胃がん100万、乳がん200万、肺がんだったら300万『がんとお金の本』

 がんになったときの、「お金」関連がまとめられている。検査や治療の明細、公的医療費助成制度の活用法、収入や生活の不安を支える公的制度など、「生きる」費用対効果を考える上で、有用な一冊。国立がん研究センター監修。

 タイトルはもちろん乱暴だ。がんの発生場所、病期(ステージ)、治療方法、入院期間などによって、まるで違う。「がん」という名前だけで、全然別の病気に見える。例えば、胃がん100万の事例は、「ステージI期、腹腔鏡下幽門側胃切除術のみ、11日間入院」の場合。大動脈リンパ節転移で切除不能だと化学療法のみとなり、46万と半額になる。ステージが進むほどやれることが限られてくる傾向がある。

 問題は、がんになるか、ならないかではない。問題は、「いつ」がんになるかということと、「どの」がんになるかである。

 日本人の2人に1人はがんになるのなら、がんに罹ることを前提としたほうがいい。問題は、それがいつ発見できるのか、そして、どの部位で見つかるのかを想定して、準備をしておいたほうがいい。

 そして、罹患部位ごとの5年生存率を見ながら、どこまでの治療を選ぶかを考えておく。そのために、どの段階でどのような治療が標準的なのか(そしてそれはいくら位なのか)、押さえておく必要がある。「できるだけの治療」を目指すなら、いくらでもお金を注ぎ込むことができる。標準治療からかけ離れた、「ニセ医療」に全財産を取られることだってある。

 たとえ予後が良くても破産したら意味がない。お父さんが助かっても、家族が地獄を見るならば、何のための「お父さんの命」か。生きているだけで幸せと言えるのは、そう言ってもらうために、先立つものがあってこそ。

 わたしが5年生き延びるためにかかる費用が、ある一線を越えそうなら、治療の方向を変えよう。わたしの残機を念頭に、残りの人生の品質を最大化するためのケアに切り替えるつもりだ。これは、わたしの決定であり、他人は知らぬ。「金かかるから諦めろ」とは、自分には言い聞かせられても、他人には言えぬ。

 そのために、どの部位のがんに罹り、どの時点で発見されると、いくら掛かるのか、予め知っておきたい。これ、いざ宣告されたなら、ショックのあまり検索してしまうから。そして、「自分で治す」「切らずに治す」「医者に頼らない」といった宣伝に、うっかり引っかかること必至だから(「お金があまりかからない」の暗喩にすぎぬ)。

 がんになる人がそれだけいるということは、そうした人々を支える助成制度が準備されている(この点、日本はすごいと思う。金の切れ目が、命の切れ目である国と比べて)。高額療養費制度は知ってはいたが、高額介護療養費と合体した制度があることは知らなかった。

 他にも、高額医療費の貸付制度や、収入に不安がある場合に頼れる制度が紹介されている。上手く活用することで、命の切れ目の上限額ラインを引き上げることは可能だ。緩和ケアに保険が利いたり、ロボット手術支援システム「ダビンチ」の手術に保険が使えることを知ったのは、新たな発見なり(ただし、手術部位による)。

 金の切れ目が、命の切れ目にならぬように。

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劇薬小説『異形の愛』

 「劇薬小説」というジャンルがある。心をざわめかせ、脳天を直撃し、己を打ちのめすような小説だ。憎悪、歓喜、憤怒、悲嘆、さまざまな感情を爆発させる猛毒だ。

 怖いもの知らずで聞いて回り([人力検索はてな:最悪の読後感を味わいたい])、エロもグロもゴアも手当たり次第に読んできた。10年かけて渉猟してきたベスト(ワースト?)5はこれ→([劇薬小説ベスト])。

 しかし、『異形の愛』は読めなかった。

 正確には、序盤までだった。予備知識ゼロで手にとって、これが一体、何の小説であるかに気づいたとき、二度と触れられなくなった。最初に本書を手にしたとき、まだ幼いわが子と重なってしまい、先に進められなくなってしまったのだ。

 これは、巡業サーカスの家族の物語である。団長であるパパは、薔薇の品種改良に想を得て、わが子の品種改良を試みる。すなわち、子どもが「そのままの姿」で一生食べていけるよう、意図的に畸形を目指すのである。ママの排卵と妊娠期間中、コカイン、アンフェタミン、それに砒素をたっぷり摂り、殺虫剤のブレンドから放射線まで試す。

 そうして生まれてきたのは、腕も脚もないアザラシ少年(サリドマイド児)の兄、完璧なシャム双生児の姉、一見フツウだが特別な力を持つ弟、そして、アルビノの小人の「わたし」である。物語は「わたし」によって導かれ、過去と現在を行き来しながら、家族への愛が語られる。

 見世物のキャラバンでは、フリークスこそが望まれ、フツウは入れない世界なのだ。他にも、家族の外から入り込んでくる変人が現れるが、五体不満足を目指す動機が無残としかいいようがない(袋男のエピソードは強烈である。注意して読まれたし)。

