「いまを生きる」に自覚的になる『瞬間を生きる哲学』

tumblr で知った仏陀の言葉が好きだ。

 過去にとらわれるな
 未来を夢見るな
 いま、この瞬間に集中しろ

 Do not dwell in the past,
 Do not dream of the future,
 Concentrate the mind on the present moment.

そう、わたしは過去や未来ばかり見る。やったことを後悔し、不確かなことを心配する。ああすれば良かったと憤慨し、こうなったらダメだと心を痛める。

この、今を後回しにする生き方を批判し、「いま」「ここ」に充足する方法を考察したのが『瞬間を生きる哲学』だ。哲学や芸術から援用し、瞬間を生きるための具体的な技術を指し示す。

生のユーティリティ化

たとえば、今を後回しにして、「何かのため」に生きる生き方を、「生のユーティリティ化」と喝破したところがすごい。ユーティリティとは、「有用性」「効用」と訳され、何らかの役に立つということ。何の役に立つというのか?

それは、入試のためとか就職のため、あるいは家族のためとか老後のため。安定した幸せな人生のため、明日や来年、場合によっては死後に設定された目標に役立たせるために、「いま」を立て続けに収奪する。

つまり、アリとキリギリスの教訓を内面化し、将来のために、いま努力する社会だ。「いつか」「どこか」のために、今を最適化する。わたしは、今を生きることしかできない。それにもかかわらず、「いま」「ここ」以外に、何かの目的や価値があると思い、そのために生きようとしてしまう。

「いまを生きる」技術

では、どうしたら「いまを生きる」ことができるのか?生を生として瞬間をじっくりと味わう―――そもそもそんなことが可能なのか?

こうした疑問に対し、プルースト文学やフロー体験、赤塚不二夫「これでいいのだ」や、サルガドの報道写真、イスラーム哲学やサティ瞑想など、様々なアプローチから「いま」「ここ」に迫る。

特に面白いのは、リアリティ炙り出し装置としての芸術のところ。漫然と過ごしてきた瞬間の一つを切り取り、それに光を当て、生々しく浮かび上げるのは、芸術の役割だという。プルースト『失われた時を求めて』の、紅茶に浸したマドレーヌが象徴的だ。

たしかに「そのとき」そこに居たはずなのに、「いま」「ここ」として実感を持って生きられなかった―――そんな瞬間が蓄積したのが過去だという。そうした中から、なにかのはずみで、思いがけず、現に生きられた時間として襲来してくる。これを、現実の再創造と呼ぶという。

記憶の彼方から圧倒的なリアリティをもって迫ってくる感覚は、確かにある。マドレーヌではないが、味や香りがトリガーとなって、それを食べた昔をありありと思い出すことはある。

いまを生きるものは永遠を生きる

では、過去を想起する形でしか「いまを生きる」ことはできないのか? 本書ではチクセントミハイのフロー体験を元に、今現在「いまを生きる」方法を紹介する。

いわゆる「時を忘れる」ことだ。何か好きなものに夢中になって、気づいたらえらい時間が経っていた……なんてことはないだろうか?

たとえば、物語に夢中になったり、音楽と一体化したり、仕事に没頭するような体験だ。行動へのフィードバックが即座に返る全能感と、行動と思考と感覚が一体化した多幸感で、時間ばかりか我を忘れるような活動だ。無我夢中で愛し合うこともそうだろうし、スポーツだと、「ゾーンに入る(being in zone)」と表現される。

この感覚はある。わたしの場合、いまがそうで、こうやって記憶をまさぐり、体験と照らしながら文章を書くとき、溢れる脳汁を感じる。あるいは、最初の中ジョッキを傾けるとき、SEKIROのラスボスを倒すとき、「生きてる!」と触れるくらい感じることができる。

このとき、人は永遠を生きるという。

この世、この生を大肯定し、死すら圧倒するほど生が露出する瞬間だというのだ。ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』にある、「現在に生きる者は永遠を生きる」という言葉と、アウグスティヌスやトルストイが言った「過去や未来なんて存在せず、ただ現在だけがある」が、重ね合わさるところ。

えいえんはあるよ、ここにあるよ

この「永遠」は、無限に遠い未来という時間的な意味ではない。

過去や未来のない無時間を指すと考える。ずっと「いま」なら死も無い(なぜなら、死は「いま」として体験できない、生の外側の存在だから)。『ONE』のラストの「えいえんはあるよ、ここにあるよ」にある、時間の無い「いま」である。

どんな未来になるのか不透明な状況で、どうしたら不安から逃れ、いまを生きることができるか? おそらく、わたしがやってはいけないのは、「テレビやネットを見る」だろう。未来が不確定であることを改めて確認し、不安を強化するか、ガセやデマに翻弄されるだろうから。

代わりに、「いま」「ここ」を充足させよう。読むこと、食べること、表現することに集中しよう。そして何より―――『失われた時を求めて』に取り掛からなくちゃ。

Shunkan

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本を読もう

Sugohon2

父から貰った言葉で、今も大切にしているのは、「本は待っていてくれる」である。

本は、読まれることを待っている。無理強いせず、辛抱強く、わたしが戻ってくることを待ち続ける。これが、テレビやネットだと、目まぐるしく変化し、見ること・反応することを強要する。

本は、何もしない。わたしが集中することを、静かに待っていてくれる。

そして、これは読書猿さんに教わった、「同じ本を読む人は遠くにいる」を大切にしている。

ただ一人、ページと向き合うとしても、同じ本を読む人は遠くにいる。これは、物理的な距離という意味でも、時間的な隔たりという意味でも然り。本に取り組んでいる限り、けっして孤独ではない。

本は、わたしを繋げる。同じ本を読む人と、時空を超えて繋げてくれる。

最後に、わたしから伝えたいのは、「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」

2どんな本を読めばいいのか。人生は短く、読む本は多い。積読山を崩しているうちに人生終わる。だから、”それ” を読んだ「あなた」を探そう。探し方は、[この本] に書いた。

人生は短い。

だから、画面を閉じて、ページを開こう。だいじょうぶ、本は待っていてくれる。本に向き合う限り、必ず誰かと繋がっている。そして、あなたが知らないスゴ本は、きっと誰かが読んでいる。

本を読もう。

スゴ本

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可憐でエロくて危うい百合 ✕ 吸血鬼『ヴァンピアーズ』

まず、このシーンを見てほしい。

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授業を抜けだした一花(いちか)が、体育館の裏でアリアに血を吸わせるところ。首は痕が目立つから、腕を差し出す。皮膚を破る鈍い痛みと、痛みが減衰してゆき、べつの感覚に変わる快に身をよじる。第4話「INTRUDER」の一幕で、狂おしいほど好き。

血を分け与えるというのは、どんな気分なんだろう。

自分の命が相手の一部になる。昔、授乳する嫁様の表情からオキシトシンを想像して、多幸感をシンクロさせたことがある。あんな感じだろうか。あるいは、成分献血マシンに抜かれる際の、幸せな眠気みたいなものだろうか。

あるいは、血を吸う感覚はどんなものだろう。

相手の精を飲み干す。うっすら汗ばむ白い肌にむしゃぶりついて、痛くならないギリギリ甘噛みして、むせるような生々しい匂いと共に、しょっぱさを覚えながら吸い・舐めとる際の、ケモノだったことを思い出すような感覚だろうか。

