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人生を変えた一冊 『箱』

 品川駅の、HENNGEのメッセージが、好きだ。


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 駅をジャックするかのように、吹き抜けのデカイ看板、デジタルサイネージ広告がある。目に付くところ大きな広告であるにもかかわらず、モノトーン+簡潔なメッセージなので、逆に目立つ。なかでも、中央改札入ったとこの、日替わりメッセージが良い。


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 もとはHDEなのが、社名がHENNGE(へんげ)になるとのこと。スゴ本オフでお世話になっているので気になっていたのだが、このメッセージは刺さる。全部のメッセージは[あなたが変われば、世界も変わる。]で確認できる。


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 変化のメッセージといえば、イチロー「変わらなきゃ」、オバマ「Change」が浮かぶ。そこでは、ある種の覚悟や切実さでもって変化(へんか/Change)が求められている。いっぽうHENNGEでは、もっとコロッと、自由に気軽にお試しで、変化(へんげ/Metamorphose)することが誘われている。人はもっと変われるし、化けたほうがいい。


人生を変える一冊

 なぜなら、わたし自身、何気なく手にした一冊が、人生を変えてしまった経験があるから。

 それは、『箱』という本だ。ある時期、人間関係で非常に苦しい思いをしていたとき、本書に出会った。なぜ伝わらないのか、どうして分かってもらえないのか、こいつバカなのか!? と激しく悩んでいたのだが、一読し、一変した。

 一言で言うと、自己正当化と自己欺瞞の話だ。

 自己正当化は人間の仕様である。だが、自己正当化という仮面を人生の目的にしてしまうと、仮面を守るために自分に嘘を吐くようになり、ひいては自己欺瞞に乗っ取られる。そうなる前に、自己欺瞞(本書では箱と呼ぶ)に気づく方法が書いてある。

 急いで付け加えねばならないのが、「箱」は殻でもATフィールドでもない。「箱」は、殻でもATフィールドにもなれるが、それ以前の「自分が正しいという感覚」のようなものだ。もう少し詳しい説明は、[5冊の本が、わたしを自己正当化から自由にしてくれた]に書いたが、この感覚は、実際に読んで自分で体験してくれ、という他ない。


Jikoseitouka

5冊の本が、わたしを自己正当化から自由にしてくれた


自己欺瞞に気づくだけで楽になる

 自分で自分に吐いた嘘は気づけない。

 なぜなら、自分が「正しい」から。その「正しさ」が何にもとづいているのか、どんな根拠でなぜ「正しい」と言えるのか、深く掘り下げて考えてゆくと、わたし自身が揺らぐところまで降りることができる。そして、その嘘がバレる瞬間は、かなり気まずいし、恥ずかしいし、情けない。自分への裏切りに気づく瞬間は、恐怖以外の何ものでもなかった。

 しかし、『箱』を読み、「箱」に気づくことで、変わった。もちろん一回読んだだけで万事解決、というわけにはゆかぬ。何度も何度も、毎日のように「箱」に気づき、それを守るための人生を選ばないだけで、変わった。「箱」を意識することで、これまであたりまえのようにしていた防御や牽制、(箱を守るための)攻撃的な姿勢が、なくなった。



復刊後のタイトルは『自分の小さな「箱」から脱出する方法』


 要するに、楽になったのだ。自分で自分を苦しくしていたのだ。自分の首を絞めていた手に気づいて、やめたのだ。このままだと、自分を破壊していたかもしれない。この変化、へんか(Change) というより、へんげ(Metamorphose) に近い。

 たった一冊の本が、ここまで変えることは、珍しい。そして、どうやって自分がこの一冊にたどりつけたかを考えると、ほとんど奇跡のようだと思っている。


自分を変化(へんげ)させる一冊

 もともとは、[まなめはうす]のまなめ王子が絶賛していたのがきっかけ(14年くらい前?)。気になって調べてみたところ絶版状態で、Amazonでは8,000円くらいの値がついていた。

 図書館に駆け込むが、予約待ちが何人も入っているのに驚いた。発売当初の新刊に、予約がむらがることはありがちだが、当時からしても昔の本なのに、待っている人がいるというのは珍しい。これ、クチコミなどで広まった、隠れた需要があるということだともいえる。

