なぜバカは無敵で世の中に蔓延しているのか分かる『バカの研究』

桃井かおり「世の中、バカが多くて疲れません?」から30年、バカはどんどん増えている。

バカは、激しく自己主張する。

感情的にわめきたて、他人の意見に聞く耳を持たない。ことが起きるたびに「ほら、私が言った通りだろ?」と叫ぶ。思い通りにならないと、全て人にせいにして、自分が間違っている可能性を考えない。自分を高く評価するあまり、客観的な判断ができない。

バカは、「間違えたら死ぬ病」にかかっている。

自分の間違いを、絶対に認めようとしない。自分の間違いが証明されそうになると、ゴールポストを動かす。都合の悪いことを完全に忘れる能力があり、「昔は良かったが、今はダメだ」を口癖とする。

「バカ=知識がない」ではない。

知識はあり、アカデミックな立場にいるにもかかわらず、信じがたい愚かな発言を繰り返すバカは、大量にいる。しかも、なまじ知識があるぶん厄介だ。自分のイデオロギーを裏付ける文献を引用しながら、知的な虎の威を借りて、不愉快な相手を糾弾する。知識とは、相手を黙らせる武器だと考えている。

バカには理由がある

こうしたバカが、なぜ存在するのか―――この疑問に対し、『ファスト&スロー』のダニエル・カーネマンや、脳科学者アントニオ・ダマシオなど名だたる知性が結集し、大真面目で「バカ」を研究したのがこれ。

面白いことに、本書は、「バカをバカにする本」ではない。

某国の指導者やイズムの狂信者をこき下ろすのではなく、その背後にある、「どうして人は、愚かなことをするのか」という謎に迫る。そして、人の愚かな行動には、特定の偏りをもたらす思考のゆがみがあることを示す。

たとえば、自分を過大評価し、他人を過小評価するバカ。

これには名前が付いていて、研究者の名前にちなんでダニング=クルーガー効果という(※1)。自分の能力の欠如を認識することができないことによって生じる認知バイアスになる。なるほど、バカがドヤ顔で自説を開陳するのは、このバイアスによるのかもしれぬ。

あるいは、「昔は良かった、今はダメ」と言い張るバカ。

これも研究(※2)がされており、人は歳を取るにつれ、嫌な思い出は記憶から薄れてゆき、良い思い出だけが残るようになっている。老いれば老いるほど、過去の良いところばかり思い出すのは、人一般の記憶の仕様なのだ。

なぜ世の中、バカが多いのか

さらに、世の中、バカばっかりに見えるにも理由がある。

私たち人間には、バカを探し当てるレーダーが備わっているという。ネガティブ・バイアス(※3)と呼ばれるもので、人は、ポジティブなものよりネガティブなものに目を向け、より重要だと考える傾向が備わっているという。世間でバカが目立つのでなく、私がバカを探しているからなのだ。

こんな感じで、バカについての本だと思って手にしたところ、実際は、行動経済学や心理学から、人の思考の癖を気づかされる。「バカとは、極端な認知バイアスに陥っている人」という結論に触れると同時に、私の中のバカが炙り出されてくる。

つまりこうだ、「世の中、バカばかりだ」と感じるのは、私のネガティブ・バイアスが原因だし、「最近バカが増えた」と考えるのは、昔のことを都合よく忘れているからだ。30年前だってバカは大勢いたが、今ほど可視化されていないだけなのかもしれぬ。「自分はあいつらと違う」と考えるのは、ダニング=クルーガー効果と言えるかもしれない。

なんのことはない、バカだと思っていた私自身が、バイアスまみれの思考に陥っていることが暴かれる。小学生のあれだ、「バカって言う人がバカなんですー」というやつ。バカなのは、私だったのだ。

人である限り、認知バイアスから完全に逃れることはできない。だが、それを自覚し、振り回されないようにすることはできる。バイアスというバカを抱えながら生きよう。

※1

Justin Kruger,David Dunning

Unskilled and Unaware of It: How Difficulties in Recognizing One's Own Incompetence Lead to Inflated Self-Assessments,2000

※2

Susan Turk Charles, Mara Mather, Laura L Carstensen

Aging and emotional memory: the forgettable nature of negative images for older adults,2003

※3

Negativity Bias, Negativity Dominance, and Contagion

Paul Rozin, Edward B. Royzman,2001

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サクサクした食べ物が好きなのは、祖先が昆虫食だったから『美食のサピエンス史』

サクサク(crispy)した食べものは、みんな大好きだ。たとえば、唐揚げやフライドチキン、ポテトチップスは、世界各国で好まれる。

この、サクサクした食感を好む傾向は人類共通らしい。

なぜ、私たちはサクサクを好むのか?

本書によると、かつて我々の先祖が、昆虫を好んで食べていたからだという。

つまり、外はサクサク、中はトロ~りした食べものが好まれるのは、外骨格に身を包み、タンパク質や脂肪を豊富に含んだ昆虫を食べてきた名残りなのだというのだ。

昆虫食は異常?

アジア、オーストラリア、アフリカ、南アメリカ、中東では、昆虫は優れたタンパク質源であり、薬剤としても利用されている(※1)。そういえば、わたしが子どもの頃、祖母が作った「イナゴの佃煮」や「ハチノコ」が食卓に並んでいた。

いっぽう、欧米人は、昆虫食をありえないと決め付けるのだが、その理由が興味深い。

昆虫を「きたならしく、吐き気をもよおす」から食べないのではない。文化人類学者マーヴィン・ハリスによると、真相は逆で、昆虫を食べる習慣がないからこそ、「きたならしく、吐き気をもよおす」ものと見えているというのだ。

そして、昆虫食の価値が認められていないのは、欧米文化の環境条件に過ぎないという。獣や魚の肉が手に入りやすい一方で、手ごろなサイズの昆虫がいなかった―――この条件は北半球の一部の地域のみで、そこから発祥した食文化に組み込まれたためだというのだ。

『美食のサピエンス史』は、こうしたわたしの偏見を、鮮やかに解いてくれる。本書は、進化生物学、文化史、脳科学から、「ヒトと食」についてアプローチする。

「食べる」と「性交する」は同じ?

