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美は人を沈黙させるが、饒舌にもさせる『栗の樹』

Kobayashi

栗の樹小林秀雄の読書会をするというので、『栗の樹』を読んだら、激しく同意するところと、納得いかないところが割れて、なかなか面白かった。

西行や孔子、ゴッホ、トルストイといった、骨董の真贋といったテーマを通じて、批判対象に徹底的に具体的たらんとする姿勢は、激しく同意する。別の書の「美しい花がある。花の美しさというものはない」なんて、美とは何かについて、有力な応答だと思う。

あるいは、「『平家』は読んでも分からない。昔の人は聞いたのである」という件は100回膝を打った。古川日出男『平家物語』を読んでいる際、たくさんの声・声・声を肌合いで感じつつ、自分でも音読していたから。

言葉は目の邪魔になる

しかし、美について言葉は無用というのは、ちょっと違うのではないか。「美を求める心」でこう述べる。

例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫(すみれ)の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でおしゃべりをしたのです。

そして、「菫の花」という言葉が心の中に入ってくると、もう目を閉じてしまうという。花の姿や色の美しい感じを、「菫の花」という言葉に置き換えて、見たことにしてしまう。それはしゃべることであり、見ることではない。言葉は目の邪魔になるというのだ。

ここは、「言葉」を「名前」に替えるなら、その通りだと思う。わたしたちは、ものに名前を付けて、分かったふりをするのが得意だ。新たな経済現象から新種の元素まで、名前さえつければ解明できたとする、悪い癖だ。

名前で分かったふりをせず、その花の美しい感じをそのまま持ち続け、見続けることで、花はかつて見たこともないような美しさを明らかにするという。その通りだろう。

美は人を沈黙させる

半分同意で、もう半分はツッコミを入れたい。

美しいものは、諸君を黙らせます。美には、人を沈黙させる力があるのです。これが美の持つ根本の力であり、根本の性質です。絵や音楽が本当に解るということは、こういう沈黙の力に堪える経験をよく味わうことに他なりません。

ここまでは、そうだなと感じる。心を震わせる芸術に触れたとき、息をのむほどの景色を目の当たりにしたとき、わたしたちは言葉を失って、ただ目だけ・耳だけの存在になる。

しかし、ここから先、物の本質を知ろうとする行為は、物の姿を壊すことだという点には、少し違うと思う。対象の構成要素を分解して、それぞれについて一つ一つ分析していく方法では、美しさを解ることには至らないという。

たとえば、ある花の性質を知るとは、どんな形の花弁が何枚あるか、雄蕊、雌蕊はどんな構造をしているか、色素は何々か、という様に、物を部分に分け、要素に分けて行くやり方ですが、花の姿の美しさを感ずるときには、私たちは何時も花全体を一目で感ずるのです。

言わんとしていることは分かる。それでも、美が強いる沈黙に負け、分析したり、誰かに伝えたくて饒舌になることを、「美が解っていない」かのように語られると、それは違うと思う。

分かるとは分けること

おそらく、小林自身も承知しているだろうが、「分かる」という言葉は「分ける」とも使える。文章では「解る」と表現しているが、これは「分解する」につながる。わたしたちは、世界を知るときに、時間なら因果、空間なら要素の軸に沿って分けようとする。

そのため、菫の花の美に触れたとき、それがどこからやってきたかを知るためは、因果や要素に沿って解る必要がある。小林は、花そのものを分解し、雄蕊や雌蕊に分けてみせた。そんなことをしたら、花はばらばらになってしまう。

しかし、花の色合いが好ましいのであれば、自分を落ち着かせる効果があるからと、因果関係を見て取ることができる。物理的に分解せずとも、花弁のある部分の形が黄金比を成していることに、普遍的な美を見出したのかもしれぬ。