 価値観は転倒しているにも関わらず、その愛は正当なものだ。歪んでいるのは、そう見ている読み手であるわたしであることに気づく。その身の捧げ方がいかに特別なものであっても、やっていることは狂気としかいいようのない行為であっても、名付けるとするならば、愛としかいいようがない。この小説に「結論」というものがあるのなら、それはここになる。

強いのは愛する側なんだという思いを引きだした。愛されるなんてはかないもの。お返しに愛されたからって、それがなんになる? そうわたしは自問した。暗闇で背骨を暖めるため? わたしの愛など、アーティには関係のないことだ。それは秘密の切り札、恥毛の下に彫った青い鳥の入れ墨か、ケツの穴に隠したルビーのようなものだ。

 言葉にできないものを言葉を通じて知ることがフツウの文学ならば、言葉にしてはいけないものを言葉を通じて知るのが本書である。笑える&泣ける家族のエピソードを散りばめつつ、残酷な運命に向かって平凡な日常を続ける現代のおとぎ話は、ジョン・アーヴィングの傑作『ホテル・ニューハンプシャー』を思い出す。アーヴィングを読んだ人に対しては、『異形の愛』とは、フリークス版の『ホテル・ニューハンプシャー』だと言えば上手く伝わるかもしれぬ。

ホテル・ニューハンプシャー上巻ホテル・ニューハンプシャー下巻

 やっていることは、商品としての赤ちゃん「デザイナーベビー」に連なる。遺伝的に劣位な胚を除外する生殖補助、肌・目・髪の色や遺伝特質を予めセットアップするサービス、亡くした子どもの代わりにつくられる生物学的に同一のレプリカントなど、ベビービジネスは巨大な市場になっている。にも関わらず、そこに異質を感じるのはぜか。さらに、異形たちの愛にフツウの愛を感じるのはなぜか。自分は「大丈夫」だと信じたいのか? 読めば分かる。試すつもりで読むといい。

 きれいはきたない、きたないはきれい。闇と穢れの中を読み進め。

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『女の子が生きていくときに、覚えていてほしいこと』(西原理恵子)は、娘の幸せを願う全ての親に伝えたい

 これは重要な一冊。これを娘に伝えられるかどうかが、娘の幸せを左右することだから。年頃の娘を持つ全ての親に渡したい。

 中身はいつものサイバラ節と、ちと違う。「母」という立場から反抗期の娘に宛てた手紙のような、それまでの半生を振り返って「いろいろあった」とつぶやくようなエッセイなり。さらりと書いてあるくせに、幸せの勘所というか、不幸を避ける考え方のようなものがきっちりとまとめられている。

 過去作を読んできた方には、目新しいものはないかもしれぬ。だがこれは、西原理恵子が伝えてきた「金の話」「男との関係」「幸せへの近づき方」の、いわばエッセンスを凝縮したものになる。一番重要なところを引用する。

大事なのは、自分の幸せを人任せにしないこと。そのためには、ちゃんと自分で稼げるようになること。

 そのために、最低限の学歴は確保する。できれば、資格もとって、スキルアップしておく。結婚するときは、夫に内緒の貯金を持っておく。「今は離婚できない」と「いつでも離婚できる」では人生大ちがいだという。理不尽な暴力(肉体的なものに限らず、言葉や態度も含む)を振るう人は、相手が逃げられない状況になってはじめて本性を現す。

 もちろん、そんな人だと分かっていたら、一緒になったりしない。だが、「そんな人ではない」と思っていても、リストラされたり、アルコールにはまったり、環境が変われば人も変わる。そんな人の具体例がこれまた生々しく、どす黒い。そうなる前に、逃げろという。「逃げる」という選択肢があることを、そうなる前に予め知っておき、それを選べる自由を持てという(それが金であり、金になる手に職なのだ)。

「自分さえ我慢すれば」は間違い。まず自分がちゃんと幸せにならなくってどうする。自分をちゃんと大切にできるって、女の子にとってすごく大事なこと。

 「いい子」になるなという。「優しい子」になるなという。そういう、優しくていい子は、自分の幸せを後回しにして、人に譲ってしまうから。譲られた人は感謝なんてせず、次からは当然になるというのだ。この件は、内田春菊のケーキの喩えを思い出す。

 ある女が手間暇かけて美味しいケーキを焼いた。それを一切れ、気になる男に差し上げたとしよう。男はうまいうまいと食べ、もっと欲しいと言い出す。女は躊躇するのだが、男は「一切れくれたのなら、全部くれても一緒だろう」と腹を立てるというエピソードだ。

 ケーキは肉体関係を指しているのだが、これは「やさしさ」にも通じる。最初の一切れは彼女の好意や優しさかもしれぬ。だが、それを当然視してもっとよこせという男に対し、我慢してつきあう必要はない。

