「倫理的に正しい金儲け」が資本主義を最強にする『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

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プロテスタンティズムが資本主義を生みだした? さらっと流すと、そう読めてしまう。

もちろん、マックス・ヴェーバーは「プロテスタンティズムが資本主義を生んだ」と言ってない。むしろ『プロ倫』では、そうした安易な一般化はダメと批判する。

ところが、そうした誘惑に駆られるのよ。はっきりした統計データが得られると、そこに「ストーリー」を捏造して説明したくなる誘惑は、抗いがたい。

ヴェーバーが魅せられた誘惑はこれ。弟子の書いた本を読んでいて、あることに気づいた。信じている宗派と、経済的な裕福さに相関があるのだ。

信仰は財産を生む?

人を金持ちにする宗教があるのか、金持ちが信じたがる宗教があるのかは分からない。だが、プロテスタントとカソリック教徒を、収益税を課税する対象1000人当たりで比較すると、こうなる。(p.18 [注6]よりグラフにした)

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この着眼を出発点として、プロテスタントと経済合理性との関係を掘り下げ、近代資本主義への影響を問うたのが本書になる。

本書を面白くかつ難解にしているのは、「ストーリー」の捏造を戒める書きっぷり。

ヴェーバーにはずいぶん論敵がいたようで、膨大な注釈のあちこちで反論する。この丁々発止が面白いが、論難されないよう、言い回しを駆使して捏造を回避する。

おかげで何を言っているのか分からなくなったり、真逆の主張が混ざっているように見えて迷いがちだ。

倫理的に正しい金儲け

だが、タイトルの「資本主義の精神」とは何かを追いかけていくと、「正当な利潤を合理的に、職業として追い求める心構え」だということが見えてくる。ベンジャミン・フランクリンの例を挙げながら、この心構えこそが、資本主義的な企業を推進する原動力として働いたというのである。

では、金を稼ぐことを最高善という倫理は、どのような背景をもとに生まれたのか?

それは、宗教改革によって、キリスト教の合理的な禁欲と生活方法が、修道院から世俗の労働生活のうちに持ち出されたという。

例えば、信仰日記をつけるという習慣がある。自分の犯した罪とさらされた誘惑、恩寵による進歩を日々記録する習慣だ。

これらは表形式で記入され、あたかも功罪の勘定がバランスシートのように扱われる。ヴェーバーはこれを、「生活の聖化は、事業経営にも似た性格をおびるようになりえた」と結論づける。

そして、宗教を土台とする倫理は、信仰によって生み出された生活態度を規定してゆく。労働を義務とみなし、生産性の向上に勤しみ、信用という価値を蓄積する態度は、近代資本主義の原動力となったというのである。

ヴェーバー v.s. マルクス

『プロ倫』が面白いのは、『資本論』に真っ向勝負を挑んでいるところだ。ヴェーバーは、マルクスの唯物史観の真逆をやろうとしている。

つまりこうだ。

社会を上部構造(政治や法律、宗教や芸術)と下部構造(所有や分配といった経済構造)に分けた場合、下部構造が上部構造を規定すると主張したのがマルクスで、それに異を唱えたのが『プロ倫』になる

マルクスの唯物史観が「社会的・経済的存在が、その人の意識を規定する」とするならば、ヴェーバーは「プロテスタンティズムによって作られた倫理が近代資本主義を進めた」と、いうならば唯心史観を突きつけているのだ。

『プロ倫』は正しかったのか?

ただ、ここまで言い切ってしまうと先走りすぎることになる。最初の着眼点から話を膨らませすぎやしないか?

ヴェーバー本人も分かっていたようで、例えば先のグラフに「ユダヤ教」を入れるとこうなる。

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ここ、「話が違うじゃねぇか」と声出して笑った。

近代資本主義に対する影響として、「プロテスタント v.s. カソリック」よりも、「キリスト教 v.s. ユダヤ教」で比較した方が明白で面白いんじゃないかとツッコミ入れたくなる。ユダヤ教は(文字通りの)生存バイアスを考慮する必要があるだろうが、一考の余地があるだろう。

だがヴェーバーはめげない。ユダヤ教は冒険商人的な資本主義の側に立っており、その倫理(富の追求、勤勉さ、信用、節約)をピューリタニズムは抜き取ったのだという。

結局のところ、ヴェーバーは正しかったのだろうか?

その答え合わせは、ハーバード大学のロバート・バローとラシェル・マクレアリーがしている。1960~90年代の国ごとの経済成長にもとづき、成長率に対して宗教がどの程度影響を与えるかを調査している。

結論からいうと、プロテスタントよりもカソリックの割合が高い国ほど、経済成長していることが明らかになっている。

さらに面白いことに、どの宗派にも共通しているのが、いわゆる「地獄」を信じる人の比率が高い国ほど、経済成長率が高いという結果が出ている。地獄を信じるからこそ、現世で徳を積むべく経済活動に勤しむのだろうか。「ストーリー」を捏造したくなる誘惑に駆られる。

めっちゃ読みにくい岩波文庫と異なり、新訳ではするりと読める。ヴェーバーが描いた「ストーリー」、ご自身の目で検証あれ。

 

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ネタバレについて哲学者がガチバトルする「ネタバレのデザイン」

ネタバレは悪か?

