油断のならない語り手「庭、灰」

庭、灰 実験的な色彩が強く、読み流すと「破綻した物語」に見える――のだが…

 ただの回想録と思いきや、語りの技巧にヤられる。最初は、少年時代の思い出を、時間の流れに沿って描いてゆく。死の恐怖、夢と死、母への思慕、父の紫煙、ユリアとの初恋…読み手は、自分の幼い頃と重ねながら甘酸っぱさを共有するかもしれない。

 次にそれをベースにして、謎めいた存在だった「父」の探求を始める。いずれも「いま」「この場所」で「読み手に向かって」、「僕」が語る形式をとっているのだが、それぞれの要素がよじれてくる。ここから、まるで別物に見えてくる。

 記憶よりも連想に寄りかかり、筋は論理矛盾を起こし、話者は「不確かな語り手」と化す。展開は絶えず断ち切られ、それらをつなぐ相関は、五感――視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚によって、身体的な表現へ触発される。モンタージュ、フラッシュバック、フェイドアウトなどの映画手法が応用され、視覚効果が強くなる。読んでいるよりも、語りを通して「見て」いるような読書。

 あたりまえなのだが、「いま」追いかけているこの小説の読者は、「読んでいるいま」から未来へ向かって、時間が経過するという常識の上に立っている。しかし、語り手の「僕」が、ときとして妙に幼い口調になったり、インテリ青年風のしゃべり方になったりするため、ちゃんと読むと混乱する。語っている「僕」が、「いま」からスピンアウトして語られている当時まで入り込んでいるように見える。

 つまり、記憶を掘り起こす曖昧な背景に、恐ろしいほど細密な描写が、あたかも現在起きているかのように語られるのだ。クロアチア語(?)は不案内なのだが、時制はきっと延々と現在形に違いない。この時間的な距離感が、読み手を惑わせるのだろう。

 さらに、物語そのものの一貫性も、途中でねじれてくる。時系列的に明らかに前後した一節が紛れ込んでいたり、既に死んだ人物がエピソードに登場する――という「語り」を聞かされる。途中までは、首尾が通っていたので安心して筋書どおりに身を任せていたわたしは、そのねじれに当惑するというよりも、途方にくれる。解説で訳者はその部分を指摘して、「アウシュヴィッツで消えたという父の"悲話"を嘲笑するジョーク」というが、わたしはそれを信じない。あるいは、「僕」は、過去を語りなおすことを通じて、「あったかもしれない過去」を創造しているのだろうか?

 あちこちにちりばめられた、メタファーや、隠喩を超えたイメージ喚起も油断がならない。ある若い女性が「僕」の前で発作を起こして倒れるのだが、その際、スカートの中の「絹のような身体の内側」が見えてしまったという。それを、「舞踏会用の長手袋」に喩えるのだ。もちろんこれは、おぱんつのメタファーなのだが、下着を飾るレース=長手袋のレースと想起させる。でもって、その日以降、あれほど甘えていた母から「僕」は距離をおくようになるのだ。下着を見せた女性の名前はエディット嬢という。もちろん、あのエディプスに引っ掛けている寸法だ。

 こうしてつくりあげられた濃密な情景の一ピース一ピースが、すこしづつバラバラになり、朽ち、消えてゆく。ラストの喪失感はひとしお。思い出の数々がビジュアライズされた後、闇に消えていく。わたしの思い出ではないのに、大切なものがなくなったように思えてならない。

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誤り(?)を見つけたので、メモ。

つまり二日二晩、テラスに寝そべり、お墓にでもいるみたいに、泣きたいだけ泣き、吠えたいだけ吠え、それからある朝、僕たちの家の扉の前に引っ越してきた。(p.138)
 「泣きたいだけ泣」いているのは、犬のディンゴ。この犬が捨て犬として登場するシーンは、「僕」の夢の中で赤ん坊が泣いている声にかぶさるようにして描かれているため、「鳴く」→「泣く」と超訳したのかなぁ、と好意的にとらえる。子犬と子どもである「僕」との親近感も説明されているから――しかし、ちゃんと「鳴く」と表記している箇所もあるため、誤変換なんだろうか。「泣く」ことができるのは、人間だけですぞ。
その後で牝牛は悲しみのあまり病気になって、その牝牛らしいの悲しみのために子牛を産まなくなり、餌を受け付けず、乳も出なくなった。(p.155)
 「牝牛らしい悲しみ」は明らかに誤植だろう。他にもちらほらあり、連想と幻想のリズムが崩れて残念…

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Amazon化する図書館の挑戦「貸出履歴を利用した新しい利用者支援」

 いきなり小ネタだが、公共図書館のカウンターは要チェックや。

 というのも、そこには「誰かが予約して、これから貸出される本」や「たったいま返却された本」が並んでいるから。つまり本屋やAmazonの瞬間最大風速のオリコンチャートではない、ナマの「求められている本」があるのだから。

