心の救急箱『自分で心を手当てする方法』

風邪を引いたらどうするか?

 もちろん、暖かくして栄養と睡眠をしっかりとる。転んでちょとした擦り傷ができたら、雑菌が入らないように手当てする。なぜか? 風邪をこじらせて肺炎になりなくないし、傷を放置して化膿させたくないから。あたりまえの常識の話だろう。

 だが、体のケアは常識なのに、心のケアは省みられていない。本書を読んで、そのことに気づかされた。心の救急箱のようなこの本は、日常的な「心の傷」を取り上げ、それを手当てするための方法を具体的に紹介する。

 たとえば、「同僚に無視されて傷ついたとき、どうするか?」「大切な人がいなくなって辛いとき、どうすればいいか?」など、実際に著者が手当てして、フィードバックを受けた事例が紹介されている。ユニークな相談として、「嘘がごまかせなくなり、これから傷つくのは避けられないが、どうすればダメージを軽減できるか?」というのもあった。

 以下の心の傷のそれぞれについて、状況や症状を説明し、痛みを和らげ悪化を防ぐための手当てを紹介する。使用上の注意として、副作用の可能性を示しつつ、複数の選択肢を紹介し、症状や程度に応じて使い分けをアドバイスする。

  1. 拒絶されたとき(失恋、いじめ)
  2. 孤独を強く感じるとき
  3. 大切なものを失ったとき(喪失、トラウマ)
  4. 自分を許せなくなったとき(罪悪感)
  5. 悩みが頭から離れないとき
  6. 何もうまくいかないとき(失敗、挫折)
  7. 自分が嫌いになったとき(自己肯定感の低下)

 重要なのは、各章において「専門家に任せるガイドライン」を明示しているところ。すなわち、本書はあくまでも応急処置であり、医師やカウンセラーの代わりになるものではない。専門家に相談するか判断基準を示し、なんでも自分でなんとかすることは不可能だと諭す。

 手当ての基本は、「痛み」となっているものをノートに書き出し、客観視するオーソドックスなやり方から始まる。わたしにとって有益だったのは、「脱感作」「罪悪感のコントロール」「正しく謝る」「自分を許す練習」の件だ。

 脱感作は、痛みへの「感度」を下げることでダメージを軽減させるやり方だ。テレアポや営業で心が折れそうな人には有効かも。人と良い関係を維持していくために罪悪感は重要だが、これに振り回されるようになると、自分で自分を苛むようになる。

 この、心の自傷行為をやめるための、正しい謝り方は重要だ。正しく謝罪することで、自分の心を守ったり、心の痛みを和らげたりできるから。昔、上手な謝り方を研究したことがあるが、以下のノウハウを加えたい。

 謝り方の3つの基本。言わなくても伝わると思ってはいけないという。「察してほしい」は御法度、きちんと言葉にすること。

「反省」あんなことをして悪かったという気持ちを表明する
「謝罪」ごめんなさい、すみません、という言葉そのもの
「お願い」許してください、と相手の許しを請うこと

 さらに、効果的な謝罪にするための追加手法が3つある。相手の言い分をしっかりと聞いて、相手の怒りを認める。自分の行動が不適切だったと認め、事態を改善する姿勢を示す。さらに、次に同じことが起こらないよう、埋め合わせを提案するの3つだ。

 そして、正しく謝ったとしても、許してもらえないかもしれない。あるいは、謝ろうにも相手がいないときもある。聞く耳をもたないか、亡き人となってしまった場合だ。そんなときはどうするか?

 本書は、「自分を許せ」と提案する。確かにその通りだ。嫌なことを思い出して落ち込んで、さらに嫌な気分になることで、償いをしているようなものだと思っていた。だが、これは償いの代わりなどではない。これは、自分で毒を飲むようなもの。負のループから抜け出すため、「自分を許すための練習」が紹介されている。自分を許すことが不得手な人は一読しておくと、いざというとき楽になれるかも。

 一家に一冊常備したい、心の救急箱のような本。

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何が幸せか人に任せると辛い。「しあわせ」を再考させる本

 好きな本を持ちよって、まったり熱く語り合う読書会、それがスゴ本オフ。今回のテーマは「HAPPY!」、気分がハッピーになる写真集や詩集、「幸福とは何か?」を進化のメカニズムから問うた本、ドーパミンが溢れ出るゲーム、何回見ても笑ってしまう空耳動画など盛りだくさん。

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 皆さんの発表を聞いて感じたのが、「幸せ」という概念は、人それぞれだなぁということ。どんなときに幸せを感じるかは、その人の好みや半生を凝縮したものになる。日本の偉い人が「しあわせはいつも自分の心が決める」と言ってたけど、ほんとそれ。なにが幸せか他人まかせの人生だと辛いもの。

 わたしのお薦め。どんなとき幸せを感じるのか? それは「生きること」に強く結びついているときだ。美味しいものを食べるとき、愛する人と結ばれるとき、あったかいお布団でぐっすり眠るとき、素晴らしい排便が果たされたときだ。つまり、食なり性なり睡眠なり、生きる欲望に結びつく行為こそが「幸せ」になるのだ。

 そこで『バイオハザード7』、歴代最高に怖いバイオで、食われ、斬られ、潰されていくうち、試行錯誤の末に、ようやく次にたどり着いたとき「生き延びた!」と生々しく実感する。ドーパミンがドバドバ溢れていることを体感する。何度も惨たらしく殺されることで、生を実感できる。これは、安全に、しかも何度でも死ねるゲームなり。

 chicaさんお薦めが『村に火をつけ、白痴になれ』で、昨年のベスト本らしい。

 思想そのままに生きることを、本当の意味で実践した伊藤野枝の評伝。全力で全肯定する、ど根性がほとばしる、とにかく元気でハッピーになれる一冊。そして、「ハッピーは誰が決めるのか? 自分だ!」と心の底から断言できる力強さがもらえる。読んだ人の評価が、真っ二つに割れているのも面白い(最高 or 最低の二択)。好きか嫌いかにキレイに分かれるのね。その生き様に背中を押してもらったり元気を貰えたりするのなら嬉しい。

 ササキさんが推してた『プリズン・ブック・クラブ』も興味深い。刑務所で行われる読書会を追ったノンフィクション。

 本を読み、対話を通じ、他者への共感や尊敬、自己の尊厳が回復していくのだという。著者はボランティアで運営に携わり、本によって人が変わっていく様を目の当りにする。その成長が我がことのように嬉しい。『ジェイン・オースティンの読書会』と併せて読みたい。ハッピーな読書体験を共有できそう。

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 幸せとは何かを、まざまざと考えさせるのが、今のアメリカ合衆国。

 よしおかさんお薦めの『ルポ トランプ王国』が生々しい。「まじめに働いていれば、幸せになれる」を信じてラストベルト=工業地帯で働いていた人たちが、製造業の海外移転によりレイオフされている。まじめに働いている俺たちは何なんだ!という怒りに、トランプのメッセージが超刺さる。サブテキストとして『階級断絶社会アメリカ』を挙げていたが、こっちも輪をかけて悲惨なり。

 「幸せとは何か?」との親和性が高い分野がSFだという気付きもあった。

 「幸せを感じる脳内メカニズムが解明された」とか、「テクノロジーでコントロールされた幸せ」という世界を描きやすいからだろうか。onoさんお薦めのイーガン『しあわせの理由』なんてまさにそうで、多幸症の病気に罹った主人公が、病巣を取り除いたことで幸福を感じられなくなる。主人公が幸福かどうかは読み手に委ねられているようだ。パワーズ
『幸福の遺伝子』と絡めたら面白そう。

 ある意味「幸せとは何か?」への究極の回答が「知らないこと」だ。

 ひじょうに示唆的なのが、クラーク『幼年期の終わり』になる。oyajidonさんのプレゼンを聞いててそう思った。貧富の差が無くなり、宗教、人種の違いを理由にした争いは絶え、戦争のない世界になる。人類よりはるかに優れた知性との遭遇によって、新たな道を歩みだす人類の姿は「幸せ」の一つの形に見える。知らぬが仏とは、よく言ったものなり。

 一度この動画を見たならば、後は聴くだけでニコニコしちゃうのが、空耳アワー「ナゲット割って父ちゃん」。その元となってるレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンの"Killing in the name"。激しくポリティカルなメッセージが入っている曲なのに、空耳で笑ってしまうw

  • 『happy―しあわせを探すあなたへ』ロコ・ベリッチ(ユナイテッドピープル)
  • 『村に火をつけ、白痴になれ』栗原康(岩波書店)
  • 『メキシコ人はなぜハゲないし、死なないのか』明川哲也(文春文庫)
  • 『沈黙』遠藤周作(新潮文庫)
  • 『プリズン・ブック・クラブ』アン・ウォームズリー(紀伊国屋書店)
  • 『ザ・シーカヤッキング・マニュアル』内田正洋ほか(エイ出版社)
  • 『本にだって雄と雌があります』小田雅久仁(新潮文庫)
  • 『黒蜥蜴』江戸川乱歩(角川ホラー文庫)
  • 『A Dog Named Jimmy: The Social Media Sensation』Rafael Mantesso (洋書)
  • 『冒険歌手 珍・世界最悪の旅』峠 恵子(山と渓谷社)
  • 『本を読むひと 』(Shinchosha CREST BOOKS)
  • 『しあわせの理由』グレッグ・イーガン(ハヤカワ文庫SF)
  • 『ロボット・イン・ザ・ガーデン』デボラ・インストール(小学館文庫)
  • 『鉄塔武蔵野線』銀林みのる(ソフトバンク文庫)
  • 『幼年期の終わり』アーサー・C・クラーク(ハヤカワ文庫)
  • 『ルポ トランプ王国』金成隆一(岩波新書)
  • 『のせてよ!』笠野裕一(福音館書店)
  • 『君の名は』新海誠監督
  • 『野蛮な進化心理学』ダグラス・ケンリック(白揚社)
  • 『バケモノの子』細田守(KADOKAWA)
  • Killing in the name Rage Against the Machine
  • 『バイオハザード7』CAPCOM
  • 『人喰いの大鷲トリコ』Sony Interactive Entertainment
  • 『階級断絶社会アメリカ』チャールズ・マレー(草思社)
  • 『バーナード嬢曰く』施川 ユウキ(一迅社)
  • 『+1cm(プラスイッセンチ)』キム・ウンジュ(文響社)
  • 『ふろしき賛歌』川添 猛(聖母文庫)
  • 『エルメスの道』竹宮 惠子(中公文庫)
  • 『のせてよ!』笠野裕一(福音館)
  • 『ハッピーシュガーライフ』鍵空とみやき(スクウェア・エニックス)
  • 『氷菓』米澤穂信(KADOKAWA)

 togetterまとめはこれ→幸せの定義を人に任せると辛いだけ。バイオハザード7からグレッグ・イーガン、村に火をつけ白痴になれ、ナゲット割って父ちゃんまで、「しあわせ」を再考させられる本やゲーム、音楽もろもろ、スゴ本オフ「Happy」まとめ

