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フェイク歴史を言ったもの勝ちになるいま、『なぜ歴史を学ぶのか』

Nazerekisi

フェイクニュースがまかり通り、「真実」が希釈化されるいま、歴史学は何ができるのか?

この疑問に答える手がかりは、アメリカの歴史学者リン・ハントが著した本書にある。

著者はまず、歴史の政治化という問題について、具体的に説き起こす。

ホロコーストを否認するメリット

たとえば、ホロコーストの否認だ。ナチス・ドイツが組織的に行った大量虐殺を「なかった」ことにする。それも、SNSや思想団体というレベルではなく、政府高官レベルでホロコーストを否認するところもあるという。

2005年12月、イランのアフマディネジャド大統領は、ホロコーストを「創り出された神話」だと発言した(※1)。ただし、核計画に対する国連の制裁を懸念し、イラン公式の報道機関は、この発言が最初からなかったかのように録画から取り除いている。

一つの歴史的事実について、なぜこのように発言するか。

それは、反イスラエル政策の一環として有効だと見なしているからだという。嘘も100回繰り返せば本当になる。2014年に行われた国際調査によれば、中東や北アフリカに住む人々のあいだでは、ホロコーストという言葉を耳にしたことがあり、事実だと認識する人はわずか8%に過ぎないという報告もある(※2)。

教科書に見る「都合の良い」歴史

過去の出来事を、自国に都合よく取捨選択するのは、初等教育の歴史の教科書が顕著だ。

日本では「新しい歴史教科書を作る会」による教科書の書き換えが問題視される一方、フランスの歴史教科書は、アフリカでの植民地統治がもたらした暴力や人種主義を過小評価しているという指摘がある。

合衆国やオーストラリアの教科書はもっと露骨だ。歴史の始まりは、コロンブスやジェームズ・クックから始まり、先住民であるインディアンやアボリジニの人々の長い歴史は、ほとんど無視されていた(最近では変わりつつあるらしい)。

中国の歴史家は、漢民族による支配を正当化するため、他民族を劣等な存在として描くものもいたという。二世紀あまり中国を支配した満州人は、野蛮で文字が読めない民族として描かれている。

顕著なのは香港の教科書。2012年に新カリキュラムが導入され、中国共産党を賛美する一方、文化大革命の暴力や天安門広場での弾圧については控えめにするように変わっている(何万人もの親たちによる反対デモがあったにも関わらず、政府は新基準を強制していった)。

歴史とは何であったか

なぜ、自国に都合の良い歴史を選ぼうとするか? 

「歴史学の歴史」を振り返ると、合点が行く。

かつて歴史学は、エリートのエリートによるエリートのための学問だった。すなわち、将来の政治家のため教養を伝授することが目的だった。そのため、俎上に据えられるものは古代ギリシアやローマの歴史であり、王と議会と戦争の政治史だった。

そして、大衆政治が誕生すると、シティズンシップの学校としての歴史が脚光を浴びることになる。すなわち、国民のアイデンティティとしての記憶を一つにし、想像の共同体を育むための歴史だ。ナショナリズムを涵養するための歴史だからこそ、インディアンやアボリジニは除外され、植民地での暴力は過小評価される。

さらに、高等教育がエリート層以外にも開放されると、労働者や女性・移民・マイノリティを迎え入れ、それらの社会史や文化史も叙述対象として拡大していく。それぞれの立場にあった歴史を語り始める。その結果が、現代の大きな不協和音の声だというのだ。

「エリートのための歴史学」の残滓は、よく見かける。「歴史学はエリートのため」という歴史が、「歴史を知っていればエリートのふりができる」というマウンティングへの訴求力につながる。Wikipediaの雑学を並べた「教養としての世界史」のような書籍や雑誌がまかり通るのは、その証左なのかもしれぬ。

それぞれの物語があるだけ?

