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物理学と数学で解ける問題と解けない問題の間に「時間」が存在する『予測不可能性、あるいは計算の魔』

 天体の運動から粒子の振る舞いまで予測する科学は素晴らしい。学ぶ前は、無邪気にそう考えていた。

 学ぶほど、物理学と数学は相性抜群であり、ガリレオの言う通り、自然は数学の言葉で書かれていることが分かる。だが、科学が発展することで、あらゆる現象が説明できるかというと、そうではない。それは、「まだ」未知であるだけでなく、どんなに科学が発達しても解決できない問題が、現時点でも明らかになっている。


「時」とは何か

 その最たるものが「時」である。時とは何か? アウグスティヌスを用いだすまでもなく、「私はそれについて尋ねられない時、時間が何かを知っている。尋ねられる時、知らない」なにかである。

 数学と物理学をめぐる最適化問題を読み解いた『数学は最善世界の夢を見るか』のイーヴァル・エクランドが、数学と物理学で「時」を定義づけようと試みたのが本書になる。わたしの問題意識に真っ向勝負しているため、たいへん興味深く読んだ。


数学には「時」がない

 なぜなら、数学とは、「時」を排除した学問領域だから。数学の定理や命題は時間と独立して存在しており、イコールが結ぶ両辺のそれぞれを”計算する時間”は無いものとみなされる。数学を用いて自然現象を説明したり(物理学との相性は抜群だ)、計算機で数学を扱おうとすると、現実世界の「時」が邪魔をする(誤差や定数として吸収することで解消させているのが現実だ)。

 著者は、ケプラーからニュートンに至る天文学と数学の系譜を振り返りながら、数学の中で「時」がどのように扱われてきたかを紹介する。

そこで完成された道具は、微分方程式だ。微分方程式は、運動する物体の位置と、速度と、加速度のあいだの一瞬一瞬で成立する。

 そして、「微分方程式が成り立つ」ことは、その時間的変化はすべて、現在の状態(微分方程式そのもの)に書き込まれている。つまり、現在の状態が分かっていれば、過去を再現することも、未来を予測することもできる。それを解く(積分する)とは、そこから動体の軌跡を明らかにすることになるのだから。

 さらに、微分方程式は、決定論に影響を与えたともいえる。数学と物理学を学ぶ若者は、微分方程式を通じ、数学の定理のかたちで、過去と未来はすべて現在の一瞬に書き込まれていることを叩き込まれるからである。

 曖昧な概念のため物議を醸しがちな「パラダイム」を、シンプルに「教科書」と名付けていいのなら、今を生きるわたしたち自身のパラダイムも、微分方程式という形で内面化されている。本書を読むことで、この「力」が働いているのが感じられる。


パラダイムという「先入観」

 科学は、現象を記述する上では役に立つ。よく現象と合致し、理論化されているものが取り上げられ、教科書となり、繰り返し周知され、より現実的・客観的なものとして強化される。目障りな事実は黙過され、「なかった」ことにされる。

 本書では、その面白い例として、天体の軌道が「等速円運動」であるイメージがいかに強固かを示す。アリストテレスの権威を背に、コペルニクスは、等速円運動が最も完全かつ自然で、したがって天体力学にふさわしい唯一の運動であることを強調したという。

 一点が円周上を一定の速さで動いていくイメージは強固で、1400年ものあいだ何度も繰り返し強化されていくことで、それが「先入観」であることすら気づかれることはなかった。

 ケプラーより前の天文学者はすべて、伝統的に受け継がれてきた先入観のため、問題そのものを見誤っていた。誰も「惑星の運動はどうすれば最もよく記述できるか」とは問わなかったのだ。教科書を疑ってみようなどとは、夢にも思わなかったというのである。

 現代から見ると、これは昔の理論であり、その誤りは乗り越えられたという人がいる。科学は発達し、より「正しく」なっているという理屈だ。そして科学が発達していけば、いずれあらゆる自然現象が「正しく」説明できるという主張だ。

 だが、その人は、自分が陥っている内面化の力に気付いていない。観測精度が上がり、より「現代の」固定観念に合致した値が得られるようになっているにすぎぬ。今の固定観念に沿った値だけが繰り返し記録され、再強化されているのだ。


