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人工衛星から遺跡を探す『宇宙考古学の冒険』

イタリアやフランスで、畑に模様を見かけたら、そこに遺跡がある可能性が高い。

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Wikipedia ”Cropmark” より

かつて、そこには石壁や住居の基礎があった。そうした構造物は、長い時間をかけてゆっくり土に埋もれてゆく。

地表に牧草などが根付いた場合、その根は深く伸びることができない。そのため、牧草の生育が悪くなり、上空から見ると、奇妙な模様が浮かび上がる(考古学で、クロップマークと呼ぶ)。

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Wikipedia ”Cropmark” より

クロップマークは、航空写真で確認できる。

だが、もっと微妙な、植生の健康状態の違いは、近赤外線データから読み取ることになる。人の目には同じに見えるが、近赤外線画像だと、クロロフィル(葉緑素)の違いは、赤色の違いによって判別できるからだ。

宇宙から遺跡を探す

この発想を広げて、人工衛星から撮影した画像データを元に、地下に眠る遺跡を探すのが、宇宙考古学になる。

単なる解像度の高い写真ではない。地上 640km から撮影された電磁気スペクトルデータを解析し、肉眼では見えない地下の遺構を浮かび上がらせる。

宇宙からだと、植生の違いだけでなく、地下を直接探すこともできる。

たとえば、「ヒートアイランド現象」の応用だ。これは、コンクリートが昼間の熱を吸収し、夜に放熱する現象で、結果、郊外に比べると都心部は高温になる。人工衛星から熱赤外イメージングした場合、夏の夜の都心は光り輝いて見えるという。

では、都心ではなく、砂漠や草原はどうか。地上に建物がないにもかかわらず、夜間、熱赤外イメージングで明るい場所があったとしよう。この場合、地下にコンクリート構造物がある可能性が高い。

『宇宙考古学の冒険』(著:サラ・パーカック /訳:熊谷玲美)の著者は、こうした手がかりを元に、地下の遺跡を探し出すニュータイプの考古学者だ。宇宙から探すことで、これまでに、古代都市3,000ヶ所、古墳1,000ヶ所、ピラミッド17ヶ所の痕跡を見つけ出している(※1)。これは、従来通りのやり方だと、一人の考古学者のキャリアで発見できる数ではない。

さらに、映画『レイダース・失われたアーク』に出てくる幻の古代都市タニスを特定している。タニスの路地や居住区の大部分は発掘されておらず、地上から見ることはできない。だが、人工衛星の赤外線画像により、大規模な構造が明らかにされたのだ。

宇宙考古学のメリット

宇宙から探すことのメリットは莫大だ。

たとえば本書では、ニューファンドランド島の磁気調査について、地上探査と人工衛星画像を比較している。

まず、地上探査の場合、ざっと見積もると、100日かかるという。

その調査も、遺跡が平らで、邪魔な植生がなく、優秀なスタッフが雇えて、現地で体調を崩すことなく、資材や装置の輸送がスムーズにいき、機器が故障することなく働いた場合になる。機器、資材、飛行機代と国内旅費、ホテル代、食費もろもろ20万ドルかかる。

これが人工衛星画像だと、2,000ドルで済む。

そして、およそ60時間で地上探査と同じ結果が得られる。地上探査の磁力計データの方が多少細かい部分までとらえられるが、スピードとコストを合わせると、宇宙からの調査が、圧倒する。

もちろん、現地に出向いて、実際に発掘する調査が必要となる。だが、そこに「あるかもしれない」可能性を何年もかけて探していた調査が、そこに「ある」ものを対象とした仮説検証型になるのは大きい。

限られた予算と期間の中で一定の成果を上げる必要がある。掘ってみて「ありませんでした」では次の予算確保も厳しいだろう。だから、膨大なデータから「ある」という目星をつけられる宇宙考古学のメリットは計り知れない。

リモートセンシング技術「LIDAR」

離れたところから、掘る前に、光学技術によって対象を把握する。

LIDAR(LIght Detection And Ranging)と呼ばれるリモートセンシングによって、莫大な数の遺跡が続々と見つかっている。人工衛星やドローン、航空機に搭載することで、何十年もかけてきた広大な面積のマッピング調査が、ほんの数週間で終わるのだ。

考古学のビッグデータとも言えるのは、アマゾン川流域の遺跡になる。LIDAR によって、先コロンブス期の遺跡を81ヶ所発見している。推測によれば、アマゾン川流域全体で、18,000ヶ所の遺跡が未発見で、100万人以上が暮らしていたと想定されている(※2)。

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Pre-Columbian earth-builders settled along the entire southern rim of the Amazon”より

リモートセンシングは地上だけではない。LIDAR は、水中に沈んだ物体を探索することにも役立つ。

原理はこうだ。水没した物体の上を流れる海流の動きによって、砂や泥が海面へ持ち上げられている。だから、人工衛星画像で、そうした堆積物の上昇現象を探せばよい。

現在は、ドーバー海峡を中心に沈没船の探索にこの技術が用いられている(※3)。だが、船だけでなく、地震や海面上昇によって海に沈んだ遺跡を探し出すことにも応用できる。この分野は水中考古学として研究されており、クレオパトラ宮殿からタイタニック号の探査といった成果を上げている(※4)。

掘らない考古学

こうしたリモートセンシング技術を受け、本書では、未来の考古学を「掘らない考古学」だと描いている。

LIDARや熱赤外センサーを搭載したドローンを飛ばし、遺跡を特定する。たとえ掘る段階になったとしても、鉛筆ほどの大きさのプローブ(探針)を地下数メートルに打ち込み、そこから超音波を発することで、地下の構造物を三次元化する。

必要な場所を絞り込み、そこへ小さな穴を穿ち、文字通りピンポイントで探索する。喩えるならば、腹腔鏡下手術のようなものかもしれない。

また、発掘した古文書も、開いたり触れたりすることなく、外側からスキャニングすることで、中身を調べる技術が開発されている。

たとえば、イタリアのヘルクラネウム遺跡で見つかった巻物がある。西暦79年のベスビオ火山の噴火によって焼かれ、炭化状態となっている。非常にもろいため、開いて読むことはできない。

だが、位相差X線イメージングを使うことで、巻物に触れずに中身を読む研究が進められている(現在は実証実験段階とのこと※5)。

この、「開かずに本を読む技術」でピンときた方もいるかもしれないが、J.P.ホーガン『星を継ぐもの』につながってくる。SFオールタイム・ベストとして有名で、ミステリとしても超一級の傑作小説だ。

月面で発見された5万年以上前の<人類>の死体と、その傍らにあった手帳―――経年により手帳は崩れかけており、開いて読むことはできない。そのため、触れずに中身を読む技術を持つエンジニアが呼ばれる―――そんな導入部だった(はず)。

もし、『星を継ぐもの』に、LIDARがあったなら……きっと序盤でラストの謎が解き明かされたに違いない、とワクワクする。いま、わたしたちが地球を調べている技術は、近い将来、月や火星といった惑星を、「離れたところから」「掘らずに」調べることに役に立つだろう。

考古学というと、何年もかけて、地道に発掘するイメージだった。だが、本書を読んで覆された。最先端の技術どころか、SFまで突き抜けた未来が見える。


※1 人工衛星によってなされた4つの考古学的発見

http://karapaia.com/archives/52241203.html

※2 Jonas Gregorio de Souza “Pre-Columbian earth-builders settled along the entire southern rim of the Amazon”

https://www.nature.com/articles/s41467-018-03510-7

※3 Satellites and shipwrecks: Landsat satellite spots foundered ships in coastal waters

 https://phys.org/news/2016-03-satellites-shipwrecks-landsat-satellite-foundered.html

※4 『水中考古学』井上たかひこ(中公新書)

※5 Revealing letters in rolled Herculaneum papyri by X-ray phase-contrast imaging

https://www.nature.com/articles/ncomms6895

 

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文明と穀物の深い関係『反穀物の人類史』

人類は、狩猟採集から農耕牧畜へと進歩した。

穀物による安定した食糧生産が人々の健康を増進し、余暇を生み、文字や文明を育んでいった。文明を狙う野蛮人は、狩猟採集のままの生活で、文字を持たぬ遅れた未開の人々だった。

