事故と事件は紙一重:松本清張「遭難」読書会

「山を愛する人に悪人はいない」というが、本当だろうか?

Anmei

松本清張が「遭難」を書いたきっかけは、この疑問だった。山に登る人は、自然の美しさと厳しさを知っており、同時に人間のちっぽけさも自覚している。そんな人が悪人のはずがない、と言われている。「岳人に悪人はいない」格言めいた言葉に対し、反発してできた作品がこれ。

当時は登山ブームで、猫も杓子も山を目指したという。その結果、遭難がしきりと新聞に出るようになった。遭難事故の記事を見るにつけ、その中には人間の作為的な遭難―――遭難事件―――も紛れ込んでいるのではないか、と疑ったのだ。遭難「事故」と「事件」の違いは区別がつかない。仮に、人為的な「過失致死」に値するようなものがあれば、人の作為と紙一重だろう。

そうして、「岳人が悪を成すならば」という前提でプロットを考え、動機をつくり、完璧を目指す。果たして事故に見せかけた犯罪は可能なのか? 登山の経験がない清張は、ベテランの案内で鹿島槍に登る。頂上付近で猛烈な霧が出て、迷いやすい道を見つけたとき、彼の頭の中で完全犯罪ができあがる

実際のところ、松本清張「遭難」は、いかにもありえそうな事故だという。思わぬ天候の悪化、地形を見誤った道迷い、撤退の判断ミス、地図の不所持……偶然の重なりはとても自然で、プロのお墨付きをもらったらしい。「事故」として片付けられても仕方ないほど完璧な遭難なのだ。

読書会では、完璧なルート図を見ながら、どのように登っていったかをおさらいする。写真で見ると、露岩の急斜面はかなり体力を使いそうだし、道迷いポイントは十分ありうる。ガスが出ると、地面どころか自分の身体も見えないくらいだというから、パニックになるもの当然かも。

重要なのは、作為と過失が紙一重であればあるほど、完璧になってしまう。松本清張が拓いた社会派ミステリでは、完全犯罪だと都合が悪い。必ず何らかの”ほつれ”や破綻の糸口を設けない限り、「ミステリ」にはならないから。

では、ミステリとして成立させるためにどうするか? 松本清張の腕の見せ所になる。何気ない風を装った表情の下で心理戦が展開される。淡々としながらも、だんだんと核心に迫るキーワードを散りばめる。そのさり気なさに、刑事コロンボを彷彿とさせるという指摘もある。

ただ、スマホが行き渡った現代では、この「遭難」は再現できない。GPSで現在地は分かるし、「たまたま」地図を持っていなかったというのもない。天候状況はプッシュ通知できるし、いざとなれば連絡すればいい。

それでも、バッテリー切れはありうる。寒い所だと消耗が激しいから、想定外の電池切れ→たまたま予備が無かった→天候悪化でソーラーも使えず→タイミング悪く道迷いのコンボはありうる。

他にも、異なる版によって描写が微妙に違っているという指摘があった。ラスト近く、「試掘した個所から十メートルくらい上方を」雪掻きする場面があるが、それは清張全集の誤りで、「一メートル」が正解になる(そんな上を掘る余裕はないはずだから)。新潮文庫とヤマケイ文庫では修正されている。

また、全集版では、救援隊を呼びに行った後、ある一行が開いており、これは何を意味するかが面白かった。時間の経過を表しているのか、一瞬だけ意識が飛んでいたのか考えると面白い。

さらに、ラストの一行にある「愉しげな」が議論を呼んだ。それまで感情を排した事実ベースの描写を続けてきたのに、なぜ、最後になってこれを入れたか? 読み手に「おや?」と思わせて、なおかつこのままでは終わらせないようにしている。

実はこれ、清張の他の作品と併せて考えると合点がゆく。ネタバレになるので、ここでは伏せるが、わたしがある指摘をしたら、「!」となった。こういうとき、全員が読んできててネタバレ全開で語れるのが嬉しい。

主催のササキさん、参加された皆さん、濃くて熱い読書会、ありがとうございました。

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君と僕の壊れた世界『沙耶の唄』

見るものすべてが汚辱にまみれ、腐臭をただよわせ、耳障りな音を立てている。そんな世界で「正常」なフリを強要され、できるだけ早く・なるべく楽に死ぬ方法を考えているとき、美しい少女に出会った―――

Sayanouta

グロゲーに見せかけた純愛に、何度も胸を潰されたが、ノベライズされたこれで、さらに古傷を抉られることになる。

手塚治虫『火の鳥』に、交通事故で脳に障害を負った男の話がある。絶望視されていたものの、大手術により普通の生活ができるようになる。しかし、それは見た目だけで、男は認識能力に重大な問題を抱えていた。男の目には、人が石ころのような無機物に、機械のロボットが美女に見えるように見える。だから男は、人ではなくロボットに恋をしてしまう。男はどうするか?

『沙耶の唄』は、そのクトゥルフ版になる。主人公の目には、世界が当たり前に見えない。人は腐った汁を滴らせる肉塊であり、壁や床はミミズと豚の内臓に埋め尽くされている。会話は成り立たず、キィキィ喚く音から類推するほかない。

グロ描写は『インスマウスの影』を彷彿とさせるが、異形の者を「異形」と片付けられないのが辛い。彼の目にどう見えていようとも、この世界で「正常」なのは彼らの方であり、異常なのは自分の方なのだから。

そんな壊れた世界で出会った、たった一人の存在が、沙耶だ。彼にとって、どれだけの救いとなっただろう。透きとおる肌と、しなやかな肢体を白いワンピースに包み、深夜の病院を徘徊する。聞けば、お父さんを探しているという。

彼は、藁にもすがる思いで、手を握らせてくれと懇願する。「変な人。そんなこと言い出したの、あなたが初めて」と言いながら差し出す白い手に、壊れ物を扱うように、そうっと、やさしく手を重ねる。

こうして始まる、淫猥で残酷で哀しい関係を描いたのが、『沙耶の唄』だ。彼は、おぞましい世界で、彼女を守り抜こうとする。『火の鳥』と似ているのは入口だけで、後は全く違う方向へ転がり出す。

そのエロとエグさは虚淵玄ならではの一級品。ノベライズは別の方だが、セリフはほぼ一緒で、ガジェットや言い回しをアップデートした程度だという。ただし最後は、3つあるエンディングと微妙に重ねながら、しかしどれにも合致しないようにまとめ上げている。

