世界を丸ごと理解するために「科学哲学の冒険」

 「おまえは科学リテラシーが足りない」なんて言われると、グゥの音もでない。

科学哲学の冒険 理系をハナにかけてる輩からふっかけられると、いつもこうだ。でも科学ってなんなの?極論すれば、科学って宗教の一種でしょ?誰も見たこと/聞いたこと/観測すらできないことを、信じる・信じないの話じゃないの?ホラ、高度に発達した科学は魔法と変わらないなんて言うし――そんな独善に陥っていたわたしに、良いお灸になった。

 もちろん原子は肉眼で見えないが、たしかに実在している。そしてその原子の本当の姿について、人類は知識を深めていっている――これは"常識"の範疇なんだろうが、この常識的な考え方をただ信じるだけでなくて、議論を通して正当化しようとする――これが、本書のテーマ「科学哲学」だ。

 …なのだが、どうも著者が主張したい「科学的実在論」の形勢は不利だ。科学は確かに知識を深め、役に立っているのだが、哲学の凶器「相対主義」のバッシングに耐えられそうもない。いわゆる、「お前がそう思うんならそうなんだろう お前ん中ではな」というやつ。では客観性のための実験はというと、「ヒュームの呪い」「グルーのパラドクス」「決定不全性」を出してきて、帰納に対する懐疑論という寝技に持ち込む。

 著者は一つ一つの批判に辛抱強く反論してゆくのだが、その反論にさらに反論が重ねられ、とてもスリリングな展開になっている。スルーすることもできるのに、わざわざ強力な反論を持ってくるので、「著者はマゾか?」と呟くこと幾度か。

 そうした積み重ねが、「科学とは何か?」という問いに対する答えの歴史になっている。対話形式の構成は、この問答にぴったり。読者の「どうして?」を先回りするように質問者が訊いてくれるのだ。テツオとリカコという典型的な文系/理系キャラで、質問をためらうほど初歩的な(けれど重要な)議論もなされる。

 たとえば、科学と似非科学の違い。結局はカール・ポパーの反証可能性で結着をつけるのだが、そこから科学の真のありようが見えてくる。つまりこうだ。ポパーによると、科学とは仮説を反証する試みになる。したがって、立てられる仮説は、どんな結果がでたらそれが間違いということになるか、ハッキリしなければならない。科学は「どうなったら間違いか」が明白だし、似非科学はそうではないというのだ。

 これは面白い。なぜなら、科学の定義の中に、「間違っている」ことを含んでいるからだ。考えてみると、たしかに科学の歴史の中には、後で間違いだったと分かった主張がある(エーテルや熱素)。間違いの有無は、科学であるか否かとさしあたり関係はなく、「間違った科学」が、それでも「科学」だと言えるのは、間違いを証明できるからなんだ。

 なるほどなるほど、と首肯するわたしをヨソに、著者は自分の首を絞めにかかる。でも、「その科学が間違っている」「真理を明らかにしている」って、どうやって分かるの?科学が人の営みである限り、人の主観に依存しない物自体にはたどり着けない。「科学の科学」あるいは「メタ科学」でも持ってこないと、この疑問は解けないぞ。

 残念ながらこの議論には、ズバッとした結論がでない。「科学とは何か?」をめぐる様々な主張はスッキリと整理されているのだが、帰納への懐疑があまりにも強力なのだ。最初に"常識"と呼んだ科学に対する"信用のようなもの"は、ロジカルに証明され得ないが、だからといって、著者の思いが色あせることはない。「科学とは何か?」という問いに対し、こう述べる。

     科学というものは世界を理解しようという試みだ
     そして実際に、世界を理解できる試みのように私には思える

 上の主張を、単に"常識"として流すのと、徹底的に疑った上で「思う」のとは、ずいぶん違う。科学を合理的に疑うために、本書はかなり有用な一冊となった。さらに、盲目的に「科学」を信じているのとは、違う目線を得ることができた。

 以下は自分メモ。現在翻訳中とのこと。

   カートライト「いかにして物理法則は嘘をつくか」
   How the laws of Physics Lie, Oxford U.P.,1983


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ジョージ・R・R・マーティンすげえ「洋梨形の男」

洋梨形の男 巻措くあたわず夢中に読める、これは面白いぞ!

