生きるための保険『私の生きた証はどこにあるのか』

 自殺した人が遺す言葉は、「死にたい」というよりも「生きたくない」が多いと聞く。

 死にたい理由が100あっても、生きる理由が1つでもあれば生きる。何のために生きるのか分からなくなったら、たった一つの死にたい理由に背中を押されてしまうのか。そんな背中に、アンパンマンのマーチは深々と刺さる。

何のために生まれて
何をして生きるのか
答えられないなんて
そんなのは嫌だ

 そんなとき、生きる理由を探すのは危険だ。なぜなら、自分にとって目標としてたもの、夢、愛する人や何かを一つ一つ思い浮かべても、一つ一つ消していくだろうから。生きる理由「だったもの」を拾い上げては捨ててゆく、そんな悲しい作業となるだろうから。

 だから、そんなときは、いきなり解答を見よう。『私の生きた証はどこにあるのか』に書いてある。しかも、最初の章にまとめてある。

 ほら、難しい数学の問題を解くことを考えてみよう。うんうん悩んで試行錯誤して「解」に到達することも尊いが、まずは解答と解説を見てしまって、自分のチカラで解けるかどうかを逆算するのだ。制限時間が限られているときほど、効率がいい(特に、死にたくなったとき)。

 何のために生きるのか? 富か、友か、知恵か、名誉か、妻子か。答えのエッセンスは、聖書の中の最も変わった聖書と言われている「コヘレトの書」にある。ここだ。

「さあ、喜んであなたのパンを食べ、気持ちよくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れてくださる。……太陽の下、与えられた空しい人生の日々、愛する妻と共に楽しく生きるがよい。……何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。いつかは行かなければならないあの陰府(よみ)には、仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ」
コヘレトの言葉 9章7-10節

 序章のここを読んだとき、正直、分からなかった。これがどうして「生きる意味」になるのか。本書はこの解答の「解説」だといっていい。コヘレトの言葉にまつわる物語や、同じ悩みに苦しみ乗り越えた古今東西の人々のエピソードを紹介しながら、著者は、この疑問に一冊かけて答えてくれる。

 たとえば、オスカー・ワイルドの言葉を紹介する。

「この世には、二つの悲劇がある。
一つは人が望むものを手に入れられない悲劇である。
もう一つはそれを手に入れた悲劇である」

 成功することにどれほど頑張ったにせよ、成功が私たちを満足させることはないという。ペシミスティックな、ともすると無常観を漂わせながら、幸福の追求は間違った目標だと説く。何が幸せかを他人任せにすると、誰かが定義した「幸せ」を、一生涯かけて追い続けることになると警告する。

 幸せは蝶のようなもので、追いかければ追いかけるほど、遠ざかり隠れてしまうという。追いかけることをやめ、虫取り網を捨て、満足できる人生とは何かという大きな答えではなく、ささやかな多くの答えを大切にせよと説く。

 あるいは、ノーベルの死亡記事のエピソードを紹介する。

 アルフレッド・ノーベルは、生きているときに自分の死亡記事を読むという、めずらしい経験をする。ノーベルの兄が死んだにもかかわらず、新聞記者が間違えて、アルフレッドの死亡記事を掲載してしまったのだ。そこでは、ノーベルは、戦争を効率化するダイナマイトを発明したことで巨万の富を築いた人物と描かれていた。

 自分が死と破壊の商人として記憶されることに衝撃を受けたノーベルは、自分の財産を元手にして、賞を設立することにした。物理学、化学、生理学・医学、文学、平和という分野で、顕著な功績を残した人物に贈られる賞である。いまや彼は、大量破壊・殺人兵器で大金持ちになった人ではなく、設立した賞ゆえに記憶されている。

 もっとも印象深かったものは、「コヘレトの言葉」の物語だった。

 著者は、富、名声、ハーレムの美女などすべてを持っていた。充分な教養を持ち、人生に取り組んでいた。生きる意味を追い求め、長い年月をかけて探し求めたが、「○○○を手に入れることで人生の諸問題を一挙に解決する」その○○○を見つけることはできなかった。代わりに、一つの大きな解答を見つけようとしても無駄だということに気づいたという。人生は瞬間の連続であり、その一つ一つを精一杯生きることが幸せになるということなのだ。

人生を、見返りや喜びを探し求めるための時間であると考えていると、生きていることが何を意味するのかを完全に誤解してしまいます。躍起になって欲求不満をつのらせながら、人生を価値あるものにするであろう成功や見返りを日々、年々くまなく探し求めることは、明らかな答えを見逃し続けていたようなものです。自分がいかに生きるべきかを学ぶことができれば、人生そのものが見返りとなるのです。

 そして、「人生は、私に何を用意してくれるのか?」と問うのをやめて、「私は人生で何をするのか?」と問いはじめよと言う。逆だったんだね。人生から何か価値を受け取るつもりで生きるのではなく、人生に何か価値あるものを渡せるか? という姿勢で今を生きよというのだね。

 人生を微分すると今になる。今の、一つ一つの瞬間こそ人生なのだ。これは、そんな人生の保険となる。文字通り、生きるための保険だ(世にある「生命保険」は定義上「死亡保険」である)。著者は『なぜ私だけが苦しむのか』のクシュナーだ。こちらは、人生を二分するような酷い運命に苛まれるときに、思い出してほしい。

 『私の生きた証はどこにあるのか』『なぜ私だけが苦しむのか』は、タイトルだけでも覚えておきたい。「死にたい」というよりも「生きたくない」ときに、思い出すために。

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物語は、騙られるときにのみ存在する『不在の騎士』

 これは面白かった!

 中世の騎士道物語のフォーマットに則りつつ、ユーモアたっぷり、ちょっぴりエッチ、ハラハラドキドキさせられる。わずか200ページの中で、読み手を大いに笑わせ、泣かせ、驚かせながら、「存在するとはどういうことか?」という物語的実在論ともいうべき深い問いまで突きつけてくる。

 主人公は、白銀に輝く甲冑を身にまとったアジルールフォ。剣は一流、勇猛果敢、教養深く弁も立つ。15年前、とある淑女を悪漢から救い出して以来、数々の武功を立ててきた騎士の中の騎士である。ただし、鎧の中は空っぽだ。肉体を持たず、意思の力だけで存在する「不在の騎士」は存在するのか。

 そこで、おっさん世代なら『銀河鉄道999』の車掌さん、若い人なら『鋼の錬金術師』のアルフォンス・エルリックを思い浮かべるかもしれぬ。面白いことに、それ、正解なのだ。

 車掌さんが制服の下が空っぽなのを告げるのは、「車掌」という役割がもう必要とされなくなる物語のラストになる。また、アルフォンスが鎧を必要としなくなるのは、「肉体を取り戻すための」エルリック兄弟の冒険が終わるときだ。

 その役割や目的が(失われたり達成されることで)なくなると、それを担っていた制服や鎧が、なかったことにされる。言い換えるなら、その役割や目的といった"存在意義"のために、外殻が必要とされるのだ。

 では、最初から肉体を持たず、"存在意義"だけで存在する「不在の騎士」はどうだろう? 王に仕え、貴婦人に献身する、騎士道精神を具現化した存在で、自分が何者であるかを充分にわきまえている。その最初の武勲「15年前に救い出した処女」の処女性が疑われ、騎士の資格を問われることになる。かくして自分の存在意義の証を立てるべく遍歴の旅に出る。

