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『愛とか正義とか』はスゴ本

 当たり前だと思っていたことが、あたりまえでないことに気付き、根本から世界が刷新される。もちろん刷新されたのは世界ではなく、わたしだ。OSレベルで無意識のうちにしてきた「考える」を、あらためて知る。読前読後で世界を(わたしを)変えるスゴ本なり。

 本書は、哲学・倫理学の入門書になるのだが、そこらの「哲学入門」ではない。「自分で考える」ことを目的とした入門書という意味で、まったく新しい。

 なぜなら、そこらの「哲学入門」は、哲学していないから。むしろ反対に、「哲学しないこと」を目指している。つまりこうだ、イラストや図解や簡単なセリフにまとめた哲学者や論を紹介しているだけにすぎぬ。哲学とは、「自分で考える」ことなのに、それを捨て去って、「これが哲学ですよ」という「答え」を提示しているのだ。

 もちろん、「自分で考える」よすがとして過去の哲学者をとりあげ、たとえば現代的な問いに対し斬り込み方や論の立て方をシミュレートするのなら分かる。結果、「自分で考える」アプローチを提示していることになるからね。

 しかし、哲学者をキャラ化して決め台詞のような一言半句の「答えのまとめ」を並べるのは、「自分で考える」ことではない。それはむしろ、「自分で考えるな」というメッセージに等しい。「分かった気分になる」だけで、雑学クイズや雑談ネタの役にたつぐらいが関の山。

 哲学は動詞だ。人名とか論とか主義といった名詞の集合ではない(それは哲学する”手段”だ)。哲学は「する」ものである。

 すなわち、哲学とは「自分で考える」ことだ。調べれば分かること(歴史や文化)は哲学の範疇外だし、調べ方が分かっていること(科学や経済)は哲学の範疇外である。だが、調べれば分かることでも、分かったことで見解や評価が対立することがある。または、調べ方が分かっていることでも、「それは本当なのか」と疑わしい点が出てくることがある。

 そこからが哲学の出番になる。「それは本当は何か」について、さらに考えるのだ。それ以上に調べられないこと、調べ方そのものが分かっていない(確立されていない)ことでも、「自分で考える」ことができる。それが哲学なのだ。

 急いで追記しなければならないのだが、哲学は答えを蔑ろにしているわけではない。よくある「哲学とは答えのない問い」ではない。分かった風な口を利くとカッコよく見えるけど、間違っている。問いが別の問いになったり、疑問が消えてしまったりする。

 だから、哲学は、答えだけではなく、「問いを発する疑問がどうなったか」に着目する。「全ての問いに正解がある」という思い込みで進めると、足をすくわれることになる。「科学的な見方」に染まっている人ほどそうだ。わたし自身がそうだったが、著者はこう喝破する。

「科学には答えがあるけれど、哲学は答えがない」と思う人がいますが、そうではありません。「科学には答えがある」のではなくて、「科学はただ一つの答えが決まるように手続きを定めてある」というのが正解です。だから、「ザ・科学」ができるわけです(逆に「科学は答えが一つに決まらないような問題を避ける」わけで、科学が避けた問題はどこに行くのかというと、これが哲学に行きます)。

 これな。

 科学は、解ける問題、解けそうな問題を解いているにすぎぬ。それはそれで、技術につながり人の世界を豊かにするから素晴らしい。だが、「全ては科学で解ける」と言った瞬間、自己矛盾に陥ることになる。哲学と、そこから派生した科学との関係を、ここまで明快にした文章はない。これ読んで、ずっと科学哲学の分野でモヤモヤしていた霧が、さっと晴れる心地になる。

 では、哲学する、すなわち「自分で考える」ためにどうするか? それこそ哲学者の数だけあるという方法のうち、本書はたった一つに絞る。基本的で、応用が利き、かつ、誰しも経験してきたもの、つまり「概念」を使った哲学だ。現実をつかみとるための強力な方法なり。