たとえば、食と性の研究が面白い。

まず、「食べる」と「性交する」が、同一の言葉で語られる例を紹介する。南アメリカやブラジルの一部では、両者は同じ言葉を用いられる(※2)。

確かに、いかにも「食べてる/食べられている」ように見えるのは事実だし、「あの子、食べちゃった」「美味しそうなカラダ」「女に飢える」「おとこ日照り」という表現もある。性と食は、近いところにあるのかも。

しかし、だからといって完全に言葉を同じにしたら、いろいろと混乱を招きそうだ。ところがどっこい、これらの地域では、区別する必要がある場合は、対象を言い添えるという。つまり、「果物を」「ペニスを」と目的語を付け加えて使い分けるのだ。

文化人類学の観点から、食と性が分かちがたく結びついていることを主張した後、今度は、脳科学の観点から補強する。

おいしいものを食べたときの快感を、英語圏では、フードガズム(foodorgasm:food+orgasm)という。ハッシュタグ #foodorgasm でインスタを覗くと、いわゆる「飯テロ」画像が並んでいる。

そして、fMRIで撮影した眼窩前頭皮質の活動から、美食でフードガズムを感じているときと、性交でオーガズムを感じているときの類似点を指摘する。ただし、美食と性交のそれぞれでオーガズムに至るのではなく、むしろ、フードガズムがオーガズムを誘起しているのではないかという。

おいしい料理と、たのしいセックス、どっちが気持ちよいか?

とある美食料理家が紹介する、”Better than Sex Cake” を見る限り、食の方に軍配が上がりそうだ。キャラメルソースたっぷりのチョコレートケーキは、確かに「美味しそう」である。

絶対味感

苦味についての研究も面白い。

ブロッコリーやキャベツには、PTCという苦味物質が含まれている。この物質をどう感じるかは、遺伝によるというのだ。シワのある豆と丸い豆がメンデルの法則に従うように、PTCを苦いと感じる/感じないも、潜性遺伝するというのだ。

この研究はさらに進められており、PTCを感じる人は、アルコールを飲まず、ニコチン依存になりにくい傾向があることが分かっている。PTCの味覚能力は、嗜好の形成に何らかの役割を果たしているようだ。

本書がユニークなのは、この研究は遺伝子研究だけでなく、文化的環境とも照らし合わせて掘り下げているところ。PTCの検知/非検知は、言語を伴って活動していた可能性を指摘する。PCT特有の味を指す言葉だってあるかもしれないのだ。

さらに本書では、スーパーテイスターの存在を仮説づける。同じものを食べても、敏感に感じる人から、鈍い人まで、様々だろう。この口腔感覚の個人差は、色や音のように幅があることが考えられる。

この研究が進むと、絶対音感のような「絶対味感」も明らかになるのではないだろうか。つまり、音の高さを絶対的に認識する能力と同様、特定の味を同定できる人が出てくることが予想される。味という、主観100%の世界が、どこまで普遍化できるか……これは楽しみ。

原題は、”The Omnivorous Mind” (雑食性の心)だ。ヒトという、超雑食な存在を、進化と文化の両面から、多面的に捉えた一冊。

※1

s.K. Srivastava and Naresh Babu

Traditional insect bioprospecting-As human food and medicine

November 2009Indian journal of traditional knowledge 8(4):485-494

※2

『神話理論 生のものを火を通したもの』クロード・レヴィ=ストロース(みすず書房)

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変えられないものをスルーして、変えられるものだけに集中する

人生で一番大事なことは、イチローから学んだ。

コントロールできることと、コントロールできないことに分ける。そして、コントロールできないことには関心を持たない。

首位打者争いをしているとき、ライバル打者について話題が及ぶと、「相手の打率は、僕にはコントロールできません、意識することはありません」と打ち切ったという。

同じことを、ヤンキース時代の松井秀喜も語っていた。成績が振るわず、マスコミに批判されたことについて質問されると、「記事はコントロールできません。気にしても仕方ないことは気にしません」と返したという[松井、イチローの言葉を就活に生かす]

初めてこの言葉を聞いた時、自分を苦しめているものがはっきりと見え、すっと楽になった。以後、手帳の見返しに書きつけ、毎日見返している。

わたしを苦しめているものは、「コントロールできないもの」を生み出しては抱えている、わたし自身なのだ。

もっと踏み込んだ言い方では、[二ーバーの祈り]がある。

神よ、

変えることのできないものを、

静穏に受け入れる力を与えてください。

そして、

変えるべきものを変える勇気と、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを、

与えて下さい。

神学者ラインホルト・二ーバーが作者とされる祈りの言葉で、アルコールや薬物依存症に苦しむ人を支援する会でも引用されている。

この、「変えることのできないもの」をあれやこれやと生み出し、それに思い悩むのは、ヒトの思考の癖のように思える。

放っておくと、そうした不安にばかり埋め尽くされ、悪い方へ悪い方へとしか考えられなくなる。眠れぬ夜、「不安なことを考えると安心する」といった倒錯した頭を抱えることもある。

だが、不安とは、未来に起こるかもしれない不都合を、「いま」思い悩むことだ。「いま」を「未来」に変えられないのであれば、起きたときに悩めばいい。起きてもいない(起きるかどうかすら分からない)不都合について心配するのはナンセンスかもしれぬ。

この考え方は、ずっと受け継がれてきたもので、古代ギリシャまで遡ることを知ったのが、『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね』だ。エピクテトスはローマ帝政時代の哲学者で、彼の言葉は、マルクス・アウレリウスからパスカル、夏目漱石にまで影響を及ぼし、今に至っている。

本書は、彼に私淑する山本貴光さんと吉川浩満さんの対談形式で描かれており、現代風にアップデートされた悩みについて、具体的に語られる。

エピクテトスの原則は、シンプルだ。

自分の権内と権外を適切に見極めよ

ちょっと見慣れぬ言葉があるけれど、

権内=自分がコントロールできるもの

権外=自分がコントロールできないもの

だね。そして、権内か、権外か、両者が適切に区別できている状態こそ、人にとってもっとも幸福であり、われわれが目指すべき最善な状態だという。

そして、権内か、権外か、あらゆる心像についてこの基準をあてがってみろとアドバイスるする。権外であれば、捨て去れと断言する。なぜなら、人々を不安にするものは事柄ではなく、事柄に関する考え方なのだからだというのだ。