こうした還元主義的なアプローチだけでない。あるいは、関連する古典や歴史、生物学の知識や、その花から想起される思い出をつなぎあわせ、花の美しさは、自分の内側に積み上げてきた経験にも裏打ちされていることに気づくかもしれぬ。

菫の美しさを詠った歌人は、万葉集や西行、良寛そして宣長と連綿と続く。人は、美しいものに触れたとき、それを何とか言葉にして伝えようとする存在なのだ。

理解するためには言葉が必要

菫の花のような自然ではなく、芸術作品だと、人は、さらに饒舌になる。

たとえば、わたし自身、何も知らず、無手でゴッホやセザンヌに向かい合ったとき、「なにかが違う」という違和感しかなかった。なぜ対象物を正確に写し取らず、歪んでいるのかが解らなかった。

美術の物語しかし、E.ゴンブリッチの世界的な名著である『美術の物語』を通じて、自分が受けたものが何であるかを知ることができた。ピラミッド時代から続く「見たままを写す」美術の歴史から外れたことで、セザンヌはこの世界に地滑り的な変化をもたらしたという。

セザンヌがやろうとしたことは、「色彩によって立体感を出す」ことだという。明るさを殺さずに奥行きを感じさせ、奥行きを殺さず整然とした構成にするために工夫を重ねた結果、多少輪郭が正確でなかろうとも、あまり気にしなかったというのである。

この解説を手がかりに、彼らがやろうとしたことは、写真のような正確さではなく、その絵を見た人がどう感じるかの知覚や体験を重視していると考えるようになった。本書を通じて、いわば新しい目を手に入れたともいえる。

これ、独りでセザンヌの絵を眺めていても、決して得られない「目」だろう。小林を始め、評論家という存在は、まさにそのためにあるのだと考える。

語り尽くしたあとの沈黙

もちろん、言葉を尽くしても語りえぬものがある。ひょっとすると、小林秀雄は、この語りえぬものまでも念頭に置いていたのかもしれぬ。

美しいものに触れ、言葉を失った後、我に返り、ひとしきり饒舌に語る。そこで語りつくせなかった感動が静かに身体に満ちてゆくのを、「感動に満ちた沈黙」と名づけたのかもしれぬ。

小林秀雄の読書会は、哲学Youtuberネオ高等遊民さんの[哲学読書会サークル]でやってる。講師役のスケザネさんの第0回の解説は、[ここ]で聴くことができる。

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オンライン読書会で何が怖いか募ったら、1位が人間、2位が自然だった

お薦め本を持ち寄って、まったり熱く語り合う読書会、それが [スゴ本オフ]

いつもは皆で集まるのだが、世情が世情なだけに難しいので、Zoomでオフ会することになる。「オンラインでするオフ会」とは奇妙だが、主流になりつつある。

とはいってもノリは同じで、テーマを聞いてピンときたお薦めの作品への愛を語る。本でも映画でも、音楽やゲームなんでもあり、展覧会や舞台を紹介して頂いたこともあった。

で、今回のテーマはホラー。夏には少し早いけれど、現実がホラーに侵食されつつあるいま、リアルに呼応したところに反応してしまう。『呪術廻戦』から『The Last Of Us』まで、様々なホラーが集まる。

人間が一番こわい

いくつかの作品に共通するのが、「生きてる人間が一番怖い」という思いだ。ゾンビや妖怪、ウイルスや獣といった類は、だいたい何をするか分かる。やってることは殺人や破壊でも、当人にしてみれば食事だったり繁殖になる。

だが、生きてる人間は、何をするか分からない。それぞれの欲望を秘め、とんでもなく邪悪なことを平気でしでかし、言い逃れ、あくまで自分が正しいと言い張る。

わたしが紹介した、『The Last Of Us』なんてまさにそうだ。謎の寄生菌のパンデミックが発生し、荒廃した世界で生き抜く男と少女を描いたサバイバルホラーだ。寄生されゾンビ化して襲ってくる異形は、確かに怖い。捕まったら即死というモンスターもいる。