……と思っている? だったら『反穀物の人類史』をお薦めする。

著者はジェームズ・C・スコット、イェール大学の人類学部教授だ。メソポタミア、秦・漢、エジプト、ギリシア、ローマなど、文明の初期状態を検証することで、わたしが刷り込まれてきた「常識」に疑義を投げかける。

狩猟採集の方が豊かだった

まず、農耕社会が豊かだったというのは誤りだということが分かる。少なくとも、初期の農業は酷いもので、反対に豊かで多様性に富んでいたのは狩猟採集の人々になる。

その証拠として、残されている農民の骨格を、同時期に近隣で暮らしていた狩猟採集民と比較する。

すると、狩猟採集民の身長が、平均で5センチ以上も高いことから、栄養状態が良かったことが伺える。海洋、湿地、森林、草原、乾燥地など、複数の食物網にまたがっていたうえ、それぞれの季節に応じて移動していたため、食べものは多様で豊かだったと考えられる。

一方、農民の大半は栄養不足による骨の変形が見られ、歯のエナメル質の形成不足や、感染症に関連した病変が見られたという。これは、初期の農民の栄養状態が不安定だったことを示している。

では、どうして農耕生活でこれほど発展できたのか? という疑問が残る。著者は、農耕生活ではなく、農耕するための「定住」で説明を試みる。

狩猟採集民と比べて不健康で、幼児や母親の死亡率が高かったにもかかわらず、定住農民は繁殖率が高く、死亡率の高さを補っても余りあるほどだったという。

まず、定住しない人々は、意図して繁殖力を制限することになる。野営地を移動するため、子ども2人を同時に抱えて運ぶのは、かなりの負担になる。結果、狩猟採集民が子どもを作るのはおよそ4年ごとに間隔を空けるようになる。

対照的に定住農民は、短い間隔で子どもを作る負担が軽減される。さらに農作業の労働力として子どもの価値が高く、多く作るようになる。この違いが、5000年という期間に渡って、複利計算のように大きなアドバンテージとなったというのだ。

穀物が国家を作った

著者は、古代の初期の農耕についてある共通点に着目する。

それは、全て穀物国家だったという点だ。麦や米、ヒエ・アワ、トウモロコシなど、一定の時期に地上に実が成る穀物が、主要な食物であり、現物税の単位であり、農事暦の基盤を提供していたという。

わたし自身、米やパンを毎日食べているから、当たり前のように考えていた。だが、著者は、こう自問する―――なぜ歴史記録には、「レンズマメ国家」や「タロイモ国家」がないのだろう(※1)

レンズマメやダイズ、タロイモやキャッサバは、古代において作物化されていた。また、単位面積あたりのカロリーは、麦よりも多いものがあり、労働力あたりの効率は良いと言える。にもかかわらず、こうした作物が国家形成の基盤とならなかった。

著者は、穀物だけが課税の基礎となるという仮説を立てる。定期的に作物を収奪する人にとっては、麦や米の方が都合がいいのだ。

その理由は、古代の徴税役人の立場になって考えると分かるという。

穀物は、地上で育ち、ほぼ同時に熟すという特徴がある。つまり、徴税官にとっては、収穫時期に一回遠征するだけで、必要な分を収奪できる。農民は収穫、脱穀までしてくれるから、タイミングよく出向いて、倉庫から徴税すればいい。

これがイモ類だと地中に実るため、掘り出す必要がでてくる。麦よりも運ぶコストがかかる上、腐りやすいという欠点もある(そのため、地元民は、土中でイモを保存する)。

また、マメ類の場合、長期間にわたって継続的に実を付けることになる。実が熟すのに合わせて、いつまでも摘み続けることができる。ワンストップ・ショッピングで済ませたい徴税官にとっては、嬉しくないのだ。

地上で実っているのが目視で分かる。粒が細かいので分割や運搬に便利。保存が利いて、兵への分配も容易。さらに、同時に熟すので効率的に収奪できる―――こうした理由で、穀物は理想的な課税作物になったのだという。

文字の必然性

これ、言い換えるなら、課税に不適な作物で暮らしている人々にとっては、国家の範囲外になる。

つまりこうだ。狩猟採集や漁労、焼畑農業、遊牧を生業とする人々から課税するのは難しい。分散して移動している上に、生産物は多様で傷みやすい。

こうした人々を追跡し、課税することは、ほとんど不可能になる。国家の外側には、こうした収奪不可能な生業活動が、多種多様に広がっていたというのである。

しかし、そうした生業活動は、ほとんど記録されていない。国家にとって、記録する価値のない情報だからだ。

では、何が記録すべきものか? 

著者は、収奪に必要な情報だという仮説を立てる。すなわち、人口や土地、家畜や収穫についての情報だ。さらに穀物の運搬や請求、領収についての継続的な記録管理のニーズを想定する。

実際、メソポタミアで文字が使われ始めた頃、ほぼ簿記のためだけに利用されており、500年以上も経ってから、神話や賛歌、王の年代記などが記されるようになったという。

その例として、ギルガメシュ叙事詩を採りあげている。この作品はウル第3王朝(紀元前2100年)頃だが、楔形文字が簿記の目的で最初に使われてから、ゆうに1000年もあとのものになる。『会計が動かす世界の歴史』で示された通り、文字より先に簿記が生まれていたのである。

中心と辺境の構造

著者はさらに、メソポタミア「文明」から見た「辺境」のコミュニティに着目する。

狩猟採集を生業としていたため、文字として記録されなかった人々だ。こうした人々は、文字の使用を拒絶していたという。これは、文字を持つだけの知性が無かったからではなく、むしろ、文字に備わる課税と支配の構造を回避しようとしていたからかもしれない。

文字を記す側である行政官からすると、国家という枠の外にある、徴税が及ばない連中になる。「文字を記す側=中央」と「徴税できない連中=辺境」の構図が出来上がる。

文字を記す側は、自分たちの権力の正当性や血統をプロパガンダする必要がある。自らを中央とするために、課税を逃れ、臣民にならない連中を、「辺境」として非難する必要がある。

この発想は、『遊牧民から見た世界史』で学んだ、中華思想そのものになる。中国皇帝が世界の真ん中で最高の価値を持ち、周辺に行くにつれ程度が低くなり、辺境より先は蛮族として卑しむ華夷思想だ。そしてこの傾向は、中国に限らず、文字を残したあらゆる文明に共通する。

わたしたちは、残された文字に書かれた内容から、当時を想像する他はない。だが、文字として残っていなかったからといって、存在しなかったことにはならない。

定住社会において、「中心」として自らの正当性を記録するのであれば、それは岩や石、粘土に刻んで焼くといった遺し方をするだろう(そして、まさにそれらが、いま見ることができる史料だ)。

だが、移動を中心とした社会では、たとえ記録を残すとしても、運搬に適さない重量物には刻まなかったはずだ。もっと軽い、竹や皮、繊維を編んだものに印をつけるといった手段を取ったに違いない。数千年の時を経て、どちらが残りやすいかを考えると、火を見るよりも明らかだ。

他にも、「暗黒時代」や「野蛮人」という言葉が刷り込んでいるバイアスを解いたり、文明の「発展」と、そこに生きる臣民の「幸福」を実証的に考察する。最新の考古学・人類学の論文や文献で、わたしの常識を揺さぶってくる。

常識を問い直し、自分で考え直す観点と材料が得られる一冊。

※1 南アメリカ大陸ではイモが主食とされていたはずでは……? と思ったのだが、本書では例外として挙げられている。インカ帝国ではトウモロコシとジャガイモに依存していたが、税作物としてはトウモロコシが支配的だったとある(p.120)

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スピルバーグ『レディ・プレイヤー1』を通じて、物語を面白くする映像技術、共感手法、映像の力を語り合う(追記あり)

物語に夢中になったことはないだろうか?