実は、わたしの最も好きなラストが回避されていた。引き返せなくなるあるところで、昔の暮らしに戻りたいか、と沙耶に聞かれるのだ。

 「取り戻したい」
 「もういらない」

普通なら、「もういらない」が選ばれる。壊れた世界で唯一「正常」で、心を寄せてくれる沙耶がいる。彼女さえいてくれれば、それでいい。そんな心情なら、昔の世界なんていらないだろう。物語としては、こちらが王道となる。

しかし、わたしはここで「取り戻したい」を選んだほうが好きだ。もちろん話は進まず、謎は解かれないまま、物語としてはバッドエンディングになる。だが、彼が選んだ白い世界のほうが、悲恋として好きだ(わたしが泣いたラストはこれだった)。

そして、わたしが泣かなかったほう、酸っぱい絶望がこみ上げてくる、おぞましいほうのラストが、きちんと本作に引き継がれている。

 

ゲームの雰囲気は以下から。スクリプトの部分は小説とほぼ同じなので、"試し読み”にもなる。ただし、かなりSAN値が削られるので、耐性なき方は行かないように。

そうそう、続編が準備されている。「第二歌 ノゾミノセカイ」という仮題で、あのラストからどんな未来なのか想像を絶する(というより想像したくない)が、怖いものみたさで覗いてみたい。

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『うたえ! エーリンナ』は控え目にいって最高であり、1巻完結の理由を調べたら涙で読めない

古代ギリシアの女学校を舞台に、女の子の友情と成長を描いた百合マンガ―――という噂で手にしたが、控え目に言って最高だ。

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詩人になることを夢みるエーリンナと、親友のバウキス。当代一の女詩人サッポーの女学校に入ることになる。乙女のたしなみや花嫁修業そっちのけで、歌や竪琴に夢中になる。

女性の自由が制限されていた時代で、それでも歌への熱い情熱を胸に、元気いっぱいのエーリンナに思わず微笑む。さらにツンデレ気味のバウキスとの友情が尊い。ふたりの関係は、これが象徴的だ。先輩の結婚式を見送って落ち込んでいるバウキスに、エーリンナは言う。

「29話 とこしえの思い出」より

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当時の結婚適齢期は15才、それまで女学校にいるわずかな時間のことを、自由時間(スコレー)と呼んでいる(後の「スクール」である)。エーリンナは13~4才くらいだから、本当に短く濃密な物語になっている。

劇中での同性愛は甘やかというよりも友情に近く、後に「サッフィスム(レズビアニズム)」と呼ばれる女性同士の愛情はあまり前面に出てこない。一方で、少年愛はしっかり演出されている。この濃淡は何だろう?

『サッフォー 詩と生涯』(沓掛良彦、水声社)で調べてみたところ、この考証は正しいようだ。

結局のところは、古代ギリシアにおいて、女性の間にも同性愛ないし同性愛的感情が存在したことを直截なかたちで物語る資料としては、ひとりサッフォーあるのみ、ということになる。
(中略)同性である少女たちへの激しい恋心を堂々と歌い上げたただひとりの女流詩人であったことは、その作品がひときわすぐれたものであっただけに人々の目をそばだたせ、驚きの目をもって見られたことであろう。
p.273 「サッフォー問題」より引用

古代ギリシャ人の同性愛は、男性同士のものであれば寛容だが、女性同士となるとほとんど言及されていない。ただし、サッフォーの作品だけが例外的に扱われている。その結果、サッフォーがその出身地であるレスボス島に因んでレズビアニズムの代名詞のようになっているのだ。

短く濃密な自由時間は、『うたえ! エーリンナ』で読むことができる。その一年後を描いたおまけが付いて、1巻ものとなっているのだが、完璧に終わってしまっている。続きも読みたいという声がAmazonレビューにもあるし、わたしもそう思う。

なぜ1巻で終わるのだろう?

疑問に思って、『ピエリアの薔薇』(沓掛良彦、平凡社)を手にする。ホメロスやサッポーのような大詩人になるのを夢見て、あれほど努力してきたのだから、ひょっとすると、エーリンナの歌が残っているのではないか?

ここからは『うたえ! エーリンナ』を読んでから

『ピエリアの薔薇』はギリシア詞華集選だ。

愛のよろこびと直截に歌いあげるものから、後朝の別れを惜しむもの、我が子の早すぎる死を悼むもの、さまざまな詩がある。官能エロス全開で、えっち大好き! と歌った傍から料金を求められて賢者になるとか、思わずクスっと笑ってしまう。女の尻の美しさをひたすら愛でる詩人とは、良い友達になれそうだ。

ソクラテスやプラトンを歌ったものもあるし、プラトン自身が死を嘆いたものもある(プラトンの本名が「アリストクレース」なのはこれで知った)。

黒澤明『生きる』で耳にした「命短し恋せよ乙女」まんまもある。団鬼六で目にした「一期は夢よ、ただ狂え」まんまもある。友と語らい、酒を受ける杯を讃える詩は、李白や杜甫を彷彿とさせる。

これは思い付きだが、オリエントの東西でこれほど似通っているのは、ざっくり2つの考え方ができる。

一つは、花や酒や人生をテーマにした言葉は、時代や場所を超えた普遍性を宿すという考え方。もう一つは、これらの歌を運んだ吟遊詩人の存在だ。洋の東西で兵や・商品の交流はあった。その中で「歌」が運ばれてきたのではないだろうか。

ヘレニズム文化の影響といえば、たとえばエンタシスの柱が思い浮かぶが、そういう物理的な波及ではなく、言語的・概念的な共通項を探すと、面白いかもしれない。たとえば「一期は夢よ、ただ狂え」の元は閑吟集と聞く。だから、閑吟集とギリシア詩歌の共通項を探すと、概念の影響が見られるのではないだろうか。

さて、『ピエリアの薔薇』の詩人列伝を見ると、その後のエーリンナが分かる。素晴らしい才能とひたむきな努力が結実し、女流詩人として名を残す。こうある。

  エーリンナ
  Erinna
  サッフォーと同時代(前6世紀はじめ)の女流詩人
  実際は前4世紀後半か3世紀初頭と推定される
  わずか19歳で夭折

あの後すぐ、エーリンナは病を得て死んでしまったんだな……『ピエリアの薔薇』には、エーリンナのうるわしき声を惜しみ、嘆く友たちの詩が残されている。さらに、エーリンナ自身の詩もある。タイトルは「婚儀のさなかにみまかりし友バウキスの死を悼みて」である。