では、自国に都合の良い教科書があるように、自説に都合の良い出来事や解釈があるだけなのだろうか。

著者は、慎重に説明する。「事実は1つ、解釈は無数」や、「それぞれの物語があるだけ」といった、よくある逃げに徹しない。互いに同意し合えない「事実」を巡って意見が対立するとき、事実と解釈を切り離すことで、落としどころを探ることもできる

だが、著者は、事実と解釈は表裏一体であり、どの事実を眺め、どの事実を強調するかによって解釈は変わるという。さらに、解釈という語りに一貫性を持たせるために事実を選択する必要も出てくる。

このとき、バイアスの罠が出てくる。

著者リン・ハントは白人で、アメリカで教育を受け、ヨーロッパ文化史とジェンダー論の専門家だ。過去の出来事について振り返るとき、こうした立場や視点からフリーになることは難しい。著者自身が「完全に客観的な解釈はできない」と述べている。たとえ歴史の専門家が下したとしても、その解釈が、バイアスを持ち込んでいないとは言い切れないのだ。

暫定的真実

それでも歴史家は、重要な事実と照らし合わせて、首尾一貫した解釈を論理的に提供できるかに気を配る。それでしか、自分が信じる物語に真実性をもたらすことができないからだ。

たとえ、自説に都合のよい出来事を検索してきても、それらは単なる寄せ集めでしかなく、事実としての一貫性も論理的な説明能力もないのだから。

そして、ある解釈が事実に立脚し、論理的に首尾一貫し、完全なものに整えられているときでさえ、その解釈の真実性は暫定的なものにとどまるという。なぜなら、後世に、新たな事実が発見されることもあるし、完全性の指標が変化するかもしれないからだ。

この考え方は、自然科学における仮説の扱いと似ていて面白い。

完璧な理論というものは存在せず、あらゆる理論や法則は、究極的には仮説だという考え方だ。19世紀末までニュートン力学は揺るぎない理論であったが、アインシュタインの登場によってその場を譲り、相対性理論における特殊な場合となっている。

それまでの理論よりも正確で、かつ論理的に過去の現象も首尾一貫して説明できるのであれば、その理論がとってかわる。一つの現象に一つの説明で満足するのではなく、あくまで仮説の一つに過ぎないと意識することで、思い込みや固定観念に囚われることを回避する。

本書では、実績のある歴史解釈を「暫定的真実」と呼んでいるが、これは自然科学における仮説といって良いのかもしれぬ。

固定化しないのが歴史

では、歴史について起きうる論争は、良いものなのだろうか。

歴史の民主化に伴い、日本や欧米で、歴史教科書について論争が繰り返されている。これは、かつての確固とした国民のアイデンティティが定まらない、不毛な弱さなのではないか?

この疑問に著者は、むしろ健全性の証だと答える。アイデンティティが最終的なものとして固定化することは決してないという。さらにこう加える。

歴史がそのことを証明している。歴史に関する論争は、政治体制が安定して、国民の過去を再考して再定式化することが可能な時に発生する。歴史的真実をめぐる議論を遮断することは、専制主義と手を携えて進んでいくことになる。

歴史のみならず、現代を広く見てみると、自国の歴史について議論が可能な国の方が、専制主義から遠いように見える。あるいは、歴史解釈や事実についてオープンな批判や議論ができない国の方が、より専制的だとも言える。

自分の主張に歴史的事実を添えたり、誰かの言説に過去の事例を参照したりするとき、わたしは、知らず知らず歴史家の仕事の恩恵にあずかっている。そして、歴史を学び、自分の解釈と照らし合わせ、批判的に検討することは、民主主義の実践そのものなのだろう。

※1

Karl Vick, “Iran’s President Calls Holocaust ‘Myth’ in Latest Assault on Jews”(Washington Post, December 14, 2005) [URL]

※2

Emma Green, “The World if Full of Holocaust Deniers”(The Atlantic, May 14, 2014) [URL]



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「知らない」を知る興奮と「知ってるはず」をもっと知る快楽が得られる『驚きの世界史』

歴史の面白さは、つながる快感にある。

知っていることと知らないことがつながるとき、強く快を感じる。歴史研究から得られた知識と、本や映画やニュースで感動した経験が接続されるとき、「エウレカ!」と叫びたくなる。

『驚きの世界史』は、こうした経験と知識を繋げてくれる。

History

 

「漢族」は人工的な民族集団

いちばん驚いたのが、漢族という概念だ。

本書によると、中国人の91%が漢族で、残りの9%が55の少数民族に分かれる。9割以上が同一の民族というのは、大きすぎやしないか? 北京語と広東語は英語とイタリア語ぐらい違うと言われるし、文化や風習もまるで別物なのに、漢族で括られる。