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ネタバレは悪という人は、作品から得られる楽しみが減ってしまうからだという。作品を堪能する前に、結末が分かったら、面白くないでしょ? 2018年に南極で起きた殺人未遂の動機は、読んでる本のネタバレをされたからだという[参考]

一方、ネタバレ許容派は、「作品の理解が進む」とか「ハラハラせず安心して楽しめる」という。「野外コンサートでいつ花火が上がるか」知らずにトイレに行っていたという具体的な例が出てくる。

このように、ネタバレをめぐる様々な主張は、各人の芸術観や価値観により変わってくることが分かる。

こうした背景を受け、日本を代表する哲学者が、ネタバレについてロジックで殴りあう。リング外の観客も、のんびり見てられない。マイクを放られて、「言いたいことあるでしょ?」と煽られる。恐怖の前置き「素人質問で恐縮ですが」から始まる素人離れした知識に震える。

前回の議論は[「ネタバレの美学」が最高に面白い]で紹介したが、詳細なのは『フィルカル vol4.2』をどうぞ。

今回は、代官山のおしゃれな蔦屋書店で、「ネタバレのデザイン」と称し、ガチ度を上げてこの3名が闘った。

森功次さん
美学・芸術哲学の第一人者。ネタバレ許せん派。映画館の予告編も許せないので、トレーラーが流れている間は下を向いているとのこと(想像すると微笑ましい)。

松本大輝さん
倫理・分析哲学のプロ。ネタバレ許容派というより、ネタバレ不寛容が許せん派。学会発表レベルの緻密なハンズアウトを作ってきて無事タイムオーバー。

仲山ひふみさん
精鋭批評家。「デュオニソス的な秘密のアポロン的パッケージング」など、難しい言葉が頻出し、よく分からなかったが、分かる所は凄く面白い。

ネタバレは倫理的に悪

まず森功次さん。「ネタバレは倫理的に悪」という立場から、ネタバレ許容派を攻撃してくる。きちんと用語を定義し、前提を整理する。というのも、ネタバレ議論が発散しがちとなった前回の反省を踏まえてである。

「ネタバレ」という言葉には様々な意味が込められている。対象となる「ネタバレ情報」、それを暴露させる「ネタバラシ行為」、そして対象への接近が意図か事故かという「ネタバレ接触」と分ける。

その上で、作品を鑑賞する前に、ネタバレ情報に対し、自分から接触しに行くことは、倫理的に悪いと主張する。(1) 作者への敬意(リスペクト)を欠いており、(2) アートワールドを腐敗させるという(結果、芸術文化として重視された価値観を狂わせることになる)。

さらに、ネタバレ許容派の「豊かな作品の理解」なんて、要するに「効率的な鑑賞」の方便にすぎぬと斬る。2回目以降に批評を参考にして何回も見ればいいのであって、初めて作品に触れたときだけに味わえる「清新な感動」を捨てるのはおかしいというのだ。

非本質ネタバレならOK

一方、ネタバレ許容派の松本大輝さんは、ロジックの隙を衝く。

まず、ネタバレ接触を2種類に分ける。物語の結末など「それを味わわないと作品を鑑賞したとはいえない」本質ネタバレ接触と、それ以外の、演出上の工夫やオマージュといった非本質ネタバレ接触の2つである。

そして、本質ネタバレ接触については「ネタバレ=悪」を受け入れた上で、非本質ネタバレから、ロジックの切り崩しにかかる。

「豊かな作品の理解」のため、2回目以降は批評などネタバレOKにしているが、2回目以降だって、「発見の楽しみ」はあるのではないかと問う。そして、この楽しみがある限り、ネタバレに接触するのは悪という理屈が成り立ち、主張に一貫性がないというのだ。

さらに、「アートワールドを腐敗させる」というまさにそのアートワールドって、理想化しすぎじゃね? とツッコむ。現実として、その作品の全ての芸術的工夫を見出せる鑑賞者なんて、存在しない。何回も見ればいいというが、実際のところ、そんなに何回も見れるものじゃない。

むしろ、各人が発見した作品の「見どころ」を持ち寄って、みんなで共有するという分業こそが、現実のアートワールドじゃないかというのだ。

独力で作品を味わいつくすことは難しい

この指摘は非常に面白い。作品を100%「味わう」には、現実的には一人では不可能だから、分担する必要があるという視点だ。

たとえば、膨大なシナリオ分岐を持つゲーム(fallout等)だと、全ての分岐を一人でプレイすることは、現実的に無理だ。代わりに、いわゆる攻略サイトを見てルートを選ぶこともある。あるいは、初見殺しと呼ばれるゲーム(DARK SOULS等)もそうだ。ストーリーは一本ながら、独力クリアは至難の業だで、攻略法を「みんなで」持ち寄ることが前提のゲームだろう。

これらは、「見どころ」を共有することが前提の作品といっていいだろうし、ここでの非本質ネタバレが許容されないと、少なくともわたしは、一生かけてもクリアできない。

作品の全情報が得られるボタンを押すか?

これに対し、森さんは、「ネタバレ情報を知りたくて作品に触れるのではない」と反論する。作品から「情報を得たい」がために鑑賞するのではなく、ただその作品を「味わいたい」というのである。

要するに、おまえら「情報を得る」ことに重きを置きすぎだ、というツッコミだ。

その思考実験として、「このボタンを押すと、作品の全ての情報が得られるけれど、あなたは押しますか?」と問うてくる。その作品からの情報を効率的に得ることが目的ならば、ボタンを押すだろう。だが、「作品を味わうこと」が目的であれば、ボタンを押したら損なわれるものがあるだろう。

この思考実験は面白い。

「味わう」対象を料理にすると、もっと象徴的な問いになる。「このサプリを飲むと、料理から得られる全ての栄養が得られるけれど、あなたは飲みますか?」となるから。食べるという行為が、栄養を摂るだけでなく、料理を「味わう」ことも含まれるのであれば、サプリにより損なわれるものがあるだろう。