 その旅は、ドン・キホーテやオイディプス王、ミュンヒハウゼン男爵の冒険を彷彿とさせつつ濃密に(なにしろページが足りない)"巻き"で進行する。漫然と物語に身を任せても楽しめるのだが、そこに仕込まれた寓意に気付くと地雷だらけになっていることが分かり愕然とする。

 即ち、「物語は、語られるときにのみ存在する」という事実だ。これは、自分の武勇伝を誇張して吹く武人たちや、この「"不在の騎士"という物語」を語る修道尼のエピソードに埋設されている。フィクションをフィクションたらしめているのは、それを語る人が「お話」として扱っているから。

 その語り手の次元は、語られたフィクションからすると"ノン"フィクションになる。語り手が物語りを「騙る」のは、武勇を大きく見せたいとか、修行の一環であるといった動機が必要だ。

 騙る動機が(失われたり達成されることで)なくなると、それを担っていた物語が、なかったことにされる。言い換えるなら、その動機のために、外殻すなわち物語が必要とされるのだ。メタフィクショナルな展開に驚きつつも、この物語における「不在」の二重性に舌を巻く。これは凄い

 著者は文学の魔術師イタロ・カルヴィーノ。架空の都市の見聞録を描いた『見えない都市』に触れたときも、銀河鉄道999とつなげて読んだ→[『見えない都市』と銀河鉄道999]

 物語は、騙られるときにのみ存在する。メタで濃密で極上の物騙りをどうぞ。

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形が進化するとはどういうことか『形態学』

 「動物の形が進化するとはどういうことか」という問題に取り組んだ生物学の歴史を振り返りながら、形態学を体系的に説明してゆく。面白いのは、形態学の歴史に、体の構造と形に対する観念の変遷が垣間見えるところ。

1. どのようにそんな形になってきたのか(仕組みの問題)
2. なぜそのような形になっているのか(意味の問題)

 「どうしてそうなっているのか」という問いかけには、二つの問題が潜んでいる。1.の仕組みやメカニズムを問う、"how"と、2.の理由や意味を問う"why"である。科学者は、観察や実験を経て1.を分析するとともに、一貫性のあるストーリーで2.を説明づけようとする。

 "how"の答えと"why"の答えの間に恣意性や当時の観念が入り込み、話をややこしくする。分けて考えることで議論はシンプルになるにもかかわらず、"why" に答えたい欲望が科学を推進させる。科学の見方にキリスト教的な観念が入り混じる。そこが面白い。

 たとえば、「個体発生は系統発生を繰り返す」ヘッケルの反復説が紹介される。胚の形が受精卵から成体の形へと複雑化することと、自然史における動物の複雑化との間に並行関係を見出したものだ。魚、カメ、鶏、ヒトの初期の胚の画像を並べた図を見たことがあるだろう。成体へのプロセスは、進化のプロセスを辿り直しているという主張だ。

 実例として、初期に形成される鰓裂は、哺乳類では使用されることなくすぐにふさがってしまうから、哺乳類が魚類を経て進化した証拠が挙げられる。


[Wikipedia:反復説]

 この画像は、当時観察されたことのないヒトの初期胚を、見てきたような体で描くだけでなく、意図的に単純化されたものだという。

 「下等な」動物から「高等な」動物へと並べる系列をつくると、それは個体発生過程のアナロジーになる。だが、「下等」「高等」といった評価は、人間の主観による不正確な概念でしかない。体の形は、その生物が適応してきた結果にすぎず、環境が変われば形が変わるのは当然であり、そこに上も下もない。

 そこで単純に進化を辿り直しているわけではなく、祖先において存在した前駆体をベースとして、それぞれの環境に合わせ、派生的な特徴が加わったり、二次的に変形・消失することによって適応しているというのだ。

 反復説のエビデンスとして挙げられる「哺乳類の発生初期の鰓裂」は、次のように解説される。エラが不要だからふさがるのではない。エラに分化する前の段階から、エラでないものに分化していく。具体的には、咽頭弓(鰓に分化する前段階である)から、顎、中耳、口蓋扁桃、胸腺、副甲状腺に分化する。

 これは、咽頭弓から発生する組織構造の多様化にもあてはまる。すなわち、顎口類(サメなど)の「顎」、陸上脊椎動物における音を伝える「耳小骨」、カメレオンやキツツキの長い舌の運動を支える「支持骨格」、エリマキトカゲが威嚇に用いる「エリ」などがそれにあたる。

 これらの器官は、水中での呼吸とは関係のない機能を果たしているが、その基本構造は、咽頭弓ができ、そこに神経堤細胞が流入し、さらには発現のスイッチを入れるホメオボックス遺伝子Dlxが発動し、そしてやっと動物ごとの独特の変形を加えることができるという。

 エリマキトカゲのエリを作り出しているのは、トカゲ独特の発生プログラムだが、それが働くためには、脊椎動物の基本的な咽頭弓の発生プロセスがまず遂行されなければならない。仮に発生中に咽頭弓ができなければ、高度な器官構造も発生できない。言い換えるなら、咽頭弓ができなくなるような変異は、淘汰を通じて消えてゆく。

 いまあるものをベースに、構造を使いまわし再利用してゆかざるを得ない。生きている体というのは、航海中のノイラートの船団のようだ。うまく行かないからといって陸に上げて一から作り直すわけにはいかない。進化のプロセスの中で、少しずつ改善してゆくしかないのである。

 発生も進化も、時間軸に沿って形態パターンが複雑化、組織化されてゆくプロセスであり、両者に平行性を見出すのは、自然な発想だという。だが、人を動物の上位に置く価値観が、仕組みの問題(どのようにそうなのか)を、意味の問題(なぜそうなのか)として応えようとしている動機が見える。

 ゲーテの観念論的形態学にも、同様の動機が透ける。ゲーテは、動物がとる様々な形に、「理想像」あるいは「原型」を当てはめようとしたが、プラトンのイデア論を生物学に適用したものだろう。

 観察者の思考に浮かび上がる「原型」というイメージは、理解のための良いアナロジーとはなるものの、何ら実体をともなったものではないという。事実上、それは動物や植物が発生の初期に成立させる、一次的な原基の配置や分節パターンのなす一般形態であり、最初のノイラートの船にすぎない。ここにも、仕組みの問題の背後に意味の問題が隠れている。

 形の後ろに意味がある。その意味を探すと、さらに面白く読める。

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メタファーから解く時間論『時間の言語学』

 時間とは何か? 言語学からの腑に落ちる解答。「時間」について思考の奥底で抱いていた認識が暴かれる一冊。

 アウグスティヌスは、この問題の本質を端的に語る。「時間とは何か。人に問われなければわかっているが、いざ問われると答えられない」。「時間論」といえば、これまで物理学や天文学、哲学や心理学、社会学からのアプローチがあった。それぞれの分野での見解はあるのだが、著者はこれに疑義を呈する。

 つまりこうだ。どの学問領域であれ、時間の「流れ」や「進行」を口にしながら、その方向を当然のように過去から未来へと想定している。ビックバンをはじめとして、時間の「矢」は未来へと向かっている―――ここから疑い始めている。そして、「時間とは何か」に直接答えるのではなく、「時間をどのようなものとして捉えているか」という観点から、時間の本質に迫る。

 著者はレトリックを専門とする言語学者。日本語と英語の豊富な事例を駆使しながら、時間に関する私たちの認識を炙り出す。その強力な武器は、メタファー(隠喩)になる。「AはB」というとき、A(未知の概念)をB(既知の概念)を通じ、その類似性に基づき理解しようとする。