 次回は3/12(日)に下北沢&神楽坂でする予定。いつもと違う、ちょっと変則的なやつにするつもり。最新情報はスゴ本オフで。

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ホストを操りゾンビ化する寄生生物『ゾンビ・パラサイト』

 映画『エイリアン』に、人の腹腔内に卵を生みつける生物が登場する。孵った幼生が胸部を食い破り、悲鳴のような産声とともに飛び出してくるシーンは、ショッキングの極みだった。

 その直前で、忘れられない台詞がある。幼生が体内にいるとも知らず、目覚めた男は、腹が減って仕方がないとぼやく。おそらく、幼生が胃腸に残る消化物を食べてしまったのだろう。外に出るくらい成長したことのトリガーとなるのは、男が摂った食事になる。飲食物が入ってきたことで、潮時だと判断したのではないだろうか。

 これと同じことが、わたしの体内で起きていると考えることがある。体内にエイリアンが巣食っている妄想ではなく、腸内を中心として「わたし」と共生する微生物(マイクロバイオーム)のことだ。この微生物群の働きが、体調や機嫌と呼ばれる「気分」を左右しているのではないか、と考える。

 つまりこうだ。ヒトは食べたものを吸収しているだけでなく、「ヒトが食べたもの」を食べる微生物の代謝物をも栄養としている。ヒト単体での生成が難しいドーパミンや短鎖脂肪酸、各種のビタミンを合成しているのは、腸内の微生物群である。生体リズムや睡眠に重要なセロトニンは、脳よりも腸で生成されるほうが多いと聞く。

 こうした微生物の活動は、栄養や気圧といった環境変化により左右され、結果、ホストである人の体調や気分に反映されているのではないか。昔からある「腹の虫が好かない」は案外ほんとうなのかもしれぬ。「今日はあっさりしたものが食べたいな」とか「なんだかイライラする」といった気分に近いものは、身体と微生物の相互影響によると仮説する。なんでも脳に答えを求めようとする限り、絶対に出てこない発想である。

 この仮説(妄想?)は、『ゾンビ・パラサイト』を読むとさらに加速する。ホストを操りゾンビ化する寄生生物たちのメカニズムや生態を紹介している。

 このホストをゾンビ化する能力は、「パラサイト・マニュピレーション(parasitic manipulation)」と呼ばれ、原生生物から菌類、線虫、昆虫など、系統を隔てた生物界、門をまたがって見られる。そのホストも多岐に渡る。寄生という生存戦略を採用したことにより「ホストを操る」形質が進化上有利だったのであり、同じような適応が平行的に起こったのだと指摘されている。

 『エイリアン』そっくりの蝿が登場する。ゾンビ蝿(zombie fly)というおぞましい名が付けられており、ミツバチにしつこくつきまとい、隙を見て胸部に取り付き、一瞬の早業で産卵管を挿入する。体内で孵化した幼虫は、ホストを殺さない程度に組織や体液を餌として育ち、ある日突然、ホストの体を突き破って脱出する。

 ダイクアリに感染するO.ユニラテラリス菌も凄まじい。感染したアリは衰弱し、体の自由を失う。死期が近づくと、アリはよろよろと枝や茎を上り、地上25cmくらいの高さにたどりつく。そこは温度・湿度ともに菌の増殖にとって都合のよい場所である。そこでアリは葉脈に大あごで食いつく。数時間後に絶命するが、大あごの周りの筋繊維が収縮するため、つかんだ葉脈を離さなくなる。いわば苗代となるわけだ。

 感染してから最後の一噛みまでの一連の動きは、グアニジノ酪酸とスフィンゴシンという化学物質を通じ、菌がアリの脳を操作していると考えられている。菌は寄生したアリの体を乗っ取り、自らの乗り物として動かしているというのだ。

 そこでプレステのゲーム"The Last Of Us"を思い出したあなたは鋭い。謎の菌に寄生され、キノコ状の頭部を持つ怪物がうごめく世界でのサバイバルホラーゲームだ。開発者たちは、BBCのドキュメンタリーでO.ユニラテラリス菌の生態を知り、インスピレーションを得たという。

 人間に寄生してゾンビ化する菌類はまだ見つかっていないが、可能性は考えられる。白癬菌は、ヒトにとって水虫やタムシの原因となっているが、もとは土壌中にいたケラチンを分解利用できる菌が、動物の皮膚角質層に寄生するよう進化したと考えられている。痒みを引き起こし、掻いてもらうことで感染を拡大する策略は、「ホストを操っている」と言えるだろう。

 全人類の3割(20-25億人)に寄生していると推測される「最も繁栄したパラサイト」トキソプラズマの話が興味深い。エイズやがん治療、妊娠中の女性を除き、あまり問題になることはなかったという。

 ところが、最近の研究により、パラサイト・マニュピレーションを、トキソプラズマも行っているのではないかという疑いが持たれている。たとえば、トキソプラズマに感染したネズミが、天敵であるネコに警戒心を持たなくなり、ネコに捕食されやすくなるという。トキソプラズマにとっては、終宿主にたどり着くチャンスが増えることになる。

 また、トキソプラズマ感染者はそうでない人に比べ、2.6倍も交通事故を起こしやすいことが報告されている。トキソプラズマが、ホストの性格や行動に何らかの影響を及ぼすという仮説は、わたしの妄想をさらに加速してくれる。

 そして、この妄想をみごとに結晶化したのが、『恋する寄生虫』になる。失業中の青年と不登校の少女の、実に奇妙な出会いと触れ合いを描いたラブストーリーだ。青年は極度の潔癖症で、少女は視線恐怖症といった悩みを抱え、その対人的な悩みゆえに惹かれあうことになる。

 会社や学校に上手く適応できず、生き辛さを感じている人が読んだら、共感と不安がない混ざった、不思議な感覚にとらわれるだろう。それと共に、わたしの妄想は、いくばくかの真実を含んでいることに同意してくれるかもしれぬ。

 私という身体が「私」単体でないように、私の自由意志は、「私」単体でないのかもしれぬ。そして、たとえわずかでもこの考えを受け入れられるのであれば、ずっと楽に生きることができる。

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読書猿『アイデア大全』はスゴ本

 アイデアとは、新しい世界の見方である

 既知から離れて/組み替えて/類推して/拡張して、異なる認識のやり直しをする、それがアイデアを生み出すということだ。だから、アイデアを創出する新しいツールを手に入れるということは、いわば新しい目を手に入れることだ。

 『アイデア大全』には、創造力とブレイクスルーを生み出す42のツールが紹介されている。本書を読むことで、いわば42の新しい目を手に入れることになる。本書が類書と違うのは、「アイデアの求められ方」によってツールを使い分けている点にある。

 すなわち、「0を1にする」プロセスと、「1をnにする」プロセスを分けている。更地の、何もないところから生み出す方法と、所与のコアから展開していくやり方と、明確に分けて構成されている。おかげで、抱えている問題について、どれくらい把握しているかによって、アプローチを切り替えることができる。アイデアツールは沢山あるが、闇雲に試行錯誤するより、ずっといい。

 さらに面白いのは、アイデアを生むノウハウだけでなく、その基底にある心理プロセスや思想的な背景にまで踏み込んでいるところ。認知科学からの裏づけや歴史的経緯を説明することで、「新しい目」の(科学的・歴史的)位置づけと方向性が見えてくる。

 つまり、いま抱えている問題について、「どうすべきか」という答えだけでなく、答えを導くアプローチを通じて、どう位置づけられ、「どうあるべきか」までを省みさせる目論見を垣間見ることができる。役立つだけでなく、ものすごく志の高いガイドブックなのだ

 いちばん嬉しかったのは、自分がやってきたことに「名前」があることを教えてもらったこと。

 たとえば、インキュベーションの仕込みとして「獺祭」という手法が紹介される。かわうそが捕まえた魚を自分の周囲に並べるのを、ちょうど神に供えているように見えるとして「獺祭魚」と呼び、転じて詩文を作るときに書を広げ散らかしながら想を練ることを「獺祭」というそうな。

 わたし自身、畳の上に座り込み、自分を中心にぐるりと資料を並べ、あれこれ入れ替えてるうちに想を得ることが多くある。散らかした資料の上を、物理的に転げ回ることで、アイデアがつながる。ディスプレイ上ではなく、手と目を動かしてまみれるこの手法は、ちゃんと謂れがあったのだと思うと嬉しい。純米大吟醸だけじゃなかったんだね。

 あるいは、人生の師匠/メンターを決めておき、行き詰まったときに召喚する「ルビッチならどうする?」がある。映画監督ルビー・ワイルダーにとっての師匠エルンスト・ルビッチから命名された手法である。凄いのは、そこから孟子にとっての師匠「孔子ならどうする?」につなげ、「私淑」の具体的な方法論に展開しているところ。

 いま、ワイルダーと孟子を串刺しで発想できる人は、まずいない。この発想は、本書の第9章「アナロジーで考える」にまとめられているが、それだけ読書猿さんは自家薬籠にしているんだね。

 わたしの場合だと、河井継之助になる。この幕末の越後長岡の風雲児は、司馬遼太郎『峠』で知った。以後、憑かれたように陽明学を漁り、思想を行動で貫く原理を目指したことがある。何を知り何を成すか詰まったとき、「良知」を信じて実行せよと何度も背中を押してもらった。

 「私淑」は仕込みに時間がかかるが、守護霊のように頼りになる。ヒカルの碁にとっての佐為のように、オデュッセウスにとってのアテナのように、強力な守護者となる。本書を利用して、もっと意識的に「私淑」を拡張してみよう。

 まったく知らなかった「新しい目」も沢山得られた。なかでもすぐに役に立ったのが、「コンセプト・ファン」だ。真ん中に問題を書いて、解決策を並べていく手法は何度も使ってきたが、すぐに思いつかなくなるのが悩みの種。

