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この本がスゴい!2019

人生は短く、読む本は多い。

毎年この時期、自分のリストを振り返るのだが、読みたい本が尽きることはない。読むほどに、知るほどに、知識と理解と表現の不足を痛感する。

それでも読むし、ここに書く。読むことで豊かになり、書くことで確かになるというのは本当で、読んでいるときに何を知りどう考えていたかは、書くことでハッキリする。

つまり、自分で分かるために書いているのだ。フランシス・ベーコンは、話すことで機敏になるとも言ったが、わたしの場合、話すことで世界が変わった。[スゴ本オフ]や読書会、[冬木さんとのSF対談]や、読書猿さんとの知をめぐる対談[1][2][3]で、世界の見え方が変わった。

読書会や対談は今後もしていくが、そこで紹介された本や、2019年に出会った本の中から、わたしにとってのベストを選んだ。これが、あなたにとってのスゴ本となれば嬉しい。そして、このリストを目にしたあなたが、「それがスゴいなら、これは?」とお薦めしてくれるともっと嬉しい。

 


フィクション


 

『僕の心のヤバイやつ』桜井のりお(少年チャンピオン・コミックス)

今年いちばんニヤニヤした。

「厨ニ病こじらせ男子 × ぽんこつ美少女」のラブコメ。もうね、ずーーーっとニヤニヤしっぱなしなの。痛勤電車で心が折れてもこれ見るだけで接骨するの。

終始男子の目線で進むのだが、この男子、深夜にグロ動画を見たり、クラスの女子のリョナ絵を描くような陰キャ。「僕の心のヤバイやつ」とは、彼女に対する敵意だ。脳内では「美しいものを壊したい・汚したい」という欲望が渦巻いており、リョナ絵にしたり妄想するわけ。その、ネガティブな妄想の声が面白い。

彼女はスタイルの良い陽キャで、雑誌のモデルもやっている。クラスでも人気があり、スクールカースト上層だ(でも本人は天然なので無自覚)。で、「僕」は自分が最下層という自覚があるから、ひっそりと敵意だけは募らせている。

「ヤバイ」のは、最初は敵意のはずなのだが、だんだん変わってくるところ。彼女のことがキライなはずなのに、好意のようなものを抱き始める。

「好意のようなもの」と言ったのは、彼が気づいていないから。読み手からすると「どう見ても好きになっているじゃん」と見えるのだが、彼は「それ」が何であるか分からない。彼は「それ」を持て余し、困惑する。

そして、あるきっかけで、彼は気づいてしまう。彼女を好きだということに。めっちゃ痛々しい最中なのだが、このシーンはすごく美しく悶々とさせられる。

いっぽう、彼女のほうは自分の「それ」を分かっていたように思う。彼との距離を詰めようとするのだが、不器用で経験不足が故に「それ」は伝わらない。逆に彼のほうに不思議がられてしまう。背が低くてカースト下層の「僕」が、彼女と言葉を交わすだけでも結構けっこうなのに、なんでそんな態度を? と考えてしまう。

この絶妙な距離感・もやもや感がいい。細切れの twitter で見ているのとは違い、Kindle で通してみると気づく。二人の距離は、ほんとーにゆっくりと、徐々に(物理的に)近づいているのが分かる。まるで、野良猫に毎日声をかけてだんだん慣れていくように。

そのゆーっくりとした変化が、あるきっかけで気づいてしまう。自分が抱えていた「それ」が、いったい何であったか、「それ」を人は何と呼んでいたのかが、恋という言葉を使わずに、表情だけで伝える(雨の日のレインコートの話とか、溶けたチョコレートとか)。

恋なんて遠い日のエゴのシーソーゲームだったおじさんにとっては、心臓がキュンするぐらい初々しい。二人には絶対に幸せになってほしいし、この恋の行く末を見届けるまでは死ぬわけにゆかぬ、第3巻はまだか! という作品。

お試しは[僕ヤバ]からどうぞ。読んで悶えろ、ニヤれ、溶けろ。

 

『零號琴』飛浩隆(早川書房)

読むというより、体験する一冊。

これは、エヴァとゴレンジャーとプリキュアのパロディであり、ナウシカとシンゴジとシンフォギアのリスペクトであり、どれみとどろろとまどマギの同人であり、火の鳥と寄生獣と日本沈没のオマージュである。

好きな人ならいくらでも幻視できる怪物のようなSFで、どこを読んでも、何を切り取っても、どこかで観た・読んだ過去の作品とつながり、思い出し、いま目の前で進行する美麗で壮大で禍々しくもバカバカしい物語にオーバーラップする。

どっぷり漬かりながら、ふと気づく。これ、小説でARを実現した人類最初の作品ではないかと。AR、つまり拡張現実(Augmented Reality)をテーマにしたというのではなく、この怪作を読むという行為そのものが現実を拡張していることになるのでは……

つまりこうだ。物語のフレームは、曰くありげな音楽家とその助手が、とある惑星で開催される假面劇の演奏を任されるのだが、とんでもない目に遭う……という昔ながらの設定であるものの、そこで展開されるネタや物語構造、舞台設定、セリフの端々、視線の動き(カメラのパン)、見得ポーズ、小道具と大道具、そして上演される劇そのものが、未来なのに懐かしい。

物語で進行する劇は既に伝説となっていて、假面をつけた観客が、現実にオーバーレイされた演出で鑑賞すると同時に、劇の登場人物の一人となる。観る者と演る者が重なり合い、劇そのものを改変し、校正し、編纂する。同様に、わたしの中のエヴァやマギカやナウシカの経験に、この物語がオーバーレイされる。物語に登場するキャラやモチーフに、わたしの記憶が重ね書きされるのだ。

この小説を読むことは、スマホをかざして見るときだけに現れる光景を眺めるようなもの。『零號琴』を通して記憶をたぐるときだけに現れる、(わたしが経験した)虚構に重ね書きされた現実を味わうことになる。

いうなれば、『零號琴』は、拡張現実(AR)というよりも、むしろ拡張虚構(Augmented Fiction)であり、スマホでありHoloLensのようなデバイスなのである。本書を顔の前にかざし、その世界に没入することで、自分が経験してきた虚構が、鏡のように映し出され、多層化され、レイヤー結合された後、上書き保存される。

もちろん、知らないネタがあっても大丈夫。もう一度読めばいいのだ。これ、二回目を読むと、「一周目を読んだときの経験」が今度は地の虚構現実となり、そいつに二回目の虚構が拡張現実と化す。ネタバレを知っている自分をネタとして読める。

物語に重ね書きされた「現実」を味わうべし。

 

『うたえ! エーリンナ』 佐藤二葉(星海社COMICS)

命短し、うたえよ乙女。

古代ギリシアの女学校を舞台に、女の子の友情と成長を描いた百合マンガ―――という噂で手にしたが、控え目に言って最高だった。こんなに面白いのに、なぜか1巻完結なので、不思議に思って調べたら、涙が止まらなくなった。

詩人になることを夢みるエーリンナと、親友のバウキス。当代一の女詩人サッポーの女学校に入ることになる。乙女のたしなみや花嫁修業そっちのけで、歌や竪琴に夢中になる。

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女性の自由が制限されていた時代で、それでも歌への熱い情熱を胸に、元気いっぱいのエーリンナに思わず微笑む。さらにツンデレ気味のバウキスとの友情が尊い。当時の結婚適齢期は15才、それまで女学校にいるわずかな時間のことを、自由時間(スコレー)と呼んでいる(後の「スクール」である)。エーリンナは13~4才くらいだから、本当に短く濃密な物語になっている。

劇中での同性愛は甘やかというよりも友情に近く、後に「サッフィスム(レズビアニズム)」と呼ばれる女性同士の愛情はあまり前面に出てこない(一方で、少年愛はしっかり演出されている。この濃淡は何だろう?)

古代ギリシャ人の同性愛は、男性同士のものであれば寛容だが、女性同士となるとほとんど言及されていない。ただし、サッフォーの作品だけが例外的に扱われている。その結果、サッフォーがその出身地であるレスボス島に因んでレズビアニズムの代名詞のようになっているのだ。

短く濃密な自由時間は、『うたえ! エーリンナ』で読むことができる。その一年後を描いたおまけが付いて、1巻ものとなっているのだが、完璧に終わってしまっている。続きも読みたいという声がAmazonレビューにもあるし、わたしもそう思う。 

なぜ1巻で終わるのだろう?

疑問に思って、『ピエリアの薔薇』(沓掛良彦、平凡社)を手にする。ギリシア詞華集選で、大詩人の作品から無名の俗歌まで、さまざまな歌が収録されている。ホメロスやサッポーのような大詩人になるのを夢見て、あれほど努力してきたのだから、ひょっとすると、エーリンナの歌が残っているのではないか?