 メタファーは、単なる言葉の飾りではなく、本質をどのように言換え・捉えているかを知る視点であり認識範囲なのだという。あたりまえのように使っているため気にも留めないが、それゆえに、思考回路を牛耳っているのがメタファーだというのだ。

 たとえば、「時は金」。これは、近代からの概念だという。1903年の小学校の教科書が初で、"Time is money"「時は金なり」という語呂のよさから成立した比喩であり、それが我々の思考回路を方向付けているというのだ。その究極の現れは「時間給」。すなわち、「働き」を成果や見返りではなく、時間で測るという考え方だ。

  • 時間を(お金のように)使う
  • 時間を(お金のように)浪費する
  • 時間を(お金のように)大切にする

 もちろん、時間は価値があるものだという点は大昔から変わらない。だが、それが「お金のようなもの」と刷り込まれることで弊害が出てくる。「人月」なんてまさにそれで、「お金で時間を買う」ことが可能だという考えが導かれる。妊婦を十人集めれば一ヶ月で赤ちゃんが出てくるわけではないのに、ソフトウェア業界だと本気でできると信じてる人がいるから驚きだ。正しくは「お金で買える時間もある」だが、「時は金」というメタファーは「時と金は交換できる」というバイアスを助長させる。

 意味と認識の仕組みであるメタファー思考に注意を促し、認識の偏りを炙り出す。本書は、様々な学問分野で当然のように使っている、時間の「流れ」そのものにバイアスが潜んでいると指摘する。時間は、「過去から未来に向かって流れてゆく」という表現が促す思考は、実は、錯覚だというのだ。

 この錯覚を明らかにするため、2つのキーワード「動く時間」と「動く自己」を提起する。

 「動く時間」とは、自分が留まっていて、未来が自分に向かってやってくるというイメージである。動く歩道の上に自分(=いま)が立っており、世界が通り過ぎてゆく感覚だ。この場合、過去は「以前」のものであり、未来は「以後」にやってくる。

  • 今後ともよろしくお願いします(今後=未来)
  • 以前の会議の議事録(以前=過去)
  • Spring has come(春が来た:春=冬の後に来る未来)
  • two years ago(2年前:2年もすっかり過ぎてしまって)「すっかり」を示す強意"a" + "go" の過去分詞 "gone"行ってしまった

 「動く自己」とは、自分が未来に向かって進んでゆくイメージである。過去は後ろにあり、未来は前に広がっている。世界はそのままそこにあり、それを認識する自分が、一瞬一瞬進み具合を更新してゆく感覚だ。この場合、過去は「後」にあり、未来は「前」に横たわっている。

  • 前途洋々(前に広がる=未来)
  • 昔を振り返る(振り返る後ろ=過去)
  • look back(過去を振り返る)
  • be going to (人を主語にして、決まっている予定をこれから行う=人から見た場合、未来は進む先になる)

 「動く時間」と「動く自己」、認識の仕方によって時間の向きが逆になる。両者を時間が過去から未来に向かって流れるという発想は、この「動く時間」と「動く自己」を混同しているところから生じる錯覚だというのだ。

 認識の仕方によって振る舞いを変える。このメタファー思考は非常に面白い。ただ、他の分野、例えば物理学で扱われる「時間」が錯覚だという主張は頷けない。

 自然科学での時間概念は、パラメータや物理量の一つとして扱われている[wikipedia:時間]。『時間とは何か (別冊ニュートン)』によると、時間の進む「向き」は問題として扱われていない。「過去から未来へ」といった表現は、あくまで一般向けに説明するための言い方であり、物理学そのものとしてはどちらでもよいというのだ。

 たとえば、ニュートン力学における時間の「向き」について、こんな思考実験が紹介されている。太陽系外で見つかった、未知の惑星の公転運動の記録フィルムがある。フィルムをある方向に再生すると、惑星の軌跡は右回りになる。フィルムを逆に再生すると、左回りになるが、どちらの映像も不自然さはない。

 これは、惑星の公転運動を支配するニュートン力学が、時間の向きを区別しないためにおきる現象になる。そして、ニュートン力学に限らず、マクスウェル電磁気学、アインシュタイン相対性理論、量子論はいずれも、時間の「向き」を区別しないというのだ。

 時間の「向き」が生じるのはこうした物理学を私たちに説明する際のメタファーに潜む。ここに着目すると、ジュリアン・ハーバーの見解が紹介されている。そのメタファーが面白くなってくる。

 曰く、時間とは量子論であらわされる宇宙の中にいる存在が経験する錯覚であり、物理学では創発的(emergence)な存在だという。創発的とは、本質的(fundamental)な何かから生み出されたものだという考え方である。

 たとえば、「温度」は創発的な性質を持っている。温度そのものは本質的なものではなく、分子と分子間の相互作用の結果、「温度」という概念が創発的に生まれてくる。

 一つ一つの分子の運動量は測定できないが、その統計値を我々は便宜上「温度」と呼ぶ。温度は、それを受け取る主体によって振る舞いを変える。体温計で測るならば、「(体温が)熱い」「熱が出た」というが、温度計で測るなら「暑い一日」になる。

 「熱い」は、熱源が主体の外側にあって、熱を受け取る感覚であり、焦点は熱源に当たっている。一方「暑い」は、熱源は主体の外側にあるものの、熱を感じている主体に焦点が当たっている。「温度」をどのようなものとして捉えているかによってメタファーが変わる。だが、それは創発的な概念を我々がどう表現するかという議論なのであり、ことさらその相違を強調しても詮無かろう。むしろ、その差異から、メタファー思考の偏りに気付くほうが、よほど面白い。

 言語学の時間論からメタファー思考を学ぶ一冊。

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文学の一つかみの砂金『文学理論講義』

 「なぜ学ぶのか?」に対する太宰治の回答が、なかなか素敵だ。

学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。
太宰治『正義と微笑』

 学問分野は様々だし、知はアップデートされる。だが、それでも残り続ける砂金というかエッセンスは必ずある。ネット検索に任せて学びを止めるのは、もったいないことだ。

 ピーター・バリー『文学理論講義』は、文学における一つかみの砂金に相当する。これは、文学に携わる人にとってのご褒美のような一冊で、文学理論のエッセンスがぎゅっと濃縮されている。これまでの教科書だったイーグルトン『文学とは何か』になり代わる、新しいスタンダードだといえる。

 あらゆる知と同じく、文学も守破離のプロセスを経る。すなわち、先達から学び、そこに疑いを抱き、独自の路を打ち立ててゆく。面白いのは、先達が踏んでいると批判したまさに同じ轍に後進が陥っているところ。理論は参照する/されるネットワークの中に浮かび上がるのであり、歴史や文化から独立した完全なる理論なんてものはない。文学におけるイデオロギーとして、理論が成り立っているのだ。

 まず、リベラル・ヒューマニズムが槍玉に挙げられる。「良い」文学作品とは、それが書かれた時代や文化の個別性を超え、人間性の普遍的な部分に語りかけてくる。「良い」文学作品は、一つの時代のためだけの作品ではなく、すべての時代のための作品、ニュースであり続けるニュースなのである―――なんてことは大嘘で幻想にすぎない、というところから理論は始まる。

 この伝統的な「良い」文学の前提を疑うことから、構造主義、脱構築、フェミニズム批評、新歴史主義、ポスコロ等が続々と繰り出される。その文学的イデオロギーが生まれた背景と、理論が乗り越えようとしたもの、そして実際にその理論に則った"読み"が解説される。

