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おっぱいは誰のものか?『乳房論』

問:おっぱいは誰のものか?
答:それを持つ本人のもの

2行で終わるはずなのだが、『乳房論』を読むと、こんな単純なものではないようだ。この答えに至るまでに様々な紆余曲折があり、今でも続いていることが分かる。

本書は、人類史を振り返り、西洋を中心とした乳房をめぐる欲望の歴史をたどっている。乳房に対する概念は一様ではなく、それを求める人や時代や文化によって尊ばれ・蔑まれ・弄ばれてきたという。

著者はマリリン・ヤーロム、スタンフォード大学のジェンダー研究所の上級研究員である。

彼女は、乳房に対する視線、すなわち乳房がどのように見せられ、見られてきたかという観点から振り返る。絵画や彫刻、映画やポスターに現れる、ビジュアルとしての乳房だけでなく、詩歌や論文、プロパガンダに現れるレトリックとしての乳房にも着目する。さらに、乳房がその時代や文化圏でどんな役割を果たしたかという機能面にまで掘り下げている。

本書の背景には、「乳房は誰のものか」という疑問がある。すなわち、乳房を求めるもの―――乳児、パートナー、画家、詩人、医師、政治家、ポルノ業者、商人、司法家、宗教家など、それぞれの立場によって、乳房は様々な役割を担わされてきたというのだ。

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乳房はいつから性的に見られるようになったか

たとえば、絵画におけるモチーフとしての乳房の変遷が面白い。ギリシャ・ローマ時代の彫刻における女性の美しさの理想が、ルネサンスを機に俗世趣味的なものとなったという。授乳する聖母の乳房から宗教的な意味が剥奪され、乳房は、あからさまな男性の欲望の象徴になったと主張する。

乳房に手を置く男性図はルネッサンス美術によくみられるモティーフだが、乳房の所有権は自分たちにあると考えている証左だというのだ。本書では、ハンス・バルドゥング・グリーンの『老人と若い女』が紹介されている。老人は若い女の乳房に手を伸ばし、女は老人の財布に手を伸ばす構図だ[europeana:Ungleiches Paar]

そして、ルネサンス期に生まれた価値観が西洋文明に根強く残り、乳房は女性ではなく男性を性的に興奮させる意図で美術や文学に取り上げられ、鑑賞者や読者に愉しみを提供したというのだ。

絵画ではなく詩歌になるが、ルネサンスよりずっと前のヘレニズム期に、女性の胸を讃える歌があった([ギリシア詞華集選『ピエリアの薔薇』]の俗歌で見た)。この時代の男たちは、どちらかというとお尻を愛でていたが、乳房にも性的な意味は込められていた。おそらく「西洋画の歴史において」というカッコ付きの中で、おっぱいが性的に見られるようになった決定打がルネサンスなのかもしれぬ。

母乳神話はルソーが作った

「おっぱい」には母乳としての意味もある。乳児にとっては死活問題だが、これに男がからむと厄介なことになる。

著者は、その中核がエミールの『ルソー』だと主張する。それまでは、授乳は乳母がするものという慣習だった。だが、母親が自らのお乳をあげることで、社会は変革するとして、母乳育児とフランス革命をつなげたのがルソーだというのだ。

さらに、彼が与えた影響はフランス革命を超えて現代にまで繋がっているという。

ルソーが言うには、男性が女性の乳房を魅力的だと思うとしたら、それは究極的に種を残し、家族の絆を保存しようとするためである。社会的推進力としての母親の詩学と、平等主義者の母乳育児の裏に、西洋文化に深く根差した性差別的な世界観が潜んでいる。あまりにも根深いので、気づく人は少ない。

女性は生まれつき与え、愛し、自己犠牲的で、依存的な生き物であるというルソー主義者の理想が、理想的な母親のあり方という新思想の基本を形成し、200年にわたってヨーロッパと米国を支配する思想となった。