小説やマンガ、ゲーム、映画や舞台など、素晴らしい作品に出会ったとき、あまりの面白さに、あっという間に時が過ぎる。お話が終わり、我に返った後、あらためて、なぜそれを面白いと思ったのかは、気にならないだろうか。

  • その物語の「面白さ」はどこから来たのか
  • なぜ、自分が、そこを「面白い」と感じたのか
  • その「面白さ」は一般化/再現できるのか

こうしたテーマを視野に入れ、古今東西の「面白い」作品について語り合う。これはという作品を取り上げ、物語を作る人、楽しむ人、広める人など、様々な視点から「面白い」について語り合うオンライン会が、「物語の探求」読書会だ(ネオ高等遊民サークルの分室)。

今回は、映画に詳しいどぶ川さんをゲストにお招きして、スティーブン・スピルバーグの『レディ・プレイヤー1』をテーマに語り合った。面白い物語をどうやって映像にするか? 映像をどう工夫すると、物語が面白くなるのかなど、レクチャーしていただいた。

(以下、『レディ・プレイヤー1』のネタバレがあります)


<目次>

  1. 『レディ・プレイヤー1』=王道✖最新
  2. 「おじさん・おばさん」は必要か
  3. 観客の感情を計算したカメラの位置
  4. デブの白人がいない理由
  5. ちょっと不完全な方が、映画は面白くなる
  6. 人は動いているものをどうしても見てしまう
  7. ワンカットとは、記録でありドキュメント
  8. 『レディ・プレイヤー2』の可能性
  9. オマージュの物語作法
  10. 敵が強くないのは理由がある

スケザネ:始めますかそろそろ。今回のゲストはどぶ川さんです。

どぶ川:映画だけにどぶ川として名乗らせてもらいます。

ネオ:簡単に自己紹介をお願いします。

どぶ川:元々映画が好きで、若い頃から映画館で働いてて、映画製作とかにも携わっていた時期もありました。ネオさんに映画のことを教えたりとかしてて、そんな中で今回、『レディ・プレイヤー1』について話してくれって言われたので、今回参加しました。

ネオ:『レディ・プレイヤー1観ろって言ったのもどぶ川さん。彼が働いていた映画館にも何度か足を運んでいたりして、一緒に映画を見に行ったこともあります。

スケザネ:ネオ民のマブダチということで。

ネオ:(笑)そうですね、映画を観る見識は確かなので、本日お越し頂きました。

一同:よろしくお願いします。

ネオ:画面共有のスライドを中心として、どぶ川さんに説明してもらいます。質問、コメントがありましたらチャットでお願いします。皆さん、映画は見ている前提でお話をしましょう。

 

1. 『レディ・プレイヤー1』=王道✖最新

どぶ川:『レディ・プレイヤー1』の面白さとしては、まずは題材でしょう。SNSのゲームで、たとえば『どうぶつの森』なんかが、レディプレイヤーワンの世界の先駆的なものなんかだと感じてます。

  • ゲーム(仮想空間)が現実に介入している。もしかしたら「あるかもしれない」未来
  • 「あるかもしれない」と思うことで、感情移入しやすい
  • ここをベースにして、世界を救うボーイ・ミーツ・ガールという鉄板の物語を展開している

いったん、「あるかもしれない」とリアリティを感じさせたら成功で、あとは共感とか納得できたら、感情が入りやすい。この世界をつくったあと、超・王道である「世界を救う」「ボーイ・ミーツ・ガール」という、アメリカ映画の超・鉄板をやっている。王道✖最新を掛け合わせている。それが題材としての面白さになる。

だけど、面白い題材と物語をどう撮影するか? どう映像にするか? それが映画なんですよね。だから、画面で何をしているか、どんな人物が、どんなふうに映っているか、それをポイントに話します。

まず、オープニングですね。世界観の説明で、2045年かな、縦に積まれたトレーラーハウスの街並みを映しながら、主人公のモノローグから始まります。

もう、これ自体でワクワクするでしょ、子どもの基地みたいで。この、ハリボテ感が崩れそうでドキドキ感があるから、見ちゃいますよね。子どもが高い所へのぼっていると、もう目を離せなくなる、どうしても見てしまう画面なんです。このオープニングから一気に、感情移入させているんです。

スケザネ:なるほど! このオープニングは凄く引き込まれました。緻密に描かれてて、どんな世界なのか説明できちゃっているので、男の子がごちゃごちゃ言わないで、この映像をクローズアップしてくれているだけで良かったんじゃないかな、と思いながら観てました。

どぶ川:確かにそうかも……なんでスピルバーグがそういう風に「緻密な映像+男の子のモノローグ」にしたのかなと考えると、おそらく、物語に早く入りたかったんじゃないかと。だから一気に説明したのかなと。

スケザネ:すごい説明してましたよね、序盤。

どぶ川:世界の説明は中だるみもするし謎解きでもないから―――謎解きはゲームの中であるからいいでしょって、僕もそこまで細かい設定は覚えていなくて、何となくでいいでしょっていうアメリカの大雑把な感じが出ているんじゃないかと。

 

2.「おじさん・おばさん」は必要か

スケザネ:でもこれ、結構要素が多いんですよ。主人公の家庭環境とか、おじさんとおばさんが出てきちゃった時点で覚えるところが多い印象でした。

どぶ川:おじさんとおばさん、一応は必要だけど、キーになってはいないですよね。

スケザネ:変にあのおじさん、キャラ立っちゃってて、もっと出てくるのかと思ってたら……ちゃんと死んでて。

ネオ:爆死しましたからね!

一同:www

どぶ川:たいしていい所もなく、死に際の何かもなく、爆死しましたからね。

スケザネ:絶対あのおじさん、後半のアバターの中で再登場すると、俺は信じてましたからね。ホントに死んだんかいって。

どぶ川:もしかしたら、脚本つくる上で色々考えたんだけど、時間やらなにやらで「もういいや!」ってなったのかも。スピルバーグは、そういうところがあって、結構残酷なんですよね、「人」に対して。

Dain:おじさん・おばさんの肩を持つわけじゃないんですけど、「世界を救うボーイミーツガール」という物語を作るうえで、絶対必要な要素―――試練―――というのがあって、それが「おばさんが死ぬ」という出来事だったんじゃないかな。

親代わりのおばさんが死んで、主人公は復讐として立ち上がらなければらない。しかも、おばさんの死をただ起こすだけでなく、何らかのひっかけ、トリックが必要で、それがおじさんだったんじゃないかと。

どぶ川:家庭内のやり取りで、おばさんだけだったら、何となく流しちゃうかもしれないけど、「嫌なおじさん」がいることで、結局爆死はするけれど、盛り上がるんですよね。

スケザネ:あの荒廃とした時代状況で説明がつくんじゃないかと。極端な話、親がいない、どこかの施設の鬱屈した少年でもできたんじゃないかな。で、現実の世界は嫌だ、だから俺はゲームの世界で生きるんだ、というので十分だったと思う派です。

どぶ川:物語の経済性とかも考えてみても、どちらに転んでもおかしくなかったんじゃないかと。スパイスとしてどんな味付けをするかという話じゃないかな。

スケザネ:このお話、舞台立てが違う、世界が違う、さらに主人公はこんな家庭環境です、とバンバン説明しないといけないし、それを(観客が)理解しなければいけない。なので、序盤はすごい大変です。

もし俺がこの物語をするのであれば、受け手側に少しでも情報量の負担を減らしてあげたいなって思うんです。なので、おじさんとおばさんの情報量を減らしてあげたいな、っていうのが一番です。

旅立つ理由として「おばさんの死」は分かるけれど、後半になっておばさんの「お」の字も言わないじゃないですか、「おばさんの仇だ!」とか「みんなの仇だ!」とか。なんで、本当に犬死にだったな。

どぶ川:それが映画の面白さにもなってて。ちょっと前のことをすぐに忘れて、常に「今」だけで「その場」だけで生きていくっていうのが、映画を面白くすることがあるんです。物語を語るものなら小説とかあるんですけれど、映画って不完全なものが面白がられたりするんで、そこが不思議なところなんです。でもやりすぎると情報過多になって、観るほうが付いていけない時も出てきますね。

Dain:この映画を観る人の入りやすさ、「共感」からすると、「トレーラーハウスに住んできた」世代になるんじゃないかと。裕福でない貧しい人々、家庭の事情でおじさん・おばさんに引き取られて暮らしてきた人なのかしらんと思ったり。

