している。

では、どうして農耕生活でこれほど発展できたのか? という疑問が残る。著者は、農耕生活ではなく、農耕するための「定住」で説明を試みる。

狩猟採集民と比べて不健康で、幼児や母親の死亡率が高かったにもかかわらず、定住農民は繁殖率が高く、死亡率の高さを補っても余りあるほどだったという。

まず、定住しない人々は、意図して繁殖力を制限することになる。野営地を移動するため、子ども2人を同時に抱えて運ぶのは、かなりの負担になる。結果、狩猟採集民が子どもを作るのはおよそ4年ごとに間隔を空けるようになる。

対照的に定住農民は、短い間隔で子どもを作る負担が軽減される。さらに農作業の労働力として子どもの価値が高く、多く作るようになる。この違いが、5000年という期間に渡って、複利計算のように大きなアドバンテージとなったというのだ。

穀物が国家を作った

著者は、古代の初期の農耕についてある共通点に着目する。

それは、全て穀物国家だったという点だ。麦や米、ヒエ・アワ、トウモロコシなど、一定の時期に地上に実が成る穀物が、主要な食物であり、現物税の単位であり、農事暦の基盤を提供していたという。

わたし自身、米やパンを毎日食べているから、当たり前のように考えていた。だが、著者は、こう自問する―――なぜ歴史記録には、「レンズマメ国家」や「タロイモ国家」がないのだろう(※1)

レンズマメやダイズ、タロイモやキャッサバは、古代において作物化されていた。また、単位面積あたりのカロリーは、麦よりも多いものがあり、労働力あたりの効率は良いと言える。にもかかわらず、こうした作物が国家形成の基盤とならなかった。

著者は、穀物だけが課税の基礎となるという仮説を立てる。定期的に作物を収奪する人にとっては、麦や米の方が都合がいいのだ。

その理由は、古代の徴税役人の立場になって考えると分かるという。

穀物は、地上で育ち、ほぼ同時に熟すという特徴がある。つまり、徴税官にとっては、収穫時期に一回遠征するだけで、必要な分を収奪できる。農民は収穫、脱穀までしてくれるから、タイミングよく出向いて、倉庫から徴税すればいい。

これがイモ類だと地中に実るため、掘り出す必要がでてくる。麦よりも運ぶコストがかかる上、腐りやすいという欠点もある(そのため、地元民は、土中でイモを保存する)。

また、マメ類の場合、長期間にわたって継続的に実を付けることになる。実が熟すのに合わせて、いつまでも摘み続けることができる。ワンストップ・ショッピングで済ませたい徴税官にとっては、嬉しくないのだ。

地上で実っているのが目視で分かる。粒が細かいので分割や運搬に便利。保存が利いて、兵への分配も容易。さらに、同時に熟すので効率的に収奪できる―――こうした理由で、穀物は理想的な課税作物になったのだという。

文字の必然性

これ、言い換えるなら、課税に不適な作物で暮らしている人々にとっては、国家の範囲外になる。

つまりこうだ。狩猟採集や漁労、焼畑農業、遊牧を生業とする人々から課税するのは難しい。分散して移動している上に、生産物は多様で傷みやすい。

こうした人々を追跡し、課税することは、ほとんど不可能になる。国家の外側には、こうした収奪不可能な生業活動が、多種多様に広がっていたというのである。

しかし、そうした生業活動は、ほとんど記録されていない。国家にとって、記録する価値のない情報だからだ。

では、何が記録すべきものか? 

著者は、収奪に必要な情報だという仮説を立てる。すなわち、人口や土地、家畜や収穫についての情報だ。さらに穀物の運搬や請求、領収についての継続的な記録管理のニーズを想定する。

実際、メソポタミアで文字が使われ始めた頃、ほぼ簿記のためだけに利用されており、500年以上も経ってから、神話や賛歌、王の年代記などが記されるようになったという。

その例として、ギルガメシュ叙事詩を採りあげている。この作品はウル第3王朝(紀元前2100年)頃だが、楔形文字が簿記の目的で最初に使われてから、ゆうに1000年もあとのものになる。『会計が動かす世界の歴史』で示された通り、文字より先に簿記が生まれていたのである。

