皮肉が分かる人・分からない人『アイロニーはなぜ伝わるのか?』

Irony

せっかくの休日。ゆっくりしたいのに、「ほら、お出かけ日和だよ!」と友人にピクニックに連れ出される。みるみるうちに曇ってきて、どしゃ降りになる。びしょ濡れでになりながら友人に、「ほんと、お出かけ日和だね!」と叫ぶ。

晴天を期待してピクニックに行ったのに、どしゃ降りの大雨という現実に見舞われる。この期待と現実の違いを際立たせるために、「お出かけ日和」なんて逆を言う。これがアイロニーだ。

アイロニーとは何か

この「期待」と「現実」を巧みに対比させ、あてこする構造から、アイロニーを解き明かしたのが『アイロニーはなぜ伝わるのか?』だ。

紹介される豊富な例を聞いていると、語られている言葉とは違う意味(意図)が飛び交っていることが分かる。「お出かけ日和」は分かりやすいが、小説やシナリオでは、かなり高度な「意図のやりとり」をしている。

これ、流行の機械学習では解析できないだろう。自然言語を形式的に解析して真偽や条件といった「意味」に置き換えるのではなく、その発話がどんな「意図」を含んでいるかを、会話の状況や話の流れから、構造的に汲み取るプロセスが必要だから。

これ、人間同士であっても難しい。アイロニーが洗練されるほど、その発話がどういう話の流れでなされているかが焦点になってくるから。気づかない人ならば、それがアイロニカルな文脈で語られているということすら分からないかもしれぬ。

反復によるアイロニー

たとえば、本書で紹介されているアントニーの演説だ。シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』からの引用だ。

その前に、野暮を承知で、この演説がなされている状況を説明させてもらう。

<状況>ローマ市民に人気のあるジュリアス・シーザー。その人気に不満を覚えるブルータスが暗殺を企み、シーザーを殺してしまう。シーザーの友人であったアントニーは、追悼の弁を表したい申し出る。そして、「暗殺を非難しない」という条件で、演説は許可されるのだが……

ここに私は、ブルータス、その他の諸君の許しをえて――
と言うのも、ブルータスは公明正大な人物であり
その他の諸君も公明正大の士であればこそだが――
こうしてシーザー追悼の辞をのべることになった。

シーザーは私にとって誠実公正な友人であった、
だがブルータスは彼が野心を抱いていたと言う、
そしてそのブルータスは公明正大な人物だ

シーザーは多くの捕虜をローマに連れ帰った、
その身代金はことごとく国庫に収められた、
このようなシーザーに野心の影が見えたろうか?
貧しいものが飢えに泣くときシーザーも涙を流した、
野心とはもっと冷酷なものでできているはずだ、
だがブルータスは彼が野心を抱いていたと言う、
そしてそのブルータスは公明正大な人物だ

諸君はみな、ルペルクスの祭日に目撃したろう、
私はシーザーに三たび王冠を献げた、それを
シーザーは三たび拒絶した。これが野心か?
だがブルータスは彼が野心を抱いていたと言う、
そして、もちろん、ブルータスは公明正大な人物だ

もちろんアントニーは、暗殺を非難することなく、シーザーに追悼の辞を捧げている。シーザーが残した功績や、野心なんて無いことが具体的に挙げられる一方で、「ブルータスは公明正大な人物だ」という言葉だけが繰り返される。

空虚な言葉を繰り返すことで、期待される「公明正大な人物であるブルータス像」に疑義が生じ、現実はそうではないことに、ローマ市民に気づいてもらう。アントニーの意図は恐ろしいほど伝わり、ローマを揺るがす大逆転が始まるのだが、それはまた別のお話。

前段の<状況>がないと、なぜ「ブルータスは公明正大」とわざわざ付け足すのだろう? ほめ殺し? という疑問で終わってしまうかもしれぬ。アントニーの演説の「意味」を知るのは難しくはないが、彼が伝えたい「意図」を汲むには、発話が置かれている状況が必要なのだ。

アイロニーが伝わらないアイロニー

そして、こうした状況が共有されていない場合、アイロニーが伝わらないというメタ・アイロニカルな話になる。

本書には無いが、次の発言なんて、わたしにとって、大変アイロニカルに聞こえる。だが、状況が共有されていないと、全く伝わらない。

ファクトに目を向けよう。
極度の貧困に暮らす人は、確実に減少している。
飢えた人々は、少なくなっている。
世の中は、良くなっているのだ。

これも、野暮を承知で説明する。

極度の貧困に暮らす人―――たとえば、戦争や災害で故郷を失い、難民キャンプで暮らしていた、餓死寸前の人たちだ。飢えた人たちはどうなったか? 死んだのだ。飢え死ぬ人は死んだからこそ、飢える人は居なくなった。生存バイアスを脇に置き、選択されたファクトでもって声高に語られれば語られるほど、その意図しないアイロニーに項垂れる他ない。

もっと分かりやすい例は、本書に出てくる。1970年ロンドン救済基金のポスターの標語だ。皮肉が効きすぎて刺さるぐらい。

飢えた人々のことは無視しよう、
そうすれば、そのうちいなくなるから。

おそらく、これでも気づかない人は気づけないだろう。だが、この意図に気づいた人は、自分の裡に価値の逆転が生じていることに気づき、次にどんな行動に移すべきか、言われるもなく分かるだろう(それこそが、ポスターの目的なのだ)。

本書の結論で、アイロニーとは、「期待」と「現実」の極小の虚構世界における、一種の「ごっこ遊び」と語られる。この「ごっこ遊び」を通じて意図が伝わるとき、価値観が裏返るような感覚が生じる。

小さいクスッと笑えるものから、世界を反転させるものまで、アイロニーが伝わる瞬間を楽しむ一冊。

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『わたしが知らないスゴ本は、 きっとあなたが読んでいる』という本を書いた

心を揺さぶり、頭にガツンと食らわせ、世界の解像度を上げる本は、確かにある。

読前と読後で自分を一変させる、すごい本(スゴ本)だ。本から得られた知は、行動を変え、習慣を変え、人生を変える。これホント、なぜならわたしの身に起きたことだから。そんな「人生を変える運命の一冊」は、実は何冊もある。

このブログは、そうした本を中心に紹介してきた。これに加え、どのように探し、どう読み、何を得て、どんな行動につなげたかを本にした。タイトルはブログと同じ、『わたしが知らないスゴ本は、 きっとあなたが読んでいる』だ。

ここには、あなたにとっての「運命の一冊」を見つける方法を書いた。あなただけのスゴ本と出会うパーフェクトガイドだ。3行でまとめると、こんな感じ。

  • 本を探すのではなく、人を探す方法
  • お財布に優しく(ここ重要)、スゴ本に出会い、見合い、結婚する方法
  • (良書なのは分かってるのに、なかなか読めない)運命の一冊をモノにする方法

自分のアンテナには限界がある。自分のアンテナ「だけ」を信じ、壁を築き穴を掘った奥で王様を気取る。そんな自分の限界に気づき、抜け出るためのやり方も書いた。自分に囚われた読書から自由になる方法だ。

付録もある。脳天を一撃する斧となるような劇薬小説やトラウマンガ(トラウマになるマンガ)を24冊紹介している。

読書は毒書だ。「危険な読書」といえば、BRUTUSが特集しているが、ヌルい。本当に危険な読書とは何かをお見せしよう。読み終えたら、吐き気や悪寒とともに、「私は生きてる! これが本でよかった」と強く感じること請け合う。

もっとスゴいのをご存じなら、ぜひ教えていただきたい。劇薬本に限らず、『スゴ本』の本や、このブログで紹介する本を聞いた上で、「それがスゴいなら、これは?」と言いたくなる作品だ。それは、あなただけが知っている。

なぜなら、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるのだから。

Sugohon

 

Amazonは、[ここ]をどうぞ。技術評論社は、[ここ]をどうぞ。公開時点(2002/02/22)で Kindle 版は無いけれど、出しますぞい。

 

第1章 本を探すな、人を探せ

 

運命の一冊を読んだ人を探す

  • 書店は「人を探す場」である
  • 「好き」があなたと重なる「人」こそが、あなたの知らないスゴ本を読んでいる
  • いい作家は、いい本を読んでいる
  • 雑誌の本の特集を押さえる
  • あなたが知らないスゴ本を読んでる「人」はネットにいる
  • 本を読まない人が買う「ベストセラー」を利用する
  • 読書会で「人」を探す
  • スゴ本オフで「人」を探す
  • グループ・ブック・ハンティングのすすめ
  • 探した人を追いかける

アウトプットすると人が見つかる

  • 「自分」の範囲なんてたかが知れているし、世界はもっと広くて深い
  • 単なる「よかった」は、何も言ってないに等しい

 

第2章 運命の一冊は、図書館にある

 

本屋は出会い系、図書館は見合い系

  • 書店に行く前に、気になる本をまとめて一手に取れる場所に行こう
  • 「あとで読む」は、あとで読まない
  • 直感は裏切ることがあるけれど、違和感は裏切らない
  • 運命の一冊は、千冊に一冊

図書館を使い倒す

  • 図書館に行こう、書棚を徘徊しよう
  • カウンターまわりをチェックしよう
  • 背表紙が斜めに歪んでいるのが「おもしろい本」
  • とにかく借りる、本に部屋の空気を吸わせる
  • 知りたいことを調べてもらう
  • コラム 「ネットで検索すれば」「本屋で探せば」では足りない
  • 積極的に自分を放置しよう
  • 図書館を身体化する

本は「買う」ものか

  • 「身銭を切ってこそ、本の目利きができる」の落とし穴
  • 「買っただけで満足した本の山」に埋もれて自己満足に浸っていないか?
  • 「本を手にして読む」というコストを支払うことを厭わない
  • 五万円の本を五千円で手に入れる方法
  • 本棚を無限にする方法

 

第3章 スゴ本を読むために

 

『本を読む本』で『本を読む本』を読む

  • 読書術は盗むもの
  • 「決まった読みかた」なんてない、けれど「うまい読みかた」はある
  • 分析読書とシントピカル読書
  • 『本を読む本』を批評する
  • 『本を読む本』に致命的に足りないもの
  • 「読む」ためには「読まない」選択肢が必要

遅い読書

  • 速読ができる人は遅読もできるが、逆は不可
  • 書き手の意図に沿うためにも、一定のリズムで読み進める
  • 再読・精読すべき一冊にたどり着くには、どうしても数が必要

速い読書

  • それは「読書」ではなく「見書」では?
  • 「あたり」を得るためには見書も有効

本を読まずに文学する「遠読」

  • 精読の限界を超えるには
  • 本はあらゆる関係性の結び目としてなりたつ

プロフェッショナルの読みかた『ナボコフのドン・キホーテ講義』

  • 「大ボリュームの古典を読み通すオレ様」までもこき下ろされる
  • 「現実らしさ」「物語らしさ」とはなにか

『読んでいない本について堂々と語る方法』そのものに隠された罠

  • 本書の「上っ面」
  • 本書の「裏面」と、トラップ
  • 読書とは何か――読書論
  • 読者とは何か――読者論
  • 書物とは何か――書物論
  • 最大のトラップ
  • もっと気楽に「読む」?