今は地面に並べているけど、未来は縦に積み上げられているトレーラーハウスに住んでて、現実逃避したい少年って、「俺じゃん」「俺が昔そうだったじゃん」ってなるのでは。未来の話だけど、今と繋がっているための装置としてのトレーラーハウスとおじさんおばさん。

 

3.観客の感情を計算したカメラの位置

どぶ川:IOIの社員がゲームやるシーンのあたりとか。スピルバーグの表現の一つとして、「ゲームをやる人の姿」を、引きで、客観的に撮ることで、間抜けに見せています。やってる人は必死だけど、冷めた目でみたら、これでしょって。人の愚かさとかが皮肉めいてて、見てて面白くて、楽しい気分になります。

スケザネ:言われてみれば……! 確かにそうですよね。

どぶ川:これ逆に、カッコよく撮ると、ダサいんですよ。すげーカッコいい俳優さんが、はぁはぁ言いながら、何もないところを空を切ってパンチするって、ダサいんです。

Dain:こんな風にゴーグルかけてやるVRゲームで、”Beat Saber” というのがあるんですけど、その実況を思い出しました。前から飛んでくるブロックを両手のコントローラーで斬っていくんです。で、ゲームの中の映像を見ると大迫力ですげーカッコいい。一方、それをプレイする人そのものを撮って実況しているのを見ると、おっさんが汗だくになってふうふう言いながらやってて、めちゃカッコ悪い。

どぶ川:やっぱカッコよく撮ると、現実とは別物になるから、感情移入しにくくなる。観客に入りやすくするために、最初は「ゲームの外」から「引き」で面白可笑しく撮っている。

逆に最後の方とか、ウェイドがみんなに呼びかけるシーンでは―――ウェイドはイケメンじゃないんですけど(笑)―――ゲーム内のウェイドで撮っている。そこはちゃんとシーンの目的に合わせて使い分けている。

結局、このシーンは物語上どんな位置づけで、どんな感情を呼び起こす目的なのかを考えて、カメラの位置ってものが変わってくるわけですから。

Dain:なるほど! カメラの「位置」なんですね、考えたこともなかった。本人は必死なんだけど、この踊ってるかのように見えるためには、引きで撮るための位置にカメラがあるんですね。これ、アップで撮るとまた別の印象になっちゃうから……

どぶ川:そうですね、これ、後の説明にも出てきます。でもその前に、主人公メンバーの話を……ウェイドといい、その仲間といい、主人公メンバーがイケていない。これがいいんですよ! ギャップがあって。またストーリーに没入しやすくなるって。

スピルバーグって、もちろんイケメンと美女の映画もあるんですけど、そうじゃない人を撮るのがめちゃくちゃ上手くて、僕そっちの方が好きなんです。なぜかというと、美男美女だと映画の邪魔になるんですよ。これが例えば、ディカプリオとかブラピとかジョニーデップなら、もう映画が成立しなくなっちゃう。なんでもない奴らが大活躍する、という。

ゴーグル付けてもカッコいいって、ないでしょ。めちゃくちゃアホな姿です。その辺のキャスティングが上手い。物語の邪魔をせず、「どこにでも居そうな」感がある人が活躍するというのは、共感があって見てて気持ちがいい。

 

4.デブの白人がいない理由/原作だと「ぽっちゃり」

Dain:ただ一つ、キャスティングに違和感があるんです。これ、「ゲームの世界」をテーマにした映画でしょ。そして、白人、黒人、アジア系、女性など、色々な属性を入れているけど、「デブ」がいない。

僕の中の「ゲームが好きな人」のイメージとして、ピザとかコーラが好きで、コンピューターに詳しいというのがあるんです。確かスピルバーグの作品で『ジュラシック・パーク』の最初に出てくる、エンジニアの人。あの印象が強烈で、ペプシが好きでピザが好きで、めちゃくちゃ太ってたんですよ。

一同:いたいた!

Dain:そいつが恐竜の胚か細胞を盗み出して道に迷って酷い目に遭うところも含めて、「あいつデブだったよな」と覚えてるんです。今のでこれ思い出して、『レディ・プレイヤー1』にデブの白人がいない、ということに違和感があって、ちょっとだけ評価が下がっているんです。ピザとコークが大好きなデブが大活躍する話だったら、手放しで絶賛してたと思う。

スケザネ:言われてみれば……あんまり、メインメンバー以外にも太った人いなかったような……やっぱりあのゲームが身体を動かすから?

どぶ川:一人いました。会社でゲームの研究者の人。ラストでキスしてた。あと、オープニングのボクシングやってるおばちゃんかな。ちょっと太っている。

でもなんで太った人が少ないんだろう……と考えると、やっぱり主人公メンバーって、最後にアクションするんですよね。だからじゃないかと。あと、悪役の会社の社員って、SPとかそういう立場だから、太った体形にしなかったのでは。

スケザネ:「貧しい人たちが現実から逃れるためにゲームをやっている」という設定だと、貧しいが故に、必然的に太れない。会社にいる研究員は、給料も沢山もらえてているから……という説明が付かないかな。

どぶ川:同じこと考えてました。それ、スピルバーグがインタビューで聞かれたときの後付けの答えかなと。僕としての答えは、単なる撮影上の制約で、最後のアクションシーン撮るときに太っていると大変なので外したんだと思います。

Dain:いまチャットで、ゆすもひさんが面白いコメントしてて。原作のウェイドは太ってて、見やすく寄せたことが批判されているってあります。ソースはネット情報なので不確かですが。

どぶ川:ですねー、その辺は映像化する上での印象が大事だから、色々あったんじゃないかなと。

Dain:「アメリカ人でゲーム好き」っていうと、太ってるという印象があるから、どこかで入れないと。

どぶ川:『ジュラシック・パーク』だと、コンピュータに詳しい人で、ほとんど動かない。そんな設定があって、彼のスパイスとして、ペプシとポテチが大好きというキャラクターが生きるんだけど、『レディ・プレイヤー1』に関しては、どこにどういう風に入れるかが、すごく難しい。たぶん、原作のウェイドをまんま映画にしてないんじゃないかな。

スケザネ:エイチとかは、車を運転するだけでアクション少ないし、ゲームだとアイアンジャイアントを動かすとか、ゆっくりどっしりとした動きだから、太ったという属性が生かされるキャラになると思う。

どぶ川:エイチ、僕も現実に出てくるまで太ってると思ってました。

スケザネ:そんな話してたじゃないですか、ゲームとは全然違ってて、現実だと体重〇キロのデブだったらどうする!? ってセリフ。むしろサマンサのビジュアルがどうくるのか、気になってましたね。

どぶ川:何千億とかかけてエンタメのビジネスとしてやるからには、あんまり現実に寄せすぎるのも……

 

5.ちょっと不完全な方が、映画は面白くなる

どぶ川:逆走するシーン。ここは外せないですね。絶対にクリアできないステージで、謎を解明して、発見する面白さや、ゲームのゲームの中身が見えてる、裏技のような感覚と、「やったぜ!」勢いを表現したスピード感とか。子どもの頃、スーパーマリオで、画面の上を走る感覚が思い出されて、主人公と一緒に必死になってやってて嬉しい気持ちと重なります。

スケザネ:逆走したら勝手にクリアするのかな? と思ったら、「下」を通るんですよね、これはびっくりしました。

どぶ川:恐竜が下から出てくるとき、床がせり上がるようなギミックとかね、ゲームの仕組みが全部見えてる。

ネオ:あれだけ苦労しててクリア不可能だったステージが、楽勝で走れる爽快感というか。

どぶ川:「楽勝感」ってのがいいよね。なんか共犯的な感覚。裏技って悪いことじゃないんだけれど、なんかズルしている感覚というか。生理的に共感できる。そこまで持っていかせるというのは、凄いことなんじゃないかと。

スケザネ:レースの尺って結構長いですよね。一回やって失敗して、もう一回やって、ただただひたすら面白いところ。でも世界の説明のところ、鍵がどうとか、サマンサと会って陰謀だとか詰めに詰め込んでいる。艶っぽいBGMが流れているので、そういう気持ちにさせたいのは分かるけれど、情報量が多すぎてちょっと付いていけてない。自分はシナリオ書く人間なので、観客をどういう気持ちにさせたい脚本なのか気にしながらみちゃうんですけど、ここは早くて感動できないなーと。

