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「すでにご存知のとおり」←これ

 完全に新しい話を、「すでにご存知のとおり……」で始める奴がいる。知らんがな、としかいいようがない。だが、この前置きで始めることで、あたかも本題を「ご存知=ご承知」であるかのごとく扱うのはやめてほしい。そのハゲかけた髪をいっぽんいっぽん抜きたくなる。

Kaigi

 仕事場で使われる罠として、「本題より先に前提を混ぜ、あたかも前提が合意されたかのように話を持っていく」という技がある。

 つまり、伝えたい主張(本題)に入る前の導入部で、「合意されていない前提」を混ぜ込むことで、本題に反応したら、前提に同意したことにするテクニックだ。フェアじゃないし、卑怯なやり方なのに、空気を吸うように使う奴がいる。

 たとえばこう。

 「この額で受注を獲得するために、さらに機能を2つ追加し、納期を4週間前倒すことが絶対だ」というやつ。するっと流して聞いてしまいそうだが、ポイントは、「この額」は社内で合意された見積でもなんでもない点にある。

 ところが、本題(機能追加と納期短縮)に反応してしまう。「追加機能の仕様が決まっていない」とか、「これ以上の短縮は無理」と返事をしてしまうのだ。そして、仕様がどうだとか納期の調整がどうした、といった話にもっていかれる。

 あたかも、「この額」という前提が確定したものとして扱われ、その後の議論がメインとなってしまう。そもそも「この額」でするとかなんて、全く議論していないのに。にもかかわらず、後になって異議を唱えると、「あのときそれで議論して決着ついたじゃん」とあしらわれる。

 この罠を使う奴は、本題に無理難題をふっかける。本題がムリであればあるほど、聞いてる人はそこに引っかかるし反応する。わざと食いつきやすく話を大きく振るのが、たまらなく卑怯なり。

 この罠が出るたびに、前提の部分を指摘して、「『この額』って、そもそも社内で合意されてましたっけ?」とツッコミを入れる。ところがテキもさるもので、「いまそこを話し合いたいわけじゃない」と跳ね返す。「でも、コストと機能と納期がセットになってないね」と食い下がる。こんな、ゴミみたいな予防線の張り合いが、後になって炎上プロジェクトを押し付けられたときに効いてくる。

 この手法、「不当予断の問い」の亜流ともいうべきか。「不当予断の問い」は、YES/NO で答えるクローズドクエスチョンに、不当な前提を混ぜたやつ。「もう奥さんを殴るのを止めたのかい?」が代表的で、YESと答えてもNOと答えても「妻を殴る」前提を認めたことになる。本題を餌にしたオープンクエスチョンで、「不当予断」を通す戦略である。

 この罠、かなり高度で、やられた方も気づかない場合が多い。にもかかわらず、上手い言葉が見つからないし、注意を促す警告もあまり見かけない。ビジネスの現場でフツーに使われているが、フェアでもないし卑怯なり。先週もシレッと使ってきた奴がいたので、丁寧に潰してさしあげた。

 類似の罠は、『議論の技術』にある。基本から詭弁まで、各種取り揃えている。最も忌み嫌っている「社内政治」で使えることが分かってきて嫌なのだが、降りかかる火の粉を払うためには致し方ない。
 

  • 「先ほどの質問について沈黙を守っていらっしゃいますが、ご了承いただいたと解釈してもよろしいでしょうか?」
  • 「あなたは反対なのですか? 反対であれば、なぜ反対なのですか?」(本来は立論側が負うべき立証責任を、シレッと押し付けるのに便利。「なぜ」と聞かれると答えたくなるのが人の仕様)
  • その切り返し→「私はあなたの質問に答えました。だから、あなたは『なぜ賛成なのか』について理由を述べるか、あるいは私が述べた理由に反論してください。しないのであれば、私の理由に納得いただいているという認識でよろしいですか?」
  • 「なぜその2択なのですか? 他の選択肢を検討しない理由を教えてください」

 本来は、建設的な議論をするための技術だが、キナ臭い現場にも効く。

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スゴ本オフ「冒険」のご案内

 推し本を持ち寄って、まったり熱く語り合うオフ会、それがスゴ本オフ。

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テーマ「お金」のとき、バラエティ豊かな本が集まった

 本に限らず、あなたのお好きな音楽、映画、ゲームなど、なんでもござれ。あなたの「好き!」について、思いのたけを語ってほしい。

 日時 2/16(土)14:00~17:00
 場所 渋谷(HDE/HENNGE)
 参加費 2千円(飲み物、軽食をお出しします)
 詳細・お申込み [facebook「スゴ本オフ冒険」]

 当日は別フロアで[1000 Speakers Conference in English]を開催してますので、飛び込みで参加して「英語をしゃべる」という冒険をするのもいいかも

 今回のテーマは「冒険」。小説やマンガ、映画の冒険ものといえば定番だが、「これ!」というのを探すと様々な傑作が出てきそう。舞台となる場所(海、山、空、おしいれから宇宙まで)、タイムスケジュール(古代から未来、3分間から無限大)、キャラや冒険の手段、目的、不思議な冒険、奇妙な冒険と、いくらでも発想が広がっていく。

 別に「往きてし還る物語」である必要はない。「危険を冒す」のが冒険なのだから、大博打を打つ、ベンチャーにヤマを張る、アクロバティックに乗り越えるだっていい。危機一髪のストーリーなんて、たくさん思い浮かぶだろう?

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テーマ「食とエロ」のとき。本好きはえっちで食いしんぼう

 さらに、冒険から発想を広げてもいい。冒険を経たあとに手に入るもの、それは財宝かもしれないし、頼もしい仲間かもしれぬ。わたしは冒険から得られる「経験値」として、とある一冊を思いついたので、そいつをメインに紹介するつもり。

 なので、あなたの自由な発想で紹介してほしい。全体の流れとしてはこんな感じ。

  1. テーマに沿ったオススメ作品を持ってくる

    オススメ作品は、本(物理でも電子でも)、映像(映画や動画)、音楽、ゲーム(PS4からボドゲ)など、なんでもあり。

  2. お薦めを1人5分くらいでプレゼンする

    あなたのオススメを存分に語ってほしい。刺さったところを音読するもよし、自己流の解釈もよし。DVD、ブルーレイ、Youtube はプロジェクターで再生しますぞ。

  3. 質問とオススメ返しの時間

    あなたのオススメに、観客から質問やオススメ返しされる。「実は私も好きなんです!」と同志を見つけたり、「それが好きならコレなんていかが?」なんてオススメ返しされたり。このリアルタイム性が嬉しいところ。紹介に優劣つけたり投票はしない(ここ重要)。

  4. 放流できない作品は回収する

    「放流」とは本の交換会のことで、交換できない絶版本・貴重な作品は、ここで持ち主の手元に戻る。

  5. 交換会という名のジャンケン争奪戦へ

    回収が終わったら、交換会になる。「これが欲しい!」と名乗りをあげて、ライバルがいたらジャンケンで決める。ブックシャッフルともいう。

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テーマ「遊び」のとき、ボードゲームやゲームウォッチが集まった

 見るだけ参加もOKだし、紹介だけもあり。途中参加・途中退場もなんでもあり。このブログの右下あたりに、過去のスゴ本オフのレポートがあるので、それを参考にしてみるのもいいかも。