中心と辺境の構造

著者はさらに、メソポタミア「文明」から見た「辺境」のコミュニティに着目する。

狩猟採集を生業としていたため、文字として記録されなかった人々だ。こうした人々は、文字の使用を拒絶していたという。これは、文字を持つだけの知性が無かったからではなく、むしろ、文字に備わる課税と支配の構造を回避しようとしていたからかもしれない。

文字を記す側である行政官からすると、国家という枠の外にある、徴税が及ばない連中になる。「文字を記す側=中央」と「徴税できない連中=辺境」の構図が出来上がる。

文字を記す側は、自分たちの権力の正当性や血統をプロパガンダする必要がある。自らを中央とするために、課税を逃れ、臣民にならない連中を、「辺境」として非難する必要がある。

この発想は、『遊牧民から見た世界史』で学んだ、中華思想そのものになる。中国皇帝が世界の真ん中で最高の価値を持ち、周辺に行くにつれ程度が低くなり、辺境より先は蛮族として卑しむ華夷思想だ。そしてこの傾向は、中国に限らず、文字を残したあらゆる文明に共通する。

わたしたちは、残された文字に書かれた内容から、当時を想像する他はない。だが、文字として残っていなかったからといって、存在しなかったことにはならない。

定住社会において、「中心」として自らの正当性を記録するのであれば、それは岩や石、粘土に刻んで焼くといった遺し方をするだろう(そして、まさにそれらが、いま見ることができる史料だ)。

だが、移動を中心とした社会では、たとえ記録を残すとしても、運搬に適さない重量物には刻まなかったはずだ。もっと軽い、竹や皮、繊維を編んだものに印をつけるといった手段を取ったに違いない。数千年の時を経て、どちらが残りやすいかを考えると、火を見るよりも明らかだ。

他にも、「暗黒時代」や「野蛮人」という言葉が刷り込んでいるバイアスを解いたり、文明の「発展」と、そこに生きる臣民の「幸福」を実証的に考察する。最新の考古学・人類学の論文や文献で、わたしの常識を揺さぶってくる。

常識を問い直し、自分で考え直す観点と材料が得られる一冊。

※1 南アメリカ大陸ではイモが主食とされていたはずでは……? と思ったのだが、本書では例外として挙げられている。インカ帝国ではトウモロコシとジャガイモに依存していたが、税作物としてはトウモロコシが支配的だったとある(p.120)

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「科学」と「正義」を混同すると、たいてい地獄ができあがる『禍いの科学』

アヘン、マーガリン、優生学、ロボトミーなど、科学的に正しかった禍(わざわ)いが、7章にわたって紹介されている。あたりまえだった「常識」を揺るがせにくる。

ヒトラーの優生学

たとえば、アドルフ・ヒトラーの優生学。

劣悪な人種を排除すれば、ドイツを「純化」できると信じ、ユダヤ人を虐殺したことはあまりにも有名だ。

だが、ガス室へ送り込まれたのは、ユダヤ人だけではない。うつ病、知的障害、てんかん、同性愛者など、医者が「生きるに値しない」と選別した人々が、収容所に送り込まれ、積極的に安楽死させられていった(『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』が詳しい)。

『禍いの科学』によると、ナチスの優生学は、ヒトラー自身が編み出したものではないという。出所は、『偉大な人種の消滅』という一冊の本で、ヒトラーが読みふけり、「この本は、私にとっての聖書だ」とまで述べたという。

『偉大な人種の消滅』はマディソン・グラントが書いたものだ。ニューヨーク生まれ、イェール大学を卒業し、弁護士として成功した後、自然保護運動で活躍する。バイソンやレッドウッドといった絶滅危惧種を救うことに尽力したとある。

グラントはそこで、「北方人種」の純血性を守れと主張する。茶髪か金髪の碧眼の白人こそが「純粋」で、米国人の遺伝子プールに劣等人種が入ってこないよう制限すべきだという。

この本は、科学専門書として扱われ、権威ある学術誌 ”Science” や ”Nature” 、”American Historical Review” で高く評価されるだけでなく、当時の大統領である、ルーズベルト、カルビン・クーリッジの両氏が絶賛したという。

現代の感覚だと非常識の極みだが、当時は真面目に採択され、1917年に、知的障碍者やてんかん患者の入国を規制する「移民制限法」が可決される。同年に公開されたハリウッド映画『黒いコウノトリ』は、欠陥のある者を抹殺し、国を救おうというメッセージが込められており、熱狂的なファンに支えられ、10年以上にわたって上映されたという。