どぶ川:職業とか一切忘れて、もう一回観ましょう。

一同:www

スケザネ:観終わってから、これそういう目線で見る映画じゃないやって気づいて……

どぶ川:そうそう。さっき言った、映画ってその辺を中途半端にすることで面白くなるとか、辻褄を語る時間があるんだったら、そこは捨てて次に進んだほうが見てる方としては面白くなったりします。映画って多少不完全な方が面白くなったりするんですよね。

Dain:物語を語るところと、物語を見せるところが、スパっと分かれているのかなと思いました。この世界がどうなっているとか、どんな状況になっているとか、物語を説明するシーンと、ひたすらスペクタクルに魅せるシーンと、きれいに割れているのが、『レディ・プレイヤー1』なのかと。なので、また観る時は、このシーンはどういう「意図」で作られているのだろうという目線で見ちゃいそうな……

スケザネ:そうですね。1回目のときは考えながら観ちゃいましたけど、2回目はもう気にせず、ただただ楽しんで観てました、シャイニングのところとか特に。これだけ映像で見せるシーンで、横でごちゃごちゃ設定を説明したら台無しになってしまう。だから、あいだあいだで説明するしか。ただ、感情移入するには情報が多すぎるので、要素を削ったほうがよいかも……

ネオ:僕なんかは、ただただひたすら面白いと観たんです。一般的には、細かいところの辻褄とかより、このレースシーン「だけ」は皆覚えているんですよね。そしてこの映画が狙っているのはそこでしょう。

どぶ川:でしょうね。世界中の人にみせるものだし、誰が見ても面白いという映画をスピルバーグは目指しているから、こだわるところが違うのかもしれません。

 

6.人は動いているものをどうしても見てしまう

どぶ川:ウェイドとサマンサのアバターがダンスするシーン。自由なカメラワークで観てて気持ちがいいです。でもこれ、実写でやったら爆笑シーンになりますね。試しにアバターではなく、現実の誰かを当てはめてみると分かります。

この世界観でCGと実写を入り交ぜているからこそ、成立させていますね。

CGだけだと結構飽きるんです。なので実写だとこうなっているとか、飽きさせない工夫をしています。ゲームの中だと自由で、それこそ夢のような動きができるじゃないですか。それを成立させるために、現実の中での動きを考えている。

物語の構造として、ゲームの中での動きと、現実の動きの対比をキワキワで成り立たせている。これが凄いなと。一歩間違えれば、しょぼい作品にもなりかねないので。この対比が、『レディ・プレイヤー1』で一番チャレンジしたところじゃないかなと。

さっきの「物語の説明」シーンの実写のほうも全体的に、人が歩きながら芝居したり、カメラが動いたり、画面自体にアクションがあって観てて気持ちがいいですし、シーンの切り方も絶妙な感じで、何より観てて飽きません。人って、動いていると、どうしても見ちゃうんですよね。自然と見れるようにお芝居をつけて、撮っています。

あと、スピルバーグって、結構特殊なカメラワークをする人で、「今どんな風にカメラ動かしたの!?」というシーンもあって、しかもそこがすごく流麗なんです。

Dain:そのシーンで、「カメラがどこにあるのか?」「それがどう動いたのか?」って、気にせず観てました。次は、カメラの位置を考えながら観ますね。

どぶ川:ダンスのシーンとかで、カメラが360度パンとかしてて、けっこうこれ、めちゃくちゃな動きをしているんですけど、これはもちろんCGだからできるんだよなぁと感心しましたね。

 

7.ワンカットとは、記録でありドキュメント

どぶ川:次はクルマの中の格闘シーン。まず表情が面白い! でも、ここだけじゃなくって、クルマの中から転げ落ちるんですよね。そして、格闘から転げ落ちるまでワンカットなんですよね。皆さん、ワンカットって言って伝わります?

スケザネ:切らずにそのまま撮り続けるというやつ、画面を切り替えないやつ。

どぶ川:そうですそうです、例えば iPhone で録画するとき、ボタンを押して撮り始めて、次にボタンを押して停止するまで、これがワンカットです。

で、トラックから蹴落とされて地面へ転がり落ちるまで、これをワンカットで撮っているということは、編集でウソがないんですよね。かつ、「人が蹴とばされて落ちて転がる」というのが一つの記録になっているんです。ドキュメントなんです。

僕が映画を見る時に意識しているのは、ワンカットでどこからどこまで撮るかというところなんです。そもそもカメラとは「記録するもの」として生まれているから、ワンカットで撮っているところ=記録、ドキュメントになるんです

このワンカット、すごいことが起きているんですよ。人が蹴とばされてトラックから落ちて転がってるって。そういう記録なんです。そういうのをスピルバーグは、映像作家として入れてくる。映像の原理主義的なもので、「記録する」という観点から見ると、迫力があるんです、ウソがないから。観客は驚くんです、だって事故ですもの。事故が映っているんです。この顔も事故ですけど。

一同:www

どぶ川:だって映画じゃなくって、事故の映像とかあると見ちゃうでしょ。「世界の衝撃映像」みたいな番組やニュース。画面の力は強いから。だってこれ、こんな風に撮らなくたっていいでしょ。

Dain:その、「すっ飛ばされる一瞬」と、「転がっていく」というシーンを撮って、繋ぎ合わせれば、いわば安全にこの物語を進められるから? でもそうせずに、「飛ばされる→転がっていく」をワンカットで入れることで、これまでフィクションだった世界に、ノンフィクションっぽい迫力が出てくる……これが映像の力というやつ?

どぶ川:見ちゃいますからね、ワンカットだと。危ないとかそういったものはさておき、ここを割る人・割らない人が分かれてくる。で、割らない人の映画のほうが面白いと思う。

スケザネ:これだけ編集技術が進んでいるけど、やっぱりカットして繋げると、違和感とか起こるものなんでしょうか?

どぶ川:いや、違和感とかは残らなくて、昔から編集でできます。でも、割った時点で、カットとカットの間に、小難しく言うと、「見えない」時間が存在するんですよ。なぜなら、カットを割った時点で、時間が止まるから。そうすると、そのアクションというのは記録ではなくなってくるんですよ。

でもここはちゃんとワンカットの事故映像として意識的に撮ることで、迫力が違うんです。ワンカットを意識している監督というのは、映像の、画面の強さに対してすごく敏感になっているんです。そういう監督の映画は面白い

スケザネ:すごい勉強になります、これ意識してませんでした。

どぶ川:カットを意識してみれば、ちょっと映画の見方が変わってくるかもしれませんね。例えば、スピルバーグの『宇宙戦争』、これも実写とCGを織り交ぜてるんですけど、どこからどこまでがCGなのか、ワンカットで見せてくれて区別がつかない。カット意識して見てるけど、面白すぎて、途中からそんなことどうでもよくなってくる。

一同:www

どぶ川:『宇宙戦争』の最後のシーンのとこなんですけど―――皆さん良いですか、ちょっと触れちゃって。

Dain:どうぞどうぞ。

スケザネ:僕は全然大丈夫です。

どぶ川:『宇宙戦争』の最後のところで、ミサイルがエイリアンに当たるんです。それを引きで撮ってて、ヒューっとミサイルが飛んで行って画面奥の、ちょっとしたビルぐらいの巨大なエイリアンに当たるんです。それが、ワンカットなんですよね。

そのときに、「あ、当たった!」って感じがするんですよ。

これ、もし、「ミサイルを発射する」、「ヒューっと飛んでいく」、「エイリアンに当たる」と3つにしてもいいんです、ウルトラマンの特撮みたいに。でもそうしない。人が撃ったミサイルが飛んで行って、ビルぐらいの怪物に当たるんです。すると、「当たった!」て感じるんです。何気ないシーンなんですけど、いままで全然当たらなかった奴らに、当たったという感じが伝わる。

Dain:youtubeのこの辺? チャットにURL貼りました。映画観てない人はネタバレになるので注意して下さい。エイリアンって、あのトライポッドっていう三本足の奴ですよね。確かにワンカットで撮ってて、「当たった」って感じがします。