 嫁さんの最近のオススメは、「氷と炎の歌」シリーズ。辛口の嫁さんが「文句なしの大傑作」とベタ誉めする一方、完結してないことが難だという。新刊が出た瞬間に読了するというジャンキーぶりで、翻訳にガマンできず、とうとう原書にまで手を出している。未読のわたしには、「完結してから着手せよ」と厳命する。

 なので、同じ著者であるジョージ・R・R・マーティンの「洋梨形の男」に手を出して驚く、ページ・ターナーだよこれは。つかみ、プロット、アイディア、"意外な"展開とオチ、ページをめくらせる手をとめることができない。人間のおぞましさとグロテスク臭が染み出しており、扶桑社ミステリーのスティーヴン・キングのような、読み手を落ち着かない気分にさせてくる。

 6作品の中・短編集で、ジャンルはホラー?ファンタジー?SF?うまく付けられない。そんなジャンル分けを無意味にするほどの絶妙さでブレンドされている。まさに、奇想コレクションのタイトルどおり。さらに、ホラー風味でさしだされた作品が、食べてみたら自分自身の「不安感」を言い当てていたり、science fantasy 的展開にワクワクしてたら脱皮して「愛」や「信頼」がモチーフになったり、一味も二味も変わってくる。

 際立っているのはタイトルでもある「洋梨形の男」――要するにデ○体型の男に付きまとわれる恐怖を描いたものだが、どんな結末よりもおぞましいラストを約束しよう。わたしは乞食読者なので、どんな展開・オチになるかを予想しながら読んでしまう癖がある。で、今回はそいつを上回るイヤ話になって、満足しつつも吐き気がした。表紙のオレンジは「チーズ・ドゥードル」というスナック菓子で、明治の「カール」(チーズ味)を用意して読むと効果倍増。

 白眉は、「成立しないヴァリエーション」。学生時代のチェス同好会の仲間の別荘に招待された夫婦の話。チェスと復讐と○○というテーマが上手く綾なしており、単に技巧だけで読ませるレベルを超えている。本作に限らず、何の話かが見えないところからはじまって、ネタの本質が見えてくるところと物語のクライマックスが重なるのが面白い。なので、ネタバレ気味のAmazon紹介文は見ないことをオススメしておく。

 で、ネタバレ感想は反転表示――無粋きわまりないが、パラドックスを見つけた。時間旅行モノにはかならずついてまわる話だ。意識を飛ばす先の時間軸は、選べないのだろうか?もし選べるとするならば、復讐心とその方法を暴露した時間軸へ"もっとさきまわりして"そうさせないように手を打つことも可能になる。しかし物語がそうなっていない以上、選べないと考えるべきか?

そして、選べないとするならば、さらに二つの可能性が出てくる。この物語とは別の時間軸に沿った世界があるか、あるいは、全て(タイムトラベルも復讐の失敗も含めて)運命は決定づけられているかの二つだ。復讐者の理論が、同一の時間軸に乗っていることが前提なので、最初の可能性は否定される。そして、全てが運命づけられているのであれば、復讐者はこの物語の中に戻ってこれないことになる。なんという皮肉!この話を成立させるためには、彼は最初から死ぬ運命でいなければならないなんて…

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詩は別腹「終わりと始まり」

終わりと始まり あたらしい本をめまぐるしく読み散らかして、「読んだ」という満腹感しか得られない。そんな貧しい読書から離れるために、毎晩一編ずつ、詩に浸る。立ちどまり、くりかえし、かんがえる。昔の誰かを思い出し、遠くのあの人を想像する(あるいは創造する)。

