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この本がスゴい!2018

まとめ

 すごく長くなったので、まとめる。まず、今年のベスト。

2018best

 この本がスゴい!2018のラインナップ。

ランドスケープと夏の定理舞踏会へ向かう三人の農夫寿司 虚空編
ブッチャーズ・クロッシング槿平家物語
知の果てへの旅愛とか正義とか人間の解剖はサルの解剖のための鍵である
勘違い力文学問題(F+f)+物語論 基礎と応用
ウィトゲンシュタインの講義 数学の基礎篇数学はなぜ哲学の問題になるのかシルバー民主主義


この本がスゴい!2018の一覧は以下の通り。

◆フィクション
『ランドスケープと夏の定理』高島雄哉(東京創元社)
『舞踏会へ向かう三人の農夫』リチャード・パワーズ(河出書房新社)
『寿司 虚空編』小林銅蟲(三才ブックス)
『直線』ディック・フランシス(ハヤカワ文庫)
『ブッチャーズ・クロッシング』ジョン・ウィリアムズ(作品社)
『槿』古井由吉(講談社文芸文庫)
『平家物語』古川日出男(河出書房新社)

◆ノンフィクション
『知の果てへの旅』マーカス デュ・ソートイ(新潮クレスト・ブックス)
『愛とか正義とか』平尾昌宏(萌書房)
『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』吉川浩満(河出書房新社)
『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』ふろむだ(ダイヤモンド社)
『文学問題(F+f)+』山本貴光(幻戯書房)
『物語論 基礎と応用』橋本陽介(講談社選書メチエ)
『ウィトゲンシュタインの講義 数学の基礎篇』コーラ・ダイアモンド(編)(講談社学術文庫)
『数学はなぜ哲学の問題になるのか』イアン・ハッキング(森北出版)
『シルバー民主主義の政治経済学』島澤諭(日本経済新聞出版社)

◆2018ベスト「フィクション」
『夜のみだらな鳥』ホセ・ドノソ(水声社)

◆2018ベスト「ノンフィクション」
『思想のドラマトゥルギー』林達夫・久野収(平凡社ライブラリー)

よい本で、よい人生を。(by まなめ王子)
以下本編。

人生は短く、読む本は多い。

 読めば読むほど、知れば知るほど、身のほど知らずを思い知る。知識と理解と表現の足りなさが歯痒い。それでも読むし、だからこそ、ここに書く。

 おかげで、たくさんのフィードバックをもらった。うれしいのは、「それがスゴいなら、これは?」という形でお薦めされた作品だ。記事へのコメントや、オフ会、twitter、facebookを通じた交流で、オススメ本を読む→その感想を書く→さらにそこからオススメを繰りかえし、ここ10年で凄い量になった。

 このリストは、わたしの知的財産だ。

 このリストで、わたしの人生は「よい」ものになった。かつての自分と比べて、より「良い」という意味でもそうだし、より「善い」選択ができるようになった。さらに、自分の人生をもっと好きになったという意味でも、「好い」ものになった。

 これらは、わたし一人のアンテナでは到底届かない。すべて、わたしが知らないスゴ本を読んできた、「あなた」のおかげ。あらためて、ありがとうございます。

この本がスゴい!2017
この本がスゴい!2016
この本がスゴい!2015
この本がスゴい!2014
この本がスゴい!2013
この本がスゴい!2012
この本がスゴい!2011
この本がスゴい!2010
この本がスゴい!2009
この本がスゴい!2008
この本がスゴい!2007
この本がスゴい!2006
この本がスゴい!2005
この本がスゴい!2004

 ここでは、2018年に出会った本の中から、わたしにとってのベストとなる本を選んだ。これが、あなたにとってのスゴ本となれば嬉しい。また反対に、このリストを目にしたあなたが、「それがスゴいなら、これは?」とお薦めしてくれるともっと嬉しい。



フィクション

『ランドスケープと夏の定理』

高島雄哉
東京創元社
レビュー[知性に普遍性はあるか『ランドスケープと夏の定理』]

 「知性に普遍性がある」という発想がスゴい。

 つまり、宇宙や物理法則が普遍である以上、知性の違いは表現の違いに過ぎず、遅かれ早かれ、あらゆる知性は普遍的なものになる、という理屈だ。これは、いわゆる宇宙人に限った話でなく、動物やAIも含めた「知性」一般に言えるという。これを、「知性定理」という。

 頭おかしい(誉めてる)と心底思う。しかもこの理論でキッチリお話を描き切る力業がすごい。「知性定理」を編み出した「ぼく」を語り手に、天才科学者の姉が途方もない実験をするのが表題作になる。エヴァとイーガンを下地にエンデを混ぜたようなお話で、流行の量子力学・宇宙論に既視感ある展開がテンポよく進む。なつかしい未来を見させられているような感覚なり。

 しかも、語り手の「ぼく」の姉がもっと凄い。人類最高の頭脳を持った天才物理学者で、猪突猛進&確信犯的ブラコンなり。宇宙空間に浮かぶ国際研究施設で、宇宙規模の実験を始めてしまう。そのスケールがデカすぎて、想像力が振り落とされそうになる。

 圧巻なのは、ありとあらゆる理論を命題群の形でマップした空間である。巨大な空間に展開された、人類が考え出した命題素が多彩に絡まり合い、繋がり合い、拡散結合を繰り返している様子は、(その描写の妙も相俟って)凄まじいの一言。人が作り出し、あるいは見出した理論の繋がり合いをビジュアライズすることで、「人間の知性」そのものの構造を見える化し、その来し方行く末を見るのは面白い。

 ただし、「知性に普遍性がある」という考え方は、わたしの持論と真逆だ。わたしの場合、ここで展開される「知性」の前に必ず「人の」という接頭辞が付く。言語、身体、環境の下に発展するのが「知性」だという発想だから、相容れなさが面白かった。

 このスケールのデカさ、発想のトンでもなさは、ぜひ体感してほしい。本書は、冬木さんの[基本読書]の[デビュー作にして超ド級の傑作ハードSF 『ランドスケープと夏の定理』]で知った。冬木さんありがとうございます!

 また、本書とレム『ソラリス』を掛け合わせた読書会が12/9(日)にある。この組み合わせは絶対に面白いことを請け合う(わたしも参加するよ!)。詳しいことは[未来思想研究会 第22回読書会:知性 『ランドスケープと夏の定理』高島雄哉×『ソラリス』スタニスワフ・レム]からどうぞ。


『舞踏会へ向かう三人の農夫』

リチャード・パワーズ
河出書房新社
レビュー[『舞踏会へ向かう三人の農夫』はスゴ本]

 「スゴ本=すごい本」とは、読む前と読んだ後で、自分自身が更新される本のこと。世界を見る目がアップデートされ、同じだったはずのものが、まるで別の存在になる。「本当の旅の発見は新しい風景をみることではなく、新しい目をもつことにある」とプルーストは言ったが、この傑作を読むことこそが旅であり新しい目を持つことだ。

 表紙の写真を鍵として、3つの物語が重なり合う。この写真にとり憑かれ、強い愛着を抱く「私」の個人的な独白を交えた物語。この写真の被写体である農夫たち自身が動き、話す昔語り。そして、謎の赤毛の女性を追い求める編集者のストーリー。一見バラバラだが、あちこちにジョークやひねり、引用、仄めかしが散りばめられており、密接に絡み合う。

 これら3つの物語が並行して進められ、ときに接近し、ときに入れ子状になりながら、だんだんと混じり合い、重なりあい、やがて大きな流れにまとまってゆく。その流れの中で、写真を撮るとは何か、「見る」とはどのような意味を持つかをめぐり、緻密な思索が積み上げられる一方、「見る」とはすなわち関わりあうことであり、関わり合うとは相手と自分の運命を変えてゆく考えが立ち上がってくる。

 しかし、重なり合い関わりあう物語たちが、完全に一体化することはない。それは、この作品全体の構造が示すテーマ「視差」の感覚である。あちこちに埋め込まれている「立体鏡」が比喩として扱われている。どのストーリーにもこの写真が重なるように出てくるが、微妙に重なり合いつつもズレが生じるのだ。

 わたしは、「読む」という経験を通じて、頭の中でこれら3つの情景を一つに合わせようとする。ところが、微妙につじつまが合わない。「読む」という経験は、それまでに読んできたものから、その先を推測しつつ、いまいる箇所に集中する。この双方向的なプロセスにおいて、頭の中で「わたしの物語」の像に合わせ、最終的に他人の物語を自分のものとして語り直し、取り込んでゆく。

 二十世紀全体をテーマにした大きな物語と、それに絡まるように成り立つ個々のストーリー、それらすべてをひっくるめて頭の中に立体化されてゆく。それは推量であり捏造であるが、確かにわたしの頭の中にはある。読むという経験は、まさにわたしの中で行われているのだ。

 読むということ、知るということ、そして見るということは、世界と関わり合いをもつことであり、すなわち、自身を再定義する試みになる。そこでわたしの中で構築されるものこそが、「オリジナル」なのだ。

 新しい目を持つことで、世界を、自分をアップデートする経験は、Uporekeさんの読書会[第60回読書部リチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』]のおかげ。Uporekeさん、ありがとうございます。


『寿司 虚空編』

小林銅蟲
三才ブックス
レビュー[危険な読書]

 世の中には、「読んではいけない本」というものがある。

 読むと頭がおかしくなったり、ガツンと常識が飛ばされたり、ものの見方を根本的に変えてしまったりする本がある。フランツ・カフカは「どんな本でも、僕たちの内の凍った海を砕く斧でなければならない」と言ったが、そうした斧である本がそれだ。

