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本棚を見ると興奮する『ニッポンの本屋』

 楽しい話をしたいので、本屋の話をする。

 本屋というのは面白いもので、さまざまな「並べ方」や「ディスプレイの仕方」をしてくる。これ、本屋にとってまちまちで、店主(棚主?)のポリシーみたいなのが透け見えて愉快になる。「おお、この本とその本を並べるのか!? あえて!」とか「なぜこの棚にそれを置く……そうか! そういう意味か」なんて呟きながら棚をめぐることになる。

 最近一番笑った棚がこれ。下北沢のB&Bな。

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 パッと見ると、「食」にまつわる様々な本が並べられている。レシピや食材の歴史や、料理と文化の関係を書いた本だ。フレーム外に、「食べる」にまつわるコミック&コミックエッセイ、料理の科学などが並んでいた。フィクションとノンフィクションの混ざり具合が絶妙で、いい棚だなーと眺めてたら驚いた。左端に着目してほしい。非常に面白い「食材」を見つけられただろうか。

 これ、棚を見る人の目線の動きまで計算して差してある。棚差しするほとんどの本のタイトルはタテ書きだから、そいつを見る人は右上から左下に向かって視線を動かす。その動きはタテ書きの目次や文章を読むのと一緒だ。いわば「棚」は開かれたページであり、棚を読むことは書店が編集した「知」を読むことと一緒なのだ。

 棚のあちこちに面陳(表紙をこちらに向けて陳列)している本がある。それは挿絵になるし、平積みされた本はそのまま「読め」という圧になる。POPをコメントや注釈として捉えるなら、書店の棚は、その棚が目指している「知」へ向き合うための索引になる。ガチの学問棚だけでなく、時事や世相のテーマ棚も一緒。書店の棚とは、知るために編集された「本」なのだ。

 だから、本屋に行くことは、知のスナップショットを撮ることになる。行きつけの書店をぐるりと周り、棚の配列の変わり具合によって世間を知ることができる。世間に文脈があるのなら、書店に行けば本脈になっているからね。もちろん本を探索する狩場でもあるが、書店は、世相を読む場所でもあるのだ。

 そんなわたしにとって、『ニッポンの本屋』を読むことは気分アゲ↑アゲ↑になる体験だった。本が好きな人って、「本がいっぱいある場所」に行くと高揚するでしょ。これを作った人はよく分かってて、どのページにも本棚の写真を目いっぱい載せている。しかも、背表紙の文字が読める解像度+距離で撮影しているので、メガネを外してガン見する。本の「並び」が重要なのだ。

 しかも、紹介される書店は大変ユニークでオリジナリティ溢れるものばかり。「本屋ですが、ベストセラーは置いてません」と、潔いを通り越して心配になってくる書店や、一度入ったら二度と出てこれない覚悟をキメる必要がある魔窟(池袋リブロ)がある。ページを開くだけで行った気分を味わえるし、行ったことがある書店ならまた行きたくなることを請合う。ブックカバーのデザインも一緒に載っているので、書店よりもカバーで思い出す人がいるかも。

 定番の丸善はよく行くけれど、なんというか標準アンテナみたいなもの。「たぶん世間の売れスジはこんなんだろなー」と考えているまさにそんな本がそんな風に並んでいる。予想を確認するみたいなので、驚きがないのである(いっぽう驚きしかない松丸本舗を閉めたのは残念至極なり)。

 「ぼくの考える最強の書店」といえば、東京堂書店神保町店だ。あそこの一階の新刊台が凄い。文芸、人文、社会、サイエンス、サブカル、芸術と、知の最先端が一つの台で一望できる。閉店後の書店を借りきってオフ会したことがあった[スゴ本オフ@東京堂書店]が、贅沢しふくの時間でしたな。『ニッポンの本屋』にも紹介されているので、未踏の方はぜひ確認してみてはいかが。

 『ニッポンの本屋』を見て、行きたいと思ったのが「タロー書房」。銀座線の三越前駅A6出口だというから、何度も通りがかって目にしたことがある(はず)。だけど、中はこんなんなってたなんて! びしっと揃えられた人文書や、岩波文庫、講談社学術文庫の充実ぶりから客層が見える。ちょっと背伸びをしたいときに、おあつらえ向きの書店なり。毎年1月から2月にかけてみすず書房フェアをやっているとのこと。行こう。

 もう一つ、絶対に行きたいのが、「かもめブックス」。神楽坂矢来口にあり、本屋だけでなく、カフェやギャラリーも併設された、本を楽しむための場所らしい。いいな、と思ったのは、特集本を毎回紹介しているところ(これ→[かもめブックス特集棚])。あるテーマに沿って本を集めて紹介する。そんな場所は、どんな本屋にもある。だが、そうした特集やフェアはアドホック的で、その場限りになりがち。これをログのように参照できるのが嬉しい。向かいのセレクトショップ「la kagu」も気になるし、ぜひ行こう。

 本屋と本棚の話をしているとワクワクしてくる。知ってる本と知らない本の混ざり具合を見ていると嬉しくなる。本が大好きな、すべての人にお薦めしたい。

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数学はなぜ哲学の問題になるのか

 数学と、数学の哲学をメタ的に考える一冊。

Suugakuhanaze

 数学は人の領域を(論理的に)超えることができる。「数学でなしうる範囲=人の抽象化できる限界」にもかかわらず、数学の範囲内の概念を対応付けることにより新たな領域を拡張することができるから。ポール・ゴーギャンの『我々はどこから来たのか? 我々は何者か? 我々はどこへ行くのか?』への応答の一つになる。数学が哲学の問題になる理由は、ここにある。

 「自然数」から始める。0を入れるとか入れぬとかいった議論を端折って、1、2、3......がなぜ natural なのかというと、人の指が1、2、3......だから。10で繰り上がるのが一般化した理由も、人の両手の指の合計が10だから。ウマの指の数は一つの脚につき1本だという。ガリヴァー旅行記に登場するウマの姿をしたフウイヌム族の数学は、4進数に違いない。

 しかし、知能を持つ存在が手や指を持たなかったら? 深海に棲むクラゲのような種族だったとしたら? 周囲にあるのは水で、個々の物体を相手にする機会はない。クラゲにとって、基本的な知覚データは運動、温度、圧力だけになる。このような純粋な連続体のなかでは、不連続な量は発生しないので、数えるものは何もない。

