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「哲学に答えは無い」という誤答

「哲学に答えは無い」という発言を目にする。

哲学者は、何千年も似たような問答を繰り返し、さまざまな理論を打ち立ててきた。だが、完全無欠の真実にたどり着いた理論もないし、完璧に誤りであると否定される理論もない、という主張だ。わたしもそう考えたことがある。しかし、哲学するようになって、この主張は浅く、一面的であることが分かった。

わたしたちは、様々な問題に向き合うが、以下のような問題は、哲学の範疇外になる。

  • 調べれば分かること(すでに誰かが解いた問題)
  • 人・カネ・時間など、リソースがあれば解ける問題
  • 今までのやり方で解けそうな問題

しかし、調べれば分かることでも、分かったことで見解や評価が対立する場合がある。または、調べ方が分かっていることでも、「それは本当なのか」と疑わしい点が出てくることがある。さらに、今までのやり方では行き詰まり、そもそも、その問いの立て方は正しいのか? と問題の定義に疑問を持つ場合もある。

哲学の出番はここからだ。

「それは本当は何か」について、さらに考える。それ以上に調べられないこと、調べ方そのものが分かっていない(確立されていない)ことでも、「自分で考える」ことができる。それが哲学だ。

「哲学に答えは無い」のではなく、哲学は、問題にまで立ち戻り、「そもそも”答え”とは何に対するものか」「(仮に答えなら)それを答えたらしめているものは何か」まで考える。その結果、最初の疑問が、別の疑問に置き換わったり、異なる方向性を持つ複数の問題に分岐したりする。このテの話になるときは、『愛とか正義とか』(平尾昌宏)のこれが的確だ。

「科学には答えがあるけれど、哲学は答えがない」と思う人がいますが、そうではありません。「科学には答えがある」のではなくて、「科学はただ一つの答えが決まるように手続きを定めてある」というのが正解です。だから、「ザ・科学」ができるわけです(逆に「科学は答えが一つに決まらないような問題を避ける」わけで、科学が避けた問題はどこに行くのかというと、これが哲学に行きます)。

科学は、リソースがあれば解ける問題、今までのやり方で解けそうな問題を解く営みだ。それは、技術の発展につながり、人の世界を豊かにする素晴らしい営みだ。だが、「全ては科学で解ける」「科学こそが答えに至る道」と言った瞬間、自己矛盾に陥ることになる。

「哲学に答えは無い」という発言が、浅く、一面的である理由は上記の通り。誰かが、「哲学に答えは無い」とドヤ顔で言う前に、この記事に出会えますように。

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コメント

だいじょぶです。「哲学に答えは無い」はぜんぜん浅くないですよ。その結論までの考察が欠けていた点を指して浅かったのだと反省なさっているのかもしれませんが、これは正しい結論です。だってほら、

まず「そもそも”答え”とは何に対するものか」これを考え続けるのが哲学なのでやはり「哲学に答えはない」ことになりますね。(答えにたどり着きえない)

なお「科学はただ一つの答えが決まるように手続きを定めてある」というのは、論理的に「科学には答えがある」ということになりますね。

言い方をかえると、前提から逸脱しないのが科学で、前提を疑い続けるのが哲学なんです。だから前者は答えが1つに定まり(必ず答えがあり)、後者は答えが定まりえない(答えがありえない)となるかんじでしょうか。

ちなみに科学者ニュートンは「巨人の肩に乗る」なんて言ったそうで、科学者らしい姿勢ですね。哲学寄りなライプニッツなら「巨人の肩からは足元が見えない」なんて言いそうです。笑

いつも楽しく拝見しております。こんなツッコミコメントはほんと掲載していただかなくて結構ですので~。

投稿: ねこちゃん | 2019.11.22 14:07

って、コメント載ってしまうんですね。チェックなしとは堂々たる姿勢で素敵です。特に反論なければこれ含めて削除してくださって構いませんので。お邪魔しました。

投稿: ねこちゃん | 2019.11.22 14:09

>>ねこちゃんさん

ありがとうございます!

「そもそも”答え”とは何に対するものか」という前提を問うのも、まさに哲学ですね。そして、問い続けた結果「この前提では答えは出せない」というのは、答えの一つだと思います。

さらに、「それなら”答え”にたどり着くにはどうすればよいか?」から出発して、前提を乗り越えて新たな公理系を見出したり、”答え”に導くための別の問いを生み出すのも、答えの一つだと思います。

つまり、最初の問いについての”答え”を出すための「新たな公理系や別の問い」という答えです。前者の例は、非ユークリッド幾何学であり、後者の例は、素粒子物理学がそれにあたると思います。つまり、前提から逸脱した結果、さらに豊かになった科学の成果ですね。

急いで補足しなければならないのは、このとき、数学者や物理学者は哲学をしているということです。自らが拠って立つ基盤を疑い、それを乗り越える行為は、動詞としての「哲学する」を実践しています。非ユークリッド幾何学や素粒子物理学は、一つの学問分野として自立していますが、そこへ至っていないものが、哲学担当になっているだけなのだと思います。

言い換えるなら、ある公理系や理論体系により、一つの”答え”に決まりそうになったら、哲学担当から離れ、その学問分野で研究をするものになります。このとき、ある公理系や理論体系そのものが、哲学した答えになります。

簡潔に「問い→答え」で完結し、それ以上の問いや探求が止むようなものは、そもそも、哲学担当ではありません。そういうものを扱っていないからといって、「哲学に答えは無い」というのは、「哲学する」とは何かを知らずに言っている、浅い考えだと思います。

投稿: Dain | 2019.11.22 21:23

なるほど~。どうもありがとうございます。勉強になります。
それにしても好きなブログの筆者さんからお返事いただけると嬉しいものですね。これからも拝読させて頂きますので、どうぞ宜しくお願いいたします。

投稿: ねこちゃん | 2019.11.23 12:29

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