 [危険な読書]という記事において、わたしの体感でLevel 1~5 まで5段階にランキングしたことがある。『寿司 虚空編』は、Level 2 になる。2段階目だからといって侮るなかれ。(おそらく)世界初の巨大数論マンガである。

 とにかく大きければ大きいほど強くてカッコいいのだ。「大きな数」といえば、無量大数(10^68)、グーゴル(10^100)あたりを知っていたが、そんな「書ける」レベルでないことがすぐに分かる。だが本書はそんな奴を軽々と超えてゆく。

 創造力にタコメーターがついているのなら、そいつを軽く振り切り、対数表示もなんのその、イメージできないくらいの巨大な数がレクチャーされる。最初のあたりは懇切丁寧にページを割いて説明してくれるが、グラハム数、フィッシュ数、S変換、SS変換、s(n)変換、m(n)変換、m(m,n)変換と、ざっくりと”巻き”で加速してゆくにれ、わたしのアタマがついてこれなくなる。

 巨大数を「書き表す」というよりも、それを示す数式がものすごい勢いで再帰・インフレ化する。大きくなるというよりも、爆発するというイメージ(「イメージをイメージで超えていけ」というアドバイスされる)

 食べきれないほどの料理をムリヤリ詰め込むと胃がうけつけなくなり吐くハメになるが、脳はそうはいかぬ。イメージできないほど巨大でヤバくて強い凄い数を、ムリヤリ脳に理解させる。脳は吐けないから、わたしのどこかが壊れていくのが分かる。

 脳天への一撃となる、斧のようなマンガだ。[pixiv]なら無料で、[Kindle Unlimited]なら読み放題なので、斧が欲しい方はどうぞ。


『直線』

ディック・フランシス
ハヤカワ文庫
レビュー[ディック・フランシス『直線』が寝かせてくれない]

 「面白い小説とはセックスのようなもので、途中でやめるわけにいかない」という阿刀田高の言葉は、まさにこの作品のためにある。読み始めると、終わりまで終われない。

 競馬をテーマにしたミステリで有名なディック・フランシス。大ファンであるみかん星人さんから、スゴ本オフで大量に寄贈してもらった写真がこれ[スゴ本オフ「のりもの」]

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 みかん星人さんは、全て持っており、全て読んだけれど、ハードカバーで買い直して読み直すほどのファンなのだ。そんな彼の一番のお気に入りなのが『直線』になる。冒頭がすばらしくいい、これだ。

私は兄の人生を引き継いだ。彼の机、彼のビジネス、彼のおもちゃ、彼の敵、彼の馬そして彼の愛人。私は兄の命を引き継いだ。そしてそのために危うく死ぬところだった。

 この一行目で心惹かれ、どっぷりハマる。主人公は競馬の騎手。疎遠だった兄が急死したことで、兄の事業や財産を受け継ぐことになるが、その過程のなかで様々なトラブルに巻き込まれてゆく。

 壁をひとつひとつ乗り越えるたびに、兄が優れたビジネスマンだったこと、生真面目な(Straight)顔とともにユーモアに溢れていたこと、厄介ごとの種を抱えていたこと、そして、何よりも弟のことを深く愛していたことに気づく。

 そして、ひとつひとつ気づくたびに、主人公とともに読者はハッと衝かれ、寂寥感に胸が熱くなる。もはや絶対に手に入らない時間を惜しむとともに、もっと近くにいれば、もっと言葉を交わしていればよかったのにと悔む。この兄が魅力的な人なんだ。冷静で、辛辣で、真摯な(Straight)人物像が見えてくる。この作品のもう一人の主人公は兄であり、その人となりや秘密を解き明かす物語でもあるのだ。

 兄の人生に触れるとき、もう二度と会うこともかなわないと改めて知るとき、彼の痛みを自分の痛みのように感じる。生きることは痛むことだ。痛むことなしに生きることはできない。それが、落馬して骨折した痛みであれ、心ない誰かの言葉で傷つけられた痛みであれ。

 そして、いったんは痛みを忘れ、生きることを楽しむ外はない。ストーリーの面白さもさることながら、この喪失の悲しみが伝わってくる傑作だ。この『直線』の次は、『大穴』→『利腕』→『敵手』→『興奮』→『再起』に読むと良いとのこと。みかん星人さん、ありがとうございます!


『ブッチャーズ・クロッシング』

ジョン・ウィリアムズ
作品社
レビュー[『ブッチャーズ・クロッシング』はスゴ本]

 2015年のNo.1 スゴ本『ストーナー』の作者だから読んだらこれが大当たり! これもスゴ本なり。どう素晴らしいのかというと、小説としてスゴい体験ができるから。

 19世紀のアメリカ合衆国を舞台に、バッファロー猟のため、原野で生きる男たちを描いた小説だ。その峻厳さは、人の理解を超える。目の前の現実のあまりの厳しさに、わたしも身構える。起きていることが信じられない出来事に、一緒になって動揺する。ある光景に呆然となっていた主人公が、暫くして顎を噛みしめていたことに気づくシーンがあるが、わたしの口の中も血まみれになっていることに気づく。

 遠い昔の、ずっと離れた場所の話なのに、どうしてこんなに生々しく感じるのか。秘密は、その描き方にある。著者は、あらゆるものを突き放して書く。突き放して書くとは、事物や情動を感情や修飾を交えずに淡々と描写することだ。

 バッファローの血やウイスキーといった事物は、そこから引き出されるイメージを削ぎ落として描かれる。堪えがたい渇きや女が欲しいといった情動は、「渇き」「欲望」という言葉を使わずに描かれる。

 修飾語や形容詞、感情を示す言葉は、「情報」である。どんな情報か? それは、描き手が「こう伝えたい」という方向性が入った情報である。この情報が入れば入るほど、小説は「分かりやすく」なる一方、小説を読むとはインプットするだけの行為となってしまう。

 こうした感情を示す言葉を排除し、動作と会話だけで、登場人物の心情を伝えにくる。このストイックな書き方は、ヘミングウェイを彷彿とさせる。修飾語や形容詞を意図的に減らして書くことで、読み手は身を乗り出し、自分が読み取った情動で、その空白を埋めようとする。

 つまり、本来なら形容詞で表現されている心情を、読者の中でシミュレートする。シンプルで、骨太な描写なのに、そこに潜む怒りや恐怖がダイレクトに感じられるのは、言葉でもって伝えようとしているからではなく、わたしの内から湧き上がっているためである。小説をインプットするのではなく、情動が内から湧いてくるのだ。

 小説は形容詞から腐るという。対象をデコレートし、書き手が伝えたい「情報」を与え、意味づけを行う箇所から腐り始める。この、もっとも腐りやすい形容詞が排除され、動作と会話(旅の後半になるにつれほどんど話をしなくなる)だけで成立しているが故に、腐らずに残っているといえる。骨は腐らない。『ブッチャーズ・クロッシング』の凄みは、シンプルで骨太なのに、その動きで肉のみずみずしさが伝わるところにある。

 ストーリーはあえて触れない。大学を中退し、「自然の中で自分を見つめたい」と猟に参加した若者が、何を見たかは書いてある。しかし、彼が何を感じたかは、彼が見たもので読み手の中に再現される。渇くということはどういうことか、凍えるとはどういうことか、そして絶望するとはどういうことかを経験する。

 そして、これを読むことで、生きるとはどういうことか、絶望するとはどういうことかを経験してほしい。


『槿』

古井由吉
講談社文芸文庫
レビュー[古井由吉『槿』はスゴ本]

 濃密でいながら心を遊ばせるがままにたゆたう、とことん読書は贅沢だと感じる傑作。

 ひとりの男と、ふたりの女を描いた小説なのだが、「性愛」とか「情事」といった言葉をあてはめてよいものか、分からなくなってくる。露出している描写が全てだと思って読んでいると、思わず知らず迷うこと請け合う。

 それは、服に隠された部分を妄想で補うように、襟ぐりに閃く鎖骨や脇のしたの陰りを妄想で補い、全裸よりも刺激性を感じるようなもの。わたしぐらい上級者になると、服は意味をなさない。そういう肌感を重んじる人が読んだら、何気ない仕草や所作の描写に、生々しい体臭と吐息を感じ取るだろう。

 たとえば、女が吐く姿を「喉を細く、はてしもなく絞る」なんて最高なり。あからさまなエロティックではない。一人で部屋にいるときの無防備な表情や動作から、素の、生の、女のすがたを露わにする。服は意味をなさない(大事なことなので二度)。そういう視線を引き出してしまう人はいるし、そういう視線をしてしまう人がいる。こういうふうに。

やがて女がゆっくりと脚をおろし、遠くを眺めて靴をはき、みぞおちを窪めて腰をあげたとき、杉尾はあらわな、裸体の動作を感じた。女は杉尾のほうへ輪郭の奇妙に鮮明な、遠い記憶像の味のする横顔を向けて、人に見られている意識はなく、ほんのしばらく完全に静止した。それからすっと、歩き出した。

 くまなく心理を叙述したり、きちんとピントを当てていない。情景をひきとるキーアイテムを配置し、語りと併走させるテクニックを味わい、見えていない部分を補完する。放火サイレンや、槿(あさがお)の鉢、白いキャリーバッグなど、それぞれの場面の鍵となるものと人のやりとりを介して話を進める。キーアイテムをあてつけに、感情と妄想を差し繰りしていくうち、情欲が絡み合い匂い立ってくる。

