橋本大也さんの最近のお薦め10冊を聞いてきた

 [情報考学 Passion For The Future]をご存知だろうか?

 科学の啓蒙書や経済・経営のノンフィクションから、SF、純文学、教養と思想、ゴリゴリの猟奇モノまで幅広く紹介するブログだ。更新頻度もひんぱんで、新刊もそうでないのも分けへだてなく、「基本誉める」を貫いており、たいへん参考にさせていただいた(というより、あこがれまじりで追いかけていた)。書評ブログといえばここだったのだが、ここ数年、あまり更新されていない。

 仕事が大変で、書評どころでないのだろうな……と思いきや、某所で活動されているのを耳にした。数年前、一念発起して英語を学び直し、今は英語の本が中心とのこと。audible も活用し、耳からの読書もしているという。書評も英語圏で発信しており、(当然のことながら)日本語ではない。詳しいことは、デジタルハリウッド大学の企画[今、この10冊が面白い!]という対談会でお話を伺ってきた。

 対談は、学生図書館長の森泉さんと、橋本大也さんのお二人で行われた。森泉さんは、日本人作家の小説が中心で、橋本さんは洋書オンリーという20冊+アルファの構成だった。ここでは、橋本さんが紹介された本を中心にまとめる。

”The Buddha in the Attic”Julie Otsuka/『屋根裏の仏さま』ジュリー・オオツカ

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"We" で始まる独創的な小説

 めっちゃソソられたのがこれ。非常に前衛的で独創的といってもいい文体だという。その秘密はすぐに教えてもらった。Amazonの中身検索を見ると、ほぼ全てのパラフラフが ”We” で始まるのだ。

 本書は、写真花嫁(picture bride)たちの物語である。日系移民一世(ほとんどが男性)が配偶者を見つけるために写真だけでお見合いした結果、一度も会っていない夫を頼りに渡米してきた花嫁たちである。特定の登場人物がおらず、女性たちの集合的な記憶をつむぐかのように表現するために、”We” が使われている。

 そのため、英語としては非常に分かりやすくなっている。なんせ、全てのパラグラフが ”We” で始まるのだから。一方で、”They” が使われるとき、それは渡米した女性たちの「外側」を示すことになる。それは男性たちであったり、馴染めないアメリカ文化であったり、差別的な社会になる。邦訳は『屋根裏の仏さま』とのこと。

”The Fault in Our Stars”John Green/『さよならを待つふたりのために』ジョン・グリーン

 これはわたしもオススメ。「難病のカップル」「ボーイ・ミーツ・ガール」「タイムリミットのある恋」と、かなりキツいお話となっている。主人公は16歳のヘイゼルで、がんの進行を薬で抑えており、自分でもそう長くないことは分かっている。「自分が死んだ後、悲しむ人は少ないほうがいい」と割り切った生き方をする彼女が恋をしたらどうなるか?

 紹介とともに、洋書読みとしてのポイントもあわせて教えてもらう。YA(ヤングアダルト)のメリットは、比較的易しい表現が多く、読みやすいことと、今の若者用語を学ぶことができるという点にあるという。前者は分かるが、後者は今のYAを読む理由になる。"The Catcher in the Rye" (ライ麦畑でつかまえて)や ”To Kill a Mockingbird” (アラバマ物語)という名作もあるけれど、いかんせん古く、アメリカの若者はそんな言葉は使わないらしい。

 ちょっともったいないのが、タイトル。原作は、”The Fault in Our Stars” なのが、邦訳で『さよならを待つふたりのために』になり、さらに映画で「きっと、星のせいじゃない。」に変わる。そして映画にあわせて邦訳も変えられてしまうのだ。わたしもブログやSNSで紹介したが、名前をコロコロ変えたことで、検索してもらう力がダウンしたのではないかと思う。わたしが読んだのは邦訳だが[書評]、これは原書も挑戦したい。

”Sphere”Michael Crichton/『スフィア 球体』マイケル・クライトン

 「この作家のおかげで英語が読めるようになった!」というのがマイケル・クライトン。やさしい英語で、見てきたように明示的に書いてくれている。映画を意識しているのか、ビジュアルで全てを語ろうとする。文学小説にある、「行間を読ませる」とか、一文に意味を込めるといった技巧は凝らさないため、読むことと理解が同期する(リーダビリティが高いともいう)。

 何冊か読んだ中でのダントツは、”Sphere” だという。テクノロジをミステリ仕立てで語り、読者をノせるのが非常に上手いだけでなく、ちょっと「哲学」が入っているのがいいのだと。クライトンのお約束である、「何かトンでもないものが発見される」→「最先端の科学チームが結成されて調査に赴く」→「たいへんなことが起きる」を忠実に踏襲しており、安心してハマれそう。これは読みたい!

“The Nightingale” Kristin Hannah/『ナイチンゲール』クリスティン・ハナ

 ものすごく気になるのがこれ。英語の本を読むようになると、当然のことながら、英語の本を読む人々での評判もチェックするようになる。そして、「英語圏での傑作」を見ていると、「なぜ日本で売れていないの?」と首をかしげるような現象があるという。

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こんなに傑作なのに、なぜか日本で売れてない?

 つまりこうだ、質量ともに十分な読み手が「これは傑作」と太鼓判を押し、なおかつその高評価でもって邦訳を出したのに、日本では鳴かず飛ばずという(マーケティングの失敗なのか日本人ウケしなかったのか……)。

 その代表格として、これ。第二次大戦下のフランスの姉妹の物語。優しく受身の姉と、活発で反抗的な妹が、戦争の運命に巻き込まれてゆく。ドイツの侵攻から生家を守ろうとする姉と、レジスタンス活動に身を投じる妹の、それぞれの人生が歴史のうねりの中で大きく変わってゆく感動物語だという。

 原書と邦訳版のパッケージを見比べると分かるが、おそらく「読み手に届く」形になっていなかったのかも(あるいはアニメ化も念頭にあったのかも)。

“Cathedral”Raymond Carver/『大聖堂』レイモンド・カーヴァー

 これも大好きな作品。「ぐっと胸にせまる」「心あたたまる」という形容がぴったり。なかでも傑作なのが『大聖堂』だ。妻の古い友人ということで、盲目の黒人が家にやってくるのだが、語り手である「私」は固い反感じみたものを感じていた。それが、ふとしたきっかけで、心がつながりあってゆく。

 カーヴァーが書く小説の登場人物は、自分の感情をべらべらとしゃべらない。だから読者は、人物の外側の描写や、彼・彼女が感じた断片から推し量るほかない。わたしは村上春樹の翻訳で読んだのだが、(原文を知らないにもかかわらず)素晴らしい名訳だと思った。橋本さんを見習って、原作に挑戦してみるか。その場合、最初に読む Carver は、” Small, Good Thing” (ささやかだけれど、役にたつこと)だな。

”The Overstory”Richard Powers/『オーバーストーリー』(未邦訳)リチャード・パワーズ

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正座して邦訳を待つパワーズ本

 最近のベスト本とのこと。樹木に宿命づけられた10人の運命がばらばらに語られてゆくうちに、最終的にまとまって、一つの物語に収斂するという。個人個人の物語がだんだん絡み合ってゆき、最後に大きな流れに一体化する骨格は、『舞踏会へ向かう三人の農夫』[書評]が浮かぶが、今度は10人とは! めっちゃ気になる。橋本さんは、『われらが歌う時』[情報考学の書評]も絶賛していたけれど、これも負けず劣らず傑作とのこと。いずれ邦訳されるだろうし、わたしの英語力では追い付かないので、正座して待つ。

英語の本をどうやって探すか?

 これは頭を悩ませているところ。日本語の本なら、ネット、読書会、図書館、リアル書店、Amazonを通じて沢山のチャネルがあり、そこから本の情報を入手できるが、英語の本はどうするか?

 わたしがチェックしているのは、ブッカー賞や全米図書賞の候補作、ベストセラーリストぐらい。「ビルゲイツお薦め」が「キング絶賛」と同程度のコピーであることに気づいたいま、広告に惑わされない読み手が欲しい。

 それは、橋本さんであり、[未翻訳ブックレビュー]のかもめさんだ。そんな「読み手」をどうやって探せばよいか。「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」の「あなた」を探す洋書版である。

 そんな質問を橋本さんにぶつけてみたら、ど真ん中が帰ってきた。

 それは、[goodreads] だ。

 読書メーターやブクログのような、本の登録+評価+レビューサイトだが、凄いのはその質量。英語を話す人という時点で分母が巨大な上に、そこで洗練された評者のレビューがありがたい。出版社や作家といった「中の人」ともつながることができるのも嬉しい。

 インターネットの中で、知を発信し続けるスゴい人がいる。そのNo.1は[読書猿さん]だ。わたしの目標の一つに、「英語圏の読書猿を見つける」がある。市井に住み、知を愛し、ネットで発信する哲人は、必ず居ると信じる。なんとなく、米国よりも、イスラエルとかインドにいそうな予感だけれど、goodreadsから探せそうだ。

 goodreads での橋本大也さんのレビューの入口は[Daiya Hashimoto]、もちろん英語だ。

どうやって読書の時間を捻出するか?

