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惑星と電子をつなぐもの『科学とモデル』

Scienceandmodel

惑星も電子も中学で習うが、そこで学んだ常識を疑うのは難しい。惑星は太陽のまわりを回り、電子は原子のまわりを回る、と考えていた。
ところが、みんな大好き量子論からすると不確定性が生じ、電子とは、惑星のように軌道を描いているよりも、雲のように確率的に分布する存在となる。

アインシュタインは「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのこと」と述べたが、ラザフォードのモデルに太陽系を見てしまう「偏見」は、弦理論を学んだところで捨てるのは難しい。

Atom

Wikipedia 「ガイガー=マースデンの実験」By 投稿者自身による作品 (CreateJODER Xd Xd), CC 表示-継承 3.0, Link

モデル=世界の一部?

これは、モデルを通じて世界を見るあまり、「モデル=世界」が成立してしまっているからだ。教科書で学んだ原子核モデルはフィクションかもしれないが、太陽や月や星の動きを見た経験から得られる確信が結びついてしまっているのだ。

だから、弦理論は知識として「知って」はいるもの、「確信する」ことはないだろう。モデルは、そのモデルを適用する研究対象にとって分析したり説明するにあたって便利であるように作られている。すなわち、モデルは現象を切り取る断面なのだ。

そのため、超弦理論を扱う一般書を読んだだけで、あたかもそれらが絶対的な真であるかのように確信する人には戸惑いを感じる。その確信はどこからやってくるのか、不思議に思うのだ。専門家なら、もっと慎重に仮説とモデルを扱うだろう。

では、科学者がモデルを扱うとき、そこにどのような確信があるのだろうか? それとも、わたしのように「モデル=現実」の罠に陥ってしまうのだろうか?

「モデルとは何か?」という問いを掘り下げた『科学とモデル』(マイケル・ワイスバーグ)を読むと、科学は、この罠を上手く避けていることが分かる。

モデリングの本質

本書では、モデルを使って問題を解く典型的な例を示しながら、モデリングの本質を探る。モデルとは、ある種の理想化を行うことで、現実を調べる方法だとする。そして、モデリングとは、モデルの構造や分析を通じて、現実世界を「間接的」に研究する方法であるが故、現実世界の完全な表現を目指しているわけではないとする。

その上で、モデリングを3つに類型化する。

まず、「具象モデル」で、ミニチュア模型のような物理的特性によって、現実世界の現象を再現することを目的とする。風洞などが典型的だ。次に「数理モデル」で、現象を数式の形に表現したものになる。最後は「数値計算モデル」と呼ばれ、現実の振る舞いを手続き化し、コンピュータ上の数値計算としてシミュレートする。

そして、モデルは2つの部分から成立するという。

一つはモデルの「構造」で、それぞれのモデルは物理的・数学的な構造から構成されている。そしてもう一つは「解釈」で、モデルの制作者が現実のどの部分を理想化して表そうとしているかによって変わってくる。

このような整理を経て、「”良い”モデルとは何か」「特徴の重みづけはどのようになされるのか」といった分析を行い、「”似ている”とはどういうことか?」という哲学的な領域まで踏み込んでゆく。

モデル=フィクション説

なかでも面白かったのは、「モデル=フィクション」だとするフィクション説。モデルは理想化された現実だから、フィクション的なシナリオを記述するという考え方である。

フィクション説によると、わたしたちは、物語を読んだり映画を観たりするのと似たやり方でモデルに関わっている。フィクションではその世界の全てが書かれているわけではなく、物語の進行や演出上、特徴的なものに絞られる。それ以外の特性は、つじつまの合うよう補う必要がある。

同様に、モデリングされた世界では、死亡率やGDP、引力やクーロン力といった特徴的な数値に絞られ、それらを通じて理想化された現実を理解することになる(他の特性はつじつまの合うよう補正される)。

このフィクション説を唱えている一人に、『タコの心身問題』のピーター・ゴドフリー・スミスがいるという。[懐かしい名前]に思わず微笑むが、はワイスバーグは反対の立場をとる。

シンプルな数理モデルならフィクション説も通るかもしれないが、現実的なものからかけ離れた数学的モデリングだとそうは行かないという。p.99より引用する。

たとえば、化学結合についての、近似的な量子力学モデルを調べているとしよう。こうしたモデルは、分子システムに作用する力を考慮し、力すべてに近似的な説明を与えることによって作られる。結果として得られるモデルは、ポテンシャルエネルギー面を通る経路の集合という形をとる。
空間そのものは高次元である(3N-5次元モデル・Nは分子内の原子の数)。この空間を通る経路は、考えることも想像することもできない。それらは、ポテンシャルエネルギーと分子座標系の座標との間に相関があるということ以外は、物質的分子の持つ具体的特性に似たところはほとんどない。

要するに、あまりに抽象的すぎて、端的に想像不可能なのだ。

死亡率や引力といった具体的で経験と結びつけやすいモデルだからといって、モデルと経験を結びつけてもいいわけではない。わたしが陥っていた、惑星と電子の同一視は、この結びつけを自分で強化してしまっていたからなのだろう。

モデル=理論を説明するための方法

理論がモデルで説明されるとき、経験と直接結びつけられて解釈されるのではなく、理論を記述できるモデルによって解釈されることになる。理論が厳密に真だと言えるのは、あくまでモデルの中での話だけなのだ。

これは、かなり難しい。惑星と電子に限らず、わたしが何度もやってしまう誤ちだ。

ある理論を説明するとき、分かりやすく特徴的な側面を抜き出したモデルが用いられることが多い。ところが、わたしは、そのモデルを理解しただけでその理論を「分かった」気になる。そして、そうしたモデルの集積=世界だと判断してしまうのだ。

モデルとアナロジーの違い

これは、アナロジーとモデルを混同させるときにも生じる。

モデルは、現実世界を間接的に分析する方法である一方、分析から導かれる理論を説明し、理解してもらうための方法としても使われる。これは、例えなどの類推を経て説明されるため、アナロジーと分かちがたく結びついている(ex.光は「粒のようなもの」「波のようなもの」)。

だが、本書で扱われる「モデル」の目的が、現実を調べるための抽象化である以上、「理解や説明のため」のアナロジーと重ねてしまうと、意味が拡散してしまう。あくまでも、「具象モデル」「数理モデル」「数値計算モデル」といった、調査のための方法に落とし込めるものにしたい。

現実を、「そのまま」理解することは、人間である限り不可能である。その結果、モデルやアナロジーを通じて理解する他ない。だが、「現実とどれほど似ているか」について厳密に調べようとするならば、本書のようにモデリングの本質まで掘り下げる必要がある。

モデルとは何か、シミュレーションの哲学とは何かについて考える一冊。

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