 そんなきっかけとして、ヴィスワヴァ・シンボルスカの詩は、読むことがそのまま経験になる時間だった。特に、「終わりと始まり」は、メッセージ性よりも言葉そのものの強さを思い知った。出だしはこんな風になる。

    戦争が終わるたびに
    誰かが後片付けをしなければならない
    何といっても、ひとりでに物事が
    それなりに片づいてくれるわけではないのだから

    誰かが瓦礫を道端に
    押しやらなければならない
    死体をいっぱい積んだ
    荷車が通れるように

 戦争や平和を詠った作品は沢山あるが、戦争が終わったあとの「後片付け」になっているのが珍しい。その日常/非日常をテーマにし、平明な言葉遣いで淡々と描く「戦後」の中の死体が生々しい。

 それは、壊れたものを運んだり直したりする、あまり見栄えのいい仕事ではない。カメラは別の戦争に出払ってしまうが、シンボルスカの眼はそこが「始まり」とする。生き残った人たち、その次の世代の人たち、さらにその後の人たち…あっという間に時代を行き過ぎる。一行と一行が十年経っているものもあるので、油断ならない。流れるように書かれる文を彫るように読む。

 シンボルスカはポーランドの詩人、1996年にノーベル文学賞を受賞している。彼女一流のユーモアは、「憎しみ」という感情に人格を与えてしまっているところによく表れている。萌え風に言うなら、「ヘイトたん」だろうか。「憎しみ」という作品において、こう表現されている。

    ほかの感情とはちがう
    どんな感情よりも年上なのに、同時に若い
    それは自分を生み出す原因を
    自分で生む

 不条理に満ちた、「世界」という名の他者に、ただ言葉でもって向かい合う。それは普遍性を持ちつつも、イデオロギーやプロパガンダやマスコミの報道とは異なり、個から個へ語りかけてくる。翻訳されても壊れない、直接、そのままの伝言として。

 この出会いは、ブック・コーディネーターの幅允孝さんのおかげ(ありがとうございます)。ホントークという、本にまつわる本気のトークで知った。11/12 のホントークvol.2 [URL]には参加するつもり。これを読んでいる誰かと会えたらいいですな。

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「ちょっとピンぼけ」はスゴ本

ちょっとピンぼけ 戦争ルポルタージュの傑作といえば、開高健の「ベトナム戦記」だッ(断言)。だが、本書はこれに匹敵する。作家のマナコと写真家のファインダーには、それぞれ違う戦争が映ったが、砲声と血潮と吐瀉物は一緒。胃の腑に石を詰める読書になる。

 War Photographer すなわち戦争写真家の地位を確立した、ロバート・キャパの、あまりにも有名な波乱万丈のレポート。第二次大戦のアフリカ、イタリア、ノルマンディー、パリ、ドイツの激戦区を、キャパとともに疾走する。

 キャパは報道写真について、ドキュメンタリズムについて、強いメッセージを送っている。被弾して車輪が下りず、胴体着陸した爆撃機に駆け寄ってカメラを構えたキャパに、「写真屋!どんな気で写真がとれるんだ!」と罵声が飛ぶ。あるいは、「登ってゆくほど、死体と死体の間隔はせまくなっていく」文字どおり死体の山を踏み分けてゆく。そんなとき、キャパはこう考えている。

怪我したり、殺されたりしている場面ぬきで、ただのんびりと飛行場のまわりに坐っているだけの写真では、ひとびとに、真実とへだった印象を与えるだろう。死んだり、傷ついたりした場面こそ、戦争の真実を人々に訴えるものである。
 戦場は異常で、写真はニュースになるのだ。その一方でキャパは、解放された捕虜収容所の人々の写真を【撮らない】。他の写真家が群がって、残虐さを際立たせるように撮っているにもかかわらず、キャパはカメラを向けない。なぜなら、こうした気の毒な人たちの将来のことなんて、誰も目を向けなくなることを「知って」いたから。戦争の現場を撮るのが自分の仕事なんだという自負が見える。戦争を憎むことと、戦争の写真を撮り続けることは、矛盾しないのだ。

