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なぜ「面白い物語」は面白いか?『物語論 基礎と応用』

 なぜ「面白い物語」は面白いか?

 トートロジーみたいだが、小説を読んでて、そんな疑問を抱いたことはないだろうか。ひたすら浸っているときは気付かないが、読了後、どうしてあんなに夢中になっていたのか不思議に思ったことはないだろうか。

 わたしはある。一般に面白い小説に共通する特徴を洗い出したり、特定の人が面白がる「面白がりかた」を考えることで、おぼろげながら、「面白い物語の法則」のようなものを見出していた。あるいは、脚本術やストーリーメイキング、『マンガの創り方』といったネーム作りのハウツー本から、創作のための実践的なノウハウをもらっていた。

 だが、たいていはヒューリスティックで「売れた作品を分析するとこうなっている」という経験則が最初にあり、その理屈は後からとって付けたように書かれている。そうではなく、「人はなぜ物語を好むのか?」というそもそも論から始めたい。もちろんアリストテレス『詩学』のようなガチの基礎もあるが、それが目の前の作品に対し、具体的にどのように応用されているかは、自分で補う必要があった。

Monogatariron

 この、「基礎」と「応用」の両方を射程において、古典から最新作を俎上に、小説、映画、ドラマ、ゲーム、アニメを縦横に捌き、「物語を楽しむ」だけでなく「物語を創る」にも役に立つ教科書とも言える一冊に出会えた。それが、橋本陽介『物語論 基礎と応用』である。

 本書は、物語論(ナラトロジー)に興味がある人の最初の一冊になるし、深堀りするための評論を集約した文献集として扱ってもいい。広くも深くも読めるが、ここでは冒頭の疑問「物語はなぜ面白いか?」に答える形でご紹介しよう。

 著者は、物語をこう定義する「時間的な展開がある出来事を言葉で語ったもの」。物語というものは、人の観念による構造物だという。目の前に存在しないことを、言葉を使って再構築する。これが、物語るという行為である。これにより、現実は物語化されて理解され、反対に物語は「理解された現実」のように表現される。

 この定義はぴったりくる。現実は情報量が多すぎだし、因果関係が複雑すぎる。だから因果の見通しを良くするため、登場人物と役割を決めて、出来事を取捨選択し、順序を調整する。そのままだと呑み込めないリアルを、なんとか形にして把握する。そして、いったん物語が現実のシミュレーターとしての役割を担うと、今度は物語の形で現実を伝えることが効率的となる。

 いわば、わたしたちは物語を使うことで、現実を理解したり受け止めることができるのだ。たとえば、[辛すぎる現実を受け止めるための嘘としての物語]がある。訳が分からない現実を、すくなくとも「分かる」形にしてくれる。物語の本質は、この「分かる」にある。そして、物語の面白さも「どうやって分かってもらえるか」に着目すると、理解しやすくなる。

 よく議論になる方式として、ディエゲーシスとミメーシスがある。語り手が、要約的に筋を語るのがディエゲーシス(ギリシャ語の「語る」)で、そのシーンを演劇的に再現しようとするのをミメーシス(mimic/模倣)になる。引きと寄り、俯瞰と観察、telling と showing になる。アリストテレスや[文学理論講義]で学んだことがある。

 しかし、本書ではさらに、物語に流れる「時間」と、語り手の「視点」、そして叙述のスピードと文体、登場人物の内と外、さらには人称・時制・指示語の使い分けを用いながら、形態学としての物語を分解してみせる。

 たとえば、物語に流れる時間と語り手の位置について、ガルシア=マルケス『百年の孤独』を紹介しながら説明する。冒頭はこうだ。

長い年月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、恐らくアウレリャノ・ブエンディア大佐は、父親のお供をして初めて氷というものを見た、あの遠い日の午後を思いだしたにちがいない。

 物語の中には、語り手にとっての「現在」である「今まさに語っているこのとき」が存在する。受け手はそこを基準点にして、過去や未来に目を向けながら読み進める。

 『百年の物語』の冒頭では、語り手にとっての「今」を基準点に未来に目を向けさせられる(長い年月が流れて~)にもかかわらず、同じ文の中で過去に戻らされる(遠い日の午後)。この文は、『百年の孤独』全体を貫く円環的時間を予告したものであり、基準点が不明確なのは、特殊な時間感覚に読者を置くための策略だというのだ。

 初読のとき、わたしが感じた目眩に似たズレは、概略を伝えるその語り口で、ミメーシス的な具体性を帯びていることが原因かと思っていた。だが、それに加えて、物語全体のウロボロス的構造を、この一文に凝縮していることが「恐るべき」だったのである。「一は全、全は一」という考え方があるが、それを、この物語で分からせることができる。