確かに、母乳神話は現代につながっている。どちらで育ててもいいのに、「おっぱい vs 粉ミルク」闘争は、今の時代でも目にするからだ。

たとえば、「母乳で育てるほうが赤ちゃんの健康にいいですよ」と主張する全米授乳キャンペーンがあるが、この動画には「粉ミルクで育てるおまえは、ロデオマシーンに乗る妊婦と同じぐらいリスキーだ」というメッセージが含まれている。母乳を神聖視する根っこをたどると、ルソーと、さらにその先にまで至る。

「赤ちゃんが生まれる前に危険なことはしないのに、生まれた後にするのはなぜですか」

「理想的なおっぱい」の商品化

おっぱいが何に覆われていたかを追いかけると、下着とファッションの歴史になり、ひいては「理想的なおっぱい」の歴史になる。

生まれたままの姿を美しいと崇めながらも、絵画や彫刻に描かれてきたのは、その時代における一般的な女性像ではない。どの時代の女性の乳房もたいして変わらないのに、それぞれの時代で、「リンゴのような」「魚雷のような」「ボウルのような」それぞれの形容詞を求められ、その求めに応じて「整え」られてきたというのだ。

乳房用下着はギリシャ・ローマ時代からあり、中世後期からコルセットは富裕層を中心に普及していたという。だが、すべての階層の女性にコルセットやブラが行き渡るようになったのは、19世紀半ばに広がった機械縫製による。そして、機械縫製による大量生産は、「乳房矯正」を強制的なものにする。

コルセット、ブラ、クリーム、ローション、シリコン注入、痩身プログラム、ボディビルといった乳房の商業化は、わずかここ百年のことだという。

1920年代のボーイッシュスタイルでは平たい胸がもてはやされ、女性たちは自分の胸を締めあげた。1950年代になると豊でセクシーな乳房が求められ、下から持ち上げるようなワンダーブラが競って買い求められた。そして、1970年代に一世を風靡したヌードモデルが、この風潮について決定的なコメントを残している。

「おっぱいが女性らしさの最高のシンボルのように強調されすぎている。おっぱいが大きくない女性たちに、自分は女ですらないと感じさせてしまうのは、とても良くないこと」

著者はこれを、身体イメージの問題だととらえる。その時代その場所に応じた理想的な身体イメージに適合していなければ、女性は自分の乳房を快く思うはずがない。「理想的な美しさ」というあいまいな規範に、大多数の女性が拘束されているというのだ。

ブラを焼く

著者は、西洋史の大部分を通じて、乳房を支配してきたのは男性だったという。

夫や愛人による個人的な支配であろうと、教会や国家、医学会など男性中心的な社会による集合的なものだろうと、おっぱいが支配されてきたことには変わりないという。

こうした支配に対抗するためのデモンストレーションとして、「ブラを焼く」という行為が、60~70年代に広まる。そもそも、女性の乳房が恥ずかしいものとして隠されたり、猥褻で邪なものとして見なされるのは、こうした男性支配による影響だとし、自由に胸をさらす権利を求める運動だ。

胸をさらす自由を求めるといえば、ラ・チチョリーナだろう。ある年齢層からだと思い出すかもしれない。

上半身裸で選挙活動を行ったチリョリーナはは、1987年にイタリアの国会議員に当選する。「おっぱい丸出し議員」として物議をかもしたぐらいしか覚えていないが、彼女の功績は本書で知った。性的開放を訴え、議員としての4年間で「囚人にセックスする権利を認める」「学校で性教育を行う」「国営娼館の再開」など、7つの法案を提出したというのだ。

デモンストレーションとしての乳房は、啓蒙運動にも用いられる。原子力発電所の建設反対デモで、乳房除去手術痕をさらしたレイヴン・ライトや、ディーナ・メッツガーの「Warrior(戦士)」が紹介される。

「戦士」は、乳がんで乳房が片方になってしまった女性を映した、美しい写真だ。裸になったメッツガーは両腕を広げ、左右非対称の乳房を太陽に向けてさらしている。片側には従来の乳房、もう一方には切除痕に施した入れ墨が見て取れる。わたしは、これほど自由で力強い乳房を見たことがない。

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Deena Metzger as the Warrior
(cite from Jewish Women's Archive)

Jewish Women's Archive. "Deena Metzger as the Warrior Poster." (Viewed on November 26, 2019) <https://jwa.org/media/warrior-poster>.