こうして言葉にするとあたりまえに見えるが、不安にさいなまれている時には、そこまで思いが及ばない。

だから、具体的な例を挙げ、権内/権外をあてはめるトレーニングをする。本書では、以下の人々を俎上に、コントロールできること、できないこと、見極め方を指南する。

  • 新任の上司が女性なのでモヤモヤしているエンジニア
  • 電車遅延について駅員に怒鳴り込むおっさん
  • やりたいことも、得意なこともないが、進路を決めなきゃいけない高校生

読者は、ひょっとすると、ここに出てくるエンジニアや高校生の立場ではないかもしれぬ。そのため、ここの事例がそのまま当てはまるとは限らないかもしれぬ。

だが、「増殖する不安を抱えている」という点では一致するし、その悩みは人類史上初というわけでもないだろう。

だから、本書を通じて「エピクテトスならどうする?」と自問すると良いかも。おそらく、権内のあまりの小ささと、権外のあまりの巨大さに、驚くだろう(わたしがそうだった)。

悩み事は、放っておくと雪だるま式に増殖する。アルコールで一時的に忘却したり、課金やスパチャで気を紛らわすのもありだが、財布や肝臓が死ぬ。悩むのは人の仕様。だが、死ぬほど思い悩むことはない。

その人生、正気を保っていくために。

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ナチスが焼いた本のリスト、国際宇宙ステーションにある本、ハリポタの次に読む本……本のリストが面白い

ナチスが焼いた本のリスト

ナチスが焚書した本は4,000を超えており、その全容は把握しきれない。だが、焼かれた本の一部は分かっており、”A Book Of Book Lists” でリスト化されている。これを見ると、ナチスが何を恐れていたかが、よく分かる。

  • 武器よさらば(アーネスト・ヘミングウェイ)
  • いかにして私は社会主義者となったか(ヘレン・ケラー)
  • 野性の呼び声(ジャック・ロンドン)
  • 鉄の踵(ジャック・ロンドン)
  • 世界史概観(H.G.ウェルズ)
  • 理性に訴える(トーマス・マン)
  • ジークムント・フロイトの全著作

 

ISS(国際宇宙ステーション)にある本

宇宙ステーションで働く人々は超忙しいので、本読んでるヒマなんてないのでは? と思うのだが、リラックスのための読書は必須らしい。数十年にわたり私物として持ち込まれ、そのままライブラリー化しており、シリーズものが充実している。

  • ファウンデーションシリーズ(アイザック・アシモフ)
  • エイリアン 感染(ダレル・ベイン)
  • アシモフのサイエンス・フィクション(アイザック・アシモフ)
  • ヴォルコシガン・サガ(ロイス・マクマスター・ビジョルド)
  • 二都物語(チャールズ・ディケンズ)
  • 戦争と平和(トルストイ)
  • 風と共に去りぬ(ミッチェル)
  • オナー・ハリントン・シリーズ(デイヴィッド・ウェーバー)

 

アラン・チューリングが借りてた本

アラン・チューリングが学校で借りた本のリストもある。パブリックスクールに通っていた頃(14~19歳)の本だ。ルイス・キャロルのアリスシリーズから数学の世界へ誘われたのかと想像すると感慨深い。

  • 不思議の国のアリス(ルイス・キャロル)
  • 鏡の国のアリス(ルイス・キャロル)
  • 論理ゲーム(ルイス・キャロル)
  • 空間、時間、重力(アーサー・エディントン)
  • 自然界の本質(アーサー・エディントン)
  • 物質と運動(ジェームズ・クラーク・マクスウェル)
  • 科学と近代世界(ノース・ホワイトヘッド)

一冊の書物は一つのパッケージとして完結する。だが、それをリストにすると、趣味や偏愛、あるいはメッセージ性が現れてくる。

この遊びを徹底したのが、『本のリストの本』だ。

編集者や蒐集家、ライターといった、本に関わる人たちが、本のリストを巡ってあれこれ語ったエッセイ集だ。知ってる本から知らない本を手繰るとき、それをリストの形で繋げてくれるのが楽しい。

 

文字の表情を味わう本

タイポグラフィやレタリングが好きな人で、様々な書体を見ているだけでニヤニヤできる上級者向け。フォントを変えるだけで、中身がガラリと変わってしまうのは魔法のようで面白い。『じょうずなワニのつかまえ方』はWeb版で読める(めちゃめちゃ面白い!)

  • じょうずなワニのつかまえ方
  • 日本字フリースタイル・コンプリート たのしい描き文字2100
  • 篠原榮太のテレビタイトル・デザイン

 

刊行しなかった本のリスト

企画は進んでいたが、諸事情で日の目を見なかったリストなのだけど、絶対これ面白いやろ! と言えるやつばかり並んでる。ベイトソン先生のやつは読みたい!

  • 男色と免疫疾患(南方熊楠)
  • 小説・経済論(村上龍)
  • 細野晴臣画集
  • 坂本龍一伝(玖保キリコ)
  • 中島みゆき論(呉智英)
  • マルセル・デュシャン(オクタビオ・バス)
  • イルカを撃つな(グレゴリー・ベイトソン)

 

ハリー・ポッターの次に読みたいリスト

イギリスの絵本専門店が、ハリポタブームの頃に出したリストだそうな。私はハリポタを読んでいないので何とも言えないが、これらが鉄板で面白いことは保証する。『ダレン・シャン』や『タラ・ダンカン』も入れたいね。

  • はてしない物語(ミヒャエル・エンデ)
  • トムは真夜中の庭で(フィリパ・ビアス)
  • ゲド戦記(アーシュラ・ル=グウィン)
  • 指輪物語(J.R.R.トールキン)
  • 長くつ下のピッピ(アストリッド・リングドグレーン)
  • ナルニア国ものがたり(C.S.ルイス)

この遊びはマネしたくなる。たとえば、何度も読んでしまう短篇集とか。

 

なぜか何度も読み返す短篇集(マンガ編)

  • ヘウレーカ(岩明 均)
  • ひきだしにテラリウム(九井諒子)
  • 愛すべき娘たち(よしながふみ)
  • 棒がいっぽん(高野文子)
  • ミノタウロスの皿(藤子・F・不二雄)
  • 三文未来の家庭訪問(庄司創)

 