 あるいは、語り手の位置が、「物語られる対象」とどのように関係してるかの指摘は、目鱗だった。物語世界があって、その枠内なのか、枠外なのか、枠線上にあるのかは、読み手がどのように受け取るかをコントロールできる。

 枠外から(ディエゲ的に)放して語るとき、物語は客観性を帯びる(もしくは帯びているかのように書く)。いっぽう枠線もしくは枠内から(ミメシス的に)語るとき、物語は主観的に描かれる。まさに当事者として物語るからである。これを伸び縮みさせることで、物語の場に臨場感を生んだり、読み手に冷静に考えさせたりする。この伸縮の運動が「面白い」のである。

 このコントロールの実践を見るため、ダイクシス(直示)に注目せよという。すなわち、意味が文脈によって決定される語用に着目することで、語り手と物語の関係が見えてくるというのである。たとえば、私やあなた(代名詞)、これ・あれ(指示語)、今日明日といった時間を表す言葉がキーになる。

 物語現在を「今」と設定したとすると、「今」を基準点として「昨日・今日・明日」と描くのか、「今」を基準としない「前日・当日・翌日」を用いるのかよって、距離感が変わってくる。つまり、暗黙のうちに、今と切り離された時空なのか、繋がっているのかを伝えることができる。

 そして、枠外から客観視していた物語が、実は身に詰まされるようなテーマだったり、反対に、極めて主観的に語られていた世界が普遍性を帯びていることに気付くと、視野が反転したり広がったりする。この反動が面白いのだ。

 山小屋で語られる怪談で、こんなのをご存知ないだろうか。淡々と「ある日」「ある男」の話が続き、いざ怪異の正体を明かすとき、「そこにいる!」とか「次はオマエだ!」と指し示すやつ。あの怖さは、物語の枠外だったはずが、いつのまにか枠内に入っていた反転の運動にある。

 分かろうとしていた(その物語世界の)現実にいることに気付くとき、自分はその場所から一歩も動いていないのに、広がりや動きを感じる。面白い作品に感動するとき、物語世界の現実が(いま・ここの現実と比べて)抽象化されている分、その感動も精錬されたものになる。感動とは、「動きを感じる」ことに他ならない。何の動きかって? わたし自身である。物語に面白さを感じるとは、世界の中に、自分を見つける行為なのだから。

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『ブッチャーズ・クロッシング』はスゴ本

 ジョン・ウィリアムズ『ブッチャーズ・クロッシング』が良かったので、どう良いか紹介する。

 これは、19世紀のアメリカ合衆国、西部を舞台に、バッファロー猟のため、country で生きる男たちを描いた小説だ。”country” という語が曲者で、田舎や地方といったのどかな自然ではなく、完全に未開で、人の手が入っていない原野である。

 その峻厳さは、人の理解を超える。目の前の現実のあまりの厳しさに、わたしも身構える。起きていることが信じられない(だが進行しつつありもうすぐ”危険”の形となることは明白である)出来事に、一緒になって動揺する。ある光景に呆然となっていた主人公が、暫くして顎を噛みしめていたことに気づくシーンがあるが、その件を読んだとき、わたしの口の中も血まみれになっていることに気づく。

 遠い昔の、ずっと離れた場所の話なのに、どうしてこんなに生々しく感じるのか。なぜかくも詰まされるように読めるのか。秘密は、その描き方にある。『ストーナー』(これも傑作)と同様に、著者は、あらゆるものを突き放して書く。突き放して書くとは、事物や情動を感情や修飾を交えずに淡々と描写することだ。

 たとえば、バッファローの血やウイスキーといった事物は、そこから引き出されるイメージを削ぎ落として描かれる。堪えがたい渇きや女が欲しいといった情動は、「渇き」「欲望」という言葉を使わずに描かれる。修飾語や形容詞、感情を示す言葉は、「情報」である。どんな情報か? それは、描き手が「こう伝えたい」という方向性が入った情報である。この情報が入れば入るほど、小説は「分かりやすく」なる一方、読み手はインプットするだけの装置となる。

 『ストーナー』と『ブッチャーズ・クロッシング』に共通する描き方として、感情を示す言葉を排除し、動作と会話だけで、登場人物の心情を伝えにくる。このストイックな書き方は、ヘミングウェイを彷彿とさせる。

 だが、ジョン・ウィリアムズは極端じゃない。完全排除にまでは至らないものの、修飾語や形容詞を<意図的に>減らして書く。だからこそ、わたしは身を乗り出し、自分が読み取った情動で、その空白を埋めようとする。