おっぱいから見た人類史

おっぱいの歴史は一筋縄ではゆかぬ。

絵画や母乳神話、乳房の商品化とそれに抗う運動と紹介してきたが、他にも、乳がんを巡る医学史や、第一次大戦のプロパガンダにおける乳房の役割、おっぱいをさらすことで搾取される/する女性とポルノ業者の歴史などが語られる。

おっぱいが持つ意味は、立場によって異なってくる。赤ん坊には生きる糧、男性にはセックス、医者は診察対象で、商売人にはドルマーク、宗教家には神聖なシンボルで、政治家にはプロパガンダに利用する。そして、歴史や文化によって、それぞれ何が良しとされ、何が避けられるかは変わってくるという。

どの視点どの立場からしても、「おっぱいは誰のものか」という問いに対する答えは明白だ。おっぱいの持ち主のものに他ならない。だが、乳房の持ち主である本人が、自分のおっぱいをどう扱うかについて自由にできないことが問題なのだ。

著者は言う。乳房についてもっと自由に振舞うこと認められれば、それだけ女性が自由になれる。公共の場で赤ん坊に自由に母乳をやることができる。トップレスで自由に泳げる。ノーブラで出勤してもとやかく言われない。そんな未来は不可能ではないという。

そして、百年前の女性の脚を引き合いにする。慎み深い女性は人前で脚など見せないとされていたが、今は違う。出したい人は出せばいいし、そうでない人は出さなくてもいい。乳房についても、同じ時代が来ると言うのだ。

わたしがその時代を見届けられるか、分からない。だが、メディアが喧伝する「理想的な乳房」「健康的なおっぱい」といった身体イメージから自由になれることは、全ての女性にとって幸せな未来であることは分かる。

人類の祖先が四足歩行から二足歩行に移り変わるとき、女性の成熟度のバロメーターがお尻から乳房に代替されたと言われる。また、大きく張りのある乳房を持つ女性を選ぶことで、自分の子孫を残す確率を上げることができる(より多くの赤ん坊を育てられると見込まれるから)という説もある。

本書は、芸術作品を元に歴史・社会学的な視点だったが、進化生物学のアプローチからおっぱいの歴史をたどると、さらに興味深い分析ができるに違いない。

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「哲学に答えは無い」という誤答

「哲学に答えは無い」という発言を目にする。

哲学者は、何千年も似たような問答を繰り返し、さまざまな理論を打ち立ててきた。だが、完全無欠の真実にたどり着いた理論もないし、完璧に誤りであると否定される理論もない、という主張だ。わたしもそう考えたことがある。しかし、哲学するようになって、この主張は浅く、一面的であることが分かった。

わたしたちは、様々な問題に向き合うが、以下のような問題は、哲学の範疇外になる。

  • 調べれば分かること(すでに誰かが解いた問題)
  • 人・カネ・時間など、リソースがあれば解ける問題
  • 今までのやり方で解けそうな問題

しかし、調べれば分かることでも、分かったことで見解や評価が対立する場合がある。または、調べ方が分かっていることでも、「それは本当なのか」と疑わしい点が出てくることがある。さらに、今までのやり方では行き詰まり、そもそも、その問いの立て方は正しいのか? と問題の定義に疑問を持つ場合もある。

哲学の出番はここからだ。

「それは本当は何か」について、さらに考える。それ以上に調べられないこと、調べ方そのものが分かっていない(確立されていない)ことでも、「自分で考える」ことができる。それが哲学だ。

「哲学に答えは無い」のではなく、哲学は、問題にまで立ち戻り、「そもそも”答え”とは何に対するものか」「(仮に答えなら)それを答えたらしめているものは何か」まで考える。その結果、最初の疑問が、別の疑問に置き換わったり、異なる方向性を持つ複数の問題に分岐したりする。このテの話になるときは、『愛とか正義とか』(平尾昌宏)のこれが的確だ。