では、そもそも漢族とは何か? この解説が面白い。漢族とは、特定の文化や言語、風習、外貌とは関係がなく、長い歴史的過程を経て、様々な民族集団が政治的に統合された人工的な集団だという。そして、その核となるものが、「中華」という世界観になる。

そして、中国の歴史とは、この「中華」の拡大の歴史だというのだ。

すなわち、中華とは異なる存在を夷狄とし、夷狄を中華に同化させ、物理的に領土を組み込んでゆく。たとえモンゴルや女真に征服されても、むしろ異民族がこの世界観に同化される。征服や入植により、満州や雲南、台湾が中華世界の中に組み込まれ、チベットやウイグルが組み込まれようとしているのが、現代になるというのだ。

この解説で腑に落ちる。

チベットやウイグルを弾圧する中国政府は、テロの脅威を主張する。だが背景には、夷狄を中華世界に組み込もうとする行動原理があるのかも……と考えると、驚くとともに歴史とニュースが繋がる。

発射装置としてのピラミッド

自分が見聞きした経験と、本書のエピソードが繋がるのも快感だ。

先日、国立科学博物館の [ミイラ展] を見てきたのだが、本書で紹介されるエジプトのミイラとピラミッドの関係がまさにそれだった。

ピラミッドが建設された目的としては、王の墓説や公共事業説が有名だが、本書では、古代エジプトの死生観から解き明かす。

当時エジプトでは、死者の霊魂はオシリス神と合一し世界に秩序をもたらす存在となって復活すると信じられていた。そのための物理的な肉体として必要なのがミイラだという。

そして、異常気象や星辰の乱れを正すため、神と合一した霊魂を宇宙に向けて発射するための装置が、ピラミッドだというのだ。「ナマのミイラをこの目で見た」という興奮と、「ピラミッドは魂の発射装置」という学説がつながる。

キリスト教徒は狂信者?

さらには、シェンキェーヴィチの『クオ・ワディス』を読んだときの違和感について。古代ローマを舞台にした傑作&徹夜本だが、現世主義で現代的とも言えるローマ人に比べ、キリスト教徒が完全に頭のいかれた狂信徒のように描かれており、そのコントラストに目を奪われた。

キリスト教徒が迫害を受けたことは知っていたが、皇帝ネロのプロパガンダを差っ引いても、ローマの世論がそれを是としていたのはなぜだろうと疑問に感じていた。

これを、ギリシャ・ローマの「市民共同体」の流れから説明する。古代地中海では、まず共同体が第一であり、兵役や納税、お祭りや礼拝といった義務を果たし、自分たちの共同体を守る必要があった。

しかし、突如現れたキリスト教徒は、そうした義務や行事を、「神の名のもとに」拒否しはじめる。ローマ市民からすると、自分たちの社会を脅かす「異物」が増殖していくような恐れを抱いたかもしれない。その上、禁欲を誇り迫害されても喜んで殉教されたがるキリスト教徒は、享楽的なローマ人の理解を超えていたというのだ。

なるほど、だから小説ではあんな風に描かれていたのか! と腑に落ちる。夢中になって一気読みをしたときの興奮と、目の前の知識がガチリと繋がるのが楽しい。

知識どうしがつながる快感

自分の経験と、本書で得た知識が繋がる快楽に加え、本書の中でも知識同士がつながるのも楽しい。

古代から現代に渡り全50章で構成されているのだが、各章ごとにテーマが区切られたブツ切りではなく、それぞれがつながりを持つように構成されている。

古代ギリシャやローマ帝国の強さ、そしてキリスト教の始まりといったそれぞれの事象は、各章を跨る「市民共同体」という概念がつなげてくれる。歴史を学べば学ぶほどイギリスが嫌いになるのが常だが、本書ではイギリスの強さと悪賢さを、「国家に黙認された海賊」という糸口から解き明かしてくれる。あと、地域と時代に限らず広範に流通する富が「銀」であるのは興味深い。