 見返しにあるポートレイトからすると、コクがある人懐っこい顔立ちで、「おちゃめ」みたいだ。どんなにピンチのときでも、ユーモアを忘れない。そう、キジ撃ち(分かるね?)の最中に、そこが地雷原であることに気づいたときの話なんざ、ハラ抱えて笑わせてもらった。もちろん彼は飛び上がらなかったし、身動きもしなかった。いや、できなかったんだ、ズボンがずり下がっているからね。彼がどうやって助けられたかは、読んでのお楽しみ。

 ただし、読者を楽しませようとする、キャパ一流の大風呂敷もある。ぬかるみがあまりに深いので、「一歩進むたびに、二歩も後ろにすべった」と大真面目に吹いたり、戦場でトルストイの「戦争と平和」を発見し、五日五晩、懐中電灯の明かりで読みふけったなんてくだりは、ホントかなァと首をかしげたくなる。

 じっさい、書かれた全てが本当に起こったことではないそうだ。中村良則によると、キャパは面白くするために、もろもろの話をつくったり、あるいはふくらませたりしたらしい(p.100 Foresight Nov 2009)。原著のカバーの断り書きには、こうあったという。

真実をそのまま書くことはあまりにも厄介なので、私は真実を伝えるため、ときにはあえて真実をちょっぴり逸脱することも大目に見た
 たとえば、1943年7月、米軍空挺部隊とともにシチリア島に落下傘で飛び降り、木に引っかかって一晩ぶらさがっていた、というシーンがある。これは作り話なんだそうな。実は補給船に乗って上陸していると聞いて、びっくりするやらほっとするやら。訓練なしで飛び降りる、出たとこ勝負なキャラクターが、実は慎重だったと聞いて、さもありなんと思ったり。でなければ、あれだけの死線をくぐり抜けることはなかったから。

ベトナム戦記 そんなキャパも、1957年のベトナムで地雷の爆発に巻き込まれて亡くなっている。その際も、カメラを離さなかったという。「ベトナム戦記」とともに、ルポルタージュの傑作を知るに値する一冊。

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むしろ初心者におすすめ「プロフェッショナル・プレゼンテーション」

プレゼンテーションZen 既に[ レビュー ]したが、もう一度ほめておこう、「プレゼンテーションZen」は良い本だ。シンプルで、ヴィジュアルで、眠くならない(←これ重要)なプレゼンをするための必読本――なのだが、これは上級者向けだろう。コンテンツの作り方やストーリーラインの決め方、さらにデリバリーの基本といったプロセスの解説はほとんどない。そういうことは分かっている人向けに、取り組み方とか心構えといったスタンスを説くものだから。

 では、そうしたプレゼンの基本のキを知るためには何を参考にすれば――という視点で、一冊選んだ。アイディア出しからロジックの組み立て、ヴィジュアル化、チャートへの落とし込み…といった、プレゼンの基礎手法が網羅されており、新入社員や、プレゼンは初めてといった人にとって必要十分な知識を得られる。

 たとえば、「キーとなるメッセージは、プレゼン後に聴衆の心に残したいものだ」とか、「キーメッセージは相手の"価値観"にまで踏み入っていくことだから、論理力に(相手の)判断基準を考慮しろ」といったアドバイスがある。ここまでは普通だ。では、どうすればキーメッセージを作り出せるのか?