さらに、医学会、科学界に支持され、強制不妊手術が合法化される。米国は断種合法化の先進国であり、知的障碍者、梅毒患者、精神障碍者、アルコール中毒者、てんかん患者に不妊手術が行われたという。

「人類進化を自己決定できる」という優生学は、より良い社会を作るために実行された。ナチスは、それを最悪の形で現実化したものだといえるだろう。

レイチェル・カーソンの欺瞞

もう一つ、わたしの「常識」が揺さぶられたのが、レイチェル・カーソンの欺瞞だ。

カーソンと言えば『沈黙の春』が有名だ。環境保護の重要性に目を向け、社会運動を起こした一冊で、20世紀の最重要100冊リストにも入っているのだが、本書は欺瞞に満ちているという。

『沈黙の春』というタイトルの理由は、下記の一節による。

かつて町では、夜明けとともにコマツグミ、ネコマネドリ、ハト、カケス、ミソサザイをはじめとするいろんな種類の鳥たちの声が響き渡っていたが、今では聞こえる音もなく、沈黙があたりを支配している。

なぜ鳥が歌わなくなったか。DDTを始めとする農薬のせいだ。DDTは鳥を殺す。鳥だけでない。元気だった子が具合が悪くなり、死んでしまう。女たちは不妊や早産に悩まされる。先天性異常、白血病、がん、肝臓病が増える―――と、環境汚染を警告する。

これ読んだ頃の時代の風潮なのか、アニメ映画『風の谷のナウシカ』や『複合汚染』(有吉佐和子)、『わたしの赤ちゃん』(日野日出志)のイメージと合わさり、わたしの中で、「DDT=猛毒」と結びついた。

『沈黙の春』は発売直後からベストセラーとなり、22カ国語に翻訳され、国際的な名声を博す。その影響は大きく、1970年の国家環境政策法を始めとし、様々な環境保護の法律を成立させ、環境保護庁、労働安全衛生局を設立させる。そして、ヤリ玉に挙げられていたDDTは禁止となった。

DDTの禁止は、最も恥ずべき行為の一つ

問題はここからだ。

世界各地でマラリア、黄熱、デング熱が大流行する。

DDTは、こうした病気を媒介する蚊に対して非常に効果がある。実際インドでは、DDT散布によって、年間マラリア発生件数は1億件から6万件に減少した(1952~1962)。ところが、DDTの使用停止によって、600万件に増加したというのだ(1970年代後半)。

他にも、ネズミ、プレーリードッグ、ジリスに寄生して感染症を媒介するノミにも効果があるという。こうした病気を事実上根絶できたことを踏まえて、5億人の命を救ったと推定されている。DDTは、歴史上のどんな化学薬品よりも沢山の命を救ったといっても過言ではないという。

DDTが禁止されることで、本来ならば死ななくても良い人(ほとんどが5才未満の幼児)が亡くなったという(『禍いの科学』p.208には「1972年以降、5000万人が命を落とした」とあるが、出典は書いていない)。

マイケル・クライトンは「DDTの禁止は、20世紀の米国において最も恥ずべき行為の一つだった」と書き、「私たちには多くの知識があったのに、そんなことはお構いなしに、世界中の人々が死ぬに任せ、気にも留めなかった」と述べている(同書p.209 ※1)。

さらに、カーソンの警告に反し、ヨーロッパ、カナダ、米国の研究により、DDTは肝臓病や早産、先天性異常、白血病の要因にはならないことが示されたとある(同書p.209)。

もちろん、カーソンがこうした追試研究を知る由もない。しかし、カーソンが知ってて伏せた統計情報が明るみに出されている。

カーソンは不都合な事実を伏せた?

