「科学」と「正義」を混同すると、たいてい地獄ができあがる『禍いの科学』

アヘン、マーガリン、優生学、ロボトミーなど、科学的に正しかった禍(わざわ)いが、7章にわたって紹介されている。あたりまえだった「常識」を揺るがせにくる。

ヒトラーの優生学

たとえば、アドルフ・ヒトラーの優生学。

劣悪な人種を排除すれば、ドイツを「純化」できると信じ、ユダヤ人を虐殺したことはあまりにも有名だ。

だが、ガス室へ送り込まれたのは、ユダヤ人だけではない。うつ病、知的障害、てんかん、同性愛者など、医者が「生きるに値しない」と選別した人々が、収容所に送り込まれ、積極的に安楽死させられていった(『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』が詳しい)。

『禍いの科学』によると、ナチスの優生学は、ヒトラー自身が編み出したものではないという。出所は、『偉大な人種の消滅』という一冊の本で、ヒトラーが読みふけり、「この本は、私にとっての聖書だ」とまで述べたという。

『偉大な人種の消滅』はマディソン・グラントが書いたものだ。ニューヨーク生まれ、イェール大学を卒業し、弁護士として成功した後、自然保護運動で活躍する。バイソンやレッドウッドといった絶滅危惧種を救うことに尽力したとある。

グラントはそこで、「北方人種」の純血性を守れと主張する。茶髪か金髪の碧眼の白人こそが「純粋」で、米国人の遺伝子プールに劣等人種が入ってこないよう制限すべきだという。

この本は、科学専門書として扱われ、権威ある学術誌 ”Science” や ”Nature” 、”American Historical Review” で高く評価されるだけでなく、当時の大統領である、ルーズベルト、カルビン・クーリッジの両氏が絶賛したという。

現代の感覚だと非常識の極みだが、当時は真面目に採択され、1917年に、知的障碍者やてんかん患者の入国を規制する「移民制限法」が可決される。同年に公開されたハリウッド映画『黒いコウノトリ』は、欠陥のある者を抹殺し、国を救おうというメッセージが込められており、熱狂的なファンに支えられ、10年以上にわたって上映されたという。

さらに、医学会、科学界に支持され、強制不妊手術が合法化される。米国は断種合法化の先進国であり、知的障碍者、梅毒患者、精神障碍者、アルコール中毒者、てんかん患者に不妊手術が行われたという。

「人類進化を自己決定できる」という優生学は、より良い社会を作るために実行された。ナチスは、それを最悪の形で現実化したものだといえるだろう。

レイチェル・カーソンの欺瞞

もう一つ、わたしの「常識」が揺さぶられたのが、レイチェル・カーソンの欺瞞だ。

カーソンと言えば『沈黙の春』が有名だ。環境保護の重要性に目を向け、社会運動を起こした一冊で、20世紀の最重要100冊リストにも入っているのだが、本書は欺瞞に満ちているという。

『沈黙の春』というタイトルの理由は、下記の一節による。

かつて町では、夜明けとともにコマツグミ、ネコマネドリ、ハト、カケス、ミソサザイをはじめとするいろんな種類の鳥たちの声が響き渡っていたが、今では聞こえる音もなく、沈黙があたりを支配している。

なぜ鳥が歌わなくなったか。DDTを始めとする農薬のせいだ。DDTは鳥を殺す。鳥だけでない。元気だった子が具合が悪くなり、死んでしまう。女たちは不妊や早産に悩まされる。先天性異常、白血病、がん、肝臓病が増える―――と、環境汚染を警告する。

これ読んだ頃の時代の風潮なのか、アニメ映画『風の谷のナウシカ』や『複合汚染』(有吉佐和子)、『わたしの赤ちゃん』(日野日出志)のイメージと合わさり、わたしの中で、「DDT=猛毒」と結びついた。

『沈黙の春』は発売直後からベストセラーとなり、22カ国語に翻訳され、国際的な名声を博す。その影響は大きく、1970年の国家環境政策法を始めとし、様々な環境保護の法律を成立させ、環境保護庁、労働安全衛生局を設立させる。そして、ヤリ玉に挙げられていたDDTは禁止となった。

DDTの禁止は、最も恥ずべき行為の一つ

問題はここからだ。

世界各地でマラリア、黄熱、デング熱が大流行する。

DDTは、こうした病気を媒介する蚊に対して非常に効果がある。実際インドでは、DDT散布によって、年間マラリア発生件数は1億件から6万件に減少した(1952~1962)。ところが、DDTの使用停止によって、600万件に増加したというのだ(1970年代後半)。

他にも、ネズミ、プレーリードッグ、ジリスに寄生して感染症を媒介するノミにも効果があるという。こうした病気を事実上根絶できたことを踏まえて、5億人の命を救ったと推定されている。DDTは、歴史上のどんな化学薬品よりも沢山の命を救ったといっても過言ではないという。

DDTが禁止されることで、本来ならば死ななくても良い人(ほとんどが5才未満の幼児)が亡くなったという(『禍いの科学』p.208には「1972年以降、5000万人が命を落とした」とあるが、出典は書いていない)。

マイケル・クライトンは「DDTの禁止は、20世紀の米国において最も恥ずべき行為の一つだった」と書き、「私たちには多くの知識があったのに、そんなことはお構いなしに、世界中の人々が死ぬに任せ、気にも留めなかった」と述べている(同書p.209 ※1)。

さらに、カーソンの警告に反し、ヨーロッパ、カナダ、米国の研究により、DDTは肝臓病や早産、先天性異常、白血病の要因にはならないことが示されたとある(同書p.209)。

もちろん、カーソンがこうした追試研究を知る由もない。しかし、カーソンが知ってて伏せた統計情報が明るみに出されている。

カーソンは不都合な事実を伏せた?

それは、クリスマス・バード・カウント調査になる。年末年始にかけて行われ、ボランティアにより野鳥の数がカウントされる。1900年から毎年行われているイベントだ。

この調査によると、DDTが使用されていた期間は、全ての種類の鳥が増え続けていたという。カーソンは、ホシムクドリ、コマツグミ、マキバドリ、ショウジョウコウカンチョウが被害を被った事例に注目しているが、どの鳥も、5倍増えていたという結果になる。

レイチェル・カーソンは、全米オーデュボン協会の会員で、毎年のクリスマス・バード・カウントにも参加していた。だから、彼女が鳥の変化について知らなかったはずはない。にもかわらず、カーソンは、このデータを取り上げないことを選んだ(同書p.211)。

『沈黙の春』の文章は美しく、情緒豊かに強い説得力で、読者の心に訴えかけた。だが、それを支えるデータは少なく、誰かの目撃談や、具体的なエピソードに多くのページを割いているという。本書の結論はこうだ。

レイチェル・カーソンは科学者だと自称していたが、結局のところ、そうではなかった。彼女は、自分の偏った意見に合うように真実を捻じ曲げる論客だった(同書p.214)。

『沈黙の春』は、これまで見過ごされがちだった環境汚染に目を向け、社会を変える運動にまで変えていった。この功績は疑いようもない。その一方で、データよりも自説を優先し、助けられたはずの命を失わせた罪も大きい―――『禍いの科学』は、こう結論付けている。

「科学的に正しかった愚行」からの教訓

「科学的に正しい」として下された判断、実行された政策が、実は最悪の手だった―――歴史を振り返ると、そんな話が多々ある。

『禍いの科学』は、その原因を紐解き、教訓を探る。「データに基づいて考えよ」「時代の空気に流されるな」「毒も薬も量次第」など、有用なものも多い。これからの「科学的に正しい」判断を考える上で、役に立つだろう。科学的に正しいことと、それが正義であることは別なのだ。

だが、本書にも注文がある。レイチェル・カーソンの欺瞞を攻撃する根拠として、データの裏付けの乏しさをあげつらい、「データに基づいて考えよ」と説く。それにもかかわらず、本書でデータの裏付けが果たされていない。

『沈黙の春』の反証となる、様々な数値や研究成果が述べられているが、その出典が注釈に無い(※2)。かろうじて巻末に参考文献一覧があるが、本文のどこのエビデンスとしているか紐づけがされていない。データが全てというならば、隗より始めるべきだろう。

Wazawai

※1 本書に出典は明記されていないが、Michael Crichton ”State of Fear” (邦訳は『恐怖の存在』)に、類似した発言がある[URL]

"Since the ban [of DDT ], two million people a year have died unnecessarily from malaria, mostly children. The ban has caused more than fifty million needless deaths. Banning DDT killed more people than Hitler."