なぜか何度も読み返す短篇集(小説編)

  • 伝奇集(ボルヘス)
  • 新釈雨月物語、新釈春雨物語(石川淳)
  • 完全な真空(スタニスワフ・レム)
  • Carver's dozen(レイモンド・カーヴァー)
  • 名人伝(中島敦)
  • チェホフ短篇集(チェホフ)

面白いだけでなく、読み返すたび、違った印象を受けるのが面白く、何度も手にしてしまう。「噛むほどに味が出る」というやつ。

こんな感じで並べると、わたしの偏愛が見えてくる。「お前のマンガの趣味は悪い」と言われたことがあるけど、偏っている自信はある。一方で、わたしと好みが被るなら、ここから次に手にする一冊が見えてくるかもしれぬ。

あるいは、拙著『わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる』にも、沢山のリストがある。

 

人生を破壊する怒りから自由になる本のリスト

  • 怒らないこと(アルボムッレ・スマナサーラ)
  • ジェダイの哲学(ジャン=クー・ヤーガ)
  • 怒りについて(セネカ)
  • 七つの習慣(スティーヴン・コヴィー)

怒りに任せてモノに当たったり、感情が昂って眠れなくなるほどだったのが、読書を通じて、怒りから自由になることを学んだ。万人向けかは知らないが、少なくとも自分には効いたリスト。

 

読んだことを後悔する禁断の劇薬小説

  • イワン・イリイチの死(トルストイ)
  • 城の中のイギリス人(マンディアルグ)
  • 隣の家の少女(ケッチャム)
  • ジェローム神父(マルキ・ド・サド)

全24作品からダメージ低めのものを選んだが、読書は毒書であることを思い知らせてくれる。苦手な人は避け本リストとして使って欲しい。好きな人は、別冊付録を手にしてほしい。

このブログでも、様々なリストがある。昔、わたし自身のために作ったのだが、今でも有効活用しているのがこれ。

 

東大教師が新入生に薦めるブックリスト

  • 理科系の作文技術(木下是雄)
  • 生命とは何か(シュレディンガー)
  • 日本人の英語(マーク・ピーターセン)
  • 知的複眼思考法(苅谷剛彦)
  • オリエンタリズム(サイード)
  • ゲーデル、エッシャー、バッハ(ホフスタッター )

実際は、東京大学出版会が毎年行っているアンケートで、過去30年分を基に集計した100冊のリストになる。リストにすることで、今まで読んできたもののを振り返り、整理することができる。一方で、次に読む目標も出てくる。

本をリスト化すると、意外な自分が見えてきたり、趣味が似通った人と出会えたりする。定期的に棚卸していきたいもの。

 

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『独学大全』はこう使う

独学の達人である読書猿が書いた、独学の百科事典。「読書猿って誰?」という人がいたら、[読書猿Classic]を見に行くべし。

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787ページ、1kgは、ほぼ鈍器で、そこらの教養芸人を蹴散らすのにピッタリ。

だが、隅々まで読むのは時間がかかる。独学する人は何らかの「学びたいこと」を抱えており、それにまつわる様々な問題を解決したいが故に本書を手にするのだから、全読している時間が惜しいかもしれぬ。

そんな人のために本書の使い方を紹介するとともに、『独学大全』が、私をどのように変えたか、さらに、どのように使っていくかを書く。

  1. 『独学大全』で最初に読むところ
  2. 『独学大全』でどう変わるか
  3. 『独学大全』をこう使う

1. 『独学大全』で最初に読むところ

もちろん始めから読むのが一番だが、てっとり早く掴みたい、という方のために、p.33~39に「本書の構成と取説」がある。この6ページを読むだけで使い方が分かる……のだが、もっと切実な悩みを抱えている方もいるかもしれぬ。

  • どうやって調べればいいか分からない
  • 読むのが苦手
  • すぐ挫折して続かない
  • なんで学ぶのか分からなくなった
  • 頭が悪い ……等々

そんな具体的な悩みごとは、巻末の「独学困りごと索引」からダイレクトに引ける。

たとえば、私自身、自分の頭の悪さに腹が立つことがある。いくら読んでも分からなくて、もんもんとするか、開き直って飛ばしていたが、技法15「会読」が良いとある。要するに一冊の本をみんなで読むことだ。ゼミの輪読でおなじみだが、頭のいい人に巡り合える可能性は大いにある。

本書ではさらに踏み込んでくる。解釈が割れているところだったり、決着がつかない議論だったりする可能性もあるという。そこで、「分からないのは自分だけではない」ことを知ることが大事なんだという。

大事なのは「分からない」を自分で抱えるのではなく、表明することで外部に出す。極端な話、「みんな」がいなくったっても、一人でも会読できるとまで言う。一人で読んでレジュメを作り、「分からない」をまとめ、ネットに公開する。

誰か分からないけれど、誰かが見ているかもしれない事実が、継続を支えるという。この動機付けは強力で、「同じ書を読む人は遠くにいる」という言葉で伝えてくれる。わたしがブログを書き続ける理由も、まさにこれ。

2. 『独学大全』でどう変わるか

この「外部に出す」ことの重要性は、様々な形を変え紹介される。

たとえば、技法13「コミットメントレター」

今週の学習予定を書き出して、家族や友人に渡す。受け取った人がチェックする必要はないが、それだけで強い動機付けになるという。なんならSNSに公開してもいい。自分との約束は破りやすいが、それを見せることで、社会的な縛めにするするというのだ。

あるいは、技法12「ラーニングログ」

何をどれだけ学ぶかの目標を決め、それに向けてどれだけ進んだかを記録する。ページ数や章・節、学習単元という積み重ねを、手帳やクラウド上に、一覧できる形で記録する。そして、記録を見返すことで、目標と現在位置を把握せよというのだ。

なぜ外部に出すのか? それは、人は弱いからだ。

人間は弱い。すぐ三日坊主になる。「やらない理由」を見つけ出すのが上手い。他の方法に目移りする。おそらく、読書猿さん自身が、自分の意志の弱さを思い知り、それを何とかするために足掻いてきたのだろう(ご自身の生々しい記録が載っている)。

やろうとしていること、やってきたことを外に出す。「自分との約束」を誰かの視線にさらすことで、自分を律する。コミットメントレターとラーニングログは、実践していこう。ブログ+SNS+会読で、外に出すことを意識する。