 他にも、「女の一途は幸せの邪魔」「自由ってね、有料なんですよ」「人生は我慢くらべじゃない」など、名言だらけなり。娘の幸せを願う全ての親に、ぜひ読んで欲しい。そして、わたしの娘にも読んで欲しい一冊。

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東大・京大で『勉強の哲学』が一番売れている理由「勉強するとキモくなる」

 「勉強とは何か?」を根源的に考えた一冊。一言なら「勉強とは変身である」になる。

 巷に数多のノウハウ本ではない。意識高い系の自尊心をくすぐる本ではない。勉強するとはどういうことか、勉強することで何が起きるのかを、言語と欲望の問題にまで踏み込み、掘り下げる。

 議論のバックグラウンドに、フーコーの権力システム、ドゥルーズ&ガタリの脱コード化、さらにウィトゲンシュタインの言語観をも引き込んでいるが、咀嚼しきった上で原理的に考え抜く、その知的格闘が面白い。

 勉強すると何が起きるのかを考える際、勉強する「前」はどうなっているかに着目する。自分が話す(=考える)言葉やコードは、そのときに自分がいる環境に依存しているという。半径5mの仲間や学校、家族、手元の端末のSNS、マスコミ、社会などから、「こうするもんだ」というコードにノッて話し、考え、行動する保守的な状態だという。

 それが、勉強することにより、慣れ親しんだ「こうするもんだ」から、別の「こうするもんだ」に移行する。集団的なノリに共感できなくなったり、あるいはそうであった自分を客観視するようになる。この「場」から浮いた感覚や言葉が自分をキモくさせるというのだ。

 勉強により、言葉が拡張する。今まで使っていた同じ言葉とは別の意味を持つことに気づく。この「違和感」が重要だと説く。言葉の手触りというか、透明度の違いのようなもの。わたしの例だと、「無限」だな。数学をやりなおして無限は計算できることを教わった(数学と数学論のあいだ『数学ガール/ゲーデルの不完全性定理』)。さらに、無限に大小があることを知った(大人のための数学『無限への飛翔』)。最初は、会話で使う形容的な「ムゲン」と数学的に定義された複数の「無限」の収まりの悪さを感じ、次に、そのズレを意図的に使い分けるようになった。勉強により、自分「が」キモく感じると同時に、自分「を」キモくさせていることに自覚的になる。

 勉強により、自己を言語的にバラす。これまで囚われていた環境のコードを疑って批判する(アイロニー)手法と、コードに対して意図的にズレようとする(ユーモア)手法により、自己破壊と拡張・メタ化を行うというのだ。その結果、発想の可能性を狭めていた環境のノリから離れ、別の環境、他の次元の発想が考えられるようになる。著者曰くこれが「賢く」なるということだ。

 この取組みは、『アイデア大全』でしつこく追求されている「問題の再定義」やね。「問題を様々な角度から検討する」だけでなく、問題の前提を疑ったり、問題を「問題」として成り立たせている構造を組みなおす。『勉強の哲学』で抽象度の高い議論に揉まれたら、『アイデア大全』の具体的すぎる手法を試したくなる。「シソーラス・パラフレーズ」「対立解消図」「フォーカシング」「P.K. ディックの質問」は、そのものズバリだろう。併せて読むことをお薦めする。

 『勉強の哲学』は、東大・京大の生協書籍部の売上No.1とのこと。勉強するとはどういうことか、勉強することで何が起きるのかを深く知れば、「なぜ勉強するのか」の答えは自ずと見つかる。

 勉強とは、変身である。勉強しよう。

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数学と数学論のあいだ『数学ガール/ゲーデルの不完全性定理』

 数学の良いところは、待っていてくれること。

 もう授業も受験もないので、時間制限は残りのライフのみ。時代の風に翻弄される政治経済歴史と違い、「新しい=良い」教に染まった物理化学生物と異なり、好きなときにやり直せるのが嬉しい。前回のセーブポイントから始められ、学んだだけ進められるのも数学の良いところ。

 そして、前回攻略できなかった、ゲーデルの不完全性定理に再挑戦する。8年ぶりの再再読だが、「数式と少女のときめき」は健在で、読み物としても入門書としても抜群に面白い。さらに「数学に苦労していたわたしの高校時代」と「『数学ガール』に没頭していた8年前」を重ね、二重の意味で懐かしい。

 全10章に分かれ、最終章(ゲーデルの不完全性定理)に取り組むための伏線が張り巡らされている。嘘つき者のクイズに始まり、ペアノの公理やラッセルのパラドクス、そしてイプシロン・デルタと対角線論法で「数学を数学する」準備をする。

 「高校生がゲーデルの不完全性定理を理解するために何が必要か?」をとことん考え、足りない概念や道筋を洗い出している。最初に読んだときには気付かなかったが、9章までに解説された概念・数式・体系というピースが、最終章でビシッとハマってゆくところは、上質のミステリのように面白い。

