秘密の悩みは、バーチャル師匠に相談せよ

精神的にヤバいとき、どうするか? 自分ではどうしようもできず、かつ、誰にも相談できない悩みだったら、どうするか?

そんなとき、バーチャル師匠を召喚する。いわば仮想的な師匠である。

バーチャル師匠とは

あらかじめ「人生の師」を決めておき、困ったときに相談する。師から直接、教えを受けてなくてもいいし、生きている必要すらない。師を模範として慕い、学んでいればいい。それこそ、マスター・ヨーダを師としてもいい。私淑と呼ばれる方法で、『アイデア大全』(読書猿、フォレスト出版)から学んだ。

700年前の詩人ペトラルカも、私淑を実践した一人だ。
Peto

彼は詩人としての名声を博してはいたものの、うつ病に悩まされ、精神的危機に陥っていた。自己欺瞞による惨めさと、絶対に叶うことのない恋と、欲情が生み出したドロドロの愛憎関係に悩まされていた。

誰にも言えない悩みだから、脳内で相談する。彼にとっての、バーチャル師匠はアウグスティヌスだった。『告白』を読み込み、写本に書き込み、ついには脳内で擬人化できるまでに至る。

彼は、このバーチャル師匠向かって、赤裸々に心情を吐露する。アウグスティヌスは霊的な存在として立ち上がり、雄弁に弟子を叱る。『わが秘密』は、この師弟問答の対話体で成り立っている。

不幸だという嘆きには……

たとえば、自分のことを不幸だ、惨めだという嘆きには、「死」を考えよという。絶対確実なのは死ぬことだから、死をひたすら省察えよと説く。落ち込んでるとき、不吉なことを考えない方がよいのではと思うのだが、アウグスティヌスによると、人はみな死を遠くに見すぎだという。そして、愛や名誉といった欲望によって、死への省察が曇らされることが、苦悩の原因だというのだ。

なるほど、死が確定的なことは分かる。だが、「まだ」死なないつもりでいる限り、真にやりたいことが先送りされる。結果、目の前の欲望に引きずられ、現実とのFIT/GAPを感じるというわけか。自分の意思で、自分の不幸を選び取るという感覚は、確かにそうかも。

脳内アウグスティヌスは、キケロの言葉を引きつつ、「死ほど確かなものはなく、死の時ほど不確かなものはない」と述べる。それは明日どころか、次の瞬間だってありうる。これをありありと実感できるのなら、「まだ」死なないつもりから生じるさまざまな苦悩も消えることだろう。代わりに、限られた時のなかで真にやりたいこと(すべきこと)が何かを探し、それを実行しようとするに違いない。

悩みごとで自分を壊さないために

笑ってしまうのが、バーチャル師匠に嘘をつくこと。自分の脳内の話だから、嘘なんてつきようがない。にもかかわらず、あえて嘘を言い、論破され、考えを改める。本音の自分を守りつつ、建前の自分に折伏される経緯を記すことで、自己欺瞞を表面化させる。

本音の自分の「昔の女が忘れられないけど、今の女が愛おしい」という告白に、バーチャル師匠は叱責する。それを「愛」という名で呼ぶこと自体が、神の愛への冒涜になる。恋人どうしが互いに掻き立てる感情を「愛」と呼ぶことで、宗教的口実を与えているというのだ。

アウグスティヌスにとって愛とは、神の愛しかないのだから、同じ名で呼ぶなという建前は分かる。だが、本人は、あまりにも俗物的な告白をする。このコントラストが非常に面白いのだが、本音 vs 建前でキャラを分けるのは、自分を壊さないための多重人格なのかも。

さらに、異なる人格どうしの対話を記すことで客観視できる。脳内でこれをやると、だんだんすごい勢いになって収拾がつかなくなる。いったん「書く」ことで、正しいか否かに関係なく、確定させる。その上で吟味できるから、暴走を押さえることもできる。

ペトラルカは本書を誰にも見せず、生涯にわたって何度も手を加えたという(『わが秘密』というタイトルにした所以はこれ)。

私淑の実践をお試しあれ。

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女の子の匂いを追い求めた男の話『香水』

目はそむけることができる。
耳は塞ぐことができる。
だが、息を止め続け、匂いを拒むことはできない。
匂いはそのまま体内に取り込まれ、胸に問いかけ、即座に決まる。好悪、欲情、嫌悪、愛憎が、頭で考える前に決まってしまう。

匂いは、どんな意志より説得力をもち、感情や記憶を直接ゆさぶる。人は匂いから逃れられない。

だから、匂いを支配する者は、人を支配する。
そんなことができればだが。

これは、そんなことを目指した男の物語である。

Perfume

男の名は、ジャン=バティスト・グルヌイユ。

超人的な嗅覚をもち、あらゆる物体や場所を、においによって知り、識別し、記憶に刻みこむ。におい(匂い、臭い)に対し、異常なまでの執着心をもち、何万、何十万もの種類を貪欲に嗅ぎ分ける。彼に言わせると、世界はただ匂いで成り立っている。

舞台は18世紀のパリ。

通りは汚濁まみれ、垂れ流しの糞尿が鼻を刺す。魚と屠畜の腐臭と、鼻を背けたくなる疫病の膿んだ臭い、死体の山から漂ってくるものは、目にクる。小便とカビと経血の臭いが入り混じり、日常的に街を覆う。バリの香水が世界一なのは、パリが世界一臭い都市だったからなのかもしれぬ。

このパリで、グルヌイユは「匂い」でのし上がろうとする。

においという、精緻で的確で膨大な「語彙」をもつがゆえ、人とコミュニケートする「言葉」の貧弱さを低く見る(というか興味がない)。さらに、においを組み合わせ、新しいにおいを創造することができる。私たちが言葉を操るように、いや、それ以上に、グルヌイユはにおいを操り、意思を伝えることができる。しかも匂いは言葉より強い。私たちは、匂いを拒むことができないのだ。

そんな彼が、究極の匂いを持つ少女を嗅ぎつけてしまったら?