“[DDTが]禁止されてから、マラリアにより、死ななくていい人が毎年200万人も亡くなり、そのほとんどが子どもでした。DDTの禁止が、死ななくてもいい5000万人以上の死を引き起こしたのです。DDTの禁止は、ヒトラーよりも多くの人を殺したのです”

※2 注釈や出典が明記されていないのは邦訳版であるから……という可能性もある(翻訳の際、注釈を切り捨てる出版社も多々あるから)。原書は手に入らないが、Goodreadsのレビューに "there are no footnotes or source citations for Offit's facts" というコメントがあり[URL]、Offit(著者)の主張を支える出典やソースが存在しないことがうかがえる。

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諸星大二郎『美少女を食べる』を読むと、自分が食べているものが信じられなくなる

法外な会費をとり、秘密裏に開かれる「悪趣味クラブ」。不定期に開催される秘密の会合なのだが、そこで「美少女を食べる」という特別ディナーの席がもうけられる。

もちろん、リブロース(肩)やランプ(お尻)の肉を提供するのだから、少女の命はない。当然、料理人も、そのレストランも、罪に問われるだろう。そして、それを承知で食べるほうも犯罪に加担しているも同然だ。

しかし、そんなことがありうるのだろうか? いくら悪趣味だとしても、人を殺して食べるような外道が許されるのだろうか?

少女の写真やドレスが展示され、彼女が行方不明になったことを報じる新聞記事が回覧されるが、招待客は半信半疑だ。

これは、そういう雰囲気をつくり、思い込ませることで、「少女の人肉料理を食べる」という背徳感やスリルを楽しむ、一種の演出、悪趣味なショーなのではないか? と疑い始めるのだが……

……この話を聞いて、どう思われましたかな? と続く。

Bishoujo

これが非常によくできているのは、枠物語の構成であるところ。枠物語とは、一つの物語の中に別の物語を含む形式だ。物語を虚構とさせないために、その物語の中の人が「こんな話があってね……」と語らせる。

美少女を食べる物語を、「そのまま」描こうとすると、完全なフィクションとして成立させる他ない。

例えば、そのまま描いたのなら、森山塔の『デマコーヴァ』を思い出す。キッコーマン1本分を浣腸され、痒みと苦痛に身悶えする様はグロテスクで淫靡なり。だが、描くほうも読むほうも「物語=虚構」というお約束を成り立たせている。

だが、諸星大二郎が描く『美少女を食べる』は、物語と現実を、どこまですれすれにできるかという試みる。そして、この物語は、読み手によって、いくらでも残酷にも滑稽にもなりうる。

おそらく、美少女を食べるお話は、いま描こうとすると猛烈な反発を食らうだろう。だから、いったん「こういう話があってね」とフレームに入れる。そして、その外側で真偽の吟味を図る―――という物語で見せるのだ。

同様に、両腕のない女の話や、女の〇を切り落とす話など、一見、受け入れがたい素材を、一味違った形で料理する。その諸星大二郎アレンジが大変面白い。どこかで見たことのある話のような―――と感じたら、それは正しい。巻末に元ネタがあるので、一通り読んだら答え合わせをするといいかも。

淫靡で禍々しい料理をご賞味あれ。

Bishoujowo

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『君の名は。』の初期プロットと、グレッグ・イーガン『貸金庫』の関係

きっかけは、グレッグ・イーガンのこのツイート

“『君の名は。』を観ました(私の短編『貸金庫』にインスパイアされたらしいけど、プロットは全く違う)。ちょっと甘ったるい所もあるけれど、全体的に素晴らしく、美しいビジュアルでした。”

おお! ハードSFの巨匠が、『君の名は。』を観たのか! 一挙に湧いた親近感と、”あの”イーガンがtwitterで呟いている気安さも相まって、おもわずこんな呟きをした。

Dain(筆者):グレッグ・イーガンの『貸金庫』、読んでないのですが、肉体を持たず、一日ごとに宿主(人間)が変わる意識が主人公の物語みたい。おそらく、イーガン先生、『とりかえばや』『転校生』『おれがあいつであいつがおれで』みたいな、男と女が入れ替わる物語を知らないのでは?

すると、こんなコメントをいただいた。

T. Hashimoto:“こんにちは。『君の名は』を監督した新海誠さん自身がインタビューで「貸金庫」からの影響に言及しているんです。

マジですか! と、紹介いただいたリンク先に行く。『君の名は。』の公開直前のインタビューで、「新海誠監督オススメのSF作品は?」への回答として、グレッグ・イーガンをとり挙げる。

新海誠:「あり得たかもしれない自分」とか「こうではなかったかもしれない自分」、あるいは「災害などがなかったかもしれない日本」という言い方もできますけど、そういう並行世界的な想像力に貫かれた作品を初期の頃は書いていて、中でも短編集『祈りの海』に収録されている「貸金庫」という物語は、毎日、違う人になる話なので、少し影響があるかと思います。([FILMERS.2016.8.22]より)

なんと! 新海さん自らそう語っているとは。知らなかった……さらに、新海&イーガンで、エールの交換をしている。

新海誠:とても光栄です。あなたの『貸金庫』は、初期のプロットを作るうえで、インスピレーションを得た作品の一つです。目覚めるたびに違う身体になっているヒロインの物語です。
グレッグ・イーガン:ありがとう! あの物語があなたに強く印象付けたことを、光栄に思います。
新海誠:世界中の人たちと同じように、あなたの数々の作品によって、大きく心を動かされてきました。次の作品を楽しみにしております!

恥ずかしい……「イーガン先生、知らないんじゃね?」なんて言ってた自分が恥ずかしい。穴掘って埋まっていたい。T. Hashimotoさん、ありがとうございます。ご指摘いただかなければ、ずっと知らなかったままでした。

この会話で紹介されていたのが、『君の名は。』の最初期のプロット。

目覚めるたびに違う身体になっている女性が主人公で、「幼いころからくり返し見た夢。自分は知らない人間になっていて、知らない場所で、知らない友達がいて、言葉も通じず、最後は決まって、空にまばゆい彗星が見える」という物語だ。

『君の名は。』の最初期のプロットヴィジュアル
(
新海誠のツイートより引用)

Yourname

どうしても気になるのが『貸金庫』だ。

『君の名は。』と比べて、どこが似ており、どう違うのか? あの入れ替わりのアイデアの源泉を探るべく、読んた。そして、『君の名は。』のロマンチック・ラブではなく、「自分とは何か?」という根源的な問いに向き合う、切なすぎる物語だと分かった。

30ページと少しの、短い、ほんとうに短い小説だ。

自分の奇妙な人生をモノローグで振り返り、最後に、ある決意をする男の話だ。男は、目覚める度に別の身体になっており、その身体の「ふり」をすることが、「わたし」の日常になる。