わたしの仮説は正しくて、エーリンナの歌は残っていた。そのタイトルを見た瞬間、涙で何も見えなくなった。実は『うたえ! エーリンナ』は全話無料で[ツイ4:うたえ! エーリンナ]から読める(有料版のオマケがまた泣かされるが……)。これ読んでから、その理由を知ってほしい[続きはこちら]

 

『20世紀ラテンアメリカ短篇選』 ガルシア=マルケスなど(岩波文庫)

ボルヘス、アレナス、カサ―レスに釣られて手を出したら、全部あたりのアンソロジー。岩波の短篇集はハズレなしというジンクスを再確認する。

マジック・リアリズムは、「見えないもの」をどう扱うかが、ポイントになる。人でない存在、見えるはずもないものを「見る」となると、普通の幻想小説と、マジック・リアリズムは大きく異なってくるのだ。普通の幻想小説の場合、この「見えるはずもないもの」、すなわち不可視の「存在」を特定し、名付けようとする。幽霊や妖精的な「なにか」を設定しようとする。さらには、物語に「なにか」を組み込もうとする。

ところが、マジック・リアリズムのばあい、「なにか」という存在を必ずしも必要としない。もちろん精霊的な「なにか」をモチーフにする場合もあるが、必要条件ではないのだ。最初は会話交じりでシーンを描写しているため、主人公だろうと思っていたら、いつの間にか、窓の外へ漂い出る「なにか」の目線になっている。地の文が、いつの間にやらシームレスに「なにか」になっている。

主客の逆転、喰い合い、異なる時空の主体との重なりが、さらっと書かれており、気づかずに読み流した場合、一種サブリミナル効果のように働く。読み手は通り過ぎながら、言葉にできない違和感を抱き続ける。

他にも、ドアの前を通る一瞬で、部屋の中を詳細に見て、あるものを「二十七」と数え上げるシーンも出てくるが、主体はキャラクターの一人なのに、そこには名付けようのない「なにか」が入り込んでいる(そして「なにか」は特別視も言及もされないし、彼は特別な能力を持っているわけでもない)。

つまり、後にカメラが主体を捉えたとき、ぜんぜん違った場所に置いてかれて愕然とするような、欧米ならそれだけで小説になる驚くべき現象が、ごく自然に受け入れられてしまう。このズレが、人工的な眩暈を引き起こすのだ。

さらに、あとで振り返ると異常なのに、それが淡々と描かれる。何の説明も無く(しかし確信をもって)酷い最期に至る話が続々とある。出来事の異常さそのものよりも、異常の何気なさのほうに不気味になる。この、何気ない異常の感覚こそ、マジック・リアリズムの本質だ。よく読むと明らかにおかしい。だが、登場人物や作者はおかしいと感じていないように描かれるのだ。

よくある「日常と非日常の境界が曖昧になる」というよりも、むしろ、もともと境界はないのだ。だから、小説に落とし込むときに生ずる、「異様の扱いが異常とされていない」ズレが、一種の人工的な眩暈を引き起こす。

異常の何気なさと、人工的な眩暈を、お愉しみあれ。

 

『沙耶の唄』大槻涼樹、虚淵玄(星海社FICTIONS)

見るものすべてが汚辱にまみれ、腐臭をただよわせ、耳障りな音を立てている。そんな世界で「正常」なフリを強要され、できるだけ早く・なるべく楽に死ぬ方法を考えているとき、美しい少女に出会った―――グロゲーに見せかけた純愛に、何度胸を潰されたことか。

そして今年ノベライズされたことで、さらに古傷を抉られることになる。

手塚治虫『火の鳥』に、交通事故で脳に障害を負った男の話がある。絶望視されていたものの、大手術により普通の生活ができるようになる。しかし、それは見た目だけで、男は認識能力に重大な問題を抱えていた。男の目には、人が石ころのような無機物に、機械のロボットが美女に見えるように見える。だから男は、人ではなくロボットに恋をしてしまう。男はどうするか?

『沙耶の唄』は、そのクトゥルフ版になる。主人公の目には、世界が当たり前に見えない。人は腐った汁を滴らせる肉塊であり、壁や床はミミズと豚の内臓に埋め尽くされている。会話は成り立たず、キィキィ喚く音から類推するほかない。

グロ描写は『インスマウスの影』を彷彿とさせるが、異形の者を「異形」と片付けられないのが辛い。彼の目にどう見えていようとも、この世界で「正常」なのは彼らの方であり、異常なのは自分の方なのだから。

そんな壊れた世界で出会った、たった一人の存在が、沙耶だ。彼にとって、どれだけの救いとなっただろう。透きとおる肌と、しなやかな肢体を白いワンピースに包み、深夜の病院を徘徊する。聞けば、お父さんを探しているという。

彼は、藁にもすがる思いで、手を握らせてくれと懇願する。「変な人。そんなこと言い出したの、あなたが初めて」と言いながら差し出す白い手に、壊れ物を扱うように、そうっと、やさしく手を重ねる。

こうして始まる、淫猥で残酷で哀しい関係を描いたのが、『沙耶の唄』だ。彼は、おぞましい世界で、彼女を守り抜こうとする。『火の鳥』と似ているのは入口だけで、後は全く違う方向へ転がり出す。そのエロとエグさは虚淵玄ならではの一級品。

ゲームの雰囲気は以下から。スクリプトの部分は小説とほぼ同じなので、"試し読み”にもなる。ただし、かなりSAN値が削られるので、耐性なき方は行かないように。

君と僕の壊れた世界でどう生きるか? 覚悟完了の上でどうぞ。

 

『エレクトリック・ステイト』 シモン・ストーレンハーグ(グラフィック社)

不穏な画集とディストピア小説が融合した一冊。

巨大な建造物と歩行機械がたたずむなか、少女と黄色いロボットが行く。なぜか懐かしい異形に浸食された、アメリカ合衆国の終わり(始まり?)を眺める。少女とロボットの行く先で、HMD(ヘッドマウントディスプレイ)を装着した人だったものや、信じられないほど巨大な伝送路、自家製ドローンを見る。アメリカの田舎の住宅街にそびえる歩行要塞は、不思議と似合う。

「こちらの」アメリカでは、人体器官に接続されたHMDを経由して、遅延なしでドローンを操作する技術が発達している(いわば有機的なジョイコン)。人の脳細胞どうしをつないで巨大な神経マトリックスを組み合わせ、そこから集合意識が生み出されている。さらに、集合意識が物理的な形態をとろうとして、ドローン操縦者(すなわち人)の生殖サイクルに干渉した未来が、これだ。

既視感あるディストピアは、様々な作品を思い出させる。集合意識が第三の主体を生みだす背景は『攻殻機動隊』を、二人が行く遠景は『The Last Of Us』やマッカーシーの『ザ・ロード』を、そして少女とロボットの関係性は『CLANNAD』の幻想世界を彷彿とさせる。

アメリカが舞台なのに、「エレクトリック・ステイツ(states)」ではなく、なぜステイト(state)なのかと考えて、ぞっとする。これ、状態のステイトであり、一つの国家「電気仕掛けの国家」としての意味も持つのだろう。

作者はシモン・ストーレンハーグ(Simon Stalenhag)。日常的な光景と不穏な異物を等価にした世界観で、ストーリー性の高い作品を描いている。

グラフィックの一部なら、[Simon Stalenhag Art Gallery]で見ることができるが、なぜ少女が旅をするのか、黄色いロボットは何なのか、そして、旅の果てには何が待っているのかは、小説を追ってほしい。

翻訳が山形浩生さんだから購入したのだが、大正解でしたな。わたしが知らないスゴ本は、山形さんが訳してたというやつ。ハリウッドで映画化されるとのことだが、これも期待。続編『ザ・ループ』も出ているが、未読。手に取られた方は、感想を聞かせてほしい。

 

『せんせいのお人形』 藤のよう(comico)

わたしが知らないスゴ本は、読書猿さんが推していた。

すごい勢いでtwitterでお薦めしていたので読んだらスゴかった。「せんせい」と漢字を開いたタイトルと、大人の男+放心した少女の表紙にいかがわしさを覚えたのだが、予想していたものと違っていた(心が汚れている自覚はある)。

少女の名はスミカという。ネグレクトされ、親戚中をたらい回しにされていたのを表紙の男(昭明)があずかり、マイフェアレディよろしく育てる。『うさぎドロップス』が頭に浮かんだが、ぜんぜん違っていた。誰からも愛されることなく、流されるがままに生きてきたスミカが、彼の元で心を取り戻していく過程の一つ一つが胸に響く。

たとえば、スミカが名前を呼ばれるところ。名前を呼ばれるとは、その一人の存在を認めること。名前を呼ばれたことすらないということは、「いない子=いらない子」としてずっと生きてきたこと。自分の存在を認めることがない世界で生かされてきたこと。それがあたりまえだったスミカが、自分の思いを、昭明に向かって、身を絞るように吐き出す。そのセリフだけで胸がいっぱいになる。

あるいは、「なぜ人は学ぶのか」のわけを、スミカが自分自身で見つけだすところ。最初の「知りたい」から始まって調べていくと、どんどん「知りたい」が広がってゆく。数学について調べていたら天文学になり、歴史になり、科学になる。

誰にも顧みられず、孤独の中で生きてきたスミカが、知が有機的につながっていること、その真ん中に「知りたい」と思う自分がいること、そしてその気持ちを持っている限り、決して一人ではないことに覚醒するシーンは、読んでるこっちが戦慄した。ここ、読書猿さんの至言同じものを読む人は、遠くにいると同じだ。

昭明の、「それは君が手放さない限り 君をどこまでも連れていくものだ」「ほかの誰にも奪えないものだ」という言葉が刺さる刺さる。これは、タイガーウッズの母が、子どもに向かって言い聞かせていたセリフと同じであり、わたしが、わが子に向かって言い聞かせているセリフと同じだ。