鋭敏すぎる嗅覚を持つグルヌイユにとって、世界一臭い都市パリは、端的にいって地獄である。誰と会っても、どこへ行っても、ひどい臭いから逃げられない。そんな彼にとって、馥郁たる香気を纏わせる少女が、どのように感じられるか。

本書は、「臭い」に限らず「匂い」の描写が素晴らしい。食欲をそそる香ばしさ、情欲を招き寄せる生々しいにおいと、眠りを誘う芳香。危険を発するきな臭さと、もう手遅れとなった血腥さ。あらゆる「におい」がここにある。そして、においは強烈であればあるほど儚い。ページを繰る手を止めて、思わずくんくんする。

目を凝らすように、耳を澄ますように、鼻に集中する。グルヌイユの運命をたどることで、わたしの嗅覚も鋭くなった気がする。

匂いは言葉より強い。彼が追い求めた究極のにおい、ぜひ一緒に嗅いでほしい。

 

 

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映画『ニューヨーク公共図書館』を観たら、未来の図書館が見える

フレデリック・ワイズマン監督『ニューヨーク公共図書館』を観てきた。ニューヨーク公共図書館(NYPL)そのものを主役とし、そこに集う人々を丹念に描いており、ものすごく贅沢な3時間が、あっという間だった。

図書館を超えた図書館の姿を眺めているうちに、「図書館とは何か?」についての具体的な回答と、その回答から導かれる未来の図書館が見えてきた。

Nypl

図書館とは何か

「図書館とは何か?」について持っているイメージは、この映画によって覆るかもしれない。静謐な空間で賢そうな人が本に没頭するといった静的な姿がある一方、大盛況の就職セミナーや講演会、パソコン教室、低所得者への支援といった動的な面が際立つ構成となっている。

そうした営みを見ているうちに、図書館とは、ただ本を集めて貸し出すだけの場所ではない、ということに気づく。

NYPLに集う人は、様々な「知りたい」ことを抱えてくる。面接でどうふるまえば合格できるか知りたい、ネットの情報を手に入れたい、移民局の資料から祖先をたどりたい……そうした「知りたい」についてサポートする、それが図書館なのだ。本を集めて提供するのは、図書館の目的ではなく、手段なのである。

「図書館とは何か?」について、本編で明かされている。プロジェクト会議で建築デザイナーが、「図書館は人だ」と断言する。図書館は、ただ本を集めた書庫ではない。知りたいことについて一生かけて学ぶ場所だという。

本を集めただけでは、「知りたいこと」へたどりつける保証はない。「検索すればいい」というが、どの言葉を検索すればいいか、みんなが分かっているとは限らない。さらに、キーワードがおぼつかないのであれば、検索結果が正しいのか、検索結果が全てなのかすら分からない(ソクラテスの探求のパラドクスやね)。

「知りたいこと」へたどりつくためには、学ぶ人と、学びを手助けする人がいる。図書館には本が沢山あるが、本だけがある場所ではない。たまたま本というメディアが多いだけで、その本質は、「知りたいこと」と人を結びつける場所が、図書館なのだ。

インターネットと図書館

そして、いまやネットの時代だ。

「知りたいこと」のかなりの部分は、インターネットで手に入る。いや、ネットですべて完結し、本なんて開く必要すらないかもしれぬ。あるいは、デジタル化された本を自宅から「借りる」ことだってできる。建物としての図書館や、物理的な本は、ネットに浸食され、不要になるのではないか?

この疑問に対し、NYPLは明確に応える。

まず、「知りたいこと」と人を結びつけることが図書館であるなら、その手助けとなる電子本やネットはどんどん活用すべし、というスタンスをとる。

幹部会議で予算の割り当てが象徴的だ。紙の本とデジタルの本、どちらに重点を置くべきかが議論になる。「デジタルの本の貸出は前期の300%です」という報告を受けて、デジタルライセンスの購入に大きく割り当てる。

さらに、「ニューヨークの300万人はデジタルの暗闇にいる。その人たちにインターネットアクセスを広げる」と宣言する。具体的には、図書館のネット端末の充実はもちろん、低所得者へルータを格安で貸し出すところまでする。ネットを最も必要としている人は、ネットに接続できない人なのだ。

この試みが政治家の目を引き、福祉対策として評価され、NYPLの予算が増額され、継続的に行われるようになる。図書館が社会を動かした事例である(という話だったはず……違ってたらご教示ください)。

未来の人が知りたいこと

「知りたいこと」と人を結びつける場所が図書館であるなら、未来の図書館が見えてくる。すなわち、未来の図書館は、未来の人が「知りたいこと」と人を結びつける場所になる。

では、未来の人が知りたいこととは何だろう?

すでに起きている未来としては、超「超高齢化社会」だ。

そこでは、医療情報へのニーズがさらに増えるだろう。しかし、「がんが消える」エセ医学の氾濫により、正確な医療情報へのアクセスが難しくなっている。本だけでなくネットも同様だ。高齢者やその家族は、膨大な情報を前に途方にくれた挙句、SEO対策ばっちりのイワシの頭を拝まされることになる。

現在、図書館のリファレンスでは、医療関係の相談は不可となっている。直接的な質問への回答は難しいとしても、ライブラリーという形で見せるのはできないだろうか?

たとえば、医療機関に委託することで、良質な医療情報を「本のリスト」として示す。あるいは、そうしたリストの本を集めた書棚を展示するのもいい。本だけでなく、信頼できるネット情報も選んでもらう。情報はどんどん古くなるため、一定期間で更新をかけてゆく。

つまり、図書館に行くことで、スクリーニング済の情報が手に入るのだ。NYPLのように、図書館が単独で活躍する必要はない。図書館は、医療機関と連携して、「知りたいこと」と人を結びつける場所として振舞う。個人が行っている例としては、[一般市民も使える医学図書館]がある。このポータル的な役割を担うのだ。

未来の図書館

上記は、わたしのジャストアイデアにすぎぬ。だが、未来の図書館の一つとして提案したい。

映画を観ることで、図書館の本質が見えてくる。「日本にはNYPLがない」と徒に嘆くのではなく、「図書館は、知りたいことと人を結びつける場所」という本質から考えてみよう。すると、いま抱えている「知りたいこと」に応じて、さまざまなアイデアが湧き出してくるに違いない。

それこそが、未来の図書館なのだ。

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リアル君の名は。おっさんが女の子の匂いを買ってきて身につけたら、たまらない背徳感を味わえた

「女の子の匂い」をご存じだろうか?