 結果、話の向かう先があいまいとしていく。主人公が自らを省みている文章なのに、主体を見失う。過去を振り返った今なのか、今、昔の声と重なっているのか、分からなくなってくる。自分を観察者としているような、世界のあいまいさを味わい続けることになる。それでいて、狂っている(が言い過ぎなら、逸脱している)のは誰だろう? と考えると、いつまで経っても「信頼できない語り手」の罠から抜け出せぬ。まさに変態向けの小説なり。

 他者との関係性の中で、記憶をたぐり寄せながら、かろうじて自分を守っているかのような気がしてくる。いわゆる「意識の流れ」に注意しながら追っていくと見失う。同時に、自身が自分の身体の内側からすべり落ちるような感覚に見舞われる。

 もともと、人は「自分」とそんなに重なり合って生きているものではない。桜の白さ、遠くのサイレンの音、やりかけの仕事、追いついてくる過去に囚われ、呑み込まれようとする。そうなるまいと引き戻したり、ときに思い出に遊ばれるがままに放置したりする。むしろ、そうした引き寄せや遊ばせをしているそのものが、「自分」なのかもしれぬ。

 そんなたゆたいの湯の中で妄想を補い補い読むうちに、男女の深いところを触りあてる。そういう、贅沢な経験ができる傑作なり。

 これは、同作者の『杳子』の読書会を企画したBenさんのおかげ。『杳子』については、[生きのびるための狂気に自覚的であること『杳子』]に書いたが、そこから気になってこの傑作にたどり着く。Benさん、ありがとうございます!


『平家物語』

古川日出男
河出書房新社
レビュー[古川日出男『平家物語』はスゴ本]

 たくさんの声、声、声。読むというより体感する。読むことが体験になる、そんな圧倒的な物語りが、ここにある。

 語りのリズムに情感に、うっとり酔ったり胸衝かれたり。平清盛の絶頂期から、ぐんぐん・ガツガツ読み耽るうち、あれよあれよと儚くなる。驕る・驕らぬにかかわらず、生あるものは死んでゆき、出会ったものは必ずや別れる。歴史は確定している。平家は滅亡する。

 そんなこたぁ分かってる。分かっているのにやめられない。生きるのをやめられない。もがきあがき、意地汚く生きようとする。いっぽうで、驚くほど潔く死ぬ。生(ナマ)の生(セイ)の荒々しさに呑まれ、壮絶な死にざまを晒す人間たちに震える。凄まじい読書体験となる。

 目を引くのはその文体、語りだ。

 もとは琵琶法師の語りを記したとされている。大勢の話者がいて、続々と挿話が足され、組み込まれ、さらに多くの編者によって文も書き換えられ、継ぎはぎされ、縒り合わされ、物語を豊饒なものにしている。『平家』は日本の古典の中で最も異本が多いという。さまざまな読まれ方をされてゆくうち、物語が命を得て、今でいうなら同人誌のように自己をクローン化し膨らませてゆく。

 底本にあたると、はっきりと分かるという。著者は、「今、違う人間が加筆した」と書き手が交替したことが皮膚感覚で伝わるらしい。文章の呼吸が変わり、語りの構造も変化する。こうした、無節操ともいいたくなる膨張っぷりに、ただ一人の書き手として、どう捌くか。本書は、さまざまな「語り手」を用意することで解決する。

 すなわち、じつに多くの「語り手」が背後に潜んでいることが、はっきりと分かるように記している。話者の主語を「私」「俺」「僕」「手前」「あたし」と多彩にし、同じ「私」でも複数いる。色やかたちに焦点をあわせ、「でございます」調でしっとりと語る女の声。起きたことを述べるだけで、ぶっきらぼうに「だった」「である」で語る男の声。

 ときに間投詞ときに感嘆句を絡めながら、直接こちらに話しかけてくる。文章は一次元なのに、大勢の語り手と向き合っているような気になる。合戦シーンになると、これに琵琶の撥が加わって、一層ざわめきが増してゆく。語調と語感を意識した、ラップのような書きっぷり。これ、ぜったい謡いながら書いているだろ!と言いたくなるような箇所もある。

「そうか。では今日の軍神への捧げものに、なあ。してやるぞ」と言い、馬を押し並べる。むんずと組みつく。地面に引き落とす。首を捩じ切る。斬る! それから郎等である本田次郎の鞍の取付にこの首をつけ、まさに血祭り、軍神を祝う斬血の祭り!
南無!
南無や、南無や、南無や!
よ!
た! は!
なぁむ!
これらが緒戦、宇治川の、寿永三年一月の合戦の。

 死んでゆく、死んでゆく、前半であれほど楽しみ唄っていた人々が、泣き、嘆き、斬られ、引き裂かれてゆく。裏切りや内通、騙し討ちで命を落とすもの。まっしぐらに敵陣の中で果てるもの。逃げて逃げて逃げた先で捕縛され、恥を晒して斬られるもの。全ての望みを絶たれ入水するもの。合戦シーンは壮絶の一言。目を背けたくなる非情さと、親が子を子が親を想う刹那が混在し、その両方に撃たれる。

 多くの語り手の声は、実は鎮魂のための声なのかもしれぬ。これが物語りの頂点だ、体験せよ。



ノンフィクション

『知の果てへの旅』

マーカス デュ・ソートイ
新潮クレスト・ブックス
レビュー[なんでもは知らないわよ、知ってることだけ 『知の果てへの旅』]

 宇宙に果てはあるのか? 時間とは何か? 意識とは何か? 科学はすべてを知りうるのか……「人の知」の果てへ挑戦した本書のおかげで、このモヤモヤが晴れてくる。「科学では分からないことがある」という(これまた使い古された)セリフは、「まだ分かってないだけ」なのか、「完全に不可知」なのか見えてくる。同時に、本書のアプローチでは足りないところも見えてきて、大変たのしい読書となった。

 著者はマーカス・デュ・ソートイ、数学者だ。『素数の音楽』などが有名だが、数学という入口から知性の偉大さを知らしめる興味深いドラマを分かりやすく紹介してくれる。

 『知の果てへの旅』では、著者の身の回りのモノ―――サイコロや腕時計、チェロやチャットアプリ、クリスマス・クラッカー―――を題材に、ニュートン力学、相対性理論、カオス理論、量子力学という物理学の世界を一望し、ケプラーの法則やビックバン理論、多元宇宙論といった天文学の世界を見せてくれる。さらにニューラルネットワークから意識について斬り込み、非ユークリッド幾何学やゲーデルの不完全性定理から数学の「限界」に触る。知の世界への導き方が巧みで、あっという間に連れて行かれるだろう。

 ただし、著者は「知の世界」を物理学や数学を用いて説明できる範囲としようとする。「知っている」に対し「人が」という主語が付きまとうことになり、結果、「知の果て」とは人にとって知りうる限りという限界を設けることになる。

 だが、それは知の果てなのか? という疑問がつきまとう。物理学や数学で全てを説明できると言い切る人は、「そうなるように知の体系ができている」ことに気づけない。そして、この体系の中にいる限り、矛盾を孕んでいるかどうかすら分からない。著者は、ゲーデルの不完全性定理を援用しながら、今の科学の枠組みでは、宇宙の外側や意識の内側がどうなっているか分からないという。

 すなわち、ある閉じた系にいる限り、その外側の系を説明できない(たとえできたとしても、絶対的な"正しさ"に至ることはない)というのである。P.497から引用する以下の文が、「知の果て」の行き着く先になる。

おそらく、自分たちがその系の一部であるこの宇宙を、内側から理解することは不可能なのだろう。宇宙がある量子波動関数で記述されているとして、その関数を観察するには系の外の何かが必要なのではないのか。カオス理論を踏まえると、系の一部を孤立した問題として理解することは不可能である。

なぜなら宇宙の反対側にある電子の影響で、カオス的な系がまったく異なる方向に進展する可能性があるからで、系全体を理解しようとすると、系の外に立たねばならない。

これを理解することは、意識を理解するという問題についてもいえて、人は自分の頭、つまり自分自身の系に閉じ込められていて、ほかの人の意識にアクセスできない。

 著者はウィトゲンシュタインを引きながら、「語り得ぬものについては、沈黙せねばならぬ」を改変し、「知りえぬものについて、想像力を働かすことができる」ほうが望ましいという。この「知りえぬもの」が原書のタイトル(What We Cannot Know)につながる。

 しかし、ウィトゲンシュタインが「語り得ぬもの」としたものは、人が「それ」を知っている/知らないと指定できる「それ」ですらない。「それ」を示せるのなら、何らかの属性や仮名、特徴を語り得ることができるからね(学問の定石でしょう、ワケわかんないものに何か名前を付けて、「分かった」ものと見なすのは)。

 ソートイは先回りして「知らないことすら知らない」と述べたが、それですらない。「知っている/知らない」の外にあるものなのだ。ソートイが ”What We Cannot Know” として指したかった(しかし思い至らなかった)概念がまさにこれなのである。これに気づかないまま論を進めてゆき、見事に「知の果て」で惑っている。人が知るための合理的説明や、人が知ることができる程度の複雑さに留めている限り、世界の果てはそこまでだ。その先にも世界は広がっているのにね。

 著者と一緒に惑うのもいい。だが、不可知論に片付けられてしまうのは勿体ない。科学史を振り返ることで、少なくともどこまで不可知にまで接近できたか、確かめる読書にするのも愉しい。


『愛とか正義とか』

平尾昌宏
萌書房
レビュー[『愛とか正義とか』はスゴ本]