「科学には答えがあるけれど、哲学は答えがない」と思う人がいますが、そうではありません。「科学には答えがある」のではなくて、「科学はただ一つの答えが決まるように手続きを定めてある」というのが正解です。だから、「ザ・科学」ができるわけです(逆に「科学は答えが一つに決まらないような問題を避ける」わけで、科学が避けた問題はどこに行くのかというと、これが哲学に行きます)。

科学は、リソースがあれば解ける問題、今までのやり方で解けそうな問題を解く営みだ。それは、技術の発展につながり、人の世界を豊かにする素晴らしい営みだ。だが、「全ては科学で解ける」「科学こそが答えに至る道」と言った瞬間、自己矛盾に陥ることになる。

「哲学に答えは無い」という発言が、浅く、一面的である理由は上記の通り。誰かが、「哲学に答えは無い」とドヤ顔で言う前に、この記事に出会えますように。

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東大シンポジウム「現代フィクションの可能性」まとめ

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東大教養学部で行われたシンポジウム「現代フィクションの可能性」を聴講してきたのでまとめる。twitter 実況は、@mizuno1982さんの[シンポジウム「現代フィクションの可能性」で語られた事まとめ]が凄く参考になる。

  1. シンポジウムの目的・背景
  2. 発表内容
    山本貴光「フィクションと人間の接触面で何が起きるか」
    松永伸司「手ごたえのあるフィクション:シミュレーションによるフィクションの特殊性」
    久保昭博「フィクションはどこにあるのか? フィクション理論の現在」
  3. 次のアクション

1. シンポジウムの目的・背景

シンポジウムのバックグラウンドは、「世界文学の時代におけるフィクションの役割に関する総合的研究」になる。

  2016.11.25 京都大学人文科学研究所
     現代フィクションの条件 ※
     円城塔、千野帽子、大浦康介、久保昭博

  2017.3.12 東京大学駒場キャンパス
     複数の言語、複数の文学
     ―――やわらかく広がる創作と批評
     温又柔、秋草俊一郎、中村和恵、都甲幸浩

  2018.11.28 東京大学駒場キャンパス
     現代インドで女性として書くこと
     アルパナー・ミシュラ、都甲幸浩、
     中村和恵、小松久恵、武田将明

  2019.11.1 東京大学駒場キャンパス
     現代フィクションの可能性   ← 今回
     山本貴光、松永伸司、久保昭博

※『早稲田文学』2017初夏号(フィクション特集)にまとめ有り

「フィクションの役割」については、以下の通りまとめられていた。

  • 現代日本語文学を世界文学の見地から考察する(共時的)
  • 近代文学の捉え方を変えるべき(通時的)
  • リアリティーのあり方の変化に対応したフィクション概念・フィクション論を構想する(理論的)
  • Post-truth
  • Fake news
  • Brexit : 2016.6
  • Donald Trump : 2016.11
  • Virtual reality, augmented reality
  • AI and singularity?

今回の「現代フィクションの可能性」は一連の研究の最終回。

情報化の進む現代において、フィクションの役割はどう変化しているのか? あるいは、こうした変化の中で、フィクションの可能性や危険性はどこにあるのか? ―――最新のフィクション論に触れながら、現代世界におけるリアルとフィクションの境界問題や、フィクションの役割について識者に語ってもらう……という目的で行われた。

2. 発表内容

登壇者1人につき持ち時間20分、3人で計60分の予定だったけれど、皆さんのスライドのボリュームがありすぎて大幅オーバーしてた。一人のお話だけでも充分以上の内容だった。

山本貴光「フィクションと人間の接触面で何が起きるか」

自著『文学問題(F+f)✙』のフレームを用いながら、フィクションを考える手がかりとなるQAを重ねてゆく。一つ一つの切り口が面白く、自ら例を挙げ答える一方で、他の登壇者や会場からの応答も誘うような問いかけになっている。

まず、「フィクション」と一言で述べても、様々な形をとる。そのため山本氏は、フィクションを実装と機能に分ける。実装はフィクションが取る形態で、文芸や音楽、映画・演劇、漫画、ゲームなどがある。一方、機能は実装に応じて変わってゆくが、完全に固定された一本道ルート(例えば小説)から、会話や行動の選択によって複数のシナリオが分岐する