 ずいぶん待たされた挙句、ようやく借りて読んでガツンとやられた。

 そして、8,000円は惜しいので原書を買い、「こんなスゴい本がなぜ絶版なんじゃ~」と出版社に電凸し、復刊ドットコムを教えてもらって働きかけたことがある。その甲斐もあってか、復刊されることとなり、好調に部数を伸ばし、シリーズ化もしているようだ。このあたりの事情は、まなめ王子が[箱本の思い出]で書いてくれたおかげで、思い出した。

 以後、出会う人出会う人ごとにお薦めしている。これ、あらゆる人にオールマイティに薦められる、珍しい本なのかもしれぬ。なぜなら、世界で最も重要な人、すなわち自分自身と向き合い、楽に変われる方法が書いてあるのだから。この変化の別名は、適応というのかもしれぬ。

 自分が変われば、世界が変わる。その意味で、世界を変える一冊なのかもしれぬ。わたしの人生を、わたしの世界を、よいほうに変えてくれる一冊に出会うことができたのは、まなめ王子のおかげ。このブログのタイトルの通り、わたしが知らないスゴ本は、まなめ王子が読んでいたというやつ。どれだけ感謝しても感謝したりないくらい。

 よい変化(へんげ)で、よい人生を。

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『眼の誕生』はスゴ本

 「世界の見えかたが一変する」という意味で、目からウロコの一冊。

Menotanjou

 先入観やバイアスは、明示されるまで気づかない場合が多い。例示されて初めてハッとする。それまで、「見えている」と思っていたものが、実は「見て」すらいなかったり、「見える=存在する」という思い込みの強さに囚われていたことに気づく。


見えていない ≠ 存在しない

 わたしの「世界の見えかた」を変えたのが、爆撃機の話だ。第二次大戦中、敵機の攻撃から生還した爆撃機を調査した統計学者が、ある提言をした。それは、「被弾箇所(赤ドット)ではなく、空白部分を強化すべし」というのである。なぜなら、空白箇所に被弾した機は、そもそも生還しなかったからという理屈だ。

Wikipedia:Survivorship biasより引用

 「生存バイアス」とも呼ばれるこの理屈、ポイントは「見えている」という時点で何らかの選択がされていることだ。したがって、「むしろ見えていないものは何か?」という観点から「それはなぜか?」を考えると、問題そのものが一変する。いかに自分が「見えている」ことに囚われていたかに気づき、世界がぐるりと裏返るような目まいを生じる。


極上のミステリのようなノンフィクション

 『眼の誕生』を読んでいるときも、これと同様に、世界がぐるりと裏返る衝撃を受けた。本書のテーマは、「カンブリア紀大進化の謎を解く」である。文字通り、事実を積み上げ、ロジックを組み立て、動かぬ証拠をつきつける、極上のミステリを読まされているかのようなサイエンス・ノンフィクションである。

 「カンブリア紀大進化」は、「大爆発」とも呼ばれ、生物学史上の巨大な謎とされてきた。カンブリア紀の始まりである5億4300万年前、生物は突如、爆発的に進化したという謎である。それ以前の地層からは、ほとんどの生物は似たような姿形で、種類もたいしたことなく、さらに数もいなかった。

 それが、5億4300万年前から5億3800万年前までの間(地球史的には一瞬である)、硬い殻やトゲ、剣、鱗、歯を備えた、多種多様の生物が誕生したのである。突然、生物たちが申し合わせたかのように一斉に進化したのは、なぜか?

 その答えは、タイトルにある。『眼の誕生』こそが、進化の引き金となったというのである。犯人がタイトルに書いているようなミステリで、かつ、これほど鮮やかにガツンとやられるのは皆無にひとしい。

 つまりこうだ、光を感知するだけでなく、像として把握する「視覚」は、生物の捕食行動を促すことになるだけでなく、捕食者から逃れるための防衛機能や外部形態への淘汰圧となる。さらに視覚は、異性を惹きつけるためのディスプレイといった性淘汰にも影響する。眼はすなわち、世界を変えたのである。

 光スイッチ説という、この結論に至るまでの積み上げが凄い。生命の誕生まで遡り、光学の基礎を解説する。面白いのは、「色」を感じる仕組みにまで説明しようとすると、生物が発する色には、色素の色と構造の色があることまで理解する必要が出てくる。

 たとえば、赤色は、受けた光のうち、赤以外を吸収して、赤のみを反射するから「赤い」と知覚する。これが色素の色だ。いっぽう、鳥の羽やチョウの翅に顕著な、何色とは一概にいえず、見る角度によって様々な色になる構造色がある。化石をしらべるとき、色素は化学変化により失われる場合が多いが、構造色は残されていることがある。これを手がかりにして、「視覚」の誕生はまた「色」の誕生であることを突き止める。


