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本に埋もれて本と生きる『本の虫の本』

 なりたくて本好きになったのでないから、止めたくて止められるものでもない。

Honnnomusi

 活字中毒という便利な言葉があるが、スマホに魅入るのとは違うので、本中毒なのかもしれぬ。本書によると、中毒にはレベルがあるらしい。

本好きのレベル(あるいは深刻度)

  1. 本好き 50冊ぐらい家にある
  2. 読書好き 100~200冊
  3. 書豚(しょとん) 千冊くらい(家の階段にも積まれている)
  4. 書狼(しょろう) 本を並べるためだけに家を買う
  5. 書痴(しょち) 世の中に5冊だけの本を全部買い占めて、4冊を破って捨てる

 よかった、まだ「読書好き」で済んでる。「階段に積んでる」「床が抜けた」という話も聞くが、本のために部屋を借りたり家を買うようになれば、書物狂といっていい。だが、それは読書の本というよりも、むしろ「資料」であり「在庫」なのかもしれぬ。

 これは、本が好きで好きでたまらない「本の虫」たちのエッセイ集。新刊書店、古本屋、装幀、ジャーナリズム、イラストレーションなど、活動領域は違ってても、本を食べ本で食べ本に埋もれて生きる様子を観察することができる。虫たちのラインナップはこんな感じ。

林 哲夫
能邨 陽子
荻原 魚雷
田中 美穂
岡崎 武志
赤井 稚佳

本好きあるある

 この本の虫たちが、本好きあるある話から、意外なネタ、調べたくなる薀蓄、お役立ちTipsなど、本の世界にまつわる様々なテーマを、自在に取り上げ、縦横無尽に紹介しまくる。どれも独立しており、どこから始めても、どこを摘まんでも面白く読めるような構成になっている。

 結構な分量だが、一気に読むのはもったいない。枕元かトイレに置いて、一度にふたつみっつが丁度いいかも。小口に一行、気になる言葉が記されており、さらにその飛び先の頁数が書いてある。ハイパーリンクを物理的な書物で実装しており面白い。こんなふうに。

  • 日々の生活の中で、背表紙が目に入る。それも読書の一部である
  • 聖書には本を食べるという話が二度出ています
  • しかし、本がある。どんなときにも読書というものがある。本好きにはそれを救いとすることができます
  • 「やる気が出るまで待つな」やる気が出るまで待っていたら仕事は終わらない
  • 読書量よりも、再読に値する本がどれだけあるか

 いくつか読むと、記事のつながり具合から想像が広がって楽しい。さらに、リアル書店に行きたくなること請け合う。

本屋に行くとトイレに行きたくなる現象

 たとえば、本屋に行くとトイレに行きたくなる現象を[青木まりこ現象]と呼ぶのは知っていた。書物に含まれる化学物質が匂いとなり、もよおすトリガーとなる説も耳にしたことがある。

 だが、その隣の記事は、匂いと結び付けたネタになっている。できたての本の匂いは「ゆまり」で、古本は「できたてのビスケット」のような香りなんだって。「ゆまり=おしっこ」に喩えたのは装幀家の間村俊一で、「ビスケット」みたいといったのはホルヘ・ルイス・ボルヘスとのこと。

 そこからロンドン大学の「古本の匂い」の研究が紹介されている。書籍に含まれているリグニンが時間と共に分解されてVOC(揮発性有機化合物)が放出され、その中のヴァニリンがチョコレート、ココア、アーモンドやヴァニラに似た芳香の原因であると考えられているんだって。

 さらに前小口から、厠上読書として岩波新書の『折々のうた』が紹介されている。古来から熟考に最適な場所として「馬上・枕上・厠上」があるといい、これを現代の読書にも置き換えると、「電車内、枕元、トイレ」になる。それぞれ滞在時間に適した長さが求められるが、トイレには『折々のうた』がちょうど良いそうな。