 だいたい、「良い」とは何か? 文学全集にある文学作品か? カノンとして長い時代を読み継がれているものか? それは、ある価値観に沿って高い評価を得たに過ぎず、その価値観は社会的・政治的な背景に依存している。

 それは、特定の人種・ジェンダー・階級の組合せの規範に「人間性」というラベルを貼って普遍性を醸しだしているだけなのだ。実際のところ、それはヨーロッパ中心主義で男性中心主義なものに他ならない(その例として、あえて女性作家ジェーン・オースティンの作品に潜む父権主義・帝国主義を炙り出すのが憎い!)。

 したがって、「人間性」という言葉で作品を偉大だと訴えかけることは、実際にはそこで語られていない―――女性や白人でない人々の集団を周辺化し、無視し、否定することになりかねない。あらゆる規範から独立した絶対的な価値観なんてないように、「偉大な」作品を絶対視することを疑ってかかる。文学を用いて前提となる常識を疑う。この姿勢、自分に潜むバイアスを抉り出されているようで面白い。

 典型的なのが、フェミニズム批評。男性主義に異を唱えるフェミニズム批評は、当時の風潮の後押しもあり、多大なる成功をおさめる。結果、「フェミニズム批評」という理論が制度化され、急進性を失う。その中でレズビアン研究者たちが自分の立場の急進性を主張し始める。

 つまりこうだ、フェミニズムは、人種や文化、セクシャリティの差異を考慮するのが難しくなり、「都市に住む白人」「中流階級」「異性愛」の女性のみ対象として普遍化する傾向が強まる。結果、「田舎住まい」「黒人」「同性愛」の声や経験は排除される。フェミニズムの中から、父権制度"もどき"を再生産しているという批判が現れる。そして、フェミニズムから袂を分かち、ゲイと手を携え「クィア理論」が生まれてくる。

 価値観の前提を疑う―――この姿勢自身もひとつの価値観なのだが、自らのバイアスを自覚しているのとしていないのとでは大いに違う。いるよね、勉強してきたことにしがみつき、それを金科玉条のごとく崇め奉り、それを脅かすものを蛇蝎の如く憎む輩。いわゆる「公式見解」こそが全てであり、他の解釈を聞き入れない―――すごくもったいない。

 作者の手から離れた作品を、どう料理するかは読み手に委ねられている。「作家の気持ち」なんてものは、いったんは考慮した読みをするものの、それだけに縛られて読むのは愚の骨頂なり。もっと自由に読んでいいのだ。

 たとえば、意味の多義性を求め、矛盾や対立、欠落を探す「木目に逆らって読む」方法が、ポスト構造主義の章で述べられる。テクストに逆らってテクストを読む。そこから得られる発見と喜びが、無上に素晴らしい。「俺の"読み"で合ってたんだ」と思う一方、その"読み"をひっくり返す理論に出会い、「いままで私は何を読んできたんだ!」と身もだえしたくなる。

 本書が優れているのは、それぞれの理論の"読み"をシミュレートしてくれているところ。ポー『楕円形の肖像』の全文が巻末にあり、それぞれの理論が、どう料理しているかが分かる。本文を読まずに、いったん自分の解釈をメモっておき、しかる後に理論へ踏み込んでいくと、自分の"読み"の傾向が浮かび上がってくるので楽しいかも(一方、もっと面白い"読み"に出会えるかも)。

 イデオロギーから離れ、テクニカルな手法を解説する「文体論」「物語論」も多くの発見があった。語りの手法で読み手の感情をコントロールするやり方が解説されている。ある文に接し、なぜあんな気分になるのか、どうしてこういう印象が得られるのか、手にとるように分かる。

 たとえば、ハーディの『テス』を俎上に、テスがいかにしてアレックに屈服するかは、テクストで描写されている内容だけでなくその形式にも現れるという。本書では、レイプシーンの文法構造それ自体によって示されているというのだ。アレックが肉体的・社会的な力を持っていることは、彼(または彼の属性)が文の主語になっていることが強調される。「彼は(主語)彼女に(目的語)触った」「彼の指は(主語)彼女のなかに(目的語)沈み込んだ」といったパターンをとることで分かる。

 あるいは、ミメーシスとディエゲーシスという語りの「モード」を例に、物語の焦点と緩急を解説する。ミメーシスは、「見せること、示すこと」であり、出来事がシーンとして具体的に再現され、直接見聞きしているような錯覚を与える。ディエゲーシスは、「告げること、述べること」であり、概観的あるいは要約的に語られ、必要な情報だけがかいつまんで伝えられる。

 語り手は、読者と登場人物の双方から何かを「隠す」。そいて、ミメーシスとディエゲーシスを使い分けながら、隠されたものを明らかにしてゆく。物語の本質は遅延(情報伝達を遅らせること)であり、良い小説を書くための秘訣は、「読者を笑わせ、泣かせ、かつ待たせる」ことだという。

 わたしが物語の何に心を動かされ、どのように「待たされ」ているかが、見えてくる。一種の種明かしを聞かされているようで、不安になるとともに、自分の「こころ」が透け見えて楽しい。

 これまで読んできた小説を通し、わたしの中に残っている「砂金」を確かめると共に、まだ手付かずの部分があることに気づき、嬉しくなる。

 文学は、楽しい。それは、バイアスを映す鏡であり、世界の見方を変える立ち位置であり、何よりも人生に隠された芳醇さを味わう舌だ。生きて読むことの喜びを、あらためて教えてくれる、得難い一冊。

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都心のジャングルで読書会

好きな本を持ちよって、まったり熱く語り合う。それがスゴ本オフ。今回は「美と変身」をテーマに、本やCDをお薦めしあった。

 いつもはラウンジやレンタルキッチンに本を持ちより、CDやyoutubeを流しながら、ビールや唐揚をつまみながらの、「読書会という名を借りた宴会」なのだが、今回は趣きが違う。

 それは、かなり不思議な場所だった。

03

 六本木のど真ん中なのに鬱蒼と木が茂るドーム状の空間で、「いつもと違う感」に満ちていた。ドームに音が反響し、相手の声を耳というより全身で聴く仕掛けになっている。目と耳と肌が非日常を訴えてくるのだが、不快ではなくむしろ癒される空間だった。

 実はここ、ポーラとメルセデス・ベンツが提供する「POLA TALKER'S TABLE」という、期間限定の特殊なイベントスペースなのだ。圧倒的な緑の中、ノンアルコールで(ここ重要)、いつものスゴ本オフをスタートする。

 わたしがお薦めするのは、ウンベルト・エーコ『醜の歴史』と『美の歴史』のセット。知の巨人が、古今東西の絵画・彫刻・映画・文学から「醜」「美」の基準で選び取り、それを種にして価値観の普遍性を探究する。

 『醜の歴史』と『美の歴史』を比べると、圧倒的に面白いのは『醜』になる。なぜなら、『美』は移ろいやすい一方、『醜』は絶対的だから。何をもって美人とするかは、時代や文化により異なる。だが美人の腐乱死体は普遍的に醜い。『美』は文化的背景の価値観を反映し、『醜』はその先にある「死」の概念をまとう。そしてもっと面白いのは、「死」と『醜』の境にエロスが潜んでいるところなのだ。[『醜の歴史』はスゴ本]にまとめたので、ご興味のある方はどうぞ。

01

 宝塚という断面で「美と変身」を鮮やかに斬ったのが、むろたさんお薦めの中山可穂『男役』。ヅカ版のオペラ座の怪人ともいえる話で、過去の悲運のトップスターと、若くして大抜擢され一流を目指す「男役」の栄枯と愛憎。面白かったのが、「宝塚の男役は、この世には存在しえない存在」であるという点。生物的には女であっても、容姿から振る舞いは男そのもの。しかも、理想かつ究極の「男」であって、けして男装した女ではない。