婚儀のさなかにみまかりし友バウキスの死を悼みて
エーリンナ
これは花嫁バウキスが墓。
かなしみの涙あまたそそがれし
この碑のかたわら行きたもう人よ、
伝えてよ この言葉
地下なるかの冥王に、
「冥王さま、あなたさまは
 いとも妬み深き御方」と。
このうるわしき墓碑銘に
眼とむる人は悟らめ、
バウキスが酷き運命を。
その義父なる人の
乙女の屍焼く火を点じたまいしは、
そをともし晴れやかに
祝婚歌うたいことほぎし
かのたいまつもてなされしことを。
してまた、ヒュメナイオスさま、
あなたさまは響うるわしき祝婚歌を
傷ましき悼歌に
変えてしまわれたとは。

ここでもう一度、『うたえ! エーリンナ』を読みはじめると、あらゆるセリフが涙で読めなくなる。

命短し、うたえよ乙女。

 

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少女とロボットが行くディストピア・ロード『エレクトリック・ステイト』

巨大な建造物と歩行機械がたたずむなか、少女と黄色いロボットが行く。なぜか懐かしい異形に浸食された、アメリカ合衆国の終わり(始まり?)を眺める。

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少女とロボットの行く先で、HMD(ヘッドマウントディスプレイ)を装着した人だったものや、信じられないほど巨大な伝送路、自家製ドローンを見る。アメリカの田舎の住宅街にそびえる歩行要塞は、不思議と似あう。

「こちらの」アメリカでは、人体器官に接続されたHMDを経由して、遅延なしでドローンを操作する技術が発達している(いわば有機的なジョイコン)。

人の脳細胞どうしをつないで巨大な神経マトリックスを組み合わせ、そこから集合意識が生み出されている。さらに、集合意識が物理的な形態をとろうとして、ドローン操縦者(すなわち人)の生殖サイクルに干渉した未来が、これだ。

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画集と小説が融合した一冊

既視感あるディストピアは、様々な作品を思い出させる。集合意識が第三の主体を生みだす背景は『攻殻機動隊』を、二人が行く遠景は『The Last Of Us』やマッカーシーの『ザ・ロード』を、そして少女とロボットの関係性は『CLANNAD』の幻想世界を彷彿とさせる。

アメリカが舞台なのに、「エレクトリック・ステイツ(states)」ではなく、なぜステイト(state)なのかと考えて、ぞっとする。これ、状態のステイトであり、一つの国家「電気仕掛けの国家」としての意味も持つのだろう。

作者はシモン・ストーレンハーグ(Simon Stalenhag)。日常的な光景と不穏な異物を等価にした世界観で、ストーリー性の高い作品を描いている。

グラフィックの一部なら、[Simon Stalenhag Art Gallery]で見ることができるが、なぜ少女が旅をするのか、黄色いロボットは何なのか、そして、旅の果てには何が待っているのかは、小説を追ってほしい。翻訳が山形浩生氏だから購入したのだが、大正解でしたな。ハリウッドで映画化されるとのことだが、これも期待。

 

 

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『ニックス』はスゴ本

 狂おしいほど好き。

 めちゃくちゃ笑い、泣き、怒り、嘆き、途方にくれ、ハラハラ・オロオロ・ドキドキしながら夢中になって読んだ、ユーモアと切なさに満ちた最高の一冊。

Nix

面白さを物理的に証明する

 「面白さ」の表現として、ページターナーとか巻を措く能わずというけれど、この小説は物理的に証明することができる。図書館で借りてきたとき、本の背表紙が「歪んで」いるのが証拠だ。

 説明する。

 本を開くと、本の背は開いた方向へ引っ張られる。一定のあいだ引っ張られると、背表紙は、その方向に「くせ」が付く。そして、本を閉じると引っ張られた背は戻る。閉じている時間が長いと、ついた「くせ」は戻ろうとする。つまり、「引っ張られた時間=読んでいる時間」が長いほど、「くせ=歪み」が付いた背表紙となる。

 ちょっと待て。

 『ニックス』のような長い作品(2段700頁)だと、当然、読む時間も長くなるから、くせが付きやすいんじゃないの? その通り。だが、ポイントは「閉じると戻ろうとする」ところ。たとえ読んでる累計時間が長くても、閉じている時間も長ければ(つまり一気に読まれなければ)、背表紙の歪みは解消される。

 

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背表紙が歪んでいるのが分かるだろうか

一行目から引き込まれる

 歪んだ背表紙が約束した面白さは、一行目から報われる。こんなプロローグだ。

 もし、母が去ろうとしていることに気づいていたら、サミュエルはもっと注意を研ぎ澄ませていただろう。もっと用心深く耳を傾け、もっと細やかに様子をうかがい、もっと重要な何かを書き留めていただろう。違う行動を取り、違う言葉を語り、さらには違う人間になっていただろう。 そう、捨てるには忍びないという子になっていたかもしれなかった。

 母は家の中から少しずつ物を持ち出していく。あるときはフォークを一本、次の週はセーター、さらに次は詩集を一冊といった形で、自分の物を持ち出していく。一気に全部を持っていくのではなく、少しずつ自分の跡を消してゆく。

 そしてある朝、いなくなる。まだサミュエルが幼い頃、1988年の夏の朝に。

 それから数十年、書けない作家となったサミュエルのもとに知らせが入る―――母が州知事に暴行して逮捕されたという。SNSで炎上し、ワイドショーで騒ぎ立てられるなかで、サミュエルは自分を捨てた母を調べ始める。

 最初は復讐心に駆られていたが、次第に分かってくる母の半生は、サミュエルが長い間信じていたものとは、全く違う人生だった―――こんな感じで、母の過去、サミュエルの過去、そして現在と行ったり来たりしながら進んでゆく。

群盲撫象

 小説を貫くテーマは、エピグラフにもある、盲人が象を語る話だ。

 目の見えない人をおおぜい連れてきて、象に触らせる。ある者は鼻を撫で、別の者は耳を撫で、またある者は尾を撫でる……といった風に。そして、「象とは何か」を語らせたところ、てんでバラバラの答えになり、盲人たちは殴り合ったという話だ。物事や人物の一面だけを見て、それが全てだと理解してしまうことを戒める説話だが、SNSで噴き上がっている「盲人」を見るにつけ、今こそ広めたい教訓だ。