だが、狂った世界で最も怖かったのは、人間だ。

人間は「意図」が分からない。なまじコミュニケートできるからこそ、不気味だ。主人公たちは、異形のモンスターだけでなく、自分たちを陥れようとする人間をも相手にしなくてはならない。

「なぜ人間どうしで争い合うのか?」という質問をもらったが、ネタバレを回避すべく、「いちばん不足している物資は、食料だ」と答えておく。来月続編が出るが、おそらく、最も厄介な敵は、人間だろうな……

「人間が怖い」つながりで出てきたのが、みづほ梨乃『ショコラの魔法』だ。

「どんな願いでも叶えてくれる」魔法のチョコレートをめぐる少女コミックなのだが、これが怖い怖い。人は、さまざまな願いを持っている。キレイになりたいとか、成功したいとか、イヤなあいつを陥れたいとか―――そういう願いが、チョコレートという触媒を経て「欲望」に変わる。

もちろん、約束どおり欲望は満たされる。美しくなるとか、あいつが酷い目に遭うのだが……予想通り、後味の悪いノワールな展開になる(ジェイコブズ『猿の手』のパターン)。「小さい女の子に読ませて大丈夫かよ!?」と思ったけど、むしろ「等価交換」とか「人を呪わば穴二つ」を学ぶ良い機会なのかも。

自然は怖い

心臓がキュッとなるのがこの映像。

米国の有名なクライマーが、素手で岩を登ってゆくのだが、安全装置などは使用していない。

岩の割れ目の狭いすき間に手を差し込んだり、ほんのわずかなでっぱりに指をかけて、身体を持ち上げる。柔らかそうなシューズが、ただ壁に当たっているだけで、どこも引っ掛っていないように見える(でも立っている)。

「フリーソロ」というらしいが、見ているこっちの心臓に悪い。あたありまえだが、落ちたら死ぬ。CGであって欲しいのだが実写。その映画がこれ。

山つながりで、ディアトロフ峠事件の紹介も。

1959年に、ウラル山脈で9名の男女が遭難事故があったのだが、その現場が酸鼻を極めていたという。氷点下の極寒の中で衣服もつけておらず、全員が靴を履いておらず、3人は頭蓋骨折、1人の女性は舌を喪失しており、異常なほど放射線が残っていたという。

この謎に迫ったドニー・アイカー『死に山』が紹介されるのだが、ネタバレ抜きの感想としては、「自然は怖い」になる。この事件がベースとなり、ブレアウィッチプロジェクト(映画版)ができたと聞く、知らなかった!

自然が怖いつながりで、『羆風』が出てくる。吉村昭『羆嵐』かと思いきや、釣りキチ三平を描いた矢口高雄の劇画だという。モデルとなっているものは同じく[三毛別羆事件]だ。人間の味を覚えた羆が数度にわたり村を襲った事件で、圧倒的な暴力の前に、人は成すすべもないことが分かる。『羆嵐』は凄かったので、『羆風』を読んでみよう([Kindle アンリミで読み放題])。

他にも、日常とデモが共存する香港の現実や、フォトショで作る最近の心霊写真の話、日本人だとラヴクラフトは怖くない、あるいは映画版『シャイニング』が許せるか等……

「怖さ」といっても様々であることが分かる。いろいろ伺ったが、わたしにとっては、やはり人間が一番恐ろしく、次が自然になる。お化けや妖怪の類は、怖いというより親しみを感じてしまう。