プロフェッショナルプレゼンテーション その極意は、キーメッセージの主語を「あなた」にすることだという(「御社」でも同じ)。「この施策を実行するべき」の頭に「あなた」を付けて、「あなたは、この施策を実行するべきです」に変えるのだ。すると、聞き手は「なぜ?」「どうしてそう言えるの?」という反応を促すことになる。そして、そんな反応を見越したプレゼンの準備ができる。ただ漠然と「○○するべき」「○○してほしい」だけでは、「お前がそう思うんならそうなんだろ、お前ん中ではな」で終わってしまうからね。

 さらに、単なる提言だけに留まらず、相手を動かしたいときにはコンプリートメッセージにまで持っていけという。コンプリートメッセージとは、"What", "Why", "How"の三つ全て入っているメッセージのことだ。"What"とは、何をすべきかで、"Why"は、なぜそうすべきか(動機付け)、そして"How"は、どうしたらできるかのこと。現状分析→目標提示(○○すべき)に終始したプレゼンは、"What"に応えているだけで、聞き手への動機付けも具体的方法も無い。まさに「お前ん中ではな」プレゼンといえる。

 また、ストーリーラインの設計で極めて同意なのが、「ストーリーとは重みの配分である」というところ。モレヌケの無いようにロジックをきっちり組むことも重要だが、すべてを網羅的に話す必要はない。聞き手の立場や傾向を予測し、プレゼンの力点を決めるわけだ。よく準備されたコンテンツであればあるほど、この罠に陥りやすい。調べあげ、組み上げたから全部しゃべりたくなる気持ちは分かる、でもそれは「眠くなるプレゼン」への第一歩なんだ。どこにスポットを当てるかは、プレゼンのストーリーそのものになる。

   1. キーメッセージの明確化
   2. 論理構築
   3. 根拠の証明
   4. ストーリーの設計
   5. ビジュアルの作成

 というプロセスも良い。パワーポイントを起動するのは、最後の段階なんだよね。わたし自身、眠くなるプレゼンを何度もやったのだが、不思議なことに、この逆順でコンテンツを作ったことを思い出した。反面教師にしてほしい。

 いろいろ誉めたが、反面、いただけないのもある。ビジュアルや主張にマッキンゼー臭がするのは仕方ないとして、「ダミーチャート」を提案している。ダミーチャートとは数字は適当で、「こういうものがあったらいい」チャートを、いわば捏造的につくること。メッセージから遡及してデータを特定していく仮説思考は確かに有効だ。そして「データを加工したり捏造したりしないように」と著者は釘を刺すのだが、調査者の良心に任されているのは極めて危うい。

 まだある。「資料はプレゼンの先に渡せ」というアドバイス←これは致命的なのでマネしないように。先に渡したら、聴衆はこっち(プレゼンター)を見ないよ。手元の資料を見ることで満足→寝るか、資料に反論・アラ探し→目がランランかで、どっちの場合も聞いちゃいない。どっかの教授が学会の発表とまちがえてるんちゃうか?と著者を確認したら案の定だった。プレゼンテーションはコミュニケーション、この愚を犯す莫れ。

 手放しでオススメできないのが残念だが、それをさっぴいても有用な一冊。

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無常観のリマインダー「ルバーイヤート」

ルバーイヤート 「死ぬまでに読みたい」シリーズ。

 人生は有限だが、この事実を忘れることが多い。賢者タイムのときなどは人の世の儚さを思い、後悔しないための読書に励む。これは、臨終のときに「あれ読んでおけばよかった」とならないための選書。必然的に古典・名作モノになるが、必ず発見がある。もちろん、何をどれだけ読んでも満足することは無いだろうが、そういう心がけをしているのといないのとでは、かなりの違いがあろうかと。

 今回は12世紀のペルシアに生きた、オマル・ハイヤームの「ルバーイヤート」。無常観あふれる詩を遺したハイヤームは、実は当時の最先端の科学者であったところが面白い。数学・天文学に通じ、現在のイラン暦の元となるジャラーリー暦を作成した。当時のグレゴリウス暦よりも正確なものであったという。


     袖にかかる砂塵をやさしく払うがよい、

     それもまた、はかない女の頬であった。


 ハイヤームは、自然や人間の変転を、物質の変化としてとらえる。身体を構成する物質の粒子は、死後、土に還るというのだ。そして職人の手によって捏ね上げ・焼かれ、美しい壷や盃となる。詩人は、壷のくびれや盃の把手に、かつての美女や王族の粒子を見つけては恍惚とする。