 しかし、2人の人生につきあってゆくと、ある重要な事実に気づく。

 それは、盲人と象の話において、見過ごされがちなのは、一人ひとりの説明は正しいという事実だ。一人ひとりは偽りの象を語っているわけでない。それぞれ偽りの「象」像によって隠された、「真の象」というものが存在するわけではない。

 そうではなく、それぞれにとっての「真の象」―――つまり、これこそが「真の象」だという思い込み―――によって隠された、一つの大きな象がいるだけなのだ。サミュエルの母は、さまざまな側面を持つ。生真面目で、怖がりで、でも大胆で、妻であり母であり女である。ある一面が真実だと確信することにより、別の、より大きな真実を覆い隠す。

それは結局、盲人と象の問題に帰着する。問題は彼らが目が見えないということではなかった―――彼らがあまりに早く探索をやめて、把握すべきより大きな真実があるということに気づかなかったということなのだ。

 では、それぞれの人生を支えている、より大きな真実は何か―――何度もやってくる物語のうねりの中でこれに気づくとき、ほとばしる感情を留めることができなくなる。涙とか感動というよりも、むしろ、彼女がどういう気持ちでいたかが堰を切ったようにわたしの身体を走り抜ける。

人を理解するとは

 人を理解するとは、(より大きな象が支えている)それぞれの真実の中で生きていることをひっくるめて、理解することなのだ。

 そして、この「人」は他人だけではない。

 これは、自分自身にも向けられる。あの日あのとき別の選択をしていればとか、異なる世界線上の「もう一人の自分」とか、ゲームのようにセーブ&ロードをやり直せれば……などと妄想する自分自身にとっても、同じことが言える。

 それぞれの世界線上の自分にとっての「真実」を、ただ一つの真実だと確信することにより、別の、選ばなかった方の真実が覆い隠される。人は、自分の物語にすっかり心を奪われて、もう一人の自分の物語の中では脇役に過ぎないという事実がわからなくなることがある

 すべてを相対化するシニカルなものではなく、それぞれが持ち寄った真実を理解するか否かの話だ。理解することは、憎悪することよりも、難しい。

 ジョン・アーヴィング絶賛との謳い文句で手にしたが、大当たり。平成最後の、最高の海外文学長編として、自信をもってお薦めする。

 

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今の中を生きるために歌がある『えーえんとくちから』

歌がうれしいのは、過去でもなく、未来でもなく、いまの、この瞬間に自分を合わせてくれるから。

Eientokuti

昔を後悔するとき、自分の何%かはその昔にいる。

将来を思い悩むとき、自分の何%かを将来に配分している。未来への心配事の大部分は実現しないし、過去の出来事は変えられないのに。つまり、変えることも実現することもない昨日と明日に、リソースを配分した結果、今日の自分がボヤけてしまう。

そこから自分を取り戻すために、歌が効く。

歌をよむ、なぞる、つぶやく、くちずさむ、その瞬間に集中することで、自分自身に焦点があわさる。車の運転に集中したり、皿洗いに専念したり、ひたすら畑仕事に没頭するのと同じ。わたしが詩を手にするのは、そういう機能を求めているから。

『えーえんとくちから』は、まさにこれ。

26歳で夭折した笹井宏之さんの詩集だ。透明度の高い、解放された空間をのぞき込むように、言葉と向き合える。その一句と「今の」自分だけになれる。結果、昨日の後悔や、明日の心配は、たとえ一時的にせよ考えずに済む。

なにこれ? とひと呼吸考えたあとでジワる。

表題のはコレ。

えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい

次々と読んでいって当たったのを何度も口にしてもいいし、一つ一つに自分なりのストーリーを考えたり固有名詞を付けてもいい。わたしの場合、眠れぬ夜に訥々とつぶやいてみると、ある種おまじないのようにはたらいてくれる。

胃のなかでくだもの死んでしまったら、
人ってときに墓なんですね

目から情報のように「読む」というよりも、むしろ空気や水を呑み込むように、身体の中に言葉を入れる。歌はクリアにするすると入り、胸の中でパッと熾ったり、耳の後ろをざわつかせたりする。記憶を刺激するだけでなく、肉体を伴った反応がきて面白い。

冬の野をことばの雨がおおうとき人はほんらい栞だと知る

あんまり「人」っぽくない詠み手がいるのが面白い。歌は人の専売特許ではないのだから、誰が詠んでもかまやしない。けれど、擬人でもなく、(人が比喩的に見る)なにかですらない。人の世界を早回しで眺めて見、人の言葉で語るならと前置きして、できあがった独り言のようだ。

よかったら絶望をしてくださいね
きちんとあとを追いますからね

どの句が意外に思えるかで、自分の想像性の縁を触られているようで、楽しい。言葉と遊んでいるとき、昨日の自分や、明日のわたしに悩むことなく、確かに、わたしは、今の中を生きている。
過去と未来の心配を避け、今の自分に焦点を合わせる。前中眺さん、この本を教えていただき、ありがとうございます。

 

 

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川上未映子・村上春樹の対談『みみずくは黄昏に飛びたつ』がタメになるのでまとめる

 物語を紡ぐ人、解く人にお薦め。

Mimizuku


 小説論としても小説家論としても面白いし、村上春樹の深いところを掘り出しているのもいい。村上春樹が語ってきたことは様々な本になっているが、同じく日本語で小説を書く川上未映子が、「作家∧読者」という立場からインタビューするのは珍しい。谷古宇さん、素晴らしい本を薦めていただき、ありがとうございます。

一冊で2^2度おいしい

 本を書く人は本を読む人でもある。それぞれの作家が書いてきた作品を、より深く読むための縁にもなるし、「物語とは」「文体とは」「悪とは」といったテーマについて、いま生きている作家からヒントをもらえる。なぜなら、2人の作家について、作者・読者の2つの立場からナマの声が書いてあるから(2^2度おいしい)。

 だから、小説を「読む人」にとってのヒントがあるだけでなく、「書く人」にとっても数多くの気づきが得られる。ここでは、「村上作品の本質」と「小説にとって共通的なヒント」を明らかにしながらまとめてみよう。