 「コンセプト・ファン」はそこを改良し、最初の問題の左側に「その問題が生じたのはなぜか?」の答えとなる原因や背景を書けというのだ(ステップバック)。そして、ステップバックした問題の右側に、それに応じた解決策を並べていく。これをくり返し、より根源的な視点から解決策を洗い出せるのが利点だ。おかげでレポートテーマの案出しが普段より数多く出せた。

 わたし自身もよく使っている強力なツールも数多く紹介されている。知の充填「抜書き」や、言換えによる模索「シソーラス・パラフレーズ」、問題のドラスティックな構造化「対立解消図」などは、一生モノの技法なり。わたしの場合、「抜書き」については、[本ばかり読んでるとバカになる]、「対立解消図」は、[わたしの7つの「ふりかえり」]の「わたしたち vs 問題」にまとめた。

 特に「わたしたち vs 問題」は仕事だけではなく、夫婦の諍いにも有用である。

 妻が何らかの不満をぶちまけるとき、その「問題」に直接取り組んではいけない。問題を分解し、原因を特定し、「あるべき姿」を提案し、そのギャップを洗い出し……などとお馴染みの手法を駆使しても、効果はないどころか逆効果になる。むしろ、原因特定の際、妻自身のふりかえりが求められ、感情的な展開になるおそれがある。

 このとき、最も避けるべきは「妻vs夫(問題)」の構造である(夫から見ると「夫vs妻(問題)」になるのがミソ)。つまり、「問題」は相手にありとして、互いにそれを証明しあうことになるからだ。しかも理詰めで追い詰めるような馬鹿な真似をする奴は、殺されても仕方なかろう。

 このとき、対立しあう問題の前提に着目し、「それは何のためか?」と問いかけ、両者がともに実現したいものを模索する(抽象度を上げると上手くいく)。ジレンマが成り立っている状況を俯瞰し、より大きな「問題」として示す。

 すると、「妻vs夫」という構造が、「わたしたちvs問題」の形になる(ホワイトボードやノートを使って空中戦にしないことが重要である)。この手法で、「休日はゆっくりしたい」vs「休日は充実させたい」という意見対立を、「休日の朝食だけ別々にする」で解決したことがある。

 このように、普段からわたしが頼りにしているやり方だけでなく、名前すら知らず使ってきた手法、新たに学ぶことができた方法など、物凄い数になる。最初に「42のツール」と言ったが、あれは嘘だ。巻末の索引で数えたら、163個あった。これを42章にまとめているので、本書から得られる世界の見方/新しい目は163あるといっていい。

 『アイデア大全』は、単なるアドホック的なアイデア・フレームワークのまとめに留まらず、計画的に問題解決をクリアしていくことによって、あるべき世界を目指すための、教養そのものだといえる。だから読んで終わりではなく、人生で使ってほしい。学業のため、仕事のため、夫婦和合のため、何よりもよく生きるために。読書猿さん、素晴らしい本を出していただき、ありがとうございます。

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読んだことを後悔する劇薬小説まとめ

 たくさん本を読むほどに、井の中の蛙になる。

 読書の理由を、「知らない世界を知るために」と言ってるくせに、似たような本しか読まない。ジャンルを絞り、作家を決めて、その中で同じような「物語」を消費する。それは、知らない世界を知る読書ではなく、知ってる世界を確認して安心する自慰にすぎぬ。「わたし」の周りに既読本を積み上げて、その壁の中で王様になる。

 それが、わたしだった。

 確認読書だから、知識が増えても何も変わらない。「わたし」というフレームに合わないものは、そもそも選ばない。うっかり読んだとしても、フレーム内を通る言葉だけを消費して「読んだ」ことにする。純文から哲学、SFから数学と拡張できるのに、城から出るのが怖くて穴を掘る。古典やマイナーを掘り当てて、王様はますます蛙になる。

 そんな読書で、楽しいか?

 自問していたとき、カフカの言葉に出会った。「どんな本でも、僕たちの内の凍った海を砕く斧でなければならない」。××というジャンルは、一生かけても終わらないほど深くて広くて面白い。さらに「××に詳しい」と偉そうな顔ができる。そんな顔に、カフカの一撃は、深々と刺さった。全文はこうだ。

要するに、僕たちは、僕たちを咬んだり刺したりする本だけを読むべきだと思う。

もし、読んでいる本が、脳天への一撃のように僕たちを揺すり起こすのでなければ、そもそも何故、わざわざそれを読むのか。君が言ったように、愉快な気分になるためか。

ああ、僕たちは、全く本がなくても、同程度に愉快であろうよ。必要とあらば、自分に向けて、愉快になれるような本を書いてやったらいいんだ。

僕たちが必要とするのは、非常に痛ましい不運のように、僕たちを打ちのめす本だ。自分よりも愛する人が死んだときのように。そう、まるで全く人の気配がない森に放逐されたように感じさせる本だ。自殺のように。

どんな本でも、僕たちの内の凍った海を砕く斧でなければならない。僕はそう信じている。

フランツ・カフカからオスカー・ポラックへの手紙 1904.1.27

 顔が吹き飛ぶぐらいの恥ずかしさを覚え、穴から這いだし、積み上げた本の壁を崩し、外へ出た。以後、ジャンルオーバーに自覚的になり、ショック療法として、常識外の作品を試すようになった。

 「泣ける」「心温まる」なんて糞くらえ。「感動する」ために読む本の薄いこと薄いこと。感動オナニーの需要をあてこんだ、感動をバーゲンセールする新刊を消費してる人には、凶器になる。読んだことを後悔するような、読書が毒書になるような、エグい劇薬を選んだ。

 もちろん、こういう不愉快になるような本を、わざわざ選ぶのは正気の沙汰ではないし、こうした毒書が推奨されるべくもない。だが、一読すれば常識を疑い、自分が揺さぶられ、船酔いのような吐き気を催すことだろう。書店や図書館のどの領域からもこぼれ、隠されている世界があることに気づくだろう。

 ただ、ここは、わたしのブログではないため、レギュレーションをかけている。大好物ですまだまだイケまっせ、という奇特な方は、[わたしが知らないエロ本は、きっとあなたが読んでいる]に、リミッターカット版をそろえておくのでどうぞ。また、タイトルは「劇薬小説」としたが、小説に限定していないのでご注意のほどを。

 そして、ぬるい、あまい、やわらかい、という方がいらしたら、是非、ご教授お願い申し上げる。


隣の家の少女

ジャック・ケッチャム

 自分の肉体を強烈に自覚する手っ取り早い方法は、ナイフで切り裂いてみることだ。傷つき、血があふれ、痛みを感じたところが「肉体」だ。同様に、心がどこにあるか知りたいなら、『隣の家の少女』を読めばいい。痛みとともに強烈な感情――吐き気や罪悪感、汚されたという感覚、ひょっとすると快楽――を生じたところが、あなたの「心」だ。

 あらすじは単純だ。主人公は思春期の少年。その隣に、美しい姉妹が引っ越してくる。少年は姉のほうに淡い恋心を抱きはじめるのだが、実は彼女、虐待を受けていた……という話。少年は目撃者となるのだが、「まだ」子ども故に傍観者でいるしかない。しかし、「もう」おとな故に彼女が受ける仕打ちに反応する。

 その反応は、罪悪感を伴う。「読むのが嫌になった」「恐ろしくなって頁がめくれない」が"正常な"反応だろう。だが、背徳感を覚え始めたところが、彼の、そして読者の心のありかだ。そして、その感覚に苛まれながら、生きていかなければならなくなる。

 読書が登場人物との体験を共有する行為なら、その「追体験」は原体験まで沁み渡る。地下室のシーンでは読みながら嘔吐した。その一方で激しく勃起していた。陰惨な光景を目の当たりにしながら、見ること以外何もできない"少年"と、まさにその描写を読みながらも、読むこと以外何もできない"わたし"がシンクロする。見る(読む)ことが暴力で、見る(読む)ことそのものがレイプだと実感できる。この作品を一言で表すなら「読むレイプ」だ。

 見ることにより取り返しのつかない自分になる。文字通り「もうあの日に戻れない」。しかし、既に読んで(見て)しまった。それどころか、出会いそのものを忌むべき記憶として留めておかなければならない。わたしたちは、読むことでしか物語を追えない。作者はそれを承知の上で、読むことを強要し、読む行為により取り返しのつかない体験を味わわせる。ここが毒であり、「最悪の読後感」である所以。

 さらに、これは終わらない。酷い小説を読んで気分が悪くなった。でも本を閉じたらおしまいで、現実に戻れる?待てよ、現実のほうが酷いんじゃないのか? そもそもこれ、実際に起きた[バニシェフスキー事件]を元に書かれたものだ。ゲームが陰惨化し、陵辱がどんどんヒートアップし、最後には……という実話は、恐ろしいことに、珍しいことではない。


デス・パフォーマンス

スチュアート・スィージィー

 命がけのオナニー・レポート。

 冒頭、いきなり警告がつきつけられる。

【警告】 本文で紹介されたボディーモディフィケーション(身体改造)および性的行為を実践してはならない。もしここにあるような危険行為の衝動に駆られた場合は、セラピストの診療を受けて欲しい。論文寄稿者、編集者、および出版社は、読者が記述内容を実践した場合の責任を一切負わない。

 「危険な自慰」や「身体改造」を追求した結果、死亡したり重い後遺症になった事例を、検証写真つきで再現している。もとはメディカルレポートや検死報告を元にしており、淡々とした筆致が異常性を際立たせている。

 快楽を追求するあまり自慰死に至った話は、おぞましく、こっけいで、かなしい。たとえば、32歳の男性。3児の父で、ベッドの上で死亡しているのを11歳の娘が見つけた事例だ。発見時、ストッキングと女物のセーター、ブラジャーを身につけていたという。やわらかいベルトで両手を縛り、口の中には生理用ナプキンを含み、頭と口にはピンクのブラジャーが巻きつけられていた。丸出しになった陰嚢にはタバコの火が押し付けられ、腫れあがっていたとある。

 ここに物語を求めてはいけない。11歳の娘がどう感じ、反応したかは書いていない。その代わり、現場の状況と検死から、自慰中に低酸素状態となり、呼吸をふさいでいたブラジャーを外すことを忘れ、窒息死に至ったことが解説される。もちろんベルトはすぐ自分で外せる状態にあったのだが、低酸素症が"ハイ"にさせたのだろう。