(例えばゲーム)まで、様々になる。

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小説『PRY』の例。テキストをピンチアウトすると、
書き手が見ているものを共有できる

ここに「F+f」が重ねられる。「F+f」とは夏目漱石が文学を定義したもので、F は「認識されたもの」、そして f は「それによる心の動き」を指す。たとえば、Fは小説なら文章になるし、ゲームならグラフィックや音楽、コントローラーの振動なども含まれる。f はそこからもたらされる様々な感情や情緒になる(この「F+f」を文学とは感情のハッキングと名づけるセンスは素晴らしい)。

面白いのは、「フィクションと人との境界(ユーザーインタフェース)」から見ると、F に相当するものを並べられるという指摘だ。左端には一本道の小説であり、右端には極端な例として「No Man's Sky」を持ってくる。惑星を探索するSFアドベンチャーなのだが、対象となる惑星の数は1800京を超える。探索対象がこれだけだから、そこから得られる F はほぼ無限大であり、一生かかっても遊びきれない。

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印刷された(確定された)UIの小説から、
無限ともいえるパターンのゲームまで

山本氏は言う、我々は、一本道のフィクションから、ほぼ無限大のフィクションに囲まれた現在にいるのではないかと。いわばフィクションの銀河系と呼べるような状況におり、自分が読みたい本、やりたいゲーム、観たい映画を探しているだけで一生が終わってしまう。いわばボルヘスのバベルの図書館にいるのではないかと(ここ、絶妙なタイミングでこれが出てきたのでニヤニヤが止まらなかった)。

そして、作品の数がこれだけ膨大になると、f (それによる心の動き)を表現する共通的な言語が失われてゆく。

一本道の例として小説を挙げたが、印字された「同じ」小説を読む時代はとうに過ぎており、近い将来、パラメータを入れるだけで小説が自動生成されるようになるかもしれない(例えば、主人公の属性、ジャンル、読了時間を入力すると、自動で生成される)。

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Heaven’s Valut の例。制限時間付き選択肢や、
かかった時間によりシナリオは分岐する

このフィクションの銀河系では、互いの f が分からなくなる。なぜなら、あまりにも F がありすぎて、それを享受し f を共有できる人がいなくなるから。この現象を、夏目漱石の『猫』から引いてくる。

「個性の自由という意味はおれはおれ、人は人という意味だろう。その芸術なんか存在出来る訳がないじゃないか。芸術が繁昌するのは芸術家と享受者の間に個性の一致があるからだろう。君がいくら新体詩家だって踏張っても、君の詩を読んで面白いというものが一人もなくっちゃ、君の新体詩も御気の毒だが君より外に読み手はなくなる訳だろう。
(略)
そうだろう君のかいたものは僕にわからなくなる、僕のかいたものは君にわからなくなった日にゃ、君と僕の間には芸術も糞もないじゃないか」

「パックマンみたいなゲーム」と言っても、そもそもパックマンを知らない人には伝わらない。だから、まずパックマンを例に挙げたいときに、パックマンの説明が必要になるというのだ。

松永伸司「手ごたえのあるフィクション:シミュレーションによるフィクションの特殊性」

自著『ビデオゲームの美学』から、フィクションの一種としてのビデオゲームを俎上に乗せる。ビデオゲームはフィクション(虚構世界を描くもの)としての性格を持つ。そこで、ビデオゲームならではのフィクションのあり方とは何か、さらにはどんなフィクションが可能となるかを説明する。

言語、画像、映像はどれも表象方式であり、フィクションはそうした表象方式を利用している。小説なら言葉によるフィクション、映画なら映像と音声によるフィクション、漫画なら、画像と言葉に加え、コマ割りや吹出しを始めとする独自の方式によるフィクションになる。