この妄想を、美少女 ✕ 美少女で実現したのが、『ヴァンピアーズ』だ。

描いているのはアキリ氏、とある界隈では伝説級の方である。巧みな物語構成と、可憐さと不穏さを掻き立てるエロスには、わたしも大変お世話になっている。

主人公は14歳の一花。大好きだったお祖母ちゃんのお葬式で、目の覚めるような美少女アリアに出会う。異国の雰囲気をまとった不思議な少女に、完全にひとめ惚れしてしまうのだが、実はその子、人の血を吸う……というのが第一話で、完璧にハマってしまった。

まず、表情がイイ。血をやりとりする際の恍惚とした顔を見てるだけでイケナイモノを見ているような背徳感がぞわりと上がってくる。同時に、血を吸うアリアの目が爬虫類になるのもイイ。S.キング『呪われた町』で、血を吸われるのは性的快楽よりも良いとあったが、むべなるかな。

次に、ストーリーが好き。単なる百合 ✕ 吸血鬼の日常ほのぼの系かと思いきや、目的が与えられている。それは、「私を殺して」という目的だ。吸血鬼は基本的に不死で、アリアが主人公に近づくのは、自分を殺して欲しいから。いっぽう彼女が好きになってしまった一花は、どうしたら自分に振り向いてもらえるか悩み・試行錯誤する。

この、与える/与えられる、捕食者・被食者の関係が捻じれてて面白い。設定もキャラも違うけれど、TONO『チキタ★GuGu』を予感してヒヤっとさせられる。もし作者が意識しているのなら、号泣する準備はできている。

吸われる一花になりきる妄想もよし、吸うアリアに感情移入するのもよし、疲れた心は百合 ✕ 吸血鬼で癒そう。

第一話のお試しは、SundayGX『ヴァンピアーズ』で読める。

 

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読むべき最高のテキストは東大入試現代文にある

Toudaino

いま読むべき本、考えるべきテーマは、東大入試の現代文に集まっている。

日本最高の学府は、未来の知を背負う人として、どういった人を求めているか?  何をテーマとし、どんな本を俎上に載せ、どこに着目し、どんな問いを投げ、いかなる解答を期待しているか? そこに、「入試問題」という形をとった、東京大学からのメッセージを見ることができる。

これが数学や英語の問題だと、ちょっと手が出ないかもしれない。

だが、これが現代文なら、とっつきやすい。

東大のメンツにかけて「いま考えるべきテーマ/読む価値のある本はコレだ!」として選び抜き、しかも、「良いところはこの部位」と切り出してくれる。つまり、どんな知が求められているか? への東大の応答が、入試現代文そのものなのだ。

『東大のヤバい現代文』は、そうした脂の乗った良問を、関連書籍とともに美味しく料理してくれる。ナニ、東大と臆するなかれ、丁寧な解説で、何が重要かだけでなく、なぜ重要なのかが分かる仕掛けになっている。

「歴史=記録されたもの」を揺さぶる

常識に揺さぶりをかけるのが、宇野邦一『反歴史論』からの入試問題と解説だ。

わたしが当然のように考えていた「歴史とは、人間社会の活動の記録だ」という常識に、ガツンと一撃を喰らわせられる。

『反歴史論』から切り出された入試問題文では、「記録されたもの」だけが歴史ではないという主張が展開される。国家や社会の代表的な価値観によって中心化されがちな、いわばメインストリームとしての歴史に対し、歴史を「記憶」とする考え方が紹介される。

そこでは、記録されたものだけを歴史とする「常識」に抗うかのような、「記憶としての歴史」が対比される。これにより、わたしの常識だった「歴史」とは、国家や社会の価値観によって等質化され、個人の思考や欲望のありかたを方向づける装置であることが暴かれる。

東大現代文には、こうした常識を問い直す、当たり前の前提を取っ払うような問題文が、よく出題されるという。これは、学問の入口にいる受験生へのメッセージだという。すなわち、知性というものは知識で頭を一杯にすることではなく、そうした知識の前提となっているものを問い直す行為になる。

本書は、この問題文の「~を説明せよ」の背後にある意図にまで踏み込んで解説するだけでなく、その意図をさらに掘り下げ・拡張する書籍を紹介してくれる。クライブ・カッスラーの冒険小説からエマニュエル・カントの哲学書まで幅広く、ブックガイドとして扱うのもいいかも。

「芸術=オリジナリティ」を疑う

あるいは、わたしの芸術観が、浅沼圭司『読書について』からの入試問題と解説で揺さぶられる。

優れた創作とは天才の証であり、芸術作品は唯一無二の存在だと信じていた。だが、それは近代に確立された通念に過ぎないということが暴かれる。

芸術は、唯一無二のオリジナリティが求められるものである一方で、「芸術」というジャンル・枠組みに組み込まれている……これが近代における芸術の常識だという。唯一無二なのに、同じジャンルというのは矛盾している。真に独創的であるならば、そうした「枠組み」自体を破っているから。

つまり、独創的な作品Aと、オリジナリティあふれる作品Bが、同じ枠組みにあるということは、原理上ありえない。にもかかわらず、その矛盾を解消するために、芸術に「ジャンル」が求められるのだ、という考え方である。

例えば、個々の作品を「水彩画」、「油絵」、あるいは「グラフィック・デザイン」といったジャンルで括れる一方、さらに広げて「平面作品」というネーミングも可能だ。

そして、「平面作品」があるということは、「立体作品」が出てくる。さらに、「視覚芸術=美術」として括れる。視覚があるということは、聴覚芸術=音楽が出てくる……芸術のオリジナリティを疑うところから、芸術の体系システムを導き出すことができるのが面白い。

解説では、今村仁司『近代の労働観』や青山昌文『美学・芸術学研究』を引きながら、古代ギリシャの手仕事の序列(ポイエーシスとテクネ―)や、ルネッサンス期の工房の職人の位置づけを説明する。

そこでは、画家や彫刻家という表現はあっても、作品のオリジナリティや個性を目指すところではないという説が紹介されている。ゴンブリッチ『美術の物語』とぶつけると面白い反応が得られるかも。

問うことで読めること

東大現代文は、知的意外性に満ちた文章を突きつけて、「説明しなさい」というスタイルで突き放す。読み手(受験生)は否が応でもその意外性も含め、理解することを余儀なくされる。

おそらく、意外性のない、誰でも思いつきそうな文章では、ロクに読まれることなく解答できてしまうからこそ、こうした知的に歯ごたえのある食材が求められるのかもしれぬ。

漫然と読むだけでは「なるほどー」で終わってしまうが、問いを念頭に置くことで、同じ文を別の目で読むようになる。書き手が疑っている常識に向き合い、さらに―――ここからは入試の外に出るが―――「書き手が疑っていること」そのものを、批判的に見るのだ。

知的な姿勢というものは、自分自身も含めた反証可能性を頭のどこかに置きつつ、問いを抱えて向き合う態度なのかもしれぬ。

良い問いで、良い読みを。

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オンラインで読書会したら、すごく楽しかった

好きな本を持ち寄って、まったり熱く語り合うオフ会、それが [スゴ本オフ]

いつもはワインやビール、サンドイッチや唐揚げを持ち寄って、食べながら飲みながら歓談するのだが、このご時世、無理というもの。

なので、オンラインでやってみた。

時間を決めてURLを伝えて、各人は自分のPCやスマホからアクセスする。オンラインミーティングみたく顔出してもいいし、エヴァンゲリオンよろしくSOUND ONLYも、ROM専ならぬBGM代わりに聞く専もあり。

テーマは「いま、何を読んでいる?」

本を読む人は、言葉に力があることを知っている。心を削る物言いや、注意を擦り減らせるテロップのダメージ敏感だ。

だから、テレビを消して、SNSを閉じて、好きなものに没頭したくなる。そんな、自分を楽に、夢中に、解いてくれる本はなんだろうか? リアルに集まって話せない今だからこそ、ネットで交流してみよう。