以下、紹介された作品リスト。次回は、「冒険」をテーマにお薦めしあいましょう。

  • The Last Of Us(ノーティドッグ開発)
  • The Last Of Us Part II (ノーティドッグ開発)
  • 雨月物語 吉備津の窯(上田秋成、石川淳、ちくま文庫)
  • エミリー・ローズ(スコット・デリクソン監督)
  • プリースト 悪魔を葬る者(チャン・ジェヒョン監督)
  • 巷説百物語(京極夏彦、KADOKAWA)
  • うわさの怪談 闇(マーク・矢崎治信、成美堂出版)
  • ショコラの魔法(みづほ梨乃、小学館)
  • 猿の手(ジェイコブズ)
  • 化物語(西尾維新、講談社)
  • オジいサン(京極夏彦、KADOKAWA)
  • ねじの回転(ヘンリー・ジェイムズ)
  • 呪術廻戦(芥見下々、集英社)
  • チェーンソーマン(藤本タツキ、集英社)
  • 絶対帰還。(クリス・ジョーンズ、光文社)
  • ディアトロフ峠事件
  • 死に山(ドニー・アイカー、河出書房新社)
  • ブレア・ウィッチ・プロジェクト(エドゥアルド・サンチェス監督)
  • フリーソロ(ジミー・チン監督)
  • 神秘家列伝(水木 しげる、KADOKAWA)
  • この世の王国(アレホ カルペンティエル、水声社)
  • ヨハネの黙示録(小河陽、講談社)
  • なにをたべたかわかる?(長新太、絵本館)
  • プリニウス(ヤマザキマリ、とり・みき、新潮社)
  • 狂気の山脈にて ラヴクラフト傑作集(田辺剛、KADOKAWA)
  • ハンニバル・レクター博士のモデル(ヘンリー・リー・ルーカス)(URL
  • 風の谷のナウシカ(宮崎駿、徳間書店)
  • ペスト(カミュ、新潮社)
  • インターステラー(クリストファー・ノーラン監督)
  • シャイニング(スティーヴン・キング)
  • シャイニング(スタンリー・キューブリック監督)
  • 羆風(戸川幸夫、矢口高雄、ヤマケイ文庫)
  • 福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件
  • 八九六四 「天安門事件」は再び起きるか(安田峰俊、KADOKAWA)
  • 勇午 香港編(真刈信二、講談社)

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「感染する自由か、監視された健康か」というレトリック『現代思想5:感染/パンデミック』

「健康」という言葉には色が無く、中立的な善のように見える。

しかし、誰も反対しない中立的な言葉からこそ、先入観や政治色を押し付けることができる。無条件に「よい」だと認められるからこそ、レトリックに気づきにくい。

たとえば「感染する自由か、監視される健康か」と迫られるときには、そのレトリックの向こう側を考える。わたしは、二者択一を迫るメッセージには、無条件で警戒している。あるはずの他の選択肢を覆い隠してしまうことを、恐れている。

情報が近すぎるし、早すぎるから、立ち止まって吟味したい。

LINEによる健康調査

引っ掛っているのは、LINEの健康調査だ。

厚生省による新型コロナ対策のための調査として、LINEを用いたアンケート調査がある。5/1より複数回にわたって行われ、わたしも回答している。

立ち止まって考えたいのは、これが大きな議論や反発がされることなく、なんとなく受け入れられているように見えることだ。

ひょっとすると、わたしの感度が鈍いのかもしれないが、個人が利用するアプリに、同意なく調査依頼を送ることは、どこかで問題視されていたのかもしれない。

だが、一部の反発がつぶやかれただけのように見える。この先にあるものは、携帯端末を通じた監視社会だから、様々な意見が百出するかと思いきや、たくさんの話題の一つとして流されようとしているように見える。

断っておきたいのは、この施策に反対しているわけではない。PSYCHO-PASSが象徴する健康ディストピアの入口にいるようで、むしろ興味深いと思っている。そして、権力が健康にどこまで介入するのか、しっかり見たいと考えている。

わたしが問題視するのは、このテーマが、ろくに議論されていないように見えることだ。「健康」という、反発しにくい言葉を盾に、なし崩しになっているように感じられる。重要かつ緊急だから仕方がない。了解だ。だけど、それは議論しなくていい理由にはならない。