 つまり、「数を数える」という行為は、不連続な量が発生する世界に身体を持つ存在にとって「自然」な行為なのである。「自然」数を始めとし、分数、整数、有理数、無理数、実数、複素数と数を拡張していった。同様に図形や構造、空間といった数学的なテーマも、人の身体や知覚を基盤とし、そこからの組み合わせ・対応付けを繰り返すことによって拡張していったといえる。

 これを逆アセンブルすると、認知科学から数学の「まだ拡張していない範囲」が導き出せるのではないか、というテーマがわたしの問題認識である。「数学とは何か」を考えることは、「人とは何か」について論理的に考えることになり、数学の拡張は、そのまま人の思考能力の拡張につながる。この考察は、レイコフ『数学の認知科学』で学んだ(数学を概念メタファーにより分解し、最終的には最終的にはオイラーの式「eπi=-1」を、概念メタファーで直接理解させるスゴ本なり[書評])。

 そんなわたしにとって、本書を読むことは、たいへんスリリングな体験だった。タイトルに注目してほしい。『数学はなぜ哲学の問題になるのか』(Why Is There Philosophy of Mathematics At All?)は、「数学の哲学」そのものを問うている。

 重要なポイントは、著者イアン・ハッキングが「数学とは何か」そのものについて答えようとしていないところにある。むしろ、「数学とは何か」について議論してきた数学者や哲学者を半ば揶揄するような言い回しで、数学の哲学の問題圏を明らかにする。「数学とは何か」という問いを成立させている状況が、何によって由来し、どのような前提のもとに議論されてきたのかを問い直している。

 この問い直しにより、暗黙のうちに受け入れてしまった前提や、所与のものとして未検討のまま議論に持ち込んでいる条件が明らかになる。数学が「数を数える」ところから出発している前提は、わたしたちが不連続な世界を「自然」と見なしているからに拠る。数学の世界から「時間」が注意深く取り除かれていることは以前から気になっていたが、本書によると、イマヌエル・カントが早々と指摘していたという。

 「数学とは何か」に答えるアプローチとして歴史を振り返ると、数学を「発見されるもの」と見なす考え方と、「発明されるもの」として扱う考え方と、2つの観点が挙げられる。この議論は、マリオ・リヴィオ『神は数学者か?』に詳しい[書評]

 「発見される数学」としては、天文を観察し、そこから導き出されたケプラーの法則や、ニュートンの力学が該当する。自然から抽象化された規則を記述するための言語が、「数学」だという考え方だ。数学に対しプラトンのイデア論を挙げたり、「神は数学する」「宇宙とは数学そのものだ」と主張する者もいる。

 「発明される数学」としては、非ユークリッド幾何学が誕生した経緯が象徴的である。ユークリッド幾何学を調べていくうち、それが世界を記述する唯一で必然の体系ではなく、単なる取り決められた「ルールの一つ」に過ぎないことが公になる。つまり数学は、様々なルールを「選ぶ」ことで演繹体系を作り上げるゲームのようなものになる。

 こうした議論に対し、ハッキングは数学は所与であったことを指摘する。「発見」されるものであれ、「発明」されるものであれ、対象となる数学的概念が最初にあり、それをどう分析し、そこから数学が何であるかを説明的に述べているにすぎないという。

 ハッキングの考えはこうだ。「数学の哲学」の中で問題を成立させている条件によって、他ならぬその問題そのものが決定されているのではないか? という申し立てである。ある種の概念化によって問いが成り立つとき、その概念を支える前提によって問答が決まってくると言いたいのである。かつてはユークリッド幾何学が数学的な最高基準であったし、現在は証明こそが目指すところだろう。だが、これらは歴史的経緯による偶発的な問題にすぎないという。

 そして、学習と省察の後に完璧な理解(Aha!)が一挙に訪れる「デカルト的証明」と、体系的なチェックを機械的に一行一行積み重ねたうえで到達する「ライプニッツ的証明」という両極端な2つの観念を提示する。

 両者は同じ「証明」という言葉が使われているものの、20世紀になって、だんだん食い違いを見せ始めたという。そうすることで、「証明」が多様なものであること、さらには証明のない数学の可能性までも考察する。つまり、「証明」のような概念ですら、特定の時代や集団に限定されており、ある特定の推論スタイルのもとで初めて「証明」が証明としての意義をもちうるのだ。

数学は人間的な活動である。それは、われわれの肉体に、その脳やその手に根差した営みである。また、それを形作ってきたのは、きわめて特定的な時代と場所における人間の共同体である。人間の能力には、数学的な思考を行うための、ある一定の認知能力の地層とでも言うべきものがあり、われわれ人間はその活用法を見出してきたわけだが、数学的思考の前提条件としての精神状態も、こうした地層の一部をなしている。

 数学は所与の、「当たり前の」ものとして扱っている限り、数学的活動は既存の新たな組み合わせによる「発見」か「発明」になる。人間的活動である数学を「数学」たらしめているスタイルが、時代や社会によって変わっていくのであれば、数学を用いて人を超えることだってできる。数を拡張してきたように、概念をも拡張することができるのである。

 数学と、数学の哲学をメタ的に考えるために、読んで欲しい一冊。

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新幹線の通り魔が読まなかった本

 新幹線殺傷事件の加害者が読んでいた本という名目で平積みされた背表紙が公開されている。ドストとか塩野があるが、私は疑う。それは、本棚に入っていた本を一定の判断のもとに抜き取り、撮影のために平積みしたのではないかと。すなわち、本棚そのものには公開に適していない本が並んでいるのではないかと。

 なぜなら、ドストや塩野を読む人ならば、それ以外も読んでいるだろうから。他のエッセイや小説、コミックなどである。そして、それらは本棚に入っているはずだ。しかし、本棚を舐めるような映像は(私は)見出せなかった。「本棚を全て見せない」という方針の元で抽出→公開されていたと考える。

 仮に、本棚に大量にマンガが並んでいたのであれば、マスコミは嬉々として舐めるように撮影→公開していただろう。暴力や情欲を描いたマンガであれば、なおさらそれをクローズ・アップしていただろう。しかし、そうしたマンガを公開しなかったということは、「無かった」と判断してよいと考える。

 次に、「ある本」が大量に並んでいたのであれば、マスコミはそれを公開することは問題である、と考えただろう。それはどのような本か? 「本棚を全て見せない」「マンガではない」「ドストや塩野のような無難なものではない」がヒントになる。

 いま、「無難な」という言葉を、当たり障りの少なそうなという意味で使った。これは、岩波やベストセラーといった、読書する人だったら持っていそう......と、視聴者の想像がつきそうな、という意味である。