自分が死んだ後の蔵書を考える

 すこし寂しい話も出てくる。

 本人が「本好き」といっても、家族がそうでない場合がある。古本屋を営んでいると、ご年配の方が、けっこうな蔵書を一気に手放すことがあるという。訊いてみると、「家族は全く本に興味が無いから、自分にもしものことがあったらゴミにされてしまう。ならばいっそ今のうちに」……という話らしい。twitterで見かけた、仮面ライダーグッズを処分した男の話を思い出す。

もし自分が死んだらと考えたとき、
孤独死した男の仮面ライダーだけで埋もれた部屋だけが残り、
一つ一つ思い入れのある仮面ライダー達が、
無造作にゴミ袋に入れられていくのが耐えられなかった
それならば、自分は一切、何一つ残さず、一人で完結したい

 わたし自身、蔵書にこだわらない(こだわ「れ」ない)理由の一つがこれだ。すごい蔵書を誇る人がいるが、うらやましいものの、わたしがそうなりたいとはあまり思わない。準備する時間があるのか、突発的なのかは分からないが、わたしが不在となったとき、処分に困るほどの蔵書を残しておくのはやめておこう、という気持ちがどこかにある。

 もともと、わたしは、マイ本棚というものを持っていない。

 その代わり、嫁さんの書棚、子どもの学習机の棚、リビングの片隅などに間借りして、「わたしの本」を置かせてもらっているようなもの。もちろん「これ読んでもらうといいなー」という下心もあるが、一方通行の期待にすぎぬ。わたしが不在となった後も、わたしが選んだ本は、その片隅に残り続けることだろう。

やる気が出るまで待っていたら仕事は終わらない

 すごく刺さる言葉もある。これ→「やる気が出るまで待っていたら仕事は終わらない」。ヘイズ・ジェイコブズ『ノンフィクションの書き方』に出てくるという。わたしの経験に照らしても「ほんそれ」なのだが、かくいうわたし自身が実践し切れていないので、耳に痛い。

 すなわち、「書き続ける」ためには、修練を積まなければならないという。ヤル気を待っていたら、その日が時間切れとなってしまう。ヤル気がなくても手を動かしているうち、だんだん調子が出てくるというのは真だ。

 「書く」という行為を、規則的な習慣にしてしまわなければならない。毎日、同じ時刻に書き始め、同じ時刻に終えるという、決められた日課をこなすことが、「書き続ける」ことなのだ。たしか、レイモンド・チャンドラーも似たようなことを言ってたはず。

  • 毎日、決まった時間に、タイプライターの前に座る
  • 座っているあいだ、書いても書かなくてもよい
  • ただし、他のこと(本を読んだりとか)はしてはいけない

 ジェイコブズはさらに、「残業」についても語る。ライターは残業すべきか? と問われれば、「すべきでない」という。気分がノッて、どんどん「書ける」ときもあるが、その分の消耗も激しいものになる。結果、翌日は書くのが嫌になる。だから、決めた時間になったら終えるべきなんだって。

「読書家」の燃え尽き症候群

 ある種のプロに見受けられるが、いわゆる燃えつき症候群の弱音もきける。

 長年、本を読むのを生業としていると、「壁」にぶつかるという。読んでも読んでも収穫らしいものに行き着かず、自分が何を知りたいのか、そもそもなぜこれ読んでいるのか分からなくなり、惰性で読み続ける毎日になる。なまじ目が肥えているから、ちょっとやそっとでは満足しきれなくなるのだ。

 蒐集癖もそう。古本屋をハシゴしてまわった経験を引きずっており、見つけたときに買わないと次にいつ買えるか分からないという強迫観念に追われる。ところがある日、ネットを検索したら、探究書の大半は、お金さえあれば、ほぼ買えることが判明する。いままでの苦労は、一体なんだったのか、というやつ。

 前者のお悩みは、いわゆる「ジャンル読み」のマンネリズム陥らないことが肝心だ。好きの方向を深堀りするだけでなく、横に拡張したり、複数のジャンルを開拓することで脱出できるはず。「生業としての読書」と「楽しみのための読書」を割り切り、使い分けることだってできるだろう。