動物の「視覚の進化」を見える化する

 ビジュアルテキストとして、『動物が見ている世界と進化』を併読したのだが、これが正解だった。大英自然史博物館を中心とした標本写真やグラフ、図版を元に、動物の眼はどのように進化してきたのか、色が生まれる仕組みや、色を持つことによる進化的利点が、まさに手に取るように見える。

 物理現象である「光」と、それを感受する器官、さらに内部で像を結ぶ「視覚」とし、波長による「色」を認識する一連の流れは、さらに、環境や状況に応じ、どのように適応させていったかの生物の多様な視覚器官がフルカラーで見える(お約束の昆虫の複眼の拡大写真もある)。


化石がない ≠ 存在しない

 カンブリア紀より以前、もともと生物はそこに「いた」のだ。だが、硬い殻や鋭い歯を持っていなかったため、化石として残されたものが少なかっただけなのである。眼の誕生により、食うか食われるかの環境になり、生物の大半が殻を持つようになったからこそ、あたかも多様な生物が一斉に誕生したように見えたのである。

 化石として見えるものがないからといって、存在しなかったわけではない。著者は、化石として残されていないものは、柔らかい体のほかに何が無かったか? という問いを立てたからこそ、「眼」への発想が生まれたともいえる。

 見えるものが全てではない。見えていないものから、世界の見えかたを、変えてみよう。

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「古典は本当に必要なのか」討論会へ行ってきた

Kotennhahontouni

 古典不要派と必要派がガチで議論するシンポジウム「古典は本当に必要なのか」を見てきた。パネリストの紹介は[「古典は本当に必要なのか」シンポジウム]で、youtube や twitterまとめ([第一部][第二部])で見ることができる。

3行でまとめる+問題の本質

 長いので3行でまとめる。「高校の古典(古文・漢文)は必要か?」という議題に対し、

  • 不要派:古典は選択科目にして論理国語に注力すべき。あと現代語訳でおk
  • 必要派:幸せに生きるための古典は原文も一緒でないと
  • 会場の声:必要派が優勢だが、現場では現代語で教えてるのが実情

 そして、この問題の本質は次の通り。「古典は必要か?」と問われれば、必要に決まっている。問題なのは、どれくらい必要なのか? と問われていることに気づいていないことである

 そして、もっと厄介なのは、「これくらい必要」の「これくらい」は何を根拠にそう言えるのかを、示せていないこと。なぜなら、高校の有限なカリキュラムにおいて、他の「必要な」教科単元をさしおいて、古典が必要な「程度」を示すことが求められているから。センター試験国語200点のうち、古文50点、漢文50点である根拠と言い直してもいい。

ショートコント「ニュートン力学不要論」

 これ、古典必要派は、ピンとこないかも。

 会場に集まった人たちは、国語教育に所縁のある方が多かったせいか、古典肯定派がメインだった。問題の本質が見えてなさそうなので、前哨戦で見かけた、「ニュートン力学不要論」の回答を紹介しよう。岡目八目ともいうから、問題の深刻度が見るかもしれない。

問)古典不要というなら、現代物理学(相対論・量子力学)を学ぶ上で、古典物理学(ニュートン力学)は、不要ではないか? 絶対的な時空間を前提とし、光と重力の関係を無視しているニュートン力学は、相対論とは真逆の前提で、現代物理学を学ぶ上で、阻害となっているから。

答)ニュートン力学は、物理学の基礎であるため必要。古典物理学を不要という人は、そもそも古典物理学をちゃんと学んでいない人なのだろう。古典物理学をきちんと学べば、その重要性は自ずと理解できる。

 もちろん、ニュートン力学は高校で必須である。量子力学が一般化する20年後ならともかく、「基礎だから必要だ」がまだ通る。だが、真の問題は、古文・漢文の必要派は、こんな回答をしていなかったか、にある。「君は古典を(ちゃんと)知らないから、その重要性が分からないのだ」は答えになっていない。こんなコントみたいな理屈を主張してこなかっただろうか?

