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人形を考えることは、人間を考えることである『人形論』

 これ面白かった! わたしの興味の真ん中を貫くのみならず、「人間とは何か」を考える上で、新しい導線を示してくれるスゴ本。

 一言なら「人形の哲学」。人形に寄り添って、それを愛でる人間にも触れつつ、人間との関係性の上で「人形とは何か」を理論化しようとする。冒頭で著者自身も告白する通り、人形ワールドはあまりに広く深く多様であり、単一の本質に収斂することはない。これは、読み手の「人形体験」に応じて首肯いただけるだろう。

 わたしの場合、最も強烈だったのが、松丸本舗で球体関節人形に会ったとき(清水真理の人形だった)。書棚の一角の透明なケースに収められた”彼女”を見たとき、沸いてきたものを言葉にするのは難しい。美しさ、愛らしさ、醜悪さといった言葉をどんなに尽くしても、言語だけでは捉えきれない。『人形論』の著者・金森修は、その言葉で介入できない「何か」を承知の上で語ろうとする。

 まず、人形の歴史を振り返り、人形ワールドの概念的な整備を行う。まじないの対象物としての這子(ほうこ)や雛、欧州貴族階級にとってのビスクドールや現代日本のゴシックドール、さらに未来のロボットやレプリカント、ラヴドールなどを紹介しながら、人形ワールドの基底にあたるものを探る。

 それは、「呪術」「愛玩」「鑑賞」の3つの概念になるという。祈りや呪い、願いや恐れを体現する呪術的存在としての人形であり、可愛い・愛おしい・抱きたい存在としての愛玩的存在としての人形であり、制度化された芸術が先行し、その上で愛好される鑑賞的存在としての人形になる。

 さらに、人形は素材の如何にかかわらず、モノとして存在していなければならない制約がある。つまり、人形は物質性を持たねばならないという。この特徴は、呪術、愛玩、鑑賞のいずであっても、どの場合にも共通する前提となる。著者は、「物質性」という共通項を頂点とし、「呪術性」「愛玩性」「鑑賞性」からなる三角形を底辺とする「人形三角錐」を提示する。

 そして、この人形三角錐という概念的骨格を元に人間との関係性の観点から、人形ワールドを横断してゆく。それぞれの探究がたいへん興味深く、未知の事例の驚きのみならず、既知の人形譚の新たな断面を見出し、知的興奮がいやが上にも増す読書となった。

 たとえば、ピュグマリオニズム。自ら彫り上げた象牙の人形を溺愛するあまり、人形に命が吹き込まれる逸話が有名だが、いわゆる人形愛を超えた分析がなされる。『未来のイヴ』や乱歩、源氏の若紫などから、未熟な女性を思い通りに育て上げたいという願望の裏側に、人形愛が控えていることを指摘する。そして、人造人間や人形への愛には、どこかに死姦や屍体愛(ネクロフィリア)を彷彿とさせるものがあるという。

 さらに、澁澤龍彦『少女コレクション序説』を引きながら、人形愛を支える重要な要素として、人形の物質性を指摘する。人形は物体であって生体ではないばかりでなく、主体ですらない。ファウルズ『コレクター』を見るまでもなく、少女コレクションは犯罪以外にありえないものの、「観念の世界のみにおいて少女から主体性を剥ぎ取り純粋客体として見る余地」は残されているという。

女を一個の物体に近づけることは、同時にその人を純粋客体として位置づけることだ。それは女性を人形化することだ。そして想像の中で女性を蒐集し、女性から生命と主体性を取り上げることが、本物の人形への強い執着と重なり合う。人形愛はエロティシズムの発現そのものだが、同時にそこにはどうしても屍体愛(ネクロフィリア)の不穏な影が付き従うのである。

 面白いのは、人形の話をしているにもかかわらず、人間の(女の)話になっている。著者は気付いていないように見えるが、人形の「呪術性」「愛玩性」「鑑賞性」の観点は、まんま男性の女性に対するその観点に重ねた分析が可能である(やったらポリコレ攻撃を喰らいそうだが)。

 「政治的に正しくない」ついで言うなら、ラブドールを改造した「妊娠するアンドロイド」がある。「産む機械」に象徴される家父長制の生殖システムでは、理想化された妊婦像や母像が生産され、女性の身体機能をコントロールすることが強調される。そのカウンターが「妊娠するアンドロイド」が示すディストピアになる。このアートは女子大生が制作したものだが、もし男性だったならば、ポリティカル「イン」コレクトとして攻撃されていたことは想像に難くない。

 人形の話から始まる「人間の亜人化」論も面白い。著者は、人間が人間らしく生きていける条件を備えた範囲として「人間圏」を提唱する。その条件は2つあり、1) 生物学的に同種であることと、2) 同時代に属する人間集団が「人間として見なす」ことの両方が必須になる。「人間圏」は絶えず揺れ動き、その境界付近に住まう「境界人間」「人外」は、差別や揶揄、侮辱、無視、追放、殺害などの危険にさらされた存在だという。

 これ、抽象的に言っているけれど、かなり危険な人間性の議論に繋がる。すなわち、「人間圏」は文化や社会により変化し、それぞれが曖昧に重なり合うことだって可能になる。ロボットやレプリカント、脳死患者や強制収容所のユダヤ人、WASPに対置される黒人、ヒスパニック、アジア系移民、イスラム国との対立構造下でのムスリムなど、亜人化にする理屈は社会によって自在に決められることになる。

 人形は、この境界を行き来する存在になる。幼い(人間の)少女から大切に扱われ、いっときは「人間扱い」されるものの、少女の成長とともに飽きられ、捨てられ、埃にまみれて壊れゆく。「人形の魅惑は、その肌の下に湛えられている滅びの予感の中にあり、人形は最後に壊れなければならない」という。穢れを引き受ける代替物、少女に愛される特権的玩具、倉庫に放置されるがらくた―――そのいずれでもありうる人形は、「人間の隠喩」を具現化したものだというのである。

 「人形とは何か」について掘り下げるほどに、その問いは「人間とは何か」に迫ってゆく作業になる。人形について語っているのに、人間的存在の複雑さについての議論につながってゆくのが非常に面白い。

 人形を考えることは、人間を考えることにつながる。

Ningyou

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