それは、クリスマス・バード・カウント調査になる。年末年始にかけて行われ、ボランティアにより野鳥の数がカウントされる。1900年から毎年行われているイベントだ。

この調査によると、DDTが使用されていた期間は、全ての種類の鳥が増え続けていたという。カーソンは、ホシムクドリ、コマツグミ、マキバドリ、ショウジョウコウカンチョウが被害を被った事例に注目しているが、どの鳥も、5倍増えていたという結果になる。

レイチェル・カーソンは、全米オーデュボン協会の会員で、毎年のクリスマス・バード・カウントにも参加していた。だから、彼女が鳥の変化について知らなかったはずはない。にもかわらず、カーソンは、このデータを取り上げないことを選んだ(同書p.211)。

『沈黙の春』の文章は美しく、情緒豊かに強い説得力で、読者の心に訴えかけた。だが、それを支えるデータは少なく、誰かの目撃談や、具体的なエピソードに多くのページを割いているという。本書の結論はこうだ。

レイチェル・カーソンは科学者だと自称していたが、結局のところ、そうではなかった。彼女は、自分の偏った意見に合うように真実を捻じ曲げる論客だった(同書p.214)。

『沈黙の春』は、これまで見過ごされがちだった環境汚染に目を向け、社会を変える運動にまで変えていった。この功績は疑いようもない。その一方で、データよりも自説を優先し、助けられたはずの命を失わせた罪も大きい―――『禍いの科学』は、こう結論付けている。

「科学的に正しかった愚行」からの教訓

「科学的に正しい」として下された判断、実行された政策が、実は最悪の手だった―――歴史を振り返ると、そんな話が多々ある。

『禍いの科学』は、その原因を紐解き、教訓を探る。「データに基づいて考えよ」「時代の空気に流されるな」「毒も薬も量次第」など、有用なものも多い。これからの「科学的に正しい」判断を考える上で、役に立つだろう。科学的に正しいことと、それが正義であることは別なのだ。

だが、本書にも注文がある。レイチェル・カーソンの欺瞞を攻撃する根拠として、データの裏付けの乏しさをあげつらい、「データに基づいて考えよ」と説く。それにもかかわらず、本書でデータの裏付けが果たされていない。

『沈黙の春』の反証となる、様々な数値や研究成果が述べられているが、その出典が注釈に無い(※2)。かろうじて巻末に参考文献一覧があるが、本文のどこのエビデンスとしているか紐づけがされていない。データが全てというならば、隗より始めるべきだろう。

Wazawai

※1 本書に出典は明記されていないが、Michael Crichton ”State of Fear” (邦訳は『恐怖の存在』)に、類似した発言がある[URL]

"Since the ban [of DDT ], two million people a year have died unnecessarily from malaria, mostly children. The ban has caused more than fifty million needless deaths. Banning DDT killed more people than Hitler."

“[DDTが]禁止されてから、マラリアにより、死ななくていい人が毎年200万人も亡くなり、そのほとんどが子どもでした。DDTの禁止が、死ななくてもいい5000万人以上の死を引き起こしたのです。DDTの禁止は、ヒトラーよりも多くの人を殺したのです”

※2 注釈や出典が明記されていないのは邦訳版であるから……という可能性もある(翻訳の際、注釈を切り捨てる出版社も多々あるから)。原書は手に入らないが、Goodreadsのレビューに "there are no footnotes or source citations for Offit's facts" というコメントがあり[URL]、Offit(著者)の主張を支える出典やソースが存在しないことがうかがえる。

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諸星大二郎『美少女を食べる』を読むと、自分が食べているものが信じられなくなる

法外な会費をとり、秘密裏に開かれる「悪趣味クラブ」。不定期に開催される秘密の会合なのだが、そこで「美少女を食べる」という特別ディナーの席がもうけられる。

もちろん、リブロース(肩)やランプ(お尻)の肉を提供するのだから、少女の命はない。当然、料理人も、そのレストランも、罪に問われるだろう。そして、それを承知で食べるほうも犯罪に加担しているも同然だ。

しかし、そんなことがありうるのだろうか? いくら悪趣味だとしても、人を殺して食べるような外道が許されるのだろうか?

少女の写真やドレスが展示され、彼女が行方不明になったことを報じる新聞記事が回覧されるが、招待客は半信半疑だ。

これは、そういう雰囲気をつくり、思い込ませることで、「少女の人肉料理を食べる」という背徳感やスリルを楽しむ、一種の演出、悪趣味なショーなのではないか? と疑い始めるのだが……

……この話を聞いて、どう思われましたかな? と続く。

Bishoujo

これが非常によくできているのは、枠物語の構成であるところ。枠物語とは、一つの物語の中に別の物語を含む形式だ。物語を虚構とさせないために、その物語の中の人が「こんな話があってね……」と語らせる。