こうした、地域や時代を横断して見る概念や視点を得られたのが嬉しい。「知らないことを知る」悦びと、「知ってることをさらに知る」快楽を得る一冊。

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物語に感動するとき、その力はどこから来たのか?『物語の力』

物語に魅了されるということは、どういうことか。「感動した」「心が震えた」と手垢にまみれた言葉があるが、その心を震わせる力はどこから来たのか? これが本書のテーマになる。

「心を震わせる力=物語の訴求力」として、どのようなときに訴求力が発生するかについて、物語論の研究成果を解説する。本書では詳細に分けているが、ざっくり以下の場合になる。

  • 回復と獲得の物語:自分が直面する問題に対する解決や、到達したいと願うゴールへの筋道が描かれているとき
  • 疎遠と帰属の物語:自分とは異なる価値観が提示され、自分の価値観が揺さぶられるとき

物語の役割

小説や映画における物語は、現代では消費されるものという意味合いが強いが、昔からの神話や民話の役割を担う側面もある。それは、物語を通じた、価値観や規範の伝達だ。

物語では、何か問題を解決したり、何かのゴールへ向かって進む。その背景にあるものは、「これは良くない状況であり、問題である」「これが良い状況であり、望ましいゴールだ」「解決にあたっては、このルール・設定を守るべきだ」といった、良い・悪い・望ましいといった価値基準だ。

そして、物語を聞く人は、物語の背景にある価値や規範を自らのものにし、物語で示されるモデルを模倣しようとする。

たとえば、「自己犠牲は望ましい」という価値基準があり、それが「皆のために戦いに行く物語」になる。この物語に感動した人は、共同体のために自分を犠牲にする行為を価値あるものだと考えるようになる。いざ他部族が攻めてきたとき、立ち向かってゆくだろうし、そのような気にさせる物語が、「良い」物語になる。

「回復と獲得の物語」で訴求力を上げる

では、どうすれば「そのような気」にさせるだろうか?

「回復と獲得の物語」では、「自己効力感」と「ホメオスタシス」で説明する。自己効力感とは「自分にはできると感じる自信」のことで、ホメオスタシスとは、元に戻ろうとする力になる。

つまり、何かのストレスがかかり、マイナスの状況になったとき、「自分にはできる」と信じて手を尽くし、マイナスから回復すると、大きな快を得るというのだ。このときの「自分にはできる」という動機と、マイナスから回復する方法は、強く学習される。

より大きな快を得るためには、マイナスの度合いを大きくすればいい。主人公は、自己効力感を持たせる前に、絶望的な状況に落とせばいいし、ライバルや障壁を設けることで、得られる快もさらに一層強いものになる。

本書で挙げられた作品だと、例えば『インデペンデンス・デイ』なら失われた力や権威を回復する王の帰還の物語になるし、『のだめカンタービレ』だと絆によるトラウマ克服の物語になる。回復と獲得の物語は、ストーリーの原型とも言えるので、他にもいくらでも思いつけるだろう。

未充足マーケティング

興味深い応用として、「未充足マーケティング」が紹介されていた(別名は、物語マーケティング、ダークサイド・マーケティング)。

つまりこうだ、消費者に対して、「あなたに欠けているもの」「あなたが喪失したもの」を提示することで、購買意欲を掻き立てる方法だ。テレビのCFでは、若さ、パワー、絆、魅力、お得感など、様々な「欠けているもの」が取りざたされている。

そして、これを買えば、失ったものが取り戻せる(だから買え)とダメ押しする。失ったものとの落差が大きいほど、そして、失ったことによるストレスが強いほど、買うことで得られる快も一層強いものになる。

脱線になるが、ネットでも未充足マーケティングが実践されていることに思い当たる。「あなたが失ったもの」として、機会や権利を声高に主張し、「あなたは騙されたんだ」と煽ることで衆目を集めるやり方だ。人は、失ったものに敏感なため、未充足マーケティングは悪い意味で有用だ。

「疎遠と帰属の物語」で訴求力を上げる

異なる価値観を提示し、読者や視聴者の価値観を揺さぶる物語は、もっと巧妙に訴求力を上げようとする。単に受け手とは違う価値観をぶつけようとしても、読者がどんな価値観を持っているか分からない。