 これも悩ましい。わたしの場合、通勤時間を利用しているが、橋本さんも一緒みたい。「通勤時間=読書時間」と決めてしまうことで、まとまった時間を読書に割り当てることができる。考えてみれば、自分の時間が比較的ある休日のほうが、本を読んでいない。もちろんこうして書いているからということもあるが、それでも、Dark Souls にかける時間を減らせば、もっと読めるはずだ(あとは薪の王のみ)。

 そして、もう一つ、嬉しいことが聞けた。それは、audible の利用だ。混雑した電車で小さい字を追いかけるのも大変だが、聞いて読むという手でクリアできる。audible を活用することで、英語力の向上+目を使わずに読書している。ノンフィクション系が良いとのこと。というのも、小説の場合、一文で状況が変わってしまうことがあり、聞き逃しの致命度が高い。一方、ノンフィクションだと似たような表現や補足をしてくれるため、audible 向けだという。なるほど。

 そして、日本のよりも米国のほうが質量ともに凄いらしい。audible 専用のラジオドラマシリーズがあるぐらいで、Netflix と同じビジネスモデルが成り立っているという。どんな番組がいいか分からない場合は、とりあえず audictid がお薦めらしい。audible の addict(中毒)で、女の子たちがお薦めを語ってくれるガールズチャットだという。

「今、この10冊が面白い!」で紹介された本のリスト

今、この10冊が面白い!
”The Buddha in the Attic” Julie Otsuka(屋根裏の仏さま)
”The Fault in Our Stars” John Green(さよならを待つふたりのために)
”Sphere” Michael Crichton (スフィア・球体)
“Jaws” Peter Benchley(ジョーズ)
”Me Before You" Jojo Moyes(ミー・ビフォア・ユー)
“The Nightingale” Kristin Hannah(ナイチンゲール)
“Cathedral” Raymond Carver(大聖堂)
“Olive Kitteridge” Elizabeth Strout(オリーヴ・キタリッジの生活)
“Washington Black” Esi Edugyan
"Sing, Unburied, Sing" Jesmyn Ward
“The Underground Railroad” Colson Whitehead(地下鉄道)
“Grinding It Out” Ray Kroc(成功はゴミ箱の中に)
“Google It” Anna Crowley Redding

英語読書の入口(映画の原作&やさしめ)
“The Godfather” Mario Puzo(ゴッドファーザー)
“The Exorcist” William Peter Blatty(エクソシスト)
“The Shining” Stephen King(シャイニング)

映画より原作が面白い
“The Sheltering Sky” Paul Bowles(シェルたリング・スカイ)
“The Hotel New Hampshire” John Irving(ホテル・ニューハンプシャー)

世界でベストセラーだけど日本ではほぼ知られていないノンフィクション(経済編)
“Conspiracy” Ryan Holiday
“Bad Blood” John Carreyrou
“Billion Dollar Whale” Tom Wright,Bradley Hope

最近のベスト
”The Overstory” Richard Powers
"Circe" Madeline Miller

森泉さんのお薦め
『いなくなれ、群青』河野裕
『罪人が祈るとき』小林由香
『望郷』湊かなえ
『ON 猟奇犯罪捜査班・藤堂比奈子』内藤了
『君は月夜に光輝く』佐野徹夜
『かがみの孤城』辻村深月
『また、同じ夢を見ていた』住野よる
『星か獣になる季節』最果タヒ
『渦森今日子は宇宙に期待しない』最果タヒ
『夜空はいつでも最高密度の青色だ』最果タヒ
『ドグラ・マグラ』夢野久作
『舞姫』森鷗外

 最果タヒ作品が魅力的なので、これを機に手を出してみるつもり。
いっぽう、エログロ猟奇系なら『異常快楽殺人』、制限時間つきの人生なら『死ぬまでにしたい10のこと』、いじめの強烈なやつなら『ぼくはお城の王様だ』をお薦めしてきた。

 めちゃめちゃ充実した時間でした。橋本さん、森泉さん、ありがとうございます!

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『会計が動かす世界の歴史』はスゴ本

 シャーロック・ホームズの金銭感覚や、ダーウィンの資産活用から、会計と革命の意外すぎる関係、複式簿記から解き明かす知性の進化など、歴史を縦横に行き交い、ミクロからマクロ経済まで自在にピントを合わせながら、人類の歴史を損得の視点から紐解く。

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 パッケージから、最初は「簿記の歴史」や「会計の世界史」という印象を持った。だが、本書の焦点深度はもっと広い。そして、めちゃめちゃ面白い。これは、お金と人との関わり合いをドラマティックに描くだけでなく、それを通じて「お金とは何か」ひいては「価値とは何か」についても答えようとしているからだ。

「お金」が人を作った?

 誤解を恐れずに言うと、「お金」が人を作ったといえる。

 逆じゃね? と思うだろう。壱万円札を作ったのは人だし、その紙に「壱万円分の価値がある」(ここ重要)と信じているのは人だから。なぜ壱万円に壱萬円分の価値があるかというと、壱萬円の価値があるとみんなが信じているから。この「みんなが信じる価値」がお金の本質である。

 そんな「価値」みたいな概念ではなく、金や銀といった貴金属がお金じゃないの? という疑問が出てくる。本書では、お金と人の歴史を振り返りながら、「みんなが信じる価値」と「お金」の関係に迫る。

 たとえば、スペイン帝国がもたらした価値革命の例をあげて、金銀はお金というよりも、お金を計るためのモノサシだと答える。植民地化した中南米から大量の銀が持ち込まれた結果、銀という通貨の供給量が増え、大規模なインフレが発生する。すなわち、ヨーロッパでの銀に対する「みんなが信じる価値」が下がったのだ。

 あるいは、最古の金融バブルと呼ばれているオランダのチューリップ・バブルや、詐欺師ジョン・ローが引き起こしたミシシッピ・バブルの話をする。彼が作り出した「利子付きのお金」は、良い意味でも悪い意味でも応用が利くだろう。欲望が欲望を生み、「みんなが信じる価値」が膨らんで弾けた出来事だ。

 面白いところをつまみ食いするだけなら、[ペペラのバブル物語]を読めばいい(めちゃくちゃ面白いゾ)。だが本書では、「なぜバブルが弾けたのか」という問いを立てる。ありがちな「みんなが現実に目覚めたから」ではなく、「なぜ現実に目覚めたのか」という視点から、生々しい理由を炙り出す(p.173の解説は、あらゆる先物取引(の損切タイミング)に応用が利くだろう)

なぜ文字より先に簿記が生まれたのか?

 本書が類書より優れているのは、さらに「みんなが信じる価値」の先へ踏み込んでいるところだ。サブタイトルの「なぜ文字より先に簿記が生まれたのか?」の秘密はそこにある。

 紀元前4千年までさかのぼる。最初の簿記はメソポタミア文明の「駒」だという。トークンと呼ばれる、粘土製のおはじきのようなもので、穀物や家畜を表していた。トークンは現実の羊やパンと1対1で対応し、税の取り立てや財産管理に使われていたという。

 紀元前3千年にイノベーションが起き、トークンそのものではなく、粘土板にトークンを押し付け、型を記録するようになる。現実と同数同種類のトークンを用意する必要がなく、トークンを現実の数だけ押し付け、粘土板を管理すればいいようになる(簿記の原型)。そして型押しが簡略化され、粘土板に溝を彫るようになったのが文字の誕生になる。

簿記に隠された進化の鍵

 そして、簿記の歴史を紐解きながら、「みんなが信じる価値」の本質に迫る。

 興味深いことに、粘土板から始まりルネサンス期に完成した複式簿記と、独自で発達した日本の簿記と、似たような構造をしているという。つまり、勘定科目を借方と貸方に分けて記載し、貸借を一致させるという構造だ。

 あたりまえだろ? 誰かにとっての「借り」は、その相手にとってみれば「貸し」になる。千円借りたら、千円返さないと。ここに時間の概念を入れると、利子や償却といった要素が必要になるが、簿記の基本は、「貸し」と「借り」が一致することにある。

 しかし、この「あたりまえ」こそが、ヒトを人たらしめた原因だというのだ。

 社会的動物であるヒトが、そのコミュニティの中でうまくやっていくためには、個体を分別し、その個体が自分にとって得となるか損となるか判断する必要がある。仲間だから協調する部分もあるが、食物や異性の取り合いとなることが出てくる。

 つまり、裏切ったり裏切られたりする関係性を続けながら、うまく生き延びる必要がある。場合によっては、自分に有利なときでも、仲間に恩を売ったほうがトクになることが出てくる。この協力と裏切りの駆け引きの中で、知性すなわち脳は進化していったという(これを[マキャベリ的知性仮説]と呼ぶ。以前の記事で、イカの脳についても同じ説が展開されている[頭足類の心を考える])。

 その中で重要なのは、身近な仲間を判別し、それぞれの「貸し」「借り」を理解し、記憶していくためには、高度な知能が必要となる。現代では、お金を貸したとき「貸付金」として登録しているが、昔は「貸した人の名前+金額」で債権を記録していた(人名勘定)。つまり、簿記の基本構造の中に、知性の進化の秘密が隠されているといえる。

「お金」の本質=譲渡できる信用

 誰かに「貸し」を作ったら、それを報酬として受け取れるのは、返してもらえると信用しているから。以前に「借り」たものを返すのは、それをしないとコミュニティでやっていけないから。

 そのための約束ごとが、「みんなが信じる価値」すなわちお金になる。時代によって、それは貝殻だったり金銀といった貴金属、あるいはデジタルデータとして計られるが、その計られる対象である信用が、知性を進化させたのである。