そこから、「味わう」の中に、見た目による楽しみ、(食べる前の)ただよってくる匂い、スプーンや箸、あるいは手づかみで得られる変化や感覚、咀嚼による舌ざわりの触感や、そのとき口中を支配する香りも含めると、栄養という情報と、それを「味わう」の間にあるものが見えてくるかもしれぬ。

作品から得られる「情報」と「経験」は異なる

森反論に対し、松本&仲山タッグで共闘する。

作品から情報を得ることと、作品を味わうことは必ずしも等価ではないものの、両者は密接な関連があると指摘する。すなわち、適切なタイミングでネタバレ接触(おそらく非本質的ネタバレ接触)しないと、真の鑑賞経験が得られないという。

さらに、そもそもネタバレ接触(こっちは本質的ネタバレ接触)で壊れるようなものなら、芸術的価値として下だという(その例として『シックス・センス』を持ち出して、あれ芸術としてどうなの? というツッコミに会場が沸く)。

そこへ森再反論が畳みかける。「芸術的価値」と「鑑賞経験」は違うと刺して来る。その「真の鑑賞経験」とやらはなんぞやと。「俺の」鑑賞経験が損なわれるのが問題だというのである。返す刀で、展覧会をハシゴしている批評家は、本当に「味わって」いるのかと斬る。

情報の非対称性と「ネタ」の変容

そこへ、場外からキュレーターの話が飛び込んでくる。

美術展に集まる絵は、ただ漫然と選ばれ・並べられているわけではない。テーマに沿って集められ、聖書や神話の基礎知識を持ったキュレーターが、なんらかの「ストーリー」を背景に並べているというのだ。

一方、これを鑑賞する側は、アトリビュート(描かれた人物を象徴するモノ)を読み解きながら、その「ストーリー」を追従する楽しみがあるという。ただし、鑑賞側は全員が豊富な知識を持っているとは言えないため、どうしても解説(ネタバレ接触)が必要となる。

つまり、基礎知識を持っている・持っていないといった、情報の非対称性により、ネタバレの「ネタ」は変容していくことになる。同じ作品でも、子ども向け・大人向け・時代のコンテクストによって、芸術的工夫(=ネタ)は変化してゆく。

こんな感じで、熱く濃く面白かったけれど、ネタバレがテーマであるが故なのか、さまざまな作品のネタバレをカマされる。『美味しんぼ』から始まって、『シックス・センス』『ユージュアル・サスペクツ』『カメラを止めるな!』『オリエント急行殺人事件』など、楽しみにしている人がいたら……とヒヤヒヤする。

これ、前回のような[sli.do]も流せれば面白かったかも。観客も巻き込んでニコニコ動画のようにメッセージをスクリーンに流し、そこからツッコミをもらう仕掛けだ(森さんが試してたようだが、これやるときは2スクリーン欲しいな……発表者スライド用とsli.do用で)。

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高校生の進路選びに役立つ話

将来に向けて、いま何をするのか? 

Koukouseino

わき目もふらずガリ勉してればいいのか。
資格なんかも取らなきゃダメなのか。

学校の先生は、大学と偏差値の話しかしない。
そのくせ、個性だ適職だと言ってくる。

だいたい、未来がどうなるかも分からないのに、
いま決められるわけがない!

どの時代の若者も、進路について悩んできた。

そんな悩める高校生のために、進路と生き方について、人生の先輩と話す会を企画した。様々なキャリアの人をお招きし、やって良かったこと、こうすれば良かったと後悔していること、いま高校生に戻れるなら、どんな選択をするか等、いろいろ話してもらう。他では絶対に聞くことができない話ばかりで、進路を考える上で、きっと役に立つはずだ。

7/13(土)13:00~16:00 都内某所でやります。高校生を中心とした学生さんだけでなく、その親御さんにとっても、良いヒントが得られる会にします。

詳細と申込はこちら。
[高校生の進路選びに役立つ話]

 

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死 ね な い 老 人

世界一の長寿国であるこの国は、人生100年の時代ともいわれている。

リタイアして、悠々自適の毎日を送る人がいる。趣味やレジャーや学び直しなど、第2の人生を謳歌する人もいる。(未来はともかく)今の高齢者は、高度な医療・福祉サービスを低負担で享受しており、年金をやりくりすることで、暮らしは成り立っている。

その一方で、自分の長寿を喜べない高齢者が増えているという。家族や周囲の人たちに「死にたい」と訴えながら、壁の向こう側で横たわり、生きることを強制される高齢者のことである。『死ねない老人』によると、望まない延命措置を受け、苦しみの中で人生を終える人々は、かなりの数にのぼるらしい。

著者は、高齢者医療に25年携わってきた医師だ。現場の生々しい声を聞いていると、いたたまれなくなる。

生きているのが申しわけない

本書によると、「死ねない老人」は2種類に分かれる。

ひとつめは、生きがいを見失い、家族に負担をかけたくないため、死にたい(でも死ねない)老人である。

死ぬ直前までピンピンしてて、突然コロリと逝く「ピンピンコロリ」を理想とする人がいる。だが、医療の進歩により、なかなかコロリ逝かせてくれない。むしろ、病気の後遺症による苦痛や不安・不調を抱え、介護やリハビリを受けながら生きなければいけない時間の方が長くなる。

たとえば、脳梗塞の後遺症で麻痺が残り、家族の迷惑をかけることが嫌になり、「いっそのこと、あのとき死んだほうがよかった」「生きているのが申しわけない」という言葉が出てくる。内閣府[高齢者の地域社会への参加に関する意識調査]によると、生きがいと健康状態は関係があることが分かる。生きる希望を持てずに死を願う「死ねない老人」がこれになる。