「臭い」ではなく「匂い」である。

よく言われる、せっけんの香りではない。デオドラントや柔軟剤、コンディショナー、乳液、ハンドクリーム、化粧水、オーラルケア、ファンデなどの香料、フレグランスでもない。それらは、女の子から漂ってくる様々な匂いを構成する要素にすぎない。

そうした、外づけの化合物ではなく、女の子自身から発する匂いだ。ココナッツミルクや白桃を想起させる、何とも言えない、「匂い」というより、「あの感じ」といえば分かるだろうか。心地よく、はっとする感じ、あるいは身体的にオンになる感覚である。

これは、わたしの変態性が生み出した妄想にすぎぬ、と考えていた。しかし、優れた先人たちの研鑽と研究の末、「女の子のいい匂い」とは、以下の物質であることが判明している。

 ・高級脂肪酸と安息香酸エストラジオール
 ・ラクトンC10、C11

では、女の子の匂いを再現することはできるのだろうか?

結論からいうと、可能だ。[女の子の匂いを再現する]で解説した方法で、脂肪酸やアルデヒトの「匂い」を再現することができる。しかし、一般には入手困難な試薬であったり、実験器具を要するため、手軽さに欠けるところがあった。

しかし、今回ご紹介するやり方では、673円(amazon価格)で女の子の匂いを再現できる。ロート製薬が開発した薬用ボディクレンズ(商品名:デオコ/DEOCO)を使う。

ロート製薬の研究によると、女性には、「若いころに特有の甘い匂い」が存在し、それは加齢とともに減少することが解明されている。匂いの正体は「ラクトンC10、C11」であり、10代後半~20代の女性に特有で、30代半ばから減少するという[若い女性の甘いニオイの正体]

デオコを使うことで、この甘い香りまとうことができるという。

で、お試しで使ってみた。

Deoco

結果は、まちがいなく女の子の匂いだったことを報告する。普通のボディソープとして使ったのだが、シャワーで流したあと、全身が女の子の匂いになる。

身体はくたびれたおっさんなのに、目を閉じると若い女の子の匂いに包まれている。おもわず自分を抱きしめ、ありもしない胸をまさぐる。心と体が入れ替わるリアル「君の名は。」か、あるいはプリキュアに変身したかのようで、非現実感がハンパない。

ただし、匂いだから慣れる。しばらくすると、分からなくなる。

ところが、問題はここからである。

時間が経つにつれ、身体についた匂い成分が、汗で揮発する。自分の体臭に、女の子の香りが混ざった新たな匂いがわきあがる。「自分の汗+女の子の匂い」に脳がバグり、背徳感がハンパない。

最も危険なのは、お布団にくるまっているとき。お布団のなかから、むんむんと女の子の匂いがする(おっさんの汗なのに!)。ぶっちゃけありえない非現実感と、人としてダメになる背徳感に打ちのめされる。

このイリュージョン、体感してほしい。
(効果は個人差があります)

 

 

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「語りえぬもの」とは何か?『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考 』

「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』は、この一文で終わっている。

ウィトゲンシュタインは、この一文を証明するために『論考』を書いた。
すなわち、この一文が分かることは、『論考』が分かることに等しい。

何度も挑戦し、挫折し、さまざまな回り道をしてきたが、古田徹也氏が著した『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』で、ようやくたどり着いた。やっと「分かった」と言えるようになった。

しかし、本当に「分かった」のか? 独りよがりに陥っていないか?

それを確かめるために、自分の言葉で説明しなおす。「語りえぬもの」とは何か? なぜ沈黙しなければならないのか? 「語りえぬもの」について、わたしの理解を確かめたい。

「語る」とは何か

まず、「語る」について語ろう。ここで言っている「語る」とは、何か意味のあることを言葉で表現することだ。たとえば、

  • あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。
  • ない僕達はまだ知らあの日の名前を花見た。

最初の文は、意味が通るが、二番目の文は何を言っているのか分からない。「語る」とは、最初の文の、何事か意味のあることを言っていることだ。

そして、この語ることができるものを、どんどん積み上げてゆく。

  • あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。(経験の記述)
  • 火星のオリュンポス山頂にiPadが刺さってる。(想像上の話)
  • 運動方程式はm=Faである。(科学的知見)

日本語だけではなく、英語でもドイツ語でも「語る」ことができる。どんなに突飛な話でも、肯定文でも否定文でも、順序を入れ替えても、意味が通るのであれば、「語る」ことはできる。まだ発見されていない物質や物理法則も、「語る」に入れていい。

そうやって、語ることができることで世界を埋め尽くしてゆく。でも、未来のことや発見されていないことなんて、何て呼べば良い?

Katarienu

「究極の言語」で語りつくす

なので、『論考』は、「究極の言語」を提案する。語りえるものを最大限に拡張するため、古今東西の(未来も含めた)あらゆるものを語りつくすことができる言語だ。これなら、すべてのことが「語りえる」のだろうか?

『論考』によると、否、になる。

なぜなら、世界を語りつくしたとしても、その「語り」を保証する対応づけそのものは、語ることができないから。「語り」を保証する対応づけとは、語りを構成する文字列(音声)が、まさにその対象である、とわたしたちが信じていることだ。

たとえば「あの花」という文字列から、それがあの日見たまさにあの花であることは想起できるが、その関係性(「あの花」=「あの夏の日に見た花」のイコールの部分)は、語ることができない。わたしたちは、「あの花」と言われて、あの夏に見た花を思い浮かべるのみである。

「語る」に先立ち成り立っているもの

「言葉とその対象に対応づけがあること」なんて、わたしたちは当たり前すぎて見過ごしてしまうかもしれない。だが、わたしたちが意味のあることを語るに先立ち、それを意味あるものにするために、言葉と対象に対応づけがある。

そして、その対応づけは、語ることができない。世界を埋め尽くす「語ることができるもの」の中で、わたしたちは想起する他ないのだ。

では、「語りえぬもの」とは、語りを保証する対応づけだけなのか?