 その一方で、数学を学ぶにつれて浮かんできた"わだかまり"のようなものが可視化されている。≪意味≫を≪形式≫として捉えるために、≪意味の世界≫と≪形式の世界≫という考え方が紹介される。問題(意味)に対し、数式(形式)を立てたなら、後は機械的に解くことで、答えを得ることができる。そして、数式の答えは、問題の答えになる。

 この考えは本書を貫いている。いったん形式体系で表せるならば、所定の公理・規則に従って展開させることができる。必ずしも数学的である必要性はなく、むしろ今までの数学的な意味や慣用に引きずられないよう、「知らないふり」「忘れたふり」をしてシステマティックに振舞えと命ぜられる。

 この「知らないふり」ゲームは、ものすごく面白い。自分がいかに意味に引きずられて考えているかが、よく分かる。ウィトゲンシュタインやクリプキのこだわりを実践的になぞっているようで、ワクワクさせられる(ただし、意味の正当化と規則の正当化は異なるやり方で果たさなければならない『意味と規則のパラドックス』は、いったん脇においておく)

 そして、形式体系に落とした46の定義と数学ガール(ズ)の対話によって、不完全性定理が証明されている。残念ながら今回も力尽き、p.358の全体像を見ながら追いかけることになったが、それでも脳汁あふれる旅路だった。わたしの"わだかまり"は、この旅路の最後、「不完全性定理が≪数学≫の限界を証明してしまったのではないか?」というテトラさんの質問に対するミルカさんの返答に現れる。

「議論に混乱がある。テトラは、≪数学というもの≫という言葉をどういう意味で使っているのだろう。それは、(1)きちんと定義を書き下して、なんらかの形で形式的に表現できる何かだろうか。それとも、(2)定義を書き下すことはできず、私たちの心に浮かんでいる、数学という名を付与するにふさわしい何かだろうか。どちらのつもりで言っているのかな?

もしも(1)のつもりならば、≪数学というもの≫は条件を確かめた後に不完全性定理の対象となりうる。そして≪数学というもの≫は不完全性定理の結果に支配されるだろう。

しかし、もしも(2)のつもりならば、≪数学というもの≫は不完全性定理の対象ではない。それは数学「論」の対象か、哲学の対象か……ともかく、数学の対象ではない。ということは、不完全性定理の対象でもない。だから、≪数学というもの≫は不完全性定理の結果に支配されない。

さらに≪数学というもの≫が(1)なのか(2)なのかを識別することは、これまた数学が扱うことではない。

だから私の考えはこうだ。不完全性定理の結果を使って数学的な話をしたいなら、対象を数学にしぼって話そう。そうではなく、不完全性定理の結果からインスピレーションをもらって数学論的な話をしたいなら、そのつもりで話そう。忘れてはならないのは、数学論的な話は、「数学的に証明された」わけではないということ」

僕は、ミルカさんに問いかける。

「≪数学を形式的体系として表現する≫のは不可能だということ?」

彼女は目を閉じ、首を横に振る。

「というよりも、≪数学とは何か≫を定めるのは≪数学≫ではないということ。それは≪数学観≫だ。だから≪数学とは〇〇である≫という主張は───数学的に証明できない」

「要するに≪数学的な議論と、数学論的な議論は分けるべき≫なんだ」

 ミルカさんの言う(1)「きちんと定義を書き下して、なんらかの形で形式的に表現できる何か」とは、形式体系だと理解した。そして、≪意味の世界≫から≪形式の世界≫に移ることで、所定の公理・規則に従って展開し、他の数学的な意味や慣習は「知らないふり」ゲームをし続けることができる。

 問題はここにある。ミルカさんは、不完全性定理を議論するにあたり、≪数学というもの≫を、いったんは(1)としている。しかし、わたしはこの前提である「不完全性定理を議論するにあたり」を省略し、≪数学というもの≫は(1)であると考えてしまっていた。

 すなわち、数学とは公理と規則とそれらを示す記号の組み合わせの総体だとみなしていたのだ。だから、人が知っている数学的知識のすべてをAIに学ばせることで、「人が知らない」数学的証明について自動的に検証できるに違いないと考えていた。「数学は、計算できる」。もちろん、これはヒルベルトが立てた目標であり、ゲーデルが打ち砕いたものだ。だから、わたしは≪数学というもの≫の限界が証明されてしまったように感じたのだ。

 ここまで理解した上で、まだ分からないことがある。ミルカさんは、(1)数学的な議論と(2)数学論的な議論は分けろという。その通りだ。だが、≪数学≫がなんであるかについては言明を巧妙に避ける。≪数学というもの≫と(カッコ抜きの)数学を使い分け、ミルカさんにとって数学が何であるかは、ついに分からない。

 最初は、ミルカさんにとっての数学とは(1)であると考えていた。すなわち、「きちんと定義を書き下して、なんらかの形で形式的に表現できる何か」である。だが、(1)とするなら、先にわたしが陥った形式主義の罠にはまることになる。だから、不完全性定理の議論をする上での前提を置いたのだろう。