 現代の哲人と言えば読書猿さん。知識を持っていて、かつ、実践している教養人の鑑みたいな存在だ。万が一知らないのであれば、[読書猿Classic: between / beyond readers]に行くべし。また、2017年のNo.1スゴ本は、読書猿さんの『アイデア大全』『問題解決大全』なので、読むべし。

 昨年、そんな敬愛する読書猿さんに会いしたとき、「読書猿さんにとって今年の No.1 のスゴ本はどれですか?」と伺って即答されたのがこれ。本書は、哲学・倫理学の入門書になるのだが、そこらの「哲学入門」ではない。「自分で考える」ことを目的とした入門書という意味で、まったく新しい。いわば「歩くことを、もう一度教わる」ような本なのだ。

 なぜなら、そこらの「哲学入門」は、哲学していないから。むしろ反対に、「哲学しないこと」を目指している。つまりこうだ、イラストや図解でまとめた哲学者や議論を紹介しているだけにすぎぬ。一言半句の「答えのまとめ」を並べるのは、「自分で考える」ことではない。それはむしろ、「これが”哲学”だから、自分で考えるな」というメッセージに等しい。

 哲学は動詞だ。人名とか論とか主義といった名詞の集合ではない(それは哲学する”手段”だ)。哲学は「する」ものである。

 すなわち、哲学とは「自分で考える」ことだ。調べれば分かること(歴史や文化)は哲学の範疇外だし、調べ方が分かっていること(科学や経済)は哲学の範疇外である。だが、調べれば分かることでも、分かったことで見解や評価が対立することがある。または、調べ方が分かっていることでも、「それは本当なのか」と疑わしい点が出てくることがある。

 そこからが哲学の出番になる。「それは本当は何か」について、さらに考えるのだ。それ以上に調べられないこと、調べ方そのものが分かっていない(確立されていない)ことでも、「自分で考える」ことができる。それが哲学なのだ。

 ただし、哲学は答えを蔑ろにしているわけではない。よくある「哲学とは答えのない問い」ではない。分かった風な口を利くとカッコよく見えるけど、間違っている。問いが別の問いになったり、疑問が消えてしまったりする。

 だから、哲学は、答えだけではなく、「問いを発する疑問がどうなったか」に着目する。「全ての問いに正解がある」という思い込みで進めると、足をすくわれることになる。「科学的な見方」に染まっている人ほどそうだ。著者はこう喝破する。

「科学には答えがあるけれど、哲学は答えがない」と思う人がいますが、そうではありません。「科学には答えがある」のではなくて、「科学はただ一つの答えが決まるように手続きを定めてある」というのが正解です。

だから、「ザ・科学」ができるわけです(逆に「科学は答えが一つに決まらないような問題を避ける」わけで、科学が避けた問題はどこに行くのかというと、これが哲学に行きます)。

 本書の紹介では入口に留めるが、中身はもっと具体的だ。「デスノートの夜神月は正義か?」という問いを掘り下げたり、『北斗の拳』は、「正義」のラオウと「愛」のケンシロウの闘いだと分析する。

 哲学初心者に対し、ここまで読み手に寄り添って、かつ「哲学する」を実践した本はない。一読するだけで、「概念」という強力な思考武器が手に入る。読書猿さん、教えていただき、ありがとうございます!


『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』

吉川浩満
河出書房新社
レビュー[人間が「どうなっているか」と、人間が「どうあるべきか」の間で問いつづける哲学『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』]

 わたしの人間観を更新する一冊。

 もっと正確に言うと、進化心理学・行動経済学・認知科学の研究を通じ、わたしが抱いている「人間とはコレコレである」人間観がアップデートされつつあることを教えてくれる。

 本書は、吉川浩満氏の論文・インタビュー集である。発表媒体によりモチーフは異なれど、テーマは「人間とは何か?」になる。「人間とは何か?」という問いかけを、「人間がどのように”見える”か?」という人間観にした上で、その変遷を、人工知能、認知バイアス、利己的遺伝子、人新世という様々な斬り口から掘ってゆく。

 よくあるサイエンス・ノンフィクションと異なるのは、「(人が)どうなっているか」の科学的解説に、道徳哲学の「(人が)どうあるべきか」議論をぶつけているところ。おかげで、認知科学の進展を呑気に喜んでいるばかりでなく、それが突きつける問題が実装されていることも、その未来も(選ばないも含めて)選ぶ必然性があることも知らされる。

 たとえば、「計算できる道徳としての功利主義」の議論が面白い。

 「5人を助けるため1人を殺してもよいか」というトロッコ問題や、「1人を殺してより多くの人を助けるのはよいことか」という臓器くじの問題について、功利主義の回答は明確である。だが、多くの人々の道徳的な直観には反する。「人を殺すなかれ」という義務論的な直観にも支配されているからだ。

 有用性や公益性の高さで判断する、功利主義の基本的な考え方には賛同できる。だが、それを「あるべき」にまで推し進めると問題になる。極端な話、社会全体のために個人を犠牲にするディストピア思想につながる。これを、扇情的な哲学ポルノとして排除することもできるが、吉川氏は「功利主義をどこまで受け入れる用意があるか」という問いを立てる。

 まず、「どうなっているか」という観点からは、功利主義をもてはやす風潮を指摘する。まず、経済低迷や格差拡大が引き起こす弱者切り捨て論が、功利主義との親和性が高いこと。さらに、人の心を計測対象とする「道徳の自然化」が、より吟味しやすい(計測しやすい)ものとして、義務論的直観よりも功利主義的を採用する点。さらには、AI技術が、「計算できる道徳」として功利主義を求めることを指摘する。

 そして、「どうすべきか」という観点の例として、自律走行車に搭載されるAIの仕様を俎上に乗せる。事故が避けられない状況となったとき、誰を犠牲にすべきかといった議論が、哲学教室の思考実験ではなく、プログラムに実装される方式として展開される。そして功利主義のみが、目的に対する答え(功利、効用)を計算可能なものとして扱えるが故に、採択される可能性が高いという。

 興味深いのは、どの道徳原理を採用するかについて、ある種の二重思考(ジョージ・オーウェルのダブル・シンク)が必要になるという点だ。著者は、義務論的直観と功利主義的思考の両方を使い分けることで、功利主義の美しさとグロテスクさをともに引き受ける未来を提案する。

 これは、「人間からだと言いにくい現実を、統計やAIというガワを被せて伝える」テクニックに似ていて面白い。「こうなっている」ミもフタもない現実は「統計によると......」とAIに言わせ、義務論的な「あるべき」は人が担う(もちろんAIの功利主義的な判定パラメータは、人が設定しているんだけどね)。

 重要なのは、認知科学の進展により人間観や倫理観のアップデートが、今まさに行われている現実だ。これ、十年ぐらい後になって、更新後の「常識」が制度化・内面化され、今という過渡期を奇妙な時代だという目で見たときに、明らかになるだろう。その意味で、本書は一種の状況証拠のように扱われるに違いない。

 ただし、人間が生来「こうなっている」からといって、そのまま「こうあるべき」に導こうとするのは危うい。本書のあちこちで、この「である-べき問題(Is-Ought Problem)」が顔をのぞかせる。このズレは、科学や技術のほうが「わたし」を追い越しているズレだ。

 状況と慣習に流されることなく、自覚的でありたい。この人間観を更新する一冊。吉川さん、素晴らしい本を世に出していただき、ありがとうございます。


『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』

ふろむだ
ダイヤモンド社
レビュー[『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』がいかにスゴいか、このブログを例に説明する]

 これを「悪魔の書」という人がいるが、激しく同意する。なぜならこれ、知らないほうが幸せだったかもしれないことが書いてあるから。あれだ、「力が欲しいか?」と問われて求めた結果、知らなくても良い世界に気づいてしまうから。

 その存在すら知らないまま、普通に穏やかに生きるほうがよいとも言える(知らぬがホトケやね)。「なぜアイツが出世するんだ!?」「どうして私が認められないのだろう?」という現実から目をそらし、ささやかな慰めを見つけ出し、折り合いをつける。そんな平穏を求めるなら、本書を読んではいけない。「アイツが出世&実力をつけていく理由」「私が認められにくい理由」が、これ以上ないほど、ミもフタもなく書いてあるから。

 一方でこれ、万人が読んだほうがいいのかもしれぬ。なぜなら、自分がどのように騙されているかが、これまたあからさまに書いてあるから。「騙す」というネガティブな言い回しを使ったが、嘘を吐いて陥れるような意図はない。どうしてもそう考えてしまう「人の思考パターン」の仕様が明らかにされている。

 これは勉強ができるとか仕事ができるとかに関係ない。コーラを飲んだらゲップが出るぐらい確実に、そういう風にできている。いわば人の仕様がそうなっているのである。この仕様バグを衝くことで、自動的にそう勘違いしてしまうのだ(本書ではこれを、「脳のセキュリティホール」と呼ぶ。言いえて妙なり)。

 これを悪用して、あなたを「騙そう」とする人もいる。だが、騙された人は、騙されていることに気づかない(ここがおぞましい点)。あなたがそうならないために、この仕様バグを把握することで、賢く生きてほしい。その意味でこれ、「賢者の書」とも言える。

 煽りぎみのタイトルと、人を食ったような表紙、ブログ「分裂勘違い君劇場」まんまのの語り口で、どんどん読めてしまう。挑発的なモノ言いなので、カチンとくるかも。それで本を投げ捨てるならもったいない。