「視界=世界」という思考実験

これも、否、になる。

『論考』では、独我論者を攻撃することで、「語りえぬもの」が見えてくる。独我論者とは、自分にとって存在していると確実に言えるのは、自分だけだという立場である。つまり、自分の目に映るものだけが全て(=世界)であり、それ以外は疑いうる、と主張する。

つまり、彼の目には世界はこうなっている(視界=世界)。

Me

『論考』では、独我論者は間違っていると指摘するが、「言おうとしていること」は正しいという。

まず、この絵は正しいかというと、間違っている。仮に、「視界=世界」としよう。すると、この「目」は何なのか? ということになる。独我論者の世界の中に、独我論者自身のの目は存在しない。しかし、彼の目は確かに存在する。だから、この絵は間違っている。

私の限界=世界の限界

しかし、独我論者が「言おうとしていること」は正しい。確実に存在するといえるのは、自分という主体が認識する範囲が限界であり、それを超えたものは、あるかないか分からないという考え方である。最も目がいい人でも、視界が届く範囲が世界になるのだ。

これを言葉で置き換えると、言葉が届く範囲が「語ることができる」範囲になる。語ることができる最大最長の範囲なら、究極の言語を持ってくればいい。その究極の言語をもってしても、届く範囲は、主体が認識する限界を超えることができない。

究極の言語でもって最大限に語りつくした世界が主体なのであり、その向こう側は、語ることができないのである。

『論考』には、他にも「語りえぬもの」が出てくるが、ここでは2つの方向から「語りえぬもの」にアプローチした。

ひとつは、「語りえる」ことを語り尽くす前に、語ることそのものを成立させている対応づけであり、もうひとつは、「語りえる」ことを語り尽くした後に、それでも届かない限界になる。

語りえることを語り始めるに先立つ静寂、あるいは、語りえることについて語り尽くした後の沈黙、これこそが、「語りえぬもの」になるのだ。

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「レンガ」がローマを作り、「鉄」がアメリカを作った『世界建築史15講』

アーチ建築技術の基礎をなすレンガは、土を素材とする。

土は、地上のどこにでもある。

だから、植民都市のいかなる場所でもローマを実装できた。

ローマが大帝国となった理由を、政治や軍事に求める人は多いが、「ローマとはレンガの帝国である」という着眼に、頭ガツンとやられた。

Sekaikentiku

植民都市に送り込まれたエンジニアが、そこの土を素材とし、レンガを作り、レンガを積み上げ神殿を建て、都市をつくった。道路が舗装され、水道が引かれ、インフラが整備された。紀元後には、石灰由来のセメントと切石を骨材としたコンクリートが発明され、文字通りローマ帝国の礎となった。

歴史を振り返るとき、一般に、国家や王朝の盛衰や、社会や文化の変遷を思い浮かべる。

しかし、そうしたフレームを捨て、「建築」という視点で見直すとどうなるか? これを成し遂げたのが本書になる。「建築の歴史は人類の歴史である」という立場のもと、15の講義+15の補講、合計30の視点から振り返ると、まるで異なる「世界史」が立ち上がってくる。

「鉄」がアメリカをつくった

たとえば、「大地」との関係性からとらえたアメリカ合衆国は、まったく別の一面を見せる。

広大な土地があるにもかかわらず、アメリカの建築は「上」を目指す。アメリカにおける超高層ビルの歴史を紐解きながら、高層ビルの建設を可能にした「鉄」に着眼する。

摩天楼を実現する鉄鋼はどこから来たのか?

本書では、シカゴとニューヨークの高層都市建設を例として、北米大陸における両都市の位置が重要だという。古生代レベルで振り返ると、北米大陸東海岸は、カレドニア造山地帯に重なる。カレドニア造山地帯は、縞状鉄鉱床を多く含み、そのまま鉄の生産量につがなる。

シカゴとニューヨークは、生産された鉄と、それを運ぶ交通網とセットで発達したという。鉄鉱床は19億年前には生成を終えており、新しい鉄鉱床はほとんどない。つまり両都市は、その地の利から、目指すべくして上を目指したのだ。

土地との関係性からマクロに眺めると、ローマがレンガの帝国であるように、アメリカは鉄の帝国ともいえる。

都市住宅システムとしての中庭式住居

いっぽう、ミクロの、「都市住宅システム」という観点から眺めると、環境や文化を横断して、驚くほどの普遍性を見ることができる。

人がそこに住み生活する「住宅」は、気候や地形、家族や生業、社会や信仰といった様々なものに影響される。

しかし、人口が密集する都市部に着目すると、ある共通的な特徴が見えてくる。都市部では、熱、光、音をどう制御するかが課題となる。様々な住宅モデルが考案されるが、最適解は「中庭式住居(コートヤードハウス)」になる。

中庭式住居は、都市の集住状態において、通風や自然光を確保する住居形式であり、古今東西の至る所に見られる。都市文明発祥の地とされるメソポタミアの都市遺構、エジプト文明、インダス文明のモエンジョ・ダーロ、中国の四合院やギリシャ・ローマの都市住居の基本も、中庭式住居というのだ。

言われてみれば、金沢を訪れた時に立ち寄った坪庭、愛知のリトルワールドでランチしたパティオ風の庭園、どれも「人が集まって住む場所」における、通風と採光を確保する空間だった。呼び名が違うだけで、住居システムという観点からすると、同じ役割を担っていたのだ。

ありがちな「世界史」観からの脱却

他にも様々な建築の視点から世界史を見る。

いわゆる、欧米を中心とした世界システム論すらも相対化してしまおうという野心的な面も備えている。「海外神社はいくつ作られたか?」という観点から日本の影響力だけでなく神社の機能性までも論じたり、「遊牧民の移動式住居(パオ)が、古代のドーム型建築の発生に一因した」論文など、それだけで一冊になる。どれも濃密かつユニークなり。