変わってゆくのはスミカだけではない。彼女に挨拶を教え、礼儀を教え、本を読むことを教え、知る方法を教え、約束を守ることを教えてゆくうちに、昭明自身が変化してゆく。スミカが初めて(おそらく、生まれて初めて)家に帰ってきて、「ただいま」というのだが、このシーンは何度見ても泣いてしまう。これはスミカの魂の再生だけではなく、昭明の心、ひいては読み手の心を溶かしてゆく物語でもある。

最初の2話は無料で読める。[せんせいのお人形]からどうぞ。

 

『ニックス』ネイサン・ヒル(早川書房)

狂おしいほど好き。めちゃくちゃ笑い、泣き、怒り、嘆き、途方にくれ、ハラハラ・オロオロ・ドキドキしながら夢中になって読んだ、ユーモアと切なさに満ちた最高の一冊。

自分を置いて家を出て行った母と、それから数十年が経過した後、調べ始める息子のサミュエル。この二人を軸にして、それぞれの過去と現在を行ったり来たりしながら、物語は進んでゆく。最初は復讐心に駆られていたが、次第に分かってくる母の半生は、サミュエルが長い間信じていたものとは、全く違う人生だった。

小説を貫くテーマは、エピグラフにもある、盲人が象を語る話だ。

目の見えない人をおおぜい連れてきて、象に触らせる。ある者は鼻を撫で、別の者は耳を撫で、またある者は尾を撫でる……といった風に。そして、「象とは何か」を語らせたところ、てんでバラバラの答えになり、盲人たちは殴り合ったという話だ。物事や人物の一面だけを見て、それが全てだと理解してしまうことを戒める説話だが、SNSで噴き上がっている「盲人」を見るにつけ、今こそ広めたい教訓だ。

しかし、2人の人生につきあってゆくと、ある重要な事実に気づく。

見過ごされがちなのだが、盲人と象の話において一人一人の説明は正しいという事実だ。一人一人は偽りの象を語っているわけでない。それぞれ偽りの「象」像によって隠された、「真の象」というものが存在するわけではない。

そうではなく、それぞれにとっての「真の象」―――つまり、これこそが「真の象」だという思い込み―――によって隠された、一つの大きな象がいるだけなのだ。サミュエルの母は、さまざまな側面を持つ。生真面目で、怖がりで、でも大胆で、妻であり母であり女である。ある一面が真実だと確信することにより、別の、より大きな真実を覆い隠す。

それぞれの人生を支えている、隠されているより大きな真実は何か―――何度もやってくる物語のうねりの中でこれに気づくとき、ほとばしる感情を留めることができなくなる。涙とか感動というよりも、むしろ、彼女がどういう気持ちでいたかが堰を切ったようにわたしの身体を走り抜ける。

そして、人を理解するとは、(より大きな象が支えている)それぞれの真実の中で生きていることをひっくるめて、理解することなのだ……という結論に至る。それぞれが持ち寄った真実を理解するか否かの話だ。理解することは、憎悪することよりも、難しい。

ジョン・アーヴィング絶賛との謳い文句で手にしたが、大当たり。平成最後の、最高の海外文学長編として、自信をもってお薦めする。 

 

『MONUMENT あるいは自分自身の怪物』滝川廉治(ダッシュエックス文庫)

わたしの3倍読んでいる妻は、あまり誉めない・勧めない人なのだが、そんな彼女が、珍しく「これを読め」とお薦めしてきたのがこれ。妻のお薦めはハズレが無いことはわたしが保証するのだが、想像を遥かに超えて面白い傑作なり。

読み終えて疑問が湧きあがる、なんでこれが1巻完結なの!?

そう、巧妙な伏線&物語構成、ストライクゾーンど真ん中のキャラクターによる、「物語を純粋に楽しむこと」と、もう古典名作と言っていい小説や映画を、上手くまぶした会話や描写による、「読み手の経験に呼応する面白さ」が、絶妙に混ざっている。この面白さ、もっと長く味わっていたいと思うものの、1巻で完璧に終わらせている。

これ、やりようによっては、もっと長引かせることもできたはず。特殊能力を持つイケメン主人公(中身は暗い過去を持つゲス野郎)が、巨額の報酬に釣られ、魔法学校に潜入するために下工作をするのだが、完全にナナメ上の展開になるところで、丸々1巻を費やしてもいいはず。

魔法が組み込まれた「この世界」―――読み手であるわたしたちが住む歴史に、魔法という概念が併設された世界―――この説明の語りだけでも、優に1章使ってもいいのに、エピグラフでさらりと触れているだけ。

人類が火を熾すよりも先に、発火の魔術に目覚めた世界。

あらゆる理論や法則に、応用として個人の魔力資質の差異が組み込まれている世界。

ソクラテスもプラトンも、ベートーヴェンもモーツァルトも、フロイトもユングも、ヒトラーもスターリンも、手塚治虫も藤子・F・不二雄も存在していたけれど、魔法がある世界。

不思議な力が存在しても、結局は似たような歴史を歩んできた世界の物語。あまりにもさり気なく書いてあるので、魔法の位置づけだとか、魔法という法則に基づいた社会制度や規格、物理的制約などの説明が、軽く扱われた気になる。

だって主人公やヒロインの能力、実質的に無双じゃないか! 「この世界」は、読み手であるわたしの世界とずいぶん違うのに、まるで同じ様相に見える。ハードSFが(そのSF内で通用する)科学的厳密さを追求しているように、魔法的厳密さも書き込んで欲しいものよ。

いや、これはライトノベルだから、そこは聞かないお約束でしょう。などと、いったんは納得したのだが、まさか、このエピグラフが伏線だとは思ってもみなかった。

主人公(ゲス野郎)の暗い過去、進行する事件が牽引する「謎」、ヒロインが抱える苦悩、そして魔法的厳密さの不在―――これらが、MONUMENTと呼ばれる魔法遺跡の探索の果てに交わるとき、一挙に、一気に、タイトルとともに分かるようになっている。

カタルシスとカタストロフが同時に味わえる。Amazonレビューがまさかのネタバレだから注意して。

 


ノンフィクション


 

『タコの心身問題』ピーター・ゴドフリー=スミス(みすず書房)

タコから見た心の哲学。

生物哲学の教授であり、一流のダイバーである著者が、タコとの交流を通じて「心とは何か」「心はどのようにして"生じる"のか」を考える。進化は「まったく違う経路で心を少なくとも二度、つくった」という主張は、言い得て妙なり。

まず著者は、タコの「目」について注目する。高度に発達しており、網膜、角膜などの構造は、ヒトの目と物理的に似ているだけでなく、視神経が網膜の前に突き出しているため、盲点がない。遠い祖先は海かもしれないが、そこから出て目を進化させてきたヒトと、海の中で目を進化させてきたタコが、結果的に近似した目を持つというのが面白い。

これを専門用語で収斂進化と呼ぶという。異なるグループの生物が、環境や食物に適応し、系統に関わらず身体的特徴が似通った姿に進化する現象のことだ。異なる系統である鳥とコウモリの「翼」が似ているのと一緒やね。

そして、タコの生態や実験を紹介しつつ、ある種の「心」があることを考察する。この件がたいへん面白い。集めた貝殻で自分の”庭”を作ったり、状況に合わせて姿形や色を自在に変化させたり、閉まった蓋を開けたり、タコを知れば知るほど、「賢い」と見えてくる。

たとえば、野生のタコがココナッツの殻をシェルター代わりに使っているレポートを紹介する。半分に割られた殻を持ち運び、危険を察知すると上手に中へ入り込む「道具を使うタコ」は、youtubeでも話題になっていた。他にも、貝や竹を使って入り込む様を見ていると、「ひょっとして、ヤドカリを真似ているのでは?」と思えてくる。

一方で著者は、安易にタコを「賢い」とする姿勢に慎重になる。動物の「心」について考えるとき、人はどうしても自分の心を前提にしてしまいがちだ。単純な生物の「心」は、人の心を単純にしたものだとか、人が「賢い」と考える実験でもって動物の知性を測るといった「擬人化の罠」である。

著者は折に触れてこの罠を指摘する。たとえば、タコの脳の大きさでもってタコの知性を測ろうとするのは誤りだという。まず「脳の大きさ」は、単純な比較ではなく、身体サイズに対する比でなければならない。その場合、タコは不釣り合いなほど巨大な脳を持っていることになる。さらに、タコはニューロンの大半(およそ3分の2)を、頭ではなく腕に持っている。

つまり、タコは身体サイズからすると異様ほど大規模なニューロンを持ち、しかも独自の身体性の下で、頭からの指令と、自律した腕とが協調し、「タコであること」が成り立っているのである。巨大脳と大規模なニューロンは、タコの「心」の存在を示唆している。

 この「心」のありようについて、翻訳者も慎重に言葉を扱っている。原著のタイトル ”OTHER MINDS” の ”MIND” が複数形になっていることに注意を促し、日本語訳にあたっては、原則的に “mind” に「心」、”intelligence” に「知性」、”consciousness” に「意識」という訳語を当てて訳し分けている。

ヒトの場合、「心」は、学習や意識といった、主に「頭脳」に結び付けられる精神活動を指す。しかし、頭足類の場合、そうした機能は必ずしも「頭脳」だけに限らず、わたしたちが「腕」や「脚」と呼んでいる箇所にも及ぶ。ヒトの言葉をそのままあてはめるなら、タコは腕で「考えて」いることになる。

では、なぜタコは巨大な脳とニューロンを発達させたのか?