 しかも、同じ人が予約した/返却したカタマリで並んでいるから、好みの本を見つけたら、その隣の本をチェックせよ。いわゆるAmazonの「この本を買った人は~」を、図書館で実現するわけ。人はカタマリで本を借りる。特に育児書やビジネス本はこの傾向が強い。でも、こんなことせずとも、貸出履歴をもとに、図書館がオススメしてくれたら――

 というわけで、11/11、図書館総合展のフォーラムに行ってきた。「図書館総合展2009」は、図書館に関わる企業や団体を集め、最新情報の提供と情報交換を目的としたイベント。完全に内輪向けのものだが、いちユーザー(部外者ともいう)として参加。なにやらブースが乱立していたが、全スルーして、お目当てのフォーラムへ。正式名称は、「貸出履歴を利用した新しい利用者支援の展開」。

 いわゆるAmazonのリコメンドサービスを、図書館の貸出履歴を用いて実現するよ、というフォーラムで、わたし自身の企みと完全に一致している。議論がどこまで進んでいる/停滞しているかを知りたくて、いそいそと会場に潜り込む。プログラムはこんな感じ…

 1. 趣旨説明 (逸村裕/筑波大学)
 2. 貸出履歴を巡る失われた歳月を超えて (岡本真/ARG編集長[URL]
 3. 図書館のレコメンド機能「おすすめリスト」 (米田渉/成田市立図書館)
 4. Web読書履歴サービスから見るProjectShizuku (小野永貴/筑波大学[URL]
 5. 貸出履歴をもとにした図書の推薦実験 (原田隆史/慶応義塾大学[URL]

 まず会場を圧倒したのは、2. 岡本氏のファイティング・トーク。主張は明快かつ同意しまくりなんだが、なぜケンカ腰なのかが理解しかねる。数年前に否定派からボロクソに貶されたことが動機となっているようだ。なんでも「図書館の自由」を持ち出せば、全てやらないですむ免罪符となる、と信じているライブラリアンがいるそうな。議論のための議論をふっかけたり、思考停止している連中は放置プレイで良いのでは。これはやったモン勝ち、実績をアピールしたモン勝ちだろうに。

 次に具体例でもって示してくれたのが、3. 米田氏。成田市立図書館では、実際に図書館のレコメンド機能がサービスされている。目的は、「図書館職員のナレッジを、利用者と共有する」ことで、レファレンスをシステム化している。資料の検索のタイミングで、以下のレコメンドを行う。

  a. 件名や中分類からも検索
  b. (その利用者にとって)貸出回数の多い本を「強い本」と重み付け
  c. 図書館独自での重み付け
     -著者・件名・分類・抽出キーワードの出現回数をor検索
     -貸出・予約件数
     -職員評価
     -利用者評価

 そして、「重い」順にレコメンドを行う。まだスタートしたばかり(2009.9.15開始)で、利用者も限定されている(452名)が、図書館でレコメンドがサービスしているという実績のほうを評価したい。

 問題点はチューニング。たとえば絵本を一つ予約しただけで、おすすめリストが絵本だらけになる(絵本は貸出回数が多いから)といった重み付けの調整が難しいという。また、「その本には興味がない」ことをリストにフィードバックさせる仕組みがないため、不満要因となる可能性があること。どちらも初期のAmazonにあった課題だ。

 わたしがぶつけたいネタは、他人の貸出記録のデータを利用すること。人物が特定できなくてもよくって、「この本を借りた人はこんな本も借りています」というリストがあれば、新しい本の出会いがグッと広がるぞ。

 岡本氏によると、取次を通した書籍の流通冊数は7億、いっぽう全国の図書館の貸出点数も7億になる。しかも、Amazonの「今売れてる新刊」といった瞬間的なやつではなく、ずっと昔の本も扱っている。つまり、図書館のデータを使うことで、大規模・長期のリコメンドができるというのだ。激しく同意、自分の興味の殻に閉じこもったヒキコモリ読書している輩には、良い刺激になるだろうね。

 さらに、4. 小野氏のプレゼンで、重大なことを知った。「次世代図書館情報システム」である Project Shizuku の行く末は気にしていたのだが、そこに秘密が隠されていようとは!このプロジェクトは利用者の利用状況を基にしたシステムの開発だ。「本の貸出カードを共有する」ようなシステムを目指している。だが、なぜ「プロジェクト・シズク」なのか?その由来は、ジブリ映画「耳をすませば」のヒロイン月島雫(つきしましずく)なのだという。図書館の貸出カードが縁で(略)プロポーズされる物語なのだが、納得なっとく。

 ただ、残念なことにサービスの斬新さは薄れてしまっているように見えた。たしかに、「仮想貸出カード」や「仮想本棚」は期待できる。しかし、図書館という"しがらみ"の外側では、既に実現できているものばかり。図書館が自ら蓄積した情報を使いこなせていない状況が浮き彫りにされている。