 まともな答えの一つは、ニュートン力学と高校数学(微積分、線形代数、ベクトル)の関連性を示し、そうした数学を元に現代物理学も成り立っていることを示すことだろう。ニュートン力学は独立した「単元の一つ」ではなく、数学や天文学、そして現代物理学との結びつきの上に成り立っているのだから、それだけ切り離せるものでもない。

 こうした答えを、古典必要派はしてきただろうか? 不勉強なわたしは、「まともな答え」を聞けるものだとワクワクしながら会場へ向かった。

箇条書き400字ぐらいでまとめる

 古典不要派の主張をまとめると、次の通り。「不要」といっても、失くしてしまえと息巻いているわけではなく、他に学ぶべきものとの優先度に応じるため、選択にしたらと提案しているとこがポイントだ。

  • 高校生の時間は有限であり、そこで学ぶべきことは多種大量にあるため、取捨選択が必要
  • 何をもって選択するか? 国益や個人の収入UPという価値観で評価すべき
  • その判断からすると、古典の優先度は下がるため、必須から選択にすべき
  • 反対に古典よりも、論理国語(企画、プレゼン、議論)を厚くすべき
  • 選択古典も、原文よりも現代語の方が効率がよい
  • 古典は、年功序列や男女差別を刷り込むツールとして有害な一面もあり
  • 教科とその学習量について、既得権と縦割りをバラして、最適化する必要あり

 いっぽう必要派の主張は、こんな感じ。徒然草の解説や、理系vs文系という対立構造では読み解けない江戸時代の医学書の話など、興味深いトピックが紹介された。

  • 古典は幸せに生きるための知恵を授けるもの
  • 古典への社会的敬意が低下しているからこそ、学校教育でその魅力を伝える必要あり
  • 例として、徒然草の紹介、連歌を用いた授業活動の提案
  • 近世の文献で翻訳されていない文献が多く、これらを解読して後世に残すのは納税者への責務
  • 古典を通じた文化交流もある

 つまり、噛み合っていないのだ。

 古典の重要性がどの程度かを判断するにあたり、経済性や実用性、コスパという観点から見る不要派と、人間形成や感性、教養といった観点から見る必要派という構図だ。そして、お互いに言いたいことを言い合って終わっている。

 これはもったいない。価値観の違う人が、わざわざ憎まれ役を買って出て、面と向かって言ってくれるのだから。議論を、しよう。

 議論とは、議題について異なる立場の人が話し合い、互いに妥協できる場所を探すこと。妥協点が見出せないなら、それぞれが主張する問題点を明確にし、それを解決するための課題が何かについて合意を得よう。問題点すら明確にならないなら、それを記述している言葉や事実を確かめよう。定義や認識、エビデンスの違いまでさかのぼれば、抽象度を上げることで問題点を重ねることができる。そして、重なったところでこれらの対話を繰り返そう。

 これが、議論だ。結果、妥協点を見いだせなくても、互いに何を問題視しているかを理解したり、事実認識や定義が違っていることを確かめることができる。その上で、「あれかこれか」ではなく、両論併記することで(抽象度の上げた)ゴールの可能性も考えられる。

むりやり議論を噛み合わせる(キーワード:幸せ)

 噛み合わない「議論」を、むりやり嚙み合わせるなら、「幸せ」がキーワードになるだろうか。不要派の「生涯年収」と必要派の「幸せに生きるための知恵」で、問題点・定義・認識を重ねることはできないだろうか。ほぼ思いつきに近いアイデアを、質問という形で、パネリストたちに投げてみた。

 ……残念ながら、有益な話を引き出せたとはいえなかった。

 古典を学ぶことが生涯年収UPに直結するかなんて、検証しようがない。それでも、日本で使われている言葉のうち、大和言葉や故事成語の割合を調べることはできる。仮に「古典の重要度」を数値化するなら、この割合が参考になるかもしれぬ。

 そして、こうした言葉が文字通り血肉となって自然に出てくることを示すことはできる。不要派のハンズアウトに、「餅は餅屋」「~すべき(強調の意味で)」という言葉があるのは、部分的とはいえ古典教育の証左だろう。「短い言葉で的確に伝えたい」という動機が、自ずとレトリックを選ぶのであり、その引き出しは教育如何による。

 しかし、当のパネリストから、「語彙が豊富だからといって幸せとする尺度は同意できない」という反論や、「アメリカは語彙を減らし簡略化することで移民受け入れが上手く行った」という事例が出され、議論はそこで尽きてしまった。そこから、「アメリカの母語簡略化に倣って漢字教育を廃止した韓国ではどうなっているか」という検証や、「簡体字にしたことで中国の古典伝承への影響はあったか(台湾と比較して)」というサブテーマに膨らませたら面白かったかも。

古典不要派の言葉を使って考える(国際競争力と国力)