美少女を食べる物語を、「そのまま」描こうとすると、完全なフィクションとして成立させる他ない。

例えば、そのまま描いたのなら、森山塔の『デマコーヴァ』を思い出す。キッコーマン1本分を浣腸され、痒みと苦痛に身悶えする様はグロテスクで淫靡なり。だが、描くほうも読むほうも「物語=虚構」というお約束を成り立たせている。

だが、諸星大二郎が描く『美少女を食べる』は、物語と現実を、どこまですれすれにできるかという試みる。そして、この物語は、読み手によって、いくらでも残酷にも滑稽にもなりうる。

おそらく、美少女を食べるお話は、いま描こうとすると猛烈な反発を食らうだろう。だから、いったん「こういう話があってね」とフレームに入れる。そして、その外側で真偽の吟味を図る―――という物語で見せるのだ。

同様に、両腕のない女の話や、女の〇を切り落とす話など、一見、受け入れがたい素材を、一味違った形で料理する。その諸星大二郎アレンジが大変面白い。どこかで見たことのある話のような―――と感じたら、それは正しい。巻末に元ネタがあるので、一通り読んだら答え合わせをするといいかも。

淫靡で禍々しい料理をご賞味あれ。

Bishoujowo

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『君の名は。』の初期プロットと、グレッグ・イーガン『貸金庫』の関係

きっかけは、グレッグ・イーガンのこのツイート

“『君の名は。』を観ました(私の短編『貸金庫』にインスパイアされたらしいけど、プロットは全く違う)。ちょっと甘ったるい所もあるけれど、全体的に素晴らしく、美しいビジュアルでした。”

おお! ハードSFの巨匠が、『君の名は。』を観たのか! 一挙に湧いた親近感と、”あの”イーガンがtwitterで呟いている気安さも相まって、おもわずこんな呟きをした。

Dain(筆者):グレッグ・イーガンの『貸金庫』、読んでないのですが、肉体を持たず、一日ごとに宿主(人間)が変わる意識が主人公の物語みたい。おそらく、イーガン先生、『とりかえばや』『転校生』『おれがあいつであいつがおれで』みたいな、男と女が入れ替わる物語を知らないのでは?

すると、こんなコメントをいただいた。

T. Hashimoto:“こんにちは。『君の名は』を監督した新海誠さん自身がインタビューで「貸金庫」からの影響に言及しているんです。

マジですか! と、紹介いただいたリンク先に行く。『君の名は。』の公開直前のインタビューで、「新海誠監督オススメのSF作品は?」への回答として、グレッグ・イーガンをとり挙げる。

新海誠:「あり得たかもしれない自分」とか「こうではなかったかもしれない自分」、あるいは「災害などがなかったかもしれない日本」という言い方もできますけど、そういう並行世界的な想像力に貫かれた作品を初期の頃は書いていて、中でも短編集『祈りの海』に収録されている「貸金庫」という物語は、毎日、違う人になる話なので、少し影響があるかと思います。([FILMERS.2016.8.22]より)

なんと! 新海さん自らそう語っているとは。知らなかった……さらに、新海&イーガンで、エールの交換をしている。

新海誠:とても光栄です。あなたの『貸金庫』は、初期のプロットを作るうえで、インスピレーションを得た作品の一つです。目覚めるたびに違う身体になっているヒロインの物語です。
グレッグ・イーガン:ありがとう! あの物語があなたに強く印象付けたことを、光栄に思います。
新海誠:世界中の人たちと同じように、あなたの数々の作品によって、大きく心を動かされてきました。次の作品を楽しみにしております!

恥ずかしい……「イーガン先生、知らないんじゃね?」なんて言ってた自分が恥ずかしい。穴掘って埋まっていたい。T. Hashimotoさん、ありがとうございます。ご指摘いただかなければ、ずっと知らなかったままでした。

この会話で紹介されていたのが、『君の名は。』の最初期のプロット。

目覚めるたびに違う身体になっている女性が主人公で、「幼いころからくり返し見た夢。自分は知らない人間になっていて、知らない場所で、知らない友達がいて、言葉も通じず、最後は決まって、空にまばゆい彗星が見える」という物語だ。

『君の名は。』の最初期のプロットヴィジュアル
(
新海誠のツイートより引用)

Yourname

どうしても気になるのが『貸金庫』だ。

『君の名は。』と比べて、どこが似ており、どう違うのか? あの入れ替わりのアイデアの源泉を探るべく、読んた。そして、『君の名は。』のロマンチック・ラブではなく、「自分とは何か?」という根源的な問いに向き合う、切なすぎる物語だと分かった。