 最後は 5. 原田氏の実験発表。貸出履歴をもとにした図書のレコメンド実験なんだが、あまりのライトニングトークで、正直何を言っているのか分からんかった。極端に押していて、ほとんど持ち時間がなかったのが原因。いちばん面白そうなネタなのに、残念だ。

 かろうじて聞き取れ/読み取れたものは、リコメンドに対する新たなアイディア「人の好みは変わっていく」こと。つまり、一人の好みをトータルで見るのではなく、時期で区切るのだ。具体的には、一人の利用者の貸出履歴を日付順にソートして好みの傾向を探る――のではなく、その一人を、「1年生」「2年生」「3年生」「4年生」と分けて、あたかも4人の利用者がそれぞれの傾向を持つ、というロジックで重み付けをするのだ。パンキョー(一般教養)とゼミで使う本は、似て非なるものだからね。

 たしかに、「時期的な傾向」はあるかも。それも二種類。「毎年この時期になると読みたくなる/必要となる本」と、「この年にはこんな傾向の本を探した」というやつ。前者は確定申告関連の本(年明け)だったりミステリ(年末年始)だったり。後者なら子育て本(年齢に応じて)だったり資格試験の参考書だったり。

 おお!なるほど。そうすると、個人情報をもとに興味を割り出し→おすすめ本を抽出できるかもね。「ワンピース」の8巻まで借りているなら、次のおすすめは9巻になるだろうし、「赤ちゃんの名づけ本」を沢山借りた人は、1年後は離乳食、3年後は園、5年後は小学校…とおすすめすればいいね。これを不気味と見るか便利とするかは分からないが、まさに図書館のAmazon化やね。

 最後に。密度とカロリーの高いフォーラムだったが、いかんせん全体が短くて消化不足。これだけ盛りだくさんの内容を、たったの90分で平らげようとするなんて…質疑応答、まとめも含めたら半日モノだろうに。いずれにせよ、収穫・アイディア盛りだくさんの場でしたな。プレゼンター、開催関係者の方々に、感謝、感謝。

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世界を丸ごと理解するために「科学哲学の冒険」

 「おまえは科学リテラシーが足りない」なんて言われると、グゥの音もでない。

科学哲学の冒険 理系をハナにかけてる輩からふっかけられると、いつもこうだ。でも科学ってなんなの?極論すれば、科学って宗教の一種でしょ?誰も見たこと/聞いたこと/観測すらできないことを、信じる・信じないの話じゃないの?ホラ、高度に発達した科学は魔法と変わらないなんて言うし――そんな独善に陥っていたわたしに、良いお灸になった。

 もちろん原子は肉眼で見えないが、たしかに実在している。そしてその原子の本当の姿について、人類は知識を深めていっている――これは"常識"の範疇なんだろうが、この常識的な考え方をただ信じるだけでなくて、議論を通して正当化しようとする――これが、本書のテーマ「科学哲学」だ。

 …なのだが、どうも著者が主張したい「科学的実在論」の形勢は不利だ。科学は確かに知識を深め、役に立っているのだが、哲学の凶器「相対主義」のバッシングに耐えられそうもない。いわゆる、「お前がそう思うんならそうなんだろう お前ん中ではな」というやつ。では客観性のための実験はというと、「ヒュームの呪い」「グルーのパラドクス」「決定不全性」を出してきて、帰納に対する懐疑論という寝技に持ち込む。

 著者は一つ一つの批判に辛抱強く反論してゆくのだが、その反論にさらに反論が重ねられ、とてもスリリングな展開になっている。スルーすることもできるのに、わざわざ強力な反論を持ってくるので、「著者はマゾか?」と呟くこと幾度か。

 そうした積み重ねが、「科学とは何か?」という問いに対する答えの歴史になっている。対話形式の構成は、この問答にぴったり。読者の「どうして?」を先回りするように質問者が訊いてくれるのだ。テツオとリカコという典型的な文系/理系キャラで、質問をためらうほど初歩的な(けれど重要な)議論もなされる。

 たとえば、科学と似非科学の違い。結局はカール・ポパーの反証可能性で結着をつけるのだが、そこから科学の真のありようが見えてくる。つまりこうだ。ポパーによると、科学とは仮説を反証する試みになる。したがって、立てられる仮説は、どんな結果がでたらそれが間違いということになるか、ハッキリしなければならない。科学は「どうなったら間違いか」が明白だし、似非科学はそうではないというのだ。

 これは面白い。なぜなら、科学の定義の中に、「間違っている」ことを含んでいるからだ。考えてみると、たしかに科学の歴史の中には、後で間違いだったと分かった主張がある(エーテルや熱素)。間違いの有無は、科学であるか否かとさしあたり関係はなく、「間違った科学」が、それでも「科学」だと言えるのは、間違いを証明できるからなんだ。