 会計という視点で人類史を斬ると、その断面にお金の本質が見える。18世紀イギリスの産業革命を経済現象として読み解いたり、未来の通貨と呼ばれる仮想通貨の構造的な弱点を明らかにしたり、盛りだくさんの内容となっている。

 愚者は自分の経験から学び、賢者は歴史から学ぶという。さらに、歴史を通じて現在の問題を理解することができる。「会計」という斬り口から歴史を眺め、伏線と謎解きを張り巡らし、極上のミステリに仕立てた一冊。

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知的冒険の書『ウンベルト・エーコの世界文明講義』

 知の巨人ウンベルト・エーコの、十余年にわたる講義録。


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 美と醜、虚構と陰謀、絶対と相対など、抽象的なテーマを俎上にのせ、フルカラーの図版を通して、具体的に迫ってゆく。ニュースやメディアで馴染んだネタから、ネットを駆使して追いかける必要のある美術作品まで、知的に振り回されるのが楽しい。

 たっぷり知的興奮を味わったあと、見知ったはずの世界にある、見知らぬ裂け目に気づいたり、まるで異なる時代なのに、そこを貫く原理原則があったことを発見する。世界はもっとつながり合っているし、時代はもっと重なり合っている。人の営みは、かくも美しく、かくも醜いことを、あらためて知って驚く。



美とは何か

 たとえば、「美」について。

 「美とは何か?」と概念で問われると、答えに窮する。イデアのように「美しさ」そのものを指し示されたとしても、それが(他の言葉でいう)何であるかなんて、分かるはずもない。せいぜい、わたしが美しいと感じるオブジェクトを挙げるしかない。このあたりの機微は小林秀雄が上手いこと言っており、「美しい花がある、花の美しさという様なものはない」がそれだ。

 ところがエーコは、もっと具体的に「美」に迫る。

 美しいと考えられるもの―――それは絵画や彫刻といった美術作品だったり、美的体験を伝える物語だったりする―――を具体的に挙げてゆき、そこに共通したものを見出す。すなわち、「美は変わる」ことだ。

 「美」が絶対的で不変的なものであったことは一度だってなく、それは時代や国によって、複数の異なる顔を見せてきた。これはオブジェクトが、男や女や裸体や景色といった物理的な美しさに限らず、神やイデアといった形而上的な美しさも然りだという。

 さらに、美にまつわる様々なテクストを通じて、美の中にある価値観を救い出す。「美しい」という言葉には、「優美な」あるいは「崇高な」「素晴らしい」といった形容が含まれることを指摘する。「美しいものとは、それがみられたときに喜びをあたえるもの」なのである。

 この件は、『美の歴史』を思い出させる。「完璧な美とは存在するのか?」という疑問に答えるべく、古代から現代に至る、美術作品、文学や音楽、数学や哲学や神学、天文学に至るまでを追いかけて、美の観念の変遷を渉猟した大著である。持つにも読むにもデカいので、『世界文明講義』のこの章からエッセンスを汲み取るのもいい。



醜とは何か

 あるいは、「醜」についての考察も具体的だ。

 美と同様に、醜も相対的であることは変わりないが、面白いのは醜は「美との関係性」において捉えられている点だ。醜とはすなわち、「美女と野獣」の変化形であり、いったん美の基準が定められると、ほぼ自動的に対応する醜の基準も定めるのが自然だと考えられてきたという。完全性と不完全性、秩序と秩序を壊すもの、といった風に。

 ただし、こうした相対性から離れ、美の理想にふさわしくない、という理由で醜いとされる対象もある。たとえば、アドルフ・ヒトラーが20歳のときに描いた花瓶の絵を挙げ、エーコはこれを醜いとする。


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ヒトラーが20歳のときに描いた絵(右頁)


 反感や憎悪、恐怖や不安の反応を引き出す要素があれば、それを「醜」だと定義づけることができる。美人とされる姿かたちは、時代とともに変化する。だが、美人の腐乱死体は普遍的に醜い。『美』は文化的背景の価値観を反映し、『醜』はその先にある「死」の概念をまとう。

 この辺りの考察は、『美の歴史』の姉妹本となる『醜の歴史』に詳しい。ほとんどの人が「美は文化なり」に賛同するだろうが、では醜は? と訊かれると窮するに違いない。この質問に対し、諸芸術における暗黒・怪奇・異形という観点で斬り込んだ『醜の歴史』は、『美』よりも面白いことを請け合う。『世界文明講義』から「醜」方面に手を伸ばすならこれ。



「巨人の肩に乗る小人」をひっくり返す

 あるいは、「巨人の肩」の洞察が面白い。

 先人の積み重ねた業績に基づいて新たな発見をすることを「巨人の肩に立つ」というが、これ、アイザック・ニュートンが最初だと思っていた。

 ところがエーコは、様々な文献を次々と開き、芸術と人類の歴史をたどりながら、この箴言が沢山の人びとの手から手へと渡り歩き、かたちや意味を変えながら伝わってきていることを示す。

 小人と巨人の箴言は、12世紀の哲学者・シャルトルのベルナルドゥスの言葉だとされている。だがエーコは、もっと以前の発案者に目を向ける。さらに6世紀前のカエサリアのプリスキアヌスによって語られていることを示し、さらにプリスキアヌスとベルナルドゥスの間にも、コンシュのギヨームを指摘する。

 そして、人類の知は、それを集積したメタファー「巨人」とともに、時代時代を受け継がれながら人口に膾炙する。いまでは、「先人の業績があってこそ」というニュアンスが強いが、かつては、「巨人よりも遠くまで見える」という、「肩の上に立つ小人」の方に重きを置く意味合いが強かったという。

 先人の研究は、まとまった一冊の本といった形に編纂されておらず、世界にバラバラに散らばっている。それを一つの価値体系としてまとめ、そこからさらに敷衍するということは、巨人よりもむしろ小人の方が重きを置かれるべきだろう。この、巨人と小人の逆転が面白い。

 他にも、陰謀が成功するためには、核となる秘密が完全な嘘である必要性を『フーコーの振り子』で明かしたり、嘘が歴史になるプロセスをダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』のネタバレで考察する章も面白い。シャーロック・ホームズやアンナ・カレーニナから物語を読むときの「ごっこ遊び」の可能世界論へのアプローチや、「ゴキブリの脳が進化しなかったのは、それが完全である一方、人の脳が不完全であるからこそ進化の余地がある」といった視点は、世界を新しい目で捉えることに役に立つ。

 ユーモアと皮肉を交えながら、美と醜、アフォリズムとパロディ、嘘が歴史的事実となる経緯など、エーコの思想がエーコを通して語られる。エーコ一流の箴言の宝庫であり、見たことのない絵や写真を眺めているだけでも楽しい、知の財産みたいな一冊である。

 知的冒険の一冊を、堪能すべし。

 そして、次回のスゴ本オフのテーマは「冒険」だ。本を通じて人を知り、人を介して本に出会うオフ会、それがスゴ本オフ。2/16(土)午後、渋谷でやりますぞ。概要は[スゴ本オフ「冒険」のご案内]、申し込みは[facebook:スゴ本オフ「冒険」]でどうぞ。


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「すでにご存知のとおり」←これ

 完全に新しい話を、「すでにご存知のとおり……」で始める奴がいる。知らんがな、としかいいようがない。だが、この前置きで始めることで、あたかも本題を「ご存知=ご承知」であるかのごとく扱うのはやめてほしい。そのハゲかけた髪をいっぽんいっぽん抜きたくなる。

Kaigi

 仕事場で使われる罠として、「本題より先に前提を混ぜ、あたかも前提が合意されたかのように話を持っていく」という技がある。

 つまり、伝えたい主張(本題)に入る前の導入部で、「合意されていない前提」を混ぜ込むことで、本題に反応したら、前提に同意したことにするテクニックだ。フェアじゃないし、卑怯なやり方なのに、空気を吸うように使う奴がいる。

 たとえばこう。

 「この額で受注を獲得するために、さらに機能を2つ追加し、納期を4週間前倒すことが絶対だ」というやつ。するっと流して聞いてしまいそうだが、ポイントは、「この額」は社内で合意された見積でもなんでもない点にある。

 ところが、本題(機能追加と納期短縮)に反応してしまう。「追加機能の仕様が決まっていない」とか、「これ以上の短縮は無理」と返事をしてしまうのだ。そして、仕様がどうだとか納期の調整がどうした、といった話にもっていかれる。

 あたかも、「この額」という前提が確定したものとして扱われ、その後の議論がメインとなってしまう。そもそも「この額」でするとかなんて、全く議論していないのに。にもかかわらず、後になって異議を唱えると、「あのときそれで議論して決着ついたじゃん」とあしらわれる。

 この罠を使う奴は、本題に無理難題をふっかける。本題がムリであればあるほど、聞いてる人はそこに引っかかるし反応する。わざと食いつきやすく話を大きく振るのが、たまらなく卑怯なり。

 この罠が出るたびに、前提の部分を指摘して、「『この額』って、そもそも社内で合意されてましたっけ?」とツッコミを入れる。ところがテキもさるもので、「いまそこを話し合いたいわけじゃない」と跳ね返す。「でも、コストと機能と納期がセットになってないね」と食い下がる。こんな、ゴミみたいな予防線の張り合いが、後になって炎上プロジェクトを押し付けられたときに効いてくる。