この能力(?)は、何かのきっかけに生じたものではないようだ。なぜなら、最も遠い記憶でも、「両親」は毎日変わっていたから。

睡眠をトリガーとして発生することは、『君の名は。』と同じだ。だが、三葉と瀧のように特定の人と入れ替わるのではなく、同年代の人に毎日乗り移る感じ。また、岐阜と東京という距離間はなく、同じ街の人の身体になる。

身体の本来の持ち主を、「わたし」は宿主と呼び、宿主の特徴や住んでいる場所を、ノートに記録しはじめる。このノートを隠しておく場所が、「貸金庫」なのだ。

なぜ、こんなことが起きているのか、「わたし」とは一体誰なのか、こうした謎が、物語の終盤で明らかになとき、やるせない思いに胸が苦しくなる。そして、それでも、「わたし」が踏み出そうとしている、明日という日に、胸を撃たれる。

「わたし」とは何か、記憶とは何か、自分という存在を定義するものは何か? ややもすると、哲学的思弁に陥りがちなこうした問いに対し、ひとつの男の決断という形で、応答している。

イーガンの凄さを改めて知るとともに、揶揄していた自分が情けない。逆だったんだ。イーガンのこの短編が示した、「わたしとは何か?」への応答が、『君の名は。』になるんだ。

『祈りの海』に収録されている、『貸金庫』の冒頭を引用する。『君の名は。』のオープニングであっても十分なくらいだ。

ありふれた夢を見た。わたしに名前がある、という夢を。ひとつの名前が、変わることなく、死ぬまで自分のものでありつづける。それがなんという名前かはわからないが、そんなことは問題ではない。名前があるとわかれば、それだけでじゅうぶんだ。

 

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平和を欲すれば戦争に備えよ『戦争学入門 戦争と技術』

誰だって戦争は反対だ、平和がいいに決まってる。

しかし、

平和のことだけ考えていれば、争いごとは起きないのか? 世界中の武器を廃棄し、二度とそんなものを作れないようにすれば、戦争のない世の中になるのだろうか?

そんな疑問を抱えながら「戦争学」を紐解くと、戦争とは社会と緊密に結びついた事象であることが分かる。各時代の技術の発展と軌を一にし、戦争「だけ」を分離・根絶するのは難しい。今のところ、戦争を囲い込み、飼い慣らすしかないように見える。

では、どうすれば、戦争を囲い込むことができるか?

戦争を研究するしかない。

しかも、これまでの「軍事学」や「防衛学」、あるいは「安全保障学」のような軍事・地政学的なアプローチではなく、もっと領域を広げる必要がある。戦争とは、人類が営む社会的な事象なのだから。

『戦争と技術』は、技術の領域から戦争を考察する。どんな技術が戦争に利用され、それにより戦争がどう変化し、さらに戦争が技術をどう進化させてきたかを振り返る。

鐙が騎士を最強にする

たとえば、「鐙(あぶみ)」の戦争への応用が面白かった。

鐙は足を乗せて身体を安定させる馬具で、遊牧民族がルーツと言われている。ヒストリエの第6巻で知ったのだが、古代ギリシャや地中海沿岸では、まだ普及していなかったようだ。

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これが、中世の騎士にとっての技術革新となる。

鐙は、7~8世紀にヨーロッパに導入されたのだが、そのおかげで踏ん張りがきいて、槍に体重をかけて敵を撃破できるようになったという。鐙の導入だけでなく、重量のある鞍、蹄鉄の発達により、人馬そのものが衝撃武器と化した。馬のスピード&機動力と、重装甲・重装備の組み合わせは他を圧倒し、騎士は、戦場で無敵の存在となった。

騎士は戦争の主力となり、領主は騎士を抱えようとする。ところが騎士の装備は高価であり、馬の世話や従者など、サポート要員が必要だ。

そこで領主は家臣に土地を分け与え、家臣は土地からの収入で騎士を雇い、武具や装備を購入できるようにした。騎士は見返りに忠誠を誓い、軍役に就くことを約束する―――封建制の始まりである。

鐙の登場が、封建制度をもたらす触媒として働いたと考えると面白いが、本書ではもっと慎重に、「封建制度の説明に役立つ技術であったが、この制度をもたらしたものではない」と釘を刺している。

火薬が騎士を追い落とす

東洋で発明された火薬を、殺戮のイノベーションにまで高めたのは西洋だ。そして、火薬がもたらした変化は、城壁から社会制度まで多岐に渡る。

それまで、城塞の壁は、高さこそあれ、それほど頑丈なものではなかった。そのため攻城砲が登場すると、城壁は簡単に穴をあけられ、そこから歩兵が突入できるようになった。

攻城兵器のバリエーションとして、投石器で打ち込む、梯子をかける、破城槌など、さまざまなものがあった。だが、火薬革命が、遠距離攻撃の一つにイノベーションを生み出したのだといえる。

戦力の中心が、貴族が提供する騎士から、平民が運用する大砲になると、税収のリソース配分も変化してゆく。

領主は騎士よりも大砲を抱えるようになり、自前の歩兵隊を育成し、軍事力を独占する方針になる。家臣に分け与えていた土地を独占し、その課税による収入を、高価な大砲へ集中させるようになる。この過程を通じて、封建制→王政→絶対王政へと至るようになったというのだ。

同時に火薬は、銃手の地位を高め、騎士を追い落とすことになる。

それほど訓練を受けていない平民であっても、引き金を引くだけで遠距離から殺傷できるようになった。弓矢やクロスボウを防ぐために、甲冑はどんどん厚くなっていったが、銃の登場が無効化させることになる。結果、平民の地位を向上させ、貴族を危機にさらしたという。

「槍の穂先」のメタファー

さらに火薬は、兵站の重要性をさらに増すことになる。

これまでは、遠征の馬のための飼料が兵站の中心にあった。だが、大砲や銃器がメインとなると、弾薬や燃料、補修部品が格段に増えることになる。荷馬車のためのオーツ麦は行軍先にあるかもしれないが、大砲や銃の修理道具や交換部品は、遠征先で見つからないかもしれないからだ。

当然、遠征軍の補給線はこれまで以上に伸びることになり、敵勢力による格好の的になる。そして、そうさせないための警護や支援兵が増強されることになる。

つまり、火薬革命は、大砲や銃といった前線の火力だけでなく、その兵站も変えることになる。実際にダメージを与える兵器よりも、それを支える補給や非軍事技術のほうが重要になってくるというのだ。

本書ではこれを、「槍の穂先」で喩える。

最古の戦闘は、単純な武器である石や棍棒、槍、ナイフで始まり、支援はほとんど必要としなかった。しかし、時を経るとともに、防具、兵站、情報、通信、輸送、医療の支援こそが、勝利を左右するようになる。

すなわち、目標を攻撃する「穂先」よりも、それを支え・目標へ届ける「柄」の方がリソースを必要とするようになったのだ(21世紀では、「柄」に相当する要員や物資が、軍全体の90%を超えた)。

戦争を囲い込む:軍事用ドローン対策

わたしは、「軍事技術」という言葉から、銃器や核兵器といった「攻撃する技術」を思い浮かべる。だが、本書がくり返し強調するのは、そうした攻撃する技術を届ける「柄」の重要性だ。

たとえば、トレンドなら軍事用ドローンだろう。

本書の主張を適用するなら、施設や人を攻撃する「穂先」としてのドローンではなく、「柄」となる部分―――すなわち、それを生産し、現場まで届け、展開する輸送システムや、適切なタイミングで交代・充電させ、作戦を続行するプログラム、さらにこれらを統括するマネジメント要員―――これこそが、重要となる。

そして、軍事用ドローンに対抗する術としては、同じようにドローンを展開させるのではなく、相手のドローンの補給システムや電波リソースにダメージを与える方が、より効果的と言えるだろう。

したがって、ドローンの行動を阻害したり、誤判断させるジャミングや、目標そのものに電波的迷彩を施すといった技術を開発することで、「穂先」同士の戦争を抑止することにつながるかもしれない。

以上はわたしの妄想だが、戦争を支える技術は、社会を支える技術でもあるのだ。

 

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自分の死に方は自分で選ぼうと思っている『自殺学入門』

問題:自殺のリスクが大きいのは、AとBのどちらか?