 なるほどなるほど、と首肯するわたしをヨソに、著者は自分の首を絞めにかかる。でも、「その科学が間違っている」「真理を明らかにしている」って、どうやって分かるの?科学が人の営みである限り、人の主観に依存しない物自体にはたどり着けない。「科学の科学」あるいは「メタ科学」でも持ってこないと、この疑問は解けないぞ。

 残念ながらこの議論には、ズバッとした結論がでない。「科学とは何か?」をめぐる様々な主張はスッキリと整理されているのだが、帰納への懐疑があまりにも強力なのだ。最初に"常識"と呼んだ科学に対する"信用のようなもの"は、ロジカルに証明され得ないが、だからといって、著者の思いが色あせることはない。「科学とは何か?」という問いに対し、こう述べる。

     科学というものは世界を理解しようという試みだ
     そして実際に、世界を理解できる試みのように私には思える

 上の主張を、単に"常識"として流すのと、徹底的に疑った上で「思う」のとは、ずいぶん違う。科学を合理的に疑うために、本書はかなり有用な一冊となった。さらに、盲目的に「科学」を信じているのとは、違う目線を得ることができた。

 以下は自分メモ。現在翻訳中とのこと。

   カートライト「いかにして物理法則は嘘をつくか」
   How the laws of Physics Lie, Oxford U.P.,1983


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ジョージ・R・R・マーティンすげえ「洋梨形の男」

洋梨形の男 巻措くあたわず夢中に読める、これは面白いぞ!

 嫁さんの最近のオススメは、「氷と炎の歌」シリーズ。辛口の嫁さんが「文句なしの大傑作」とベタ誉めする一方、完結してないことが難だという。新刊が出た瞬間に読了するというジャンキーぶりで、翻訳にガマンできず、とうとう原書にまで手を出している。未読のわたしには、「完結してから着手せよ」と厳命する。

 なので、同じ著者であるジョージ・R・R・マーティンの「洋梨形の男」に手を出して驚く、ページ・ターナーだよこれは。つかみ、プロット、アイディア、"意外な"展開とオチ、ページをめくらせる手をとめることができない。人間のおぞましさとグロテスク臭が染み出しており、扶桑社ミステリーのスティーヴン・キングのような、読み手を落ち着かない気分にさせてくる。

 6作品の中・短編集で、ジャンルはホラー?ファンタジー?SF?うまく付けられない。そんなジャンル分けを無意味にするほどの絶妙さでブレンドされている。まさに、奇想コレクションのタイトルどおり。さらに、ホラー風味でさしだされた作品が、食べてみたら自分自身の「不安感」を言い当てていたり、science fantasy 的展開にワクワクしてたら脱皮して「愛」や「信頼」がモチーフになったり、一味も二味も変わってくる。

 際立っているのはタイトルでもある「洋梨形の男」――要するにデ○体型の男に付きまとわれる恐怖を描いたものだが、どんな結末よりもおぞましいラストを約束しよう。わたしは乞食読者なので、どんな展開・オチになるかを予想しながら読んでしまう癖がある。で、今回はそいつを上回るイヤ話になって、満足しつつも吐き気がした。表紙のオレンジは「チーズ・ドゥードル」というスナック菓子で、明治の「カール」(チーズ味)を用意して読むと効果倍増。

 白眉は、「成立しないヴァリエーション」。学生時代のチェス同好会の仲間の別荘に招待された夫婦の話。チェスと復讐と○○というテーマが上手く綾なしており、単に技巧だけで読ませるレベルを超えている。本作に限らず、何の話かが見えないところからはじまって、ネタの本質が見えてくるところと物語のクライマックスが重なるのが面白い。なので、ネタバレ気味のAmazon紹介文は見ないことをオススメしておく。

 で、ネタバレ感想は反転表示――無粋きわまりないが、パラドックスを見つけた。時間旅行モノにはかならずついてまわる話だ。意識を飛ばす先の時間軸は、選べないのだろうか?もし選べるとするならば、復讐心とその方法を暴露した時間軸へ"もっとさきまわりして"そうさせないように手を打つことも可能になる。しかし物語がそうなっていない以上、選べないと考えるべきか?

そして、選べないとするならば、さらに二つの可能性が出てくる。この物語とは別の時間軸に沿った世界があるか、あるいは、全て(タイムトラベルも復讐の失敗も含めて)運命は決定づけられているかの二つだ。復讐者の理論が、同一の時間軸に乗っていることが前提なので、最初の可能性は否定される。そして、全てが運命づけられているのであれば、復讐者はこの物語の中に戻ってこれないことになる。なんという皮肉!この話を成立させるためには、彼は最初から死ぬ運命でいなければならないなんて…

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詩は別腹「終わりと始まり」

終わりと始まり あたらしい本をめまぐるしく読み散らかして、「読んだ」という満腹感しか得られない。そんな貧しい読書から離れるために、毎晩一編ずつ、詩に浸る。立ちどまり、くりかえし、かんがえる。昔の誰かを思い出し、遠くのあの人を想像する(あるいは創造する)。