 この手法、「不当予断の問い」の亜流ともいうべきか。「不当予断の問い」は、YES/NO で答えるクローズドクエスチョンに、不当な前提を混ぜたやつ。「もう奥さんを殴るのを止めたのかい?」が代表的で、YESと答えてもNOと答えても「妻を殴る」前提を認めたことになる。本題を餌にしたオープンクエスチョンで、「不当予断」を通す戦略である。

 この罠、かなり高度で、やられた方も気づかない場合が多い。にもかかわらず、上手い言葉が見つからないし、注意を促す警告もあまり見かけない。ビジネスの現場でフツーに使われているが、フェアでもないし卑怯なり。先週もシレッと使ってきた奴がいたので、丁寧に潰してさしあげた。

 類似の罠は、『議論の技術』にある。基本から詭弁まで、各種取り揃えている。最も忌み嫌っている「社内政治」で使えることが分かってきて嫌なのだが、降りかかる火の粉を払うためには致し方ない。
 

  • 「先ほどの質問について沈黙を守っていらっしゃいますが、ご了承いただいたと解釈してもよろしいでしょうか?」
  • 「あなたは反対なのですか? 反対であれば、なぜ反対なのですか?」(本来は立論側が負うべき立証責任を、シレッと押し付けるのに便利。「なぜ」と聞かれると答えたくなるのが人の仕様)
  • その切り返し→「私はあなたの質問に答えました。だから、あなたは『なぜ賛成なのか』について理由を述べるか、あるいは私が述べた理由に反論してください。しないのであれば、私の理由に納得いただいているという認識でよろしいですか?」
  • 「なぜその2択なのですか? 他の選択肢を検討しない理由を教えてください」

 本来は、建設的な議論をするための技術だが、キナ臭い現場にも効く。

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スゴ本オフ「冒険」のご案内

 推し本を持ち寄って、まったり熱く語り合うオフ会、それがスゴ本オフ。

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テーマ「お金」のとき、バラエティ豊かな本が集まった

 本に限らず、あなたのお好きな音楽、映画、ゲームなど、なんでもござれ。あなたの「好き!」について、思いのたけを語ってほしい。

 日時 2/16(土)14:00~17:00
 場所 渋谷(HDE/HENNGE)
 参加費 2千円(飲み物、軽食をお出しします)
 詳細・お申込み [facebook「スゴ本オフ冒険」]

 当日は別フロアで[1000 Speakers Conference in English]を開催してますので、飛び込みで参加して「英語をしゃべる」という冒険をするのもいいかも

 今回のテーマは「冒険」。小説やマンガ、映画の冒険ものといえば定番だが、「これ!」というのを探すと様々な傑作が出てきそう。舞台となる場所(海、山、空、おしいれから宇宙まで)、タイムスケジュール(古代から未来、3分間から無限大)、キャラや冒険の手段、目的、不思議な冒険、奇妙な冒険と、いくらでも発想が広がっていく。

 別に「往きてし還る物語」である必要はない。「危険を冒す」のが冒険なのだから、大博打を打つ、ベンチャーにヤマを張る、アクロバティックに乗り越えるだっていい。危機一髪のストーリーなんて、たくさん思い浮かぶだろう?

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テーマ「食とエロ」のとき。本好きはえっちで食いしんぼう

 さらに、冒険から発想を広げてもいい。冒険を経たあとに手に入るもの、それは財宝かもしれないし、頼もしい仲間かもしれぬ。わたしは冒険から得られる「経験値」として、とある一冊を思いついたので、そいつをメインに紹介するつもり。

 なので、あなたの自由な発想で紹介してほしい。全体の流れとしてはこんな感じ。

  1. テーマに沿ったオススメ作品を持ってくる

    オススメ作品は、本(物理でも電子でも)、映像(映画や動画)、音楽、ゲーム(PS4からボドゲ)など、なんでもあり。

  2. お薦めを1人5分くらいでプレゼンする

    あなたのオススメを存分に語ってほしい。刺さったところを音読するもよし、自己流の解釈もよし。DVD、ブルーレイ、Youtube はプロジェクターで再生しますぞ。

  3. 質問とオススメ返しの時間

    あなたのオススメに、観客から質問やオススメ返しされる。「実は私も好きなんです!」と同志を見つけたり、「それが好きならコレなんていかが?」なんてオススメ返しされたり。このリアルタイム性が嬉しいところ。紹介に優劣つけたり投票はしない(ここ重要)。

  4. 放流できない作品は回収する

    「放流」とは本の交換会のことで、交換できない絶版本・貴重な作品は、ここで持ち主の手元に戻る。

  5. 交換会という名のジャンケン争奪戦へ

    回収が終わったら、交換会になる。「これが欲しい!」と名乗りをあげて、ライバルがいたらジャンケンで決める。ブックシャッフルともいう。

Play19

テーマ「遊び」のとき、ボードゲームやゲームウォッチが集まった

 見るだけ参加もOKだし、紹介だけもあり。途中参加・途中退場もなんでもあり。このブログの右下あたりに、過去のスゴ本オフのレポートがあるので、それを参考にしてみるのもいいかも。

 本を介して人を知り、人を介して本に会う。わたしが知らないスゴ本は、実はあなたが読んでたのか! という出会いがいっぱいあります。

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人生を変えた一冊 『箱』

 品川駅の、HENNGEのメッセージが、好きだ。


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 駅をジャックするかのように、吹き抜けのデカイ看板、デジタルサイネージ広告がある。目に付くところ大きな広告であるにもかかわらず、モノトーン+簡潔なメッセージなので、逆に目立つ。なかでも、中央改札入ったとこの、日替わりメッセージが良い。


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 もとはHDEなのが、社名がHENNGE(へんげ)になるとのこと。スゴ本オフでお世話になっているので気になっていたのだが、このメッセージは刺さる。全部のメッセージは[あなたが変われば、世界も変わる。]で確認できる。


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 変化のメッセージといえば、イチロー「変わらなきゃ」、オバマ「Change」が浮かぶ。そこでは、ある種の覚悟や切実さでもって変化(へんか/Change)が求められている。いっぽうHENNGEでは、もっとコロッと、自由に気軽にお試しで、変化(へんげ/Metamorphose)することが誘われている。人はもっと変われるし、化けたほうがいい。


人生を変える一冊

 なぜなら、わたし自身、何気なく手にした一冊が、人生を変えてしまった経験があるから。

 それは、『箱』という本だ。ある時期、人間関係で非常に苦しい思いをしていたとき、本書に出会った。なぜ伝わらないのか、どうして分かってもらえないのか、こいつバカなのか!? と激しく悩んでいたのだが、一読し、一変した。

 一言で言うと、自己正当化と自己欺瞞の話だ。

 自己正当化は人間の仕様である。だが、自己正当化という仮面を人生の目的にしてしまうと、仮面を守るために自分に嘘を吐くようになり、ひいては自己欺瞞に乗っ取られる。そうなる前に、自己欺瞞(本書では箱と呼ぶ)に気づく方法が書いてある。

 急いで付け加えねばならないのが、「箱」は殻でもATフィールドでもない。「箱」は、殻でもATフィールドにもなれるが、それ以前の「自分が正しいという感覚」のようなものだ。もう少し詳しい説明は、[5冊の本が、わたしを自己正当化から自由にしてくれた]に書いたが、この感覚は、実際に読んで自分で体験してくれ、という他ない。


Jikoseitouka

5冊の本が、わたしを自己正当化から自由にしてくれた


自己欺瞞に気づくだけで楽になる

 自分で自分に吐いた嘘は気づけない。

 なぜなら、自分が「正しい」から。その「正しさ」が何にもとづいているのか、どんな根拠でなぜ「正しい」と言えるのか、深く掘り下げて考えてゆくと、わたし自身が揺らぐところまで降りることができる。そして、その嘘がバレる瞬間は、かなり気まずいし、恥ずかしいし、情けない。自分への裏切りに気づく瞬間は、恐怖以外の何ものでもなかった。

 しかし、『箱』を読み、「箱」に気づくことで、変わった。もちろん一回読んだだけで万事解決、というわけにはゆかぬ。何度も何度も、毎日のように「箱」に気づき、それを守るための人生を選ばないだけで、変わった。「箱」を意識することで、これまであたりまえのようにしていた防御や牽制、(箱を守るための)攻撃的な姿勢が、なくなった。



復刊後のタイトルは『自分の小さな「箱」から脱出する方法』


 要するに、楽になったのだ。自分で自分を苦しくしていたのだ。自分の首を絞めていた手に気づいて、やめたのだ。このままだと、自分を破壊していたかもしれない。この変化、へんか(Change) というより、へんげ(Metamorphose) に近い。

 たった一冊の本が、ここまで変えることは、珍しい。そして、どうやって自分がこの一冊にたどりつけたかを考えると、ほとんど奇跡のようだと思っている。


自分を変化(へんげ)させる一冊

 もともとは、[まなめはうす]のまなめ王子が絶賛していたのがきっかけ(14年くらい前?)。気になって調べてみたところ絶版状態で、Amazonでは8,000円くらいの値がついていた。

 図書館に駆け込むが、予約待ちが何人も入っているのに驚いた。発売当初の新刊に、予約がむらがることはありがちだが、当時からしても昔の本なのに、待っている人がいるというのは珍しい。これ、クチコミなどで広まった、隠れた需要があるということだともいえる。