A B
未婚、離別、死別 既婚
内向的 外交的
無職、収入無し 有職、収入あり

容易に想像がつくが、『自殺学入門』によると、結婚して収入のある女性よりも、無職で離婚した男性の方が、より自殺率が高いという。

さらに、

  • 太平洋・瀬戸内海沿岸よりも、日本海側
  • 平野部よりも、山間部
  • 日照時間が短く、積雪が多い地域

の方が、自殺率が高くなるという。注意すべきは因果ではなく相関の関係にある点だ。山間部で積雪が多い地域だと、他者の支援や病院に行く必要があっても、そのコストが大きいだろうし、人口が少ないことから、福祉などの社会資源に乏しいことは明白だ。

また、パートナーと別れる場合の自殺リスクも、男女で差が出てくる。離婚であれ死別であれ、配偶者を失ってより大きなダメージを受け、自殺リスクになるのは男だというのだ。

一方で、自殺未遂は圧倒的に女が多いという。これは、男の方が、自分の身体にダメージを与える能力が高いというのと、男の方がためらわず、より致死的な方法を選ぶ傾向にあるからだという。

どんな人が、何をきっかけとして、どういった方法で、自殺を試み、どれくらい上手くいくのか―――『自殺学入門』は、容赦なく分析してゆく。

そもそも自殺は「悪い」のか

自殺に関する書籍はたくさんあるが、本書はかなり変わっている。

ふつうは、精神科医が執筆し、ヒューマニティの立場から自殺を予防し、早期に気づいてケアすることを目的とした、「温かい」自殺学になる。「死にたい」と悩む人や、その周囲の人の心に寄り添うような書きっぷりだ。

だが、本書は、心理学者である著者自身が、「冷たい」自殺学だと述べている。

「そもそも自殺は予防すべきか?」「自殺は『悪い』ことなのか?」という出発点から、科学的な知見のみならず、宗教や文化的背景も交えて考察する。

さらに、経済的価値から自殺予防の費用対効果を見積もる。「死にたい」と言っている人を死なせないために、いくらなら払える? という発想は、類書にはないものだろう。

自殺対策コスト300億、メリット260億

年間自殺者3万人を超えたこともある自殺大国ニッポン。2006年に自殺対択基本法が制定され、国や地方自治体は自殺対策の責務があり、年間100~300億円の予算が組まれている。

こうした予算は、JRなど鉄道のホームドアの設置やアルコール依存症への対策に使われ、本来であれば自殺していた人たちを助けてきたといえるだろう。

では、こうした対策の経済的価値はどれほどになるか?

国立社会保障・人口問題研究所の試算によると、単年ベースで2兆7,000億円という莫大なものになる(GDP引き上げ効果は1兆7,000億円)(※1)。これは、ある年の自殺志願者が全員死なず、働ける間は働き続けた場合の生涯所得の現在価値(期待値)がこの額になるというのだ。コストが300億で、2兆7,000億の便益なら、充分以上の投資だろう。

著者はこれに疑義を投げる。

自殺リスクを抱える人が全員、自殺を思い留まるというのは無理があるのでは、と指摘する。また、うつ病を患っている人が自殺を思い留まった後、バリバリ働いて年収を稼ぐという前提に問題があるという。

これに加え、自殺が行われることによる便益が考慮されていないという。自殺したことで、その人にかかる医療費、社会保障等の費用はゼロになる。自殺の経済的効果は、こうしたコストを見積もる必要があるというのだ(※2)。

こうした観点から試算を見直すと、得られる便益は200~260億円になるという。投資効果は非常に大きいとは言えないだろう。

「死にたい」と言える文化

宗教や文化の観点からの考察も興味深い。

切腹や輪廻転生など、日本人は自殺に許容的だと言われている。日本文化と自殺の親和性は、日本語の語彙にある、といった研究もあるくらいだ(※3)。「花と散る」「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という言葉には、死を選ぶ(選べる)文化があると言える。

こうした文化は、SNSでの「死にたい」という告白や、自殺を後押しすると批判されがちだが、著者は、否定的にとらえるべきではないという。

例えば、ヨーロッパ圏では、自殺者の大部分(9割以上)は、精神障碍の診断がつく、とされている(アジア圏では6割)。

これは、ヨーロッパ中世における「狂気(非理性)」の考えが背景にあるという。キリスト教の影響下、自殺を禁止する意識の強い文化圏においては、自殺を非難されないため、「自殺者=精神障碍者」である必要がある、という仮説だ。

イスラム文化圏では、もっと顕著になる。イスラム教徒が多い地域では、自殺率が極端に低くなる。コーランやハディースで自殺が禁止されている上に、自殺が法的な罰の対象となる国もあるからだ。

こうした文化圏では、人々は自殺をしないのかというと、違うという。不慮か故意か決定されない外因死が多いと指摘する。また、刑罰を免れるため、自殺が曖昧な形で処理される例もある。こうした文化では、「死にたい」という告白は、より一層重くなるだろう。

確かに、日本は自殺許容的かもしれない。だが、死にたくなったときに、「死にたい」と言えるような環境は、そうした人たちを見出し、ケアしやすいとも言える。

死にたいのに、「死にたい」と言えない(言いにくい)文化や、自殺したのに自殺とカウントされない国々より、自殺対策の整備がしやすいという。

メディアの問題

自殺対策としては、メディアの扱い方に重点を置いている。

「他人の不幸は蜜の味」「シャーデンフロイデ」「メシウマ」など、自分よりも不幸な人を見ることで、人は優越感に浸ったり、安心感を得ることができる。そのため、自殺はニュースバリューがあり、有名人であるほど、価値が出ることになる。

本書では、江戸時代の曾根崎心中、ゲーテの小説から社会現象となった「ウェルテル効果」、さらにはアイドルの上原美優(2011)、岡田有希子(1986)の自殺をメディアがどのように扱ったかを分析している。

同年代の若者たちが、同じ方法で自殺したことについて、テレビや新聞などのメディアの影響は大きいという(確かFRIDAYだったはずだが、岡田有希子の写真が衝撃的だったことを覚えている)。

さらに、2000年代の前半は七輪での練炭、後半では硫化水素による自殺が多くあった。特にピーク時の2008年には、年間1000人が硫化水素で自殺したとある。これは、ネット心中を報道したテレビの影響が大きいという。

2008年に内閣府が呼びかけ、警視庁による関連報道の削除要請があり、現在では沈静化している(Googleトレンドでも2008年がピーク)。こうした流れを受けて、厚生省ではメディア関係者に対し、自殺報道のガイドラインを示している(※4)。

  • 自殺の報道記事を目立つように配置しないこと。また報道を過度に繰り返さないこと
  • 自殺をセンセーショナルに表現する言葉、よくある普通のこととみなす言葉を使わないこと、自殺を前向きな問題解決策の一つであるかのように紹介しないこと
  • 自殺に用いた手段について明確に表現しないこと
  • 自殺が発生した現場や場所の詳細を伝えないこと
  • センセーショナルな見出しを使わないこと
  • 写真、ビデオ映像、デジタルメディアへのリンクなどは用いないこと