 この「概念」を、手とり足とり、懇切丁寧に説明する。現実世界から関心を見つけ、抽象化し、ものごとを捉える枠組みををつくり上げる。本書では「正義」をとり上げる。「正義とは何か」について例示し、反対の例(不正)を挙げ、なにが欠けていると正義ではなくなるのかを議論する。

 そこから共通的な概念を抽出する手さばきが上手い。かみ合わない議論のたいていの原因は前提にあることを示し、かみ合わせる。たとえば「正義の反対は、また別の正義」「正義なんてものはない」「正義は我にありと思う人どうしが激しく争いあう」という話がある。正義論について、うまく付けたオチに見えるが、本当だろうか? と腑分けする。

 ここで言っているのは、「対立している双方が、自分を正義だと主張する」ことだ。それは「主張が様々に違っている」ことであり、当然のことだろう。だが、そこから「正義はない」ということにはつながらない。

 様々な主張があり、互いに意見が対立するから、そこで正義(という概念)が必要になってくる。つまり、正義は「ある」とか「ない」とかいう前提が誤っており、それぞれの意見をバランスよく調整するために実現しなければならない理念なのだという。もちろん完全にバランスのとれた意見集約はフィクションだろう。だが、そのフィクションに向けて意見を調整することが必要だということは、皆がうなずくだろう。そのフィクションを、「正義」と呼んでいるのだ。

 このように「正義」という概念をつくり上げ、修正したり拡張する。さらに その概念を通して世界を見たり、別の概念と並べて比較することで、世界観を組み立てる。本書では、「正義」の他に「愛」と「自由」について議論する。それぞれ別個の概念かと思いきや、実はつながっていたり反発していたりするのが面白い。

 この記事では、そんな議論のエッセンスだけを抽出して述べているが、本書ではもっとベタに攻める。曰く、「デスノートの夜神月は正義か?」という問いを掘り下げたり、『北斗の拳』は、「正義」のラオウと「愛」のケンシロウの闘いだと分析する。哲学初心者に対し、ここまで読み手に寄り添って、かつ「哲学する」を実践した本はない。おまけに一読するだけで、「概念」という強力な武器が手に入る。

 本書は、読書猿さんがNo.1スゴ本としてお薦めしてくれた一冊。素晴らしい本を教えていただき、ありがとうございます。確かにスゴい本でした。「歩くことを、もう一度教わる」ように確かめながら読みました。

 そして、皆さんにも強力にお薦めする。読めば変わる。読前読後で、世界を(読み手を)変えてしまうスゴ本なり。

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生きのびるための狂気に自覚的であること『杳子』

 電車の窓から眺めていると、自分が動いているのか、世界が流れているのか、分からなくなるときがある。特に駅に停まっているとき、向かい側の電車が動き出すとき、まるで自分の車両が発車したかのような錯覚に陥る。いまいる場所をむりやり認識しようと、軽い吐き気とともに自分を再起動する。

 古井由吉の短編『杳子』の導入部が、まさにそうだった。「杳子は深い谷底に一人で坐っていた」から始まる、精神を病む女子大生と青年との異様な出会いの場面である。深い山中から、ふいに開けた谷に出るとき、眼前の岩という岩が(静止しているにもかかわらず)流れ落ちるように見えるときがある。

 視界を覆い尽くす山の圧力を直接受け取るいっぽう、自身の卑小な重さと相対化し、身体が浮き上がような、さもなくば岩がのしかかってくる感覚だ。もちろんこれは錯覚なのだが、平衡感覚を取り戻そうと、軽いめまいとともに自分を再起動する必要がある。これ、山に入ったときにしかありえない経験だと思っていたが、文章で追体験させる技量がすごい。