 この生々流転、わたしの心情と寄り添うところが大いにある。生物に限定された輪廻転生と異なり、モノとしての身体も含んだ再生思想なのだから。人は死んで土に還るだけではなく、その土から新たなモノが造られるのだ。その土から作られた盃を酒でみたせと、ハイヤームはいう。


     盃に酒をみたし、この世を天国にするがよい、

     あの世で天国に行けるかどうか分からないのだから。


 もちろん酒はイスラームで禁じられている。しかし詩人は、「もし酒が法に許されない楽しみであるなら、なぜ神はそれを造ったのか」という疑惑を持つ。天国は大きな黒い瞳の美女でいっぱいだという。そして、酒、乳、蜜があふれていると人は伝える。ならば、この世で酒や女を選んで、何の不都合があろう、と高らかに謳う。さらに、あの世にもある楽しみを、この世でガマンする必要はないではないかと問いかけてくる。

 虚無と享楽がセットでくると、エピキュリアン?と思いたくなるのだが、ちょっと違うようだ。人生の空しさを酒色に耽ってまぎらす快楽主義者ではなく、「人事を尽くした。天命を待つあいだ、一杯いっとく?」という感じ。時と距離を越えて、ペルシャの詩人を身近に感じるとともに、自らの無常観を再確認できる一冊。

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まいりました!「ロートレック荘事件」

ロートレック荘事件 おお!これは良かった。久々に一本背負いを喰らったミステリ。

 人里離れた別荘でおこる惨劇を描くのだが、これがなんともオーソドックス。「あの」ツツイがなんでこんな陳腐なモチーフを選んだのだろうといぶかしむ。ちょっと違うのは、舞台がロートレックの作品で彩られていること、主人公が侏儒であること。

 セオリーどおり、アリバイは?動機は?得する奴は?と経験に即して展開を先読みしていく――のだが、ストーリーはもっと先回りして、読み手の予想を裏切るかのように、ひとつまたひとつと展開の可能性が潰されていく。読み慣れていればいるほど、先々が行き止まりになっている迷宮に入り込んだかのような切迫気分に陥る。

 で、そいつをひっくり返すカタストロフとカタルシスが!――で、そいつをいちいち分析しだす意地悪さよ、と思いきやシメは最後は文学臭まで漂わせている。なかでも傑作なのは…と語りたいのは山ヤマだけど、ネタバレなので格納&マウス反転するね。未読の方は続きを読まずに本作をどうぞ。するする読めてしまうけれど、舐めるように刻むように。速読なんてもってのほか、というか、速読したら面白さ半減どころかゼロになるぞ。

 本書はtwitter経由で知った一冊。「筒井康隆オールタイム一位」という惹句に引かれて読了。chiron95pさん、ありがとうございます、愉しい驚きのある時を過ごせました。twitterはフロー、blogはストック。流されがちな「つぶやき」に反応した読書をここでアウトプットしていきたいものです。

 さて、

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外道限定「魔王」

 わたしの変態妄想のナナメ上を逝く外道の話。

魔王1魔王2

 カワイイ女の子と目が合ったら、「俺に気があるのかしらん…ヤベ、妻も子もいるのにどうしよう、とりあえず新しいパンツ買おう」と妄想と股間をたくましくするのは普通だよね?あるいは、大金持ちになったらローションのプールに裸の女を敷き詰めて飛び込みたいといった願望を抱くのも、そんなに常軌を逸していない…と思いたい。そういう、ささやかな変態趣味を打ち砕く話だ。

 時代は1940年前後、舞台はパリからプロイセンの森まで。主人公ティフォージュは、パリではまっとうな変態だった。小さな子どもを眺めたり担いだりするのが大好きで、自分で暗室をこしらえては盗撮した写真を現像するくらい。学校帰りの子どもがわーっと駆け抜ける路地に突っ立って、若い肉体の奔流を遡行する鮭のようにもみくちゃにされるシーンでは、「翼ある幸福」と名づけており、微笑ましい限りだ。