 本を介して人を知り、人を介して本に会う。わたしが知らないスゴ本は、実はあなたが読んでたのか! という出会いがいっぱいあります。

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人生を変えた一冊 『箱』

 品川駅の、HENNGEのメッセージが、好きだ。


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 駅をジャックするかのように、吹き抜けのデカイ看板、デジタルサイネージ広告がある。目に付くところ大きな広告であるにもかかわらず、モノトーン+簡潔なメッセージなので、逆に目立つ。なかでも、中央改札入ったとこの、日替わりメッセージが良い。


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 もとはHDEなのが、社名がHENNGE(へんげ)になるとのこと。スゴ本オフでお世話になっているので気になっていたのだが、このメッセージは刺さる。全部のメッセージは[あなたが変われば、世界も変わる。]で確認できる。


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 変化のメッセージといえば、イチロー「変わらなきゃ」、オバマ「Change」が浮かぶ。そこでは、ある種の覚悟や切実さでもって変化(へんか/Change)が求められている。いっぽうHENNGEでは、もっとコロッと、自由に気軽にお試しで、変化(へんげ/Metamorphose)することが誘われている。人はもっと変われるし、化けたほうがいい。


人生を変える一冊

 なぜなら、わたし自身、何気なく手にした一冊が、人生を変えてしまった経験があるから。

 それは、『箱』という本だ。ある時期、人間関係で非常に苦しい思いをしていたとき、本書に出会った。なぜ伝わらないのか、どうして分かってもらえないのか、こいつバカなのか!? と激しく悩んでいたのだが、一読し、一変した。

 一言で言うと、自己正当化と自己欺瞞の話だ。

 自己正当化は人間の仕様である。だが、自己正当化という仮面を人生の目的にしてしまうと、仮面を守るために自分に嘘を吐くようになり、ひいては自己欺瞞に乗っ取られる。そうなる前に、自己欺瞞(本書では箱と呼ぶ)に気づく方法が書いてある。

 急いで付け加えねばならないのが、「箱」は殻でもATフィールドでもない。「箱」は、殻でもATフィールドにもなれるが、それ以前の「自分が正しいという感覚」のようなものだ。もう少し詳しい説明は、[5冊の本が、わたしを自己正当化から自由にしてくれた]に書いたが、この感覚は、実際に読んで自分で体験してくれ、という他ない。


Jikoseitouka

5冊の本が、わたしを自己正当化から自由にしてくれた


自己欺瞞に気づくだけで楽になる

 自分で自分に吐いた嘘は気づけない。

 なぜなら、自分が「正しい」から。その「正しさ」が何にもとづいているのか、どんな根拠でなぜ「正しい」と言えるのか、深く掘り下げて考えてゆくと、わたし自身が揺らぐところまで降りることができる。そして、その嘘がバレる瞬間は、かなり気まずいし、恥ずかしいし、情けない。自分への裏切りに気づく瞬間は、恐怖以外の何ものでもなかった。

 しかし、『箱』を読み、「箱」に気づくことで、変わった。もちろん一回読んだだけで万事解決、というわけにはゆかぬ。何度も何度も、毎日のように「箱」に気づき、それを守るための人生を選ばないだけで、変わった。「箱」を意識することで、これまであたりまえのようにしていた防御や牽制、(箱を守るための)攻撃的な姿勢が、なくなった。



復刊後のタイトルは『自分の小さな「箱」から脱出する方法』


 要するに、楽になったのだ。自分で自分を苦しくしていたのだ。自分の首を絞めていた手に気づいて、やめたのだ。このままだと、自分を破壊していたかもしれない。この変化、へんか(Change) というより、へんげ(Metamorphose) に近い。

 たった一冊の本が、ここまで変えることは、珍しい。そして、どうやって自分がこの一冊にたどりつけたかを考えると、ほとんど奇跡のようだと思っている。


自分を変化(へんげ)させる一冊

 もともとは、[まなめはうす]のまなめ王子が絶賛していたのがきっかけ(14年くらい前?)。気になって調べてみたところ絶版状態で、Amazonでは8,000円くらいの値がついていた。

 図書館に駆け込むが、予約待ちが何人も入っているのに驚いた。発売当初の新刊に、予約がむらがることはありがちだが、当時からしても昔の本なのに、待っている人がいるというのは珍しい。これ、クチコミなどで広まった、隠れた需要があるということだともいえる。

 ずいぶん待たされた挙句、ようやく借りて読んでガツンとやられた。

 そして、8,000円は惜しいので原書を買い、「こんなスゴい本がなぜ絶版なんじゃ~」と出版社に電凸し、復刊ドットコムを教えてもらって働きかけたことがある。その甲斐もあってか、復刊されることとなり、好調に部数を伸ばし、シリーズ化もしているようだ。このあたりの事情は、まなめ王子が[箱本の思い出]で書いてくれたおかげで、思い出した。

 以後、出会う人出会う人ごとにお薦めしている。これ、あらゆる人にオールマイティに薦められる、珍しい本なのかもしれぬ。なぜなら、世界で最も重要な人、すなわち自分自身と向き合い、楽に変われる方法が書いてあるのだから。この変化の別名は、適応というのかもしれぬ。

 自分が変われば、世界が変わる。その意味で、世界を変える一冊なのかもしれぬ。わたしの人生を、わたしの世界を、よいほうに変えてくれる一冊に出会うことができたのは、まなめ王子のおかげ。このブログのタイトルの通り、わたしが知らないスゴ本は、まなめ王子が読んでいたというやつ。どれだけ感謝しても感謝したりないくらい。

 よい変化(へんげ)で、よい人生を。

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『眼の誕生』はスゴ本

 「世界の見えかたが一変する」という意味で、目からウロコの一冊。

Menotanjou

 先入観やバイアスは、明示されるまで気づかない場合が多い。例示されて初めてハッとする。それまで、「見えている」と思っていたものが、実は「見て」すらいなかったり、「見える=存在する」という思い込みの強さに囚われていたことに気づく。


見えていない ≠ 存在しない

 わたしの「世界の見えかた」を変えたのが、爆撃機の話だ。第二次大戦中、敵機の攻撃から生還した爆撃機を調査した統計学者が、ある提言をした。それは、「被弾箇所(赤ドット)ではなく、空白部分を強化すべし」というのである。なぜなら、空白箇所に被弾した機は、そもそも生還しなかったからという理屈だ。


Wikipedia:Survivorship biasより引用

 「生存バイアス」とも呼ばれるこの理屈、ポイントは「見えている」という時点で何らかの選択がされていることだ。したがって、「むしろ見えていないものは何か?」という観点から「それはなぜか?」を考えると、問題そのものが一変する。いかに自分が「見えている」ことに囚われていたかに気づき、世界がぐるりと裏返るような目まいを生じる。


極上のミステリのようなノンフィクション

 『眼の誕生』を読んでいるときも、これと同様に、世界がぐるりと裏返る衝撃を受けた。本書のテーマは、「カンブリア紀大進化の謎を解く」である。文字通り、事実を積み上げ、ロジックを組み立て、動かぬ証拠をつきつける、極上のミステリを読まされているかのようなサイエンス・ノンフィクションである。

 「カンブリア紀大進化」は、「大爆発」とも呼ばれ、生物学史上の巨大な謎とされてきた。カンブリア紀の始まりである5億4300万年前、生物は突如、爆発的に進化したという謎である。それ以前の地層からは、ほとんどの生物は似たような姿形で、種類もたいしたことなく、さらに数もいなかった。

 それが、5億4300万年前から5億3800万年前までの間(地球史的には一瞬である)、硬い殻やトゲ、剣、鱗、歯を備えた、多種多様の生物が誕生したのである。突然、生物たちが申し合わせたかのように一斉に進化したのは、なぜか?