そこで、登場人物どうしで、異なる価値観をぶつけ合う。つまり、相反する価値観を持つキャラを登場させ、それぞれの内面から物語を描き出すのだ。

本書では、『デスノート』のライトとエルが挙げられている。この作品は「信頼と疑惑」の対立構造を持っており、「この社会を疑って生きていく」ライトと、「この社会を信じて生きていく」エルとの対決構図だというのだ。

物語がライトに焦点化して(ライトの視点、思考、感覚から)描かれるとき、読者はライトの思考や感情に近づけて読むことになる。一方、エルに焦点化されるとき、読者はエルに寄り添って物語を理解することになる(これを内的焦点化と呼ぶ)。

このとき、読者が各人の思想に賛同するか否かは別問題だ。物語がライト(or エル)視点で描かれているのであれば、そこから理解する他は無い。

重要なのは、物語がライト、エル、ライト……と入れ替わる度に、読み手はそれぞれの思考や感情を行き来することになり、その結果、読者自身の思考や感情から、遠くに引き離されることだ。すなわち、物語世界の中に、どっぷりと浸っていることになる

思い返して欲しい。物語の中で、極端な思考を持ち出してくるキャラがいたはずだ。そして、そのキャラは、他のキャラと反発したりたしなめられたりしなかっただろうか。それは、読み手を「読み手自身の価値観」から引き離し、物語の中に引き込むための仕掛けなのだ。

『君の名は。』のラスト90秒が凄い理由

作者は、あの手この手で物語世界の内部へ引き込もうとする。

たとえば、描写するカメラ位置。

キャラクターや描写対象に対し、カメラ(描写主体)がどこにいるかという「距離」の問題だ。シーンがスタートした時点では、引いて写すのが多く、遠景→近景→内面描写に近寄っていくのが一般だ(これを自己移入という)。なぜなら、受け手はまだ、物語世界の「外」にいるから。

もちろんこれを逆手に取ったやり方もある。特定のキャラの内面からの描写で、その人物の耳目という限定された視座で物語に取り込むやり方だ(ただしもろ刃の剣で、語り口や描写に魅力がないと離脱されやすい)。

これらをハイブリッドにすると、「物語の中のカメラ」のピントをコントロールしつつ、「キャラの内面」とを交互に出しながら、登場人物が見ている情景を、読者が見ているかのように重ねる。

本書では、『君の名は。』が持つ強い訴求力を、その「写し方」の分析から解き明かす。

瀧と三葉のそれぞれの視点を焦点化して、交互に繰り返していくことで、観客を物語世界へ誘導していく(「疎遠と帰属の物語」の内的焦点化)。

そして、1時間37分~40分をショットごとに丁寧に分析していく。次々とシーンが移り変わり、四葉っぽい女の子が映った直後の暗転(1:38:38)までが自己移入の誘導路になる。この時点まで映画を観てきた人は、瀧への内的焦点化がなされた結果、誘導路で瀧が見る映像(写真集や風景)を、「自分自身が見ている」と感じ取ることができる。

そして暗転後、映画の冒頭の、行き交う電車や通勤のシーンが、もう一度繰り返される(微妙に変えてはいるけど)。

映画の最初の時点でこれを見た観客は、当然のことながら自己移入をしていない。物語の「外」から見る、誰でもないカメラから撮った映像として眺めるだろう。

しかし、キャラの内的焦点化が培われ、暗転までの誘導路を経てきた観客は、同じシーンであっても、「自分自身が見ている」映像として感じられるはずだ。

<ここからネタバレ反転表示>

そして、ここで視線の一致という技術が使われる。登場人物が見ている対象と、まさに見られている対象を重ねるのだ。三葉が瀧を見、瀧が三葉を見ることで、瀧の目を通して「自分自身が見ている」と感じる視聴者と、瀧自信の視線を一致させているというのだ。

『君の名は。』は、もともとは「入れ替わり」の物語だったが、この時点で、2人の双方からこの物語を見直すことになる。そして二人が見つめ合うとき、それぞれの内部で焦点化されていた視座が融合する。「君の、名前は」と重なり合う声とともに―――

