« 2018年4月22日 - 2018年4月28日 | トップページ | 2018年5月13日 - 2018年5月19日 »

女が怖いのではない。『怖い女』がいるだけなのだ

 「男はバカだ」と言うと、主語が大きすぎる。男が愚かなのではなく、愚かな男がいるだけで、一般化には早すぎる。

 しかし、怪談・ホラー・都市伝説から『怖い女』を一般化した本書を読むと、話は違う。こと「女の怖さ」については神話レベルから共通項があるのかも、という気になる。

 たとえばイザナミ。日本列島を生んだ美しい女神だったが、火の神を産んだことによる火傷で死ぬ。再び逢いたい夫は、死後の世界を訪れ、そこで腐乱して蛆がたかったイザナミを見ることになる。イザナミは怒り、夫を追いかける―――生(性)をつかさどる美しい女神は、死を宣告する醜く恐ろしい女神となる。

 『古事記』を起点に、イザナミの系譜をたどる想像力が面白い。現代では口裂け女が後継者になるという。いまどきの若者は知らないだろうが、口元をマスクで隠した若い女が、学校帰りの子どもに「私、キレイ?」と訊ねる都市伝説があった。イザナミを受け継ぐ伝説として、「美しい女」「醜い身を隠す」「追いかける」「捕まると死」という共通点がある。

 そして、口裂け女が口を隠す白いマスク(=パンティ)の隠喩から、割けた口が持つ意味に迫る。それは、ものを食べる上の口だけではなく、愛を食べる下の口すなわち女陰を表す。割けた口はそのまま「歯を持つヴァギナ」(ペニスを食いちぎる[ヴァギナ・デンタタ])を象徴する。「これでも、キレイ?」とマスクを外して露わにすることは、性衝動の両義性、欲望と恐怖の両方が含まれているというのだ。

 さらに、口裂け女とイザナギの間をつなぐ「呑み込む女」として、昔話の食わず女房、ヤマンバ、「祟る女」として四谷怪談のお岩、仮名手本忠臣蔵の累を挙げる。著者は小説とまとめサイトを中心に渉猟しており、テケテケ、カシマさん、だるま女からコトリバコ、そこからパンドラのピトスや「魍魎の匣」まで持ち出すところが面白かった。

 「性」と「生」を与奪する存在としての女というテーマなら本書になるが、この「女」を「食」に置き換えると『性食考』になる。モチーフが重なるのが楽しい。宝物を大便として排泄する若い女のハイヌウェレ神話や、イェンゼン『殺された女神』を引いてくるところなんてそっくりだ。性欲と食欲はともに「生きる欲望」であり、その間にあるのが「女」という構図なのだろう。食べること、セックスすること、殺すこと。これらは独立しているのではなく、互いに交わり重なり合っているのである。

 さらに、日本三大ホラー映画『リング』『呪怨』『着信アリ』の呪いの主がいずれも女であることに着目し、なぜ女の霊が怖がられるのか、神話と関連づけた考察が面白い。ビニール袋に覆われて這う姿から伽椰子は蛇女神の系譜と見なしたり、歪な形だとしても自己増殖を進める姿から、貞子は母性の怖さを持つという洞察はユニークだろう。

 漫画や映画やネットのまとめサイトをまんべんなく渉猟しながら、都市伝説や神話に出てくる「怖い女」の共通項を洗い出そうとする試みは、非常に面白い。

 しかし、観測範囲に偏りがあり、その結果、導き出される「怖い女」にも納得しかねる点がある。「怖い女」とは、究極的なところでは、生殺与奪を司る「母」になれる存在だというのが結論だ。

 それは、「死の恐怖」に裏打ちされた怖さになる。古今東西の死をもたらしてきた悪女を挙げれば事足りる。本書では、キルケやサロメを挙げているが、『ファム・ファタル』を開けば、ロリータやユーディット、セイレンなど死とセックスは近しいという事実をいつでも確認できる。

 だが、死よりも恐ろしい経験があるのだとしたら? 安易に死というエンディングに回収させない、永遠とも思われる生き地獄へ突き落す女なら? 文字通り「死んだほうがまし」「コロシテ…」と思わせる作品なら?