 なので、これは強く言わせて欲しい。残念ながら世の中は、実力主義になってないが、ふろむださんは、「実力なんてどうでもいい」なんて、一言も言っていない。ハッタリの重要性を強調するあまり、そう誤解してしまうかもしれないが、あるものに秀でていると、全体的に優れているかのように錯覚してしまうのは事実である。

 もちろん実力も重要だが、時としてそのブランディング(による錯覚)の方が大事だったりする。この錯覚こそが、進化の過程で仕込まれた人の仕様バグであり、上手く運用することで、他者から勘違いされる価値(錯覚資産)を大きくすることができるという。

 3行でまとめよう。本書は、行動経済学や認知心理学的の最新の知見を元に、この「錯覚資産」を最大化する方法を解き明かす。無料で序盤が公開されているので読んでほしい。

  1. 器が人をつくる
  2. その器に入るのは運
  3. その運の運用も含めて実力のうち

 「器が人をつくる」は、ビジネスの世界によくある「ポストを与えるとその役職にふさわしい能力を身に着ける」と解釈される。だがこれは、その先がある。

 たとえば、「CEO」や「教授」といった肩書に引っ張られ、他の属性も底上げされるハロー効果がスタートだ。本来の実力以上の評価を集め、それに見合うだけのストレッチをした結果、「実力+アルファ」が伸びることになる。そこから(見かけの)評価が高まり、さらなる実力の底上げが為される。

 つまりこうだ。「実力+錯覚資産」の評価を集めるものは、もっと評価を集め、評価が集まることにより、実力がつき、錯覚資産も併せて大きくなる。いわゆるマタイ効果(持てる者はもっと持てるようになる)やね。「器が人をつくる」を分解すると、ハロー効果とマタイ効果になる。2つの相乗により、「実力+錯覚資産」は雪だるま式に膨らんでゆく。

 その器に入るのは、確かに運である。肩書を与えられるとか、多数の注目を得る、特定の業績に高い評価をもらうというのは、実力「だけ」ではままならない。もちろん実力を培うことも重要だが、その実力をいかにプレゼンするかによって、運をコントロールすることもできる。この「運の運用」を口がしつこいくらいに書いてある。

 本書を、悪魔の書にするのも賢者の書にするのも読み手次第。ふろむださん、あられもないくらいスゴい本を書いていただき、ありがとうございます。もっと若い頃に読みたかった……orz


『文学問題(F+f)+』

山本貴光
幻戯書房
レビュー[文学とは感情のハッキングである『文学問題(F+f)+』]

 「文学とは何か?」という問いに対し、夏目漱石の文学論を徹底的に読み解き、ここ100年の文学理論を振り返り、さらには文学の認知科学の領域まで踏み込む、画期的な一冊。もの凄く面白く、かつ、自らも考えさせられる。

 著者は山本貴光氏、心の哲学やゲームデザインの分析、百学連環の精読など、人文知のユニークな斬り口を見せてくれる文筆家だ。聖書からtwitterまで、さまざまな文体を、人と文のインターフェースとして分析した『文体の科学』が面白かった。

 本書は最初にタネ明かしをする。「文学とは何か?」という問いに対し、漱石の答えは「F+f」だという。大文字「F」は、人間が認識すること。人の注意が向いて意識の焦点が当たってる印象や観念を指す。そして小文字「f」は、認識に伴って生じる情緒を指す。すなわち、あらゆる文学作品は、「認識」と「情緒」(F+f)という2つの要素からできているというのが、漱石の結論だ。

 ただし、いきなり「F+f」と言われても、ピンとこない。だから本書は3部構成で攻略する。

 第1部では、漱石の文学論を詳細に読解する。具体的には、『英文学形式論』と『文学論』が俎上に上る。重要ポイントを抜粋して [001]~[144] までナンバリングし、現代語訳を施し、原文と解説を添えることで、漱石と同じ目線で取り組むことを促す。

 漱石は、曖昧な言葉である「文学」を捉えるため、語、音、文字からの分析である形式論 [008-022]、読者を幻惑するレトリック [077-096]、科学と文学の比較論 [067-074]、異文化理解 [015-016]、時代を超えた普遍性 [104-120] などのアプローチを採る。文学作品から文学論を語る従来のやり方ではなく、文学をメタに捉えることで、人間心理と社会の両面から考えようとする。

 そこで得られた結論が、「F+f」になる。文学とは情緒を伴う文章のことで、情緒こそが文学の試金石であるという[045]。さらに漱石は、文学作品の価値判定のモノサシとして、その作品が読者に催させる情緒が基準となると主張する [049-050]。

 面白いのは著者の指摘で、漱石がなぜアルファベットを用いたかを推察する。これは一種の変数(variable)で、プログラミングの際に代入するように、Fやfには具体的な作品名・情緒の名前が入るという。この記法からも、漱石が、文学を一般化しようとしていたことが分かる。第1部を読むことで、文学を一般化する手法を身に着けることができる。

 第2部では、第1部で手に入れた「F+f」を用いて、実際に世界文学を読んでみる。良いなと思ったのは、「F+f」を万能と扱っていないところ。良いハンマーを持つとあらゆるものが釘に見えるというが、その弊害に陥っていない。古今東西の文学作品を「F+f」で照らすことによって、「F+f」の不備を炙り出そうとする。漱石を崇め、威を借り、現代を嘆くキツネと偉い違う。世界文学との検証を通じて、漱石の文学論をヴァージョンアップしようという試みなのである。

 実際に読む作品は次の通り。

  1. ギルガメシュ叙事詩
  2. ホメロス『イリアス』
  3. 李白『客中作』
  4. アラビアン・ナイト
  5. 紫式部『源氏物語』
  6. アンドレ・ブルトン『溶ける魚』
  7. ジェイムズ・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』
  8. イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』
  9. リディア・デイヴィス『フーコーとエンピツ』
  10. 円城塔『Boy’s Surface』

 未読の人にも親切に、テキストとなる文学作品の背景を噛み砕き、冒頭もしくはそれに近いところから抜粋してくれている。まずは先入観なしに一読し、次に「F+f」で骨までしゃぶる読み解きをする。レイアウトの見た目から学習参考書みたいな印象だが、まさにそんな授業を受けている気分になる。

 そして、第3部になると、さらに面白くなる。「来るべき文学論に向けて」と題され、漱石の文学論以降、漱石が文学について考えたこと、漱石以降、100年にわたり文学理論で考えられたことを元に、文学論そのもののアップデートを試みる。そして、仮に完成された文学論があるならば、それはどのような姿を取るかまでを射程に入れた考察をする。

 たとえば、『草枕』を文学論として読み直す試みはユニークだし、イーグルトンやウォーレン、バリーといった大御所の文学理論から、「文学とは何か」についてそれぞれの「解答」を得ようとする試行錯誤も楽しい。そして、それぞれの主張と漱石の理論と比較することで、文学が単なる作品の話ではなく、文化や社会や時代を横断する、人文知の営みであることが見えてくる。

 さらに、統計学的手法を用いた文献の分析を行う計量文献学や、コンピューティングと人文科学を掛け合わせたデジタル・ヒューマニティーズの研究成果を紹介し、読書の科学や文学の科学的アプローチまでをも検討している。ここまで付き合ってきた読者は、(おそらく)言いたいことが沢山出てくるだろうし、著者としても望むところだろう。議論の余地が大いにあるからね。

 わたしは、「文学とは何か?」という問いは正しいか?を投げかけたい。そして、みんなが「文学」と考えているもの(〇〇)から、何を外せば「文学」でなくなるのか?という出発点からの考察した。詳しくは[ここ]の後半に書いた。本書を「考えさせられる」と評した所以である。文学を文学たらしめているもの、それは「人」であるという結論なのだが、はたしてあなたはどう感じるだろうか。。


『物語論 基礎と応用』

橋本陽介
講談社選書メチエ
レビュー[なぜ「面白い物語」は面白いか?『物語論 基礎と応用』]

 なぜ「面白い物語」は面白いか? と考えると物語論になる。トートロジーみたいだが、物語の中にひたすら浸っているときは気付かないが、読了後、どうしてあんなに夢中になっていたのか不思議に思うことがある。

 本書には、その解が書いてある。言い換えるなら、面白い物語の「面白さ」をリバース・エンジニアリングしたもので、援用することで面白い物語を意図的に生み出すことも可能だ。

 方向性は2つある。一つは、「人はなぜ物語を好むのか?」というそもそも論から始まる原則的なものになる(アリストテレス『詩学』とか有名やね)。もう一つは、売れた映画や小説から「面白がりかた」を考えることで、脚本術やストーリーメイキングを生みだす経験則的なノウハウだ。

 この、「基礎」と「応用」の両方を射程において、古典から最新作を俎上に、小説、映画、ドラマ、ゲーム、アニメを縦横に捌き、「物語を楽しむ」だけでなく「物語を創る」にも役に立つ教科書とも言える一冊がある。それが、橋本陽介『物語論 基礎と応用』だ。本書は、物語論(ナラトロジー)に興味がある人の最初の一冊になるし、深堀りするための評論を集約した文献集として扱ってもいい。

 著者は、物語をこう定義する「時間的な展開がある出来事を言葉で語ったもの」。物語というものは、人の観念による構造物だという。目の前に存在しないことを、言葉を使って再構築する。これが、物語るという行為である。これにより、現実は物語化されて理解され、反対に物語は「理解された現実」のように表現される。

 現実は情報量が多すぎだし、因果関係が複雑すぎる。だから因果の見通しを良くするため、登場人物と役割を決めて、出来事を取捨選択し、順序を調整する。そのままだと呑み込めないリアルを、なんとか形にして把握する。そして、いったん物語が現実のシミュレーターとしての役割を担うと、今度は物語の形で現実を伝えることが効率的となる。

