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読み方を学び、文学と出会いなおす『クリティカル・ワード 文学理論』

「文学」に興味がある人に、強くお薦めする。

『クリティカル・ワード 文学理論』は2部構成となっており、どちらから読んでも得るもの大。

一つは、「基礎講義編」、現代文学の第一人者の小論を、腰据えて読む。テーマは「読む」「言葉」「欲望」「世界」とあり、文学を理論的に思索するとはどういうことか、という問いに対し、この小論そのものが実践的な解になる(この手法は身につけたい)。

もう一つは、「トピック編」、パラパラ眺め、目を引いたキーワードを拾い読む。すると、自分の興味のすぐ隣に、さらに面白い議論があることが分かる。「ジェンダー」や「ポストヒューマン」といった分野ごとに、見取り図が提示され、それぞれの主張を支える構造が確認できる。

Bungaku

どちらからでもいいが、基礎編で手法を学び、トピック編で応用されている議論を俯瞰すると入りやすいかも。この、基礎→応用で、最もわたしの興味を貫いたのは、エドワード・サイードになる。

対位法的読解

基礎講義編では、様々な読み方が紹介されている。

自分でも色々な読み方ができると思っていたが、テクスト論や徴候的読解、言語の脱領土化など、新しい&強力な読み方を知ったのが収穫だ。

なかでも、サイードの「対位法的読解」が目を引く。

これは、音楽の対位法から着想を得たスタイルで、主著『オリエンタリズム』や『文化と帝国主義』において実践した、斬新な読みになる。

前提として、テクストは、かならず多声的(ポリフォニー)だという。そのため、「作者の意図」や、「〇〇イズム」といった単一の意味に収斂するような単声的読解を退ける。その一方で、それぞれの声がバラバラの「なんでもあり」とはならず、ゆるやかな関係性を保つように読むのだ。

具体的には、ジェイン・オースティン『マンスフィールド・パーク』を俎上に据えられる。この小説、ふつうに読むと、ユーモアたっぷりの恋愛劇に見える。イギリス的な荘園を舞台に、恵まれない境遇の少女が、道徳心を縁に困難を乗り越えてゆく物語だ。

しかし、サイードは、一見何でもない描写―――西インド諸島の植民地プランテーションへの言及に着目し、その糸口から、作品全体の裏地を炙り出す。いかにもイギリス的な小説世界は、実は、植民地の奴隷労働で維持される収奪システムの上に成り立っていることが明らかにされる。

ポスコロ→ジェンダー論の応用

支配のための意味づけによって見えなくされていた関係性を見出し、支配的言説を批判することで、絡まり合った歴史を解きほぐす<読み>だという。ポストコロニアル批評と呼ばれ方法論は、後半において、様々なトピックに応用されている。

その中でも「ジェンダー・セクシュアリティと文学」が顕著だ。

男性には気づきにくいが、家父長制社会では、男性中心の言説が支配的になる。そして、この言説で構築された物語に女性を押し込めてきたという。女性を抑圧する父権性は社会に構造化されており、関係性は見えづらい。

そこで、サイードの手法を用いて可視化する。

目に見えている表象から、その背景にある言説を炙り出し、それが支配を正当化していることを論証する。

対位法的読解によるオリエンタリズムをジェンダー論に応用すると、西欧白人中心主義による植民地支配の構造は、そのまま男性中心主義による、女性支配に置き換えることができる。

文学理論の暴走

これ、やり方によっちゃ無敵の武器になる。

援護しているのは、デリダのテクスト論だ。書かれたものについて、作者や世間のイメージから切り離し、多様な読みを認める手法だ。作者の意図や論壇の権威に配慮することなく、書かれたものだけを頼りに、批判的に検証する。

そのため、ただの恋愛小説や冒険物語といった、「政治」とは無縁に見える小説から、植民地収奪システムや帝国主義的関係が織り込まれていることを、解きほぐすという読み方ができてしまう。

要するに、なんとでも読めてしまうのだ。最近よく見かけるハンマー「現在の価値観でもって歴史を殴る」も、この延長上にある。本書では、「対位法的読解」=「自分の主張に引き付けて読む」という姿勢を戒める。

安易な応用が、あらゆるテクストから「帝国主義的イデオロギー」という「ひとつの意味」を抽出して非難することで事足れりとする「単声的」な態度は、対位法的読解の主旨に著しく反する。

これは分かる。しかし、だとするとサイードがしてきたことがまさに「オリエンタリズム」という単声性に収斂させる仕事になるのではないか? という疑問が生じてしまう。

おそらくこれは、ピッと線引きできる簡単な話ではなく、サイードが著した『オリエンタリズム』のような膨大な質量の蓄積があって始めて主張できる議論なのだろう。単純に、手法をマネすれば同じことが言える、という話ではなさそうだ。

 

 

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