ウイルスは社会統制を正当化するのか

わたしのアンテナが低かったようで、この議論は既に海外でされていた。『現代思想5:感染/パンデミック』にある、スラヴォイ・ジジェクの小論(*1)で分かった。

コロナウイルスの蔓延により、社会統制が正当化されてきたことに、リベラルや左派は警鐘を鳴らしてきたという。ウイルスが引き起こしたことは、「誇張した混乱」とされ、社会統制のための権力行使に利用されてきたというのだ。

しかし、ジジェクは、このように社会を解釈したところで、脅威を湛えた現実は消えないという。ウイルスの蔓延を押さえるために必要な措置を、フーコーが普及させた「監視と制御」というおなじみの範例へと切り詰めるべきではないという。

そして、より微妙なニュアンスを表現できる言葉を作り出す必要を訴える。

そこで引用されているのは、デザイン理論家・ベンジャミン・ブラットンのツイート(*2)だ。

単刀直入に言って、あらゆるかたちのセンシングとモデリングを「監視」として、また積極的なガバナンスを「社会統制」として反射的に解釈してしまうのは間違っている。現状に介入するためには、それらとは異なる、もっとニュアンスに富んだ語彙が必要なのだ。

Preempting the replies: It is a mistake to reflexively interpret all forms of sensing and modeling as "surveillance" and active governance as "social control." We need a different and more nuanced vocabulary than the one  habituated from tendentious readings of Foucault.

健康係数を色で分ける

監視・管理・制御のプラットフォームが構築され、社会インフラとして活用されてゆく様は、社会思想史を専門とする水嶋一憲の小論(*3)でまとめられている。

そこでは、アリババグループが開発した「健康コード」システムや、シンガポールにおける感染経路を追跡するためのスマホ用アプリ「トレース・トゥゲザー」、さらには厚生省のLINEによる健康調査が紹介されている。

特に、コードスキャン機能で判断された健康状態を緑・黄・赤の色別にし、色に応じて公共空間のチェックポイントを通過・制限が行われる様は、PSYCHO-PASSの犯罪係数に基づいた色相を彷彿とさせる。心理の計測は難しいが、体温なら比較的簡単だ。

ウイルス検査やトレーシングを、「監視」だとして批判する匿名性原理には、個人の自由をどこまで重んじるかという選択と共に、感染リスクの高い人々を危険にさらしてもよいのかという、倫理的な判断が含まれると説く。

みんな大好きフーコー先生を持ち出して、監視・パノプティコン・生政治で叩く方法は、短絡的すぎるのかもしれぬ。「ウイルスか、自由か」という二択の間に、もっと議論できるポイントがありそうだ。

感染者・接触者を包括的に追跡できる法律

5/14 のナショナルジオグラフィックに、「韓国はいかに感染爆発を食い止めているのか」という記事がある(*4)。ビッグデータを活用した接触者の追跡が奏功したとあるが、それは、「感染者・接触者を包括的に追跡できる法律」による施策だという。

この法律は、2015年に流行したMERS(中東呼吸器症候群)の教訓から制定され、以下の体制が整えられている。

  • 感染者および感染者に接触した人を、追跡して隔離できる
  • クレジットカード会社や携帯電話会社の履歴情報を取得し、それをもとに対象の行動経路が再現できる
  • 再現された経路は、本人の氏名を伏せて公開される

では、日本ではどうするの? という話になる。

上手くいっているから取り入れようとする考え方と、今の内閣でそれするの? という意見もある。おなじみのフーコー先生やビッグ・ブラザーを持ってくる人もいるだろう。この法案が動き出したら、「国民監視法」と名づける新聞も出てくるだろう。

現在、段階的な緩和の方向で進んでいるものの、揺り戻しが来る可能性がある。あるいは、遺伝子の水平伝播による長期化を招き、COVID-20を名づける必要が出てくることも考えられる。