 さて、「ある本」とは何か? 本棚の大部分を占めるように大量に出ているシリーズもので、なおかつ、公開すると大いに「難あり」として扱われ、マンガではない。わたしは、一つ、思い当たるものがある。

 おそらく、「ある本」がずらっと並んでいる中に、挟まれるようにして「ドストとか塩野とか」が入っていたのではないか、と考える。「ドストとか塩野とか」を撮ろうとしても、どうしても左右の「ある本」のシリーズが目立ち、カメラに入ってしまうから。それぐらい背表紙が目立つ、大きな本なのである。

 その、「ある本」は、通常の書店にはあまり置いていない(と思う)。不心得者がブックオフに売ったものを見たことがあるが、確かに目立つぐらい存在感を放っている(要するに背表紙の文字がデカい)。

 撮影はしたかもしれないが、公開していない限り、「読んでなかった」ことになる。世間は「読んでいた本」についてあれこれ語っているが、わたしはむしろ、「読んでなかった本」について憶測を逞しくしよう。わたしの場合、「ある本」は未読なので、「読んでなかった」ことにされている他の本について3冊挙げてみよう。

 まず、シオラン『生誕の災厄』を。この世の中、どっちを向いてもクソだらけ。希望ゼロ、期待は裏切られ、努力は何も結びつかず、けして何物にもなれない。いっそ生まれてこないほうが良かったのだ。生まれてくることこそ厄災であり、死なない理由はいつでも死ねるからという気分になれる。

 これだけ絶望が蔓延っているにもかかわらず、上辺か本心か分からないが、やたらポジティブな脳ミソお花畑な連中がうざい。少しでも考えるアタマがあり、ちょっとでもまともに生きようとするならば、この世界は絶望しかないのに...…見えてないの? 呪詛のアフォリズムを浴びているうち、「自殺する」と考えることこそ自己憐憫な気にさせるほど、絶望に絶望の重ね掛けをしてくる。

 しかも、このシオラン爺、長生きしても「生きれば生きるほど無意味だった」ことを身をもって証(あかし)てくれる。厭世主義といえばニーチェとか太宰とかベタすぎる。自殺や発狂というよりも、きちんと生きて、やっぱりこの世はクソだらけ、と言い切ってくれるからこそ、呪詛の真実味が増してくる。「一冊の本は、延期された自殺だ」というなら、『生誕の厄災』こそが、その一冊である。命は無価値であるからこそ、読んでから死ね。

 お次は、新井英樹『ザ・ワールド・イズ・マイン』を。これほどの加速度と熱量を持ったマンガを知らない。史上最悪の凶悪犯「トシ・モン」が、行く先々で破壊と殺戮を繰り返すいっぽう、突如現れた全長10メートルの熊のような正体不明の怪物「ヒグマドン」が暴れまわる。

 過激すぎる性描写や暴力が、読み手を試すかのように連続し、気分が悪くなったり、琴線を捩じ切るようなアンチ道徳に読むのをあきらめたくなるかも。「読まなかったこと」にして見当はずれの批判をする人がいるが、これ読むの辛かったんだろうなと不憫に思う。

 「生と死」「暴力と秩序」といった二元論や「なぜ人を殺してはいけないのか?」といった問いが幼稚に見えるほど簡単に踏みにじり、ねじ伏せる。TPOを歪ませる詭弁「それサバンナでも同じこと言えるの?」をしゃべる奴自身をサバンナに放り込む。そこでは「命は平等に無価値である」宣言と、「命は時価であり、それに値をつけるのが社会である」猶予つき「常識」がぶつかりあう。

 最後は、みんな大好きジャック・ケッチャム。『隣の家の少女』『オフシーズン』といった有名どころよりも、ここは『老人と犬』を掲げたい。愛犬の頭をショットガンで吹き飛ばした少年に復讐する老人の話である。

 重要なのはこの老人、無力で独りぼっちという点である。妻とも亡き別れ、たった一人で暮らしている老人にとって、犬は家族同様だった。その家族が、理不尽極まりないやり方で殺され、なおかつ、その罪を正当に問われないのであれば、正義はどこにあるのか。

 暴力にすぐ暴力で返すのではなく、まず手続きに則った「常識的」なやり方で正義を求めるのが良い。それでも正義が尽くされないとき、「然るべき裁き」を求めて老人は準備を始める―――怒りを発作に終わらせず、「怒り尽くす」ためには準備が必要なのだ。これほど冷静な狂気は見習うべきやね。

 さて、シオラン、新井、ケッチャムと3つ挙げてみた。この3作は、彼の本棚にはないだろう。それこそニーチェや太宰があったらなら、マスコミは嬉々として舐めるように撮る一方、シオランやケッチャムなんて、知りもしないだろう。『ザ・ワールド・イズ・マイン』を見つけたら、残虐な犯行はこのマンガのせいとヤリ玉にあげるだろう。

 彼が「読まなかった本」なんて、それこそ無数にある。だが、ここに挙げた本は、まちがいなくその本棚に無かった。そして、仮に読んでたとしたら、まるで違う結果になっていただろう。毒気が抜かれていたかもしれないし、反対に、入念に準備してさらに被害を増やしていたかもしれない。

 本にはそれだけの力がある。善いか悪いかは人が決める。だが、善いも悪いも書いてあるんだ、本には。分娩方法から核兵器の製造方法まで書いてあるだけでなく、「子をつくりたい」から「人を殺したい」までの気分にさせてくれるんだ、本は。

Seitannnoyakusai


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【スプラトゥーン2】 わが子をS帯に入れるために親がしたこと

 結論から言う、「親が楽しそうに遊ぶ」である。

 基本的に「たくさん塗ったほうが勝ち」なので、水鉄砲でペンキ遊びしているようなノリでプレイする。そんな親の後ろ姿を見ていて、「わたしもやりたい!」と言い出したのでコントローラーを握らせる。

 スプラどころか、FPSすら初である。いきなりネットワーク対戦は酷なので、一人でできるゲーム(ヒーローモード)をやらせる。「ホタルちゃんカワイイ!」とか「このタコ~~」と大騒ぎしながら、クリアする。負けるとカンシャクを起こし、イライラを周囲に撒き散らす人がいるが、何の意味も無い、何の意味も無い。これ、口で言っても聞くわけがないので、負けてもゲームオーバーになっても、楽しみながら試行錯誤する姿をみせる。