 その答えは、タイトルにある。『眼の誕生』こそが、進化の引き金となったというのである。犯人がタイトルに書いているようなミステリで、かつ、これほど鮮やかにガツンとやられるのは皆無にひとしい。

 つまりこうだ、光を感知するだけでなく、像として把握する「視覚」は、生物の捕食行動を促すことになるだけでなく、捕食者から逃れるための防衛機能や外部形態への淘汰圧となる。さらに視覚は、異性を惹きつけるためのディスプレイといった性淘汰にも影響する。眼はすなわち、世界を変えたのである。

 光スイッチ説という、この結論に至るまでの積み上げが凄い。生命の誕生まで遡り、光学の基礎を解説する。面白いのは、「色」を感じる仕組みにまで説明しようとすると、生物が発する色には、色素の色と構造の色があることまで理解する必要が出てくる。

 たとえば、赤色は、受けた光のうち、赤以外を吸収して、赤のみを反射するから「赤い」と知覚する。これが色素の色だ。いっぽう、鳥の羽やチョウの翅に顕著な、何色とは一概にいえず、見る角度によって様々な色になる構造色がある。化石をしらべるとき、色素は化学変化により失われる場合が多いが、構造色は残されていることがある。これを手がかりにして、「視覚」の誕生はまた「色」の誕生であることを突き止める。


動物の「視覚の進化」を見える化する

 ビジュアルテキストとして、『動物が見ている世界と進化』を併読したのだが、これが正解だった。大英自然史博物館を中心とした標本写真やグラフ、図版を元に、動物の眼はどのように進化してきたのか、色が生まれる仕組みや、色を持つことによる進化的利点が、まさに手に取るように見える。

 物理現象である「光」と、それを感受する器官、さらに内部で像を結ぶ「視覚」とし、波長による「色」を認識する一連の流れは、さらに、環境や状況に応じ、どのように適応させていったかの生物の多様な視覚器官がフルカラーで見える(お約束の昆虫の複眼の拡大写真もある)。


化石がない ≠ 存在しない

 カンブリア紀より以前、もともと生物はそこに「いた」のだ。だが、硬い殻や鋭い歯を持っていなかったため、化石として残されたものが少なかっただけなのである。眼の誕生により、食うか食われるかの環境になり、生物の大半が殻を持つようになったからこそ、あたかも多様な生物が一斉に誕生したように見えたのである。

 化石として見えるものがないからといって、存在しなかったわけではない。著者は、化石として残されていないものは、柔らかい体のほかに何が無かったか? という問いを立てたからこそ、「眼」への発想が生まれたともいえる。

 見えるものが全てではない。見えていないものから、世界の見えかたを、変えてみよう。

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「古典は本当に必要なのか」討論会へ行ってきた

Kotennhahontouni

 古典不要派と必要派がガチで議論するシンポジウム「古典は本当に必要なのか」を見てきた。パネリストの紹介は[「古典は本当に必要なのか」シンポジウム]で、youtube や twitterまとめ([第一部][第二部])で見ることができる。

3行でまとめる+問題の本質

 長いので3行でまとめる。「高校の古典(古文・漢文)は必要か?」という議題に対し、

  • 不要派:古典は選択科目にして論理国語に注力すべき。あと現代語訳でおk
  • 必要派:幸せに生きるための古典は原文も一緒でないと
  • 会場の声:必要派が優勢だが、現場では現代語で教えてるのが実情

 そして、この問題の本質は次の通り。「古典は必要か?」と問われれば、必要に決まっている。問題なのは、どれくらい必要なのか? と問われていることに気づいていないことである

 そして、もっと厄介なのは、「これくらい必要」の「これくらい」は何を根拠にそう言えるのかを、示せていないこと。なぜなら、高校の有限なカリキュラムにおいて、他の「必要な」教科単元をさしおいて、古典が必要な「程度」を示すことが求められているから。センター試験国語200点のうち、古文50点、漢文50点である根拠と言い直してもいい。

ショートコント「ニュートン力学不要論」

 これ、古典必要派は、ピンとこないかも。

 会場に集まった人たちは、国語教育に所縁のある方が多かったせいか、古典肯定派がメインだった。問題の本質が見えてなさそうなので、前哨戦で見かけた、「ニュートン力学不要論」の回答を紹介しよう。岡目八目ともいうから、問題の深刻度が見るかもしれない。

問)古典不要というなら、現代物理学(相対論・量子力学)を学ぶ上で、古典物理学(ニュートン力学)は、不要ではないか? 絶対的な時空間を前提とし、光と重力の関係を無視しているニュートン力学は、相対論とは真逆の前提で、現代物理学を学ぶ上で、阻害となっているから。

答)ニュートン力学は、物理学の基礎であるため必要。古典物理学を不要という人は、そもそも古典物理学をちゃんと学んでいない人なのだろう。古典物理学をきちんと学べば、その重要性は自ずと理解できる。

 もちろん、ニュートン力学は高校で必須である。量子力学が一般化する20年後ならともかく、「基礎だから必要だ」がまだ通る。だが、真の問題は、古文・漢文の必要派は、こんな回答をしていなかったか、にある。「君は古典を(ちゃんと)知らないから、その重要性が分からないのだ」は答えになっていない。こんなコントみたいな理屈を主張してこなかっただろうか?

 まともな答えの一つは、ニュートン力学と高校数学(微積分、線形代数、ベクトル)の関連性を示し、そうした数学を元に現代物理学も成り立っていることを示すことだろう。ニュートン力学は独立した「単元の一つ」ではなく、数学や天文学、そして現代物理学との結びつきの上に成り立っているのだから、それだけ切り離せるものでもない。

 こうした答えを、古典必要派はしてきただろうか? 不勉強なわたしは、「まともな答え」を聞けるものだとワクワクしながら会場へ向かった。

箇条書き400字ぐらいでまとめる

 古典不要派の主張をまとめると、次の通り。「不要」といっても、失くしてしまえと息巻いているわけではなく、他に学ぶべきものとの優先度に応じるため、選択にしたらと提案しているとこがポイントだ。

  • 高校生の時間は有限であり、そこで学ぶべきことは多種大量にあるため、取捨選択が必要
  • 何をもって選択するか? 国益や個人の収入UPという価値観で評価すべき
  • その判断からすると、古典の優先度は下がるため、必須から選択にすべき
  • 反対に古典よりも、論理国語(企画、プレゼン、議論)を厚くすべき
  • 選択古典も、原文よりも現代語の方が効率がよい
  • 古典は、年功序列や男女差別を刷り込むツールとして有害な一面もあり
  • 教科とその学習量について、既得権と縦割りをバラして、最適化する必要あり

 いっぽう必要派の主張は、こんな感じ。徒然草の解説や、理系vs文系という対立構造では読み解けない江戸時代の医学書の話など、興味深いトピックが紹介された。

  • 古典は幸せに生きるための知恵を授けるもの
  • 古典への社会的敬意が低下しているからこそ、学校教育でその魅力を伝える必要あり
  • 例として、徒然草の紹介、連歌を用いた授業活動の提案
  • 近世の文献で翻訳されていない文献が多く、これらを解読して後世に残すのは納税者への責務
  • 古典を通じた文化交流もある