 そんなきっかけとして、ヴィスワヴァ・シンボルスカの詩は、読むことがそのまま経験になる時間だった。特に、「終わりと始まり」は、メッセージ性よりも言葉そのものの強さを思い知った。出だしはこんな風になる。

    戦争が終わるたびに
    誰かが後片付けをしなければならない
    何といっても、ひとりでに物事が
    それなりに片づいてくれるわけではないのだから

    誰かが瓦礫を道端に
    押しやらなければならない
    死体をいっぱい積んだ
    荷車が通れるように

 戦争や平和を詠った作品は沢山あるが、戦争が終わったあとの「後片付け」になっているのが珍しい。その日常/非日常をテーマにし、平明な言葉遣いで淡々と描く「戦後」の中の死体が生々しい。

 それは、壊れたものを運んだり直したりする、あまり見栄えのいい仕事ではない。カメラは別の戦争に出払ってしまうが、シンボルスカの眼はそこが「始まり」とする。生き残った人たち、その次の世代の人たち、さらにその後の人たち…あっという間に時代を行き過ぎる。一行と一行が十年経っているものもあるので、油断ならない。流れるように書かれる文を彫るように読む。

 シンボルスカはポーランドの詩人、1996年にノーベル文学賞を受賞している。彼女一流のユーモアは、「憎しみ」という感情に人格を与えてしまっているところによく表れている。萌え風に言うなら、「ヘイトたん」だろうか。「憎しみ」という作品において、こう表現されている。

    ほかの感情とはちがう
    どんな感情よりも年上なのに、同時に若い
    それは自分を生み出す原因を
    自分で生む

 不条理に満ちた、「世界」という名の他者に、ただ言葉でもって向かい合う。それは普遍性を持ちつつも、イデオロギーやプロパガンダやマスコミの報道とは異なり、個から個へ語りかけてくる。翻訳されても壊れない、直接、そのままの伝言として。

 この出会いは、ブック・コーディネーターの幅允孝さんのおかげ(ありがとうございます)。ホントークという、本にまつわる本気のトークで知った。11/12 のホントークvol.2 [URL]には参加するつもり。これを読んでいる誰かと会えたらいいですな。

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「ちょっとピンぼけ」はスゴ本

ちょっとピンぼけ 戦争ルポルタージュの傑作といえば、開高健の「ベトナム戦記」だッ(断言)。だが、本書はこれに匹敵する。作家のマナコと写真家のファインダーには、それぞれ違う戦争が映ったが、砲声と血潮と吐瀉物は一緒。胃の腑に石を詰める読書になる。

 War Photographer すなわち戦争写真家の地位を確立した、ロバート・キャパの、あまりにも有名な波乱万丈のレポート。第二次大戦のアフリカ、イタリア、ノルマンディー、パリ、ドイツの激戦区を、キャパとともに疾走する。

 キャパは報道写真について、ドキュメンタリズムについて、強いメッセージを送っている。被弾して車輪が下りず、胴体着陸した爆撃機に駆け寄ってカメラを構えたキャパに、「写真屋!どんな気で写真がとれるんだ!」と罵声が飛ぶ。あるいは、「登ってゆくほど、死体と死体の間隔はせまくなっていく」文字どおり死体の山を踏み分けてゆく。そんなとき、キャパはこう考えている。

怪我したり、殺されたりしている場面ぬきで、ただのんびりと飛行場のまわりに坐っているだけの写真では、ひとびとに、真実とへだった印象を与えるだろう。死んだり、傷ついたりした場面こそ、戦争の真実を人々に訴えるものである。
 戦場は異常で、写真はニュースになるのだ。その一方でキャパは、解放された捕虜収容所の人々の写真を【撮らない】。他の写真家が群がって、残虐さを際立たせるように撮っているにもかかわらず、キャパはカメラを向けない。なぜなら、こうした気の毒な人たちの将来のことなんて、誰も目を向けなくなることを「知って」いたから。戦争の現場を撮るのが自分の仕事なんだという自負が見える。戦争を憎むことと、戦争の写真を撮り続けることは、矛盾しないのだ。

 見返しにあるポートレイトからすると、コクがある人懐っこい顔立ちで、「おちゃめ」みたいだ。どんなにピンチのときでも、ユーモアを忘れない。そう、キジ撃ち(分かるね?)の最中に、そこが地雷原であることに気づいたときの話なんざ、ハラ抱えて笑わせてもらった。もちろん彼は飛び上がらなかったし、身動きもしなかった。いや、できなかったんだ、ズボンがずり下がっているからね。彼がどうやって助けられたかは、読んでのお楽しみ。