もちろん、いつもどおり、本に限らず、映画やドラマやゲームなど、「いま読んでる/観てる/プレイしてる」作品もOKだ。

行けない旅を慰める『乙嫁語り』

俺得だったのが、友美さんご紹介の森薫『乙嫁語り』

聞けば、このGWに、中央アジアの旅を予定してたという。何百年も昔からあるブハラのサウナで蒸され、サマルカンドの家庭料理を習い、キルギスの草原を馬の背に揺られ、夜はユルト(遊牧民の天幕)で眠る旅を計画していたのが―――行けなくなった代わりに『乙嫁語り』を読み返しているとのこと。

『乙嫁語り』を未読という幸せな方向けに説明すると、これは、19世紀後半の中央アジア・シルクロードを舞台に、厳しい自然の中に生きる人々を描いたコミックだ。「乙嫁」(かわいいお嫁さん)というキーワードで、のんびりした生活からハラハラする活劇まで、ゆっくり、たっぷり楽しめる。

以前、[結婚は素晴らしい v.s. 結婚は人生の墓場] というテーマでスゴ本オフをしたのだが、そこで強力にプッシュされ、手に取って大正解だった。美しく、可笑しく、ときに愚かで、愛おしい人々の群像劇に、ほっこりしたり目を潤ませたり。

スゴ本オフ「結婚」より

Kekkon

そこで出てくる食べ物がめちゃめちゃ気になるんだ(私の偏見だが、本好きは食いしん坊と相場が決まっている)。巨大な鍋で皿を蓋代わり作る焼きメシや、キジの串焼きなど、あれ美味しそうだよねーと語っていたら、こんな記事を紹介される(このレスポンス、オンラインのいいところだね)。

[レッツ乙嫁クッキング~森薫と作るかんたんおいしい中央アジア料理]

これ、作者自身が、『乙嫁語り』に出てくる料理を再現するという企画。絵こそ描いたものの作るのは初めてらしいが……めちゃめちゃ美味そうやん! 特に鉄串にトリ肉刺して唐辛子振ってグリルするなんて最高やん。

さらに、物語の時代背景や地域の状況を解説したムック本『超解読 乙嫁語り ~中央アジア 探索騎行』を紹介してもらう。知らなかった! こんな素敵な解説本が出ているなんて。

さらにこれ、本で買うと1,980円なのに、kindle unlimitedなら無料という情報も教えてもらう(嬉々として借り出す、なんという俺得)。

まだある。『乙嫁語り』から派生して、メンバーから次々と出てくる本が繋がってゆく。

特に、『文明の十字路=中央アジアの歴史』(岩村忍、講談社学術文庫)が凄い。シルクロードを舞台に、アレクサンドロス大王とチンギス・ハーンの侵攻から、仏教・ゾロアスター教・マニ教・イスラムも行き交う中央アジアの雄大な歴史を一冊にしている。これは読む!

他にも、『興亡の世界史 東南アジア 多文明世界の発見』(石澤良昭、講談社学術文庫)や、『ウマ駆ける古代アジア』(川又正智、講談社選書メチエ)、『シルクロード全史』(王鉞、中央公論新社)、『イスラム飲酒紀行』(高野秀行、講談社文庫)など、積山がさらに高くなる。

アジア繋がりで教わったのが、[天空のヒマラヤ部族 決死の密着取材150日] という特番。テレビ朝日60周年記念で力作だったらしい。アマプラに出ないかなぁ……

心の在処が分かる『宇宙よりも遠い場所』

ズバピタさんが熱く紹介するのが、[宇宙よりも遠い場所] 、息子さんのオススメで見始めて、ドハマりしているという。「よりもい」かー! これ大好き。

「よりもい」、すなわち「宇宙よりも場所」を未見の幸せな方に紹介すると、女子高生たちが南極を目指すアニメ。平凡な女の子が、とあることをきっかけに、一歩踏み出す……

高校生が南極? なぜ? どうやって? という疑問に動かされ、コミカルだったりシリアスだったりする展開に振り回され、考証に裏付けられたリアルな描写を通じ、夢や友情、そして生きることを否が応でも考えさせられることになる。

わたし自身、後半のあるシーンで、やばいぐらい泣いた。ええトシこいたオッサンが、声を枯らして号泣したんだ。これ、感動したからとかというよりも、むしろ、自分の心の内側が、名づけえない感情で一杯になってあふれ出した結果が、涙になったんだと思う。

良いナイフを当てると、血が滲み痛いと感じる場所が「私の肉」であることが分かる。同じように、良いアニメを観ると、潮のように押し迫りで一杯になる場所が「私の心」であることが分かる。素晴らしいアニメは、心の在処を教えてくれる。

観てない人は幸せ者だと、わりと本気で思ってる。自分の心の在処を、ぜひ確かめてみて欲しい。

ウイルス感染症は、やっぱり気になる

状況が状況なだけに、ウイルスや感染症に関連する本も出てくる。

たとえば、『銃・病原菌・鉄』(ジャレド・ダイアモンド、草思社)。今の状況で再読すると、また違った味わいがあるという。確かに! 

本書は、地球規模の格差がなぜ生じたのか? という疑問を、遺伝学や進化生物学、地質学、行動生態学、疫学、言語学、文化人類学、技術史など膨大なアプローチから解こうとする。

昔これを読んだとき、説得力のある仮説が実証的に示され、とても面白いという印象だった。だが今読むと、人類と疫病がどのように付き合い、社会や生活デザインにどのように影響を与えたのか、という別の示唆が得られる。

また、ウイルス感染症根絶の歩みを解説する『ウイルスの脅威』(マイケル・オールドストーン、岩波書店)が紹介される。天然痘、黄熱、麻疹、ポリオ、エボラ、エイズ、インフルエンザなど、猛威をふるうウイルス感染症が、国境を変えてしまったこともあるという。

あるいは、『迷惑な進化』(シャロン・モアレム、NHK出版)も面白そうだ。なぜ病気の遺伝子がこれほど多くの人に受け継がれてしまったのか? という観点から、進化医学についてミステリを解くように解説してくれる本らしい。

わたしは、「進化」という言葉を気軽に使う。だが、人類が延々とやってきたことは、どこかに向かって「進み化ける」というよりも、状況の変化に「適応」しているだけなんだと思い知る。

文学に登場する疫病の話も出てくる。カミュの『ペスト』は有名すぎるのでスルーされ、ミッチェル『若草物語』や、スティーヴン・キング『ダークタワー』シリーズが紹介される。

考えてみると、疫病と文学の歴史も古い。確か『デカメロン』はペストを避けて引きこもった男女が語る猥談というふれこみだし、『フランケンシュタイン』も疫病のため疎開するシーンがあった(はず)。疫病で疎開と言えば、アイザック・ニュートンが万有引力のアイデアを閃いたのは疎開先のケンブリッジだった(はず)。

この辺りの、人類と疫病の長い付き合いは、『疫病と世界史』(ウィリアム・マクニール、中公文庫)を再読したくなる。自分で書いててなんだが、この辺りを読むと、かなり予言的なことを述べていたように思える。

本書では、疫病が人類を規定する様が語られる。人と疫病は、あるバランスの上で「共存共栄」してきたともいえる。WHOが天然痘の根絶宣言をしても、エボラ出血熱やSARSなど、新しい疫病が待ちかまえている。ヒトという、ウィルスにとって「肥沃な」場所がある限り、感染症は、人類にとっての基本的なパラメーターなのだ。