3. 『独学大全』をこう使う

外に出すことは、「外部足場」というキーワードでも強調される。

ひと一人の頭のリソースは限られている。膨大な文献を取りまわすためには容量が足りない。だから、自分の中だけで完結するのではなく、自分の外側に考えるための足がかりを作る―――それが外部足場だ。

「外部足場」も、数多くの技法が紹介されているが、わたしは、技法28・29の「目次・引用マトリクス」を実践するぞ(宣言)。

目次・引用マトリクスとは、多くの文献・資料から情報を抽出し、整合的に結び合わせるため一覧表だ。具体的な方法は、本書の第10章か、[複数の文献を一望化し横断的読みを実装するコンテンツ・マトリクスという方法]が参考になる。

わたしは今まで、一つのテーマにつき、一つの文献を、一つずつ読んでいく方法だった。ある文献で引用される書名や、何度も目にする著者名は、次に読む一冊とはなりうるが、それもシーケンシャルなものだ。

しかし、文献はスタンドアローンではないという。

一冊の書物は、他の数多くの書物と、参照関係や影響関係を介して結びあわされているという。そうした文献同士を結ぶつながりを突き合わせ、縒り合わせる読書をしろと説く。ただし、それを頭の中だけでやろうとするのは骨なので、文献群を一望化するのだ。これは、実践するだけでなく、外に出す。

わたしが実践したいのは、認知科学の分野だ。人はどのように世界を認識し、それを知として受け継いでいるか。それは一般化(AIで代替)できるのかに興味がある。

では、この分野で外部足場を作るために適切なものは?

これまた沢山の技法やアプローチが紹介されているが、技法25「独学者最強の武器としての教科書」からやってみる。『有斐閣アルマ』シリーズが概要から専門までカバーされているとある(有斐閣アルマの『認知心理学』を買った)。さらに「教科書の使い方」まで懇切丁寧に紹介されているが、そこから「入門書として使う」「書誌として使う」を実践する。

―――こんな感じで、自分の「学びたいこと」を取っ掛かりに、様々な技法をピックアップしていく。効率よく進める技法を探しても良いし、スランプや迷った時に引いても良い。「そもそも何をすればよいか分からない」「何が分からないかが分からない」といったメタな悩みまでカバーしている。

あなたが何かを、学びたい、学ぼうとしているのであれば、具体的に何をすれば良いのか、どうすれば続けられるのかを、指し示してくれる。羅針盤のような一冊。

 

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物語のタネ本:ジョーゼフ・キャンベル『神話と女神』

『スター・ウォーズ』の物語構造は、ジョーゼフ・キャンベルの英雄伝説を元にしていることは有名だが、本書は、その女神版だ。つまり、『千の顔をもつ英雄』が古今東西の英雄譚から人の普遍的欲求を炙り出したことを、女神でやったのが『女神と神話』である。

『千の顔をもつ英雄』は、神話・伝承に共通する基本構造として、このダイアグラムが紹介される。いわゆる「行きて帰りし物語」やね。この構造は、時代や地域を超えた恒常性を持ち、それはすなわち、人の最深層に秘められた記録だという。

『千の顔をもつ英雄』第一部 第四章「鍵」より

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いっぽう、『神話と女神』では、「女神・男神」の対比構造で紹介する。遺物やシンボルから導かれる「農耕民の女神:遊牧民の男神」という歴史から、「産む女神:殺す男神」という視点をつくり、これに沿った形で神話・伝承を紹介していく。

この比較構造から、物語のシナリオについてのヒントや、本能に近い欲求を揺さぶるエピソードを、大量に摂取できる。いわばクリエイターの種本やね。

  • マリア・ギンブタスの新石器時代の古ヨーロッパ研究における女神
  • シュメールやエジプトの神話に登場する女神
  • ホメーロスの叙事詩『オデュッセイア』のエレウシスの秘義
  • 中世のアーサー王伝説
  • ルネサンス期の新プラトン主義に登場する女神

紹介される主な女神は上の通りだが、そこから派生して様々な神話が飛び出てくる(この”脱線”が面白すぎる)。シヴァやアマテラスといった有名どころや、非女神としての聖母マリア、ハイヌウェレ伝説など、それだけで物語を広げていくことだってできそうだ。

お尻から宝物をひり出す女神

たとえば、ハイヌウェレという少女の伝説。

彼女が大便をすると、出てくるのはウンコではなく、宝物が排出される。村人たちは気味悪がって、迷宮に誘いこんで踏み殺し、埋めてしまう。ところが、彼女の死体から様々な種類の芋や穀物が育ち、人々の主食になったという話だ。

これは、赤坂憲雄『性食考』[ハイヌウェレ型神話]で目にした物語の原型なのだが、キャンベルはそこからさらに探求を進め、キリスト教に結び付ける。

死は生の終わりではなく、死体は神格だという。そこから育った植物を食べる事で、わたしたちは神を食べていることになる。これがやがて、イエスの聖体の秘跡「これがわたしの体であり、これがわたしの血である」に引き継がれてゆくというのだ。

セックスの快楽は、男と女と、どちらが大きいか

あるいは、性の快楽は、男と女でどっちが大きいかについて。

痴話げんかの大御所であるゼウスとヘラで議論になり、互いに譲らなかったので、テイレシアスが呼ばれたという。なぜテイレシアスかというと、彼は昔、8年間だけ女だったからだ(この女体化のエピソードも滑稽なり)。呼ばれたテイレシアスは即答する。

「もちろん女です。9倍気持ちいい」

ここまでは、開高健のエッセイで知ってたが、続きがある。ヘラはこれを悪く取り、テイレシアスの目を見えなくさせてしまう。いっぽうゼウスは責任を感じてか、彼に予言の力を与える。

問題は、なぜヘラが気を悪くしたかである。

本書では、こう種明かしをしている―――女の方が気持ち良いことが分かってしまったからには、ゼウスに対して「あなたのために応じているのよ」と言えなくなってしまうから。

農耕民の女神・遊牧民の男神

本書は、こうしたエピソードを大量に紹介しつつ、女神をめぐる基本的な構造を明らかにしてゆく。それは、農耕民の神話では、女神と根源的に結びついているという。一方で、遊牧民の神話では、男神と結びついている。

女性の顕現として最も分かりやすいのは母なる大地になる。大地は命を産み、命を育む。ゆえに女性の力に通じるというのだ。

初期の狩猟採集の伝統では、食用の植物を採集するのは女であり、大型動物の狩猟は男が担う。そのため、男は殺すことに結びつき、女は命を生み出すことに結びつくというのである。

農耕民族、遊牧民族とキレイに分かれているわけではないが、どちらを主としているかによって、崇める神の性別が変わってくるという指摘は、たいへん興味深い。

神話学の第一人者による、女神の変容の歴史を探求する一冊。

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認知科学から見た、多くの人が論理的に考えない理由『類似と思考』

2つ問題がある。どちらの問題が、簡単だろうか?