死に向かいあって生きる

本書は、いわゆる自殺防止やケアについての本ではない。

むしろ、「自殺学」を総合的に目指したものだといえる。そのため、「死にたい」と思い悩んでいる人には向いていない。もちろん、自殺対策についても書かれているが、「自殺=絶対悪」という見方ではない。

人はいずれ死ぬ。

その死に方が選べないかと検討している。その上では、本書は非常に有効だった。今すぐ、というわけじゃないが、いつにするか、どうやってするかは自分で決めて、準備しておくつもりだ。

言い換えるなら、それが決められないような死に方はしたくない。

生き方は、ある程度、選んできた(選べてこれた)。もちろん不本意なものもあるが、努力と運となりゆきで、ここまで生きてきた。生き方を自由に選べないように、死に方を完全には選べないはずだ。だが、その不自由さの中で生き方を選んできたように、時間をかけて、死を準備していく。

※1 自殺・うつ対策の経済的便益(自殺やうつによる社会的損失)[URL]
※2 Recalculating the Economic Cost of Suicide [URL]
※3 『日本人の自殺』スチュワート・ピッケン、サイマル出版会、1979
※4  厚生労働省:メディア関係者の方へ [URL]

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オデュッセイアを読むと何が起きるのか具体的に述べる

100年前、米国で刊行された世界文学全集で、「モテるための古典」「1日15分であなたも教養人に!」と謳っている(※1)。

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「人生を豊かにする教養」とか「必読の名著」といった教養を売り物にする本があるが、びっくりすほど何にもない。

書店でパラ見してみるがいい。どこからか引き写した簡単なまとめだけで、その名著とやらを読んで、本人の何がどう変わったのか、ほとんど書いていないから。せいぜい、アイスブレイクのネタになったとか、「多面的な視点」みたいなふわっとした言い回しが関の山だ。

『オデュッセイア』を読んで起きたこと

ここでは、反例として、わたしが古典を読んで、何がどう変わったかを述べる。できるだけ具体的に、ホメロス『オデュッセイア』を読んで起きたことを書く。

英雄オデュッセウスが故郷に帰る冒険譚で、行く手を阻む怪物や魔法使いを、知恵と勇気と女神様で乗り切る。ラストの、ライバルたちとの対決は、虐殺と言ってもいいほど一方的&圧倒的で、ドーパミンが出まくった。

この物語から切り出して、様々なエピソードやトピックが生まれている。翻案したり置換することで、元の話とは似ても似つかぬ、でも既視感のあるストーリーができあがる。

たとえば、『千と千尋の神隠し』で父母が豚になるところなんて、キルケ―の魔法を思い起こす。千尋(オデュッセウス)が豚になるのを免れたのは、あるものを食べなかったからだ。もちろん、『オデュッセイア』のエピソードがそのまま使われているわけではない。他の、様々な物語を介して伝播していったと想像すると、面白い。

あるいは、怪物に捕らえられたとき、自分の名前を「誰でもない」と告げるトンチ。オデュッセウスは怪物の眼を潰し脱出を図る。その一方で、怪物の仲間が「誰にやられた?」と尋ねても、「誰でもない」と返事する―――このネタ、まんが日本昔話で聞き覚えがあるほか、様々な場所で使われるだろう。

オデュッセイア=進研ゼミ

そして、ラストの1対多のバトル。

戦いの女神アテナの加護のもと、オデュッセウスは無双となる。俺の嫁に手を出す奴は絶対に殺すマンと化して、大勢の敵を、一射一殺の勢いで殺戮してゆく(読んでいるときは全身の毛穴が総毛立ち、マリオの無敵音楽が脳内をずーっと流れてた)。直前まで、自分の正体を隠し、プレッシャーがすごかったので解放感がハンパない。

このアドレナリン感覚は、スタローン主演の映画『ランボー/怒りの脱出』やスティーヴン・ハンターの小説『極大射程』の無双と酷似している。映画を観たのも小説を読んだのも、ずっと前だったのだが、『オデュッセイア』を読んだ途端、「あのときのアレはコレだったのか!」と完膚なきまで腑に落ちた。

そして、映画やゲームや小説で無双シーンに出会うと、『オデュッセイア』を思い出すことになる。要するに「これ進研ゼミでやった」状態になるのだ(『魔法少女まどか☆まどか』の覚醒まどかがそれだった)。オデュッセウスは無双の元祖、彼を観察することで、未来の作品のタネが見つかるだろう。ずっと正体を隠してきてラストで無双するところなんて、なろう系の元祖と言ってもいいかも。

では、こうした物語を楽しむ/作るエピソードを見つけることが、古典のメリットなのかというと、それだけではない。人間の仕様を理解する手がかりとしても使える。

オデュッセイアで人の仕様を理解する

読書猿『独学大全』によると、ヒトの意志は環境や状況に左右されやすい。強い意志を持っていても、周りの状況により変わってしまう。ヒトは、意志や理性の産物というよりもむしろ、それまでの自分を取り巻いてきた環境の産物だというのだ。

だから、意志を変えないように努めるよりも、むしろ、意志が変わっても努力が続くよう、自分の外側に理性をデザインせよと説く。その例として、「オデュッセウスの鎖」(※2)が登場する。

Draper-Ulysses and Sirens

Herbert James Draper, Public domain, via Wikimedia Commons

オデュッセウスの鎖とは、オデュッセウス自身が自らを縛れと部下に命じた鎖だ。なぜ自分を鎖で縛るのか? それは、セイレーンの歌声を聞きたいからである。彼女らの美声に惑わされ、船を岩に激突させた挙句、命を落とす船乗りは数多くいた。だからオデュッセウスは自分を縛らせ、耳栓をした部下に船を漕がせたのだ。

セイレーンの島に近づき、美しい歌声が聞こえてくると、オデュッセウスは鎖を解くよう叫び、身悶えした。だが部下たちは何も聞こえず、命じられたとおりに船を漕ぎ続け、海域を脱出することになる。

オデュッセウスは自らの意志を信じていなかった。だから自らを鎖で縛らせることで、意志の変化を乗り越えたといえる。読書猿は、このオデュッセウスの鎖を応用して、「コミットメントレター」「ゲートキーパー」という技法を編み出している。

オデュッセウスの鎖は、ヒトは環境の動物だということを思い知らせてくれる。大前研一はこれを逆手に取って、こうアドバイスする。

  人が変わる方法は、3つしかない。
  1つは、時間配分を変える。
  2つめは、住む場所を変える。
  3つめは、付き合う人を変える。

このアドバイスには続きがあって、人が変わる方法の中で、最も無意味なのは、「決意を新たにする」というやつだそうな。自分の意志という鎖がいかにアテにならないかは、わたしが一番よく分かっている。

オデュッセイアのリアリズム

『オデュッセイア』をリアリズムの道具として読むこともできる。

アウエルバッハ『ミメーシス』が好例だ。ヨーロッパ文学のテクストを比較しながら、現実がどのように描写されているかを分析する。『オデュッセイア』のリアリズムは、旧約聖書と比べて紹介されている。

描写に奥行きがなく、照明はくまなく当たっており、人物は心の裡を余すことなく語り尽くす『オデュッセイア』と、光と影が際立ち、暗示に満ちた表現や多様な意味の解釈を求める旧約を並べると、確かに対照的である。

『オデュッセイア』のフラットな書き方だと、読み手(観客)に秘密にされるものがない。時間は常に現在に焦点があたり、「語られたもの=現実の全て」で完結している。感覚的実在の快楽が全てであり、それを如実に伝えることが文学の目的だとされている(※3)。