意思に反して強制的に生かされる

もう一つは、本人は治療や延命を望んでいないにもかかわらず、周囲の意向によって「長生きさせられてしまう」老人だ。

もちろん、親に長生きしてほしいと願うのは自然な思いだ。だが、一方で、人生の終わりである「死」を認めたくない家族が、本人の望まない最期を強いていることも事実だという。こうした事例を見ていると、本人の意思や苦悶を無視して、ひたすら強制的に生かそうとする行為は、治療なのか虐待なのか分からなくなる。

もっとシビアな例として、パラサイト家族が登場する。本人は「充分に生きた」「楽に逝きたい」と思っていても、家族はその年金をあてにして生活しているため、死なれると困るというのだ。この場合、本人の意思に関係なく、家族の意向が優先されるという。

長生き地獄から逃れるために

人生100年の時代、長い長い、長い老後の末、幸せな長寿を全うすることは、かくも難しい。生き地獄というより長生き地獄である。この2つの「死ねない老人」に対し、本書ではそれぞれの処方箋を考察する。

まず、生きがいを見失った「死ねない老人」に対しては、「誰かの役に立つこと」がカギとなるという。

[全国社会福祉協議会]を紹介しながら、通学路の巡回・見守りや、清掃・美化活動、いじめ相談など、さまざまなボランティア活動を紹介する。「高齢者=ケアされるお荷物」という偏見を壊し、ケアする側として何ができるか? という視点で考えようと促す。

次に、意思に反して強制的に生かされる「死ねない老人」については、諸外国の事例を紹介する。

欧米の安楽死の制度やサービス、終末期の治療方針について意思表示するPOLSTの例を紹介する。ただし、日本の場合の先行きは不透明だ。2008年に、後期高齢者の終末期に関する制度が設けられたが、マスコミから「高齢者に早く死ねというのか」と非難を浴び、3か月で凍結している。

死の制度化は、充分な議論が必要だろう。POLSTが制度化されることで、いま起きていることの逆転現象が生じる可能性があるからだ。つまり、現在、意思に反して生を強制される老人がいるように、将来、意思に反して死を強制される老人がでてくるかもしれないからだ。

こうした問題がクリアされるまで、「死ねない老人」は増え続けるだろう。ネットやコンビニで目にする元気なお年寄りではなく、「老人に死ねというのか!」とデモ行進をする高齢者ではない。「死ねない老人」は、壁の向こうで静かに横たわっている。

「死ねない老人」について、わたしは、むしろ自分の問題として考えたい。問題は現状のままで、自分の順番が回ってきたら―――その可能性は極めて高いが―――[苦しまないと死ねない国で、上手に楽に死ぬために]を参考にするつもりだ。

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大人もハマる子どもの新書

知らない分野をサクッと知りたいとき、新書が便利だ。

ところが、新書の中には、かなり難解で、入門書としては厳しいのも、けっこうある。

その点、子ども向け新書は、特に分かりやすく解説されている。だから、それを大人が読めば、「サクッと読める」という新書本来のメリットを得られる。

池上彰さんがブレークする前、子ども向けニュース番組を担当していたが、これ見ていた大人もかなり多かった。わたしも見ていたが、ポイントを絞って平易な言葉で伝えてくれており、非常に分かりやすかったことを覚えている。

だから、「子ども向け新書を、大人にも紹介する」という千代田図書館の企画は、知らない分野を広げるのにピッタリだろう。

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もちろん、子ども向け新書を読んで「簡単すぎる」と感じる場合もある。その場合、巻末の文献案内から進むことができる。偏りを減らし、網羅性を目指した知の入り口として、子どもの新書を使うのだ。

千代田図書館の企画[おとなもハマる‼こどもの新書]が斬新なのは、テーマごとにキーとなる新書を決め、そこから派生する形で紹介しているところ。一つに興味が湧けば、そこから芋づる式に引き出せる仕掛け。子ども向けの入り口から、どんどん深みにハマっていける。キーとなる本は「★」で示す。

たとえば、テーマでたどる歴史の新書だ。世界史といっても、深さも広がりも莫大だから、どこから手を付けていいやら分からない。だから、興味のあるテーマで歴史を貫いた新書で掴んだら、そこから派生する関連本に手を伸ばす。

  • 『パスタでたどるイタリア史』(池上俊一、岩波ジュニア新書)★
  • 『麺の文化史』(石毛直道、講談社学術文庫)
  • 『ヨーロッパがわかる』(明石和康 、岩波ジュニア新書)

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あるいは、『10代に語る平成史』で、平成を振り返る。まさにその時代を生きた自分からでは、「平成」は近すぎて客観視が難しい。おそらく、興味がある分野や社会風俗ばかりに目が行き、昭和との接続といった歴史的な観点や、グローバルな視点は曇りがちだろう。

『10代に語る平成史』は、消費税の導入やバブル経済の終焉、冷戦構造の崩壊からテロとの戦い、自然災害など、様々な視点から「平成」を浮かび上がらせようとしている。これをキーにして、以下の本が紹介されている。

  • 『10代に語る平成史』(後藤謙次、岩波ジュニア新書)★
  • 『財政から読みとく日本社会』(井手英策、岩波ジュニア新書)
  • 『平成史講義』(吉見俊哉、ちくま新書)

さらに、『正しいパンツのたたみ方』関連。

「豊かに生きるとは何か?」というテーマを、家庭科から答えた一冊になる。暮らしを整えるだけにとどまらず、現代で他者とともに生きていく力を身につけることを目指している。