ちなみにこれ、Amazonでセドリ屋が高値をつけているけれど、リアル書店で山積みしているぞ。本は買いだめ推奨なので、要かつ急のお出かけ時に買い込むべし。

新しいことを始める=変化に適応する

面白い発見もある。

外に出られない→ネットやテレビ見て心を削る→本や映画に戻る……というパターンを繰り返しているのだが、この状況の変化を、もし利用するなら? という発想だ。

ずばりこれ、「新しいことを始めてみる」である。この際だから、やったことのない料理を始める人、ベランダを菜園にする人、犬を飼い始める人と、様々な「新しいこと」を教えてもらう。

私と同じだったのが、「新しく創作を始める」である。

今まで、読み専、ROM専だった。つまり、次から次へと物語を読むという立場だったのだが、今度は自分で書いてみよう、それも創作してみようというチャレンジだ。

そこで、『めんどくさがりなきみのための文章教室』(はやみねかおる、飛鳥新社)が紹介される。単純に文章テクニックを解説するだけでなく、「いかにその気にさせるか」という、モチベに火をつけるという点でも優秀らしい。

わたしも似たようなことを考えているので、同じ流れで『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと』(シド・フィールド、フィルムアート社)を紹介する。映画のシナリオ・物語を創作するメソッドが、これでもかと詰め込まれている。さらに、『ドキュメンタリー・ストーリーテリング―「クリエイティブ・ノンフィクション」の作り方』(シーラ・バーナード、フィルムアート社)が紹介される。

あと、短篇集に手を出すというのもいいかも。

わたしは、読んでも読んでも終わらない超弩級級に面白い『氷と炎の歌』(RRマーティン、ハヤカワ)を粛々と読んでいるのだが、小説読むにも体力が要る。もっと手軽に、さらっと読める短篇が紹介される。

たとえば、モームやオコナー、ボルヘスといった短篇の名手や、時代モノの五味康祐『秘剣・柳生連也斎』、あるいは、飯田茂実『一文物語集』が面白そう。スゴ本オフ [この短篇が好き] でおさらいして、再読するのもい良いかも。あるいは、積山リストに刺さっているルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』も短篇集だったっけ…… この際だから、新しい、知らないジャンルにも手を伸ばしてみよう。

人の優れた能力は、可塑性だと思う。

状況の変化に対し、過去の経験や知見を振り返りながら、上手いやり方を試行錯誤で見つける。これ、AI がどんなにもてはやされたとしても、ヒトに適わない所だと考える。自分の行動をメタに見て、ときには目的すらをも変えて、より「よい」と思われる選択肢を試す。

厄災であれなんであれ、「それ」が終わった後になって、その時していたことは「変化に適応すること」だったことに気づく。そして、その「変化に適応すること」とは、厄災の最中では、「新しいことを試みる」うちの一つの選択肢だったことに、過ぎ去った後になって気づくのだ。

オンラインでするオフ会は楽しい

他にも、様々なネタが紹介される。やすゆきさんの海外ドラマの話が面白い。米国のドラマは本当に玉石混交で、ダメはものは本当に酷いレベルらしい(そしてその数はかなりの割合を占める)。で、その中で最も優れた一握りだけが、邦訳されて日本で紹介される。

確かに、考えてみれば翻訳コストを払ってもペイできる見込みがないのなら、そもそも日本に入ってこないよなぁ、と思う。「日本のドラマは酷い、アメリカは最高」という人がいるが、それは輸入された上澄みだけしか知らないが故の発言なのかもしれぬ。

やはり、Webミーティングだと反応が早いし、「今開いている画面」を共有できるというメリットもある。本棚晒してみた反応も楽しい。Web呑み会も参加したことがあるが、楽しいね。

読書猿さんから「同じ本を読む人は遠くにいる」という寸鉄を教わったが、これは時代や場所を超えて、人は本で繋がれるという意味だ。この応用で、Webミーティングで同じ本を朗読したり、読み合う形式にしてもいいかもしれぬ。

今回はお試しで zoom でやってみたのだが、セキュリティリスクもあるらしい。zoom は、アカウント不要でURLを伝えればWeb会議ができるという優れモノなのだが、それはつまり、URLだけ分かればいくらでも入れてしまうリスクもある。Google ハングアウトも良いらしいので、試してみる。

いずれにせよ、いつものオフ会をオンラインでするのは新鮮だった。「それはオフ会ではないのでは?」というツッコミは正しい。だから、これは「スゴ本オフ」ではなく、今度からは、「スゴ本オン」として開催しよう。

こんな時だからこそ本を読もう。

 

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皮肉が分かる人・分からない人『アイロニーはなぜ伝わるのか?』

Irony

せっかくの休日。ゆっくりしたいのに、「ほら、お出かけ日和だよ!」と友人にピクニックに連れ出される。みるみるうちに曇ってきて、どしゃ降りになる。びしょ濡れでになりながら友人に、「ほんと、お出かけ日和だね!」と叫ぶ。

晴天を期待してピクニックに行ったのに、どしゃ降りの大雨という現実に見舞われる。この期待と現実の違いを際立たせるために、「お出かけ日和」なんて逆を言う。これがアイロニーだ。

アイロニーとは何か

この「期待」と「現実」を巧みに対比させ、あてこする構造から、アイロニーを解き明かしたのが『アイロニーはなぜ伝わるのか?』だ。

紹介される豊富な例を聞いていると、語られている言葉とは違う意味(意図)が飛び交っていることが分かる。「お出かけ日和」は分かりやすいが、小説やシナリオでは、かなり高度な「意図のやりとり」をしている。

これ、流行の機械学習では解析できないだろう。自然言語を形式的に解析して真偽や条件といった「意味」に置き換えるのではなく、その発話がどんな「意図」を含んでいるかを、会話の状況や話の流れから、構造的に汲み取るプロセスが必要だから。

これ、人間同士であっても難しい。アイロニーが洗練されるほど、その発話がどういう話の流れでなされているかが焦点になってくるから。気づかない人ならば、それがアイロニカルな文脈で語られているということすら分からないかもしれぬ。

反復によるアイロニー

たとえば、本書で紹介されているアントニーの演説だ。シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』からの引用だ。

その前に、野暮を承知で、この演説がなされている状況を説明させてもらう。

<状況>ローマ市民に人気のあるジュリアス・シーザー。その人気に不満を覚えるブルータスが暗殺を企み、シーザーを殺してしまう。シーザーの友人であったアントニーは、追悼の弁を表したい申し出る。そして、「暗殺を非難しない」という条件で、演説は許可されるのだが……

ここに私は、ブルータス、その他の諸君の許しをえて――
と言うのも、ブルータスは公明正大な人物であり
その他の諸君も公明正大の士であればこそだが――
こうしてシーザー追悼の辞をのべることになった。

シーザーは私にとって誠実公正な友人であった、
だがブルータスは彼が野心を抱いていたと言う、
そしてそのブルータスは公明正大な人物だ

シーザーは多くの捕虜をローマに連れ帰った、
その身代金はことごとく国庫に収められた、
このようなシーザーに野心の影が見えたろうか?
貧しいものが飢えに泣くときシーザーも涙を流した、
野心とはもっと冷酷なものでできているはずだ、
だがブルータスは彼が野心を抱いていたと言う、
そしてそのブルータスは公明正大な人物だ

諸君はみな、ルペルクスの祭日に目撃したろう、
私はシーザーに三たび王冠を献げた、それを
シーザーは三たび拒絶した。これが野心か?
だがブルータスは彼が野心を抱いていたと言う、
そして、もちろん、ブルータスは公明正大な人物だ