ホメロスから数千年、わたしたちが普通の小説を安心して読めるのは、全てが隈なく説明される(はず)という確信があるからだろう。

あるいは、演劇の傍白を遡ると、オデュッセイアに至るだろう。傍白は、相手には聞こえないことにして、観客にだけ心中を明かすセリフだ。これが成り立つのは、舞台の上が現実の全てだという暗黙の了解があるから。

もちろん、これをフェイクにひっくり返すやり方もあるし、前提を裏切る叙述トリックだってある。だが、そうした手法が出来たのは、オデュッセイアのリアリズムがあったからといえる。

オデュッセイアは一冊ではない

このように、『オデュッセイア』について語ろうとすると、様々な経験や技法、教訓や素材、そして注釈が、次々と積み重ねられることになる。

たとえ、オデュッセウスの冒険物語のダイジェストに閉じて語ろうとしても、『オデュッセイア』に言及する様々な作品や注釈が、それを許さない。『オデュッセイア』は、決して、一冊だけでは成立しないのだ(岩波赤で言うなら、上下巻だけでは成立しない)。

読書猿『独学大全』では、もっとシンプルに、「古典とは、多くの注釈書が書かれてきた書物のこと」(※4)と述べている。元の古典テキストに加えて、積み重ねられてきた読み方もすら注釈書として残っているものが、古典になるというのだ。

これまでの様々な読みに加え、それまでの自分の経験が呼び覚まされる。そして、(創る方であれ、受け取る方であれ)未来の作品に向かい合う知恵を手にする。ホメロス『オデュッセイア』を読むということは、そういう経験だった。

※1 『「世界文学」はつくられる』秋草 俊一郎、東京大学出版会、p.68
※2 『独学大全』読書猿、ダイヤモンド社、p.176
※3 『ミメーシス』アウエルバッハ、筑摩書房、上巻p.17
※4 『独学大全』読書猿、ダイヤモンド社、p.280

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なぜバカは無敵で世の中に蔓延しているのか分かる『バカの研究』

桃井かおり「世の中、バカが多くて疲れません?」から30年、バカはどんどん増えている。

バカは、激しく自己主張する。

感情的にわめきたて、他人の意見に聞く耳を持たない。ことが起きるたびに「ほら、私が言った通りだろ?」と叫ぶ。思い通りにならないと、全て人にせいにして、自分が間違っている可能性を考えない。自分を高く評価するあまり、客観的な判断ができない。

バカは、「間違えたら死ぬ病」にかかっている。

自分の間違いを、絶対に認めようとしない。自分の間違いが証明されそうになると、ゴールポストを動かす。都合の悪いことを完全に忘れる能力があり、「昔は良かったが、今はダメだ」を口癖とする。

「バカ=知識がない」ではない。

知識はあり、アカデミックな立場にいるにもかかわらず、信じがたい愚かな発言を繰り返すバカは、大量にいる。しかも、なまじ知識があるぶん厄介だ。自分のイデオロギーを裏付ける文献を引用しながら、知的な虎の威を借りて、不愉快な相手を糾弾する。知識とは、相手を黙らせる武器だと考えている。

バカには理由がある

こうしたバカが、なぜ存在するのか―――この疑問に対し、『ファスト&スロー』のダニエル・カーネマンや、脳科学者アントニオ・ダマシオなど名だたる知性が結集し、大真面目で「バカ」を研究したのがこれ。

面白いことに、本書は、「バカをバカにする本」ではない。

某国の指導者やイズムの狂信者をこき下ろすのではなく、その背後にある、「どうして人は、愚かなことをするのか」という謎に迫る。そして、人の愚かな行動には、特定の偏りをもたらす思考のゆがみがあることを示す。

たとえば、自分を過大評価し、他人を過小評価するバカ。

これには名前が付いていて、研究者の名前にちなんでダニング=クルーガー効果という(※1)。自分の能力の欠如を認識することができないことによって生じる認知バイアスになる。なるほど、バカがドヤ顔で自説を開陳するのは、このバイアスによるのかもしれぬ。

あるいは、「昔は良かった、今はダメ」と言い張るバカ。

これも研究(※2)がされており、人は歳を取るにつれ、嫌な思い出は記憶から薄れてゆき、良い思い出だけが残るようになっている。老いれば老いるほど、過去の良いところばかり思い出すのは、人一般の記憶の仕様なのだ。

なぜ世の中、バカが多いのか

さらに、世の中、バカばっかりに見えるにも理由がある。

私たち人間には、バカを探し当てるレーダーが備わっているという。ネガティブ・バイアス(※3)と呼ばれるもので、人は、ポジティブなものよりネガティブなものに目を向け、より重要だと考える傾向が備わっているという。世間でバカが目立つのでなく、私がバカを探しているからなのだ。

こんな感じで、バカについての本だと思って手にしたところ、実際は、行動経済学や心理学から、人の思考の癖を気づかされる。「バカとは、極端な認知バイアスに陥っている人」という結論に触れると同時に、私の中のバカが炙り出されてくる。

つまりこうだ、「世の中、バカばかりだ」と感じるのは、私のネガティブ・バイアスが原因だし、「最近バカが増えた」と考えるのは、昔のことを都合よく忘れているからだ。30年前だってバカは大勢いたが、今ほど可視化されていないだけなのかもしれぬ。「自分はあいつらと違う」と考えるのは、ダニング=クルーガー効果と言えるかもしれない。

なんのことはない、バカだと思っていた私自身が、バイアスまみれの思考に陥っていることが暴かれる。小学生のあれだ、「バカって言う人がバカなんですー」というやつ。バカなのは、私だったのだ。

人である限り、認知バイアスから完全に逃れることはできない。だが、それを自覚し、振り回されないようにすることはできる。バイアスというバカを抱えながら生きよう。

※1

Justin Kruger,David Dunning

Unskilled and Unaware of It: How Difficulties in Recognizing One's Own Incompetence Lead to Inflated Self-Assessments,2000

※2

Susan Turk Charles, Mara Mather, Laura L Carstensen

Aging and emotional memory: the forgettable nature of negative images for older adults,2003

※3

Negativity Bias, Negativity Dominance, and Contagion

Paul Rozin, Edward B. Royzman,2001

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サクサクした食べ物が好きなのは、祖先が昆虫食だったから『美食のサピエンス史』

サクサク(crispy)した食べものは、みんな大好きだ。たとえば、唐揚げやフライドチキン、ポテトチップスは、世界各国で好まれる。

この、サクサクした食感を好む傾向は人類共通らしい。

なぜ、私たちはサクサクを好むのか?

本書によると、かつて我々の先祖が、昆虫を好んで食べていたからだという。

つまり、外はサクサク、中はトロ~りした食べものが好まれるのは、外骨格に身を包み、タンパク質や脂肪を豊富に含んだ昆虫を食べてきた名残りなのだというのだ。

昆虫食は異常?

アジア、オーストラリア、アフリカ、南アメリカ、中東では、昆虫は優れたタンパク質源であり、薬剤としても利用されている(※1)。そういえば、わたしが子どもの頃、祖母が作った「イナゴの佃煮」や「ハチノコ」が食卓に並んでいた。

いっぽう、欧米人は、昆虫食をありえないと決め付けるのだが、その理由が興味深い。

昆虫を「きたならしく、吐き気をもよおす」から食べないのではない。文化人類学者マーヴィン・ハリスによると、真相は逆で、昆虫を食べる習慣がないからこそ、「きたならしく、吐き気をもよおす」ものと見えているというのだ。

そして、昆虫食の価値が認められていないのは、欧米文化の環境条件に過ぎないという。獣や魚の肉が手に入りやすい一方で、手ごろなサイズの昆虫がいなかった―――この条件は北半球の一部の地域のみで、そこから発祥した食文化に組み込まれたためだというのだ。

『美食のサピエンス史』は、こうしたわたしの偏見を、鮮やかに解いてくれる。本書は、進化生物学、文化史、脳科学から、「ヒトと食」についてアプローチする。

「食べる」と「性交する」は同じ?