科学では解けない問題=「なかった」ことにされている問題

 本書では、天文力学における三体問題やベルヌーイ・シフトの例を挙げながら、黙過され「なかった」ことにされている問題を解説する。

 三体問題とは、3つの天体が互いに万有引力を及ぼし合いながら行う運動を解く問題のことだ。2つの天体なら解けるが、3つの場合、特殊な例を除き、一般的には解けない。また、ベルヌーイ・シフトとは、カオスの振る舞いをグラフ化したものだ。決定論的なシステムの下から、法則性のない予測不可能な運動が導き出される。

 直観では、インプットが規則的なら、アウトプットもそうなるように感じられる。だが、実際のところそうではないものがあるのだ。重要なのは、「そうではないもの」が、固定観念の再強化のサイクルから取り除かれている点だ。

 著者は科学を批判したいわけではない。その限界がどこにあるのかを見極めるべきだと述べる。注意を促しているのは、科学の内面化の力に気づかないわれわれ自身に対してなのである。

理屈の上では、物理学の唯一の対象は宇宙全体である。唯一それだけが、物理学の法則を厳密に適用するために必要なすべての情報を含んでいるからだ。ところがこの宇宙―――厳密な科学のためには、その全体がもれなく細かく記述されなければならないこの宇宙―――は、実際には到達不可能だ。

そこでやむなく部分系を切り取り、個々の系に物理学の法則を適用する。たとえば、太陽系以外の恒星を無視して太陽系を研究するという具合に。これもまた射影であり、わたしたちは多少なりとも喜んでそうしている。つまり、意図的に情報の一部を断っているのだ。到達不可能な、唯一の現実を捨て、全体から切り取ってきた現象をとる。洞窟に入り、プロジェクターを設置し、スクリーンを眺めるのである。

 わたしたちが眺めているスクリーンがどこにあるか。物理学と数学は、どこを「切り取って」いるのか。その判断の材料として、理論が人に与えた影響を振り返る一冊。

Yosoku


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「スポーツの哲学」のトークイベント行ってきた

 分析哲学の雑誌「フィルカル」のトークイベント見てきたので書く。

 池袋ジュンク堂という危険地帯の4階だった。なぜ危険かというと、お財布が大変な目に遭うからである。むかし[池袋ジュンク堂オフ]という恐れ知らずな会を敢行し、財布をサガミオリジナル級に薄くした経験を持つ身としては、戦々恐々の思いで乗り込んだ。


スポーツを哲学する

 トークは、倫理学者の長門裕介氏と、美学を専門とする松本大輝氏のお2人で行われた。予め用意したハンズアウトに沿ってそれぞれしゃべり、後は質疑応答という構成。1時間半だったが、「スポーツ」という広いテーマに加え、参加者が好き勝手に質問するので、時間が不足気味になった(とはいっても2時間越えは大変なので、このくらいが丁度かも)。

 「スポーツを哲学する」といっても、斬り口は様々。人間活動としてのスポーツの価値を分析するとか、勝利至上主義やドーピング、不正行為や八百長など、スポーツの倫理を調べるのも面白い。モータースポーツやAir Race、eスポーツといった例を挙げながら「そもそもスポーツとは何か?」を議論するのも楽しい。それぞれのネタで本が一冊書けるだろう。

 だから、2人はそれぞれ絞ってきた。

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「いい試合」を哲学する

 長門氏は「いい試合とは何か?」という視点から、主に倫理学の立場に則って、スポーツの価値や選手の卓越性、さらに勝利についての懐疑論を展開する。

 「あれはいい試合だった」と言うとき、人は何を誉めているのか? 身体パフォーマンスや判断力、タフネスといった要素に還元できるものか? 長門氏は「卓越性」という概念を持ち出し、「いい試合」を分析する。

 曰く、勝ち負けのハッキリしない現実社会とは異なり、スポーツでは明確な勝者が決まる稀な機会だ。勝者を決めるプロセスで、スポーツエリートの中でさらに抜きんでる卓越性を見ること、それが「いい試合」という評価につながる。


強いから勝つのか、勝ったから強いのか

 しかし、「勝者=卓越者」という構造には疑義を挟む。2018W杯の日本・ポーランド戦での時間稼ぎの「パス回し」や、1984ロスオリンピック柔道で、負傷した山下の右足を攻めず二位となったラシュワンを「立派な銀メダル」と評した話を引きながら、「勝った方が強い」とは限らないと指摘する。