建築という面から、世界史が違って見えてくる一冊。

 

 

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料理は宗教である『食べたくなる本』

Tabetaku

料理は宗教である。教祖の数だけレシピがある。自分の「おいしい」に確信が持てなくなったとき、人は料理本を手にする。

1万8千円の揚げ油

著者は、『有元葉子の揚げもの』を実践する。教祖様のサイトで売っているオリーブオイルを使う(1万8千円のマルフーガ)。ポリフェノール値が高く、抗酸化作用が強いため、健康に良いなどと自分を納得させて、揚げ油として使う。

お金こそパワー。超高級油を鍋にタプンタプンと注ぐ際、ガソリンスタンドの課金メーターを連想するところで腹筋が耐えられなくなる。「おいしいものが食べたい」という動機より、「おいしいと信じたい」気持ちが勝っている。健康のために課金しているのか、信仰心を試すためなのか、既に分からなくなっている。

しかし、著者は正直だ(ここ惚れた)。

できあがった料理について、400字ぐらいかけて丁寧に説明しているが、まとめると「異質感は否めない」になる。「冷製マリネの高温バージョン」って、端的に言うと「おいしくない」に等しい。意地でもこの言葉を使わない矜持は惚れる。

『食べたくなる本』は、「料理本の本」というユニークなエッセイ集。楽しく読めて、食べたくなる。あるいは作ってみたくなる。ふつうのレシピ本やグルメ本よりも、料理家の個性や信条が打ち出された料理本が並んでおり、つくづく、料理とは宗教でありレシピとは儀式に見えてくる。

あさり 2kg のスパゲッティ

わたしも人のことを笑ってられない。第2章の「レシピ本のなかのありえない数値」で紹介されている、あさりのスパゲッティを信じたから。

 あさりのスパゲッティ(4人前)
 ・あさり    2kg
 ・にんにく   6片
 ・パセリ    1/2 刻む
 ・スパゲッティ 500~600g
 ・スパイス   黒コショウ

あさりって1パック200g ぐらいなのに、べらぼうな量である。著者はありえないと思いつつ、作ってみたところ、「やはりおいしい」と評す。「食卓についた全員の顔がぱっと明るくなる感じ」とまで言う。

量こそパワー。感動的なまでにおいしくするのは、あさりの「量」だというレシピを信じてみる。ちなみに、あさり 2kg ってこんなん。

Asari

我が家の結論は、「次は作らないでください」だった。あさりが強烈に主張しているだけで、強いことと「おいしい」は別。

嫁様が「どれだけ買ったの?」と訊いてきて、正直に答えたら「バカじゃないの!」と罵られた(罵倒はご褒美なので、これはこれでおいしい)。うま味調味料をガンガン使ったら不評だった過去を思い出す。「おいしい」は人それぞれ。

ちなみに、もっと狂気に寄せた『めしにしましょう』も振り切れてて良い。限りなくノンフィクションに近いフィクション料理漫画だ。

「おいしい」というより、強い料理。力こそパワー、言葉を失い、IQが下がる質量ともにやり過ぎる料理だ。雰囲気は[パル]で掴める。『めしにしましょう』の作者・小林銅蟲氏に『食べたくなる本』を薦めたいし、『食べたくなる本』の三浦哲哉氏に『めしにしましょう』を薦めたい。

パル「牡蠣チャウダー」より

Kaki

「おいしい」は人それぞれ

「おいしい」は人それぞれ、これが隠れたコンセプトになる。

さまざまな料理の本を通じて、自分自身の「おいしい」を見直す。その基準がなにを元に形成され、なぜそれを「おいしい」のかを比較すると、自分が囚われていた先入観が炙り出される。

同時に、その料理本の書き手が、どのような価値判断に凝り固まっているかも浮かんでくる。料理はライフスタイルや習慣になぞらえる人もいるが、価値判断が強烈であればあるほど宗教そのものだ。

著者は大学時代、丸元淑生に心酔し、「折伏」されていたという(あさり2kgも丸元レシピである)。料理本の通り、かつお節削りの刃を研ぐところから始め、鮮魚を求めて中央線沿いの卸売をしらみつぶしに見て回り、魚料理に没頭しては周囲から気味悪がられたという。

それがだんだん洗脳も解け、かつての師の粗も目についてくる。「これを食べるとあれに効く」健康効果を大仰に謳うフードファディズムを見つけて批判したり、電子レンジを危険視して使わなかった丸元を、「愚か」だと断ずるまでに至る。

本書の、オブラートに包んだ辛さの中に、そうした著者自身の変化がうかがい知れて愉しい。同じ人の中で、信仰の対象が変わるように、なにを「おいしい」と信じるかについても、時代や環境とともに変わっていく。

それぞれの料理本の「おいしい」と比較しながら、わたし自身の「おいしい」を相対化するのも楽しい一冊。

 

 

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マジック・リアリズムを『20世紀ラテンアメリカ短篇選』で体験する

Raten

次の一文には「マジック・リアリズム」が潜んでいる。

カーテンを開けた。夏もたけなわの八月、窓の向こうには、燃え立つ月世界のような土地が島の反対側まで広がっているのが見え、太陽は空で動きを止めていた。

『20世紀ラテンアメリカ短篇選』にあるガルシア=マルケス「フォルベス先生の幸福な夏」からの一文だ。あまりにも何気ないので、読み流してしまうかもしれない。

ここは、主人公が薄暗い浴室で弟とシャワーを浴びるシーンだ。薄気味悪い話をしていたので、カーテンを開けることで、視覚ばかりか気持ちも明るくなったことが分かる。

ここから重要。これ見ているのは主人公(兄)であるにもかかわらず、避暑地になっているくらいの大きな島(パンテレッリア島)の反対側まで一望できるはずがない。

パンテレッリア島

ところが、さっと開けた窓ごしに島の反対側まで広がっているのが見えるのは、窓の外へ「見」ている存在が漂い出て、そのまま上昇し、俯瞰している。まるで急上昇するドローンから空撮したかのような画を、さらっと描いている