 「男役」はある意味、男でも女でもない性。そのカップルとなるのは、役の上では「娘役」となるが、本当に付き合いたいのは同じ男役だという。同著者の『娘役』を読むと、虚構の世界の生々しさを感じる。一方、宝塚の方法は、「さくら学院」などのアイドルグループのマーケティングと類似しているという指摘があり、生々しさに拍車がかかる。

02

 ハッとしたのが、chicaさんのこの一言「人そのものが、生きることが美しい」。美しい人も、綺麗な景色も、すべて移ろいゆく存在だ。では、はかない美は消えてしまうのかというと、そうではない。人生の中で美しいと感じるその人の中に美があるのであり、個人の生に投影されたものが美であるのなら、美とは人そのもの、生きることそのものになるのではないかという考えだ。

 chicaさん曰く、この考えは、内田洋子『カテリーナの旅支度 イタリア 二十の追想』で気づかされたという。ミラノやローマ、小さな田舎町で出会った、人々の生きざまと思いを描いた珠玉のエッセイは、日常に潜む普遍性が国や文化を超えて迫ってくる。これは旅先で読みたい。

 集まった本は次の通り。POLAさんのイベントレポートは[POLA talker's table ARCHIVE]をご覧くださいませ。ちょっと変わった場所で、少人数・ノンアルコールでするのもいいね。

『醜の歴史』ウンベルト・エーコ(東洋書林)
『美の歴史』ウンベルト・エーコ(東洋書林)
『美術の物語』エルンスト・ゴンブリッチ(ファイドン)
『カテリーナの旅支度 イタリア二十の追想』内田洋子(集英社文庫)
『EMBRYA』MAXWELL
『仮面ライダーカブト』(DVD)
『さくら学院 卒業』
『女王はかえらない』降田天(宝島社)
『わたくし率 イン歯ー、または世界』川上未映子(講談社文庫)
『ドラゴンボール』鳥山明(集英社)
『BEAUTIFUL PIGS ビューティフルピッグ』AndyCase
『レディ・レッスン』ケリー・ウィリアムズ・ブラウン
『ロンドンの佳き日』BELNE
『LIFE SHIFT 100年時代の人生戦略』リンダ・グラットン(東洋経済)
『大人のための残酷童話』倉橋由美子(新潮文庫)
『二流小説家』デイヴィッド・ゴードン(ハヤカワミステリ)
『男役』中山可穂(KADOKAWA)
『娘役』中山可穂(KADOKAWA)
『叶恭子の知のジュエリー12ヶ月』叶恭子(よりみちパン!セ)
『傾城の恋』張愛玲(平凡社)

 次回のスゴ本オフは、4/22(土)渋谷にて、「読まずに死んだらもったいない」というテーマでやります。ページを繰る手が止まらない徹夜小説から、世界の見方を一変させた凄いノンフィクションまで、これ読んでないなんて損だよーという作品をお薦めくださいませ。詳細・申込は、スゴ本オフ「読まずに死んだらもったいない」をどうぞ。

 また、シミルボン経由でお薦めいただく企画「本とワタシ」選手権も募集中。あなたがお薦めしたい「読まずに死んだらもったいない」作品への熱い思いをお伝えください。大賞5万円、奮ってどうぞ。

[シミルボン:「本とワタシ」選手権]


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「健康の不在」から健康を考える3冊

 失って初めて分かるもの、それは健康。

 風邪で苦しんでるとき、ひどい二日酔いのとき、健康のありがたみが身に沁る。そして、「もっと自分の身体を大事にしよう」と決意するのだが、喉もと過ぎればなんとやら、決意が続いた例なし。普段はあたりまえのように享受しているが、いずれ「あたりまえ」ではなくなるのに。

 また、「健康」は最重要なものであり、これに反したり外れたりするものはノーマルではない、という考えがある。確かに健康であることは大切だが、それを強要するのは違う気がする。「健康のためなら死んでもいい」というスローガンや、「健常者」という言葉に違和感を覚える。

 今回は、この手垢にまみれた「健康」に、疑いの目を向けてみよう。ずばり健康をテーマにした本は沢山あるが、ここでは、「健康の不在」をテーマに健康をあぶりだしてみよう。

 まず直球から。トルストイ『イワン・イリイチの死』を読めば、思わずわが身を抱きしめたくなる。はっきりした頭で考えることができ、自由にできる身体があるというだけで、どれだけありがたいことか、「生きていること」を愛おしく感じるに違いない。なぜならこれは、「健康が失われてゆくこと」のシミュレーターだから。

 成功人生を送ってきた男が病を得、どんどん悪化してゆく。家族の冷淡な様子や、ひとりぼっちで惨めな思い、そして、自分の人生がまったくの無駄であったことを徹底的に思い知らされるところは、あまりにも残酷だ。

 恐れ、拒絶、戦い、怒り、取引、抑うつ、そして受容といった典型的な(?)段階を経ながら、死と向かい合う心理的葛藤を容赦なく暴きたてる。死とは他人にだけ起きる事件だとタカくくっていた順番がまわってきたとき、どういう態度をとるのか。否が応でも「自分の番」を考えさせられる。ここなんて怖いぞ。

なぜ、何のためにこんな恐ろしい目にあうのか。だが、いくら考えても答えは見出せなかった。そしてよくあるように、なにもかも自分が間違った生き方をしてきたせいで生じたことなんだという考えが頭をよぎると、彼は即座に自分の人生の正しさをくまなく思い出して、その奇妙な考えを追い払うのだった。

 気楽・快適・上品といった、健康だった頃の価値尺度は、そのまま彼の人生の虚構を示している。他者との精神的なかかわりを避け、自分の人生を生きてこなかった彼が、死を自覚することで、ムリヤリ向き合わされる。そして、もう、とりかえしはつかない。

 ラストがどうなるかはタイトルで分かる。しかし、「健康が失われてゆく」過程をシミュレートした結果どうなるかは、読み手に委ねられている。ある意味、猛毒となる一冊。

 次は健康の戯画化。筒井康隆『最後の喫煙者』を読むと、健康ファシズムという言葉が浮かんでくる。健康な社会を求めて始まった反タバコ運動が、喫煙者への差別や排斥運動となってヒステリックに過激化していく。タバコと社会という断面で斬っており、(わざと?)コミカルに描いているから風刺的に読めるが、これ、かなり怖い話だね。

 「健康」は、一見、誰も反発したり疑義を唱えられない中立的な善のように見える。誰だって病や苦痛を避けたいもの。健康であるに越したことはない。どれだけお金を積んだって、健康はお金では買えない。もちろんその通りだ。

 しかし、誰も反対しないからこそ、この言葉を使えば、先入観を押し付けることができる。無条件に美徳だと認められるからこそ、そのレトリックに気づきにくい。『最後の喫煙者』は、タバコという分かりやすいレトリックだからこそ風刺になる。だが、現在進行中の健康にまつわる様々な政策やマーケティングに潜むレトリックは、「健康管理国家」というレッテルを貼られるまで、気づかれないままだろう。

 そして、「健康」のパラドクス。シッダールタ・ムカジー『病の皇帝「がん」に挑む』を読むと、「がん」をテーマにしたドキュメンタリーなのに、「健康とは何か」を再考させられることになる。