ここでは、シミュレーションによるフィクション、なかでもRPGなどのシミュレーションゲームによるフィクションを代表とし、具体例で考えてみる。

たとえば、ここに一つのプログラムがある。

  • 変数Pの値が1以上のとき、”a”と”1”を続けて入力すると、変数Qの値が30増え、Pの値は1減る。
  • 変数Pの値が1以上のとき、”a”と”2”を続けて入力すると、変数Rの値が30増え、Pの値は1減る。
  • 変数Pの値が0のとき、”a”と”1”または”a”と”2”を続けて入力しても、何も起きない。

そういう分岐を書けと言われたら書けるけれど、人にとって見ればなんのことか分からない。聴講していた方のこのツイートが的確すぎる。

だが、変数や入力にラベルを付けることで、途端に見通しが良くなる。このラベルとは、意味のある名前のことだ。

  • 変数P : 薬草の所持数
  • 変数Q : 1人目のメンバーのHP
  • 変数R : 2人目のメンバーのHP
  • 入力”a” : 薬草を使う
  • 入力”1” : 1人目のメンバー

先のプログラムは、こうなる。

  • 薬草の数が1以上のとき、”薬草を使う”、”1人目のメンバーに”と入力すると、1人目のメンバーのHPの値が30増え、薬草の値は1減る。
  • 薬草の数が1以上のとき、”薬草を使う”、”2人目のメンバーに”と入力すると、2人目のメンバーのHPの値が30増え、薬草の値は1減る。
  • 薬草の数が0のとき、”薬草を使う”と”1人目のメンバー”または”2人目のメンバー”と入力しても、何も起きない。
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変数や入力にラベル(名前)を付けると、意味が生まれる

つまり、何が起きているのかというと、プログラムそのものは抽象的なシステムであり、ラベルを付けようが付けまいが、何も変わらない。ところが、ラベルを付けることによって、そのシステムが何か具体的なものに見立てることができる。この抽象→具体への見立てこそが、シミュレーションの本質なのだという。

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シミュレーションの本質は、抽象から具体への「見立て」

つまり、プログラムを直接的に見ることができないプレイヤーにとってのUI(ユーザーインタフェース)がラベルになる。そして、このUIを通じて、プレイヤーはシステムの状態のみならず、そのシステムを何に見立てるべきかを知ることができる。

次に、シミュレーションによるフィクションの特殊性について。

特殊性は2つあるという。

1つは、言語や画像による表象とは異なり、表象するもの/されるものとの間に、構造的な類似関係がある点だ。これにより、シミュレーションを使ったフィクションには、ある種の実態感、手応えを感じることができる(いわゆる、”バーチャル”と呼ばれるもの)。

2つ目、ユーザは表象するものを操作することができ、異なる操作による異なる反応、すなわち条件分岐による入出力の規則がある点だ。シミュレーションを使ったフィクションでは、そうした入出力の規則を通じて虚構世界上の規則を描くことができる。いわば、規則を使って規則を描いているのが、シミュレーションのフィクションになる。

この規則はプレイヤーによる試行錯誤を通じて虚構世界のあり方を理解する、という受容の仕方を可能にする。さらには、ゲームデザイナーが意図しなかったフィクションの内容が作り出されることもありうる。

そのシミュレーションならではの例として、September 12th が紹介される。ちょっと「遊んで」みればすぐに分かるが、これは市民の中に紛れ込んだテロリストを倒すゲームである。プレイヤーは、中東の街を徘徊するテロリストに向けて照準を合わせ、ミサイルを撃つことができる。

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目標をセンターに入れて、スイッチ

問題はここから。ミサイルは確かにテロリストを倒すことができる。だが、爆発は周辺の市民や建物を破壊する。殺された市民の傍らで家族や友人がひとしきり嘆き、泣く。そして今度はその人々がテロリストとなって街を歩き出すのだ。

いくらも経たないうちに、プレイヤーはこのゲームに「勝つ」のは不可能だと知る。テロリストを倒そうとする行為がテロリストを増やすことになるから。

久保昭博「フィクションはどこにあるのか? フィクション理論の現在」

訳書『なぜフィクションか?』(シェフェール)を用いながら、文学理論の古典的なアプローチを概説しながら、フィクション理論がもたらす可能性について説明する。

フィクションという文学はアリストテレスの時代から存在していた。しかし、フィクションのフィクション性について問われることはなかった。あくまで、物語の内部の修辞的なあれこれを批評するものに限られており、フィクションが指示するものや意味するものについては、自明であるとして、取り残されてきたという。