 そしてネットワーク戦。4対4のチーム戦である。最初は何をしていいのか分からず、右往左往としているうちに撃たれる。トライ&エラーを繰り返す、へたっぴなとーちゃんを見て、子どもは「ヘタでもいい」と安心する。そして、目的はチームの勝利であり、どうすればチームに貢献できるかを考える。

 ネットワークの向こう側にいるのは、子どもから大人まで、誰か分からない。もの凄く上手い小学生もいれば、幼稚なプレイをする大人もいる。パチャパチャ挑発しているだけの煽りイカや、全く仕事をしないチャージャー、ずーーーーーーーーと隠れて殴って逃げるだけのローラーなど、こちらの心が折れそうになる。

 そんなときは、イチローの名言をつぶやく。「コントロールできることと、コントロールできないことを分け、コントロールできることに集中する」である。イケてない奴に当たったのはコントロールできないけれど、(そいつも含めた)チームにどう貢献するかはコントロールできる。そして、コントロールそのものを楽しむのだ。言った通りにしてくれれば世話ないが、それは難しい。だから、試行錯誤を楽しむ姿を見せるのだ。

 風向きが変わったのは、「ガチバトル」を始めたとき。一定のランクに達すると、よりシビアなゲームができる。そこに至るまでは、とーちゃんの後ろを追いかけているようだったのに、いわゆる「ガチ勢」になると、みるみる実力をつけてゆく。ゲームは2日に1時間と限られているので、学校で有志を集め、立ち回りをレクチャーしてもらったり、youtubeで研究する。とーちゃんのランクを軽々と抜き去る。

 それでも苦労する。C→Bまではすぐだが、B→Aで苦戦する。どんなに頑張っても、チームメイトに恵まれず、煽りイカや仕事をしない連中に当たると、毒づきたくなる。自分の努力が無に帰されているような気分になる。上手なら生き延びるし、下手なら死ぬだけなら分かる。そうではないのだ。負けそうになると、落ちる(ネットワークを切断する)奴が出てくるのに腹が立つ(今では対策済み)。そんな中でも、腐らず、あせらず、実力を溜めてゆく。

 大切なのは、試行錯誤を楽しむこと。とーちゃんがやってたことを、逆に子どもに教えられる思いである。

 そして、もう一つ親は学ぶ。子どもが新しいことに向き合うとき、親の「言うこと」ではなく「すること」をマネする。後は放っておいても伸びてゆく。要するに、子どもは、親の言うことなんて聞かないが、親のすることのマネは上手いのである。

 これ、スプラトゥーンに限らない。

 たとえば、「わが子を東大に入れる!」とか息巻く親がいるけれど、東大に入るような子どもの親は、自らが学ぶ姿を見せているのではないだろうか。「子は親を見て育つ」のであれば、「勉強しなさい」と口で言うだけで自分はダラダラ遊んでいるような親から、自ら学ぼうとする子どもは育たない。そして、自己啓発書の洗礼を受けた世代が親になり、「デキる親はここが違う!」とか「東大合格弁当」みたいな本を漁っているのなら、読むべき本が違っている。

 勉強するのは子どもである。親が言ってその通りに子どもが動いてくれることなんて、ありえない。「子どものヤル気スイッチを~」なんて言う人いるけれど、あなた、その子が赤ちゃんのとき、「泣き止ませスイッチ」あった? あるいは幼いとき「買って買って停止スイッチ」押してた? 小さい子だから無理だというなら、あなたの配偶者の「文句を言わないスイッチ」「率先して手伝ってくれるスイッチ」見つけてるんだよね。

 いや、配偶者と子どもは違うだろ? というツッコミには、では、あなた自身の「ヤル気スイッチ」押せているんだよね、という話になる。

 かくいうわたしは、「ヤル気スイッチ」押せてない。パチャパチャ挑発しているだけの煽りイカや、全く仕事をしないチャージャー、ずーーーーーーーーと隠れて殴って逃げるだけのローラーに心が折れた。とーちゃんは、Skyrimに旅立つ。少なくともあそこは、実力と成果が一致する。上手けりゃ生き延びるし、下手なら死ぬだけだ。

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文学とは感情のハッキングである『文学問題(F+f)+』

 「文学とは何か?」という問いに対し、夏目漱石の文学論を徹底的に読み解き、ここ100年の文学理論を振り返り、さらには文学の認知科学の領域まで踏み込む、画期的な一冊。もの凄く面白く、かつ、自らも考えさせられる。このエントリでは、前半で本書を紹介し、後半では考えさせられたことを述べる。

 まず、本書の紹介から。

 著者は山本貴光、心の哲学やゲームデザインの分析、百学連環の精読など、人文知のユニークな斬り口を見せてくれる文筆家だ。聖書からtwitterまで、さまざまな文体を、人と文のインターフェースとして分析した『文体の科学』が面白かった。

 本書は最初にタネ明かしをする。「文学とは何か?」という問いに対し、漱石の答えは「F+f」だという。大文字「F」は、人間が認識すること。人の注意が向いて意識の焦点が当たってる印象や観念を指す。そして小文字「f」は、認識に伴って生じる情緒を指す。すなわち、あらゆる文学作品は、「認識」と「情緒」(F+f)という2つの要素からできているというのが、漱石の結論である

 ただし、いきなり「F+f」と言われても、ピンとこない。だから本書は3部構成で攻略する。

 第1部では、漱石の文学論を詳細に読解する。具体的には、『英文学形式論』と『文学論』が俎上に上る。重要ポイントを抜粋して [001]~[144] までナンバリングし、現代語訳を施し、原文と解説を添えることで、漱石と同じ目線で取り組むことを促す。

 漱石は、曖昧な言葉である「文学」を捉えるため、語、音、文字からの分析である形式論 [008-022]、読者を幻惑するレトリック [077-096]、科学と文学の比較論 [067-074]、異文化理解 [015-016]、時代を超えた普遍性 [104-120] などのアプローチを採る。文学作品から文学論を語る従来のやり方ではなく、文学をメタに捉えることで、人間心理と社会の両面から考えようとする。

 そこで得られた結論が、「F+f」になる。文学とは情緒を伴う文章のことで、情緒こそが文学の試金石であるという[045]。さらに漱石は、文学作品の価値判定のモノサシとして、その作品が読者に催させる情緒が基準となると主張する [049-050]。

 面白いのは著者の指摘で、漱石がなぜアルファベットを用いたかを推察する。これは一種の変数(variable)で、プログラミングの際に代入するように、Fやfには具体的な作品名・情緒の名前が入るという。この記法からも、漱石が、文学を一般化しようとしていたことが分かる。第1部を読むことで、文学を一般化する手法を身に着けることができる。

