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もっとも未熟な科学『不確かな医学』

 『病の皇帝「がん」に挑む』のシッダールタ・ムカジーが、現代医療に潜むバイアスを明らかにし、これからのモデルを提案する。

 コアとなっているのはTEDのこの講演だ。ピル(薬)ではなくセル(細胞)による治療を謳っている。抗生物質に代表される、体の外で作成された「薬」で病(の原因)を殺すモデルが、現代の医学で支配的となり、一種の歪みをもたらしていることを示す。その一方で、体内で生成された「細胞」を育てることで免疫系を快復するパーソナル医療モデルを提案する。

 本書ではムカジー自身の医師としての遍歴を振り返つつ、現代の医療にとって重要な「医学の法則」を明らかにする。臨床医学がどこまで科学なのかという疑問に対する、一つの答えとなっている。

 著者は言う、科学技術の革新による恩恵を、医学は最も受けてきた。医療処置そのものが病態生理学という原理に基づく科学だともいえるだろう。しかし、同時に先進医療が生み出すおびただしい治験データや薬剤、検査機器が、より本質的な問題を覆い隠しているのではないかと指摘する。

 それは、情報知と臨床知のはざまにあり、本書では「医学の法則」として「事前知識」「特異な症例」「バイアス」の3つのキーワードで明らかにする。

 まず「事前知識」について。著者は、ベイズ推定の事例を挙げながら、事前知識の重要性を説く。そして、事前知識に支えられた鋭い直観は、信頼性の低い検査にまさるとまで断言する。

 たとえば、エイズの診断に使われるHIV検査における、偽陽性や偽陰性の事例を挙げる。偽陽性とは、異常がないにもかかわらず、検査で陽性となってしまう判定であり、偽陰性は、異常があるにもかかわらず陰性となってしまう判定のことを指す。

 そして、家族歴や危険因子、遺伝的特徴、経年変化といった事前知識なしにこうした検査をしても偽陽性や偽陰性により信頼性が低く、使いものにならぬという。完全な情報をもとに完璧な判断を下すのは簡単だが、不完全な情報で完璧な判断が求められることが医学になる。そのため、検査技術が進展すればするほど、事前知識によるスクリーニングが必須だというのだ。

 次に「特異な症例」について。科学の世界では、「1回きりの事例」は嫌われる。なぜなら、「1回きりの事例」とは、要するに主観的な体験に基づく結果だからである。これまでの医学も同様で、「例外的に効き目のある患者」は無視されたり、異常値として捨てられる傾向にあった。

 しかし、これまでとは逆の方法が有効だという。つまり、「例外的に効き目のある患者」には、遺伝子や行動、や危険因子や環境など、異なる要因の組み合わせによるのではないかという発想だ。膨大な労力をかけて多くの人に「なぜ薬が効かないのか」を調査するのではなく、特定の人に「なぜ薬が効くのか」を包括的に調べるのである。

 この方法が奏功した事例として、膀胱がんに対する新薬エベロリムスを挙げる。ほとんど効果がない45人ではなく、著しく効いた1人の遺伝子全ての塩基配列を解析したところ、TSC1遺伝子の変異が解明される。その結果、特定の薬が効く遺伝子のメカニズムを解明する研究が生まれたという。著者はそこから、発想を転換する必要性を説く。すなわち、投薬や外科手術を、治療行為としてではなく、異常値からロジックを見つけるための調査として捉えろと提案するのだ。

 最後に、「バイアス」について。どんなに完全な医療にも人間のバイアスはついてまわることを忘れるなという。科学技術の進展により、大量のデータを収集・蓄積させ、AIが自ら学習できるようになったとしても、最終的にそのデータを解釈し、使い道を決めるのは人になる。そのため、人である限り、偏見や思い込みによるバイアスを逃れることはできない。そして、医学で最も美しく危険なバイアスとして、「私たちの施す医療が効いてほしい」という願望があるという。

 その悲劇的な例として、根治的乳房切除を挙げる。乳がんに対し、腫瘍だけではなく、乳房、腕の筋肉、胸の奥のリンパ節までも「浄化」すべく外科手術を施していた時代があった。根治的(ラディカル)な手術は充分な検証も反論もなされないまま、理論は法則になり、外科医にとっての教義のようなものになったという。切れば切るほど、「治療」したこととなるというバイアスである。

 1980年から2000年にかけて、無作為比較試験が実施され、根治手術の有効性が否定されることになる。無作為比較試験とは、治療群と対照群にランダムに割り当て、治療の有効性を比較する試験で、乳房を完全に切除するグループと、乳房を温存するグループに分けられた。そして転移によるがん再発の可能性も含め、根治手術には効果がなかったことが実証される。

 著者はさらに踏み込む。「私たちの施す医療が効いてほしい」というバイアスは、ときに患者自身をも変えてしまう。観測行為そのものが粒子に影響を及ぼしてしまうハイゼンベルクの原理を引きながら、無作為比較試験も、一般化できない罠があるという。

 つまりこうだ。糖尿病の治療として運動の効果を測る試験があるとする。これに参加する患者は、特定の指示に従い、医療制度が利用可能な特定の地域に住み、主体的に参加することを決められる人である。すなわち、その患者は、無作為化試験のグループに振り分けられる「前」に、特定の人種や民族、社会・経済階級に属しているといえる。

 したがって、試験から何らかの知見が得られても、実際にはそのグループの範囲内での効果を検証しただけになる。実験が何のミスなく行われたとしても、その結果を一般化できることが保証されるわけではないというのである。

 科学技術の発達による医療のオートメーション化や、遺伝子情報を始めとする身体機能の全てをスキャニングする未来は、確かに予想できる。しかし、出てきたデータをどのように扱うかの判断は、最終的には人に任されている。

 そして、人が扱う限り、「事前知識」「特異な症例」「バイアス」という制約はついてまわる。どんなに科学が発達しようとも、もっとも未熟な科学である医学は、不確かな情報をもとに、確かな判断を求められる姿勢は変わらないというのである。

 おそらく、わたしが医療に深くかかわるとするならば、それは、がんになったときだろう。医療を行う立場がどのように科学に依拠しているかを念頭におきながら、心構えだけはしておこう。そして、わたし自身がこうしたバイアスに陥らないよう気を付けないと。


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