 ずいぶん待たされた挙句、ようやく借りて読んでガツンとやられた。

 そして、8,000円は惜しいので原書を買い、「こんなスゴい本がなぜ絶版なんじゃ~」と出版社に電凸し、復刊ドットコムを教えてもらって働きかけたことがある。その甲斐もあってか、復刊されることとなり、好調に部数を伸ばし、シリーズ化もしているようだ。このあたりの事情は、まなめ王子が[箱本の思い出]で書いてくれたおかげで、思い出した。

 以後、出会う人出会う人ごとにお薦めしている。これ、あらゆる人にオールマイティに薦められる、珍しい本なのかもしれぬ。なぜなら、世界で最も重要な人、すなわち自分自身と向き合い、楽に変われる方法が書いてあるのだから。この変化の別名は、適応というのかもしれぬ。

 自分が変われば、世界が変わる。その意味で、世界を変える一冊なのかもしれぬ。わたしの人生を、わたしの世界を、よいほうに変えてくれる一冊に出会うことができたのは、まなめ王子のおかげ。このブログのタイトルの通り、わたしが知らないスゴ本は、まなめ王子が読んでいたというやつ。どれだけ感謝しても感謝したりないくらい。

 よい変化(へんげ)で、よい人生を。

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『眼の誕生』はスゴ本

 「世界の見えかたが一変する」という意味で、目からウロコの一冊。

Menotanjou

 先入観やバイアスは、明示されるまで気づかない場合が多い。例示されて初めてハッとする。それまで、「見えている」と思っていたものが、実は「見て」すらいなかったり、「見える=存在する」という思い込みの強さに囚われていたことに気づく。


見えていない ≠ 存在しない

 わたしの「世界の見えかた」を変えたのが、爆撃機の話だ。第二次大戦中、敵機の攻撃から生還した爆撃機を調査した統計学者が、ある提言をした。それは、「被弾箇所(赤ドット)ではなく、空白部分を強化すべし」というのである。なぜなら、空白箇所に被弾した機は、そもそも生還しなかったからという理屈だ。

Wikipedia:Survivorship biasより引用

 「生存バイアス」とも呼ばれるこの理屈、ポイントは「見えている」という時点で何らかの選択がされていることだ。したがって、「むしろ見えていないものは何か?」という観点から「それはなぜか?」を考えると、問題そのものが一変する。いかに自分が「見えている」ことに囚われていたかに気づき、世界がぐるりと裏返るような目まいを生じる。


極上のミステリのようなノンフィクション

 『眼の誕生』を読んでいるときも、これと同様に、世界がぐるりと裏返る衝撃を受けた。本書のテーマは、「カンブリア紀大進化の謎を解く」である。文字通り、事実を積み上げ、ロジックを組み立て、動かぬ証拠をつきつける、極上のミステリを読まされているかのようなサイエンス・ノンフィクションである。

 「カンブリア紀大進化」は、「大爆発」とも呼ばれ、生物学史上の巨大な謎とされてきた。カンブリア紀の始まりである5億4300万年前、生物は突如、爆発的に進化したという謎である。それ以前の地層からは、ほとんどの生物は似たような姿形で、種類もたいしたことなく、さらに数もいなかった。

 それが、5億4300万年前から5億3800万年前までの間(地球史的には一瞬である)、硬い殻やトゲ、剣、鱗、歯を備えた、多種多様の生物が誕生したのである。突然、生物たちが申し合わせたかのように一斉に進化したのは、なぜか?

 その答えは、タイトルにある。『眼の誕生』こそが、進化の引き金となったというのである。犯人がタイトルに書いているようなミステリで、かつ、これほど鮮やかにガツンとやられるのは皆無にひとしい。

 つまりこうだ、光を感知するだけでなく、像として把握する「視覚」は、生物の捕食行動を促すことになるだけでなく、捕食者から逃れるための防衛機能や外部形態への淘汰圧となる。さらに視覚は、異性を惹きつけるためのディスプレイといった性淘汰にも影響する。眼はすなわち、世界を変えたのである。

 光スイッチ説という、この結論に至るまでの積み上げが凄い。生命の誕生まで遡り、光学の基礎を解説する。面白いのは、「色」を感じる仕組みにまで説明しようとすると、生物が発する色には、色素の色と構造の色があることまで理解する必要が出てくる。

 たとえば、赤色は、受けた光のうち、赤以外を吸収して、赤のみを反射するから「赤い」と知覚する。これが色素の色だ。いっぽう、鳥の羽やチョウの翅に顕著な、何色とは一概にいえず、見る角度によって様々な色になる構造色がある。化石をしらべるとき、色素は化学変化により失われる場合が多いが、構造色は残されていることがある。これを手がかりにして、「視覚」の誕生はまた「色」の誕生であることを突き止める。


動物の「視覚の進化」を見える化する

 ビジュアルテキストとして、『動物が見ている世界と進化』を併読したのだが、これが正解だった。大英自然史博物館を中心とした標本写真やグラフ、図版を元に、動物の眼はどのように進化してきたのか、色が生まれる仕組みや、色を持つことによる進化的利点が、まさに手に取るように見える。

 物理現象である「光」と、それを感受する器官、さらに内部で像を結ぶ「視覚」とし、波長による「色」を認識する一連の流れは、さらに、環境や状況に応じ、どのように適応させていったかの生物の多様な視覚器官がフルカラーで見える(お約束の昆虫の複眼の拡大写真もある)。


化石がない ≠ 存在しない

 カンブリア紀より以前、もともと生物はそこに「いた」のだ。だが、硬い殻や鋭い歯を持っていなかったため、化石として残されたものが少なかっただけなのである。眼の誕生により、食うか食われるかの環境になり、生物の大半が殻を持つようになったからこそ、あたかも多様な生物が一斉に誕生したように見えたのである。

 化石として見えるものがないからといって、存在しなかったわけではない。著者は、化石として残されていないものは、柔らかい体のほかに何が無かったか? という問いを立てたからこそ、「眼」への発想が生まれたともいえる。

 見えるものが全てではない。見えていないものから、世界の見えかたを、変えてみよう。

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「古典は本当に必要なのか」討論会へ行ってきた

Kotennhahontouni

 古典不要派と必要派がガチで議論するシンポジウム「古典は本当に必要なのか」を見てきた。パネリストの紹介は[「古典は本当に必要なのか」シンポジウム]で、youtube や twitterまとめ([第一部][第二部])で見ることができる。

3行でまとめる+問題の本質

 長いので3行でまとめる。「高校の古典(古文・漢文)は必要か?」という議題に対し、

  • 不要派:古典は選択科目にして論理国語に注力すべき。あと現代語訳でおk
  • 必要派:幸せに生きるための古典は原文も一緒でないと
  • 会場の声:必要派が優勢だが、現場では現代語で教えてるのが実情

 そして、この問題の本質は次の通り。「古典は必要か?」と問われれば、必要に決まっている。問題なのは、どれくらい必要なのか? と問われていることに気づいていないことである

 そして、もっと厄介なのは、「これくらい必要」の「これくらい」は何を根拠にそう言えるのかを、示せていないこと。なぜなら、高校の有限なカリキュラムにおいて、他の「必要な」教科単元をさしおいて、古典が必要な「程度」を示すことが求められているから。センター試験国語200点のうち、古文50点、漢文50点である根拠と言い直してもいい。

ショートコント「ニュートン力学不要論」

 これ、古典必要派は、ピンとこないかも。

 会場に集まった人たちは、国語教育に所縁のある方が多かったせいか、古典肯定派がメインだった。問題の本質が見えてなさそうなので、前哨戦で見かけた、「ニュートン力学不要論」の回答を紹介しよう。岡目八目ともいうから、問題の深刻度が見るかもしれない。

問)古典不要というなら、現代物理学(相対論・量子力学)を学ぶ上で、古典物理学(ニュートン力学)は、不要ではないか? 絶対的な時空間を前提とし、光と重力の関係を無視しているニュートン力学は、相対論とは真逆の前提で、現代物理学を学ぶ上で、阻害となっているから。

答)ニュートン力学は、物理学の基礎であるため必要。古典物理学を不要という人は、そもそも古典物理学をちゃんと学んでいない人なのだろう。古典物理学をきちんと学べば、その重要性は自ずと理解できる。

 もちろん、ニュートン力学は高校で必須である。量子力学が一般化する20年後ならともかく、「基礎だから必要だ」がまだ通る。だが、真の問題は、古文・漢文の必要派は、こんな回答をしていなかったか、にある。「君は古典を(ちゃんと)知らないから、その重要性が分からないのだ」は答えになっていない。こんなコントみたいな理屈を主張してこなかっただろうか?