問題は解いても解かなくてもいい。問われているのは、「どちらが簡単か」である。

問題1

ここに四枚のカードがある。

片面にはアルファベットが印刷されており、もう片面には数字が印刷されている。このカードは、「表が母音なら、裏は偶数」というルールに従って作られている。

いま、この四枚のカードが並べられている。これらが、前述のルールに従っているか調べるために、どのカードを裏返してみる必要があるか。

1枚目のカード  U
2枚目のカード  K
3枚目のカード  3
4枚目のカード  8

問題2

あなたは警察官だとする。

あなたは、無免許ドライバーを見つけようとしている。ある駐車場に行くと、車の近くに次の4人がいた。あなたは、どの人を調べるべきか。

1人目  車を運転しようとしている人
2人目  赤ちゃん
3人目  免許を持っている人
4人目  免許を持っていない人

この2つの問題は、本質的に同じだ。

しかし、もうお分かりのように、正答率は、圧倒的に2が高い。つまり、問題2が、(人間にとって)圧倒的に易しい。

問題1は論理学の「前件肯定」「後件否定」を使う。「PならばQ」のとき、「Pである」ならば「Qである」と導き、「Qでない」ならば「Pでない」と導く推論だ。「P=表が母音」、「Q=裏が偶数」を当てはめれば解ける。

問題2の「車を運転するなら、免許が必要」……このルールから、「車を運転する人」が、本当に免許を持っているかチェックする必要がある。また、「免許を持っていない人」は、車を運転していないよね、とチェックする必要がある。

面白いことに、問題1は、「前件肯定」「後件否定」を教えた直後であっても、正答率はたいして上らなかったという。一方、問題2は、論理学のルールを知らない人であっても、文脈から自然に解けてしまう。

人が推論するときは、論理学のルールを用いるのではなく、その文脈に沿って正解を導いているのではないか? と考えられる。

本当だろうか?

問題3

「刑務所に入るのであれば、犯罪を犯さなければならない」というルールが守られているか調べたい。次の4人の誰を調べるべきか。

1人目  刑務所に入っている人
2人目  赤ちゃん
3人目  犯罪を犯した人
4人目  犯罪を犯していない人

まず、1人目「刑務所に入っている人」が、犯罪を犯しているかを調べるのは分かる。

本当の問題はその次だ。

論理学で選ぶなら、4人目「犯罪を犯していない人」が、刑務所に入っていないかを調べるべきだろう。しかし、3人目を選んでしまう。つまり、「犯罪を犯した人」が、ちゃんと刑務所に入っている? と確認したくなる。どうやら、私たちは、文脈で正答に辿り着けるわけではないようだ。

これら3つの問題は、論理学的には同じだ。しかし、運転免許の話と刑務所の話は異なる。「車を運転する」はメリットだが、「刑務所に入る」はそうでない。「免許が必要」という条件は、メリットへの対価となっているが、「犯罪を犯す」は対価ではない。

つまり、問題の形式としては同じだが、何がメリットで、何が対価としてふさわしいかは、推論を行う人による。前提条件と行為さえあれば、自動的に正しい推論ができるというわけではないのだ。

人は、どのように思考しているのか

では、私たちは、どのように思考しているのか? これを認知科学の成果から深掘りしたのが、鈴木宏昭著『類似と思考』だ。

本書によると、私たちは、論理学的なルールを、個々の問題に当てはめて演繹的に解いているわけではない(むしろレアケース)。また、問題に行き当たる度に、メリットは本当に利得なのか、前提条件は対価として妥当かを、いちいち深く考えているわけではないという。

代わりに、過去の典型的なメリットー対価状況と、目の前の問題状況がどれほど似ているかを判断することで、面倒で、非現実的な処理をスキップしているというのだ。これにより、確率からするとあり得ない方に従ったり、文脈や状況だけから正しい判断を下したりする。

この、非常に人間くさい思考を「準抽象化による類推」として、その理論をまとめている。

「人の思考は、規則やルールに基づいておらず、類似を用いた思考(類推)を行っている」が本書の結論だが、そこへ至るまでに、文学や科学、政治やビジネスで行われる類推の事例を紹介している。さらに、他の理論と斬り結びながら自説をブラッシュアップしているところが面白い。

  • 多重制約理論:キース・ホリオーク、ポール・サガード
  • 構造写像理論:デドリー・ゲントナー
  • 概念メタファー説:ジョージ・レイコフ
  • p-prim理論:アンドレア・ディセッサ
  • 漸進的類推写像理論:マーク・キーン
  • Copycat:ダグラス・ホフスタッター

並べると、「人はどのように思考しているか」それは「一般化できるか(≒コンピュータに任せられるか)」さらに、「人がどのように世界を理解しているか」まで議論が拡張することになる。カーネマン『ファスト&スロー』やロスリング『ファクトフルネス』が好きなら、ハマることを請け合う。

「人はどのように思考しているか」について、現在の見取り図を与える一冊。

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「おいしい!」と感じるとき、何が起きているのか『味覚と嗜好のサイエンス』

「味」は信号だが、「おいしい」は経験だ。

味覚というものは、食べ物が体に入ってくる時に最初に感じるセンサーの役割になる。甘味はエネルギー源となる糖、塩味はミネラル、うま味はタンパク質、酸味や苦味は腐敗物の存在を感知する。

では、塩何パーセント、砂糖何グラムといった味覚が最適化されれば、自動的に「おいしい」になるわけではない。料理の見た目やにおい、口に入れたときの食感やのどごし、風味の全てで、わたしたちは味わう。

