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東大シンポジウム「現代フィクションの可能性」まとめ

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東大教養学部で行われたシンポジウム「現代フィクションの可能性」を聴講してきたのでまとめる。twitter 実況は、@mizuno1982さんの[シンポジウム「現代フィクションの可能性」で語られた事まとめ]が凄く参考になる。

  1. シンポジウムの目的・背景
  2. 発表内容
    山本貴光「フィクションと人間の接触面で何が起きるか」
    松永伸司「手ごたえのあるフィクション:シミュレーションによるフィクションの特殊性」
    久保昭博「フィクションはどこにあるのか? フィクション理論の現在」
  3. 次のアクション

1. シンポジウムの目的・背景

シンポジウムのバックグラウンドは、「世界文学の時代におけるフィクションの役割に関する総合的研究」になる。

  2016.11.25 京都大学人文科学研究所
     現代フィクションの条件 ※
     円城塔、千野帽子、大浦康介、久保昭博

  2017.3.12 東京大学駒場キャンパス
     複数の言語、複数の文学
     ―――やわらかく広がる創作と批評
     温又柔、秋草俊一郎、中村和恵、都甲幸浩

  2018.11.28 東京大学駒場キャンパス
     現代インドで女性として書くこと
     アルパナー・ミシュラ、都甲幸浩、
     中村和恵、小松久恵、武田将明

  2019.11.1 東京大学駒場キャンパス
     現代フィクションの可能性   ← 今回
     山本貴光、松永伸司、久保昭博

※『早稲田文学』2017初夏号(フィクション特集)にまとめ有り

「フィクションの役割」については、以下の通りまとめられていた。

  • 現代日本語文学を世界文学の見地から考察する(共時的)
  • 近代文学の捉え方を変えるべき(通時的)
  • リアリティーのあり方の変化に対応したフィクション概念・フィクション論を構想する(理論的)
  • Post-truth
  • Fake news
  • Brexit : 2016.6
  • Donald Trump : 2016.11
  • Virtual reality, augmented reality
  • AI and singularity?

今回の「現代フィクションの可能性」は一連の研究の最終回。

情報化の進む現代において、フィクションの役割はどう変化しているのか? あるいは、こうした変化の中で、フィクションの可能性や危険性はどこにあるのか? ―――最新のフィクション論に触れながら、現代世界におけるリアルとフィクションの境界問題や、フィクションの役割について識者に語ってもらう……という目的で行われた。

2. 発表内容

登壇者1人につき持ち時間20分、3人で計60分の予定だったけれど、皆さんのスライドのボリュームがありすぎて大幅オーバーしてた。一人のお話だけでも充分以上の内容だった。

山本貴光「フィクションと人間の接触面で何が起きるか」

自著『文学問題(F+f)✙』のフレームを用いながら、フィクションを考える手がかりとなるQAを重ねてゆく。一つ一つの切り口が面白く、自ら例を挙げ答える一方で、他の登壇者や会場からの応答も誘うような問いかけになっている。

まず、「フィクション」と一言で述べても、様々な形をとる。そのため山本氏は、フィクションを実装と機能に分ける。実装はフィクションが取る形態で、文芸や音楽、映画・演劇、漫画、ゲームなどがある。一方、機能は実装に応じて変わってゆくが、完全に固定された一本道ルート(例えば小説)から、会話や行動の選択によって複数のシナリオが分岐する

(例えばゲーム)まで、様々になる。

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小説『PRY』の例。テキストをピンチアウトすると、
書き手が見ているものを共有できる

ここに「F+f」が重ねられる。「F+f」とは夏目漱石が文学を定義したもので、F は「認識されたもの」、そして f は「それによる心の動き」を指す。たとえば、Fは小説なら文章になるし、ゲームならグラフィックや音楽、コントローラーの振動なども含まれる。f はそこからもたらされる様々な感情や情緒になる(この「F+f」を文学とは感情のハッキングと名づけるセンスは素晴らしい)。

面白いのは、「フィクションと人との境界(ユーザーインタフェース)」から見ると、F に相当するものを並べられるという指摘だ。左端には一本道の小説であり、右端には極端な例として「No Man's Sky」を持ってくる。惑星を探索するSFアドベンチャーなのだが、対象となる惑星の数は1800京を超える。探索対象がこれだけだから、そこから得られる F はほぼ無限大であり、一生かかっても遊びきれない。

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印刷された(確定された)UIの小説から、
無限ともいえるパターンのゲームまで

山本氏は言う、我々は、一本道のフィクションから、ほぼ無限大のフィクションに囲まれた現在にいるのではないかと。いわばフィクションの銀河系と呼べるような状況におり、自分が読みたい本、やりたいゲーム、観たい映画を探しているだけで一生が終わってしまう。いわばボルヘスのバベルの図書館にいるのではないかと(ここ、絶妙なタイミングでこれが出てきたのでニヤニヤが止まらなかった)。

そして、作品の数がこれだけ膨大になると、f (それによる心の動き)を表現する共通的な言語が失われてゆく。

一本道の例として小説を挙げたが、印字された「同じ」小説を読む時代はとうに過ぎており、近い将来、パラメータを入れるだけで小説が自動生成されるようになるかもしれない(例えば、主人公の属性、ジャンル、読了時間を入力すると、自動で生成される)。