あらためて「豊かに生きるとは?」と問われると窮する。だが、テーマを分けて置き換え「家族、消費、労働、性愛のスキルを上げる方法」で考えると、より具体的に見えてくる。「子ども向け」を謳っているが、ヒントが得られるかもしれぬ。

  • 『正しいパンツのたたみ方』(南野忠晴、岩波ジュニア新書)★
  • 『社会を生きるための教科書』(川井龍介、岩波ジュニア新書)
  • 『正しい目玉焼きの作り方』(森下えみこ他、河出書房新社)

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他にも、『めんそーれ!化学 おばあと学んだ理科授業』から化学を、『ハッブル 宇宙を広げた男』から宇宙論、『クマゼミから温暖化を考える』から地球温暖化問題など、新書を通じて様々な学問分野への入り口が見える。

全てのリストは[PDFファイル]をどうぞ。千代田区図書館にて8月下旬まで展示してるので、ぜひ立ち寄ってみてほしい。既知からは新たな発見が、未知の分野からは面白そうな入り口が、必ず見つかるはず。

※写真は許可を得て撮影・掲載しています

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秘密の悩みは、バーチャル師匠に相談せよ

精神的にヤバいとき、どうするか? 自分ではどうしようもできず、かつ、誰にも相談できない悩みだったら、どうするか?

そんなとき、バーチャル師匠を召喚する。いわば仮想的な師匠である。

バーチャル師匠とは

あらかじめ「人生の師」を決めておき、困ったときに相談する。師から直接、教えを受けてなくてもいいし、生きている必要すらない。師を模範として慕い、学んでいればいい。それこそ、マスター・ヨーダを師としてもいい。私淑と呼ばれる方法で、『アイデア大全』(読書猿、フォレスト出版)から学んだ。

700年前の詩人ペトラルカも、私淑を実践した一人だ。
Peto

彼は詩人としての名声を博してはいたものの、うつ病に悩まされ、精神的危機に陥っていた。自己欺瞞による惨めさと、絶対に叶うことのない恋と、欲情が生み出したドロドロの愛憎関係に悩まされていた。

誰にも言えない悩みだから、脳内で相談する。彼にとっての、バーチャル師匠はアウグスティヌスだった。『告白』を読み込み、写本に書き込み、ついには脳内で擬人化できるまでに至る。

彼は、このバーチャル師匠向かって、赤裸々に心情を吐露する。アウグスティヌスは霊的な存在として立ち上がり、雄弁に弟子を叱る。『わが秘密』は、この師弟問答の対話体で成り立っている。

不幸だという嘆きには……

たとえば、自分のことを不幸だ、惨めだという嘆きには、「死」を考えよという。絶対確実なのは死ぬことだから、死をひたすら省察えよと説く。落ち込んでるとき、不吉なことを考えない方がよいのではと思うのだが、アウグスティヌスによると、人はみな死を遠くに見すぎだという。そして、愛や名誉といった欲望によって、死への省察が曇らされることが、苦悩の原因だというのだ。

なるほど、死が確定的なことは分かる。だが、「まだ」死なないつもりでいる限り、真にやりたいことが先送りされる。結果、目の前の欲望に引きずられ、現実とのFIT/GAPを感じるというわけか。自分の意思で、自分の不幸を選び取るという感覚は、確かにそうかも。

脳内アウグスティヌスは、キケロの言葉を引きつつ、「死ほど確かなものはなく、死の時ほど不確かなものはない」と述べる。それは明日どころか、次の瞬間だってありうる。これをありありと実感できるのなら、「まだ」死なないつもりから生じるさまざまな苦悩も消えることだろう。代わりに、限られた時のなかで真にやりたいこと(すべきこと)が何かを探し、それを実行しようとするに違いない。

悩みごとで自分を壊さないために

笑ってしまうのが、バーチャル師匠に嘘をつくこと。自分の脳内の話だから、嘘なんてつきようがない。にもかかわらず、あえて嘘を言い、論破され、考えを改める。本音の自分を守りつつ、建前の自分に折伏される経緯を記すことで、自己欺瞞を表面化させる。

本音の自分の「昔の女が忘れられないけど、今の女が愛おしい」という告白に、バーチャル師匠は叱責する。それを「愛」という名で呼ぶこと自体が、神の愛への冒涜になる。恋人どうしが互いに掻き立てる感情を「愛」と呼ぶことで、宗教的口実を与えているというのだ。

アウグスティヌスにとって愛とは、神の愛しかないのだから、同じ名で呼ぶなという建前は分かる。だが、本人は、あまりにも俗物的な告白をする。このコントラストが非常に面白いのだが、本音 vs 建前でキャラを分けるのは、自分を壊さないための多重人格なのかも。

さらに、異なる人格どうしの対話を記すことで客観視できる。脳内でこれをやると、だんだんすごい勢いになって収拾がつかなくなる。いったん「書く」ことで、正しいか否かに関係なく、確定させる。その上で吟味できるから、暴走を押さえることもできる。

ペトラルカは本書を誰にも見せず、生涯にわたって何度も手を加えたという(『わが秘密』というタイトルにした所以はこれ)。

私淑の実践をお試しあれ。

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女の子の匂いを追い求めた男の話『香水』

目はそむけることができる。
耳は塞ぐことができる。
だが、息を止め続け、匂いを拒むことはできない。
匂いはそのまま体内に取り込まれ、胸に問いかけ、即座に決まる。好悪、欲情、嫌悪、愛憎が、頭で考える前に決まってしまう。