たとえば、食と性の研究が面白い。

まず、「食べる」と「性交する」が、同一の言葉で語られる例を紹介する。南アメリカやブラジルの一部では、両者は同じ言葉を用いられる(※2)。

確かに、いかにも「食べてる/食べられている」ように見えるのは事実だし、「あの子、食べちゃった」「美味しそうなカラダ」「女に飢える」「おとこ日照り」という表現もある。性と食は、近いところにあるのかも。

しかし、だからといって完全に言葉を同じにしたら、いろいろと混乱を招きそうだ。ところがどっこい、これらの地域では、区別する必要がある場合は、対象を言い添えるという。つまり、「果物を」「ペニスを」と目的語を付け加えて使い分けるのだ。

文化人類学の観点から、食と性が分かちがたく結びついていることを主張した後、今度は、脳科学の観点から補強する。

おいしいものを食べたときの快感を、英語圏では、フードガズム(foodorgasm:food+orgasm)という。ハッシュタグ #foodorgasm でインスタを覗くと、いわゆる「飯テロ」画像が並んでいる。

そして、fMRIで撮影した眼窩前頭皮質の活動から、美食でフードガズムを感じているときと、性交でオーガズムを感じているときの類似点を指摘する。ただし、美食と性交のそれぞれでオーガズムに至るのではなく、むしろ、フードガズムがオーガズムを誘起しているのではないかという。

おいしい料理と、たのしいセックス、どっちが気持ちよいか?

とある美食料理家が紹介する、”Better than Sex Cake” を見る限り、食の方に軍配が上がりそうだ。キャラメルソースたっぷりのチョコレートケーキは、確かに「美味しそう」である。

絶対味感

苦味についての研究も面白い。

ブロッコリーやキャベツには、PTCという苦味物質が含まれている。この物質をどう感じるかは、遺伝によるというのだ。シワのある豆と丸い豆がメンデルの法則に従うように、PTCを苦いと感じる/感じないも、潜性遺伝するというのだ。

この研究はさらに進められており、PTCを感じる人は、アルコールを飲まず、ニコチン依存になりにくい傾向があることが分かっている。PTCの味覚能力は、嗜好の形成に何らかの役割を果たしているようだ。

本書がユニークなのは、この研究は遺伝子研究だけでなく、文化的環境とも照らし合わせて掘り下げているところ。PTCの検知/非検知は、言語を伴って活動していた可能性を指摘する。PCT特有の味を指す言葉だってあるかもしれないのだ。

さらに本書では、スーパーテイスターの存在を仮説づける。同じものを食べても、敏感に感じる人から、鈍い人まで、様々だろう。この口腔感覚の個人差は、色や音のように幅があることが考えられる。

この研究が進むと、絶対音感のような「絶対味感」も明らかになるのではないだろうか。つまり、音の高さを絶対的に認識する能力と同様、特定の味を同定できる人が出てくることが予想される。味という、主観100%の世界が、どこまで普遍化できるか……これは楽しみ。

原題は、”The Omnivorous Mind” (雑食性の心)だ。ヒトという、超雑食な存在を、進化と文化の両面から、多面的に捉えた一冊。

※1

s.K. Srivastava and Naresh Babu

Traditional insect bioprospecting-As human food and medicine

November 2009Indian journal of traditional knowledge 8(4):485-494

※2

『神話理論 生のものを火を通したもの』クロード・レヴィ=ストロース(みすず書房)

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変えられないものをスルーして、変えられるものだけに集中する

人生で一番大事なことは、イチローから学んだ。

コントロールできることと、コントロールできないことに分ける。そして、コントロールできないことには関心を持たない。

首位打者争いをしているとき、ライバル打者について話題が及ぶと、「相手の打率は、僕にはコントロールできません、意識することはありません」と打ち切ったという。

同じことを、ヤンキース時代の松井秀喜も語っていた。成績が振るわず、マスコミに批判されたことについて質問されると、「記事はコントロールできません。気にしても仕方ないことは気にしません」と返したという[松井、イチローの言葉を就活に生かす]

初めてこの言葉を聞いた時、自分を苦しめているものがはっきりと見え、すっと楽になった。以後、手帳の見返しに書きつけ、毎日見返している。

わたしを苦しめているものは、「コントロールできないもの」を生み出しては抱えている、わたし自身なのだ。

もっと踏み込んだ言い方では、[二ーバーの祈り]がある。

神よ、

変えることのできないものを、

静穏に受け入れる力を与えてください。

そして、

変えるべきものを変える勇気と、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを、

与えて下さい。

神学者ラインホルト・二ーバーが作者とされる祈りの言葉で、アルコールや薬物依存症に苦しむ人を支援する会でも引用されている。

この、「変えることのできないもの」をあれやこれやと生み出し、それに思い悩むのは、ヒトの思考の癖のように思える。

放っておくと、そうした不安にばかり埋め尽くされ、悪い方へ悪い方へとしか考えられなくなる。眠れぬ夜、「不安なことを考えると安心する」といった倒錯した頭を抱えることもある。

だが、不安とは、未来に起こるかもしれない不都合を、「いま」思い悩むことだ。「いま」を「未来」に変えられないのであれば、起きたときに悩めばいい。起きてもいない(起きるかどうかすら分からない)不都合について心配するのはナンセンスかもしれぬ。

この考え方は、ずっと受け継がれてきたもので、古代ギリシャまで遡ることを知ったのが、『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね』だ。エピクテトスはローマ帝政時代の哲学者で、彼の言葉は、マルクス・アウレリウスからパスカル、夏目漱石にまで影響を及ぼし、今に至っている。

本書は、彼に私淑する山本貴光さんと吉川浩満さんの対談形式で描かれており、現代風にアップデートされた悩みについて、具体的に語られる。

エピクテトスの原則は、シンプルだ。

自分の権内と権外を適切に見極めよ

ちょっと見慣れぬ言葉があるけれど、

権内=自分がコントロールできるもの

権外=自分がコントロールできないもの

だね。そして、権内か、権外か、両者が適切に区別できている状態こそ、人にとってもっとも幸福であり、われわれが目指すべき最善な状態だという。

そして、権内か、権外か、あらゆる心像についてこの基準をあてがってみろとアドバイスるする。権外であれば、捨て去れと断言する。なぜなら、人々を不安にするものは事柄ではなく、事柄に関する考え方なのだからだというのだ。

こうして言葉にするとあたりまえに見えるが、不安にさいなまれている時には、そこまで思いが及ばない。

だから、具体的な例を挙げ、権内/権外をあてはめるトレーニングをする。本書では、以下の人々を俎上に、コントロールできること、できないこと、見極め方を指南する。

  • 新任の上司が女性なのでモヤモヤしているエンジニア
  • 電車遅延について駅員に怒鳴り込むおっさん
  • やりたいことも、得意なこともないが、進路を決めなきゃいけない高校生

読者は、ひょっとすると、ここに出てくるエンジニアや高校生の立場ではないかもしれぬ。そのため、ここの事例がそのまま当てはまるとは限らないかもしれぬ。

だが、「増殖する不安を抱えている」という点では一致するし、その悩みは人類史上初というわけでもないだろう。

だから、本書を通じて「エピクテトスならどうする?」と自問すると良いかも。おそらく、権内のあまりの小ささと、権外のあまりの巨大さに、驚くだろう(わたしがそうだった)。

悩み事は、放っておくと雪だるま式に増殖する。アルコールで一時的に忘却したり、課金やスパチャで気を紛らわすのもありだが、財布や肝臓が死ぬ。悩むのは人の仕様。だが、死ぬほど思い悩むことはない。