 いわば、わたしたちは物語を使うことで、現実を理解したり受け止めることができるのだ。訳が分からない現実を、すくなくとも「分かる」形にしてくれる。物語の本質は、この「分かる」にある。そして、物語の面白さも「どうやって分かってもらえるか」に着目すると、理解しやすくなる。

 よく議論になる方式として、ディエゲーシスとミメーシスがある。語り手が、要約的に筋を語るのがディエゲーシス(ギリシャ語の「語る」)で、そのシーンを演劇的に再現しようとするのをミメーシス(mimic/模倣)になる。引きと寄り、俯瞰と観察、telling と showing になる。

 本書ではさらに、物語に流れる「時間」と、語り手の「視点」、そして叙述のスピードと文体、登場人物の内と外、さらには人称・時制・指示語の使い分けを用いながら、形態学としての物語を分解してみせる。

 俎上に乗せるのは、ガルシア=マルケス『百年の孤独』といったゴリゴリの文学作品から、『シン・ゴジラ』『シュタインズ・ゲート』『この世界の片隅に』など多彩にのぼる。本書がすごいのは、その物語を面白くさせているポイントが納得させるところにある。未読なら読みたくなり、既読なら再読したくなるだろう、「面白さ」を追求するためにね。


『ウィトゲンシュタインの講義 数学の基礎篇』

コーラ・ダイアモンド(編)
講談社学術文庫
レビュー[『ウィトゲンシュタインの講義 数学の基礎篇』はスゴ本]

 「数学の基礎」と銘打っているものの、いわゆる数学の教科書ではない。むしろ、数学の本質は何か、数学を数学たらしめているものは何かについて、徹底的に追求した講義だ。

 数学という存在を、人の知性の産物である「発明」と捉える人がいる。いっぽうで、人が見出した世界の本質である「発見」と見なす人がいる。この議論は、[『神は数学者か』はスゴ本]にて語ったが、いずれの場合にせよ、数学の限界が(仮に)あるとしたならば、それは人の理性の限界であることは了解していただけるだろう。なぜなら、「発明」であれ「発見」であれ、主語が人である限り、その限界も人に属するからである。

 ウィトゲンシュタインの講義は、数学の限界を見極める一方で、数学の底(もともとの了解事項)を明らかにしてくれる。

 数学の底? そんなのユークリッド幾何学やヒルベルトの基礎付けを見るまでもなく、「定義」と「形式」でしょうに(あるいはそこから定義づけられる公理系といってもいい)。本書を手にするまでは、そう考えていた。だが、「発明」であれ「発見」であれ、数学を定義づける前に囲まれている言葉について、ウィトゲンシュタインは揺さぶりをかけてくる。

 本書は、ウィトゲンシュタインが1939年にケンブリッジ大学で行った講義を元にしている。全部で31講あり、この講義を受けた複数の学生のノートを突合せ、再現したのが本書になる。

 ウィトゲンシュタインの講義スタイルは、自分が今まさに考えていることを学生に投げかけ、その反響に応じて思考を展開させてゆく。「1、2、3…」と数えるとは何か。一対一に対応するとはどういうことか。矛盾律とは何かなど、彼の試行錯誤の現場を体感することができる。優秀な学生だけでなく、イマイチな学生からの質問に対する説明も遺されているため、わたしのような「分かりの悪い」生徒でも理解できて有り難い。

 本書をスゴ本にしているのは、受講生としてアラン・チューリングが出席し、積極的に発言していることだ。当時すでに歴史的業績をあげつつあったチューリングの存在感は大きく、ウィトゲンシュタインも意識している(次回はチューリングが欠席予定だから講義内容は振り返りとする、なんてコメントもある)。特に、矛盾律についてウィトゲンシュタインとチューリングが丁々発止する知的格闘はスリリングで、議論ポイントが明確になるだけでなく、手に汗にぎる臨場感をもたらしている。

 ウィトゲンシュタイン哲学の根幹である「意味を問うな用法を問え」は、この講義でしつこく出てくる。どんなに定義を厳密にしても、言葉の「意味」に囚われてしまうと、悪しき影響が出てくることになる。だから、「用法」、すなわち使われる現場に目を向けよというのだ。

 たとえば、虚数にまつわる言説が象徴的だ。虚数という概念が登場したとき、「虚」という表現は困惑や反発を引き起こした。「虚である数」とはどのようなものか、不信感ゆえに受け入れられない人もいたらしい。しかし、不信や困惑は、虚数の計算が実際にしていることが理解され、特に物理学へ応用されることによって、解消されていったという。

 虚数の記号「i」は「空想の」あるいは「現実には存在しない」を意味する「imaginary」から取られているが、「空想の」という意味に囚われている限り、けっして虚数を理解することはできない。自乗して-1になるという定義や、それが複素数という形で用いられる量子力学や電磁気学の現場で、虚数の「意味」が理解される。記号としての言葉の「意味」にこだわりるあまり、実際の現場で用いられる仕方を省みないことに、ウィトゲンシュタインは警告を発しているのである。

 数学が人の扱う存在である限り、定義であれ証明であれ、数学が用いられる現場で「意味」が伝えられる。数学に限界や底があるとするならば、これを用いる現場(人の想像が及ぶところ)になる。なかでも「人」にとって興味深い(便利な・都合の良い)と感じられる方向、すなわち科学技術と親和性の高い方面に向けて概念が形成されてゆくだろう―――そう考えさせられるスゴ本なり。


『数学はなぜ哲学の問題になるのか』

イアン・ハッキング
森北出版
レビュー[数学はなぜ哲学の問題になるのか]

 数学と、数学の哲学をメタ的に考える一冊。

 数学は人の領域を(論理的に)超えることができる。「数学でなしうる範囲=人の抽象化できる限界」にもかかわらず、数学の範囲内の概念を対応付けることにより新たな領域を拡張することができるから。

 そう考えるわたしにとって、本書を読むことは、たいへんスリリングな経験だった。なぜなら、「数学の哲学」そのものを問うているから。

 重要なポイントは、著者イアン・ハッキングが「数学とは何か」そのものについて答えようとしていないところにある。むしろ、「数学とは何か」について議論してきた数学者や哲学者を半ば揶揄するような言い回しで、数学の哲学の問題圏を明らかにする。「数学とは何か」という問いを成立させている状況が、何によって由来し、どのような前提のもとに議論されてきたのかを問い直している。

 この問い直しにより、暗黙のうちに受け入れてしまった前提や、所与のものとして未検討のまま議論に持ち込んでいる条件が明らかになる。数学が「数を数える」ところから出発している前提は、わたしたちが不連続な世界を「自然」と見なしているからに拠る。数学の世界から「時間」が注意深く取り除かれていることは以前から気になっていたが、本書によると、イマヌエル・カントが早々と指摘していたという。

 そして、数学に携わる人であれば当たり前のものとして扱ってしまう「証明」について歴史的に分析する。すなわち、学習と省察の後に完璧な理解(Aha!)が一挙に訪れる「デカルト的証明」と、体系的なチェックを機械的に一行一行積み重ねたうえで到達する「ライプニッツ的証明」という両極端な2つの観念を提示する。

 両者は同じ「証明」という言葉が使われているものの、20世紀になって、食い違いを見せ始めたという。そうすることで、「証明」が多様なものであること、さらには証明のない数学の可能性までも考察する。つまり、「証明」のような概念ですら、特定の時代や集団に限定されており、ある特定の推論スタイルのもとで初めて「証明」が証明としての意義をもちうるのだ。

数学は人間的な活動である。それは、われわれの肉体に、その脳やその手に根差した営みである。また、それを形作ってきたのは、きわめて特定的な時代と場所における人間の共同体である。

人間の能力には、数学的な思考を行うための、ある一定の認知能力の地層とでも言うべきものがあり、われわれ人間はその活用法を見出してきたわけだが、数学的思考の前提条件としての精神状態も、こうした地層の一部をなしている。

 数学は所与の、「当たり前の」ものとして扱っている限り、数学的活動は既存の新たな組み合わせによる「発見」か「発明」になる。人間的活動である数学を「数学」たらしめているスタイルが、時代や社会によって変わっていくのであれば、数学を用いて人を超えることだってできる。数を拡張してきたように、概念をも拡張することができるのである。

 数学をメタ的に考えることで、数学の拡張先まで射程に入れられる一冊。


『シルバー民主主義の政治経済学』

島澤諭
日本経済新聞出版社
レビュー[老人栄えて国滅ぶ『シルバー民主主義の政治経済学』]

 この国は老人に滅ぼされる。そう思っていたが、問題はもっと根深いようだ。マスコミが偏向報道するように、わたしのタイムラインは偏っていることに自覚的にならないと。単に考えさせられるだけでなく、次に(わたしが)選ぶべき方向も見えてくる一冊。

 全国から吸い上げられた税金は、高齢者に注ぎ込まれる。年金世代は現役世代の犠牲の上にあぐらをかき、既得権を貪り、財政改革の邪魔をする。「年金」という聖域に手をつけようものなら、マスコミが急先鋒となって蜂の巣をつついたように騒ぎ出す。「このままじゃやっていけない」「死ねというのか」と叫ぶ老人を巣鴨あたりでインタビューし、大々的にキャンペーンを張る。