 たとえば、age『君が望む永遠』のマナマナエンドを推薦しよう。いわゆる「ギャルゲ―」と呼ばれるゲームで、選択肢によりシナリオが変化し、複数の女の子と疑似恋愛を楽しむことができる。そんなプレイヤーの下心を見透かしたかのように発動するのが「穂村愛美シナリオ」である。

 そのラスト(マナマナエンド)は、プレイしたことを後悔するトラウマと級なることを請け合う。残念なことに、『君が望む永遠』をプレイできる環境そのものが希少となっているため、[マナマナの恐怖]あたりで片鱗を味わってほしい。

 あるいは、ケッチャム『隣の家の少女』をお薦めしたい。これは、1965年に米国であった[バニシェフスキー事件]を元にした小説だ。監禁と虐待がテーマなのだが、当事者の少女ではなく、傍観する少年の視点から、陰惨な光景を体感できる。

 ここまで残酷なことができるのかと、痛みと吐き気をもよおすとともに、虐待の主が男であるならば、最終的には自身の欲望を満足させる方法を選ぶだろうと想像する。その方法だと終わりがあるが、虐待しているのは養母である。終わらない絶望こそ、最も怖いのかもしれぬ。

 女が怖いのではなく、『怖い女』がいるだけ。だが、怖い女は本当に怖い。自身の経験と照らしながら読むと倍増する一冊。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

説得の技法『論証のレトリック』

 人は感情で動く。この事実に気づくまでに時間がかかった。いかにエビデンスが強固でも、ロジックが完璧であっても、それだけで相手を説得することはできない。相手の立場を理解し、相手の使う言葉を用い、話を分かりやすく喩え、例示し、結論を述べるのではなく誘導する。

 人を説得するには、基本的な「型」がある。その型に沿って整理していくだけで、説得力ある議論ができる。逆に、その型を悪用することで、ウケだけが良い詭弁ができあがる。わたしが苦い経験で思い知る2000年以上も前に、アリストテレスは述べていた。本書は、こうした論証の「型」をまとめた一冊である。

 本書から得られた最大の成果は、「レトリック」についての誤解に気づけたこと。レトリックとは、いわば言葉のあや(文彩)だと思っていた。直喩や隠喩、枕詞、序詞、擬人法、見立て、縁語、掛詞といった、言葉を飾る技術だと考えていた(『レトリック感覚』が名著)。

 しかし、そうした修辞法は、古代ギリシアの言論の技術からみるとそのごく一部にすぎないという。見づらくて恐縮だが、下図がアリストテレスのレトリック理論の全体である。理論は3つの型(説得立証法、修辞法、配列法)により構成され、わたしが知っていた「レトリック」は、3つの型のうちの一つにすぎないことが分かる。

01

アリストテレスのレトリック理論の概観図

 本書では、それぞれの型を展開し、それぞれが問答や弁証の術としてどのように用いられていたかを紹介する。本書が面白いのは、アリストテレスやプラトンといった大御所に限定せず、利のために詭弁術を駆使したソフィストたちの手口も込みで見せているところ。悪用の技術を知ることで、いわば詭弁への耐性ワクチンともなっているのである。

 目を引いたのが、大衆を説得するためには、「正しさ」よりも「もっともらしさ」を重視せよという点である。ロゴス(論理的説明)による議論だけでは不完全であり、語り手のエートス(品性)によるものと、聴衆のパトス(感情)に訴えて初めて、説得力が成立するというのである。どうすればよいか?