 まともな答えの一つは、ニュートン力学と高校数学(微積分、線形代数、ベクトル)の関連性を示し、そうした数学を元に現代物理学も成り立っていることを示すことだろう。ニュートン力学は独立した「単元の一つ」ではなく、数学や天文学、そして現代物理学との結びつきの上に成り立っているのだから、それだけ切り離せるものでもない。

 こうした答えを、古典必要派はしてきただろうか? 不勉強なわたしは、「まともな答え」を聞けるものだとワクワクしながら会場へ向かった。

箇条書き400字ぐらいでまとめる

 古典不要派の主張をまとめると、次の通り。「不要」といっても、失くしてしまえと息巻いているわけではなく、他に学ぶべきものとの優先度に応じるため、選択にしたらと提案しているとこがポイントだ。

  • 高校生の時間は有限であり、そこで学ぶべきことは多種大量にあるため、取捨選択が必要
  • 何をもって選択するか? 国益や個人の収入UPという価値観で評価すべき
  • その判断からすると、古典の優先度は下がるため、必須から選択にすべき
  • 反対に古典よりも、論理国語(企画、プレゼン、議論)を厚くすべき
  • 選択古典も、原文よりも現代語の方が効率がよい
  • 古典は、年功序列や男女差別を刷り込むツールとして有害な一面もあり
  • 教科とその学習量について、既得権と縦割りをバラして、最適化する必要あり

 いっぽう必要派の主張は、こんな感じ。徒然草の解説や、理系vs文系という対立構造では読み解けない江戸時代の医学書の話など、興味深いトピックが紹介された。

  • 古典は幸せに生きるための知恵を授けるもの
  • 古典への社会的敬意が低下しているからこそ、学校教育でその魅力を伝える必要あり
  • 例として、徒然草の紹介、連歌を用いた授業活動の提案
  • 近世の文献で翻訳されていない文献が多く、これらを解読して後世に残すのは納税者への責務
  • 古典を通じた文化交流もある

 つまり、噛み合っていないのだ。

 古典の重要性がどの程度かを判断するにあたり、経済性や実用性、コスパという観点から見る不要派と、人間形成や感性、教養といった観点から見る必要派という構図だ。そして、お互いに言いたいことを言い合って終わっている。

 これはもったいない。価値観の違う人が、わざわざ憎まれ役を買って出て、面と向かって言ってくれるのだから。議論を、しよう。

 議論とは、議題について異なる立場の人が話し合い、互いに妥協できる場所を探すこと。妥協点が見出せないなら、それぞれが主張する問題点を明確にし、それを解決するための課題が何かについて合意を得よう。問題点すら明確にならないなら、それを記述している言葉や事実を確かめよう。定義や認識、エビデンスの違いまでさかのぼれば、抽象度を上げることで問題点を重ねることができる。そして、重なったところでこれらの対話を繰り返そう。

 これが、議論だ。結果、妥協点を見いだせなくても、互いに何を問題視しているかを理解したり、事実認識や定義が違っていることを確かめることができる。その上で、「あれかこれか」ではなく、両論併記することで(抽象度の上げた)ゴールの可能性も考えられる。

むりやり議論を噛み合わせる(キーワード:幸せ)

 噛み合わない「議論」を、むりやり嚙み合わせるなら、「幸せ」がキーワードになるだろうか。不要派の「生涯年収」と必要派の「幸せに生きるための知恵」で、問題点・定義・認識を重ねることはできないだろうか。ほぼ思いつきに近いアイデアを、質問という形で、パネリストたちに投げてみた。

 ……残念ながら、有益な話を引き出せたとはいえなかった。

 古典を学ぶことが生涯年収UPに直結するかなんて、検証しようがない。それでも、日本で使われている言葉のうち、大和言葉や故事成語の割合を調べることはできる。仮に「古典の重要度」を数値化するなら、この割合が参考になるかもしれぬ。

 そして、こうした言葉が文字通り血肉となって自然に出てくることを示すことはできる。不要派のハンズアウトに、「餅は餅屋」「~すべき(強調の意味で)」という言葉があるのは、部分的とはいえ古典教育の証左だろう。「短い言葉で的確に伝えたい」という動機が、自ずとレトリックを選ぶのであり、その引き出しは教育如何による。

 しかし、当のパネリストから、「語彙が豊富だからといって幸せとする尺度は同意できない」という反論や、「アメリカは語彙を減らし簡略化することで移民受け入れが上手く行った」という事例が出され、議論はそこで尽きてしまった。そこから、「アメリカの母語簡略化に倣って漢字教育を廃止した韓国ではどうなっているか」という検証や、「簡体字にしたことで中国の古典伝承への影響はあったか(台湾と比較して)」というサブテーマに膨らませたら面白かったかも。

古典不要派の言葉を使って考える(国際競争力と国力)

 他にも、噛み合わせるポイントはある。

 このテの議論をするには、相手の言葉で語ることが重要だ。相手が使う言葉を掘り下げてみると、実は互いにつながりあっていたことが分かる場合もある。「古典は本当に必要なのか?(いや必要でない)」という言葉尻だけ捉えて、やれ焚書坑儒だ、華氏451だと批判するのではなく、テーマの範囲内で、相手の言葉をどうやったら建設的に使えるか? と考えるのだ。

 たとえば、不要派が重視する”国際競争力”の変遷を、古典からたどるアプローチはどうか。不要派が紹介したスライドで、20年前と今の大企業の一覧があった。GAFAに席巻されたグローバル経済を示し、変化に対応できる”国際競争力”が必要だという。

 これ、スケールが20年だから目まぐるしいが、200年、2000年ならどうだろう。その必要な技能は、「今だけ」なのか、200年来必要なのか。国力、経済力、軍事力、文化的影響、社会制度といった観点で、数百~数千年を振り返る歴史家の仕事になるが、その根拠となっている古典をカウントすることで、古典の影響力を測ることはできないだろうか。あるいは、他の発想が埋まっていないか、掘り起こしが可能だろうか。

 もっと生々しく”国力”への訴求性を求めるなら、歴史問題に踏み込むこともできる。たとえば領土問題として焦点の当たっている島嶼で、その歴史的根拠を探すなら、昔の文書を参照することになる。その有効度は状況によるが、「たしかにその場所について日本と由縁があった」証拠の一つとして挙げることができる。

 そして、その文書はただ一つ、単独で存在するのではなく、文書の存在を示す別の文書、その文書から引き出された(引用や言及、随想など)別の文書として、確実なものとなるということだ。その当時のネットワーク全体で、その文書が示す「確からしさ」が検証できる(ここ重要)。

 なぜ重要かと言うと、争っている相手から、「こちらの方が古いから有効だ」と出所不明・ネットワーク不在の文書が出されてくる可能性があるから。あるいは、相手が時間をかけて「ここは私の領土だ」と繰り返したり、詭弁や武力にモノを言わせて事実化する場合があるから。相手には相手の理屈があり、ストーリーがあるのだから、数十年から百年かけても、国策としてその主張を通そうとするだろう。

 詭弁や武力ではなく、エビデンスに基づいて問題を解決するのなら、文書ほど重要なものはないだろう。歴史問題についてエビデンスとなっている一次文書と、それを参照・言及している文書(相手が提示してくる「文書」も含む)、さらにその解読に携わる人をカウント・比較することで、古典の有用性を可視化することが可能だ。

 一例をあげるなら、[『沖縄は中国の属国だ』という主張が今更な感じがするのですが、どういうことなんでしょうか?]がある。この回答を支えている事実関係を示す一次資料は、それを参照・言及する文書のネットワークの中にある。これらを伝えていかない限り、時間をかけて辛抱強く繰り返される「沖縄は中国の属国である」主張へのエビデンスを手放すことになる。さらに、いま懸案となっている課題だけでなく、将来現れる新たな歴史問題を議論する準備として、古典を解析して維持していくことは、日本の「国力」につながる―――こうしたアプローチだと、古典不要派の「国力」と同じ視線で考えることができるかもしれない。

「認可的ワクチン」としての古典

 上記の例は、読書際さんの「認知的ワクチン」に関する一連のツイートから学んだ。

 「認知的ワクチン」とは、デマをウイルスになぞらえ、知識を教え学ぶことでその流行を防ぐことを指す。たとえば、化学を学ぶことで「水素水」や「コラーゲン配合」の流行を防ぐことになる。

 古典の場合、「水素水」や「コラーゲン配合」に相当するカッコに入るものは何になるか? 先の例だと「沖縄は中国の属国だ」だが、他にもあるだろう。一次資料ではなく、ネットに流れるトンデモ歴史を「事実」として本に書いたらどうなる? 鼻で笑われるだろうが、それがベストセラーになって大勢の人が信じたらどうなる? カッコに入るものは、結構ありそうだ

 そうしたものを数え上げることで、「古典は必要である」のうちの「どれくらい」かを、他と比較することができる。もちろん単純比較はできない。単なる数ではなく、代えのないものであれば、重みづけも考えるべきだろうね。そして、一次資料を読み解く人「だけ」が必要なのではなく、そこから引き出された知識を重視し、トンデモを鼻で笑うだけのマスが求められる。

 デマの拡散については、たとえば東日本大震災におけるデマをテーマにした論文[拡張SIRモデルによるTwitterでのデマ拡散過程の解析]がある。このSIRモデルを歴史認識に当てはめることで、古典教育の普及度とデマの拡散しやすさをシミュレートできるかもしれない。

古典の「効果」を可視化する

 古典は、言語や歴史といったアイデンティティに深く関わっているため、これを考えるわたしたち自身に内面化されており、その結果、見えにくくなっている。

 伝えたいという動機があるならば、そこに表現があり、レトリックがあり、古人がさんざんやってきたことなのだから、先例と踏襲と改変がある。

 パネリストから、連歌をおこなってきた先人たちの発想の集大成として歌語集を捉え、これと現代語の関わり合いを可視化するアイデアが出た。想いを伝えたい高校生にとってのLINEの一行を、図書室の歌語辞典から見つけてくる、というのはアリだろう。人は、それくらい、変わっていないのだから。

 ひょっとすると、わたしが気づいていないだけで、言葉の発想のつながり方を考えるなら、概念のかなりの部分は、古典によって準備されているのではないか、と思えてくる。ネットを行き交う言葉のうち、古文・漢文の影響を拾い出すことも、古典の可視化に一役買うだろう。

 さらに抽象度を上げて、行動様式としての影響を見るならば、わたしが何気なく撮ってSNSにアップする画像とつぶやきは、1000年前に紅葉を折り込んで詠んだことの現在形ではないだろうか。

 あるいは、映画「シン・ゴジラ」において発生した出来事を、時系列に沿ってリアルタイムで実況し、それに乗っかってツイッタラーがネタを広める[シンゴジ実況]なんて、インターネットを使った巨大な連歌は見えないだろうか。

 短い文章でつながっていく twitter において、普及度と特異な(?)使われ方を日本と他国で比較すると、そこに和歌や連歌の影響を可視化できないだろうか。

古典は「どれくらい」必要か?