 他にも、ドアノブやクローゼットにロープを引っ掛けて「擬似首つり状態」で"ハイ"になりながら自慰をしているうちに、戻ってくるタイミングを逃し、文字どおり「逝ってしまった」事例がたくさん出てくる。「擬似」と称したのは理由があって、当人たちは、ちゃんと脱出する手段を講じていたところ。両手を縛りながら、小さなナイフを隠し持っていたから。ただ、はずみで落としたり使うのを忘れてしまったようだ。

 首つりオナニーだけでない。トラクターや掃除機を使った斬新な方法が提示され、その犠牲者が語られる。古典的なコンニャクや、カップヌードル、ポッキーならチャレンジしたことがあるが、可愛いものだ。これは限度を超えている。トラクターにロマンティックな感情を抱いた男が、女装して油圧シャベルに逆さ吊りになっている最中にバケット操作を誤り、圧死した事例。掃除機を使った自慰+テーブルの足を抜き取って肛門に差込み、全裸+パンスト状態→うつぶせになって感電死しているところを妻に発見された事例。

 何ヶ月もかけてゆっくりと自己去勢した男の話や、自宅でドリルで頭蓋貫通することでニルヴァーナを目指す女、自分で眼球を摘出してしまった少年の話をきいていると、わたしの想像力もまだまだだな、と思えてくる。

 命を賭けたオナニーが、ここにある。


夜のみだらな鳥

ドノソ

 愛する人を自分のモノにする、究極の方法がある。

 それは、愛する人の手を、足を、潰して使えなくさせる。口も利けなくして、耳も目もふさいで使い物にならなくする。そうすれば、あなた無しではいられない身体になる。食べることや、身の回りの世話は、あなたに頼りっきりになる。何もできない芋虫のような存在は、誰も見向きもしなくなるから、完全に独占できる。

 これは「魔法少女まどか☆マギカ」で、とある魔法少女に囁かれた誘惑だ。悪魔のような誘惑だが理はある。乱歩『芋虫』の奇怪な夫婦関係は、視力も含めた肉体を完全支配する欲望で読み解ける。まぐわいの極みからきた衝動的な行為かもしれないが、彼女がしたことは、「夫という生きている肉を手に入れる」こと。早見純の『ラブレターフロム彼方』では、ただ一つの穴を除き、誘拐した少女の穴という穴を縫合する。光や音を奪って、ただ一つの穴で外界(すなわち俺)を味わえというのだ。

 感覚器官や身体の自由を殺すことは、世界そのものを奪い取ること。残された選択肢は、自分を潰した「あなた」だけ。愛するか、狂うか。まさに狂愛。

 ドノソ『夜のみだらな鳥』では、インブンチェという伝説で、この狂愛が語られる。目、口、尻、陰部、鼻、耳、手、足、すべてが縫いふさがれ、縫いくくられた生物の名だ。インブンチェは伝説の妖怪だが、小説世界では人間の赤ん坊がそうなる。老婆たちはおしめを替えたり、服を着せたり、面倒は見てやるのだが、大きくなっても、何も教えない。話すことも、歩くことも。そうすれば、いつまでも老婆たちの手を借りなければならなくなるから。成長しても、決して部屋から出さない。いるってことさえ、世間に気づかせないまま、その手になり足になって、いつまでも世話をするのだ。

 子どもの目をえぐり、声を吸い取る。手をもぎとる。この行為を通じて、老婆たちのくたびれきった器官を若返らせる。すでに生きた生のうえに、さらに別の生を生きる。子どもから生を乗っ取り、この略奪の行為を経ることで蘇るのだ。自身が掌握できるよう、相手をスポイルする。

 読中感覚は、まさにこのスポイルされたよう。『夜のみだらな鳥』は、ムディートという口も耳も不自由なひとりの老人の独白によって形作られる……はずなのだが、彼の生涯の記録でも記憶でも妄想でもない独白が延々と続けられる。話が進めば理解が深まるだろうという読み手の期待を裏切りつづけ、物語は、支離滅裂な極彩色の悪夢へ飲み込まれてゆく。

 Amazonでとんでもない値段がつけられているが、近々復刊されそうなので、しばし正座して待て。


消された一家

豊田正義

 ノンフィクション。最高に胸クソ悪い体験を保証する。

 こんな人間が「存在する」ことは理解できるし、この人間を悪魔だの人でなしだの呼ぶのはたやすい。しかし、彼を悪魔とみなすことで思考を止めたら負けかな、と思いながら読み続けた。父親の解体の場面で体が読むのを拒絶した。しかし、なぜそんな事件が起きたのか、どうすれば回避できたのか、知りたくて最後まで読んだ。

 今から考えると、そこで読むのを止めておけば良かったのに、と思っている。マンションの一室に七人を監禁し、電気ショックと食事制限で「家族」を洗脳し、殺す者と殺される者に分け、「家族」は言われるがままに「殺し合い」を繰り広げ、消滅する―――

 最悪の読後感を味わえるのは、最後まで読んでも、「なぜそんな事件が起きたのか」はぜんぜん分からないから。無抵抗の子どもの首にどういう風にコードを巻いて、どんな姿勢で絞めたか、といった行動は逐一知らされるが、「なぜ・どうして」は想像すらできない。

 これを著者の筆力不足に帰するのは、あまりに気の毒。一人称で書けないルポルタージュの限界か。「事実は小説よりも奇」とは、たしかにその通り。しかし、事実を理解することができない。虚構でもいいからこの出来事を理解したいと願うのならば、小説にするしかないのか。小説のほうが、まだ救われるのかもしれぬ。作者の手がなんらかの落ちを紡ごうとするから。ところが現実は続くし、分からないものは分からないままになる。


城の中のイギリス人

マンディアルグ

 最高のポルノグラフィ。

 「できるだけ残酷で、破廉恥で、エロティックな物語を書きたい」というのが作者の意図だが、見事に成功している。インパク度は氏賀Y太レベルだといえば伝わる人には伝わる。

 例えば、生きのいいタコがうじゃうじゃ蠢く水槽に少女(13歳処女)を投げ込んで、体中に貼り付かせる。タコとスミまみれの彼女(顔にもタコべったり)を犯す→鮮血とスミと白い肌のコントラスト。その後、ブルドックに獣姦。犬のペニスは根元が膨張するので、ムリに抜くと穴が裂けるんだが、ちゃんと再現してる。終わったらカニの餌。

 あるいは、氷でできたペニス(長さ39cm、亀頭周囲25cm)を肛門にねじ込む。この描写がイイ、感動的ですらある。暖かい臭いを感じた素晴らしいシーン。

肛門と割れ目の窪みに油をそそいでから、私は潤滑油でしとどに濡れた人差指を近づけた。するとなんたる不思議であろう、今度は氷塊ではなく、人間の肉が近づいてきたことを察したのか、薔薇の花はただちに拡がり、口のように開き、指の圧力にたちまち屈したのである。いや、というよりもむしろ、私の指をくわえこんだのである。

 食糞飲尿あたりまえ、悪趣味、倒錯、陵辱、苦痛、加虐性欲の極限。大切なものをいちばん残忍なやり方で破壊する(ラストの"実験"はマジで吐ける)。性の饗宴というよりも性の狂宴。鋭利なカミソリで皮脂まで切られ、果物のようにクルリと皮を剥かれた顔を眺めながら、女は濡れるし、男は勃つ。吐きながら屹立してることは否定しようがない。城の主のセリフが刺さる。

「エロスは黒い神なのです」

 あなたの脳天への一撃となることを期待しつつ。読むときは、自己責任で。そして、ぬるい、あまい、やわらかい、という方がいらしたら、是非、ご教授お願い申し上げる。わたしが知らない劇薬は、きっとあなたが飲んでいるのだから。

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科学の面白さ・楽しさを伝える100冊 「科学道100冊」

 科学の面白さ・素晴らしさを届ける企画として、「科学道100冊」が公開されている。これは、科学者の生き方や考え方を伝えるために、100冊の本が選ばれている。

「知りたい!」が未来をつくる科学道100冊

 ミソは「いわゆる理系本」に閉じないところ。もちろん分野ごとの啓蒙書もあるが、「世界の見え方の変遷」を鳥瞰する科学史、センス・オブ・ワンダーを喚起する小説や漫画、知的好奇心を刺激する図鑑など、いろいろ揃えている。

 例えば、ディックの電気羊やパワーズ『オルフェオ』が「科学の本」として並んでいる。これ、選者のメッセージが込められているんだろう誰だろうと見たら、編集工学研究所だった。松岡正剛さんの名前を前面にしてないのは、硬すぎず深すぎずが意図されているのだろう。

 この100冊からいくつか選んでみた。さいきん微生物にハマっているわたしとしては、そっち系を入れて欲しかったが、ないものねだりかも。

* * * * *


『世界はなぜ「ある」のか』

 ジム・ホルト

[レビュー]

 生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問について、現代の哲学者、物理学者、神学者、文学者との対話を重ねる知的冒険の書。

 なぜ「何もない」のではなく、「何かがある」のか? この究極の疑問に囚われた哲学者が、各分野の権威と対話を重ね、謎の本質に迫ってゆく。実存哲学、形而上学、量子宇宙論、神仮説、数学的必然性などの分野を渉猟し、ワインバーグやペンローズ、アップダイクといった著名人とのインタビューを通じ、探偵のように「存在の謎」の犯人をあぶりだす(原題は、"An Existential Detective Story" すなわち「実存の探偵物語」)。

 面白いのは、この探偵の真犯人へのアプローチそのもの。形而上学であれ、量子力学であれ、最初は一貫した説明がもたらされるが、探偵役に徹する著者の検証により、無限後退にハマるか、循環論法に陥る。形而上学的な説明に対しては、質量・エネルギー保存則を用いて否定し、量子宇宙論的な説明に対しては、実存主義的メタファーを使って反論する。この仮説検証の過程が、たまらなくスリリングなのだ。


『響きの科学』

 ジョン・パウエル

[レビュー]

 ずっと不思議だった疑問「なぜこの曲に心が震えるのか」が、ようやく解けた一冊。音楽について新しい耳をもたらしてくれる。

 音楽家でもあり物理学者でもある著者は、音楽を科学的に説明するだけでなく、音楽を「芸術」という枠に押し込めていた思い込みを砕く。音楽は物理学を基盤とした工学であり、論理学に則った芸術なのだと主張する。

 音楽が感情を揺さぶるのは、転調に秘密があるという。音階が上がっていくにつれ、その調の最後の部分に「もうすぐ到達」するような感覚が与えられる。「もうすぐ到達」の音がメロディやハーモニーに現れると、到達したいという欲求が生じるため、聴き手は、次の音が主音になるはずだと感じる。