著者は頭足類の歴史をさかのぼる。その祖先は、身体を保護する貝殻のようなものを進化させ、初期の捕食者となったという。その後、殻を捨てて遊泳を始めたのが頭足類となる。そして、殻を失ったことによる脆弱性を補うために、高い知能を発達させたというストーリーだ。

つまり、タコはヒトとは異なる経路で、別のデザインで知能を得ており、いわば「心」の収斂進化が、少なくとも2度起きたというのである。この指摘は、たいへん興味深い。

頭足類から心の問題を分析する試みに魅せられて、『イカの心を探る』(池田譲、NHKブックス)と『ふらんけんフラン』(木々津克久、秋田書店)を読む。面白いことに、「知性」を定義しようとすると、必ずそこにヒトの存在が求められる(ヒトがいないと知的か否かの判定はできないし、ヒトを超えた知性は文字通り”人知の外”になる)。

この3冊の考察は、[『タコの心身問題』『イカの心を探る』『ふらんけんフラン』で頭足類の「心」を考える]をどうぞ。

 

『会計が動かす世界の歴史』ルートポート(KADOKAWA)

「損と得」という視点から見た人類史。

そこらによくある「会計の世界史」ではない。本書の焦点深度はもっと広く、お金と人との関わり合いをドラマティックに描くだけでなく、それを通じて「お金とは何か」ひいては「価値とは何か」についても答えようとしている。

そして、誤解を恐れずに言うと、「お金」が人を作ったといえる。

逆じゃね? と思うだろう。壱万円札を作ったのは人だし、その紙に「壱万円分の価値がある」(ここ重要)と信じているのは人だから。なぜ壱万円に壱萬円分の価値があるかというと、壱萬円の価値があるとみんなが信じているから。この「みんなが信じる価値」がお金の本質である。

そんな「価値」みたいな概念ではなく、金や銀といった貴金属がお金じゃないの? という疑問が出てくる。本書では、お金と人の歴史を振り返りながら、「みんなが信じる価値」と「お金」の関係に迫る。

たとえば、スペイン帝国がもたらした価値革命の例をあげて、金銀はお金というよりも、お金を計るためのモノサシだと答える。植民地化した中南米から大量の銀が持ち込まれた結果、銀という通貨の供給量が増え、大規模なインフレが発生する。すなわち、ヨーロッパでの銀に対する「みんなが信じる価値」が下がったのだ。

あるいは、最古の金融バブルと呼ばれているオランダのチューリップ・バブルや、詐欺師ジョン・ローが引き起こしたミシシッピ・バブルの話をする。彼が作り出した「利子付きのお金」は、良い意味でも悪い意味でも応用が利くだろう。欲望が欲望を生み、「みんなが信じる価値」が膨らんで弾けた出来事だ。

面白いところをつまみ食いするだけなら、[ペペラのバブル物語]を読めばいい(めちゃくちゃ面白いゾ)。だが本書では、「なぜバブルが弾けたのか」という問いを立てる。よくある答えが、「みんなが現実に目覚めたから」だろうが、本書は、そこからさらに踏み込み、「なぜ現実に目覚めたのか」という視点から、生々しい理由を炙り出す(p.173の解説は、あらゆる先物取引(の損切タイミング)に応用が利くだろう)

本書は、簿記の歴史を紐解きながら、「みんなが信じる価値」の本質に迫る。その分析の中で、ヨーロッパで発達した複式簿記と、日本独自の簿記の構造の共通点―――勘定科目を借方と貸方に分けて記載し、貸借を一致させるところ―――に注意を向ける。

あたりまえだろ? 誰かにとっての「借り」は、その相手にとってみれば「貸し」になる。千円借りたら、千円返さないと。ここに時間の概念を入れると、利子や償却といった要素が必要になるが、簿記の基本は、「貸し」と「借り」が一致することにある。

しかし、この「あたりまえ」こそが、ヒトを人たらしめた原因だというのだ。

社会的動物であるヒトが、そのコミュニティの中でうまくやっていくためには、個体を分別し、その個体が自分にとって得となるか損となるか判断する必要がある。仲間だから協調する部分もあるが、食物や異性の取り合いとなることが出てくる。

つまり、裏切ったり裏切られたりする関係性を続けながら、うまく生き延びる必要がある。場合によっては、自分に有利なときでも、仲間に恩を売ったほうがトクになることが出てくる。この協力と裏切りの駆け引きの中で、知性すなわち脳は進化していったという。

そこで重要なのは、身近な仲間を判別し、それぞれの「貸し」「借り」を理解し、記憶していくためには、高度な知能が必要となる。現代では、お金を貸したとき「貸付金」として登録しているが、昔は「貸した人の名前+金額」で債権を記録していた(人名勘定)。つまり、簿記の基本構造の中に、知性の進化の秘密が隠されているというのだ。

誰かに「貸し」を作ったら、それを報酬として受け取れるのは、返してもらえると信用しているから。以前に「借り」たものを返すのは、それをしないとコミュニティでやっていけないから。

その共通尺度が、「みんなが信じる価値」すなわちお金になる。時代によって、それは貝殻だったり金銀といった貴金属、あるいはデジタルデータとして計られるが、その計られる対象である信用が、知性を進化させたのである。

会計という視点で人類史を斬ると、その断面にお金の本質が見える。そして、お金の本質を簿記の構造から見ると、人の本質が見える。伏線と謎解きを張り巡らした、極上のミステリのような一冊。

 

『ウンベルト・エーコの世界文明講義』ウンベルト・エーコ(河出書房新社)

知の巨人ウンベルト・エーコの、十余年にわたる講義録。

美と醜、虚構と陰謀、絶対と相対など、抽象的なテーマを俎上にのせ、美学、数学、文学、音楽、哲学、神学、天文学を渉猟しつつ、フルカラーの図版を通して、具体的に迫ってゆく。ニュースやメディアで馴染んだネタから、ネットを駆使して追いかける必要のある美術作品まで、知的に振り回されるのが楽しい。

たっぷり知的興奮を味わったあと、見知ったはずの世界にある、見知らぬ裂け目に気づいたり、まるで異なる時代なのに、そこを貫く原理原則があったことを発見する。世界はもっとつながり合っているし、時代はもっと重なり合っている。人の営みは、かくも美しく、かくも醜いことを、あらためて知って驚く。

たとえば、「美」について。

「美とは何か?」と概念で問われると、答えに窮する。イデアのように「美しさ」そのものを指し示されたとしても、それが(他の言葉でいう)何であるかなんて、分かるはずもない。せいぜい、わたしが美しいと感じるオブジェクトを挙げるしかない。このあたりの機微は小林秀雄が上手いこと言っており、「美しい花がある、花の美しさという様なものはない」がそれだ。

ところがエーコは、もっと具体的に「美」に迫る。

美しいと考えられるもの―――それは絵画や彫刻といった美術作品だったり、美的体験を伝える物語だったりする―――を具体的に挙げてゆき、そこに共通したものを見出す。すなわち、「美は変わる」ことだ。

「美」が絶対的で不変的なものであったことは一度だってなく、それは時代や国によって、複数の異なる顔を見せてきた。これはオブジェクトが、男や女や裸体や景色といった物理的な美しさに限らず、神やイデアといった形而上的な美しさも然りだという。

さらに、美にまつわる様々なテクストを通じて、美の中にある価値観を救い出す。「美しい」という言葉には、「優美な」あるいは「崇高な」「素晴らしい」といった形容が含まれることを指摘する。「美しいものとは、それがみられたときに喜びをあたえるもの」なのである。

あるいは、「醜」についての考察も具体的だ。

美と同様に、醜も相対的であることは変わりないが、面白いのは醜は「美との関係性」において捉えられている点だ。醜とはすなわち、「美女と野獣」の変化形であり、いったん美の基準が定められると、ほぼ自動的に対応する醜の基準も定めるのが自然だと考えられてきたという。完全性と不完全性、秩序と秩序を壊すもの、といった風に。

ただし、こうした相対性から離れ、美の理想にふさわしくない、という理由で醜いとされる対象もある。たとえば、アドルフ・ヒトラーが20歳のときに描いた花瓶の絵を挙げ、エーコはこれを醜いとする。[これだ]

反感や憎悪、恐怖や不安の反応を引き出す要素があれば、それを「醜」だと定義づけることができる。美人とされる姿かたちは、時代とともに変化する。だが、美人の腐乱死体は普遍的に醜い。『美』は文化的背景の価値観を反映し、『醜』はその先にある「死」の概念をまとう。

この辺りの考察は、『美の歴史』『醜の歴史』に詳しい。ほとんどの人が「美は文化なり」に賛同するだろうが、では醜は? と訊かれると窮するに違いない。『世界文明講義』で予習して、美と醜の歴史に浸るのもまたよし。

知的冒険の一冊を、堪能すべし。

 

『乳房論』マリリン・ヤーロム(ちくま学芸文庫)

乳房をめぐる欲望の歴史。

人類史を振り返り、西洋を中心とした乳房をめぐる欲望の歴史をたどっている。乳房に対する概念は一様ではなく、それを求める人や時代や文化によって尊ばれ・蔑まれ・弄ばれてきたという。