その人生、正気を保っていくために。

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ナチスが焼いた本のリスト、国際宇宙ステーションにある本、ハリポタの次に読む本……本のリストが面白い

ナチスが焼いた本のリスト

ナチスが焚書した本は4,000を超えており、その全容は把握しきれない。だが、焼かれた本の一部は分かっており、”A Book Of Book Lists” でリスト化されている。これを見ると、ナチスが何を恐れていたかが、よく分かる。

  • 武器よさらば(アーネスト・ヘミングウェイ)
  • いかにして私は社会主義者となったか(ヘレン・ケラー)
  • 野性の呼び声(ジャック・ロンドン)
  • 鉄の踵(ジャック・ロンドン)
  • 世界史概観(H.G.ウェルズ)
  • 理性に訴える(トーマス・マン)
  • ジークムント・フロイトの全著作

 

ISS(国際宇宙ステーション)にある本

宇宙ステーションで働く人々は超忙しいので、本読んでるヒマなんてないのでは? と思うのだが、リラックスのための読書は必須らしい。数十年にわたり私物として持ち込まれ、そのままライブラリー化しており、シリーズものが充実している。

  • ファウンデーションシリーズ(アイザック・アシモフ)
  • エイリアン 感染(ダレル・ベイン)
  • アシモフのサイエンス・フィクション(アイザック・アシモフ)
  • ヴォルコシガン・サガ(ロイス・マクマスター・ビジョルド)
  • 二都物語(チャールズ・ディケンズ)
  • 戦争と平和(トルストイ)
  • 風と共に去りぬ(ミッチェル)
  • オナー・ハリントン・シリーズ(デイヴィッド・ウェーバー)

 

アラン・チューリングが借りてた本

アラン・チューリングが学校で借りた本のリストもある。パブリックスクールに通っていた頃(14~19歳)の本だ。ルイス・キャロルのアリスシリーズから数学の世界へ誘われたのかと想像すると感慨深い。

  • 不思議の国のアリス(ルイス・キャロル)
  • 鏡の国のアリス(ルイス・キャロル)
  • 論理ゲーム(ルイス・キャロル)
  • 空間、時間、重力(アーサー・エディントン)
  • 自然界の本質(アーサー・エディントン)
  • 物質と運動(ジェームズ・クラーク・マクスウェル)
  • 科学と近代世界(ノース・ホワイトヘッド)

一冊の書物は一つのパッケージとして完結する。だが、それをリストにすると、趣味や偏愛、あるいはメッセージ性が現れてくる。

この遊びを徹底したのが、『本のリストの本』だ。

編集者や蒐集家、ライターといった、本に関わる人たちが、本のリストを巡ってあれこれ語ったエッセイ集だ。知ってる本から知らない本を手繰るとき、それをリストの形で繋げてくれるのが楽しい。

 

文字の表情を味わう本

タイポグラフィやレタリングが好きな人で、様々な書体を見ているだけでニヤニヤできる上級者向け。フォントを変えるだけで、中身がガラリと変わってしまうのは魔法のようで面白い。『じょうずなワニのつかまえ方』はWeb版で読める(めちゃめちゃ面白い!)

  • じょうずなワニのつかまえ方
  • 日本字フリースタイル・コンプリート たのしい描き文字2100
  • 篠原榮太のテレビタイトル・デザイン

 

刊行しなかった本のリスト

企画は進んでいたが、諸事情で日の目を見なかったリストなのだけど、絶対これ面白いやろ! と言えるやつばかり並んでる。ベイトソン先生のやつは読みたい!

  • 男色と免疫疾患(南方熊楠)
  • 小説・経済論(村上龍)
  • 細野晴臣画集
  • 坂本龍一伝(玖保キリコ)
  • 中島みゆき論(呉智英)
  • マルセル・デュシャン(オクタビオ・バス)
  • イルカを撃つな(グレゴリー・ベイトソン)

 

ハリー・ポッターの次に読みたいリスト

イギリスの絵本専門店が、ハリポタブームの頃に出したリストだそうな。私はハリポタを読んでいないので何とも言えないが、これらが鉄板で面白いことは保証する。『ダレン・シャン』や『タラ・ダンカン』も入れたいね。

  • はてしない物語(ミヒャエル・エンデ)
  • トムは真夜中の庭で(フィリパ・ビアス)
  • ゲド戦記(アーシュラ・ル=グウィン)
  • 指輪物語(J.R.R.トールキン)
  • 長くつ下のピッピ(アストリッド・リングドグレーン)
  • ナルニア国ものがたり(C.S.ルイス)

この遊びはマネしたくなる。たとえば、何度も読んでしまう短篇集とか。

 

なぜか何度も読み返す短篇集(マンガ編)

  • ヘウレーカ(岩明 均)
  • ひきだしにテラリウム(九井諒子)
  • 愛すべき娘たち(よしながふみ)
  • 棒がいっぽん(高野文子)
  • ミノタウロスの皿(藤子・F・不二雄)
  • 三文未来の家庭訪問(庄司創)

 

なぜか何度も読み返す短篇集(小説編)

  • 伝奇集(ボルヘス)
  • 新釈雨月物語、新釈春雨物語(石川淳)
  • 完全な真空(スタニスワフ・レム)
  • Carver's dozen(レイモンド・カーヴァー)
  • 名人伝(中島敦)
  • チェホフ短篇集(チェホフ)

面白いだけでなく、読み返すたび、違った印象を受けるのが面白く、何度も手にしてしまう。「噛むほどに味が出る」というやつ。

こんな感じで並べると、わたしの偏愛が見えてくる。「お前のマンガの趣味は悪い」と言われたことがあるけど、偏っている自信はある。一方で、わたしと好みが被るなら、ここから次に手にする一冊が見えてくるかもしれぬ。

あるいは、拙著『わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる』にも、沢山のリストがある。

 

人生を破壊する怒りから自由になる本のリスト

  • 怒らないこと(アルボムッレ・スマナサーラ)
  • ジェダイの哲学(ジャン=クー・ヤーガ)
  • 怒りについて(セネカ)
  • 七つの習慣(スティーヴン・コヴィー)

怒りに任せてモノに当たったり、感情が昂って眠れなくなるほどだったのが、読書を通じて、怒りから自由になることを学んだ。万人向けかは知らないが、少なくとも自分には効いたリスト。

 

読んだことを後悔する禁断の劇薬小説

  • イワン・イリイチの死(トルストイ)
  • 城の中のイギリス人(マンディアルグ)
  • 隣の家の少女(ケッチャム)
  • ジェローム神父(マルキ・ド・サド)

全24作品からダメージ低めのものを選んだが、読書は毒書であることを思い知らせてくれる。苦手な人は避け本リストとして使って欲しい。好きな人は、別冊付録を手にしてほしい。

このブログでも、様々なリストがある。昔、わたし自身のために作ったのだが、今でも有効活用しているのがこれ。

 

東大教師が新入生に薦めるブックリスト

  • 理科系の作文技術(木下是雄)
  • 生命とは何か(シュレディンガー)
  • 日本人の英語(マーク・ピーターセン)
  • 知的複眼思考法(苅谷剛彦)
  • オリエンタリズム(サイード)
  • ゲーデル、エッシャー、バッハ(ホフスタッター )

実際は、東京大学出版会が毎年行っているアンケートで、過去30年分を基に集計した100冊のリストになる。リストにすることで、今まで読んできたもののを振り返り、整理することができる。一方で、次に読む目標も出てくる。

本をリスト化すると、意外な自分が見えてきたり、趣味が似通った人と出会えたりする。定期的に棚卸していきたいもの。

 

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