 第2部では、第1部で手に入れた「F+f」を用いて、実際に世界文学を読んでみる。良いなと思ったのは、「F+f」を万能と扱っていないところ。良いハンマーを持つとあらゆるものが釘に見えるというが、その弊害に陥っていない。古今東西の文学作品を「F+f」で照らすことによって、「F+f」の不備を炙り出そうとする。漱石を崇め、威を借り、現代を嘆くキツネと偉い違う。世界文学との検証を通じて、漱石の文学論をヴァージョンアップしようという試みなのである。

 実際に読む作品は次の通り。

  1. ギルガメシュ叙事詩
  2. ホメロス『イリアス』
  3. 李白『客中作』
  4. アラビアン・ナイト
  5. 紫式部『源氏物語』
  6. アンドレ・ブルトン『溶ける魚』
  7. ジェイムズ・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』
  8. イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』
  9. リディア・デイヴィス『フーコーとエンピツ』
  10. 円城塔『Boy’s Surface』

 未読の人にも親切に、テキストとなる文学作品の背景を噛み砕き、冒頭もしくはそれに近いところから抜粋してくれている。まずは先入観なしに一読し、次に「F+f」で骨までしゃぶる読み解きをする。レイアウトの見た目から学習参考書みたいな印象だが、まさにそんな授業を受けている気分になる。

 非常に面白かったのが、「F+f」による円城塔の読解だ。短編『Boy’s Surface』より、以下の部分から始まるテキストが引用されている。

僕は視線によって生成されて、僕自身を通じて見られており、そして僕ではない部分の僕を探索するために派遣されている。この言い方が不正確なものであることは言わずもがな、しかし今のところはこのあたりで御寛恕を願いたい。

 円城塔に「慣れている人」なら、ああ、いつもの円城塔だなと読み進めるだろうが、そうでない人は、いきなり引っかかるだろう(この「僕」って!?)。それぞれの言葉は難しくなく、見知った言葉の組み合わせから見知らぬ世界が立ち上がってくる(そして唯我論や認知論につながる)。

 もちろん漱石は100年後の作家なんて知らないだろうが、複合要素による趣味の分析 [010-012]、科学と文学の目的と記述法 [067-068]、科学の一般論・文学の具体論 [071-073]、投出語法と投入語法 [080] などを用いて分析することができる。

 面白かったのは、この短編において、「F+f」の限界が示されているにもかかわらず、それを読み解いている山本自身が気付いていない点にある(これについては、後半で述べる)。

 そして、第3部になると、さらに面白くなる。「来るべき文学論に向けて」と題され、漱石の文学論以降、漱石が文学について考えたこと、漱石以降、100年にわたり文学理論で考えられたことを元に、文学論そのもののアップデートを試みる。そして、仮に完成された文学論があるならば、それはどのような姿を取るかまでを射程に入れた考察をする。

 たとえば、『草枕』を文学論として読み直す試みはユニークだし、イーグルトンやウォーレン、バリーといった大御所の文学理論から、「文学とは何か」についてそれぞれの「解答」を得ようとする試行錯誤も楽しい。そして、それぞれの主張と漱石の理論と比較することで、文学が単なる作品の話ではなく、文化や社会や時代を横断する、人文知の営みであることが見えてくる。

 さらに、統計学的手法を用いた文献の分析を行う計量文献学や、コンピューティングと人文科学を掛け合わせたデジタル・ヒューマニティーズの研究成果を紹介し、読書の科学や文学の科学的アプローチまでをも検討している。ここまで付き合ってきた読者は、(おそらく)言いたいことが沢山出てくるだろうし、著者としても望むところだろう。議論の余地が大いにあるからね。

 そして、後半、本書により考えさせられたことを書く。

 結論から述べると、本書により大いに刺激を受けた。書いてあることはまっとうだし、何よりも漱石を世界文学に当てはめたうえで文学論をアップデートしようという試みは楽しすぎる。だが、最も刺激を受けたのは、本書に書いていないことになる。

 漱石の限界は、そのまま本書に書いていないことになる。漱石は「文学とは何か?」から考察を始めた。本書は漱石からスタートしているため、同じ問いかけから議論を始めている。しかし、もう一段階メタレベルでこの質問を問い直してみるならば、もっと拡張した議論が可能となる。その問いとは、これだ。

「文学とは何か?」という問いは正しいか?

 すなわち、文学は、「文学とは〇〇である」という形式の回答になりうるか、という問いである(〇〇やは一言でなくても分野や述語でも良い)。もちろん、文学とは曖昧なものだからとごまかしたり、自明なものとスルーしたり、正面切って答えなかったり(イーグルトンとか)することができる。

 だが、いったん「文学とは〇〇である」という答えになるの? と考えるならば、そこから反証を導き出す議論ができる。〇〇の中に該当しない例を見つけたり、反対に、文学と目されているのに〇〇ではない事例を探せるのであれば、(そして100年やっても続けられるのであれば)そもそも質問そのものの妥当性を考えた方がよい。そのため、この質問の妥当性を検証するため、次のような問いを投げかけてみてはいかがだろうか。

みんなが「文学」と考えているもの(〇〇)から、何を外せば「文学」でなくなるのか?

 この議論は、文学というジャンルではなく、音楽や数学といった世界からアプローチすると、分かりやすいかもしれぬ。

 たとえば、「音楽とは何か?」への回答はさまざまで、リズムとメロディと答える人もいれば、クラシック以外は認めんという人もいる。だが、演奏者のいない、風の渡る音や小川のせせらぎに「音楽」を感じることもできるし、ジョン・ケージのピアノ曲「4分33秒」は音楽か? という議論も出てくる。従って何を外せば「音楽」でなくなるか? という疑問の答えは、「(無音も含む)音を感じる主体」という抽象度の高いものになる。

 いっぽう「数学とは何か?」は、一般に数や図形についての研究だとされていたが、数学史を振り返ると、集合論や構造も「数学」として呑み込んでいる。だいたい虚数が認められなかった時代を振り返れば、数学が、かなり柔軟に対処していることが分かる。強いて言うなら、何を外せば「数学」でなくなるか? という疑問の答えは、「公理と規則が定められた体系」という抽象度の高いものになるだろう。