 また、わたしにとって、村上春樹の長編はもう充分で、新作は文体の変化を楽しむぐらいしか余地がないことがハッキリした。本人が告げる通り、構造やテーマ、キャラクターや描写を追求するつもりがなく、文体を向上するだけであれば、わたしが読むものはない。短編やエッセイ、インタビューやステートメントとしての作家だな。

村上作品の本質

 いきなり根幹から。「物語を書くとはどういうことか?」から始まるやりとりで語られている。小説を書くことを説明するとき、一軒の家で喩えており、次のようになる。



 まず、一階。みんながいる団らんの場所であり、楽しくて社会的で、共通の言葉でしゃべっている。言葉を通じて分かり合えるパブリックなところになる。

 次に、地下一階。暗い部屋があるが、一階(パブリックな場所)とつながっているところもあり、誰でも降りていける。いわゆる日本の私小説が扱っているのは、この地下一階で起きていることになる。いわゆる近代的自我みたいなのもここで、それぞれが抱えている地下一階を見せることで、共有されやすい面もある。

 そして、地下二階。ここに村上作品の本質がある。あらゆる民族や伝承に共通する神話的な「お話」を起こし、物語にして伝える。古くは宗教が担っていた、個人の経験を越えた「世界とはこういうもの」という感覚で、河合隼雄の『影の現象学』では「集合的無意識」と呼んでいる。村上春樹の長編は、集合的無意識を物語にしたものになる。

集合的無意識の奪い合い

 村上春樹の小説が世界中で読まれている理由は、「そういう人々の地下部分あたる意識に、物語がダイレクトに訴えかけているところがあるから」だという。これも、意図してやっているわけでないという。そこに意味やメタファーを考えて付けているわけではなく、「僕としてはそういう風にしか書けない」のだと言う。ここはマネできないところ。

 この集合的無意識について、川上が興味深い指摘をしている。フィクションというものは実際的な力を持ってしまうことがある。小説を読んで人を刺す、といった分かりやすいものから、投票行動における浮動票のベクトルといった見えにくいものまで、様々な形で現れる。そうした世界中の出来事が、物語による「みんなの無意識」の奪い合いの結果だというのである。

 以前、別の媒体で、「いま読んでる本は何ですか?」という質問に、『新釈雨月物語・新釈春雨物語』と答えたのを目にしたことがある。中国の古典を元にした怪奇譚の短編集で、上田秋成が書いたものを石川淳が新釈したものだ。人と人外のかかわりあいを描く異化が扱われており、こうした伝承にヒントを得て、物語の核にしているのではないだろうか。

 じっさい、『騎士団長殺し』には春雨物語の「二世の縁」が出てくる。土の中から即身成仏を掘り出す話で、そこを起点に小説を書き始めたと言っている。集合的無意識を「意識的に」探すなら、文化や言語に依存しない、人として普遍的な行為―――たとえば、性・食・死―――を、神話や伝説に見ようとするだろう。フレイザー『金枝篇』、イェンゼン『殺された女神』、最近だったら赤坂憲雄『性食考』あたりを参考にしてそうだ。

 そうした伝承を現代の話にパラフレーズすることで、集合的無意識に訴えかける。読者は読者で、「これは私のために書かれたのだ」とそこにシンボルやメタファーを都合よく解釈し、自分の個人的な体験や深読みを当てはめる。そういう「代入」を促すような仕掛けは、ここにあるのだ。

作家と読者の信用取引

 本人はノープランで小説を書いており(p.115)、メタファーをいちいち意識していない(p.130)とはっきり述べている。にもかかわらず、読者がついてきてくれるのは、作家と読者との間で、一種の信用取引が成り立っているからだという。

 村上長編の構造は、「失われたものを、もう一つの世界で取り戻す」に尽きる(p.176)。これを、ディテールやモチーフを変えながらも同じようなことを書いてきて、それでも読者がついてきてくれるのは、村上曰く、「けっして読者を悪いようにはしなかったから」

 これは、村上小説が優れているだけでなく、読者にも恵まれているといえる。それだけの信頼関係を、多数を相手に成り立たせてきたのは、素晴らしいことだと思う。

アイデアの出所と文章の規範

 村上作品と読者の win-win の関係は、再現不可能だろう。作品がどうのだけでなく、時代とマーケティングの結果でもあるのだから。では、書き手として見習うところはあるのか?

 ある。

 基本的な点としては、小説を書くアイデアは、誰しもが経験の内に持っていること。意識しようとしまいとネタはあるが、重要なのは、必要なときにそれが引き出せるか、ということにある。このインタビューでは、キャビネットと抽斗の比喩が使われている。ジェイムズ・ジョイスの「イマジネーションとは記憶のことだ」という言葉の通り。

 そして、文章の規範は2つある。

 一つは、比喩の構造。「比喩とは、意味性を浮き彫りにするための落差」だから、その落差の幅を想定→逆算することで、読み手をはっとさせることができる。村上はチャンドラーから学んだというが、あれ、計算してやってたのか。

 もう一つは、やりとりの「動き」。ゴーリキー『どん底』の会話を例にしているが、全部を語らないことで、伝わっている意味の呼気を感じ取れるところ。

  乞食だか巡礼だかが話しているんだけど、
  おまえ、俺の話、ちゃんと聞いてんのか
  って一人がいうと
  俺はつんぼじゃねえや
  と答える

 「聞こえているよ」と答えると、そこで会話は終わる。でもそれじゃドラマにならないから、「つんぼじゃねえや」と答える。そこに語られなかった意味のリズムが生まれる。リズムの重要性は、「優れたパーカッショニストは、一番大事な音を叩かない」と語られているが、この言い回しも好き(本当に一番大事な音を叩くか叩かないかは、もはや関係ないことに注意)。

 村上作品の面白さはここにあるし、上手いなぁと思わされるのもここ。落差に驚かされ、うまい比喩に唸らされ、絶妙な会話にニヤッとさせられる喜び。それがストーリーを駆動する原動力となっている。物語にビルトインされているから、そこだけ抜き出して「名言集」みたいにもできない。切り取ってしまうと干からびてしまう。

「書く」ことについて最も重要なこと

 「全部書く」こと。これに尽きる。 書き始めると、一日十枚書くという。何があっても、とにかく十枚書く。もちろん推敲や編集はするが、それは書くを遂行してから。小説の神様みたいな「何か」が降りて来てくれそうにない日でも、必ず十枚書く。