「なぜ小説を読むのか」を考えると、もっと小説がおもしろくなる

  • 一回一回の読みは、読み手の技量と創造性に対する挑戦『小説のストラテジー』
  • 鼻につくが、身にもつく小説の読み方指南『フランケンシュタイン』×『批評理論入門』
  • 小説家のバイブルは、読者のバイブルにもなる『小説の技巧』

だれかの読み方をマネする

  • 読み巧者を探す『半歩遅れの読書術』
  • 「読書はつねに編集的な行為だ」松岡正剛の読書術
  • すぐ効く本は、すぐ効かなくなる
  • 「棚差し」を見る技術
  • マーキング読書法
  • 「本は味わうものではなく、そこから情報を摂取するもの」立花隆の読書術
  • 読書は「競争」か?『つながる読書術』

「なぜ読むか」「読むとは何か」を考える

  • 「読むとは何か」への歴史視点『読書の文化史』
  • 同じ本を二度読むことはできない『読書礼讃』
  • 「そのときの自分を変えるような本」こそ読むべき『読書の歴史』
  • 『それでも、読書をやめない理由』は、世界に情報が溢れているから
  • 電子化できない読書体験とは『本から引き出された本』
  • いきなり古典に行く前に

 

第4章 書き方から学ぶ

 

文章読本・虎の巻

  • 人を説得するために、いかに書けばいいか『レトリックのすすめ』
  • マスターしたい12の文彩
  • 文字数よりもリズムが重要
  • レトリック読書案内
  • 事実と意見は分けて書け『理科系の作文技術』

おもしろい作品の「おもしろさ」はどこから来るのか

  • おもしろい漫画には「構造」がある『マンガの創り方』
  • 「書く技術」に精通すると、「読む技術」が上達する『小説作法ABC』
  • 解体することで、どのように物語られているかを理解する『キャラクター小説の作り方』

名文で言葉の「型」を練習する

  • ハート抉る寸鉄の蔵出し『名文どろぼう』
  • 一度読んだら、一生忘れられない言葉たち『すごい言葉』
  • 聞いた瞬間、心に届く名コピー集『胸からジャック』
  • スーパードライな箴言集『心にトゲ刺す200の花束』
  • 型を破るために、型を身に付けろ『ポケットに名言を』

 

第5章 よい本は、人生をよくする

 

人生を破壊する「怒り」から自由になる

  • 問題を抱えていると、本に呼ばれる
  • 怒りの本質を知る『怒らないこと』
  • 怒りの根っこには、「私が正しい」という思いが存在する
  • 怒りを「観る」
  • 『怒らないこと』を繰り返し実践する『怒らない練習』
  • 「怒り」は人類共通の悩み
  • 「怒り」を延期させる方法
  • 「私は何も間違ったことをしていない」という人のために
  • 読書で人生は変わる

子どもに「死」と「セックス」を教える

  • 「死とは何か」を教える『死を食べる』
  • 「死とどう向かい合うか」を伝える二冊
  • 「生」と「死」の漢字から学ぶ
  • 「セックスとは何か」を教える『ぼくどこからきたの?』

子育てはマニュアルに頼れ

  • 子育ての目的は「子どもを大人にすること」
  • 良い育児書、悪い育児書を見分ける方法
  • 子どもに幸せをどうやって教えるか『子どもへのまなざし』
  • 比較対象は「昔のわが子」であり、ほかの子ではない
  • 親のいうことは聞かないが、親のすることはマネをする『子どもを追いつめるお母さんの口癖』「なんでそんなことしたの?」ではなく「本当は、どうしたかったの?」『女の子が幸せになる子育て』

生きるとは食べること

  • ヒトは料理で進化した『火の賜物』
  • 人は脳で食べている『味わいの認知科学』
  • 料理の常識を変える『料理と科学のおいしい出会い』
  • 「おいしい」はだませる『食品偽装の歴史』
  •  真剣に食べる=真剣に生きる

「正しい死に方」を考える

  • ピンピンコロリ=「良い死」?
  • 「良い死」「悪い死」とは『現代の死に方』
  • 医者は、自分に対してやってほしくない医療を、患者に対しておこなっている
  • 「寝たきり老人」が日本にはいて、欧米にはいない理由『欧米に寝たきり老人はいない』
  • ポルスト(POLST)というデスハッキング
  • 先生ご自身がこうなられたら、どういう処置を望みますか0『医者には絶対書けない幸せな死に方』
  • 生き地獄ならぬ長生き地獄『死ねない老人』
  • 「安楽死」の値段『安楽死・尊厳死の現在』
  • 「死ぬ義務」が発生する恐れ
  • 死をハッピーエンドにするために

二〇年前の自分に読ませたい珠玉の一二冊

  • 辛いときに寄り添ってくれる『なぜ私だけが苦しむのか』
  • 人類の叡智を結集した一生モノ『アイデア大全』
  • あらゆる問題は既に検討されている『問題解決大全』
  • 親になったら絶対に読みたい『子どもへのまなざし』
  • 自分に嘘を吐くのをやめる『自分の小さな「箱」から脱出する方法』
  • 世の中の仕掛けを知る『プロパガンダ』
  • 料理は自由であることを教えてくれるバイブル『檀流クッキング』
  • 自分の人生を殖やす『ストーナー』
  • 「世界をつかむ」喜びを味わう『銃・病原菌・鉄』
  • 人生の手遅れ感の予行演習『タタール人の砂漠』
  • 結婚が捗る『アンナ・カレーニナ』
  • 最高峰の小説で、濃厚かつ強烈な体験を味わう『カラマーゾフの兄弟』

 

特別付録 禁断の劇薬小説

 

LEVEL 1

  トルストイ 『イワン・イリイチの死』など11冊

LEVEL 2

  ケッチャム 『隣の家の少女』など7冊

LEVEL 3

  サド 『ジェローム神父』など6冊

 

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すべての歴史は現代史である『日本近現代史講義』

Nihonkingendai

これは面白かった! 第一線の歴史学者による14講義。

「歴史の本」というと、教養マウンティングのWikipediaコピペか、イデオロギーまみれのチェリーピッキングが多いように見える。そんな中、歴史学者による実証的な手ほどきはありがたい。

過去を振り返るとき、わたしがよくやる誤りは、いま分かっている情報で判定しようとする姿勢だ。

たとえば、1941年のアメリカに対し、開戦を踏み切ったことについて。原油の依存先であり、圧倒的な国力差であるにもかかわらず、なぜ戦いを挑んだのか?

認知バイアスから見た対米開戦の理由

敗戦という事実から、それを「愚かな行為」と判断するのはたやすい。また「軍部の独走」など分かりやすい悪者を吊るし上げて思考停止するのもたやすい。しかし、そうした予断で向かってしまうと、貴重な歴史の証言から得られるものは少ないだろう。

そんなわたしの予断を、本書の第8章「南進と対米開戦」(森山優)が啓いてくれた。

日中戦争の泥沼化に伴い、態度を硬化する英米との対立解消に向けて、当時の日本には3つの道があったという。

  1. 武力で蘭印の資源地帯を占領する(南進)
  2. 外交交渉で英米の禁輸解除にこぎつける
  3. 何もせず事態の推移に任せる(臥薪嘗胆)

「1」は日本への資源輸送ルートにフィリピンとグアム(すなわち米領)にさらすリスクがあり、アメリカからの攻撃を受けるリスクが最大化する。「2」は中国からの撤兵問題で大幅譲歩が前提であり、国内の反発が必至になる。そして「3」の場合、石油が数年で枯渇して、そこで攻められれば抵抗もできない。

1945年を知っているわたしからすると、臥薪嘗胆の「3」がベターに見える。だが後知恵にすぎぬ。なぜ「3」でなかったのか?