 しかし、ミルカさんの言う、≪数学というもの≫を決めるのは≪数学観≫だというのは本当だろうか? 数学「観」というのであれば、人により時代により変わってゆく。数学とはそんなものなのだろうか? 素朴なプラトニストだったわたしからすると、疑わしい。それこそ≪数学というもの≫は、(2)「私たちの心に浮かんでいる、数学という名を付与するにふさわしい何か」になってしまう───とグルグルする。

 わたし自身、数学の教科書に載っている事柄だけでなく、「人はどのように数学を理解しているか」に興味がある。人の想像力の限界があるとするならば、それは数学で表せる限界を調べることで明らかになる、と信じる。だから、ミルカさんにとって≪数学というもの≫が何であるかが知りたい。「それは数学≪論≫の話だろう」とはぐらかされるだろが、そこは壁ドンして、「ではミルカさんにとっての数学は?」と問うてみたい。

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『月がきれい』が好きな人は、『東雲侑子』を読むといい

 『月がきれい』が好きだ。

 『月がきれい』は、中学生の淡い恋を柔らかく描いたアニメだ。これを観るのが、楽しみのような苦しみになっている。

 初心な二人が、ゆっくり恋を育てていく様子が愛らしく、その嬉しさ恥ずかしさが甘酸っぱく伝わってくる。その一方、劣等感と自己嫌悪に苛まれていた自分の過去を思い出し、苦しくなる。

 作中、ある重要なタイミングで、村下孝蔵の『初恋』が流れたとき、涙が止まらなくなった。これ、二人がずっと後になって振り返ったとき、あの日から互いの人生が重なり始めたんだということが、視聴者にだけ分かるという演出になっている。シナリオゲームでいう分岐点だね。「好きだよ」と言えずに初恋が終わるルートなのか、「月がきれい」と伝えた夜から始まるルートなのか。

 恋が終わってしまう分岐は沢山ある。「想い」に気づかないうちにクラスのみんなにからかわれるエンド。告白玉砕エンド。LINEがつながらなくてすれちがいエンド。親友が好きな人と同じ人を好きになってしまうエンド。性欲に負けるエンド。親の反対エンド。そして、進路先の違いエンド。

 二人は、そうした分岐点を越えていくのだろう。そして、アニメのエンディングの背景に流れる大人になった二人のLINEを見ていると、きっと結ばれるエンディングになるのだろう……「きれいな顔してるだろ」エンドだけは避けてほしい。「死なないで……」とつぶやくわたしの背後で娘が不吉なことを言う「“あったはずの未来”エンドなのかも」。

 あったかもしれない(と思いたい)妄想に耽ることで、自分の苦くてしょっぱい過去を無かったことにする。「男の過去は上書き保存、女の過去は名前をつけて保存」というが、恋物語に耽るのは、苦い思い出を楽しい経験で上書き保存するため。そんな人に、『東雲侑子』をお薦めする。

東雲侑子は短編小説をあいしている東雲侑子は恋愛小説をあいしはじめる東雲侑子は全ての小説をあいしつづける

 『東雲侑子』は、高校生の淡い恋を柔らかく描いたラノベだ。パッケージはラノベだが、この中に、宇宙人、未来人、異世界人、超能力者はいない。無気力で無関心な彼は、まんま「あの頃のわたし」だし、いつも独りで本を読んでる彼女は、「月がきれい」と伝えられた“誰か”になる。照れ屋で臆病な二人の、未熟で不器用な恋に、胸がいっぱいになる。

 面白いことに、「恋は一方通行」であることが本書の構成でもって示されている。内的な心情が吐露されているのは彼のみであり、東雲侑子が何を感じているかは、表情やしぐさ、言葉でしか描かれない。彼女もどうやら好きになってくれているみたいだが、それが彼と同じくらいなのか、少ないのか多いのか一切見えない。つまり読者は、彼の観察を通じて彼女の心情を察するしかない。

 さらに面白いことに、東雲侑子の情感の動きは、「小説」に託される。彼女は短編小説家であり、何を感じどう考えているのかは、彼女が書いた小説内小説で推し量ることができるという仕掛けだ。ちと古いが、ジョン・アーヴィングの『ガープの世界』の作中作である『ベンセンヘイバーの世界』と構造が似ている。

 自分の若い時代を思い返して懐かしむのもいい。良い思い出がないのなら、この記憶を上書きして甘酸っぱくなるのもいい。文学は一生を二生にも三生にもしてくれるのだから。

 ……とはいえ、時代が変わったなぁと釈然としないのはLINE。わたしが若いころは、そんなに簡単・気軽に(?)メッセージを飛ばす仕組みがなかった…… これも古くなってしまったが、2chコピペ。