 しかし、少女暴行の嫌疑をかけられ拘留されるところから、彼の人生は狂い始める。いや、彼の望むほう望むほうへと流されていくのだから、「狂う」という表現はヘンだね。人生お先真っ暗!というピンチになると、なにかのチカラが働いたかのように、チャンスに取って代わる。そこに超次元的なものなどないのだが、その「偶然」を、徴(しるし)だと思い込んでしまう。つまり自分は選ばれし者で、運命のなかからその啓示を受け取る使命があるのだと。

 で、小説内の描写のほとんどが、この徴のメタファーに満ち溢れている。ゲーテのバラード「魔王」、誘拐・誘惑者「青ひげ」、幼子イエズスを背負う「クリストフォルス」を示す象徴が、あちこちに散らばり、埋め込まれている。読み手は主人公とともにそんな徴(しるし)を探すことに精力を費やされる。これがまた難解なのよ。だが親切なことに、著者ミシェル・トゥルニエは、わざわざ注釈を入れてくるほどの徹底ぶりだ。

 子ども達を散髪し、山のようにできた髪を布団や枕に詰めた「特製ベッド」でのたうちまわるとか、シャワー室に寝そべり、熱い湯を浴びながら子どもたちに踏みしだかれて随喜するとか、なかなか斬新なプレイを提案してくる。対戦車地雷を誤爆させ、霧化した子どもの血潮を浴びるトコなんて、完全にイッてたんじゃぁないかと。

 その変態傾向にもかかわらず、奇妙なことにソドミーは出てこない。青ひげよろしく幼児誘拐したり、少女の裸の人いきれを胸いっぱい吸い込んだりする「おたのしみ」はあれど、セックスとしての相手にはならないのだ。性器が非常に小さいせいなのか?その代わりのメタファーとして、牡鹿の角と睾丸の関係が延々と語られたり、馬の尻から出てくる糞をこと細かに描写したりする。たとえばこんなカンジ…

ある夕方、水肥のあまい香りのただよう馬屋の黄金色の夕闇のなかで、輝く尻が仕切りごとに波打つのを眺めているうちに、青ひげの尻尾がその根元からやや斜めに突っ立ち、もぐもぐうごめく、小さい、突き出た、固い、きっちり閉じられた、まるで輪金で締めた袋のように中央に襞のよった肛門が現れた。そして、すぐに、その袋は高速度撮影の薔薇の蕾が開くような速さで外側へむき、ジギタリスのようにめくれると、薔薇色の湿った花冠を外に開いた。その中央から、感心するほど形のととのった、光沢のある、まったく新しい糞の塊りが現れ、一つずつ、壊れずにわらの上にころがった。
 「バラの蕾」っつったら普通女性器を指すのに、そうしたお約束を外す心意気。しかも「入れる」のではなく、「出す」ほうだから意味が反転してしまっている。主人公ティフォージュは、そんな排便行為のみごとさに打たれる。そして、馬のいっさいの本質はその尻にあると喝破し、尻は馬を排便の神だという本質に達するのだ。

 前作「フライデーあるいは太平洋の冥界」[レビュー]は、ロビンソン漂流記の見事な倒置だったとするならば、「魔王」は、ホロコーストの倒錯した寓話になる(反転部分ネタバレ注意)。人を選ぶ小説でしょ?なので、上述の描写が響くのであればオススメ。徴(メタファー)に押しつぶされる読書になることを、請け負う。

フライデーあるいは太平洋の冥界

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【告知】 「本が売れない」ホントの理由を知るための3冊を、週刊アスキーにてご紹介

「出版不況は、若者が本を読まないから」はウソ。でも「本が売れてない」はホント。では、本が売れないとはどういうことか?そもそも「出版」て紙の話だけなの?あるいは発想を変えて、「本というオブジェクト」を売るためには?