 では、「今日はここを書かないといけないけれど、ちょっと来そうにないな」という日はどうする? 川上が絶妙な質問を投げると、「そのへんの風景描写とかやってる(笑)」とのこと。

 これ、レイモンド・チャンドラーもやっていたと聞いたことがある。村上もチャンドラーに影響を受けたのかもしれぬ。これだ。
毎日、決まった時間に、タイプライターの前に座る
座っているあいだ、書いても書かなくてもよい
ただし、他のこと(本を読んだりとか)はしてはいけない
 ヤル気が出るまで待っていたら、仕事は終わらない。ヤル気を待っていたら、その日が時間切れとなってしまう。ヤル気がなくても手を動かしているうち、だんだん調子が出てくるというのは真だ。これはマネする。

女であることの性的な役割を担わされすぎている

 これ、常々思っていたけれど、真正面に質問したのはこれが初めてらしい。

 つまりこうだ。村上作品は、「失われたものを、もう一つの世界で取り戻す」つまり異化の物語であるが、その異化の入口ないし契機として、「女」が使われる。日常→非日常へと手を引いて連れていくためにセックスが持ち出されるというのだ。

 イザナギノミコトの黄泉国でもオデュッセウスの冥界行でもいいけれど、いわゆるカタバシス(冥界訪問譚)の導く存在として女が出てくる。それは「お約束」としていい。だが、そこに女が、「性的な役割を全うしていくだけの存在になってしまう」のはどうかというのだ。

 はっきり質問の形で見えると、思い当たる。性行為の担当・謎かけ担当といった女に役が割り当てられていると感じていた。だから、村上作品の女性は見えやすかった。川上は「女の人は、女の人自体として存在できない」と鋭い指摘をしている。

 これに対し村上は、登場人物のことも、深く書き込んでいないという。「インターフェイス(接面)が主な問題であって、その存在自体とか、重みとか、方向性はむしろ描きすぎないように意識している」(p.247)と躱している。

 ただし、例外として、『1Q84』は真正面から女性の登場人物に向き合った話だという。わたしは未読なので、村上ファンに尋ねてみたい。

リアル・ファンタジー

 結局のところ、リアリズムの手法でファンタジーを描いたのが村上長編ではないか? という予想が確認できた。

 書いてることは現実的にありえないことだが、書き方がリアリズムなので、荒唐無稽感が甚だしい。それでも「お話」が面白ければ付いて行けるが、どういうつもりで書いたんだろう? 何も考えていないのでは? といったん疑問を抱き始めると、読むのをやめるか、「そういうもの」として読むしかない(答え:何も考えていない)。

 そして、「そういうもの」と納得ずくで付き合っている幸せな読者がいることが、何よりも財産なのだろう。わたしは、そうした読者が掬い取った様々なメタファーや解釈を、聞くのが楽しい。

 読みの豊饒さに、あらためて驚くことができるのだから。

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就職活動する学生向けに6冊紹介したが、即効性のある「さわり」をまとめる

現在進行形で就活している方や、来年に控えている方に向けて、6冊の本を紹介した。

全文は以下のリンク先で読めるが、例によって長文になった。しつこく何度も書いているが、言葉は武器である。エントリーシートや面接で飛び交うのは言葉だ。だから、言葉の実弾を準備しよう。

[答えが見つからないときは、問題を変えてみよう。就活という問いに向き合うスゴ本6冊]

ここでは、即効性のある「さわり」と、強調し足りなかった点をまとめる。

世界は、誰かの仕事でできている

まず、即効性のあるところ。「明日面接なんだよ、本なんて読んでられっか!」という人はここだけ対策しよう。

まず、ジョージアのあれ。他人事を自分の仕事とする。一つ一つは小さいかもしれないが、そんな誰かの仕事のおかげで、世界ができている。私が「いい仕事」をすることが、結果的に世界をよくすることにつながる。アレンジ例は、リンク先の『自分の仕事をつくる』節を参照。

次は、レオナルド・ダ・ヴィンチが書いたエントリーシート。万能の天才と呼ばれた彼も、就活に苦労したらしい。今でも役立つ自己プレゼンの技術は、リンク先の『ルネサンスの世渡り術』の節。レオナルドの天才すぎる面接術は、斜め上すぎるので割愛したが、めちゃくちゃ面白いぞ。

言葉は盗め!

そして、これも何度も書いたが、オリジナリティ糞喰らえ。自分を深く知ろうとか、本当の自分を探そうとか、心の底からどうでもいい。自分の好きなものから探そう。

でも、どうやって?

その「探し方」に相当するものを4冊、「探す例」として2冊紹介した。この記事を読んで、「いいな!」と思ったら、言葉は盗め(ここ重要)。そして自分のモノにしろ。

盗んだ言葉はすぐ使えない。自分のモノにするために、まずストックを自分の「外側」から探す。言葉にはエピソードを付けろ。エピソードは「盛れ」。嘘をついてはいけないが、ホントのことを言わなくてもいい。盗むべき言葉は、相手に刺さる言葉だ(自己満足禁止)。どこから「探す」か、どこまで「盛る」か、何が「刺さる」か、その機微も書いた。

そして、面接担当に向けた実弾に仕立てて欲しい。あなたが悩んでいる問題は、先人が悩んできたものであり、その傾向と対策も揃っている。就職後も役立つやつばかりなので、末永く使い倒して欲しい。

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1巻完結ラノベの傑作『MONUMENT あるいは自分自身の怪物』

 妻が珍しく薦めてきたのがこれ。

Monument

物語・構成・キャラ、どれも素晴らしい

 妻は、わたしの3倍くらい読むのだが、小説は、不思議なほどに被らない。お互い好き勝手に読み散らかし、海外、国内、ジャンルも選り好みしないものの、同じ一冊にたどり着いていた、ということはあまりない。それだけ小説という世界が豊穣なのか、夫婦ともども先鋭的に選書してるのかは、ご想像にお任せする。

 そして、ごくたま~に、「これ、面白かったよ。あんたにも合いそう」というのが出てくる。長い付き合いだから、お互いの趣味嗜好は分かりすぎるほど分かっているから、面白さは保証されている。他の人はいざ知らず、少なくともわたしにとっては間違いないことは分かっている。「騙されたと思って読んでみ?」なんて駆け引きなしで読む。

 結論:面白かった! なんでこれが1巻完結なの!?