 本書は、人類とがんとの戦いの歴史なだけでなく、現場の医者たちの手記であり、沢山の患者の闘病記になっている。ウィルスや遺伝学からのアプローチ、古代から現代に至る医療技術の変遷を追う一方で、環境汚染の疫学論争を扱い、たばこ撲滅キャンペーンによる第三世界への「がんの輸出」といった今日的なテーマまで手広い。

 読み進めるにつれ増す違和感は、がんに対する姿勢だ。著者および本書に登場する医師たちは、がんとは闘う相手であり、殲滅すべき「敵」として扱っている。しかし、がん特定の探索過程を通して詳らかにされるその正体は、“わたしたち自身”なのだ。マイケル・ビショップの言葉を借りるならば、「われわれ自身のゆがんだバージョン」である。著者自身は、「生存能力を付与され、活動の亢進した、多産で創意に富む、われわれ自身の寄せ集めのコピー」だという。

 この姿勢は、救うべき患者自身を攻撃することにはならないだろうか。メス、薬、放射線による攻撃で、がんを取り除くためなら、患者を殺してしまってもかまわない。無慈悲で冷酷なまでの執拗さで、患者が副作用に耐えうる限界を押し広げていかなければならないという姿勢は、医学の未来を明るくとらえた無邪気の裏返しだ。そうした先人の積み重ねの跡に、いまが成り立っていることを思い知らされる。

 もちろんこれは過去の話で、今は改善の見込みと患者のQOL(生活の質)との兼ね合いの上で、治療方針が決められる。「健康でないもの」を排除することが医学の目的であるとすれば、その極端な姿はナチスのブーヘンヴァルト収容所の所長の言葉に端的に表れる。「うちの収容所に病人は一人もいない。健康な人と死人だけだ」。

 確かに健康は重要だ。だが、なんのために重要なのか、「健康の不在」から考え直すと、いろいろ炙り出されてくる。健康であることが「あたりまえ」なのか、健康が重要であることを「あたりまえ」だと考えるのかで、さらに炙り出されて面白い。

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生命の本質は「膜」である『生命の内と外』

 これは面白かった。生命の本質として「膜」に着目し、最新の細胞生物学の知見からその仕組みを解き明かす。

 「膜」の内側で自律性を保ちつつ、かつ、「膜」の外側と情報や分子を交換するメカニズムは、そのまま「生命とは何か」に対する一貫的した説明になる。その見事さに驚くと同時に、「私とは何か」をも考えさせる名著なり。

 まず、「生きている」最低条件として、外界から「閉じて」いることを挙げる。自己を囲む膜が、外部と内部を区別していなければ、生命としての安定性や自律性は保てないという。そして、「閉じて」いるからこそ、生命維持に関わる種々の化学反応(=代謝)を効率的に、合目的的に行うことができるというのだ。

 その一方で、「生きていく」ためには、外界から「開いて」いなければならない。代謝に必要な栄養物や酸素などの物質を取り込むため、さらには、不要となった廃棄物を排出するためには、外の環境に対して開いている必要がある。つまり、「生きている」とは、外部から「閉じつつ開く」という存在になる。そして、一見この相反する状態を実現しているのが「膜」だというのだ。

 たとえば、栄養素の摂取における膜の役割について。ヒトをトポロジー的に見るとドーナツ状になる。ドーナツの穴に相当するのが消化器官だ。要所に弁が存在するものの、胃や腸は「外部」になり、共生微生物のコロニーとなっている。そうした外部に対して「閉じ」つつ、グルコースなどの糖を通すため、グルコース・トランスポーターという膜透過のメカニズムがある。この機能は、膜の内外のナトリウムイオンの濃度の差を利用し、その流入エネルギーを拝借することで、グルコースだけを運び込む。

 あるいは、生成したタンパク質の取り込みについて。この凄さを伝えるためは、タンパク質の生成について触れねばならぬ。

 タンパク質は、階層構造をとる。ヒモ状の一次構造(ポリペプチド)から、それを折り曲げた構造をとり、さらにシート状ユニット構造をとることでそれぞれの役割を果たす。タンパク質は、DNAの遺伝コードの文字列に対応するアミノ酸をつなげていくことで生成されることは知っていた。しかし、これはあくまで一次構造にすぎず、これを折り曲げたり編み上げることで、「酸素と結びつきやすい」とか「水に馴染む部分と反発する部分をもつ」といった特性をもつことになる。

 しかし、折り曲げたり編み上げることで一定の大きさをもってしまうと、膜を通過することはできない。そのため、ヒモの状態で膜を通し、通った内側で構造化することで、「開く」範囲を最小限にする。しかも、ヒモを通す穴を開ける際、細胞膜は、一種のエアロックのようなメカニズムを持つ。分子内シャペロンという折り曲げ・編み上げを助けるタンパク質が、このエアロックの役割を果たすのだが、微小空間における「閉じつつ、開く」解説であるにもかかわらず、スペースシャトルのドッキングのようで楽しい。

 2016年のノーベル生理学・医学賞で話題になったオートファジーの理論も、「閉じつつ、開く」視点から説明されている。ヒトの一日の体内アミノ酸の出納は、次の通りだという。

 体内へ摂取する 70g
    ↓
 体内で合成する 180g
 体内で分解する 180g
    ↓
 体外へ排出する 70g

 つまりヒトは、食べたタンパク質の他にタンパク質を作り出している。このタンパク質の再利用は、いったん出来上がった(構造体をとる)タンパク質を分解する必要がある。この分解は、「体の外側で」なされている。

 いま、おかしなことを書いた。体内で起きていることなのに、「体の外側」というのはおかしい。タンパク質を分解するための空間を膜でつくりだし、その中で分解する(体内で分解したら、他の必要なタンパク質も分解されてしまうから)。つまり、オートファジーによる分解機構とは、餌となるタンパク質を「膜の中という"外部"」に持ち出して、そこで分解する装置だというのだ。タンパク質のリサイクル・システムは、この「体の中の外側」でなされている。

 この発想にはガツンとやられた。考えてみれば、体の中に外側を持つことで、「閉じつつ、開く」を実現している。消化器官や呼吸器官は、「体の中」であるにも関わらず、トポロジー的には外側だ。共進化により不可分の関係になっている共生微生物は、「体の外側」にある、生きるために必須の存在だ。そもそもミトコンドリアは細胞内にある「外からやってきた」小器官だといわれている。

 つまり、完全に「わたし」という閉じた存在があるのではなく、さまざまな「わたし以外」へ開かれつつ、それでいて統一性を保っている存在なのだ。

 生命を「膜」で考える好著として、ニック・レーン『生命、エネルギー、進化』がある。これは、「生きているとはどういうことか?」をエネルギーの観点から解き明かした名著である。レビューは[ニック・レーン『生命、エネルギー、進化』は難しかった]に書いたが、生命とは電動であり、そのエネルギーは膜を挟んだ電位差で生じる仕組みを明らかにしている。

 生命と環境を隔てている境界は極薄の膜であり、それは閉じつつ開くことで「生きている」を実現する。そのメカニズムは、知れば知るほど面白い。

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好きな本を熱く語った「本のフェス」

 「本のフェス」は、新しい本との遊び方を提案するイベントだ。小説のワークショップや読書芸人トークライブ、アイドルによる絵本の読み聞かせ、野外ライブなど、「本」について本気で遊ぶ文化祭のような場なり。3/12に新宿で行われたイベントで、スゴ本からも「蔵書公開」「スゴ本オフ」で参加したので、ここでレポートする。