それを選ぶと、「損を確定してしまう」ことになるからだ。臥薪嘗胆は、明るい展望がない。石油が枯渇していく状況で、「あの時だったら戦えたはず」と非難される可能性すらある。

一方、外交と戦争は、わずかでも希望を与えてくれる選択肢だったという(たとえ、甘い見通しと粉飾に満ちた数字で彩られていたとしても)。

「追い詰められると一発逆転に賭けたくなる」発想は、プロスペクト理論と呼ばれる。いわゆる損切りによりマイナスの継続を止めるより、大きなリスクを負ってでも、勝利を掴もうとする。さらに、この発想を後押しするエビデンスを過大に評価し、損切りを過小に見たがるバイアスが生じる。

確かに、当時の日本は「3」を選ばなかった。そして、それは誤りだった。だが、その理由を、私たちとは異質な思考様式を持つ人による愚かな選択と片づけるのは、もっと誤りだろう。

歴史認識の難しさと歴史認識「問題」の歴史化

歴史認識の難しさを垣間見る小論もある。

歴史は、すでに起こった過去のことだから「確定している」と考える人がいる。過去は変えられないから、教科書は一つしかない、という考え方だ。

だが、過去を振り返るとき、どこから眺め、何に焦点を当てるかによって、描かれる濃淡が変わる。歴史をどのように記述するかは、過去を振り返るそれぞれの時代の状況や立場が色濃く反映されるからだ。「すべての歴史は現代史である」という言葉が意味するものは、まさにそれだ。

この難しさは、序章「令和から見た日本近現代史」(山内昌之)によく見える。日中歴史共同研究における南京大虐殺の事例が紹介されている。

山内氏自身も参加した研究で、日本側の委員は、死者数について20万人を上限とし、4万人説や2万人説もあると諸学説を紹介する一方、中国側委員は一致して30万人以上だと断定して譲らなかったという。

山内氏は、大躍進や文化大革命、天安門事件での膨大な死者数が公式発表されていないことに触れ、こう述べる。

歴史による同胞の悲運や実数さえ公表していない国が、南京事件など特定の歴史事象について数字を明快に示すのは、歴史を史実性ではなく政治性から見るからだ。

歴史家としてファクトに向き合おうとする恨み節が聞こえてくるが、こうした交渉も含めて「歴史」になるのだろう。

ある歴史認識が問題視されるとき、対象となる事象そのものだけでなく、なぜ問題視されるかも含め、把握したい。歴史認識「問題」について、日本が何をしてきたか、それがどう評価されたのかも含めて、歴史になってゆくのだから。歴史を政治性から見るとき/無視するとき、その行為自体がまた、歴史の審判に委ねられるよう、残しておきたい。

他にも日韓における歴史認識問題について、経済協力支援金の行方から見た論点や、韓国エリートが火消しに走らなくなった理由など、興味深い論考もある。

第一線の歴史家による、鋭い考察とバランス感覚に優れた講義録。

 

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戦争が子どもを怪物に変える『ペインティッド・バード』

戦争が子どもに襲いかかり、子どもが怪物に変わっていく話。人間が、いかに残酷になれるかを、嫌というほど教えてくれる。

あまりのグロさに「劇薬小説」として認定した『ペインテッド・バード』が映画になった。

Paint

©2019 ALL RIGHTS RESERVED SILVER SCREEN ČESKÁ TELEVIZE EDUARD & MILADA KUCERA DIRECTORY FILMS ROZHLAS A TELEVÍZIA SLOVENSKA CERTICON GROUP INNOGY PUBRES RICHARD KAUCKÝ

小説は、エグいのに目が離せない、手が離れない、強い吸引力をもつ。TIMES誌の「英語で書かれた小説ベスト100」に選ばれている。

読む地獄

戦争は大衆を襲う狂気だ。身寄りを失った10歳の男の子が向かう疎開先の人々は皆、本能に忠実だ。むきだしの情欲や嗜虐性が、目を逸らさせないように突きつけられる。目撃者は主人公なので、読むことは彼の苦痛を共有することになる。

体験と噂話と創作がないまぜになっており、露悪的な「グロテスク」さがカッコつきで迫る。日常から血みどろへ速やかにシフトする様子は、劇的というよりむしろ「劇薬的」。スプーンでくりぬかれた目玉が転がっていく場面は、忘れられないトラウマとなるだろう。白痴の女の膣口に、力いっぱい蹴りこまれた瓶が割れるくぐもった音は、ハッキリ耳に残るだろう。

読んだものが信じられない目を疑う描写に、口の中が酸っぱくなる。耳を塞ぎたくなる。

ペイティッド・バード=異端の鳥

ペインティッド・バード(彩色された鳥)は、最初は遊びとして、次はメタファーとしてくり返される。生け捕りにした鳥を赤や緑色に塗って、群れへ返す。鮮やかに彩色された鳥は、仲間の庇護を求めていくが、群れの鳥たちは「異端の鳥」として攻撃する。

その鳥は、なぜ仲間が襲ってくるか分からないまま引き裂かれ、墜落する。主人公は浅黒い肌、漆黒の瞳を持つ。金髪碧眼のドイツ兵がうようよいる戦地では、「反」ペインティッド・バードになる。

暴力に育てられた子どもは暴力を拠りどころとして生きる。自分が壊れないために、自分を欺く。同時代の戦時下をしたたかに生き抜く子どもの話だと、アゴタ・クリストフ『悪童日記』を思い出す。これは、狂った現実を生き抜くために、受け手である自身を捻じ曲げる話。辛い過去や悲惨な出来事は、それを引き受けるキャラクターを生み出し、そいつに担わせる。

この、過去を偽物にしないために、自分を嘘化するやり口は、『悪童日記』だとよく見通せる。続刊の『ふたりの証拠』『第三の嘘』と追うごとに、過去を否定する欺瞞が詳らかになるからね。『ペインティッド・バード』では、そんなあからさまな相対化はない。

だが、それぞれのエピソードごとに別々の「主人公」がいたのではないか、と考えたくなる。

なぜなら、あまりにも悲惨すぎるのだ。

苛烈な虐待を受け続けると、普通は死ぬ。氷点下の河に突き落とされ、浮かび上がるところを押し戻され呼吸できない状態が続くと、溺れ死ぬ。真冬の森に放置されると、飢え死ぬか凍え死ぬ。だが、彼は生き延びる。次の章では誰かに助けられるか、まるでそんなエピソードは無かったかのような顔で登場する。これは、様々な死に方をしていった子どもたちの顔を集めて、この「彼」ができあがったんじゃないかと。

「彼」は著者に通じる。あとがきで幾度も「これは小説だ」と念を押したって、どうしても出自から推察してしまう。この本を出したせいで、彼は祖国から拒絶される。「ナチスのせいにしていた虐殺が、実は地元農民の仕業だった」ことを全世界に暴いたからだ。冷戦のあおりを受けて、親ソ的プロパガンダと扱われたり、反東欧キャンペーンの急先鋒と見なされたり、あちこちからバッシングを受け、命まで狙われるようになる。

全米図書賞や合衆国ペンクラブ会長など、きらびやかな経歴をまとっている反面、物理的・精神的にも攻撃されるさまは、『ペインティッド・バード』そのもの。プロフィールの最後で著者の"墜落"を知って、うなだれる。

このすさまじい小説が、映画化される(公式サイト)。邦題は『異端の鳥』。観た人によると、どうやら原作に忠実にしているらしい。アタマおかしいんじゃないかと思うが、作った人をは極めて正気に狂気を徹底的に撮っている。

予告編でキツさは伝わるかもしれぬ。これ、心の底から、モノクロ作品で良かったと思う。カラーだったなら、わたしの琴線が焼き切れるだろう。

第76回ベネチア国際映画祭では、あまりの残酷描写が賛否を呼び、途中退場者が続出する一方、スタンディングオベーションが10分間続き、ユニセフ賞を受賞したという。

日本での公開は、2020年夏だ。

 

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宇宙の果てから素粒子の奥への旅『ズームイン・ユニバース』

極大の世界で「果てしない宇宙」というが、観測可能な宇宙には果てがある。それは、ここから1027m先になる。これより向こうは、観測できないため、あるとかないとか分からない。ゼロを並べるとこうだ。

1,000,000,000,000,000,000,000,000,000m

いっぽう、極小の世界だと、人類の想像の限界のサイズになる。それは、10-35m)の「場」に満ちた世界になる。これより奥は、理論で説明できる範囲外となる。ゼロを並べるとこうだ。

100,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000 分の1m

「いま・ここ」から究極にまで遠ざかった場所から、限りなく近づいた世界まで、極大~極小を一冊にまとめたのが本書だ。ページを開くと、宇宙の果てから出発し、1/10ずつスケールダウンしながら、近づいてゆく。

極大から極小への旅

最初は、すごいスピードだ。138億歳の宇宙―――膨張する時空構造から、超銀河団、銀河団を横目にぐんぐん近づいてゆき、がらんとした星間空間にある暗黒物質、ガス、チリを通り過ぎ、重力の井戸に捕まって降りて行く先は太陽系だ。その一つの岩石惑星・地球に向かい、とある大陸の、とある生物の背中に降り立つ。

そこからスピードを落としてゆき、細胞表面に付着している細菌に近づき、細菌の奥へ進んでゆき、その単細胞のDNAらせんをくぐり、組み込まれている炭素原子を通り過ぎ、その原子内の無の空間を延々と進み、ついに陽子の最深部にたどりつく。

旅路の途中で出会うものにまつわるトピックが面白い。宇宙の誕生について、暗黒物質について、宇宙と原子の深い関係について、光の本質について、系外惑星について、潮汐現象について、生物の主成分が炭素である理由、「場」とは何かについて学ぶことができる。

それぞれのビジュアルや解説は、最新の科学で裏付けされており、宇宙物理学から天文学、地球科学、分子生物学、量子論などの領域を「スケール」で縦断していくのが楽しい。

この、スケールを変えながら宇宙を旅するというアイデアは、たとえば『パワーズ・オブ・テン』(チャールズ&レイ・イームズ,1977)が有名だ。美しい写真とイラストが豊富だが、いかんせんデータが古くなっている。『ズームイン・ユニバース』は、最新情報をアップデートし、見せ方を工夫したものになる。

ぐんぐん進む旅路に身を任せてページをめくるのもいいが、興味を引いた記事を熟読した後、自分で調べ始めるのもいい。

1013→109「惑星の多彩な顔」

わたしの眼を惹いたのは、1013mあたりの、系外惑星(太陽系以外の惑星)のトピックだ。

近年に発見された惑星を推計した膨大なデータがビジュアライズされている。これを見ると、たいていの惑星系では、太陽系に比べて主星にかなり近い位置に存在していることが分かる。言い換えるなら、内よりに星が集まったものが多く、太陽系の惑星は、典型的でないようだ。

さらに、地球に似た生命活動が可能な(ハビタブル)惑星も数多く見つかっていることが示されている。昔からよく言われる「奇跡の惑星」は、実は「ありふれた奇跡」に近いのかも……と思えてくる。