 大事なことなので何度でも言う、古典は必要だ。

 だが、どれくらい、何をもってそう言えるのかについては、議論の俎上に上っていないものがある。なぜなら、言語や思考様式として内面化されているから。ニュートン力学が基礎としてあたりまえなように、古文・漢文も基礎としてあたりまえなのである。だが、両者の種類も程度も違う。それを測るための可視化が問われており、そうした検証の上で、議論が可能となる。

 噛み合わなくてもいい、という人はネットでうそぶいているがいい。リアルで、互いの最も重要なリソース・時間を使って議論をするのなら、最低でも「互いに問題視するものがあり、妥協ポイントは見いだせないにせよ、共通の問題は明確にできた」までは辿り着けないと。これは、(次回があるのなら)それまでの課題になるね。言葉の定義、立論を合わせ、当日までに議論ポイントとその検証までを準備しておく。

 それは「仕事とわたしとどっちが大事?」と訊くようなもので、異質なものをムリヤリ測ろうとするならば、どこかで歪みや偏りが出る。それは分かる。だが、議題に戻っていただこう。有限な「高校生の時間」というリソースをどうやって配分するかを考える上で、何らかの指標は、どうしたって必要なのだ。

 また、目的的行動の危うさについても分かる。「〇〇のために古典が必要」の〇〇なんて、時と場合により、そうした時と場合を超えて残り、普遍性を持っているのが古典なのだからね。それでも、その時とその場合による〇〇に対し、こういう面が応用できるという観点から訴えない限り、削られていくのみとなろう(そして、削られて残されたものが”古典”となる)。

 もう一度言う、古典は必要だ。

 だからこそ、その必要性を「伝わる言葉で」伝えないと。だが、内面化された古典の影響力を定量化するのは、かくも難しい。この件、もう少し続けてみる。国語のエキスパートたちのがどのように示してきたか、調べてみよう。かつて、古典は不要だ、全部ローマ字でいい、いや英語を公用語にしてしまえ、といった主張があった。

 知りたいのは、そこで「古典は必要だ」という人が、どんな主張をしてきたかにある。昔の古典必要派がフンショコージュの脊髄反射しかしなかったから、現在この体たらくなのか、あるいは、昔の古典必要派が体張って議論してくれたおかげで、この程度で済んでいるのか。議論が噛み合わないのは分かる(現在そうだから)。だが、そこで放置しないで、噛み合わせようとした努力は試みられたのか、知りたい。

 バトンは既に渡されている。わたしと、ここまで読んでしまった、あなたにも。

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『タコの心身問題』『イカの心を探る』『ふらんけんフラン』で頭足類の「心」を考える

Takonosinsin

 ヒト以外の存在について、「賢い」という言葉を使う際は注意したい。なぜなら、そこに擬人化の罠が潜んでいるから。「賢い」とは何か、「知性」とはどんな意味かを吟味したうえで使う必要がある。

擬人化の罠

 「擬人化の罠」とは、動物を観察する際、人に似た属性の有無を探し、人の基準で行動を評価すること。たとえ人に似た行動をしても、その行動を生んだ根源的なメカニズムまでが人と同じとは限らない。なぜなら、それぞれ異なる身体と神経系をもち、それぞれ異なる生息環境で生きているため、同じ行動原理であると考えるほうに無理がある。

 擬人化に偏って仮説を構築しようとすると、検証できる範囲が限定されてしまう。実験で上手に芸ができるから、「賢い」とする研究は、その動物と人との距離において、知的か否かを測ろうとする考えが裏側にある(あらゆる動物の最上位に人を据えた宗教の影響やね)。したがって、動物の「知性」とは、その動物にとってのコストパフォーマンスの最も良い行動原理を裏付けるものでなければならぬ。

 しかしながら、面白いことに、「知性」を定義しようとすると、必ずそこにヒトの存在が求められる(ヒトがいないと知的か否かの判定はできないし、ヒトを超えた知性は文字通り”人知の外”になる)。知的存在についてSF作品からのアプローチで、[SF読書会『ソラリス』×『ランドスケープと夏の定理』に参加したら読みたい本が激増した件について]に書いた。今回は、『タコの心身問題』『イカの心を探る』が楽しかったので、頭足類の「心」について考えてみる。

タコの心身問題

 一冊目、ピーター・ゴドフリー=スミス『タコの心身問題』について。生物哲学の教授であり、一流のダイバーである著者が、タコとの交流を通じて「心とは何か」「心はどのようにして"生じる"のか」を考える。進化は「まったく違う経路で心を少なくとも二度、つくった」という主張は、言い得て妙なり。

 まず著者は、タコの「目」について注目する。高度に発達しており、網膜、角膜などの構造は、ヒトの目と物理的に似ているだけでなく、視神経が網膜の前に突き出しているため、盲点がない。遠い祖先は海かもしれないが、そこから出て目を進化させてきたヒトと、海の中で目を進化させてきたタコが、結果的に近似した目を持つというのが面白い。

 これを専門用語で収斂進化と呼ぶという。異なるグループの生物が、環境や食物に適応し、系統に関わらず身体的特徴が似通った姿に進化する現象のことだ。異なる系統である鳥とコウモリの「翼」が似ているのと一緒やね。

タコに「心」はあるか

 そして、タコの生態や実験を紹介しつつ、ある種の「心」があることを考察する。この件がたいへん面白い。集めた貝殻で自分の”庭”を作ったり、状況に合わせて姿形や色を自在に変化させたり、閉まった蓋を開けたり、タコを知れば知るほど、「賢い」と見えてくる。

 たとえば、野生のタコがココナッツの殻をシェルター代わりに使っているレポートを紹介する。半分に割られた殻を持ち運び、危険を察知すると上手に中へ入り込む「道具を使うタコ」は、youtubeでも話題になっていた。他にも、貝や竹を使って入り込む様を見ていると、「ひょっとして、ヤドカリを真似ているのでは?」と思えてくる。

 一方で著者は、安易にタコを「賢い」とする姿勢に慎重になる。動物の「心」について考えるとき、人はどうしても自分の心を前提にしてしまいがちだ。単純な生物の「心」は、人の心を単純にしたものだとか、人が「賢い」と考える実験でもって動物の知性を測るといった「擬人化の罠」である。

 著者は折に触れてこの罠を指摘する。たとえば、タコの脳の大きさでもってタコの知性を測ろうとするのは誤りだという。まず「脳の大きさ」は、単純な比較ではなく、身体サイズに対する比でなければならない。その場合、タコは不釣り合いなほど巨大な脳を持っていることになる。さらに、タコはニューロンの大半(およそ3分の2)を、頭ではなく腕に持っている。

 つまり、タコは身体サイズからすると異様ほど大規模なニューロンを持ち、しかも独自の身体性の下で、頭からの指令と、自律した腕とが協調し、「タコであること」が成り立っているのである。巨大脳と大規模なニューロンは、タコの「心」の存在を示唆している。

  この「心」のありようについて、翻訳者も慎重に言葉を扱っている。原著のタイトル ”OTHER MINDS” の ”MIND” が複数形になっていることに注意を促し、日本語訳にあたっては、原則的に “mind” に「心」、”intelligence” に「知性」、”consciousness” に「意識」という訳語を当てて訳し分けている。

 ヒトの場合、「心」は、学習や意識といった、主に「頭脳」に結び付けられる精神活動を指す。しかし、頭足類の場合、そうした機能は必ずしも「頭脳」だけに限らず、わたしたちが「腕」や「脚」と呼んでいる箇所にも及ぶ。ヒトの言葉をそのままあてはめるなら、タコは腕で「考えて」いることになる。

 では、なぜタコは巨大な脳とニューロンを発達させたのか?