そんな疑問に答えるための3冊を、週刊アスキー11/10号にて紹介。巷に数多の「ベキ論」「理想論」「希望的観測」を廃し、ファクトベース・実績重視で論じているものばかりを選んだ。字数制限のおかげで削りまくっているけれど、それだけ高密度の仕上がりとなっている。どの3冊でどんな話かって?それは実際にお確かめくださいませ。珍しいことに2Dが表紙、ハニカムのりっちゃんが目印ですぞ。

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被曝治療83日「朽ちていった命」

朽ちていった命 核爆発時の爆心地レベルで被爆した人は、どんな運命をたどるのか?

 1999年9の月に起きた、東海村の臨界事故。核燃料の加工作業中に、大量の放射線を浴びた男を救うため、日本最先端の医療チームが結成される。本書は、患者とその家族、医療スタッフという「人」に焦点を合わせ、壮絶な83日間をレポートする。

 運びこまれたときは"普通"に見えていた患者の染色体は、既に完全に破壊されていたため、症状が進行してゆくにつれ、臓器・組織・機能は深刻なダメージを受けていく。読み手は、放射線被爆の凄絶さとともに、前例のない治療を続ける医療スタッフの苦悩に向き合うことになる。

 もちろん患者の細胞は、ほとんど分裂しない。新しい細胞が生み出されることなく、古くなった皮膚が剥がれ落ちてゆくと、どうなるか?カラー写真で示された「右腕」が詳細に語る。入院当初の、ふつうに見える右腕と、被爆26日目の、ちょうどミディアム・レアに焼けた同じ腕の写真は、おもわずページから目を背けるほど。

 医療チームも闘いだ。これほどの放射線被曝をした患者の治療自体が初めてで、最高のスタッフとはいえ試行錯誤をしながらの治療だったという。再生をやめ、朽ちていく体。助かる見込みのない治療。病院を取り囲む報道陣(←この事実は、本書に書いてない)。現場のプレッシャーは相当なものだったろう。

 今なら取りざたされる終末医療だが、これは10年前。「おれはモルモットじゃない」と激昂したり「痛い痛い、家に帰してくれ」と泣き叫ぶ患者のQOL(Quality of Life)は存在しない(QOLの方針は立てられない)。最後は「とにかく"生きている状態"を少しでも長く保たせること」が目的化する。ぼろぼろになった臓器や皮膚を前に、「治療と称するもの」を続けていかなければならない。そして、自分がやっていることは医療行為なのか?――と疑問を押さえ込もうとする。ぎりぎりの状況での発言は、即、士気の低下につながるから。

 「朽ちていく」という上品な表現を使っているが、実質は、生きながら腐っていくカラダだったんじゃないかと。血液やリンパ液を注入しても、大半は流れ出し、包帯へしみこんでゆく。循環していない肉は腐る。本書から注意深く取り除かれていたけれど、治療室内の「臭い」はかなりのものだったと思う。

 当時を「がんばった」と評するスタッフは多い…というか、ほぼ全員そう述べる。歴史的な事故の犠牲者に対し、最先端の機器で最高のスタッフが不眠不休で「がんばった」。どんな状況でも「生きることをあきらめない」を至上とし、「がんばる」。171頁目は、1ページに6回も「がんばる」が出てきて噴いた。そのとき、患者は大量の麻薬物質を注入され、痛みも意識もない状態。

 そんな患者を「がんばった」とされると、ものすごい違和感にとらわれる。むりやり生かしたことに対する罪悪感を「がんばる」言葉でごまかしているように見える。いや、患者だけじゃなく、ケアは家族のためでもある、とも言える。そりゃそうだ。でも、「家族のためにがんばった」と思い込まないと、自分が許せなくなる看護師もいることも事実。NHK取材班が書いたのだから、「書いてないこと」に目を向けると、深くうなだれる読書になる。

 最後に : ゆりさん、いい本をオススメいただき、ありがとうございます。背筋をのばして、一気に、読みました。

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