30ページと少しの、短い、ほんとうに短い小説だ。

自分の奇妙な人生をモノローグで振り返り、最後に、ある決意をする男の話だ。男は、目覚める度に別の身体になっており、その身体の「ふり」をすることが、「わたし」の日常になる。

この能力(?)は、何かのきっかけに生じたものではないようだ。なぜなら、最も遠い記憶でも、「両親」は毎日変わっていたから。

睡眠をトリガーとして発生することは、『君の名は。』と同じだ。だが、三葉と瀧のように特定の人と入れ替わるのではなく、同年代の人に毎日乗り移る感じ。また、岐阜と東京という距離間はなく、同じ街の人の身体になる。

身体の本来の持ち主を、「わたし」は宿主と呼び、宿主の特徴や住んでいる場所を、ノートに記録しはじめる。このノートを隠しておく場所が、「貸金庫」なのだ。

なぜ、こんなことが起きているのか、「わたし」とは一体誰なのか、こうした謎が、物語の終盤で明らかになとき、やるせない思いに胸が苦しくなる。そして、それでも、「わたし」が踏み出そうとしている、明日という日に、胸を撃たれる。

「わたし」とは何か、記憶とは何か、自分という存在を定義するものは何か? ややもすると、哲学的思弁に陥りがちなこうした問いに対し、ひとつの男の決断という形で、応答している。

イーガンの凄さを改めて知るとともに、揶揄していた自分が情けない。逆だったんだ。イーガンのこの短編が示した、「わたしとは何か?」への応答が、『君の名は。』になるんだ。

『祈りの海』に収録されている、『貸金庫』の冒頭を引用する。『君の名は。』のオープニングであっても十分なくらいだ。

ありふれた夢を見た。わたしに名前がある、という夢を。ひとつの名前が、変わることなく、死ぬまで自分のものでありつづける。それがなんという名前かはわからないが、そんなことは問題ではない。名前があるとわかれば、それだけでじゅうぶんだ。

 

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平和を欲すれば戦争に備えよ『戦争学入門 戦争と技術』

誰だって戦争は反対だ、平和がいいに決まってる。

しかし、

平和のことだけ考えていれば、争いごとは起きないのか? 世界中の武器を廃棄し、二度とそんなものを作れないようにすれば、戦争のない世の中になるのだろうか?

そんな疑問を抱えながら「戦争学」を紐解くと、戦争とは社会と緊密に結びついた事象であることが分かる。各時代の技術の発展と軌を一にし、戦争「だけ」を分離・根絶するのは難しい。今のところ、戦争を囲い込み、飼い慣らすしかないように見える。

では、どうすれば、戦争を囲い込むことができるか?

戦争を研究するしかない。

しかも、これまでの「軍事学」や「防衛学」、あるいは「安全保障学」のような軍事・地政学的なアプローチではなく、もっと領域を広げる必要がある。戦争とは、人類が営む社会的な事象なのだから。

『戦争と技術』は、技術の領域から戦争を考察する。どんな技術が戦争に利用され、それにより戦争がどう変化し、さらに戦争が技術をどう進化させてきたかを振り返る。

鐙が騎士を最強にする

たとえば、「鐙(あぶみ)」の戦争への応用が面白かった。

鐙は足を乗せて身体を安定させる馬具で、遊牧民族がルーツと言われている。ヒストリエの第6巻で知ったのだが、古代ギリシャや地中海沿岸では、まだ普及していなかったようだ。

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これが、中世の騎士にとっての技術革新となる。

鐙は、7~8世紀にヨーロッパに導入されたのだが、そのおかげで踏ん張りがきいて、槍に体重をかけて敵を撃破できるようになったという。鐙の導入だけでなく、重量のある鞍、蹄鉄の発達により、人馬そのものが衝撃武器と化した。馬のスピード&機動力と、重装甲・重装備の組み合わせは他を圧倒し、騎士は、戦場で無敵の存在となった。

騎士は戦争の主力となり、領主は騎士を抱えようとする。ところが騎士の装備は高価であり、馬の世話や従者など、サポート要員が必要だ。

そこで領主は家臣に土地を分け与え、家臣は土地からの収入で騎士を雇い、武具や装備を購入できるようにした。騎士は見返りに忠誠を誓い、軍役に就くことを約束する―――封建制の始まりである。