著者は、乳房に対する視線、すなわち乳房がどのように見せられ、見られてきたかという観点から振り返る。絵画や彫刻、映画やポスターに現れる、ビジュアルとしての乳房だけでなく、詩歌や論文、プロパガンダに現れるレトリックとしての乳房にも着目する。さらに、乳房がその時代や文化圏でどんな役割を果たしたかという機能面にまで掘り下げている。

その背景には、「おっぱいは誰のものか」という疑問がある。すなわち、乳房を求めるもの―――乳児、パートナー、画家、詩人、医師、政治家、ポルノ業者、商人、司法家、宗教家など、それぞれの立場によって、乳房は様々な役割を担わされてきたというのだ。

たとえば、絵画におけるモチーフとしての乳房の変遷が面白い。ギリシャ・ローマ時代の彫刻における女性の美しさの理想が、ルネサンスを機に俗世趣味的なものとなったという。授乳する聖母の乳房から宗教的な意味が剥奪され、乳房は、あからさまな男性の欲望の象徴になったと主張する。

そして、ルネサンス期に生まれた価値観が西洋文明に根強く残り、乳房は女性ではなく男性を性的に興奮させる意図で美術や文学に取り上げられ、鑑賞者や読者に愉しみを提供したという。乳房に手を置く男性図はルネッサンス美術によくみられるモティーフだが、乳房の所有権は自分たちにあると考えている証左だというのだ。

絵画だけではなく、「理想的な美しさ」という大義名分隠されてきた補正下着の歴史や、おっぱいの商品化を促す豊胸手術の技術史、乳がんをめぐる医師と女性たちの医学史、おっぱいに集める視線を政治的に誘導させるプロパガンダのポスター、おっぱいを売り物にするポルノの歴史など、さまざまな事例を紹介する。

どの視点どの立場からしても、「おっぱいは誰のものか」という問いに対する答えは明白だ。おっぱいの持ち主のものに他ならない。だが、乳房の持ち主である本人が、自分のおっぱいをどう扱うかについて自由にできないことが問題なのだ。

これらを打ち破るものとして、ディーナ・メッツガーの写真が紹介されている。乳がんで乳房が片方になってしまった姿を映した、美しい写真だ。裸になったメッツガーは両腕を広げ、左右非対称の乳房を太陽に向けてさらしている。片側には従来の乳房、もう一方には切除痕に施した入れ墨が見て取れる。わたしは、これほど自由で力強い乳房を見たことがない。


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Deena Metzger as the Warrior
(cite from Jewish Women's Archive)

Jewish Women's Archive. "Deena Metzger as the Warrior Poster." (Viewed on November 26, 2019) <https://jwa.org/media/warrior-poster>.

本書は、芸術作品を元に歴史・社会学的な視点だったが、進化生物学のアプローチからおっぱいの歴史をたどると、さらに興味深い分析ができるに違いない。

たとえば、人類の祖先が四足歩行から二足歩行に移り変わるとき、女性の成熟度のバロメーターがお尻から乳房に代替されたと言われる。また、大きく張りのある乳房を持つ女性を選ぶことで、自分の子孫を残す確率を上げることができる(より多くの赤ん坊を育てられると見込まれるから)という説もある。

こうした生物学的な観点から振り返ったおっぱいの本を探していたら、骨しゃぶりさんが[おっぱいの本16冊]から『哺乳類誕生 乳の獲得と進化の謎』(酒井仙吉、講談社ブルーバックス)を紹介してくれた。ありがとうございます、読みます。

 

『測りすぎ』ジェリー・Z・ミュラー(みすず書房)

ミスが無い仕事を目標にすると、ミスは確かに報告されなくなる。

だが、ミスが無くなったわけではなく、隠匿化されているか、「ミス」の定義が変えられているだけ。これは、全国テストの成績、犯罪発生率、論文の引用件数など、様々な「測りすぎ」に見ることができる。

テストの成績や犯罪発生率は、カウントできる。「数」という比較しやすい値を出せ、場所や時系列といった軸で表現しやすく、Excelやグラフとの親和性も高い。その結果、カウントしやすい(加工しやすい・グラフ映えする)数が重視される。バロメーターの1つであり、ひとつの判断材料にすぎない測定値が、目標にすりかわる

この、測定値という「手段」が、本来それを役立たせるべき「目的」になるメカニズムを描いたのが本書だ。

世間でまかり通る、こうした測定基準が、本来の役割(実態のバロメーター)から離れ、目標そのものと同一視されるようになる。さらに、目標を達成するために測定基準がゆがめられ、数字に振り回せされる顛末が、これでもかと書いてある。現場を見ずに数字だけを見る馬鹿マネージャーは、どこにでもいる。

ただし、馬鹿には馬鹿なりの理屈がある。本書は、その理屈を徹底的に掘り起こす。

マネージャーとして求められるものは、その成果になる。自分がそこに就いて、どれほどの実績を出せたかどうか、説明責任がある。この「説明責任」が厄介な問題だという。

説明責任(アカウンタビリティ)は、もともと「自分の行為に責任を負う」という意味のはず。だが、一種の言語的トリックによって、測定を通じて成果を示すことに変わっていったという。あたかも、大切なのは測定できる(カウントできる)ものだけであり、測定できないものは埒外と扱われるようになった。

成果主義の風潮と、短期に目に見える結果を出すプレッシャーにさらされると、「カウントしやすい」数値目標を追い求めるようになる。実態は複雑で、その成果も複雑なのに、簡単なものしか測定せず、その数値こそが実態を完全に表していると思い込む。

そして、その数値でもって報酬や懲罰、格付けの基準とみなすのだ。馬鹿マネージャーの思い込みは、下々のものへは「数値目標」という形で上意下達される。

すると何が起きるか? その数値―――テストの成績や、犯罪発生率、論文の引用件数―――だけを良くすることが仕事になってしまうのだ。

たとえば、学力の低い生徒を「障碍者」として再分類し、評価対象から排除することで、成績の平均を引き上げる。「犯罪率を20%下げる」という目標は、記録される犯罪件数を20%に減らすため、未満・未遂に格下げされる。

これらは、マネージャーが、一生懸命「仕事ごっこ」をしている結果である。そもそも何のために測定しているかをはき違え、温度計を温めれば凍えずに済むと思っているかのような行動をとる。こうした仕事ごっこの実体を紹介し、そこから抜け出すための方法を提案する。溜飲を下げつつ、どう取り組むと良いかを考える一冊。

 

『ウイルスの意味論』山内一也(みすず書房)

「ウイルスという先入観」を崩し、生命とは何かにまで迫る一冊。

それまでは、病原体という観点からウイルスを観察してきた。だが、研究が進むにつれ、それは歪んだ偏見に過ぎないことが分かってくる。本書は、ウイルスの驚くべき生態と共に、生命そのものの定義を書き換えていることを明らかにする。わたしたちは、ウイルスに囲まれ、ウイルスを内に保ち、ウイルスと共に生きている。これ、教科書が変わるレベル(パラダイムシフト)なり。

たとえば、ミミウイルス。1992年に発見され、「ウイルスは細菌より小さい」という常識を覆した巨大ウイルスだ。

そして、ひとたび「非常識な」巨大ウイルスが見つかると、ここ十年でラッシュのように巨大ウイルスが発見されるようになる。シベリアの永久凍土に眠っていた3万年前のウイルスから、セーヌ川、ビルの冷却水、ハエの複眼、コンタクトレンズの保存液など、そこらじゅうで「非常識な」巨大ウイルスが見えるようになる。

奴らは別に隠れていたわけでなく、われわれが「見て」いなかっただけなのだ。それは、病原体として研究してきたウイルスのサイズが、「ウイルスは小さいという先入観」を作り出していたにすぎない。

あるいは、メッセージをやり取りし、コミュニケーションをするウイルス。ウイルスは細胞に取りつき、増殖するだけの単純な存在だと見られてきたが、ファージ(細菌に感染するウイルス)同士でペプチドをやり取りすることで、細菌の生息密度を伝える集団感知システムが紹介される。枯草菌に感染したファージの数が一定数になると、細菌を溶かすようになるのだが、この溶かす/溶かさないを決定するペプチドを、ファージがメッセージとして放出しているというのだ。

他にも、ウイルスに寄生するウイルスや、致命傷を負っても、DNA部品をかき集めて損傷した自分自身を再構成するウイルスが紹介される。これまで、ウイルスを無生物のような単純なものと見たり、「生物と無生物のあいだ」的な存在として扱ってきたことが、「ウイルスという先入観」を生みだしていたことに気づかされる。そして、ウイルスという先入観が、生物の定義を限定的にしていたことが分かってくる。

なんのことはない、ウイルスを単純な存在だと見なしていたヒトこそが、見えてるものが全てだと思い込むくらい単純な存在だったのである。そして、それに気づくくらい「見える」ようになったのである。

ウイルスの興味深い振る舞いから始まり、「生命とは何か」の根幹に衝撃を与え、さらには世界の「見え方」が変わってしまうことを請け合う。

 

『現代の死に方』シェイマス・オウマハニー(国書刊行会)

現代医療の最前線から見た死に方。

死に方に良し悪しはあるのか? 本書は「ある」という。

上々の人生だったのに最悪の死に方をする人もいるし、悲惨な人生だったが最期は安らかだったという人もいる。総合病院の医者である著者は、さまざまな死を扱っているうちに、ある結論に達する。それは、「死に方を助言することは、生き方を助言するくらい難しい」である。