 そう期待させておいて、最後を主音に帰着させると、聴衆を満足させることができる。いっぽう、欲求を喚起させておいて、転調することでいったん裏切り、じらして、満たすことで、より一層気持ちよくなる。フレーズの連なりで期待と満足をゆききするのが、音楽の快楽の源泉なんだと。


『心はすべて数学である』

 津田 一郎

[レビュー]

 心を数学で解く。または数学に現れる心の動きを明かす。心は閉じた数式で書けるものではなく、ゲーデルの不完全性定理やカントル集合など、不可能問題や無限の概念を作っていくプロセスを応用しながら接近していくアプローチが有効だという。

 心は単独で形成されるものではなく、他者や環境とのコミュニケーションによって発達する。「私の心」と「他者の心」という区別は一種の幻想で、相互に影響しあっている以上、離散的なものにならざるを得ないという。

 それでも、何らかの共通的な普遍項があるように見える。その共通項を、「抽象的で普遍的な心」と見なし、それが個々の脳を通して表現されたものが、個々の心だと仮定する。そして、「抽象化された普遍的な心」こそ、数学者が求めているもので、数学という学問体系そのものではないかという考えを示す。この部分は、わたしが数学をやり直す動機に直結する。

 わたしの考えの半分までは合っていたが、その向こうにあるものを、[レビュー]に書いた。そういう化学反応を起こさせる。スゴ本なり。


『フォークの歯はなぜ四本になったか』

 ヘンリー ペトロスキー

[レビュー]

 モノの見方が確実に変わる一冊。

 フォーク、ナイフ、クリップ、ジッパー、プルトップなど、身近な日用品について、「なぜそのカタチを成しているのか」を執拗に追求する。日ごろ、あたりまえに使っているモノが、実は現在のカタチに行き着くまでに途方も無い試行錯誤を経たものだったことに気づかされる。

 いわゆるデザインの定説「形は機能にしたがう(Form Follows Function)」への論駁が面白い。著者にいわせると、「形は失敗にしたがう(Form Follows Failure)」だそうな。もしも形が「機能」で決まるのなら、一度で完全無欠な製品ができてもいいのに、現実はそうなっていない。モノは、先行するモノの欠点(失敗)を改良することによって進化していると説く。これが膨大なエピソードを交えて語られるのだから、面白くないわけがない。

 たとえば目の前のフォーク。そのカタチ・大きさになるまで延々と進化の歴史がある。最初は肉を適当な大きさに切り裂くナイフだけたったそうな。それが、肉が動かないように押さえつけるために、もう一本のナイフを用いるようになる。ただ、ナイフで押さえつけると肉がクルクル回ってしまって不便だ。その結果、又の分かれたモノ「フォーク」が誕生する。

 それなら、フォークは2本歯で足りるはずだが、それが3本になり4本になる過程や、なぜ5本も6本もない理由が面白い。無理なく口に入る幅と当時の冶金技術も相まって、フォークの生い立ちを考えると、モノの歴史は失敗の歴史であることが分かる。


『サイエンス・インポッシブル』

 ミチオ カク

[レビュー]

 SFのタネがぎっしり詰まった、けれども最先端の科学に裏付けられた科学読本。あるいは逆で、最先端科学でもって、SFのハイパーテクノロジーを検証してみせる。比較できない面白さに、かなりのボリュームにもかかわらず、イッキに読まされる。

 本書を面白くしている視点は、「どこが不可能?」というところ。つまり、「それを不可能とみなしているのはどの技術上の問題なのか?」という課題に置き換えているのだ。「技術上の課題」にバラしてしまえば、あとはリソースやパトロンの話だったり、量産化に向けたボトルネックの話になる。

 その結果、現在では「不可能」と見なされていながら、数十年から数世紀以後には当たり前になっていておかしくないようなテクノロジーが「課題」つきで紹介されている。しかも、その不可能ぐあいにもレベルがあって、レベル1(数百年以内)、レベル2(数千年)、レベル3(科学体系の書き換え要)と分かれている。

 たとえば、「ハリー・ポッター」の透明マント(invisibility cloak)を「光学迷彩」として実装させる技術や、大質量の恒星が一生を終える時のエネルギーを用いたガンマ線バースター砲、さらには自律的・再生的な超小型無人宇宙船「ナノシップ」などを見ていると、SFネタなのか科学技術の紹介なのか分からなくなる。


『明日、機械がヒトになる』

 海猫沢めろん

 「機械化する人間」と「人間化する機械」の境界を求め、科学と技術の最先端にいる7人にインタビューしたもの。SR(代替現実)、3Dプリンタ、ロボット、人工知能の第一人者の話を聞いていると、そもそも機械とヒトとの間に「境界」なんてないのだとう著者の主張がすんなり入ってくる。

 面白いのは、最新科学を追いかけていくと、いつのまにか実存や知性とは何かといった哲学の話になること。このルートは『人工知能のための哲学塾』でトレースしたことがある。機械とヒトの境界線には、現象学や認識論が横たわっており、エビデンスがあるもの・ないものが目に見える。

 なかでも、「ヒューマン・ビッグデータ」の件が興味深かった。これは、人に加速度センサをつけて大量にデータを集めて分析したら見えてきたもので、「幸福は加速度センサで測れる」というもの。まず、幸せを感じられる能力は遺伝子の影響で半分程度決まっており、残り半分の大部分は、「積極的に行動をしたかどうか」に寄るという。

 つまり、幸せとは結果ではなく行動なんだと。なにそれ面白い! 矢野和男『データの見えざる手』というらしい、これは読みたい。リチャード・パワーズ『幸福の遺伝子』と併読すれば、楽しい化学反応を起こしそうだ。

* * * * *

 以下自分メモ。「科学道100冊」からわたしの課題図書をリストアップしてみる。

・園池公毅『植物の形には意味がある』
・フィリップ・ボール『かたち』『流れ』『枝分かれ』
・畑村洋太郎『図解 失敗学』
・橋本毅彦『ものづくりの科学史』
・ユクスキュル『生命の劇場』

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読み始めたら最後、あなたを絶対寝かせない徹夜小説まとめ

 読み始めたら、徹夜を覚悟する小説がある。

 いきなり心臓をワシ掴みにされたり、直感が大好物だと告げたり、いくらも読まないのに、「これは当たりだ!」と小躍りしたくなる。

 嬉しいことに、この予感は高確率で当たる。だが恐ろしいことに、それは高確率で平日の夜だったりする。ここでは、翌日の寝不足を犠牲にして掘り当てた、「徹夜保証の小説=徹夜小説」を紹介する。

 ただし、2つだけ約束してほしい。ひとつめ、複数巻に渡るものは、全巻そろえてから読み始めること。上巻だけ買えばいいなんて甘く見てると、サクっと読みきってしまい、翌朝まで禁断症状に苦しむことになるだろう。ふたつめ、明日の予定がない夜に読み始めること。さもなくば、寝不足の頭を抱える破目になるだろう。2つとも経験したから言える、読み始めたら最後、絶対寝かせてくれない。だから約束だぞ。

* * * * *

『ガダラの豚』
中島らも

 2ちゃんねらが絶賛してたので、うっかり手にしてしまった。なるほど、「寝る間も惜しんで読みふけった」のはホントだ。

 半信半疑で読みはじめ、とまらなくなる。テーマは超常現象と家族愛。これをアフリカ呪術とマジックと超能力で味付けして、新興宗教の洗脳術、テレビ教の信者、ガチバトルやスプラッタ、エロシーンも盛り込んで、極上のエンターテイメントに仕上げている。中島らも十八番のアル中・ヤク中の「闇」も感覚レベルで垣間見せてくれる。

 エンタメの心地よさといえば、「セカイをつくって、ブッ壊す」カタストロフにある。緻密に積まれた日常が非日常に転換するスピードが速いほど、両者のギャップがあるほど、破壊度が満点なほど、驚き笑って涙する、ビックリ・ドッキリ・スッキリする。この後どうなるんだーと吠えながら頁をめくったり、ガクブルしながら怖くてめくれなくなったり。

 オカルトとサイエンス、両方に軸足を置いて、どっちにも転べるようにしてある(そして、どっちに転がしても「読める」ように仕掛けてある)。ホンモノの呪いなのか、プラセボ合戦なのか、最後まで疑えるし、読み終わっても愉しめる。どっちに倒すのかは、読み手がどっちを信じてるのかに因るのかもしれん。


『シャンタラム』

グレゴリー・デイヴィッド・ロバーツ

 読んでないなら、おめでとう! 中身を知らない、まっさらな状態で、いきなり始めよう。新潮文庫の裏表紙の「あらすじ」すら見るの厳禁な(結構ネタバレしている)。

 要するに、「これより面白いのがあったら教えて欲しい」という傑作だ。寝食惜しんで憑かれたように読みふけり、時を忘れる夢中本(わたしは4回乗り過ごし、2度食事を忘れ、1晩完徹した)。巻措く能わぬ程度じゃなく、手に張り付いて離れない。とにかく先が気になって気になって仕方がない。完全に身を任せて、物語にダイブせよ。

 蛇足を承知で述べるなら、テーマは2つある。ひとつは、「赦すとは何か?」。オーストラリアの刑務所から脱獄して、ボンベイへ逃亡した男が主人公だ。すべて彼の回想で進行する。だからコイツが死ぬことはないだろうと予想しつつ、強烈なリンチシーンや麻薬漬けの場面にたじたじとなる。敵意と憎悪と恥辱にまみれ、痛めつけられた彼が、憎しみと赦しのどちらを選ぶのか?

 そして彼は幾度もまちがえる。行動を過つこともあれば、まちがった理由で正しい選択をすることもある。これがもうひとつのテーマ「人は正しい理由から、まちがったことをする」だ。この復讐と赦しの物語は、世界で一番面白い物語『モンテ・クリスト伯』と同じ。手に汗握る彼(リン・シャンタラム)の運命は、そのままエドモン・ダンテスの苦悩につながる。

 心して読め。


『アラビアの夜の種族』

古川日出男

 とにかく「読め! 絶対に面白いから」としか言えない、抜群の構成力、絶妙な語り口、そして二重底、三重底の物語。

 これは、陰謀と冒険と魔術と戦争と恋と情交と迷宮と血潮と邪教と食通と書痴と閉鎖空間とスタンド使いの話で、千夜一夜物語とハムナプトラとウィザードリィとネバーエンティングストーリーを足して2乗したぐらいの面白さ。そして、最後の、ホントに最後のページを読み終わって――――――驚け!