 後者は「仕入れ」と「読書」をごっちゃにしたから生じている悩みだ。本を「集める」のが目的なら、それは資金の続く限りの趣味か、もしくは仕事としての「仕入れ」でしかない。いっぽう、「読むためなのだ」と開き直るのなら、図書館も視野に入れるといいかも。

「おすすめ」を紹介するのは難しい

 「本好きなんでしょ? お薦めの本を教えてよ」というのが、いちばん難しい。その人の好みも、ジャンルも、ひいきの作家も聞かないで、いきなり答えられるわけでもない。

 ところが、万人ウケを狙える小説があるという。聞いてみたらああなるほどなのだが、これもまた、話者の周囲に集まる人というバイアスを通じた「万人」やね。あまり本を読まない人向けとして、男に薦めるなら吉村昭、女に薦めるならアン・タイラーが無難だという。値ごろ手ごろで妥当なのだが、「これ読んで本が好きになれないならお手上げ」は言い過ぎかも。「お薦め教えて」が社交辞令でないのなら、下の句で好きな映画、設定、昔読んだ本を教えてもらえるから。ノーヒントでお薦め教えろというのなら、後は察するべし。

 本を読みなれていない人にお薦めする入口として、面白い提案を教えてもらった。「場所」である。たとえば小説なら、その人にとっての「出身地」「青少年期を過ごした土地」「通った学校の近辺」「現在住んでいる町」など、馴染みの有る場所を挙げてもらい、そこを舞台にした作品を読んでみる、というアプローチである。

 この、土地と小説を結び付けて読むという発想が面白い。たとえば「東京」なら、[Wikipedia東京を舞台にした作品]でたくさん出てくる。いわゆるご当地小説やね。

 こんな感じで、本にまつわる苦労話、小ネタ、新しい斬り口などが詰め込まれている。同じようなテーマでも、書き手が違うと別の視点で新鮮に読める。紹介される本は400冊を超え、巻末の索引も充実しているため、本の本のブックガイドとして読むのも吉。ちびちびと読むのが楽しい。

 さっき、寝しなとかトイレに読むといいと書いたが、これ、読書のあいまのオヤツのように読むのもいい。本を読んでて疲れたら、気分転換にこれを読むのだ。

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良い死、悪い死、普通の死 『現代の死に方』

 死に方に良し悪しはあるのか? 本書の結論は「ある」になる。

 上々の人生だったのに最悪の死に方をする人もいるし、悲惨な人生だったが最期は安らかだったという人もいる。総合病院の医者である著者は、さまざまな死を扱っているうちに、ある結論に達する。それは、「死に方を助言することは、生き方を助言するくらい難しい」である。

Howtodie

 それにもかかわらず、本書を著した。理由は分かる、「悪い死に方」が多すぎるのだ。本書を手にしているあいだ、「あなたは、自分の死に方について、あまりにも楽観的すぎる考えを持っているのではないか?」と問われているように感じた。どういう風に死にたいかと、どういう風に死ねるかは、全く違う問題なのだ

普通の死

 「普通の死」と言われて思い浮かぶのは何だろう。

 事故死や殺害されるようなものではなく、老衰か、病気か。苦痛は無いほうがいいし、できれば自宅で、家族に囲まれ、友人に別れを告げて、惜しまれながら、穏やかに最期を迎える―――だが、現実は違うという。それは「理想的な死」であると考えたほうがいい。

 現代医学は、死を表層から遠ざけようとし、死の好ましくない部分の隠蔽に成功したが、まさにそのことが現代人にとっての死を空想じみたものにしているという。終末期にどのような医療を受けるか(または受けないか)を記したリビング・ウィルがあればと考えていたが、著者は先回りしてこう述べる。