おそらく、「神に選ばれし人が住むこの星」を特殊だと思いたい宗教的バイアスがあると考える。キリスト教の宗教観が、大なり小なり宇宙論に影響を与えており、そこから逃れるには、こうしたエビデンスの積み重ねが必要なのかも。この辺りの経緯は、『系外惑星と太陽系』(井田茂、岩波新書)のレビューで考察している。

10-6→10-10「ミクロの扉の向こう側」

面白いというより、不思議な感覚を抱いたのが、タンパク質と炭素の関係だ。

ヒトの体には、60兆個の細胞があり、それぞれ80億個のタンパク質を持っているといわれている。そして、1つの細胞のミクロコスモスを拡大してゆく。「巨大分子の部屋」と称する解説では、タンパク質を「巨大構造物」として扱っている。そして、リボゾームがタンパク質を合成する過程を、オートメーション化された無人工場ラインで製造されていくかのように説明する。

物質がいかに生物となっていくかの精妙なプロセスや品質管理は、『タンパク質の一生』(永田和宏、岩波新書)で知った。だが、この旅ではさらにその奥、なぜタンパク質(というか生物の基本要素)が炭素で構成されているかまで進んでゆく。

本書によると、炭素原子は、あらゆる種類の分子を作るのに都合よくできているという。量子の言葉で言うなら、炭素原子の周りのちょうどいい場所で価電子の存在確率が高くなることで、他の原子と結合できる(すなわち、化学結合が作られる)というのだ。

この「都合のいい」「ちょうどいい場所」がなぜそうなっているかは、説明されていない。偶然の所産として扱われているが、そこからは物理学(と、ひょっとすると哲学)の領域なのかもしれぬ。

10-16→10-18……10-35「「場」が満ちた世界」

学校で習った分子や原子は、まだイメージが湧く。問題はさらにその先、原子核の奥の陽子や中性子と、さらに複合粒子の向こう側へ行こうとすると、途端に複雑になる。

これは、たいへん面白い。なぜなら、物質をどんどん分けてゆき、その源となるシンプルな本質を確かめようとする科学が、(現時点では)矛盾した状況に行き当たっているからだ。

たとえば、「鉄とは何か」という問いに、鉄なる物体を分割してゆき、もうそれ以上分割できない(atom)極微の物質として、原子を定義づけた。それが、調べてみると原子核には陽子と中性子があり、さらにそれらは複数のクォークで構成されている。

そこからは素粒子の世界で、分割できないと定義したものなのに、さらに「素」が付けられる。クォークは6通りの「フレーバー」を持ち、基本的な力(電磁気力、重力、強い力、弱い力)の作用を受けるという。さらに、6種類のレプトンやフェルミ粒子、ボース粒子のモデルが紹介されている。物質の源を探す旅なのに、恐ろしく複雑な構造になっている。

実験や観測で得られる、複雑で確率的な結果を説明しようと、ひもの振動や時空の泡のモデルが研究されている。スケールが違うだけで、2,000年以上前に議論された atom と同じやり方だ。言い換えれば、人は2,000年で10-35mまで届いたとも言える。

1027mより先は、そもそも観測する手段を持っていないが、10-35mより奥は、どうなるか分からない。人にとって、宇宙には果てがあるけれど、存在の究極がどうなるかは、これからなのかも。

極大マクロから極小ミクロへ旅する一冊。

Zoomin

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おっぱいに(科学的に)興味がある人必読 『哺乳類誕生』

おっぱいとは何か?

この問いに対し、人文科学からたどったのが『乳房論』だ。絵画、文学、宗教、政治、ファッション、医療、ポルノの斬り口から、[乳房をめぐる欲望の歴史]を描き出している。

いっぽう、自然科学からたどったのが本書『哺乳類誕生』だ。遺伝学、分子生物学、獣医学、生物工学、古生物学の斬り口から、乳房に至る進化の歴史を描き出している。

おっぱいで子どもを育てる哺乳類は、どのようにおっぱいを獲得したのか。乳はどのように発達し、どういったメカニズムで出て、生命維持にどのような役割があるのかなど、おっぱいの本質を学ぶことができる。

ワクワクしながらページを開く。第一章は「生命誕生」。

そこからか!

おっぱいまでの進化

遺伝子と有性生殖の仕組みを語り、アミノ酸から原生動物、魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類に至るまでの進化を丹念に振り返る。これが半分以上を占めており、なかなかおっぱいにたどり着けないのだが、面白いトピックが満載されている。

話題があちこち飛ぶため、散らかっているように見える。だが、そこに共通するものは、「いかに生き残るか」というテーマだ。「目の進化」や「耳の進化」といった器官ごとに焦点を当て、捕食者やライバルを出し抜く戦略や、そもそも敵がいない場所で生き延びるための工夫を見て取ることができる。進化とは、どのように生き残るかの試行錯誤の歴史なのだ。

さらに、鳥類から始まったとされる「子育て」に焦点を当て、卵生のメリット・デメリットと、それを克服する胎生のメカニズムを説明する。子孫を残すうえで、最も弱い存在が卵だ。動くこともできず、餓死や捕食の危険が非常に高い。多くの卵を残したり、親が卵を守ったり、胎内で大きくすることで、子孫を残すために有利になろうとする。進化とは、どのように子を生み、育てるかの試行錯誤の歴史なのだ。

全ては第三部の「進化の究極──乳腺と泌乳」への伏線になっている。乳腺とは、乳を分泌する腺で、泌乳とは、乳が分泌されることなのだが、著者曰く、おっぱいこそが進化の究極になる。

おっぱいの本質

いちばん驚いたのが、おっぱいの本質だ。

ほとんど味しないし、うっすら生臭いので、血液みたいなものなのだろうと思っていたが、わたしが浅薄だったことを思い知らされた。もちろん、血漿に含まれる成分と重なるところがあるが、おっぱいの本質は、脂肪を与える仕組みから分かる。

子どもを大きくするためには、大量の栄養―――特に脂肪を効率的に与える必要がある。だが、脂肪は、ほとんど水に溶けない。おっぱいは液体だから、脂肪を渡そうとしてもそのままでは難しい。どうするか? 

脂肪は乳腺細胞がつくり、細胞内の脂肪滴という形で存在する。これを乳に移行するときは、細胞膜を通らなければならないのだが、通過する場所がない。そのため、細胞膜を内側から押し上げ、細胞膜に包まれた状態(脂肪球)となって乳に移る。細胞膜そのものは水に混ざりやすい性質を持っているため、脂肪滴も親水性物質として振舞えるというのだ。

著者は淡々と説明しているが、これ、端的に言うと、何らかのパイプを通じて養分を与えるのではなく、自分の身(細胞)を削って脂肪を包んで乳にしていることなる。まさに身を削って乳を与えているといえる。おっぱいは、血というより肉の一部なのだ(面白半分に飲んでた自分を殴りたいorz)。

さらに、このメカニズムにより、水より油に溶けやすい(脂溶性)物質を効率的に届けることができる。ビタミンA、D、E、Kは脂溶性ビタミンと呼ばれており、その運び手として脂肪滴が用いられる。特に、カルシウムの吸収を助けるビタミンDは欠かせないという。

効率よく糖分を届けるメカニズム

また、脳や神経の発達に大量のブドウ糖を必要とするのだが、その渡し方がすごい。乳は、ブドウ糖ではなく、乳糖で渡す。これにもちゃんと理由がある。

つまりこうだ、ヒトの血中ブドウ糖は0.07~0.14%で維持されており、これを大幅に超えてコントロールできなくなると、全身に異常が現れる(糖尿病だ)。ブドウ糖は必要だが、正常範囲を超えたら毒になるのだ。

だが、効率的に栄養を渡すため、乳の糖分を高くしたいニーズがある。一方、ブドウ糖を乳で渡すのであれば、その濃度は体内の正常範囲に収めなければならぬ。このジレンマを解消するのが乳糖だ。乳糖は、体内では利用されず、高濃度にしても支障ないという(人の乳に含まれる乳糖は7%)。これにより、高い糖度のおっぱいを、母体内の糖度に影響を与えずに渡すことができる

これほど高度なメカニズムを持つおっぱいも、実は使い捨てなのだ。子育てが終われば乳腺は役目を終え、乳を作ってきた細胞の全ては破棄される。再利用するのは太い乳管のみで、次に妊娠すると一から構築しはじめる。これにより、細胞の老化を心配することなく、どの新生児にも最高の状態で乳を与えることができる。おっぱいは偉大なり。

初乳の重要性

冒頭で紹介した『乳房論』に出てくるのだが、いわゆる「母乳神話」説がある。

「子どもを母乳で育てなければならない」という主張で、アンリ・ルソーが流布したと言われている。だが、「母乳でなければならない」科学的根拠は無く、他の乳でも代用できるという説もある。「母乳vs.ミルク」論争は続いており、母乳の出にくい人からのお悩み相談が今でもある。

わたし自身、都合により使い分ければよいと思っていたが、本書を読んだ後は、「少なくとも初乳(最初のお乳)だけは必要かも」と考えを変えた。

というのも、初乳に含まれる免疫グロブリンの説明を読んだからだ。かいつまむと、こんな感じ……

……初乳に含まれる免疫グロブリンはG、A、Mの3種類ある。GとAは、細菌類の攻撃に対し、防衛機能を担う重要なグロブリンになる。胎盤を通じてグロブリンは受け取るが、それはGのみ。そのため、生まれたばかりで免疫機能が不十分な子どもには、できるだけ早く初乳を与えることが重要になる……

で、この後、牛の初乳の話が続くのだが、激烈といっても良いほどの違いが説明されている。初乳の必要性には、科学的根拠はあるようだ。

他にも、ヒトのおっぱいが2つある理由(乳頭と産子数との関係性)、牛乳を飲むとお腹を壊しやすい原因(ラクターゼ遺伝子)など、おっぱいを知れば知るほど、驚いて感嘆する。この興奮、『眼の誕生』に近い。イチから眼を実装しようとすると、あまりに高度に完成された機構に、「神が与えし器官」と言いたくなる。それと同じ、いやそれ以上に精密な器官がおっぱいだといっていい。