 ただし、ネットで調べてはいけない。面白い物語を読みたいのなら、予備知識を一切絶って読むべし(まちがいないから)。優れた物語は語りから語り辺へ伝えられる。不死の、自己の永続化。恒久に譚(かた)られて、そして生きる物語として永らえる。そう、まるで、歴史のメタファーのように――身も心もトリコになる物語を、どうぞ。



『大聖堂』

ケン・フォレット

 極上のヒューマンドラマ。まさに「波瀾万丈」そのまんま。

 十二世紀のイングランドを舞台に、大聖堂を立てたいという夢を抱く建築職人と、幾多の人びとが織り成す壮大な物語。読み進むうち、運命のうねりが目に見え手にとれるようで、全身の毛穴が開く。面白いのは、作者が込めたメッセージ「なぜ大聖堂を建てるのか」への呼応だ。

 暗黒の時代、中世。飢饉と餓死と戦争が隣り合わせの中、迷妄と蒙昧と暴力と策略が渦巻いていたとき、なぜ「大聖堂」なんて代物を建てようと考えたか、という問いを抱えながら読むと、主人公の運命と共鳴する読書になる。

 「なぜ大聖堂を建てるのか」―――これを、宗教の視点で切るのはたやすい。なぜなら、主語を「神が」にすれば事足りるから(「全ては神の御心のままに」というやつ)。

 しかし、それ以外の理由を挙げると、それこそ無限に出てくる。権力欲、支配欲、愛欲、性欲、意欲、我欲、禁欲、強欲、財欲、色欲、食欲、邪欲、情欲、大欲、知識欲、貪欲、肉欲……それは、「欲望」だ。

 ありとあらゆる「欲望」を具現化したものが大聖堂だ。神の場と「欲望」、一見矛盾した取り合わせだが、読めば納得する。究極の大聖堂を描く、しかも「大聖堂をなぜ建てるのか?」という疑問に応える形で書こうとすると、とてつもない人間劇場になる。それが本書なのだ。

 私が読んだとき、ラストは電車の中、感動のあまり立っていられなかった。それぐらい打ちのめされる、凄まじい本。



『影武者徳川家康』

隆慶一郎

 映画やドラマであるでしょ? ラストのどんでん返し。最後の最後になって、もろもろの謎を解き、伏線を回収し、かつ、世界を一変させてしまうファイナルストライク。隆慶一郎がすごいのは、これを一行目からやったこと。

 つまりこうだ。徳川家康がどんな人物で、何を成したかは、史実として「確定」している。これを、冒頭でひっくり返して、ひっくり返した前提で、もろもろの謎を解き、伏線を回収し、かつ世界を一変させてしまったから。

 答えはタイトルにある。家康は関ヶ原で殺され、残りの「家康」を影武者が成り代わる。

 ありえない。影武者が主の仕事ができるわけがない。だいたい姿は似ているかもしれないが、風貌は?記憶していることは?家族や家臣の目を誤魔化すことなんてできやしない。突拍子もないなーと進めるうちに……オイちょっと待て!えぇっ!うわっと叫ぶ読書になる。

 最初は替玉バレの脅威をかわしていくのをヒヤヒヤしながら見守って、次第に見えてくる影武者(二郎三郎という)の真の姿に戦慄し、怒涛のごとく襲い掛かる陰謀と暗躍の応酬に振り回される。

 問題は、それら一つ一つが、史実として裏打ちされていること。「家康は関ヶ原で死んだ」という爆弾を破裂させたあと、表では通史どおり。どんな生涯を送ったか、どんな事件が起きたかは、知っての通りに進行する。

 だが、その裏で進行する心理戦と権謀術数は凄まじい。影武者を殺して征夷大将軍ならんとする秀忠の執念には、こっちまで息苦しくなる。孤立無援から、仲間を集め、駆け引きを綱渡り、相手を出し抜く。そこにはしたたかで強靭で、かつ智略に富んだ、戦国生き残りの男がいる。この痛快さと逆転劇に魂を蕩かされる。

 荒唐無稽かというと、違う。「徳川家康」という怪物の、最大の変貌が、関ヶ原にあるという。子どもへの愛情、女の好みなど、齢をとると嗜好は変わるというが、極端すぎる。文字どおり、「人が変わってしまう」のだ。さらに、関ヶ原を境に、謎が出てくる。なぜ征夷大将軍に就任を3年も引き伸ばしたのか。その位を、たった2年で秀忠に譲っているのはなぜか。駿府を大改造し、西のみならず東に対しても難攻不落の地にしたのはなぜか。最大の謎、敵たる豊臣家との和解に努めたのは、なぜか―――著者はその解を、影武者家康の暗闘に求める。

 数百年経過してなお、未だに尻尾をつかませない怪物。隆慶一郎は、膨大な史料を読み込み、この怪物に徹底的に向かい合う。本当の家康をあぶりだそうとする疑義があちこちに挟まれ、立証され、暴かれる。この謎解き家康のプロセスに蕩かされる。

 徳川家康と隆慶一郎、二人の怪物が寝かしてくれない徹夜小説なり。



『ハイペリオン』

ダン・シモンズ

 「読まず嫌い」リストがある。その第一位にあった『ハイペリオン』を読んだとき、読まず嫌いだった自分自身を蹴飛ばしたくなった。

 のめり込むにつれて、面白さと嬉しさとともに、「もっと早く読めばよかった!」という後悔が混ざり合う。評判だけで読んだ気になり、有名すぎるからと天邪鬼になってた自分が馬鹿だった。かつて、ル=グウィン『ゲド戦記』がそうであり、半村良『妖星伝』がそうだった。こんなに面白いものを、ずっと読まずにいたなんて!

 上下巻を一気に読まされる。これ、でっかい容れものを用意して、そこにゆうに長編一本書けるネタを6つ詰め込んで、読者の前にぶちまけてみたという感覚なり。パッケージはSFだけど、SFというジャンルに入れたらもったいない。ホラー、ラブストーリー、ファンタジー、戦争モノ、冒険活劇など、物語のあらゆる「面白い」要素がぎっしりと入っている、いわゆる枠物語だ。ラーメンや丼もので、「全部入り」というのがあるでしょ? あれだ。

 ご馳走ばかり延々と食べ続けていると疲れてくるのだが、これは尻あがり的に面白さが加速する。もちろん序盤も面白いのだが、後へ行けば行くほど止め時を失う。面白い物語を求める全ての人にお薦め。



『ボーン・コレクター』

ジェフリー・ディーヴァー

 読書クラスタには、「屈辱」というゲームがある。各人、メジャーだけど未読の作品を挙げてゆき、既読の人が多ければ多いほど高ポイントになる。「おまえソレ読んでないなんてどんだけ~」と笑われる人が勝ち、というゲームだ。

 みんなに呆れられる一方で、羨ましがられる。なぜなら、絶対に面白いことが分かっているから。SF好きにとっての『ハイペリオン』がそれなら、ミステリ好きにとっては『ボーン・コレクター』になる。睡眠時間と引き換えに、ジェットコースターミステリーを堪能できる。

 あまりに夢中になって、眠くなる前に読み干してしまったが、やめられない止まらない。。わずか数日の間に、次々に起こる誘拐監禁殺人事件を、時間制限つき謎解きアクション濃縮サスペンス全部入りにした作品だから。

 数時間おきに犯行を繰り返すボーン・コレクターと、限られた時間でメッセージを解読し、次の被害者を救わねばならないリンカーン・ライム(しかも四肢麻痺の身体だ)。成り行きで彼の鑑識を手伝う婦警アメリア・サックス。科学捜査の薀蓄やプロファイリング推理戦だけでなく、それぞれの過去や苦悩が絶妙なブレンド比で絡んでくるのは、上手いとしかいいようがない。

 「やめ時」が無い、寝かせてくれない面白さ。徹夜を目指さないなら、休日朝から始めると、めちゃくちゃ充実した読書になるだろう。



『モンテ・クリスト伯』

アレクサンドル・デュマ

 ミステリ、ドラマ、SF、歴史と、間口を広めに紹介してきたが、ここで、世界で一番面白い小説と名高い傑作をお薦めする。筒井康隆が「ひとつだけ選ぶならコレ」という噂を聞きつけて、手を出して、どっぷりガッツリ浸る幸せな読書と相成った。

 ストーリーを一言であらわすなら、究極のメロドラマ。展開のうねりがスゴい、物語の解像度がスゴい、古典はまわりくどいという方はいらっしゃるかもしれないが、伏線の張りがスゴい。てかどれもこれも強烈な前フリだ。伏線の濃淡で物語の転び方がミエミエになるかもしれないが、凡百のミステリを蹴散らすぐらいの効きに唸れ。読み手のハートはがっちりつかまれて振り回されることを請合う。

 みなさん、スジはご存知だろうから省く。が、痛快な展開に喝采を送っているうちに、復讐の絶頂をまたぎ越えてしまったことに気づく。その向こう側に横たわる絶望の深淵を、主人公、モンテ・クリスト伯と一緒になって覗き込むの。そして、「生きるほうが辛い」というのは、どういう感情なのかを思い知る。

 読まずに死んだらもったいない。この記事を、ここまで読んできた全員に、強力にお薦めする。

* * * * *

 全部で8作品を紹介してきたわけだが、いかがだろうか? 定番中の定番もあるので、既読の方も多いかと。その場合、あなたのお薦めを教えてほしい。「それを徹夜小説なら、コレも鉄板だよ」という「コレ」がどうしても知りたいのだ。

 あなたはそのタイトルを知っており、それは、わたしが知らない凄い本(スゴ本)のはず。徹夜の予感が高確率で当たるように、わたしが知らないスゴ本は、高確率であなたが読んでいるのだから。

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女の子の匂いを再現する

 女の子の匂いをご存知だろうか?