その時になって是非を騒ぐのではなく、今の段階で、どこまでやってよいのか、誰がガバナンスするのかを話し合っておかないと……と考える。

韓国のデータ収集は、プライバシー侵害にあたると考える人がいるが、韓国国民からは広く支持されているという(当記事には、78%が人権よりウイルス封じ込めを優先する回答をしたとある)。日本ではどうだろうか。

おそらく、第二波が来るときだと、議論どころではなく、法案はスピード可決が求められるだろう。強力な手が打てないのは、後ろ盾となる法律がないからという理屈で、迅速に進められるだろう。

「ウイルスか、自由か」の二択にしないために

繰り返すが、現在の流れに反対したいのではない。

むしろ、わたし自身は、自分の健康状態を知らせることに抵抗を感じにくくなっているように思える。

問題は、この「感じにくくなっている」ことについて、反対する人がいるはずなのに、その声が聞こえてこないこと。この感覚がどこまで妥当か、吟味されるべきなのに、その主張が息をしていないように見えることだ。

本来の立場からすると批判するべき人が、率先して賛成してしまっているのではないか? 価値観の風向きが変わるのを見て、歴史や他国の事例を紹介することを躊躇っているのではないか、それを心配している。

わたしは、自分の考え方をアップデートするとき、その背景や根拠、歴史からの吟味を経た上で、実行したい。吟味をせず、いきなり「ウイルスか、自由か」の二択にしてしまいたくない。両者の間に、別の選択肢があるはずだから。

Kansen

*1 スラヴォイ・ジジェク「監視と処罰ですか? いいですねー、お願いしまーす!」 MONITOR AND PUNISH? YES, PLEASE! (2020/3/16) http://thephilosophicalsalon.com/monitor-and-punish-yes-please/

*2 @bratton,2020/3/9 のツイート

*3 『現代思想5』p.38「コモン/ウイルス」解体するスペクタクル・デジタルメディア技術・コモンのケア

*4 Nathinal Geographic 2020/5/14 新型コロナ、韓国はいかに感染爆発を食い止めているのか

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/051400292/

 

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「いまを生きる」に自覚的になる『瞬間を生きる哲学』

tumblr で知った仏陀の言葉が好きだ。

 過去にとらわれるな
 未来を夢見るな
 いま、この瞬間に集中しろ

 Do not dwell in the past,
 Do not dream of the future,
 Concentrate the mind on the present moment.

そう、わたしは過去や未来ばかり見る。やったことを後悔し、不確かなことを心配する。ああすれば良かったと憤慨し、こうなったらダメだと心を痛める。

この、今を後回しにする生き方を批判し、「いま」「ここ」に充足する方法を考察したのが『瞬間を生きる哲学』だ。哲学や芸術から援用し、瞬間を生きるための具体的な技術を指し示す。

生のユーティリティ化

たとえば、今を後回しにして、「何かのため」に生きる生き方を、「生のユーティリティ化」と喝破したところがすごい。ユーティリティとは、「有用性」「効用」と訳され、何らかの役に立つということ。何の役に立つというのか?

それは、入試のためとか就職のため、あるいは家族のためとか老後のため。安定した幸せな人生のため、明日や来年、場合によっては死後に設定された目標に役立たせるために、「いま」を立て続けに収奪する。

つまり、アリとキリギリスの教訓を内面化し、将来のために、いま努力する社会だ。「いつか」「どこか」のために、今を最適化する。わたしは、今を生きることしかできない。それにもかかわらず、「いま」「ここ」以外に、何かの目的や価値があると思い、そのために生きようとしてしまう。

「いまを生きる」技術

では、どうしたら「いまを生きる」ことができるのか?生を生として瞬間をじっくりと味わう―――そもそもそんなことが可能なのか?