 まず、エートスによる立証は、聴衆に対し「語り手を信頼に値する者であると判断させるよう語られる」ことによって行われるという。(本当かどうかは別として)語り手は、思慮分別があり、聴衆に好意を持っていると思わせればよいというのである。つまり、「あなたのためを思っている」と感じさせることが重要である。

 次に、パトスによる立証は、聴衆をある感情へと誘導させることによって行われる。怒り、友愛、恐怖、羞恥、憐み、嫉妬といった感情を抱かせて、その感情を引き起こす原因や向けられる相手に関する立証になる。

 これは、巻末の付録が参考になる。聴衆を誘導したい感情を想定し、それに対する原因や精神状態、向けられる相手を組み立てる。たとえば、「怒り」へ誘導したいのであれば、聴衆が苦境に置かれていること、聴衆への軽蔑が「怒りを向けられる相手」から発せられていることを明示するのである。

02

感情に関する諸命題の一覧表

 さらに、エートスであれパトスであれ、論証の形をとるべきではないとする。すなわち、「...…ゆえに皆さんは私を信頼すべきである」「......だから諸君は怒るべきだ」という形にならないという(アリストテレスは『弁論術』で明確に禁止している)。ロジックはロジックを明示し、感情は誘導に留めよというのである。

 他にも、「オデュッセウスの告発を背理法を用いて論駁する」とか、「タテマエとホンネの背反を前提として、相手をパラドクスへ導く議論」、あるいは「知識のない大衆を説得させるためのエンドクサ(通念)」など、使い方によってはいかようにも悪用できる技法が次々と紹介される。

 本書が凄いのは、個々の論証の説得性の是非を詳らかにするだけでなく、これを一般化しているところだ。すなわち、「論証を説得力あるものにする」技術ではなく、説得性のある議論をリバースエンジニアリングして、「説得力のある論証に再編集する」技法を「型」にしてみせた点にある。

 「説得はいかにして可能か?」から、「人はどのような条件で説得されるか?」まで考えることができる。自分が説得するとき/されるときに当てはめてみると、さらに面白い。悪用厳禁の上、使っていきたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『思想のドラマトゥルギー』はスゴ本

Tumblrで出会った寸鉄がこれ。

“あなたを突き刺し、打ち砕き、恥じさせ、叩きのめした後に手を伸ばして学びに導くものこそ名言、名著。俺の言いたいこと全部言ってくれてる系は、あなたのしょぼいプライドを満足させて金をむしり取る道化。”

 人でいうなら読書猿さんやな、厳しくかつ優しく導いてくれる。まさかとは思うが、もしご存じなかったならば、今すぐ[読書猿]へ行きなさい。ブログが膨大すぎるなら、エッセンスを凝縮した『問題解決大全』『アイデア大全』を読みなさい。きわめて実践的な名著であり、あなたの人生の財産となること請け合う。

 そんな読書猿さんが、何十年もかけて読んでいる本が、『思想のドラマトゥルギー』だという([とても遅い読書:10年かけて読んだ本のこと])。先に断っておくが、けして難しい本ではない。対談集で、筆致は口語体のままを残し、軽妙洒脱という言葉がぴったりの、たいへん読みやすい本だといえる。

 だが、手にしてみればすぐにわかる。林達夫と久野収という知識人が、興味の赴くまま、知で殴りあう様が凄まじい。西洋哲学や思想史がベースなのだろうが、そこに収まらず、美学、文学、演劇、風俗、詩劇から歌謡、ハイカルチャーから俗なものまで続々と出てくる。

 広いかと思えば深く、深いかと思えば濃く、濃いかと思えば熱い議論が展開される。互いが相手を知のオモチャだと思っていて、力いっぱい振り回しても壊れないつもりで、本気で遊びにかかる。衒学のギアが上がるにつれ、テーマと論点がドリフトしまくる。ふり落とされないようにつかまっているのがせいいっぱいである。出てくる書名と著者名が膨大で、巻末の索引を熟読する。おかげで読みたいリストがもりもり増える。

 いいな、と思うのは、本の紹介合戦にならないところ。いまどきの「知の巨人」がこのテの対談をすると、名著名作を並べ立てる。紹介文句はWikipediaを3行しただけで、その中身を、どう咀嚼して、どの辺の肉となり血となっているのかが不明なり。ひたすら名著の威光(?)を盾にして自分を守っている感じ。いっぱい線を引いて書き込みをして、すごいね、というだけである。

 林氏は、まるでそんな連中を見越したかのように、「ヘーゲル読みのヘーゲル知らず」と喝破する。何千人とヘーゲルを読んでいるくせに、本当にヘーゲルのどこか一面でも(例えば芸術哲学なら『美学講義』)を身につけてものにした、というのはまるで聞かないという。知の対象として「知って」いるだけで、その知をもって「使って」いる人がいないという。