 まず、わたしの蔵書公開。

引きこもりに最適な厨子本棚
1

わたしの蔵書より
2

 実は、わたし、「自分の本棚」を持ってない。妻や子どもの本棚を間借りしたり、床に積読山脈を造ったり、行きつけの本屋や図書館を自分の書棚の代わりにしたりしてしのいでいる。あっちこっちに散在している蔵書を集め、「厨子本棚」という可動型書棚に並べてもらったのだ。

 「厨子」というだけに仏壇のような面持ちだが、格納するのは「仏」ではない。読書する人なのだ。扉や棚に本を並べ、真ん中に座って観音開きの扉を閉めてもらうと、全面を本に囲まれる安心感でいっぱいになる。まこと読書人にとって理想的な棺桶なり。

仲俣さんの蔵書より
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 しかも、恐れ多くも仲俣暁生さんの蔵書と供に並べていただく。「こんな本の力を借りて生きてきた」というテーマで、100+αの選書なり。好みが重なるところもあれば、ぜんぜん知らないものも多数あって、興味が尽きないラインナップでした(カポーティ『冷血』がなぜか2冊並んでいたのが気になる……)。

『プリキュアぴあ』は名著
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 わたしの場合、最近読んだ本からエログロを抜いただけという統一感のない選書で、プリキュアからウィトゲンシュタインまで、バラエティだけは富んでいたと思いたい。ギャラリーの人波の後ろから眺めているのが楽しかった。皆さん、ディケンズや諸星大二郎といった通好みを手にとってばかりで、誰も『プリキュアぴあ』見ようとしなかった……

chicaさんの蔵書より
5

 そして、スゴ本オフ@本のフェス。

 好きな本を持ちよって、まったり熱く語り合う読書会。それがスゴ本オフ。いつもは「SF」や「恋愛」といった、何かしらテーマを決め、それに沿ってお薦め作品を持ち寄るのだが、今回は変えてみた。なるべく沢山の人に来てもらい、興味を持ってもらい、あわよくば飛び入り参加を期待して、フリーテーマ・ノンジャンルでやってみた。

 ギャラリーは30人くらい(?)集まる一方、発表者が6名と少なめで、その分、濃い口のプレゼンになった。いつもはビール片手にほろ酔いで進めるのだが、すごくまじめな雰囲気だったので、呑んでる余裕がなかったw

ギャラリーが多くて緊張しますた
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もちろん『アイデア大全』は放流しませんぞ
7

 ささきさんの「理解の範疇を超えた存在と、どう相対するか?」というテーマで『ソラリス』と夫婦間のコミュニケーションを語るのが面白かったし、初参加の方の、ベケットのいつまでも終わらない独白『いざ最悪の方へ』を読むときの「宙吊りの感覚が好きだ」という主張に激しく頷く。ベケットのtweetだと思うといつまでも読めるね。

 わたしは「読まずに死んだら、もったいない」級のスゴ本、『アイデア大全』『自分の小さな「箱」から脱出する方法』『死を食べる』を暑苦しく語った。『箱』と『死』は放流したが、『アイデア大全』は使い倒すつもりなので、「買って読め、一生モノだから(命令形)」と宣言したら、さっそく買っていただいた模様。

 これ、アイデア・ノウハウ集というより、計画的に問題解決を設計・実行するためのツールボックスのようなもの。この「問題」は、ほぼありとあらゆるものに応用が利く。レビューは読書猿『アイデア大全』はスゴ本に書いたので、未読の方は買うべし(命令形)。

 次のスゴ本オフは2つあるぞ。ご興味とご都合のよいときにどうぞ。

◆美と変身
3/26(日) PM 六本木
[詳細と申込み]

スゴ本オフ番外編。POLAとベンツのコラボスペースを借りて「美と変身」をテーマに六本木でやります。「美」だけでも、「変身」だけでもOKで、オススメの本、マンガ、CD、DVDなどを紹介してください

◆読まずに死んだら、もったいない
4/22(土) PM 渋谷
[詳細と申込み]

シミルボンで募集中のコンテスト「読まずに死んだら、もったいない」のテーマでやります。これ読んでないなんて、人生損をしてるよなぁ……という徹夜小説、夢中本、目鱗本を持ち寄って、お薦めあいましょう。

[シミルボン:「本とワタシ」選手権]

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結婚は天国か地獄か

 どちらの答えもありうるし、どちらの答えも無傷じゃ済まされない。せめては先人たちの教訓を糧として、同じ轍を踏まないようにと願うのだが、叶ったためしはない。

ここでは、結婚がはかどる作品をいくつかご紹介しよう。読むだけで経験値を積める。踏まなくてもいい地雷、しなくてもいい喧嘩を避け、なるべく望ましい結婚になりますように……

 いきなり真打、トルストイ『アンナ・カレーニナ』。結婚前でも後でも、これ読むと飛躍的にレベルが上がるので、強くお薦めする。

人生を滅ぼした女から、何を学ぶか。

「女とは愛すべき存在であって、理解するためにあるものではない」といったのはオスカー・ワイルド。これは、夫婦喧嘩という名のサンドバック状態になってるとき、かならず頭をよぎる。

結論から言う。論理的に分かろうとした時点で負け、相手の感情に寄り添えるならば、まだソフトランディングの余地はある。

 しかし、アンナの夫と不倫相手は、そこが分かっていなかった。体裁を繕うことに全力を費やしたり、売り言葉に買い言葉で応じたり。優越感ゲームや記憶の改変、詭弁術の駆け引きは目を覆いたくなるが、それはわたしの結婚でもくり返されてきたことの醜い拡大図なのだ。

 投げつけあう「あなたの言っていることが分からない」の応酬は、「どうせ分かってるくせになぜそういう態度をとるの?」の裏返しだ。大いに身に覚えがあるわたしには、ヴロンスキー(不倫相手)の利己的な愛の吐露が身に染みる。

「じゃあ言ってくれ、きみが穏やかな気持ちでいるためには、ぼくはどうしたらいいんだ? きみが幸せでいてくれるためなら、ぼくは何だってする覚悟だから」

彼女のイライラはどこから来るのか。離婚が決まらない宙ぶらりんの不安感や、上流階級サロンからの侮辱、息子と引き離された悲しみ、そうしたもろもろが中途半端なまま「いままでどおり」を演じようとする乖離が見て取れる。

イライラに明確な原因があって、取り除くなり緩和すれば解決する―――わけない。きっかけは些細な意識齟齬だったり、僅かな行き違いだが、それはトリガーに過ぎぬ。お互いそこは了承してるからいきなり過去の嫌味辛みの応酬となる。「分かろう」とするのは歩み寄りよりもむしろ、「分かってやろう」という上から目線に取られる。「わたしが欲しいものを知っているくせに」。

では、アンナが欲するものは何か。献身的な態度か、巨額な資産か、贅沢な生活か、甘美なひとときか、その全てを受け入れながらも、そのいずれでもないという。独白の形で彼女は表明する。

「わたしが欲しいのは愛だ。でも愛はない。だとしたら、全部おしまい」自分が言った言葉を彼女はくりかえした「だったら終わらせなくちゃ」

物語は一気に不吉な様相になる。だが、彼女が欲したのは、愛そのものではなく、「愛されているわたし」だった。男の目や手や顔やしぐさに愛を見いだすのではなく、男の言葉から愛を受け取るのではなく、ただいひたすら、自分、自分、自分。「愛されているという感じ」を感じたいのだ。

