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『ブッチャーズ・クロッシング』はスゴ本

 ジョン・ウィリアムズ『ブッチャーズ・クロッシング』が良かったので、どう良いか紹介する。

 これは、19世紀のアメリカ合衆国、西部を舞台に、バッファロー猟のため、country で生きる男たちを描いた小説だ。”country” という語が曲者で、田舎や地方といったのどかな自然ではなく、完全に未開で、人の手が入っていない原野である。

 その峻厳さは、人の理解を超える。目の前の現実のあまりの厳しさに、わたしも身構える。起きていることが信じられない(だが進行しつつありもうすぐ”危険”の形となることは明白である)出来事に、一緒になって動揺する。ある光景に呆然となっていた主人公が、暫くして顎を噛みしめていたことに気づくシーンがあるが、その件を読んだとき、わたしの口の中も血まみれになっていることに気づく。

 遠い昔の、ずっと離れた場所の話なのに、どうしてこんなに生々しく感じるのか。なぜかくも詰まされるように読めるのか。秘密は、その描き方にある。『ストーナー』(これも傑作)と同様に、著者は、あらゆるものを突き放して書く。突き放して書くとは、事物や情動を感情や修飾を交えずに淡々と描写することだ。

 たとえば、バッファローの血やウイスキーといった事物は、そこから引き出されるイメージを削ぎ落として描かれる。堪えがたい渇きや女が欲しいといった情動は、「渇き」「欲望」という言葉を使わずに描かれる。修飾語や形容詞、感情を示す言葉は、「情報」である。どんな情報か? それは、描き手が「こう伝えたい」という方向性が入った情報である。この情報が入れば入るほど、小説は「分かりやすく」なる一方、読み手はインプットするだけの装置となる。

 『ストーナー』と『ブッチャーズ・クロッシング』に共通する描き方として、感情を示す言葉を排除し、動作と会話だけで、登場人物の心情を伝えにくる。このストイックな書き方は、ヘミングウェイを彷彿とさせる。

 だが、ジョン・ウィリアムズは極端じゃない。完全排除にまでは至らないものの、修飾語や形容詞を<意図的に>減らして書く。だからこそ、わたしは身を乗り出し、自分が読み取った情動で、その空白を埋めようとする。

 つまり、本来なら形容詞で表現されている心情を、わたしの中でシミュレートする。シンプルで、骨太な描写なのに、そこに潜む怒りや恐怖がダイレクトに感じられるのは、言葉でもって伝えようとしているからではなく、わたしの内から湧き上がっているためである。

 たとえば冒頭、馬車に揺られるシークエンスにて、主人公のアンドリューズの目線から長々と馬や汗や服の様子を淡々と描いているにもかかわらず、一度も「思う」「感じる」ところは無い。すべてがアンドリューズの目を通して伝えられる。

 そして、9ページになってから、それらを一言でまとめた、「この旅がこれほど疲れるものになるとは夢にも思っていなかった」という一文に集約される。もちろん読み手は、馬の汗や揺れる車内の描写でその感覚を想像してきたが、それが正しかったことを、アンドリューズとともにブッチャーズ・クロッシングに到着して一息ついてから、ようやく確認できるのである。

 もう一つ。アンドリューズと娼婦フランシーンの関係である。これは、知り合ったばかりの頃、彼女を見かける場面に現れている。アンドリューズの視線で、こう始まる。

フランシーンは、一度は通りで姿を見かけた。昼ごろのことで、周囲にはほとんど人影がなかった。

 挨拶を交わし、世間話をするだけなのだが、アンドリューズは、「彼女のふっくらとした唇のすぐ上に、小さな汗の玉がくっきり浮き出ているのに気が」つく。そして、その汗のきらめきを水晶のように表現する。アンドリューズが彼女に抱いている気持ちは、一言も書かれない。

 フランシーンと次に会ったとき、「次に会ったのは、ある朝早くのことだった」と書く。少し前に、「一度は見かけた」と、なんでもないように書いているのに、わざわざ「次に会った」と書くことで、(そこに記されていない)彼の驚きがにじみ出る。フランシーンが階段を下りてくる足取りや、彼女が来ているドレスの様子に細かく焦点が当たっているので、彼がどう思っているかは瞭然である(でも書いてはいない)。さらに、その好意は彼の経験の薄さをも裏書きされたものであることが分かる。

 感情が決定的になるのは、ある男がフランシーンに話しかけるシーン。アンドリューズはその男を見るとき、初めて「怒り」という言葉が出てくる。「怒りで唇がむずむずし、テーブルの下で両の拳を固めていた」と書かれている。読み手は、なぜ「怒り」が生じるのか分かっているし、アンドリューズ自身も同時に分かっていることをそこに読み取る。

 つまり、感情や形容詞をできるだけ排除し、動作と会話だけで淡々と示し、決定的な場面になったとき、答え合わせであるかのように情動が言葉として現れる。そこに至るまでに読み取った中で、登場人物の感情は、読み手の中で再生されている。その「怒り」は、アンドリューズだけのものではなく、読み手の中にも生まれているのである。これはすごい。

 この戦略は、半世紀を経過して著者が再評価されたことにも通じる。小説は形容詞から腐るという。対象をデコレートし、書き手が伝えたい「情報」を与え、意味づけを行う箇所から腐り始める。生き物なら、まず眼、そして内臓である。つまり、最も美味な箇所から腐るように、小説も飾った箇所から衰え、腐り、崩れてゆく。

 もっとも腐りやすい形容詞が排除され、動作と会話(旅の後半になるにつれほどんど話をしなくなる)だけで成立しているが故に、腐らずに残っているといえる。骨は腐らない。『ブッチャーズ・クロッシング』の凄みは、シンプルで骨太なのに、その動きで肉のみずみずしさが伝わるところにある。

 ストーリーについてはあえて触れない。大学を中退し、「自然の中で自分を見つめたい」と猟に参加した若者が、何を見たかは書いてある。しかし、彼が何を感じたかは、彼が見たもので読み手の中に再現される。飼いならされた自然ではなく、完全な原野 (back country と言うらしい)で、渇くということはどういうことか、凍えるとはどういうことか、そして絶望するとはどういうことかを経験する。

 これを読むことで、生きるとはどういうことか、絶望するとはどういうことかを経験してほしい。そういう意味で、『ストーナー』と同じだと言える。

ストーナー もしあなたが『ストーナー』を未読だというのなら、幸せものである。人生を一度生きるくらいの経験をすることができるのだから。そして、その人生が良かったのか、それとも良くなかったのかを手に取って確かめることができるのだから。一度しかない人生を、一度きりにさせないために、文学はある『ストーナー』

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