 たとえば、デカルト。『方法序説』を読んで「我思う故に我あり」について賛同しても反論してもいいし、現代の脳科学の進展からデカルトの心身問題への態度と方法的懐疑を批判してもいい。さもなくばデカルト平面と解析幾何学の関係や、べき数の記法について一席ぶってもいい。

 ところが、お二人の対談では、そうしたデカルトの知識のひけらかしにはならない。同時代人のガリレオを持ち出し、デカルトが自覚していた問題を炙り出す。真実を語ればおのずから伝わるというのは嘘であることを、ガリレオ自身よく分かっていた。だから彼は、レトリックを駆使して対話体の『天文対話』や『新天文対話』を書いたという。

デカルトは独りで勉強するのは好きだが、書くことは嫌い、議論するのも嫌いとだだをこねこね、「レトリック抜きの哲学」で行くんだなどと涼しい顔をして見得を切ってみせたが、すぐあとで、事、志とまるで違うという羽目に陥ったことに気がついた。デカルトは、コミュニケーションの問題が落丁になっていたんだな。真理を言うということは、結局はそれを「他人」に納得させることでしょう。(太字化は筆者)

 正しいことを言うことと、それを正しく伝えられることは別である。だから、古代から哲人は、説得の技術であるレトリックの重要性をよく認識していた。具体的には、「ペンを手にして」書物を読む。思想の相克ドラマの中で、賛同ならば補論を、敵対ならば反論を掲げ、ぶつけ、捏ね上げる。そこから生まれるセリフを再編集し、名句のノートを作る。エラスムスやモンテーニュの金言集や『エセー』が有名だが、そうした格言集はもともと自家製の取材活動の成果物だったのだ。

 そして、説得は一方的ではない。ソクラテスに限らず、必ずそれぞれの立場からの議論が伴う対話の形をとるという(ここでプラトンのソクラティック・ダイアローグに話がドリフトするのが楽しい)。靴屋とソクラテスが靴づくりについて問答する際、学者たちは、ソクラテスが言ったことだけに注目し、あとの登場人物はその引き立て役として軽くあしらっているだけだという。だが、その場の全員が対等だからこそ、人に拠らない(感情論に陥らない)で立論できるロゴスが精彩を放つというのである。

 ガリレオの科学論の伝え方から始まって、デカルトにとっての障壁を超えるためのレトリック、さらにその具体論としてのモンテーニュを経て、哲学の実践は「対話」にあるということをプラトンを通じて確認する―――これが、わずかなあいまの対話に詰め込まれており、どろり濃厚なばかりか、読むべき本も再読すべき本も積みあがる仕掛けだ。

 読めば読むほど刺さる話ばかりだが、もっとも深々と刺さっているのはここだ。

デカルトにしてもパスカルにしても、ロゴス、レトリックを通じて生き、闘い、死ぬ術としての哲学ですね。そういう「術」としての哲学が軽蔑されていて、「学」としての哲学ばかりがもてはやされる。(太字化は筆者)

 つまり、ひたすら真理を追究するための学問というよりも、むしろ、生きる技術とも言うべきなのが、哲学なのだ。もっとテクニカルに、世界と対話し、相手を説得し、自分を納得させるための諸々の話す技術、聞く技術、考える技術を体系化したものと言ってもいい。「考えた通りに生きよ、さもなくば、生きたとおりに考えてしまう」という言葉がある。この文脈での「考える」に相当するのが哲学なんだろうね。

 上記は、第13章の「レトリック・イン・アクション」の10ページたらずの感想である。もちろん、他にはもっと別の、広く話題で深く語りあっている。これ、立ち止まって調べて読んでいたら、それだけで別の注釈本が書けてしまうほど濃厚なり。

 読み返すたびに発見と好奇心が刺激され、積読山が盛り上がる。読書猿さんと同じく、10年かけて再読を繰り返そう。読書猿さんよい本を教えていただき、ありがとうございます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2018年4月22日 - 2018年4月28日 | トップページ | 2018年5月13日 - 2018年5月19日 »