アリストテレスのカタルシス効果

カーテンを開けるまでは、暗い場所で怖い話をしていたため、湿気や不安に囲まれている状況が読み手に伝染し、落ち着かない気分にさせている。そのカメラが(切り替えなしに)明るく燃え立つ世界に移るため、一気に胸のつかえがとれる。

つまり、アリストテレスのカタルシス効果を描写でこなしているのだ。

登場人物を鬱屈させて読み手に伝染させた後、重しを取り払うことでスッキリさせる。息苦しい接写から、いきなり開けた場所に放り出す。視覚的な緩急をつけ、緊張感を自在に出したり引っ込めたりできるのは、マルケス一流の話法である。

ただ、この技法そのものは、マジック・リアリズムとは限らない。欧米の幻想小説でもさんざ扱われている。「制約→開放」のプロセスは、小説や漫画・映画において、カットあたり情報量の疎密でコントロールする基本的な技法だから。

しかし、この「制約→開放」プロセスを、人でない存在に任せることが、「魔術的」だと言える。窓から漂い出たドローンから空撮したような視覚は、見えるはずもない。

「見えないもの」をどう扱うか

この、人でない存在、見えるはずもないものを「見る」となると、普通の幻想小説と、マジック・リアリズムは大きく異なる。

普通の幻想小説の場合、この「見えるはずもないもの」、すなわち不可視の「存在」を特定し、名付けようとする。幽霊や妖精的な「なにか」を設定しようとする。さらには、物語に「なにか」を組み込もうとする。

ところが、マジック・リアリズムのばあい、「なにか」という存在を必ずしも必要としない。もちろん精霊的な「なにか」をモチーフにする場合もあるが、必要条件ではないのだ。

窓の外へ漂い出て見る「なにか」。この主体は、ちょっと前までは「兄」だったはずなのに、いつの間にやらシームレスに「なにか」になっている。

主客の逆転、喰い合い、異なる時空の主体との重なりが、さらっと書かれており、気づかずに読み流した場合、一種サブリミナル効果のように働く。読み手は通り過ぎながら、言葉にできない違和感を抱き続ける

他にも、ドアの前を通る一瞬で、部屋の中を詳細に見て、あるものを「二十七」と数え上げるシーンも出てくるが、主体は「兄」なのに、そこには名付けようのない「なにか」が入り込んでいる(そして「なにか」は特別視も言及もされないし、兄は特別な能力を持っているわけでもない)。

つまり、後にカメラが主体を捉えたとき、ぜんぜん違った場所に置いてかれて愕然とするような、欧米ならそれだけで小説になる驚くべき現象が、ごく自然に受け入れられてしまう。

出来事の異常さよりも、異常の何気なさ

振り返ると異常なのに、それが淡々と描かれる。他にも、スーパーナチュラルなのに、男女の三角関係のドロドロを描いていたり、何の説明も無く(しかし確信をもって)酷い最期に至る話が続々とある。出来事の異常さそのものよりも、異常の何気なさのほうに不気味になる

この、何気ない異常の感覚こそ、マジック・リアリズムの本質だ。よく読むと明らかにおかしい。だが、登場人物や作者はおかしいと感じていないように描かれるのだ。

よくある「日常と非日常の境界が曖昧になる」というよりも、むしろ、もともと境界はないのだ。だから、小説に落とし込むときに生ずる、「異様の扱いが異常とされていない」ズレが、一種の人工的な眩暈を引き起こす。

ボルヘス、アレナス、カサ―レスに釣られて手を出したら、全部あたりのアンソロジー。岩波の短篇集はハズレなしというジンクスを再確認する。

人工的な眩暈を、おたのしみあれ。

 

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知の泥棒の歴史『図書館巡礼』

『図書館巡礼』は、書物と図書館について四方山話を集めた一冊だ。「本」を追い求める営みが真摯で、ひたむきであればあるほど、常軌を逸した書痴っぷりが伝わってきて、非常に楽しい。

Libra

知の泥棒の歴史

『図書館巡礼』の著者は気づいていなさそうだが、本書は、知の泥棒の歴史に見える。

口伝、写本、書物、ROM、媒体は異なれども、人は知を集めようとしてきた。知は必ずしも正当な方法で集められるとは限らない。ひそかに盗み出されたり、言葉巧みに持ち出されそのまま帰ってこなかったり、ときに権力者によって強制的に収奪されることもある。

さらに、知の集積所である図書館には、知識だけでなく、知を司る人や、それを複製する人、売り買いする人たちが集まる。中には不心得者がいて、写本を失敬し、売りさばいたり自分のモノにする人もいる。

こうした知の泥棒たちは、自分の行為をやましいと思っていない。むしろ、その書物の本当の価値を知っているのは自分だけであり、いまの状況からその書物を救い出しているとさえ言う。「ドケチ婆が貯め込んだ金は、苦学生の俺にふさわしい」というラスコーリニコフ的正当化がまかり通ってて面白い。

そして、興味深いことに、こうした泥棒たちのおかげで、結果的に、貴重な知識が消滅を免れたり、思わぬところから発掘されたり、まったく別の本として編纂されたという経緯を見ることができる。

口承を盗んだ『ソングライン』

たとえば、ブルース・チャトウィンの『ソングライン』。紀行文の形をしたフィクションとして名高く、モレスキンを一躍有名にしたのがこれだ。

ソングラインとは、アボリジニの天地創造の神話を歌った口承だ。オーストラリア全土を楽譜と見なし、そこに広がるあらゆるもの――鳥や、獣や、植物や、岩や、泉――の名前と、そこに織り込まれたストーリーを身振りとともに歌いあげることで、祖先が創造した世界を「再創造」していく。「人はなぜ放浪するのか」という問いへの、一つの応答としてスゴ本だと感じた[『ソングライン』はスゴ本]