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Heaven’s Valut の例。制限時間付き選択肢や、
かかった時間によりシナリオは分岐する

このフィクションの銀河系では、互いの f が分からなくなる。なぜなら、あまりにも F がありすぎて、それを享受し f を共有できる人がいなくなるから。この現象を、夏目漱石の『猫』から引いてくる。

「個性の自由という意味はおれはおれ、人は人という意味だろう。その芸術なんか存在出来る訳がないじゃないか。芸術が繁昌するのは芸術家と享受者の間に個性の一致があるからだろう。君がいくら新体詩家だって踏張っても、君の詩を読んで面白いというものが一人もなくっちゃ、君の新体詩も御気の毒だが君より外に読み手はなくなる訳だろう。
(略)
そうだろう君のかいたものは僕にわからなくなる、僕のかいたものは君にわからなくなった日にゃ、君と僕の間には芸術も糞もないじゃないか」

「パックマンみたいなゲーム」と言っても、そもそもパックマンを知らない人には伝わらない。だから、まずパックマンを例に挙げたいときに、パックマンの説明が必要になるというのだ。

松永伸司「手ごたえのあるフィクション:シミュレーションによるフィクションの特殊性」

自著『ビデオゲームの美学』から、フィクションの一種としてのビデオゲームを俎上に乗せる。ビデオゲームはフィクション(虚構世界を描くもの)としての性格を持つ。そこで、ビデオゲームならではのフィクションのあり方とは何か、さらにはどんなフィクションが可能となるかを説明する。

言語、画像、映像はどれも表象方式であり、フィクションはそうした表象方式を利用している。小説なら言葉によるフィクション、映画なら映像と音声によるフィクション、漫画なら、画像と言葉に加え、コマ割りや吹出しを始めとする独自の方式によるフィクションになる。

ここでは、シミュレーションによるフィクション、なかでもRPGなどのシミュレーションゲームによるフィクションを代表とし、具体例で考えてみる。

たとえば、ここに一つのプログラムがある。

  • 変数Pの値が1以上のとき、”a”と”1”を続けて入力すると、変数Qの値が30増え、Pの値は1減る。
  • 変数Pの値が1以上のとき、”a”と”2”を続けて入力すると、変数Rの値が30増え、Pの値は1減る。
  • 変数Pの値が0のとき、”a”と”1”または”a”と”2”を続けて入力しても、何も起きない。

そういう分岐を書けと言われたら書けるけれど、人にとって見ればなんのことか分からない。聴講していた方のこのツイートが的確すぎる。

だが、変数や入力にラベルを付けることで、途端に見通しが良くなる。このラベルとは、意味のある名前のことだ。

  • 変数P : 薬草の所持数
  • 変数Q : 1人目のメンバーのHP
  • 変数R : 2人目のメンバーのHP
  • 入力”a” : 薬草を使う
  • 入力”1” : 1人目のメンバー

先のプログラムは、こうなる。

  • 薬草の数が1以上のとき、”薬草を使う”、”1人目のメンバーに”と入力すると、1人目のメンバーのHPの値が30増え、薬草の値は1減る。
  • 薬草の数が1以上のとき、”薬草を使う”、”2人目のメンバーに”と入力すると、2人目のメンバーのHPの値が30増え、薬草の値は1減る。
  • 薬草の数が0のとき、”薬草を使う”と”1人目のメンバー”または”2人目のメンバー”と入力しても、何も起きない。
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変数や入力にラベル(名前)を付けると、意味が生まれる

つまり、何が起きているのかというと、プログラムそのものは抽象的なシステムであり、ラベルを付けようが付けまいが、何も変わらない。ところが、ラベルを付けることによって、そのシステムが何か具体的なものに見立てることができる。この抽象→具体への見立てこそが、シミュレーションの本質なのだという。

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シミュレーションの本質は、抽象から具体への「見立て」

つまり、プログラムを直接的に見ることができないプレイヤーにとってのUI(ユーザーインタフェース)がラベルになる。そして、このUIを通じて、プレイヤーはシステムの状態のみならず、そのシステムを何に見立てるべきかを知ることができる。

次に、シミュレーションによるフィクションの特殊性について。

特殊性は2つあるという。

1つは、言語や画像による表象とは異なり、表象するもの/されるものとの間に、構造的な類似関係がある点だ。これにより、シミュレーションを使ったフィクションには、ある種の実態感、手応えを感じることができる(いわゆる、”バーチャル”と呼ばれるもの)。

2つ目、ユーザは表象するものを操作することができ、異なる操作による異なる反応、すなわち条件分岐による入出力の規則がある点だ。シミュレーションを使ったフィクションでは、そうした入出力の規則を通じて虚構世界上の規則を描くことができる。いわば、規則を使って規則を描いているのが、シミュレーションのフィクションになる。

この規則はプレイヤーによる試行錯誤を通じて虚構世界のあり方を理解する、という受容の仕方を可能にする。さらには、ゲームデザイナーが意図しなかったフィクションの内容が作り出されることもありうる。