 女の子の家に電話をかけるときと、
 お父さんが出てしまったときの
 ドキドキ感は失われてしまった

 お父さんはファイアウォール。
  「娘はおらん!(ガチャ!)」

 お兄さんは攻性防壁。
  「なんだお前、俺の妹になんか用か?」

 妹はアラーム。
  「おねーちゃーん、男の人からでんわ~」
  「なにぃ?」←攻性防壁が反応
  「なんだと?」←ファイアウォールも反応

 お母さんはバックドア。
  「代わってあげるわね。うふふふふ」

 #お姉さんはしっくりくる位置関係が思いつかなかった。

 プリンセス プリンセスDIAMONDSの「初めて電話するときには いつも震える」のも、もう昔話なんだろうね。

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女の機嫌の直し方

 男が書いたら炎上必至、女の機嫌の直し方。

 胸に手を当て思い当たるトコロ多々あり、ヒヤヒヤしながら読む。妻と口論になったとき、論点を紙に整理しはじめたら激怒されたことを思い出す。「知性に性差はあるのか?」を書いたとき、女性読者から一方的に批判されたことを思い出す。

 本書のエッセンスは2chコピペ「車のエンジンがかからないの…」であり、ゆうメンタルクリニック「男と女の会話は違う!」にある。先に"正解"を書いておこう→「正しいのは常に女性であり、男性から共感をもって寄り添うべき」。この"正解"の裏付けと、実践的な対話を含めて解説したのが、本書になる。

 冒頭はこう始まっている。

女の何が厄介って、些細なことで、いきなりキレることだよな。それと、すでに謝った過去の失態を、何度も蒸し返して、なじること。

 著者は脳科学コメンテーター。なかなか面白い肩書で、「男性脳」「女性脳」という言葉を使いながら、主に自分の経験を基に"女の機嫌"のメカニズムを語る。「〇〇脳」というレッテルに警戒しつつも、わたし自身が苦労して手に入れた教訓と合致するので、お悩みの方には参考になるかと。

 なぜ、女は、思いがけないところで機嫌を損ねるのか。そして、いったん損ねた機嫌を直すのが難しいのはなぜか。この議論に対し、「何が正しくて、何が正しくないのか」という論点を持ち込んでも、全く埒が明かないという。

 つまり、ルールやロジックといった客観に照らして、「正しい・正しくない」という話は、全く通じない。なぜなら、主観(彼女)にとって心地いいか、心地よくないかという話なのだから。正解は「彼女の中」にあるというのだ。

 著者はその理由を、種の保存における自己保全の本能に求める。交尾が済めば即死んでもいいオスと異なり、メスは、子孫を残すために、自分の健康や快不快の状態に気を配る我の強さを持つ。つまり、女性は、「自分の快適さ」に対する責任が違うというのだ。

 男に向けた福音書の触れ込みで、「女ってこうなんですよ」という姿勢で書かれているものの、一方で男を「かわいそう」と哀れみの目で見ることも忘れない。女性の機微に共感せず、ルールやロジックを通そうとすると、妻の無視や職場での断絶を招くことになるからね。

 わたしの場合、「そういう女もいる」「そういう男もいる」といった形で、もっと緩やかに構えている。「男は~」とか「女は~」にしてしまうと、色めきたつことになるから。主語を大きくせず、自分の身の回りの女性に対し、もっと細やかな気配りが必要だと痛感させられる。

 とはいうものの、怒ってしまった女性にはどうすればよいか。著者は、真摯に謝るしかないという。いかなる理由であれ、機嫌が悪くなった彼女の気持ちは傷ついている。その「理由」に着目するのではなく、傷ついた「気持ち」を受け入れる。

 ほぼどんな状況でも使えるのは、「きみの気持ちに気付かなくて、ごめん」だ。これは著者だけでなく、わたしの経験からもお薦めする。目に見える(客観視できる)理由ではなく、目に見えない気持ちに寄り添うのだ。そして、特に役に立ちそうなのが「答えようのない質問への対処」の件である。

 「あなたって、どうしてそうなの?」
 「なんでわかってくれないの?」
 「一緒にいる意味がないでしょ?」

 上記が、3大答えようのない質問である。本来であれば、こんな質問を浴びせられないように話を持っていくのが男の器というものだが、ここまで読んでこられた方なら、どう答えるのが"正解"か、もうご存知だろう。答え合わせは p.148 をどうぞ。

 本書は、取扱説明書の最後にある「困ったときは」そのもの。西野カナを伴奏にお薦めする。

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ブラック人生における光『あまりにも騒がしい孤独』

 過酷であるほど、彼が大切に抱える光の愛おしさが伝わってくる。その輝きが、知的で美しい存在が、めちゃめちゃに潰されてゆくのを全身で感じる。

 「なんでもあり」が小説だが、この苦痛は耐えがたい。本を読むのが好きな人ほど、息苦しさを感じるだろう。なぜなら、彼の仕事は、運び込まれてくる本を圧縮機で潰し、紙塊を作ることだから。