 杳子は立てなくなり、たった独りで谷底に坐り込むことになる。そこへ、やはり一人で登山をしている青年が現れるのだが...... これラブストーリーなのかね。杳子も青年も大学生で、性も愛もあるのだが、生々しくも薄暗く描かれている。「杳として行方知れない」のヨウで、杳い(暗い)子という意味でもあるのだが、外見は明るく奇矯に振舞うときすらある。杳子は「病気」であると診断されるのだが、躁うつ病、今なら双極性障害になるのか。

 たとえば、「食べる」という何でもない行為を極端に恥じたり、立ったり歩いたりといった日常的な動作を徹底して意識的に行う。自分の躰(からだ)のありかが、分からなくなってしまう。これは、自らをとりもどそうとあがきながら、後に明かされる血の運命によって、世界に対して立ちすくむ少女から女への物語としても読める。

 対する青年の呑み込まれ方が面白い。肉体的な深まりにとともに、自分の存在が彼女の病気を後押ししているのかと悩み、ときに引っ張りだそうとしたり、あるいは共振したりする。杳子からすると、精神的ひきこもり状態だったのが、男性経験をトリガーとして、病として追認されたのではないかと。

 この杳子のふらつきは、精神的な病すなわち狂気として扱われているが、その事実そのものが面白い。杳子の発言やふるまいは、「病気」には見えぬ。エキセントリックな言動は、世界が流れているのか、自分が動いているのか分からなくなり、自分を無理やり再起動させているようにも見える。そして、自分の記憶や身体の不確かさを受け入れ、自律的に動いていることを再確認しながら「自分の外側を保つ」ことは、現代では至極あたりまえのことだから。

 古井由吉が著した『杳子』が世に出たのが1970年、およそ半世紀前になる。この作品に貼られた「内向の世代」というレッテルには、社会の葛藤から目を背けて私生活ばかりを追求する批判を込められていた。だが、今読むと、ものすごく「今のいま」を示しているように見える。杳子が訴える、「自分」というものが、身体の内側から滑り落ちるような感覚、これは、今のいまこそ、切実に求められている。内在する「狂気」に自覚的でいる杳子のほうが、「今のいま」から見ると、よっぽど「健全」である。

 古いのに新しい、生きのびるための狂気を見つけよう。

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デジタル・ヒューマニティーズの講演が面白かったのでまとめる(追記あり)

 デジタル・ヒューマニティーズ(digital humanities)とは、人文科学に対しコンピュータを積極的に応用すること。歴史、哲学、文学、宗教学や社会学の研究において、テキスト分析技術や統計処理、地理情報システム、シミュレーション技術を適用し、新しいアプローチを見出す方法論だ。最近だと「AIが書いたハリポタ」「シェイクスピアの”中の人”は何人?」が有名やね。

 講演は秋草俊一郎さんの「文学とコンピュータが出会うとき」というテーマだ(訳すのは「私」ブログ で知った)。文学におけるデジタル・ヒューマニティーズの最新事例や、面白いアプローチをしている研究者が、つぎつぎと飛び出してくる。特に、「本を読まずに文学する方法」や、「統計分析から得られたベストセラーの法則」、「文体を決めるのは時代やジェンダー」が興味深いトピックだった。1時間30分が一瞬に感じるくらい、めちゃめちゃ面白かったので、ここにまとめる(記事化は許可をいただいてます)。

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 ポイントは、文学を「読む」ほうに主眼をおいているところ。「読む」のはヒトの仕事だろ? なんて思ってると、カルチャーショックを受けるだろう。

 まずは、「本を読まずに文学する方法」。フランコ・モレッティ『遠読』を中心に、世界文学への挑戦ともいえる「新しい読み方」が紹介される。それは、「いかに読まないか」を追求する読み方である。

 つまりこうだ。いわゆる正典(カノン)を精読することから生じる文学には限界があるという主張だ。崇め奉られている「世界文学」といっても、要するに欧米という地域を中心に、文を生産・消費する商業システムで生き残った作品群にすぎぬ。そしてその量もハンパではなく、原典を「精読(close reading)」していてはそれだけで一生終わる。