ところが、分析哲学や様相論理学(可能世界論)の議論の中で、テクストの「外部」を指示する「力」が注目されるようになってきた。いわば、文学理論がフィクションを「再」発見したようなもの。ここでは、その流れを3つ紹介する。

1つは、可能世界論を応用した意味論。トマス・パヴェルの「突出構造」や、マリー・ロール・ライアンの「実際の世界からテクストの世界への中心移動」、さらにケンダル・ウォルトンの「ごっこ遊び」がある。非実在の実体を、あるものに見立て(指示し)、その世界が立ち上がることが、フィクションの根底になる。

2つ目は、虚構指標(ハンブルガー)による統語論。ケーテ・ハンブルガー『文学の論理』を紹介しながら、テクストの上にはフィクション的なマーカーがあることを指摘する。例えば、過去を示さない過去形(明日はクリスマスだった)、三人称小説における直接表象(思う、信じる、あるいは自由間接話法)などは、発話行為の主体である「私=原点」の虚構化だという。

3つ目は、サールの語用論。単なるテクストでは、フィクションなのか、ノンフィクションなのかは、分からない。テクストのフィクション性を決定するのは、発話者(著者)の意図にあるという。フィクションの作者は、断定のふり(偽装、pretend)をしている。

こうしたアプローチの後、シェフェール『なぜフィクションか?』の、「現実の中のフィクション論」を展開する。シェフェールは、サール=ジュネットの語用論的枠組みを継承しながらも、フィクションと現実の関係性を問う前に、フィクションそれ自体も現実の中にあることを強調する(これはけっこう忘れられがち)。フィクションは現実の一種なのだ。

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フィクションが作る現実

フィクションは、文学や映像といった芸術が存在する前に存在するという。幼児が学習し、大人においても大きな役割を果たす、心的能力になる。その特徴は、「共有された遊戯的偽装」として表される。

  • 遊戯的:本気の対概念(現実にコミットしない)
  • 共有:(これはフィクションであるという)認識論的枠組みの共有
  • 偽装:ミメーシス(模倣)の一種

(この辺りは非常に難しく、私の理解が追いつかない。子どもがする「ごっこ遊び」や「〇〇のマネをする」ことを通じて、「これは〇〇ごっこなんだよ」という認識が共有される。この認識の共有こそが、フィクションという現実があるということを約束事とする……と理解した。おかげで「本当に」傷つくことなく悲劇に心を痛めることができる)。

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フィクション「が」作る現実と、フィクション「を」作る現実

3. 次のアクション

駆け足で紹介したが、書いてる自分が理解しきれていない所も多い。フィクションは約束で成り立っている現実の一つである、という考え方は、今後も利用していく。聴きっぱなしはもったいないので、ここで得られたことから次のことをするつもりだ。

  • シェフェール『なぜフィクションか?』を読む:かなり難しい高密度な本だが、関連図書も含めて挑戦してみよう。
  • 戸田山 和久『恐怖の哲学』の再読:もともとこのシンポジウムを聞いたのは、「人はなぜフィクションを楽しめるのか?」という問いの中に、フィクションの可能性があるかもしれない……という問題意識を持っていたから。QAタイムにこの問題をぶつけてみたら、久保氏から返ってきたのがこれなので、再読しよう。
  • 山本貴光『文学問題(F+f)✙』の再読:上記のQAで挙げられたので。第3部第3章「文学論再検討」あたりを中心に再読する。
  • Detroit Become Human のプレイ:シナリオ分岐の話で山本さんが出した例。積みゲーで、やらずに死ねないゲームなので、SEKIRO クリアしたらやる(梟強すぎ……)。

登壇された方、ありがとうございました。また、@mizuno1982さんの写真とツイートを利用させてもらいました(ありがとうございます!)。



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