 本ばかりでない。食肉解体業者が運び込んでくる、蝿がたかった血まみれの紙も一緒に圧縮する。ゲーテと蝿、ニーチェと鼠が一体化された紙塊を、祭壇のように恭しく並べる。知的で美しいものと、醜怪でグロテスクなものが渾然一体となって、読み手の前に並べられる(ここで悲鳴をあげたくなる)。

 背景にはプラハの春がある。1968年にチェコスロバキアで起きた民主化運動で、ソ連の軍事介入により、文字通り「圧殺」された。大学教授をはじめとする知識人は職を終われ、言論の自由は奪われ、厳しい検閲と徹底的な統制を受けたという(この言論弾圧を「正常化」と呼んでいるのが最高の皮肉なり)。

 ブラック企業、ブラックバイトが現代なら、ブラック人生はこれだろう。価値あるものを(価値あるものだと分かっている人の手で)容赦なく潰す。

 もちろん、そうした経緯をそのまま書くわけにはいかぬ。だからフラバルは、下水道の鼠の争いや蝿、潰されてゆく膨大な量の本に仮託する。ナチズムとスターリニズムが重なりあう過酷な生き様を、ときに滑稽に、ときにメランコリックに描く。

 ブラック人生の中で光る、ささやかな抵抗や、大切な思い出が愛おしい。その描き方が、奇妙で興味深い。可愛い少女と人糞、肉蝿の黒雲とジプシー女のきれいな陰毛、憧れの人の生き方とその人の肉塊など、対照的な要素を並べることで、ビジュアル的に互いに引き立たせるように描いている。

 たとえば、少女と人糞。主人公が、初恋の娘と踊る場面だ。彼女の髪を飾る長いリボンに付いた人糞が飛び散るシーンは、夢に出るほど強烈だった。そして、そのシーンが美しく切ないほど、くるくると回転する彼女がまき散らす人糞の生々しさが、しかめっ面で見守る若者たちの目線が、彼の思い出の中で一層の輝きを増す。真っ黒な人生のうち、目を背けようもないほどの存在感を放っている。

 絵にも描けないおもしろさ。シュールで、グロテスクで、滑稽で、美しい傑作。ご堪能あれ。

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「正しい政策」がないならどうすべきか→コンセンサスの重なりを泥臭く探す

 運転免許の年齢制限をするべきだ。

 18歳未満という制限があるように、ある年齢以上にも制限を設ける。強制返納、保険料の加算、速度制限つき車などのオプションを準備し、「高齢者の運転」がない社会をつくる―――そんな話を妻とする。

 飲酒運転の厳罰化のように、制度化されるまでに大勢の犠牲者が出るのだろうねとか、いやいや「多数」はまさにその高齢者なのだから、無理じゃないかしらね、といった話に落ち着く。しかし、我が家にとっての「正しい政策」は、別の家庭にとって「正しい」とは限らない。

 『「正しい政策」がないならどうすべきか』は、そんなわたしにとってドンピシャの読書になった。原題は"Ethics and Public Policy"(倫理と公共政策)なのだが、まさにタイトルどおり、「正しい政策」がない場合どうすべきか(どうしてきたか)が書いてある。

 急いで補足しておかねばならないのだが、本書で取り上げるテーマは以下の通りで、「高齢者の運転」は含まれていない。そして、イギリスにおける政策問題の事例のため、日本とは事情が異なってくる。

 ・動物実験
 ・ギャンブル
 ・ドラッグ
 ・安全性
 ・犯罪と刑罰
 ・健康
 ・障碍
 ・自由市場

 それでも得るもの大なのは、現実で直面する政策課題に対し、哲学者がどのように取り組んでいるか、生々しい側面とプラグマティックな「落としどころ」が整理されているから。どのような価値に基づき、どんな利益をめぐって対立が生じているかを泥臭く手際よく分析し、哲学、歴史学、社会学、科学的なエビデンスを用いながら、一定の解決策を導く手腕は鮮やである。

 たとえば、健康の章で、「皆保険の導入→健康の平等」とは真逆のエビデンスと検証をする。国民保健サービス(NHS)が導入された結果、高い階級の人はさらに健康になる一方、それ以外は改善されていない報告を紹介する。皆保険制度は、病気やケガへの「心配」を低減するメリットがあるが、健康の決定要因の一つに過ぎないという。

 そして、健康セキュリティという概念を用い、健康を取り戻すべく医師の指示通り「休む」ための家族のサポートや社会的なセーフティがないことが大きな原因であるという仮説を示す。つまり、皆保険は人生の質を向上させるかもしれないが、それは部分的に過ぎないというのだ。

 面白いのは、哲学者が自ら哲学の限界を認識しているところ。哲学そのものではなく、哲学と政治をつなぐときに生じる限界である。わたしたちの価値観は沢山の源泉があり、文化的・宗教的な伝統に由来する。そうした価値の対立に対し、理路整然と秩序づけることは、不可能だという。道徳的価値の多元性に基づくならば、「正しい政策」など存在しない。