 だから、「精読」の対義語として「遠読(distant reading)」が提唱される。要素だけを抽出して読んだり、原典ではなく翻訳を通じて読むのもあり。コンピュータや統計手法を用いたデータ解析を行い、文学を自然科学や社会学のモデルでとらえ直すのだ。これにより、テクスト自体が消えてしまってもいい。「テクストをいかに読めばいいかは分かっている、さあ、いかにテクストを読まないか学ぼうではないか」と煽ってくる。

 わたしのレビューは、[本を読まずに文学する『遠読』]にまとめたが、この講義では「シャーロック・ホームズが生き残った理由」や「ハムレットのネットワーク相関図」、さらに世界文学空間の歴史的生成と支配構造を解析したパスカル・カザノヴァ『世界文学空間』が紹介される。究極の支配は言語(≒思考・思想)の支配だという考えに立つと、それに抗うための『遠読』という捉え方をしても面白い。

 次に、「統計分析から得られたベストセラーの法則」として、マシュー・ジョッカーズ『ベストセラーコード』が紹介される。ある本がベストセラーになるかを判断するためのアルゴリズムを開発する話だ。2800種以上の小説の特徴(文体、プロット、テーマetc)をインプットとし、膨大な小説を機械学習させることで、ベストセラーになる小説を(そうなる前に)予測可能とするのだ。

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 面白かったのは、プロットラインのグラフ。ストーリーにおける喜怒哀楽をプラス、マイナスに分けて、小説の各場面で、プラスの方向、マイナスの方向にどれぐらい振られているかを視覚化する試みだ。『ダ・ヴィンチ・コード』と『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』のそれぞれの解析結果を重ねると、プロットラインの起伏がいかに似ているかに目を奪われる。昔から「三幕構成」といわれるが、読者の感情を緻密にコントロールすることが売れることの秘密なのかもしれぬ。

 そして、「文体を決めるのは時代やジェンダー」については、マシュー・ジョッカーズ『マクロアナリシス』が紹介される。これは、「文体は何によって決まるか?(作家、時代、国、ジェンダーetc...)」を計量文献学的にアプローチしたものだ。

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 コンピュータを使ったテクスト分析(テキストマイニング)をすることで、「文学作品を読む」ことから離れたところから新たな発見を得ることができる。19世紀英国の小説を読み込ませ、「教養小説」「ゴシック小説」などのジャンルを自動分類させたり、使用語句におけるジェンダーの差異があるかの仮説を検証する。さらには文章からジェンダーを当てるといった試みがなされる。結論からすると、文体に影響を与えるのは、「作家」「時代」「ジェンダー」が大きい一方、「国」「ジャンル」は低いらしい。

 イメージとしては、GoogleのコンコルダンスのNgram Viewerが近いかも。これまでに出版された全書籍のおよそ4%にあたる500万点以上の書籍データから約5000億もの語句を追跡することで、時系列に観た言葉の使用頻度の推移を可視化する仕組みだ。この横軸(時間)に相当するものをあれこれ変えることで、新しい読み方ができそう(もはや、「読み」ですらないのだが)。

 こうした紹介のなかで、面白い学会の変化を知った。それは、「文学との違和感」だという。昔は、文学をするということは、一人で作品を読み、一人で論文を書くやり方だった。しかし、今では一人ではなく、「チーム」になっているという。つまり、方向性を考えデータを解釈をする文学者(統計学者?)と、その方向性をコードで実装しデータ化するエンジニアで構成されている。学会の発表者も、昔は一人だったのが、今は一人が発表し、技術的な質疑にはエンジニア(チーム)が答える風景になっているという。「文学は一人でするもの」ではなくなっているようだ。