 これらが「いい試合」ではないのは、卓越性を明らかにする機会がなかったからになる。つまり、「勝つことがすべて」ではないのだ。身体能力や判断力といった要素は、どちらが卓越者か予め決まっている。だが人の認識能力が不完全なため、実際に試合をすることで近似的に知るというのだ。

 ただし、各々の能力を総合した「強さ」なるものが先行して独立にあるというわけではなく、試合を通じて創造的に決定されるという見方もある。マラソンにおける心肺能力や脚力etcを、試合に先行して測定すれば、どの程度のタイムになるかは予想はつく。だが、それはマラソンの強さそのものではなく、「強さ」を可能にする素材にすぎない。その「強さ」が、実際の強さとして実現するかは、実際に走ってみないと分からないというわけ。

 これは裁判に例えると分かりやすい。過去の判例がいかに積みあがっており、証拠や論証はすでに揃っていたとしても、勝ち負けの精度は、実際に裁判をしてみて確かめるほかない。


「華麗なプレー」を哲学する

 いっぽう松本氏は「華麗なプレーとは何か?」という疑問を抱き、いくつかの思考実験を提示しながら、スポーツの美学を定義づけようとする。

 たとえば、フィギュアスケートの「華麗なプレー」はどこにあるのか? リズムやスピード、正確さやダイナミズムなど、選手の身体的動作の特徴が「華麗さ」を決定することは当然だ。だが、それだけだろうか? と畳みかける。

 そして、「ちょっと思考実験」と称して、フィギュアスケートの「競技」と「エキシビジョン」を比較する。前者は技や演出に制限がある採点方式の試合で、後者はそうした制限がない。そして、原理的には両者で全く同じ演技をすることは可能だ。では、もし「競技」と「エキシビジョンマッチ」で全く同じ演技をしたならば、それらは「華麗だ」と評価されるのだろうか?

 おそらく、同じ評価にはならない。同じ四回転ジャンプであっても、競技プログラムの制約の中で演じられる場合には、得点との兼ね合い、他選手との得点差も含めた戦略性といった文脈に応じた賞賛が出てくるという。

 つまり、勝敗や順位付けが存在する競技的なスポーツにおいて、そのプレーが「華麗だ」と見なされるか否かは、勝敗を決定するルールに影響される。でもそれはなぜ? を考えると、さらに面白い。

 松本氏は、スポーツの「遊戯性」と「組織性」に着眼する。プレーが実生活から切り離された活動としての「遊戯性」と、ルールが明示的に組織化されている「組織性」が、プレーの「華麗さ」を意味づけるというのである。


スポーツと決定論

 お話を伺っていて、決定論を絡めたら面白そうと感じた。「卓越性」や「華麗さ」は、試合が始まる前の個々の選手の能力やコンディション、試合する場所の状況により予め計算可能であって、ある程度の予想は立てられる(だから「オッズ」という発想が生まれる)。

 科学技術の発達により、この計算が限りなく厳密に実行できるとするならば、果たして人は試合をするのだろうか、あるいは観たがるのだろうか、という疑問である。結果が分かっているものを、わざわざやろうとするだろうか。

その数学が戦略を決める 「運」という名前をつけられがちな不合理要素は、不合理要素」をのパラメーターとして扱い、数をこなせば統計的に処理できる。既に将棋や囲碁がそうなっているし、イアン・エアーズ『その数学が戦略を決める』によると、ワインの値段や映画の興行成績も数学的に処理されている。

 回帰分析できるくらいデータが揃っているスポーツであれば、決定論的に語ることだって可能ではないか? 反対に、フォーミュラ・ドリフトやアイスクロスといった新しいスポーツが次々と生まれてくるのは、こうした決定論の引力から離れようとする試みだと考えると、面白くなるかも。


哲学が噛みつく

哲学がかみつく スポーツに哲学が噛みつく例として、マイケル・サンデルの「改造人間によるスポーツ否定説」を思い出す。彼は、健康や医療目的のための生命工学には賛成しているが、遺伝子療法による筋肉増強や記憶力などの能力向上は反対だという。

 なぜなら、天から授かった能力を育て表現する場としてのスポーツや競技をダメにする恐れがあるから。毎打席ホームランを打つ超人的な選手を作っても、最初はよくてもすぐに飽きるだろうし、代わりに凄いピッチャーを作ったとしても、それはロボットが戦っているようなもので、人の成績とはいえないという。