 残念ながら、この判定者は女自身。なのでこの戦いは100パーセント男の負けになる。これが判らぬ男は、女を泣かすか、女から逃げ出すまで無益な消耗戦を続けなければならない。言葉を尽くして、なだめてすかして、思いあまって、しかも何度もくり返して、たどり着くのだ―――この女が分からぬという結論に。だが、この結論そのものが間違っている。女を理解しようとするその態度が、「女を理解する」という設問自体が、誤っているのだ。女は、理解するためにあるのではなく、ただひたすら、愛するためにある。

 その愛し方は、ひたすら尽くす(ヴロンスキー・不倫相手)、すべてを赦す(カレーニン・夫)と男それぞれ。おそらく二人とも、「わたしと○○と、どっちが大事?」という定番の質問の答えを知らないのだろう。そもそも、この質問をされた時点で男の負けなのだが、正解は、「そんなことを言わせて、ごめん」と言いながら、(TPOに合わせて)抱きしめる or 土下座する or 涙を流すだ(ここテストに出ます)

 しかし、これがなかなか厄介だ。プライドというやつが邪魔をする。そして、このプライドというやつが面白い。本書には、リヨーヴィンという、まさにプライドが服を着ているような奴が登場する。そして、彼の生活や事業、結婚観や内省が、微笑ましくて愉快になる。

 実は、「アンナ・カレーニナ」というタイトルなのに、このリヨーヴィンが物語の半分を占める。二人の人生はときに交差するけれど、これは一種のダブル・プロットになる。「不倫の果てに鉄道自殺する不幸な女の話」に絡まるように、「紆余曲折の末、幸せな結婚生活を送る男の話」が続く。ウラジミール・ナボコフは、このリヨーヴィンのパートを評価せず、夾雑物あつかいしている。だが、その秘密は、この物語の一行目に隠されているのではないか。あまりにも有名なこれだ。

幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、
不幸な家族はそれぞれの不幸の形がある。
 非常に興味深いことに、この一行目を読み始めたときは、わたしもこれに同意だったが、読み進むにつれ懐疑的となり、最後に至っては、逆ではないかと考えるようになる。すなわち、何に幸せを見いだすかは人によるが、不幸の形はただ一つ、「不信」という姿をとる。人間不信になったり、不信心だったり、明日が信じられなくなったとき、それを人は不幸と呼ぶのではないか。

 本書は19世紀の貴族社会における恋愛をモチーフとしながら、結婚や家族のおける価値観の問題、モラル、教育、宗教、さらには農業や政治や戦争の問題など、さまざまなテーマを縦横に書き込んだ総合小説となる。

 アンナの濃厚な自己愛の跡を辿っても面白いし、リヨーヴィンのプライドが七転八倒する様を笑ってもいい。トルストイの一見リアリスティックな世界は、同時に象徴、隠喩、寓意にみちた連関の迷路になっている。破滅への兆候を拾っていくとエンタメとして読めるし、恋愛小説として読むと完全にラノベになる。わたしはここから、「結婚」という断面で斬ってみたが、未婚のわたしに読ませたい、先達ならではの知恵(地雷?)が詰まっていた。これは好きに読めばいいだろう、総合小説の懐の深さやね。

結婚前のわたしに読ませたかったスゴ本。結婚後のわたしは、涙ナシには読めないスゴ本。

 次は強烈なやつを。新井英樹『愛しのアイリーン』、結婚の毒本だ。

結婚に純粋さを求める四十路男が、フィリピンの嫁を“買う”ことから始まるエロスとバイオレンス。「結婚とは即ち、金銭と欲望の交換である」主張がこれでもかと濃密に描かれており、一気に読むと中毒になるぞ。ずっと結ばれない二人が、ある出来事をきっかけに一線を(一戦を?)越えてしまうのだが、そこから先はフルスロットルで坂道を墜ちるように転がってゆく。アドレナリン全開で読むべし。

田舎の閉塞感をブチ破る爽快さと、背を焼くような焦燥感と、欲望と金銭の果てのない背徳感を、抉るように貪るように描いている。露悪感がカタルシスにつながる、めずらしい読書となる(新井作品は常にそうなのだが)。結婚とは破滅だが、どこに救いを見いだすかは、読み手の自由だし責任でもある。

 結婚とは、殺し合いであることが、骨身に染みる傑作なのが『ゴーン・ガール』。

 夫婦が、男と女が、ほんとうにわかり合うということは、どういうことか、震えるほどの恐怖と迫力で伝わってくる。虚栄、欺瞞、嫉妬、支配、背信、復讐、嘘、嘘そして嘘……男女にまつわる、ありとあらゆるマイナスの感情を、こころゆくまで堪能できる。「夫婦あるある」すれ違いだと思っていたら、物語のフルスイングに脳天直撃される(しかも、二度も三度も)。

 小説としては典型的な、「信頼できない語り手」で紡がれる。妻の日記と、夫の独白が交互に重なるのだが、どうもおかしい。「ある日突然、妻が失踪する」のだが、妙に冷静で何かを隠しているような夫ニックも、その日に至るまでのナルシズムまみれの妻エイミー日記も違和感を抱かせる。じわじわ不審感が増してくる、この誘導の仕方が抜群に上手いのだ。肘まで腕を差し込んだ腹の探り合いは、気持ち悪さとともに、自分とパートナーの不協和音を増幅させられているようで不愉快になることこの上なし。

 ジェットコースターの頂上、疑惑が暴かれる瞬間、思わず声に出した、「嘘だッ!嘘だッ!嘘だッ!」。そこから先は坂を転げ落ちるように一直線に真っ逆さまに。しかも、その直線上に剃刀やら爆発物が埋めこまれていて、読み手に、登場人物に、物語そのものに衝撃を与える。失踪事件を胸くそ悪いエンタメに仕立て上げるジャーナリズムに反吐が出ると共に、女の愚かしさを徹底的にえぐり出す描写に嫌気が差すし、信じがたいほどバカである男のいやらしさにウンザリさせられる。

 それでもページを繰る手が止まらない(むしろスピードアップする)のは、地獄の先が知りたいから。ただではすまないことは分かってる。こわいもの見たさ、禍々しいものに触れてみたさが読む動機となる。あらゆる予想を裏切ったナナメ上の展開は、ぜひご自身の目で確かめ、驚くべし。

 これらを読むと、結婚とは一種の殺し合いにすぎないことが分かる。理想の自分だったり、自我そのものであったり、価値観の破壊し合いだったり、ともすると互いの命の奪い合いに至ることもある。もちろん極論なのだが、あらゆる結婚をドラマティックに拡大すると、こうなる。

 そして、夫婦愛とは自己愛の一種だと理解できるなら、結婚には、自己を肯定してくれる相手のための演技が必要となる。多かれ少なかれ、意識無意識にかかわらず、夫婦は互いにこれを演る。

 結婚は、相手の瞳の中に自分を見る合わせ鏡のようなもの。ただこの鏡、屈折率が変わっていて、「自分の見たくない姿」を拡大してくれる。本書の夫婦は無間地獄だ。『ゴーン・ガール』のニックは、わたしの最も厭な部分を極大化してくれる。エイミーは、わたしの妻の邪悪な部分をおぞましく見せつけてくれる。噂の怪物を見に行ったら巨大な鏡がありました、というやつ。そのおかげで、妻にもっと優しく接するように相成った。妻の幸せこそが、わたしの幸せであり、彼女が良ければそれでいい、そういう境地に達することができる。

 結婚は天国か地獄か。想像力をストレッチするのに、フィクションは役に立つ。まずはシミュレーションで経験値を稼ごう。

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