 以上、3つのトピックスを紹介したが、他にも興味深い話が大量にある。わずか165行のコードと地名の外部ファイルを元に生成された小説『ワールド・クロック』の話や、計量文献学として村上征勝『シェークスピアは誰ですか?』やベン・ブラッド『ナボコフの好きな色は藤色』(Ben Blatt ”Nabokov’s Favorite Word Is Mauve”)、「同じ雑誌・同じ号に載った詩人=強い相関」という判断で文学世界のコミュニティのネットワーク図を構築するホイト・ロング『霧と鉄』の研究、何がハイク(≠俳句)かを大量データ分析によりパターン認識させる試みなど、どれも楽しそうな遊びばかりなり。

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 もちろん、デジタル・ヒューマニティーズについて、批判もあるという。ビックデータ解析といういわゆる流行に乗って、教授のポストやテニュア(終身雇用資格)、研究資金を確保するための方便なのではという批判や、単なるデータの寄せ集めと「知」の混同をするのではないかという懸念などだ。

 講演を聴講して良かったのは、わたしが抱いている疑問、メタ・デジタル・ヒューマニティーズの可能性についてもヒントが得られたことだ。あるデジタル・ヒューマニティーズの成果をAIに読み取らせ、別の方向性を探る方法だ。

 たとえば、古典文学をAIに食わせ、コピーされた作家性から「古典の新作」を著す試みがある。スタニスワフ・レム『ビット文学の歴史』では、ドストエフスキー・シミュレータからドストの新作が書かれ、それを読んだAIが評論を書き、さらにその評論を別のAIが読み討論する世界が描かれている。そんな可能性を質問したところ、レムの『一分間』に想を得て、『ワールド・クロック』の小説を書くコードのアイデアが生まれたのだというお返事をいただいた(おそらく『主の変容病院・挑発』所収の「人類の一分間」のことだと思う、ぜひ読んでみたい)。デジタル・ヒューマニティーズの可能性は、SFにありそうだね。

 何千年も営々と続けられてきた、作品を創造する、それを受け取る行為の根底に、何か無意識の構造があって、それを上手くすくいとり、可視化することで、「人間とは何か」に迫る。そのためのアプローチとして、デジタル・ヒューマニティーズは、これからもっと面白くなっていきそうだ。

 最後に。秋草さん、たいへん面白くためになる講演をありがとうございました。おかげで読みたい本がさらに積み上がりそうです。

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2018/01/17追記
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有益な情報をいただいたので、以下に追記する。読書猿さんを始めとしたtwitterの皆さま、BLOGOSでコメントいただいた皆さま、ありがとうございます。特に読書猿さん、ちょっと聞いただけでこの物量をサクっと返してくるこの凄さ。むしろ読書猿さんを講師に、このお題でお話を伺いたい......


デジタル・ヒューマニティーズにまつわるtweet








情報知識学会


マシュー・ジョッカーズについて
Matthew Jockers(Google Scholar)
Text Analysis with R for Students of Literature


(読書猿さん、yuekichiさん、たくあんさん、ありがとうございます)


レンブラントの絵をディープラーニングさせ、レンブラントの新作を描く


クローズアップ現代「進化する人工知能 ついに芸術まで!?」
レンブラントの絵をディープラーニングさせて、その技巧やモチーフを抽出し、「レンブラントの新作」をAIに描かせる試み
http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3837/1.html
(BLOGOSコメント 大久保陣太さん、ありがとうございます)


AIが音楽にスコアを付けて、それに基づいてレコード会社がデビューを決めている


すでに米国では、AIが音楽にスコアを付けて、レコード会社がそれに基づいてデビューを決めている。
結局、人間も過去の経験で 「売れそうな曲のパターン」 を判別している。
それなら、AIの方がずっと上手く判別できる。
次のステップはAIによる作詞・作曲。 
5年後くらいには、随分変わっているかも。
(BLOGOSコメント SUZUKIさん、ありがとうございます)

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