 ただし、読者を楽しませようとする、キャパ一流の大風呂敷もある。ぬかるみがあまりに深いので、「一歩進むたびに、二歩も後ろにすべった」と大真面目に吹いたり、戦場でトルストイの「戦争と平和」を発見し、五日五晩、懐中電灯の明かりで読みふけったなんてくだりは、ホントかなァと首をかしげたくなる。

 じっさい、書かれた全てが本当に起こったことではないそうだ。中村良則によると、キャパは面白くするために、もろもろの話をつくったり、あるいはふくらませたりしたらしい(p.100 Foresight Nov 2009)。原著のカバーの断り書きには、こうあったという。

真実をそのまま書くことはあまりにも厄介なので、私は真実を伝えるため、ときにはあえて真実をちょっぴり逸脱することも大目に見た
 たとえば、1943年7月、米軍空挺部隊とともにシチリア島に落下傘で飛び降り、木に引っかかって一晩ぶらさがっていた、というシーンがある。これは作り話なんだそうな。実は補給船に乗って上陸していると聞いて、びっくりするやらほっとするやら。訓練なしで飛び降りる、出たとこ勝負なキャラクターが、実は慎重だったと聞いて、さもありなんと思ったり。でなければ、あれだけの死線をくぐり抜けることはなかったから。

ベトナム戦記 そんなキャパも、1957年のベトナムで地雷の爆発に巻き込まれて亡くなっている。その際も、カメラを離さなかったという。「ベトナム戦記」とともに、ルポルタージュの傑作を知るに値する一冊。

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むしろ初心者におすすめ「プロフェッショナル・プレゼンテーション」

プレゼンテーションZen 既に[ レビュー ]したが、もう一度ほめておこう、「プレゼンテーションZen」は良い本だ。シンプルで、ヴィジュアルで、眠くならない(←これ重要)なプレゼンをするための必読本――なのだが、これは上級者向けだろう。コンテンツの作り方やストーリーラインの決め方、さらにデリバリーの基本といったプロセスの解説はほとんどない。そういうことは分かっている人向けに、取り組み方とか心構えといったスタンスを説くものだから。

 では、そうしたプレゼンの基本のキを知るためには何を参考にすれば――という視点で、一冊選んだ。アイディア出しからロジックの組み立て、ヴィジュアル化、チャートへの落とし込み…といった、プレゼンの基礎手法が網羅されており、新入社員や、プレゼンは初めてといった人にとって必要十分な知識を得られる。

 たとえば、「キーとなるメッセージは、プレゼン後に聴衆の心に残したいものだ」とか、「キーメッセージは相手の"価値観"にまで踏み入っていくことだから、論理力に(相手の)判断基準を考慮しろ」といったアドバイスがある。ここまでは普通だ。では、どうすればキーメッセージを作り出せるのか?

プロフェッショナルプレゼンテーション その極意は、キーメッセージの主語を「あなた」にすることだという(「御社」でも同じ)。「この施策を実行するべき」の頭に「あなた」を付けて、「あなたは、この施策を実行するべきです」に変えるのだ。すると、聞き手は「なぜ?」「どうしてそう言えるの?」という反応を促すことになる。そして、そんな反応を見越したプレゼンの準備ができる。ただ漠然と「○○するべき」「○○してほしい」だけでは、「お前がそう思うんならそうなんだろ、お前ん中ではな」で終わってしまうからね。

 さらに、単なる提言だけに留まらず、相手を動かしたいときにはコンプリートメッセージにまで持っていけという。コンプリートメッセージとは、"What", "Why", "How"の三つ全て入っているメッセージのことだ。"What"とは、何をすべきかで、"Why"は、なぜそうすべきか(動機付け)、そして"How"は、どうしたらできるかのこと。現状分析→目標提示(○○すべき)に終始したプレゼンは、"What"に応えているだけで、聞き手への動機付けも具体的方法も無い。まさに「お前ん中ではな」プレゼンといえる。

 また、ストーリーラインの設計で極めて同意なのが、「ストーリーとは重みの配分である」というところ。モレヌケの無いようにロジックをきっちり組むことも重要だが、すべてを網羅的に話す必要はない。聞き手の立場や傾向を予測し、プレゼンの力点を決めるわけだ。よく準備されたコンテンツであればあるほど、この罠に陥りやすい。調べあげ、組み上げたから全部しゃべりたくなる気持ちは分かる、でもそれは「眠くなるプレゼン」への第一歩なんだ。どこにスポットを当てるかは、プレゼンのストーリーそのものになる。

   1. キーメッセージの明確化
   2. 論理構築
   3. 根拠の証明
   4. ストーリーの設計
   5. ビジュアルの作成

 というプロセスも良い。パワーポイントを起動するのは、最後の段階なんだよね。わたし自身、眠くなるプレゼンを何度もやったのだが、不思議なことに、この逆順でコンテンツを作ったことを思い出した。反面教師にしてほしい。