 これは、レギュレーションの線引きが微妙なり。風邪薬からステロイドまで、どこまでやったら選手の能力を向上させるか難しい。遺伝子医療は極端な例だが、プロテインもダメなのか。安全性と公平性が担保される限り、ぎりぎりまで努力するのが自然だろうし、そこに哲学の出番があるように見える(こうした噛みつく哲学は、『哲学がかみつく』の書評に書いた)


ネタバレの美学

 次回は、「ネタバレの美学」というお題で、11/23大妻女子大学でやるらしい。

 たのしみしてた映画や小説の結末をバラされたりしたら、腹が立つだろう。南極で初の殺人事件になりかけたというニュース「南極で初の殺人未遂事件 本のネタバレに激怒し同僚を刺す」が流れたが、げに恐ろしきはネタバレなり。

 いっぽう、ネタバレに拘らないどころか歓迎という人もいるらしい。「推理小説は結末を先に読んで犯人を確かめてからでないと安心して読めない」という話も聞いたことがある。

 この線引きは難しい。わたしも、本のツカミとして導入を語ったところ、「それはネタバレです!」とこっぴどく怒られたことがある。結末を伏せているから良いのではと思ったのだが、ネタバレラインは人それぞれなのかもしれぬ。

 「何がネタバレなのか」「なぜネタバレが許されないのか」「許されるネタバレとは何か」というお話が伺えるらしい。11/23(金・祝)午後、大妻女子大学でやるらしい。無料ということなので、ご興味のある方は、[公開ワークショップ「ネタバレの美学」11/23(金・祝)@大妻女子大学]をどうぞ(わたしは行きますぞい)。

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ビル・クリントン著『大統領失踪』が楽しみすぎる(12/5 発売)

 大統領がたった一人でテロリストに立ち向かうエンタメ小説。どんだけ荒唐無稽だよと思いきや、たいへん具体的で、まるで見てきたように書いている。

 それものはず、書いたのはビル・クリントン、第42代アメリカ合衆国大統領なり。正確には、ミステリの大御所ジェイムズ・パタースンとの共著になるが、ホワイトハウスの内部構造や、タフ・ネゴシエーターの丁々発止は、元大統領ならでは。

Presidentismissing

 原著は”The President Is Missing”で、翻訳は 12/5 に出るのだが、「ダイジェスト版」なるものを入手できたので、それで読む(chicaさんありがとうございます)。表紙にはクッキリと「構成の都合上、本書の結末に触れる部分があることをご了承ください」と書いてある。

 じっさい、わずか100ページ足らずの中に、見どころシーンや迫力満点のアクションがてんこ盛りで、いわば映画の予告編のようなもの。唯一違うのは、結末―――合衆国に迫る危機が何かとか、サイバーテロが狙うもの、黒幕は誰で、ラストがどうなるのかが、全部書いてある。

 これ読むにあたり、わたしは2つのことが明らかになればと考えていた。一つ目は、タイトルの「大統領失踪」をどのように実現するのか。二つ目は、そもそも「なぜ」そんなことをする必要性があったのか。

 一つ目はツカミからいきなりだった。世界最高の警護に守られ、一挙手一投足がカメラや視線に曝されている人が、どうやって「失踪」できるのか。このシーンで、ホワイトハウスが物理的に危機に陥ったとき、どうやって大統領を安全に移送するかという方法が明かされているので、セキュリティ的に問題な気がする。だが、これは真実に似せたフェイクなのかもしれぬ。

 二つ目は、残念ながら想像するほかなかった。なぜそんなことをしようとするのか。示唆的に触れられているだけなので、これは逆に発売日が楽しみになってくる。言い換えるなら、本書に書かれていることが可能であれば、大統領を「失踪」させることが可能とも言える。

 そしてこれは、サイバーテロについても同じことが言える。テロリストが「どのように」実現させるかが描かれている。やり方は隠されていないが、大規模にやるにはそれなりのポジションにいる必要がある。言い換えるなら、本書に書かれているポジションにいるなら、わたしでも可能だ。

 これ、藤井太洋『オービタル・クラウド』を思い出す。2020年に起きるスペース・テロを描いたSFなのだが、実際のところ、準備はiPhoneと〇〇〇ケーブルだけで構築できる。「全部で千ドルもかかってないぜ。ポケットマネーで作れるんだ、こういうのは」というセリフが現実的なり。できたものをある場所に置けるかどうかは、ポジションによる。言い換えるなら、しかるべきポジションにいるならば、実行は可能である。