 いっぽう、コストカットのあおりを受け、手取りは目減りし、不安定な雇用に苦労する現役世代の声は捨てられる。なぜなら、逃げ切る気まんまんの高齢者の方が多数だから。民主主義は多数決。さまざまな意見を最終的に決めるのは、「声」の大きいほうである。数の力を頼りに、老人が現在と未来を食い物にする、「シルバー民主主義」とはそんな状況だ。

 だが、本書によるとこの状況は、「シルバー民主主義」ではないらしい。

 たしかに、高齢者優遇の政策が選ばれていることは事実だ。本書は、マクロデータを用いて実証分析を行い、都道府県レベルのみならず、全国レベル、欧米の先進国の状況からしてもシルバー優遇の政策が採られていてるという。

 しかし、著者によると、シルバー優遇だからといって、シルバー民主主義にはならないらしい。本書では、「シルバー民主主義」とは、高齢者が政策決定の主導権を握り、必要な改革を先送りし、老人衆愚政治を生みだしている状況になる。政党が高齢者の意向を忖度しているのは事実だが、それは別の理由があるからであり、高齢者が独裁的に振舞っているからではないというのだ。

 つまりこうだ、高齢者のほとんどは引退し年金生活しており、医療や介護への需要が強いという共通点を持つ。高齢者の「民意」は集約されており、再配分政策によって誘引できる票は多い。いっぽう若者世代は逆だ。仕事、結婚、育児の有無などバラツキが大きく、意見の一致は困難で、政党へのアピール度は低い。政党から見ると、高齢者のほうが政策に対する見返りが大きい(分かりやすいともいう)。

 結果、高齢者に優しい政策を優先する政策が、より多く採択される。本書はこの現象を、「シルバーファースト現象」と呼び、「シルバー民主主義」と厳格に区別しようとする。なぜなら、高齢者だけが独占的に優遇されているのではなく、低所得者にも社会保障給付の形でバラマキがなされているからという。

 かつては、公共事業による地元へのバラマキという利益誘導モデルが成り立っていたが、それが行き詰まった先に、社会保障給付があったという。そして、高齢者だけでなく、バブル崩壊後のデフレ期において貧困化した若者世代にもバラマキを始めたのが、現代の政治の状況だというのだ。

 すでに現役世代の負担では給付分を賄えなくなっているが、これを財政赤字を介在させることで先送りさせている(本書では、負担なしに給付を受けられる部分を、社会保障におけるバラマキと定義する)。その本質はかつて公共事業で地元に利益誘導していたバラマキと同じ構造であり、高齢化が進む地方ではより大規模に進行しているという。

 この状況に目をつぶり、現役世代と年金世代が暗黙裡に結託することで、将来の、まだ生まれていない世代の財布に手を出している。赤字財政や社会保障制度の受益負担構造を放置して、いま生きている人たちの「民意」を忖度し、将来世代へ債務を先送りしている。債務額は926兆円に達しており、将来世代の生活は実質的に立ちいかなくなっていることが分かっている。この、財政的児童虐待こそが、真の問題だというのだ。

 やっていることは時間かせぎなので、遅かれ早かれ終わりがくる。これから生まれてくる人たちの生活が成り立たなくなることに、これから生まれてくる人たちが気付くころ、財政赤字ファイナンスにより維持されてきた暗黙の世代間の結託は終焉を迎えるという。いわゆる、金(ファイナンス)の切れ目が、縁(結託)の切れ目となる。

 では、どうすればよいか。高齢者に知らしめるだけではなく、「知ったこっちゃない」という見て見ぬふりをする人々も含め、どうすればこの状況を克服できるか。面白いアイディアが紹介されている。

 まず、民意の高齢化を反転させる投票制度改革を提言する。有権者の年齢に満たない子どもの数に応じて、親に投票権を行使させる「ドメイン投票制度」や、有権者の投票率ではなく年齢構成に応じて代表を選ぶ「年齢別選挙区制度」、さらに平均余命と現在の年齢の差に応じた票数を与える「平均余命投票制度」が紹介される。選挙があるたび、妻と「将来のためなら、子どもの数だけ投票できればいいのにね」と話していたが、検討の俎上にあったのかと驚く。

 さらに、「民意」を遮断する非民主主義制度の提案をする。金融に対する中央銀行のような、民意の高齢化に対する独立機関を政策決定プロセスに噛ませるのだ。具体的には、世代間格差を是正する義務を政府やに課す法律を制定し、その実務を担当する独立機関を設置する。民主主義の外側から制約をかけるため、抵抗が大きくなりそうだが、それぐらいの荒療治が必要なのかもしれぬ。

 著者は、世代間の対立の激化を避けつつ、なんとか財政的児童虐待をなくそうとする。その志は素晴らしいし、本書がもっと知られればと願う。だが、上述のアイデアが実行に移されるのは、もっとずっと先になるだろう。「現在の高齢者」が死に絶え、「現在の現役」が高齢者となる頃、ようやく広く議論されるようになるのではないかと。

 高齢者が「多数」を占める現在はいかんともしがたいが、自分ができる選択をするために、読むべき一冊。



2018ベスト「フィクション」

『夜のみだらな鳥』

ホセ・ドノソ
水声社
レビュー1[完璧な悪夢『夜のみだらな鳥』]
レビュー2[『夜のみだらな鳥』の魅力を2,000字ぐらいで語る(一夜限りのドノソ祭レポート)]
レビュー3[劇薬小説「夜のみだらな鳥」]
togetter[『夜のみだらな鳥』を堪能する、一夜限りのドノソ祭!]

Donoso

これは凄い。
これは凄い。
これは凄い。

 どろり濃厚ゲル状の夢に、呑まれ、溺れ、とり憑かれる体験。息詰まるような読書、いや毒書である。完璧な悪夢があるとするなら、これを読むことだ。

 そもそもの発端は、ふくろうさんのブログ「キリキリソテーにうってつけの日」で、☆5を叩き出した[『夜のみだらな鳥』ホセ・ドノソ]を読んだことから始まる。こんな風に紹介している。

『夜のみだらな鳥』を読んでいる最中、定期的に悪夢を見た。夢はだいたい極彩色のトリップしたしろもので、どろっどろの黒いタールの上に、蛍光色をした砂糖菓子の人形をぶちまけたようなイメージ。それらが溶け崩れてぐるぐる混ざって、私は濁流の中へ飲まれていく。本書の中身を抽象化したらきっとこんな感じになるだろう。やるな、私の悪夢ども。

 海外文学について的確&冷静に評価をするふくろうさんが、ここまで圧倒され翻弄されるのは珍しい……とAmazonを見に行ったら、平気で諭吉していた。当時は絶版状態で、背取屋がべらぼうな値段をつけていたのだ。

 図書館で借りたが最後、この毒に中った。極彩色の悪夢を直視する経験は他に代えがたく、以後、中毒状態だった。それが、本年、復刊されたのだ! これで日本中に悪夢がばら撒かれることになるぞ!

 事実であれ小説であれ、物語は世界を理解するための方便だ。だから、読み手は、原因と結果がつながっていることを暗黙のお約束とする。また、語り手は、たとえどんなに異形であっても、「語るべきもの」を伝える役目として、一つの存在であることが前提だ。さらに読み手はまさに、この本を読んでいる”わたし”であることは、言うまでもない。

 これが、ぜんぶ壊れる。一度にすべてが起きるのだ。原因と結果、語り手と読み手が混ざり合い喰い合う。語られているモノと、語っているモノが、重なりあう。何を言っているのか分からないと思うが、わたしも、何をされたのか分からない。

 しかも、語り手が頻繁に変わる。見捨てられた修道院で、ずっと主人公(ムディート)が語り手として回想しているのかと思いきや、いつのまにか「語られている相手」が語り手としてしゃべっている。「語られている相手」は、彼が恋焦がれる女だったり、彼を支配する大富豪だったり、その大富豪の畸形の子だったり、彼を犯そうと追いかける老婆だったり、その土地に古くから伝わる神話そのものだったり。誰かの悪夢を盗み見ているようで、同時に窃視しているわたし自身が覗かれているような気になる。

 その入れ替わりは、彼に憑依する形ではない。人格が崩壊した主人公の戯言として読んでしまえば簡単なのだが、描写がそうはさせない。客観描写を衒った神視点や、ドストエフスキーばりの連続会話、ジョイスやウルフの意識の流れに乗って読んでいくうちに、彼の語りを聞く「わたし」が知覚する世界が変転する描写で、シームレスに成り代わる。

 アインシュタインは、時間が存在する理由と、「一度にすべてのことが同時に起こらないため」と言ったが、わたしはその場所を一つだけ知っている。それは、わたしが見る悪夢だ。夢の中では、すべてのことが一度に起きる。まだ始まっていないのに、何が起きるのか、そして「なぜ」それが起きたのかを、わたしは知っている。と同時に、起きていないのに起きたことが経験済みとして扱われる。

 『夜のみだらな鳥』を読むことで、まさにこれが起きる。本書が完璧な悪夢である理由はこれ。

 物語に「ストーリー」すなわち予定調和や業(ごう)・因果を求める人がいる(というか、そんな人が小説を読む大半である)。そんな人向けの「ストーリー」を述べるなら、畸形の息子のために畸形の楽園を築こうとした大富豪の話が適切だろう。

 広大な敷地を買取り、世間から隔絶し、美しい豪邸と庭園、それを取り囲む村落という「世界」を丸ごとつくりだす。そこに、額に隻眼を持つ医師、身体は巨大なのに半分しかない女、侏儒、異形の者たちを高給で雇い、生まれたばかりの畸形の息子の周りに侍らせる。そこでは、五体満足の人間は逆に「異常」とされ、不具扱いされる。この、社会から隔離された世界のマネジメントを任されたのが、この物語の語り手である主人公のウンベルト・ペニャローサになる。