(開始2分あたり)

どぶ川:そうですそうです、ここだここ! 実はそれまで、一回も当たらないんですよ。エイリアンのある構造のせいで、今まで全く当たらなかった。ここで初めて当たるんですけど、ほんとこれ、何気ないシーンですけど、ここに拘っている監督は面白いです。

Dain:今のお話で、僕がなぜ、とある twitter の動画を見ちゃうのかな、という謎が解けました。何かというと、バスターキートンとかいう人の、昔のコメディというかアクションの動画なんです。トーキー時代の、音声も何もない白黒映画のシーンなんですけど、見ちゃう。

男の人が線路を走ってて、後ろから列車が追いかけてきて、危ない! って思ったら、ぴょんと飛び移ったり、ビルから飛び降りたりとか、昔の映画なんで合成でもCGもなくて、全部本人がワンカットでやってる。これを見ちゃうのは、ワンカットでやっている、ドキュメンタリーの映像の強さに惹かれているのかな、と思いました。

史上最高のスタントマン──バスター・キートンの物理学
https://wired.jp/2016/12/12/physics-greatest-stuntman/

どぶ川:そうです、キートンの映画は、そういった文脈で語られるんです。マスターニートンとはちょっと違いますね。

一同:www

ネオ:マスターニートンの動画も結構ワンカットで撮ってますねwww カットするのは何かトラブルとか、言えないこと言っちゃったときとかw 記録性ゼロw

どぶ川:で、ワンカットの力の話でオープニングに戻ります。映画が始まって、トレーラーハウスの住宅街の全景が映ってて、カメラが寄っていくんです。いつカットが切り替わるかなと見ていても、ずっと寄っていく。すると、あるトレーラーハウスの一軒から、少年が出てくるんです。いつ切り替えたの!? と思うんです。ぜったい切り替えたはずなんですけど、分かんないですよ。これをワンカットで撮ったスピルバーグって、やっぱ凄いです。画面の強さが一気に出ている。

トレーラーハウスの集合体はCGのはずです、でもそこへカメラが近寄って行って、そこのドアからなんでCGじゃない生身の人間が出てくるの? ってそれをやられたら、こういった世界なんだ、って思っちゃいますもの。ここミニチュアかもしれませんが、それでもどこかで切り替えているはずなのに分からない。これを開始数分でこのワンカットは凄い。スピルバーグって結構こういうことをするんです。

スピルバーグは、一番新しいものを映画の形で作ったな、と思いますね。

 

8.『レディ・プレイヤー2』の可能性

スケザネ:『レディ・プレイヤー1』2018年の作品ですね。これ、続編とか出るんでしょうかね、『レディ・プレイヤー2』みたいな。でもこれ、なんで、レディ・プレイヤー・「ワン」なんでしょうかね?

Dain:今ふっと思ったのが、昔のゲーセンに置いてあるアーケードゲームですね。英語で「Player One」「Player Two」とかあって、コインを入れると、「Credit」が増えて、スタートボタンを押すと「Ready」となってゲームが始まる。なので、『レディ・プレイヤー1』なんじゃないかな。

スケザネ:なるほど!

Dain:映画の中でコインを一つもらってライフが増えるというのは、あれは「Credit」の意味だったんですね。たぶん若い人はピンとこないかもしれないんですけど、100円入れるとピコーンとかいってクレジットが増えるんです。「コイン=クレジット=ライフ」なんです。ゲーセンに通ってコインをつぎ込んだおっさん向けのネタですね。

なので、『レディ・プレイヤー2』の物語をやろうとするなら、2人プレイの協力型か対戦型か分からないけれど、1人でやる話にならないかもですね。

 

9.オマージュの物語作法

ネオ:この映画って、パロディとかオマージュの形でいろんな映画やアニメやゲームが入っていますよね。バックトゥザフューチャーとかガンダムとか。ぼくはそれが大好きで、SNSやゲームの世界で、ありものを再現したり、まんがのキャラを自分のアバターにするって、まさに現実にあることをきちんと再現していると思います。自分の車をデロリアンにするとか。でも賛否両論ある。知らないとつまらないとか、内輪ネタになってるとか。そういう部分については皆さんどうお感じでしたか。

スケザネ:「元ネタを知らないと分からない」というシーンを作っちゃいけないでしょう。知らなくても楽しめるけれど、元ネタを知ることで、もっと面白くなるという感じ。続編を作るなら、一作目を見ていなくても最低限楽しめる。けれど、一作目を見ていると、もっと面白い作りにする。

『レディ・プレイヤー1』が秀逸なのは、元ネタを知らなくても大丈夫なように作られていることと、元ネタがストーリーに絡むとき、「元ネタを知らない人」が配置されているところ。

ネオ:『シャイニング』のとことか!

スケザネ:そうそう! あそこで全員が『シャイニングだぜ!』となったらダメで、あれはエイチが「シャイニング! 怖いの嫌いなんだよ」って言ってるのが良いんですね。知らなくても楽しめるし、知ってる人がニヤリとすればいい。

Dain:すごく細かいネタがあちこちにあって、『ターミネーター2』で親指立てて溶鉱炉に沈むシーンがありましたね。それだけじゃなく、細かすぎるかもしれないけれど、『ターミネーター2』で、主人公の男の子を引き取っているおばさんいましたよね? 最初のあたりで頭刺されて死んじゃうおばさん。あのおばさんが着ている服が、『レディ・プレイヤー1』で爆死するおばさんが着ている服と一緒だったんじゃないかな……違ってたらごめん。

スケザネ:それに気づくDainさんも相当変態だとwww

Dain:『バットマン』とか『ストII』とか、分かりやすいネタで楽しんでもいいし、もっと細かい、マニアックなネタもきっと散りばめられているはずで、そういうネタを探しながら観るのも楽しい、宝探しみたいな映画じゃないのかな。

スケザネ:『レディ・プレイヤー1』は、『スターウォーズ』とかメジャータイトルの形で何十年後までも残る映画じゃない、と個人的には思います。でも、数十年後にマニアの間では垂涎の的になる、未来のオタク向けの宝物ですね。

 

10.敵が強くないのは理由がある

Dain:あと、物語的なところで気になるのがあって。この場は、物語の面白さを探求する会じゃないですか。その観点からして、この映画でちょっと不満に思えるところがあるのです。それは、『レディ・プレイヤー1』は、「敵が強い」というセオリー通りになっていないところ。

物語を面白くするために、敵をとてつもなく強くする必要があります。それを打倒して世界を救うわけですから。なのに、敵のボス弱くね? と思っちゃうんです。簡単に言うと、「パスワードをそんなとこに貼っておくなよ」って。マヌケすぎる。

もっと冷酷無慈悲なやつとか、淡々と仕事するマシーンみたいな奴とか……と考えていくと、そんな「部下」がいたな! と思い出して。ドクロっぽいコスをしてた部下とか、最後にアクションしてた部下とか。たぶん、強さの属性を部下に分け与えたから、ラスボスが弱くなってしまったのかも……

スケザネ:これ、問題は「ボスを2つ設定したこと」かなと思います。結局これって、「カギを見つける謎解き」と、「世界を支配しようとしている敵を倒す」の、2つになっちゃってる。主人公としては、謎を解いて鍵を見つけたいという動機で動いているのに、悪人が邪魔をする。謎を解きつつ悪人を倒さなきゃいけない。

「悪人を倒す」ならガチンコで悪人にすればいいけど、謎を解くための尺が足りないから、パスワード貼り付けるようなマヌケにしないといけない。強すぎたら、倒すために時間が足りなくなる。謎と悪人、詰め込みすぎなんですよね。

もし、「敵を強くする」要素を盛り込みたいんなら、鍵の3つ目を門番とかにして、そいつを強くすればいい。物語を節約できる。

Dain:おお! この物語は2つの目標があったんですね。「謎を解く」と「悪人をやっつける」というゴールで思い出しました。大昔に観たやつで、少年少女が地図を見つけて宝探しをするというのと、宝を奪おうとする悪人をやっつけるのを、同時進行でする映画。

そのタイトルは、『グーニーズ』、たしかスピルバーグが作ったはず。冒険あり、謎解きあり、ロマンスもありました。

スケザネ:なるほど!