さらに、昔から食べ慣れているかも含め、いまの体感と過去に学習してきた記憶を総動員して、「おいしい」と感じる。ふだんの食生活で見過ごされがちだが、「おいしい」とは、結構複雑な結果なのだ。

本書は、この味覚と「おいしい」を手がかりに、食べるとは何かを探求したもの。

家系ラーメンがおいしい理由は、モルヒネと同じ

最も興味深かったのが、「油」の存在だ。料理に不可欠で、かつおいしくさせる油脂なのだが、実はこれは無味無臭。油脂の「味」というものは、塩味や酸味のような、古典的な意味での味覚ではないのだという(※1)。

ホント!? 家系ラーメンのスープに浮かぶ背油を、わたしは「おいしい」と感じるのだが、それは味じゃないのか……

「おいしい」と感じるメカニズムは、油脂に含まれる脂肪酸が神経を刺激し、脳内で快楽物質βエンドルフィンやドーパミンの放出を促しているのだという。モルヒネによる快楽と同じメカニズムが働いているのだ。

なぜ「コクがある」とおいしいのか

「コク」の話も興味深い。

わたしたちが「コクがある」という時、そこに何が含まれているか。フォアグラやウニ、生クリームやバター、イクラやアボカドの共通項として、油脂や糖やうま味が挙げられる。

そして、油脂や糖やうま味が示しているのは、高カロリー、タンパク質、糖分だ。生きる上で必須のアミノ酸や糖分を豊富に含み、効率的に摂取することができるのが、「コクがある」食べ物になる。なるほど!

本書はこれを「コクの原型」と呼び、その周囲に「コクの第二層」があるという。コクがある食べ物を口にし、そのにおいや食感、のどごしを学習し続けるうちに、コクを感じるようになるという。つまり、学習と洗練の結果、アミノ酸や糖分がなくても、その存在を感知させるだけでいいのだ。

たとえば、あんかけやとろみ、濃厚な香りは、コクのある素材を濃縮したことでもたらされ、コクを想起させる。これ、料理するとき、「調味料は足したくないけど、おいしそうにさせたい」技として、とろみちゃんを振るのだが、それに似ているかも。

食文化という適応

ハッとさせられたのが、「食文化の多様性は、人の代謝の適応性の賜物」というくだり。

ちょっと考えれば自明なのだが、生きるために必要な栄養素が全て、容易に満たされるような環境は、あまりない。気候や風土によって手に入る食材が異なる。人は、自らの代謝機能を駆使して、偏った食材から、必要な栄養素をつくりだすことで、生きてきたのだという。

たとえば、生野菜がない地域では、生肉や動物の内臓からビタミンを確保する。米国人が食べるステーキと、日本人が食べるご飯は、どちらも最終的に糖になる。代謝のおかげで、異なる地域で人は生きていける。

そして、その地域での食文化によって、好みが学習される。

食べ慣れたものを好ましく感じるのは、「食べたことがある」という味覚や風味は、食の安全の信号だからだという。親や家族が食べていたから、子どもも食べる。これが繰り返されて、嗜好ができあがるのだという。

たとえば、日本では海苔が好まれるが、慣れない米国人にとっては、「食べ物とは思えない」といわれる。日本の場合、周辺を海に囲まれ海苔が作りやすかったことと、海苔を食べる習慣が古くから伝わっていたことで、必要な栄養素を海苔に頼る文化になった。一方米国では、海苔の風味が栄養や食習慣と結びつかなかった。「おいしい」は学習なのだ。

よく、グルメ漫画で、美食を尽くした成金を黙らせるために、その人が幼少の頃に食べていた料理・食材を出すというエピソードがあるが、ノスタルジーだけではなく、安心感もあったのかもしれぬ。

ふだんの毎日で、見過ごされがちな「食べる」について、より注意深くなれる一冊。ふろむださん、ご紹介ありがとうございました。

※1 2018年の研究では、脂肪酸に発現する味細胞が、マウス実験によって示されている(油脂の志向性のメカニズムに関する研究[PDF])。また、「第六の味覚 脂肪味」として、2019年にNHKクローズアップ現代で放送されている(あなたは“脂肪味”を感じますか?[URL]




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やりたいことは全部やる『キミオアライブ』

Kimioa

病院のベッドで、ひたすらノートに書く少年。

大病を患い、未来に絶望しかない状況で、「やりたいこと」を書き続ける。リストには、たくさんの「夢」が並んでいる。

  • リコーダーを吹きたい
  • 風船の中に入ってみたい
  • 自分で考えた物語を本にしたい
  • 部屋中を使ってピタゴラ装置をつくりたい
  • 空を飛びたい
    ………………

ささやかな願いから、とんでもない冒険まで、さまざまな夢がある。

あなたは、こんな「やりたいこと」リストを作ったことがあるだろうか?

わたしはある。むかし「夢ノート」が流行ったとき、やりたいこと、行きたいところ、食べたいものなどを綴った覚えがある。リストを作り、名前を付けて保存した。それから十年にもなる。

しかし、少年は違う。名前はキミオ、『キミオアライブ』の主人公だ。

  1. ノートに、やりたいことを書く
  2. 書いたことは、必ず実行する
  3. 実行したら線を引く

キミオは、律儀に、真面目に、一つ一つ、実行していく。

「リコーダーを吹く」は簡単にできるが、ピタゴラ装置はちょっと大変かも。さらに、「空を飛ぶ」のはもっと難しい。飛行機に乗ればいいのか? あるいは、[ジェットマン][ウイングスーツ] みたく、命をカネをかけて飛ぶのか? 