しかし、『図書館巡礼』で紹介されるエピソードは不穏だ。ソングラインを象徴する聖なる彫物「チュリンガ」が持ち去られ、タブーに背いてソングラインの秘密が公開されたというのだ。これは、歴史のなかで悪名高い書物泥棒の略奪に匹敵すると批判されている。ソングラインは歌の伝承であり、物理的な「本」ではないが、それが暴露されるということは、盗みになるのだ。

本というモノに囚われていると、ハッとさせられる。チャトウィンが『ソングライン』を著わさなければ、わたしがアボリジニの口承を知ることはなかっただろう。

泥棒のおかげで、アレクサンドリア図書館の完全消滅は免れた

古代ローマの世界最大の図書館として名高いアレクサンドリア図書館。蔵書数は 10万巻とも 70万巻ともいわれ、著名な学者や詩人が招かれた。エラトステネスは、ここで地球の外周を99%まで正確に計算し、アルキメデスは、ここで円周率を99.9%の精度で試算した、と言われている。

図書館を中心に、書店やパピルスを扱う商人が集まり、一種の学園都市(ムセイオン)を形成していた。「アレクサンドリア図書館」とは、一つの箱モノの施設ではなく、知的商業圏を指していたのだろう(兜町で証券取引の集合みたいなメタファー)。

問題はここから。人が集まるということは、善人も悪人も集まるということ。なかでも、司書を買収して巻子本を持ち出させ、書き写した後、海賊版を売りさばいた商人もいた。もともと、アレクサンドリア図書館自体が、旅人から奪った本から写本を作り、蔵書を充実させてきたから、同じ穴の狢かもしれぬ。

アレクサンドリア図書館の写本は、大火により灰燼に帰したと伝えられるが、実はそうではないらしい。失われるはずだった貴重な写本は、商売上手な泥棒のおかげで海賊版が流通し、結果として現代まで残されたというのだ。データの冗長化は、どの時代も重要な課題なんだね。

最も偉大な本泥棒・ポッジョ

ここで登場するのがポッジョ。ルネサンス期のブックハンターで、古代ラテン語文献を見出したことで有名だ。下ネタまみれの猥談集『滑稽譚』も書いており、レオナルド・ダ・ヴィンチやJ.P.モルガンも所有していた。

たいへん興味深いのが、ブックハンターの論理だ。歴史的に重要かつ貴重な写本を「持ち出す」ために使われる理屈である。

つまりこうだ―――汚らわしい牢獄のような修道院で、その重要性を知らない修道士が、貴重な写本を小銭を稼いだり焚きつけ代わりに使っていた。人類最後の一冊が、まさに朽ち果てようとする寸前で、ホンモノが分かる愛書家が現れ、救出する―――というストーリー。

悲惨な状況に置かれた主人公が、世を捨てた名人に才能を見出され、幾たびもの困難を乗り越えた後、世界を救う英雄となる神話。ヒーローズ・ジャーニーの書物版として正当化されたストーリーやね。

実際のところ、ポッジョは賄賂を使い、言葉巧みに説き伏せて修道院に入り込んでいた。そこで「発見」した貴重な書物を失敬したことを隠し、正当化するために、修道院の荒廃ぶりをおおげさに書いたという(この「発見」は、アメリカ大陸「発見」に通じる)。

いっぽう、ポッジョを「ホンモノが分かる愛書家」として描いたのが、『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』(グリーンブラット、柏書房)である。「その一冊」とは、ルネサンスや科学革命を引き起こしたルクレティウス『物の本質について』のこと。

名馬も伯楽に見出さなければ名馬たり得ないかもしれぬ。だが、その一冊の「発見」の瞬間は、ヒーローズ・ジャーニーまんまの演出になっており、どこまで本当か想像しながら読むと楽しい。ポッジョを泥棒と断ずるのは容易いが、そのおかげで、いまルクレティウスが読めるのかもしれない。

本は破って使う

愛書家が見たら発狂するような人も出てくる。

面白いところは残しておいて、気に入らないページは破って捨てたエドワード・フィッツジェラルドや、良いと思った箇所だけを切り貼りし、数冊をまとめて抜粋版のような一冊に物理的に再編集したヴォルテールなどは、まだ良い方。

チャールズ・ダーウィンなんて、大きくて重い本は遠慮なく半分に切り取り、場所を節約するために必要なページだけを残して後は捨てた。さらに、見返しや余白部分に詳細な注釈を入れた。ダーウィンしてみれば、本はノートだったのだ。

そういえば、「本=ノート」という発想は、松岡正剛氏から教わった。詳細は[松岡正剛の読書術]にまとめたが、書かれてある内容から想起された思考をノート代わりに書き込むことで、本をリ・デザインするという発想は面白い。

また、読みたい所だけ切り取るという発想は、小松左京を思い出す。うろ覚えで恐縮だが、百科事典の必要な個所をハサミで切って、そのスクラップを持って新幹線に乗り込んだというエピソードを聞いたことがある。

これは、わたしも実践していた。快楽天の好きなトコだけを切り貼りして、(必要に応じ極細ペンで描きこみ)オリジナル快楽天を編集していた。極めて実用的な書物だったが、電子書籍となったいま、アクセシビリテイが極めて悪い。電子書籍の最大の弱点はこれ。本をモノとして扱えないがゆえ、再編集ができないところ。

電子書籍の未来を、CD-ROMとパピルスから占う

電子書籍の未来を占うエピソードが紹介されているのもいい。

マングェル『愛書家の楽園』の孫引きだが、電子書籍版「ドゥームズデイ・ブック」の話だ(わたしのレビューは[愛書家へのプレゼント『図書館 愛書家の楽園』])。「ドゥームズデイ・ブック」は、11世紀に作成されたイングランドの土地台帳のこと。BBCは1986年に、この電子書籍を製作した。

電子版「ドゥームズデイ・ブック」は、250万ポンドが費やされ、100万人以上の協力のもと、25万の地名、2万の地図、5万の写真、3千のデータセットと60分の動画が格納された。

16年後の2002年、その情報を読み出そうとしたが、できなかった。ディスクやCD-ROMの寿命はせいぜい10年、データを復旧させようとした試みは、上手く行かなかった。マングェルは、このエピソードを次の言葉で締めている。

それとは対照的に、およそ千年前、紙の上にインクで書かれたオリジナルの「ドゥームズデイ・ブック」はロンドン南西にあるキュー公文書館に完璧な状態で保存されており、いまでもはっきりと読むことができる

このエピソードを持ち出すと、電子書籍主義者は、「昔は記憶媒体が様々だったし記録方式もバラバラだった。いまはEPUBをベースにほぼ統一されてるからへーきへーき」と反論する。そんなときは、アレクサンドリア図書館の本が失われた、もう一つの理由を紹介している。

あの本どこへ行った?