おっぱいは、子どもを育てるための試行錯誤を経てきた究極の姿なのだ。

本書は、おっぱいの碩学・骨しゃぶりさんのお薦めで知ったのだが、おっぱいの素晴らしさにうちのめされた(骨しゃぶりさん、ありがとうございます!)。

ちなみに、骨しゃぶりさんのおっぱい関連書籍の紹介は、以下の通り。次は『乳房の科学』読もうかな……

[おっぱいの本16冊]

[おっぱいの本17冊目『乳房の科学』は実用的かつ濃厚な読み応え]

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ヒストリエを20倍楽しく読む方法『アレクサンドロスとオリュンピアス』

岩明均『ヒストリエ』は、噛めば噛むほど味がある。

ただ面白いだけでなく、予備知識をアップデートして読むと、伏線や演出が張り巡らされていることに気づき、もっと夢中になれる。あの瞬間の表情の理由、あの言葉の裏の意味……噛めば噛むほど楽しめる。

万が一、これを読んでいるあなたが、未読なら、羨ましい! ぜひ堪能してほしい。絶対に面白いと断言できる。

『ヒストリエ』を、もっと面白く読む方法がある[『ヒストリエ』を10倍楽しく読む方法]では、アレクサンドロス大王の予備知識を仕込んだが、ここでは、オリュンピアスに迫る本を紹介する(この記事ではネタバレ回避して書くのでご安心を)。

アレクサンドロス大王の母であり、フィリッポス二世の妻であるオリュンピアス。蛇を崇める密儀の狂信者であり、暗殺を企んだ残虐きわまりない悪女という噂と、智勇を備え王家の血統を守らんと奮闘した王妃という悲話と、両方が伝わっている。

どちらが真実の姿に近いのだろうか。

『ヒストリエ』では、才と美の二物を与えられ、息子を溺愛し、恐ろしく頭が切れる女として描かれている。11巻で身の危険が迫り、大変なことになってるが、『アレクサンドロスとオリュンピアス』を読むと、この後さらにスゴいことになることが分かる。

暗殺の首謀者オリュンピアス

本書は、男性優位の社会で自立しようとした女性に対するバイアスと格闘しながら、史料を読みほどき、オリュンピアスの歴史的実像に迫る。

たとえば、『ヒストリエ』ではこの後、暗殺事件が起きるのだが、その首謀者としてオリュンピアスが取り沙汰される。それが事実である理由として、暗殺者の遺体に冠を被せ、犠牲式を行い、暗殺に使われた短剣を神殿に奉納した、というオリュンピアス伝承がある。

しかし、これは信用できないとバッサリ斬る。あからさま過ぎるという。

そして、この伝承は、彼女の影響力を恐れた政敵が流したプロパガンダだという。さらにこの噂を、ワイドショー的な興味からローマの作家が伝記の形で定着させたというのだ(犯人は、ヘレニズム時代の作家サテュロスとまで名指しである)。言い換えるなら、それだけ大きな影響力を持っていたということになる。

ジェンダーバイアスまみれの史料

古代史料を丹念に史料を追うと、男女の違いが見えてくる。

男が残虐な行為をしても、道徳的な判断は少なく、淡々と書かれるだけだという。

カッサンドロス配下の将軍は、敵対する支持者500人を建物の中で生きながら焼き殺したとか、ペルディッカスは政敵50人(または500人)を象に踏みつぶさせたとあるが、非難めいた言葉は添えられていない。

一方、オリュンピアスは批判的に書かれている。

たとえば、ある赤ん坊を股にはさんで絞め殺し、その母親を自殺するように仕向けたことについて、残酷だと批判され、否定的な価値判断で書かれている。敵対していたアンティパトロスの遺言「女には決して王国を支配させてはならぬ」が現代にまで伝わっているのも、その証左だろう。

エウメネスとオリュンピアス

『ヒストリエ』愛読者なら、エウメネスが気になるだろう(実は、わたしがめちゃめちゃ気になっている)。本書では、エウメネスはこんな風に紹介されている。

  • カルディア出身のギリシア人で、前361年に生まれ
  • フィリッポス二世が彼の才能を見出して登用
  • アレクサンドロスも彼を信頼して遠征軍の書記官に任命
  • 大王の治世は騎兵部隊を指揮して軍事的才能を現わす
  • 大王の死後は小アジア北東部の総督領を割り当てられる
  • 後継者戦争においても王家に対する忠誠を守った

そして、オリュンピアスの手紙の中で、「エウメネスだけが最も信頼できる友人である」と述べられている。大王の死後、孤立感を深めるオリュンピアスにとってただ一人本心を打ち明けることのできる将軍だったというのだ。

!?

あ……ありえない! だって〇〇が△△されて✖✖になっちゃうんだぜ。エウメネスとオリュンピアスの関係は最悪になるだろう。にもかかわらず、オリュンピアスはエウメネスを「信頼できる」と断定するんだぜ。どんな魔法を使うんだオリュンピアス!

ネタバレ妄想

ここからネタバレ込みの妄想な(反転文字)。

<<< 反転文字ここから >>>

『ヒストリエ』のテーマとして、「歴史は繰り返す」がある。戦争や和平といった大きな営みだけでなく、たとえば「エウメネスが惚れた女は王が娶る」というパターンがある(パフラゴニアのサテュラ、アッタロス家のエウリュディケを思い出してほしい)。

そこで、「エウメネスは騙される」が出てくるのではないか? と妄想する(「よくもぼくをォ‼ だましたなァ!!」を思い出してほしい)。エウメネスが最も大切にする存在が、人質にされるのではないだろうか? 

彼が最も大切にする存在、すなわち、エウリュディケを生かしておく。その代わりに、大王に忠誠を誓えという展開が待っているのではないだろうか(エウリュディケとの関係が示唆されているため、オリュンピアスが股に挟んで殺す赤ん坊は、エウメネスの子でもある可能性……は考えすぎだろうか)。

そして、騙されたエウメネスはどうするか?

当然、復讐だ。

しかし、単に殺すだけでは飽き足らない。オリュンピアスを絶望の淵に叩き込むには、自分が最も期待されるときに、それを裏切るように仕向けないと―――と考えると、雌伏するほかない。

優れた軍事的手腕はあるが、血筋や財産を持っているわけではないエウメネスは、自身が将軍として軍団を任されるときまで待つ。そして、時が流れ、状況が変わり、オリュンピアスがエウメネスの軍が最も必要とするタイミングに、「寝返る」という形で復讐を果たすのではなかろうか(ハルパゴスの「ば~~~~っかじゃねぇの!?」を思い出してほしい)。

ハァハァハァ……妄想しすぎだろうか。もしこの与太話が(マンガの中で)現実になるのなら、エウメネスは、我が子の料理を食べることになるだろう。

<<< 反転文字ここまで >>>

与太話はここまでにして、『アレクサンドロスとオリュンピアス』は、妄想を捗らせてくれる。「誰が語ったか」を元に、どんなバイアスが潜むか炙り出し、慎重に吟味しながら事実を狭めてゆく、ミステリのようにも読める。

Alex




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世界の見え方を変える『オーバーストーリー』

リチャード・パワーズ『オーバーストーリー』を読むと、「木」に対する見え方が変わる。

Overstory

木ってあの木? そうだ、街並みや公園で見かける木であり、山を見るときに目に入ってくるあの木のことだ。

これを読むと、木を、新しい目で見るようになる。いっぽん一本の違う木が「ある」のではなく、全体として木が「いる」ように感じられる。一つの木に焦点を当てて見るという感覚よりも、もっとカメラを引いて地表を覆う存在を想像するような……

この感覚、読んでもらうのが一番だが、このイメージで伝えたい。この長編小説に入り浸っている幸せなあいだ、わたしの心は、ずっとこの光景で覆われていた。

地上の目からすると、それぞれの木は独立している。だが、数十メートルの空からだと、互いの枝葉を譲り合いながら全体として森全体が蠕動しているように見える(樹冠が空間を譲り合う現象を、クラウン・シャイネスと呼ぶ)。そして、地面の下では、それぞれの幹から伸びた根が複雑に絡みあい、コミュニケーションを行っている。

『オーバーストーリー』も同じように見える。その前半は、8つの章に分かれた、9人の生きざまを追いかける、それぞれ独立した短編として読める。各人に象徴的な木が登場するのが面白い。

  1. 一本の栗の木を、四世代に渡り撮影し続けた写真を相続した芸術家(栗)
  2. 中国からの移民の末裔で王維の美術画を受け継いだエンジニア(扶桑)
  3. ヒトという動物を観察しつづける心理学者(楓)
  4. 素人演劇で結ばれる恵まれた若いカップル(オーク)
  5. ベトナム戦争で撃墜されるも巨木に救われた空軍兵士(菩提樹)
  6. 世界をシミュレートするゲームを作り上げた天才プログラマ(ボトルツリー)
  7. 障害を抱えながら、樹木同士のコミュニケーションを発見する科学者(ブナ)
  8. セックスとドラッグに溺れたあげく感電死→蘇生した女子大生(銀杏)

幼少期から大人にかけて、線形に描写されたそれぞれの人生は、生きることの苦しみや、ままならなさを抱えており、ちょっと読むたびにグッと胸にこみ上げてくるものがある。ひとり一人の生い立ちや思想は異なるものの、突然の不幸や社会の逆風に揉まれる様は皆同じ、風に吹かれて揺れ動く木のようだ。

中盤、ばらばらに見えていたそれぞれが、集まってくる。

考え方は違っても、何かがおかしいと感じることは一緒。非常に長い年月をかけて大きくなった木を、ただ消費するために伐採する状況に異を唱える。それぞれの大切にする木は違っていても、「このままではいけない」と声を上げ、行動を起こす。

最初は、各人の行動はバラバラで、望む結果に結びつかない。むしろ、互いを知らないまま、意図せず足を引っ張り合ったりする。共通項といえば、アメリカ合衆国という場所で生きているだけで、それぞれの信ずるがままに動けばそうなるだろう。