<ネタバレ反転表示ここまで>

―――という分析だ。本書の第6章を読んだ後、もう一度『君の名は。』を見ると、キャラへの距離と内的焦点化を緻密に計算して撮っていることが分かる。

物語の訴求力を高める一冊

『君の名は。』だけでない。

西尾維新『刀語』における描写対象との距離の絶妙なつめ方や、レヴィ=ストロースが行ったシーケンス分析を『進撃の巨人』に当てはめた解説、さらにはスマホゲーム「モンスト」がシミュレートしているものなど、小説に限らず、映画やマンガやゲームも含めた、物語が持つ訴求力を知ることができる。

物語の訴求力は、読者・観客・プレイヤーを、現実から物語世界へ没入させ、登場人物に自身を移入させる力を持っている。本書は、その力が、具体的にどのような仕掛けで働いているかを見せるのだ。

そして、そうした仕掛けを分かったうえで、もう一度感動することができる。わたしの場合、本書を読んだ後、『君の名は。』のラスト90秒を繰り返し見て、視線誘導と感情移入の仕掛けを全部分かった上で、あらためて涙した。それは、種も仕掛けも分かっているのに、一流のマジシャンの手品を、繰り返し魅入るようなものだ。分かってても、すごい。

そして、「自分の心がどのように震えたか」が分かれば、「誰かの心をどのように震わせるか」も分かる。読む人・書く人・描く人……物語を紡ぐあらゆる人にお薦め。巻末の文献ガイドが充実しているため、本書を入口に、さらに専門性の深いところまで潜りたい人にも。



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ヒストリエを20倍楽しく読む方法『アレクサンドロスとオリュンピアス』

岩明均『ヒストリエ』は、噛めば噛むほど味がある。

ただ面白いだけでなく、予備知識をアップデートして読むと、伏線や演出が張り巡らされていることに気づき、もっと夢中になれる。あの瞬間の表情の理由、あの言葉の裏の意味……噛めば噛むほど楽しめる。

万が一、これを読んでいるあなたが、未読なら、羨ましい! ぜひ堪能してほしい。絶対に面白いと断言できる。

『ヒストリエ』を、もっと面白く読む方法がある[『ヒストリエ』を10倍楽しく読む方法]では、アレクサンドロス大王の予備知識を仕込んだが、ここでは、オリュンピアスに迫る本を紹介する(この記事ではネタバレ回避して書くのでご安心を)。

アレクサンドロス大王の母であり、フィリッポス二世の妻であるオリュンピアス。蛇を崇める密儀の狂信者であり、暗殺を企んだ残虐きわまりない悪女という噂と、智勇を備え王家の血統を守らんと奮闘した王妃という悲話と、両方が伝わっている。

どちらが真実の姿に近いのだろうか。

『ヒストリエ』では、才と美の二物を与えられ、息子を溺愛し、恐ろしく頭が切れる女として描かれている。11巻で身の危険が迫り、大変なことになってるが、『アレクサンドロスとオリュンピアス』を読むと、この後さらにスゴいことになることが分かる。

暗殺の首謀者オリュンピアス

本書は、男性優位の社会で自立しようとした女性に対するバイアスと格闘しながら、史料を読みほどき、オリュンピアスの歴史的実像に迫る。

たとえば、『ヒストリエ』ではこの後、暗殺事件が起きるのだが、その首謀者としてオリュンピアスが取り沙汰される。それが事実である理由として、暗殺者の遺体に冠を被せ、犠牲式を行い、暗殺に使われた短剣を神殿に奉納した、というオリュンピアス伝承がある。

しかし、これは信用できないとバッサリ斬る。あからさま過ぎるという。

そして、この伝承は、彼女の影響力を恐れた政敵が流したプロパガンダだという。さらにこの噂を、ワイドショー的な興味からローマの作家が伝記の形で定着させたというのだ(犯人は、ヘレニズム時代の作家サテュロスとまで名指しである)。言い換えるなら、それだけ大きな影響力を持っていたということになる。

ジェンダーバイアスまみれの史料

古代史料を丹念に史料を追うと、男女の違いが見えてくる。

男が残虐な行為をしても、道徳的な判断は少なく、淡々と書かれるだけだという。

カッサンドロス配下の将軍は、敵対する支持者500人を建物の中で生きながら焼き殺したとか、ペルディッカスは政敵50人(または500人)を象に踏みつぶさせたとあるが、非難めいた言葉は添えられていない。