 つまり、噛み合っていないのだ。

 古典の重要性がどの程度かを判断するにあたり、経済性や実用性、コスパという観点から見る不要派と、人間形成や感性、教養といった観点から見る必要派という構図だ。そして、お互いに言いたいことを言い合って終わっている。

 これはもったいない。価値観の違う人が、わざわざ憎まれ役を買って出て、面と向かって言ってくれるのだから。議論を、しよう。

 議論とは、議題について異なる立場の人が話し合い、互いに妥協できる場所を探すこと。妥協点が見出せないなら、それぞれが主張する問題点を明確にし、それを解決するための課題が何かについて合意を得よう。問題点すら明確にならないなら、それを記述している言葉や事実を確かめよう。定義や認識、エビデンスの違いまでさかのぼれば、抽象度を上げることで問題点を重ねることができる。そして、重なったところでこれらの対話を繰り返そう。

 これが、議論だ。結果、妥協点を見いだせなくても、互いに何を問題視しているかを理解したり、事実認識や定義が違っていることを確かめることができる。その上で、「あれかこれか」ではなく、両論併記することで(抽象度の上げた)ゴールの可能性も考えられる。

むりやり議論を噛み合わせる(キーワード:幸せ)

 噛み合わない「議論」を、むりやり嚙み合わせるなら、「幸せ」がキーワードになるだろうか。不要派の「生涯年収」と必要派の「幸せに生きるための知恵」で、問題点・定義・認識を重ねることはできないだろうか。ほぼ思いつきに近いアイデアを、質問という形で、パネリストたちに投げてみた。

 ……残念ながら、有益な話を引き出せたとはいえなかった。

 古典を学ぶことが生涯年収UPに直結するかなんて、検証しようがない。それでも、日本で使われている言葉のうち、大和言葉や故事成語の割合を調べることはできる。仮に「古典の重要度」を数値化するなら、この割合が参考になるかもしれぬ。

 そして、こうした言葉が文字通り血肉となって自然に出てくることを示すことはできる。不要派のハンズアウトに、「餅は餅屋」「~すべき(強調の意味で)」という言葉があるのは、部分的とはいえ古典教育の証左だろう。「短い言葉で的確に伝えたい」という動機が、自ずとレトリックを選ぶのであり、その引き出しは教育如何による。

 しかし、当のパネリストから、「語彙が豊富だからといって幸せとする尺度は同意できない」という反論や、「アメリカは語彙を減らし簡略化することで移民受け入れが上手く行った」という事例が出され、議論はそこで尽きてしまった。そこから、「アメリカの母語簡略化に倣って漢字教育を廃止した韓国ではどうなっているか」という検証や、「簡体字にしたことで中国の古典伝承への影響はあったか(台湾と比較して)」というサブテーマに膨らませたら面白かったかも。

古典不要派の言葉を使って考える(国際競争力と国力)

 他にも、噛み合わせるポイントはある。

 このテの議論をするには、相手の言葉で語ることが重要だ。相手が使う言葉を掘り下げてみると、実は互いにつながりあっていたことが分かる場合もある。「古典は本当に必要なのか?(いや必要でない)」という言葉尻だけ捉えて、やれ焚書坑儒だ、華氏451だと批判するのではなく、テーマの範囲内で、相手の言葉をどうやったら建設的に使えるか? と考えるのだ。

 たとえば、不要派が重視する”国際競争力”の変遷を、古典からたどるアプローチはどうか。不要派が紹介したスライドで、20年前と今の大企業の一覧があった。GAFAに席巻されたグローバル経済を示し、変化に対応できる”国際競争力”が必要だという。

 これ、スケールが20年だから目まぐるしいが、200年、2000年ならどうだろう。その必要な技能は、「今だけ」なのか、200年来必要なのか。国力、経済力、軍事力、文化的影響、社会制度といった観点で、数百~数千年を振り返る歴史家の仕事になるが、その根拠となっている古典をカウントすることで、古典の影響力を測ることはできないだろうか。あるいは、他の発想が埋まっていないか、掘り起こしが可能だろうか。

 もっと生々しく”国力”への訴求性を求めるなら、歴史問題に踏み込むこともできる。たとえば領土問題として焦点の当たっている島嶼で、その歴史的根拠を探すなら、昔の文書を参照することになる。その有効度は状況によるが、「たしかにその場所について日本と由縁があった」証拠の一つとして挙げることができる。

 そして、その文書はただ一つ、単独で存在するのではなく、文書の存在を示す別の文書、その文書から引き出された(引用や言及、随想など)別の文書として、確実なものとなるということだ。その当時のネットワーク全体で、その文書が示す「確からしさ」が検証できる(ここ重要)。

 なぜ重要かと言うと、争っている相手から、「こちらの方が古いから有効だ」と出所不明・ネットワーク不在の文書が出されてくる可能性があるから。あるいは、相手が時間をかけて「ここは私の領土だ」と繰り返したり、詭弁や武力にモノを言わせて事実化する場合があるから。相手には相手の理屈があり、ストーリーがあるのだから、数十年から百年かけても、国策としてその主張を通そうとするだろう。

 詭弁や武力ではなく、エビデンスに基づいて問題を解決するのなら、文書ほど重要なものはないだろう。歴史問題についてエビデンスとなっている一次文書と、それを参照・言及している文書(相手が提示してくる「文書」も含む)、さらにその解読に携わる人をカウント・比較することで、古典の有用性を可視化することが可能だ。

 一例をあげるなら、[『沖縄は中国の属国だ』という主張が今更な感じがするのですが、どういうことなんでしょうか?]がある。この回答を支えている事実関係を示す一次資料は、それを参照・言及する文書のネットワークの中にある。これらを伝えていかない限り、時間をかけて辛抱強く繰り返される「沖縄は中国の属国である」主張へのエビデンスを手放すことになる。さらに、いま懸案となっている課題だけでなく、将来現れる新たな歴史問題を議論する準備として、古典を解析して維持していくことは、日本の「国力」につながる―――こうしたアプローチだと、古典不要派の「国力」と同じ視線で考えることができるかもしれない。

「認可的ワクチン」としての古典

 上記の例は、読書際さんの「認知的ワクチン」に関する一連のツイートから学んだ。

 「認知的ワクチン」とは、デマをウイルスになぞらえ、知識を教え学ぶことでその流行を防ぐことを指す。たとえば、化学を学ぶことで「水素水」や「コラーゲン配合」の流行を防ぐことになる。

 古典の場合、「水素水」や「コラーゲン配合」に相当するカッコに入るものは何になるか? 先の例だと「沖縄は中国の属国だ」だが、他にもあるだろう。一次資料ではなく、ネットに流れるトンデモ歴史を「事実」として本に書いたらどうなる? 鼻で笑われるだろうが、それがベストセラーになって大勢の人が信じたらどうなる? カッコに入るものは、結構ありそうだ

 そうしたものを数え上げることで、「古典は必要である」のうちの「どれくらい」かを、他と比較することができる。もちろん単純比較はできない。単なる数ではなく、代えのないものであれば、重みづけも考えるべきだろうね。そして、一次資料を読み解く人「だけ」が必要なのではなく、そこから引き出された知識を重視し、トンデモを鼻で笑うだけのマスが求められる。

 デマの拡散については、たとえば東日本大震災におけるデマをテーマにした論文[拡張SIRモデルによるTwitterでのデマ拡散過程の解析]がある。このSIRモデルを歴史認識に当てはめることで、古典教育の普及度とデマの拡散しやすさをシミュレートできるかもしれない。