 漂ってくる「匂い」というより、すれ違うときにクる「あの感じ」といったほうがいい。あるいは、部屋に入ったとき、女の子がいる(いた)空気のようなもの。大事なのはカッコ()の中で、視覚的ものではない。「さっきまで女の子がいた部屋」でも分かるし、建物内ならある程度たどるのは可能だ。

 最初は、私の変態的妄想力が産み出した幻臭かと思った。「女の子って、どうしてあんなにいい匂いがするのだろう」と悶々したことがある。が、同志の意見を総合し、私の経験を重ねると、どうやら妄想ではなさそうだ。

 それは、いわゆる「せっけんの香り」だろうか。石鹸そのものに限らず、中高生が滴らせているシャンプーやボディケア香や、デオドラントのメチルフェノール系の匂いなどが相当する。そうした、後付けの合成香料をもって、我々は「女の子の匂い」とみなしているのだろうか。

 たとえば、「ビオレさらさらパウダーシート せっけんの香り」を使ってみたところ、かなりの再現率で「女の子のいい匂い」が味わえる。

ビオレさらさらパウダーシート せっけんの香り」はマジで理想の女の子の匂いがすると聞いて実際買って嗅いでみたんだけど、本当に衝撃的なくらい女の子の匂いだこれ…[togetterより]

 だが、これは刷り込みに過ぎない。かつてキンモクセイの香りでトイレを想起していたように、上書きされた代替記憶なのだ。そうした後付けではなく、もっと内側からくる「匂い」である。

 鋭い人は、排卵日直前のヴァギナの匂いを思い出すかもしれない。バルトリン腺や皮脂腺、アポクリン腺から分泌される粘液のもつ、ココナッツに似た香りだ(と言われるが、私の経験では白桃を想起させる)。これは、『ヴァギナ』はスゴ本【全年齢推奨】で紹介したことがある。

 この匂いが独特であることに、特別な理由があるのではとにらんでいる。つまりこうだ。人類史のほぼ大部分、夜は暗闇だった。今は電気があたりまえになっているが、常夜灯が無かった時代のほうがはるかに長い。暗がりの中、パートナーが女であり成熟していることを確認する術は、匂いだったんじゃないかと妄想する。それに加え、食の嗜好や体質、健康状態は、体臭に表れるものもある。すなわち、闇の中でパートナーを嗅ぎ分ける匂いであり、その匂いに敏感なことに適応的になっているのではと妄想する。

 だが、この匂いは、そうしたイベントフラグ的なものではなく、もっと日常的に感じられる。上書き記憶された香料でもなく、イベントフラグでもないのであれば、「女の子の匂い」の正体は何なのか?ヒントはネットにある。

女の子の匂いは高級脂肪酸と安息香酸エストラジオールとのことなので、以前混ぜてみたら、本当に若い女性が歩いた後を通ったときに感じる「あの匂い」ができた[twitterより]

 この高級脂肪酸や安息香酸エストラジオールとは何か? 高級脂肪酸は、天然の油脂およびロウの構成成分であり、リノール酸や、オレイン酸などの仲間がある。また、安息香酸エストラジオールは最初に製品化されたエストロゲン医薬品である[Wikipedia:安息香酸エストラジオール]。製造方法は特許で守られており、キッチンで合成できるものではなさそうだ。化学系の研究室なら揃っていそうだが、縁のない私には入手困難である。

 捨てる神あれば拾う神あり。需要あるところに供給あり。

 プロモーションやイベントで、「匂い」を使った空間演出を手がけるZaaZ(ザーズ)という会社がある。同社が開発したディフューザーは、マイクロミストを放出し、必要な空間を匂いで満たすことができる。面白いのはオリジナルな匂いを作ることができ、「西麻布のお寿司屋さんで仕込んだすし酢の匂い」とか「夏祭りでおじさんが鉄板で作った焼きそばのソースの匂い」など、実にさまざまな匂いがある[ZaaZ Energy]

 その中に、「お風呂上がりの女の子の匂い」がある。sankeibizレポート「“風呂あがりの女子の匂い”が買える時代」によると、こうある。

「モワっとした温度と湿度、そしてほのかな石けんの香りと、フローラル系のかすかな匂い。匂い自体は強いものではないが、複雑に混ざりあい、お風呂上がりの空気を感じられた」

 いいね! 喜び勇んで通販元のDMMに行ってみる→「お風呂上がりの女の子の匂い」。香料と再生装置で10万超えるのか……業務用というだけに、ハードルが高い。

 だが、諦めぬ。もうすぐ、VRを用いた性愛シミュレーターや、性交渉機能に特化したセクサロイド市場が一般化するだろう。視覚+触覚に対し「匂い」が売れることは必然なので、近いうちに東京ゲームショウで見かける(嗅げる)だろうから、そこでお試ししてみよう。個室ビデオやリンリンハウスのオプションになる日も近い。

 未来は今だ! ZaaZが設立した新会社VAQSOが、VR外付け匂いデバイスを開発したらしい。Playstation VR、Oculus Rift、HTC VRなど、様々なデバイスに装着可能で、女の子の匂いにも対応しているらしい。VRコンテンツと同期して、たとえば「銃を撃って何秒後に火薬の匂いを出す」ことも可能とのこと(参考:『女の子の香り』がするVR、実現へ──PSVR・Vive・Oculus対応の外付け匂いデバイス登場)。心のノートに彫っておけ。

 もっと手軽に(≒安価に)再現できないものだろうか。答えは本にあった。『危ない28号』『アリエナイ理科ノ教科書』で有名な薬理凶室の新著『悪魔が教える願いが叶う毒と薬』である。

 本書は、サプリメントから処方薬、漢方薬から違法麻薬まで、願いごと別に集めて解説したものである。人の身体の代謝や反応は化学物質により引き起こされる。ということは、化学物質を用いることである程度コントロールできるという発想で、一般的な使用法から「裏の使い道」までを紹介してくれる。

 たとえば、リ●ップには「悪夢」の副作用を引き起こす、ミノキシジルという成分が含まれているという。これを、「死なない程度で悪夢を見る程度」服用する用量と方法が書いてある。あるいは、老いたマウスと若いマウスの血液を交換することで、老いたマウスが若返えったというレポートが紹介される。なんともジョジョの奇妙な実験だが、スタンフォード大学で2011年に実際に行われたものらしい。さらに、ひまし油を使った下痢チョコ(≠義理チョコ)のレシピが載っている。シャレにならないネタ満載だが、その中に、「女の子の匂いを合成する」があった。

 女の子の匂いの合成レシピは、2つ紹介されている。

 まず正式バージョン。匂い成分の元はカプリン酸とカプリル酸だという。これを1:1に配合した母液を用意して、そこにミルク香料とバニラエッセンスを加え、安息香酸エストラジオールを添加させることにより、再現できるらしい。

 さらにエタノールで希釈して散布することで、「部屋の中に女の子がいる」いい感じに仕上がるという。Playstation VRと非常に親和性が高そうだ。これをベースに「プチサンポン」を重ねがけすると、「お風呂上りの女の子」バージョンになるという。4DXやMX4Dと非常に親和性が高そうだ。

 ただ、一般家庭にない素材もあるため、本書ではもっと身近な食材を使った合成方法も紹介されている。材料はバターとバニラエッセンスの2つだけ。バターの低沸点揮発流分を分解するという。手順は次の通り。

  1. バターを試験管に入れてアルコールランプで加熱し、揮発したバターの成分をガラス管経由で氷水で冷やした試験管へ導き、液体として抽出する。抽出液は焼きたてのパンのような香ばしい匂いになる。
  2. 抽出液を透明な瓶に入れて、3~4時間直射日光に当てる。日光に含まれる紫外線によって適度な分解が起こり、バターの香りに少し鼻をつくようなツンとした匂いがプラスされる。
  3. 最後に、微量のバニラエッセンスを加えればできあがり。ツンと鼻をつくが、ほのかに甘い匂いで、女性の胸の谷間に分泌される芳香成分と非常に似ている
  4. さらにセッケン香水などを混ぜると、なかなか再現度の高い、女の子の匂いになる

 問題はステップ1。写真入りで分かりやすく説明してくれているが、試験管もガラス管もアルコールランプも持ってない。要するに、熱したバターの揮発成分を液体で集めればいいのであれば、蓋つきフライパンで事足りる。

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 中の様子を確認するため、ガラスの蓋にして、とろ火で加熱しつつ蓋を水で冷やす(熱でビニールが溶けないように注意)。すると、蓋の内側に水滴が生じる。これを器に集めてラップして、あとはステップ2以降の通りに作るだけ。

 ひと嗅ぎしたら、プルースト効果に打ちのめされる。ほらあれ、『失われた時を求めて』の最初にある、紅茶に浸したマドレーヌの香りから、幼少時代を思い出すやつ。この「女の子の匂い」から、高校時代を思い出す。

 体育の後、女子は教室で着替えるやろ? 次の授業があるし男子は扉の外で待っているから大急ぎで着替える。8x4もそこそこに、女子全員が着替え終わった直後、まだカーテンも開けきっていない教室に足を踏み入れた瞬間の、「あの匂い」がそこにあった。「臭い」の二歩手前の、青い匂いである。懐かしさよりも恥ずかしさを思い起こさせる。

 私なりのアレンジとして、「クラブ ホルモンクリーム」をお勧めしたい。肌荒れを防ぐクリームで、女性ホルモンの一種であるエストラジオールが配合されている。

 これと、上で作成した「女の子の匂い」を配合させると、叔母さんの匂いそのものになった。私が小学生だから三十前半ぐらいだろうか。一緒のお風呂で、体を洗いっこしたっけ(めちゃくちゃ反応していたことを告白しておこう)。今となってはマドレーヌ並みに甘い思い出だが、これでいつでも呼び覚ますことができる。

 「奥さんがいるなら嗅がせてもらえばいいんじゃね?」というツッコミがあるだろう。そんなことは分かっている。だが問題は2つある。我が妻は、変態的行為には手段を選ばず、くんくんしようものなら容赦なく反撃してくる。そして、妻の匂いは「女の子」ではなく、女の匂いそのものになっているのだ。

 「ば~~~~~~っかじゃねぇの!?」というツッコミは、その通りだと思う。ただ、そういう方には、汚濁にまみれ悪臭の立ち込める18世紀のパリで、異様なまでに「におい」に執着した男の物語『香水』をお勧めしたい。匂いの天才が、至高の香りを求める、「におい」の饗宴を嗅ぎたまえ(映画版は『パフューム』)。

 匂いは言葉より強い。どんな意志より説得力をもち、感情や記憶を直接ゆさぶる。人は匂いから逃れられない。目を閉じることはできる。耳をふさぐこともできる。だが、呼吸に伴う「匂い」は、拒むことができない。匂いはそのまま体内に取り込まれ、胸に問いかけ、即座に決まる。好悪、欲情、嫌悪、愛憎が、頭で考える前に決まっている。

 だから、匂いを支配する者は、人を支配する。匂いで人を操る彼が求めた「究極の香りを持つ少女の匂い」とは、「女の子の匂い」の完全体だったのかもしれない。

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『石蹴り遊び』読書会が面白かった

 コルタサルの奇妙な小説『石蹴り遊び』の読書会に行ったら、目からウロコが飛び跳ねていった。主催のuporekeさん、ありがとうございました。

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 何が面白いかというと、様々な「読み」に会えること。一冊の小説から受け取ったものをお互いに見せ合って伝え合うのが良い。「そう感じたのはなぜ?」とか「ここからあれにつなげたのか!」などとおしゃべりすることが、なんと楽しいことか。たしかに読書は孤独な営みだが、小説というひとつの幻想を共有することで、慰められる思いがする。まるで、極寒の深夜に、焚き火を囲んでいるかのような高揚感と一体感を分かち合える。

 そして『石蹴り遊び』。作者はフリオ・コルタサル。わたしの場合、『南部高速道路』から入ったので、コルタサルは短篇の名手という第一印象だった(ちなみに『南部高速道路』は傑作なので読むべし)。600頁近い、ちょっとした鈍器並みの『石蹴り遊び』は、なかなか骨の折れる読書だった(感想は曼荼羅・パンドラ・反文学『石蹴り遊び』に書いた)。

 『石蹴り遊び』は物理的には1冊の本だが、実は2冊の本として読める。というか、作者そう読むことを推奨している。最初は1章から56章を順に読む。次は、第73章から始まり、作者が提示する「指定表」に従って読み進める(各章にはナンバリングがしてある)。こんな感じだ。

  73-1-2-116-3-84-4-71-5-81-74-6-7-8-93-68-.....