 いろいろ誉めたが、反面、いただけないのもある。ビジュアルや主張にマッキンゼー臭がするのは仕方ないとして、「ダミーチャート」を提案している。ダミーチャートとは数字は適当で、「こういうものがあったらいい」チャートを、いわば捏造的につくること。メッセージから遡及してデータを特定していく仮説思考は確かに有効だ。そして「データを加工したり捏造したりしないように」と著者は釘を刺すのだが、調査者の良心に任されているのは極めて危うい。

 まだある。「資料はプレゼンの先に渡せ」というアドバイス←これは致命的なのでマネしないように。先に渡したら、聴衆はこっち(プレゼンター)を見ないよ。手元の資料を見ることで満足→寝るか、資料に反論・アラ探し→目がランランかで、どっちの場合も聞いちゃいない。どっかの教授が学会の発表とまちがえてるんちゃうか?と著者を確認したら案の定だった。プレゼンテーションはコミュニケーション、この愚を犯す莫れ。

 手放しでオススメできないのが残念だが、それをさっぴいても有用な一冊。

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無常観のリマインダー「ルバーイヤート」

ルバーイヤート 「死ぬまでに読みたい」シリーズ。

 人生は有限だが、この事実を忘れることが多い。賢者タイムのときなどは人の世の儚さを思い、後悔しないための読書に励む。これは、臨終のときに「あれ読んでおけばよかった」とならないための選書。必然的に古典・名作モノになるが、必ず発見がある。もちろん、何をどれだけ読んでも満足することは無いだろうが、そういう心がけをしているのといないのとでは、かなりの違いがあろうかと。

 今回は12世紀のペルシアに生きた、オマル・ハイヤームの「ルバーイヤート」。無常観あふれる詩を遺したハイヤームは、実は当時の最先端の科学者であったところが面白い。数学・天文学に通じ、現在のイラン暦の元となるジャラーリー暦を作成した。当時のグレゴリウス暦よりも正確なものであったという。


     袖にかかる砂塵をやさしく払うがよい、

     それもまた、はかない女の頬であった。


 ハイヤームは、自然や人間の変転を、物質の変化としてとらえる。身体を構成する物質の粒子は、死後、土に還るというのだ。そして職人の手によって捏ね上げ・焼かれ、美しい壷や盃となる。詩人は、壷のくびれや盃の把手に、かつての美女や王族の粒子を見つけては恍惚とする。

 この生々流転、わたしの心情と寄り添うところが大いにある。生物に限定された輪廻転生と異なり、モノとしての身体も含んだ再生思想なのだから。人は死んで土に還るだけではなく、その土から新たなモノが造られるのだ。その土から作られた盃を酒でみたせと、ハイヤームはいう。


     盃に酒をみたし、この世を天国にするがよい、

     あの世で天国に行けるかどうか分からないのだから。


 もちろん酒はイスラームで禁じられている。しかし詩人は、「もし酒が法に許されない楽しみであるなら、なぜ神はそれを造ったのか」という疑惑を持つ。天国は大きな黒い瞳の美女でいっぱいだという。そして、酒、乳、蜜があふれていると人は伝える。ならば、この世で酒や女を選んで、何の不都合があろう、と高らかに謳う。さらに、あの世にもある楽しみを、この世でガマンする必要はないではないかと問いかけてくる。

 虚無と享楽がセットでくると、エピキュリアン?と思いたくなるのだが、ちょっと違うようだ。人生の空しさを酒色に耽ってまぎらす快楽主義者ではなく、「人事を尽くした。天命を待つあいだ、一杯いっとく?」という感じ。時と距離を越えて、ペルシャの詩人を身近に感じるとともに、自らの無常観を再確認できる一冊。

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まいりました!「ロートレック荘事件」

ロートレック荘事件 おお!これは良かった。久々に一本背負いを喰らったミステリ。

 人里離れた別荘でおこる惨劇を描くのだが、これがなんともオーソドックス。「あの」ツツイがなんでこんな陳腐なモチーフを選んだのだろうといぶかしむ。ちょっと違うのは、舞台がロートレックの作品で彩られていること、主人公が侏儒であること。

 セオリーどおり、アリバイは?動機は?得する奴は?と経験に即して展開を先読みしていく――のだが、ストーリーはもっと先回りして、読み手の予想を裏切るかのように、ひとつまたひとつと展開の可能性が潰されていく。読み慣れていればいるほど、先々が行き止まりになっている迷宮に入り込んだかのような切迫気分に陥る。

 で、そいつをひっくり返すカタストロフとカタルシスが!――で、そいつをいちいち分析しだす意地悪さよ、と思いきやシメは最後は文学臭まで漂わせている。なかでも傑作なのは…と語りたいのは山ヤマだけど、ネタバレなので格納&マウス反転するね。未読の方は続きを読まずに本作をどうぞ。するする読めてしまうけれど、舐めるように刻むように。速読なんてもってのほか、というか、速読したら面白さ半減どころかゼロになるぞ。