もちろんアントニーは、暗殺を非難することなく、シーザーに追悼の辞を捧げている。シーザーが残した功績や、野心なんて無いことが具体的に挙げられる一方で、「ブルータスは公明正大な人物だ」という言葉だけが繰り返される。

空虚な言葉を繰り返すことで、期待される「公明正大な人物であるブルータス像」に疑義が生じ、現実はそうではないことに、ローマ市民に気づいてもらう。アントニーの意図は恐ろしいほど伝わり、ローマを揺るがす大逆転が始まるのだが、それはまた別のお話。

前段の<状況>がないと、なぜ「ブルータスは公明正大」とわざわざ付け足すのだろう? ほめ殺し? という疑問で終わってしまうかもしれぬ。アントニーの演説の「意味」を知るのは難しくはないが、彼が伝えたい「意図」を汲むには、発話が置かれている状況が必要なのだ。

アイロニーが伝わらないアイロニー

そして、こうした状況が共有されていない場合、アイロニーが伝わらないというメタ・アイロニカルな話になる。

本書には無いが、次の発言なんて、わたしにとって、大変アイロニカルに聞こえる。だが、状況が共有されていないと、全く伝わらない。

ファクトに目を向けよう。
極度の貧困に暮らす人は、確実に減少している。
飢えた人々は、少なくなっている。
世の中は、良くなっているのだ。

これも、野暮を承知で説明する。

極度の貧困に暮らす人―――たとえば、戦争や災害で故郷を失い、難民キャンプで暮らしていた、餓死寸前の人たちだ。飢えた人たちはどうなったか? 死んだのだ。飢え死ぬ人は死んだからこそ、飢える人は居なくなった。生存バイアスを脇に置き、選択されたファクトでもって声高に語られれば語られるほど、その意図しないアイロニーに項垂れる他ない。

もっと分かりやすい例は、本書に出てくる。1970年ロンドン救済基金のポスターの標語だ。皮肉が効きすぎて刺さるぐらい。

飢えた人々のことは無視しよう、
そうすれば、そのうちいなくなるから。

おそらく、これでも気づかない人は気づけないだろう。だが、この意図に気づいた人は、自分の裡に価値の逆転が生じていることに気づき、次にどんな行動に移すべきか、言われるもなく分かるだろう(それこそが、ポスターの目的なのだ)。

本書の結論で、アイロニーとは、「期待」と「現実」の極小の虚構世界における、一種の「ごっこ遊び」と語られる。この「ごっこ遊び」を通じて意図が伝わるとき、価値観が裏返るような感覚が生じる。

小さいクスッと笑えるものから、世界を反転させるものまで、アイロニーが伝わる瞬間を楽しむ一冊。

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『わたしが知らないスゴ本は、 きっとあなたが読んでいる』という本を書いた

心を揺さぶり、頭にガツンと食らわせ、世界の解像度を上げる本は、確かにある。

読前と読後で自分を一変させる、すごい本(スゴ本)だ。本から得られた知は、行動を変え、習慣を変え、人生を変える。これホント、なぜならわたしの身に起きたことだから。そんな「人生を変える運命の一冊」は、実は何冊もある。

このブログは、そうした本を中心に紹介してきた。これに加え、どのように探し、どう読み、何を得て、どんな行動につなげたかを本にした。タイトルはブログと同じ、『わたしが知らないスゴ本は、 きっとあなたが読んでいる』だ。

ここには、あなたにとっての「運命の一冊」を見つける方法を書いた。あなただけのスゴ本と出会うパーフェクトガイドだ。3行でまとめると、こんな感じ。

  • 本を探すのではなく、人を探す方法
  • お財布に優しく(ここ重要)、スゴ本に出会い、見合い、結婚する方法
  • (良書なのは分かってるのに、なかなか読めない)運命の一冊をモノにする方法

自分のアンテナには限界がある。自分のアンテナ「だけ」を信じ、壁を築き穴を掘った奥で王様を気取る。そんな自分の限界に気づき、抜け出るためのやり方も書いた。自分に囚われた読書から自由になる方法だ。

付録もある。脳天を一撃する斧となるような劇薬小説やトラウマンガ(トラウマになるマンガ)を24冊紹介している。

読書は毒書だ。「危険な読書」といえば、BRUTUSが特集しているが、ヌルい。本当に危険な読書とは何かをお見せしよう。読み終えたら、吐き気や悪寒とともに、「私は生きてる! これが本でよかった」と強く感じること請け合う。

もっとスゴいのをご存じなら、ぜひ教えていただきたい。劇薬本に限らず、『スゴ本』の本や、このブログで紹介する本を聞いた上で、「それがスゴいなら、これは?」と言いたくなる作品だ。それは、あなただけが知っている。

なぜなら、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるのだから。

Sugohon

 

Amazonは、[ここ]をどうぞ。技術評論社は、[ここ]をどうぞ。公開時点(2002/02/22)で Kindle 版は無いけれど、出しますぞい。

 

第1章 本を探すな、人を探せ

 

運命の一冊を読んだ人を探す

  • 書店は「人を探す場」である
  • 「好き」があなたと重なる「人」こそが、あなたの知らないスゴ本を読んでいる
  • いい作家は、いい本を読んでいる
  • 雑誌の本の特集を押さえる
  • あなたが知らないスゴ本を読んでる「人」はネットにいる
  • 本を読まない人が買う「ベストセラー」を利用する
  • 読書会で「人」を探す
  • スゴ本オフで「人」を探す
  • グループ・ブック・ハンティングのすすめ
  • 探した人を追いかける

アウトプットすると人が見つかる

  • 「自分」の範囲なんてたかが知れているし、世界はもっと広くて深い
  • 単なる「よかった」は、何も言ってないに等しい

 

第2章 運命の一冊は、図書館にある

 

本屋は出会い系、図書館は見合い系

  • 書店に行く前に、気になる本をまとめて一手に取れる場所に行こう
  • 「あとで読む」は、あとで読まない
  • 直感は裏切ることがあるけれど、違和感は裏切らない
  • 運命の一冊は、千冊に一冊

図書館を使い倒す

  • 図書館に行こう、書棚を徘徊しよう
  • カウンターまわりをチェックしよう
  • 背表紙が斜めに歪んでいるのが「おもしろい本」
  • とにかく借りる、本に部屋の空気を吸わせる
  • 知りたいことを調べてもらう
  • コラム 「ネットで検索すれば」「本屋で探せば」では足りない
  • 積極的に自分を放置しよう
  • 図書館を身体化する

本は「買う」ものか

  • 「身銭を切ってこそ、本の目利きができる」の落とし穴
  • 「買っただけで満足した本の山」に埋もれて自己満足に浸っていないか?
  • 「本を手にして読む」というコストを支払うことを厭わない
  • 五万円の本を五千円で手に入れる方法
  • 本棚を無限にする方法

 

第3章 スゴ本を読むために

 

『本を読む本』で『本を読む本』を読む

  • 読書術は盗むもの
  • 「決まった読みかた」なんてない、けれど「うまい読みかた」はある
  • 分析読書とシントピカル読書
  • 『本を読む本』を批評する
  • 『本を読む本』に致命的に足りないもの
  • 「読む」ためには「読まない」選択肢が必要

遅い読書

  • 速読ができる人は遅読もできるが、逆は不可
  • 書き手の意図に沿うためにも、一定のリズムで読み進める
  • 再読・精読すべき一冊にたどり着くには、どうしても数が必要

速い読書

  • それは「読書」ではなく「見書」では?
  • 「あたり」を得るためには見書も有効

本を読まずに文学する「遠読」

  • 精読の限界を超えるには
  • 本はあらゆる関係性の結び目としてなりたつ

プロフェッショナルの読みかた『ナボコフのドン・キホーテ講義』

  • 「大ボリュームの古典を読み通すオレ様」までもこき下ろされる
  • 「現実らしさ」「物語らしさ」とはなにか

『読んでいない本について堂々と語る方法』そのものに隠された罠

  • 本書の「上っ面」
  • 本書の「裏面」と、トラップ
  • 読書とは何か――読書論
  • 読者とは何か――読者論
  • 書物とは何か――書物論
  • 最大のトラップ
  • もっと気楽に「読む」?