古典の「効果」を可視化する

 古典は、言語や歴史といったアイデンティティに深く関わっているため、これを考えるわたしたち自身に内面化されており、その結果、見えにくくなっている。

 伝えたいという動機があるならば、そこに表現があり、レトリックがあり、古人がさんざんやってきたことなのだから、先例と踏襲と改変がある。

 パネリストから、連歌をおこなってきた先人たちの発想の集大成として歌語集を捉え、これと現代語の関わり合いを可視化するアイデアが出た。想いを伝えたい高校生にとってのLINEの一行を、図書室の歌語辞典から見つけてくる、というのはアリだろう。人は、それくらい、変わっていないのだから。

 ひょっとすると、わたしが気づいていないだけで、言葉の発想のつながり方を考えるなら、概念のかなりの部分は、古典によって準備されているのではないか、と思えてくる。ネットを行き交う言葉のうち、古文・漢文の影響を拾い出すことも、古典の可視化に一役買うだろう。

 さらに抽象度を上げて、行動様式としての影響を見るならば、わたしが何気なく撮ってSNSにアップする画像とつぶやきは、1000年前に紅葉を折り込んで詠んだことの現在形ではないだろうか。

 あるいは、映画「シン・ゴジラ」において発生した出来事を、時系列に沿ってリアルタイムで実況し、それに乗っかってツイッタラーがネタを広める[シンゴジ実況]なんて、インターネットを使った巨大な連歌は見えないだろうか。

 短い文章でつながっていく twitter において、普及度と特異な(?)使われ方を日本と他国で比較すると、そこに和歌や連歌の影響を可視化できないだろうか。

古典は「どれくらい」必要か?

 大事なことなので何度でも言う、古典は必要だ。

 だが、どれくらい、何をもってそう言えるのかについては、議論の俎上に上っていないものがある。なぜなら、言語や思考様式として内面化されているから。ニュートン力学が基礎としてあたりまえなように、古文・漢文も基礎としてあたりまえなのである。だが、両者の種類も程度も違う。それを測るための可視化が問われており、そうした検証の上で、議論が可能となる。

 噛み合わなくてもいい、という人はネットでうそぶいているがいい。リアルで、互いの最も重要なリソース・時間を使って議論をするのなら、最低でも「互いに問題視するものがあり、妥協ポイントは見いだせないにせよ、共通の問題は明確にできた」までは辿り着けないと。これは、(次回があるのなら)それまでの課題になるね。言葉の定義、立論を合わせ、当日までに議論ポイントとその検証までを準備しておく。

 それは「仕事とわたしとどっちが大事?」と訊くようなもので、異質なものをムリヤリ測ろうとするならば、どこかで歪みや偏りが出る。それは分かる。だが、議題に戻っていただこう。有限な「高校生の時間」というリソースをどうやって配分するかを考える上で、何らかの指標は、どうしたって必要なのだ。

 また、目的的行動の危うさについても分かる。「〇〇のために古典が必要」の〇〇なんて、時と場合により、そうした時と場合を超えて残り、普遍性を持っているのが古典なのだからね。それでも、その時とその場合による〇〇に対し、こういう面が応用できるという観点から訴えない限り、削られていくのみとなろう(そして、削られて残されたものが”古典”となる)。

 もう一度言う、古典は必要だ。

 だからこそ、その必要性を「伝わる言葉で」伝えないと。だが、内面化された古典の影響力を定量化するのは、かくも難しい。この件、もう少し続けてみる。国語のエキスパートたちのがどのように示してきたか、調べてみよう。かつて、古典は不要だ、全部ローマ字でいい、いや英語を公用語にしてしまえ、といった主張があった。

 知りたいのは、そこで「古典は必要だ」という人が、どんな主張をしてきたかにある。昔の古典必要派がフンショコージュの脊髄反射しかしなかったから、現在この体たらくなのか、あるいは、昔の古典必要派が体張って議論してくれたおかげで、この程度で済んでいるのか。議論が噛み合わないのは分かる(現在そうだから)。だが、そこで放置しないで、噛み合わせようとした努力は試みられたのか、知りたい。

 バトンは既に渡されている。わたしと、ここまで読んでしまった、あなたにも。

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『タコの心身問題』『イカの心を探る』『ふらんけんフラン』で頭足類の「心」を考える

Takonosinsin

 ヒト以外の存在について、「賢い」という言葉を使う際は注意したい。なぜなら、そこに擬人化の罠が潜んでいるから。「賢い」とは何か、「知性」とはどんな意味かを吟味したうえで使う必要がある。

擬人化の罠

 「擬人化の罠」とは、動物を観察する際、人に似た属性の有無を探し、人の基準で行動を評価すること。たとえ人に似た行動をしても、その行動を生んだ根源的なメカニズムまでが人と同じとは限らない。なぜなら、それぞれ異なる身体と神経系をもち、それぞれ異なる生息環境で生きているため、同じ行動原理であると考えるほうに無理がある。

 擬人化に偏って仮説を構築しようとすると、検証できる範囲が限定されてしまう。実験で上手に芸ができるから、「賢い」とする研究は、その動物と人との距離において、知的か否かを測ろうとする考えが裏側にある(あらゆる動物の最上位に人を据えた宗教の影響やね)。したがって、動物の「知性」とは、その動物にとってのコストパフォーマンスの最も良い行動原理を裏付けるものでなければならぬ。

 しかしながら、面白いことに、「知性」を定義しようとすると、必ずそこにヒトの存在が求められる(ヒトがいないと知的か否かの判定はできないし、ヒトを超えた知性は文字通り”人知の外”になる)。知的存在についてSF作品からのアプローチで、[SF読書会『ソラリス』×『ランドスケープと夏の定理』に参加したら読みたい本が激増した件について]に書いた。今回は、『タコの心身問題』『イカの心を探る』が楽しかったので、頭足類の「心」について考えてみる。

タコの心身問題

 一冊目、ピーター・ゴドフリー=スミス『タコの心身問題』について。生物哲学の教授であり、一流のダイバーである著者が、タコとの交流を通じて「心とは何か」「心はどのようにして"生じる"のか」を考える。進化は「まったく違う経路で心を少なくとも二度、つくった」という主張は、言い得て妙なり。

 まず著者は、タコの「目」について注目する。高度に発達しており、網膜、角膜などの構造は、ヒトの目と物理的に似ているだけでなく、視神経が網膜の前に突き出しているため、盲点がない。遠い祖先は海かもしれないが、そこから出て目を進化させてきたヒトと、海の中で目を進化させてきたタコが、結果的に近似した目を持つというのが面白い。

 これを専門用語で収斂進化と呼ぶという。異なるグループの生物が、環境や食物に適応し、系統に関わらず身体的特徴が似通った姿に進化する現象のことだ。異なる系統である鳥とコウモリの「翼」が似ているのと一緒やね。

タコに「心」はあるか

 そして、タコの生態や実験を紹介しつつ、ある種の「心」があることを考察する。この件がたいへん面白い。集めた貝殻で自分の”庭”を作ったり、状況に合わせて姿形や色を自在に変化させたり、閉まった蓋を開けたり、タコを知れば知るほど、「賢い」と見えてくる。

 たとえば、野生のタコがココナッツの殻をシェルター代わりに使っているレポートを紹介する。半分に割られた殻を持ち運び、危険を察知すると上手に中へ入り込む「道具を使うタコ」は、youtubeでも話題になっていた。他にも、貝や竹を使って入り込む様を見ていると、「ひょっとして、ヤドカリを真似ているのでは?」と思えてくる。