 そう、巧妙な伏線&物語構成、ストライクゾーンど真ん中のキャラクターによる、「物語を純粋に楽しむこと」と、もう古典名作と言っていい小説や映画を、上手くまぶした会話や描写による、「読み手の経験に呼応する面白さ」が、絶妙に混ざっている。この面白さ、もっと長く味わっていたいと思うものの、1巻で完璧に終わらせている。

 これ、やりようによっては、もっと長引かせることもできたはず。特殊能力を持つイケメン主人公(中身は暗い過去を持つゲス野郎)が、巨額の報酬に釣られ、魔法学校に潜入するために下工作をするのだが、完全にナナメ上の展開になるところで、丸々1巻を費やしてもいいはず。

 そして、魔法が組み込まれた「この世界」―――読み手であるわたしたちが住む歴史に、魔法という概念が併設された世界―――この説明の語りだけでも、優に1章使ってもいいのに、エピグラフでさらりと触れているだけ。

人類が火を熾すよりも先に、発火の魔術に目覚めた世界。
あらゆる理論や法則に、応用として個人の魔力資質の差異が組み込まれている世界。
ソクラテスもプラトンも、ベートーヴェンもモーツァルトも、フロイトもユングも、ヒトラーもスターリンも、手塚治虫も藤子・F・不二雄も存在していたけれど、魔法がある世界。

不思議な力が存在しても、結局は似たような歴史を歩んできた世界の物語。

 あまりにもさり気なく書いてあるので、魔法の位置づけだとか、魔法という法則に基づいた社会制度や規格、物理的制約などの説明が、軽く扱われた気になる。だって主人公やヒロインの能力、実質的に無双じゃないか! 「この世界」は、読み手であるわたしの世界とずいぶん違うのに、まるで同じ様相に見える。ハードSFが(そのSF内で通用する)科学的厳密さを追求しているように、魔法的厳密さも書き込んで欲しいものよ。

 いや、これはライトノベルだから、そこは聞かないお約束でしょう。などと、いったんは納得したのだが、まさか、このエピグラフが伏線だとは思ってもみなかった。

 主人公(ゲス野郎)の暗い過去、進行する事件が牽引する「謎」、ヒロインが抱える苦悩、そして魔法的厳密さの不在―――これらが、MONUMENTと呼ばれる魔法遺跡の探索の果てに交わるとき、一挙に、一気に、タイトルとともに分かるようになっている。

 カタルシスとカタストロフが同時に味わえる。Amazonレビューでネタバレかましているので注意して。

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『戦争の世界史 大図鑑』はスゴ本

 古来、歴史とは戦史を指す。人類の歴史が始まって以来、人は常に戦ってきた。

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これはスゴ本

 古代から現代まで、戦争の歴史を俯瞰する本書を眺めていると、どの時代であれ、必ずどこかで戦争が行われていることが分かる。戦争がない世界の方が例外であり、戦争が人間の常態なのだ。

 本書は、記録に残っている各戦争の年月日に始まり、原因・経過・結果・影響を概説している。さらに、決戦が行われた場所の地図や戦術構成、兵力、戦闘技術、死傷者数といった基礎史料を網羅している。

 実はこれ、「大図鑑」の通り巨大な図鑑だったのだが、そのコンパクト版が出たのだ。巨大版は、重い! デカい! ハードカバー! なのだが、いかんせん持ち運びに不適だし、何よりも腰にクる重さである。今回のコンパクト版は、迫力はほぼそのままで、持って出かけられるくらいにまで軽くなっているのが嬉しい。

 本書が優れているのは、徹底的なビジュアルにこだわっている点にある。オールカラーで構成されており、の多彩な写真、絵画、地図、図解などを駆使して、多角的かつ斬新な視点から、戦争を捉えようとしている。ここは、巨大版、コンパクト版と変わらない。大きさだけを縮小し、中身は完全に同じなのである。

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大きさ比べ

 さらに、年代も場所も広範囲にわたって概説しているため、どんどんページをめくっていくことで、「いつ」「どこで」を取っ払って、「どのように」人は争ったのかに着目することができる。そして、時代を超えた視点から、全く別の時代の戦闘どうしの類似点やアイデアが浮き彫りになり、見るたびに発見がある。

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中はこんなカンジ

 たとえば、優れた将軍は、時代を超えた特質を備えていると指摘されている。チンギス・ハン率いるモンゴル騎馬軍と、1940年春にフランスに侵攻した装甲師団との間に類似性を見出し、機動力が戦闘と決する事例として紹介されている。

 あるいは、敵軍包囲という古来の戦法は、古代ローマの世界でも第2次世界大戦でも等しく奏功しているが、5千年分の戦略図を眺めていると、戦いとは畢竟「どのように敵を包むか」のせめぎあいであり騙し合いであることが見えてくる。

テクノロジーが戦争を変える

 テクノロジーが変えた戦争も興味深い(ここが一番面白い)。

 たとえば、古代ローマとカルタゴが争ったポエニ戦争。初期はカルタゴが制海権を握っており、陸戦が本業のローマ軍は、海戦での経験が圧倒的に不足していた。ローマ軍はコルウスという鉤の付いた乗船橋を開発し、カルタゴ軍のガレー船が近づくと、ローマ軍はコルウスを落とし甲板にめり込ませ、それを渡って軍団兵が大挙して乗り込んだのだ。

 つまり、船を操る海戦を、ローマ軍が最も得意とする陸上に変えてしまったのだ。この件は、『ローマ人の物語 ハンニバル編』(塩野七生、新潮文庫)で予習していたが、本書で指摘されているのは、軍の凄さだけでなく、ローマ人の工学技術と発明の才能である。

 小火器(火打石式銃からAK47まで)の変遷は、歩兵の役割の変化の歴史であることも分かる。銃はいわゆる「飛び道具」だから、弓兵のような立場だと考えていた。だが、銃器の精度や射程距離が伸びるまでの間は、弓兵よりも槍兵のような立ち位置であったことが分かる。

 つまり、遠距離(弓)と至近距離(サーベルや刀)の間にある、ミドルレンジを槍兵が担っていたのだ。16世紀の欧州が境目で、マスケット銃で武装した歩兵が増えるに従って、槍兵の占める割合が低下したという。