 では、「文学」は? 何を外せば「文学」でなくなるか? に答えようとすると、それは「言葉」になる(無音、白紙も含む)。言葉を用い、言葉を受ける主体があるなら、そこに文学が生まれる余地がある。

 すると、こう反論できる。「F+f」は? 漱石が言う、人が感じる「認識」や「情緒」は必要でないの? と。

 もちろん「F+f」を入れてもいい。だが、必ずしも人が感じる認識や情緒である必然性はない。この議論をするために、まず例から話したい。先に述べた「文学とは〇〇なのに〇〇に当てはまらない例」である。

 仮に、Fとfがあるから文学である、といったん定義しよう。

 そして、twitter のつぶやきは文学か? という話をしよう。短い文章のなかに、ドラマあり、寸鉄あり、Fとfがあるので文学であると言える。次に bot を考えてみよう。twitter の機能を用いた、機械(Robot)による自動発言システムである。単純にリプライしたりするだけでなく、データベースから組み合わせてツイートしたり、特定のキーワードに反応したりするものがある。

 さらに、プロパガンダ bot を考えてみよう。タイムラインが特定の政治的主張で埋め尽くされないために、ある言説(F)の評価(f)に反応して、そのカウンターとなる言説(¬F)や評価(anti-f)をつくり上げてリプライする bot である。ネガティブな雰囲気をバラまき、社会を不安に陥らせる bot である。これは、人が介在しない「文学」ではないだろうか。

 あるいは、音声アシスタントを思い起こしてほしい。スマホなどでユーザーとの音声による対話で検索や操作を行う機能である。わたしの場合、Googleにカップ麺の待ち時間を教えてもらうぐらいしか思いつかないが、面白いことを考える人は、アシスタント同士に会話をさせる。

 つまり、Siri 同士に会話をさせたり、Google Home を2台用意して話をさせるのである。会話が成立するのは頭がいい証拠、というが、[人工知能は恋に落ちるか?] を見る限り、ここには人が不在であるにもかかわらず、認識(F)と情緒(f)が存在する。あるいは、AIが人かどうかを判別するチューリングテストを振り返ると、そこに認識(F)と情緒(f)を見出すことができるだろう。

 これらの主張に対し、それは違うと反論ができる。

 bot や AI は単純に反応し、一定のプログラムまたは定義に従って応答しているにすぎない。そこに認識(F)と情緒(f)を見出すのは、あくまでも人間である、と反論することができる。認識や情緒は、あくまで「人」が感じるものであり、機械ではできないという理屈だ。

 しかし、そう言い切ってしまうと、AIによる文芸や創作の可能性を、ごっそり削っていることになる。AIにハリポタ全巻解析させて、新作をリバースエンジニアリングさせた [AI ハリー・ポッターの衝撃] や、AI に小説を書かせて星新一の新人賞を目指す試みなどが、「文学」の範疇外となってしまう。これはもったいない。

 この主張に対し、再反論ができる。つまりこうだ。AI がどんなに創作が上手くなったとしても、最終的にその「上手い」「面白い」を判定するのは人だ、と言える。もちろん、プロパガンダ bot の目的は、敵陣の「人」の「F+f」に影響を及ぼすことだし、Alexa の話を「面白い」と判断するのは最終的には「人」だからね。

 しかし、最終的に人に判断を求めることで、「F+f」を人の世界に閉じ込めてしまうのは、さらにもったいない。これは、スタニスワフ・レムが書いた、存在しない本の序文集『虚数』のある作品を紹介しよう。

 それは、「ビット文学の歴史」である。AI が文学を読み、批評し、新作を執筆する世界だ。そこでは、ドストエフスキーが書くはずだった短編を書き、ゼロを用いない代数学を完成させ、自然数論に関するペアノの公理の誤りを証明する。AI が「書く」だけでなく、AI が書いたものを AI が批評し、AI にフィードバックされる。面白いのは、「最も良い読み手が AI であること」である。もはや、人のF+fでは認識不能な世界が描かれているのである。

 レムの想像が現実味を帯びているのは、スピードにある。人だと、読むにも書くにも時間がかかる。しかし、AI 同士であれば、人に判るスピードに落とさなくても高速でコミュニケート可能である。将棋の Bonanza や アルファ碁があれほど強いのは、AI 同士で高速で対戦しているからである。それこそ人類が今まで積み上げてきた分を凌駕し、一人の棋士が一生かけてもできない対戦を、わずかな時間でこなしてしまう。

 これに加え、A.C.クラーク『2010年宇宙の旅』を思い出してもらおう。デイヴィット・ボウマンとHAL2000が会話をするシーンがあるが、どちらも言語を用いているにもかかわらず、音声ではなく直接意思を通わせている。極めて微妙なタイミング調整も、両者なら可能であるちなみにどちらも「人」ではない)。

 『文学問題』では、 AI が解析する世界までは到達しているが、その結果を再帰化する未来は入っていない。なぜならば、漱石の出発点「F+f」の人の枠に閉じているからである。せっかく、円城塔で数学的構造体「僕」まで至っているのに、擬人化の技法に閉じてしまっているのは、もったいない。「F+f」は、もはや人間の専売ではない。名無しの猫ですら人語を解し、古今東西の文芸に通じ、哲学的な思索にふけったりするのだから。

 本書では、漱石の文学論をアップデートした上で、文学とは感情のハッキングであると結論づけている。激しく同意するとともに、「その感情は人外も含む?」という目で読み直したい。

 本書のタイトルは、『文学問題(F+f)+』である。これは。漱石の(F+f)に加えて、著者の考察による更新(最後の+)と共に、式が閉じていない。式が開かれているのは、読者による追加を誘っているからだろう。少なくともわたしはそう読み取った。

 そういう意味で、本書を読むのは、たいへんスリリングで愉しく考えさせられると共に再読を促され、紹介される本が読みたくなり、積読山が高くなるスゴ本でしたな。

Bungakumondai


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なぜ「面白い物語」は面白いか?『物語論 基礎と応用』

 なぜ「面白い物語」は面白いか?