できない理由ではなく、できる方法を探す

しかし、キミオは違う。別の方法で「空を飛びたい」を実現する。

ここが、キミオとわたしの大きな違いだ。

わたしは、「やりたいこと」が浮かんだとき、まず、その「できない理由」を探し始める。お金が無いから、もっと時間があったなら、スキルが足りない、仲間が必要、そもそも法律で許されているの? なんて考えてるうち、名前を付けて保存したくなる。

一方、キミオはこう考える。「もしそれを実現できるなら、どんなやり方がある?」と考える。あるいは、「何が実現されたなら、『できた!』になる?」と考える。そして、できる方法を探し始めるのだ。

やりたいことで、生きていく

この発想力と企画力、そして実行力がすごい。

最初は呆れて馬鹿にしていた周囲の人も、だんだんとキミオに巻き込まれてゆく。

その一方で、キミオ自身も、自分のためだけではなく、仲間と一緒に企画して、知恵を出して実現する喜びを知る。さらに、「あの人の笑顔が見たい」という新たな「やりたいこと」を見出す。

そして、この喜び、楽しさ伝える、動画配信という方法があることを知る。動画配信は、「やりたいことで、生きていく」ための強力な武器になりえる。

後に、チャンネル登録数1000万人を超える youtuber となるのだが、それはまた別のお話らしい……

今をやり直す

『キミオアライブ』の第一話を読んだとき、以下を初めて読んだときと同じ衝撃を受けた。

きっとお前は、二十年、せめて十年でいいから、

戻って人生をやり直したいと思っているのだろう。

今やり直せよ、未来を。

十年後か、二十年後か、五十年後から戻ってきたんだよ、今。

第一話は、『キミオアライブ』 から読める。

第一巻は、コロナで書店が閉まっていた時期に発売され、気づかなかった。読書猿さんが呟いてくれたおかげで、知ることができた。読書猿さんありがとう! おかげで、「やりたいこと」をやらなかった十年後から、今に戻ってくることができた。

人生の持ち時間は少ない。やりたいことは、全部やろう。


 

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「いまを生きる」に自覚的になる『瞬間を生きる哲学』

tumblr で知った仏陀の言葉が好きだ。

 過去にとらわれるな
 未来を夢見るな
 いま、この瞬間に集中しろ

 Do not dwell in the past,
 Do not dream of the future,
 Concentrate the mind on the present moment.

そう、わたしは過去や未来ばかり見る。やったことを後悔し、不確かなことを心配する。ああすれば良かったと憤慨し、こうなったらダメだと心を痛める。

この、今を後回しにする生き方を批判し、「いま」「ここ」に充足する方法を考察したのが『瞬間を生きる哲学』だ。哲学や芸術から援用し、瞬間を生きるための具体的な技術を指し示す。

生のユーティリティ化

たとえば、今を後回しにして、「何かのため」に生きる生き方を、「生のユーティリティ化」と喝破したところがすごい。ユーティリティとは、「有用性」「効用」と訳され、何らかの役に立つということ。何の役に立つというのか?

それは、入試のためとか就職のため、あるいは家族のためとか老後のため。安定した幸せな人生のため、明日や来年、場合によっては死後に設定された目標に役立たせるために、「いま」を立て続けに収奪する。

つまり、アリとキリギリスの教訓を内面化し、将来のために、いま努力する社会だ。「いつか」「どこか」のために、今を最適化する。わたしは、今を生きることしかできない。それにもかかわらず、「いま」「ここ」以外に、何かの目的や価値があると思い、そのために生きようとしてしまう。

「いまを生きる」技術

では、どうしたら「いまを生きる」ことができるのか?生を生として瞬間をじっくりと味わう―――そもそもそんなことが可能なのか?

こうした疑問に対し、プルースト文学やフロー体験、赤塚不二夫「これでいいのだ」や、サルガドの報道写真、イスラーム哲学やサティ瞑想など、様々なアプローチから「いま」「ここ」に迫る。

特に面白いのは、リアリティ炙り出し装置としての芸術のところ。漫然と過ごしてきた瞬間の一つを切り取り、それに光を当て、生々しく浮かび上げるのは、芸術の役割だという。プルースト『失われた時を求めて』の、紅茶に浸したマドレーヌが象徴的だ。

たしかに「そのとき」そこに居たはずなのに、「いま」「ここ」として実感を持って生きられなかった―――そんな瞬間が蓄積したのが過去だという。そうした中から、なにかのはずみで、思いがけず、現に生きられた時間として襲来してくる。これを、現実の再創造と呼ぶという。

記憶の彼方から圧倒的なリアリティをもって迫ってくる感覚は、確かにある。マドレーヌではないが、味や香りがトリガーとなって、それを食べた昔をありありと思い出すことはある。

いまを生きるものは永遠を生きる

では、過去を想起する形でしか「いまを生きる」ことはできないのか? 本書ではチクセントミハイのフロー体験を元に、今現在「いまを生きる」方法を紹介する。

いわゆる「時を忘れる」ことだ。何か好きなものに夢中になって、気づいたらえらい時間が経っていた……なんてことはないだろうか?

たとえば、物語に夢中になったり、音楽と一体化したり、仕事に没頭するような体験だ。行動へのフィードバックが即座に返る全能感と、行動と思考と感覚が一体化した多幸感で、時間ばかりか我を忘れるような活動だ。無我夢中で愛し合うこともそうだろうし、スポーツだと、「ゾーンに入る(being in zone)」と表現される。

この感覚はある。わたしの場合、いまがそうで、こうやって記憶をまさぐり、体験と照らしながら文章を書くとき、溢れる脳汁を感じる。あるいは、最初の中ジョッキを傾けるとき、SEKIROのラスボスを倒すとき、「生きてる!」と触れるくらい感じることができる。

このとき、人は永遠を生きるという。

この世、この生を大肯定し、死すら圧倒するほど生が露出する瞬間だというのだ。ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』にある、「現在に生きる者は永遠を生きる」という言葉と、アウグスティヌスやトルストイが言った「過去や未来なんて存在せず、ただ現在だけがある」が、重ね合わさるところ。

えいえんはあるよ、ここにあるよ

この「永遠」は、無限に遠い未来という時間的な意味ではない。

過去や未来のない無時間を指すと考える。ずっと「いま」なら死も無い(なぜなら、死は「いま」として体験できない、生の外側の存在だから)。『ONE』のラストの「えいえんはあるよ、ここにあるよ」にある、時間の無い「いま」である。

どんな未来になるのか不透明な状況で、どうしたら不安から逃れ、いまを生きることができるか? おそらく、わたしがやってはいけないのは、「テレビやネットを見る」だろう。未来が不確定であることを改めて確認し、不安を強化するか、ガセやデマに翻弄されるだろうから。

代わりに、「いま」「ここ」を充足させよう。読むこと、食べること、表現することに集中しよう。そして何より―――『失われた時を求めて』に取り掛からなくちゃ。

Shunkan

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