一方、オリュンピアスは批判的に書かれている。

たとえば、ある赤ん坊を股にはさんで絞め殺し、その母親を自殺するように仕向けたことについて、残酷だと批判され、否定的な価値判断で書かれている。敵対していたアンティパトロスの遺言「女には決して王国を支配させてはならぬ」が現代にまで伝わっているのも、その証左だろう。

エウメネスとオリュンピアス

『ヒストリエ』愛読者なら、エウメネスが気になるだろう(実は、わたしがめちゃめちゃ気になっている)。本書では、エウメネスはこんな風に紹介されている。

  • カルディア出身のギリシア人で、前361年に生まれ
  • フィリッポス二世が彼の才能を見出して登用
  • アレクサンドロスも彼を信頼して遠征軍の書記官に任命
  • 大王の治世は騎兵部隊を指揮して軍事的才能を現わす
  • 大王の死後は小アジア北東部の総督領を割り当てられる
  • 後継者戦争においても王家に対する忠誠を守った

そして、オリュンピアスの手紙の中で、「エウメネスだけが最も信頼できる友人である」と述べられている。大王の死後、孤立感を深めるオリュンピアスにとってただ一人本心を打ち明けることのできる将軍だったというのだ。

!?

あ……ありえない! だって〇〇が△△されて✖✖になっちゃうんだぜ。エウメネスとオリュンピアスの関係は最悪になるだろう。にもかかわらず、オリュンピアスはエウメネスを「信頼できる」と断定するんだぜ。どんな魔法を使うんだオリュンピアス!

ネタバレ妄想

ここからネタバレ込みの妄想な(反転文字)。

<<< 反転文字ここから >>>

『ヒストリエ』のテーマとして、「歴史は繰り返す」がある。戦争や和平といった大きな営みだけでなく、たとえば「エウメネスが惚れた女は王が娶る」というパターンがある(パフラゴニアのサテュラ、アッタロス家のエウリュディケを思い出してほしい)。

そこで、「エウメネスは騙される」が出てくるのではないか? と妄想する(「よくもぼくをォ‼ だましたなァ!!」を思い出してほしい)。エウメネスが最も大切にする存在が、人質にされるのではないだろうか? 

彼が最も大切にする存在、すなわち、エウリュディケを生かしておく。その代わりに、大王に忠誠を誓えという展開が待っているのではないだろうか(エウリュディケとの関係が示唆されているため、オリュンピアスが股に挟んで殺す赤ん坊は、エウメネスの子でもある可能性……は考えすぎだろうか)。

そして、騙されたエウメネスはどうするか?

当然、復讐だ。

しかし、単に殺すだけでは飽き足らない。オリュンピアスを絶望の淵に叩き込むには、自分が最も期待されるときに、それを裏切るように仕向けないと―――と考えると、雌伏するほかない。

優れた軍事的手腕はあるが、血筋や財産を持っているわけではないエウメネスは、自身が将軍として軍団を任されるときまで待つ。そして、時が流れ、状況が変わり、オリュンピアスがエウメネスの軍が最も必要とするタイミングに、「寝返る」という形で復讐を果たすのではなかろうか(ハルパゴスの「ば~~~~っかじゃねぇの!?」を思い出してほしい)。

ハァハァハァ……妄想しすぎだろうか。もしこの与太話が(マンガの中で)現実になるのなら、エウメネスは、我が子の料理を食べることになるだろう。

<<< 反転文字ここまで >>>

与太話はここまでにして、『アレクサンドロスとオリュンピアス』は、妄想を捗らせてくれる。「誰が語ったか」を元に、どんなバイアスが潜むか炙り出し、慎重に吟味しながら事実を狭めてゆく、ミステリのようにも読める。

Alex




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世界の見え方を変える『オーバーストーリー』

リチャード・パワーズ『オーバーストーリー』を読むと、「木」に対する見え方が変わる。

Overstory

木ってあの木? そうだ、街並みや公園で見かける木であり、山を見るときに目に入ってくるあの木のことだ。

これを読むと、木を、新しい目で見るようになる。いっぽん一本の違う木が「ある」のではなく、全体として木が「いる」ように感じられる。一つの木に焦点を当てて見るという感覚よりも、もっとカメラを引いて地表を覆う存在を想像するような……