こうした疑問に対し、プルースト文学やフロー体験、赤塚不二夫「これでいいのだ」や、サルガドの報道写真、イスラーム哲学やサティ瞑想など、様々なアプローチから「いま」「ここ」に迫る。

特に面白いのは、リアリティ炙り出し装置としての芸術のところ。漫然と過ごしてきた瞬間の一つを切り取り、それに光を当て、生々しく浮かび上げるのは、芸術の役割だという。プルースト『失われた時を求めて』の、紅茶に浸したマドレーヌが象徴的だ。

たしかに「そのとき」そこに居たはずなのに、「いま」「ここ」として実感を持って生きられなかった―――そんな瞬間が蓄積したのが過去だという。そうした中から、なにかのはずみで、思いがけず、現に生きられた時間として襲来してくる。これを、現実の再創造と呼ぶという。

記憶の彼方から圧倒的なリアリティをもって迫ってくる感覚は、確かにある。マドレーヌではないが、味や香りがトリガーとなって、それを食べた昔をありありと思い出すことはある。

いまを生きるものは永遠を生きる

では、過去を想起する形でしか「いまを生きる」ことはできないのか? 本書ではチクセントミハイのフロー体験を元に、今現在「いまを生きる」方法を紹介する。

いわゆる「時を忘れる」ことだ。何か好きなものに夢中になって、気づいたらえらい時間が経っていた……なんてことはないだろうか?

たとえば、物語に夢中になったり、音楽と一体化したり、仕事に没頭するような体験だ。行動へのフィードバックが即座に返る全能感と、行動と思考と感覚が一体化した多幸感で、時間ばかりか我を忘れるような活動だ。無我夢中で愛し合うこともそうだろうし、スポーツだと、「ゾーンに入る(being in zone)」と表現される。

この感覚はある。わたしの場合、いまがそうで、こうやって記憶をまさぐり、体験と照らしながら文章を書くとき、溢れる脳汁を感じる。あるいは、最初の中ジョッキを傾けるとき、SEKIROのラスボスを倒すとき、「生きてる!」と触れるくらい感じることができる。

このとき、人は永遠を生きるという。

この世、この生を大肯定し、死すら圧倒するほど生が露出する瞬間だというのだ。ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』にある、「現在に生きる者は永遠を生きる」という言葉と、アウグスティヌスやトルストイが言った「過去や未来なんて存在せず、ただ現在だけがある」が、重ね合わさるところ。

えいえんはあるよ、ここにあるよ

この「永遠」は、無限に遠い未来という時間的な意味ではない。

過去や未来のない無時間を指すと考える。ずっと「いま」なら死も無い(なぜなら、死は「いま」として体験できない、生の外側の存在だから)。『ONE』のラストの「えいえんはあるよ、ここにあるよ」にある、時間の無い「いま」である。

どんな未来になるのか不透明な状況で、どうしたら不安から逃れ、いまを生きることができるか? おそらく、わたしがやってはいけないのは、「テレビやネットを見る」だろう。未来が不確定であることを改めて確認し、不安を強化するか、ガセやデマに翻弄されるだろうから。

代わりに、「いま」「ここ」を充足させよう。読むこと、食べること、表現することに集中しよう。そして何より―――『失われた時を求めて』に取り掛からなくちゃ。

Shunkan

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笑いのしくみを探る『喜劇の手法』

笑うのは人間だけだとアリストテレスが言ったとか。

真偽ともかく、大きな口をあけて、アッハッハと哄笑するのは楽しい。いや、楽しいから笑うのか。この笑い、可笑しさ、ユーモアについて考えるのに、有用な一冊が『喜劇の手法』だ。

「人はなぜ笑うのか」という漠然とした疑問に対し、『喜劇の手法』は、喜劇を通じて笑いの仕組みに迫る。しかも、シェイクスピアやモリエール、ゴーゴリの作品から具体的な例を挙げ、劇作家たちが、どんな手法を用いて観客を笑わせるかを吟味している。