にもかかわらず、本書を著した理由は分かる。「悪い死に方」が多すぎるのだ。本書を手にしているあいだ、「あなたは、自分の死に方について、あまりにも楽観的すぎる考えを持っているのではないか?」と問われているように感じた。どういう風に死にたいかと、どういう風に死ねるかは、全く違う問題なのだ

たとえば、「普通の死」と言われて思い浮かぶのは何だろう。

事故死や殺害されるようなものではなく、老衰か、病気か。苦痛は無いほうがいいし、できれば自宅で、家族に囲まれ、友人に別れを告げて、惜しまれながら、穏やかに最期を迎える―――だが、現実は違うという。それは「理想的な死」であると考えたほうがいい。

現代医学は、死を表層から遠ざけようとし、死の好ましくない部分の隠蔽に成功したが、まさにそのことが現代人にとっての死を空想じみたものにしているという。

わたしは、終末期にどのような医療を受けるか(または受けないか)を記したリビング・ウィルがあればと考えていた。だが著者は、「死に方を自分で決められると思い込んでいると、結局は自滅する」と警告する。手筈通りに死ぬというのは、かくも難しいというのである。

著者はさらに、死の医療化に警鐘を鳴らす。意識が混濁した本人に代わって、「手を尽くしてください」と訴える家族のプレッシャーに押され、濃厚医療を施し、人生の最後の最後になって、無理やり生かされている状態である。生きているものは死ぬ。これはあたりまえのことなのに、死に近くなればなるほど、本来は医療問題ではなかったことが、医療として扱われ、治療の対象となってくるというのだ。

そして、胃ろうで栄養を与えるのは、患者のためというよりも、むしろ社会から死を隠すため、家族と医者の感情的&経済的な問題を解決するため……という結論をぶっちゃける。トドメに、死を前にしては、名声も、財産も、知性も、品位も、何も役に立たないことを、スーザン・ソンタグを始め、さまざまな哲学者や思想家の事例もとに暴き立てる。読者は、こうした「手に負えない死」の事例をつきつけられ、暗鬱となるかもしれぬ。

だが安心してほしい(?)。本書には、「医者が薦める良い死に方」というものが紹介されている。医者が薦める死に方というのは奇妙な物言いだが、仕事を通じて日常的に死に接している医者が、「自分ならどう死にたいか?」について、率直に答えているものだ。[ここ]にまとめたので、参考にしてほしい。

よい死に方で、よい人生を。

 

『戦争の世界史大図鑑』R.G.グラント(河出書房新社)

古来、歴史とは戦史を指す。人類の歴史が始まって以来、人は常に戦ってきた。

古代から現代まで、戦争の歴史を俯瞰する本書を眺めていると、どの時代であれ、必ずどこかで戦争が行われていることが分かる。戦争がない世界の方が例外であり、戦争が人間の常態なのだ。

本書は、記録に残っている各戦争の年月日に始まり、原因・経過・結果・影響を概説している。さらに、決戦が行われた場所の地図や戦術構成、兵力、戦闘技術、死傷者数といった基礎史料を網羅している。

本書が優れているのは、徹底的なビジュアルにこだわっている点にある。オールカラーで構成されており、の多彩な写真、絵画、地図、図解などを駆使して、多角的かつ斬新な視点から、戦争を捉えようとしている。

さらに、年代も場所も広範囲にわたって概説しているため、どんどんページをめくっていくことで、「いつ」「どこで」を取っ払って、「どのように」人は争ったのかに着目することができる。そして、時代を超えた視点から、全く別の時代の戦闘どうしの類似点やアイデアが浮き彫りになり、見るたびに発見がある。

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見ていると惹き込まれる日本刀

たとえば、優れた将軍は、時代を超えた特質を備えていると指摘されている。チンギス・ハン率いるモンゴル騎馬軍と、1940年春にフランスに侵攻した装甲師団との間に類似性を見出し、機動力が戦闘と決する事例として紹介されている。

あるいは、敵軍包囲という古来の戦法は、古代ローマの世界でも第2次世界大戦でも等しく奏功しているが、5千年分の戦略図を眺めていると、戦いとは畢竟「どのように敵を包むか」のせめぎあいであり騙し合いであることが見えてくる。

テクノロジーが変えた戦争も興味深い(ここが一番面白い)。

たとえば、古代ローマとカルタゴが争ったポエニ戦争。初期はカルタゴが制海権を握っており、陸戦が本業のローマ軍は、海戦での経験が圧倒的に不足していた。ローマ軍はコルウスという鉤の付いた乗船橋を開発し、カルタゴ軍のガレー船が近づくと、ローマ軍はコルウスを落とし甲板にめり込ませ、それを渡って軍団兵が大挙して乗り込んだのだ。

つまり、船を操る海戦を、ローマ軍が最も得意とする陸上に変えてしまったのだ。この件は、『ローマ人の物語 ハンニバル編』(塩野七生、新潮文庫)で予習していたが、本書で指摘されているのは、軍の凄さだけでなく、ローマ人の工学技術と発明の才能である。

小火器(火打石式銃からアサルトライフルまで)の変遷は、歩兵の役割の変化の歴史であることも分かる。銃はいわゆる「飛び道具」だから、弓兵のような立場だと考えていた。だが、銃器の精度や射程距離が伸びるまでの間は、弓兵よりも槍兵のような立ち位置であったことが分かる。

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ナポレオン時代の小火器

つまり、遠距離(弓)と至近距離(サーベルや刀)の間にある、ミドルレンジを槍兵が担っていたのだ。16世紀の欧州が境目で、マスケット銃で武装した歩兵が増えるに従って、槍兵の占める割合が低下したという。

同時に、銃器に対する防御効果がなくなったため、甲冑の人気が衰えていったのも興味深い。テクノロジーが装備を変えた顕著な例だろう。16世紀の伝記作家は、「戦争でこのような武器が使われるとしたら、騎士が武器を扱う腕前や、強さ、不屈の精神、規律はもはや何の役にも立たない」と嘆いたが、21世紀のドローンによる遠隔攻撃について、同じ嘆きが繰り返されているのかもしれぬ。

戦争は文明より古い。戦争の変化の歴史が、人類の歴史と、ぴったりと重なっている。人類の様々な創意工夫は、戦争によりきっかけを得、数多くのブレイクスルーにつながった。その変遷を本書でざっと見るだけでも、ブレイクスルーどうしの繋がり合いに目を見張るだろう。

戦争から人類を知るための一冊。

 

『不道徳的倫理学講義』古田徹也 (ちくま新書)

人は、行為と結果を結び付けたがる。善人には報酬が、悪人には報復が与えられ、災厄に見舞われた人には埋め合わせとする幸福が与えられると思いたがる。

だが、現実は違う。人は、善行・悪行に関係なく、「たまたま」良い目・悪い目に遭う。善悪と幸不幸が同期しない。現実は、むしろ運に左右される。この、「たまたま」が厄介なのだ。

だから、善悪を語る場から、運を排除しようとする。宗教や神話は、「神意」や「天命」と呼ばれる神の意志=運命を取り入れ、前世や来世の因縁で語る。善悪と幸不幸は同期しているが、それは前世からの報いであり、来世へ持ち越されるという理屈だ。

では、善悪を語る倫理学の場では、「運」はどのように扱われるのか?

「道徳と運」をペアで語れる哲学者は少ない。ほとんどは、運の要素に目を背けて、道徳の側面を語りたがる。

実際のところ、理想は道徳が支配し、現実は運に左右される。道徳を否定するものが運であり、運に抗うものが道徳である。「不道徳」とはすなわち「運」なのである。道徳と運は、いかにも相性が悪い。

『不道徳的倫理学講義』では、この食い合わせの悪い「道徳と運」に真っ向取り組む。タイトルの「不道徳」は「運」を指し、いわば「運」を倫理学で解く講義になる。確固とした道徳理論を語る哲学者たちも、「運」の要素から見ると、みな苦戦している(または見なかったことにしている)。

本書は、因果応報の神話を真実だとし、運の問題を回避したプラトンや、道徳をめぐる問題圏から運の要素をどこまでも排除しようと試みたカントを紹介しながら、「運とは何か」に迫る。

そんな中で異彩を放つのは、トマス・ネーゲルの「道徳的運」だ。

そもそも「道徳」の原理は、個人の自由意志に基づいて選択した行為に対し、責任を帰するところにある。一方「運」とは、個人の意志では制御できない偶然的要素であるが故、責任を帰せないことを指す。だから、「道徳と運」は排他的な存在なのかもしれぬ。運が通れば、道徳は引っ込むのだ。

ネーゲルは、道徳的な義務や責任を負うべきなのは、個人の意志で制御できる行動においてだけだとする。そして、個人で制御できないのだけれど、道徳的な判断の対象として扱われるものを、道徳的運と名づける。

「たまたま」良い結果になった・悪い目に遭った場合、いずれも個人ではどうしようもない。そうした運一般のうち、道徳的に責任が問われるものが、道徳的運という訳である。医療過誤や交通事故において、「注意義務違反」と呼ばれる行為を見ていくと、こうした個人ではどうしようもないが、悪い結果を引き起こしてしまう要素があるというのだ。

もし現実が、個人の意志で完全に制御でき、運の要素が一切入らない均質な世界であるのなら、行為が引き起こした結果を全て引き受ける責任が生ずるだろう。

だが、現実はそうではなく、個人ではどうしようもない状況が「たまたま」起きることがある。また、非難されることは一切していないにもかかわらず、起きてしまったことが「たまたま」悪いこともある。

だから、行為と結果の間には、完全な因果だけしか成り立っていないわけではなく、運の要素がついてまわる。現実は、均質な世界ではないのだ。これを無視して、「個人の意志で制御できたならば、悪い結果にならなかった」として、個人に責任を求めるには無理がある。ネーゲルの道徳的運という考え方は、現在は常識とされる現実の不均質な面を浮き彫りにしている。

道徳と運、ままならないものをどのように扱うかについて考える一冊。

 

『暴力と不平等の人類史』ウォルター・シャイデル(東洋経済新報社)

人類を平等にするのは暴力だということを、ファクトフルに証明した一冊。

貧富の差は拡大する一方。一向に格差の是正が進む気配はない。日本に限った話ではない。北米、南米、中国、東南アジア、アフリカ……世界中、至るところで格差は絶賛拡大中だ。格差の拡大は、人類社会の宿命なのだろうか?