「なぜ小説を読むのか」を考えると、もっと小説がおもしろくなる

  • 一回一回の読みは、読み手の技量と創造性に対する挑戦『小説のストラテジー』
  • 鼻につくが、身にもつく小説の読み方指南『フランケンシュタイン』×『批評理論入門』
  • 小説家のバイブルは、読者のバイブルにもなる『小説の技巧』

だれかの読み方をマネする

  • 読み巧者を探す『半歩遅れの読書術』
  • 「読書はつねに編集的な行為だ」松岡正剛の読書術
  • すぐ効く本は、すぐ効かなくなる
  • 「棚差し」を見る技術
  • マーキング読書法
  • 「本は味わうものではなく、そこから情報を摂取するもの」立花隆の読書術
  • 読書は「競争」か?『つながる読書術』

「なぜ読むか」「読むとは何か」を考える

  • 「読むとは何か」への歴史視点『読書の文化史』
  • 同じ本を二度読むことはできない『読書礼讃』
  • 「そのときの自分を変えるような本」こそ読むべき『読書の歴史』
  • 『それでも、読書をやめない理由』は、世界に情報が溢れているから
  • 電子化できない読書体験とは『本から引き出された本』
  • いきなり古典に行く前に

 

第4章 書き方から学ぶ

 

文章読本・虎の巻

  • 人を説得するために、いかに書けばいいか『レトリックのすすめ』
  • マスターしたい12の文彩
  • 文字数よりもリズムが重要
  • レトリック読書案内
  • 事実と意見は分けて書け『理科系の作文技術』

おもしろい作品の「おもしろさ」はどこから来るのか

  • おもしろい漫画には「構造」がある『マンガの創り方』
  • 「書く技術」に精通すると、「読む技術」が上達する『小説作法ABC』
  • 解体することで、どのように物語られているかを理解する『キャラクター小説の作り方』

名文で言葉の「型」を練習する

  • ハート抉る寸鉄の蔵出し『名文どろぼう』
  • 一度読んだら、一生忘れられない言葉たち『すごい言葉』
  • 聞いた瞬間、心に届く名コピー集『胸からジャック』
  • スーパードライな箴言集『心にトゲ刺す200の花束』
  • 型を破るために、型を身に付けろ『ポケットに名言を』

 

第5章 よい本は、人生をよくする

 

人生を破壊する「怒り」から自由になる

  • 問題を抱えていると、本に呼ばれる
  • 怒りの本質を知る『怒らないこと』
  • 怒りの根っこには、「私が正しい」という思いが存在する
  • 怒りを「観る」
  • 『怒らないこと』を繰り返し実践する『怒らない練習』
  • 「怒り」は人類共通の悩み
  • 「怒り」を延期させる方法
  • 「私は何も間違ったことをしていない」という人のために
  • 読書で人生は変わる

子どもに「死」と「セックス」を教える

  • 「死とは何か」を教える『死を食べる』
  • 「死とどう向かい合うか」を伝える二冊
  • 「生」と「死」の漢字から学ぶ
  • 「セックスとは何か」を教える『ぼくどこからきたの?』

子育てはマニュアルに頼れ

  • 子育ての目的は「子どもを大人にすること」
  • 良い育児書、悪い育児書を見分ける方法
  • 子どもに幸せをどうやって教えるか『子どもへのまなざし』
  • 比較対象は「昔のわが子」であり、ほかの子ではない
  • 親のいうことは聞かないが、親のすることはマネをする『子どもを追いつめるお母さんの口癖』「なんでそんなことしたの?」ではなく「本当は、どうしたかったの?」『女の子が幸せになる子育て』

生きるとは食べること

  • ヒトは料理で進化した『火の賜物』
  • 人は脳で食べている『味わいの認知科学』
  • 料理の常識を変える『料理と科学のおいしい出会い』
  • 「おいしい」はだませる『食品偽装の歴史』
  •  真剣に食べる=真剣に生きる

「正しい死に方」を考える

  • ピンピンコロリ=「良い死」?
  • 「良い死」「悪い死」とは『現代の死に方』
  • 医者は、自分に対してやってほしくない医療を、患者に対しておこなっている
  • 「寝たきり老人」が日本にはいて、欧米にはいない理由『欧米に寝たきり老人はいない』
  • ポルスト(POLST)というデスハッキング
  • 先生ご自身がこうなられたら、どういう処置を望みますか0『医者には絶対書けない幸せな死に方』
  • 生き地獄ならぬ長生き地獄『死ねない老人』
  • 「安楽死」の値段『安楽死・尊厳死の現在』
  • 「死ぬ義務」が発生する恐れ
  • 死をハッピーエンドにするために

二〇年前の自分に読ませたい珠玉の一二冊

  • 辛いときに寄り添ってくれる『なぜ私だけが苦しむのか』
  • 人類の叡智を結集した一生モノ『アイデア大全』
  • あらゆる問題は既に検討されている『問題解決大全』
  • 親になったら絶対に読みたい『子どもへのまなざし』
  • 自分に嘘を吐くのをやめる『自分の小さな「箱」から脱出する方法』
  • 世の中の仕掛けを知る『プロパガンダ』
  • 料理は自由であることを教えてくれるバイブル『檀流クッキング』
  • 自分の人生を殖やす『ストーナー』
  • 「世界をつかむ」喜びを味わう『銃・病原菌・鉄』
  • 人生の手遅れ感の予行演習『タタール人の砂漠』
  • 結婚が捗る『アンナ・カレーニナ』
  • 最高峰の小説で、濃厚かつ強烈な体験を味わう『カラマーゾフの兄弟』

 

特別付録 禁断の劇薬小説

 

LEVEL 1

  トルストイ 『イワン・イリイチの死』など11冊

LEVEL 2

  ケッチャム 『隣の家の少女』など7冊

LEVEL 3

  サド 『ジェローム神父』など6冊

 

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すべての歴史は現代史である『日本近現代史講義』

Nihonkingendai

これは面白かった! 第一線の歴史学者による14講義。

「歴史の本」というと、教養マウンティングのWikipediaコピペか、イデオロギーまみれのチェリーピッキングが多いように見える。そんな中、歴史学者による実証的な手ほどきはありがたい。

過去を振り返るとき、わたしがよくやる誤りは、いま分かっている情報で判定しようとする姿勢だ。

たとえば、1941年のアメリカに対し、開戦を踏み切ったことについて。原油の依存先であり、圧倒的な国力差であるにもかかわらず、なぜ戦いを挑んだのか?