本書がすごいのは、紹介される喜劇を観ていなくても面白さが伝わるところ。技法を分類し、それぞれにおいて特徴的なシーンに焦点を当て、その背景とともに脚本を抜き出してくる。こんな風に。

  • だます(変装、一人二役、嘘、変身)
  • 迷う双生児、偶然の一致、反復、循環、逆転)
  • 間違える誤解、身代わり、自縄自縛、誤算)
  • 語る傍白、アイロニー、沈黙と間、機知合戦)

ゴーゴリ『検察官』と『カイジ』の鉄骨渡り

たとえば「誤解」の手法としては、ゴーゴリ『検察官』を紹介する。旅の途中に無一文になった若者が、大物の検察官と取り違えられ、地元の市長や有力者たちに歓待されるという話だ。

最初は戸惑っていた若者も、検察官になりきって、あることないこと言い出すところや、中央権力に媚びてすり寄る田舎者が笑いどころになる。本書では、個々の笑いどころに通底する、ある視点に焦点を当てる。

それは、観客の視点だという。

つまりこうだ。調子に乗ってカネを巻き上げる若者や、お追従しまくる田舎者といった登場人物には、それぞれの視点がある。だが、それらの視点に対し、絶対的な優位を保っているのが、観客の視点になる。

人違いという些細な誤りが拡大し、登場人物は混乱する。混乱は人の醜悪な面を、過剰なまでに暴く。そうした混乱を前にしても、観客は巻き込まれることなく、渦中の人物たちとは距離を置いて眺めることができる。

それは「観客席」という絶対的な場所で、すべての状況が把握できているからだという。この絶対的な優位性が、『検察官』を喜劇たらしめているというのだ。

なるほど、人の愚かさや醜さを、全てを知る視点から眺める優越感が、この作品の「笑い」になる。『賭博黙示録カイジ 』で鉄骨渡りする人が必死であればあるほど、それを安全な場所から眺める観客にとっては最高のエンターテイメントになるのかもしれない。

シェイクスピアと高橋留美子の共通点

あるいは、「機知合戦」。シェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』を元に、スティコミシアの技法が紹介される。『じゃじゃ馬ならし』の劇中劇として、じゃじゃ馬な女と、強引な男との掛け合いが出てくる。

どちらも相手を言い負かそうとして。相手の言葉尻を捉えて投げ返し、どちらが優位になるかのマウンティング合戦がテンポよく進む。お互いに対立しているのに、この掛け合いのセリフ運びについては、完璧に息が合っているのが面白い。

この掛け合いを、スティコミシアと呼ぶそうな。ギリシャ劇以来の歴史あるもので、「隔行対話」とも呼ばれるという。丁々発止の連続で、よりもと漫才などは基本的にスティコミシアで成立しているお笑いだろう。

『じゃじゃ馬ならし』は観たことも読んだこともないが、相手の言葉をつかまえて言い合う説明で思い出すのが、高橋留美子『めぞん一刻』。ほぼ全話といっていいほど、スティコミシアが出てくる。第101話「大安仏滅」のここなんて典型かも。

Mezon

ここ、「二年」という言葉尻をスティコミシアする様子と、「観客席」の優位性の両方があることが分かる。コブラ vs. マングースみたいな七尾さんと八神さんと、その間で息も絶え絶えな五代くんを、安全な場所から笑うことができる。

喜劇の手法の源泉と応用

おそらく、『喜劇の手法』を読むと、そこで紹介されている作品だけでなく、その技法を応用したコミックや映画や小説が思い起こされるだろう。そこでの面白さの源泉を味わうことができる。取り違え、誤解、騙す、アイロニーなんて、ラブコメの典型にして王道だし。

もちろんここで紹介されている技法が笑いの全てだとは限らないだろう。だが、人がどういう時に面白いと感じ、笑うのかについて、個々の例を通じて考えることができる。

笑いの本質を、具体的に考察する一冊。

Kigeki

 

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