この感覚、読んでもらうのが一番だが、このイメージで伝えたい。この長編小説に入り浸っている幸せなあいだ、わたしの心は、ずっとこの光景で覆われていた。

地上の目からすると、それぞれの木は独立している。だが、数十メートルの空からだと、互いの枝葉を譲り合いながら全体として森全体が蠕動しているように見える(樹冠が空間を譲り合う現象を、クラウン・シャイネスと呼ぶ)。そして、地面の下では、それぞれの幹から伸びた根が複雑に絡みあい、コミュニケーションを行っている。

『オーバーストーリー』も同じように見える。その前半は、8つの章に分かれた、9人の生きざまを追いかける、それぞれ独立した短編として読める。各人に象徴的な木が登場するのが面白い。

  1. 一本の栗の木を、四世代に渡り撮影し続けた写真を相続した芸術家(栗)
  2. 中国からの移民の末裔で王維の美術画を受け継いだエンジニア(扶桑)
  3. ヒトという動物を観察しつづける心理学者(楓)
  4. 素人演劇で結ばれる恵まれた若いカップル(オーク)
  5. ベトナム戦争で撃墜されるも巨木に救われた空軍兵士(菩提樹)
  6. 世界をシミュレートするゲームを作り上げた天才プログラマ(ボトルツリー)
  7. 障害を抱えながら、樹木同士のコミュニケーションを発見する科学者(ブナ)
  8. セックスとドラッグに溺れたあげく感電死→蘇生した女子大生(銀杏)

幼少期から大人にかけて、線形に描写されたそれぞれの人生は、生きることの苦しみや、ままならなさを抱えており、ちょっと読むたびにグッと胸にこみ上げてくるものがある。ひとり一人の生い立ちや思想は異なるものの、突然の不幸や社会の逆風に揉まれる様は皆同じ、風に吹かれて揺れ動く木のようだ。

中盤、ばらばらに見えていたそれぞれが、集まってくる。

考え方は違っても、何かがおかしいと感じることは一緒。非常に長い年月をかけて大きくなった木を、ただ消費するために伐採する状況に異を唱える。それぞれの大切にする木は違っていても、「このままではいけない」と声を上げ、行動を起こす。

最初は、各人の行動はバラバラで、望む結果に結びつかない。むしろ、互いを知らないまま、意図せず足を引っ張り合ったりする。共通項といえば、アメリカ合衆国という場所で生きているだけで、それぞれの信ずるがままに動けばそうなるだろう。

それが集まるにしたがって、少しずつ譲り合い、協調して、全体として振舞おうとする。草の根レベルでつながって、同じ場所でコミュニティを形成する人々もいる。互いに面識はなくとも精神的紐帯を保ちながら、結果として連携している人たちもいる。

後半は、いわば数十メートルの空から、そうした譲り合いや連携を見る。互いの人生を譲り合いながら登場人物ひとり一人が全体として蠕動している、人のクラウン・シャイネスのようだ。反発しあう人、自己犠牲に殉ずる人、裏切る人……それぞれの振る舞いが急ぎ足で活写され、数十年がいっぺんに経過する。

木のスピードで見るならば、ヒトの営みなんて、タイムラプスで早送りされた一瞬なのかもしれぬ―――そして、それこそがまさに、9つの人生が伝えていることなのかも。この小説がいちばん変えたのは、わたしの時間の感じ方なのかもしれぬ。こんな風に。

人間は、時間は一本の直線だと思い、直前の三秒と目前の三秒だけを見ている。本当の時間は年輪のように外側を覆う形で広がっているのだということを人は知らない。”今”という薄い皮膜が存在しているのは、既に死んだすべてのものから成る巨大な塊のおかげだ。

めったにお目にかからないが、読む前と世界を違ったものにする作品がある。

世界というより自分が変わる。世界の「見え方」が変わる。いかに見えていなかったかが分かり、世界の解像度が上がる。プルーストが言ったように、新しい世界を見るのではなく、新しい目で見るようになる。

リチャード・パワーズ『オーバーストーリー』が、まさにこれだ。新しい目で、世界を眺めてみよう。

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