古今東西の不平等の歴史を分析した、ウォルター・シャイデル『暴力と不平等の人類史』を読むと、これは事実ではないことが分かる。たしかに貧富の不平等はあるが、これを一掃する平等化が果たされる。人類の歴史は、不平等の歴史でもあるが、平等化の歴史でもあるのだ。

本書の目的は、この平等化のメカニズムを解明するところにある。データと史料とエビデンスでもって緻密に徹底的に分析する。

まず著者は、不平等は人間社会の基本的特徴だという。人類が食糧生産を始め、定住化と国家形成を行い、さらに世襲財産権を認めて以降、不平等が進むのは既定の事実だと述べる。なんとなくそうではなかろうかで済ませがちだが、著者はあくまでデータで示す。

著者は、この貧富の差を解消し、不平等を大幅に是正する存在があるという。

その最たるものが戦争だ。それも国家レベルで大量動員し、国土を焦土と化すほどの大規模なものだ。物理的な破壊のみならず、没収的な課税、インフレ、政府規制などにより、エリート層の富は消え去る。

著者は、戦争の規模とそれが平等化の是正に与える影響をデータでもって示してくれる。なかでもヨーロッパ史上最大の平等化装置となったのは、第2次世界大戦だという。

欧州だけでなく、日本における不平等も、太平洋戦争が解消してくれたと分析する。戦争が行われている間、政府規制、大量動員、インフレ、物理的破壊が、所得と富の分配を平準化した。戦後になると、財閥の解体による私有財産の再分配が行われ、農地改革による地主制度が根絶したという。これに加え、海外資産の喪失と金融の崩壊により、富は紙になった。

太平洋戦争を境に、日本のジニ係数は大幅に低下している。何百万もの人命と、国土に甚大な被害をもたらした戦争が、結果として、他に見られない独自の平等化をもたらしたというのだ。

ただ、あらゆる戦争が平等化をもたらすかというと、違う。近代以前の略奪と征服を特徴とする伝統的な戦争は、たいてい勝者側のエリートに利をもたらし、急激に不平等を拡大させていた。さらに、戦争規模が小さい場合、平等化は一時的なものにすぎないという。格差解消のために戦争を求める声もあるが、徹底的な破壊と大量の血が必要となりそうだ。

他にも、全国民を貧民にする「革命」や、「国家の破綻」、さらには「伝染病の大流行」を加え、「平等化の騎士」と名づける。読み手の主張が何であれ、どれだけ不都合であろうとも、いったんはファクトとして受け止める必要がある。

すごいすごいと読んで打ちのめされる一方で、どうしてもぬぐえぬ違和感があった。それは、「平等化」をジニ係数や上位1%で見る視点だ。

わたしは、「平等化」とは、富の分配の話だと考える。単純に、富める者から貧しい者へ、富を分配すればいいのに、人類はそれをするのが不得意だ。一方、平等化の四騎士は、極めて得意だということが、本書の主張である。

しかし、そこでなされていることは、「富の分配」ではなく、富の破壊である。戦争、革命、崩壊、疫病の現場において、エリートは奪われる富を持っていた。だが、貧乏人は奪われるといったら命しか残っていなかった。

生き残ったエリートは、富の大部分を失い、生き残った貧者は、生産設備に対する労働力の相対的な価値が上がり、賃金が上昇した。これを数字にすると、ジニ係数の低下になるが、死んだ人は「貧者」としてカウントされない(文字通り、死人に口なし)。違和感の正体はこれだ。

平等化の四騎士がやっていることは、富の破壊であるだけでなく、貧者の口減らしでもある。ジニ係数だけを見ていると、貧者が奪われるものを見失うだろう。

 


2019ベスト「フィクション」


 

『フラナリー・オコナー全短篇』フラナリー・オコナー(ちくま文庫)

ひとつひとつ読むたびに、重いもので殴られる感覚なので、感情が丈夫でないと辛い。それでいて、胸の奥まで抉り込まれた痛みが、一生刺さったままになる。O.ヘンリーの驚きと、ミヒャエル・ハネケの悪意の、幸福な結婚を味わえる。

最高に嫌になれる「善人はなかなかいない」は、人生で3回読んだが、3回とも感情が違う。わずか20ページと少しなのに、一生刺さったままになる。

「善人はなかなかいない」は、おばあちゃん、息子と妻と子の家族が、自動車旅行に出かけた先で、大変な目に遭う話だ。

最初に読んだときは、驚いた。これで終わりにできるのか、と唖然とした。なにかの間違いであってほしいと願った。だが、どんなに目を凝らしても間違いはなく、運命は無慈悲だ。

次に読んだときは、おばあちゃんに注目した。イエスキリストを信じ、自分を善なる存在だと疑わない。独善的という言葉がぴったりだが、そう言われても自分のことだと絶対に理解できない人間、いるだろ? まさにそれだ。

そんな人が信じるものが揺らぎ、崩れる瞬間を観察する。物語の最後になっても、おばあちゃんは変わらない。言葉によっても行動においても、完全に屈しているのに。この独善を、信心深い田舎者の愚かしさと見なすこともできる。

だが、おばあちゃんは馬鹿ではない。認めたくはないが、自分がした過ちは理解できている。しかもそれらは、自らが信じていたものと何の関係もなく、それでいて自分の運命を完全に変えてしまうことも理解できている。

それでも、信じていたものを信じていようと振舞う。やっぱり神様なんていなかったね。何度読んでも運命は変わらない。わたしが驚いたのは、そうした無邪気な愚かしさを、まんま信じていたからだろう。

そこに描かれる運命は、別に理不尽なものではない(「理不尽」として片づけたいけれどね)。おばあちゃんを通じて、わたしが信じ込んでいた世界とは違っていたから、唖然としたにすぎぬ。

そして、今回読んだときは、全く違った感情を抱いた。なぜなら、作者のこの言葉を目にしたからだ。

私の作品では、人物たちを真実に引き戻し、彼らに恩寵の時を受け入れる準備をさせるという点で、暴力が不思議な効力を持つ。人物たちの頭は非常に固くて、暴力のほかに効き目のある手段はなさそうだ。真実とは、かなりな犠牲をはらってでもわれわれが立ち戻るべきなにかである。

恩寵(grace)とは一般に、神のめぐみや慈しみのことだ。神を信仰する心こそが恩寵の賜物だから、これはおばあちゃんの信仰を試し、裏切られる話なのか? 恩寵を失う(fall from grace)話なのかも……と考えた。

しかし、わたしの考えは間違っていた。

もう一度読むと、ラスト2ページの数行を、完全に見落としていたことが分かった。ここだ「おばあちゃんはその一瞬、頭が澄みわたった。目の前に、泣きださんばかりの男の顔がある。男に向かっておばあちゃんはつぶやいた」。

次の瞬間、おばあちゃんは、完全に正しいことをする。偽善を被ってきた自覚すらなく、愚かな言動をくり返していたにも関わらず、おばあちゃんは、(おそらく)イエス・キリストがしたことと同じことをする。

もちろん、おばあちゃんは磔にされてなどいない。しかし、もしイエス・キリストがその場に立っていたならばしたであろう、まったく同じことを、おばあちゃんは口にして、行動する。

おばあちゃんは、自分が信じていたものが、これから自分に降りかかる運命に、何の関係もないことを知っている。どんなに信仰心が篤くても、何の役にも立たないことを、完全に理解している。その上で、恩寵を得る。

この瞬間にシンクロしたとき、世界が一変した。

何回読んでもおばあちゃんの運命は変わらないが、彼女は(神様抜きで)恩寵を得ており、赦してすらいるのだ。わずか一瞬なのだが、彼女が手にしたものに、ほとんど触れられるくらい近いところに居られる。これは、読むことでしか経験できない感覚だ。

読むことは経験することだ。ほとんどあらすじも示さず、わたしの「感情」だけを延々と吐き出したが、オコナーの小説はそうやって示すしかないと考える。

なぜなら、そうやってでしか経験できない作家だからだ。

作品にはテーマや書かれた理由があって、その「作品の意味」なるものを読み解く―――それは教室で読むには正しいが、このやり方だと、オコナーは「グロテスクと暴力で人の醜さを暴く作家」になってしまう。

もし、いわゆる読み屋がやる「あらすじ+意味=評価」のような読み方だと、きっとこの「感情」にたどり着くことができないだろう。いや、読み返すことすらしないに違いない。