認知バイアスから見た対米開戦の理由

敗戦という事実から、それを「愚かな行為」と判断するのはたやすい。また「軍部の独走」など分かりやすい悪者を吊るし上げて思考停止するのもたやすい。しかし、そうした予断で向かってしまうと、貴重な歴史の証言から得られるものは少ないだろう。

そんなわたしの予断を、本書の第8章「南進と対米開戦」(森山優)が啓いてくれた。

日中戦争の泥沼化に伴い、態度を硬化する英米との対立解消に向けて、当時の日本には3つの道があったという。

  1. 武力で蘭印の資源地帯を占領する(南進)
  2. 外交交渉で英米の禁輸解除にこぎつける
  3. 何もせず事態の推移に任せる(臥薪嘗胆)

「1」は日本への資源輸送ルートにフィリピンとグアム(すなわち米領)にさらすリスクがあり、アメリカからの攻撃を受けるリスクが最大化する。「2」は中国からの撤兵問題で大幅譲歩が前提であり、国内の反発が必至になる。そして「3」の場合、石油が数年で枯渇して、そこで攻められれば抵抗もできない。

1945年を知っているわたしからすると、臥薪嘗胆の「3」がベターに見える。だが後知恵にすぎぬ。なぜ「3」でなかったのか?

それを選ぶと、「損を確定してしまう」ことになるからだ。臥薪嘗胆は、明るい展望がない。石油が枯渇していく状況で、「あの時だったら戦えたはず」と非難される可能性すらある。

一方、外交と戦争は、わずかでも希望を与えてくれる選択肢だったという(たとえ、甘い見通しと粉飾に満ちた数字で彩られていたとしても)。

「追い詰められると一発逆転に賭けたくなる」発想は、プロスペクト理論と呼ばれる。いわゆる損切りによりマイナスの継続を止めるより、大きなリスクを負ってでも、勝利を掴もうとする。さらに、この発想を後押しするエビデンスを過大に評価し、損切りを過小に見たがるバイアスが生じる。

確かに、当時の日本は「3」を選ばなかった。そして、それは誤りだった。だが、その理由を、私たちとは異質な思考様式を持つ人による愚かな選択と片づけるのは、もっと誤りだろう。

歴史認識の難しさと歴史認識「問題」の歴史化

歴史認識の難しさを垣間見る小論もある。

歴史は、すでに起こった過去のことだから「確定している」と考える人がいる。過去は変えられないから、教科書は一つしかない、という考え方だ。

だが、過去を振り返るとき、どこから眺め、何に焦点を当てるかによって、描かれる濃淡が変わる。歴史をどのように記述するかは、過去を振り返るそれぞれの時代の状況や立場が色濃く反映されるからだ。「すべての歴史は現代史である」という言葉が意味するものは、まさにそれだ。

この難しさは、序章「令和から見た日本近現代史」(山内昌之)によく見える。日中歴史共同研究における南京大虐殺の事例が紹介されている。

山内氏自身も参加した研究で、日本側の委員は、死者数について20万人を上限とし、4万人説や2万人説もあると諸学説を紹介する一方、中国側委員は一致して30万人以上だと断定して譲らなかったという。

山内氏は、大躍進や文化大革命、天安門事件での膨大な死者数が公式発表されていないことに触れ、こう述べる。

歴史による同胞の悲運や実数さえ公表していない国が、南京事件など特定の歴史事象について数字を明快に示すのは、歴史を史実性ではなく政治性から見るからだ。

歴史家としてファクトに向き合おうとする恨み節が聞こえてくるが、こうした交渉も含めて「歴史」になるのだろう。

ある歴史認識が問題視されるとき、対象となる事象そのものだけでなく、なぜ問題視されるかも含め、把握したい。歴史認識「問題」について、日本が何をしてきたか、それがどう評価されたのかも含めて、歴史になってゆくのだから。歴史を政治性から見るとき/無視するとき、その行為自体がまた、歴史の審判に委ねられるよう、残しておきたい。

他にも日韓における歴史認識問題について、経済協力支援金の行方から見た論点や、韓国エリートが火消しに走らなくなった理由など、興味深い論考もある。

第一線の歴史家による、鋭い考察とバランス感覚に優れた講義録。

 

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戦争が子どもを怪物に変える『ペインティッド・バード』

戦争が子どもに襲いかかり、子どもが怪物に変わっていく話。人間が、いかに残酷になれるかを、嫌というほど教えてくれる。

あまりのグロさに「劇薬小説」として認定した『ペインテッド・バード』が映画になった。

Paint

©2019 ALL RIGHTS RESERVED SILVER SCREEN ČESKÁ TELEVIZE EDUARD & MILADA KUCERA DIRECTORY FILMS ROZHLAS A TELEVÍZIA SLOVENSKA CERTICON GROUP INNOGY PUBRES RICHARD KAUCKÝ

小説は、エグいのに目が離せない、手が離れない、強い吸引力をもつ。TIMES誌の「英語で書かれた小説ベスト100」に選ばれている。

読む地獄

戦争は大衆を襲う狂気だ。身寄りを失った10歳の男の子が向かう疎開先の人々は皆、本能に忠実だ。むきだしの情欲や嗜虐性が、目を逸らさせないように突きつけられる。目撃者は主人公なので、読むことは彼の苦痛を共有することになる。

体験と噂話と創作がないまぜになっており、露悪的な「グロテスク」さがカッコつきで迫る。日常から血みどろへ速やかにシフトする様子は、劇的というよりむしろ「劇薬的」。スプーンでくりぬかれた目玉が転がっていく場面は、忘れられないトラウマとなるだろう。白痴の女の膣口に、力いっぱい蹴りこまれた瓶が割れるくぐもった音は、ハッキリ耳に残るだろう。

読んだものが信じられない目を疑う描写に、口の中が酸っぱくなる。耳を塞ぎたくなる。

ペイティッド・バード=異端の鳥

ペインティッド・バード(彩色された鳥)は、最初は遊びとして、次はメタファーとしてくり返される。生け捕りにした鳥を赤や緑色に塗って、群れへ返す。鮮やかに彩色された鳥は、仲間の庇護を求めていくが、群れの鳥たちは「異端の鳥」として攻撃する。

その鳥は、なぜ仲間が襲ってくるか分からないまま引き裂かれ、墜落する。主人公は浅黒い肌、漆黒の瞳を持つ。金髪碧眼のドイツ兵がうようよいる戦地では、「反」ペインティッド・バードになる。

暴力に育てられた子どもは暴力を拠りどころとして生きる。自分が壊れないために、自分を欺く。同時代の戦時下をしたたかに生き抜く子どもの話だと、アゴタ・クリストフ『悪童日記』を思い出す。これは、狂った現実を生き抜くために、受け手である自身を捻じ曲げる話。辛い過去や悲惨な出来事は、それを引き受けるキャラクターを生み出し、そいつに担わせる。

この、過去を偽物にしないために、自分を嘘化するやり口は、『悪童日記』だとよく見通せる。続刊の『ふたりの証拠』『第三の嘘』と追うごとに、過去を否定する欺瞞が詳らかになるからね。『ペインティッド・バード』では、そんなあからさまな相対化はない。

だが、それぞれのエピソードごとに別々の「主人公」がいたのではないか、と考えたくなる。

なぜなら、あまりにも悲惨すぎるのだ。

苛烈な虐待を受け続けると、普通は死ぬ。氷点下の河に突き落とされ、浮かび上がるところを押し戻され呼吸できない状態が続くと、溺れ死ぬ。真冬の森に放置されると、飢え死ぬか凍え死ぬ。だが、彼は生き延びる。次の章では誰かに助けられるか、まるでそんなエピソードは無かったかのような顔で登場する。これは、様々な死に方をしていった子どもたちの顔を集めて、この「彼」ができあがったんじゃないかと。

「彼」は著者に通じる。あとがきで幾度も「これは小説だ」と念を押したって、どうしても出自から推察してしまう。この本を出したせいで、彼は祖国から拒絶される。「ナチスのせいにしていた虐殺が、実は地元農民の仕業だった」ことを全世界に暴いたからだ。冷戦のあおりを受けて、親ソ的プロパガンダと扱われたり、反東欧キャンペーンの急先鋒と見なされたり、あちこちからバッシングを受け、命まで狙われるようになる。