そのシミュレーションならではの例として、September 12th が紹介される。ちょっと「遊んで」みればすぐに分かるが、これは市民の中に紛れ込んだテロリストを倒すゲームである。プレイヤーは、中東の街を徘徊するテロリストに向けて照準を合わせ、ミサイルを撃つことができる。

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目標をセンターに入れて、スイッチ

問題はここから。ミサイルは確かにテロリストを倒すことができる。だが、爆発は周辺の市民や建物を破壊する。殺された市民の傍らで家族や友人がひとしきり嘆き、泣く。そして今度はその人々がテロリストとなって街を歩き出すのだ。

いくらも経たないうちに、プレイヤーはこのゲームに「勝つ」のは不可能だと知る。テロリストを倒そうとする行為がテロリストを増やすことになるから。

久保昭博「フィクションはどこにあるのか? フィクション理論の現在」

訳書『なぜフィクションか?』(シェフェール)を用いながら、文学理論の古典的なアプローチを概説しながら、フィクション理論がもたらす可能性について説明する。

フィクションという文学はアリストテレスの時代から存在していた。しかし、フィクションのフィクション性について問われることはなかった。あくまで、物語の内部の修辞的なあれこれを批評するものに限られており、フィクションが指示するものや意味するものについては、自明であるとして、取り残されてきたという。

ところが、分析哲学や様相論理学(可能世界論)の議論の中で、テクストの「外部」を指示する「力」が注目されるようになってきた。いわば、文学理論がフィクションを「再」発見したようなもの。ここでは、その流れを3つ紹介する。

1つは、可能世界論を応用した意味論。トマス・パヴェルの「突出構造」や、マリー・ロール・ライアンの「実際の世界からテクストの世界への中心移動」、さらにケンダル・ウォルトンの「ごっこ遊び」がある。非実在の実体を、あるものに見立て(指示し)、その世界が立ち上がることが、フィクションの根底になる。

2つ目は、虚構指標(ハンブルガー)による統語論。ケーテ・ハンブルガー『文学の論理』を紹介しながら、テクストの上にはフィクション的なマーカーがあることを指摘する。例えば、過去を示さない過去形(明日はクリスマスだった)、三人称小説における直接表象(思う、信じる、あるいは自由間接話法)などは、発話行為の主体である「私=原点」の虚構化だという。

3つ目は、サールの語用論。単なるテクストでは、フィクションなのか、ノンフィクションなのかは、分からない。テクストのフィクション性を決定するのは、発話者(著者)の意図にあるという。フィクションの作者は、断定のふり(偽装、pretend)をしている。

こうしたアプローチの後、シェフェール『なぜフィクションか?』の、「現実の中のフィクション論」を展開する。シェフェールは、サール=ジュネットの語用論的枠組みを継承しながらも、フィクションと現実の関係性を問う前に、フィクションそれ自体も現実の中にあることを強調する(これはけっこう忘れられがち)。フィクションは現実の一種なのだ。

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フィクションが作る現実

フィクションは、文学や映像といった芸術が存在する前に存在するという。幼児が学習し、大人においても大きな役割を果たす、心的能力になる。その特徴は、「共有された遊戯的偽装」として表される。

  • 遊戯的:本気の対概念(現実にコミットしない)
  • 共有:(これはフィクションであるという)認識論的枠組みの共有
  • 偽装:ミメーシス(模倣)の一種

(この辺りは非常に難しく、私の理解が追いつかない。子どもがする「ごっこ遊び」や「〇〇のマネをする」ことを通じて、「これは〇〇ごっこなんだよ」という認識が共有される。この認識の共有こそが、フィクションという現実があるということを約束事とする……と理解した。おかげで「本当に」傷つくことなく悲劇に心を痛めることができる)。

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フィクション「が」作る現実と、フィクション「を」作る現実

3. 次のアクション

駆け足で紹介したが、書いてる自分が理解しきれていない所も多い。フィクションは約束で成り立っている現実の一つである、という考え方は、今後も利用していく。聴きっぱなしはもったいないので、ここで得られたことから次のことをするつもりだ。

  • シェフェール『なぜフィクションか?』を読む:かなり難しい高密度な本だが、関連図書も含めて挑戦してみよう。
  • 戸田山 和久『恐怖の哲学』の再読:もともとこのシンポジウムを聞いたのは、「人はなぜフィクションを楽しめるのか?」という問いの中に、フィクションの可能性があるかもしれない……という問題意識を持っていたから。QAタイムにこの問題をぶつけてみたら、久保氏から返ってきたのがこれなので、再読しよう。
  • 山本貴光『文学問題(F+f)✙』の再読:上記のQAで挙げられたので。第3部第3章「文学論再検討」あたりを中心に再読する。
  • Detroit Become Human のプレイ:シナリオ分岐の話で山本さんが出した例。積みゲーで、やらずに死ねないゲームなので、SEKIRO クリアしたらやる(梟強すぎ……)。

登壇された方、ありがとうございました。また、@mizuno1982さんの写真とツイートを利用させてもらいました(ありがとうございます!)。



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