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『私の夢まで、会いに来てくれた』3.11亡き人とのそれから

 がんで死ぬのも悪くない。なぜなら、準備ができるから―――そう聞いたことがある。

 数週間から数ヶ月、治療がうまくいって寛解すれば何年でも、猶予の時間がある。その間に、会いたい人に会い、伝えたい言葉を伝え、お別れすることができる。パソコンのハードディスクの秘密のフォルダも消しておくことができるから。できる・できないは別として、逝くほうも、見送るほうも心構えする猶予はある。

 だけど、準備もなしにそうなった場合、どうなるか?

 このインタビュー集には、そんな家族がたくさん出てくる。朝、口喧嘩して、玄関を出る後ろ姿を見送ったのが最後だったとか、「ちょっと家を見てくる」と別れてそれきりとか、流れ込んでくる水に驚いた顔だけを覚えているとか。

 もしあのとき、「行くな」と止めていたなら。「ごめんね」が言えたら。そして、「ありがとう」が伝えられたなら。3.11の遺族が見る夢は、そうした言葉に満ちている。

 本書は、東北学院大学における、震災の記録プロジェクトで生まれた一冊である。東日本大震災から7年、被災地での聞き取り調査を続けてきた中で、「被災者遺族が見る亡き人の夢」をテーマに絞ったレポートだ。

 そこには、たくさんの声がある。納得できるはずもない。人災の面に巻き込まれた。後悔しかない。なぜ生きているのだろう。あんなことを言わなければよかった。迎えに行けばよかった。代わりに自分が。怖い。辛い。あいたい。

 そうした思いと、生に、直に接するのが夢になる。夢のなかで、もう一度あって、言葉をかわし、触れて、抱きしめることで、思いを体験にする。そして、体験を語ることで、死者と向き合う。

 遺された人たちに、「死者との向き合い方」として、二つの相反する気持ちが現れる。ひとつは、「死者から解放されて楽になりたい」という感情と、そしてもうひとつは、「死者を置き去りにして、自分だけが楽になってはいけない」である。

 そうした感情を、うまく扱うことができる人もいる。いっぽうで、両方の感情に挟まれたり、片方に囚われたままの人もいる。そうした人たちにとって、夢を語るということで、いったん自分の外に置くことができる。その解釈はさておき、「夢を見た」ということは確かなもとして残すことはできる。

 本書は、その「確かなもの」になる。

 そして、やっぱり文字がいい。テレビで震災特集をするのを見ると、苦く辛くなる(なぜBGMが必要なのだろう?)。当時を振り返る文章だけでも強い喚起力がある。それでも読み通せたのは、語りの中に、わたしの背筋を伸ばす言葉があるから。ひとつだけ引いておくが、こんな言葉が本書にはたくさんある。

「うちの両親も含めて、津波にのまれた人たちって、先のことを考える間もなかったんじゃないのかな。みんな、生きたい、生きたいっていう願いしかなかったと思う。生きている私たちは失敗しても、やり直すチャンスがあるし、『どうしようかなぁ』って考える時間もあるじゃない。亡くなった人たちは五分、ううん、10秒あったら生き延びられたかもしれない。その時間が自分にあるっていうだけで幸せなことなんじゃないかな」

 わたしは、死ぬまでは生きたい。これは、あたりまえのことかもしれない。だが、どう生きるかは、ここからもらった思いで決めたい、そう痛感させる一冊。

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『ウィトゲンシュタインの講義 数学の基礎篇』はスゴ本

 ウィトゲンシュタインの本のなかで、これが最も分かりやすい&面白い(当社比)。

 数学という存在を、人の知性の産物である「発明」と捉える人がいる。いっぽうで、人が見出した世界の本質である「発見」と見なす人がいる。この議論は、[『神は数学者か』はスゴ本]にて語ったが、いずれの場合にせよ、数学の限界が(仮に)あるとしたならば、それは人の理性の限界であることは了解していただけるだろう。なぜなら、「発明」であれ「発見」であれ、主語が人である限り、その限界も人に属するからである。