アレクサンドリア図書館の大火について、ローマ皇帝が火を放ったから、異教徒が反乱したからと言われるが、火ではなく湿気が理由だという説もある。

そもそもパピルスは保存をする文書に向いていない。炎だけでなく湿度にも弱く、虫も食う。定期的な保全と複写を継続していかないと、あっさりと解体する。加えて河川デルタの湿潤な気候では、そのスピードも加速される。もちろん戦火による影響もあるだろうが、ため込むだけため込んで、出資元の代替わりにより、メンテや次世代への引継ぎを怠ったとにらんでいる。

メンテナンスや複製による、モノとしての冗長化コストが最も低いのは、印刷された本だ。さらに、増版により空間を超え、改版により時間をも超えることができる。

電子書籍「版」を作ることは冗長先を増やすメリットはあれども、電子書籍オンリーにするのは、仮想空間でアレクサンドリア図書館を作ることに等しい

電子書籍は、今後、もっと流行する。スマホやタブレットだけでなく、リビングのディスプレイで読んだり、オーディブルな形で流通するだろう。そして、十年ほど経過して、メディアを再生・流通する企業が吸収合併されたり倒産したちょっと後、きっとこう言われるだろう。

「あの本どこへ行った?」

そして、図書館を探すはず。あるいは、海賊版を扱っている書店に向かうかも。

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事故と事件は紙一重:松本清張「遭難」読書会

「山を愛する人に悪人はいない」というが、本当だろうか?

Anmei

松本清張が「遭難」を書いたきっかけは、この疑問だった。山に登る人は、自然の美しさと厳しさを知っており、同時に人間のちっぽけさも自覚している。そんな人が悪人のはずがない、と言われている。「岳人に悪人はいない」格言めいた言葉に対し、反発してできた作品がこれ。

当時は登山ブームで、猫も杓子も山を目指したという。その結果、遭難がしきりと新聞に出るようになった。遭難事故の記事を見るにつけ、その中には人間の作為的な遭難―――遭難事件―――も紛れ込んでいるのではないか、と疑ったのだ。遭難「事故」と「事件」の違いは区別がつかない。仮に、人為的な「過失致死」に値するようなものがあれば、人の作為と紙一重だろう。

そうして、「岳人が悪を成すならば」という前提でプロットを考え、動機をつくり、完璧を目指す。果たして事故に見せかけた犯罪は可能なのか? 登山の経験がない清張は、ベテランの案内で鹿島槍に登る。頂上付近で猛烈な霧が出て、迷いやすい道を見つけたとき、彼の頭の中で完全犯罪ができあがる

実際のところ、松本清張「遭難」は、いかにもありえそうな事故だという。思わぬ天候の悪化、地形を見誤った道迷い、撤退の判断ミス、地図の不所持……偶然の重なりはとても自然で、プロのお墨付きをもらったらしい。「事故」として片付けられても仕方ないほど完璧な遭難なのだ。

読書会では、完璧なルート図を見ながら、どのように登っていったかをおさらいする。写真で見ると、露岩の急斜面はかなり体力を使いそうだし、道迷いポイントは十分ありうる。ガスが出ると、地面どころか自分の身体も見えないくらいだというから、パニックになるもの当然かも。

重要なのは、作為と過失が紙一重であればあるほど、完璧になってしまう。松本清張が拓いた社会派ミステリでは、完全犯罪だと都合が悪い。必ず何らかの”ほつれ”や破綻の糸口を設けない限り、「ミステリ」にはならないから。

では、ミステリとして成立させるためにどうするか? 松本清張の腕の見せ所になる。何気ない風を装った表情の下で心理戦が展開される。淡々としながらも、だんだんと核心に迫るキーワードを散りばめる。そのさり気なさに、刑事コロンボを彷彿とさせるという指摘もある。

ただ、スマホが行き渡った現代では、この「遭難」は再現できない。GPSで現在地は分かるし、「たまたま」地図を持っていなかったというのもない。天候状況はプッシュ通知できるし、いざとなれば連絡すればいい。

それでも、バッテリー切れはありうる。寒い所だと消耗が激しいから、想定外の電池切れ→たまたま予備が無かった→天候悪化でソーラーも使えず→タイミング悪く道迷いのコンボはありうる。

他にも、異なる版によって描写が微妙に違っているという指摘があった。ラスト近く、「試掘した個所から十メートルくらい上方を」雪掻きする場面があるが、それは清張全集の誤りで、「一メートル」が正解になる(そんな上を掘る余裕はないはずだから)。新潮文庫とヤマケイ文庫では修正されている。

また、全集版では、救援隊を呼びに行った後、ある一行が開いており、これは何を意味するかが面白かった。時間の経過を表しているのか、一瞬だけ意識が飛んでいたのか考えると面白い。

さらに、ラストの一行にある「愉しげな」が議論を呼んだ。それまで感情を排した事実ベースの描写を続けてきたのに、なぜ、最後になってこれを入れたか? 読み手に「おや?」と思わせて、なおかつこのままでは終わらせないようにしている。

実はこれ、清張の他の作品と併せて考えると合点がゆく。ネタバレになるので、ここでは伏せるが、わたしがある指摘をしたら、「!」となった。こういうとき、全員が読んできててネタバレ全開で語れるのが嬉しい。

主催のササキさん、参加された皆さん、濃くて熱い読書会、ありがとうございました。

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