 他にも、噛み合わせるポイントはある。

 このテの議論をするには、相手の言葉で語ることが重要だ。相手が使う言葉を掘り下げてみると、実は互いにつながりあっていたことが分かる場合もある。「古典は本当に必要なのか?(いや必要でない)」という言葉尻だけ捉えて、やれ焚書坑儒だ、華氏451だと批判するのではなく、テーマの範囲内で、相手の言葉をどうやったら建設的に使えるか? と考えるのだ。

 たとえば、不要派が重視する”国際競争力”の変遷を、古典からたどるアプローチはどうか。不要派が紹介したスライドで、20年前と今の大企業の一覧があった。GAFAに席巻されたグローバル経済を示し、変化に対応できる”国際競争力”が必要だという。

 これ、スケールが20年だから目まぐるしいが、200年、2000年ならどうだろう。その必要な技能は、「今だけ」なのか、200年来必要なのか。国力、経済力、軍事力、文化的影響、社会制度といった観点で、数百~数千年を振り返る歴史家の仕事になるが、その根拠となっている古典をカウントすることで、古典の影響力を測ることはできないだろうか。あるいは、他の発想が埋まっていないか、掘り起こしが可能だろうか。

 もっと生々しく”国力”への訴求性を求めるなら、歴史問題に踏み込むこともできる。たとえば領土問題として焦点の当たっている島嶼で、その歴史的根拠を探すなら、昔の文書を参照することになる。その有効度は状況によるが、「たしかにその場所について日本と由縁があった」証拠の一つとして挙げることができる。

 そして、その文書はただ一つ、単独で存在するのではなく、文書の存在を示す別の文書、その文書から引き出された(引用や言及、随想など)別の文書として、確実なものとなるということだ。その当時のネットワーク全体で、その文書が示す「確からしさ」が検証できる(ここ重要)。

 なぜ重要かと言うと、争っている相手から、「こちらの方が古いから有効だ」と出所不明・ネットワーク不在の文書が出されてくる可能性があるから。あるいは、相手が時間をかけて「ここは私の領土だ」と繰り返したり、詭弁や武力にモノを言わせて事実化する場合があるから。相手には相手の理屈があり、ストーリーがあるのだから、数十年から百年かけても、国策としてその主張を通そうとするだろう。

 詭弁や武力ではなく、エビデンスに基づいて問題を解決するのなら、文書ほど重要なものはないだろう。歴史問題についてエビデンスとなっている一次文書と、それを参照・言及している文書(相手が提示してくる「文書」も含む)、さらにその解読に携わる人をカウント・比較することで、古典の有用性を可視化することが可能だ。

 一例をあげるなら、[『沖縄は中国の属国だ』という主張が今更な感じがするのですが、どういうことなんでしょうか?]がある。この回答を支えている事実関係を示す一次資料は、それを参照・言及する文書のネットワークの中にある。これらを伝えていかない限り、時間をかけて辛抱強く繰り返される「沖縄は中国の属国である」主張へのエビデンスを手放すことになる。さらに、いま懸案となっている課題だけでなく、将来現れる新たな歴史問題を議論する準備として、古典を解析して維持していくことは、日本の「国力」につながる―――こうしたアプローチだと、古典不要派の「国力」と同じ視線で考えることができるかもしれない。

「認可的ワクチン」としての古典

 上記の例は、読書際さんの「認知的ワクチン」に関する一連のツイートから学んだ。

 「認知的ワクチン」とは、デマをウイルスになぞらえ、知識を教え学ぶことでその流行を防ぐことを指す。たとえば、化学を学ぶことで「水素水」や「コラーゲン配合」の流行を防ぐことになる。

 古典の場合、「水素水」や「コラーゲン配合」に相当するカッコに入るものは何になるか? 先の例だと「沖縄は中国の属国だ」だが、他にもあるだろう。一次資料ではなく、ネットに流れるトンデモ歴史を「事実」として本に書いたらどうなる? 鼻で笑われるだろうが、それがベストセラーになって大勢の人が信じたらどうなる? カッコに入るものは、結構ありそうだ

 そうしたものを数え上げることで、「古典は必要である」のうちの「どれくらい」かを、他と比較することができる。もちろん単純比較はできない。単なる数ではなく、代えのないものであれば、重みづけも考えるべきだろうね。そして、一次資料を読み解く人「だけ」が必要なのではなく、そこから引き出された知識を重視し、トンデモを鼻で笑うだけのマスが求められる。