 ウィトゲンシュタインの講義は、数学の限界を見極める一方で、数学の底(もともとの了解事項)を明らかにしてくれる。

 数学の底? そんなのユークリッド幾何学やヒルベルトの基礎付けを見るまでもなく、「定義」と「形式」でしょうに(あるいはそこから定義づけられる公理系といってもいい)。本書を手にするまでは、そう考えていた。だが、「発明」であれ「発見」であれ、数学を定義づける前に囲まれている言葉について、ウィトゲンシュタインは揺さぶりをかけてくる。

 本書は、ウィトゲンシュタインが1939年にケンブリッジ大学で行った講義を元にしている。「数学の基礎」という名前の講義で、全部で31講ある。この講義を受けた学生のノートが残っており、中でも最も信頼できる4人のノートを突合せ、再現したのが本書だ。

 ウィトゲンシュタインの講義スタイルは、自分が今まさに考えていることを学生に投げかけ、その反響に応じて思考を展開させてゆく。「1、2、3…」と数えるとは何か。一対一に対応するとはどういうことか。矛盾律とは何かなど、彼の試行錯誤の現場を体感することができる。優秀な学生だけでなく、イマイチな学生からの質問に対する説明も遺されているため、わたしのような「分かりの悪い」生徒でも理解できて有り難い。

 本書をスゴ本にしているのは、受講生としてアラン・チューリングが出席し、積極的に発言していることだ。当時すでに歴史的業績をあげつつあったチューリングの存在感は大きく、ウィトゲンシュタインも意識している(次回はチューリングが欠席予定だから講義内容は振り返りとする、なんてコメントもある)。特に、矛盾律についてウィトゲンシュタインとチューリングが丁々発止する知的格闘はスリリングで、議論ポイントが明確になるだけでなく、手に汗にぎる臨場感をもたらしている。

 ウィトゲンシュタイン哲学の根幹である「意味を問うな用法を問え」は、この講義でしつこく出てくる。どんなに定義を厳密にしても、言葉の「意味」に囚われてしまうと、悪しき影響が出てくることになる。だから、「用法」、すなわち使われる現場に目を向けよというのだ。

 たとえば、虚数にまつわる言説が紹介される。虚数という概念が登場したとき、「虚」という表現は困惑や反発を引き起こした。「虚である数」とはどのようなものか、不信感ゆえに受け入れられない人もいたらしい。しかし、不信や困惑は、虚数の計算が実際にしていることが理解され、特に物理学へ応用されることによって、解消されていったという。

 つまりこうだ。虚数の記号「i」は「空想の」あるいは「現実には存在しない」を意味する「imaginary」から取られているが、「空想の」という意味に囚われている限り、けっして虚数を理解することはできない。自乗して-1になるという定義や、それが複素数という形で用いられる量子力学や電磁気学の現場で、虚数の意味が理解される。記号としての言葉にこだわりるあまり、実際の現場で用いられる仕方を省みないことに、ウィトゲンシュタインは警告を発しているのである。

 「数学の基礎」と銘打っているものの、数学の問題はほとんど出てこないのでご安心を。自然数の大きさを示すアレフ・ゼロぐらいで、一番むずかしい問題は、「126×631」という掛け算くらいである。講義に沿って、この問題がいかに難しいかを考えると、とてつもなく面倒くさいか、(数学に)説得されたほうがマシと思える。

 数学が人の扱う存在である限り、定義であれ証明であれ、数学が用いられる現場で「意味」が伝えられる。数学に限界や底があるとするならば、これを用いる現場(人の想像が及ぶところ)になる。なかでも「人」にとって興味深い(便利な・都合の良い)と感じられる方向、すなわち科学技術と親和性の高い方面に向けて概念が形成されてゆくだろう―――そう考えさせられるスゴ本。

 これ、アタリマエのことなんだけれど、裏返しでいうならば、「人でない存在にとっての数学」から観察すると、世界はもっと豊饒に見えるという確信にもつながる。

 ここ三十世紀くらい人類は(今でいう)科学技術と親和性の高い天文や物理から数学を探すことをしてきたが、生物や現象そのものから数学を抽出できたら、とてつもないブレイクスルーになるだろう。ほらあれだ、「フィボナッチ数列を自然界に探す」の逆をやるわけ。その萌芽がカオス理論や統計だろうが、あと三十世紀ぐらいかかるだろうね。

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