それが集まるにしたがって、少しずつ譲り合い、協調して、全体として振舞おうとする。草の根レベルでつながって、同じ場所でコミュニティを形成する人々もいる。互いに面識はなくとも精神的紐帯を保ちながら、結果として連携している人たちもいる。

後半は、いわば数十メートルの空から、そうした譲り合いや連携を見る。互いの人生を譲り合いながら登場人物ひとり一人が全体として蠕動している、人のクラウン・シャイネスのようだ。反発しあう人、自己犠牲に殉ずる人、裏切る人……それぞれの振る舞いが急ぎ足で活写され、数十年がいっぺんに経過する。

木のスピードで見るならば、ヒトの営みなんて、タイムラプスで早送りされた一瞬なのかもしれぬ―――そして、それこそがまさに、9つの人生が伝えていることなのかも。この小説がいちばん変えたのは、わたしの時間の感じ方なのかもしれぬ。こんな風に。

人間は、時間は一本の直線だと思い、直前の三秒と目前の三秒だけを見ている。本当の時間は年輪のように外側を覆う形で広がっているのだということを人は知らない。”今”という薄い皮膜が存在しているのは、既に死んだすべてのものから成る巨大な塊のおかげだ。

めったにお目にかからないが、読む前と世界を違ったものにする作品がある。

世界というより自分が変わる。世界の「見え方」が変わる。いかに見えていなかったかが分かり、世界の解像度が上がる。プルーストが言ったように、新しい世界を見るのではなく、新しい目で見るようになる。

リチャード・パワーズ『オーバーストーリー』が、まさにこれだ。新しい目で、世界を眺めてみよう。

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萱野稔人・御田寺圭『リベラリズムの終わり』トークイベントまとめ

世界中で嫌われている(らしい)リベラリズムの限界と未来について、萱野稔人さんと御田寺圭さんが考察するというトークイベントがあったので聴いてきた。

トピックハイライト

  • 顔で選ぶと差別だが、頭で選ぶのは差別ではない
  • 男女平等が大事なら、激務で過労死寸前の職場に女性を送り込むの? と聞くと、「そんなことは議論していない」
  • SNSで偉そうな教授はCiNiiで検索される
  • リベラリズムでは財の再配分ができない理由 ≒ 仲間意識の限界 ←ここがリベラリズムの限界
  • 多様性を重視するなら「リベラルを拒絶する人」をリベラルは受け入れるべきだが、リベラルを拒絶する人が子どもをたくさん産んでいる(ex.フランスのイスラム教徒)
  • 日本は一夫一婦制ではなく、非同期型一夫多妻制
  • リベラリストとは「リベラルを共有できる社会を守りたいだけの集団」になってしまう
  • リベラリストへの信頼が失墜しても、リベラルを捨てないために今できること

リベラリズムの現状

リベラリズムへの風当たりが強まっているという。

個人の自由は尊重されるべきだし、フェアネス重要、宗教や表現の自由も言わずもがな。財の再分配を目指し、貧困を解消するのは理想的な思想のはずなのに、世界中で嫌われているらしい……なんて言われると、私なんぞ「ホント?」と疑ってかかってしまう。

のっけからテンション高いのは萱野さん。哲学者という肩書だが、力強い物言い、主張に事実を添える話法は、気鋭の実業家のようだ。

リベラリズムが嫌われるのは、リテラシーの問題だという。ある主張を「ヘイトスピーチだ!」と糾弾するリベラルな人がいるのだが、その人自身がヘイトスピーチを無自覚にしているのではないのか? と問いを突き付ける。

たとえば、「〇〇は人間じゃない」とまで言い出すリベラリスト。それ、〇〇に「黒人」や「オバマ」を入れたら一発アウトになるのではないかという。自分が攻撃したいものだけをヘイトスピーチと言って、自分がやっていることには目をつむる鈍感さ、これがリベラリズムへの風当たりを強くしている例だという。

それを受けるのは御田寺さん。SNSの論者として有名だが、めちゃめちゃダンディ&ハンサムなお兄さんだった。

リベラリストの受けが悪いのは、その線引きに恣意性があることによる、ダブルスタンダードへの反発なのだという。差別問題ひとつとっても、差別がいけないというなら、あらゆる差別はいけないというべきなのに、そうでないご都合主義が問題になるという。

たとえば、ミスコン。女性の容姿を序列化して順位をつけるというイベントはダメだというが、じゃぁ学力による序列化はいいのか? となる。序列化による選別を批判するのなら、顔はダメで頭がいいというのは都合が良すぎやしないか? とツッコんでくる。差別はいけないのであれば、学習障害や知的障害があるけれど、学問をしたい人を受け入れなければならない。

顔で選ぶと差別だが、頭で選ぶのは差別ではない

さすがにこれは極端な例だと思う。

教育というリソース(教育者や設備・環境)が限られている以上、そこを希望する人全員を受け入れることができないのであれば、何らかの基準による選別が必要になるだろう。「差別はいけない」という主張と「能力に基づく序列化」は、どこかで折り合いを付けなければならない。

しかし、「差別はいけない」を先鋭化していくならば、「顔で選ぶと差別で、頭で選ぶのは差別ではない」という主張は、ロジックとしておかしいことは分かる。おそらく、御田寺さんは極端な例をもってくることで、折り合いをつける必要性を訴えたいのではないかと考える。

どこまで男女平等にする?

リベラルなダブルスタンダードの例として、医科大学の男女差別の話が出てくる。

女子の合格者数を意図的に抑え、差別的な扱いをしていた東京医科大学の例だ。公正に行われるはずの大学入試が歪められたとして、マスコミ各社から盛大に批判されていた問題だ。

萱野さんは、その報道側に注意を向ける。就活における男女の能力差について、新聞社の中の人に尋ねると、圧倒的に女子の方が高いという。適性試験や面接での評価、どちらを合わせても男は女に劣る。そのため、単純にテストで決めるなら圧倒的に女性の割合の方が多くなる。

しかし、新聞社の新入社員の男女比はほぼ 1:1 だ。なぜか?

新聞社の人に直接尋ねるとと、(目線をそらせながら)「それは、いろいろとありまして……夜討ち朝駆けとか議員さんのお宅に深夜にお訪ねするとか、若い女性だとほら、問題あるでしょ?」とゴニョゴニョとなる。

御田寺さんは、「それはどこまで平等にするの?」という問いに集約されるという。医科大学の話は、「医療科を選ぶとき、女性は楽な科に行きたがり、キツいところは人手不足になる」という現場の声を反映した結果だという。

もちろん、男女平等は大事だ。だが、キツい汚い仕事も、男女比を合わせるのか? という話になる。激務で過労死寸前の職場に、女性を送り込むのか? となる。そう問うと、リベラルな人は、「そんなことは議論していない」と返してくるという。

キラキラした、うま味のあるところだけ焦点があたって、ジェンダーギャップがどうのこうの言っているのは欺瞞ではないか。普遍的なところで平等化を目指す、労働者のためのリベラリズムなのではないか? ……このように御田寺さんは考えるのだが、そこはスルーされている。能力のない人へのまなざしは厳しい。

本を書く人はネットでも発信するべき?

閑話休題。ここでエゴサの話になる。

萱野さんはSNSで情報発信をしていないそうだ。ニュースなどで誰かのつぶやきを目にして、「twitter という世界がある」という程度の認識だという。いっぽう御田寺さんは、twitter などで活発に発信している。

なぜ萱野さんはネットをやらないか? その理由が生臭くて良い。萱野さんが最初の著書を出したとき、その評判が気になったという。出版社からの反応ではよく分からないので、よせばいいのに2ちゃんねるを覗いてしまったそうだ。

案の定というか、専用スレが立てられていて、執拗に徹底的に、木端微塵粉になるまで叩かれていたらしい。以後、恐れをなしてネットは見ない誓いを立てたそうな。

それでも萱野さん、やはりネットに興味があるようで、SNS言論の猛者ともいえる御田寺さんに「どうですかね? ネットの評判って?」と水を向ける。返答がこれ。

「ネットで言われていることを、知らないほうがいいですよ。(私は)なりゆきでこうなってしまったけれど、なれるものなら真人間に戻りたい……」

SNSで偉そうな教授はCiNiiで検索される

ちょっと話が逸れて、「言論の担い手の変化」になるのだが、これまた面白い。

ゲンロンといえば、昔は知識人・思想人のものだった。言論「界」という名は体を表していたという。90年代は、職業的な知識人のものであり、例えば柄谷行人が大きな影響を与えていた。

だが、今や「よくあんな議論が成立していたなぁ……」と隔世の感だそうな。思い込みだけで「思想」しており、誰も説得できないゲンロンが成り立っていたらしい。

今やSNSで言論が形成される時代になっている。これは、言論の民主化ともいうべき、喜ばしいことでもあるのだが、一方で、Google によって、いくらでもどこからでも反論・反証が取ってこれる時代になったともいえる。

昔は、大学の教授なんてほとんどお目にかかることもなく、ましてやコメントをやり取りするなんて方法もなかった。だが、今や「上野千鶴子にリプライが送れる時代」になった。偉い先生に「嘘つかないで、違うでしょ?」とメッセージを送り、それが衆目に晒される。

そして、偉い教授から反論が来たり黙殺されたりすることで、マウントの取り合いとなる。偉そうな教授がドヤ顔していると、CiNii で検索される。ご想像どおり、twitter に入り浸っているような教授は、まともに論文書いていないのがほとんどで、「論文書け」とバッサリ斬られる。

こうした丁々発止の中で、言論が形成されてゆく。こうしたオピニオンの民主化は、リベラリズムの成果なのかもしれぬ。

財の再分配は、どこまでするの?