鐙の登場が、封建制度をもたらす触媒として働いたと考えると面白いが、本書ではもっと慎重に、「封建制度の説明に役立つ技術であったが、この制度をもたらしたものではない」と釘を刺している。

火薬が騎士を追い落とす

東洋で発明された火薬を、殺戮のイノベーションにまで高めたのは西洋だ。そして、火薬がもたらした変化は、城壁から社会制度まで多岐に渡る。

それまで、城塞の壁は、高さこそあれ、それほど頑丈なものではなかった。そのため攻城砲が登場すると、城壁は簡単に穴をあけられ、そこから歩兵が突入できるようになった。

攻城兵器のバリエーションとして、投石器で打ち込む、梯子をかける、破城槌など、さまざまなものがあった。だが、火薬革命が、遠距離攻撃の一つにイノベーションを生み出したのだといえる。

戦力の中心が、貴族が提供する騎士から、平民が運用する大砲になると、税収のリソース配分も変化してゆく。

領主は騎士よりも大砲を抱えるようになり、自前の歩兵隊を育成し、軍事力を独占する方針になる。家臣に分け与えていた土地を独占し、その課税による収入を、高価な大砲へ集中させるようになる。この過程を通じて、封建制→王政→絶対王政へと至るようになったというのだ。

同時に火薬は、銃手の地位を高め、騎士を追い落とすことになる。

それほど訓練を受けていない平民であっても、引き金を引くだけで遠距離から殺傷できるようになった。弓矢やクロスボウを防ぐために、甲冑はどんどん厚くなっていったが、銃の登場が無効化させることになる。結果、平民の地位を向上させ、貴族を危機にさらしたという。

「槍の穂先」のメタファー

さらに火薬は、兵站の重要性をさらに増すことになる。

これまでは、遠征の馬のための飼料が兵站の中心にあった。だが、大砲や銃器がメインとなると、弾薬や燃料、補修部品が格段に増えることになる。荷馬車のためのオーツ麦は行軍先にあるかもしれないが、大砲や銃の修理道具や交換部品は、遠征先で見つからないかもしれないからだ。

当然、遠征軍の補給線はこれまで以上に伸びることになり、敵勢力による格好の的になる。そして、そうさせないための警護や支援兵が増強されることになる。

つまり、火薬革命は、大砲や銃といった前線の火力だけでなく、その兵站も変えることになる。実際にダメージを与える兵器よりも、それを支える補給や非軍事技術のほうが重要になってくるというのだ。

本書ではこれを、「槍の穂先」で喩える。

最古の戦闘は、単純な武器である石や棍棒、槍、ナイフで始まり、支援はほとんど必要としなかった。しかし、時を経るとともに、防具、兵站、情報、通信、輸送、医療の支援こそが、勝利を左右するようになる。

すなわち、目標を攻撃する「穂先」よりも、それを支え・目標へ届ける「柄」の方がリソースを必要とするようになったのだ(21世紀では、「柄」に相当する要員や物資が、軍全体の90%を超えた)。

戦争を囲い込む:軍事用ドローン対策

わたしは、「軍事技術」という言葉から、銃器や核兵器といった「攻撃する技術」を思い浮かべる。だが、本書がくり返し強調するのは、そうした攻撃する技術を届ける「柄」の重要性だ。

たとえば、トレンドなら軍事用ドローンだろう。

本書の主張を適用するなら、施設や人を攻撃する「穂先」としてのドローンではなく、「柄」となる部分―――すなわち、それを生産し、現場まで届け、展開する輸送システムや、適切なタイミングで交代・充電させ、作戦を続行するプログラム、さらにこれらを統括するマネジメント要員―――これこそが、重要となる。

そして、軍事用ドローンに対抗する術としては、同じようにドローンを展開させるのではなく、相手のドローンの補給システムや電波リソースにダメージを与える方が、より効果的と言えるだろう。

したがって、ドローンの行動を阻害したり、誤判断させるジャミングや、目標そのものに電波的迷彩を施すといった技術を開発することで、「穂先」同士の戦争を抑止することにつながるかもしれない。

以上はわたしの妄想だが、戦争を支える技術は、社会を支える技術でもあるのだ。

 

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