全米図書賞や合衆国ペンクラブ会長など、きらびやかな経歴をまとっている反面、物理的・精神的にも攻撃されるさまは、『ペインティッド・バード』そのもの。プロフィールの最後で著者の"墜落"を知って、うなだれる。

このすさまじい小説が、映画化される(公式サイト)。邦題は『異端の鳥』。観た人によると、どうやら原作に忠実にしているらしい。アタマおかしいんじゃないかと思うが、作った人をは極めて正気に狂気を徹底的に撮っている。

予告編でキツさは伝わるかもしれぬ。これ、心の底から、モノクロ作品で良かったと思う。カラーだったなら、わたしの琴線が焼き切れるだろう。

第76回ベネチア国際映画祭では、あまりの残酷描写が賛否を呼び、途中退場者が続出する一方、スタンディングオベーションが10分間続き、ユニセフ賞を受賞したという。

日本での公開は、2020年夏だ。

 

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宇宙の果てから素粒子の奥への旅『ズームイン・ユニバース』

極大の世界で「果てしない宇宙」というが、観測可能な宇宙には果てがある。それは、ここから1027m先になる。これより向こうは、観測できないため、あるとかないとか分からない。ゼロを並べるとこうだ。

1,000,000,000,000,000,000,000,000,000m

いっぽう、極小の世界だと、人類の想像の限界のサイズになる。それは、10-35m)の「場」に満ちた世界になる。これより奥は、理論で説明できる範囲外となる。ゼロを並べるとこうだ。

100,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000 分の1m

「いま・ここ」から究極にまで遠ざかった場所から、限りなく近づいた世界まで、極大~極小を一冊にまとめたのが本書だ。ページを開くと、宇宙の果てから出発し、1/10ずつスケールダウンしながら、近づいてゆく。

極大から極小への旅

最初は、すごいスピードだ。138億歳の宇宙―――膨張する時空構造から、超銀河団、銀河団を横目にぐんぐん近づいてゆき、がらんとした星間空間にある暗黒物質、ガス、チリを通り過ぎ、重力の井戸に捕まって降りて行く先は太陽系だ。その一つの岩石惑星・地球に向かい、とある大陸の、とある生物の背中に降り立つ。

そこからスピードを落としてゆき、細胞表面に付着している細菌に近づき、細菌の奥へ進んでゆき、その単細胞のDNAらせんをくぐり、組み込まれている炭素原子を通り過ぎ、その原子内の無の空間を延々と進み、ついに陽子の最深部にたどりつく。

旅路の途中で出会うものにまつわるトピックが面白い。宇宙の誕生について、暗黒物質について、宇宙と原子の深い関係について、光の本質について、系外惑星について、潮汐現象について、生物の主成分が炭素である理由、「場」とは何かについて学ぶことができる。

それぞれのビジュアルや解説は、最新の科学で裏付けされており、宇宙物理学から天文学、地球科学、分子生物学、量子論などの領域を「スケール」で縦断していくのが楽しい。

この、スケールを変えながら宇宙を旅するというアイデアは、たとえば『パワーズ・オブ・テン』(チャールズ&レイ・イームズ,1977)が有名だ。美しい写真とイラストが豊富だが、いかんせんデータが古くなっている。『ズームイン・ユニバース』は、最新情報をアップデートし、見せ方を工夫したものになる。

ぐんぐん進む旅路に身を任せてページをめくるのもいいが、興味を引いた記事を熟読した後、自分で調べ始めるのもいい。

1013→109「惑星の多彩な顔」

わたしの眼を惹いたのは、1013mあたりの、系外惑星(太陽系以外の惑星)のトピックだ。

近年に発見された惑星を推計した膨大なデータがビジュアライズされている。これを見ると、たいていの惑星系では、太陽系に比べて主星にかなり近い位置に存在していることが分かる。言い換えるなら、内よりに星が集まったものが多く、太陽系の惑星は、典型的でないようだ。

さらに、地球に似た生命活動が可能な(ハビタブル)惑星も数多く見つかっていることが示されている。昔からよく言われる「奇跡の惑星」は、実は「ありふれた奇跡」に近いのかも……と思えてくる。

おそらく、「神に選ばれし人が住むこの星」を特殊だと思いたい宗教的バイアスがあると考える。キリスト教の宗教観が、大なり小なり宇宙論に影響を与えており、そこから逃れるには、こうしたエビデンスの積み重ねが必要なのかも。この辺りの経緯は、『系外惑星と太陽系』(井田茂、岩波新書)のレビューで考察している。

10-6→10-10「ミクロの扉の向こう側」

面白いというより、不思議な感覚を抱いたのが、タンパク質と炭素の関係だ。

ヒトの体には、60兆個の細胞があり、それぞれ80億個のタンパク質を持っているといわれている。そして、1つの細胞のミクロコスモスを拡大してゆく。「巨大分子の部屋」と称する解説では、タンパク質を「巨大構造物」として扱っている。そして、リボゾームがタンパク質を合成する過程を、オートメーション化された無人工場ラインで製造されていくかのように説明する。

物質がいかに生物となっていくかの精妙なプロセスや品質管理は、『タンパク質の一生』(永田和宏、岩波新書)で知った。だが、この旅ではさらにその奥、なぜタンパク質(というか生物の基本要素)が炭素で構成されているかまで進んでゆく。

本書によると、炭素原子は、あらゆる種類の分子を作るのに都合よくできているという。量子の言葉で言うなら、炭素原子の周りのちょうどいい場所で価電子の存在確率が高くなることで、他の原子と結合できる(すなわち、化学結合が作られる)というのだ。

この「都合のいい」「ちょうどいい場所」がなぜそうなっているかは、説明されていない。偶然の所産として扱われているが、そこからは物理学(と、ひょっとすると哲学)の領域なのかもしれぬ。

10-16→10-18……10-35「「場」が満ちた世界」

学校で習った分子や原子は、まだイメージが湧く。問題はさらにその先、原子核の奥の陽子や中性子と、さらに複合粒子の向こう側へ行こうとすると、途端に複雑になる。

これは、たいへん面白い。なぜなら、物質をどんどん分けてゆき、その源となるシンプルな本質を確かめようとする科学が、(現時点では)矛盾した状況に行き当たっているからだ。

たとえば、「鉄とは何か」という問いに、鉄なる物体を分割してゆき、もうそれ以上分割できない(atom)極微の物質として、原子を定義づけた。それが、調べてみると原子核には陽子と中性子があり、さらにそれらは複数のクォークで構成されている。

そこからは素粒子の世界で、分割できないと定義したものなのに、さらに「素」が付けられる。クォークは6通りの「フレーバー」を持ち、基本的な力(電磁気力、重力、強い力、弱い力)の作用を受けるという。さらに、6種類のレプトンやフェルミ粒子、ボース粒子のモデルが紹介されている。物質の源を探す旅なのに、恐ろしく複雑な構造になっている。

実験や観測で得られる、複雑で確率的な結果を説明しようと、ひもの振動や時空の泡のモデルが研究されている。スケールが違うだけで、2,000年以上前に議論された atom と同じやり方だ。言い換えれば、人は2,000年で10-35mまで届いたとも言える。

1027mより先は、そもそも観測する手段を持っていないが、10-35mより奥は、どうなるか分からない。人にとって、宇宙には果てがあるけれど、存在の究極がどうなるかは、これからなのかも。

極大マクロから極小ミクロへ旅する一冊。

Zoomin

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