萱野さんが、踏み込んだ議論をする。曰く、「リベラリズムでは、財の再分配はできないのではないか?」という問いだ。

象徴的な例として、EUにおける極右の台頭や、Brexit の動きを挙げる。その背景に、「自分たちの税金は、自分たちで使いたい」という思いがあるというのだ。

つまりこうだ。EUに所属していくために重い負担金がかかる。そのうえ、自分たちの財政を自国のために使えない。本当は自国の福祉政策に使いたいのに、EU本部のエリートの一存で、移民政策に割り当てられる。国民主権の思想からするならば、税金をどう使うかは国民が決めるのに、そうではない現実が揺れ戻しを招いている構図だ。

他の例として、貧困の救済が挙げられる。リベラリズムをグローバルに考えるなら、貧困問題を解消するために、日本の税金を最も効果的に使う場所はアフリカの貧しい人々だろう、となる。それは極端ではないかと思うが、ロジックとしては成立してしまう。

いま私が感じた「極端さ」について、萱野さんはこう問うてくる。財の再分配する範囲を決めているのは、文化や歴史を共有しているグループ(≒仲間)意識ではないかと。そこを超えて再分配しようとすると、反発が生じるのではないかと。そして、ここがまさにリベラリズムの限界なのではないかという。

「リベラルを拒否する人」をリベラリストは受け入れられる?

これに対し、御田寺さんは、EUの揺れ戻しに着眼する。

個人の自由を尊重するならば、「リベラリズムを許容しない人」の自由も尊重することになる。西欧主義的・キリスト教的なリベラリズムと相いれない、たとえばイスラム教を信仰する人も、リベラリズムを信じる社会へ受け入れることになる。

欧州でイスラム教を信じる人々が一定のプレゼンスを持っているのは、こうした背景による。リベラリズムを信じて、広げよう広げようと努力するほど、リベラリズムを信じない人を受け入れることになる。

これを拒否するのであれば、結局リベラリストとは、「リベラルを共有できる社会を守りたいだけの集団」なのではないか、とツッコミが入ってしまう。これはキツい言い方だが、理屈を進めるとそうなってしまう。

リベラリズムは、批判したい相手を叩くのに便利だが、強烈なブーメランにもなることが分かる。

暗い予想図

リベラリズムが蔓延した未来がどうなるか? 

御田寺さんが描く未来予想図は暗い。めちゃめちゃ暗くさせられる。しかし、エビデンス付きで見せつけられると嫌でも考えざるを得なくなる。

結論を先に言うと、リベラリズムは滅亡する、になる。理由はシンプルで、子孫が増えないから。エビデンスは北欧の出生率を見よという(日本よりひどい、という発言があったと思ったが、今調べてみるとそんなことなさそう……聞き違いかも)

<追記ここから>

御田寺さんに尋ねたところ、聞き違いではなく、フィンランドの出生率は減少傾向になっており、2018年には1.4で日本と並んでいるとのこと(ご教示ありがとうございます!)。さらに探してみると、フィンランド統計情報があった。

これによると、2010年までは持ち直したものの減少傾向にあり、特にここ数年、急激に低下しており、2018年で1.41に至っているとのこと。減少傾向に地域差はなく、フィンランド全体として起きている現象で、最も激しいのは首都ヘルシンキ(1.23)になる。1900-2018までのフィンランドの出生率のグラフは以下の通り(Statistics Finland「Steep decline in the birth rate continued」より引用)

Total fertility rate in 1900 to 2018

またForbs「最高レベルの子育て政策も無駄? 急減するフィンランドの出生率」によると、フィンランドは、ヨーロッパの新しい日本になりつつある、と解説されている。

<追記ここまで>

個人主義を重んじる傾向が強くなると、産まない自由を選ぶ女性が増えるという。子どもを持つことよりも、個人としての幸せを追求する人が増える。「自分の人生を、子どもに左右されくない」という意思は、尊重されなければならないから。

子どもを産むということは、その子どもを育てるためにコミュニティの中に入り、そこで貢献することが必要になる。これは、個人の自由を目指すリベラリズムと、非常に相性が悪いという。

再生産する人口が続けられなくなるなら、そのコミュニティは消滅する。これは歴史が物語っている。

いくら人権意識がアップグレードされ、平等と公正が浸透したとしても、次の世代がいないのであれば、それは緩慢な自殺になる。リベラリズムの蔓延は、この致命的な欠陥があるが故、詰んでいるというのだ。

そして、この話をすると、反論のエビデンスとして、フランスが持ち出されてくるという。フランスはリベラルが支配しており、政府が支援する多文化主義政策が功を奏し、出生率が上がっていることが指摘される。

これに対し、御田寺さんはイスラム教の人口比を見よという。「リベラルを受け入れない人々」をリベラルが受け入れた結果、産めよ増やせよとなっているのは、イスラム教を信じる人々だというのだ。

萱野さん「生き延びることを重視する保守が最後には生き残るのかもしれない」

御田寺さん「そこにリベラリズムが勝利をおさめるかの分かれ目が、今なのです」

絶望的な未来で、めっちゃ嫌ぁな気にさせられたけれど、調べて、選んで、決めていかなければならない問題であることは身に凍みた。

質疑応答

60人くらい集まってたんだけど、QAがめちゃめちゃ熱かったなり。いわゆる信者乙ではなく、批判的なやり取りもあったが、お二方とも終始真摯に応対していた。全員の興味は、「問題があるのは分かったけれど、どうすればいいの?」だったように見えた。

Q1:「再配分の範囲は国民国家」という萱野さんの主張について。それはそのまま、国家間で資源の奪い合いという、いつか来た道になる。国家の税収は国家の軍隊は守る。一方で、国際社会での再分配も求められる。そのバランスをどうとっていけばいいのか?

A1:萱野さん。国際社会で再分配をしようとすれば、(良い悪いは別として)世界国家のような存在が出てくる。そんな存在を望んでいない、今の国家の枠組みを考えるならば……という前提で、例えば『永遠平和のために』がヒントになると思う。国家が自分勝手に振舞うとき、その振る舞いを正当化しようとする。そのとき、法や倫理に訴えようとするはず。自国の権利を認めて欲しくば、他国の権利を認めるしかないことになる。

御田寺さん。『暴力と不平等の人類史』『金持ち課税』がお薦め。分厚くて高い本だけど、要するに、暴力的な事件が起きたとき、富裕層に課税が起きてきた歴史を振り返ると、そこに大きなヒントがあるんじゃないかと。

『暴力と不平等の人類史』は今年読んだスゴ本だったけれど、これ、一言でいうならば、人類を平等にする最たるものは戦争だということを、徹底的なエビデンスで殴ってくるやつだった。これをさりげなくブッ込んでくるところに笑えたなり。

Q2:『リベラリズムの終わり』でモヤっとした。女性が男性を選べない一夫一妻制の方が、家父長的で女性差別的だと考えるが、どうお考えか。

A2:萱野さん。生涯未婚率を見ると、男性が高く、女性は低い。つまり、男性のほうが生涯独身である可能性が高く、女性は人生のどこかで結婚している。これが物語っていることは、特定の男が(時間差で)何度も結婚していることになる(御田寺さん「非同期型一夫多妻制」)。

御田寺さん。結婚制度が一夫一婦制だと、人口動態的にはどうしても暗い未来になる。だから、婚外子差別撤廃やシングルマザー支援、精子バンクによる結婚を経ない妊娠といった「リベラルな」対策があり、現にフランスで実施されている。

だが、歴史を振り返ってほしい。昔は一夫多妻制だったが、現代に近づくにつれ、一夫一婦制になってきた。それはなぜか? 一夫多妻制の場合、「夫」になれなかった男が、社会に協力しなくなるという事実があったから。男性にとっての生きがいとなる伴侶が得られない怨念はすさまじく、[カナダのインセルの事件]も記憶に生々しい。

一夫多妻制度よりも、遺伝子を残すという保証を与える社会の方に収れんしてきたことには、それなりの理由がある。そこを壊そうとすると、何が起こるかは、想像したほうが良いかも。

萱野さん。ライオンやサルの研究で、アルファ雄が雌を独占するハーレム型社会の場合、あぶれた雄はアルファを追い落とそうとする。この場合、外敵に対して、雄どうしで協力しあう可能性は少ない。

そこで、結婚というものは、男同士の連帯を強めるための制度でもあったという研究もある。つまり、家族の女性を交換しあうことで奪い合わずに済ますための合理的な手段だという側面もある。

Q3:ソーシャリズムについて。『リベラリズムの終わり』では、いったん自由主義への揺れ戻しがあった後、ソーシャリズムに行くのかと思っていたらそこで終わっていたので、ソーシャリズムについてどう考えているか聞かせてほしい。

A3:萱野さん。ソーシャル・ヨーロッパの話として考える。再分配の議論になったとき、どれだけの合意形成が得られるかは、分配先をどれだけ「仲間だ」と思えるかどうかによる。たとえば、トルコがEUに加盟できない理由があれこれ挙げられているが、結局のところ、ヨーロッパ精神的な紐帯と相いれない土壌だから(≒仲間ではない)ではないか。

リベラリズムの考え方(公平性や再分配)はある程度わたしたちの中に内面化されているが、ではどこまで再分配ができるか、自分のものをどれだけ分け合えるかは、問題として残っている(例:田舎に引っ越したら、ゴミ捨て場の管理など共同体の相互扶助の干渉が厳しい)。

御田寺さん。結局のところ、リベラルも相互扶助も「いいとこどり」をすることはできない。「除夜の鐘がうるさい問題」が象徴的で、再分配は受けたい、共同体の嫌な所はご免被るのは成り立たない。共同思想の良いところをとるのであれば、自分たちのリソースを供出する覚悟が必要になる。

Q4:男に生まれて女の心を持つトランスジェンダーについて。フェミニストからは、「お前らはしょせん、化粧したおっさんではないか」と非常に風当たりが強い。これは、リベラリズムへの反発の揺り戻しの一部ではないか? しかも、女に生まれて男の心を持つ人は、この議論の俎上にすら上がっていない。今後、揺り戻しが激しくなったとき、LGBTの特にTに相当する人は、批判を受けやすいことは明らかだが、生き残るためにはどうすればよいか?