 『大統領失踪』のテロも同様だ。準備に時間がかかるが、ひとたび始めれば、およそ30~60分で、アメリカ合衆国を未曾有の危機に陥れるために、やるべきことが書いてある。ずいぶん昔、そのニュースを耳にしたことがある。かりにそれが「準備」であり、本書のテロが実際に起きたとしても驚かないだろう。

 ダイジェスト版とはいえ、ネタバレを喰らっても読みたくなる。この興奮は、ぜひホンモノ版で味わってほしい。


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知性に普遍性はあるか『ランドスケープと夏の定理』

 「知性に普遍性がある」という発想がブッ飛んでいる。


■ 知性定理

  • どんな宇宙であれ、同じ宇宙に存在する限り、同じ物理法則に従う(←分かる)
  • 異なる宇宙の場合、プランク定数など基本的な定数が違うかもしれないが、それに相当する定数は存在する(←分かる)
  • それぞれの物理法則は、定数の変換や翻訳という手続きは必要なものの、対応関係があり可換である(←分かる)
  • 知性の元となる思考や理論は、それぞれ物理法則から導き出される(←分かる)
  • 変換や翻訳した結果、共有された物理法則から導き出される思考や理論に支えられた知性は、対話可能である(←分かる)
  • 物理法則が普遍性を持つ以上、知性は普遍性がある(←分からない)

 つまり、世界や物理法則が共通である以上、知性の違いは表現の違いに過ぎず、遅かれ早かれ、あらゆる知性は普遍的なものになる、という理屈である。これは、いわゆる宇宙人に限った話でなく、動物やAIも含めた「知性」一般に言えるという。

 荒唐無稽で、頭おかしい(誉めてる)。しかもこのSF理論でキッチリお話を描き切る力業がすごい。

 この「知性定理」を編み出した「ぼく」を語り手に、天才科学者の姉が途方もない実験をするのが表題作になる。エヴァとイーガンを下地にエンデを混ぜたようなお話で、流行の量子力学・宇宙論に既視感ある展開がテンポよく進む。なつかしい未来を見させられているような感覚なり。


■ 知の理論地図=知性の見える化

 圧巻なのは、ありとあらゆる理論を命題群の形でマップした空間である。巨大な野球場か、サッカースタジアムほどの大きさに理論地図が広がり、目を凝らすと、水滴のような形をした命題素が見えてくる。三段論法や真理値といった大小の概念が多彩に絡まり合い、一つの命題素が他の命題素と繋がり合い、拡散結合を繰り返している。

 つまり、人が作り出し、あるいは見出した理論の繋がり合いをビジュアライズすることで、「人間の知性」そのものの構造を見える化しているのである。この理論地図を調べることで、疎の部分(命題素の絡まりが少ない、理論の空白箇所)や、密な部分(じゅうぶん理論化された箇所)が見えてくる。

 そして、このような空白領域や、マップと「マップの外側」の境目は、まだ手付かずの知的領域になる。人が何に興味を抱き、どこに注目しており、目の届かない(あるいは見逃している)場所がどこなのか、一望できる。この考えは、ソートイ『知の果てへの旅』の[レビュー]で示したが、それをSFの中に織り込んでいるのが素晴らしい。


■ 数学の地図

 数学の地図で考えると、山本貴光氏の「現代数学マップ」がある。これは、雑誌「考える人」(第45号 p.28)の特集「数学は美しいか」からの引用で、数学の世界を探索するにあたり、全体の見取り図となるものである。

Mathmap

数学の地図

 ざっと見ただけでも、代数学と幾何学がシンメトリに並び、その橋渡しとなっているものが解析学で、それぞれを支えているのが論理学である構造が分かる。それぞれの具体的な命題は、数や図、極限と言語に分けられた形で表されていることが分かる。代数と解析から確率論、その先に統計学への途が開かれている。

 さらに目を凝らすならば、マサチューセッツ工科大学のマックス・テグマーク教授のマインドマップのような世界が見えてくる(出典:[MAT365 Vector Calculus])。ラーニングマップなので、学ぶ順番を追うためのものと想定されるが、数論から数理物理学まで至る途上に、代数幾何学が幾層にも重なり合っていることが分かる。

 数学に限って言うならば、人が最も注目してきたもの(密な箇所)は代数幾何学になる。これは、人類が始まって以来営まれている農作や移動に必須の天文学を支える理論だから、あたりまえといえばあたりまえかもしれぬ。