事前指示書と合法の自殺幇助によって死ぬ時期と方法を自分で決められると思い込んでいると、結局は自滅することを読者に分かってもらいたい

現実の死

 では現実の死とは何か。

 長い慢性病の末に死ぬかもしれないし、慢性病は知力と意思疎通の力を奪うかもしれない。普段どおり動くこと(食事、着替え、トイレ)にも介助が必要な状態となる。自宅の可能性は少なく、ホスピスはさらに少ない。処置室などで知らない人間に囲まれるか、長い衰弱の後に死は突然訪れる。鎮静剤を与えられて苦痛はなく、意識もなく、家族や友人に別れを告げる機会はないかもしれない。食べる、飲むという楽しみは、遠い記憶となっている。

 「良い死」を扱った本として、緩和ケア医が書いた「死ぬときに後悔すること」といった本は両断している。あれは、「一括りされた」死だという。あるいは、キューブラー・ロスの死の五段階(否認、怒り、取引、抑うつ、受容)が有名だが、五段階の反応を見せた人がいたことはないとバッサリ斬る。

 「安楽死」や「尊厳死」はアテにならぬという。死にかかっている人はあまりに疲れ、消耗しており、「尊厳死」するほど「崇高」ではないという。生存本能は極めて強いため、元気なときは生きる価値がないと思った人生にしがみつくという可能性もある。「尊厳死」は、米国だと安楽死の婉曲表現になるし、英国だと自殺幇助の議論に出てくる。医者は、「良い死」の処方箋を書くとは限らないのだから。

悪い死

 分かりやすい「悪い死」は、トルストイが書いている。『イワン・イリイチの死』だ。

 イワン・イリイチは40代で、虚栄心が強く、裁判官として出世し、資産を蓄えて豊な生活を送ってきた。腹部に痛みを覚えて医者に見てもらうが、いろいろ診断してもらった結果、助からないことが判明する。

 問題はここからだ。家族や医者は、この事実を隠そうとする。全員が全員、それはただの病気で、死ぬようなことはなく、医者の言うとおりにしていれば必ずよくなると嘘をつくのだ。しかし痛みは激しくなり、どうすることもできない。死が待っていることは分かっているのに、みな嘘を吐き通そうとし、イワン・イリイチ自身にも「助かる」という嘘を強要する。

 嘘をつくのは「希望を失わせないため」善意からで、死が近い人間は芝居じみた虚偽の世界に住んでいる。その結果、「希望を失わせない」アリバイづくりのために無益な医療が押し付けられ、しなくてもいい苦痛を味わい、惨めな思いをしながら死んでゆく。

死の医療化

 意識が混濁した本人に代わって、「手を尽くしてください」と訴える家族のプレッシャーに押され、濃厚医療を施し、人生の最後の最後になって、無理やり生かされている状態である。まさに、[苦しまないと、死ねない国]の話である。

 著者はこれを、「死の医療化」と呼ぶ。人は生きて、死ぬ。これはあたりまえのことなのに、死に近くなればなるほど、本来は医療問題ではなかったことが、医療として扱われ、治療の対象となってくる。

 たとえば本書では、「胃ろう」が問題として提示される。高齢者にひとくちひとくち食べさせるという、手間と時間とお金(労働力)のかかる方法よりも、胃までチューブを通し、直接栄養分を流し込む方が、ずっと楽だ。しかし、著者は終末期患者への胃ろうに反対を唱える。

胃ろうは衰弱した終末期の高齢者の食事問題の解決に魅力的に見えるが、誤嚥性肺炎、下痢、チューブからの漏れ、感染症などの慢性的問題のほかにも、方法そのものの危険が大きい。さらに重要な点は、食べるという人間のごく普通の行為を医療介入に任せ、その単純な楽しみを患者から奪ってしまうことだ。

 そして、胃ろうで栄養を与えるのは、患者のためというよりも、むしろ家族と医者の感情的&経済的な問題を解決するためだという結論をぶっちゃける。医者の仕事は病気の治療なのに、社会から死を隠した結果、人生の扱いにくく解決不能なごたごたが押し付けられているという。著者はアイルランドの医者だが、同じ微妙な事情は日本でも同じだろう。

