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知的冒険の書『ウンベルト・エーコの世界文明講義』

 知の巨人ウンベルト・エーコの、十余年にわたる講義録。


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 美と醜、虚構と陰謀、絶対と相対など、抽象的なテーマを俎上にのせ、フルカラーの図版を通して、具体的に迫ってゆく。ニュースやメディアで馴染んだネタから、ネットを駆使して追いかける必要のある美術作品まで、知的に振り回されるのが楽しい。

 たっぷり知的興奮を味わったあと、見知ったはずの世界にある、見知らぬ裂け目に気づいたり、まるで異なる時代なのに、そこを貫く原理原則があったことを発見する。世界はもっとつながり合っているし、時代はもっと重なり合っている。人の営みは、かくも美しく、かくも醜いことを、あらためて知って驚く。



美とは何か

 たとえば、「美」について。

 「美とは何か?」と概念で問われると、答えに窮する。イデアのように「美しさ」そのものを指し示されたとしても、それが(他の言葉でいう)何であるかなんて、分かるはずもない。せいぜい、わたしが美しいと感じるオブジェクトを挙げるしかない。このあたりの機微は小林秀雄が上手いこと言っており、「美しい花がある、花の美しさという様なものはない」がそれだ。

 ところがエーコは、もっと具体的に「美」に迫る。

 美しいと考えられるもの―――それは絵画や彫刻といった美術作品だったり、美的体験を伝える物語だったりする―――を具体的に挙げてゆき、そこに共通したものを見出す。すなわち、「美は変わる」ことだ。

 「美」が絶対的で不変的なものであったことは一度だってなく、それは時代や国によって、複数の異なる顔を見せてきた。これはオブジェクトが、男や女や裸体や景色といった物理的な美しさに限らず、神やイデアといった形而上的な美しさも然りだという。

 さらに、美にまつわる様々なテクストを通じて、美の中にある価値観を救い出す。「美しい」という言葉には、「優美な」あるいは「崇高な」「素晴らしい」といった形容が含まれることを指摘する。「美しいものとは、それがみられたときに喜びをあたえるもの」なのである。

 この件は、『美の歴史』を思い出させる。「完璧な美とは存在するのか?」という疑問に答えるべく、古代から現代に至る、美術作品、文学や音楽、数学や哲学や神学、天文学に至るまでを追いかけて、美の観念の変遷を渉猟した大著である。持つにも読むにもデカいので、『世界文明講義』のこの章からエッセンスを汲み取るのもいい。



醜とは何か

 あるいは、「醜」についての考察も具体的だ。

 美と同様に、醜も相対的であることは変わりないが、面白いのは醜は「美との関係性」において捉えられている点だ。醜とはすなわち、「美女と野獣」の変化形であり、いったん美の基準が定められると、ほぼ自動的に対応する醜の基準も定めるのが自然だと考えられてきたという。完全性と不完全性、秩序と秩序を壊すもの、といった風に。

 ただし、こうした相対性から離れ、美の理想にふさわしくない、という理由で醜いとされる対象もある。たとえば、アドルフ・ヒトラーが20歳のときに描いた花瓶の絵を挙げ、エーコはこれを醜いとする。


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ヒトラーが20歳のときに描いた絵(右頁)


 反感や憎悪、恐怖や不安の反応を引き出す要素があれば、それを「醜」だと定義づけることができる。美人とされる姿かたちは、時代とともに変化する。だが、美人の腐乱死体は普遍的に醜い。『美』は文化的背景の価値観を反映し、『醜』はその先にある「死」の概念をまとう。

 この辺りの考察は、『美の歴史』の姉妹本となる『醜の歴史』に詳しい。ほとんどの人が「美は文化なり」に賛同するだろうが、では醜は? と訊かれると窮するに違いない。この質問に対し、諸芸術における暗黒・怪奇・異形という観点で斬り込んだ『醜の歴史』は、『美』よりも面白いことを請け合う。『世界文明講義』から「醜」方面に手を伸ばすならこれ。



「巨人の肩に乗る小人」をひっくり返す

 あるいは、「巨人の肩」の洞察が面白い。

 先人の積み重ねた業績に基づいて新たな発見をすることを「巨人の肩に立つ」というが、これ、アイザック・ニュートンが最初だと思っていた。

 ところがエーコは、様々な文献を次々と開き、芸術と人類の歴史をたどりながら、この箴言が沢山の人びとの手から手へと渡り歩き、かたちや意味を変えながら伝わってきていることを示す。

 小人と巨人の箴言は、12世紀の哲学者・シャルトルのベルナルドゥスの言葉だとされている。だがエーコは、もっと以前の発案者に目を向ける。さらに6世紀前のカエサリアのプリスキアヌスによって語られていることを示し、さらにプリスキアヌスとベルナルドゥスの間にも、コンシュのギヨームを指摘する。

 そして、人類の知は、それを集積したメタファー「巨人」とともに、時代時代を受け継がれながら人口に膾炙する。いまでは、「先人の業績があってこそ」というニュアンスが強いが、かつては、「巨人よりも遠くまで見える」という、「肩の上に立つ小人」の方に重きを置く意味合いが強かったという。

 先人の研究は、まとまった一冊の本といった形に編纂されておらず、世界にバラバラに散らばっている。それを一つの価値体系としてまとめ、そこからさらに敷衍するということは、巨人よりもむしろ小人の方が重きを置かれるべきだろう。この、巨人と小人の逆転が面白い。

 他にも、陰謀が成功するためには、核となる秘密が完全な嘘である必要性を『フーコーの振り子』で明かしたり、嘘が歴史になるプロセスをダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』のネタバレで考察する章も面白い。シャーロック・ホームズやアンナ・カレーニナから物語を読むときの「ごっこ遊び」の可能世界論へのアプローチや、「ゴキブリの脳が進化しなかったのは、それが完全である一方、人の脳が不完全であるからこそ進化の余地がある」といった視点は、世界を新しい目で捉えることに役に立つ。

 ユーモアと皮肉を交えながら、美と醜、アフォリズムとパロディ、嘘が歴史的事実となる経緯など、エーコの思想がエーコを通して語られる。エーコ一流の箴言の宝庫であり、見たことのない絵や写真を眺めているだけでも楽しい、知の財産みたいな一冊である。

 知的冒険の一冊を、堪能すべし。

 そして、次回のスゴ本オフのテーマは「冒険」だ。本を通じて人を知り、人を介して本に出会うオフ会、それがスゴ本オフ。2/16(土)午後、渋谷でやりますぞ。概要は[スゴ本オフ「冒険」のご案内]、申し込みは[facebook:スゴ本オフ「冒険」]でどうぞ。


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