匂いは、どんな意志より説得力をもち、感情や記憶を直接ゆさぶる。人は匂いから逃れられない。

だから、匂いを支配する者は、人を支配する。
そんなことができればだが。

これは、そんなことを目指した男の物語である。

Perfume

男の名は、ジャン=バティスト・グルヌイユ。

超人的な嗅覚をもち、あらゆる物体や場所を、においによって知り、識別し、記憶に刻みこむ。におい(匂い、臭い)に対し、異常なまでの執着心をもち、何万、何十万もの種類を貪欲に嗅ぎ分ける。彼に言わせると、世界はただ匂いで成り立っている。

舞台は18世紀のパリ。

通りは汚濁まみれ、垂れ流しの糞尿が鼻を刺す。魚と屠畜の腐臭と、鼻を背けたくなる疫病の膿んだ臭い、死体の山から漂ってくるものは、目にクる。小便とカビと経血の臭いが入り混じり、日常的に街を覆う。バリの香水が世界一なのは、パリが世界一臭い都市だったからなのかもしれぬ。

このパリで、グルヌイユは「匂い」でのし上がろうとする。

においという、精緻で的確で膨大な「語彙」をもつがゆえ、人とコミュニケートする「言葉」の貧弱さを低く見る(というか興味がない)。さらに、においを組み合わせ、新しいにおいを創造することができる。私たちが言葉を操るように、いや、それ以上に、グルヌイユはにおいを操り、意思を伝えることができる。しかも匂いは言葉より強い。私たちは、匂いを拒むことができないのだ。

そんな彼が、究極の匂いを持つ少女を嗅ぎつけてしまったら?

鋭敏すぎる嗅覚を持つグルヌイユにとって、世界一臭い都市パリは、端的にいって地獄である。誰と会っても、どこへ行っても、ひどい臭いから逃げられない。そんな彼にとって、馥郁たる香気を纏わせる少女が、どのように感じられるか。

本書は、「臭い」に限らず「匂い」の描写が素晴らしい。食欲をそそる香ばしさ、情欲を招き寄せる生々しいにおいと、眠りを誘う芳香。危険を発するきな臭さと、もう手遅れとなった血腥さ。あらゆる「におい」がここにある。そして、においは強烈であればあるほど儚い。ページを繰る手を止めて、思わずくんくんする。

目を凝らすように、耳を澄ますように、鼻に集中する。グルヌイユの運命をたどることで、わたしの嗅覚も鋭くなった気がする。

匂いは言葉より強い。彼が追い求めた究極のにおい、ぜひ一緒に嗅いでほしい。

 

 

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映画『ニューヨーク公共図書館』を観たら、未来の図書館が見える

フレデリック・ワイズマン監督『ニューヨーク公共図書館』を観てきた。ニューヨーク公共図書館(NYPL)そのものを主役とし、そこに集う人々を丹念に描いており、ものすごく贅沢な3時間が、あっという間だった。

図書館を超えた図書館の姿を眺めているうちに、「図書館とは何か?」についての具体的な回答と、その回答から導かれる未来の図書館が見えてきた。

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図書館とは何か

「図書館とは何か?」について持っているイメージは、この映画によって覆るかもしれない。静謐な空間で賢そうな人が本に没頭するといった静的な姿がある一方、大盛況の就職セミナーや講演会、パソコン教室、低所得者への支援といった動的な面が際立つ構成となっている。

そうした営みを見ているうちに、図書館とは、ただ本を集めて貸し出すだけの場所ではない、ということに気づく。

NYPLに集う人は、様々な「知りたい」ことを抱えてくる。面接でどうふるまえば合格できるか知りたい、ネットの情報を手に入れたい、移民局の資料から祖先をたどりたい……そうした「知りたい」についてサポートする、それが図書館なのだ。本を集めて提供するのは、図書館の目的ではなく、手段なのである。

「図書館とは何か?」について、本編で明かされている。プロジェクト会議で建築デザイナーが、「図書館は人だ」と断言する。図書館は、ただ本を集めた書庫ではない。知りたいことについて一生かけて学ぶ場所だという。

本を集めただけでは、「知りたいこと」へたどりつける保証はない。「検索すればいい」というが、どの言葉を検索すればいいか、みんなが分かっているとは限らない。さらに、キーワードがおぼつかないのであれば、検索結果が正しいのか、検索結果が全てなのかすら分からない(ソクラテスの探求のパラドクスやね)。

「知りたいこと」へたどりつくためには、学ぶ人と、学びを手助けする人がいる。図書館には本が沢山あるが、本だけがある場所ではない。たまたま本というメディアが多いだけで、その本質は、「知りたいこと」と人を結びつける場所が、図書館なのだ。

インターネットと図書館

そして、いまやネットの時代だ。

「知りたいこと」のかなりの部分は、インターネットで手に入る。いや、ネットですべて完結し、本なんて開く必要すらないかもしれぬ。あるいは、デジタル化された本を自宅から「借りる」ことだってできる。建物としての図書館や、物理的な本は、ネットに浸食され、不要になるのではないか?

この疑問に対し、NYPLは明確に応える。

まず、「知りたいこと」と人を結びつけることが図書館であるなら、その手助けとなる電子本やネットはどんどん活用すべし、というスタンスをとる。

幹部会議で予算の割り当てが象徴的だ。紙の本とデジタルの本、どちらに重点を置くべきかが議論になる。「デジタルの本の貸出は前期の300%です」という報告を受けて、デジタルライセンスの購入に大きく割り当てる。

さらに、「ニューヨークの300万人はデジタルの暗闇にいる。その人たちにインターネットアクセスを広げる」と宣言する。具体的には、図書館のネット端末の充実はもちろん、低所得者へルータを格安で貸し出すところまでする。ネットを最も必要としている人は、ネットに接続できない人なのだ。

この試みが政治家の目を引き、福祉対策として評価され、NYPLの予算が増額され、継続的に行われるようになる。図書館が社会を動かした事例である(という話だったはず……違ってたらご教示ください)。

未来の人が知りたいこと

「知りたいこと」と人を結びつける場所が図書館であるなら、未来の図書館が見えてくる。すなわち、未来の図書館は、未来の人が「知りたいこと」と人を結びつける場所になる。

では、未来の人が知りたいこととは何だろう?