 そのため、「正義の原理」といった道徳原理を定め、そこから「正しい社会への処方箋」を書くといったこれまでの政治哲学者の役割に対し、本書は懐疑的な立場をとる。

 たとえば、ピーター・シンガーの「すべての動物は平等である」という主張や、ジョン・スチュアート・ミルの自由原理に基づく議論が俎上に上るが、これらを「小奇麗に」公共政策に適用したとしても、何も解決しないという。「もし哲学者が真実は発見され、論争は終わったと言い張るのなら、彼または彼女は論争が自分抜きで続いていくのを知ることになるだろう」とまで言い切る。

 では、どうするのか。自分が正しいと考える原理から出発するのではなく、現在の政策と国民が広く抱いている感覚から出発することを強調する。対立状況を把握し、哲学的な一貫性が無いという批判を覚悟しつつ、多くの人が歩み寄れる境界線を見いだすべく検討せよという。

 価値が多元化した現代において、「重なり合うコンセンサス」を模索する社会的合意を重視するアプローチは、泥臭く複雑である。しかし、絡まりあったロジックを解きほぐし、価値と利益対立の関係を質し、すり替えられがちな論点の焦点を合わせ、各人が判断すべきトレードオフを評価する。哲学者抜きで議論が進んでいかないよう、こうした仕事にこそ、哲学者が汗を流すべきなのだろう。カール・マルクスの墓石には、こう刻まれているという。

「哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきただけだったが、大事なことは世界を変えることだ」

 わたしが「正しい」と考える「運転免許の年齢規制」という政策は、さまざまな価値判断と利害関係を孕んでいる。本書に従うなら、これもコンセンサスを得るため、さまざまなディレンマ・トレードオフを経た「手を汚す」仕事になるに違いない。

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『タンパク質の一生』はスゴ本

 物質がいかに生物になるか、その精妙なプロセスを垣間見ることができるスゴ本。

 ヒトの体には、60兆個の細胞があり、それぞれ80億個のタンパク質を持っているという。本書は、細胞というミクロコスモスで繰り広げられるタンパク質の、誕生から死までを追いかけると共に、品質管理や輸送のメカニズム、プリオン病やアルツハイマー病といった構造異変による病態を紹介する。今までバラバラだった知識がつながるとともに、既知で未知を理解することができて嬉しくなる。

 いちばん大きな収穫は、DNAの遺伝情報から複雑なタンパク質ができあがる仕組みを知ることができたことだ。タンパク質を構成する要素は、アミノ酸だ。アミノ酸は、アミノ基(-NH2)とカルボキシル基(-COOH)を持った化合物で、わずか20種類でタンパク質を構成している。

 では、どうやってアミノ酸を並べることで複雑な機能を持つタンパク質ができあがるか? 本書を読むまで、DNAに書いてある通りにアミノ酸を並べれば、タンパク質が勝手にできあがるものだと思っていた。これは半分しか合っていない。

 もちろん、DNAの遺伝情報が指定するのは、アミノ酸を一列に並べる、まさにその順序だけである。DNAの情報をmRNAとして読み出し、tRNAとリボソームによって一個一個のアミノ酸との対応付けをして並べる。DNAがヒモだから、そこから転写されるアミノ酸もヒモであり、アミノ酸が並べられたものも、ヒモ状になる(ポリペプチドという)。

 だが、並べればそれで終わりではない。コラーゲンのような細胞構造を担ったり、酵素のように代謝に直接関係するためには、ヒモ状では不十分で、それぞれの機能を果たすため、立体的な構造をとる必要がある。ヒモができれば、あとは勝手に折れ曲がったり編みこまれたりするわけではない。

 そこで、分子シャペロンというタンパク質が登場する。シャペロンはフランス語で介添え役のことで、いわば「分子の介添え役」という意味だという。本書では、分子シャペロンを電気餅つき器にたとえ、ポリペプチドから三次元構造を作るメカニズムを説明する。ヒモ状のポリペプチドを取り込んで、蓋をして中で折りたたんだ後、必要としている場所で蓋を開けて取り出す。アミノ酸を並べたモノを生命の要素に変える、その精妙なメカニズムにうなるほかない。

 他にも、できあがったタンパク質を輸送する方式について、葉書や小包に喩えて解説したり、タンパク質の品質管理システムを工業製品に喩えて説明する。また、現在の細胞生理学ではどうしても説明のつけられないプリオン病は、「いま解っていること」「解っていることから説明できないこと」の境目に迫っている。

 著者は、人間社会のアナロジーを細胞世界に持ち込むことに慎重になりつつも、理解の助けになるときには大胆にあてはめてくれる。おかげで、「ここは研究で解明されている」点と、「ここはその喩え」に分けて知ることができた。

 「どのようにそうなっているか」は、「なぜそうなっているのか」を考える便であり、未知を既知で知る驚きと喜びが潜んでいる。

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