どぶ川:①世界を守る②ボーイ・ミーツ・ガールの王道ですからね。「悪人をやっつける」が①世界を守ることで、「謎を解く」が②ボーイ・ミーツ・ガールにつながる。やっぱり身体を張って好きな女の子を守るというので、最後はリアルで戦わなければならない……映画はそういう風にできているのかも……あれほどCG見せて、ラストはまさかの肉弾戦ですからね。そうすると、ボスをあまりに強くすると弊害が出てくる。

スケザネ:現実の世界の中にゲームがあるボーイ・ミーツ・ガール系で行くと、結末ってこうなっちゃうんじゃないんじゃないかな。ゲームの世界で頑張ることと、現実世界でどう生きるかのバランス取るのがとても難しい。ゲームの世界をあんなに頑張って守ったのに、週に2日もゲーム禁止してるんだって……

どぶ川:僕はわりとあのラスト好きですね。皮肉めいたユーモアが効いてて。ゲームばっかりやってないで、現実も大事っていう。ゲームばかりやってた主人公に恋人ができて、現実の良さにも気づいたというのが洒落てて良いですね、映画っぽくて。



100分に渡る長丁場で、どぶ川さん、スケザネさん、ネオさん、そして参加された皆様、ありがとうございました。

何といっても、映画に詳しい方の意見を伺えたのが大きい。自分が観た経験が、また違った角度から光を当てられ、「そうだったのか!!」と気づくのは、たいへん愉快な経験だった。撮影の仕方で、観客の感情が変わってくるところなんて、描写の仕方で読者の感情を揺さぶる小説と通じるものがある。これは、どぶ川さんのおかげ。

そして、物語を作る側の脚本家の方から、この『レディ・プレイヤー1』をレビューするという経験は、大変タメになった。映画を観てて、消化不良になっていたり、「ごちゃごちゃしている」という言語化しにくいフラストレーションの根っこは、物語の情報量の密度だったことが、スケザネさんのレクチャーのおかげだ。

さらに、こうした場を設けていただいたネオ高等遊民さんには感謝しかない。映画愛好家と脚本家のお話がいい感じでクロスして、思いもよらないタメになるお話が伺えたのは、ネオさんのプロデュースのおかげ。

この読書会の後、原作となった『ゲームウォーズ』(アーネスト・クライン)を手にしたのだが、展開が全然違ってて笑った。ウェイドもエイチもサマンサも、めっちゃ太ってた(予想通り!)。

そして、ネタが凝りに凝りっていた。「『卒業白書』でトム・クルーズが持て余してたクリスタルエッグみたいに」とか、「机の上にフォークト=カンプフ検査機があった」など、ページをめくるごとに80年代~00年代のネタがゴロゴロ出てくる。ラストの決戦では、ガンダムやメカゴジラだけでなく、エヴァ(たぶん初号機)や勇者ライディーンまで出すところなんて、おっさんどものツボを知りすぎているなり。

『レディ・プレイヤー1』の映画に「詰め込みすぎ」という印象があったが、原作を読む限り、めちゃめちゃスリムにしていることが分かる。

さらに、原作小説の続編も出ている。もちろんタイトルは、”Ready Player Two” で、「最後のイースターエッグ」を探す展開になりそう。紹介を見る限り、もっと強い敵が登場するだけでなく、人類存亡の危機になるという。

過去の「物語の探求」読書会はこちら。

第1回:面白い物語の「面白さ」はどこから来るのか? 『物語の力』を読み解く

第2回:物語を作る側の視点から『ズートピア』の面白さ、怖さ、凄さを語り尽くす

 


2021.1.24追記

『レディ・プレイヤー1』のネタを300個紹介する動画を見つけたのでご紹介。

  • VRゴーグルを掛けていたのがアタリ社のジョイスティック
  • ダンスフロアでの銃撃戦では、『エイリアン2』でリプリーが使ってたアサルトライフルで反撃
  • エイチのジャケットには「ロッキー・ホラー・ショー」のワッペンが貼ってある
  • ジル・バレンタイン(バイオ・ハザード)、ビートルジュース、フレディ・クルーガー(エルム街の悪夢)など、ホラー系も充実してた

等々、とにかくネタ満載だ。BTTFのデロリアンとか金田のバイクのような分かりやすいやつから、細かすぎて伝わらないものまで、300連発ノンストップで紹介する。

『レディ・プレイヤー1』を視聴された方なら、驚くこと請け合いの動画なり。ちなみに、「おばさんの来ていた服がターミネーター2のおばさんと同じ」というネタは無かったw

 

 

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「科学」と「正義」を混同すると、たいてい地獄ができあがる『禍いの科学』

アヘン、マーガリン、優生学、ロボトミーなど、科学的に正しかった禍(わざわ)いが、7章にわたって紹介されている。あたりまえだった「常識」を揺るがせにくる。

ヒトラーの優生学

たとえば、アドルフ・ヒトラーの優生学。

劣悪な人種を排除すれば、ドイツを「純化」できると信じ、ユダヤ人を虐殺したことはあまりにも有名だ。

だが、ガス室へ送り込まれたのは、ユダヤ人だけではない。うつ病、知的障害、てんかん、同性愛者など、医者が「生きるに値しない」と選別した人々が、収容所に送り込まれ、積極的に安楽死させられていった(『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』が詳しい)。

『禍いの科学』によると、ナチスの優生学は、ヒトラー自身が編み出したものではないという。出所は、『偉大な人種の消滅』という一冊の本で、ヒトラーが読みふけり、「この本は、私にとっての聖書だ」とまで述べたという。

『偉大な人種の消滅』はマディソン・グラントが書いたものだ。ニューヨーク生まれ、イェール大学を卒業し、弁護士として成功した後、自然保護運動で活躍する。バイソンやレッドウッドといった絶滅危惧種を救うことに尽力したとある。

グラントはそこで、「北方人種」の純血性を守れと主張する。茶髪か金髪の碧眼の白人こそが「純粋」で、米国人の遺伝子プールに劣等人種が入ってこないよう制限すべきだという。

この本は、科学専門書として扱われ、権威ある学術誌 ”Science” や ”Nature” 、”American Historical Review” で高く評価されるだけでなく、当時の大統領である、ルーズベルト、カルビン・クーリッジの両氏が絶賛したという。

現代の感覚だと非常識の極みだが、当時は真面目に採択され、1917年に、知的障碍者やてんかん患者の入国を規制する「移民制限法」が可決される。同年に公開されたハリウッド映画『黒いコウノトリ』は、欠陥のある者を抹殺し、国を救おうというメッセージが込められており、熱狂的なファンに支えられ、10年以上にわたって上映されたという。

さらに、医学会、科学界に支持され、強制不妊手術が合法化される。米国は断種合法化の先進国であり、知的障碍者、梅毒患者、精神障碍者、アルコール中毒者、てんかん患者に不妊手術が行われたという。

「人類進化を自己決定できる」という優生学は、より良い社会を作るために実行された。ナチスは、それを最悪の形で現実化したものだといえるだろう。

レイチェル・カーソンの欺瞞

もう一つ、わたしの「常識」が揺さぶられたのが、レイチェル・カーソンの欺瞞だ。

カーソンと言えば『沈黙の春』が有名だ。環境保護の重要性に目を向け、社会運動を起こした一冊で、20世紀の最重要100冊リストにも入っているのだが、本書は欺瞞に満ちているという。

『沈黙の春』というタイトルの理由は、下記の一節による。

かつて町では、夜明けとともにコマツグミ、ネコマネドリ、ハト、カケス、ミソサザイをはじめとするいろんな種類の鳥たちの声が響き渡っていたが、今では聞こえる音もなく、沈黙があたりを支配している。

なぜ鳥が歌わなくなったか。DDTを始めとする農薬のせいだ。DDTは鳥を殺す。鳥だけでない。元気だった子が具合が悪くなり、死んでしまう。女たちは不妊や早産に悩まされる。先天性異常、白血病、がん、肝臓病が増える―――と、環境汚染を警告する。