 よく見ると、...-1-2...-3...-4...-5... とあり、最初の1冊の間に他の章が挟み込まれる構成となっている。他の章は、著作ノートの断片や新聞のスクラップ、広告や引用など雑多な寄せ集めで、唐突だったり冗長な印象を受ける。

 ところが、2冊目を進めてゆくと仰天する。同じ『石蹴り遊び』という本に、違う書物が姿を現してくる。そこでは、1冊目で語られなかった理由が説明されていたり、脇役が実は極めて重要な人物だったり、宙ぶらりんの行動の「続き」が入れ子的に補てんされていたり、1冊目にはない可能世界を生きていたりする。

 そもそもこの『石蹴り遊び』は何なのか? わたしは、1冊目では脇役だった、ある人物が書いた小説なのではと考えた。そう仮定すると、その人物が書いた覚書、原稿、引用メモは、2冊目のあちこちに出現し、それをつないで読んでいくと、1冊目と2冊目が、ちょうど図と地をひっくり返すように入れ替わる。1冊目の中に、その人物が書いたノートを皆で読むというシーンがあるが、それこそが「読者を共犯者に仕立てる」この小説の臍ではないか―――と考えた。

 もちろん、読書会ではわたしの「読み」と同意見の人がいた(水声社版の解説がまさにそれだ)。だが、だからといって「正しい」とは限らないのが面白いところ。むしろ、わたしと違う「読み」の方が楽しい。『石蹴り遊び』が何と結び付けられているかに着目して、そのつながりから炙り出すような見方だ。構造的に似たものとしてパヴィチ『ハザール事典』が挙げられたが、ヘラー『キャッチ=22』もそうかも。「指定した番号の章を読む」手法は、いわゆるアドベンチャーブックから美少女ゲームへの系譜につながる。この辺は、keyの傑作『CLANNAD』を元に、わたしが熱苦しく語ってきた。

 そうしたつながり読みの中で、一番面白かったのは、「読者をコルタサルに仕立てる」というもの。これは三柴ゆよしさんから教えていただいた「読み」だ(ありがとうございます!)。1冊目では脇役、2冊目ではこの小説自身の「作者」としても読める、「ある人物」のことだ。実はこの人物は、コルタサルなのではないか、という仮説だ。

 え? 『石蹴り遊び』を書いたのはコルタサルだから、この小説の「作者」としてみなせる「ある人物」はコルタサルでいいんじゃないの? というツッコミは正しい。だがちょっと待ってくれ、事態は少し複雑だ。

 いったん『石蹴り遊び』から離れ、コルタサルの代表作を振り返ると、面白い共通点がある。それは、「他の存在に変身する」だ。たとえば、異なる二つの世界が同時進行する『すべての火は火』。最初は段落レベルで交代していたのが、緊迫度を増すにつれ、フレーズや言葉を契機として異世界に変わり、物語は驚くべき結末に向かって邁進する(これも傑作だから読むべし)。あるいは、意識が山椒魚に乗り移る男の話『山椒魚』に代表される変身譚でもいい。現実が重ね書きされるような非現実感が、コルタサルの魅力だといっていい。

 その上で『石蹴り遊び』を眺めると、2冊目に挟み込まれている雑多な文の断片は、「ある人物」が小説を書くために準備した、様々な素材に見えてくる。ちょうど撮影済だが未編集の映画のテープ群のように、作品のどこに差し込むかまだ決めかねている素材なのだ。1冊目で起きる運命により小説は未完となるが、登場人物たちがこれらの素材を発見し、吟味する場面が出てくる。2冊目に差し込まれる断片は、登場人物たちと共に、読み手(=わたし自身)が「ある人物」になり代わり編集することを誘っている。

 その一方で読み手は、コルタサルが示す「指定表」を元に、あっちの素材、こっちの素材に付き合うことになる。これは、『石蹴り遊び』のコルタサル版であり、ディレクターズ・カットなのだ。

 読み手は、行きつ戻りつしていくうちに、コルタサルの目で『石蹴り遊び』の素材を見るようになり、コルタサルの頭で『石蹴り遊び』を考えるようになる。そのうち、読者の目は炯々と輝き、眉間に縦皺が生じ、もじゃもじゃ髭が生えてきて、ついにはコルタサル自身に変身してしまう―――のかどうかは分からないが、「ある人物」≒コルタサルのつもりで『石蹴り遊び』を再編するなら、わたしの版だとこうなる。

 60-61-62-66-71-74-79-82-86-94-95-96-97-
 98-99-102-105-107-109-112-115-116-121-
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 「読者をコルタサルに仕立てる」という「読み」は妄想が捗る捗る。他にもユニークな読みが提示され、その度に目からウロコが飛び跳ねていった。小説に「正解」なんてないんだね。

 小説に「解答」があって、そこからの距離によって正しさが伸び縮みするのなら、それは小説である必要がなかろう。辞書でも読んでりゃいい。そうではなく、同じ一冊から、様々な「読み」が発生し、それに共鳴したり反発したりを繰り返すことで、その読み手が見えてくる。それが面白いんだ。そこに置かれた物としての一冊が面白いのではなく、そいつを生身の人間が「どう読んだか」が肝なのだ。

 いま、「読み手」と言ったが、別に第三者である必然性はない。過去にそれを読んだ自分自身と比較することもできるし、世界で最初の「読み手」である作者がどう読んでいたかを想像するのもあり。『石蹴り遊び』の風呂敷は、そこまで広げて遊べるくらい自由に読むことができる。

 小説は、読み手と同じ数だけ「正しさ」があってもいい。uporekeさんの読書会は、そういう懐の深さがある。世に、「大書評家」なる人が参加者の「読み」を採点するような読書会があるらしいが、not for me だね。あるいは、怖いもの見たさで覗いてみようか……

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死ぬことよりも怖いこと『ウインドアイ』

 死ぬのはそんなに怖くない。必然だから。せいぜい苦痛は避けたいとか、お別れや身辺整理の時間があればと願うのみ。

 しかし、私が私でなくなるのは怖い。肉体や精神の欠損だけでなく、肉体であれ精神であれ、私の容れ物から「私」が滲み出たりブレだすのは嫌だ。私が私を保ったまま遠ざかり、時間からこぼれ落ちてしまうのが恐ろしい。この離人症的な怖さ、うまく伝えるのは難しい。

 だが、ブライアン・エヴンソンの短編を読むと、嫌というほどよく分かる。そして、分からない方が幸せだったかも……と後悔することになる。前作『遁走状態』[レビュー]は怖かったが、今回も輪をかけて恐ろしい。どちらも甲乙つけがたいが、『遁走状態』→『ウインドアイ』の順に読むが吉かと。

 読み始めてすぐ違和感を感じ、読み進むにしたがって「ざわざわ」が増してゆき、物語の決定的なところで胸騒ぎが本物だったことを思い知る。しかも、予想の斜め上の、もっと嫌な予想外の場所に置き去りにされていることを知る。

 不条理な寓話はとてもカフカ的だが、そこで浮彫りにされるのは物語世界の不条理さではなく、世界の認識の仕方の不条理さである。世界は狂っていないと確信できていたのは、世界と同じくらい自分が狂っていたからであって、現実と乖離しはじめた今、おかしいのは自分か世界か両方なのかと幾度も自問させられるハメになる。結果、読書はすなわち毒書となり、世界が歪んでいくような感覚に抗いながら読まねばならぬ。たびたび「私の気は確かだろうか?」と振り返ることを余儀なくされる。

 哲学畑にお馴染みの「クオリア」ってあるじゃない? 「トマトの赤い感じ」「頭がズキズキ痛む感じ」といった主観的に体験される感覚質のことだ。そして、反応は普通の人と全く同じだけれど、このクオリアを持たない存在を哲学的ゾンビとする話がある。エヴンソンのどの短編にも、このテーマが潜んでいるように見えてならない。

 クオリアそのものの話ではないんだ。そして、恐ろしいのはここからなんだ。哲学的ゾンビの思考実験をする存在は「私」のはずだ。だって主観的とはいえ、「赤の感じ」「痛む感じ」を持っているから。だが、エヴンソンを読んでしまうと、思考実験の主体から客体へ、「私」が滑り落ちてゆくことが分かる。すなわち、私が私の「赤の感じ」「痛む感じ」に確信が持てなくなってしまう。現実とのチューニングが合わなくなるにつれ、あるはずの感覚質から「私」が零れ落ちてしまうのだ(死ぬことよりも、怖いでしょ?)。

 試しに読むなら、「ウインドアイ」「二番目の少年」「食い違い」あたりはいかが。25編もあるので、枕頭において毎晩お布団で一編ずつ読むのが効果的。きっと何らかの喪失感を抱き情緒不安定になりながら眠りにつくだろう。毎晩の悪夢を請け合う。

 わざわざ悪夢をみたいかって? そりゃ違うよ。覚めているときにこれを読むということは、そのまま「私」の現実からの遁走状態になることになるのだから。

 嫌でしょ? 現実が悪夢だったことに気づいてしまうなんて。

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