 つまり、本来なら形容詞で表現されている心情を、わたしの中でシミュレートする。シンプルで、骨太な描写なのに、そこに潜む怒りや恐怖がダイレクトに感じられるのは、言葉でもって伝えようとしているからではなく、わたしの内から湧き上がっているためである。

 たとえば冒頭、馬車に揺られるシークエンスにて、主人公のアンドリューズの目線から長々と馬や汗や服の様子を淡々と描いているにもかかわらず、一度も「思う」「感じる」ところは無い。すべてがアンドリューズの目を通して伝えられる。

 そして、9ページになってから、それらを一言でまとめた、「この旅がこれほど疲れるものになるとは夢にも思っていなかった」という一文に集約される。もちろん読み手は、馬の汗や揺れる車内の描写でその感覚を想像してきたが、それが正しかったことを、アンドリューズとともにブッチャーズ・クロッシングに到着して一息ついてから、ようやく確認できるのである。

 もう一つ。アンドリューズと娼婦フランシーンの関係である。これは、知り合ったばかりの頃、彼女を見かける場面に現れている。アンドリューズの視線で、こう始まる。

フランシーンは、一度は通りで姿を見かけた。昼ごろのことで、周囲にはほとんど人影がなかった。

 挨拶を交わし、世間話をするだけなのだが、アンドリューズは、「彼女のふっくらとした唇のすぐ上に、小さな汗の玉がくっきり浮き出ているのに気が」つく。そして、その汗のきらめきを水晶のように表現する。アンドリューズが彼女に抱いている気持ちは、一言も書かれない。

 フランシーンと次に会ったとき、「次に会ったのは、ある朝早くのことだった」と書く。少し前に、「一度は見かけた」と、なんでもないように書いているのに、わざわざ「次に会った」と書くことで、(そこに記されていない)彼の驚きがにじみ出る。フランシーンが階段を下りてくる足取りや、彼女が来ているドレスの様子に細かく焦点が当たっているので、彼がどう思っているかは瞭然である(でも書いてはいない)。さらに、その好意は彼の経験の薄さをも裏書きされたものであることが分かる。

 感情が決定的になるのは、ある男がフランシーンに話しかけるシーン。アンドリューズはその男を見るとき、初めて「怒り」という言葉が出てくる。「怒りで唇がむずむずし、テーブルの下で両の拳を固めていた」と書かれている。読み手は、なぜ「怒り」が生じるのか分かっているし、アンドリューズ自身も同時に分かっていることをそこに読み取る。

 つまり、感情や形容詞をできるだけ排除し、動作と会話だけで淡々と示し、決定的な場面になったとき、答え合わせであるかのように情動が言葉として現れる。そこに至るまでに読み取った中で、登場人物の感情は、読み手の中で再生されている。その「怒り」は、アンドリューズだけのものではなく、読み手の中にも生まれているのである。これはすごい。

 この戦略は、半世紀を経過して著者が再評価されたことにも通じる。小説は形容詞から腐るという。対象をデコレートし、書き手が伝えたい「情報」を与え、意味づけを行う箇所から腐り始める。生き物なら、まず眼、そして内臓である。つまり、最も美味な箇所から腐るように、小説も飾った箇所から衰え、腐り、崩れてゆく。

 もっとも腐りやすい形容詞が排除され、動作と会話(旅の後半になるにつれほどんど話をしなくなる)だけで成立しているが故に、腐らずに残っているといえる。骨は腐らない。『ブッチャーズ・クロッシング』の凄みは、シンプルで骨太なのに、その動きで肉のみずみずしさが伝わるところにある。

 ストーリーについてはあえて触れない。大学を中退し、「自然の中で自分を見つめたい」と猟に参加した若者が、何を見たかは書いてある。しかし、彼が何を感じたかは、彼が見たもので読み手の中に再現される。飼いならされた自然ではなく、完全な原野 (back country と言うらしい)で、渇くということはどういうことか、凍えるとはどういうことか、そして絶望するとはどういうことかを経験する。

 これを読むことで、生きるとはどういうことか、絶望するとはどういうことかを経験してほしい。そういう意味で、『ストーナー』と同じだと言える。

ストーナー もしあなたが『ストーナー』を未読だというのなら、幸せものである。人生を一度生きるくらいの経験をすることができるのだから。そして、その人生が良かったのか、それとも良くなかったのかを手に取って確かめることができるのだから。一度しかない人生を、一度きりにさせないために、文学はある『ストーナー』

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