これ読んだ頃の時代の風潮なのか、アニメ映画『風の谷のナウシカ』や『複合汚染』(有吉佐和子)、『わたしの赤ちゃん』(日野日出志)のイメージと合わさり、わたしの中で、「DDT=猛毒」と結びついた。

『沈黙の春』は発売直後からベストセラーとなり、22カ国語に翻訳され、国際的な名声を博す。その影響は大きく、1970年の国家環境政策法を始めとし、様々な環境保護の法律を成立させ、環境保護庁、労働安全衛生局を設立させる。そして、ヤリ玉に挙げられていたDDTは禁止となった。

DDTの禁止は、最も恥ずべき行為の一つ

問題はここからだ。

世界各地でマラリア、黄熱、デング熱が大流行する。

DDTは、こうした病気を媒介する蚊に対して非常に効果がある。実際インドでは、DDT散布によって、年間マラリア発生件数は1億件から6万件に減少した(1952~1962)。ところが、DDTの使用停止によって、600万件に増加したというのだ(1970年代後半)。

他にも、ネズミ、プレーリードッグ、ジリスに寄生して感染症を媒介するノミにも効果があるという。こうした病気を事実上根絶できたことを踏まえて、5億人の命を救ったと推定されている。DDTは、歴史上のどんな化学薬品よりも沢山の命を救ったといっても過言ではないという。

DDTが禁止されることで、本来ならば死ななくても良い人(ほとんどが5才未満の幼児)が亡くなったという(『禍いの科学』p.208には「1972年以降、5000万人が命を落とした」とあるが、出典は書いていない)。

マイケル・クライトンは「DDTの禁止は、20世紀の米国において最も恥ずべき行為の一つだった」と書き、「私たちには多くの知識があったのに、そんなことはお構いなしに、世界中の人々が死ぬに任せ、気にも留めなかった」と述べている(同書p.209 ※1)。

さらに、カーソンの警告に反し、ヨーロッパ、カナダ、米国の研究により、DDTは肝臓病や早産、先天性異常、白血病の要因にはならないことが示されたとある(同書p.209)。

もちろん、カーソンがこうした追試研究を知る由もない。しかし、カーソンが知ってて伏せた統計情報が明るみに出されている。

カーソンは不都合な事実を伏せた?

それは、クリスマス・バード・カウント調査になる。年末年始にかけて行われ、ボランティアにより野鳥の数がカウントされる。1900年から毎年行われているイベントだ。

この調査によると、DDTが使用されていた期間は、全ての種類の鳥が増え続けていたという。カーソンは、ホシムクドリ、コマツグミ、マキバドリ、ショウジョウコウカンチョウが被害を被った事例に注目しているが、どの鳥も、5倍増えていたという結果になる。

レイチェル・カーソンは、全米オーデュボン協会の会員で、毎年のクリスマス・バード・カウントにも参加していた。だから、彼女が鳥の変化について知らなかったはずはない。にもかわらず、カーソンは、このデータを取り上げないことを選んだ(同書p.211)。

『沈黙の春』の文章は美しく、情緒豊かに強い説得力で、読者の心に訴えかけた。だが、それを支えるデータは少なく、誰かの目撃談や、具体的なエピソードに多くのページを割いているという。本書の結論はこうだ。

レイチェル・カーソンは科学者だと自称していたが、結局のところ、そうではなかった。彼女は、自分の偏った意見に合うように真実を捻じ曲げる論客だった(同書p.214)。

『沈黙の春』は、これまで見過ごされがちだった環境汚染に目を向け、社会を変える運動にまで変えていった。この功績は疑いようもない。その一方で、データよりも自説を優先し、助けられたはずの命を失わせた罪も大きい―――『禍いの科学』は、こう結論付けている。

「科学的に正しかった愚行」からの教訓

「科学的に正しい」として下された判断、実行された政策が、実は最悪の手だった―――歴史を振り返ると、そんな話が多々ある。

『禍いの科学』は、その原因を紐解き、教訓を探る。「データに基づいて考えよ」「時代の空気に流されるな」「毒も薬も量次第」など、有用なものも多い。これからの「科学的に正しい」判断を考える上で、役に立つだろう。科学的に正しいことと、それが正義であることは別なのだ。

だが、本書にも注文がある。レイチェル・カーソンの欺瞞を攻撃する根拠として、データの裏付けの乏しさをあげつらい、「データに基づいて考えよ」と説く。それにもかかわらず、本書でデータの裏付けが果たされていない。

『沈黙の春』の反証となる、様々な数値や研究成果が述べられているが、その出典が注釈に無い(※2)。かろうじて巻末に参考文献一覧があるが、本文のどこのエビデンスとしているか紐づけがされていない。データが全てというならば、隗より始めるべきだろう。

Wazawai

※1 本書に出典は明記されていないが、Michael Crichton ”State of Fear” (邦訳は『恐怖の存在』)に、類似した発言がある[URL]

"Since the ban [of DDT ], two million people a year have died unnecessarily from malaria, mostly children. The ban has caused more than fifty million needless deaths. Banning DDT killed more people than Hitler."

“[DDTが]禁止されてから、マラリアにより、死ななくていい人が毎年200万人も亡くなり、そのほとんどが子どもでした。DDTの禁止が、死ななくてもいい5000万人以上の死を引き起こしたのです。DDTの禁止は、ヒトラーよりも多くの人を殺したのです”

※2 注釈や出典が明記されていないのは邦訳版であるから……という可能性もある(翻訳の際、注釈を切り捨てる出版社も多々あるから)。原書は手に入らないが、Goodreadsのレビューに "there are no footnotes or source citations for Offit's facts" というコメントがあり[URL]、Offit(著者)の主張を支える出典やソースが存在しないことがうかがえる。

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諸星大二郎『美少女を食べる』を読むと、自分が食べているものが信じられなくなる

法外な会費をとり、秘密裏に開かれる「悪趣味クラブ」。不定期に開催される秘密の会合なのだが、そこで「美少女を食べる」という特別ディナーの席がもうけられる。

もちろん、リブロース(肩)やランプ(お尻)の肉を提供するのだから、少女の命はない。当然、料理人も、そのレストランも、罪に問われるだろう。そして、それを承知で食べるほうも犯罪に加担しているも同然だ。

しかし、そんなことがありうるのだろうか? いくら悪趣味だとしても、人を殺して食べるような外道が許されるのだろうか?

少女の写真やドレスが展示され、彼女が行方不明になったことを報じる新聞記事が回覧されるが、招待客は半信半疑だ。

これは、そういう雰囲気をつくり、思い込ませることで、「少女の人肉料理を食べる」という背徳感やスリルを楽しむ、一種の演出、悪趣味なショーなのではないか? と疑い始めるのだが……

……この話を聞いて、どう思われましたかな? と続く。

Bishoujo

これが非常によくできているのは、枠物語の構成であるところ。枠物語とは、一つの物語の中に別の物語を含む形式だ。物語を虚構とさせないために、その物語の中の人が「こんな話があってね……」と語らせる。

美少女を食べる物語を、「そのまま」描こうとすると、完全なフィクションとして成立させる他ない。

例えば、そのまま描いたのなら、森山塔の『デマコーヴァ』を思い出す。キッコーマン1本分を浣腸され、痒みと苦痛に身悶えする様はグロテスクで淫靡なり。だが、描くほうも読むほうも「物語=虚構」というお約束を成り立たせている。

だが、諸星大二郎が描く『美少女を食べる』は、物語と現実を、どこまですれすれにできるかという試みる。そして、この物語は、読み手によって、いくらでも残酷にも滑稽にもなりうる。

おそらく、美少女を食べるお話は、いま描こうとすると猛烈な反発を食らうだろう。だから、いったん「こういう話があってね」とフレームに入れる。そして、その外側で真偽の吟味を図る―――という物語で見せるのだ。

同様に、両腕のない女の話や、女の〇を切り落とす話など、一見、受け入れがたい素材を、一味違った形で料理する。その諸星大二郎アレンジが大変面白い。どこかで見たことのある話のような―――と感じたら、それは正しい。巻末に元ネタがあるので、一通り読んだら答え合わせをするといいかも。

淫靡で禍々しい料理をご賞味あれ。

Bishoujowo

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