 本書はtwitter経由で知った一冊。「筒井康隆オールタイム一位」という惹句に引かれて読了。chiron95pさん、ありがとうございます、愉しい驚きのある時を過ごせました。twitterはフロー、blogはストック。流されがちな「つぶやき」に反応した読書をここでアウトプットしていきたいものです。

 さて、

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外道限定「魔王」

 わたしの変態妄想のナナメ上を逝く外道の話。

魔王1魔王2

 カワイイ女の子と目が合ったら、「俺に気があるのかしらん…ヤベ、妻も子もいるのにどうしよう、とりあえず新しいパンツ買おう」と妄想と股間をたくましくするのは普通だよね?あるいは、大金持ちになったらローションのプールに裸の女を敷き詰めて飛び込みたいといった願望を抱くのも、そんなに常軌を逸していない…と思いたい。そういう、ささやかな変態趣味を打ち砕く話だ。

 時代は1940年前後、舞台はパリからプロイセンの森まで。主人公ティフォージュは、パリではまっとうな変態だった。小さな子どもを眺めたり担いだりするのが大好きで、自分で暗室をこしらえては盗撮した写真を現像するくらい。学校帰りの子どもがわーっと駆け抜ける路地に突っ立って、若い肉体の奔流を遡行する鮭のようにもみくちゃにされるシーンでは、「翼ある幸福」と名づけており、微笑ましい限りだ。

 しかし、少女暴行の嫌疑をかけられ拘留されるところから、彼の人生は狂い始める。いや、彼の望むほう望むほうへと流されていくのだから、「狂う」という表現はヘンだね。人生お先真っ暗!というピンチになると、なにかのチカラが働いたかのように、チャンスに取って代わる。そこに超次元的なものなどないのだが、その「偶然」を、徴(しるし)だと思い込んでしまう。つまり自分は選ばれし者で、運命のなかからその啓示を受け取る使命があるのだと。

 で、小説内の描写のほとんどが、この徴のメタファーに満ち溢れている。ゲーテのバラード「魔王」、誘拐・誘惑者「青ひげ」、幼子イエズスを背負う「クリストフォルス」を示す象徴が、あちこちに散らばり、埋め込まれている。読み手は主人公とともにそんな徴(しるし)を探すことに精力を費やされる。これがまた難解なのよ。だが親切なことに、著者ミシェル・トゥルニエは、わざわざ注釈を入れてくるほどの徹底ぶりだ。

 子ども達を散髪し、山のようにできた髪を布団や枕に詰めた「特製ベッド」でのたうちまわるとか、シャワー室に寝そべり、熱い湯を浴びながら子どもたちに踏みしだかれて随喜するとか、なかなか斬新なプレイを提案してくる。対戦車地雷を誤爆させ、霧化した子どもの血潮を浴びるトコなんて、完全にイッてたんじゃぁないかと。

 その変態傾向にもかかわらず、奇妙なことにソドミーは出てこない。青ひげよろしく幼児誘拐したり、少女の裸の人いきれを胸いっぱい吸い込んだりする「おたのしみ」はあれど、セックスとしての相手にはならないのだ。性器が非常に小さいせいなのか?その代わりのメタファーとして、牡鹿の角と睾丸の関係が延々と語られたり、馬の尻から出てくる糞をこと細かに描写したりする。たとえばこんなカンジ…

ある夕方、水肥のあまい香りのただよう馬屋の黄金色の夕闇のなかで、輝く尻が仕切りごとに波打つのを眺めているうちに、青ひげの尻尾がその根元からやや斜めに突っ立ち、もぐもぐうごめく、小さい、突き出た、固い、きっちり閉じられた、まるで輪金で締めた袋のように中央に襞のよった肛門が現れた。そして、すぐに、その袋は高速度撮影の薔薇の蕾が開くような速さで外側へむき、ジギタリスのようにめくれると、薔薇色の湿った花冠を外に開いた。その中央から、感心するほど形のととのった、光沢のある、まったく新しい糞の塊りが現れ、一つずつ、壊れずにわらの上にころがった。
 「バラの蕾」っつったら普通女性器を指すのに、そうしたお約束を外す心意気。しかも「入れる」のではなく、「出す」ほうだから意味が反転してしまっている。主人公ティフォージュは、そんな排便行為のみごとさに打たれる。そして、馬のいっさいの本質はその尻にあると喝破し、尻は馬を排便の神だという本質に達するのだ。

 前作「フライデーあるいは太平洋の冥界」[レビュー]は、ロビンソン漂流記の見事な倒置だったとするならば、「魔王」は、ホロコーストの倒錯した寓話になる(反転部分ネタバレ注意)。人を選ぶ小説でしょ?なので、上述の描写が響くのであればオススメ。徴(メタファー)に押しつぶされる読書になることを、請け負う。

フライデーあるいは太平洋の冥界

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