 トートロジーみたいだが、小説を読んでて、そんな疑問を抱いたことはないだろうか。ひたすら浸っているときは気付かないが、読了後、どうしてあんなに夢中になっていたのか不思議に思ったことはないだろうか。

 わたしはある。一般に面白い小説に共通する特徴を洗い出したり、特定の人が面白がる「面白がりかた」を考えることで、おぼろげながら、「面白い物語の法則」のようなものを見出していた。あるいは、脚本術やストーリーメイキング、『マンガの創り方』といったネーム作りのハウツー本から、創作のための実践的なノウハウをもらっていた。

 だが、たいていはヒューリスティックで「売れた作品を分析するとこうなっている」という経験則が最初にあり、その理屈は後からとって付けたように書かれている。そうではなく、「人はなぜ物語を好むのか?」というそもそも論から始めたい。もちろんアリストテレス『詩学』のようなガチの基礎もあるが、それが目の前の作品に対し、具体的にどのように応用されているかは、自分で補う必要があった。

Monogatariron

 この、「基礎」と「応用」の両方を射程において、古典から最新作を俎上に、小説、映画、ドラマ、ゲーム、アニメを縦横に捌き、「物語を楽しむ」だけでなく「物語を創る」にも役に立つ教科書とも言える一冊に出会えた。それが、橋本陽介『物語論 基礎と応用』である。

 本書は、物語論(ナラトロジー)に興味がある人の最初の一冊になるし、深堀りするための評論を集約した文献集として扱ってもいい。広くも深くも読めるが、ここでは冒頭の疑問「物語はなぜ面白いか?」に答える形でご紹介しよう。

 著者は、物語をこう定義する「時間的な展開がある出来事を言葉で語ったもの」。物語というものは、人の観念による構造物だという。目の前に存在しないことを、言葉を使って再構築する。これが、物語るという行為である。これにより、現実は物語化されて理解され、反対に物語は「理解された現実」のように表現される。

 この定義はぴったりくる。現実は情報量が多すぎだし、因果関係が複雑すぎる。だから因果の見通しを良くするため、登場人物と役割を決めて、出来事を取捨選択し、順序を調整する。そのままだと呑み込めないリアルを、なんとか形にして把握する。そして、いったん物語が現実のシミュレーターとしての役割を担うと、今度は物語の形で現実を伝えることが効率的となる。

 いわば、わたしたちは物語を使うことで、現実を理解したり受け止めることができるのだ。たとえば、[辛すぎる現実を受け止めるための嘘としての物語]がある。訳が分からない現実を、すくなくとも「分かる」形にしてくれる。物語の本質は、この「分かる」にある。そして、物語の面白さも「どうやって分かってもらえるか」に着目すると、理解しやすくなる。

 よく議論になる方式として、ディエゲーシスとミメーシスがある。語り手が、要約的に筋を語るのがディエゲーシス(ギリシャ語の「語る」)で、そのシーンを演劇的に再現しようとするのをミメーシス(mimic/模倣)になる。引きと寄り、俯瞰と観察、telling と showing になる。アリストテレスや[文学理論講義]で学んだことがある。

 しかし、本書ではさらに、物語に流れる「時間」と、語り手の「視点」、そして叙述のスピードと文体、登場人物の内と外、さらには人称・時制・指示語の使い分けを用いながら、形態学としての物語を分解してみせる。

 たとえば、物語に流れる時間と語り手の位置について、ガルシア=マルケス『百年の孤独』を紹介しながら説明する。冒頭はこうだ。

長い年月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、恐らくアウレリャノ・ブエンディア大佐は、父親のお供をして初めて氷というものを見た、あの遠い日の午後を思いだしたにちがいない。

 物語の中には、語り手にとっての「現在」である「今まさに語っているこのとき」が存在する。受け手はそこを基準点にして、過去や未来に目を向けながら読み進める。

 『百年の物語』の冒頭では、語り手にとっての「今」を基準点に未来に目を向けさせられる(長い年月が流れて~)にもかかわらず、同じ文の中で過去に戻らされる(遠い日の午後)。この文は、『百年の孤独』全体を貫く円環的時間を予告したものであり、基準点が不明確なのは、特殊な時間感覚に読者を置くための策略だというのだ。

 初読のとき、わたしが感じた目眩に似たズレは、概略を伝えるその語り口で、ミメーシス的な具体性を帯びていることが原因かと思っていた。だが、それに加えて、物語全体のウロボロス的構造を、この一文に凝縮していることが「恐るべき」だったのである。「一は全、全は一」という考え方があるが、それを、この物語で分からせることができる。

 あるいは、語り手の位置が、「物語られる対象」とどのように関係してるかの指摘は、目鱗だった。物語世界があって、その枠内なのか、枠外なのか、枠線上にあるのかは、読み手がどのように受け取るかをコントロールできる。

 枠外から(ディエゲ的に)放して語るとき、物語は客観性を帯びる(もしくは帯びているかのように書く)。いっぽう枠線もしくは枠内から(ミメシス的に)語るとき、物語は主観的に描かれる。まさに当事者として物語るからである。これを伸び縮みさせることで、物語の場に臨場感を生んだり、読み手に冷静に考えさせたりする。この伸縮の運動が「面白い」のである。

 このコントロールの実践を見るため、ダイクシス(直示)に注目せよという。すなわち、意味が文脈によって決定される語用に着目することで、語り手と物語の関係が見えてくるというのである。たとえば、私やあなた(代名詞)、これ・あれ(指示語)、今日明日といった時間を表す言葉がキーになる。

 物語現在を「今」と設定したとすると、「今」を基準点として「昨日・今日・明日」と描くのか、「今」を基準としない「前日・当日・翌日」を用いるのかよって、距離感が変わってくる。つまり、暗黙のうちに、今と切り離された時空なのか、繋がっているのかを伝えることができる。

 そして、枠外から客観視していた物語が、実は身に詰まされるようなテーマだったり、反対に、極めて主観的に語られていた世界が普遍性を帯びていることに気付くと、視野が反転したり広がったりする。この反動が面白いのだ。

 山小屋で語られる怪談で、こんなのをご存知ないだろうか。淡々と「ある日」「ある男」の話が続き、いざ怪異の正体を明かすとき、「そこにいる!」とか「次はオマエだ!」と指し示すやつ。あの怖さは、物語の枠外だったはずが、いつのまにか枠内に入っていた反転の運動にある。

 分かろうとしていた(その物語世界の)現実にいることに気付くとき、自分はその場所から一歩も動いていないのに、広がりや動きを感じる。面白い作品に感動するとき、物語世界の現実が(いま・ここの現実と比べて)抽象化されている分、その感動も精錬されたものになる。感動とは、「動きを感じる」ことに他ならない。何の動きかって? わたし自身である。物語に面白さを感じるとは、世界の中に、自分を見つける行為なのだから。