すでに起きている未来としては、超「超高齢化社会」だ。

そこでは、医療情報へのニーズがさらに増えるだろう。しかし、「がんが消える」エセ医学の氾濫により、正確な医療情報へのアクセスが難しくなっている。本だけでなくネットも同様だ。高齢者やその家族は、膨大な情報を前に途方にくれた挙句、SEO対策ばっちりのイワシの頭を拝まされることになる。

現在、図書館のリファレンスでは、医療関係の相談は不可となっている。直接的な質問への回答は難しいとしても、ライブラリーという形で見せるのはできないだろうか?

たとえば、医療機関に委託することで、良質な医療情報を「本のリスト」として示す。あるいは、そうしたリストの本を集めた書棚を展示するのもいい。本だけでなく、信頼できるネット情報も選んでもらう。情報はどんどん古くなるため、一定期間で更新をかけてゆく。

つまり、図書館に行くことで、スクリーニング済の情報が手に入るのだ。NYPLのように、図書館が単独で活躍する必要はない。図書館は、医療機関と連携して、「知りたいこと」と人を結びつける場所として振舞う。個人が行っている例としては、[一般市民も使える医学図書館]がある。このポータル的な役割を担うのだ。

未来の図書館

上記は、わたしのジャストアイデアにすぎぬ。だが、未来の図書館の一つとして提案したい。

映画を観ることで、図書館の本質が見えてくる。「日本にはNYPLがない」と徒に嘆くのではなく、「図書館は、知りたいことと人を結びつける場所」という本質から考えてみよう。すると、いま抱えている「知りたいこと」に応じて、さまざまなアイデアが湧き出してくるに違いない。

それこそが、未来の図書館なのだ。

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「語りえぬもの」とは何か?『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考 』

「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』は、この一文で終わっている。

ウィトゲンシュタインは、この一文を証明するために『論考』を書いた。
すなわち、この一文が分かることは、『論考』が分かることに等しい。

何度も挑戦し、挫折し、さまざまな回り道をしてきたが、古田徹也氏が著した『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』で、ようやくたどり着いた。やっと「分かった」と言えるようになった。

しかし、本当に「分かった」のか? 独りよがりに陥っていないか?

それを確かめるために、自分の言葉で説明しなおす。「語りえぬもの」とは何か? なぜ沈黙しなければならないのか? 「語りえぬもの」について、わたしの理解を確かめたい。

「語る」とは何か

まず、「語る」について語ろう。ここで言っている「語る」とは、何か意味のあることを言葉で表現することだ。たとえば、

  • あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。
  • ない僕達はまだ知らあの日の名前を花見た。

最初の文は、意味が通るが、二番目の文は何を言っているのか分からない。「語る」とは、最初の文の、何事か意味のあることを言っていることだ。

そして、この語ることができるものを、どんどん積み上げてゆく。

  • あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。(経験の記述)
  • 火星のオリュンポス山頂にiPadが刺さってる。(想像上の話)
  • 運動方程式はm=Faである。(科学的知見)

日本語だけではなく、英語でもドイツ語でも「語る」ことができる。どんなに突飛な話でも、肯定文でも否定文でも、順序を入れ替えても、意味が通るのであれば、「語る」ことはできる。まだ発見されていない物質や物理法則も、「語る」に入れていい。

そうやって、語ることができることで世界を埋め尽くしてゆく。でも、未来のことや発見されていないことなんて、何て呼べば良い?

Katarienu

「究極の言語」で語りつくす

なので、『論考』は、「究極の言語」を提案する。語りえるものを最大限に拡張するため、古今東西の(未来も含めた)あらゆるものを語りつくすことができる言語だ。これなら、すべてのことが「語りえる」のだろうか?

『論考』によると、否、になる。

なぜなら、世界を語りつくしたとしても、その「語り」を保証する対応づけそのものは、語ることができないから。「語り」を保証する対応づけとは、語りを構成する文字列(音声)が、まさにその対象である、とわたしたちが信じていることだ。

たとえば「あの花」という文字列から、それがあの日見たまさにあの花であることは想起できるが、その関係性(「あの花」=「あの夏の日に見た花」のイコールの部分)は、語ることができない。わたしたちは、「あの花」と言われて、あの夏に見た花を思い浮かべるのみである。

「語る」に先立ち成り立っているもの

「言葉とその対象に対応づけがあること」なんて、わたしたちは当たり前すぎて見過ごしてしまうかもしれない。だが、わたしたちが意味のあることを語るに先立ち、それを意味あるものにするために、言葉と対象に対応づけがある。

そして、その対応づけは、語ることができない。世界を埋め尽くす「語ることができるもの」の中で、わたしたちは想起する他ないのだ。

では、「語りえぬもの」とは、語りを保証する対応づけだけなのか?