 一方で著者は、安易にタコを「賢い」とする姿勢に慎重になる。動物の「心」について考えるとき、人はどうしても自分の心を前提にしてしまいがちだ。単純な生物の「心」は、人の心を単純にしたものだとか、人が「賢い」と考える実験でもって動物の知性を測るといった「擬人化の罠」である。

 著者は折に触れてこの罠を指摘する。たとえば、タコの脳の大きさでもってタコの知性を測ろうとするのは誤りだという。まず「脳の大きさ」は、単純な比較ではなく、身体サイズに対する比でなければならない。その場合、タコは不釣り合いなほど巨大な脳を持っていることになる。さらに、タコはニューロンの大半(およそ3分の2)を、頭ではなく腕に持っている。

 つまり、タコは身体サイズからすると異様ほど大規模なニューロンを持ち、しかも独自の身体性の下で、頭からの指令と、自律した腕とが協調し、「タコであること」が成り立っているのである。巨大脳と大規模なニューロンは、タコの「心」の存在を示唆している。

  この「心」のありようについて、翻訳者も慎重に言葉を扱っている。原著のタイトル ”OTHER MINDS” の ”MIND” が複数形になっていることに注意を促し、日本語訳にあたっては、原則的に “mind” に「心」、”intelligence” に「知性」、”consciousness” に「意識」という訳語を当てて訳し分けている。

 ヒトの場合、「心」は、学習や意識といった、主に「頭脳」に結び付けられる精神活動を指す。しかし、頭足類の場合、そうした機能は必ずしも「頭脳」だけに限らず、わたしたちが「腕」や「脚」と呼んでいる箇所にも及ぶ。ヒトの言葉をそのままあてはめるなら、タコは腕で「考えて」いることになる。

 では、なぜタコは巨大な脳とニューロンを発達させたのか?

 著者は頭足類の歴史をさかのぼる。その祖先は、身体を保護する貝殻のようなものを進化させ、初期の捕食者となったという。その後、殻を捨てて遊泳を始めたのが頭足類となる。そして、殻を失ったことによる脆弱性を補うために、高い知能を発達させたというストーリーだ。

 つまり、タコはヒトとは異なる経路で、別のデザインで知能を得ており、いわば「心」の収斂進化が、少なくとも2度起きたというのである。この指摘は、たいへん興味深い。

海の霊長類・イカの心を探る

 『タコの心身問題』は、著者のタコ愛ゆえにタコに少々肩入れしすぎている。公平を期すため、そして、スプラトゥーンB帯から抜け出すため、イカの話も聞こうじゃなイカ……と手にしたのが池田譲『イカの心を探る』。著者は、イカ研究の第一人者で、イカやタコの行動科学を対象とした「頭足類学」を提案している。

 イカやタコといった頭足類は、精巧なレンズ眼、身体サイズに合わないほどの巨大脳、さらに体色模様でのコミュニケーションといった知的な振る舞いにより、「海の霊長類」と呼ばれているという。そして、イカの行動や社会性、アイデンティティーなど、イカの知性についての研究がまとめられている。『タコの心身問題』のイカバージョンといっていい。

 ところが、こと「知性」について考えるなら『イカの心を探る』の方が、より面白く、さらに深い考察まで進めることができる。そして、タコとは対照的な行動から、頭足類の進化について新しい仮説を立てることができる。

 まず重要な指摘は、イカやタコといった頭足類は、地球の全面積の7割を超える海洋において、完全に適応していることだ。一口に海といっても、浅瀬から深海、沿岸から沖合、熱帯から寒帯まで様々だが、頭足類は、どの環境でも種を繁栄させている。

イカは、鏡に映った「自分」を認識できるか

 次にユニークだったのが、「イカに鏡を見せる」ミラーテストだ。アオリイカに鏡を見せると、同じ仲間を見たときとは違った行動をとるのだ。そっと鏡に近づき、触ろうとするのである。これは、イカが「自分が分かる」ことを示しているのではないか?

 「鏡に映った自分自身を認識できるか?」を試験するミラーテストは、サルや犬猫、イルカなど、様々な動物において試されている。面白いのは、対象の動物に麻酔をかけ、普通では自分で見ることのできない場所にマーキングをする。目覚めた動物がそれを鏡で見つけて、触ったりなどすれば、「鏡に映っているのは自分である」と認識できたとするのである。これをイカでやったのである。

 本書や小論[頭足類の社会性と知性基盤](pdfファイル)によると、個体数が少なく、はっきりとしていないようだが、少なくとも「鏡に向かった”自分”には、同種個体とは異なる反応をする」ことは結論づけてもよさそうだ。ちなみにタコの場合、振る舞いに差は無かったそうである[ミラーテスト:タコ]

イカの巨大脳は、社会性と世代「内」学習の賜物

 では、イカの知的な振る舞いはイカに生じたのか? この問いに対し、たいへん面白い考えが示されている。著者は、問いを変えて、「なぜヒトの脳は大きいのか」「ヒトはどんな歴史的経路をたどって大きな脳を獲得したのか」というアプローチから、巨大脳と社会性を関連付ける。

 つまりこうだ、ヒトは様々な状況で、家族や友人、見知らぬ人とコミュニケーションを取る。そして、コミュニケーションを通じて情報を得たり、食べ物や欲しいものを手に入れている。上手くやりとりできた場合、自分に有利な結果を得ることができ、結果、生き残って子孫を残す上で有利にはたらくことになる。脳が大きいほうが「他者とのやりとり」に有利で、これが進化上の選択圧になったという仮説である。

 著者は、イカにもこの仮説を当てはめる。貝の仲間だったイカが、殻を捨て、遊泳という機動性を手に入れる一方で、自分の弱さを補うために群れで行動する。群れにおいて、あるいは繁殖という場面において、他の個体とコミュニケートしているように見えることから、イカの持つ「社会性」が巨大脳をもたらしたというのである。

 イカの社会性を考える上で、もう一つ面白い観点がある。それは「学習」である。孵化後に急速に発達する記憶や学習の能力を駆使して、生存に必要なスキルを学ぶ。巨大な脳はあれど、このスキルは誰から学べばよいのか。

 イカの寿命は1~2年と短く、子どもが親から学ぼうとしても親は既に死んでいる。それでは巨大な脳はコスト高ではないかと考えられるが、何も世代間で学習するだけではない。つまり、彼らは世代「内」で学習するという考えである。

 彼らの齢は年齢ではなく日齢になるが、すべてのイカが、一年間の同じ月、同じ日に産卵するわけではない。イカは年中産卵するが、メスごとに産卵時期が異なっている。早く生まれたイカほど早く成長し、少し長く生きている年上の個体が、「何か」を年下の個体に教える―――そういう可能性を指摘する。

 たとえば、レオ・レオーニ『スイミー』がそうだろう。スイミーの仲間たちは、みな同じ世代に見える。仲間の一部がマグロに食われても、残ったスイミーが知恵を絞り、隠れた仲間を集めて反転する。そのとき、「ぼくが目になろう!」と言ったように、何らかの知恵の伝承がなされているのではないか、という仮説である。

 翻って、タコの社会性はどうかというと、これはイマイチらしい。タコは単独行動が基本で、『タコの心身問題』では、タコが集まって生活するコミュニティ「オクトポリス」が紹介されているが、これは例外とのこと。