スーザン・ソンタグの「手におえない死」

 わたしにとって本書の最大の収穫は、スーザン・ソンタグの癌のエピソードだ。『隠喩としての病い』を通じて、わたしが受け取ってきたことは、事実のある面だけを見ているに過ぎないことが分かった。

 『隠喩としての病い』の中でソンタグは、病をとりまくテクストを読み解きながら、そこにひそむ権力とイデオロギー装置を解体する。病気は悪行への罰なりという先入観や、内的なものを劇化するための自己表現としての「病」を、ソンタグは次々と暴いてゆく。そこには実際の病ではなく、語り手から意味を付与され、喧伝されるための「隠喩としての病い」が白日の下にさらされる。

 そして、人体におきる「出来事としての病い」は、ひとまず医学にまかせるとして、それと重なり合って苦しめる病の隠喩、すなわち言葉の暴力から解放してくれる。「がんは、ひとつの病気だ―――とても重大な病気ではあるにしても、ひとつの病気にすぎないのだ―――呪いでも罰でもない、そこに「意味」などないのだ」というメッセージが、くりかえし伝わってくる。癌に対する態度として、そこに「闘い」などの意味をつけないで、「ひとまず医学にまかせる」ことが素晴らしいと思っていた。

 しかし、『現代の死に方』を読むと、ソンタグと癌の関係は、わたしが考えていたこととかなり違うことが分かった。

 ソンタグは1970年代、1990年代と二度癌になり、大手術と先進の免疫療法を処方してもらい、癌を克服した結果、科学的医療に揺るぎない信頼を抱いたという。そのとき彼女は、「死ぬかもしれないとき、医者のあらゆる予見を無視し、大きな困難や危険をものともせずに生きていれば、そこに何らかの意味を付け加えないではいられません」と述べている。著者は、この頃の彼女の言動から、癌とは「闘う」もので、生は勝ち取るものだというメッセージを読み取る。

 最後は骨髄癌になった。彼女の息子によると、最悪の知らせを理解したとき、ソンタグは悲鳴を上げたという。そして「医者のあらゆる予見を無視し」、幹細胞の移植、放射線療法、化学療法を施してもらう。71歳の高齢者に対する治療法としては、適切なものでなかったが、医療保険の支払いが拒否され、前払いで25万ドルが振り込まれた結果に実現した「治療」なのだ。

 ソンタグ本人は死を見つめることさえも拒絶し、最後の最後まで医者をシャーマンとして信頼しており、著者に言わせると「手におえない死」だったという。そこに「何らかの意味を付け加えないでいられ」たかは分からないが、死を前にしては、名声も、財産も、知性も、品位も、何も役に立たないことは痛いほど分かる。

哲学で「良い死」を学べるか

 著者は、『哲学者190人の死にかた』(サイモン・クリッチリー)を参考にしつつ、さまざまな哲学者や思想家の死を挙げてゆく。

 セネカ、ゲーテ、モーム、トルストイは、死と終末に深い洞察がありながら、一般大衆のような死を迎えたという。一方で、ヒューム、ウィトゲンシュタインの死に際のような美徳の組み合わせはほとんど無かったという。そして結論として、「良い死」を遂げる哲学者もいれば、そうでない哲学者もいるから、哲学は「良い死」と関係ないという。

 さらに、「哲学するとは、死にかたを学ぶこと」をエセーに掲げたモンテーニュの最期を考察する。彼は死を恐れないことについて多くの名言を残したが、人生の最後において、ベッドに横たわり、何日も苦しんで死んでいった。それは、彼が避けたかった死は、哲学的考察では防げなかったことであり、「死について参考になることは言っていない」と断ずる。

 これはおかしい。哲学者の人選に恣意性があり、著者の底意地の悪さを感じる。ソクラテスの最期が外されている時点で、推して知るべしだろう。さらに、最後の数日間の苦しみだけに焦点を合わせ、それまでの省察を断ずるのはフェアじゃなかろう。

 「哲学するとは、死にかたを学ぶこと」は、死ぬまでの数日間のふるまいについてだけはない。エセーでは、死を恐れることで、ちゃんと生きないことが問題だと言っているのに。