「視界=世界」という思考実験

これも、否、になる。

『論考』では、独我論者を攻撃することで、「語りえぬもの」が見えてくる。独我論者とは、自分にとって存在していると確実に言えるのは、自分だけだという立場である。つまり、自分の目に映るものだけが全て(=世界)であり、それ以外は疑いうる、と主張する。

つまり、彼の目には世界はこうなっている(視界=世界)。

Me

『論考』では、独我論者は間違っていると指摘するが、「言おうとしていること」は正しいという。

まず、この絵は正しいかというと、間違っている。仮に、「視界=世界」としよう。すると、この「目」は何なのか? ということになる。独我論者の世界の中に、独我論者自身のの目は存在しない。しかし、彼の目は確かに存在する。だから、この絵は間違っている。

私の限界=世界の限界

しかし、独我論者が「言おうとしていること」は正しい。確実に存在するといえるのは、自分という主体が認識する範囲が限界であり、それを超えたものは、あるかないか分からないという考え方である。最も目がいい人でも、視界が届く範囲が世界になるのだ。

これを言葉で置き換えると、言葉が届く範囲が「語ることができる」範囲になる。語ることができる最大最長の範囲なら、究極の言語を持ってくればいい。その究極の言語をもってしても、届く範囲は、主体が認識する限界を超えることができない。

究極の言語でもって最大限に語りつくした世界が主体なのであり、その向こう側は、語ることができないのである。

『論考』には、他にも「語りえぬもの」が出てくるが、ここでは2つの方向から「語りえぬもの」にアプローチした。

ひとつは、「語りえる」ことを語り尽くす前に、語ることそのものを成立させている対応づけであり、もうひとつは、「語りえる」ことを語り尽くした後に、それでも届かない限界になる。

語りえることを語り始めるに先立つ静寂、あるいは、語りえることについて語り尽くした後の沈黙、これこそが、「語りえぬもの」になるのだ。

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「レンガ」がローマを作り、「鉄」がアメリカを作った『世界建築史15講』

アーチ建築技術の基礎をなすレンガは、土を素材とする。

土は、地上のどこにでもある。

だから、植民都市のいかなる場所でもローマを実装できた。

ローマが大帝国となった理由を、政治や軍事に求める人は多いが、「ローマとはレンガの帝国である」という着眼に、頭ガツンとやられた。

Sekaikentiku

植民都市に送り込まれたエンジニアが、そこの土を素材とし、レンガを作り、レンガを積み上げ神殿を建て、都市をつくった。道路が舗装され、水道が引かれ、インフラが整備された。紀元後には、石灰由来のセメントと切石を骨材としたコンクリートが発明され、文字通りローマ帝国の礎となった。

歴史を振り返るとき、一般に、国家や王朝の盛衰や、社会や文化の変遷を思い浮かべる。

しかし、そうしたフレームを捨て、「建築」という視点で見直すとどうなるか? これを成し遂げたのが本書になる。「建築の歴史は人類の歴史である」という立場のもと、15の講義+15の補講、合計30の視点から振り返ると、まるで異なる「世界史」が立ち上がってくる。

「鉄」がアメリカをつくった

たとえば、「大地」との関係性からとらえたアメリカ合衆国は、まったく別の一面を見せる。

広大な土地があるにもかかわらず、アメリカの建築は「上」を目指す。アメリカにおける超高層ビルの歴史を紐解きながら、高層ビルの建設を可能にした「鉄」に着眼する。

摩天楼を実現する鉄鋼はどこから来たのか?

本書では、シカゴとニューヨークの高層都市建設を例として、北米大陸における両都市の位置が重要だという。古生代レベルで振り返ると、北米大陸東海岸は、カレドニア造山地帯に重なる。カレドニア造山地帯は、縞状鉄鉱床を多く含み、そのまま鉄の生産量につがなる。

シカゴとニューヨークは、生産された鉄と、それを運ぶ交通網とセットで発達したという。鉄鉱床は19億年前には生成を終えており、新しい鉄鉱床はほとんどない。つまり両都市は、その地の利から、目指すべくして上を目指したのだ。

土地との関係性からマクロに眺めると、ローマがレンガの帝国であるように、アメリカは鉄の帝国ともいえる。

都市住宅システムとしての中庭式住居

いっぽう、ミクロの、「都市住宅システム」という観点から眺めると、環境や文化を横断して、驚くほどの普遍性を見ることができる。

人がそこに住み生活する「住宅」は、気候や地形、家族や生業、社会や信仰といった様々なものに影響される。

しかし、人口が密集する都市部に着目すると、ある共通的な特徴が見えてくる。都市部では、熱、光、音をどう制御するかが課題となる。様々な住宅モデルが考案されるが、最適解は「中庭式住居(コートヤードハウス)」になる。

中庭式住居は、都市の集住状態において、通風や自然光を確保する住居形式であり、古今東西の至る所に見られる。都市文明発祥の地とされるメソポタミアの都市遺構、エジプト文明、インダス文明のモエンジョ・ダーロ、中国の四合院やギリシャ・ローマの都市住居の基本も、中庭式住居というのだ。

言われてみれば、金沢を訪れた時に立ち寄った坪庭、愛知のリトルワールドでランチしたパティオ風の庭園、どれも「人が集まって住む場所」における、通風と採光を確保する空間だった。呼び名が違うだけで、住居システムという観点からすると、同じ役割を担っていたのだ。

ありがちな「世界史」観からの脱却

他にも様々な建築の視点から世界史を見る。

いわゆる、欧米を中心とした世界システム論すらも相対化してしまおうという野心的な面も備えている。「海外神社はいくつ作られたか?」という観点から日本の影響力だけでなく神社の機能性までも論じたり、「遊牧民の移動式住居(パオ)が、古代のドーム型建築の発生に一因した」論文など、それだけで一冊になる。どれも濃密かつユニークなり。

建築という面から、世界史が違って見えてくる一冊。

 

 

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