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『はざまの哲学』はスゴ本

Hazamanotetugaku

「哲学は何の役に立つのですか?」

 哲学をやっていて良いのは、メタ的に疑う目を養えることだ。

 たとえば、「哲学は何の役に立つのですか?」という質問が、どんな前提で発せられており、その前提が孕む別の問題に気づけるようになる。

 質問者は、「哲学は〇〇の役に立ちます」という回答を期待している。〇〇には、適当な言葉が入る。たとえば、「論理的思考」や「詭弁術」、あるいは「認知バイアスの明確化」「会議における論駁」など、いくらでもある。そこから質問者は、〇〇を身につけるには、別に哲学である必要はない、と言うことも可能だ。

 まさにここが問題になる。

 「哲学が〇〇の役に立つ(a)」からといって、「〇〇のために(b)哲学がある」わけではない。この(a)と(b)を混同させる発想が、質問の前提にあるのだ。いま哲学を槍玉に挙げたが、哲学に限らず、歴史、数学、文学など、学問分野は質問者の意図によって入れ替え可能である(最近だったら三角関数やね)。

 学問は、〇〇という、何らかの価値が予め存在し、そのためにやっているわけではない。それらは先人の成果であり、副産物である。にもかかわらず、あたかも〇〇に奉仕するかのように学問の存在意義を問うのであれば、学問の意義の空洞化だろう(大学の専門学校化といってもいい)。

 ふたたび哲学を槍玉に戻すなら、最初の質問に対し、「哲学は何の役に立つのですか?」という「役に立つ」とは何かを問う(問える)ようになる。そして、「役に立つ(=有用性)」を重視する考え方が、いったいどこから来たのかを考えられるようになるのだ。

学問の有用性が求められる背景

 『はざまの哲学』の「有用性とスローサイエンス」の章では、マンハッタン計画にそのモデルを求めている。第二次世界大戦中、ドイツの原子爆弾開発に焦ったアメリカ政府が、科学者・技術者を総動員して原爆を開発したプロジェクトである。計画は成功し、製造された原子爆弾は日本に投下され、数十万人を殺すことになる。

 プロジェクトの成功は、そのままビッグサイエンスの始まりにつながる。アメリカ政府は「全米科学基金(NSF)」を設立し、科学者に研究開発プロジェクトを請け負わせる形で財政援助を行うのだが、これは、戦時の科学者動員を平時化するものであり、同時に莫大な予算を必要とする「ビッグ・サイエンス」の始まりでもあったという。

 この指摘は、システム開発の現場において、プロジェクトマネジメントを適用しているわたしにとって、非常に腑に落ちる。なぜなら、開発・運用のサイクルを長期計画で見た場合、最重要なのはリソースの平準化だからである。予算と時間は成果物の品質とバーターだが、人的リソースの集中には限度があり、予算・時間・品質のすべてに影響を与えるからだ。

 請け負う側としては、研究資金を調達し、人員を組織して期限までにプロジェクトを達成する必要がある。必然的に科学者に求められるのは、「研究者」であるよりは「管理者」としての役割になる。一人の優秀な科学者がコツコツと研究を積み重ねる時代から、巨額の予算と設備投資を行い、チームとして成果を上げる時代に変わったともいえる。

 政府であれ企業であれ、出資者に対しては短期的成果を出す必要があることから、このタイプの科学研究を「ファストサイエンス」と呼ぶという(ファーストフードになぞらえて)。

 予算配分の現場において、この、ビッグサイエンス、ファストサイエンスの考え方が主流となり、有用性や効率性を掲げる市場原理に還元することを是とする風潮が、「その学問は役に立つのか」という問いにつながる。学問は、もともとギリシャ語のスコレー(閑暇)から発したものであり、市場価値や効率性とは離れたものだったが、いまやこの考え方は少数派らしい。

「〇〇は役に立つのか」そのものを疑う

 このような、「〇〇は役に立つのか」という発想そのものを疑うことは難しい。なぜなら、その発想が生まれる風潮を疑い、いったん離れて見る必要があるからだ。そして、自分が「正しい」と信じていたことに揺さぶりをかけ、質問の前提へ問い直しを行う。

 野家啓一の論文集『はざまの哲学』では、まさにこの問い直しを、さまざまな「はざま」で行っている。科学と哲学のはざまでは既知から未知への語り直しを提案し、プラトニズムのニヒリズムのはざまでは"真理"の構成的側面を展開し、近代と脱近代のはざまではフッサールのオリエンタリズムを例に示す。その一つ一つがたいへん興味深い。

 たとえば、"真理"の構成的側面について。「真理である」「虚偽である」とは、それを語る行為の文脈に深くかかわっているという。真理・虚偽は人から独立に定まるものではなく、言語行為が遂行される文脈の関数だという。そして、その意味で真理の成立には行為遂行の文脈が「構成的に」関与しているというのだ。

 この主張、たいへんウィトゲンシュタインしてて面白いが、そのまま科学理論へ斬り込む。つまり、真理を超越的ないし外在的なものと前提とした上で、それへの漸近として科学の進歩を語ることは不可能だという。あたりまえだ、それぞれの理論の中の文脈でのみ、「真理である」「虚偽である」を語ることしかできないのだから。

 その例として、ユークリッド幾何学の公理系とリーマン幾何学の公理系の「はざま」では、「三角形の内角の和は二直角である」の真理・虚偽は異なる。同様のことは、相対性理論以前と以後の物理学における「ガリレイ変換」についても然りだという。

 このあたりは、クーンのパラダイム論で学んだことがあるが、本書ではこれに加えて、オースティンの言語行為論、ブラウワーの直観主義(構成的数学)のアプローチで、人間的な真理を明らかにしようとする。

数学の”真理”も変遷する

 『はざまの哲学』では科学理論の”真理”について揺さぶりをかけているが、同様のアプローチは、イアン・ハッキング『数学はなぜ哲学の問題になるのか』でも展開されている[書評]。

 ハッキングは、数学の歴史を振り返り、証明についての2つの見方を指摘する。省察と学習ののち、全てを理解し、一挙に把握できるような「デカルト的証明」と、全てのステップが積み重ねられ、一行一行機械的なやり方でチェックされるような「ライプニッツ的証明」である。

 それぞれの証明の歴史を詳らかにすることで、ある事実に行き当たる。すなわち、「証明」のような概念ですら、特定の時代や文化に限定されおり、ある特定の推論スタイルのもとで初めて意義を持ちうるということである。

 かつては「ユークリッド幾何学」が数学の最高基準だったし、現在は「証明」がそうかもしれない。だが、これらは偶然的な歴史的事実に他ならない。数学の最高基準は時代や文化によって変化するのであるならば、証明のない数学の可能性まで考えることができる。

正しさの相対性の罠

 『はざまの哲学』のキーワードとなっている「はざま」は、何かと何かの間である「狭間」「間」という意味である。何かの片方におり、そこが全てだと考えているうちは、もう片側に気づくことすらない。本書では、正しさの相対性の罠(お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな)に陥らないよう、それでいてその「はざま」でどのような力が働いているかを振り返る。

 メタ的に疑う目を養える一冊(だからといって、本書の目的はそれではないことにご注意をw)。

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