しかし、オコナーは違う。説明的な言い換えに抵抗し、鈍器のように胸を打つくせに、感情の深いところまで刺しにくる。「善人はなかなかいない」の他に、この作品が刺さったまま。一生かけて読み直す。

  • 人造黒人
  • 田舎の善人
  • 強制追放者
  • ゼラニウム
  • すべて上昇するものは一点に集まる
  • グリーンリーフ
  • 森の景色
  • 家庭のやすらぎ
  • 障害者優先
  • 啓示

ずっと積読状態だったオコナーの短編集、読もうとしたきっかけは、三柴ゆよしさんの読書会だ。『聖書』や『黄金伝説』にまつわる説話が背景にあるという、キリスト教に詳しい人のコメントや、「ここぞ!」というときに色彩をぶっ込んでくる光景描写(エル・グレコみ)があるという指摘、共感性羞恥がある人にはキツすぎるなど、たいへん面白くタメになりました。まとめは、[フラナリー・オコナー『全短篇』(ちくま文庫)読書会まとめ]をどうぞ。

三柴さん、参加の皆さん、ありがとうございました! 2020年は筋力を鍛えて鈍器部に入ります。

 


2019ベスト「ノンフィクション」


 

『ヨーロッパ文学とラテン中世』E.R.クルツィウス(みすず書房)

[読書猿さんとの対談]がきっかけで手に入れたのだが、これに出会えて本当に良かった。

本書を一言で表すなら、「ヨーロッパについて語るときに我々の語ること」である。ヨーロッパとは、地理的な名称に閉じず、歴史と文化と伝統をひっくるめた、「ヨーロッパ的なるもの」の統一体になる。

私たちが知る「ヨーロッパ的なるもの」は、様々な形態を取る。ネットやメディアを通じて目にする姿や、そこで発信・受信される言葉や概念、あるいはヨーロッパが影響を与えた様々な事物といったものになる。私たちが話したり考えたりする言葉・概念も、自覚無自覚に関わらず、大なり小なり影響を受けている。

こうした「ヨーロッパ的なるもの」は一日にして成立したものではなく、昨日から始まり、先月、昨年、千年二千年以上前から受け継がれてきたものだ。

昨日から引き継がれたのであれば、ネット経由の情報かもしれない。だが、時代を遡るほどその引継ぎは変化してゆく。詩学や文学、韻文といった形態の変化や、音声や文字といった方式の変更、さらにはそれらを乗せるメディアも、書籍、手紙、口伝、祭りなどの媒体も変遷する。

この営みをまともにやろうとすると、百科事典になってしまう。ヨーロッパ百科事典だね。そして、一人の仕事ではとうてい無理な相談だ。世代を超えた大事業になってしまう。

しかし、著者クルツィウスは、これを文献学(フィロロギー)で成し遂げる。過去から脈々と引き継がれてきた知的遺産を掘り起こし、光を当て、それらが現代にどのように連結されているかを明らかにする営みだ。これを「ヨーロッパ」にまつわる言語と思考の全部でやったのが凄まじい。

しかも、抽象的なものではなく、すべて具体的な事例でもってくる。時間と空間を越えて、繰り返し表れてくる共通化された概念やイメージをすくいあげるのだ。ある連想や情念に結び付けられる定型的な表現をトポスと呼び、古代から現代に至るさまざまなトポスの網目を編集する。それは、レトリックや常套句だったり、コミュニケーションや表現の技術だったりする。

たとえば、「象徴としての書物」の章。書かれたもの―――書物が、どのような比喩で扱われてきたかを振り返ると、興味深い事例が見つかるだけでなく、今でもその比喩が生きていることが分かる。ギリシャ、ローマ、聖書、シェイクスピア、ゲーテ、ダンテ、自然という書物と縦横無尽に行き来しながら語り尽くす。

そこでは、ソクラテス「書かれたものは隠喩にすぎず、口頭による言辞こそが魂のうちに書き込まれる」といった話から、何かを記し、留めようとする行為のはかなさを「水の中に書き込む」という表現がある(今なら、「砂に書いたラブレター」だね)。

人間の顔を、そこから思想を読み取る一冊の書物のように喩えるのは、12世紀のアラヌスが最初だと言われているが、人口に膾炙したのはセッティメロの悲歌がきっかけだとし、その歌を引用する。「顔貌は内なる状態の書物であり、ページである」で終わる詩を読むと、「40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て」や「性格は顔に出る」といった寸言、あるいは『ジョジョの奇妙な冒険』のヘブンズ・ドアーを思い出すだろう。

あるいは、ガリレオの「自然という書物は数学の言葉で書かれている」にある、「自然という書物」について。この言葉の背景には、そもそも自然という存在が、語彙と文法を理解すれば読み解ける書物のような存在だという思考フレームが横たわっており、これもラテン由来だという。著者は、それを指摘したのが誰で、いつどのように広まり、誰がそれを改変していったかの歴史を、人名と作品と引用で埋め尽くす。

固有名詞に馴染みがなくても、そこで扱われているトピックはピンとくる。どれほど時代が変わろうとも、私たちの思考フレームは使い回されていることが分かる。それも、圧倒的な事例でもって分からせてくれる。

「ヨーロッパ的なもの」について読んでいくうちに、自分の思考の内側にあり、あたりまえすぎて気づかなかった思考ルーチンを、歴史的な事例で知る。そして、天の下に新しきものは無いことが分かってくる。

完全に新しい言語運用、ど新規の概念フレームワークなんてものはなく、わたしたちは、それまで積み上げてきたもののうち、互いに了解しあえるものを選び取った上で、話したり書いたりしているにすぎないことが見えてくる。その「あたりまえ」の背後に目を向け、自分を知り直すための本としても使えるのだ。

さらにはタネ本としても使える。ここで出てくるトピックを核にして、別のストーリー、プロットを生み出すことができるだろう。それらはきっと、見た目は新しかろうと、本質は変わっていない。だから、古来と変わらぬ魅力を持つに違いない。

読書猿さん、一生もののスゴ本を教えていただき、ありがとうございます。

Sugohon2019
この本がスゴい!2019ベスト

 


スゴ本2020


人生は短いのに、読みたい本が多すぎる。

「あとで読む」と積んでおいても、あとで読まない。これは真実だ。だからわたしは、いま読む。

とはいいつも、昨年からの持ち越しも山積みだ。Sabine Hossenfelder ”Lost in Math” とウィトゲンシュタイン『哲学探究』は絶賛放置中だし、ノース&ウォリス&ワインガスト『暴力と社会秩序』とナボコフ『アーダ』は積山だ。葦原大介『ワールドトリガー』は追い付いたけれど、林田球『ドロヘドロ』は追いかけている途中だ。

新たに積み上がっているのが、日向夏『薬屋のひとりごと』と小川一水『天冥の標』、そしてR.R.マーティン『氷と炎の歌』の巨大な山だ。読む前から絶対に面白いことは分かっているし、読んでる途中もやめられない止まらないことも実感してる。めったに誉めない嫁様が「『薬屋』と『氷と炎』はイイゾ!」と言うぐらいだから、間違いないことは分かっている。だが途中だ。

追い打ちで積まれるのが、ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』とルルフォ『燃える平原』、ストーレンハーグ『ザ・ループ』と大串夏身『レファレンスと図書館』、そして『マルセル・シュオッブ全集』である。どれもこれも、わたしが絶大なる信頼を寄せる方が、「これはスゴい」と推してくるのだから、外れるワケがない。そうそう、読書会鈍器部の課題図書になるパワーズ『オーバーストーリー』も読むぜ読むぜ。

書きたいことも多すぎる。政治と経済学の欺瞞について。高校における古文漢文の必要性とその度合いについて。語彙力と幸福度の相関について。科学への過大すぎる期待について。素粒子物理学の瑕疵の見つけ方について。数字が出たら客観的だと信頼してしまう理由について。面白い作品の「面白さ」の作り方について(そしてその実践作品)。お尻とおっぱいと匂いと臭いのフェティシズムと、それを裏付ける進化生物学的理由について。このブログで学んだことをまとめた「スゴ本の本」について(これは書きたい、じゃなく書いてる)。

やりたいことも多すぎる。本についてもっと語り合いたい。スゴ本オフで沢山の人と話したり、テーマを決めて対談や鼎談、座談会もやりたいし、[猫廼舎日曜読書会][BtoZ読書会][横浜読書会][SF読書会]にもっと参加してお薦めをうかがいたい。

これ、人生のネタバレなんだけれど、やりたいことは、今やらないと、絶対にやれない。「機が熟する」なんてことはなく、「いずれ」「そのうち」「ヒマになったら」なんて言ってるうちに人生終わる。

こうやって書いてたら、だんだん確かになってきた。フランシス・ベーコンは正しいね。

わたしがこうして読んだり書いたり聞いたり話したりするのは、それを通じて既知の世界を拡張することで、わたし自身が幸せになるため。なぜ知るかの答えは、幸せになるため。知ることは幸せになることなんだ。だから読んだり書いたり話したりする。

そして、あなたのお薦めがあったら、ぜひ聞かせてほしい。なぜなら、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるのだから。



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コメント

自分メモ。finalventさんより、岩波文庫『失われた時を求めて』全14巻が完了したばかりと教えてもらう。注釈が充実しており、最終巻には人名・地名・作品名の索引があるので、読むなら岩波か……!

投稿: Dain | 2019.12.01 10:09

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