ブレイクスルーが戦争を変える

 同時に、銃器に対する防御効果がなくなったため、甲冑の人気が衰えていったのも興味深い。テクノロジーが装備を変えた例だろう。16世紀の伝記作家ルイ・ド・ラ・トレモイユは、「戦争でこのような武器が使われるとしたら、騎士が武器を扱う腕前や、強さ、不屈の精神、規律はもはや何の役にも立たない」と嘆いたが、21世紀のドローンによる遠隔攻撃について、同じ嘆きが繰り返されていないだろうか。

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ナポレオン時代の小火器

 また、弾丸の製造技術が戦術そのものを変えた例として、ミニエー弾が紹介されている。1850年頃、精密機械製造技術と大量生産技術の発達によりもたらされたブレイクスルーである。銃身内に腔線(らせん状の溝)が刻まれており、弾丸が旋回することで、射程も精度も飛躍的に向上したのだ。

 ここは、『銃の科学』(かのよしのり著、サイエンス・アイ新書)でも同じ指摘があった。ナポレオンの時代では、太鼓に合わせて行進し、敵の前で密集隊形を組んでいた。だが、そんなことをしていたら、格好の的になる。そのため、戦列を作って圧倒するのではなく、散開方式が中心になったのだ。古代のファランクス(重装歩兵による密集陣形)方式を消したのは、ミニエー弾を大量に製造する技術だったのである。

土木が戦争を変える

 長い目で見ると、要塞や大型船の変化を促したのは、火薬兵器の技術開発であることが分かる。陸上戦における顕著な変化は、大砲が積極的に導入されるようになった1500年代以降になる。すなわち、このあたりから、城塞の設計思想が変わったというのだ。

 古代から中世にかけては、背の高い石造りの城塞により、敵の侵入を阻んでいた。これが、近代になると城壁は低い土塁となり、敵からの砲弾を遮ることが目的となる。さらに、稜堡(突出部)を塁壁前面に突き出し、大砲などの発射兵器を配置し、敵がどの方向から接近してきても対処るように構造を変えたのだ。

 いわゆる星形要塞が代表的なもので、突き出た稜堡により互いの死角を失くし、さらに稜堡同士から同一の敵を狙うことで十字砲火を実現している。戦争が土木を変えたこの例は、『土木と文明』(合田良実、鹿島出版)で学んだ。土木から人類史を眺めたスゴ本なり。

写真が戦争を変える

 アメリカ南北戦争あたりから、戦争写真が増えてくる。それまでは、戦争は絵画により描かれ、伝えられてきたが、近代から写真による生々しい姿を目にすることができる。戦争写真家の草分け、マシュー・プレイディによる映像は、戦争をロマン視していた大衆に、戦争の現実を突きつけた。

 ゲティスバーグでは8千人が死亡し、戦場の至る所に死体が転がった。死体は夏の猛暑でたちまち膨れ上がったが、撤去には何週間もかかったという。その写真が、そのまま掲載されている。この写真は、当時の大衆の厭戦気分にも影響したという。

 また、ベトナム戦争に報道記者として付き従ったカメラマンの写真が、アメリカ人の厭戦気分を煽り、最終的に戦争の終結に向けた世論の後押しとなったという。人類の愚行の歴史ともいえる写真は、何度も撮影され、報道されており、『世界を変えた100日』(ニック・ヤップ、ナショナル・ジオグラフィック)で見ることができる。

 人類は忘れっぽい。ややもすると、こうした歴史が「なかった」ことにされてしまう。わたしが知らなかった、もしくは忘れていた戦争が、ここでは隈なく見ることができる。

戦争が「敵」を変える

 世界大戦により、「敵」の定義が変化したという指摘は鋭い。

 戦争の目的が資源の奪い合いである局地的なものであれば、攻撃対象は敵の兵士になる。ところが、近現代における総力戦は、国家の全資源が動員されることになる。一国の経済と民間人が、丸ごと戦争努力に総動員されれば、必然的に工場や民間人が軍事行動の標的となる。結果、第2次大戦では、民間の死亡者数が、軍人死亡者数を、はるかに上回ることになったのである。

 「戦争」という言葉は一つだが、それが指し示している行為は、技術、文化、宗教の背景とともに変化していることが分かる。仮に「戦争」を、「戦闘員同士の殺し合い」と見なすならば、第2次大戦の死亡者数で、軍人を上回った民間人は、「なかった」ことにされる。また、仮に「戦争」を、「人間同士の大規模な殺し合い」と見なすならば、異教徒は人にあらずと殲滅された人々は、戦争による死者数にカウントされない。

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もちろん日本刀も

フィクション・ノンフィクションを繋げる資料として

 今まで読んできた本が、どんどん繋がってくるのが面白い。

 アレクサンドロスは有名だが、彼の死後、配下の将軍どうしで主導権争いの戦争が行われる。その戦争の主導者は、『ヒストリエ』(岩明均、講談社)にもう登場している。ゆっくりと物語の時間が進む『ヒストリエ』では、まだそこに至っていないため、一種のネタバレのように覗き見ることができる。

 また、『ガリア戦記』(カエサル、講談社学術文庫)が傑作であり第一級の史料であることは疑いないが、真実の中に利己的なプロパガンダも含まれている指摘もされている。

 さらに、デーン人のイングランド侵略におけるアシンドンの戦いでは、『ヴィンランド・サガ』(幸村誠、講談社)のクヌート王を、源平合戦の倶利伽羅峠の圧倒的な逆転攻勢では、古川日出男が翻訳した『平家物語』を思い出す。

 概観としての戦争の世界史なら、技芸としての戦争から、商業化・産業化された戦争までを語った『戦争の世界史』(ウイリアム・マクニール、中公文庫)や、『ヨーロッパ史における戦争』(マイケル・ハワード、中公文庫)に繋がる。これが現代になると、SFよりもSFな現実のルポルタージュ『ロボット兵士の戦争』(P.W.シンガー、NHK出版)になる。

「戦争の歴史」≒「人類の歴史」

 戦争は文明より古い。戦争の変化の歴史が、人類の歴史と、ぴったりと重なっている。人類の様々な創意工夫は、戦争によりきっかけを得、数多くのブレイクスルーにつながった。その変遷を本書でざっと見るだけでも、ブレイクスルーどうしの繋がり合いに目を見張るだろう。

 より深く人類を知るための一冊。

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