 著者は頭足類の歴史をさかのぼる。その祖先は、身体を保護する貝殻のようなものを進化させ、初期の捕食者となったという。その後、殻を捨てて遊泳を始めたのが頭足類となる。そして、殻を失ったことによる脆弱性を補うために、高い知能を発達させたというストーリーだ。

 つまり、タコはヒトとは異なる経路で、別のデザインで知能を得ており、いわば「心」の収斂進化が、少なくとも2度起きたというのである。この指摘は、たいへん興味深い。

海の霊長類・イカの心を探る

 『タコの心身問題』は、著者のタコ愛ゆえにタコに少々肩入れしすぎている。公平を期すため、そして、スプラトゥーンB帯から抜け出すため、イカの話も聞こうじゃなイカ……と手にしたのが池田譲『イカの心を探る』。著者は、イカ研究の第一人者で、イカやタコの行動科学を対象とした「頭足類学」を提案している。

 イカやタコといった頭足類は、精巧なレンズ眼、身体サイズに合わないほどの巨大脳、さらに体色模様でのコミュニケーションといった知的な振る舞いにより、「海の霊長類」と呼ばれているという。そして、イカの行動や社会性、アイデンティティーなど、イカの知性についての研究がまとめられている。『タコの心身問題』のイカバージョンといっていい。

 ところが、こと「知性」について考えるなら『イカの心を探る』の方が、より面白く、さらに深い考察まで進めることができる。そして、タコとは対照的な行動から、頭足類の進化について新しい仮説を立てることができる。

 まず重要な指摘は、イカやタコといった頭足類は、地球の全面積の7割を超える海洋において、完全に適応していることだ。一口に海といっても、浅瀬から深海、沿岸から沖合、熱帯から寒帯まで様々だが、頭足類は、どの環境でも種を繁栄させている。

イカは、鏡に映った「自分」を認識できるか

 次にユニークだったのが、「イカに鏡を見せる」ミラーテストだ。アオリイカに鏡を見せると、同じ仲間を見たときとは違った行動をとるのだ。そっと鏡に近づき、触ろうとするのである。これは、イカが「自分が分かる」ことを示しているのではないか?

 「鏡に映った自分自身を認識できるか?」を試験するミラーテストは、サルや犬猫、イルカなど、様々な動物において試されている。面白いのは、対象の動物に麻酔をかけ、普通では自分で見ることのできない場所にマーキングをする。目覚めた動物がそれを鏡で見つけて、触ったりなどすれば、「鏡に映っているのは自分である」と認識できたとするのである。これをイカでやったのである。

 本書や小論[頭足類の社会性と知性基盤](pdfファイル)によると、個体数が少なく、はっきりとしていないようだが、少なくとも「鏡に向かった”自分”には、同種個体とは異なる反応をする」ことは結論づけてもよさそうだ。ちなみにタコの場合、振る舞いに差は無かったそうである[ミラーテスト:タコ]

イカの巨大脳は、社会性と世代「内」学習の賜物

 では、イカの知的な振る舞いはイカに生じたのか? この問いに対し、たいへん面白い考えが示されている。著者は、問いを変えて、「なぜヒトの脳は大きいのか」「ヒトはどんな歴史的経路をたどって大きな脳を獲得したのか」というアプローチから、巨大脳と社会性を関連付ける。

 つまりこうだ、ヒトは様々な状況で、家族や友人、見知らぬ人とコミュニケーションを取る。そして、コミュニケーションを通じて情報を得たり、食べ物や欲しいものを手に入れている。上手くやりとりできた場合、自分に有利な結果を得ることができ、結果、生き残って子孫を残す上で有利にはたらくことになる。脳が大きいほうが「他者とのやりとり」に有利で、これが進化上の選択圧になったという仮説である。

 著者は、イカにもこの仮説を当てはめる。貝の仲間だったイカが、殻を捨て、遊泳という機動性を手に入れる一方で、自分の弱さを補うために群れで行動する。群れにおいて、あるいは繁殖という場面において、他の個体とコミュニケートしているように見えることから、イカの持つ「社会性」が巨大脳をもたらしたというのである。

 イカの社会性を考える上で、もう一つ面白い観点がある。それは「学習」である。孵化後に急速に発達する記憶や学習の能力を駆使して、生存に必要なスキルを学ぶ。巨大な脳はあれど、このスキルは誰から学べばよいのか。

 イカの寿命は1~2年と短く、子どもが親から学ぼうとしても親は既に死んでいる。それでは巨大な脳はコスト高ではないかと考えられるが、何も世代間で学習するだけではない。つまり、彼らは世代「内」で学習するという考えである。

 彼らの齢は年齢ではなく日齢になるが、すべてのイカが、一年間の同じ月、同じ日に産卵するわけではない。イカは年中産卵するが、メスごとに産卵時期が異なっている。早く生まれたイカほど早く成長し、少し長く生きている年上の個体が、「何か」を年下の個体に教える―――そういう可能性を指摘する。

 たとえば、レオ・レオーニ『スイミー』がそうだろう。スイミーの仲間たちは、みな同じ世代に見える。仲間の一部がマグロに食われても、残ったスイミーが知恵を絞り、隠れた仲間を集めて反転する。そのとき、「ぼくが目になろう!」と言ったように、何らかの知恵の伝承がなされているのではないか、という仮説である。

 翻って、タコの社会性はどうかというと、これはイマイチらしい。タコは単独行動が基本で、『タコの心身問題』では、タコが集まって生活するコミュニティ「オクトポリス」が紹介されているが、これは例外とのこと。

 しかし、これは本当だろうか? ヒトに比肩するレンズ眼を備え、体色の変化による威嚇や誘惑が可能であるということは、そのまま視覚によるコミュニケーションを過去にしていた証左にならないだろうか。

 すなわち、かつてタコはイカのような社会的な行動をとる戦略で、巨大脳を発達させてきたが、何らかの理由により単独化したという仮説である。現在における、人による観察の結果だけで判断するのは早急だろう。

頭足類のオーバースペックに対する一つの回答

 実というと、頭足類の巨大脳となったか、有力な説明が、既にある。

 なぜ、大部分のニューロンが腕に分散されており、無限関節での操作ができ、類推や考察ができるのか。異常なほど目が良く、視覚画像からパターン認識を行い、記憶と学習により道具が使えるのか。相手を見分けて、(反射的ではなく)相手に応じた擬態ができるのか。

 イカやタコは、できることが多すぎるのだ。

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 あくまでも―――あくまでも仮説なのだが、かなり魅力的だし、検証も可能である。

 結果は、つぎはぎだらけの人造美少女ふらんに委ねよう。ふらんとは、エロくてグロいホラー・コメディ『フランケン・ふらん』の主人公兼トリックスターで、改造手術を得意とする。第7巻のエピソード53.OCTOPUSで、「妹的生命体」をタコで作る話からの引用だ。

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 そして、この続きがおぞましい&素敵なんだな。気になる人は、確かめてほしい(グロいで)。 進化とは「現在」を頂点とした適応の歴史であり、現在、ヒトが頂点だと考えていることから陥っているバイアスを見事に覆した考察である。『タコの心身問題』と『イカの心を探る』のそれぞれの著者に、ぜひ見てご意見を伺いたいものである。

 頭足類に「知性」や「心」はあるか? あるとするなら、どのように実証できるか? これを考えてゆくと、「心とは何か?」「知性の検証にヒトは必須か?」につながってゆく。

 そして、ふらんの回答を見ると、知性の検証が必要なのは、反対にヒトの方なのかも……と思えてくるから、さらに面白い。知的生命体として、ヒトはまだ、ヒヨッコなのかもしれないからね。

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「古典は本当に必要なのか」討論会


 「社会に出たら三角関数なんて使わない」とか、「漢文は仕事の役に立たない」という議論が、ネットで繰り返されている。わたしの中では結論がついており、以下の寸言に集約されている。

「人生で必要なことは教科書に書かれてない」っていう奴、それお前が教科書ちゃんと読んでこなかっただけだろ(tumblrより)

他人のアラ探しをしてる間は自分の姿を見なくて済む(三島由紀夫)

 つまり、「〇〇が役に立たない」という人は、〇〇を使わない人生を選んできただけであって、それ以上でも以下でもない。あるいは、〇〇が理解できない貧しい想像力の持ち主か。それでいて、〇〇を貶めている間は自分の浅学を見なくて済む。

 ただし、これをリアルでやると面白い。それぞれの学問やビジネスの第一線にいるにもかかわらず、わざわざ出てくるのはすごい。専門を極めていれば自ずと知的な謙虚さが身につく―――というのはわたしの思い込みで、他の学問領域が見えなくなる専門バカになるのだろうか。

 そのイベントが、まさにこれ。たいへん楽しみにしている。

「古典は本当に必要なのか」
2019年1月14日(月・祝)14:00~17:30
明星大学日野キャンパス アカデミーホール(28号館204教室)
※入場無料、制限・予約無し

Kotennha

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公式発表ページ

第1部:パネリスト発表

〈否定派〉

  • 猿倉信彦(某旧帝国大学 某研究所 教授)「現代を生きるのに必要度の低い教養である古典を高校生に教えるのは即刻やめるべき」
  • 前田賢一(某大手電機メーカー OB)「古文・漢文より国語リテラシー」

〈肯定派〉

  • 渡部泰明(東京大学 教授)「古典に、参加せよ。」
  • 福田安典(日本女子大学 教授)「BUNGAKU教育を否定できるならやってみせてよ」

第2部:ディスカッション

ディスカッション司会:飯倉洋一(大阪大学 教授)
コーディネーター:勝又基(明星大学)

 こういう知的バトルは面白いはずなのだが、ゴミみたいな水掛け論と詭弁合戦にならぬことを危惧している。「古典」とは何か、「役に立つ」とは何かを定めず、やれTOEICやPISAのスコアだとか大学ランキングとか科研費の多寡という議論になるなら、ネットの焼き直しになる。

 リアルで、即興性があるのだから、絶妙な「返し」に期待している。たとえば、「たったいま、貴方が使ったレトリックの出典は、孔子が弟子の顔回を評したもの。知らないうちに身についていたのは古典教育の賜物ですね」と返す刀で斬ったりしてほしい。

 わたしは行くつもり。最前列でニヤニヤしてます。ネット中継もするみたいなので、イベントページや中の人のtwitterを要チェックや!

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