A4:御田寺さん。「いいとこどり」と同じ。自分が肩入れしたいときにリベラルを振りかざし、都合が悪くなると掌を返し、「おまえはリベラルの仲間ではない、なぜなら……」と理屈を並べ立てる。それこそが、リベラルに対する信頼を失わせ、リベラリズムをゆっくりと死に至らしめる行為になる。

そうしないためには、公平性を持って、一人ひとりが声を上げていくしかない。都合よくリベラルを標榜する議論には、そのおかしな点をきちんと正していかないといけない。それは、うすらリベラルを攻撃してスカッとするためではなく、バックスラッシュが起きたとき、リベラリズムを捨てないようにするため

Q5:リベラルな中で、子どもを増やすにはどうしたらよいか。恋愛市場では魅力のある人が楽しい思いをし、そうでない人は辛い思いをする。たとえば「家族がいて子どもがいるのは楽しい」というロールモデルを広めるとか、どうすれば非モテ男性が生き延びていけるか。

A5:御田寺さん。人間の行動規範を変えるのは難しいが、テクノロジーが解決する場合もある。たとえば人工子宮や精子バンクという選択肢もある。ただし、遺伝子的な選別があるという課題を内包している。自由に選べる場合、能力の高いほうを選びたくなる。それはゆるやかな選民思想であり、ゆるやかな優性思想でもあるのだから。

まとめ

気づいたら2時間30分を超えていた熱いトークだった。萱野さん、御田寺さん、参加された方、そして蔦屋代官山スタッフの皆さま、おそろしく充実した時間をありがとうございます。

なるほど! と思う反面、それは言い過ぎかも……という点、調べてみないと鵜呑みはできないところもあった(特に北欧の出生率が日本より酷いという指摘)

お二人とも、リベラリストが嫌いなのだと思っていたが、どうやらそうではなさそうだ。リベラリズムには良い点、悪い点があり、どこまで進めていくべきか、折り合いを付けようという考え方だった。

特に御田寺さんが嫌いなのは、リベラリズムを便利な棒として振り回し、都合が悪くなると謎の言い訳をしだす人々なのだということも分かった。それは分かるが、リベラリストを詰めるために、極論を推し進めているようにも見えた(「顔」と「頭」を等価にしている点など)。

だが、その論法はまさにネットで見かけるリベラリストのやり方だ。リベラリストの皮をかぶった自己中心主義な論客に向かって鏡のように振舞うことで、古の2ちゃんねるのキャラクターのように言いたいのかもしれぬ。こんな風に。

    ∧_∧ 
  ( ´∀`)< オマエモナー

御田寺さんは結構キツい、絶望的なことを言っているものの、リベラリズムそのものに見切りを付けようとはしていないようだ。むしろ、そのフェアネスを重視するからこそ、フェアネスへの信頼を失わせるような人にキツくあたっているように見える(A4の結論)。

メモと記憶を頼りに書いているので、誤り等があったら全てわたしの責任になる。いずれにせよ、書籍を読んであらためて考える。

 

 

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ヒットする物語の作り方『SAVE THE CAT の法則』

『SAVE THE CAT の法則』 には、大ヒットする映画の法則と、それを適用する方法が書いてある。ベストセラー小説やゲームにおける、物語のベストプラクティスとしても使える。たとえば、

  • どんな映画なのか、一行(ログライン)で言えるか
  • 「マトリックス」と「モンスターズ・インク」は同じ映画
  • 全てのシーンに葛藤が必要な理由
  • 原始人でも分かる、原初的な感情や欲求に立ち戻れ

など、気づきが山のように得られる。目からウロコというよりも、見ていたはずなのに分かっていなかったことが、言語化されている

一行で心をつかむ

いちばん刺さったのが、「一行で言える?」である。どんなに優れたシナリオでも、説明するのが複雑すぎて、「一行で言えない」なら不合格だ。しかも、その一行でその気にさせなければならない

つまりこうだ。脚本であれ小説であれ、首尾よく書き上げたとしても、それを読んでもらわなければならない。そして、読んだ人が「これは傑作だ!」と思っても、それを他の人に伝えなければならない。さらに、伝えられた人が、読む気になってもらわなければならない。

映画や小説、アニメーション、ゲームなど、物語の媒体を作るには、大勢の人を巻き込む必要がある。商業ベースに乗せるには、さらに多くの人の手を経るだろう。それだけでなく、リリースした後は、その作品を楽しんでもらいたい観客がいる。

そうした人を動機付け、後押しするのがログラインになる。端的で魅力的なログラインのために、徹底的に考え抜けという。これ、物語だとキャッチコピーになるし、記事や論文ならリード文だね。小説やゲームのキャッチコピーを考えたり、記事や論文でリード文を練る際には、必ずログラインを何度も確認することになる。

さらに、創作が行き詰まり、キャラやシーンを扱いあぐねるときがある。増やすべきか削るべきか、あるいは変えてしまうべきかが分からなくなる。そんなとき、作者は必ずログラインに戻ってくる。ログラインは物語の背骨だ。「ログラインが無いと、物語にならない」とまで言っていい。

「マトリックス」と「モンスターズ・インク」の本質

衝撃を受けたのが、「マトリックスとモンスターズ・インクは同じ映画」のくだり。他にも、「エイリアンと危険な情事」や、「トッツィーとフオレスト・ガンプ」が同じ映画だという。キャラも設定も展開も違うように見えるのだが……

しかし、著者は、違うところを見ている。大量のタイトルが出回っていても、そのひな型となるものは限られている。見た目の違いに惑わされず、いつの時代でもストーリーテリングの本質は同じだという。紐解いてみると、昔ながらの使い古されたストーリーに、時代性が加わっているだけなのだ。

物語のひな型として、面白い名前が付けられている。「マトリックス」と「モンスターズ・インク」は、「組織のなかで」だという。つまり、新たな組織の中に入り、そこでの葛藤や成長を描いたものだ。「エイリアン」と「危険な情事」は、逃げられない状況で迫りくる危険として「家のなかのモンスター」と名づけられる。「トッツィー」と「フオレスト・ガンプ」は、「バカの勝利」なんだって。

もちろん、ひな型からはみ出る部分もある。だが、ある映画を観るとき、それは一体どんなひな型を元にしているのか? と考えると、「そのひな型をどうやってはみ出し、ひねりを加え、アレンジしているか」が見えてくる。この視点は盗みたい。

最重要なもの=葛藤

伝授してくれる様々な手法は、映画のシナリオだけでなく、物語づくりの根幹にも届く。

映画を構造化し、それぞれの要素を視覚的に表した「ビートシート」や、それぞれのシーンで何が起きてどうなるかを一枚にまとめた「カード」、キャラクターの設定で気を付けること、どの時点で何を伝えるか(あるいは伝えないか)、プロットの転換点はどう扱うかなど、非常に具体的で分かりやすい。

映画に特化しているものの、それぞれの手法において、ある1つの原則が貫かれていることが分かった。そして、その原則はそのまま「人が一番面白いと感じるものは何か」につながる。

それは、「葛藤」だという。

人はもともと、葛藤している人を見るのが好きだという。人間同士の葛藤の最たるもの(殺し合い)を模したものが、レスリングやボクシングになる。

葛藤は、「欲しい」「嫌だ」という方向を持っており、原始的な感情や欲求に裏打ちされている。原始的な欲求とは、「生き残る」「セックスする」「愛する人を守る」「死への恐怖」といった、時代や文化を超えた普遍的なものだ。そうした欲求が阻害されるとき、葛藤が生まれる。

たとえば、「目の前に迫る危険 vs.死ぬのは嫌だ vs. あの人を守りたい」とか、「落ちこぼれの僕だけどあの子と仲良くなりたいのにライバル出現」、あるいは「キライなあいつがなぜか寄ってくる」のように、欲求とそれを阻害するもの、どちらを取るのか、ジレンマといった争いやもつれになる。

物語を摂取する根本理由

乱暴にまとめるなら、人は葛藤を見たいので映画を観る。主人公が葛藤を克服し、欲求を満たすとき、観客は、一番基本的なレベルで共感できる。これが映画の快楽になる。主人公の葛藤をドライブするのがストーリーといえるだろう。

だから主人公は、物語の中で一番葛藤し、最終的に一番大きく変化していなければならないという。シーンをまとめたカードには、必ず何らかの葛藤が入っていなければならない(どんなに出来が良くても、葛藤のないカードは捨てろとまで断言する)。そのために、わざわざ「葛藤」を示す記号まで作っている。それぐらい重要なのだ。

ここ、小説の創作技法と同じだ。カート・ヴォネガットの指南で、「たとえコップ一杯の水でもいいから、どのキャラクターにも何かを欲しがらせること」を耳にしたことがある。何も望まず、嫌わないキャラクターなら、最初から登場しなくても良いということか。

ヒット作のリバースエンジニアリング

もちろん、こうした原則を守れば大ヒットすることが保証されているわけではない。監督や俳優など、ヒットを左右する様々な要因があるし、シナリオ通りに作られる保証なんてもっとない。

だが、大ヒットした映画のシナリオは、全てこの原則になっている。本書は、ヒット作のシナリオを理解・分解・再構築した、いわゆるリバースエンジニアリングによる指南本なのだ。

注意しなければならないのは、「メチャメチャ売れる映画」であること。個人的な好みは置いといて、映画としての出来も置いといて、「売れる/売れない」で判断すると、こうなる。

一行で心をつかむ、ひな型をアレンジする、葛藤をドライブするのがストーリーなど、映画に限らず、物語を作るうえで役に立つことが学べる。ずっと積読だったのを、ふろむださんに後押しされてで読んだら正解だった。ふろむださん、ありがとうございます。

ただこれ、読み込みすぎると、映画を観るときに分解する癖がついてしまうだろう。(ハリウッド)映画がもつ「面白さ」の完全なるネタバレ本でもあるので、もう二度と、あのワクワクするような気分で観れなくなるかもしれない。消費の側にいたいなら、手を出さない方が吉かも。

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