 たとえば、以下の一節は、死を恐れるあまり、死につながるあらゆる可能性を心配するあまり、ひきこもりの人生を選ぶこともある。死に対する不安によって、「いま」から実際に死ぬまでの間を臆病に過ごすことは、もったいないことだよ、と理解している。

「実際、あれこれの危険や危難は、われわれを死という最期に、ほとんど近づけはしないのである」(モンテーニュ エセー 第19章 哲学することとは、死に方を学ぶこと)

 哲学は、死ぬまでの数日間のためにだけるのではなく、学び始めたときから死ぬまでの全ての生のためにある、とわたしは信じる。死を学ぶことは、生を学ぶことなのだから。

医者がすすめる良い死に方

 最近のAmazonのパワーワードとして、「医者がすすめる」がある。「医者が教える」でもいい。下の句は「健康法」とか「食事法」とか「ダイエット」など色々あり。そんなに医者を頼りにするなら、医者がすすめる死に方があってもいい。

 では、医者がすすめる「良い死」とは何か?

 そして、非常に興味深いことに、本書で「良い死」として医者がすすめる死に方は、当の医者が患者に施している方法と、全く異なる。すなわち、医者は、自分に対してやってほしくない医療を、患者に対して行っているのである。

 医者の死に方は、ジョン・ホプキンス大学が2003年に実施した調査結果を見れば瞭然である。医者に対し、自分自身の終末医療に関し、なにを望むかについて調査したのである。まとめるとこうなる。

  • ほぼ全員が事前指示書を所持
  • 大多数の医者は、心肺蘇生、透析、大手術、胃ろうを希望しなかった
  • 全員が鎮痛薬、麻酔薬を希望

 カンサス州の病理学者エド・フリードランダーは、堂々と胸に「心肺蘇生はダメ」と入れ墨を入れいてるという。本書の著者は、医者として、積極的な安楽死には(個人的に惹かれつつも)反対を唱えているが、濃厚医療でムリヤリ「生かす」ことにも反対している。

生き方としての死に方

 「長く生きる」のが目的ではない。「よく生きる」のが目的なのだ。そして死は、よく生きる生き方そのものなのであり、生き方の延長にある死に方を選べるようにありたい(選べるうちに、選びたい)。

 『現代の死に方』を読みながら、2018年1月21日に、自裁死を実行した西部邁のことを考える。彼の「生き方としての死に方が、とくに家族とのかかわりをめぐって、正面から検討されはじめている」は、これから何度も考えることになるだろう。そして、健全で明朗で、平常心で自死した須原一秀のことも考えることになるだろう。

2018/12/28追記

note に重要な記事が上がっていたので、そこから引用する。引用元は「死ぬかもしれないから、言っておきたいこと。」、書いた人は幡野広志さんで、写真家で元狩猟家で、がん患者である。「生きる権利を、生きる義務にされてしまうと病気になったとき果たせないので、苦しくなる」というメッセージは、重要で、沢山の人に伝えたい。

患者が望む最後と、家族が望む最後は違う。
患者は苦しみたくないが、家族は悲しみたくないのだ、意見が一致するわけない。

そして医師が尊重するのは、家族が望む最後なのだ。
野次に負けた妻が人工呼吸器を使って延命してほしいといったり、心臓マッサージを希望すれば、医師はやる。なぜ医師がそれをやるかというと、それが医師の望む最後だからだ。

そして鎮静死、セデーションは医師の裁量で行うものなので患者が希望しようが関係ない。

患者の意見が尊重されない仕組みになっている、それが日本の医療の現実だ。
<中略>
生きる権利は誰にでもあり、保証されている。
死ぬ権利を持つと、びっくりするほど生きやすくなる。
生きる権利を、生きる義務にされてしまうと病気になったとき果たせないので、苦しくなるのだ。

そして死ぬことは悪いことではない。
死ぬことを悪いこととしていたら、人類全員バッドエンドだ。
自分の望む死をハッピーエンドにして、目指しましょうよ。

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