 しかし、これは本当だろうか? ヒトに比肩するレンズ眼を備え、体色の変化による威嚇や誘惑が可能であるということは、そのまま視覚によるコミュニケーションを過去にしていた証左にならないだろうか。

 すなわち、かつてタコはイカのような社会的な行動をとる戦略で、巨大脳を発達させてきたが、何らかの理由により単独化したという仮説である。現在における、人による観察の結果だけで判断するのは早急だろう。

頭足類のオーバースペックに対する一つの回答

 実というと、頭足類の巨大脳となったか、有力な説明が、既にある。

 なぜ、大部分のニューロンが腕に分散されており、無限関節での操作ができ、類推や考察ができるのか。異常なほど目が良く、視覚画像からパターン認識を行い、記憶と学習により道具が使えるのか。相手を見分けて、(反射的ではなく)相手に応じた擬態ができるのか。

 イカやタコは、できることが多すぎるのだ。

Furann2

 あくまでも―――あくまでも仮説なのだが、かなり魅力的だし、検証も可能である。

 結果は、つぎはぎだらけの人造美少女ふらんに委ねよう。ふらんとは、エロくてグロいホラー・コメディ『フランケン・ふらん』の主人公兼トリックスターで、改造手術を得意とする。第7巻のエピソード53.OCTOPUSで、「妹的生命体」をタコで作る話からの引用だ。

Furann3

 そして、この続きがおぞましい&素敵なんだな。気になる人は、確かめてほしい(グロいで)。 進化とは「現在」を頂点とした適応の歴史であり、現在、ヒトが頂点だと考えていることから陥っているバイアスを見事に覆した考察である。『タコの心身問題』と『イカの心を探る』のそれぞれの著者に、ぜひ見てご意見を伺いたいものである。

 頭足類に「知性」や「心」はあるか? あるとするなら、どのように実証できるか? これを考えてゆくと、「心とは何か?」「知性の検証にヒトは必須か?」につながってゆく。

 そして、ふらんの回答を見ると、知性の検証が必要なのは、反対にヒトの方なのかも……と思えてくるから、さらに面白い。知的生命体として、ヒトはまだ、ヒヨッコなのかもしれないからね。

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「古典は本当に必要なのか」討論会


 「社会に出たら三角関数なんて使わない」とか、「漢文は仕事の役に立たない」という議論が、ネットで繰り返されている。わたしの中では結論がついており、以下の寸言に集約されている。

「人生で必要なことは教科書に書かれてない」っていう奴、それお前が教科書ちゃんと読んでこなかっただけだろ(tumblrより)

他人のアラ探しをしてる間は自分の姿を見なくて済む(三島由紀夫)

 つまり、「〇〇が役に立たない」という人は、〇〇を使わない人生を選んできただけであって、それ以上でも以下でもない。あるいは、〇〇が理解できない貧しい想像力の持ち主か。それでいて、〇〇を貶めている間は自分の浅学を見なくて済む。

 ただし、これをリアルでやると面白い。それぞれの学問やビジネスの第一線にいるにもかかわらず、わざわざ出てくるのはすごい。専門を極めていれば自ずと知的な謙虚さが身につく―――というのはわたしの思い込みで、他の学問領域が見えなくなる専門バカになるのだろうか。

 そのイベントが、まさにこれ。たいへん楽しみにしている。

「古典は本当に必要なのか」
2019年1月14日(月・祝)14:00~17:30
明星大学日野キャンパス アカデミーホール(28号館204教室)
※入場無料、制限・予約無し

Kotennha

facebookイベントページ
公式発表ページ

第1部:パネリスト発表

〈否定派〉

  • 猿倉信彦(某旧帝国大学 某研究所 教授)「現代を生きるのに必要度の低い教養である古典を高校生に教えるのは即刻やめるべき」
  • 前田賢一(某大手電機メーカー OB)「古文・漢文より国語リテラシー」

〈肯定派〉

  • 渡部泰明(東京大学 教授)「古典に、参加せよ。」
  • 福田安典(日本女子大学 教授)「BUNGAKU教育を否定できるならやってみせてよ」

第2部:ディスカッション

ディスカッション司会:飯倉洋一(大阪大学 教授)
コーディネーター:勝又基(明星大学)

 こういう知的バトルは面白いはずなのだが、ゴミみたいな水掛け論と詭弁合戦にならぬことを危惧している。「古典」とは何か、「役に立つ」とは何かを定めず、やれTOEICやPISAのスコアだとか大学ランキングとか科研費の多寡という議論になるなら、ネットの焼き直しになる。

 リアルで、即興性があるのだから、絶妙な「返し」に期待している。たとえば、「たったいま、貴方が使ったレトリックの出典は、孔子が弟子の顔回を評したもの。知らないうちに身についていたのは古典教育の賜物ですね」と返す刀で斬ったりしてほしい。

 わたしは行くつもり。最前列でニヤニヤしてます。ネット中継もするみたいなので、イベントページや中の人のtwitterを要チェックや!

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『はざまの哲学』はスゴ本

Hazamanotetugaku

「哲学は何の役に立つのですか?」

 哲学をやっていて良いのは、メタ的に疑う目を養えることだ。

 たとえば、「哲学は何の役に立つのですか?」という質問が、どんな前提で発せられており、その前提が孕む別の問題に気づけるようになる。

 質問者は、「哲学は〇〇の役に立ちます」という回答を期待している。〇〇には、適当な言葉が入る。たとえば、「論理的思考」や「詭弁術」、あるいは「認知バイアスの明確化」「会議における論駁」など、いくらでもある。そこから質問者は、〇〇を身につけるには、別に哲学である必要はない、と言うことも可能だ。

 まさにここが問題になる。

 「哲学が〇〇の役に立つ(a)」からといって、「〇〇のために(b)哲学がある」わけではない。この(a)と(b)を混同させる発想が、質問の前提にあるのだ。いま哲学を槍玉に挙げたが、哲学に限らず、歴史、数学、文学など、学問分野は質問者の意図によって入れ替え可能である(最近だったら三角関数やね)。

 学問は、〇〇という、何らかの価値が予め存在し、そのためにやっているわけではない。それらは先人の成果であり、副産物である。にもかかわらず、あたかも〇〇に奉仕するかのように学問の存在意義を問うのであれば、学問の意義の空洞化だろう(大学の専門学校化といってもいい)。

 ふたたび哲学を槍玉に戻すなら、最初の質問に対し、「哲学は何の役に立つのですか?」という「役に立つ」とは何かを問う(問える)ようになる。そして、「役に立つ(=有用性)」を重視する考え方が、いったいどこから来たのかを考えられるようになるのだ。

学問の有用性が求められる背景

 『はざまの哲学』の「有用性とスローサイエンス」の章では、マンハッタン計画にそのモデルを求めている。第二次世界大戦中、ドイツの原子爆弾開発に焦ったアメリカ政府が、科学者・技術者を総動員して原爆を開発したプロジェクトである。計画は成功し、製造された原子爆弾は日本に投下され、数十万人を殺すことになる。

 プロジェクトの成功は、そのままビッグサイエンスの始まりにつながる。アメリカ政府は「全米科学基金(NSF)」を設立し、科学者に研究開発プロジェクトを請け負わせる形で財政援助を行うのだが、これは、戦時の科学者動員を平時化するものであり、同時に莫大な予算を必要とする「ビッグ・サイエンス」の始まりでもあったという。