 こうしたわたしの妄想を、数学に限らず、あらゆる知の領域、人類が生み出した理論の歴史を層ざらえしたレベルで展開してくる。実は、ここで紹介した「知性定理」は最初の段階で、次章・最終章ではさらに広がりと深まりが出てくる。ストーリー展開は見えていたが、この知性定理の風呂敷の広げ方は驚いた。ぜひ手にして楽しんで欲しい。


■ 知性を規定するもの

 ただし、知性について、「ぼく」の一面的な理解にも苦しんだ。「ぼく」が無邪気に信じる「知性」とは、すべてカッコ書きで「人にとっての」が付け足される。そもそも数学は人にとっての知的営みであり、そこから離れて考えることはできない。

 「ぼく」数学者なのだから、一度は考えたことがあるだろうが、人が10進数を使っている理由は、わたしたちの手の指が左右で10本であるからである。一周を360°とするのは、一年が365日であるから(360°は近似で約数が多いというのがポイントやね)。地球にいる「人」が太陽を観察して作り出した数字なのだ。つまり、数学は人と人が住まう環境によって規定されているのである。

 いいやそれは違う。確かに10進数は一般的だが、2でも16でもn進数だってある。360°だけでなくラジアンの概念も生まれてきた。離散的なものだけれでなく、連続的な概念も扱うことができる......という意見もあるだろう。

 もちろんその通りだ。しかし、「人」が一個の存在として「自分」を一つのものとみなし、2つの目や手、乳房や脚を持っているという離散的な存在であることが、数学を規定しているとも言える。

 つまりこうだ、光も差さない深海で知性があるとして、環境としては圧力や温度しかないとするならば、そこでは「数を数える」数学は始まらない。人が離散的な数学から始めて、連続的な概念をも手なずけたとしても、それは2つのいずれかの概念を行き来する「人」にとっての数学である。理論が破綻しない限りで、離散か連続か、どちらか都合のよい方を選択的に手にしているにすぎない。

 試みに、両方の特徴を併せもつ存在を一つのものとして扱うことができるだろうか? 離散と連続の両方が現れる存在、それは「光」だ。粒子としても波としてもふるまう光は、いずれかの特徴を捉えることはできても、両方を一緒に扱う理論は存在しない。

 これを、「未だ存在しない」と言い逃れることはできる。そうかもしれないが、それは人が今の「人」のインタフェースであるのをやめてから、ずいぶん先の時代になると考える。それは、人が二足歩行するよりももっと抜本的な変化を遂げた後のことになるだろう。

 知性は、それが寄って立つところの環境に依存する。そして、その進み方も環境の変化にも影響される。長い時間をかければ、究極的には同じ知性を共有するという考えは、今のサルを長い長い間放っておいたら言葉を用いて火を使い、ロケットを飛ばすようになると言っているのと同じである。


■ 知性の限界は、その主体

 じゅうぶん長い時間をかけるなら、他の「知性」と対話することは可能だろう。だが、それは知性の普遍性を意味しない。あくまで、人に翻訳可能な、人にとっての知性という意味においてでしかない。

 仮に「知性」を、なんらかの言葉で定義できたとしよう。たとえば、「ある状況(問題)について、得られた情報から整合的に理解し、合理的な行動(結論)を判断する能力」としてみる。なんならこれにいくつか付け足してもらってもいい。

 しかし、そこに出てくる「理解」「判断」といった主体は、「人」であり、「整合的」「合理的」は誰にとっての整合性・合理性なのかを考えると、やはり「人」になる。

 いいや、AIや動物の知性を俎上に載せるなら、主体は「人」には限らないよ。そういう声もあるが、AIが出した結果や、動物が採用した行動を、誰が、どのように評価するのかというと、そこにはやはり「人」が関わる。

 行動主体はAIや動物だとしても、それが(行動主体が)「合理的」だとか、そもそも「判断をしている」と見なすのは、人でしかない。ナゾナゾ「誰もいないところで木が倒れたら音がするか?」を追求すると出てくる答えと同じである。

 「ぼく」は知性の普遍性を信じ、なおかつ「人の」知性の優位性を信じる。あらゆる知的存在は、いまわたしたちが抱いている「人の知性」の途上ライン上におり、ひとつの総体として収束していくという考え方は、わたしの思考と大きく異なる。

 だが、それが面白い。ストーリーよりも、この思考にめちゃめちゃ振り回された一冊。

Land

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