 ん? 先ほど主人公は「ムディート」と言ったじゃないか、というツッコミ上等そのとおり。途中から断りなく、ムディートとウンベルト・ペニャローサが重なり合う。呼び名の違いと済ませたいが、それぞれの過去が微妙にズレる。同じ名なのに別人物のように振る舞い、別名なのに同一人物のように扱われるのがザラで、そのうち両方を受け入れるようになる。

 しかも、ムディートが語る場所である半迷宮と化した修道院と、ウンベルト・ペニャローサが語る場所である畸形の楽園と化した豪邸が重なり合う。同じ過去と語るモチーフ、重なり合う人称「おれ」を用いることで、両者と両所は多重露光のように映し出される。

 さらに、この楽園に住まう畸形の息子「ボーイ」も、この露光に重なってくる。すなわち、ムディート=ウンベルト・ペニャローサ=ボーイの構造として「おれ」が語るのだ。しかも、場所のみならず、ムディートの回想(の中のウンベルト・ペニャローサの過去(の中のボーイの知見・対話)をボーイが否定した事実)を元にして、ムディートの現実が上書きされる。つまり、語り/語られの時間軸すら逆転したり捻じれている。

 読み手は、語り手がしゃべっているモノは何であるのか分からなくなり、小説内時間軸のどの時点の語りなのか見失い、そして、しゃべっている語り手が誰なのか、そもそも、語り手は誰にたいしてしゃべっているのかすら分からなくなる(語り手は唐突に「あなた」を言い出すが、それは読んでる「わたし」ではない)。

 起きていることと、その理由と、それを語るものと、語られるもの、それを聞く存在、これらすべてが、いちどきに発生し、知覚される。おぞましい存在から、うつくしい存在が生まれる。その時間のかかるシークエンスを、瞬間に感じることができる。善悪と美醜の混濁を、支離滅裂と片付けるにはもったいない、きちんと呑まれて、極上の、完璧な悪夢を堪能すべし。

 注意してほしいのだが、Amazon を始め、ネットショップで扱っていない(水声社のポリシーらしい)。大型書店なら必ずあるし、扱ってない書店なら注文して取り寄せるのが吉。Amazon にいるのは背取屋で、5,000円超という値をつけているが、定価は3,500円だぞ。

 こんな素敵な(?)悪夢に出会えたのはふくろうさんのおかげ、ありがとうございます!



2018ベスト「ノンフィクション」

『思想のドラマトゥルギー』

林達夫・久野収
平凡社ライブラリー
レビュー[『思想のドラマトゥルギー』はスゴ本]

 これも読書猿さんのおかげで出会えた一冊。読書猿さんが何十年もかけて読んでいる本が、『思想のドラマトゥルギー』だという([とても遅い読書:10年かけて読んだ本のこと])。

 断っておくが、けして難しい本ではない。対談集で、筆致は口語体のままを残し、軽妙洒脱という言葉がぴったりの、たいへん読みやすい本だといえる。

 だが、手にしてみればすぐにわかる。林達夫と久野収という知識人が、興味の赴くまま、知で殴りあう様が凄まじい。西洋哲学や思想史がベースなのだろうが、そこに収まらず、美学、文学、演劇、風俗、詩劇から歌謡、ハイカルチャーから俗なものまで続々と出てくる。

 広いかと思えば深く、深いかと思えば濃く、濃いかと思えば熱い議論が展開される。互いが相手を知のオモチャだと思っていて、力いっぱい振り回しても壊れないつもりで、本気で遊びにかかる。衒学のギアが上がるにつれ、テーマと論点がドリフトしまくる。ふり落とされないようにつかまっているのがせいいっぱいだ。出てくる書名と著者名が膨大で、巻末の索引を熟読する。おかげで読みたいリストが増える増える。

 いいな、と思うのは、本の紹介合戦にならないところ。いまどきの「知の巨人」が対談をすると、名著名作を並べ立てる。紹介文句はWikipediaを3行しただけで、その中身を、どう咀嚼して、どの辺の肉となり血となっているのか、一切言及がない。「読んだ=概要を知ってる」と思い込んでいるらしい。ひたすら名著の威光(?)を盾にして自分をカサ上げしてる感じ。いっぱい線を引いて書き込みをして、すごいね、というだけである。

 林氏は、まるでそんな連中を見越したかのように、「ヘーゲル読みのヘーゲル知らず」と喝破する。何千人とヘーゲルを読んでいるくせに、本当にヘーゲルのどこか一面でも(例えば芸術哲学なら『美学講義』)を身につけてものにした、というのはまるで聞かないという。知の対象として「知って」いるだけで、その知をもって「使って」いる人がいないという。では、知を使うとは何か?

 たとえば、デカルト。知識のひけらかしにはならない。同時代人のガリレオを持ち出し、デカルトが自覚していた問題を炙り出す。真実を語ればおのずから伝わるというのは嘘であることを、ガリレオ自身よく分かっていた。だから彼は、レトリックを駆使して対話体の『天文対話』や『新天文対話』を書いたという。

デカルトは独りで勉強するのは好きだが、書くことは嫌い、議論するのも嫌いとだだをこねこね、「レトリック抜きの哲学」で行くんだなどと涼しい顔をして見得を切ってみせたが、すぐあとで、事、志とまるで違うという羽目に陥ったことに気がついた。デカルトは、コミュニケーションの問題が落丁になっていたんだな。真理を言うということは、結局はそれを「他人」に納得させることでしょう。

 正しいことを言うことと、それを正しく伝えられることは別である。だから、古代から哲人は、説得の技術であるレトリックの重要性をよく認識していた。具体的には、「ペンを手にして」書物を読む。思想の相克ドラマの中で、賛同ならば補論を、敵対ならば反論を掲げ、ぶつけ、捏ね上げる。そこから生まれるセリフを再編集し、名句のノートを作る。エラスムスやモンテーニュの金言集や『エセー』が有名だが、そうした格言集はもともと自家製の取材活動の成果物だったのだ。

 そして、説得は一方的ではない。ソクラテスに限らず、必ずそれぞれの立場からの議論が伴う対話の形をとるという(ここでプラトンのソクラティック・ダイアローグに話がドリフトするのが楽しい)。靴屋とソクラテスが靴づくりについて問答する際、学者たちは、ソクラテスが言ったことだけに注目し、あとの登場人物はその引き立て役として軽くあしらっているだけだという。だが、その場の全員が対等だからこそ、人に拠らない(感情論に陥らない)で立論できるロゴスが精彩を放つというのである。

 ガリレオの科学論の伝え方から始まって、デカルトにとっての障壁を超えるためのレトリック、さらにその具体論としてのモンテーニュを経て、哲学の実践は「対話」にあるということをプラトンを通じて確認する―――これが、わずかなあいまに詰め込まれており、どろり濃厚なばかりか、読むべき本も再読すべき本も積みあがる仕掛けだ。

 読めば読むほど刺さる話ばかり。読み返すたびに新たな「知りたい」が増え、身につけるべき知の技法に気づくことになるだろう。「読んだ=身につけた」とするなら、わたしの場合、10年かけてもそこまで行けるか自信がない。それでも、何度も読んで発見をし続けよう、そういう勇気をくれる一冊でもある。



スゴ本2019

 tumblrで出会った寸鉄に、次のようなものがある。「めいぼうじん秋場所」のように定期的に浮上してくるため、その度に心に戒めている。

“あなたを突き刺し、打ち砕き、恥じさせ、叩きのめした後に手を伸ばして学びに導くものこそ名言、名著。俺の言いたいこと全部言ってくれてる系は、あなたのしょぼいプライドを満足させて金をむしり取る道化。”

 人生は短く、読む本は多い。プライドを満足させる「だけ」の本や、新しい「だけ」の本、メタファーで分かった気にさせる「だけ」の本を手にしていると、本当に読むべき本までたどり着けない。

 人生は短いから、「あとで読む」は、後で読まない。読みたい本は「いま」読まねばならぬ。一頁でも一行でも。ダニエル・デネット『心の進化を解明する』と結城浩『数学ガール・ポアンカレ予想』を再読・再々読したい。Sabine Hossenfelder ”Lost in Math” を読破したい。松岡正剛&荒俣宏『遊読365冊』とAlex Johnson”A Book of Book Lists”を手がかりに、読書の幅を広げたい。昨年宣言してて読めなかった、ノース&ウォリス&ワインガスト『暴力と社会秩序』とナボコフ『アーダ』を読みたい。葦原大介『ワールドトリガー』、林田球『ドロヘドロ』を大人買い&イッキ読みしたい。積読山で輝いているウィトゲンシュタイン『哲学探究』そろそろ再開せねば。ピーター・ゴドフリー=スミス『タコの心身問題』と飛浩隆『零號琴』めっちゃ楽しみ! ああ、人生は短いのに、読みたい本が多すぎる!

 人生は短い、読むだけでなく、読書会をやりたい。[スゴ本オフ]の主催だけでなく、他の読書会に参加したい。フィルカルのイベントを手がかりに分析哲学の勉強を進めたい。12/9(日)の[未来思想研究会 第22回読書会:知性 『ランドスケープと夏の定理』高島雄哉×『ソラリス』スタニスワフ・レム]楽しみ! 書店で読書会という、お財布ピンチな読書会をもっとやりたい([もっとも危険な読書会@下北沢Book&Beer]

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 なぜなら、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるのだから。

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