 デマの拡散については、たとえば東日本大震災におけるデマをテーマにした論文[拡張SIRモデルによるTwitterでのデマ拡散過程の解析]がある。このSIRモデルを歴史認識に当てはめることで、古典教育の普及度とデマの拡散しやすさをシミュレートできるかもしれない。

古典の「効果」を可視化する

 古典は、言語や歴史といったアイデンティティに深く関わっているため、これを考えるわたしたち自身に内面化されており、その結果、見えにくくなっている。

 伝えたいという動機があるならば、そこに表現があり、レトリックがあり、古人がさんざんやってきたことなのだから、先例と踏襲と改変がある。

 パネリストから、連歌をおこなってきた先人たちの発想の集大成として歌語集を捉え、これと現代語の関わり合いを可視化するアイデアが出た。想いを伝えたい高校生にとってのLINEの一行を、図書室の歌語辞典から見つけてくる、というのはアリだろう。人は、それくらい、変わっていないのだから。

 ひょっとすると、わたしが気づいていないだけで、言葉の発想のつながり方を考えるなら、概念のかなりの部分は、古典によって準備されているのではないか、と思えてくる。ネットを行き交う言葉のうち、古文・漢文の影響を拾い出すことも、古典の可視化に一役買うだろう。

 さらに抽象度を上げて、行動様式としての影響を見るならば、わたしが何気なく撮ってSNSにアップする画像とつぶやきは、1000年前に紅葉を折り込んで詠んだことの現在形ではないだろうか。

 あるいは、映画「シン・ゴジラ」において発生した出来事を、時系列に沿ってリアルタイムで実況し、それに乗っかってツイッタラーがネタを広める[シンゴジ実況]なんて、インターネットを使った巨大な連歌は見えないだろうか。

 短い文章でつながっていく twitter において、普及度と特異な(?)使われ方を日本と他国で比較すると、そこに和歌や連歌の影響を可視化できないだろうか。

古典は「どれくらい」必要か?

 大事なことなので何度でも言う、古典は必要だ。

 だが、どれくらい、何をもってそう言えるのかについては、議論の俎上に上っていないものがある。なぜなら、言語や思考様式として内面化されているから。ニュートン力学が基礎としてあたりまえなように、古文・漢文も基礎としてあたりまえなのである。だが、両者の種類も程度も違う。それを測るための可視化が問われており、そうした検証の上で、議論が可能となる。

 噛み合わなくてもいい、という人はネットでうそぶいているがいい。リアルで、互いの最も重要なリソース・時間を使って議論をするのなら、最低でも「互いに問題視するものがあり、妥協ポイントは見いだせないにせよ、共通の問題は明確にできた」までは辿り着けないと。これは、(次回があるのなら)それまでの課題になるね。言葉の定義、立論を合わせ、当日までに議論ポイントとその検証までを準備しておく。

 それは「仕事とわたしとどっちが大事?」と訊くようなもので、異質なものをムリヤリ測ろうとするならば、どこかで歪みや偏りが出る。それは分かる。だが、議題に戻っていただこう。有限な「高校生の時間」というリソースをどうやって配分するかを考える上で、何らかの指標は、どうしたって必要なのだ。

 また、目的的行動の危うさについても分かる。「〇〇のために古典が必要」の〇〇なんて、時と場合により、そうした時と場合を超えて残り、普遍性を持っているのが古典なのだからね。それでも、その時とその場合による〇〇に対し、こういう面が応用できるという観点から訴えない限り、削られていくのみとなろう(そして、削られて残されたものが”古典”となる)。

 もう一度言う、古典は必要だ。

 だからこそ、その必要性を「伝わる言葉で」伝えないと。だが、内面化された古典の影響力を定量化するのは、かくも難しい。この件、もう少し続けてみる。国語のエキスパートたちのがどのように示してきたか、調べてみよう。かつて、古典は不要だ、全部ローマ字でいい、いや英語を公用語にしてしまえ、といった主張があった。

 知りたいのは、そこで「古典は必要だ」という人が、どんな主張をしてきたかにある。昔の古典必要派がフンショコージュの脊髄反射しかしなかったから、現在この体たらくなのか、あるいは、昔の古典必要派が体張って議論してくれたおかげで、この程度で済んでいるのか。議論が噛み合わないのは分かる(現在そうだから)。だが、そこで放置しないで、噛み合わせようとした努力は試みられたのか、知りたい。

 バトンは既に渡されている。わたしと、ここまで読んでしまった、あなたにも。

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