 この指摘は、システム開発の現場において、プロジェクトマネジメントを適用しているわたしにとって、非常に腑に落ちる。なぜなら、開発・運用のサイクルを長期計画で見た場合、最重要なのはリソースの平準化だからである。予算と時間は成果物の品質とバーターだが、人的リソースの集中には限度があり、予算・時間・品質のすべてに影響を与えるからだ。

 請け負う側としては、研究資金を調達し、人員を組織して期限までにプロジェクトを達成する必要がある。必然的に科学者に求められるのは、「研究者」であるよりは「管理者」としての役割になる。一人の優秀な科学者がコツコツと研究を積み重ねる時代から、巨額の予算と設備投資を行い、チームとして成果を上げる時代に変わったともいえる。

 政府であれ企業であれ、出資者に対しては短期的成果を出す必要があることから、このタイプの科学研究を「ファストサイエンス」と呼ぶという(ファーストフードになぞらえて)。

 予算配分の現場において、この、ビッグサイエンス、ファストサイエンスの考え方が主流となり、有用性や効率性を掲げる市場原理に還元することを是とする風潮が、「その学問は役に立つのか」という問いにつながる。学問は、もともとギリシャ語のスコレー(閑暇)から発したものであり、市場価値や効率性とは離れたものだったが、いまやこの考え方は少数派らしい。

「〇〇は役に立つのか」そのものを疑う

 このような、「〇〇は役に立つのか」という発想そのものを疑うことは難しい。なぜなら、その発想が生まれる風潮を疑い、いったん離れて見る必要があるからだ。そして、自分が「正しい」と信じていたことに揺さぶりをかけ、質問の前提へ問い直しを行う。

 野家啓一の論文集『はざまの哲学』では、まさにこの問い直しを、さまざまな「はざま」で行っている。科学と哲学のはざまでは既知から未知への語り直しを提案し、プラトニズムのニヒリズムのはざまでは"真理"の構成的側面を展開し、近代と脱近代のはざまではフッサールのオリエンタリズムを例に示す。その一つ一つがたいへん興味深い。

 たとえば、"真理"の構成的側面について。「真理である」「虚偽である」とは、それを語る行為の文脈に深くかかわっているという。真理・虚偽は人から独立に定まるものではなく、言語行為が遂行される文脈の関数だという。そして、その意味で真理の成立には行為遂行の文脈が「構成的に」関与しているというのだ。

 この主張、たいへんウィトゲンシュタインしてて面白いが、そのまま科学理論へ斬り込む。つまり、真理を超越的ないし外在的なものと前提とした上で、それへの漸近として科学の進歩を語ることは不可能だという。あたりまえだ、それぞれの理論の中の文脈でのみ、「真理である」「虚偽である」を語ることしかできないのだから。

 その例として、ユークリッド幾何学の公理系とリーマン幾何学の公理系の「はざま」では、「三角形の内角の和は二直角である」の真理・虚偽は異なる。同様のことは、相対性理論以前と以後の物理学における「ガリレイ変換」についても然りだという。

 このあたりは、クーンのパラダイム論で学んだことがあるが、本書ではこれに加えて、オースティンの言語行為論、ブラウワーの直観主義(構成的数学)のアプローチで、人間的な真理を明らかにしようとする。

数学の”真理”も変遷する

 『はざまの哲学』では科学理論の”真理”について揺さぶりをかけているが、同様のアプローチは、イアン・ハッキング『数学はなぜ哲学の問題になるのか』でも展開されている[書評]。

 ハッキングは、数学の歴史を振り返り、証明についての2つの見方を指摘する。省察と学習ののち、全てを理解し、一挙に把握できるような「デカルト的証明」と、全てのステップが積み重ねられ、一行一行機械的なやり方でチェックされるような「ライプニッツ的証明」である。

 それぞれの証明の歴史を詳らかにすることで、ある事実に行き当たる。すなわち、「証明」のような概念ですら、特定の時代や文化に限定されおり、ある特定の推論スタイルのもとで初めて意義を持ちうるということである。

 かつては「ユークリッド幾何学」が数学の最高基準だったし、現在は「証明」がそうかもしれない。だが、これらは偶然的な歴史的事実に他ならない。数学の最高基準は時代や文化によって変化するのであるならば、証明のない数学の可能性まで考えることができる。

正しさの相対性の罠

 『はざまの哲学』のキーワードとなっている「はざま」は、何かと何かの間である「狭間」「間」という意味である。何かの片方におり、そこが全てだと考えているうちは、もう片側に気づくことすらない。本書では、正しさの相対性の罠(お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな)に陥らないよう、それでいてその「はざま」でどのような力が働いているかを振り返る。

 メタ的に疑う目を養える一冊(だからといって、本書の目的はそれではないことにご注意をw)。

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猫好きは本好きである『文豪の猫』

 猫が好きな人は本が好きである。

 これ、わたしの友人を通じて知ってた。猫を飼っていたり、飼ってはいないけど猫に寄ってこられる人は、必ずと言っていいほど本が好きなのだ。文筆業に携わっている人も猫率が高いので、都市伝説というより定説の一種だと考えていた。

Bungounoneko

 ところがこれ、実証されていたらしい。米国のfacebookユーザを対象に、2016年に行われた調査が、本書で紹介されている。自分のペットの写真を公開している16万人のデータを集計した結果、猫を愛する人が本好きであることが極めて多いという結論が導き出されている。

 この定説が、作家にも当てはまるのを示した写真集がこれ。古今東西の作家と猫のツーショットを集めた、猫愛あふれる写真集。猫好き作家といえば定番の人から、意外なあの人まで楽しませてくれる。

 面白いのは、作家と猫の関係性。おそらく猫と一緒のところを撮るからというリクエストがあったのだろう。イメージとかけ離れた甘い顔の作家と、なんだかイヤそうにしている猫の写真が多い(表紙はトルーマン・カポーティ)。

 たとえば、猫好きの定番といえばマーク・トウェイン。可愛がっていた黒猫が失踪すると、新聞各紙に尋ね猫の広告を出したというし、「ネコを愛する人となら、わたしは友人として、同士として付き合える。堅苦しい紹介などいらない」という言葉も遺している。彼の猫好きを知ったファンが、適当な猫を連れて押しかけたというエピソードも面白い。

 意外な組み合わせといえば、チャールズ・ブコウスキーと猫。猫と一緒に相好を崩す姿が微笑ましく、またブコウスキーを見上げる猫の表情がまた可愛い。「猫をたくさん飼う人ほど長生きできる。100匹いれば10匹いるより10倍は長く生きられる。1000匹飼う人が出てきたら、永遠に生きるようになるかもしれない」なんて、どれだけ好きなんや。

 また、スティーヴン・キングは大の猫好きで、『ペット・セマタリー』の猫が車に轢かれるエピソードは、彼の飼っていた猫が元になっていることを知って驚く。他にも、村上春樹、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、レイ・ブラッドベリといった大御所と猫の姿を見ることができる。作中の猫と重ね合わせて見ると、一層楽しめる。

 猫好き作家の写真集だと『作家の猫』があるが、こちらは日本の作家が中心となる。ポイントは、作家「の」猫であること。つまり猫に焦点が当たっているのである。「犬は?」という人は、姉妹本の『作家の犬』と比べてニヤニヤするといいかも。猫好きは本好きかもしれないが、本好きは猫好きと犬好きと両方とも好きがいるから。


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