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『ブッチャーズ・クロッシング』はスゴ本

 ジョン・ウィリアムズ『ブッチャーズ・クロッシング』が良かったので、どう良いか紹介する。

 これは、19世紀のアメリカ合衆国、西部を舞台に、バッファロー猟のため、country で生きる男たちを描いた小説だ。”country” という語が曲者で、田舎や地方といったのどかな自然ではなく、完全に未開で、人の手が入っていない原野である。

 その峻厳さは、人の理解を超える。目の前の現実のあまりの厳しさに、わたしも身構える。起きていることが信じられない(だが進行しつつありもうすぐ”危険”の形となることは明白である)出来事に、一緒になって動揺する。ある光景に呆然となっていた主人公が、暫くして顎を噛みしめていたことに気づくシーンがあるが、その件を読んだとき、わたしの口の中も血まみれになっていることに気づく。

 遠い昔の、ずっと離れた場所の話なのに、どうしてこんなに生々しく感じるのか。なぜかくも詰まされるように読めるのか。秘密は、その描き方にある。『ストーナー』(これも傑作)と同様に、著者は、あらゆるものを突き放して書く。突き放して書くとは、事物や情動を感情や修飾を交えずに淡々と描写することだ。

 たとえば、バッファローの血やウイスキーといった事物は、そこから引き出されるイメージを削ぎ落として描かれる。堪えがたい渇きや女が欲しいといった情動は、「渇き」「欲望」という言葉を使わずに描かれる。修飾語や形容詞、感情を示す言葉は、「情報」である。どんな情報か? それは、描き手が「こう伝えたい」という方向性が入った情報である。この情報が入れば入るほど、小説は「分かりやすく」なる一方、読み手はインプットするだけの装置となる。

 『ストーナー』と『ブッチャーズ・クロッシング』に共通する描き方として、感情を示す言葉を排除し、動作と会話だけで、登場人物の心情を伝えにくる。このストイックな書き方は、ヘミングウェイを彷彿とさせる。

 だが、ジョン・ウィリアムズは極端じゃない。完全排除にまでは至らないものの、修飾語や形容詞を<意図的に>減らして書く。だからこそ、わたしは身を乗り出し、自分が読み取った情動で、その空白を埋めようとする。

 つまり、本来なら形容詞で表現されている心情を、わたしの中でシミュレートする。シンプルで、骨太な描写なのに、そこに潜む怒りや恐怖がダイレクトに感じられるのは、言葉でもって伝えようとしているからではなく、わたしの内から湧き上がっているためである。

 たとえば冒頭、馬車に揺られるシークエンスにて、主人公のアンドリューズの目線から長々と馬や汗や服の様子を淡々と描いているにもかかわらず、一度も「思う」「感じる」ところは無い。すべてがアンドリューズの目を通して伝えられる。

 そして、9ページになってから、それらを一言でまとめた、「この旅がこれほど疲れるものになるとは夢にも思っていなかった」という一文に集約される。もちろん読み手は、馬の汗や揺れる車内の描写でその感覚を想像してきたが、それが正しかったことを、アンドリューズとともにブッチャーズ・クロッシングに到着して一息ついてから、ようやく確認できるのである。

 もう一つ。アンドリューズと娼婦フランシーンの関係である。これは、知り合ったばかりの頃、彼女を見かける場面に現れている。アンドリューズの視線で、こう始まる。

フランシーンは、一度は通りで姿を見かけた。昼ごろのことで、周囲にはほとんど人影がなかった。

 挨拶を交わし、世間話をするだけなのだが、アンドリューズは、「彼女のふっくらとした唇のすぐ上に、小さな汗の玉がくっきり浮き出ているのに気が」つく。そして、その汗のきらめきを水晶のように表現する。アンドリューズが彼女に抱いている気持ちは、一言も書かれない。

 フランシーンと次に会ったとき、「次に会ったのは、ある朝早くのことだった」と書く。少し前に、「一度は見かけた」と、なんでもないように書いているのに、わざわざ「次に会った」と書くことで、(そこに記されていない)彼の驚きがにじみ出る。フランシーンが階段を下りてくる足取りや、彼女が来ているドレスの様子に細かく焦点が当たっているので、彼がどう思っているかは瞭然である(でも書いてはいない)。さらに、その好意は彼の経験の薄さをも裏書きされたものであることが分かる。

 感情が決定的になるのは、ある男がフランシーンに話しかけるシーン。アンドリューズはその男を見るとき、初めて「怒り」という言葉が出てくる。「怒りで唇がむずむずし、テーブルの下で両の拳を固めていた」と書かれている。読み手は、なぜ「怒り」が生じるのか分かっているし、アンドリューズ自身も同時に分かっていることをそこに読み取る。

 つまり、感情や形容詞をできるだけ排除し、動作と会話だけで淡々と示し、決定的な場面になったとき、答え合わせであるかのように情動が言葉として現れる。そこに至るまでに読み取った中で、登場人物の感情は、読み手の中で再生されている。その「怒り」は、アンドリューズだけのものではなく、読み手の中にも生まれているのである。これはすごい。

 この戦略は、半世紀を経過して著者が再評価されたことにも通じる。小説は形容詞から腐るという。対象をデコレートし、書き手が伝えたい「情報」を与え、意味づけを行う箇所から腐り始める。生き物なら、まず眼、そして内臓である。つまり、最も美味な箇所から腐るように、小説も飾った箇所から衰え、腐り、崩れてゆく。

 もっとも腐りやすい形容詞が排除され、動作と会話(旅の後半になるにつれほどんど話をしなくなる)だけで成立しているが故に、腐らずに残っているといえる。骨は腐らない。『ブッチャーズ・クロッシング』の凄みは、シンプルで骨太なのに、その動きで肉のみずみずしさが伝わるところにある。

 ストーリーについてはあえて触れない。大学を中退し、「自然の中で自分を見つめたい」と猟に参加した若者が、何を見たかは書いてある。しかし、彼が何を感じたかは、彼が見たもので読み手の中に再現される。飼いならされた自然ではなく、完全な原野 (back country と言うらしい)で、渇くということはどういうことか、凍えるとはどういうことか、そして絶望するとはどういうことかを経験する。

 これを読むことで、生きるとはどういうことか、絶望するとはどういうことかを経験してほしい。そういう意味で、『ストーナー』と同じだと言える。

ストーナー もしあなたが『ストーナー』を未読だというのなら、幸せものである。人生を一度生きるくらいの経験をすることができるのだから。そして、その人生が良かったのか、それとも良くなかったのかを手に取って確かめることができるのだから。一度しかない人生を、一度きりにさせないために、文学はある『ストーナー』

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